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みんなの「日本史近世」ブログ


平井上総『兵農分離はあったのか』

2017/10/29 00:00
 これは10月29日分の記事として掲載しておきます。シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2017年9月に刊行されました。私はかつて兵農分離について熱心に調べていましたが、この十数年ほどは優先順位が以前ほど高くはなくなり、ほとんど勉強が進んでいません。それでも、まだ関心の高い問題なので、最新の研究成果を知る好機と思い読んでみました。本書の提示する歴史像は違和感のないもので、期待通りに、知らなかった史実やよく理解していなかった論点の解説がありました。私のような非専門家層にとっても、長く兵農分離についての基本書となるでしょう。

 兵農分離は、中世と近世を分かつ重要な指標とされています。織田信長は、戦国大名のなかでいち早く兵農分離を達成したために、勢力を拡大して近世の扉を開いた、というような俗説はまだ一般層には根強いと思います。信長とその後継者である羽柴秀吉の成功の一因として兵農分離があり、それが武田・上杉・北条・毛利などといった旧態依然たる戦国大名との大きな違いで、兵農分離は織豊政権の先進的政策の象徴で覇権の要因だった、というわけです。こうした俗説に限らず、専門家の間でも、中世と近世を分かつ重要な指標としての兵農分離という見解は根強いようです。

 本書は、このようにマジックワードとして使われている感のある兵農分離を具体的に検証し、兵農分離を志向・意図するような政策は、織豊政権・徳川政権でも基本的にはなかった、との見解を提示しています。本書は、マジックワードとして使われている兵農分離を5要素に分解し、関連する政策・事象を具体的に検証しています。その5要素とは、(1)農民兵から専業兵へ、(2)武士と百姓の土地所有形態の分離、(3)武士の居住地の変化、(4)百姓の武器所持否定、(5)武士と百姓の身分分離です。

 本書は、すでに戦国時代の時点で武士と百姓の間に軍事関連の負担分離の明確な観念(戦闘員としての武士と非戦闘員としての百姓)があったことや、江戸時代になっても百姓が兵たる武家奉公人の重要な供給源だったことや、江戸時代にも武士の耕地所有や村落住居が認められていたこと(一定以上の割合の武家奉公人は城下町に居住していたわけではなかったこと)や、刀狩により百姓が武器を所有しなくなったわけではないことなどを挙げ、これまで漠然と考えられてきた兵農分離という用語で、中世と近世を明確に区分できるわけではないことを指摘します。

 そのうえで本書は、近世になって、武士の城下町への集住傾向が強まり、武士と百姓の身分の違いの視覚化が強化されるなど、じゅうらい考えられてきた兵農分離的な事象の一部が進行したことを認めつつも、それらは兵農分離を意図した政策の結果というよりは、変化する状況への対応策としての側面が強かったのではないか、と指摘します。強力な統一政権を築いた羽柴秀吉により達成された「平和」により、近隣との抗争よりも遠征が主体となったことや、転封が頻繁に行なわれるようになったことから、多くの武家奉公人にとって、村落での散居よりも城下町集住の方が合理的になったのではないか、というわけです。

 また本書は、兵農分離の指標として重要とされる地方知行制から俸禄制への移行に関しても、江戸時代には一定以上の割合で地方知行制が残っていることを指摘するとともに、俸禄制への移行など知行制の変化は武家奉公人の困窮化への対応という側面が強かったのではないか、と推測しています。また、俸禄制への移行の背景として、重い負担などから、武家奉公人が領主であることを忌避する傾向が生じていたのではないか、と推測されています。こうした武家奉公人の困窮化については、城下町への集住に起因するところが多分にあり、これまで中世と近世を分かつ重要な指標とされてきた、一般的に考えられている兵農分離とは、状況の変化(強力な統一政権の誕生など)への諸々の対応策が複雑に絡み合った結果であり、意図して進められた一貫的政策ではない、と本書は指摘しています。

 現生人類(Homo sapiens)の思考傾向として、どうしても筋道の通った解釈を採用してしまうものですから、江戸時代に見られる兵農分離的状況を、特定の個人もしくは政権が意図的に推進した、という見解は分かりやすく、受け入れられやすいのだと思います。しかし、この兵農分離の問題に限りませんが、世の中の多くの事象はそのように単純なものではなく、もっと複雑なのでしょう。複雑な事象を複雑なまま理解するのは難しく、たとえ可能だとしても、その数は能力・時間に制約されます。私の場合はとくにその限界数が少なそうですが、複雑な事象をできるだけ多くそのままに理解していきたいものです。
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渡邊大門編『信長研究の最前線2 まだまだ未解明な「革新者」の実像』

2017/08/20 00:00
 これは8月20日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、 歴史新書の一冊として洋泉社より2017年8月に刊行されました。本書は『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』の続編となります(関連記事)。本書は5部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、信長に関する勉強はこの十数年ほどほとんど進んでいなので、多くの知見を得られました。『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』と併せて読むと、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です



●渡邊大門「はじめに 中世的かつ保守的な信長」P3〜9
 近年の織田信長研究の動向を紹介しつつ、本書の各論考を簡潔に紹介しています。「革新者」としての信長像には現代では否定的な研究者が多いだろう、とのことですが、一方で、現代日本社会における信長の高い人気が「革新者」という印象に基づくものだろう、ということも指摘されています。この溝はまだ深いように思われます。



第1部 信長の「基本情報」の真偽


●小川雄「織田一族の家系 信長以前の織田氏と、そのルーツとは」P20〜38
 信長以前の織田氏(勝幡織田氏、弾正忠家)について解説されています。勝幡織田氏は、尾張守護の斯波氏の守護代だった清洲織田氏の一門として、16世紀初頭以降に頭角を現していったようです。斯波氏は越前の守護でもあったものの、応仁の乱以降、越前は実質的に守護代の朝倉氏が支配するようになっており、斯波氏は尾張の支配に重点を置くようになっていったようです。勝幡織田氏は、信長の父である信秀の代に、隣国の三河や美濃の混乱に乗じて台頭していきましたが、三河での今川氏との戦いに敗れた後、晩年(とはいっても、満年齢で40歳になったばかりのようですが)には各地で反撃を受けて苦境に立たされていたようです。


●石神教親「尾張の地理的環境 信長を生んだ、尾張国の地形・地理的環境とは」P39〜53
 中世の国境には曖昧なところがあり、尾張と三河・伊勢・美濃の間のように、政治情勢によって変更されることもあった、と指摘されています。たとえば、一向一揆の拠点だった長島は伊勢に属していたものの、信長は長島一揆との戦いのなかで長島を尾張と認識し、豊臣政権でも長島は尾張とされていました。長島が伊勢に戻されたのは江戸時代初期になってからです。信長にとって初期の経済基盤となった津島と熱田に関しては、門前町だったことが指摘されています。また、尾張は大半が平野で、防御に優れた山城の構築ができないことから、戦略や用兵が重要となり、織田氏の軍事力が強化されたのではないか、との見解も注目されます。


●和田裕弘「伝記と伝本 信長の一代記『信長記』はいかなる書物か」P54〜70
 太田牛一が著わした『信長記(信長公記)』について解説されています。『信長記』の題名は、著者の太田牛一がつけていなかったようなので、確定できないそうです。『信長記』は信頼性の高い史料とされており、近代以降の歴史学でも高く評価されてきましたが、信長より年長の太田牛一が信長に仕えたのは比較的遅かったことや、重臣とまでは言えない身分のため知らなかった機密情報もあることなどから、誤りや漏れもある、と指摘されています。


●藤本正行「信長の画像 信長の顔・姿は、どこまで本物に近いのか」P71〜86
 信長を描いた絵は多数伝わっており、木像も伝わっています。本論考は、それらの由来・性格を検証しています。中世には、人物画は法要のために描かれることが多く、生前に描かれること(寿像)は少なかったようです(木像も同様)。信長に関しては、寿像は確認されておらず、死後間もない法要のための人物画・木像もあることから、信長の外見・人物像を知るための格好の手がかりになっているようです。



第2部 信長の「敵対勢力」との関係


●千葉篤志「初期信長権力の形成過程 スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実」P88〜103
 信長の尾張統一は順調ではなく、一族や元々は仕えていた守護代、さらには守護との対立・連携のなかで進んでいき、尾張国内に限らず、美濃の斎藤氏や駿河・遠江から三河・尾張へと勢力を拡大してくる今川氏との対立・連携も関わっていたことが指摘されています。信長が守護と連携したことや上洛したことも、そうした状況での権威確立のためだったようです。信長が弾正忠家(勝幡織田氏)の正当な継承者だったことは自明とされていましたが、弟の信勝(達成、信成)の花押や官途から、弾正忠家における家督継承は曖昧で、信長と信勝の分掌体制が見られる、とも指摘されています。


●木下聡「道三と義龍・龍興 信長と美濃斎藤氏との関係とは」P104〜116
 織田氏と美濃の斎藤氏は信長の父である信秀の代には対立関係にありましたが、斎藤道三の娘が信長の妻となることで和睦します。道三は信長に肩入れしていたようで、これは、織田氏との友好関係により美濃の統治を安定化させる、という目的もあったようです。道三は織田氏との縁戚関係を築いた後、主君の土岐頼芸を追放しています。道三は嫡男の義龍と争い殺害され、これ以降、義龍・龍興の親子は信長と激しく対立しますが、道三の他の子孫たちは織田氏に重臣として仕えました。このことからも、道三が信長に肩入れしたという逸話は、かなりの程度事実を反映しているのではないか、と思います。


●太田浩司「信長と浅井氏 浅井長政は、なぜ信長を裏切る決断をしたのか」P117〜135
 信長の妹である市と浅井長政との婚姻時期については、1567〜1568年とする見解が通説となっていましたが、本論考は、浅井長政の改名(賢政から長政)が1560年であることから、『東浅井郡志』に見える1561年説が妥当だろう、との見解を提示しています。長政が信長を裏切った理由として、信長が浅井氏を家臣として位置づけようとしていたからではないか、と推測されています。1572〜1573年の武田信玄の西上作戦については、当初は遠江・三河の制圧が目的だったものの、三方ヶ原の戦いでの勝利により、周囲の要求などから上洛を意識するようになったのではないか、と推測されています。


第3部 信長と「室町幕府・朝廷」の関係


●山田康弘「信長と室町幕府 室町幕府の「幕府」とは何か」P138〜156
 本論考は、戦国時代・戦国大名といった基本的な用語を掘り下げて定義しようとしています。これは昔からの持論ですが、一般的に、基本的な概念ほど定義が難しいものだと思います。戦国時代・戦国大名についても、掘り下げていくと、定義は難しいとよく分かります。本論考はとくに幕府について掘り下げており、幕府には、将軍と大名たちとの全体的な相互補完関係(広義)、および将軍とその直属の中央機関(狭義)という二つの意味がある、と指摘しています。この観点から、足利義昭が京都から追放されて室町幕府が「滅亡した」と言えるのか、といった問題を考察しなければならない、と本論考は指摘しています。また、諸大名が将軍の命令に従う場合などの理由として、権威で説明されるものの、権威とは何か、本当に権威で説明できるのか、といった問題も提起されています。


●堺有宏「信長と朝廷・東大寺 信長は、なぜ蘭奢待を切り取ったのか」P157〜172
 信長が東大寺の蘭奢待を切り取ったことは、信長と天皇との関係で論じられてきました。これは、正親町天皇にたいする信長の示威行為であり、信長と天皇・朝廷との対立を示すものだ、というわけです。しかし近年では、信長と天皇との対立関係に否定的な見解が有力なようです。本論考は、信長による蘭奢待切り取りを、信長による寺院政策の一環として位置づけ、信長が奈良における新たな支配者であることを誇示する目的があったのではないか、と推測しています。


●神田裕理「朝廷と信長の関係 信長の「馬揃え」は、朝廷への軍事的圧力だったのか」P173〜189
 1581年2月28日と同年3月5日に京都で行なわれた馬揃えについて検証されています。この2回の馬揃えについては、信長と天皇・朝廷との対立を前提として、信長による天皇・朝廷への示威行為との見解も提示されています。しかし本論考は、この時期に信長と天皇・朝廷との深刻な対立の確たる証拠は見られず、また朝廷側との協議で馬揃えが行なわれていることから、示威行為説を否定しています。本論考は、京都での馬揃えの前提として同年1月15日の安土での馬揃えがあり、その評判を聞きつけた朝廷が、皇太子生母の死に伴う喪が明けたことから、華やかな馬揃えの実施を求めたのではないか、と推測しています。



第4部 信長の「宗教政策」と権力の源泉


●松本和也「宣教師と信長 信長とイエズス会の本当の関係とは」P192〜208
 信長は仏教を弾圧し、キリスト教を擁護した、と通俗的には言われているかもしれませんが、信長の対宗教政策は仏教とキリスト教とでとくに変わらない、と指摘されています。信長は、自分に従順な宗派には友好的に、従順ではない宗派には敵対的に接しただけで、キリスト教も、信長と友好的な関係を築いていたものの、荒木村重の謀反の時のように、対応を間違えれば信長から弾圧された可能性が指摘されています。当時、キリスト教が仏教の一派として把握されていたこととも関わってくるのでしょう。


●松下浩「信長の神格化の問題 信長「神格化」の真偽を検証してみる」P209〜226
 イエズス会史料に見える信長の神格化に関する、さまざまな見解が取り上げられています。本論考は、信長神格化に肯定的な見解と否定的な見解の核心は、信長の政権をどう把握するかにある、と指摘しています。神格化肯定説の前提は、信長は超越的な専制権力を志向しており、本願寺のイデオロギー、さらには天皇をも越えようとしていた、との認識であり、神格化否定説の前提は、信長は既存の秩序に自らを位置づけようとしていた、との認識です。本論考は、信長の基本的な宗教政策は、敵対しなければ既存の宗派を保護するというものであり、信長が自らを神として崇拝させるような新宗教を創出したとは考えられない、との見解を提示しています。


●木戸雅寿「安土城天主像の諸説 安土城「天主」の復元は、どこまで可能なのか」P227〜244
 本論考は、天主(天守)の起源と展開について検証しつつ、安土城天主の復元に関する諸説を取り上げています。天主という文字が当てられたのは信長によってであり、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃に天守という表記に変わった、と指摘されています。安土城天主は時代を画するものとなったようですが、その起源については、室町時代の金閣・銀閣と、中世以降に発達してきた城郭施設が融合したものだ、と指摘されています。安土城の復元に関しては諸説提示されていますが、今後も飛躍的な進展は難しい、との見通しが提示されています。



第5部 信長と「商人」の関係


●渡邊大門「信長と銀山 信長は生野銀山を直接支配したのか」P246〜265
 信長が生野銀山を直接支配したのか、検証されています。1569年の織田の但馬侵攻は、生野銀山の支配を目的としたもの、との見解も提示されています。しかし本論考は、信長は毛利氏との連携において但馬に侵攻した、と指摘しています。織田に攻め込まれた山名氏は、銭の献上で信長に赦免を乞おうとして、今井宗久も仲立ちをしましたが、その財源とされたのが生野銀山だった、と推測されています。しかし、山名氏やその重臣の抵抗により銭の献上との約束は破棄されており、信長による生野銀山の支配も行なわれなかっただろう、と推測されています。


●廣田浩治「信長と都市・豪商 信長と都市・堺はどのような関係だったのか」P266〜281
 堺は町衆の自治都市だったものの、武家政権の都市でもあった、と指摘されています。信長の上洛前には、三好氏の直轄地となり、三好長慶は家臣を堺の代官としています。信長は上洛後、堺を支配下に置きますが、堺は武家権力との関わりが以前より強かったため、信長による支配にも適応できたのではないか、と指摘されています。また、堺は信長の支配下に置かれたものの、経済活動には信長に統制されない面があったことも指摘されています。


●八尾嘉男「信長と茶の湯 「名物狩り」と「御茶湯御政道」の実像とは」P282〜299
 信長がいつ茶の湯を知ったのか、確実なことは不明のようですが、信長の傳役だった平手政秀が尾張に立ち寄った公家に茶を振る舞い、茶道具を持っていたことなどからも、信長は1559年の最初の上洛以前に茶の湯を知っていただろう、と推測されています。信長は「名物狩り」により名物茶道具を天下人に集中させ、「御茶湯御政道」により主従関係の構築・強化に茶の湯を利用しました。こうした信長による茶の湯の活用は、豊臣政権・徳川政権にも継承されました。
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金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』

2017/06/25 00:00
 これは6月25日分の記事として掲載しておきます。河出書房新社から2017年5月に刊行されました。本書は、裏切られ続けた人物との観点から信長の人物像を検証しています。信長を裏切った人物として検証の対象になっているのは、浅井長政・武田信玄・上杉謙信・毛利輝元・松永久秀・荒木村重・明智光秀です。このうち、浅井長政・武田信玄・上杉謙信・毛利輝元は同じ戦国大名の同盟者として、松永久秀・荒木村重・明智光秀は信長の家臣として位置づけられています。しかし、本書でも言及されているように、この区分には曖昧なところもあります。信長の主観では、書状の受け取り手への虚勢もあるだろうとしても、浅井長政や毛利輝元を家臣のように考えていたところもありますし、松永久秀は、当初は信長の家臣というよりは同盟者に近い立場でした。荒木村重と明智光秀は、羽柴秀吉と同様に、軽輩から信長に取り立てられた家臣と言えそうです。

 本書は、信長を裏切ったこの7人について、それぞれの経緯を検証し、共通する要因があったのではないか、と推測しています。本書の推測する要因とは、信長は武田信玄と徳川家康や上杉謙信のような同盟者間の対立や、自身と同盟者との境界の勢力に関して配慮の足らないところがあったのではないか、ということです。どうも、信長は外交が下手だったのではないか、というわけです。これは信長を裏切った家臣についても言えることで、信長は家臣や友好勢力間の対立について配慮の足らないところがあり、それが裏切りを招来したのではないか、と指摘されています。松永久秀に関しては、同じく信長の家臣で、松永久秀と敵対関係にあった筒井順慶を重用したことが要因ではないか、と推測されています。荒木村重に関しては、中国地方対策を担っていたのに、その役割が羽柴秀吉に任されるようになったことが、明智光秀に関しては、光秀の家臣の縁戚で、信長にとって友好勢力だった長宗我部元親との関係が悪化したことが要因ではないか、と指摘されています。

 本書はこのように、信長が裏切られた要因として、同盟者や家臣の間の利害関係への配慮が足らなかったことを挙げ、信長は外交が不得手で家臣団を上手く統制できていなかったのではないか、と指摘します。また本書は、信長はこれらの裏切りをまったく予想できていなかったようであり、信長は人を信じすぎたのではないか、とも指摘しています。一方で、信長の外交を高く評価する見解や、信長が尊大だったことを指摘する見解も本書では取り上げられています。しかし本書は、そうした見解と本書の見解は矛盾するものではない、と指摘しています。相手を深く信頼することと尊大であることは両立しますし、信長は一地方大名としての立場から天下人になるまでに勢力を拡大していきましたが、一地方大名の時には上手く機能した外交方針(遠交近攻)や家臣団統制が、天下人の立場では上手く機能しなかったのではないか、というわけです。信長の勢力拡大は急速であり、それに信長が上手く対応できなかったのかもしれません。

 本書を読むと、信長は相手の立場・心情を理解するのが苦手で、尊大さと通ずるというか、尊大さに起因するとも言える、相手への深い信頼ゆえの油断により、たびたび裏切られ、ついには自害に追い込まれた、との印象を受けます。本書の提示する信長像にはおおむね共感しました。ただ、本書でも示唆されていますが、この点で信長が特異というか、とくに無能な人物だったというわけでもないように思います。前近代の情報伝達事情では正確な情報の入手は難しかったわけで、相手の立場・心情を的確に理解するのは容易ではなかっただろう、と思います。他の戦国大名も、信長と同様の失敗を繰り返し、何度も裏切られることは珍しくなかったのではないか、とも思います。ただ、他の戦国大名の多くは、信長ほどには急速に勢力を拡大したわけではないので、その意味で信長の「裏切られ人生」は特異に見えるところがあるかもしれません。
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和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』

2017/06/18 00:00
 これは6月18日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年2月に刊行されました。本書は織田信長の家臣団について、陪臣も含めてその地縁・血縁関係や事蹟を検証していき、信長時代の織田家特徴を家臣団の観点から浮き彫りにしています。とにかく取り上げられている人物が多く、その地縁・血縁関係にまで言及されているので、一回読んだだけでは見落としていることも多そうで、今後何回か再読する必要がありそうです。本書は、信長について詳しく知る目的だけではなく、小説・ゲームなど創作においてもネタの宝庫になっていると言えそうで、その点でも有益です。

 本書はまず信長の生涯について概観し、次に織田領国が拡大してから各地に置かれた「軍団」を個別に検証していきます。本書が取り上げている「軍団長」は、信長の息子である信忠と信孝、信長よりも前から織田家に仕えていた一族の出身と思われる佐久間信盛と柴田勝家、信長の代で取り立てられた羽柴秀吉・滝川一益・明智光秀です。本書は、各「軍団」の特徴を指摘し、それが各「軍団」の運命をどのように左右したのか、検証しています。本能寺の変後の勝家と秀吉の行動の差について、軍団の一体感の強弱の違いを要因とするところは結果論的解釈かな、とも思えるのですが、地縁・血縁関係からの各「軍団」の分析は読みごたえがありました。

 具体的には、たとえば佐久間信盛が追放されたのは、他の「軍団長」とは異なり、有力家臣や主君である信長との縁戚関係が薄かったからだ、との指摘は興味深いものでした。信盛追放後の信長の処置からは、信長自身と嫡男信忠(この時点ですでに家督を継承していましたが)の勢力強化という目的が窺えますが、筆頭家臣とも言うべき信盛を追放しても、他の有力家臣からの反発は強くないだろう、との思惑が信長にあったのではないか、と本書は指摘します。また本書は、明智光秀の謀反が成功した(信長・信忠父子を討ち取るまでは成功したものの、けっきょくは羽柴秀吉に敗れて明智「軍団」は壊滅するわけですが)一因として、配下に尾張衆がいなかったことを挙げており、これも興味深い見解だと思います。
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中野三敏『写楽 江戸人としての実像』

2017/06/11 00:00
 これは6月11日分の記事として掲載しておきます。中公文庫の一冊として、中央公論新社より2016年9月に刊行されました。本書の親本は、同じ題名で中公新書の一冊として中央公論新社から2007年2月に刊行されました。東洲斎写楽はおそらく浮世絵師のなかでも知名度では最上位を争うくらいの人物で、「謎解き」の観点から高い関心が寄せられてきました。写楽の正体に関しては、もう幕末に近い天保年間の『増補浮世絵類考』に、阿波藩お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛とあり、本来ならば詮索は無用だったはずですが、同時代の有名人と同一人物ではないか、との議論がとくに第二次世界大戦後に盛り上がりました。

 その結果、喜多川歌麿・葛飾北斎・十返舎一九・歌川豊国・谷文晁など、写楽の浮世絵を描けそうな同時代の有名人の多くが、写楽の正体の候補者として挙げられるに至りました。とくに1980年代には写楽の正体探しが盛り上がったように思われ、当時思春期を過ごしていた私もこうした「謎解き」に関心を持ち、関連する本や雑誌を読んだものです。確かこの頃以降、テレビや雑誌などで、写楽の正体に関する論争は、邪馬台国の位置論争・坂本龍馬暗殺犯(黒幕)の解明とともに、日本史三大ミステリーと呼ばれるようになった、と記憶しています。

 私は、1990年代以降、写楽の正体探しには以前ほどの関心を持てず、たまに思い出したように本や記事を読むこともありましたが、このブログでも写楽について言及したことはほとんどありません。写楽の肉筆画がギリシアの美術館で発見されたこと(関連記事)と、『週刊新発見!日本の歴史』の該当号(関連記事)と、大河ドラマの題材の予想(関連記事)とで言及したくらいです。このように写楽の正体探しへの関心を失った理由は、それらのブログ記事で言及したように、原点回帰で写楽=斎藤十郎兵衛説が有力になったことでした。

 本書の著者は、写楽=斎藤十郎兵衛説が承認されていくうえで重要な役割を果たしたようで(この問題に関する評価は、私の見識では難しいところですが)、本書は著者の見解の一般向け解説となります。本書の特徴は、副題からも窺えるように、可能なかぎり同時代の文脈で写楽を理解しようと努めていることです。江戸時代の文化を「雅」と「俗」の観点から把握する本書は、阿波藩お抱えの能役者が「俗」の文化たる歌舞伎の役者絵を描くことはあってはならない、との強烈な社会観念から、写楽の実名は『江戸方角分』では空欄とされ、それが『増補浮世絵類考』に記載されるのは写楽が活躍した半世紀後、斎藤十郎兵衛が没してからおそらく20年以上経過した頃にまで下るのだ、と論じます。

 阿波藩お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛の実在は多くの人の努力により証明され、写楽に関する文献を残した人の人脈・見識などからも、写楽=斎藤十郎兵衛説はほぼ確定ではないか、と思います。それでもなお、写楽の浮世絵が刊行された当時、苦境にあったと思われる蔦屋重三郎が、雲母摺を用いてまで実績のない絵師を起用したのはなぜか、という疑問が門外漢には残ります。もっとも、これは的外れな疑問かもしれません。斎藤十郎兵衛が密かに描いていた絵が当時の「俗」の文化世界の一部で知られており、それに人脈の広い蔦屋重三郎が気づいて起用したのだ、とも想定できるように思います。まあ、これも門外漢の妄想であり、斎藤十郎兵衛がなぜ蔦屋重三郎に起用されたのかは、永遠に謎として残りそうではありますが。
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渡邊大門『おんな領主 井伊直虎』

2017/03/12 00:00
 これは3月12日分の記事として掲載しておきます。中経の文庫の一冊として、2016年9月にKADOKAWAより刊行されました。大河ドラマ『おんな城主 直虎』関連本としては読んだのは本書で2冊目となります。以前に読んだ関連本(関連記事)は、門外漢にはかなり奇抜な内容に思えたので、もう一冊関連本を読むことにしました。中世〜近世移行期にはまっていた十数年前ならば、もっと多くの関連本を読んだでしょうし、そうする方がよいに決まっているのですが、今は中世〜近世移行期の優先順位が下がってしまったので、現在の能力・経済力・気力ではもう一冊読むのが限度といったところです。

 本書は大河ドラマ関連本として無難な内容になっており、安価で携帯性にも優れているので、私のように井伊直虎のことを手軽にもっと知りたいと考えている門外漢にとって、手頃な一冊になっていると思います。しかし、本書を読んで改めて思い知らされたのは、直虎(次郎法師)の生涯について確定的なことはほとんど分かっていない、ということです。確実な史料から人物像を推測することも難しいようです。そもそも、井伊家についても、直政以前の事績には不明なところが多く、本書も含めて今年の大河ドラマの関連本の著者は苦労しているのだろうな、と推察されます。

 まあそれでも、中世〜近世移行期の「勝ち組」でも上位に位置するだろう井伊家は、まだ史料に恵まれているのかもしれません。井伊家のように一定以上重要な役割を果たした武士の家でも、まだほとんど史実が解明されていないような場合も珍しくないのでは、とも思います。本書は、井伊家について平安時代から室町時代にかけての動向にも簡潔に言及しつつ、戦国時代の井伊家を、関わりの深い周辺勢力の動向を取り上げつつ描き出しています。直虎についての一般向け解説としては、もっとも無難な構成と言えるでしょう。

 本書の描き出す戦国時代の井伊家の動向は、桶狭間の戦いや一族の謀殺や雌伏の時期や直政の代での飛躍など数々の起伏があり、優秀な作家ならば物語として面白くできそうだ、と思います。今年の大河ドラマは、現時点では視聴率が低迷しているようで、まあ確かに地味な感は否めませんが、本書を読むと、桶狭間の戦いの後の展開はかなり面白い物語になるのではないか、との期待も抱きたくなります。

 とくに、本書でも取り上げられている、後世の編纂史料では逆臣・佞臣とされる小野但馬がどのように描かれるのかは、大いに注目されます。今年の大河ドラマの小野但馬は、井伊直親(亀之丞)・主人公の直虎とともに、前半の主要人物とされています。第9回までの時点では、小野但馬は単純な悪人として造形されておらず、むしろ爽やかイケメンで屑の直親や狭い世界の厭らしさを体現している井伊家中との対比で、視聴者の同情を誘うように工夫されていると思います。小野但馬の今後と最期は、今年の大河ドラマ最大の見どころになりそうで、楽しみです。
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平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』

2016/12/04 00:00
 これは12月4日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2016年11月に刊行されました。本書は、同じく歴史新書の一冊として、一昨年(2014年)刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)と、昨年(2015年)刊行された『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、柏書房より昨年刊行された『家康伝説の嘘』(関連記事)とあわせて読むと、徳川家康についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



●平野明夫「はじめに─家康の伝記と松平・徳川中心史観をめぐって」P3〜16
 江戸時代における家康についての諸伝記の成立過程とその特徴について簡潔に解説されています。すでに江戸時代初期において、史実に反して、家康の伝記で家康個人、さらには徳川(松平)氏を称揚する傾向が見られるそうです。続いて、近現代歴史学における家康および徳川(松平)氏の研究について概観されていますが、実証性の高まった近現代歴史学においても、「徳川(松平)中心史観」的な側面が見られることもあったようです。1970年代以降、「徳川中心史観」への自覚的な反省も見られるようになり、現在まで続く動向となっているようです。



第1部 戦国大名への道


●村岡幹生「家康のルーツ・三河松平八代 松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」P22〜46
 家康へといたる松平氏の動向が解説されています。家康の前の松平氏については、史料が少なく、曖昧としたところが多分にあるようですが、諸史料からより妥当な松平氏像を提示する試みになっていると思います。本論考でも、家康の祖父である清康による東三河遠征と三河統一など、後世の文献による松平氏顕彰の傾向が指摘されています。清康に関しては、英雄とする人物像に少なからぬ捏造があるようです。また、松平氏が、15世紀には賀茂姓を称したこともある、との指摘も興味深いものです。


●平野明夫「人質時代の家康 家康は、いつ、今川氏から完全に自立したのか」P47〜65
 家康の幼少期から桶狭間の戦いの後の今川氏からの自立までが検証されています。色々と興味深い見解が提示されているのですが、まず、今川氏と織田氏はずっと対立していたわけではなく、三河での軍事行動で協調していた時期もあり、その時には松平氏は今川氏に従属していたのではなく、今川・織田両氏と対立していた、ということです。次に、家康(竹千代)は幼少期には駿府ではなく吉田にいた可能性が高い、ということです。後世の史書には、家康は駿府で厚遇されていた、とする「徳川・松平中心史観」による作為が見られるのでないか、というわけです。桶狭間の戦いの後、家康(元康)は今川義元の後継者である氏真から直ちに離反したわけではなく、仇討ちを勧めたものの、氏真にはそれを実行する様子が見られなかったので、家康は今川かを見限った、との俗説にたいして、それは家康神格化のための捏造であり、家康は桶狭間の戦いの直後から自立を図っていた、との見解も注目されます。


●安藤弥「領国支配と一向宗 「三河一向一揆」は、家康にとって何であったのか」P66〜84
 三河一向一揆は、家康による三河領国化の進展の重要な契機になった、と評価されています。ただ、家康の家臣団の分裂や戦況の推移などから、家康が意図的に起こしたものではなく偶発的だった、とも指摘されています。三河一向一揆の背景として、当時激しかった松平(徳川)氏と今川氏との対立があり、時代が下ると、三河の一向一揆教団にのみ「反乱」の責任を負わせるような言説が出てきますが、本論考は、だからといって三河の一向一揆教団の重要性を軽視してはならない、と注意を喚起しています。また本論考は、本能寺の変後に、家康が三河の一向一揆教団を赦免したことも視野に入れていく必要がある、と提言しています。


●堀江登志実「家康の譜代家臣 家康の家臣団は、どのように形成されたのか」P85〜100
 家康の家臣団が西三河を基盤として、東三河から遠江へと領地が拡大し、さらには武田氏の滅亡と本能寺の変により駿河・信濃・甲斐も所領としていき、後北条氏滅亡後に関東に移封となる過程で、今川・武田・後北条の旧臣を取り込んでいったことが指摘されています。武田旧臣の取り込みのさいには、井伊直政が重要な役割を担ったようです。関東移封後にとくに重用された本多忠勝・榊原康政・井伊直政には、徳川氏から与力が付属させられ、この与力は本多・榊原・井伊の家臣というより、徳川の家臣という意識が強く、その意識は江戸時代にも続いた、と指摘されています。



第2部 戦国大名 徳川家康


●遠藤英弥「今川氏真と家康 義元の死後、家康と今川家との関係はどうなったのか」P102〜114
 本論考は、上述の平野明夫「人質時代の家康」とは異なり、家康と今川氏真との対立は、桶狭間の戦いの直後ではなく、その翌年からだと推測しています。その一因として、今川氏が同盟相手の北条氏に援軍を送ったため、三河にまで援軍を派遣する余裕がなかっただろう、ということが挙げられています。氏真の器量については、後々まで付き従った家臣がいることからも、暗愚説は後世の創作が多分にあるのではないか、と指摘されています。また、家康が氏真を保護した理由として、武田との抗争における名分の確保が指摘されています。


●平野明夫「名将たちと家康の関係 信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」P115〜129
 家康が信長・武田信玄・上杉謙信を相手に独自の外交を展開したことが検証されています。この問題で重要となるのは家康と信長との関係で、1570年以前は、徳川から織田への援軍は足利義昭の要請によるものであり、家康が信長に従属するようになったのは1575年以降だとされます。1575年以前は、信長と謙信を巻き込んで武田包囲網を形成しようとした家康の外交方針が、信長のそれとは齟齬をきたすようなこともあった、と指摘されています。また、家康が今川から自立した時期は桶狭間の戦いの直後であるものの、氏真が家康の反逆を認識したのはそれから少し経過してからではないか、と推測されています。


●宮川展夫「北条氏と家康 徳川氏と北条氏の関係は、関東にいかなる影響を与えたのか」P130〜146
 家康と北条氏との関係は断続的なものだった、と指摘されています。桶狭間の戦いの後、家康が今川氏と対立するようになると、北条氏は和睦仲介者として家康と接触しますが、この和睦は成立しませんでした。家康も北条氏も武田氏と対立するようになると、家康と北条氏は関係を復活させますが、北条氏が武田氏との同盟を復活させ、再び関係が途絶えます。武田氏が衰退するなか、北条氏は家康との交渉を再開しますが、これは、織田体制での生き残りをかけたもので、家康が織田体制において関東の「惣無事」を担当していたからでした。この体制は本能寺の変の後も続き、家康は秀吉との対立を経て、今度は豊臣体制において同様の役割を担い、北条氏と接触します。しかし、この家康の立場は、北関東の反北条氏の有力者との関係も含むものであり、家康の立場が北条氏にとって微妙なものでもあったことが指摘されています。



第3部 豊臣大名 徳川家康


●播磨良紀「秀吉と家康 豊臣政権の中枢で、積極的な役割を果たした家康」P148〜160
 家康と秀吉との関係は、小牧・長久手の戦い前には良好であり、対立関係を経て家康が秀吉に従属した後は、家康は豊臣政権の重鎮として行動し、実績を積み重ねていった、と指摘されています。家康が豊臣政権において面従腹背だったのか、定かではないものの、少なくとも史料に見える行動からは、豊臣政権を崩壊させようという意図は窺えない、というのが本書の見解です。後の結果からの逆算や、それも反映した後の時代の文献により、当時の両者の関係が的確に把握できていない、ということもあるようです。これは、秀吉と家康の関係に限らない問題なのでしょう。


●谷口央「五か国総検地と太閤検地 家康の検地は、秀吉に比べ時代遅れだったのか」P161〜179
 家康は秀吉に臣従した後まもなく、五ヶ国の領地において検地を実施しています。この検地の性格をめぐって、太閤検地論争以降に議論が続いており、時代遅れだった、との見解も提示されました。本論考は、この領国総検地により、有力農民層に基づく年貢収納体制から村請制へと転換していったとして、豊臣政権からの直接の指示は史料上確認できないものの、事実上の太閤検地として位置づけられる、との見解を提示しています。豊臣政権の奉行ではなく、大名が主導した検地ということでしょうか。


●中野達哉「関東転封と領国整備 家康の「関東転封」は、何をもたらしたのか」P180〜201
 関東転封後の家康の領国整備について解説されています。関東転封後は、まだ各村の石高を把握できていないので、上級家臣団の領地については、まず拠点となる城が指定され、それと同時かやや遅れて石高が確定した後、じっさいの領地が決まっていったようです。関東転封の翌年から領国内での検地が進み、上級家臣団の領地も確定していきますが、これには時間を要したようです。こうした関東での徳川氏による領国整備により、関東は近世へと移行していった、との見通しが提示されています。


●佐藤貴浩「家康と奥州 「関東入国」直後、「奥羽仕置」で大活躍した家康」P202〜219
 1590年、秀吉は伊達政宗を臣従させ、奥羽も支配下に置きますが、奥羽の情勢は安定せず、大崎・葛西一揆や九戸一揆など動乱が続きます。家康はこうした不穏な奥羽情勢への対応に忙殺され、知行割といった重要な問題にも豊臣秀次とともに関与していました。家康は豊臣政権の家臣としてその維持に奔走しており、これが後の家康の政治的基盤の形成に役立った、と考えられます。また家康は、奥羽情勢への対応から、新たな所領である関東の領国整備を進めることがなかなかできなかったようです。



第4部 天下人 徳川家康


●鍋本由徳「イギリス商人の家康理解 大御所 徳川家康はエンペラーかキングか」P222〜239
 17世紀初頭のイギリス商人は家康を皇帝として認識しており、それは家康の死まで変わらなかった、と指摘されています。家康の息子である秀忠は、すでに1605年に征夷大将軍に就任していましたが、当時のイギリス商人は、あくまでも家康を最高権力者として把握していました。こうした認識の背景として、ヨーロッパにおいては譲位・隠居が一般的ではなかったことが指摘されています。当時のイギリス商人にとっての日本の皇帝は天下人という概念とよく一致する、と言えるかもしれません。


●大嶌聖子「大御所・家康と駿府 家康最晩年の「政権移譲構想」と隠居問題とは」P240〜258
 家康は1605年に征夷大将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府城に移りました。しかし、秀忠が担ったのは徳川の家政であり、家康は大御所として全国統治権を掌握し続けました。これも隠居の一例ですが、当時の隠居には多層的な意味合いが含まれていたことと、家督を譲った先代と新たな当主とが職務を分担し、先代が実質的な最高権力者として君臨するような体制は、戦国時代にも見られることが指摘されています。その家康が、1615年には隠居を計画し、隠居所も選定していったことが本論考では取り上げられており、それは、家康にとって孫である家光(竹千代)の元服の後見役を務めることと関連づけられていた政権移譲構想だった、というのが本書の見解です。


●生駒哲郎「家康の信仰と宗教政策 東照大権現への神格化は、家康の意志だったのか」P259〜282
 家康の存命時の信仰と家康死後の江戸幕府の宗教政策が比較・検証されています。家康の宗教観については、天海との出会いが転機になったのではないか、と指摘されています。家康の死後、遺言は一部守られず、家康の遺体は久能山から日光山へと移されました。これには、日本の諸神はすべて日光山の東照大権現の分身であり、日光山は諸神の中心でなければならないとの観念があったから、と本論考は推測しています。また、家康の本格的な神格化は家康死後に始まったのであり、家康は秀吉とは異なり、死後に日本を守護する神として祀られるような意図はなかっただろう、というのが本書の見解です。
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夏目琢史『井伊直虎 女領主・山の民・悪党』

2016/11/30 00:00
 これは11月30日分の記事として掲載しておきます。講談社現代新書の一冊として、講談社から2016年10月に刊行されました。来年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』の予習になると思い、読んでみました。本書は、第一章で井伊直虎(次郎法師)の生涯と井伊氏の動向について解説し、第二章で直虎の正体というか、歴史的位置づけを解明しようと試みています。井伊直虎についても、井伊直政の登場前の井伊氏についてもほとんど知識がなかったので、基礎知識を得ようという目的もありました。

 第一章を読むと、直虎についても、その時期までの井伊氏についても、よく分からないことがまだ多いようで、今後の研究の進展が期待されます。直政登場前の井伊氏は、一族が上位権力の今川氏に処刑されたり、当主が戦死したりと、厳しい状況のなか何とか生き延びてきたようで、そうした中で直虎の人生も翻弄されたようです。本書によると、後世の記録では、井伊氏の重臣である小野氏が井伊氏の一族を陥れたり、所領を横領したりと、悪役として描かれているようですが、もちろん本書も指摘するように、実際のところはどうだったのか、よく分かりません。本書は、井伊氏内部の微妙な対抗関係が要因ではないか、と推測していますが、来年の大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

 第一章を踏まえたうえで展開される第二章には、率直に言ってかなり困惑させられました。本書は、「山の民」・「未開」と「都市」・「文明」というように、二項対立的に中世社会を把握し、後者が前者を圧倒していき、近世社会が成立した、という見通しを提示しています。本書は、井伊氏は「山の民」を統率する有力な一族だったものの、「都市」・「文明」が次第に優位に立つ時代のなか、「都市」・「文明」の側の今川氏に従属するものの、「山の民」としての誇り・拘りも依然として強く、それが内紛の要因になったのではないか、と推測しています。

 本書は、「山の民」・「未開」が「都市」・「文明」に従属する形で融合していく時代の大きな流れに直虎を位置づけ、直虎はこの転換期の象徴的人物だった、と把握しています。正直なところ、「山の民」は母系制社会で、井伊氏もそうした背景のなかで存続してきた、との見解も含めて、第二章の説得力は乏しかったように思います。もっとも、私の現在の見識と気力では、本書の問題点を的確かつ簡潔に述べることは無理なので、素朴な感想を述べることしかできませんが。率直に言って、本書はかなり期待外れの一冊でした。
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神田千里『戦国と宗教』

2016/10/30 00:00
 これは10月30日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年9月に刊行されました。本書では、戦国時代における宗教の大きな役割が強調されています。戦国大名間の合戦においても宗教は重要な役割を担っており、「信仰心が薄れて合理的になった」現代日本社会との違いは大きいように見えます。しかし本書は、戦国時代の人々も信仰を絶対視していたわけではなく、現代日本社会とも通ずるような「合理性」が見られたことを指摘しています。さらに本書は、「信仰心が薄れて合理的になった」ように見える現代日本社会でも、絵馬や地鎮祭のような慣行は続いており、信仰の点で戦国時代とかけ離れているわけではないだろう、との見解を提示しています。

 戦国時代の宗教というか信仰の特徴として本書が挙げるのが、信仰は個人の内面のものであって強制されてはならず、自分の宗派以外を攻撃することは禁止されており、諸宗共存が原則とされていた、ということです。こうした信仰の在り様の背景として天道思想という共通の基盤があり、諸宗派は本質的に同じ信仰である、という観念があったようです。また、天道は内面の倫理を重視しており、天道の摂理を人間は完全には理解できないという観念があったことからも、信仰の強制が忌避されていたようです。

 このような天道思想を共通基盤とする戦国時代の日本社会の信仰の在り様はキリスト教と似たところがあり、日本社会ではキリスト教は新たな仏教の一派として把握され、ヨーロッパから来日した宣教師の側でも、キリスト教と日本仏教の類似性が強く意識されていたようです。しかし、キリスト教の宣教師の側の煽動によって日本の寺社が破壊されることもあり、こうした諸宗共存を否定する点が、後に徳川政権により弾圧される根本的な要因になったようです。

 諸宗共存の否定にたいする日本社会の反発は根強かったようで、キリシタン大名として有名な大友宗麟も、家臣団の反発を恐れていたこともあり、洗礼を受けたのは、他の在来宗教に期待されていた役割と同じく、現世での利益(妻の病からの回復)を「実感」した晩年になってからでした。また、大友宗麟の「暴走・狂気」として語られることもある「キリスト教王国」の建設に関しても、じゅうらいからの領国である豊後に関しては断念し、新たな領国と構想していた日向に限定していたようです。もっとも、大友宗麟のこの計画は耳川の戦いで敗北したことにより挫折し、大友領国内でのキリスト教の権威は低下したようです。

 一向一揆に関しても、諸宗共存の原則の例外ではなかったことが指摘されています。一向一揆と織田信長との戦いは和平期間を挟んで10年にも及びましたが、真宗本願寺教団と信長との間に本質的な対立があったわけではなく、当時の政治情勢が対立の要因だった、と本書では解説されています。信長の側に真宗本願寺教団の信仰を禁止したり本願寺教団を壊滅させたりするような意図はなく、講和により大坂が織田方に明け渡された後は、信長と本願寺教団との間で友好関係が築かれた、と指摘されています。

 また本書では、天道思想に基づく諸宗共存の原則は、戦国時代というか、中世〜近世の日本社会に特有の「寛容さ」というわけではなく、激しい宗教抗争の見られたヨーロッパの宗教改革期の後半にも同様の思想と共存の実践が見られた、とも指摘されています。排他的な一神教世界と寛容な多神教世界の日本という、現代日本社会で広範かつ根強く定着しているように思われる通俗的見解には、かなり疑問が残ります。


 著者の他の著書を複数読んできたこともあり、本書の見解には違和感はありませんでした。これまでこのブログで取り上げてきた著者の他の著書は以下の通りです。


『宗教で読む戦国時代』
http://sicambre.at.webry.info/201003/article_30.html

『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』
http://sicambre.at.webry.info/201407/article_2.html

『織田信長』
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_17.html
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渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』

2016/10/27 00:00
 これは10月27日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2016年10月に刊行されました。この十数年間、戦国時代〜江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は一般向け書籍ということで、一般層が戦国時代でとくに関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているように思います。価格も手ごろで、私のような一般層もわりと気軽に購入できそうなのはありがたいことです。この記事では、年代は西暦で統一します(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)。以下、各論考について簡潔に備忘録的に述べていきます。



●長屋隆幸「本当の鉄砲伝来はいつだったのか」P11〜25(第1章)
 日本への鉄砲の伝来について、いくつかの論点とその研究史が解説されています。通説では、1543年に種子島にポルトガル人が来航したことで日本に初めて鉄砲がもたらされ、種子島から日本各地に鉄砲が広まった、とされます。しかし、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性や、ポルトガル人が種子島に来航したのは1543年なのか、種子島から日本各地に鉄砲が広まったのか、といった問題が今では議論されているようです。本論考は、1543年以前に単純な構造の銃が伝来していた可能性を認めつつも、それは伝播(商品として伝わること)であって伝来(製造技術まで伝わって定着すること)ではなかっただろう、と指摘しています。また、種子島への鉄砲の伝来は1542〜1544年の間のことで、倭寇を通じて同時期に西日本各地にも鉄砲が伝わり製造されるようになったものの、鉄砲の普及に関して種子島の影響力は小さくなかったかもしれない、とも指摘されています。


●千葉篤志「川中島の戦いは何回行われたのか」P26〜43(第2章)
 有名なわりに不明なところも少なくない川中島の戦いについて、同時代の意義のみならず、近世・近代にどのように語られたのか、という点も解説されています。川中島の戦いは、5回それぞれ異なる目的・場所の戦いだったようですが、近世になって確立した広域的な「川中島」という地域概念により、5回に及ぶ「川中島の戦い」という認識が成立していったようです。広域的な地域概念としての川中島は交通の要衝だったので、戦国時代に限らず、平安時代・鎌倉時代・室町時代と重要な合戦がありました。5回に及ぶ川中島の戦いについて、上杉(長尾)方が攻め込むことが多いので、戦闘では上杉方の勝ちかもしれないが、領土争奪という観点では武田方の勝ちだろう、と評価されています。ただ、川中島の戦いの結果により武田方も上杉方も権力が崩壊するような事態には陥らなかった、ということも指摘されています。


●古野貢「信長の「天下」は日本全国を指すのか」P44〜58(第3章)
 織田信長は1567年、「天下布武」の朱印を捺した書状を用い始めます。これは、信長がまだ一地方大名だった頃から、「全国統一」が視野に入っていたことを示すものであり、信長の革新性の根拠の一つともされていました。しかし本論考は、「天下」の意味するところは時代により変容していったのであり、信長の頃はおおむね畿内に限定されていた、と指摘します。「天下」は室町幕府将軍を指すこともあり、幕府の統治が安定していた室町時代前期には全国を意味していましたが、嘉吉の変や応仁の乱などにより幕府の求心力の低下したことで、幕府が一定の領域支配権を行使できる畿内に限定されていったのではないか、との見通しが提示されています。


●中脇聖「明智光秀の出自は土岐氏なのか」P59〜75(第4章)
 明智光秀の出自は美濃の守護である土岐の支流の明智だった、という通俗的認識は根強いと思います。そこから、光秀は清和源氏としての高い誇りを持ち、平氏である織田信長の征夷大将軍就任を阻止するために信長を討った、という俗説を見かけたこともあります。本論考は、光秀の出自が明智なのか定かではないものの、明智と名乗っていたことが当時の人々に共通認識として定着していた、と指摘します。その契機として本論考は、光秀が(細川藤孝の推挙で?)足利義昭に近侍するようになったさい、幕府奉公衆たる明智を名乗ることが許されたからではないか、と推測しています。また本論考では、光秀は1575年に惟任姓を授与されてから、惟任を本姓のような名字として自身の勢力圏の家格秩序の頂点に位置づけるとともに、「明智」名字を国衆や土豪に授与したことが紹介されており、これが豊臣秀吉による大名への「羽柴」名字の授与や、徳川家康による大名への「松平」名字授与と通ずるものだったのではないか、と指摘されています。


●木下昌規「本能寺の変の黒幕説(朝廷・足利義昭)は成り立つのか」P76〜92(第5章)
 本能寺の変の黒幕説について検証されています。本論考が取り上げているのは、そのうち朝廷説と足利義昭説です。朝廷説においては、朝廷と信長との強い緊張関係が前提となっていますが、本論考は、当時、朝廷は信長を必要として頼りにしていたのであり、信長と朝廷との間に強い緊張関係はなかったので、朝廷黒幕説は成立しない、と論じています。義昭黒幕説に関しては、光秀と義昭や義昭の庇護者たる毛利との間に事前の連絡があったとの証拠がないことから、やはり否定的見解が提示されています。現時点では、本能寺の変の黒幕説を支持することは難しそうです。


●平野明夫「「神君伊賀越え」の真相」P93〜109(第6章)
 本能寺の変の後、徳川家康が堺から領国の三河へと戻った経緯について検証されています。この「神君伊賀越え」については、複数の経路が伝わっていますが、誤伝である可能性とともに、分散した可能性も提示されています。これと関連するのが、「神君伊賀越え」のさいの家康一行の人数です。家康一行は少人数だったため、たいへんな苦難だった、との伝承もある一方で、伊賀路をあっさりと通過していることから、伝えられているほどの困難はなかっただろう、との見解も提示されています。本論考は、家康一行からも200人ほどの被害が出ていると考えられることから、家康一行は明智光秀に決戦を挑むほどの人数ではなかったものの、数十名程度という小規模でもなく、危機に直面していただろう、と指摘しています。


●渡邊大門「中国大返し再考」P110〜127(第7章)
 羽柴秀吉の中国大返しについて検証されています。俗説では驚異的な速度だったとされる秀吉の中国大返しですが、本論考は一次史料に基づき、俗説の日程を修正しています。俗説では、秀吉は姫路で一泊しただけですぐに進軍したとされますが、本論考は、秀吉は姫路に三泊した、と推測しています。これは、秀吉と一部の将兵のみが騎馬で姫路に到達した後、残りの徒歩の兵の到着を待ったことと、秀吉にとって安全な姫路で情勢を分析していたためではないか、というのが本論考の見解です。ただ、本論考の提示する「秀吉の中国大返し」も、俗説のような非現実的な速度ではないにしても、かなりの強行軍だったように思われます。


●竹井英文「城郭研究を揺るがした「杉山城問題」とは!?」P128〜144(特論1)
 埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城をめぐる議論が解説されています。縄張研究では、杉山城を築いたのは北条で、1560年頃のこととされていました。ところが、発掘調査では、15世紀末に近い後半〜16世紀第1四半期に近い前半と判断され、この年代は新史料でも裏づけられました。つまり、縄張研究と考古学および文献史学との見解が対立したわけで、これ以降、縄張研究の側からは、さらに時代を下らせて、1580年代後半の北条系城郭か、1590年の豊臣系城郭ではないか、との見解さえ提示され、ますます考古学および文献史学との見解と乖離していきます。こうした乖離の要因として、縄張のみで築城年代・主体を否定する縄張研究の方法論が指摘されています。縄張は単純なものから複雑なものへと発展し、複雑な縄張は戦国時代後半の戦国大名にのみ可能だった、とする縄張研究の前提に問題があるのではないか、というわけです。もっとも、本論考は、考古学・文献史学の側にも、杉山城をめぐる議論はさまざまな課題を提示した、と指摘しています。


●佐島顕子「老いた秀吉の誇大妄想が、朝鮮出兵を引き起こしたのか」P145〜163(第8章)
 秀吉の朝鮮出兵について、明などとの貿易の統制・独占という秀吉の思惑とともに、対馬の宗や肥後の小西といった地方勢力(小西は秀吉により肥後に転封となって日が浅いわけですが)が、秀吉を利用しつつ、明との貿易に加わり利益を得ようとした側面がある、と指摘されています。これと関連して、小西行長が関ヶ原の戦いの後に斬首されたのは、国家権威の源泉を日本ではなく明皇帝に求める外交の中心人物だったことと、外国人宣教師の保護など、海に開いた九州の自立性の象徴だったからではないか、と指摘されています。


●水野伍貴「石田三成襲撃事件の真相とは」P164〜178(第9章)
 石田三成襲撃事件について検証されています。本論考は、七将は三成を殺害しようとしたのではなく、三成に政治的責任を負わせ、制裁するよう、家康に訴えていたのだ、と論じています。それを踏まえて本書はこの事件の本質を、七将が私怨により三成を襲撃し、家康がそれを調停したわけではなく、徳川方と反徳川方による政争だった、と把握しています。また、この事件の契機として前田利家の死があり、これにより利家と親しい武将が家康側に靡いたことも指摘されています。なお俗説では、襲撃された三成が逃げ込んだのは伏見の家康の屋敷とされていますが、じっさいには三成の屋敷でした。


●光成準治「毛利輝元、吉川広家、安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い」P179〜195(第10章)
 関ヶ原の戦い前後の毛利家の動向が、毛利輝元・吉川広家・安国寺恵瓊の関係を中心に検証されています。後世の軍記や同時代の広家の書状には、広家を正当化し、吉川家の家格を上昇させる意図があるため、全面的に信用はできない、と指摘されています。毛利が反徳川方として決起した責任を安国寺恵瓊のみに負わせるため、安国寺恵瓊が愚鈍で強欲な人間として描かれたのではないか、というわけです。安国寺恵瓊と広家の関係は、関ヶ原の戦いの頃には良好ではなかったようですが、以前からそうだったのか、確証はないようです。また、養子問題の件から、輝元が広家に不信感を抱いていたことが指摘されています。こうした要素も、関ヶ原の戦いにおける毛利家の動向に大きな影響を及ぼしていたのでしょう。この時期の毛利家の動向は、輝元が西軍の総大将に推戴されたにも関わらず、何とも中途半端に見えますが、応仁の乱のような長期の戦乱になると毛利家の首脳陣が予想していたのだとしたら(この予想は、当時としては的外れとは言えないでしょう)、戦力の温存や敵対勢力との交渉なども、「合理的」な選択だったと言えるかもしれません。


●白峰旬「徳川家康の「問鉄炮」は真実なのか」P196〜211(第11章)
 俗説では、関ヶ原の戦いでは正午頃まで一進一退の攻防が続き、東軍への寝返りを約束していた小早川秀秋が去就を明らかにしなかったため、家康が小早川の陣に鉄炮を撃ちかけて寝返りを促し(問鉄炮)、慌てた秀秋が寝返ったため、東軍の勝利が確定した、とされます。しかし本論考は、秀秋の寝返りは早朝であり、俗説とは異なり西軍の前線に位置していた大谷隊は背後の小早川隊と前方の徳川軍に挟撃されて壊滅し、合戦全体も正午頃には東軍の勝利が決定的になったとして、「問鉄炮」を否定しています。


●曽根勇二「家康は豊臣氏を、どのように追い詰めたのか」P212〜229(第12章)
 秀吉死後の政局は、秀吉政治の後継者問題が重要な論点となり、関ヶ原の戦いがその端緒で、大坂の陣で最終的に決着した、との見通しが提示されています。この秀吉政治は、朝鮮出兵に対応すべく成立していった、秀吉独裁の集権的なものだった、と本論考は指摘します。関ヶ原の戦い後、家康は直ちに全権を掌握できたわけではなく、自身の領地朱印状を出すことはできませんでした(徳川将軍が自由に諸大名に領地朱印状を発給できるようになったのは1617年以降)。そうした中で家康は、諸大名を普請に動員したり、地域支配や交通支配を強化したりすることで、豊臣への優勢を確立していった、とされます。


●片山正彦「大坂冬の陣後、大坂城の堀は無理やり埋められたのか」P230〜248(第13章)
 大坂冬の陣の和睦条件として、大坂城の外堀だけを埋めるはずだったのに、徳川方の謀略で内堀まで埋められてしまった、と俗説では語られます。しかし本論考は、外堀のみならず内堀の埋め立ても和睦条件となっており、豊臣方も納得していた、と指摘します。ただ、外堀は徳川方が、内堀は豊臣方が埋め立てることになっていたのに、豊臣方の埋め立てが(おそらくは意図的に)遅れていたため、徳川方が内堀まで埋め立ててしまい、豊臣方が抗議したことが、後世になって俗説を生んだのではないか、と指摘されています。


●荒垣恒明「忍者とは実在するのか」P249〜262(特論2)
 現代において語られる忍者の実像について検証されています。戦国時代〜江戸時代初期に、現代において語られるような忍者に近いところもある人々は存在し、「忍び」などと呼ばれていました。「忍び」の基本的な任務は情報収集だったようで、敵陣に潜入する危険な任務でした。放火・夜討ちといったゲリラ的な戦術に「忍び」が用いられることもあったようです。その意味で、当時の「忍び」と現代において語られる忍者とは共通するところが少なからずあったようですが、一方で、同時代史料に登場する「忍び」が、共通の特徴を有する集団だったと言えるのか、今後の検討課題である、とも指摘されています。
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タイトル 日 時
平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』
 これは10月23日分の記事として掲載しておきます。PHP新書の一冊として、2016年9月にPHP研究所より刊行されました。本書は真田信之(信幸)の伝記ですが、戦国時代末期〜江戸時代初期という、中近世移行期の真田家の動向を詳細に知るのにも適した一冊になっています。と言いますか、信之の思惑や心情について、推測を述べることに抑制的なので、近世大名たる真田家の成立期の解説という性格が強くなっているかもしれません。新書としては厚く、分量があるだけではなく密度も濃く、主要参考文献も掲載されているので、読み... ...続きを見る

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2016/10/23 00:00
村井章介『シリーズ日本中世史4 分裂から天下統一へ』
 これは8月30日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年7月に刊行されました。すでに第1巻と第2巻と第3巻はこのブログで取り上げています。本書は戦国時代〜17世紀前半までを扱っています。中世から近世への移行期が対象と言えるでしょうか。本書の特徴は、「対外関係」や当時は日本に「包摂」されきっていなかった地域というか、「日本」の「周辺地域」に関する叙述が中心となっていることです。本書はこのように「対外関係」や「周辺地域」を中心に据えることで、近世日本の特... ...続きを見る

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2016/08/30 00:00
鍛代敏雄『戦国大名の正体 家中粛清と権威志向』
 これは3月13日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年11月に刊行されました。副題にあるように、本書は戦国大名の特徴というか、戦国大名を形成・存立させる要素として家中粛清を重視しています。本書は戦国大名権力を、主従制的な支配と一揆的な原理により縦横に結ばれた、全体として統合された家中である、と認識しています。そのため、特定の譜代宿老への権限の集中や、家臣の反抗にたいしては、家中の合意に基づいて粛清が行なわれた、というわけです。一方、大名自身が専制化して... ...続きを見る

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2016/03/13 00:00
本多博之『天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命』
 これは3月101日分の記事として掲載しておきます。歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2015年7月に刊行されました。本書は銀の動向を軸に、戦国時代から豊臣・徳川統一政権までの政治・経済構造の変容を検証しています。表題から容易に推測できる人も多いでしょうが、本書は日本列島に限定せず、広く東アジアや東南アジア、さらにはそれらの海域に進出してきたヨーロッパ勢力も取り上げています。現代日本社会では珍しくない視点でしょうが、少なからぬ非専門家層にとっては必ずしも自明のこととは言えないでしょ... ...続きを見る

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2016/03/10 00:00
久保健一郎『戦国大名の兵粮事情』
 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2015年12月に刊行されました。本書は兵粮事情から戦国時代の経済・社会状況を検証しています。本書は兵粮をモノとカネの二つの側面で把握しています。もちろん、兵粮は食として消費されるわけですが、それだけではなく、カネのように運用されることもあるわけです。兵粮とはコメを指すことが多いようですが、近世の石高制ではまさにコメがカネ・価値基準として通用しているのであり、石高制の成立にカネとしての兵粮の深化があったのではないか、との見通しが本書では提示されて... ...続きを見る

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2016/03/03 00:25
村井良介『戦国大名論 暴力と法と権力』
 これは2月24日分の記事として掲載しておきます。講談社選書メチエの一冊として、講談社より2015年9月に刊行されました。本書の特徴の一つは、一般向け書籍としては珍しいくらい、研究史への直接的言及が多いことです。研究史の整理を直接読者に提示することにより、問題の所在を浮き彫りにする、という狙いがあるようです。また、フーコー(Michel Foucault)の権力論やゲーム理論など、歴史学以外の分野の研究成果を積極的に援用していることも本書の特徴と言えるでしょう。そのため、本書は歴史理論・歴史哲学... ...続きを見る

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2016/02/24 00:00
黒嶋敏 『天下統一 秀吉から家康へ』
 講談社現代新書の一冊として、講談社より2015年11月に刊行されました。本書は、武威という視点からおもに「対外」関係を対象として豊臣秀吉と徳川家康の「天下統一」を検証しており、なかなか興味深く読み進められました。「対外」関係の点でも豊臣政権と徳川政権には連続性が認められ、それは武家政権たる両者が武威に基づき支配体制を構築してきたからだ、というのが本書の見通しです。天下人たる秀吉・家康と同じく、諸大名も武威により地域的な支配体制を構築しており、天下人が武威を掲げて統一を進めたことを諸大名が受け入... ...続きを見る

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2016/02/17 00:22
神田裕理編『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち 天皇制度は存亡の危機だったのか』
 これは12月25日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、 歴史新書の一冊として洋泉社より2015年12月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、戦国時代の朝廷については知識が乏しかったので、得るところが多々ありました。本書は、近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益な一冊になっていると思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べて... ...続きを見る

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2015/12/25 00:00
丸島和洋『真田四代と信繁』
 これは12月18日分の記事として掲載しておきます。平凡社新書の一冊として平凡社より2015年11月に刊行されました。著者は来年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者の一人です。真田四代とは、幸綱・信綱・昌幸・信之(信幸)という戦国時代〜江戸時代初期にかけての真田家の当主のことです。この四人と昌幸の次男である信繁とに1章ずつ割かれており、全体では5章構成となっています。幸綱は以前には幸隆という名前で知られていましたが、諱(実名)は幸綱で、幸隆は法名(一徳斎幸隆)の一部である可能性が... ...続きを見る

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2015/12/18 00:00
渡邊大門編『家康伝説の嘘』
 これは11月28日分の記事として掲載しておきます。柏書房より2015年11月に刊行されました。さすがに徳川家康のことともなると、大まかな事績を知っているのですが、この十数年間、戦国時代〜江戸時代初期についての勉強が停滞しており知識が古くなっていそうなので、近年の研究成果を大まかにまとめて把握できるのではないかと思い、読んでみました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。家康について一般層も関心を持ちそうな問題を広範に取り上げているのが本書の特徴で、内容は充実していると思います... ...続きを見る

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2015/11/28 00:00
平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』
 これは11月25日分の記事として掲載しておきます。角川選書の一冊として、角川学芸出版より2015年10月に刊行されました。著者は来年(2016年)の大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者の一人です。真田信繁については基本的な知識もあやふやなので、来年の大河ドラマの予習の意味にもなると思い、読んでみました。本書は、史料的制約のあるなか、信繁の生涯を詳しく検証しており、信繁の伝記として長く参照されることになるでしょう。私も得るところが多々ありました。史料的制約のため、信繁の事績・評価については確定で... ...続きを見る

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2015/11/25 00:00
日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』
 歴史新書の一冊として洋泉社より2015年8月に刊行されました。本書は、昨年(2014年)同じく日本史史料研究会の編纂で刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、豊臣秀吉についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。本書もたいへん面白かったので、次は徳川家康についても同様の新書... ...続きを見る

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2015/08/18 00:00
佐々木克『幕末史』
 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2014年11月に刊行されました。本書は第1章〜第5章にかけていわゆる幕末史(ペリー来航から王政復古まで)を、第6章で明治時代前半(大日本帝国憲法の発布まで)を扱っており、新書としてはかなりの分厚さになっています。本書は基本的に政治史を扱っており、経済史への言及はきわめて少なく、文化史・思想史への言及はほぼ皆無となっています。この点は残念でしたが、重要人物の個性が鮮やかに描き出されており、単に勉強になるというだけではなく、読み物としてなかなか面白くなっている... ...続きを見る

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2014/11/19 00:00
中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』
 吉川弘文館より2008年2月に刊行されました。本書は、文禄・慶長の役の期間のみならず、その後の日本・明・朝鮮の交渉と、日本・朝鮮間の「復交」までを対象としています。日本と明とは、文禄・慶長の役の後に通商関係は以前のように盛んとなりましたが、「国交回復」はなされませんでした。明の後に中華地域を支配したダイチングルン(大清帝国)と日本との間でも、明治時代になるまで「国交」は締結されず、通商のみが行なわれるという関係にとどまりました。 ...続きを見る

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2014/10/19 00:00
安野眞幸『教会領長崎』
 講談社選書メチエの一冊として、2014年6月に刊行されました。本書の特徴は、戦国時代の日本におけるイエズス会を「権門」として把握し、「適応主義」対「原則主義」というイエズス会の内部対立に着目するとともに、イエズス会の財政基盤となった南蛮貿易の実態を解明するために、地理的・年代的に広範な事例を参照していることです。また本書は、日本におけるイエズス会の動向をスペイン・ポルトガル連合王国の成立とも関連させて論じており、視野の広い一般向け書籍になっていると思います。 ...続きを見る

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2014/09/15 00:00
2013年「回顧と展望」日本・近世
伊東利勝「漂流する歴史学」『愛大史学』22 ...続きを見る

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2014/08/28 00:00
神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』第3刷
 吉川弘文館より2012年4月に刊行されました。第1刷の刊行は2007年10月です。本書は通俗的な一向一揆像とは異なる見解を提示しています。一向一揆は、江戸時代における本願寺教団の東西分裂という状況のなか、それぞれの立場の人々に都合よく語られてきた伝承によって、当時の実情とは異なった印象が形成されており、近代以降の歴史学も、そうした印象を必ずしも払拭できなかったばかりか、その時々の潮流に沿って実情とは異なる歴史観を強化することさえあった、というのが本書の見通しです。 ...続きを見る

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2014/07/02 00:00
『岩波講座 日本歴史  第10巻 近世1』
 本書は『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の第10巻で、2014年1月に刊行されました。すでに『第6巻 中世1』(関連記事)・『第1巻 原始・古代1』(関連記事)・『第2巻 古代2』(関連記事)をこのブログで取り上げました。各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようとすると、私の見識・能力ではかなり時間を要しそうなので、これまでと同じく、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。 ...続きを見る

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2014/06/22 00:00
織田信長の記事についてのまとめ(追記有)
 ブログを始めてから7年半以上経過しました。一度更新をしないとそのままずるずると更新しなくなるだろうから、との考えでブログ開始当初から毎日更新するよう心掛けており、それはほぼ守れているので、怠惰な私にしては上出来だと思います。しかし、多忙な時やとくに書くことが思い浮かばない時もあるだろうと考えて、ブログを始めた当初から予備の記事を執筆してきました。今ではそうした記事がかなり溜まっているのですが、中には執筆してから7年以上経過したものも少なくなく、今更公開する意味があるのだろうか、と疑問に思うもの... ...続きを見る

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2014/03/08 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第36号「江戸時代10 世界の中の幕末日本」
 この第36号は水野忠邦の老中就任から大政奉還の頃までを中心に、江戸時代の日本が世界からどのように認識されていたのか、という問題がおもに論じられています。「新発見」的な見解が複数提示されていますが、一般にも浸透しているものもあるかな、と思います。江戸時代には「庶民」たちは武芸を禁じられていた、との見解が常識だったが、実は江戸時代後期〜幕末には「庶民」剣士が多く過激事件にも関与した、との「新発見」的見解が提示されています。しかし、新撰組幹部などの印象や司馬遼太郎作品の影響などから、江戸時代には「庶... ...続きを見る

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2014/03/05 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第35号「江戸時代8 動き始めた民衆の力」
 この第35号は11代将軍家斉の時代を対象としています。この時期に、商品経済の拡大などもあり、村落・所領の範囲を超えて広域的な民衆の動きが見られるようになったことが強調されています。また、この時期の村落内部の変化も指摘されており、村役人は世襲ではなく入札により選ばれることが多くなりました。村落における知識人層・文化の拡大が見られるのもこの時期の特徴で、全体としてこの第35号は、18世紀末〜19世紀前半の11代将軍家斉の時代を、近代の胎動期として認識する傾向が強いように思います。 ...続きを見る

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2014/02/27 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第34号「江戸時代7 村人は豊かだったのか」
 この第34号は江戸時代の村落を取り上げており、全体的に、生業・構成員・役割など、江戸時代の村落の多様な側面を強調しています。江戸時代の村落は包容力と厳しさの両面を有し、その構成員たる百姓は、相互扶助(災害などへの対応)と相互規制のもとで、助け合い、競い合い、規制し合って暮らしていました。こうした村落が江戸時代の社会基盤となっていたわけです。江戸時代後期になると、競い合いとしての自助努力を重視する百姓も増え、その結果、村落における貧富の拡大や相互扶助機能の低下といった問題も顕在化するようになりま... ...続きを見る

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2014/02/19 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第33号「江戸時代6 田沼意次と松平定信」
 まだ日付は変わっていないのですが、2月12日分の記事として掲載しておきます。この第33号は徳川吉宗の死から松平定信の失脚までを対象としており、おおむね田沼時代と寛政の改革を扱っています。「新発見」的な見解としては、政権獲得に「奥」の掌握が必須だった、ということが指摘されています。4代将軍家綱以降、老中が将軍側近的性格を失い、「表」の長官としての性格を強めるなか、側用人や御側御用取次などの将軍側近としての「奥」が重要な役割を果たすことになります。田沼意次は「奥」の一員として頭角を現し、「表」と「... ...続きを見る

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2014/02/12 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第32号「江戸時代5 享保の改革の成功と限界」
 この第32号はおおむね8代将軍吉宗の時代を対象としています。享保の改革は、将軍権力の強化・幕府の立て直しに限らず、社会を大きく変え、近代化の起点になった、との見通しをこの第32号は提示しています。享保の改革には中央集権的志向があり、官僚制度の整備が進められるとともに、災害・疫病などにたいして、じゅうらいの領主単位の対応からより広域的な「国家・公共」政策が模索された、というわけです。 ...続きを見る

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2014/02/05 00:03
『週刊新発見!日本の歴史』第31号「江戸時代4 元禄の政治と赤穂事件」
 今日は3本掲載します(その一)。この第31号は、3代将軍家光の死から7代将軍家継の死までを対象としています。この第31号の特徴は、江戸時代後期の事象・印象を江戸時代前期に当てはめることによる、歴史認識の歪みを指摘していることです。江戸幕府の正統性を担保し、大政奉還の前提となった言説である大政委任論が主張され始めるのは寛政の改革の頃だった、と指摘されています。江戸時代前期において幕藩体制を正当化していたのは天道委任論であり、その前提として戦国時代に天道思想が流行していたことがある、というのがこの... ...続きを見る

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2014/01/29 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第30号「江戸時代3 江戸・大坂・京の三都物語」
 この第30号は江戸時代の三都を取り上げています。三都を城下町と把握し、その形成・発展と経済・生活の様相を考察の対象としています。「新発見」的な見解としては、江戸の災害というと火事が注目される傾向にあるなか、町造り(江戸の都市計画は明暦の大火以前に破綻していた、とされています)に伴う自然への干渉の結果としての水害も取り上げていることでしょうか。江戸の水害により文書行政が成熟したものの、実態と文書との乖離も生まれ、次の水害では災害対処がかえって不充分なものになることもあった、との指摘は興味深いもの... ...続きを見る

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2014/01/22 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第29号「江戸時代2 秀忠と家光の築いたもの」
 この第29号は家康の死から家光の死までを対象としています。今回も、「新発見」的な見解を備忘録的に述べていくことにします。ただ、このブログでも何度か述べてきたように、「新発見」的見解とはいっても、すでに近年刊行された一般向け書籍で紹介されたものも少なくありません。その意味で、『週刊新発見!日本の歴史』を購入している読者には、編集部の意図とは異なり、あまり「新発見」的ではない、と受け取られる可能性もあると思います。 ...続きを見る

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2014/01/15 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第28号「江戸時代1 徳川家康の国家構想」
 この第28号は、豊臣秀吉の死から徳川家康の死までを対象としています。家康のみならず秀吉も死後に神格化され、織田信長にもそうした構想があったらしいことは、一般にもよく知られていると思います。この第28号では、その背景に中世〜近世にかけての思想上の変化があったと指摘されており、ここが「新発見」的でしょうか。人の本質を清浄と見る密教思想などの影響が拡大していく中、一部の神職の間で逝去した当主を聖なる存在として祀ることが始まった、と指摘されています。 ...続きを見る

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2014/01/08 00:00
2012年「回顧と展望」日本・近世
 これは10月10日分の記事として掲載しておきます。 ...続きを見る

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2013/10/10 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第7号「江戸時代9 幕藩体制と「名君」たち」
 この第7号は、名君(明君)に注目して江戸時代初期〜末期までを扱っており、名君という視点で読み解く江戸時代の歴史と言えそうです。江戸時代になって政治情勢が安定すると、武士には統治者としての能力がさらに要求されるようになります。本質的には軍事組織である藩(この用語が明治時代以降に一般的になっていったことも、この第7号では指摘されています)を、太平の世の統治組織として機能させるにはかなりの苦労があったはずで、改革を志した江戸時代の名君も、そうした背景にあって登場したのだろう、と思います。 ...続きを見る

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2013/08/03 00:00
曽根勇二『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』
 まだ日付は変わっていないのですが、7月20日分の記事として掲載しておきます。『敗者の日本史』全20巻の第13巻として、2013年6月に吉川弘文館より刊行されました。朝鮮役の長期化にともない伏見と大坂を拠点とする物流の支配体制が形成され、伏見と大坂は「首都」として機能し、秀吉死後もその支配体制の構築が継続され、家康と秀頼は「秀吉政治」の(有力)継承(候補)者だった、という視点から、関ヶ原の戦いの後〜大坂の陣、さらには「鎖国体制の確立」までが概観されています。この観点では、秀頼が寺社造営に熱心だっ... ...続きを見る

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2013/07/20 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第4号「戦国時代4 豊臣政権と朝鮮出兵の真相」
 これは7月13日分の記事として掲載します。この第4号は本能寺の変から秀吉の死までを対象としており、「惣無事令」についての一時有力になっていた見解の見直しなど、豊臣政権についての近年の見解が盛り込まれた内容になっています。「惣無事令」は豊臣政権の政策の基調と考えられていた時期もありましたが、近年では東国を対象に「惣無事」という言葉を用いての停戦交渉は存在したものの、「惣無事令」という法令自体の存在は否定されています。「惣無事」を秀吉による統一過程にどのように位置づけるのか、ということが現在の論点... ...続きを見る

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2013/07/13 00:00
『週刊新発見!日本の歴史』第2号「近代1 幕末維新の群像劇」
 この第2号はペリー来航から戊辰戦争までを対象としており、伝統的というか一般的な時代区分にしたがったものと言えるでしょう。ただ、「新発見」と題しているだけに、一般的というか通俗的な歴史観を訂正しよう、という編集意図はよく伝わってきました。たとえば、いわゆる薩長同盟の性格をめぐる議論で、今では、薩長同盟が当初は討幕を目的としたものではない、という見解が学界ではほぼ定着しているようです。そこからさらに、薩長同盟が軍事同盟か否か、という議論に発展しているようです。 ...続きを見る

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2013/07/01 00:00
山本博文、堀新、曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』
 柏書房より2013年2月に刊行されました。同じく柏書房より2011年6月に刊行された『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』 http://sicambre.at.webry.info/201106/article_12.html の続編であり、体裁も『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』と同じく各論考から成る論文集で、本書は前作より一章減り、序章と第一章〜第九章の論考が掲載されています。本書も前作と同じく、豊臣秀吉関連の文書が取り上げられ、その原本の写真が掲載されるとともに、釈文と現代... ...続きを見る

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2013/06/22 01:21
渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』
 まだ日付は変わっていないのですが、5月30日分の記事として掲載しておきます。歴史新書の一冊として洋泉社より2013年5月に刊行されました。秀吉の出自を中心として、秀吉の人物像を歴史学的な成果に基づいて一般向けに提示した一冊となっています。民俗学的成果も活用しての、近年の歴史学の提示する秀吉像においては、その出自に非農業民的性格が指摘され、秀吉の大出世と言動の要因がその出自に求められる傾向がありますか、本書はそうした傾向に批判的であり、あくまでも秀吉個人の能力・性格を重視する見解を提示しています... ...続きを見る

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2013/05/30 00:00
『日本近世の歴史』全6巻完結
 まだ日付は変わっていないのですが、4月22日分の記事として掲載しておきます。2013年3月刊行の『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』をもって、『日本近世の歴史』全6巻が完結となりました。ここでは、各巻を紹介した記事をまとめて記載します。 ...続きを見る

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2013/04/22 00:00
横山伊徳『日本近世の歴史5 開国前夜の世界』
 まだ日付は変わっていないのですが、4月17日分の記事として掲載しておきます。『日本近世の歴史』全6巻の第5巻として、2013年3月に吉川弘文館より刊行されました。18世紀末〜19世紀半ばまでの江戸幕府後期の歴史が、「対外関係」の視点から叙述されています。この時期の江戸幕府の政治・政権の在り様に、対外政策が影響を与えていたことは間違いないでしょうし、それは重視しなくてもよいような小さなものではなく、大きなものだったのでしょうが、正直なところ、この時期の概説としてはあまりにも「対外関係」に偏重して... ...続きを見る

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2013/04/17 00:00
青山忠正『日本近世の歴史6 明治維新』
 まだ日付は変わっていないのですが、12月15日分の記事として掲載しておきます。『日本近世の歴史』全6巻の第6巻として、2012年11月に吉川弘文館より刊行されました。本書が対象とするのは、ペリー来航から西南戦争までのおよそ四半世紀で、政治史に特化した叙述となっており、経済史・民衆史・文化史の叙述が薄いというかほぼ省略されているのですが、そうした解説は他の一般向け書籍で補うこともできるわけですし、一般向け書籍としては丁寧な政治史叙述になっていると思いますので、とくに不満はありません。本書は、その... ...続きを見る

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2012/12/15 00:00
2011年「回顧と展望」日本・近世
 まだ日付は変わっていないのですが、9月2日分の記事として掲載しておきます。 ...続きを見る

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2012/09/02 00:00
森下徹『武士という身分 城下町萩の大名家臣団』
 まだ日付は変わっていないのですが、8月26日分の記事として掲載しておきます。歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2012年7月に刊行されました。武士が平安時代から幕末までどのように変容していったのか、という問題への関心は一般的にも高いように思うのですが、本書では江戸時代の萩藩(長州藩)を対象に、その具体的様相が叙述されています。江戸時代には武士の官僚化が進んだと言われることが多いように思いますが、本書では、大きく変容しつつも、江戸時代を通じて全体的に武士団の軍事組織的が強く保持され... ...続きを見る

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2012/08/26 00:00
藤田覚『日本近世の歴史4 田沼時代』
 『日本近世の歴史』全6巻の第4巻として、2012年6月に吉川弘文館より刊行されました。田沼意次は、賄賂政治家とも革新的政治家とも言われ、その評価が両極端に分かれやすい歴史的人物と言えるかもしれません。ただ、各日本史教師によって異なるのかもしれませんが、20年以上前に私が高校生だった時の日本史の授業では、田沼意次は革新的な政治家として高く評価されていました。本書でも、田沼意次の革新的な側面が取り上げられていますが、一方で、田沼時代に賄賂が横行したという伝統的な見解が否定されるわけではなく、田沼時... ...続きを見る

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2012/07/13 00:00
深井雅海『日本近世の歴史3 綱吉と吉宗』
 『日本近世の歴史』全6巻の第3巻として、2012年2月に吉川弘文館より刊行されました。将軍でいうと、5代綱吉・6代家宣・7代家継・8代吉宗の時代が扱われています。3代家光・4代家綱と病弱な将軍が続いたので、綱吉と吉宗が積極的に政治を主導した、との印象が強く残ります。幼少で将軍に就任して夭折した家継の印象はさすがに弱いのですが、在任期間の短かった家宣は、前代の綱吉の路線を修正したことや、新井白石の起用などもあり、印象が強く残ります。本書の扱う時代は全体的に、幼少の家継を除くと、「鉱山バブル」がは... ...続きを見る

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2012/03/11 04:35
杣田善雄『日本近世の歴史2 将軍権力の確立』
 『日本近世の歴史』全6巻の第2巻として、2011年12月に吉川弘文館より刊行されました。本書の叙述範囲は、江戸幕府の将軍でいうと第三代の家光と第四代の家綱の時代を対象としていますが、家光の代とはいっても、第二代将軍秀忠没後がおもに叙述範囲となっており、家光が「天下人」となって以降ということになります。表題にあるように、この時代は将軍権力が確立していった時期なのですが、本書を読むと、むしろ将軍個人の資質に大きく左右されない安定した江戸幕府の統治体制の確立、との表現のほうが適しており、本書も基本的... ...続きを見る

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2012/01/25 06:21
藤井讓治『日本近世の歴史1 天下人の時代』
 『日本近世の歴史』全6巻の第1巻として、2011年11月に吉川弘文館より刊行されました。著者による一般向け書籍には『天皇の歴史05 天皇と天下人』があり、本書とは対象とする時代が重なるのですが、同書については以前このブログで取り上げたことがあります。 http://sicambre.at.webry.info/201106/article_8.html ...続きを見る

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2011/11/18 06:45
武井弘一『鉄砲を手放さなかった百姓たち』
 朝日選書の一冊として、2010年6月に刊行されました。本書では、江戸時代の百姓が武器を手放したわけではなく、多数の鉄砲(鉄炮)を所持していたことが、史料に即して主張されています。これは、塚本学氏や藤木久志氏などがすでに主張していたことですが、本書では、なぜ百姓が鉄砲を手放さなかったのか、江戸時代の政治・社会の在り様、とくに幕府による鉄砲規制の社会的意味合いという観点から、具体的事例が多数取り上げられつつ詳しく説明されているのが特徴と言えるでしょう。 ...続きを見る

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2011/08/30 00:00
2010年「回顧と展望」日本・近世
藤井讓治「“惣無事”はあれど“惣無事令”はなし」『史林』93-3 ...続きを見る

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2011/08/06 00:00
藤田覚『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』
 『天皇の歴史』全10巻の第6巻として、2011年6月に講談社より刊行されました。天皇は、江戸時代初期には経済的に弱体化し、実質的な政治権力をほとんど喪失しましたが、幕末になってその政治的権威は向上し、明治の大日本帝国体制へと移行していくことになります。この変化がいかにして生じたのかという観点から、江戸時代の歴代の天皇の事績が、幕府との関係を中心にして、具体的に叙述されていきます。本書を読むと、中世の騒乱のなかで中止されるにいたった数々の朝議の再興に、江戸時代の天皇が熱心に取り組んでいたことと、... ...続きを見る

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2011/07/08 00:00
山本博文、堀新、曽根勇二編『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』
 柏書房より2011年6月に刊行されました。序章と第一章〜第十章までの各論考から成る論文集といった体裁になっています。各論考では豊臣秀吉の文書が取り上げられ、その原本の写真が掲載されるとともに、釈文と現代語訳が記載されており、一般向け書籍としてたいへん丁寧な構成になっています。だからといって、低俗に陥っているということはまったくなく、史料批判の徹底が非専門家にも分かりやすいような記述となっています。個々の論考で提示された見解の是非は今後も検証が必要でしょうが、一般向けの歴史書としてかなり良心的と... ...続きを見る

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2011/06/12 00:00
藤井讓治『天皇の歴史05 天皇と天下人』
 『天皇の歴史』全10巻の第5巻として、2011年5月に講談社より刊行されました。淡々と史実の叙述が続き、いつ著者の独自の見解が述べられるのだろう、とやや戸惑いながら読み進めていたところ、最後まで淡々とした史実の紹介に終始し、正直なところ、期待外れだったというか、大いに困惑しました。もちろん、史実にたいする著者の評価は随所で述べられていますし、そもそも史実をどう認定するのか、それをどのように叙述するのか、ということも著者の価値判断によるのですが、それにしても、もう少し著者独自の見解をまとめて述べ... ...続きを見る

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2011/06/08 00:00
2009年「回顧と展望」日本・近世
稲葉継陽『日本近世社会形成史論』(校倉書房) ...続きを見る

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2010/09/11 00:00
江戸時代の羞恥心
 「裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心」という、江戸時代の日本人の裸にたいする感覚についての記事を読みました。 http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/08/post-1281.html これは、中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』という本を紹介した記事なのですが、まだ同書を読んでいなので、以下に述べるのは、あくまでもこの記事についての雑感です。 ...続きを見る

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2010/08/28 00:01
清水克行『日本神判史』
 中公新書の一冊として、中央公論新社から2010年5月に刊行されました。清水氏の以前の著書『喧嘩両成敗の誕生』がたいへん面白かったということもありますが、盟神探湯・湯起請・鉄火起請といった過酷な裁判を行なった当時の人々の心性に以前より関心があったので、読んでみることにしました。本書が取り扱っている時代はおもに中世後期〜近世初期で、古代の盟神探湯にはあまり触れられていません。古代の盟神探湯と中世の湯起請との間には断絶があるとの見解が歴史学では優勢だそうで、漠然と両者の類似性・継続性を考えていた自分... ...続きを見る

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2010/06/15 00:00
松浦玲『坂本龍馬』第4刷(岩波書店)
 岩波新書(赤版)の一冊として、2010年2月に刊行されました。第1刷の刊行は2008年11月です。龍馬について私はほとんど知らず、妙に持ち上げられている胡散臭い人物というような漠然とした印象しか持っていなかったので、龍馬が主人公の大河ドラマが放映されている現在、安直な動機ではありますが、一度龍馬について学術的な成果に基づいた本を読んでみようと思った次第です。 ...続きを見る

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2010/05/06 00:00
神田千里『宗教で読む戦国時代』
 講談社選書メチエの一冊として、2010年2月に刊行されました。戦国時代に日本列島においてなぜキリスト教が勢力を拡大し、その後に弾圧されるにいたったのか、という日本史上の大問題にたいする意欲的な解答になっています。私が10代の頃に学校や歴史関係の本で学んだのは、キリスト教はその信者に身分秩序・権力者よりも神(信仰)を優先させるようになり、封建制度を否定しかねない危険な思想だったから、というような説明でした。 ...続きを見る

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2010/03/30 01:05
堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』
 吉川弘文館より2009年12月に刊行されました。織田信長の台頭から「鎖国の完成」という、現代日本では一般にも大きな関心をもたれている時代が扱われており、おそらく、この『日本中世の歴史』全7巻のなかで、もっとも売れるだろうと思います。本書の特徴は、武家と朝廷との関係を相互補完的な公武結合王権とする認識に基づいて、この時代の政治史を叙述している点です。 ...続きを見る

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2010/02/14 06:29
白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」
 「回顧と展望」で取り上げられていた著書・論文のうち、とくに面白そうなものをこのブログで紹介していますが、この論文も、そうしたものの一つです。 http://sicambre.at.webry.info/200910/article_20.html 関ヶ原の戦いを「庚子争乱」と呼んでもよいのではないか、と本論文では提言されており、関ヶ原の戦いが、たんに慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いとしてとらえられるのではなく、地理的・時間的にもっと広い範囲で考察されています。また、関ヶ原の戦いの当事者た... ...続きを見る

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2009/10/23 06:45
2008年「回顧と展望」日本・近世
吉田ゆり子『兵と農の分離』(山川出版社) ...続きを見る

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2009/10/20 00:20
光成準治『関ヶ原前夜』(日本放送出版協会、2009年)
 NHKブックスの一冊として2009年6月に刊行されました。副題に「西軍大名たちの戦い」とあるように、敗者の側の動向が丁寧に描かれています。関ヶ原の戦いについての歴史認識となると、今でも司馬遼太郎氏の著作をはじめとする小説の影響が大きいと言えるでしょうが、それらの小説により浸透しているさまざまな俗説が、本書では一次史料に基づいて検証されています。関ヶ原の戦いを、「武断派」対「文治派」、「封建派」対「中央集権派」といった単純な対立に分類し、その予断のもとに解釈するのではなく、個々の大名の置かれた複... ...続きを見る

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2009/09/09 00:00
小島毅『織田信長 最後の茶会』
 光文社新書の一冊として、光文社より2009年7月に刊行されました。小島氏の著作はこれまでにもこのブログで紹介してきましたが(『靖国史観−幕末維新という深淵』、『足利義満 消された日本国王』)、 http://sicambre.at.webry.info/200803/article_29.html http://sicambre.at.webry.info/200803/article_30.html この2冊、とくに『足利義満 消された日本国王』と比較すると、ふざけた感じの文章が激減し... ...続きを見る

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2009/09/03 06:16
磯田道史『武士の家計簿』(新潮社、2003年)
 新潮新書の1冊として刊行されました。評判の高い本書ですが、刊行から6年後にはじめて読むことになりました。本書は、加賀藩のある藩士の家の家計簿を史料として、江戸時代後期から幕末を経て明治時代にまでいたる、その一家の変遷を詳細に描いています。あくまでもこの一家の事例ではありますが、当時の武士社会の在り様がうかがえる、たいへん興味深い記述になっており、評判の高さにも納得しました。 ...続きを見る

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2009/07/08 06:45
青木美智男『日本の歴史別巻 日本文化の原型』(2009年5月刊行)
 小学館『日本の歴史』の別巻となります。文化を受容する立場という視点から、日本文化の原型としての江戸時代の文化が概観されています。衣食住という生活の基本要素から、出版・演劇・旅にいたるまで、多様な分野が取り上げられていますが、これらの文化を作る側ではなく、受容・消費する側の視点を中心とした叙述となっている点が、作品論・作者論になる傾向の強い文化史としてはやや異色と言えるかもしれません。 ...続きを見る

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2009/06/20 00:00
後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』(2009年)
 歴史文化ライブラリーの1冊として、吉川弘文館より刊行されました。夫婦同姓・別姓の問題を歴史的に考えていく場合に、参考になりそうだと思い読んだのですが、その期待通りにさまざまな知見が得られたので、読んで正解だったと思います。前近代の日本社会は夫婦別姓であり、現代の日本社会における夫婦同姓(夫婦同氏)は西欧の物真似で、たかだか100年ていどの歴史しかない、との夫婦別姓容認論側によく見られる歴史認識の誤謬の根本的な要因は、氏(姓)と苗字(名字)との混同です。 ...続きを見る

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2009/04/24 00:00
木曽が信濃国になったのは約500年前
 日本近世史が専門で信大人文学部の山本英二准教授によると、木曽が信濃国になったのは1491〜1515年の間だと判明した、と報道されました。木曽の地名が初めて出てくる『続日本紀』には「美濃国の岐蘇山道を開く」とあり、木曽は美濃ということになっています。中世においては、木曽の北部が信濃国で南部は美濃国とされていました。17世紀半ばの信濃国の郷帳では、木曽の村がまとめて記載されていますが、この間の帰属の移行状況はよく分かっていませんでした。 ...続きを見る

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2008/12/13 06:48
平川新『日本の歴史第12巻 開国への道』(2008年11月刊行)
 小学館『日本の歴史』12冊目の刊行となります。一般向け通史にしては、日露外交史の記述が多すぎるかな、とも思いますが、ヨーロッパから見た「帝国」としての日本像の紹介、大塩平八郎・水野忠邦・遠山景元・鳥居耀蔵といった著名な人物の評価や天保の改革の見直しなど、江戸時代後期の歴史に詳しくない私のような一般読者にとっては、なかなか楽しめる一冊になっていると思います。 ...続きを見る

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2008/12/08 06:21
倉地克直『日本の歴史第11巻 徳川社会のゆらぎ』(2008年10月刊行)
 小学館『日本の歴史』11冊目の刊行となります。災害と「治」をめぐるせめぎ合いという観点から、18世紀の日本社会が描かれます。著者は、この二つの観点を基礎におきつつ、18世紀の日本社会の様相を多岐にわたって論じており、博学だな、との印象を受けました。 ...続きを見る

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2008/11/27 06:46
水本邦彦『日本の歴史第10巻 徳川の国家デザイン』(2008年9月刊行)
 小学館『日本の歴史』10冊目の刊行となります。江戸時代前期の日本社会の在り様とその成立過程を、具体的事例を引用しつつ叙述した一冊です。その分、一般の歴史愛好者がとくに好むであろう、人物本位的な政治史的記述が少なめだ、との印象を受けました。 ...続きを見る

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2008/09/30 06:56
ロナルド=トビ『日本の歴史第9巻 「鎖国」という外交』(2008年8月刊行)
 小学館『日本の歴史』9冊目の刊行となります。「新視点・近世史、従来の“鎖国”史観を覆す新たな視点」とのことで、1970年代の小学館版『日本の歴史』の「日本史の社会集団」や、2000年代の講談社版『日本の歴史』の「**史の論点」の巻と似た役割を担うことになるのでしょう。 ...続きを見る

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2008/09/14 00:00
写楽の肉筆画がギリシャの美術館で発見される
 東洲斎写楽の肉筆扇面画が、ギリシャのコルフ島のアジア美術館に所蔵されていたことが判明した、と報道されました。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を題材にした役者絵で、浮世絵版画の世界から姿を消した直後の筆と見られる、とのことです。写楽の浮世絵版画はデフォルメが特徴とされていますが、この肉筆画では抑制された筆致を見せている、とのことです。 ...続きを見る

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2008/08/07 04:59
法螺を吹く
 現在では、「大言を吐く、虚言を言う」といった意味合いで用いられることがもっぱらですが、かつては違った意味で用いられていたようです。以下の青字の箇所は引用文で、引用文中の「この時代」とは戦国時代のことです。 ...続きを見る

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2008/05/15 00:00
藤田達生『秀吉神話をくつがえす』
 講談社現代新書の一冊として、講談社より2007年9月に刊行されました。朝鮮役は取り上げられていないので、秀吉の(批判的)伝記としては物足りない感がありますが、新書であることを考慮すると、仕方のないところかもしれません。続編の刊行を期待したいところです。 ...続きを見る

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2008/03/07 00:00
勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」
 『日本歴史』第704号(2007年1月号)の特集は「日本史のことば」で、さまざまな史料上のことばや学術用語などが取り上げられ、考察されています。その中で興味深いものについては、今後このブログで紹介していくことにしますが、まずは冒頭の勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」について述べることにします。 ...続きを見る

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2007/12/14 00:00
400年前の韓流?(東京新聞社説より)
 4月15日の東京新聞の社説「週のはじめに考える 四百年前の『韓流』」には考えさせられるものがありました。この社説は、明石書店より2000年に刊行された、日本語訳『国定韓国高等学校歴史教科書』などに見られる、韓国の一般的な歴史認識とも通ずるところが多分にあります。次に、同書から朝鮮通信使に関する記述を引用します(青字の箇所)。 ...続きを見る

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2007/04/17 07:56
豊臣秀吉の人気
 5年以上前になりますが、豊臣秀吉について雑文を書いたことがあります。 http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history013.htm このときは、日本では秀吉がもっとも人気のある歴史的人物だ、と書いたのですが、今になってみると、どうもこの認識は間違っていたように思えてなりません。近年の各種のアンケート調査などから、秀吉の人気は、織田信長に遠く及ばないとみるのが妥当なようです。  明治から敗戦までは、秀吉は日本史上の立身出世の代表格とされ、太閤さんとよ... ...続きを見る

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2006/10/16 19:57

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