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zoom RSS 亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制』

<<   作成日時 : 2018/07/01 06:33   >>

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 日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、初期室町幕府についてはよく知らなかったので、多くの知見を得られました思います。初期室町幕府についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です



●亀田俊和「はじめに─なぜ今、草創期の室町幕府なのか?」P5〜19
 本書の各論考の簡潔な紹介になっていると共に、初期室町幕府、さらには初代将軍の足利尊氏が、皇国史観の呪縛から解かれたはずの戦後においても低評価だった要因について、社会情勢や学界動向から簡潔に解説しています。本論考は、学界において、佐藤進一氏が足利直義を高く評価したことが、その兄である尊氏の評価を低くしてしまった一因ではないか、と指摘しています。尊氏の一般的人気は現在でも知名度の割に低いのでしょうが、それは学界の動向の影響を間接的に受けたから、という側面もあるのかもしれません。


第1部 初期室町幕府の政治体制


●呉座勇一「軽視されてきた軍事史研究 初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?」P30〜46
 本論考は、初期室町幕府において、守護と大将の併置や軍忠状の二重証判といった、足利一門を優遇して外様大名を牽制するような軍事制度があったのか、検証しています。本論考は、初期室町幕府において南朝勢力の軍事的脅威は現実的で、守護とは別の大将設置や足利一門への軍忠状証判という傾向は、緊迫した軍事情勢への対応であり、確たる軍事制度ではなかった、との見解を提示しています。外様大名を牽制して足利一門を優遇するような軍事制度が初期室町幕府において確立していたという見解は、戦後歴史学における軍事史忌避の傾向と、後の室町幕府安定期の在り様を初期に遡及させてしまったからではないか、と本論考は指摘しています。


●亀田俊和「主従制的支配権と統治権的支配権 足利尊氏・直義の「二頭政治論」を再検討する」P47〜63
 初期室町幕府の体制については、足利尊氏・直義兄弟による「二頭政治」で、尊氏が軍事指揮権と行賞権からなる「主従制的支配権」を、直義が民事裁判権と所領安堵権からなる「統治権的支配権」を掌握していた、とする見解が長らく通説でした。本論考は、初期室町幕府の政治体制を「主従制的支配権」と「統治権的支配権」の二元性で掌握するのは実証的にも理論的にも問題があると指摘し、初期室町幕府の実質的な最高権力者は「三条殿」たる直義で、尊氏の行使した「創造」の権限と直義の行使した「保全」の権限とに分かれており、それは建武政権の影響を受けたものだった、との見解を提示しています。


●田中奈保「南北朝初期の公武関係 直義・義詮が担った北朝と初期室町幕府の関係とは?」P64〜77
 初期室町幕府と朝廷との関係が解説されていますが、北朝の能動性が指摘されています。尊氏にしても直義にしても、朝廷との関係では後期鎌倉幕府を規範としていたようです。それは、両統迭立・朝廷の財政的自立・朝廷との一定の距離を前提とするものでした。尊氏は、後醍醐天皇との対立が決定的となっても、しばらくは後醍醐との和睦および両統迭立の可能性を模索していました。尊氏・直義は後醍醐との和睦の可能性を断念して以降、北朝との関係を緊密化していきますが、観応の擾乱とそれに伴う正平一統により、この体制も破綻します。直義の政治的地位の後継者というか、その地位を奪った義詮は、北朝側の働きかけもあり、尊氏・直義よりも朝廷に積極的に関与していきます。本論考は、義詮が義満により達成された「公武統一政権」の路線を整備した、と評価しています。


●山田敏恭「二つの有力被官一族 高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?」P78〜97
 初期室町幕府において高一族と上杉一族は重臣として大きな役割を果たしましたが、高一族は観応の擾乱により没落したのに対して、上杉一族は鎌倉府で関東管領としてその後も長く重臣の地位を保ちました。本論考は、両一族の運命を分けた要因として、高一族は内部分裂しており惣領の下で団結できておらず、守護職と所領の集積に消極的だったのに対して、上杉一族は、観応の擾乱時にも最終的には内部分裂を回避して団結し、分国支配により勢力を拡大していった、ということを挙げています。



第2部 有力守護および地方統治機関


●亀田俊和「初期室町幕府と幕政改革 脚光を浴びつつある「観応の擾乱」以降の幕府政治」P100〜116
 観応の擾乱から義満の統治が確立するまでの頃の室町幕府は、じゅうらいあまり注目されてきませんでしたが、本論考は、所領安堵の手続きが簡略化していったことなど、この時期に幕府の統治が大きく変容していった、と指摘します。この時期の室町幕府において、裁判のさいにて鎌倉時代後期には確立していた「理非糾明」の要素が後退し、反論を聴取しない「特別訴訟手続き」へと移行していったことは、後退として室町幕府低評価論の根拠ともされましたが、これは任官などでも進んでいた「恩賞化」の一環で、戦乱が続く中では時宜を得た政策転換だった、と指摘します。また、正平一統は幕府と朝廷の一体化の契機になり、北朝側の幕府側への主体的働きかけも見られる、と評価されています。


●谷口雄太「三管領の研究史 研究対象は、細川・畠山・斯波氏だけでいいのか?」P117〜131
 本論考は室町幕府の管領の研究史を整理しています。室町幕府の三管領が細川・畠山・斯波氏であることは、日本では高校教育までで習うことなので、広く知られているでしょう。しかし、本論考を読むと、三氏の管領就任慣習の確立は14世紀末で(管領制自体の確立はもう少し前)、応仁の乱でそれが崩壊し、事実上は細川氏の独占体制となりますから、三管領体制自体あまり長くなかったことが分かります。また、管領研究が三氏中心になっていたことへの批判的視点や、細川氏と斯波氏の対立という図式で初期室町幕府の政治史を解釈することへの批判も提示されているそうです。


●杉山一弥「室町幕府と鎌倉公方 幕府は、鎌倉府・東国社会をいかに制御しようとしたのか?」P132〜147
 鎌倉府の制度は固定化されておらず、流動的だった、と指摘されています。鎌倉公方が関東管領にたいして常に政治的主導権を握っていたとか、あるいはその逆だったとかいうことはなく、両者の年齢・政治経験などにより左右されていた、というわけです。また、これまで鎌倉府・東国の独自性が強調される傾向もありましたが、京都・幕府との関連も注目されつつあるそうです。関東管領を補任するのが幕府だったり、東国の武家衆が究極的には鎌倉公方よりも都の征夷大将軍の方が優越していると考えていたりしたらしいことなど、幕府は日本列島を全国規模で統治・統合する制度・機能・回路を潜在的には留保し続けた、と評価されています。


●新名一仁「鎮西管領・九州探題 九州統治に苦戦した初期室町幕府の対応とは?」P148〜165
 南北朝時代における室町幕府の九州統治はとても順調とは言えませんでした。九州探題の前身とも言える鎮西管領に任じられた一色範氏・直氏親子は、九州で確たる経済的・軍事的基盤を確立できなかったこともあり、有力守護も統制できず、九州から撤退します。幕府の九州統治が進むのは今川了俊(貞世)が九州探題になってからでしたが、それでも九州の有力守護の統制には苦労しました。もっとも、これは今川了俊の失態(有力な前守護の謀殺)もありましたが。了俊が九州探題を解任された理由については、了俊の強大化を足利義満が恐れたこと、了俊と九州の有力守護との関係がよくないことなどが挙げられていますが、本論考は、了俊が高麗や明と独自外交を展開していたことが最大の原因ではないか、と推測しています。



第3部 室町殿・足利義満の位置づけ


●水野智之「室町殿の研究史 過大に評価されがちな「義満権力」を再検討する」P168〜183
 3代将軍義満は幕府全盛期を築き、朝廷の権限を吸収して公武統一政権を築いた、と評価されてきました。しかし近年では、強大な権力を掌握していた、との義満評価が相対化される傾向にあるそうです。これは、義満が、叙任権・祭祀権・改元などの朝廷の権限を、じゅうらいの想定とは異なりじゅうぶんには把握していなかった、と明らかになってきたためでもあります。また、義満の権力の在り様についても、出家前後でどのように変容していったのか、ということが議論されるようになったそうです。今でも一般層には根強く支持されているかもしれない義満の皇位簒奪計画説は、現在ではほぼ否定されているようです。


●大西信行「義満と東アジアの国際情勢 「日本国王」号と倭寇をめぐる明皇帝の思惑とは?」P184〜200
 明が懐良親王を日本国王に冊封した理由として、元には朝貢してこなかった日本の朝貢が、建国間もない明にとって権威づけになり得たことが挙げられています。その後、明と日本との関係は一旦断絶しますが、それは、明の「謀反」事件に日本が関わっていたとされたことではなく、日本を冊封しても倭寇対策に効果がなかったからではないか、と推測されています。明への書状が上表文としての形式をじゅうぶん備えていなかったにも関わらず、義満は明から日本国王に冊封されましたが、これは、靖難の変の最中で建文帝に日本を味方につけておきたい意図があったからだろう、と推測されています。


●松井直人「「北山殿」としての義満 義満は、なぜ京都西郊に「北山第」を造営したのか?」P201〜217
 義満は将軍職を息子の義持に譲り、その後に出家して北山第に移り住みました。これ以降の義満は「北山殿」とも呼ばれており、幕府・朝廷を超越した立場から政治的主導権を掌握したようです。しかし、幕府・朝廷を超越している「北山殿」は、幕府の意向とも異なることが多く、じゅうらいの幕府権力を超えた「北山殿」の扱いは、幕府要人にとっても難題だったようです。義満の急死後、朝廷からの義満への太上法皇の追贈を幕府が断ったことや、義満に寵愛された義嗣がけっきょくは殺害されたことも、「北山殿」権力の扱いに幕府が困っていたからではないか、と推測されています。



第4部 初期室町幕府の寺院・宗教政策


●大塚紀弘「初期室町幕府と禅律方 禅院・律院を体制仏教の中心とした幕府の宗教政策」P220〜236
 南宋・元では、仏教で修業体系の根本要素とされる持戒・禅定・智恵のいずれを専攻するかにより、寺院は禅院(禅定)・教院(智恵)・律院(持戒)に分類されていましたが、それらの価値は等しく認められ、共存すべきものとされました。平安時代の日本の仏教界では顕教と密教が結びついた顕密体制が確立しましたが、鎌倉時代になると、南宋・元からの影響を強く受けるようになります。初期室町幕府は、禅・教・律という三教共存の理念に基づき、仏教の諸勢力を幅広く体制側に編成しようとして、禅律方のような訴訟機構も整備しました。ただ、禅と比較して律の保護・統制はずっと弱かった、とも指摘されています。


●中井裕子「室町将軍家の菩提寺 室町仏教を代表する官寺、相国寺創建の意義とは?」P237〜254
 室町時代に宗教制度において重要な役割を果たした相国寺の創建過程と意義が解説されています。当初、義満は費用の問題から相国寺を小規模な寺院とするつもりでしたが、義堂周信の勧めにより、大伽藍が建立されることになりました。相国寺は朝廷の認定も受けた官寺として、社会的に高い地位を誇り、足利将軍家の菩提寺の一つにもなりました。創建の経緯や往持が後に夢窓疎石派に固定されたことから、相国寺は一般には禅宗寺院との認識が強いかもしれませんが、禅と顕密を統合する寺院であった、と評価されています。


●生駒哲郎「義満と護持僧たち 初期室町幕府の「武家祈禱体制」を検証する」P255〜275
 本論考は初期室町幕府の祈禱体制を検証していますが、その前提として、後宇多天皇と後醍醐天皇の密教への傾倒が取り上げられています。密教への傾倒は当時の権力者層にとって珍しいことではなく、初期室町幕府もその例外ではありませんでした。初期室町幕府の祈禱体制は流動的で、観応の擾乱など政変により仏教界でも人脈の交代がありました。本論考は、義満期までの祈禱体制は整備段階で、試行錯誤した様子が窺える、と指摘しています。義持期になると祈禱体制はまた再整備されるものの、人脈的には義満期を継承している、と評価されています。

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