『天智と天武~新説・日本書紀~』第6集発売および今後の展開について

 待望の第6集が発売されました。第6集には、

第44話「白村江」
http://sicambre.at.webry.info/201406/article_28.html

第45話「大海戦」
http://sicambre.at.webry.info/201407/article_11.html

第46話「帆柱」
http://sicambre.at.webry.info/201407/article_27.html

第47話「格闘」
http://sicambre.at.webry.info/201408/article_11.html

第48話「告白」
http://sicambre.at.webry.info/201408/article_28.html

第49話「悲恋」
http://sicambre.at.webry.info/201409/article_11.html

第50話「国際軍事裁判」
http://sicambre.at.webry.info/201409/article_29.html

第51話「救出作戦」
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_13.html

が収録されています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第6集にてはじめて表紙の人物が裸ではありませんでしたが、それでも相変わらずレジには持って生きにくい表紙です。第6集では、白村江の戦いとその後の交渉・救出作戦の前半までが描かれました。白村江の戦いは丁寧に描かれそうだな、とは予想していましたが、ここまで長く描かれたのは意外でした。正直なところ、兄弟の確執は長く描かれ過ぎたのではないか、とも思うのですが、二人の関係に一旦はっきりと区切りをつける、という意図もあったのでしょうか。色々と予想外の展開となりましたが、大海人皇子と新羅とのつながりなど、これまでに描かれてきた設定が活かされており、なかなか楽しめました。なお、第7集は来年(2015年)3月末刊行予定とのことです。



 『天智と天武~新説・日本書紀~』は、最新の 第54話では665年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)秋まで話が進んでいます。大枠では今後も通説にしたがって話が進むでしょうから、天智帝(中大兄皇子)の死までの作中で描かれそうな重要な出来事を年表風にまとめて、今後の展開を予想していくことにします。


●665年9月20日
 唐からの使者である劉徳高・郭務悰ら254人が筑紫に到着する。

●665年10月11日
 菟道(現在の京都市・宇治市の一部)にて盛大な閲兵が行なわれる。

●665年11月13日
 朝廷は劉徳高らを饗応する。

●665年12月14日
 劉徳高らは物を賜る。同月、劉徳高らは帰国する。

●665年12月23日
 中臣鎌足の息子の定恵(真人)が百済の士人に毒殺される。

●666年冬
 都の鼠が近江国に向かって移動する。

●667年2月27日
 斉明帝と間人皇女(中大兄皇子の同父同母妹で孝徳帝の大后)が合葬される。大田皇女は二人の陵の前の墓に葬られる。

●667年3月19日
 近江へ遷都。

●668年1月3日
 中大兄皇子が即位する(天智帝)。667年3月即位説も有。

●668年2月23日
 古人大兄皇子の娘である倭姫王が皇后に立てられる。

●668年5月5日
 天智帝・大海人皇子・諸王・群臣が参加して蒲生野で狩りが行なわれる。

●668年秋
 天智帝が様々な場所で宴を開き、帝の世が終わろうとしているのか、と人々は噂した。

●668年9月
 高句麗が唐に滅ぼされる。

●669年1月9日
 蘇我赤兄が筑紫率(令制の大宰帥に相当)に任じられる。

●669年5月5日
 天智帝・大海人皇子・中臣鎌足など群臣が参加して山科野で狩りが行なわれる。

●669年10月10日
 天智帝が病床の中臣鎌足を見舞う。

●669年10月15日
 天智帝は大海人皇子を鎌足邸に遣わし、大織冠と大臣の位を授け、藤原のウジナを与える。

●669年10月16日
 藤原(中臣)鎌足が56歳で薨去。

●669年冬
 斑鳩寺(法隆寺)で火事。

●670年2月
 戸籍を造る(庚午年籍)。

●670年4月30日
 法隆寺が全焼。

●671年1月5日
 大友皇子が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、中臣金が右大臣に、蘇我果安・巨勢人・紀大人が御史大夫(令制の大納言に相当か)に任命される。

●671年1月6日
 大海人皇子(大友皇子説も有)が詔して冠位・法度のことが施行され、大赦が行なわれた。

●671年4月25日
 漏刻(水時計)を新たな台に置き、人々に時を知らせた。

●671年5月5日
 天智帝・大海人皇子・群臣が参加して宴が開かれ、田舞が演じられた。

●671年9月
 天智帝が病気になる。

●671年10月17日
 病の重くなった天智帝は大海人皇子を呼び、後事を託そうとするが、大海人皇子は固辞し、出家する。

●671年10月19日
 出家した大海人皇子が吉野に向かう。

●671年11月10日
 唐が郭務悰ら2000人(復興百済軍救援の戦いのさいの倭軍捕虜も含むか)を倭に派遣した、との報告が太宰府に届く(669年説も有)。

●671年11月23日
 内裏西殿にて、大友皇子が蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢人・紀大人とともに天智帝の詔に従うことを誓う。

●671年11月24日
 近江宮で火事。

●671年12月3日
 天智帝が崩御。同月11日に殯が行なわれる(この日に始まったということか)。


 こうして並べてみると、重要な出来事が多くあるので、天智帝(中大兄皇子)の死、さらには壬申の乱の終結はかなり先のことになりそうです。次回は定恵(真人)の帰国が描かれそうで、通説とは異なり、定恵は大海人皇子(天武帝)に匿われて生き延び、粟田真人として後半生を生きるのではないか、と私は予想しています。孝徳帝の御落胤かもしれないということで、定恵は中大兄皇子に警戒されて殺されそうになるものの、大海人皇子が定恵を匿ってやってその父の鎌足に恩を売り、鎌足と中大兄皇子との絆にヒビを入れようとするのではないか、というわけです。

 その次の大きな出来事は近江への遷都となりそうですが、その前に大田皇女の死が描かれることでしょう。病弱という設定ではなく、健康そうな大田皇女がなぜ若くして死んでしまったのか(作中設定では満年齢で20~21歳で没したと推測されます)、たいへん気になるところです。また、大田皇女を亡くしたさいの大海人皇子と鸕野讚良皇女(持統天皇)鸕野讚良皇女(持統天皇)の反応も注目されます。二人とも嘆き悲しむような話になるとよいのですが・・・。

 大田皇女の息子の大津皇子はたいへん優秀な人物で、中大兄皇子に愛された、と伝わっています。蘇我入鹿の容貌はその息子の大海人皇子に引き継がれていますが(あくまでも作中での設定ですが)、それはさらに大津皇子に引き継がれるのではないか、というのが私の予想です。中大兄皇子は、自分の甥にして孫であり、聡明だというだけで大津皇子を可愛がったのではなく、入鹿そっくりの容貌だったために、幼少時から可愛がって自分好みの人物に育てようとしたのではないか、というわけです。

 これは『源氏物語』からの推測で、中大兄皇子が光源氏、蘇我入鹿が藤壺、大津皇子が紫の上の役割を担うのではないか、というのが私の予想です。あるいは、蘇我入鹿が桐壺更衣、大海人皇子が藤壺という役割設定になるのかもしれません。もっとも、大海人皇子の息子たちが作中で重要な役割を担うのか、現時点では不明なので、大津皇子もあまり描かれないのかもしれません。ただ、大津皇子はまだ作中では誕生後間もない姿が描かれただけなのに、人物相関図に掲載されているので、重要な役割を担うのではないか、というのが私の予想です。

 近江遷都後で大きく描かれそうなのが蒲生野での狩りで、中大兄皇子・大海人皇子・額田王の三角関係(人物相関図での紹介)がどう描かれるのか、注目されます。ただ、大海人皇子は今でも額田王に執着しているようですが、中大兄皇子の方には、額田王への執着があまり見られないので、三角関係と言えるのか、やや疑問の残るところです。中大兄皇子が額田王を妻としたのは、単に大海人皇子から大切な人を奪って精神的打撃を与えたかった、というだけのことのように思えます。

 この後、668年秋に天智帝が様々な場所で宴を開いたとされますが、その頃のこととして、大海人皇子が酒宴で槍を板に突き刺し、天智帝(中大兄皇子)が激怒して大海人皇子を殺そうとしたところ、鎌足がとりなした、という有名な逸話が描かれるのではないか、と予想しています。『藤氏家伝』によると、それまで大海人皇子は鎌足を嫌っていたものの、この件以降二人の関係は良好になったそうです。鎌足の死は669年10月16日のことですが、そこに大海人皇子が関わっているのか、それとも、大海人皇子が鎌足の娘二人(氷上娘・五百重娘)を妻としていることからも、大海人皇子と鎌足との間には信頼関係が築かれていたとなるのか、注目されます。

 鎌足の死後では、法隆寺の火災が気になるところです。作中では蘇我入鹿こそ聖徳太子だったとされていますが、法隆寺は冒頭の明治時代の調査で描かれただけで、その後はまったく言及されていません。作中世界では誰が法隆寺を建立したのか、上宮王家は存在したのか、といった謎の手がかりがここで提示されるかもしれません。最終的には法隆寺夢殿に安置(封印)される救世観音像は隠れ主人公であり、入鹿・天智・天武・鎌足・不比等ら歴史上の主要プレイヤーの間を彷徨い続ける、とされているので、その所有者の変遷も気になるところです。

 その後は、大友皇子が太政大臣に任命され、その年の末に天智帝(中大兄皇子)は死にます。この期間は中大兄皇子と大海人皇子の心理戦の山場となりそうで、大いに注目されます。すでに大海人皇子の声望が高まり、次の帝に期待する人々が増えてきているので、中大兄皇子も容易に大海人皇子を殺すことはできない状況となっています。しかし、異母弟の大海人皇子から大切なものを奪うことが生きがいの一つになっている中大兄皇子ですから、大海人皇子には帝位を継承させたくないはずです。

 中大兄皇子が大友皇子を後継者にしようとしたのは、息子に帝位を継承させたかったというよりも、弟の大海人皇子に帝位を継承させたくなかったから、という話になりそうな気がします。作中世界では大友皇子は優秀なようですが、本人も認めているように母親の身分が低いので、帝位継承にさいしてはそこが弱点となります。大友皇子は叔父の大海人皇子を慕っていながらも、父親の強い意向で後継者にならざるを得ず、壬申の乱は中大兄皇子・大海人皇子の長きにわたる相克がもたらした悲劇として描かれるのかな、と思います。

 そこで悲劇性をさらに高めるのが救世観音像で、中大兄皇子は大海人皇子から救世観音像を奪い、それは大友皇子に継承されるのではないか、と予想しています。壬申の乱で敗色濃厚となり、自害を覚悟した大友皇子にたいして、大海人皇子が大切にしている救世観音像を毀してしまえ、と大友皇子の側近が進言するものの、大友皇子はそれを退け、救世観音像を無傷で大海人皇子に返却する・・・というのが現時点での私の妄想です。壬申の乱のさいに、大海人皇子の長女で大友皇子の妻である十市皇女の心境・言動がどう描かれるのかも注目されます。

 色々と妄想を述べ立てただけですが、ともかく今は、作品が打ち切りにならずに完結するとよいな、と願っています。表題からすると、「本編」は壬申の乱で終わりなのかもしれませんが、その前に、これまで2回描かれてきた奈良時代初期の『日本書紀』編纂の場面のように、壬申の乱よりも後の出来事がたまに挿入されて謎解きが進むことを期待しています。鎌足の息子の不比等(史)が台頭する経緯や、大津皇子の悲劇的な最期や、天武朝の政治状況などをぜひ読みたいものですが、さすがにそこまでは描かれないでしょうか。第二部「天武と持統」・第三部「持統と不比等」・第四部「藤原氏の覇権」のような感じで壬申の乱後も続いてくれると、本当に嬉しいのですが。

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