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前回の記事にたいして、子欲居さんからトラックバックをいただきました。この記事は、その返信です。そもそもの発端・「暴動」の内容・中国政府の対応・死者数など、現在のラサの情勢には不明な点が多く、現時点での断言は避けておきます(以下、引用箇所は青字)。 さて本題ですが、もちろん、「チベット」が「中国文明」もしくは「東アジア文明」から影響を受けていないということはありえませんし、それは文字の排列法などに認められるのかもしれません。その意味では、「チベット」は前近代においても「中国文明」の「影響圏」にあると言えなくはないのですが、それは「中国」も同様で、「中央ユーラシア」や「南アジア」や「西アジア」から文化的影響を受けているわけです。 もちろん、宮崎市定博士の意図はそんなことではなく、政治・経済・文化的に「チベット」を「中国」と一体の「東アジア」に含めていることは明らかです(宮崎市定「歴史的地域と文字の排列法」P46〜47)。碩学の見解だけに傾聴すべきところはありますが、やはり「中国史」に引きつけすぎた解釈かな、と思います。 18世紀半ばにダイチン=グルンは宿敵ジューン=ガルを滅ぼし、「チベット」を含む広大な土地を新たに「支配」するようになったのですが、その過程では、儒学や漢字の優越や、華夷思想にもとづくいかなる価値の強要も意味を成さなかったことはいうまでもない(平野聡『興亡の世界史17』P146)のですから、前近代というか中華人民共和国が「チベット」を実効支配する前まで、「中国」と「チベット」との文化的差異はひじょうに大きく、それが現在の「チベット問題」にもつながっているのだと思います。 次にY染色体のデータ解釈の件ですが、前回の記事には誤りがあったので訂正しておきます(前回の記事も訂正しました)。申し訳ありませんでした。前回、「チベット」も日本列島もハプログループD2の割合が多いと述べましたが、これは私の恥ずべき勘違いで、「チベット」も日本列島もハプログループDの割合が多いと訂正します。ハプログループDにはいくつかサブグループがあるのですが、日本列島ではD2が、「チベット」ではD1が見られます(D2はさらに細かく分類されています)。 前回の記事では述べませんでしたが、このY染色体のハプログループDは、状況証拠から推測すると、かなり古い時代から日本列島に存在し、「縄文人」も有していた可能性が高いので(篠田謙一『日本人になった祖先たち』P193〜201)、「古代中国」の争乱の結果、D2が日本列島へ浸透したとの想定は、多分無理だと思います。また、ハプログループDが「古代中国」の争乱の結果拡散したとすると、「東南アジア」や華南でも高頻度で見られそうなものですが、そうでないということは、「チベット」と日本列島が、完新世のある時期以降に、「中国」における大規模な人の流れから外れた地域であったことを示しているのだろう、と考えるのがもっとも合理的でしょう。 別に私は、前近代における「チベット」と「中国」との間に「交流」があったことを否定するわけではありませんが、前近代における地域区分において、たとえば「中国」を「東アジア」に区分するのならば、政治・文化・人の流れといった観点から、「チベット」は「内陸アジア」やもっと大きな区分である「中央ユーラシア」に含めるのが妥当だろう、と考えています。 「チベット」を中華人民共和国の不可分の領土とする見解は、「チベット」独立と同程度の「歴史的根拠」はあると思いますが、17世紀以前にまでさかのぼって「チベット」を「中国」の一部とする見解は、ダイチン=グルンの「支配領域」を「中国」と読み替えた「近現代中国ナショナリズム」の産物であり、「一国史観」と通ずる多分に虚構の概念だろう、とも考えています。 なお、数え年と満年齢の件についてですが、ネットでしか確認できなかったので、前回の記事ではあえて触れませんでした。したがって、信用度があまり高くないという前提のうえで述べていきますが、現在インドでは数え年が採用されているようです。子欲居さんの記事にて、ペマ=ギャルポ氏の数え年と満年齢の話を知ったときに私が考えた可能性は、インドでは元々は数え年が採用されていたのだけれども、英国の植民地支配の影響で一時的に満年齢が採用され、その後に数え年に戻ったのであり、インドが一時的に満年齢を採用していたときに、ペマ=ギャルポ氏はインドを訪れたのではないか、というものです。 満年齢という風習は、ゼロの概念なしには成立しないように思われますので、その意味では、インドでは古くから満年齢が採用されていた可能性があるとは思います。ただ、現在のインドで数え年が採用されているとなると、やはりインドでも元々は数え年が用いられていたように思われます。もちろん、インドの多様性も考慮に入れなければなりません。おそらく数え年という風習は古くは世界各地で見られるものであり、「チベット」における数え年の風習が「中国文化圏」に属することの根拠になるのか、疑問もあります。ただ、数え年という風習の起源や範囲について、私の学識ではとても的確な見解は述べられませんので、やや不確かな情報をもとに、このような可能性も考えられる、と述べるにとどめておきます。 参考文献: 篠田謙一『日本人になった祖先たち』(日本放送出版協会、2007年) 平野聡『興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷』(講談社、2007年) 宮崎市定「歴史的地域と文字の排列法」宮崎市定著、礪波護編『東西交渉史論』(中央公論社、1998年) |
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チベット騒乱・インスタント平和運動
亡命したダライ・ラマでさえも、独立を求めているわけではない、ひかえめな民族運動だし、日本国内には支援活動さえも、まともにはない状態だ。国民感情としては、圧倒的にチベット人に同情が集中して、中国の共産党政権への嫌悪感が増すものだが、日本人はテレビを見ているだけで、どうしようもない。 そういう状況のなかで、中国当局は、なんとしてでも騒乱を鎮めて、オリンピックと上海万博をのりきる作戦だと思う。そのあとになにが来るんだろうかの予測をわきにおいて、いま現在のかれらの脳裏にはそれしかない。手段と... ...続きを見る |
罵愚と話そう「日本からの発言」 2008/03/16 16:10 |
チベットと中国文明の関係」について
「「チベット」と「中国文明」の関係」について 私も現在のラサの情勢においては、少なくとも劉公嗣さんとのやりとりにおいては、基本的に発言を控えさせていただきます。ただ、例の餃子問題と同じく、しばらくの間マスコミは騒ぎ立てたとしても、一ヶ月も立たないうちにほとんど沈黙してしまうだろうと思いますが。 ただ劉公嗣さんとのやりとりにおいては、基本的にチベットと「中国」との文化的関係にのみ絞って論じさせていただきたいと思います。 ...続きを見る |
子欲居の中国語日記 2008/03/16 19:31 |
「チベット」と「中国文明」の関係(2)
前回の記事にたいして、子欲居さんからトラックバックをいただきました。この記事は、その返信です(以下、引用箇所は青字)。 ...続きを見る |
雑記帳 2008/03/17 00:12 |
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