日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』

 歴史新書の一冊として洋泉社より2015年8月に刊行されました。本書は、昨年(2014年)同じく日本史史料研究会の編纂で刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、豊臣秀吉についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。本書もたいへん面白かったので、次は徳川家康についても同様の新書が刊行されることを期待しています。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。



第1部 政治権力者としての実像とは

●堀越祐一「五大老・五奉行は、実際に機能していたのか」P12~30
 五大老・五奉行の当時の呼称と役割、さらには両者の関係について解説されています。五大老は当時「大老」とはまったく呼ばれておらず、江戸時代に幕府の臨時役職である大老を念頭に置いて成立した呼称だったようです。五大老は、当時「奉行」と呼ばれることもありました。一方、五奉行の方は、当時「年寄」とも呼ばれていました。しかし、五大老=奉行、五奉行=年寄で当時固定されていたわけではない、ということも指摘されています。五大老を「奉行」と呼んだのは、石田三成をはじめとする「豊臣政権護持派」の吏僚層のみであり、五奉行を年寄と呼んだのも吏僚層のみだった、とのことです。豊臣政権吏僚層は、五大老を「奉行」と呼ぶことで、その上位には豊臣秀頼がいることを強調したかったのではないか、と指摘されています。

 五大老の職務としては、謀反への対応もありますが、本来的な職務は領地給与であり、五奉行の職務として最重要なのは豊臣直轄領の統括だった、と指摘されています。ただ、五大老による領地給与とはいっても、新恩給与はわずかで、そのほとんどは所領安堵だったものの、徳川家康は権力を掌握していくと、豊臣直轄領を割いて大名に加増するようになり、主従関係を築こうとしていたのではないか、との見通しが提示されています。五大老がそうだったように五奉行も一枚岩ではなかったのですが、こうした家康の行為は豊臣直轄領の削減につながるため、三成たちは家康と激しく対立したのではないか、というわけです。

 家康が同じく五大老の前田利長と上杉景勝の討伐を企図したのも、諸大名を動員して屈服もしくは滅亡させ、新恩給与により豊臣直轄領を奪いつつ、諸大名との間に主従関係を築こうとしたためではなかったか、と推測されています。三成の挙兵に宇喜多秀家や毛利輝元が応じたのは、次は自分が家康の標的になるという警戒感があったからではないか、と推測されています。また、そうした観点から、家康にとって関ヶ原の戦いは想定外の危険な事態だっただろう、との見解が提示されています。

 五大老が領地・官位の点で五奉行を圧倒していたことは間違いありません。しかしながら、秀吉存命中には奉行衆の政治的権力がきわめて大きく、とりわけ三成は諸大名から畏怖されていた、と指摘されています。そのため、秀吉死後も余光により三成は諸大名に威を振るうことができた、というわけです。その意味で、五大老と五奉行との間に成立当初より上位関係があったと単純には断定できないだろう、と指摘されています。ただ、秀吉死後に関しては、三成の権威はあくまでも余光に基づくものであり、やがて失われることは当然だとして、三成の失脚もそうした文脈で解釈されています。五大老と五奉行の見直しについてはある程度知っていたものの、本論考で新知見を得て整理することができました。


●光成準治「秀吉は、「大名統制」をどの程度できていたのか」P31~50
 豊臣政権がどの程度諸大名を統制できていたのか、解説されています。この問題に関しては、かなり緩やかな統制だったとの見解と、専制権力的性格が強かった、との見解が提示されています。本論考では、取次・城割・城下集住の観点から豊臣政権の統制力が検証されています。その結果本論考は、取次の役割・権能は固定化されていたわけではなく、城割や城下集住が全大名領国で貫徹されていたわけでないことなどから、豊臣政権の大名統制には限界があった、との見解を提示し、豊臣政権により全国一律に兵農分離・商農分離がもたらされた、との通説は再検討が必要であり、各地により進展速度が異なっていたのではないか、と指摘しています。


●神田裕理「秀吉は、天皇・公家衆を思いのまま動かしていたのか」P51~68
 豊臣政権の朝廷統制がどの程度のものだったのか、解説されています。秀吉の関白任官については、征夷大将軍に任官できなかったからだ、との見解が提示されていますが、その理由として挙げられている、足利義昭に養子縁組が断られたという説も、小牧長久手の戦いで徳川・織田軍に敗北したからだ、との説も否定されており(小牧長久手の戦いで徳川軍が勝利したのは局地戦)、関白の座をめぐる争いを秀吉が利用した、との見解が提示されています。豊臣政権の朝廷統制については、朝廷の政務に深く関与して支持するのではなく、知行宛行による経済的支援や武力による担保で、朝廷の政務が滞りなく進められることを企図していた、と指摘されています。成り上がり者の秀吉にとって、朝廷の政務への深く細かい関与は難しかった、との事情もありそうです。


●木下聡「秀吉は、官位をどのように利用したのか」P69~84
 豊臣政権が官位を利用して諸大名間の秩序を形成していったことが解説されています。豊臣宗家を摂関家、徳川家や前田家や毛利家などの有力大名を清華家に、その下に公家・諸大夫が位置づけられることにより、豊臣宗家を主君とする諸大名間の身分秩序が形成されていきました。ただ、武家の身分秩序は官位のみに依拠していたわけではない、ということも指摘されています。また、秀吉が信長の家臣時代に筑前守と名乗ったことはよく知られているでしょうが、秀吉が筑前守と称さなくなった時期があり、それは播磨方面における失態(荒木村重などの寝返り)の責任をとったためではないか、との指摘も注目されます。


●岡田謙一「知られざる秀吉政権・黎明期の家臣たちとは」P85~102
 秀吉がどのように家臣団を形成していったのか、解説されています。秀吉の出自は不明ですが、その主君の織田信長とは異なり、譜代の家臣がまったくいないような階層の出身だったことは間違いないようです。そのような身分から台頭し、ついには天下人となった秀吉の家臣団の特徴として、多様な出自が指摘されています。また、豊臣政権初期に吏僚として仕えた細井方成(政成)のように、重要な役割を担った人物といえども、その子孫が登用されたわけではなさそうな事例も取り上げられています。豊臣政権の家臣団が安定してくるのは、「全国統一」を果たした前後からのようですが、それも結局は分裂してしまい、秀吉死後についには滅亡へと追い込まれました。



第2部 誰もが知っている秀吉が命じた政策

●鈴木将典「「太閤検地」は、秀吉の革新的な政策だったのか」P104~119
 太閤検地について解説されています。太閤検地は「全国」に統一的な石高制を導入した画期的な土地政策だったとされていますが、豊臣政権が直接検地した土地は限定的だったことと、貫高など石高以外の土地価値の表示が採用されていた事例も少ないことが指摘されています。それらは、中世以来の在地の慣行に基づくものでした。ただそれでも、そうした在地の慣行由来の土地価値の表示も石高に換算されており、多分に虚構的なところもあるとはいえ、曲がりなりにも「全国」規模で統一的な賦課基準が成立したところに、太閤検地の画期性がある、と指摘されています。


●荒垣恒明「「刀狩」は、民衆の武装解除をめざしたのか」P120~135
 刀狩について解説されています。刀狩は豊臣政権により「全国」規模で行なわれた民衆の武装解除だった、との見解が長らく通説とされてきました。しかし、近年では一般にも浸透してきたように思われますが、刀狩により民衆が武装解除されたわけではなく、その企図は身分規制にあったのではないか、との見解が有力になってきました。また、刀狩令は「全国規模」で施行されたのではなく、戦い・一揆などにより情勢不安だったり治安が悪化したりした地域を対象とした、限定的に発布されたものだったのではないか、との見解も提示されているそうです。


●竹井英文「秀吉が命じた「惣無事」とは何だったのか」P136~153
 惣無事は豊臣政権の統一の要であり、惣無事という観点から豊臣政権の統一を解釈する見解が一時は有力でした。しかし近年では、惣無事論で想定されているような惣無事令は存在しなかった、との見解も提示され、議論になっています。本論考は、惣無事をめぐる研究史を簡潔に解説し、今後の展望を提示しています。そもそも、当該時期における法令をどう認識するのか、という問題も提示されており、惣無事をどう理解するのか、まだ合意は形成されていないようです。本論考は、惣無事論のじゅうらいの見解はそのまま通用しなくなったにしても、中世から近世へかけての社会全体の「平和」化への方向性という指摘自体は正しく、豊臣政権の諸政策にそうした側面があったことも否定できないだろう、と指摘しています。


●長屋隆幸「秀吉による「天下統一戦争」は、定説どおりか」P154~173
 秀吉による「天下統一」過程を、おもに軍事面から検証しています。この過程については、小田原合戦をのぞいて、まだ軍記物の水準で理解が止まっている事例が多いとのことで、今後の研究の進展が望まれます。秀吉が阿波に侵攻したのはいつなのか、島津家の征討を決めたのはいつなのか、などといった問題は、まだ議論が続いているようです。また、小田原合戦についても、その発端となった名胡桃城事件の真相はまだ不明とのことで、秀吉による統一過程は一般の関心が高いだろうと思われるだけに、本書のように最新の研究成果が一般向けに紹介されることを期待しています。


●小川雄「秀吉は、なぜ朝鮮に出兵したのか」P174~192
 文禄・慶長の役について解説されています。日本・朝鮮・明だけではなく、北方遊牧勢力の動向にも触れられているのが特徴です。文禄・慶長の役を理解するには、日本・朝鮮・明だけではなく、その他の明の近隣勢力の動向にも注意を払わねばならないでしょうから、一般向けの解説でもこのような配慮がなされていることはよいと思います。文禄の役と慶長の役とでは、秀吉の目的が違っていたことも解説されており、配慮が行き届いていると思います。明の形成している国際秩序そのもののを覆そうとした文禄の役にたいし、慶長の役では、朝鮮にたいする勝利という面目を達成するところまで目標が下げられており、その目標も、ついには朝鮮の謝罪だけでよい、というところまで後退していました。



第3部 秀吉の宗教・文化政策の実像

●生駒哲郎「秀吉は、なぜ京都東山に大仏を造立したのか」P194~214
 秀吉が京都東山に大仏を造立した理由を中心に、秀吉の仏教政策およびその歴史的位置づけが解説されています。永禄年間の政争で東大寺の大仏殿が焼け落ちた後、秀吉が京都東山に大仏を造立しようとした理由の一つは、怨霊の鎮魂にあったようです。その対象は、初期には元主君の織田信長であり、後には、日本軍に殺された明や朝鮮の兵士たちでした。大仏造立も含めて秀吉の仏教政策には、先例を踏襲した側面が多分にあることも指摘されています。秀吉が八幡神として祀られることを望みながら朝廷に許可されなかった理由として、八幡神は源氏の氏神であるという認識があったからではないか、と指摘されています。


●清水有子「秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか」P215~233
 秀吉のキリスト教政策については、二日間に相次いで出された法令の解釈をめぐり、秀吉はキリスト教を制限しようとしていたのか、それとも禁教令を発布したのか、という議論が続いています。本論考では、秀吉は禁教令を発布したのであり、それは江戸幕府にまで継承された、との見解が提示されています。ただ、秀吉はキリスト教勢力との交易の継続も望んだので、禁教令が空文化した側面も多分にありました。しかし、秀吉晩年のサン=フェリペ号事件に見られるように、完全に空文化したわけではありませんでした。秀吉が禁教令を発布した理由は、「国内」問題というよりは「対外」問題だろう、と本論考では指摘されています。日本の君主としての自覚を強めつつあった秀吉は、キリスト教が浄土真宗などじゅうらいの(権力者にとって)危険な宗教よりも「外部」との結びつきが強く、キリスト教勢力が日本を征服することを懸念していたのではないか、との見解が提示されています。


●大嶌聖子「秀吉の人生にとって「茶の湯」とは何だったのか」P234~256
 秀吉にとって茶の湯は政治の一部として機能した、ということが解説されています。これは、通俗的な見解とも合致していると言えそうですが、それを歴史学的に論証することこそ重要なのだと思います。北野大茶湯については、10日の予定だったのが1日とされ、それは肥後での一揆勃発という九州情勢が関わっていた、との従来説にたいして、元々10月1日~10日の間の好天気の日に開催される予定だったのであり、1日だけで終わったのは、行事を1日で無事にすべて終えられたからだ、との見解が提示されています。



第4部 秀吉の人生で気になる三つのポイント

●片山正彦「秀吉の出自は、百姓・農民だったのか」P258~274
 秀吉の出自に関する諸研究が取り上げられています。秀吉の出自については今でも定説がないようで、農民・商人的階層・被差別民などの可能性が提示されています。秀吉の実父が弥右衛門なのか筑阿弥なのか、確定していないようです。秀吉の弟の秀長についても、秀吉とは実父が異なるのか同じなのか、確定していません。どうにも秀吉とその一族の出自には不明な点が多いのですが、同時代人にとっても秀吉の出自は定かではなかった、ということが紹介されており、確定することは永久にないのかもしれません。


●金子拓「秀吉は、本能寺の変後から全国統一をめざしていたのか」P275~294
 秀吉は信長の死(あるいは山崎の戦い)の直後から「全国統一」を目指していたのか、という疑問が提示され、検証されています。本論考では、本能寺の変と清須会議を経て成立した「織田体制」を、秀吉も柴田勝家も守ろうとしたものの、けっきょく相互不信は解消されずに軍事衝突に至り、秀吉が「天下人」への道を歩み始めた、という見通しが提示されています。また、その秀吉と勝家との軍事衝突の過程で、秀吉は上杉や徳川や毛利といった「外部勢力」との提携を志向し、それが豊臣政権における大名の家格秩序にも反映されたのではないか、とも指摘されています。「織田体制」の崩壊へといたる過程で織田信孝や織田信雄が「主体的」役割を果たしたのではないか、との指摘も注目されます。


●平野明夫「秀吉は、家康を警戒していたのか」P295~313
 家康は豊臣政権下で次の天下人の座を狙っており、秀吉は家康を警戒していた、との通俗的見解が検証されています。豊臣政権において、家康というか徳川家は家臣として最も高い家格を誇っていました。それは、徳川家が羽柴一門として処遇されていたためでもある、と本論考は指摘しています。しかし、家康は秀吉に臣従して以降、秀吉存命時には秀吉に反抗的な動きを見せておらず、名護屋城での警護の布陣からも、秀吉が家康を信頼していたというか、警戒していた様子は窺えません。後の家康の行動から、家康は豊臣政権下で次の天下人の座を狙っており、秀吉は家康を警戒していた、と考えられるようになったのであり、その根拠は乏しい、というのが本論考の見解です。

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