『イリヤッド』72話「ゼウスの洞窟」(9巻所収)

 『イリヤッド』の主題ともいえる「人類がぜったい知るべきではない、太古の呪われた秘密」の核心と思われる「神の正体」を探るうえで重要と思われるのが、72話「ゼウスの洞窟」だと7月13日に述べましたが、今日はこの72話について考察してみます。

 72話は、100話になる『イリヤッド』のなかで、特異な回といえるでしょう。まず、主人公の入矢が登場しません。入矢が登場しない回は、少ないながら他にもありますが、その場合でも、ユリやデメルやサボーや入矢の母といった、「入矢側」の人物がメインとなっています。
 ところが72話には、「入矢側」の人物も登場しません。主要登場人物は、グレコ神父・テルジス博士・靴磨きの少年の3人です。今のところ、テルジス博士と靴磨きの少年は72話だけの登場ですので、作品全体の主要人物で登場するのはグレコ神父だけです。

 さて、72話の舞台はクレタ島です。クノッソス宮殿遺跡で、ガイドが観光客に説明している場面から始まります。ガイドが観光客に、ミノア文明はのどかで平和だ、と説明していたところ、グレコ神父が登場し、宮殿の地下室で発見された甕に子供のもの含めて人骨があったこと、それらの中には肉を削いだ跡のある骨片もあり、羊や豚の肉といっしょに貯蔵されていた、と指摘します。つづいてグレコ神父は、ミノア人は高度で洗練された文明人だったが、同時におぞましい一族だった、と述べます。
 場面は変わって、靴磨きの少年がグレコ神父に声をかけ、グレコ神父は靴を磨いてもらうことにします。靴磨きの少年の仕事は丁寧で、グレコ神父が誉めたところ、少年は、靴磨きの師匠に、靴は心を込めて磨くほどツヤが出る、心を込めることこそ、人間が神様にいただいた最高の贈り物だと教えられた、と答えます。グレコ神父は、じゅうぶんきれいになった、と言いますが、少年は、お客さんの靴に夜空の星が映るまで磨くように、と師匠に教えられた、と答えます。

 靴をきれいに磨いてもらったグレコ神父は、テルジス博士の到着を待ち、テルジス博士はグレコ神父を島内の洞窟に案内します。その洞窟は、大昔より近隣の農民たちに「ゼウスの洞窟」と言われていました。テルジス博士は、グレコ神父の財団(「山の老人」のダミー組織でしょうか?)に援助を依頼しており、その交渉ために、洞窟を見てもらおうとしていたのです。
 洞窟には、3万年前のものと思われるみごとな壁画が描かれており、グレコ神父は、大々的に発表すれば、自分たちのような貧乏財団に援助を頼まなくても、潤沢な資金が集まるだろう、といいます。ところがテルジス博士は、グレコ神父の財団は発表せずともいい、との姿勢なので、援助を依頼したのだ、と答えます。なぜなら、テルジス博士は、洞窟壁画のなかのある絵を内密に研究したかったからです。
 その絵は、中央に男がいて、周囲の人が両手を挙げている、というものです。テルジス博士がグレコ神父に、中央の男は何だと思いますか?と尋ねると、グレコ神父は、おそらく司祭(シャーマン)であり、自分の先祖で、いわば大先輩だ、と答えます。これにたいしてテルジス博士は、中央の男は小さすぎるし顔つきや体型が妙だと指摘します。
 では、中央の男は何なのか?とグレコ神父に問われたテルジス博士は、神話的側面から考察すればゼウスであり、しかもゼウスは実在の人物かもしれない、と答えます。さらにテルジス博士は、ディオドロスの著作において、ゼウスは二人いた、一人はクロノスの息子で神話で有名なゼウス、もう一人はクロノスの叔父でクレタ島の王だった人物だが、もっと面白いのは、ディオドロスの著作では、二人のゼウスの出身地はアトランティスだとされていることだ、と述べます。
 これをうけてグレコ神父は、神話以外の考察はどうなのだ?と問いかけ、それにたいしてテルジス博士は、中央の男はネアンデルタール人以外考えられない、と答えますが、その返答を聞いたグレコ神父の表情が曇ります。

 場面は変わって翌日、洞窟に入ったことで靴の汚れたグレコ神父は、再び前日と同じ少年に靴を磨いてもらいます。少年は、父が服役中なので、家計の手助けに靴磨きをしているけど、この仕事は好きだ、と語ります。グレコ神父が少年に、将来は何になりたいのか、と訊くと、少年はダーウィンのような生物学者だ、と答えます。
 その答えを聞いて一瞬表情の曇ったグレコ神父ですが、すぐに柔和な笑みにもどり、「ははは・・・私の商売仇か」と言います。ところが少年は、この発言を受けて、「いいえ、人間が猿から進化したとしても神様は存在しますよ。心を込めること。考え、創造する力。相手への感謝の気持ち・・・こんな素晴らしい能力、誰が人にくれたと思います?エヘヘ、今の言葉も師匠の受け売りです」と言い、これにたいしてグレコ神父は、「いい師匠を持ったなあ」と述べます。
 ここで少年の表情が曇ります。神父が疲れているように見える、父が人を刺したときもそんな顔をしていた、というのです。一瞬、グレコ神父の表情が険しくなりますが、すぐに柔和な笑みにもどります。少年はグレコ神父に、今夜は外を歩いて、空を見あげて星を見てくださいと言い、それを受けてグレコ神父は、それから靴を見るよ、と答えます。

 場面は変わって、「ゼウスの洞窟」の内部です。グレコ神父はテルジス博士に資金援助を約束し、前祝だといって酒を用意し、グラスに注ぎます。偉大な遺産の前で乾杯とは不謹慎かな、といったグレコ神父にたいし、テルジス博士は、不謹慎どころか、クロマニヨン人はここで酒を飲み酩酊していたはずで、壁画洞窟は住まいではなく寺院だった、と答えます。さらにテルジス博士は続け、シャーマンは幻覚状態で神のお告げを待ち、壁画に浮き上がった動物を狩ってもいいと神が命じたと解釈したのだ、と述べます。
 ところがグレコ神父は、テルジス博士が話しているさいちゅうに、密かにグラスに毒を入れて渡し、「我らの偉大なる祖先に!」と乾杯の音頭をとって酒を飲むよう勧めますが、テルジス博士は酒を飲まずに、クロマニヨン人は我々欧州人と同じ新人だが、我々には似ておらず、むしろ4万年前に出会った絶滅寸前のネアンデルタール人に似た遺伝的特徴を備えていて、我々の祖先ではなく絶滅種だと思う、とグレコ神父に述べます。
 これを受けてグレコ神父は、昨日テルジス博士が述べた、ディオドロスの記述にもとづくアトランティスとの関わりをテルジス博士に問いかけますが、テルジス博士は、ディオドロスはただの大衆歴史作家で現代の歴史家の評価は低く、興味はあるが自分の専門外だ、と答えます。
 ここでテルジス博士は、グレコ神父の靴が汚れていることに気づき、グラスを岩の上に置き、磨きはじめます。テルジス博士は靴を磨きながら、昔貧しくて学費稼ぎのため靴磨きをしていたが、靴磨きは大好きで、夜空の星が映るくらいまで磨くぞと思っていた、とグレコ神父に語ります。
 この発言を聞いて、グレコ神父は、昨日・今日と靴を磨いてもらった少年の靴磨きの師匠がテルジス博士であることに気づき、靴磨きを誰かに教えたことがあるか、とテルジス博士に尋ねます。これにたいしてテルジス博士からは、グレコ神父の予想通り、自宅の隣の感心な子に教えたが、その子は勉強熱心で将来の夢は生物学者だ、との答えが返ってきます。
 このテルジス博士の発言で、靴磨きの少年の師匠がテルジス博士であることを確信したグレコ神父は、テルジス博士が靴磨きに集中している間に、毒を入れたテルジス博士のグラスを割り、自分のグラスをテルジス博士に渡し、自分はラッパ飲みをすることにします。
 グレコ神父は、気持ちのいい晩だから外に出よう、とテルジス博士を誘い、「人間と・・・・・・素晴らしい夜空をお創りになった神様に!」とのテルジス博士の言葉を受けて、「星の映るぴかぴかの靴と・・・・・・靴磨きの師匠に!」と言い、夜空のもとで乾杯し、グレコ神父の靴に星が映っている場面で72話の幕は閉じます。

 この72話は、靴磨きの少年の話への絡ませ方がばつぐんに上手く、グレコ神父が単なる冷酷な殺人者ではなく、心のうちに葛藤をかかえながら殺人行為におよんでいることが、その丁寧な表情変化の描写で示唆されているとともに、アトランティス探索と「山の老人」による妨害という本筋からも外れることなく、アトランティスにまつわる秘密に迫る情報が提供されているという点で、ひじょうに興味深く面白い回であり、100話のなかでも、五指に入る出来だったと思います。
 さて、冒頭でも述べたように、72話は、「人類がぜったい知るべきではない、太古の呪われた秘密」の核心と思われる「神の正体」を探るうえで、重要なヒントを提供してくれています。グレコ神父がテルジス博士を一度は毒殺しようとしたのは、テルジス博士の仮説が核心に迫っていたからなのでしょう。グレコ神父が毒殺を思いとどまった理由は明確には描かれていませんが、テルジス博士が、
●アトランティスは自分の専門外だと述べたこと。
●進化論を支持しているが、神への信仰心も篤いこと。
●壁画を公表せず内密に研究しようとしていること。
によるのだと思います。

 さて、テルジス博士の主張を整理すると、
●クロマニヨン人に囲まれて中央にいる男は、神話的側面から考察するとゼウスで、実在の人物と考えると、ネアンデルタール人である。
●4万年前に絶滅寸前のネアンデルタール人と出会ったクロマニヨン人は、現代人と同じ新人だが、ネアンデルタール人に似た遺伝的特徴をもった絶滅種であり、現代欧州人の祖先ではない。
●壁画の描かれた洞窟は、クロマニヨン人の住居ではなく寺院だった。
となります。
 また、中央の男がシャーマンで我々の祖先とのグレコ神父の指摘にたいして、テルジス博士がどう考えているのか、ちょっと解釈しづらいのですが、後の場面で、シャーマンの存在を認めるテルジス博士の発言があるので、このグレコ神父の指摘にたいするテルジス博士の疑問提起は、「我々の先祖」のみにたいしてのものであり、中央の男=ネアンデルタール人はシャーマンでもある、というのがテルジス博士の考えと思われます。
 これらの点から推測すると、
●クロマニヨン人は絶滅寸前のネアンデルタール人と4万年前に遭遇し、通婚した。
●ネアンデルタール人は、クロマニヨン人にとってシャーマンであり、儀式は洞窟で行なわれた。
●ネアンデルタール人は絶滅したが、クロマニヨン人はネアンデルタール人を神と崇めるようになった。
●すべての神がネアンデルタール人かどうかはともかく、少なくともゼウスは、元々はネアンデルタール人であった。
となります。また、92~96話から、アトランティス人=クロマニヨン人と推測されますので、アトランティス文明の神の、少なくとも一部はネアンデルタール人ということになります。59話「菊花の約」(8巻所収)にて、アトランティスの謎に迫ったとされる赤穴秀行博士が、アトランティスでは人種間の交配があったと述べていますが、それはクロマニヨン人とネアンデルタール人との通婚のことなのかもしれません。

 では、神の正体とはネアンデルタール人のことであり、それが「人類がぜったい知るべきではない、太古の呪われた秘密」ということになるのでしょうか。確かに、神がネアンデルタール人というのは、現代人にとって衝撃となるでしょうが、夢を奪われるほどのトラウマになるかというと、疑問です。
 また、「山の老人」は紀元前より存在する組織です。「山の老人」はさておき、かりに紀元前の世界の一般人がネアンデルタール人を知ったとして、ネアンデルタール人と自分たち(ヘレネス)との違いが、ヘレネスとバルバロイとの違い以上に大きな意味をもったのか、疑問です。そのような社会で、擬人化されて語られることの多かった神がネアンデルタール人だと判明したところで、どれだけの衝撃があったのでしょうか。どうも、ネアンデルタール人=神というだけではなく、それに加えて何かあったのではないか、と思われます。
 そこで重要なヒントになりそうなのが、ヘロドトス『歴史』の「アトランティス人は動物を食さず、けっして夢を見ない」という一節です。夢を見ない=ひどいトラウマがある、ということですから、アトランティスの謎を知った人間だけではなく、そもそもアトランティス人が、たいへんな心の傷を抱えていたということになります。
 では、そのトラウマとなる出来事が何だったのかと考えると、「アトランティス人は動物を食さず」が重要な手がかりのように思われます。大胆に推測すると、アトランティス人=クロマニヨン人は人肉食の経験があり、それがトラウマとなって、菜食主義になり、夢を見られなくなったのではないでしょうか。72話の冒頭で、ミノア文明における人肉食が示唆されていますが、これは、アトランティス人=クロマニヨン人の人肉食をも示唆しているのではないかと思います。そうすると、「神の正体」や「呪われた秘密」については、次のように推測されます。

 ネアンデルタール人とクロマニヨン人は4万年前に出会い、通婚した。ネアンデルタール人にはシャーマンとしての素質があり、クロマニヨン人はネアンデルタール人をシャーマンとして崇めていたが、食糧難など何らかの理由で、クロマニヨン人はやむを得ずネアンデルタール人を食してしまった。そのことがトラウマとなり、クロマニヨン人は夢を見られなくなった。またクロマニヨン人は、自分たちのために犠牲となったネアンデルタール人を神として崇めるようになった。
 クロマニヨン人はやがて世界最古の文明(アトランティス文明)を築き、宗教面でも各地に影響を及ぼした。現代文明の源であるアトランティス文明を追求すると、神を殺し食していたという忌まわしい過去が明らかとなるので、「山の老人」はアトランティス文明の痕跡を抹消し、アトランティス探索者を殺害するのである。

 この他に、まだこのブログでは触れてはいないのですが、騙まし討ちも重要なキーワードとなりそうです。どうやらアトランティス文明は、その豊かさを狙われて攻め込まれ、天災と騙まし討ちによって滅亡したようなのですが、神の正体、神誕生の呪われた経緯とともに、この点も、アトランティス文明を隠蔽する理由となっているのでしょう。
 ただ、今回述べてきた推測が、人類から夢を奪うほどの衝撃かというと、どうも疑問が残ります。とすると、的外れな推測だったかな、とも思うのですが、まあとにかく、どんな結末になるのか、楽しみに待っています。

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