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みんなの「社会科学」ブログ


加齢によるリスク選好の変化は脳構造の変化に起因する

2017/02/25 00:00
 これは2月25日分の記事として掲載しておきます。加齢によるリスク選好の変化に関する研究(Grubb et al., 2016)が公表されました。ヒトがリスク(予測できない結果)を伴う意思決定を行うさいには、右後部頭頂皮質という脳領域が活動しています。これまでの研究では、この領域の灰白質の量が若年成人のリスク選好と相関していることが明らかになっています。ヒトでは、昔から知っていて見慣れたものを選ぶ傾向は、年齢を重ねるにつれて顕著になります。ヒトは年をとるとリスクのある決定をあまりしなくなるわけですが、その原因が、年を重ねて得られた知恵なのか脳の構造なのかは、分かっていません。

 この研究は、52人の被験者(18〜88歳)による実験を行い、確実な選択肢と不確実な選択肢のいずれかを選ばせました。予想通り、高齢の被験者と若い被験者を比較すると、高齢の被験者の方が確実な選択肢を好み、確実な選択肢を好む傾向は年齢が高くなるほど顕著になりました。この研究は次に、得られたデータをモデルに組み込み、こうした好みの変化を予測する変数として最も適したものを判定しました。その結果、主因子は右後部頭頂皮質の灰白質の量である、と明らかになりました。この結果は、健康な加齢において生じる脳の変化が、これまで考えられていた以上に、ヒトの意思決定のパターンと選好に強い影響を与えていることを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】加齢によるリスク選好の変化は脳構造の変化によって説明できる

 昔から知っていて見慣れたものを選ぶ傾向は年齢を重ねるにつれて顕著になるが、この傾向は、加齢ではなく特定の脳領域の灰白質の変化によってうまく説明できることを明らかにした論文が掲載される。

 ヒトがリスク(別の言い方をすれば「予測できない結果」)を伴う意思決定を行う際には、右後部頭頂皮質という脳領域が活動している。これまでの研究では、この領域の灰白質の量が若年成人のリスク選好と相関していることが明らかになっている。ヒトは年をとるとリスクのある決定をあまりしなくなるが、その原因が、年を重ねて得られた知恵なのか脳の構造なのかは分かっていない。

 今回、Ifat Levyの研究チームは、52人の被験者(18〜88歳)による実験を行い、確実な選択肢(5ドルが得られる)と不確実な選択肢(5〜120ドルが得られるが、実際に得られる額はランダムな確率で決まる)のいずれかを選ばせた。予想通り、高齢の被験者と若い被験者を比較すると、高齢の被験者の方が確実な選択肢を好み、確実な選択肢を好む傾向は年齢が高くなるほど顕著になった。次にLevyたちは、このデータをモデルに組み込んで、こうした好みの変化を予測する変数として最も適したものを判定した。その結果、こうした好みをもたらす主たる因子が、加齢ではなく、右後部頭頂皮質の灰白質の量であることが判明した。この結果は、健康な加齢において生じる脳の変化が、これまで考えられていた以上にヒトの意思決定のパターンと選好に強い影響を与えていることを示唆している。



参考文献:
Grubb MA. et al.(2016): Neuroanatomy accounts for age-related changes in risk preferences. Nature Communications, 7, 13822.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms13822
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「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか

2017/02/20 00:00
 これは2月20日分の記事として掲載しておきます。表題の記事がナショナルジオグラフィックに掲載されました。正直なところ、表題を読んだ時には、男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった言説が展開されるのではないか、とかなり警戒したのですが、以前からの私の見解にひじょうに近いところがあり、かなり同意できる内容でした。もっとも、表題の記事で男女差の事例とされた課題実験も、社会的に構築された性差の構造に起因するものにすぎない、との反論もあるかもしれません。こうした問題に関しては、今後も検証が必要なのだと思います。認知能力と遺伝子との関連が今よりもはるかに解明されれば、もっとはっきりと分かってくることなのでしょう。

 現時点では、「能力」の性差に関して確実に判明していることはあまりにも少ないのかもしれませんが、『私、別に男女の脳に差がないとは全然思ってなくて、絶対あると思ってるんです』との発言には強く同意します。ただ、それは、表題の記事の指摘にあるように、『統計的にはめちゃめちゃ有意なんです。確実に男女差がある。でも、有意だというのと、大きな差があるかというのは別で、男女のヒストグラムがこれだけ重なって、男女の平均の差よりも、個人差の方が大きいよねってくらいのものです』ということでもあると思います。

 『すごく大事なのは、集団Aと集団Bの間に差があると分かった時、それが統計的に「有意」であったとしても、それだけで、集団Aの構成員はこうで、集団Bの構成員はこうだ、とは決めつけられないことだ。集団間にある分布の違いを明らかにすることと、構成員の個々の特性を明らかにすることは全く違うことなのに、しばしば混同される』との指摘は、本当に重要だと思います。これは、性別に限らず、たとえば民族・地域集団間の比較でも言えることでしょう。

 民族・地域集団(一般には、「人種」という用語が広く使われていますが)間で能力に差はない、とするのが現在では「政治的に正しい」こととされているように思います。しかし私は以前から、確証はきわめて困難だとしても、民族・地域集団で「能力」に優位な差のある事例が多いだろう、と考えてきました。ここで問題となるのは、「能力」の定義というか、「能力」の測定条件です。ある能力に関しても、条件(環境)が違えば、結果は変わってくるかもしれません。たとえば、温度・湿度といった気候条件や、生命の危険性の度合いといった条件などです。

 このように考えれば、「能力」は無数と言ってもよいくらいの種類があり、条件(環境)により「優劣」が変わってくる場合も少なくないだろう、と考えられます。生物の諸形質に関する「優秀・劣等」という二分論的な評価は多分に環境依存的であり、その環境とは自然的なものだけではなく人為的なものも含まれますから、環境が容易に変動することを考えると、特定の環境への過剰な適応を目的にしているとも言える優生学の危険性は明らかだと思います(関連記事)。また、表題の記事の指摘と関連しますが、多くの能力は、集団間の差よりも集団内の個人差の方がはるかに大きいものになるでしょう。その意味で、「**(たとえば黒人や女性や特定の民族集団)に(高等)教育は無駄だ」というような議論があるとすれば、それは根本的に間違っていると思います。

 ただ、個人単位ではなく社会的な単位での比較となると、やはり「能力差」が重要なのだ、との見解もあるかもしれません。たとえば「経済発展」などの社会的な事象に関しては、ある特定の「能力」の集団間のごく僅かな差が決定的な要因になり得ることもあるのだ、との見解も提示されるかもしれません。特定の条件(環境)では、あるいはそうした事例もあり得るのかもしれず、たとえば、それがネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との「交替劇」の要因になった可能性は、現時点では排除できないと思います。まあ、これは現生人類内部での比較と同列に扱うわけにはいきませんが。
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不正を続けると不正への脳の感受性が低下する

2017/02/16 00:00
 不正直な行動と脳の感受性に関する研究(Garrett et al., 2016)が公表されました。この研究は、18〜65歳の80人に参加してもらい、第1被験者に1ペンス銅貨入りのガラス瓶の画像を見せて銅貨の数を見積もらせ、その数を第2被験者に伝えさせる、という実験を行ないました。この研究は、(1)第2被験者が不利益を受けて第1被験者が利益を得る、(2)第1被験者も第2被験者も利益を得る、(3)第1被験者が不利益を受けて第2被験者が利益を得る、(4)第1被験者だけが利益を得て、第2被験者は影響を受けない、(5)第2被験者だけが利益を得て、第1被験者は影響を受けないというように、ガラス瓶の中身に関して不正直になることが誰の利益になるのかという観点から条件を変えていきました。

 その結果、検査を数回続けると、第1被験者が利益を得る条件(第2被験者が不利益を受ける場合と第2被験者も利益を得る場合)では、第1被験者が不利益を受けて第2被験者が利益を得る場合と比較して、第1被験者の不正直が増大していました。さらに、不正直の測定レベルと不正直の測定レベルの増大幅は、第1被験者だけが利益を受ける場合の方が第2被験者だけが利益を受ける場合より大きくなっており、こうした結果が私利私欲によるものと示唆されています。

 この研究は、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用い、一部の被験者が一つの条件による実験に参加した時の脳活動を測定しました。これらの被験者の場合、自分の利益になる不正直に対する脳の右半球と左半球の両方の扁桃体(感情を誘発する事象に対して感受性を持つ脳領域)の応答が時間の経過に伴って次第に低下していきましたが、自分が不利益を受ける不正直ではそのようなことがありませんでした。

 特定の検査において自分の利益になる不正直に対する被験者の扁桃体の応答が低下することは、その被験者について、その後の検査で自分の利益になる不正直が増大する量を予測する際に利用できる可能性がある、と指摘されています。この研究で得られた知見は、詐術のいろいろな側面と関連している他の脳領域が原因になっているとは考えられず、自分の利益になる不正直において扁桃体が特権的な役割を果たしていることが示唆されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


脳が不正直に適応して不正直の程度が次第に増していく

 自分の利益になる不正直な行動を繰り返すと不正直に対する脳の感受性が低下することを報告する論文が、今週のオンライン版に掲載される。今回、管理された実験条件下で不正直の増大を誘導して、測定する研究が行われ、正直からの少しの逸脱が繰り返されるうちに逸脱が雪だるま式に大きくなり、かなりの程度の不正直になってしまう“slippery slope(転落への坂道)”が生物学的に説明されている。

 今回、Neil Garrett、Tali Sharotの研究チームが行った実験には80人の成人(18〜65歳)が参加し、第1被験者に1ペンス銅貨入りのガラス瓶の画像を見せ、銅貨の数を見積もらせ、その数を第2被験者に伝えさせた。Garrettたちは、 (1)第2被験者が不利益を受けて第1被験者が利益を得る、(2) 第1被験者も第2被験者も利益を得る、(3) 第1被験者が不利益を受けて第2被験者が利益を得る、(4) 第1被験者だけが利益を得て、第2被験者は影響を受けない、(5) 第2被験者だけが利益を得て、第1被験者は影響を受けないというようにガラス瓶の中身に関して不正直になることが誰の利益になるのかという観点から条件を変えながら実験を行った。

 検査を数回続けると、第1被験者が利益を得る条件(第2被験者が不利益を受ける場合と第2被験者も利益を得る場合)では、第1被験者が不利益を受けて第2被験者が利益を得る場合と比べて第1被験者の不正直が増大していた。さらに不正直の測定レベルと不正直の測定レベルの増大幅は、第1被験者だけが利益を受ける場合の方が第2被験者だけが利益を受ける場合より大きくなっており、以上の結果が私利私欲によるものということが示唆されている。

 今回の研究では、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて、一部の被験者が1つの条件による実験に参加した時に脳活動の測定が行われた。これらの被験者の場合、自分の利益になる不正直に対する脳の右半球と左半球の両方の扁桃体(感情を誘発する事象に対して感受性を持つ脳領域)の応答が時間の経過に伴って次第に低下していったが、自分が不利益を受ける不正直ではそのようなことがなかった。特定の検査において自分の利益になる不正直に対する被験者の扁桃体の応答が低下することは、その被験者について、その後の検査で自分の利益になる不正直が増大する量を予測する際に利用できる可能性がある。以上の知見は、詐術のいろいろな側面と関連している他の脳領域が原因になっているとは考えられず、自分の利益になる不正直において扁桃体が特権的な役割を果たしていることが示唆されている。



参考文献:
Garrett N. et al.(2016): The brain adapts to dishonesty. Nature Neuroscience, 19, 12, 1727–1732.
http://dx.doi.org/10.1038/nn.4426
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社会規範の違反の程度と応答

2017/02/08 00:00
 これは2月8日分の記事として掲載しておきます。社会規範の違反の程度と応答に関する研究(Balafoutas et al., 2016)が公表されました。この研究は、ドイツの駅で軽微な違反行為(コーヒー用の紙コップのポイ捨て)と重大な違反行為(コーヒー用の紙コップと何かが入っている紙袋のポイ捨て)を演出し、800回以上の試行によって旅行者の反応を記録しました。これらの試行で、違反の大小はポイ捨てをした者が叱責される可能性や叱責の程度に影響を及ぼしませんでした。

 一方、同じ場所で独立して実施されたアンケート調査では、対照的な観察結果が得られました。こちらの調査では、重大な違反に対する回答者の否定的感情が強くなり、重大な違反の方がより厳しく叱責されるべきだと回答者が感じている、と明らかになりました。しかし、こうした反応を示した回答者は、現実の状況下でこの違反行為を罰することには消極的であることを認めており、その理由として、社会規範の違反の程度が大きくなるにつれて、違反者による報復のリスクが高くなると考えられることを挙げました。

 社会規範の違反があった場合、違反の程度の大小で人間の応答は変わらず、重大な違反行為に対する処罰を軽微な違法行為より厳しくすべきだという考えは、違反者による報復に対する恐怖が増すことで相殺されていたのではないか、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【人間行動】社会規範の強制がうまく行かない理由

 社会規範の違反があった場合に違反の程度(例えば、ゴミのポイ捨ての程度)が大きい場合と小さい場合で人間の応答が変わらないことを明らかにした論文が、今週掲載される。重大な違反行為に対する処罰を軽微な違法行為より厳しくすべきだという考えは、違反者による報復に対する恐怖が増すことで相殺されていたことが今回の研究で示唆されている。

 今回、Loukas Balafoutasたちは、ドイツの駅で軽微な違反行為(コーヒー用の紙コップのポイ捨て)と重大な違反行為(コーヒー用の紙コップと何かが入っている紙袋のポイ捨て)を演出し、800回以上の試行によって旅行者の反応を記録した。これらの試行で、違反の大小は、ポイ捨てをした者が叱責される可能性や叱責の程度に影響を及ぼさなかった。

 旅行者の行動の観察結果と対照的だったのが、同じ場所で独立して実施されたアンケート調査で、重大な違反に対する回答者の否定的感情が強くなり、重大な違反の方がより厳しく叱責すべきだと回答者は感じていることが判明した。ところが、こうした反応を示した回答者が、現実の状況下でこの違反行為を罰することには消極的であることを認め、その理由として、社会規範の違反の程度が大きくなるにつれて違反者による報復のリスクが高くなると考えられることを挙げた。



参考文献:
Balafoutas L, Nikiforakis N, and Rockenbach B.(2016): Altruistic punishment does not increase with the severity of norm violations in the field. Nature Communications, 7, 13327.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms13327
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社会的ネットワークにおける富の不平等と可視性

2015/10/22 00:35
 社会的ネットワークにおける富の不平等と可視性についての研究(Nishi et al., 2015)が公表されました。富の不平等と富の可視性は、社会における協力行動のレベルや全体的な経済的繁栄のレベルに影響を及ぼす可能性があります。この研究は、オンラインゲームを用いて、この両要因がどのように相互作用するのか、調べました。その結果、プレーヤーが他者の富について知らないかぎり、富の不平等だけでは協力行動も全体の富も損なわれないことが明らかになりました。しかし、プレーヤーの富が他者に見える場合には、不平等が悪い影響を及ぼすことも明らかになりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


社会進化学:実験的な社会的ネットワークにおける富の不平等と可視性

社会進化学:他者の富が見えると協力行動が損なわれる

 富の不平等と富の可視性は、いずれも社会における協力行動のレベルや全体的な経済的繁栄のレベルに影響を及ぼす可能性がある。西晃弘(エール大学)たちは今回、オンラインゲームを用いて、この2つの要因がどのように相互作用するのかを調べた。意外なことに、プレーヤーが他者の富について知らないかぎり、富の不平等だけでは協力行動も全体の富も損なわれなかった。しかし、プレーヤーの富が他者に見える場合には、不平等が悪い影響を及ぼした。



参考文献:
Nishi A. et al.(2015): Inequality and visibility of wealth in experimental social networks. Nature, 526, 7573, 426–429.
http://dx.doi.org/10.1038/nature15392
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人間の協力性

2014/09/25 00:00
 人間の協力性についての研究(Peysakhovich et al., 2014)が公表されました。この研究は、1400人以上の被験者の参加した協力ゲーム・規範強制型懲罰ゲーム・競争ゲームの結果から、協力するという決定がさまざまなシナリオにわたって相関するかどうか、検証しました。その結果、さまざまな協力ゲームにおける参加者の意思決定に相関が認められ、ゲームにおける意思決定がゲーム以外の状況下での自己申告に基づく協力の指標および実際の協力の指標の両者と相関していたことも明らかになりました。さらに、平均124日の間隔でなされた2つの協力の意思決定が同じ程度に強く相関していることも明らかになり、時間が経過しても協力性が安定していることも示されました。一方、協力行動が規範を強制するための懲罰や非競争的状況と相関しないことも明らかになり、協力傾向が状況に依存するという考え方を裏付ける実験的証拠はほとんど得られなかった、とのことです。この研究は、「協力性の表現型」の証拠がもたらされた、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会科学】あなたは協力者ですか

 ヒトに協力性の表現型が存在することを示す証拠について報告する論文が、今週掲載される。表現型とは、遺伝子と環境の相互作用によって作り出される性質のことだ。

 協力行動は、社会性を持つ生物種の繁栄にとって根本的に重要だが、協力行動をとる個体は、他者の利益のために犠牲を払うことが求められる。ヒトの協力の仕方と協力する場面、それに、進化と戦略的論法によって協力行動が生まれる理由を解明することは、自然科学、社会科学を通じて、研究者の大きな課題となっている。

 今回、David Randたちは、1,400人以上の被験者からゲームを行う際の意思決定(数千例)を収集して、協力性の表現型の存在を裏付ける大量の実験データを生成した。Randたちは、協力ゲーム、規範強制型懲罰ゲーム、競争ゲームを用いて、協力するという決定が、さまざまなシナリオにわたって相関するかどうかを調べた。また、今回の研究では、世界価値観調査を用いて、ゲームでの行動に、基本的な道徳的価値観が反映されているのかどうかを調べ、そして、ゲーム参加者に実験の終了を告げた上で、フィードバックの提供を通じて他の参加者を助けることを依頼して、ゲーム以外の場における現実の援助行動を調べた。

 その結果、さまざまな協力ゲームにおける参加者の意思決定に相関が認められた。また、ゲームにおける意思決定は、ゲーム以外の状況下での自己申告に基づく協力の指標と実際の協力の指標の両者と相関していた。さらに、平均124日の間隔でなされた2つの協力の意思決定が同じ程度に強く相関していることが明らかになり、時間がたっても協力性が安定していることも示された。一方、協力行動は、規範を強制するための懲罰や非競争的状況と相関しないことも明らかになり、協力傾向が状況に依存するという考え方を裏付ける実験的証拠はほとんど得られなかった。

 今回の研究で行われた一連の実験で、ヒトの社会的選好の一般性に関する詳細な評価が得られ、「協力性の表現型」の証拠がもたらされた。



参考文献:
Peysakhovich A, Nowak MA, and Rand DG.(2014): Humans display a ‘cooperative phenotype’ that is domain general and temporally stable. Nature Communications, 5, 4939.
http://dx.doi.org/10.1038/ncomms5939
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社会学と生物学

2014/07/19 00:00
 昨日このブログにて取り上げた高橋征仁「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」にはたいへん興味深い指摘が色々とあり、昨日の記事では取り上げきれなかった問題もあるので、少し補足しておきます。高橋論文では安藤寿康『遺伝子の不都合な真実─すべての能力は遺伝である』(関連記事)も引用されています。同書では「環境論者」が熱心に批判されているのですが、私はこの問題に疎いので、「環境論者」が本当に遺伝子の影響を軽視したような主張をしていたのか、あるいは「環境論者」が戯画化されているのではないか、との疑問も残りました。

 しかし、高橋論文を読むと、『遺伝子の不都合な真実』で批判されているような「環境論者」が一定以上存在していたことは否定できないのかな、と考えるようになりました。『遺伝子の不都合な真実』を読む前も読んだ後も、生物学・進化心理学・行動遺伝学などは遺伝により能力・性格・嗜好などが決定されると主張している、と「環境論者」は誤解しており(意図的か否かはさておき)、それに反対して環境の影響も大きいことを強調しているだけなのかな、と私は考えていました。しかし、社会学の側から、社会学では今でも「バイオ・フォビア」が強力だ、との指摘がなされたことを考えると、社会学には依然として「環境論者」が多く、生物学・進化心理学・行動遺伝学などへの警戒感・忌避感が強いのかな、と思います。自分の認識の甘さ・勉強不足を思い知らされます。

 社会進化論・優生学の及ぼした影響を考えると、社会学の側の警戒感にも仕方のないところがある、と言えるかもしれません。しかし高橋論文は、「育ち」を重視する社会学の研究枠組みが戦後の民主主義社会の形成に果たした重要な役割を認めつつも、社会進化論・優生学の政治的・道徳的責任を生物学に一方的に推しつける責任逃れの一面もあったのではないか、と指摘します。はたしてそのような側面が認められるのか、私の見識では的確な判断の難しいところですが、検証に値する重要な指摘だとは思います。

 なお、昨日の記事では、未婚化や少子化をめぐる社会学的説明モデルに関して、1970年代以降顕著になった日本社会内部の変動に注目するものが多く、明らかに近視眼的でドメスティックだ、という本論文の見解を紹介しました。しかし、一方で本論文は、家族史研究の側では、日本の少子化が第二次世界大戦前から始まり、逆淘汰(社会階層が高いほど出生率が低くなること)への危機感から優性運動が広がり、第二次世界大戦後の家族意識の改革が優生思想に由来していると指摘されてきたことも、取り上げています。

 高橋論文の背景の一つに、現代は遺伝情報を人為的に制御できる段階に突入している、との認識があるようです。これまでの長期間、遺伝子組成の更新はその大部分が有性生殖を通じて無自覚的に行なわれてきたのにたいして、新たな段階に突入した現在、遺伝子を自由と平等の敵とみなし(『遺伝子の不都合な真実』は、環境が遺伝子を制約しているという側面と、そのことによる問題点を強調します)、優生学に悪のラベルを貼りつけ、タブー化するだけでは何ら問題解決にならない、と高橋論文は指摘します。現代社会が新たに手にしたこの「自由」にどのような倫理的制約を課すかは、これまでの性淘汰の歴史を参照しながら、我々自身が決めていくしかない、と高橋論文は提言しています。
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高橋征仁「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」

2014/07/18 00:02
 表題の論文を(高橋.,2013)読みました。ひじょうに興味深い論文で、納得できるところが多々ありました。本論文が社会学の研究者の間でどのように受け止められたのか、社会学に疎い私にはよく分かりませんが、社会学の研究者と会話をする機会があれば、尋ねてみたいものです。社会学に疎い私でも、進化学関連で色々と情報を収集していると、社会学の側に生物学への警戒感が根強くありそうだな、とは感じてきました。本論文は、義務でもないのに、進化や遺伝子という言葉を掲げ、ジェンダー研究や家族社会学の領域に足を踏み入れようとする社会科学者は「愚かな」研究者とみなされるに違いなく、ジェンダー研究や家族社会学の領域における「バイオ・フォビア」は強力だ、と指摘しています。

 私からすると、ジェンダー研究や家族社会学のような学際的性格が強くならざるを得ない学術分野において、進化学の成果を大々的に取り入れなければならないのは自明のことだと思うのですが、それだけ社会進化論・優生学への警戒が強い、ということでもあるのでしょう。ある社会的行動の説明に際して、性別や年齢を統制変数として分析モデルに投入し、それらの説明力が比較的高く安定しているにも関わらず、その意味について深く考察せず、より説明力の低い文化資本や社会階層の指標など「文化的・社会的要因」探しに夢中になるのは、社会学の本分なのだろうか?と本論文は疑問を呈しています。

 本論文によると、社会学に比較的近い心理学・文化人類学・経済学・言語学などだけではなく、哲学・文学・宗教学などでも、進化論的転換は看過できないものになっているのに、社会学だけはこの学際的研究動向から隔離され、事実上「鎖国状態」に陥っている、とのことです。未婚化や少子化をめぐる社会学的説明モデルにしても、1970年代以降顕著になった日本社会内部の変動に注目するものが多く、明らかに近視眼的でドメスティックだ、と本論文は指摘します。近代化という特殊なニッチ構築だけではなく、生存と繁殖に関する進化論の一般的原則も視野に入れる必要があるだろう、と本論文は提言しています。

 たとえば「マルクス主義フェミニズム」は、家父長制的資本制が女性の労働力を「搾取」・「横領」してきた事実を抉り出すための強力な武器となってきたものの、多くの人々が性別分業や母性神話をめぐる矛盾に半ば気づきながらも、なぜ自己犠牲を選択するのか、上手く説明できていない、と本論文は指摘します。それに対して、進化論的アプローチは、養育行動の究極要因が適応度(遺伝子の複製)の増大にあり、子供に対する親の投資のあり方が、系統発生的な頑健さと戦略的な多様性を併せ持つことを証明してきた、というわけです。

 本論文は、進化論的アプローチと人文社会科学との新たな協力・競合関係を構築し、従来の理論的問題や実践的困難を乗り越える道を切り開いていくような研究の推進に関わる規範的立場を、「ダーウィニアン・フェミニズム」と呼んでいます。両者は両立可能であり、相互に有益な知見を生み出すことも展望されています。「生まれか育ちか」という二項対立的図式から脱却するうえでも、「ダーウィニアン・フェミニズム」という看板は有効だろう、と本論文は指摘しています。

 二項対立的図式としては、たとえばセックス(sex)とジェンダー(gender)とがあり、生物学的に形成された前者と文化・社会的に形成された後者として説明されています。しかし、表現形態としての男/女らしさを意味する英語のジェンダー(gender)には、その形成要因を文化的・社会的なものに限定する意味合いはない、と本論文は指摘しています。また、社会学の側では、人間と(人間ではない)動物との差異を強調するような二項対立的図式が見られたのに対して、生物学の側では、そうした二項対立的図式から脱却し、人間と(人間ではない)動物との連続性が探られてきた、とも本論文は指摘しています。

 本論文は、家族研究に進化学の研究成果を取り入れるにさいして、「家族」という生活様式が系統発生的にみてさほど古くなく、その実態が多様であることに起因する難しさを指摘しています。本論文は、アウストラロピテクス=アファレンシスが家族として暮らしていた証拠はほとんどないとし、家族の起源を180万年前頃のホモ=エレクトスの時代に求めるのが一般的だ、との見解を提示しています。直立二足歩行に伴う脳容量の肥大化(直立二足歩行には少なくとも二段階の画期があり、それぞれと脳容量の増大は直接的には結びつかないだろう、と私は考えています)と養育期間の長期化により、男女のペア・ボンドが強められ、男性の養育参加や性別分業が促進されたのではないか、というわけです。ただ、性別分業は上部旧石器時代の現生人類(ホモ=サピエンス)社会において始まったのではないか、との見解もあります(関連記事)。

 人類の家族形態に関して、更新世以前についてはほとんど直接的証拠がない、というのが現状でしょう。管見の限りでは、数少ない事例となりそうなのが、中部旧石器時代のイベリア半島北部のネアンデルタール人(ホモ=ネアンデルターレンシス)の社会に夫居制的婚姻行動が存在した可能性を指摘した研究(関連記事)と、ネアンデルタール人社会で何代かにわたって近親婚が繰り返されていた可能性を指摘した研究です(関連記事)。ただ、そうした見解が妥当だとしても、それを地理的・時間的に拡大してどこまで一般化できるのか、さらには現生人類の社会でも同様だったのか、という疑問は残ります。おそらく、更新世の頃より人類社会の在り様は多様だったのではないか、と私は考えています。

 親の子供への愛情を近代(中世から近世を経て近代にかけての長い移行期に進行します)の社会規範と強く結びつける見解もあります(関連記事)。しかし本論文は進化学の研究成果を参照し、親が子供に対して愛情を抱くメカニズムは、イデオロギーによる誤作動ではなく、進化的な適応そのものであり、進化を通じて身体的に準備されてきたものではあるものの、それは母性神話にみられる無限の自己犠牲や慈愛などではなく、きわめて戦略的かつ状況依存的な選択に変わるのだ、と指摘します。戦後の社会学は、愛や母性に関する近代的イデオロギーの特殊性にこだわるあまり、人間行動に底流する基本プログラムの存在を見逃してきた、というわけです。本論文は家族という人間社会の制度を、遺伝子複製という利害を共有する男女とその血縁者間のダイナミズムたる遺伝子共同体として把握することで、現代の家族問題に異なる角度からの鳥瞰を得ることができる、と指摘しています。


参考文献:
高橋征仁(2013)「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」『社会分析』40号P105-122
http://jsasa.org/paper/40_7.pdf
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人種・民族の違いと人種差別

2012/08/23 20:19
 「人種と民族の違いを知っていますか?」という表題のブログ記事話題になっていたので読みました。「gingin1234」氏の

 こういう発言にも突っかかってる連中って、当然、韓国人の方にも徹底的に罵倒してるんだよな? 相手の民族によって異なる対応をするということは、すなわち人種差別だということくらいは知ってるよね?

という発言にたいして、民族と人種が概念として異なることを知らないのではないか、と指摘した記事です。10年以上前から、日本人と韓国人は同じ人種なのだから、日本人の韓国人にたいする差別(その逆も)は人種差別ではなく民族差別だ、という指摘をネットでたびたび見かけます。この文脈では、日本人は「ヤマト民族」で韓国人は「朝鮮民族」だということが大前提になっているようですが、この問題は今回は扱いません。上記のブログ記事も、同様の論理で「gingin1234」氏の上記発言の間違いを指摘しています。しかし、人種差別撤廃条約にて

 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

と述べられていることもありますが、たとえば日本人と韓国人とのように同じ人種(と考えられている)間の差別であろうとも、世界では一般的に人種差別と呼ぶのだろう、と私は考えていたので、「gingin1234」氏の上記発言における人種差別の用法は、間違いとは言えないのではないか、と思います。もっとも、これは私の知識・見解であり、私は差別問題に精通しているわけではないので、自分の認識が妥当かというと確固たる自信はなく、あるいは私の認識が的外れなのかもしれませんが。

 それにしても、上記のブログ記事を読んで、現代日本社会において三大人種説はすっかり浸透しているのだな、と改めて思います。この問題については、以前このブログで取り上げましたが、私が高校生の頃に使っていた二十数年前の世界史教科書でも、上記のブログ記事と同様の認識が示されていました。三大人種説についてはその記事で取り上げましたが、とても妥当とは言えない三大人種説が現代日本社会で浸透してしまっているように思われるのは、日本の教育の問題でもあるのでしょう。

 日本人として、日本人のありようを批判している時に、「中国人と韓国人にも言え!!」と言われても論点のすり替えにもなっていません。あくまで、日本人としてのアイデンティティをめぐる問題なのです。日本人として恥ずかしい人を批判しているのです。なので、民族差別でもなんでもありません。

との上記のブログ記事の指摘については、主観的にはそうであっても、自分の帰属する(と当人が認識している)共同体の構成員への批判が偏見・先入観などによる的外れなものであれば、それが民族差別・ヘイトスピーチなどと批判されて当然でしょう(上記のブログ記事がそうだというわけではありません、念のため)。なお、上記「gingin1234」氏のコメントは、たとえばアメリカ合衆国の政治家が嫌日感情丸出しの出鱈目な日本異質論を主張した場合、それを批判するアメリカ合衆国の国民は日本国民の出鱈目な反米発言も見つけ出して批判しなければならない、という論理にも通ずるわけで、道理が通らないのもさることながら、それぞれ差はにしても、知力・気力・経済力に限界のある各個人におよそ非現実的なことを要求していることにもなり、まったく説得力がないと思います。
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視覚的な人種偏見

2010/01/26 06:50
 テレビでの非言語的振る舞いが、視聴者の人種的偏見に継続的な影響を及ぼしていることを指摘した研究(Weisbuch et al., 2009)が公表されました。この研究では、人気番組から集めた複数の場面が編集され、特定の登場人物が一場面から取り除かれて、その場面の他の登場人物が、まだ見ぬその登場人物にどのていど好意的に接しているかを評価するよう、大学生のグループに指示されました。学生らは、ゴールデンタイムに放送される人気番組11本の登場人物について、否定的な非言語的行動が白人よりも黒人に対して示されていると評価しました。次に、その番組を常に視聴している別の学生グループを対象に、潜在意識下の偏見を評価するのに広く用いられている潜在連合テストが実施されました。その結果、このテレビ番組を学生がみる頻度(テレビで描き出される非言語的偏見への曝露量)と学生個人の偏見に、直接的相関が認められることが分かりました。

 こうして、テレビにみられる白人の登場人物によってとられた非言語的で否定的な行動が、白人視聴者の実生活における黒人の見方を形成するのに深く関わっていることが明らかにされました。この結果は、非言語的な情報伝達が我々の思考や行動にほぼ無意識のうちに巧妙に影響していることを強調するものだ、とされています。非言語的振る舞いが人種的偏見に影響を与えるのは、常識的に考えて当然とも言えそうですが、そうした直感的な常識を学術的に証明することに意義があるのだろう、と思います。


参考文献:
Weisbuch M. et al.(2009): The Subtle Transmission of Race Bias via Televised Nonverbal Behavior. Science, 326, 5960, 1711-1714.
http://dx.doi.org/10.1126/science.1178358
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指導者選出の基準は顔?
 指導者選出の基準について論じた研究(Antonakis, and Dalgas., 2009)が公表されました。この研究では、指導者選出の基準の1つとして、顔が重要なのではないか、と指摘されています。これは、多くの人の直感的な考えとも一致するでしょうし、常識に近い見解の再確認と言えるかもしれません。ただ、そうしたことをしっかりと実証していくことこそ学問と言うべきでしょう。 ...続きを見る

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2009/03/01 00:00

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