『岩波講座 日本歴史  第2巻 古代2』

 本書は『岩波講座 日本歴史』全22巻(岩波書店)の第2巻で、2014年3月に刊行されました。すでに『第6巻 中世1』(関連記事)・『第1巻 原始・古代1』(関連記事)をこのブログで取り上げました。各論文について詳しく備忘録的に述べていき、単独の記事にしようとすると、私の見識・能力ではかなり時間を要しそうなので、これまでと同じく、各論文について短い感想を述べて、1巻を1記事にまとめることにしました。



●倉本一宏「大王の朝廷と推古朝」(P1~36)
 本論文は6世紀~7世紀第1四半期頃まで(後世の漢風諡号でいうと、おおむね継体朝~推古朝となります)の政治・外交史を検証し、最後に大化改新への展望も提示しています。本論文はこの時期の特徴として、中華地域の王朝と通交がなく、もっぱら朝鮮半島、とくに百済との関係の深かった6世紀(のほぼ全年代)に、5世紀後半に始まりつつあった血縁による王位継承原理が確立し、王位が特殊な血統(後世の皇族へとつながっていきます)に限定されていくなど、支配体制が整備されていったことや、仏教が導入されたこと(これも支配体制の整備の一環とも言えますが)を指摘しています。

 この状況が大きく変わるのが6世紀後半の隋による中華地域の統一で、冠位十二階など推古朝の改革は隋との交流の影響によるものだろう、とされています。ただ、本論文は推古朝の改革の限界も指摘しており、推古朝の改革の延長線上に大化改新があったのではなく、それは中華地域と朝鮮半島情勢の激動に対応したものだっただろう、との見通しを提示しています。本論文は、万人の納得する見解を提示することの難しい時代を扱っていますが、全体的には堅実だと思います。ただ、音韻学による『日本書紀』区分論を、清書段階の用語や語彙の述作の問題だとして、軽視しているように見えるところや、堅塩媛が石姫没後に欽明の大后になった、との見解は気になります。卑弥呼は北部九州の地域政権の盟主との見解を提示していることも、気になったというか意外でした。


●北康宏「大王とウヂ」(P37~74)
 率直に言って、この問題に関して私があまりにも勉強不足のため、じゅうぶん咀嚼できたとは言い難いのですが、何とか簡潔にまとめてみます。古代日本のウヂは流動的な世帯家族が権益化した名を系譜として負うことで永続性を獲得した団体で、始祖が王権神話に吸収され権益が王権の権威により保証されるに至って、強固な王権依存性を獲得した、と本論文は指摘します。そのため、ウヂは特定の家族を核とはするものの、同一の名のもとに配下の部民階級に及ぶ縦割りの集団構成をとり、名の永続のためならば血縁世襲を排することもあり得た、というのが本論文の見解です。

 ウヂは自然発生的な血族団体ではなく歴史的諸条件のもとに生み出されたのだから、その特徴を段階的に把握する必要がある、と指摘する本論文で提示される時期区分は、

(1)名を付すことで支配を及ぼし、名を負うことで集団に帰属するという直接的な人格関係の段階。複数の名を背負って複数の集団に帰属することもあります。

(2)名が設定者の手を離れて実体化し、名を負うことが権益の継承と観念される段階。個々の家族は権益たる名々を集積し、その世襲を継承次第として負うことで永続的団体へ転ずるとともに、重層的な奉仕関係を自己の中に吸収する、とされます。これが狭義のウヂとなります。この段階では、名への多属性が存続しています。

(3)名の権益否定と律令官人制への移行を期して、公認した氏上を核に擬制的な出自集団が設定される段階です。単一の氏の名を選択して登録することが官人出身の条件とされ、王名に代えて位階が授与され禄が支給されます。ウヂに生命を吹き込んでいた名は抽象的な奉仕理念に還元され、位階を負った個人と流動的な家族が現出します。

となります。さらに本論文は、中世~近世までも視野に入れて、結局のところ日本では血縁に基づく出自集団は成立しないのではないか、流動的な家族は政治経済的な権益を触媒として初めて永続団体として固定するのであり、その要因が時代や階層によって家名・家職・芸道・暖簾などと変化する、との見解を提示しています。今後、この問題については他の文献でも勉強しつつ、本論文を複数回読み返す必要がありそうです。


●森公章「国造制と屯倉制」(P75~106)
 本論文は、国造制・屯倉制・部民制の起源を5世紀以前にさかのぼらせるじゅうらいの見解を否定し、近年の見解に基づき、6世紀以降に出現したとして、その展開を推古朝にいたるまで概観しています。このように6世紀に始まる中央集権体制への動きは、推古朝において一定の段階にまで達したものの、地方豪族の序列化・官僚化にまでいいたらず、東アジアの動乱のなかで、唐のような律令体制が模索されていく、との見通しを本論文は提示しています。この問題についても不勉強なので、他の文献でも勉強しつつ、本論文を複数回読み返す必要がありそうです。


●丸山裕美子「帰化人と古代国家・文化の形成」(P107~140)
 本論文は、9世紀初頭までの帰化人の動向と日本列島における国家・文化の形成を概観しています。本論文の特徴は、近年では使用例の多い「渡来人」ではなく、あえて「帰化人」を採用していることです。「帰化」は確かに中華思想を前提とするものの、あまりにもその側面を強調すると、かえって実態とは乖離してしまう、と指摘する本論文は、「帰化人」を、自らの意志で渡来し定住した人々を中心とし、結果的に定住した人々も含め、王権あるいは国家がこれを受け入れた人・集団とその子孫に適用する、としています。

 そのうえで本論文は、帰化人を6世紀までに渡来した人々と(おもに百済・高句麗の滅亡にともなう)7世紀後半以降に渡来した人々とに区分し、それぞれの具体的様相を概観しています。さらに本論文は、8世紀後半以降に唐が衰退し、やがて滅亡していくなかで、周縁の諸民族は独自の文化を形成していくことになり、それとともに「帰化人」は消え、9世紀初めに編纂された『新撰姓氏録』に見える「諸蕃」という意識も消えて、代わって「異国」意識が生じる、との見通しを提示しています。


●小澤毅「飛鳥の都と古墳の終末」(P141~176)
 本論文は、(広義の)飛鳥の宮と藤原京の在り様を概観するとともに、飛鳥時代前期における前方後円墳の消滅とその意義について検証しています。初の本格的な恒久的都城として建設された藤原京については、唐の情報が不足するなかで『周礼』に依拠した構造になっており、大宝年間の遣唐使により現実の唐(周)の都城との違いが認識されたために、短期間で放棄されたことが指摘されています。

 6世紀末~7世紀初頭にかけて、全国でほぼ同時期に前方後円墳の築造が停止されたのは、前方後円墳がもはや秩序の表象としての意味を失ったからであり、さらにその前史として、そもそも6世紀の前方後円墳の規模は5世紀と比較して明らかに縮小していた、と本論文は指摘します。本論文は末期巨大前方後円墳の五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)の被葬者は、蘇我稲目ではないか、と推測しています。同時代最大の古墳は大王陵との仮説は、そうした事例が相当数存在した可能性は高いものの、実証されているわけではなく、大王の継承順位が不安定な状況下では、大王陵が同時代最大の古墳であり続けるのは事実上困難だ、というわけです。

 前方後円墳の築造停止後、大王(天皇)陵は方墳(と一部有力王族の円墳)の時代を経て、舒明の代より八角墳へと移行します。八角墳の意味についてはまだ定まっていないものの、他の豪族墓とは異なる独自の墳形が希求され、天皇の地位の隔絶化を図る意識が結びついていたのだろう、と本論文は推測しています。いわゆる薄葬令については、実際に効力を発揮したことが強調されています。持統天皇以降、天皇も火葬されるようになると、古墳の減少・規模の縮小に拍車がかかることも、本論文では指摘されています。また、高松塚古墳の被葬者は石上麻呂の可能性が高い、との見解も注目されます。


●川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」(P177~208)
 本論文は、仏教伝来から藤原京の時代までの文化を、仏教を中心に概観しています。本論文はいわゆる推古朝遺文の再検討について、史料批判は当然としても、なかには行き過ぎた事例もあるのではないか、と慎重な姿勢を見せ、推古朝遺文の一部について、改めてその史料価値を再検証しています。仏教も律令も、日本列島では漢字を通じて理解されたのであり、その意味で、律令国家成立以前の6世紀に日本列島へ伝来した仏教は、日本(倭)の文明化に多大な影響を与え、律令制導入の地ならしをしたのではないか、と本論文は評価しています。また本論文は、日本列島における仏教の展開について、じゅうらい中国の影響が過大評価されてきたのではないか、と指摘し、朝鮮半島からの影響を再評価するよう、提言しています。


●李成市「6-8世紀の東アジアと東アジア世界論」(P209~250)
 本論文は6~8世紀の東アジア情勢を概観し、東アジア世界論の意義とその限界も論じつつ、日本国家成立の意義と要因を検証しています。興味深いのは、唐と新羅との戦争は、単純に新羅の勝利に終わったとも言い難く、唐はトゥプト(吐蕃)に大敗したことにより、新羅討伐を完全に放棄せざるを得ない状況に追い込まれた、との見解です。日本列島や朝鮮半島における国家形成は、唐との関係だけで論じられるものではない、というわけです。

 本論文は、『日本書紀』に描かれた大国としての「日本」は、百済・新羅・高句麗の「三韓」を不可欠の存在として関係づけて初めて成立したのであり、東アジア世界論への批判として提示されている東部ユーラシア論では、本論文で提示された「日本」国成立の意義を論じるのは困難だ、と指摘しています。その意味で、古代日本国家の成立を招来した秩序世界を東アジア世界とみなすのは未だに有効だ、とされます。ただ、東アジア世界論と東部ユーラシア論は相互に排他的ではなく、前者も包括しての後者というか、後者抜きの前者はあり得ないと考えればよいのではないか、と思います。この問題については、『岩波講座 日本歴史』第22巻「歴史学の現在」で論じられるそうなので、刊行されたら読む予定です。


●市大樹「大化改新と改新の実像」(P251~286)
 本論文は大化改新の実像とその意義について検証しています。大化改新の契機となった乙巳の変については、直接には王位継承および外交路線をめぐる対立が要因になったのではないか、と推測しています。私は、蘇我氏の内紛(族長位をめぐる争い)も乙巳の変の大きな要因であり、蘇我氏の内紛は少なくとも蘇我倉山田石川麻呂の事件まで続いたのではないか、と考えています。蘇我氏の内紛は構造的なものであり、斉明朝でも続いたのではないか、とまで私は考えているのですが、現時点では妄想にすぎないので、省略します。

 本論文は、乙巳の変から間もない時期の東国への国司(この時点では国司と表記されていなかったでしょうが)派遣や改新の詔の検証から、大化改新の画期性を認め、とくに地方支配に関して進展があったのではないか、と推測しています。改新の詔については、大宝令による修飾部分はあるものの、旧来の部民制を改め、国-評-五十戸という新たな地方行政区分のもと、人民・田地を戸単位に掌握して新たな税を課す、という内容の原詔が存在した可能性が高い、との見解を本論文は提示しています。

 大化改新を進めた孝徳朝の分裂について本書は、唐・新羅・百済・高句麗との等距離(多元)外交を志向した孝徳と、百済・高句麗との連携をより志向した中大兄皇子との間で深刻な対立があったのではないか、と推測しています。孝徳没後の斉明・天智朝において、大規模な建造や派兵といった大動員が行なわれていることからも、大化改新における地方支配の強化の効果は大きかったようです。しかし一方で、官僚制の導入については変動が激しく未熟だったようで、画期となるのは大宝令の施行ではないか、との見解が提示されています。

 7世紀までの倭(日本)は直接には朝鮮半島から文明を享受し、結果として古い時代の中国の諸制度を摂取してきたのにたいして、7世紀末には、同時代の中国により直接的に向き合うようになり、官僚制も含めた体制の整備が一気に進んだのではないか、というわけです。7世紀の倭においては、朝鮮半島経由で中国の文物・制度が間接的に受け入れられただけではなく、評のように明らかに朝鮮半島の制度が参照されたこともありました。本論文を読むと、古代日本における国家形成において、中国だけではなく朝鮮半島の直接的影響も重視しなければならない、と改めて思います。


●佐々田悠「記紀神話と王権の祭祀」(P287~322)
 本論文は、祭祀と天皇(大王)の問題とともに、記紀神話についても取り上げ、祭祀で示される神話と記紀に記載されたテキスト上の神話がそれぞれどう共有されたのか、という比較も試みています。本論文は、天皇に関わる祭祀の画期となったのは天武朝で、持統朝において律令体制下における祭祀の基本がおおむね定まった、との見通しを提示しています。もちろん、8世紀以降も祭祀の範囲の拡大など、変容は続いていきます。天武朝を画期とする祭祀の変遷について本論文は、威信財に由来する武器を中心とする単発的・個別的な賜与から、調庸を中心とする現物消費財の定期的・斉一的な賜与への変化との図式を提示しています。

 多くの官人たちの間での神話の共有という問題について本論文は、一回性でその場に参加した人々にのみ共有される祭祀にたいして、そうした制限から解放されるテキスト上の神話の方が、比重が高くなっていく、との見通しを提示しています。また、テキスト上の神話は検証可能なものであり、曖昧にできない故に、たとえば『日本書紀』では異伝が必要とされた、とも指摘されています。このようにテキスト上の神話に比重が移ったのは、王権側の意図というよりも、各氏族がテキストに依存し、その解釈を通じて自己同一性の確立を図ったためだろう、というのが本論文の見解です。

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