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みんなの「日本史近世」ブログ


渡邊大門『おんな領主 井伊直虎』

2017/03/12 00:00
 これは3月12日分の記事として掲載しておきます。中経の文庫の一冊として、2016年9月にKADOKAWAより刊行されました。大河ドラマ『おんな城主 直虎』関連本としては読んだのは本書で2冊目となります。以前に読んだ関連本(関連記事)は、門外漢にはかなり奇抜な内容に思えたので、もう一冊関連本を読むことにしました。中世〜近世移行期にはまっていた十数年前ならば、もっと多くの関連本を読んだでしょうし、そうする方がよいに決まっているのですが、今は中世〜近世移行期の優先順位が下がってしまったので、現在の能力・経済力・気力ではもう一冊読むのが限度といったところです。

 本書は大河ドラマ関連本として無難な内容になっており、安価で携帯性にも優れているので、私のように井伊直虎のことを手軽にもっと知りたいと考えている門外漢にとって、手頃な一冊になっていると思います。しかし、本書を読んで改めて思い知らされたのは、直虎(次郎法師)の生涯について確定的なことはほとんど分かっていない、ということです。確実な史料から人物像を推測することも難しいようです。そもそも、井伊家についても、直政以前の事績には不明なところが多く、本書も含めて今年の大河ドラマの関連本の著者は苦労しているのだろうな、と推察されます。

 まあそれでも、中世〜近世移行期の「勝ち組」でも上位に位置するだろう井伊家は、まだ史料に恵まれているのかもしれません。井伊家のように一定以上重要な役割を果たした武士の家でも、まだほとんど史実が解明されていないような場合も珍しくないのでは、とも思います。本書は、井伊家について平安時代から室町時代にかけての動向にも簡潔に言及しつつ、戦国時代の井伊家を、関わりの深い周辺勢力の動向を取り上げつつ描き出しています。直虎についての一般向け解説としては、もっとも無難な構成と言えるでしょう。

 本書の描き出す戦国時代の井伊家の動向は、桶狭間の戦いや一族の謀殺や雌伏の時期や直政の代での飛躍など数々の起伏があり、優秀な作家ならば物語として面白くできそうだ、と思います。今年の大河ドラマは、現時点では視聴率が低迷しているようで、まあ確かに地味な感は否めませんが、本書を読むと、桶狭間の戦いの後の展開はかなり面白い物語になるのではないか、との期待も抱きたくなります。

 とくに、本書でも取り上げられている、後世の編纂史料では逆臣・佞臣とされる小野但馬がどのように描かれるのかは、大いに注目されます。今年の大河ドラマの小野但馬は、井伊直親(亀之丞)・主人公の直虎とともに、前半の主要人物とされています。第9回までの時点では、小野但馬は単純な悪人として造形されておらず、むしろ爽やかイケメンで屑の直親や狭い世界の厭らしさを体現している井伊家中との対比で、視聴者の同情を誘うように工夫されていると思います。小野但馬の今後と最期は、今年の大河ドラマ最大の見どころになりそうで、楽しみです。
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平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』

2016/12/04 00:00
 これは12月4日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2016年11月に刊行されました。本書は、同じく歴史新書の一冊として、一昨年(2014年)刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)と、昨年(2015年)刊行された『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、柏書房より昨年刊行された『家康伝説の嘘』(関連記事)とあわせて読むと、徳川家康についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



●平野明夫「はじめに─家康の伝記と松平・徳川中心史観をめぐって」P3〜16
 江戸時代における家康についての諸伝記の成立過程とその特徴について簡潔に解説されています。すでに江戸時代初期において、史実に反して、家康の伝記で家康個人、さらには徳川(松平)氏を称揚する傾向が見られるそうです。続いて、近現代歴史学における家康および徳川(松平)氏の研究について概観されていますが、実証性の高まった近現代歴史学においても、「徳川(松平)中心史観」的な側面が見られることもあったようです。1970年代以降、「徳川中心史観」への自覚的な反省も見られるようになり、現在まで続く動向となっているようです。



第1部 戦国大名への道


●村岡幹生「家康のルーツ・三河松平八代 松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」P22〜46
 家康へといたる松平氏の動向が解説されています。家康の前の松平氏については、史料が少なく、曖昧としたところが多分にあるようですが、諸史料からより妥当な松平氏像を提示する試みになっていると思います。本論考でも、家康の祖父である清康による東三河遠征と三河統一など、後世の文献による松平氏顕彰の傾向が指摘されています。清康に関しては、英雄とする人物像に少なからぬ捏造があるようです。また、松平氏が、15世紀には賀茂姓を称したこともある、との指摘も興味深いものです。


●平野明夫「人質時代の家康 家康は、いつ、今川氏から完全に自立したのか」P47〜65
 家康の幼少期から桶狭間の戦いの後の今川氏からの自立までが検証されています。色々と興味深い見解が提示されているのですが、まず、今川氏と織田氏はずっと対立していたわけではなく、三河での軍事行動で協調していた時期もあり、その時には松平氏は今川氏に従属していたのではなく、今川・織田両氏と対立していた、ということです。次に、家康(竹千代)は幼少期には駿府ではなく吉田にいた可能性が高い、ということです。後世の史書には、家康は駿府で厚遇されていた、とする「徳川・松平中心史観」による作為が見られるのでないか、というわけです。桶狭間の戦いの後、家康(元康)は今川義元の後継者である氏真から直ちに離反したわけではなく、仇討ちを勧めたものの、氏真にはそれを実行する様子が見られなかったので、家康は今川かを見限った、との俗説にたいして、それは家康神格化のための捏造であり、家康は桶狭間の戦いの直後から自立を図っていた、との見解も注目されます。


●安藤弥「領国支配と一向宗 「三河一向一揆」は、家康にとって何であったのか」P66〜84
 三河一向一揆は、家康による三河領国化の進展の重要な契機になった、と評価されています。ただ、家康の家臣団の分裂や戦況の推移などから、家康が意図的に起こしたものではなく偶発的だった、とも指摘されています。三河一向一揆の背景として、当時激しかった松平(徳川)氏と今川氏との対立があり、時代が下ると、三河の一向一揆教団にのみ「反乱」の責任を負わせるような言説が出てきますが、本論考は、だからといって三河の一向一揆教団の重要性を軽視してはならない、と注意を喚起しています。また本論考は、本能寺の変後に、家康が三河の一向一揆教団を赦免したことも視野に入れていく必要がある、と提言しています。


●堀江登志実「家康の譜代家臣 家康の家臣団は、どのように形成されたのか」P85〜100
 家康の家臣団が西三河を基盤として、東三河から遠江へと領地が拡大し、さらには武田氏の滅亡と本能寺の変により駿河・信濃・甲斐も所領としていき、後北条氏滅亡後に関東に移封となる過程で、今川・武田・後北条の旧臣を取り込んでいったことが指摘されています。武田旧臣の取り込みのさいには、井伊直政が重要な役割を担ったようです。関東移封後にとくに重用された本多忠勝・榊原康政・井伊直政には、徳川氏から与力が付属させられ、この与力は本多・榊原・井伊の家臣というより、徳川の家臣という意識が強く、その意識は江戸時代にも続いた、と指摘されています。



第2部 戦国大名 徳川家康


●遠藤英弥「今川氏真と家康 義元の死後、家康と今川家との関係はどうなったのか」P102〜114
 本論考は、上述の平野明夫「人質時代の家康」とは異なり、家康と今川氏真との対立は、桶狭間の戦いの直後ではなく、その翌年からだと推測しています。その一因として、今川氏が同盟相手の北条氏に援軍を送ったため、三河にまで援軍を派遣する余裕がなかっただろう、ということが挙げられています。氏真の器量については、後々まで付き従った家臣がいることからも、暗愚説は後世の創作が多分にあるのではないか、と指摘されています。また、家康が氏真を保護した理由として、武田との抗争における名分の確保が指摘されています。


●平野明夫「名将たちと家康の関係 信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」P115〜129
 家康が信長・武田信玄・上杉謙信を相手に独自の外交を展開したことが検証されています。この問題で重要となるのは家康と信長との関係で、1570年以前は、徳川から織田への援軍は足利義昭の要請によるものであり、家康が信長に従属するようになったのは1575年以降だとされます。1575年以前は、信長と謙信を巻き込んで武田包囲網を形成しようとした家康の外交方針が、信長のそれとは齟齬をきたすようなこともあった、と指摘されています。また、家康が今川から自立した時期は桶狭間の戦いの直後であるものの、氏真が家康の反逆を認識したのはそれから少し経過してからではないか、と推測されています。


●宮川展夫「北条氏と家康 徳川氏と北条氏の関係は、関東にいかなる影響を与えたのか」P130〜146
 家康と北条氏との関係は断続的なものだった、と指摘されています。桶狭間の戦いの後、家康が今川氏と対立するようになると、北条氏は和睦仲介者として家康と接触しますが、この和睦は成立しませんでした。家康も北条氏も武田氏と対立するようになると、家康と北条氏は関係を復活させますが、北条氏が武田氏との同盟を復活させ、再び関係が途絶えます。武田氏が衰退するなか、北条氏は家康との交渉を再開しますが、これは、織田体制での生き残りをかけたもので、家康が織田体制において関東の「惣無事」を担当していたからでした。この体制は本能寺の変の後も続き、家康は秀吉との対立を経て、今度は豊臣体制において同様の役割を担い、北条氏と接触します。しかし、この家康の立場は、北関東の反北条氏の有力者との関係も含むものであり、家康の立場が北条氏にとって微妙なものでもあったことが指摘されています。



第3部 豊臣大名 徳川家康


●播磨良紀「秀吉と家康 豊臣政権の中枢で、積極的な役割を果たした家康」P148〜160
 家康と秀吉との関係は、小牧・長久手の戦い前には良好であり、対立関係を経て家康が秀吉に従属した後は、家康は豊臣政権の重鎮として行動し、実績を積み重ねていった、と指摘されています。家康が豊臣政権において面従腹背だったのか、定かではないものの、少なくとも史料に見える行動からは、豊臣政権を崩壊させようという意図は窺えない、というのが本書の見解です。後の結果からの逆算や、それも反映した後の時代の文献により、当時の両者の関係が的確に把握できていない、ということもあるようです。これは、秀吉と家康の関係に限らない問題なのでしょう。


●谷口央「五か国総検地と太閤検地 家康の検地は、秀吉に比べ時代遅れだったのか」P161〜179
 家康は秀吉に臣従した後まもなく、五ヶ国の領地において検地を実施しています。この検地の性格をめぐって、太閤検地論争以降に議論が続いており、時代遅れだった、との見解も提示されました。本論考は、この領国総検地により、有力農民層に基づく年貢収納体制から村請制へと転換していったとして、豊臣政権からの直接の指示は史料上確認できないものの、事実上の太閤検地として位置づけられる、との見解を提示しています。豊臣政権の奉行ではなく、大名が主導した検地ということでしょうか。


●中野達哉「関東転封と領国整備 家康の「関東転封」は、何をもたらしたのか」P180〜201
 関東転封後の家康の領国整備について解説されています。関東転封後は、まだ各村の石高を把握できていないので、上級家臣団の領地については、まず拠点となる城が指定され、それと同時かやや遅れて石高が確定した後、じっさいの領地が決まっていったようです。関東転封の翌年から領国内での検地が進み、上級家臣団の領地も確定していきますが、これには時間を要したようです。こうした関東での徳川氏による領国整備により、関東は近世へと移行していった、との見通しが提示されています。


●佐藤貴浩「家康と奥州 「関東入国」直後、「奥羽仕置」で大活躍した家康」P202〜219
 1590年、秀吉は伊達政宗を臣従させ、奥羽も支配下に置きますが、奥羽の情勢は安定せず、大崎・葛西一揆や九戸一揆など動乱が続きます。家康はこうした不穏な奥羽情勢への対応に忙殺され、知行割といった重要な問題にも豊臣秀次とともに関与していました。家康は豊臣政権の家臣としてその維持に奔走しており、これが後の家康の政治的基盤の形成に役立った、と考えられます。また家康は、奥羽情勢への対応から、新たな所領である関東の領国整備を進めることがなかなかできなかったようです。



第4部 天下人 徳川家康


●鍋本由徳「イギリス商人の家康理解 大御所 徳川家康はエンペラーかキングか」P222〜239
 17世紀初頭のイギリス商人は家康を皇帝として認識しており、それは家康の死まで変わらなかった、と指摘されています。家康の息子である秀忠は、すでに1605年に征夷大将軍に就任していましたが、当時のイギリス商人は、あくまでも家康を最高権力者として把握していました。こうした認識の背景として、ヨーロッパにおいては譲位・隠居が一般的ではなかったことが指摘されています。当時のイギリス商人にとっての日本の皇帝は天下人という概念とよく一致する、と言えるかもしれません。


●大嶌聖子「大御所・家康と駿府 家康最晩年の「政権移譲構想」と隠居問題とは」P240〜258
 家康は1605年に征夷大将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府城に移りました。しかし、秀忠が担ったのは徳川の家政であり、家康は大御所として全国統治権を掌握し続けました。これも隠居の一例ですが、当時の隠居には多層的な意味合いが含まれていたことと、家督を譲った先代と新たな当主とが職務を分担し、先代が実質的な最高権力者として君臨するような体制は、戦国時代にも見られることが指摘されています。その家康が、1615年には隠居を計画し、隠居所も選定していったことが本論考では取り上げられており、それは、家康にとって孫である家光(竹千代)の元服の後見役を務めることと関連づけられていた政権移譲構想だった、というのが本書の見解です。


●生駒哲郎「家康の信仰と宗教政策 東照大権現への神格化は、家康の意志だったのか」P259〜282
 家康の存命時の信仰と家康死後の江戸幕府の宗教政策が比較・検証されています。家康の宗教観については、天海との出会いが転機になったのではないか、と指摘されています。家康の死後、遺言は一部守られず、家康の遺体は久能山から日光山へと移されました。これには、日本の諸神はすべて日光山の東照大権現の分身であり、日光山は諸神の中心でなければならないとの観念があったから、と本論考は推測しています。また、家康の本格的な神格化は家康死後に始まったのであり、家康は秀吉とは異なり、死後に日本を守護する神として祀られるような意図はなかっただろう、というのが本書の見解です。
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夏目琢史『井伊直虎 女領主・山の民・悪党』

2016/11/30 00:00
 これは11月30日分の記事として掲載しておきます。講談社現代新書の一冊として、講談社から2016年10月に刊行されました。来年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の予習になると思い、読んでみました。本書は、第一章で井伊直虎(次郎法師)の生涯と井伊氏の動向について解説し、第二章で直虎の正体というか、歴史的位置づけを解明しようと試みています。井伊直虎についても、井伊直政の登場前の井伊氏についてもほとんど知識がなかったので、基礎知識を得ようという目的もありました。

 第一章を読むと、直虎についても、その時期までの井伊氏についても、よく分からないことがまだ多いようで、今後の研究の進展が期待されます。直政登場前の井伊氏は、一族が上位権力の今川氏に処刑されたり、当主が戦死したりと、厳しい状況のなか何とか生き延びてきたようで、そうした中で直虎の人生も翻弄されたようです。本書によると、後世の記録では、井伊氏の重臣である小野氏が井伊氏の一族を陥れたり、所領を横領したりと、悪役として描かれているようですが、もちろん本書も指摘するように、実際のところはどうだったのか、よく分かりません。本書は、井伊氏内部の微妙な対抗関係が要因ではないか、と推測していますが、来年の大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

 第一章を踏まえたうえで展開される第二章には、率直に言ってかなり困惑させられました。本書は、「山の民」・「未開」と「都市」・「文明」というように、二項対立的に中世社会を把握し、後者が前者を圧倒していき、近世社会が成立した、という見通しを提示しています。本書は、井伊氏は「山の民」を統率する有力な一族だったものの、「都市」・「文明」が次第に優位に立つ時代のなか、「都市」・「文明」の側の今川氏に従属するものの、「山の民」としての誇り・拘りも依然として強く、それが内紛の要因になったのではないか、と推測しています。

 本書は、「山の民」・「未開」が「都市」・「文明」に従属する形で融合していく時代の大きな流れに直虎を位置づけ、直虎はこの転換期の象徴的人物だった、と把握しています。正直なところ、「山の民」は母系制社会で、井伊氏もそうした背景のなかで存続してきた、との見解も含めて、第二章の説得力は乏しかったように思います。もっとも、私の現在の見識と気力では、本書の問題点を的確かつ簡潔に述べることは無理なので、素朴な感想を述べることしかできませんが。率直に言って、本書はかなり期待外れの一冊でした。
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神田千里『戦国と宗教』

2016/10/30 00:00
 これは10月30日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年9月に刊行されました。本書では、戦国時代における宗教の大きな役割が強調されています。戦国大名間の合戦においても宗教は重要な役割を担っており、「信仰心が薄れて合理的になった」現代日本社会との違いは大きいように見えます。しかし本書は、戦国時代の人々も信仰を絶対視していたわけではなく、現代日本社会とも通ずるような「合理性」が見られたことを指摘しています。さらに本書は、「信仰心が薄れて合理的になった」ように見える現代日本社会でも、絵馬や地鎮祭のような慣行は続いており、信仰の点で戦国時代とかけ離れているわけではないだろう、との見解を提示しています。

 戦国時代の宗教というか信仰の特徴として本書が挙げるのが、信仰は個人の内面のものであって強制されてはならず、自分の宗派以外を攻撃することは禁止されており、諸宗共存が原則とされていた、ということです。こうした信仰の在り様の背景として天道思想という共通の基盤があり、諸宗派は本質的に同じ信仰である、という観念があったようです。また、天道は内面の倫理を重視しており、天道の摂理を人間は完全には理解できないという観念があったことからも、信仰の強制が忌避されていたようです。

 このような天道思想を共通基盤とする戦国時代の日本社会の信仰の在り様はキリスト教と似たところがあり、日本社会ではキリスト教は新たな仏教の一派として把握され、ヨーロッパから来日した宣教師の側でも、キリスト教と日本仏教の類似性が強く意識されていたようです。しかし、キリスト教の宣教師の側の煽動によって日本の寺社が破壊されることもあり、こうした諸宗共存を否定する点が、後に徳川政権により弾圧される根本的な要因になったようです。

 諸宗共存の否定にたいする日本社会の反発は根強かったようで、キリシタン大名として有名な大友宗麟も、家臣団の反発を恐れていたこともあり、洗礼を受けたのは、他の在来宗教に期待されていた役割と同じく、現世での利益(妻の病からの回復)を「実感」した晩年になってからでした。また、大友宗麟の「暴走・狂気」として語られることもある「キリスト教王国」の建設に関しても、じゅうらいからの領国である豊後に関しては断念し、新たな領国と構想していた日向に限定していたようです。もっとも、大友宗麟のこの計画は耳川の戦いで敗北したことにより挫折し、大友領国内でのキリスト教の権威は低下したようです。

 一向一揆に関しても、諸宗共存の原則の例外ではなかったことが指摘されています。一向一揆と織田信長との戦いは和平期間を挟んで10年にも及びましたが、真宗本願寺教団と信長との間に本質的な対立があったわけではなく、当時の政治情勢が対立の要因だった、と本書では解説されています。信長の側に真宗本願寺教団の信仰を禁止したり本願寺教団を壊滅させたりするような意図はなく、講和により大坂が織田方に明け渡された後は、信長と本願寺教団との間で友好関係が築かれた、と指摘されています。

 また本書では、天道思想に基づく諸宗共存の原則は、戦国時代というか、中世〜近世の日本社会に特有の「寛容さ」というわけではなく、激しい宗教抗争の見られたヨーロッパの宗教改革期の後半にも同様の思想と共存の実践が見られた、とも指摘されています。排他的な一神教世界と寛容な多神教世界の日本という、現代日本社会で広範かつ根強く定着しているように思われる通俗的見解には、かなり疑問が残ります。


 著者の他の著書を複数読んできたこともあり、本書の見解には違和感はありませんでした。これまでこのブログで取り上げてきた著者の他の著書は以下の通りです。


『宗教で読む戦国時代』
http://sicambre.at.webry.info/201003/article_30.html

『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』
http://sicambre.at.webry.info/201407/article_2.html

『織田信長』
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_17.html
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渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』

2016/10/27 00:00
 これは10月27日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2016年10月に刊行されました。この十数年間、戦国時代〜江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は一般向け書籍ということで、一般層が戦国時代でとくに関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているように思います。価格も手ごろで、私のような一般層もわりと気軽に購入できそうなのはありがたいことです。この記事では、年代は西暦で統一します(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)。以下、各論考について簡潔に備忘録的に述べていきます。



●長屋隆幸「本当の鉄砲伝来はいつだったのか」P11〜25(第1章)
 日本への鉄砲の伝来について、いくつかの論点とその研究史が解説されています。通説では、1543年に種子島にポルトガル人が来航したことで日本に初めて鉄砲がもたらされ、種子島から日本各地に鉄砲が広まった、とされます。しかし、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性や、ポルトガル人が種子島に来航したのは1543年なのか、種子島から日本各地に鉄砲が広まったのか、といった問題が今では議論されているようです。本論考は、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性を認めつつも、それは伝播(商品として伝わること)であって伝来(製造技術まで伝わって定着すること)ではなかっただろう、と指摘しています。また、種子島への鉄砲の伝来は1542〜1544年の間のことで、倭寇を通じて同時期に西日本各地にも鉄砲が伝わり製造されるようになったものの、鉄砲の普及に関して種子島の影響力は小さくなかったかもしれない、とも指摘されています。


●千葉篤志「川中島の戦いは何回行われたのか」P26〜43(第2章)
 有名なわりに不明なところも少なくない川中島の戦いについて、同時代の意義のみならず、近世・近代にどのように語られたのか、という点も解説されています。川中島の戦いは、5回それぞれ異なる目的・場所の戦いだったようですが、近世になって確立した広域的な「川中島」という地域概念により、5回に及ぶ「川中島の戦い」という認識が成立していったようです。広域的な地域概念としての川中島は交通の要衝だったので、戦国時代に限らず、平安時代・鎌倉時代・室町時代と重要な合戦がありました。5回に及ぶ川中島の戦いについて、上杉(長尾)方が攻め込むことが多いので、戦闘では上杉方の勝ちかもしれないが、領土争奪という観点では武田方の勝ちだろう、と評価されています。ただ、川中島の戦いの結果により武田方も上杉方も権力が崩壊するような事態には陥らなかった、ということも指摘されています。


●古野貢「信長の「天下」は日本全国を指すのか」P44〜58(第3章)
 織田信長は1567年、「天下布武」の朱印を捺した書状を用い始めます。これは、信長がまだ一地方大名だった頃から、「全国統一」が視野に入っていたことを示すものであり、信長の革新性の根拠の一つともされていました。しかし本論考は、「天下」の意味するところは時代により変容していったのであり、信長の頃はおおむね畿内に限定されていた、と指摘します。「天下」は室町幕府将軍を指すこともあり、幕府の統治が安定していた室町時代前期には全国を意味していましたが、嘉吉の変や応仁の乱などにより幕府の求心力の低下したことで、幕府が一定の領域支配権を行使できる畿内に限定されていったのではないか、との見通しが提示されています。


●中脇聖「明智光秀の出自は土岐氏なのか」P59〜75(第4章)
 明智光秀の出自は美濃の守護である土岐の支流の明智だった、という通俗的認識は根強いと思います。そこから、光秀は清和源氏としての高い誇りを持ち、平氏である織田信長の征夷大将軍就任を阻止するために信長を討った、という俗説を見かけたこともあります。本論考は、光秀の出自が明智なのか定かではないものの、明智と名乗っていたことが当時の人々に共通認識として定着していた、と指摘します。その契機として本論考は、光秀が(細川藤孝の推挙で?)足利義昭に近侍するようになったさい、幕府奉公衆たる明智を名乗ることが許されたからではないか、と推測しています。また本論考では、光秀は1575年に惟任姓を授与されてから、惟任を本姓のような名字として自身の勢力圏の家格秩序の頂点に位置づけるとともに、「明智」名字を国衆や土豪に授与したことが紹介されており、これが豊臣秀吉による大名への「羽柴」名字の授与や、徳川家康による大名への「松平」名字授与と通ずるものだったのではないか、と指摘されています。


●木下昌規「本能寺の変の黒幕説(朝廷・足利義昭)は成り立つのか」P76〜92(第5章)
 本能寺の変の黒幕説について検証されています。本論考が取り上げているのは、そのうち朝廷説と足利義昭説です。朝廷説においては、朝廷と信長との強い緊張関係が前提となっていますが、本論考は、当時、朝廷は信長を必要として頼りにしていたのであり、信長と朝廷との間に強い緊張関係はなかったので、朝廷黒幕説は成立しない、と論じています。義昭黒幕説に関しては、光秀と義昭や義昭の庇護者たる毛利との間に事前の連絡があったとの証拠がないことから、やはり否定的見解が提示されています。現時点では、本能寺の変の黒幕説を支持することは難しそうです。


●平野明夫「「神君伊賀越え」の真相」P93〜109(第6章)
 本能寺の変の後、徳川家康が堺から領国の三河へと戻った経緯について検証されています。この「神君伊賀越え」については、複数の経路が伝わっていますが、誤伝である可能性とともに、分散した可能性も提示されています。これと関連するのが、「神君伊賀越え」のさいの家康一行の人数です。家康一行は少人数だったため、たいへんな苦難だった、との伝承もある一方で、伊賀路をあっさりと通過していることから、伝えられているほどの困難はなかっただろう、との見解も提示されています。本論考は、家康一行からも200人ほどの被害が出ていると考えられることから、家康一行は明智光秀に決戦を挑むほどの人数ではなかったものの、数十名程度という小規模でもなく、危機に直面していただろう、と指摘しています。


●渡邊大門「中国大返し再考」P110〜127(第7章)
 羽柴秀吉の中国大返しについて検証されています。俗説では驚異的な速度だったとされる秀吉の中国大返しですが、本論考は一次史料に基づき、俗説の日程を修正しています。俗説では、秀吉は姫路で一泊しただけですぐに進軍したとされますが、本論考は、秀吉は姫路に三泊した、と推測しています。これは、秀吉と一部の将兵のみが騎馬で姫路に到達した後、残りの徒歩の兵の到着を待ったことと、秀吉にとって安全な姫路で情勢を分析していたためではないか、というのが本論考の見解です。ただ、本論考の提示する「秀吉の中国大返し」も、俗説のような非現実的な速度ではないにしても、かなりの強行軍だったように思われます。


●竹井英文「城郭研究を揺るがした「杉山城問題」とは!?」P128〜144(特論1)
 埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城をめぐる議論が解説されています。縄張研究では、杉山城を築いたのは北条で、1560年頃のこととされていました。ところが、発掘調査では、15世紀末に近い後半〜16世紀第1四半期に近い前半と判断され、この年代は新史料でも裏づけられました。つまり、縄張研究と考古学および文献史学との見解が対立したわけで、これ以降、縄張研究の側からは、さらに時代を下らせて、1580年代後半の北条系城郭か、1590年の豊臣系城郭ではないか、との見解さえ提示され、ますます考古学および文献史学との見解と乖離していきます。こうした乖離の要因として、縄張のみで築城年代・主体を否定する縄張研究の方法論が指摘されています。縄張は単純なものから複雑なものへと発展し、複雑な縄張は戦国時代後半の戦国大名にのみ可能だった、とする縄張研究の前提に問題があるのではないか、というわけです。もっとも、本論考は、考古学・文献史学の側にも、杉山城をめぐる議論はさまざまな課題を提示した、と指摘しています。


●佐島顕子「老いた秀吉の誇大妄想が、朝鮮出兵を引き起こしたのか」P145〜163(第8章)
 秀吉の朝鮮出兵について、明などとの貿易の統制・独占という秀吉の思惑とともに、対馬の宗や肥後の小西といった地方勢力(小西は秀吉により肥後に転封となって日が浅いわけですが)が、秀吉を利用しつつ、明との貿易に加わり利益を得ようとした側面がある、と指摘されています。これと関連して、小西行長が関ヶ原の戦いの後に斬首されたのは、国家権威の源泉を日本ではなく明皇帝に求める外交の中心人物だったことと、外国人宣教師の保護など、海に開いた九州の自立性の象徴だったからではないか、と指摘されています。


●水野伍貴「石田三成襲撃事件の真相とは」P164〜178(第9章)
 石田三成襲撃事件について検証されています。本論考は、七将は三成を殺害しようとしたのではなく、三成に政治的責任を負わせ、制裁するよう、家康に訴えていたのだ、と論じています。それを踏まえて本書はこの事件の本質を、七将が私怨により三成を襲撃し、家康がそれを調停したわけではなく、徳川方と反徳川方による政争だった、と把握しています。また、この事件の契機として前田利家の死があり、これにより利家と親しい武将が家康側に靡いたことも指摘されています。なお俗説では、襲撃された三成が逃げ込んだのは伏見の家康の屋敷とされていますが、じっさいには三成の屋敷でした。


●光成準治「毛利輝元、吉川広家、安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い」P179〜195(第10章)
 関ヶ原の戦い前後の毛利家の動向が、毛利輝元・吉川広家・安国寺恵瓊の関係を中心に検証されています。後世の軍記や同時代の広家の書状には、広家を正当化し、吉川家の家格を上昇させる意図があるため、全面的に信用はできない、と指摘されています。毛利が反徳川方として決起した責任を安国寺恵瓊のみに負わせるため、安国寺恵瓊が愚鈍で強欲な人間として描かれたのではないか、というわけです。安国寺恵瓊と広家の関係は、関ヶ原の戦いの頃には良好ではなかったようですが、以前からそうだったのか、確証はないようです。また、養子問題の件から、輝元が広家に不信感を抱いていたことが指摘されています。こうした要素も、関ヶ原の戦いにおける毛利家の動向に大きな影響を及ぼしていたのでしょう。この時期の毛利家の動向は、輝元が西軍の総大将に推戴されたにも関わらず、何とも中途半端に見えますが、応仁の乱のような長期の戦乱になると毛利家の首脳陣が予想していたのだとしたら(この予想は、当時としては的外れとは言えないでしょう)、戦力の温存や敵対勢力との交渉なども、「合理的」な選択だったと言えるかもしれません。


●白峰旬「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」P196〜211(第11章)
 俗説では、関ヶ原の戦いでは正午頃まで一進一退の攻防が続き、東軍への寝返りを約束していた小早川秀秋が去就を明らかにしなかったため、家康が小早川の陣に鉄炮を撃ちかけて寝返りを促し(問鉄炮)、慌てた秀秋が寝返ったため、東軍の勝利が確定した、とされます。しかし本論考は、秀秋の寝返りは早朝であり、俗説とは異なり西軍の前線に位置していた大谷隊は背後の小早川隊と前方の徳川軍に挟撃されて壊滅し、合戦全体も正午頃には東軍の勝利が決定的になったとして、「問鉄炮」を否定しています。


●曽根勇二「家康は豊臣氏を、どのように追い詰めたのか」P212〜229(第12章)
 秀吉死後の政局は、秀吉政治の後継者問題が重要な論点となり、関ヶ原の戦いがその端緒で、大坂の陣で最終的に決着した、との見通しが提示されています。この秀吉政治は、朝鮮出兵に対応すべく成立していった、秀吉独裁の集権的なものだった、と本論考は指摘します。関ヶ原の戦い後、家康は直ちに全権を掌握できたわけではなく、自身の領地朱印状を出すことはできませんでした(徳川将軍が自由に諸大名に領地朱印状を発給できるようになったのは1617年以降)。そうした中で家康は、諸大名を普請に動員したり、地域支配や交通支配を強化したりすることで、豊臣への優勢を確立していった、とされます。


●片山正彦「大坂冬の陣後、大坂城の堀は無理やり埋められたのか」P230〜248(第13章)
 大坂冬の陣の和睦条件として、大坂城の外堀だけを埋めるはずだったのに、徳川方の謀略で内堀まで埋められてしまった、と俗説では語られます。しかし本論考は、外堀のみならず内堀の埋め立ても和睦条件となっており、豊臣方も納得していた、と指摘します。ただ、外堀は徳川方が、内堀は豊臣方が埋め立てることになっていたのに、豊臣方の埋め立てが(おそらくは意図的に)遅れていたため、徳川方が内堀まで埋め立ててしまい、豊臣方が抗議したことが、後世になって俗説を生んだのではないか、と指摘されています。


●荒垣恒明「忍者とは実在するのか」P249〜262(特論2)
 現代において語られる忍者の実像について検証されています。戦国時代〜江戸時代初期に、現代において語られるような忍者に近いところもある人々は存在し、「忍び」などと呼ばれていました。「忍び」の基本的な任務は情報収集だったようで、敵陣に潜入する危険な任務でした。放火・夜討ちといったゲリラ的な戦術に「忍び」が用いられることもあったようです。その意味で、当時の「忍び」と現代において語られる忍者とは共通するところが少なからずあったようですが、一方で、同時代史料に登場する「忍び」が、共通の特徴を有する集団だったと言えるのか、今後の検討課題である、とも指摘されています。
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平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』

2016/10/23 00:00
 これは10月23日分の記事として掲載しておきます。PHP新書の一冊として、2016年9月にPHP研究所より刊行されました。本書は真田信之(信幸)の伝記ですが、戦国時代末期〜江戸時代初期という、中近世移行期の真田家の動向を詳細に知るのにも適した一冊になっています。と言いますか、信之の思惑や心情について、推測を述べることに抑制的なので、近世大名たる真田家の成立期の解説という性格が強くなっているかもしれません。新書としては厚く、分量があるだけではなく密度も濃く、主要参考文献も掲載されているので、読みごたえのある一冊になっています。

 本書は信之の生涯を詳細に追っていますが、最も読みごたえがあるのは、関ヶ原の戦いの後、真田家の当主としていかに内政面で腐心したか、描き出した第5章でしょう。この時期、頻繁に浅間山が噴火したことや、第二次上田合戦の影響などにより、領内は大きな打撃を受け、その立て直しは信之にとって重い課題となりました。また信之は、村落の立て直しとともに城下町の整備なども進めており、苦闘しつつも所領支配を確立していきます。しかし、徳川政権による軍役や普請役により、真田家の財政事情はかなり厳しかったようです。

 信之は松代(松城)転封後、直轄領を増やしていき、財政難に対処しようとしており、晩年にはかなりの額(金子27万両)の蓄財に成功したようです。しかし、これは家臣団の知行の抑制で可能になったことでもあり、家臣団の不満を高め、多くの家臣が出奔する事態を招来しました。家臣団の不満の一因として、松代へ転封後、家臣団を城下町に居住させ、知行地での居住を許さなかったこともあるようです。財政面とあわせて、大名権力の強化と言えるのでしょう。松代転封後だけではなく、上田時代にも、信之は家臣団の統制に苦心していたようです。大坂の陣で弟の信繁が豊臣方として参陣し、これと通ずる動きが家中・領内にあったようで、それに対して信之が厳しい処置をとったことが窺えます。

 このような、家臣団統制に苦しんだことや、上述した内政面での厳しい状況など、信之というか真田家は、戦国時代末期〜江戸時代初期にかけて、苦難の連続だった、との印象を受けます。しかし、それは真田家に限らず、他の大名家でも同様だったのでしょう。また、近隣勢力や上位権力との関係の構築も、戦国時代末期〜江戸時代初期にかけての大名家にとって重要となってきます。真田家の場合は、戦国時代末期には近隣地域の上位権力たる武田・上杉・北条・徳川といった有力大名との関係が、その後は豊臣(羽柴)・(関ヶ原の戦い後の)徳川という「中央権力」との関係が、生き残りにはきわめて重要となります。

 家臣団統制・領地支配・上位権力との関係といった問題は、真田家に限らず中近世移行期の武士の家にとってきわめて重要であり、真田家のようにそうした問題を切り抜けて幕末まで生き延びた家もあれば、それらのどれかでの致命的な失敗により没落した家も多く存在しました(真田家の分家とも言うべき沼田藩も、内政面での破綻により改易となっています)。その意味で、中近世移行期の真田家の詳細な事例は、同時期の武士の家の興亡の理解にも役立つのではないか、と思います。真田領にはキリシタンも多くいたそうで、信之はその対策にも苦慮したようですし、晩年には御家騒動も起きています。それらも中近世移行期の武士の家にとって珍しくない問題であり、こうした点でも、真田家は中近世移行期のモデルケースとなり得る、と言えそうです。本書は、中近世移行期の大名支配の確立という観点からも、得るところが多いように思います。
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村井章介『シリーズ日本中世史4 分裂から天下統一へ』

2016/08/30 00:00
 これは8月30日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年7月に刊行されました。すでに第1巻第2巻第3巻はこのブログで取り上げています。本書は戦国時代〜17世紀前半までを扱っています。中世から近世への移行期が対象と言えるでしょうか。本書の特徴は、「対外関係」や当時は日本に「包摂」されきっていなかった地域というか、「日本」の「周辺地域」に関する叙述が中心となっていることです。本書はこのように「対外関係」や「周辺地域」を中心に据えることで、近世日本の特異な社会・政治構造がどのように形成されたのか、論じています。

 本書がこのように「対外関係」や「周辺地域」を中心に論じているのは、近世日本の形成が世界的な動向のなかに位置づけられている、との認識が前提にあるためです。確かに、ヨーロッパ勢力との接触のように、本書が対象とする時代において日本は世界の動向に大きく影響されました。しかし、本書は一方で、ヨーロッパ勢力との出会いが近代以降の日本では強調される傾向にあるものの、ヨーロッパ勢力の東アジア・東南アジアへの拡大は、じゅうらいのアジア東部における交易の枠組みの中で起きたことも指摘しています。

 このように「対外関係」や「周辺地域」が中心に論じられているため、戦国大名の支配や当時の社会の構造についてはやや手薄になっている感があり、この点は残念でした。また、本書が対象とする時代は現代日本社会ではたいへん人気が高いのですが、英雄譚的な叙述とはなっていないので、この点では一般受けする内容ではなさそうです。とはいえ、世界的な動向からの中近世移行期の通史として、なかなか堅実な内容になっていると思います。
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鍛代敏雄『戦国大名の正体 家中粛清と権威志向』

2016/03/13 00:00
 これは3月13日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年11月に刊行されました。副題にあるように、本書は戦国大名の特徴というか、戦国大名を形成・存立させる要素として家中粛清を重視しています。本書は戦国大名権力を、主従制的な支配と一揆的な原理により縦横に結ばれた、全体として統合された家中である、と認識しています。そのため、特定の譜代宿老への権限の集中や、家臣の反抗にたいしては、家中の合意に基づいて粛清が行なわれた、というわけです。一方、大名自身が専制化していくと、「王殺し」が時として行なわれます。これも粛清と同じく、家中の秩序を乱す存在として家中の合意に基づき排除された、という構造になっています。本書は、この「王殺し」が江戸時代の主君押込に連続していく、という見通しを提示しています。

 本書は毛利・尼子・六角などの具体的事例を取り上げ、家中粛清について検証しています。そうした粛清では、毛利家のように大名権力の強化につながったこともあれば、尼子家のように一見すると大名権力が強化されたものの、けっきょくは尼子家全体の勢力が弱体化したこともあり、また六角家のように、大名権力が家臣団に妥協を強いられたこともありました。家中の合意を形成するのは難しく、ここで成功するか失敗するかが、戦国大名の存続または滅亡に大きな影響を及ぼしたことが窺えます。「王殺し」についても、美濃の斎藤家や三河の松平家(徳川家)や豊後の大友家のように、具体的な事例が取り上げられています。

 副題にあるように、戦国大名の権威志向も本書が重視している点で、実権を失って衰微した、と通俗的には考えられているだろう戦国時代の朝廷や室町幕府の存在意義が強調されています。この他にも、当時の「天下」の意味合いや、文化史的な検証など、本書は多岐にわたって戦国大名の特徴を検証しています。それぞれの指摘は、近年の研究成果を参照した興味深いものなのですが、率直に言って、「戦国大名の正体」という主題から考えると、雑多な感じでまとまりに欠けているように思います。本書は「支流」からさかのぼった戦国大名論とのことで、雑多な感じになるのはある程度仕方のないことなのかもしれませんが、一般向けということを考えると、もっと分かりやすい構成にできたのではないか、とも思います。もっとも、そうした不満はありましたが、なかなか興味深く読み進められました。
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本多博之『天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命』

2016/03/10 00:00
 これは3月101日分の記事として掲載しておきます。歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2015年7月に刊行されました。本書は銀の動向を軸に、戦国時代から豊臣・徳川統一政権までの政治・経済構造の変容を検証しています。表題から容易に推測できる人も多いでしょうが、本書は日本列島に限定せず、広く東アジアや東南アジア、さらにはそれらの海域に進出してきたヨーロッパ勢力も取り上げています。現代日本社会では珍しくない視点でしょうが、少なからぬ非専門家層にとっては必ずしも自明のこととは言えないでしょうから、本書の意義は小さくないと思います。

 戦国時代に日本列島で銀が増産されていったことはよく知られているでしょうが、その中でも石見銀山は、世界遺産に登録されたこともあり、とくに有名でしょう。本書は、この石見銀山での増産(シルバーラッシュ)が、日本列島のみならず東アジア世界に大きな影響を及ぼした、と指摘しています。そもそも、石見銀山での増産を可能としたのは、日本と朝鮮との密貿易的な取引を含む交易を通じての、朝鮮経由での明からの新技術(灰吹法)の導入であり、その意味でも、戦国時代の日本列島におけるシルバーラッシュは、より広く東アジアにまで範囲を広げて考えねばならないのでしょう。この日本列島のシルバーラッシュでは、当初日本列島から銀が流出する一方でしたが、16世紀半ば以降には、日本列島でも銀が流通し始めます。

 本書の見解で注目されるのは、石高制成立の背景についてです。日本列島を越えてより広く東アジアの観点からの考察では、明からの銭の供給途絶と日本列島における精銭の希少化を、石高制成立の背景として指摘する見解も提示されています。しかし本書は、精銭の希少化が石高制に直結するのではなく、異なる多様な価値の銭が流通する環境では、貫高は普遍的な価値尺度になりにくいことが、広域公権力が貫高ではなく石高を採用した理由ではないか、と指摘しています。
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久保健一郎『戦国大名の兵粮事情』

2016/03/03 00:25
 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2015年12月に刊行されました。本書は兵粮事情から戦国時代の経済・社会状況を検証しています。本書は兵粮をモノとカネの二つの側面で把握しています。もちろん、兵粮は食として消費されるわけですが、それだけではなく、カネのように運用されることもあるわけです。兵粮とはコメを指すことが多いようですが、近世の石高制ではまさにコメがカネ・価値基準として通用しているのであり、石高制の成立にカネとしての兵粮の深化があったのではないか、との見通しが本書では提示されています。

 本書は、戦国時代よりも前の中世の兵粮事情の解説にも少し分量を割いています。中世前期には、兵粮は戦争のたびにモノとして賦課されていました。それが兵粮料というかたちで戦費として収取されるようになり、さらには、あらかじめ在地の年貢から控除されることなどを通じて、しだいにカネとしても認識されるようになった、というのが本書の見通しです。戦国時代には、さまざまな階層の人々が兵粮をカネとして運用していました。また、戦国大名は領国の危機にさいして、領国の食糧すべてを兵粮として管理・統制しようとします。しかし、それは大名権力の強化を意味するとは限らず、領国の危機が去れば、兵粮として徴収された食糧も返却されました。

 戦国時代には、戦乱が長期化・恒常化するなかで、戦いに備えて兵粮の流通が活性化し、兵粮はモノとしてもカネとしても深化していくことになります。戦いに備えてそうした性格の兵粮の消費が進み、戦時には兵粮がおびただしく消費されました。戦国大名はそうした兵粮の流通をじゅうぶん統制できたわけではなく、近代国家の軍隊のような集権的・統制的な兵粮の運用はとてもできませんでした。こうした兵粮の統制の不徹底は、島原の乱の事例からも窺えるように、近世の統一政権になっても基本的には変わらなかったようです。

 そうした兵粮を中心とした戦国時代の経済・社会において、武士から百姓まで多くの人々が借銭借米に苦しむことになりましたが、すべての人々が貧困に苦しんだわけではなく、兵粮が遍在していたことを、本書は強調しています。戦国大名は、多くの人々が借銭借米に苦しむなか、救済策を講じたものの、領国運営のためには、戦国時代の経済の「勝ち組」であることの多かった金融業者を優遇せねばならず、その救済策は不徹底なものになってしまいました。本書は兵粮から見た戦国時代の経済・社会像を提示しており、なかなか興味深い見解が提示されているので、この観点からの研究の進展が期待されます。
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タイトル 日 時
村井良介『戦国大名論 暴力と法と権力』
 これは2月24日分の記事として掲載しておきます。講談社選書メチエの一冊として、講談社より2015年9月に刊行されました。本書の特徴の一つは、一般向け書籍としては珍しいくらい、研究史への直接的言及が多いことです。研究史の整理を直接読者に提示することにより、問題の所在を浮き彫りにする、という狙いがあるようです。また、フーコー(Michel Foucault)の権力論やゲーム理論など、歴史学以外の分野の研究成果を積極的に援用していることも本書の特徴と言えるでしょう。そのため、本書は歴史理論・歴史哲学... ...続きを見る

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2016/02/24 00:00
黒嶋敏 『天下統一 秀吉から家康へ』
 講談社現代新書の一冊として、講談社より2015年11月に刊行されました。本書は、武威という視点からおもに「対外」関係を対象として豊臣秀吉と徳川家康の「天下統一」を検証しており、なかなか興味深く読み進められました。「対外」関係の点でも豊臣政権と徳川政権には連続性が認められ、それは武家政権たる両者が武威に基づき支配体制を構築してきたからだ、というのが本書の見通しです。天下人たる秀吉・家康と同じく、諸大名も武威により地域的な支配体制を構築しており、天下人が武威を掲げて統一を進めたことを諸大名が受け入... ...続きを見る

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2016/02/17 00:22
神田裕理編『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち 天皇制度は存亡の危機だったのか』
 これは12月25日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、 歴史新書の一冊として洋泉社より2015年12月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、戦国時代の朝廷については知識が乏しかったので、得るところが多々ありました。本書は、近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益な一冊になっていると思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べて... ...続きを見る

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2015/12/25 00:00
丸島和洋『真田四代と信繁』
 これは12月18日分の記事として掲載しておきます。平凡社新書の一冊として平凡社より2015年11月に刊行されました。著者は来年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者の一人です。真田四代とは、幸綱・信綱・昌幸・信之(信幸)という戦国時代〜江戸時代初期にかけての真田家の当主のことです。この四人と昌幸の次男である信繁とに1章ずつ割かれており、全体では5章構成となっています。幸綱は以前には幸隆という名前で知られていましたが、諱(実名)は幸綱で、幸隆は法名(一徳斎幸隆)の一部である可能性が... ...続きを見る

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2015/12/18 00:00
渡邊大門編『家康伝説の嘘』
 これは11月28日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2015年11月に刊行されました。さすがに徳川家康のことともなると、大まかな事績を知っているのですが、この十数年間、戦国時代〜江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。家康について一般層も関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているのが本書の特徴で、内容は充実していると思います... ...続きを見る

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2015/11/28 00:00
平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』
 これは11月25日分の記事として掲載しておきます。角川選書の一冊として、角川学芸出版より2015年10月に刊行されました。著者は来年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者の一人です。真田信繁については基本的な知識もあやふやなので、来年の大河ドラマの予習の意味にもなると思い、読んでみました。本書は、史料的制約のあるなか、信繁の生涯を詳しく検証しており、信繁の伝記として長く参照されることになるでしょう。私も得るところが多々ありました。史料的制約のため、信繁の事績・評価については確定で... ...続きを見る

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2015/11/25 00:00
日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』
 歴史新書の一冊として洋泉社より2015年8月に刊行されました。本書は、昨年(2014年)同じく日本史史料研究会の編纂で刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、豊臣秀吉についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。本書もたいへん面白かったので、次は徳川家康についても同様の新書... ...続きを見る

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2015/08/18 00:00
佐々木克『幕末史』
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2014年11月に刊行されました。本書は第1章〜第5章にかけていわゆる幕末史(ペリー来航から王政復古まで)を、第6章で明治時代前半(大日本帝国憲法の発布まで)を扱っており、新書としてはかなりの分厚さになっています。本書は基本的に政治史を扱っており、経済史への言及はきわめて少なく、文化史・思想史への言及はほぼ皆無となっています。この点は残念でしたが、重要人物の個性が鮮やかに描き出されており、単に勉強になるというだけではなく、読み物としてなかなか面白くなっている... ...続きを見る

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2014/11/19 00:00
中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』
 吉川弘文館より2008年2月に刊行されました。本書は、文禄・慶長の役の期間のみならず、その後の日本・明・朝鮮の交渉と、日本・朝鮮間の「復交」までを対象としています。日本と明とは、文禄・慶長の役の後に通商関係は以前のように盛んとなりましたが、「国交回復」はなされませんでした。明の後に中華地域を支配したダイチングルン(大清帝国)と日本との間でも、明治時代になるまで「国交」は締結されず、通商のみが行なわれるという関係にとどまりました。 ...続きを見る

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2014/10/19 00:00
安野眞幸『教会領長崎』
 講談社選書メチエの一冊として、2014年6月に刊行されました。本書の特徴は、戦国時代の日本におけるイエズス会を「権門」として把握し、「適応主義」対「原則主義」というイエズス会の内部対立に着目するとともに、イエズス会の財政基盤となった南蛮貿易の実態を解明するために、地理的・年代的に広範な事例を参照していることです。また本書は、日本におけるイエズス会の動向をスペイン・ポルトガル連合王国の成立とも関連させて論じており、視野の広い一般向け書籍になっていると思います。 ...続きを見る

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2014/09/15 00:00
2013年「回顧と展望」日本・近世
伊東利勝「漂流する歴史学」『愛大史学』22 ...続きを見る

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2014/08/28 00:00
神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』第3刷
 吉川弘文館より2012年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2007年10月です。本書は通俗的な一向一揆像とは異なる見解を提示しています。一向一揆は、江戸時代における本願寺教団の東西分裂という状況のなか、それぞれの立場の人々に都合よく語られてきた伝承によって、当時の実情とは異なった印象が形成されており、近代以降の歴史学も、そうした印象を必ずしも払拭できなかったばかりか、その時々の潮流に沿って実情とは異なる歴史観を強化することさえあった、というのが本書の見通しです。 ...続きを見る

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2014/07/02 00:00
『岩波講座 日本歴史  第10巻 近世1』
 本書は『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の第10巻で、2014年1月に刊行されました。すでに『第6巻 中世1』(関連記事)・『第1巻 原始・古代1』(関連記事)・『第2巻 古代2』(関連記事)をこのブログで取り上げました。各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようとすると、私の見識・能力ではかなり時間を要しそうなので、これまでと同じく、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。 ...続きを見る

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2014/06/22 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第36号「江戸時代10 世界の中の幕末日本」
 この第36号は水野忠邦の老中就任から大政奉還の頃までを中心に、江戸時代の日本が世界からどのように認識されていたのか、という問題がおもに論じられています。「新発見」的な見解が複数提示されていますが、一般にも浸透しているものもあるかな、と思います。江戸時代には「庶民」たちは武芸を禁じられていた、との見解が常識だったが、実は江戸時代後期〜幕末には「庶民」剣士が多く過激事件にも関与した、との「新発見」的見解が提示されています。しかし、新撰組幹部などの印象や司馬遼太郎作品の影響などから、江戸時代には「庶... ...続きを見る

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2014/03/05 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第35号「江戸時代8 動き始めた民衆の力」
 この第35号は11代将軍家斉の時代を対象としています。この時期に、商品経済の拡大などもあり、村落・所領の範囲を超えて広域的な民衆の動きが見られるようになったことが強調されています。また、この時期の村落内部の変化も指摘されており、村役人は世襲ではなく入札により選ばれることが多くなりました。村落における知識人層・文化の拡大が見られるのもこの時期の特徴で、全体としてこの第35号は、18世紀末〜19世紀前半の11代将軍家斉の時代を、近代の胎動期として認識する傾向が強いように思います。 ...続きを見る

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2014/02/27 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第34号「江戸時代7 村人は豊かだったのか」
 この第34号は江戸時代の村落を取り上げており、全体的に、生業・構成員・役割など、江戸時代の村落の多様な側面を強調しています。江戸時代の村落は包容力と厳しさの両面を有し、その構成員たる百姓は、相互扶助(災害などへの対応)と相互規制のもとで、助け合い、競い合い、規制し合って暮らしていました。こうした村落が江戸時代の社会基盤となっていたわけです。江戸時代後期になると、競い合いとしての自助努力を重視する百姓も増え、その結果、村落における貧富の拡大や相互扶助機能の低下といった問題も顕在化するようになりま... ...続きを見る

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2014/02/19 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第33号「江戸時代6 田沼意次と松平定信」
 まだ日付は変わっていないのですが、2月12日分の記事として掲載しておきます。この第33号は徳川吉宗の死から松平定信の失脚までを対象としており、おおむね田沼時代と寛政の改革を扱っています。「新発見」的な見解としては、政権獲得に「奥」の掌握が必須だった、ということが指摘されています。4代将軍家綱以降、老中が将軍側近的性格を失い、「表」の長官としての性格を強めるなか、側用人や御側御用取次などの将軍側近としての「奥」が重要な役割を果たすことになります。田沼意次は「奥」の一員として頭角を現し、「表」と「... ...続きを見る

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2014/02/12 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第32号「江戸時代5 享保の改革の成功と限界」
 この第32号はおおむね8代将軍吉宗の時代を対象としています。享保の改革は、将軍権力の強化・幕府の立て直しに限らず、社会を大きく変え、近代化の起点になった、との見通しをこの第32号は提示しています。享保の改革には中央集権的志向があり、官僚制度の整備が進められるとともに、災害・疫病などにたいして、じゅうらいの領主単位の対応からより広域的な「国家・公共」政策が模索された、というわけです。 ...続きを見る

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2014/02/05 00:03
『週刊新発見!日本の歴史』第31号「江戸時代4 元禄の政治と赤穂事件」
 今日は3本掲載します(その一)。この第31号は、3代将軍家光の死から7代将軍家継の死までを対象としています。この第31号の特徴は、江戸時代後期の事象・印象を江戸時代前期に当てはめることによる、歴史認識の歪みを指摘していることです。江戸幕府の正統性を担保し、大政奉還の前提となった言説である大政委任論が主張され始めるのは寛政の改革の頃だった、と指摘されています。江戸時代前期において幕藩体制を正当化していたのは天道委任論であり、その前提として戦国時代に天道思想が流行していたことがある、というのがこの... ...続きを見る

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2014/01/29 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第30号「江戸時代3 江戸・大坂・京の三都物語」
 この第30号は江戸時代の三都を取り上げています。三都を城下町と把握し、その形成・発展と経済・生活の様相を考察の対象としています。「新発見」的な見解としては、江戸の災害というと火事が注目される傾向にあるなか、町造り(江戸の都市計画は明暦の大火以前に破綻していた、とされています)に伴う自然への干渉の結果としての水害も取り上げていることでしょうか。江戸の水害により文書行政が成熟したものの、実態と文書との乖離も生まれ、次の水害では災害対処がかえって不充分なものになることもあった、との指摘は興味深いもの... ...続きを見る

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2014/01/22 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第29号「江戸時代2 秀忠と家光の築いたもの」
 この第29号は家康の死から家光の死までを対象としています。今回も、「新発見」的な見解を備忘録的に述べていくことにします。ただ、このブログでも何度か述べてきたように、「新発見」的見解とはいっても、すでに近年刊行された一般向け書籍で紹介されたものも少なくありません。その意味で、『週刊新発見!日本の歴史』を購入している読者には、編集部の意図とは異なり、あまり「新発見」的ではない、と受け取られる可能性もあると思います。 ...続きを見る

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2014/01/15 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第28号「江戸時代1 徳川家康の国家構想」
 この第28号は、豊臣秀吉の死から徳川家康の死までを対象としています。家康のみならず秀吉も死後に神格化され、織田信長にもそうした構想があったらしいことは、一般にもよく知られていると思います。この第28号では、その背景に中世〜近世にかけての思想上の変化があったと指摘されており、ここが「新発見」的でしょうか。人の本質を清浄と見る密教思想などの影響が拡大していく中、一部の神職の間で逝去した当主を聖なる存在として祀ることが始まった、と指摘されています。 ...続きを見る

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2014/01/08 00:00
2012年「回顧と展望」日本・近世
 これは10月10日分の記事として掲載しておきます。 ...続きを見る

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2013/10/10 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第7号「江戸時代9 幕藩体制と「名君」たち」
 この第7号は、名君(明君)に注目して江戸時代初期〜末期までを扱っており、名君という視点で読み解く江戸時代の歴史と言えそうです。江戸時代になって政治情勢が安定すると、武士には統治者としての能力がさらに要求されるようになります。本質的には軍事組織である藩(この用語が明治時代以降に一般的になっていったことも、この第7号では指摘されています)を、太平の世の統治組織として機能させるにはかなりの苦労があったはずで、改革を志した江戸時代の名君も、そうした背景にあって登場したのだろう、と思います。 ...続きを見る

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2013/08/03 00:00
曽根勇二『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』
 まだ日付は変わっていないのですが、7月20日分の記事として掲載しておきます。『敗者の日本史』全20巻の第13巻として、2013年6月に吉川弘文館より刊行されました。朝鮮役の長期化にともない伏見と大坂を拠点とする物流の支配体制が形成され、伏見と大坂は「首都」として機能し、秀吉死後もその支配体制の構築が継続され、家康と秀頼は「秀吉政治」の(有力)継承(候補)者だった、という視点から、関ヶ原の戦いの後〜大坂の陣、さらには「鎖国体制の確立」までが概観されています。この観点では、秀頼が寺社造営に熱心だっ... ...続きを見る

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2013/07/20 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第4号「戦国時代4 豊臣政権と朝鮮出兵の真相」
 これは7月13日分の記事として掲載します。この第4号は本能寺の変から秀吉の死までを対象としており、「惣無事令」についての一時有力になっていた見解の見直しなど、豊臣政権についての近年の見解が盛り込まれた内容になっています。「惣無事令」は豊臣政権の政策の基調と考えられていた時期もありましたが、近年では東国を対象に「惣無事」という言葉を用いての停戦交渉は存在したものの、「惣無事令」という法令自体の存在は否定されています。「惣無事」を秀吉による統一過程にどのように位置づけるのか、ということが現在の論点... ...続きを見る

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2013/07/13 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第2号「近代1 幕末維新の群像劇」
 この第2号はペリー来航から戊辰戦争までを対象としており、伝統的というか一般的な時代区分にしたがったものと言えるでしょう。ただ、「新発見」と題しているだけに、一般的というか通俗的な歴史観を訂正しよう、という編集意図はよく伝わってきました。たとえば、いわゆる薩長同盟の性格をめぐる議論で、今では、薩長同盟が当初は討幕を目的としたものではない、という見解が学界ではほぼ定着しているようです。そこからさらに、薩長同盟が軍事同盟か否か、という議論に発展しているようです。 ...続きを見る

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2013/07/01 00:00
山本博文、堀新、曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』
 柏書房より2013年2月に刊行されました。同じく柏書房より2011年6月に刊行された『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』 http://sicambre.at.webry.info/201106/article_12.html の続編であり、体裁も『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』と同じく各論考から成る論文集で、本書は前作より一章減り、序章と第一章〜第九章の論考が掲載されています。本書も前作と同じく、豊臣秀吉関連の文書が取り上げられ、その原本の写真が掲載されるとともに、釈文と現代... ...続きを見る

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2013/06/22 01:21
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』
 まだ日付は変わっていないのですが、5月30日分の記事として掲載しておきます。歴史新書の一冊として洋泉社より2013年5月に刊行されました。秀吉の出自を中心として、秀吉の人物像を歴史学的な成果に基づいて一般向けに提示した一冊となっています。民俗学的成果も活用しての、近年の歴史学の提示する秀吉像においては、その出自に非農業民的性格が指摘され、秀吉の大出世と言動の要因がその出自に求められる傾向がありますか、本書はそうした傾向に批判的であり、あくまでも秀吉個人の能力・性格を重視する見解を提示しています... ...続きを見る

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2013/05/30 00:00
『日本近世の歴史』全6巻完結
 まだ日付は変わっていないのですが、4月22日分の記事として掲載しておきます。2013年3月刊行の『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』をもって、『日本近世の歴史』全6巻が完結となりました。ここでは、各巻を紹介した記事をまとめて記載します。 ...続きを見る

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2013/04/22 00:00
横山伊徳『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』
 まだ日付は変わっていないのですが、4月17日分の記事として掲載しておきます。『日本近世の歴史』全6巻の第5巻として、2013年3月に吉川弘文館より刊行されました。18世紀末〜19世紀半ばまでの江戸幕府後期の歴史が、「対外関係」の視点から叙述されています。この時期の江戸幕府の政治・政権の在り様に、対外政策が影響を与えていたことは間違いないでしょうし、それは重視しなくてもよいような小さなものではなく、大きなものだったのでしょうが、正直なところ、この時期の概説としてはあまりにも「対外関係」に偏重して... ...続きを見る

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2013/04/17 00:00
青山忠正『日本近世の歴史6 明治維新』
 まだ日付は変わっていないのですが、12月15日分の記事として掲載しておきます。『日本近世の歴史』全6巻の第6巻として、2012年11月に吉川弘文館より刊行されました。本書が対象とするのは、ペリー来航から西南戦争までのおよそ四半世紀で、政治史に特化した叙述となっており、経済史・民衆史・文化史の叙述が薄いというかほぼ省略されているのですが、そうした解説は他の一般向け書籍で補うこともできるわけですし、一般向け書籍としては丁寧な政治史叙述になっていると思いますので、とくに不満はありません。本書は、その... ...続きを見る

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2012/12/15 00:00
2011年「回顧と展望」日本・近世
 まだ日付は変わっていないのですが、9月2日分の記事として掲載しておきます。 ...続きを見る

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2012/09/02 00:00
森下徹『武士という身分 城下町萩の大名家臣団』
 まだ日付は変わっていないのですが、8月26日分の記事として掲載しておきます。歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2012年7月に刊行されました。武士が平安時代から幕末までどのように変容していったのか、という問題への関心は一般的にも高いように思うのですが、本書では江戸時代の萩藩(長州藩)を対象に、その具体的様相が叙述されています。江戸時代には武士の官僚化が進んだと言われることが多いように思いますが、本書では、大きく変容しつつも、江戸時代を通じて全体的に武士団の軍事組織的が強く保持され... ...続きを見る

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2012/08/26 00:00
藤田覚『日本近世の歴史4 田沼時代』
 『日本近世の歴史』全6巻の第4巻として、2012年6月に吉川弘文館より刊行されました。田沼意次は、賄賂政治家とも革新的政治家とも言われ、その評価が両極端に分かれやすい歴史的人物と言えるかもしれません。ただ、各日本史教師によって異なるのかもしれませんが、20年以上前に私が高校生だった時の日本史の授業では、田沼意次は革新的な政治家として高く評価されていました。本書でも、田沼意次の革新的な側面が取り上げられていますが、一方で、田沼時代に賄賂が横行したという伝統的な見解が否定されるわけではなく、田沼時... ...続きを見る

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2012/07/13 00:00
深井雅海『日本近世の歴史3 綱吉と吉宗』
 『日本近世の歴史』全6巻の第3巻として、2012年2月に吉川弘文館より刊行されました。将軍でいうと、5代綱吉・6代家宣・7代家継・8代吉宗の時代が扱われています。3代家光・4代家綱と病弱な将軍が続いたので、綱吉と吉宗が積極的に政治を主導した、との印象が強く残ります。幼少で将軍に就任して夭折した家継の印象はさすがに弱いのですが、在任期間の短かった家宣は、前代の綱吉の路線を修正したことや、新井白石の起用などもあり、印象が強く残ります。本書の扱う時代は全体的に、幼少の家継を除くと、「鉱山バブル」がは... ...続きを見る

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2012/03/11 04:35
杣田善雄『日本近世の歴史2 将軍権力の確立』
 『日本近世の歴史』全6巻の第2巻として、2011年12月に吉川弘文館より刊行されました。本書の叙述範囲は、江戸幕府の将軍でいうと第三代の家光と第四代の家綱の時代を対象としていますが、家光の代とはいっても、第二代将軍秀忠没後がおもに叙述範囲となっており、家光が「天下人」となって以降ということになります。表題にあるように、この時代は将軍権力が確立していった時期なのですが、本書を読むと、むしろ将軍個人の資質に大きく左右されない安定した江戸幕府の統治体制の確立、との表現のほうが適しており、本書も基本的... ...続きを見る

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2012/01/25 06:21
藤井讓治『日本近世の歴史1 天下人の時代』
 『日本近世の歴史』全6巻の第1巻として、2011年11月に吉川弘文館より刊行されました。著者による一般向け書籍には『天皇の歴史05 天皇と天下人』があり、本書とは対象とする時代が重なるのですが、同書については以前このブログで取り上げたことがあります。 http://sicambre.at.webry.info/201106/article_8.html ...続きを見る

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2011/11/18 06:45
武井弘一『鉄砲を手放さなかった百姓たち』
 朝日選書の一冊として、2010年6月に刊行されました。本書では、江戸時代の百姓が武器を手放したわけではなく、多数の鉄砲(鉄炮)を所持していたことが、史料に即して主張されています。これは、塚本学氏や藤木久志氏などがすでに主張していたことですが、本書では、なぜ百姓が鉄砲を手放さなかったのか、江戸時代の政治・社会の在り様、とくに幕府による鉄砲規制の社会的意味合いという観点から、具体的事例が多数取り上げられつつ詳しく説明されているのが特徴と言えるでしょう。 ...続きを見る

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2011/08/30 00:00
2010年「回顧と展望」日本・近世
藤井讓治「“惣無事”はあれど“惣無事令”はなし」『史林』93-3 ...続きを見る

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2011/08/06 00:00
藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』
 『天皇の歴史』全10巻の第6巻として、2011年6月に講談社より刊行されました。天皇は、江戸時代初期には経済的に弱体化し、実質的な政治権力をほとんど喪失しましたが、幕末になってその政治的権威は向上し、明治の大日本帝国体制へと移行していくことになります。この変化がいかにして生じたのかという観点から、江戸時代の歴代の天皇の事績が、幕府との関係を中心にして、具体的に叙述されていきます。本書を読むと、中世の騒乱のなかで中止されるにいたった数々の朝議の再興に、江戸時代の天皇が熱心に取り組んでいたことと、... ...続きを見る

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2011/07/08 00:00
山本博文、堀新、曽根勇二編『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』
 柏書房より2011年6月に刊行されました。序章と第一章〜第十章までの各論考から成る論文集といった体裁になっています。各論考では豊臣秀吉の文書が取り上げられ、その原本の写真が掲載されるとともに、釈文と現代語訳が記載されており、一般向け書籍としてたいへん丁寧な構成になっています。だからといって、低俗に陥っているということはまったくなく、史料批判の徹底が非専門家にも分かりやすいような記述となっています。個々の論考で提示された見解の是非は今後も検証が必要でしょうが、一般向けの歴史書としてかなり良心的と... ...続きを見る

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2011/06/12 00:00
藤井讓治『天皇の歴史05 天皇と天下人』
 『天皇の歴史』全10巻の第5巻として、2011年5月に講談社より刊行されました。淡々と史実の叙述が続き、いつ著者の独自の見解が述べられるのだろう、とやや戸惑いながら読み進めていたところ、最後まで淡々とした史実の紹介に終始し、正直なところ、期待外れだったというか、大いに困惑しました。もちろん、史実にたいする著者の評価は随所で述べられていますし、そもそも史実をどう認定するのか、それをどのように叙述するのか、ということも著者の価値判断によるのですが、それにしても、もう少し著者独自の見解をまとめて述べ... ...続きを見る

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2011/06/08 00:00
2009年「回顧と展望」日本・近世
稲葉継陽『日本近世社会形成史論』(校倉書房) ...続きを見る

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2010/09/11 00:00
江戸時代の羞恥心
 「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」という、江戸時代の日本人の裸にたいする感覚についての記事を読みました。 http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/08/post-1281.html これは、中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』という本を紹介した記事なのですが、まだ同書を読んでいなので、以下に述べるのは、あくまでもこの記事についての雑感です。 ...続きを見る

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2010/08/28 00:01
清水克行『日本神判史』
 中公新書の一冊として、中央公論新社から2010年5月に刊行されました。清水氏の以前の著書『喧嘩両成敗の誕生』がたいへん面白かったということもありますが、盟神探湯・湯起請・鉄火起請といった過酷な裁判を行なった当時の人々の心性に以前より関心があったので、読んでみることにしました。本書が取り扱っている時代はおもに中世後期〜近世初期で、古代の盟神探湯にはあまり触れられていません。古代の盟神探湯と中世の湯起請との間には断絶があるとの見解が歴史学では優勢だそうで、漠然と両者の類似性・継続性を考えていた自分... ...続きを見る

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2010/06/15 00:00
松浦玲『坂本龍馬』第4刷(岩波書店)
 岩波新書(赤版)の一冊として、2010年2月に刊行されました。第1刷の刊行は2008年11月です。龍馬について私はほとんど知らず、妙に持ち上げられている胡散臭い人物というような漠然とした印象しか持っていなかったので、龍馬が主人公の大河ドラマが放映されている現在、安直な動機ではありますが、一度龍馬について学術的な成果に基づいた本を読んでみようと思った次第です。 ...続きを見る

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2010/05/06 00:00
神田千里『宗教で読む戦国時代』
 講談社選書メチエの一冊として、2010年2月に刊行されました。戦国時代に日本列島においてなぜキリスト教が勢力を拡大し、その後に弾圧されるにいたったのか、という日本史上の大問題にたいする意欲的な解答になっています。私が10代の頃に学校や歴史関係の本で学んだのは、キリスト教はその信者に身分秩序・権力者よりも神(信仰)を優先させるようになり、封建制度を否定しかねない危険な思想だったから、というような説明でした。 ...続きを見る

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2010/03/30 01:05
堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』
 吉川弘文館より2009年12月に刊行されました。織田信長の台頭から「鎖国の完成」という、現代日本では一般にも大きな関心をもたれている時代が扱われており、おそらく、この『日本中世の歴史』全7巻のなかで、もっとも売れるだろうと思います。本書の特徴は、武家と朝廷との関係を相互補完的な公武結合王権とする認識に基づいて、この時代の政治史を叙述している点です。 ...続きを見る

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2010/02/14 06:29
白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」
 「回顧と展望」で取り上げられていた著書・論文のうち、とくに面白そうなものをこのブログで紹介していますが、この論文も、そうしたものの一つです。 http://sicambre.at.webry.info/200910/article_20.html 関ヶ原の戦いを「庚子争乱」と呼んでもよいのではないか、と本論文では提言されており、関ヶ原の戦いが、たんに慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いとしてとらえられるのではなく、地理的・時間的にもっと広い範囲で考察されています。また、関ヶ原の戦いの当事者た... ...続きを見る

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2009/10/23 06:45
2008年「回顧と展望」日本・近世
吉田ゆり子『兵と農の分離』(山川出版社) ...続きを見る

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2009/10/20 00:20
光成準治『関ヶ原前夜』(日本放送出版協会、2009年)
 NHKブックスの一冊として2009年6月に刊行されました。副題に「西軍大名たちの戦い」とあるように、敗者の側の動向が丁寧に描かれています。関ヶ原の戦いについての歴史認識となると、今でも司馬遼太郎氏の著作をはじめとする小説の影響が大きいと言えるでしょうが、それらの小説により浸透しているさまざまな俗説が、本書では一次史料に基づいて検証されています。関ヶ原の戦いを、「武断派」対「文治派」、「封建派」対「中央集権派」といった単純な対立に分類し、その予断のもとに解釈するのではなく、個々の大名の置かれた複... ...続きを見る

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2009/09/09 00:00
小島毅『織田信長 最後の茶会』
 光文社新書の一冊として、光文社より2009年7月に刊行されました。小島氏の著作はこれまでにもこのブログで紹介してきましたが(『靖国史観−幕末維新という深淵』、『足利義満 消された日本国王』)、 http://sicambre.at.webry.info/200803/article_29.html http://sicambre.at.webry.info/200803/article_30.html この2冊、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、ふざけた感じの文章が激減し... ...続きを見る

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2009/09/03 06:16
磯田道史『武士の家計簿』(新潮社、2003年)
 新潮新書の1冊として刊行されました。評判の高い本書ですが、刊行から6年後にはじめて読むことになりました。本書は、加賀藩のある藩士の家の家計簿を史料として、江戸時代後期から幕末を経て明治時代にまでいたる、その一家の変遷を詳細に描いています。あくまでもこの一家の事例ではありますが、当時の武士社会の在り様がうかがえる、たいへん興味深い記述になっており、評判の高さにも納得しました。 ...続きを見る

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2009/07/08 06:45
青木美智男『日本の歴史別巻 日本文化の原型』(2009年5月刊行)
 小学館『日本の歴史』の別巻となります。文化を受容する立場という視点から、日本文化の原型としての江戸時代の文化が概観されています。衣食住という生活の基本要素から、出版・演劇・旅にいたるまで、多様な分野が取り上げられていますが、これらの文化を作る側ではなく、受容・消費する側の視点を中心とした叙述となっている点が、作品論・作者論になる傾向の強い文化史としてはやや異色と言えるかもしれません。 ...続きを見る

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2009/06/20 00:00
後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』(2009年)
 歴史文化ライブラリーの1冊として、吉川弘文館より刊行されました。夫婦同姓・別姓の問題を歴史的に考えていく場合に、参考になりそうだと思い読んだのですが、その期待通りにさまざまな知見が得られたので、読んで正解だったと思います。前近代の日本社会は夫婦別姓であり、現代の日本社会における夫婦同姓(夫婦同氏)は西欧の物真似で、たかだか100年ていどの歴史しかない、との夫婦別姓容認論側によく見られる歴史認識の誤謬の根本的な要因は、氏(姓)と苗字(名字)との混同です。 ...続きを見る

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2009/04/24 00:00
木曽が信濃国になったのは約500年前
 日本近世史が専門で信大人文学部の山本英二准教授によると、木曽が信濃国になったのは1491〜1515年の間だと判明した、と報道されました。木曽の地名が初めて出てくる『続日本紀』には「美濃国の岐蘇山道を開く」とあり、木曽は美濃ということになっています。中世においては、木曽の北部が信濃国で南部は美濃国とされていました。17世紀半ばの信濃国の郷帳では、木曽の村がまとめて記載されていますが、この間の帰属の移行状況はよく分かっていませんでした。 ...続きを見る

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2008/12/13 06:48
平川新『日本の歴史第12巻 開国への道』(2008年11月刊行)
 小学館『日本の歴史』12冊目の刊行となります。一般向け通史にしては、日露外交史の記述が多すぎるかな、とも思いますが、ヨーロッパから見た「帝国」としての日本像の紹介、大塩平八郎・水野忠邦・遠山景元・鳥居耀蔵といった著名な人物の評価や天保の改革の見直しなど、江戸時代後期の歴史に詳しくない私のような一般読者にとっては、なかなか楽しめる一冊になっていると思います。 ...続きを見る

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2008/12/08 06:21
倉地克直『日本の歴史第11巻 徳川社会のゆらぎ』(2008年10月刊行)
 小学館『日本の歴史』11冊目の刊行となります。災害と「治」をめぐるせめぎ合いという観点から、18世紀の日本社会が描かれます。著者は、この二つの観点を基礎におきつつ、18世紀の日本社会の様相を多岐にわたって論じており、博学だな、との印象を受けました。 ...続きを見る

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2008/11/27 06:46
水本邦彦『日本の歴史第10巻 徳川の国家デザイン』(2008年9月刊行)
 小学館『日本の歴史』10冊目の刊行となります。江戸時代前期の日本社会の在り様とその成立過程を、具体的事例を引用しつつ叙述した一冊です。その分、一般の歴史愛好者がとくに好むであろう、人物本位的な政治史的記述が少なめだ、との印象を受けました。 ...続きを見る

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2008/09/30 06:56
ロナルド=トビ『日本の歴史第9巻 「鎖国」という外交』(2008年8月刊行)
 小学館『日本の歴史』9冊目の刊行となります。「新視点・近世史、従来の“鎖国”史観を覆す新たな視点」とのことで、1970年代の小学館版『日本の歴史』の「日本史の社会集団」や、2000年代の講談社版『日本の歴史』の「**史の論点」の巻と似た役割を担うことになるのでしょう。 ...続きを見る

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2008/09/14 00:00
写楽の肉筆画がギリシャの美術館で発見される
 東洲斎写楽の肉筆扇面画が、ギリシャのコルフ島のアジア美術館に所蔵されていたことが判明した、と報道されました。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を題材にした役者絵で、浮世絵版画の世界から姿を消した直後の筆と見られる、とのことです。写楽の浮世絵版画はデフォルメが特徴とされていますが、この肉筆画では抑制された筆致を見せている、とのことです。 ...続きを見る

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2008/08/07 04:59
法螺を吹く
 現在では、「大言を吐く、虚言を言う」といった意味合いで用いられることがもっぱらですが、かつては違った意味で用いられていたようです。以下の青字の箇所は引用文で、引用文中の「この時代」とは戦国時代のことです。 ...続きを見る

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2008/05/15 00:00
藤田達生『秀吉神話をくつがえす』
 講談社現代新書の一冊として、講談社より2007年9月に刊行されました。朝鮮役は取り上げられていないので、秀吉の(批判的)伝記としては物足りない感がありますが、新書であることを考慮すると、仕方のないところかもしれません。続編の刊行を期待したいところです。 ...続きを見る

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2008/03/07 00:00
勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」
 『日本歴史』第704号(2007年1月号)の特集は「日本史のことば」で、さまざまな史料上のことばや学術用語などが取り上げられ、考察されています。その中で興味深いものについては、今後このブログで紹介していくことにしますが、まずは冒頭の勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」について述べることにします。 ...続きを見る

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2007/12/14 00:00
400年前の韓流?(東京新聞社説より)
 4月15日の東京新聞の社説「週のはじめに考える 四百年前の『韓流』」には考えさせられるものがありました。この社説は、明石書店より2000年に刊行された、日本語訳『国定韓国高等学校歴史教科書』などに見られる、韓国の一般的な歴史認識とも通ずるところが多分にあります。次に、同書から朝鮮通信使に関する記述を引用します(青字の箇所)。 ...続きを見る

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2007/04/17 07:56
豊臣秀吉の人気
 5年以上前になりますが、豊臣秀吉について雑文を書いたことがあります。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history013.htm このときは、日本では秀吉がもっとも人気のある歴史的人物だ、と書いたのですが、今になってみると、どうもこの認識は間違っていたように思えてなりません。近年の各種のアンケート調査などから、秀吉の人気は、織田信長に遠く及ばないとみるのが妥当なようです。  明治から敗戦までは、秀吉は日本史上の立身出世の代表格とされ、太閤さんとよ... ...続きを見る

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2006/10/16 19:57

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