杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者』

 まだ日付は変わっていないのですが、10月29日分の記事として掲載しておきます。2004年~2005年にかけて講談社より『中国の歴史』全12巻が刊行されました。その第8巻である本書は2005年10月に刊行されました。私は全巻刊行後すぐに購入して読んだのですが、ホームページが開店休業状態で、ブログを開始する前だったということもあり、ホームページでもブログでも取り上げてきませんでした(このブログで参考文献として引用したことはありますが)。

 最近、キタイ帝国について調べたいことがあって本書の再読を始めたら、面白くてつい最初から最後まで読み通してしまいました。時間を作って、改めて『中国の歴史』全12巻を通読しようと思ったのですが、未読の本も部屋にありますし、今後新たに購入して読む本もあるでしょうから、未視聴の映像作品のことも考えると、全巻読み終えるのが何年先になるのか、自分でもまったく予測できません。

 この『中国の歴史』は、じゅうらい日本で刊行された中国通史ものや世界史ものとは異なり、『三国志』の時代に一巻を割り当てています。じゅうらいの中国通史ものや世界史ものだと、『三国志』の時代は魏晋南北朝もしくは魏晋南北朝~唐末か五代十国までの中に含まれることが多いように思います。一般向け通史ということで、『三国志』人気の高い日本社会を考慮した編成になっているように思います。

 私はこの『中国の歴史』全12巻を同じ大型書店で購入しましたが、『三国志』の時代を扱った第3巻『三国志の世界』は、他の巻と比較して明らかに入荷数が多かったと記憶しています。悪い意味ではなく、営利企業による出版なのだなあ、と当時改めて思ったものです。その分、他の時代が割を食っているというか、明清代が一巻にまとめられて(第9巻『海と帝国』)かなり分厚くなっていました。


 つい余談が長くなってしまいましたが、本書についてです。本書がおもに扱う時代は、安史の乱から1388年のクビライ王朝の消滅までです。本書は6章構成になっており、安史の乱とその後の唐の混乱・衰退およびトゥプトとウイグルという大勢力の勃興・崩壊・衰退に1章、キタイ帝国について3章、西夏と金について1章、モンゴル帝国について1章という配分になっています。

 この構成を見るだけで、読んでいない人にも、配分が偏っているのではないかとの疑問が生じるでしょうが、じっさい、通史としてはかなり偏っていると思います。金は、モンゴル帝国を扱った章でも言及されているとはいえ、主に扱われているのは1章の半分、実質11ページでしかありません。キタイ帝国の性格や歴史的意義について触れられているとはいえ、中国での現地調査について1章割き、中国の現状への懸念についてもかなりの分量を割いているのは、明らかにやり過ぎのように思います。

 「後周では、郭威ののち、皇后の甥で養子の柴栄があとをついだ。雄武の誉れ高い世宗である。彼について詳述したいが、そのゆとりは残念ながらない」(P209)とか、「こののちの金国は、長江の険をたよりに再建された南宋を攻めきれずにとり逃す。その間、華北統治をめぐって、傀儡の楚・斉をたてるものの、最終的には直接統治に踏み込む。それにともない、大量の女真人たちが華北に移住する。だが、その顛末を述べる紙幅はもはやない」(P277)とかいった記述にはさすがに呆れてしまいました。一般読者向け通史として、本書はさすがに時代配分に問題があるように思います。編集者は何をやっていたのだろうか、と言いたくなります。

 もっとも、著者の意図は分からないでもなく、歴史的に重要な地位を占めるキタイ帝国がこれまであまりにも軽視されてきたことへの批判が根底にあるのでしょう。キタイ帝国こそ、モンゴル帝国やダイチングルン(大清帝国)といった草原地帯と「中華の地」を統合した「多元複合の超域帝国」の先駆者である、というのが著者の見解です。その見解にしたがえば、キタイ帝国成立の意義は大いに強調されなければならないでしょう。また本書では、そのキタイ帝国成立へと至る道のりの起点が安史の乱とされており、安史の乱の意義も高く評価されています。

 キタイ帝国の意義が過小評価されてきた要因として著者が指摘するのは「中華中心史観」であり、その根底には、豊富な漢文史料の恐るべき表現力というか、漢字が具体性・伝達性に富み過ぎることがある、というのが著者の見解です。本書は、随所で伝統的な「中華中心史観」を批判しており、たとえば司馬光『資治通鑑』への批判は、著者の朱元璋への批判(関連記事)に通ずる手厳しいものです。こうした「中華中心史観」への批判には、納得のいくところも多いのですが、行き過ぎているのではないか、と思うところもないわけではありません。

 たとえば、沙陀(国号は晋、後に唐)の李存勗(荘宗)とキタイ帝国の耶律阿保機(太祖)が激しく戦っていた時の、定州節度使の王一族についての評価です。定州節度使の王処直には王郁という子と王都という養子がいました。王都は養父の王処直を幽閉し、その子孫と腹心を皆殺しにして、沙陀に通じました。王処直がキタイに通じようとしたものの、定州の軍府の者たちが賛成しなかった、というのが王都の言い分ですが、ならばなぜ王処直の子孫と腹心を皆殺しにしたのだ、というのが著者の提示する疑問です。

 王処直は王都によって幽閉される前に、鎮州軍閥を乗っ取った張文礼(王徳明)を沙陀が攻めてくることを知りました。定州は鎮州の北東に位置するので、鎮州が滅亡すると自分が危ういと考えたのか、王処直は息子の王郁に連絡し、キタイと通じてキタイ軍を南下させ、沙陀を牽制しようとしたようです。王郁はそれまで父と仲がよくなかったようで、沙陀に仕えて李存勗の父の李克用の娘を娶って出世しました。父が幽閉された王郁は配下を率いてキタイに投降し、厚遇されました。

 キタイ軍は定州へと南下し、王都は籠城します。けっきょくこの戦いは、李存勗の奮闘により王都が救われた、という結果に終わったのですが、「王都は成人すると、へんちゃらとウソばかり、しかし処直はすっかり騙されてしまった」と著者の王都への評価は低くなっています。一方、王郁については、『資治通鑑』では口先だけの卑劣漢というような記述になっていますが、これにたいして著者は、後に「正統王朝」たる後唐となる沙陀を称揚してキタイ(というか耶律阿保機)を貶めるためのあさましまく下品な(創作)話だ、と言って『資治通鑑』の記述を否定するとともに、その心性は中華主義というよりもほとんど子供だ、と言って司馬光を罵倒しています。

 しかし、この王一族の行動を見ると、王都は忠臣で王処直・王郁は裏切り者という単純な評価を採用するつもりはありませんが、王都はその人格を批判されるような邪悪な人物か否か定かではなく、単に生き残りをかけて必死だっただけではないのか、という解釈もできるように思います。「中華世界の正統王朝」側の人物なので称揚し、その敵対勢力の人物は貶める、という傾向が漢文史料にあることは否定できないのかもしれませんが、著者は時としてそれを過剰にひっくり返しているのではないか、との疑問は残ります。

 北宋は高度の文化国家でキタイ帝国は素朴野蛮な勢力である、というような「中華中心史観に基づく固定観念は歴史学的には本当に妥当なのか、と問いかける著者の提言は大いに傾聴すべきかもしれません。しかし、それがこれまでとは正反対の方向に行き過ぎて、「中華世界」外の近隣国家を過剰に称揚し、「中華世界の正統王朝」を実態以上に貶めるようなことになってもならないだろう、と思います。どうも著者には、「中華中心史観」への批判が行き過ぎることもあるのではないか、との疑問も残ります。

 相変わらずの癖の強い杉山節なので、杉山氏の著書を初めて読む人は戸惑ったり途中で挫折したりするかもしれません。私は、本書を読んだ時点ですでに慣れていたということもあり、戸惑うことはありませんでしたが。と言いますか、杉山節には中毒性があり、つい引きこまれてしまいます。本書は一般向け通史としては時代配分に問題がありますが、広い視野での考察と「中華中心史観」をはじめとして伝統的な史観・偏見への批判には、考えさせられるところが多々あります。問題も大いにありますが、再読してよかったと言える一冊です。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 文永の役日本勝利説は歴史修正主義?

    Excerpt:  表題のような呟きがTwitterで流れてきました。まあ正確には、引用画像で流れてきたので、検索して見つけたわけですが。 Weblog: 雑記帳 racked: 2018-10-17 17:52