大河ドラマ『風と雲と虹と』第42回「天慶改元」

 貞盛を追う将門は、二手に分かれて貞盛を挟み撃ちにしようとします。佗田真樹は将門軍の追撃に気づき、貞盛は将門と戦っては勝ち目がないと思い逃げだそうとしますが、真樹は迎え撃つように進言し、貞盛も渋々受け入れます。真樹は矢を受けて負傷し、貞盛軍は崩れて逃げだします。真樹は貞盛を護衛しつつ逃げますが、すでに先回りしていた将門がいました。真樹は貞盛をかばって矢を受け、討ち死にします。将門は、互いに好感を抱いていた真樹の討ち死に感慨に浸ったような様子を見せますが、すぐに貞盛を追います。将門は貞盛に矢を放てるところまで接近しますが、矢を放つのを躊躇っているうちに逃げられてしまいます。

 将門が貞盛を討てなかったことを郎党の佐野八郎から聞いた藤太は、八郎を佐野に残して本拠地の田原に帰ることにします。将門は義理堅いので立ち寄るだろう、と八郎は言いますが、だから帰るのだ、と藤太は言います。八郎は、将門は貞盛を討てなかったとはいえ、板東随一の勢力の主であることに変わりはなく、この機に懇親を深めてはどうだろうか、と藤太に進言しますが、将門の下につけと言うのか、と言って藤太は田原に帰ります。

 その日の夕刻、将門は佐野の藤太の館を訪ね、八郎が対応します。急な用件が生じたために主人の藤太は田原に帰ったが、将門殿によろしく申し上げよと言われました、と八郎が取り繕うと、将門は仕方ないといった感じで微笑み、ぜひお会いしてお礼を言いたかった、と八郎に話します。主の藤太も将門殿にお会いしたかった、と八郎も言います。ずっと以前に藤太に会ったときは凛々しい若者だったが、やはり変わったでしょうな、と将門は言います。自分が童の頃のことで、藤太殿はご存じないでしょう、あの時の藤太殿の姿は自分にはまぶしかった、と将門は言って笑います。またの折りを楽しみに、と言って将門は去ります。

 承平8年(938年)5月初め、貞盛は都にいましたが、都の人々の視線は貞盛に暖かいとは言えませんでした。貞盛は藤原忠平の家司の藤原子高に伴われ、忠平と面会します。子高は、板東武者にもかかわらず将門から逃げてきた貞盛に、軽蔑の眼差しを送ります。忠平は、西国からの貢が一向に増加しない、と言います。西海の海賊はすっかり静かになったと聞きましたが、と貞盛が言うと、静かにはなったものの、貢物は4割ていどにとどまっている、と忠平は言います。子高は、紀淑人をお信じになりすぎたのです、と忠平に言い、淑人は海賊を退治したのではなく妥協しただけで、諸国からの貢物の半分を海賊に渡し、その残りから朝廷への貢物を献上しているのだ、と忠平に説明します。ではどうすればよいのだ、と忠平が子高に尋ねると、力によってしか解決しない、と子高は答えます。

 そうかもしれないが、その力はどこにあるのだ、と忠平は尋ねます。すると子高は、公だ、と答えます。そうかのう、と言って忠平は笑いますが、公には兵がなくとも権威があり、威をもって板東から兵を集めればよい、と子高は言います。貞盛は、それはとても無理だ、と言います。板東武者とて土地からは離れたがらない、と貞盛は言いますが、豪族の命なら従うのに公の命には従わないのか、と子高は貞盛を詰問します。貞盛は、そうではないと言って取り繕いますが、国府の権威が弱い、と言います。しかし子高は、ならば国府の権威を強めればよい、と貞盛を突き放します。現在板東一の豪族は誰か、と子高に尋ねられた貞盛は、将門でしょうと答え、次に第二は誰だと子高に尋ねられると、藤太だろう、と答えます。この二人は公の命に逆らうような反逆人か、と子高に尋ねられた貞盛は、そうではない、と答えます。子高は、自分の策により西海の海賊を叩き、板東をも抑えることができる、と忠平に言います。

 その頃、将門は伊予の大津の館におり、武蔵・重太丸とともに平穏な日々を過ごしていました。純友はこれも幸せの形の一つなのか、と考えるようになり、武蔵も、こうした日々が続けばよいのに、と思っていました。しかし、その様子を見ていた純友配下のくらげ丸や鮫は、このところ平穏な日々が続いていることに不満な様子で、くらげ丸は、こんな生活は長く続かない、と吐き捨てるように言います。武蔵は、大きな館で父・母・弟とともに過ごしていたことと、母・弟とともに旅をしていたことを思い出しますが、それいじょうに詳しいことを思い出せません。少女時代の武蔵にとって、思い出せないような辛い体験があったようです。

 承平8年(938年)5月22日、年号が天慶に改められます。富士山の噴火や地震や東国・南海での擾乱の不安を払い、人心を一新するためでした。忠平は貞盛を将門の追討使に命じ、貞盛に板東への帰国を命じます。とはいっても、忠平は本気で将門を追討するつもりはないようで、貞盛の顔を立てるためのことでした。忠平は子高の策を採用し、貞盛の縁者である藤原惟幾を常陸介に任じ、公の権威が板東でどれだけ通用するのか、試すことにしたのでした。

 忠平は、まずは武蔵の国で兵2000を集めさせることにし、武蔵守として皇族を任命しなければならないが、まずは権守として興世王を、介として六孫王の源経基(経基が六孫王を名乗っていたのは皇族時代のことで、六孫王と源経基という名乗りは同時には存在しないはずですが、作中では経基は六孫王と呼ばれています)を任じることにします。今の都に王は多数いるが、板東で少しでも効き目があればと思ってのことだ、と忠平は言います。貞盛は、武蔵にたいする朝廷の強い姿勢はいずれ板東諸国にもおよび、将門と衝突することになるのではないか、そのとき自分が将門追討使という立場にあると危ない、と考え込みますが、忠平に念押しされると、喜んでいる様子を見せて受諾します。

 天慶元年(938年)6月、良兼が危篤に陥りました。妻の詮子や息子たちが集まり、すっかりやつれた様子の良正も駆けつけ、良兼を見守ります。すでに意識の朦朧とした良兼が呼んだ名前は、妻の詮子ではなく娘の良子で、良兼は涙を流します。そのことに詮子は衝撃を受けたようです。玄明から、一族が良兼の館に続々と集まっている、との報告を受けた将門は、行ったほうがよい、と良子に促します。こういうときに良子を捕らえることはあるまい、と将門は言いますが、良子は義母の詮子を信じておらず、将門の妻としての立場を優先し、会わないことを決意します。

 息子や一族の者たちに看取られ、良兼は息を引き取ります。詮子は涙を流したものの、将門打倒への意志は失われていません。詮子は父の源護を訪ねます。護は、良兼の妻である詮子がこんな時に自分のところにいてよいのか、と尋ねますが、良兼の葬儀は貞盛が戻ってからのことだ、と詮子は答えます。しかし、領地の配分という問題があり、昔からの領地が傷ついていないのは良兼領だけだ、と護は言います。しかし詮子は、良兼の領地を頼りにして生きていこうとは思わない、自分は源家を栄えさせたいのだ、と言います。護は、今の自分たちには力がない、と言いますが、詮子は将門への敵意を露にし、まだ父上も貞盛もいる、と力強く述べます。

 将門の追討使となった貞盛は、常陸介に任じられた藤原惟幾とその子である為憲とともに、東山道を経由して都から板東へと向かっていました。貞盛は、面識のない藤太を下野の藤太の館に訪ねます。八郎は貞盛を客殿に通しましたが、貞盛が将門の追討使となったことから、追い返そうとします。しかし藤太は、会うことにします。将門の追討は貞盛一人で可能なことではなく、自分の助力を頼みに来たのだろう、と藤太は言います。では会わないほうがよいのではないか、と八郎は再度進言しますが、藤太は貞盛の待つ客殿へと入り、貞盛と面会します。その頃、将門と良子は寺院に赴き、二人で良兼を弔っていました。将門は、死者となった良兼には今や何の憎しみも持っていませんでした。

 今回はこれで終了ですが、板東の情勢が大きく動き出すだろうということを予感させる内容となっています。この作品も後半に入り、それぞれの人物の個性もはっきりしているため、それぞれの場面に説得力があり、安心して見ていられます。序盤から登場していた良兼と真樹が今回で退場となりますが、どちらも好演で、存在感があったと思います。ただ、将門とはお互いに好感を抱いていた真樹の最期が、ややあっさりしたものだったのは残念でした。もう少し見せ場があってもよかったのではないか、とも思います。

 藤太が懸念していた通り、将門は貞盛を討てず、藤太は将門と面会しないことにします。藤太は自尊心の強い人物のようで、たやすく将門に従うつもりはない、ということなのでしょうが、慎重な人物でもあるので、板東の主に相応しい資質を示せなかった将門に今すぐ従うわけにはいかない、ということでもあるのでしょう。しかし、その藤太が将門追討使に任じられた貞盛とは面会する、というのはどうにもよく分からず、藤太の人物像はかなり明らかになってきましたが、まだ謎めいたところがあります。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック