織田信長による国民国家的軍隊の創出(勝谷誠彦氏の見解について)

 以前から知ってはいたのですが、ネットで確認をとる手段がなかなか見つからなかったので、取り上げることを見合わせていたブログの記事があります。この一件は、『勝谷誠彦様の華麗なる脳みそ』というブログの管理人の東田氏が、『ムーブ!』というテレビ番組における、わりと有名であろうコラムニストの勝谷誠彦氏の発言内容に疑問をもたれて、勝谷氏宛にメールを送られたことが発端となりました。

 これにたいして、勝谷氏の秘書から東田氏宛に返信がありましたが、その内容は歴史認識に大きな問題があるだけではなく、勝谷氏の人間性を疑わせるようなひどいものでした(以下、引用箇所は青字)。


 この一件を知ったとき、たまにテレビで見る勝谷氏の言動から推測すると、このメールが勝谷氏以外の誰かの創作ではなく、勝谷氏の意思を反映している可能性が高いと思いました。しかし、名誉毀損にもなりかねないので、このブログに掲載するにあたっては、このメールが本当に勝谷氏の見解を反映しているのか、確証を得てからにするのが望ましいと考えていました。

 しかし、勝谷氏が所属されている吉本興業のサイトでは、誠に申し訳ございませんが、ご質問の受付はしばらくお休みさせて頂きます、となっていますし、勝谷氏のサイトの「問い合わせ」においても、ここでは、メール配信に関するお問い合わせのみ受け付けております、となっていますので、この一件の発端となったテレビ番組『ムーブ!』のサイトで問い合わせてみました。

 2008年3月5日の時点ではまだ返信はありませんが、このメールが勝谷氏の意思を反映している可能性はきわめて高い、と私は考えていますので、このメールが勝谷氏の意思を反映しているという前提のもとに、以下に雑感を述べていきます。もしも、勝谷氏側からの警告などにより、このメールが勝谷氏の意思を反映したものではないと確認できた場合は、速やかに該当箇所を削除するとともに、謝罪文を掲載いたします。


 この一件は、勝谷氏の歴史認識も問題ですが、それ以上に問われるべきなのが勝谷氏の人間性であることは言うまでもありません。しかし今回は、勝谷氏の人間性については東田氏の記事(勝谷氏からのメールにかんする記事は、上記の第一回だけではなく、第二回第三回もあります)に譲り、私は勝谷氏の歴史認識のみを取り上げることにします。

 歴史認識にかんする東田氏のご指摘はおおむね妥当なものだと思いますが、私は自分なりの関心から改めてこの問題を取り上げることにします。なお、東田氏のブログには、この他にも勝谷氏の言動におけるさまざまな問題点が指摘された記事が多数掲載されていますので、興味のある方はお読みになってください。前置きが長くなってしまいましたが、以下本題です。



 この一件のそもそもの発端は、2006年9月19日放送の『ムーブ!』において、小泉首相(当時)を織田信長にたとえ、信長は家臣団を解体して全部足軽にした、という趣旨の発言を勝谷氏がなさったことにあります。小泉元首相を織田信長になぞらえること、およびそのような言説における信長像の問題点については、以前にこのブログで述べたことがありますが(堺屋太一氏の見解についての今年1月11日分の記事と、森永卓郎氏の見解についての今年2月13日分の記事)、勝谷氏が思い描いておられるだろう信長像にも、同様の問題があると言えそうです。

 もちろん、信長が家臣団を解体して全部足軽にしたというような史実は確認できないわけで、東田氏がメールにて疑問を呈されたのは、もっともなことです。東田氏の疑問にたいする勝谷氏の返答は、次のようなものでした。

 織田信長が最大の中世の破壊者であったのは、土地に縛りつけられてていた封建領主を、足軽を含む、近代における国民国家的軍隊に再編しなおしたところにあります。
 子供のころ絵本ででも読まれたのかもしれませんが、貴殿の頭の中にある英雄像を、描き直された方がいいかと存じます。
 いろいろと織田の部将の名前を言えて偉いですね(笑)。そういう人々が軍団長として再編されていったのかが織田軍団の本質であり、それについていけなかった部将たちは見事にリストラされました。


 東田氏のご指摘通り、悪文なのでやや意味を把握しづらいのですが、信長は「封建領主」からなる戦国大名的な軍隊を近代国民国家的軍隊に再編した、ということでしょうか。東田氏のご指摘にあった、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀らは足軽ではなく軍団長とのことですから、彼らは職業軍人で高級指揮官だということでしょうか。

 また足軽については、庶民から徴集され、近代国民国家的軍隊の兵卒として再編された、ということなのかもしれません。信長は家臣団を解体して全部足軽にした、という最初の発言とは異なるように思われるのですが、まあ要するに、信長は土地を媒介とした中世的な関係を壊し、近代国民国家的軍隊を作り上げた、ということなのでしょう。

 確かに、「鉢植え」などと揶揄されるような中央権力と在地領主との関係が、中世~近世の移行期に生じるようになってきましたし、江戸時代になって俸禄制への移行が進んではいますが、地方知行制も依然として存在していますから、土地を媒介とした重層的な人間関係という中世からの特徴は、江戸時代においても存在したと考えるのが妥当なところでしょう。

 もちろん、中世前半の複雑な土地関係が、中世~近世の移行期にかなり整理されたという側面は否定できず、それが中世と近世を分かつ重要な指標になっているとは思いますが。そうした歴史の大きな流れからすると、勝谷氏のご指摘が妥当だった場合、信長が再編した国民国家的軍隊が、豊臣政権下、もしくは徳川政権下で消滅してしまうことになるのですが、その具体的経緯および理由を示唆するような史料が存在するとは思えません。

 じっさい、信長の晩年においても、土地を媒介とした重層的な人間関係が織田勢に存在したことを示す史料は多く、勝谷氏の見解は妄想と言うべきでしょう。たとえば、信長はその晩年の天正9年に長岡藤孝(細川幽斎)にたいして、丹後国を調査して知行人から提出させた指出に基づいて知行を充行い、余分は藤孝の直轄として軍役を勤めよ、と指令を出しています(奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 下巻』915号文書)。これはまさに、土地を媒介とした重層的な人間関係と言うべきでしょう。また、勝谷氏の見解が妄想であることを示す見解としては、次のようなものもあります(三鬼清一郎「織田政権の権力構造」)。

 光秀の反乱は、織田政権の家臣団統制の脆さを暴露した。信長は、さきに一向一揆鎮圧の際に不首尾があったとして、佐久間信盛や林道勝といった腹心の武将を追放しているが、引き締めの実効はあがらなかった。国人層を家臣に編入する場合、彼らを知行替えして在地から切り離し、被官として直接に把握することができず、そのままの形で、重臣層の与力として参陣させざるをえなかった。重臣層も、下部の動きに規制され、みずからも在地領主としての属性から、信長に対しても、時として独自の行動をとることがあった。
 濃尾から近江にかけて、領国支配を拡大してきた信長も、畿内支配において十全ではありえなかった。伝統的に寺社本所勢力が強く、幕府の奉公衆・奉行人層の潜在力は、侮り難いものをもっていた。信長が、これらの階層を完全に掌握するためには、なお相当の時日を必要としたのである。光秀は逆に、これらの階層と強く結び付いていた。このような在地構造をもつ畿内を、自己の権力基盤とすることができなかったところに、織田政権が自滅する原因が潜んでいたものと思われる。



 では、戦国時代に近代国民国家的軍隊はまったく存在しなかったのかというと、基本的にはそのように断言してもよいのですが、戦国時代に近代以降の国民国家の原型の形成を認める見解もありますので(勝俣鎭夫『戦国時代論』第一章)、その点には注意が必要かもしれません。勝谷氏がこのような見解をお知りになったら、変な方向で日本の「優秀性」を称揚される可能性があるかもしれません。まあ、勝谷氏は中世・近世にかんするまともな本をほとんど読んでおられないようですから、おそらくこの懸念は杞憂に終わるでしょうが。

 戦国時代に近代以降の国民国家の原型の形成を認める見解は、後北条氏の事例などに基づくものです。以下、藤木久志『村と領主の戦国社会』7章に依拠して、この問題について少し述べていくことにします。

 後北条氏は、武田氏や豊臣政権との軍事的緊張という領国の深刻な危機的状況において、直接の被官関係にはない領国の民衆全員(ただし年齢制限はあり、15~70歳ていど)をも対象として、「為御国」・「御国御用之砌」という論理で軍に動員しようとしました。こうした論理が持ち出されたのは、大名権力には領国内の領民を保護する義務があり、その代償として領民は年貢などを大名権力に提供するが、領国の存亡のかかった非常事態においては、普段は軍役の義務のない領民も従軍すべきだ、とされていたからでした。

 このような関係は、近代国民国家とも相通ずるところがあります。また、領国の民衆の動員はいわば総動員令といったものであり、近代の徴兵制による国民軍との類似点を見出すことも可能かもしれません。しかし、やはり戦国時代の大名の軍と近代の国民軍との間には大きな違いがあります。

 戦国時代の大名の軍の主力が、軍役の義務を負った(被官関係にある)一部の人間から構成され、領国の民衆全体が軍役の対象となるのは非常事態のみであり、動員日数や配置場所などの点でさまざまな制約があったのにたいして、近代国民国家の徴兵制による国民軍は、職業軍人が存在し、戦時と平時とでは動員数が異なり、性・年齢による制限もあったとはいえ、主力は国民から徴集された兵士でした。

 もっとも、戦国時代には民衆も軍に動員されていたではないか、との反論もあろうとは思います。確かにそうなのですが、これは軍役というよりも労役の一種として考えるべきであり、じっさいの戦場では区別されなかった場合があるにしても、建前としては軍に動員された民衆は戦闘員から除外されていました(藤木久志『雑兵たちの戦場』P5~6)。そのために、大名が民衆を軍に動員するさいにも、さまざまな制約があったというわけです。

 民衆の軍への動員は江戸時代にも続きますが、軍役を負担する者としない者との区別は明確なものであり続け、明治初期の徴兵制の導入への抵抗も、そのような歴史的文脈のなかに位置づけるのが妥当なのだと思います。


 上述したように、勝谷氏の信長観は堺屋太一氏の信長観と通ずるところがありますが、さすがの堺屋氏も、勝谷氏ほど極端なことはおっしゃっていないようです。このような信長観は、敗戦によりさらに深まった欧米への劣等感に起因するものだというのが私の考えです。日本史上にも、欧米の歴史的人物にも負けないような先進的・合理的な英雄を見出したいという願望が、堺屋氏のような方の信長観を産み出したのであり、勝谷氏はその極端な例なのだと思います。

 しかし、べつにそのような人物像を創作しなければならないほど日本の歴史は惨めなものではないし、堺屋氏のように変な方向で信長を過大評価しなくとも、信長は日本史上における英傑の一人と言ってよいでしょう。確かに、社会・国家が成り立つには物語・虚構が必要ではありますが、敗戦から60年以上経過した現在、もはや信長を過大評価する必要はないだろう、というのが私の考えです。さらに言えば、そうした信長にたいする過大評価は、不要というだけではなく、「頑迷固陋な旧勢力否定」が過去に存在したとか、そのような「旧勢力」を徹底的に解体することが可能だとかいった幻想を生む温床にもなりかねず、危険でさえあると思います。



参考文献:
奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館、1994年)

勝俣鎭夫『戦国時代論』(岩波書店、1996年)

藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)

藤木久志『村と領主の戦国社会』(東京大学出版会、1997年)

三鬼清一郎「織田政権の権力構造」藤木久志編『戦国大名論集17 織田政権の研究』(吉川弘文館、1985年)

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この記事へのコメント

東田 万偶斎
2008年03月06日 20:06
この問題を取り上げていただき、ありがとうございます。完璧な論証で、感動してしまいました。
勝谷氏の歴史認識の誤りについては、氏とメールでやり取りした当初から確信しており、また最近、専門家からそれを支持する言葉もいただきました。
しかし、如何せん、私のような浅学な人間には、ここまで緻密な検証はなかなかかないませんでした。
特に藤木氏の国民国家原型論は、自分のなかでも結構引っかかりがあったのですが、今回この論考を読んでスッキリしました。
これからこの問題に関して尋ねられたときは、こちらを参照するようにと答えさせていただきます。
2008年03月06日 23:57
東田様、お読みいただき、ありがとうございました。

私も含めて誰しもトンデモ説にはまる可能性はあると思うのですが、勝谷氏の場合、傲慢さと小心さが同居しているその人間性が大きく影響しているのかな、とも思います。

これは、勝谷氏ほど極端ではないにせよ、似たような信長論を展開している有名人について漠然と抱いていた印象なのですが、東田様のブログの諸々の記事を拝読して、自分の中ですっきりと整理されつつあるように思っています。

まあ私もとても聖人君子ではないので、勝谷氏の如くならないようにとの自戒の念も込めて、東田様のブログの記事を拝読しています。

東田様のますますのご活躍をお祈りしております。

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