『週刊新発見!日本の歴史』第43号「現代3 アジア・太平洋戦争の全貌」

 この第43号は、1941年7月の南部仏印進駐から1945年9月に日本が降伏文書に調印するまでを対象としています。この第43号でも「新発見」的な見解は提示されていますが、現代日本社会ではこの期間への関心は高いでしょうから、そうした「新発見」的見解をすでに知っている一般読者は少なくないかもしれず、『週刊新発見!日本の歴史』をわざわざ読むような人については、とくにそう言えるかもしれません。

 その意味で、この第43号に限りませんが、「新発見」と謳っているこの『週刊新発見!日本の歴史』が、読者にとってあまり「新発見」になっていないこともありそうで、それが売れ行き不振(近所の書店での入荷数の推移からの推測にすぎませんが)の一因なのかな、とも思います。何が「新発見」的な見解となると、もちろん個々の読者によって受け取り方は違ってくるのでしょうが、いつものように、「新発見」と受け取る一般層が多いかな、と私が思った見解について、備忘録的に述べていきます。

 対米英開戦前後の大本営参謀たちが、作戦至上主義から政治を作戦の邪魔として嫌い、大東亜共栄圏論さえも作戦の邪魔と考えていた、との見解は「新発見」的かな、と思います。そうした大本営参謀の判断の根底には、日本の資源・国力不足との認識がありました。資源獲得に目的を絞りたい大本営参謀としては、対米英戦を「相手のある話」にして、資源獲得のための「(軍政による制度的裏づけのある)民生への重圧」の妨げになるような事態を避けたかった、というわけです。

 大東亜共栄圏を掲げれば、それは「大東亜」という「相手のある話」をすることになります。戦争とはされなかった「支那事変」のように建前として相手の主権を認めると、「建前」と「現実」との乖離を招来して民心離反を強めるのではないか、との反省が大本営参謀にはあったようです。この第43号は第二次世界大戦後の東南アジア植民地の独立について、以下のように興味深い見解を提示するともに、アジアとの出会いと敗北が日本人に自省の機会を与えた、と指摘しています。

 参謀たちが、いかに国力の限界を意識した現実主義から戦争を計画したのだとしても、未知の大戦・未知のアジアを前に彼らもまた、自らが現実的だと想像していたにすぎない。果たしてこの戦争を相手のある話にしないなどということが、そもそも可能だったのだろうか?
 この視点から振り返れば、戦争が東南アジア植民地の独立に結びついた事実も、とても単純な解放論では語れない。ビルマ(ミャンマー)独立工作は、もともとビルマが南方攻略作戦の対象外とされたがゆえに「謀略」として着手された。ビルマ侵攻・占領が決まると、直ちに南方軍参謀独立運動を抑えにかかった。資源獲得の最重要目的地であるインドネシアの独立など、大本営には論外であった。日本政府が独立付与に腰をあげたのは、選曲が悪化した1944年9月のことだった。
 それでもこれらの地域が戦争を通じて独立に向けて歩んだのは、日本軍の思惑を各地の独立運動が乗り越えた結果だった。派遣軍関係者は占領地の独立におおむね同情的で、なかには独立運動に身を投じる者さえいた。それは彼らが占領者としてアジアの相手と直接向かい合う現場にいて、彼らの協力が必要だったし、彼らのナショナリズムに圧倒され、そして共鳴したからだった。
 このように大本営という密室で構想・準備された「作戦」が占領地の現実と遭遇して、アジアの現実と向かい合い、大東亜共栄圏を語りながら、占領地の経営能力に欠けて経済を破綻に追い込み、日本のやり方が通用しないことを思い知らされた経験として戦争を振り返るとき、「アメリカの圧倒的な物量の前に敗北した」という日本人の平均的な戦争観は、見直しを迫られるのである。


 日本が第二次世界大戦中に占領した東南アジアでの軍政について、当初は成功した地域もあったものの、まもなく例外なく経済的に窮迫し、食料危機に襲われたことを、この第43号は指摘しています。その理由として、欧米との通商を断たれた東南アジア経済にとって、日本は欧米を代替できるだけの経済力のない帝国だったことが挙げられています。この第43号は、日本には大東亜共栄圏の盟主としての実力が欠け、日本にできたことは、帝国のもっとも古代的な形態としての戦利品の略奪だった、と指摘しています。

 また、中国大陸と太平洋地域とでは、戦場の厳しさが大きく異なっていたことが、復員兵の健康状態や荷物の様相の違いとも関連づけられて指摘されています。もちろん、太平洋地域での戦場の方が中国大陸での戦場よりもはるかに過酷だったことの方が多いわけですが、中国大陸で日本軍が優勢に戦い続けられたのは、もちろん当時の中国軍の弱さもあるにしても、食料を現地調達できたことが大きかった、とも指摘されています。

 その他には、1943年11月の大東亜会議では、日本側が大西洋憲章を強く意識し、共同宣言という形式にこだわった、との見解が「新発見」的でしょうか。第二次世界大戦中も、日本人の意識はずっと「親米」だった、との見解も「新発見」的かもしれませんが、すでに現代日本社会では広く一般に知られているのかな、とも思います。それ故に「鬼畜米英」と強調された、という事情もあるのでしょう。この第43号では、日本政府・軍は自国民向けの宣伝でさえ米国に完敗した、と指摘されています。

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