社会学と生物学

 昨日このブログにて取り上げた高橋征仁「遺伝子共同体としての家族―マルクス主義フェミニズムからダーウィニアン・フェミニズムへの道」にはたいへん興味深い指摘が色々とあり、昨日の記事では取り上げきれなかった問題もあるので、少し補足しておきます。高橋論文では安藤寿康『遺伝子の不都合な真実─すべての能力は遺伝である』(関連記事)も引用されています。同書では「環境論者」が熱心に批判されているのですが、私はこの問題に疎いので、「環境論者」が本当に遺伝子の影響を軽視したような主張をしていたのか、あるいは「環境論者」が戯画化されているのではないか、との疑問も残りました。

 しかし、高橋論文を読むと、『遺伝子の不都合な真実』で批判されているような「環境論者」が一定以上存在していたことは否定できないのかな、と考えるようになりました。『遺伝子の不都合な真実』を読む前も読んだ後も、生物学・進化心理学・行動遺伝学などは遺伝により能力・性格・嗜好などが決定されると主張している、と「環境論者」は誤解しており(意図的か否かはさておき)、それに反対して環境の影響も大きいことを強調しているだけなのかな、と私は考えていました。しかし、社会学の側から、社会学では今でも「バイオ・フォビア」が強力だ、との指摘がなされたことを考えると、社会学には依然として「環境論者」が多く、生物学・進化心理学・行動遺伝学などへの警戒感・忌避感が強いのかな、と思います。自分の認識の甘さ・勉強不足を思い知らされます。

 社会進化論・優生学の及ぼした影響を考えると、社会学の側の警戒感にも仕方のないところがある、と言えるかもしれません。しかし高橋論文は、「育ち」を重視する社会学の研究枠組みが戦後の民主主義社会の形成に果たした重要な役割を認めつつも、社会進化論・優生学の政治的・道徳的責任を生物学に一方的に推しつける責任逃れの一面もあったのではないか、と指摘します。はたしてそのような側面が認められるのか、私の見識では的確な判断の難しいところですが、検証に値する重要な指摘だとは思います。

 なお、昨日の記事では、未婚化や少子化をめぐる社会学的説明モデルに関して、1970年代以降顕著になった日本社会内部の変動に注目するものが多く、明らかに近視眼的でドメスティックだ、という本論文の見解を紹介しました。しかし、一方で本論文は、家族史研究の側では、日本の少子化が第二次世界大戦前から始まり、逆淘汰(社会階層が高いほど出生率が低くなること)への危機感から優性運動が広がり、第二次世界大戦後の家族意識の改革が優生思想に由来していると指摘されてきたことも、取り上げています。

 高橋論文の背景の一つに、現代は遺伝情報を人為的に制御できる段階に突入している、との認識があるようです。これまでの長期間、遺伝子組成の更新はその大部分が有性生殖を通じて無自覚的に行なわれてきたのにたいして、新たな段階に突入した現在、遺伝子を自由と平等の敵とみなし(『遺伝子の不都合な真実』は、環境が遺伝子を制約しているという側面と、そのことによる問題点を強調します)、優生学に悪のラベルを貼りつけ、タブー化するだけでは何ら問題解決にならない、と高橋論文は指摘します。現代社会が新たに手にしたこの「自由」にどのような倫理的制約を課すかは、これまでの性淘汰の歴史を参照しながら、我々自身が決めていくしかない、と高橋論文は提言しています。

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