中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』

 吉川弘文館より2008年2月に刊行されました。本書は、文禄・慶長の役の期間のみならず、その後の日本・明・朝鮮の交渉と、日本・朝鮮間の「復交」までを対象としています。日本と明とは、文禄・慶長の役の後に通商関係は以前のように盛んとなりましたが、「国交回復」はなされませんでした。明の後に中華地域を支配したダイチングルン(大清帝国)と日本との間でも、明治時代になるまで「国交」は締結されず、通商のみが行なわれるという関係にとどまりました。

 本書を読むと、文禄・慶長の役で朝鮮半島が甚大な被害を受けただろう、と了解されます。日本の「愛国的」な人々の間では、朝鮮半島は元々「後進的」で「未開」なのであり、文禄・慶長の役における朝鮮半島の被害はさほどでもない、ということになっているのかもしれませんが、文禄・慶長の役による朝鮮半島の甚大な被害は否定できないだろう、とは思います。だからといって、文禄・慶長の役がなければ、朝鮮は19世紀後半に日本と同程度かそれ以上の「近代化」を達成していただろう、というような言説は(もしあるとすれば)、疑問ですが。

 現代日本社会では私のような非専門家層にもかなりの程度浸透しているように思いますが、前近代史を考察するさいに、近代国民国家成立以降の「常識」を当てはめると、的外れな解釈に陥りやすくなります。本書も、近代以降の「常識」に囚われず、当時の史料を解釈して歴史像を提示していく、という姿勢を見せています。本書では、豊臣秀吉の認識・思惑についての解釈がその代表的な事例となります。豊臣政権により再編されていった「日本」は、日本列島を囲むような形での「国境線」があらかじめ前提され、その枠組みのなかで予定調和的に「統一」事業が進んだわけではなく、「フロンティア」の拡張という方向で徐々に日本列島外にも領域を拡大していく志向性を有していた、というのが本書の見解です。

 著者が意図してそうしているのですが、本書では戦闘に関する具体的な描写は少なくなっています。その意味で、いわゆる戦記物を期待していた読者にとっては、期待外れと言えるかもしれません。しかし、文禄・慶長の役を戦争として把握することにはおおむね成功しているのではないか、と思います。非専門家が、文禄・慶長の役を総合的に知るための入門書としては、なかなかの出来になっていると思います。李舜臣について過大評価されているのではないか、との疑問も残りましたが、私はこの問題に関して不勉強なので、今後の課題としておきます。

 現代日本社会では、「愛国的」志向の強い人でなければ、文禄・慶長の役は無謀な戦いだった、と考えている人が多いだろう、とは思います。また、そこには豊臣秀吉の判断力・認知能力の低下があったのではないか、と考えている人も少なくないかもしれません。しかし本書を読むと、遠方での戦争ということで情勢の把握が困難だった当時、秀吉は入手し得る情報から割と柔軟で現実的な判断をくだしており、関白任官の前までと比較しても、判断力・認知能力が低下したと言えるのか、疑問に思えます。

 それでも秀吉が朝鮮半島への出兵を続けたのは、武威により「全国統一」を達成し、大名をはじめとして諸勢力を統制してきた秀吉にとって、大規模な軍事行動で何ら成果をあげることなく収束させることはできない、との判断からだったのでしょう。またこれと関連して、文禄の役と慶長の役とでは戦争目的が違っていたことにも注目すべきでしょう(文禄の役でも、緒戦までと終盤とでは目的が違いますが)。明の征服を目的とした文禄の役にたいして、慶長の役では、形式的でも勝利を収めることが目的となり、朝鮮半島南部の確保が企図されました。

 すでに文禄の役と慶長の役の間の時点で、朝鮮の王子を一定期間日本において秀吉に仕えさせ、日本軍が確保する(予定の)朝鮮半島南部を朝鮮の王子に「宛行う」ことによって、日本軍は朝鮮半島から撤退するものの、日本が朝鮮に勝利した、という体裁を取り繕うところまで、(文禄の役と比較して)秀吉の目標は下げられていました。明も朝鮮もこうした秀吉の提示した(当初と比較すると大きく下げた水準の)条件を受け入れなかったために、秀吉は再度の朝鮮半島への出兵を決断した、というわけです。

 朝鮮半島において日本軍は、ただ攻撃して略奪するのではなく、統治という観点も重視していたようです。それは、両班・士大夫層と一般民衆とを離間させ、一般民衆を「日本の御百姓」にするというもので、たとえば朝鮮半島へと出陣を命じられた島津家が担当した地域(全羅道海南)では、ある程度の効果があったようです。それでも結局、全体的に日本軍の統治は上手くいかなかったようです。また、朝鮮にとっては、日本軍だけではなく駐留した明軍による略奪も深刻な問題だったようです。

 文禄・慶長の役後の日本・明・朝鮮の交渉は、それぞれの思惑の違いもあり、なかなか進みませんでした。ここで興味深いのは、朝鮮が日本と対馬とを区別するという形での交渉に拘ったことです。朝鮮は明から、日本と通じているのではないか、との疑念をずっと抱かれてきました。朝鮮はその疑念を払拭するために、和睦交渉は日本とではなく朝鮮にとって以前から「羈縻」対象地だった「対馬」と行なう、との建前を明に示す必要がありました。これが、対馬は代々朝鮮の支配下にある、との観念を強めることになったのかもしれません。

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