『天智と天武~新説・日本書紀~』第85話「最高級の名前」

 これは3月26日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2016年4月10日号掲載分の感想です。前回は、行信が光明皇后(安宿媛)と聖武天皇(首皇子)に法隆寺(斑鳩寺)を訪れるよう要請したところで終了しました。今回は、光明皇后が施薬院で孤児たちに明るく優しそうな表情で桃(だと思われます)を与えている場面から始まります。慈悲深いと伝わる光明皇后は、施薬院で孤児を引き取り、病人に声をかけ、治療を施し、重い皮膚病患者のために蒸し風呂を建てました。さらに光明皇后は、女官たちも躊躇うことのある、膿だらけの病人の体を自ら洗うことさえありました。仏の教えを、身をもって行なおうとしている、というわけです。

 その様子を見ていた行信に光明皇后は気づき、声をかけます。行信は、光明皇后がどれだけ仏教に深く帰依しているかよく分かった、と言います。光明皇后は、千人の皮膚病患者の身体を洗う誓いを立てている、と言い、悲田院も施薬院も作ってからもう14年経つのに、これでも行いが足りずに報いを受けるのか、蘇我入鹿は藤原家への祟りを止めないのか、と行信に尋ねます。行信は、その問いに答えられる入鹿本人に会うよう、再び光明皇后に進言します。まあ、入鹿本人というか、入鹿を象った仏像(現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像)ということですが。そんな恐ろしいことはできない、と言って法隆寺(斑鳩寺)を訪れる決断をくだせない光明皇后を、祟りの正体をしっかりと見定めなければ祟りにやられてしまう、と行信は説得します。施薬院は730年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)創設とされていますが、『扶桑略記』によると、施薬院と悲田院は723年に建ったとあります。おそらくこの時点で737年でしょうから、本作では723年説が採用されているのでしょう。

 行信の説得により、光明皇后は夫の聖武天皇とともに法隆寺を訪れます。そこには、入鹿を象った仏像が安置されていました。光明皇后と聖武天皇はこの仏像に感銘を受けます。行信は、乙巳の変で入鹿殺害に加担した蘇我倉山田石川麻呂と孝徳天皇が、入鹿の怨霊を怖れて作らせ、二人が非業の死を遂げた後、天武天皇(大海人皇子)が大切に保護してきた、と光明皇后・聖武天皇夫妻に説明します。光明皇后は、入鹿を象った仏像の美しさに感激し、とても悪人とは思えない微笑みだ、と言って涙を流します。

 この入鹿こそが祟り神だと言われても光明皇后は信じられず、こんな美しいお方が祟るとは、どんな思いをしたのか、と言って涙を流します。すると行信は、極悪人を成敗するなら道理にかなっており、恐ろしい祟りは起きないが、徳のある人物が悪人として殺されたならば、大いなる怨霊と化し、手をかけた者たちの子孫まで祟り殺し、滅ぼすことになる、と説明します。行信の答えは光明皇后・聖武天皇夫妻をさらに怯えさせ、何でも致しますのでお許しください、と光明皇后は跪いて入鹿を象った仏像に懇願します。その様子を行信は冷静に見ていました。

 行信は、怨霊と化した入鹿の墓として蘇我本宗家の跡地に八角円堂を建て、入鹿を象った仏像を納めることで、名誉が回復されたと入鹿に思ってもらう、と自らの構想を光明皇后・聖武天皇夫妻に説明します。聖武天皇は、祟りを封じるためとはいえ、入鹿の無実を認めてしまうと、天智天皇(中大兄皇子)や藤原(中臣)鎌足(豊璋)の名を汚すことになる、と言って行信の提案に反対します。行信は、自分も曽祖父である天智天皇の名を貶めたくはないと言って、入鹿に別の名前を授ける案を提示します。最上級の名前を入鹿に授け、別人として記録に残そう、というわけです。行信は、自らの構想を光明皇后・聖武天皇夫妻に説明します。入鹿の分身たるその高貴な名前の人物は、皇族でありながら蘇我氏に縁がある人物とし、開明的で大陸の文化・学問に精通して仏教を広め、それらを基に争いのない新しい国造りを目指したといった、生前の入鹿を重ねていきます。皇極(斉明)天皇の代わりをしていた入鹿の分身は、天皇の代わりに善政を行なった高潔な皇子とすべきだ、というのが行信の提案です。

 名誉回復にここまで讃えられ、立派な墓に納められれば、入鹿の怨霊もおとなしく封じ込められる、と行信は説明します。光明皇后は行信の進言を理解し、消極的ではあるものの、行信の提案を『日本紀(日本書紀)』に加筆する、と決断します。そうしないと怨霊は納得してくれないのだ、と力説する行信に、入鹿の分身たる皇子の死因はどう書くのだ、と光明皇后は尋ねます。入鹿の代わりならば、自分の祖父である鎌足のような人物に無実の罪を着せられて殺されるのか、と光明皇后に尋ねられた行信は、入鹿の分身に相応しい穏やかな死がよい、と答え、光明皇后は安堵します。

 しかし聖武天皇は、それでは怨霊が喜ぶとは思えない、と疑問を呈します。行信は聖武天皇の疑問に同意し、無念の死だったからこそ怨霊と化して祟るのであり、穏やかな死と言いつくろっては怨霊も納得しないだろうから、その子供も皇位継承争いに巻き込まれ、戦を好まない偉大な父の教えに従い、一族全員自決したことにしよう、と行信は提案します。切なく、美しく、誇り高く死ぬほど悲しみが増し、人々の心にも残るだろう、と行信は説明します。しかし行信は、自らの提案に問題があることも認めていました。入鹿の分身たる高潔な皇子の息子が誰に追い込まれて自決したことにするのか、まだ悩んでいる、というわけです。

 入鹿の分身たる皇子は天皇になるのか、と聖武天皇に問われた行信は、豪族出身の入鹿を分身といえども天皇にするような歴史の改変には支障があるので、分身には皇太子のまま一生を終えてもらう、と答えます。入鹿の祟りを避け、怨霊を封じるための構想を光明皇后・聖武天皇夫妻に説明した終えた行信は、何か質問はないか、と夫妻に尋ねます。すると光明皇后は、入鹿の分身たる偉大な皇子に相応しい最高級の名前は何なのだ、と行信に尋ねます。行信が答えようとすると、淡海三船が現れて、名前をつけるのではなく贈るのだ、と説明します。

 行信はもっと後で三船を呼ぼうとしていたようで、三船を軽く叱責します。三船は、叔父上に呼ばれるのを待ちわびて、つい出しゃばってしまいました、と謝ります。行信は葛野王の孫である三船の叔父という設定のようですから、葛野王の息子ということになります。三船は光明皇后に、漢風諡号について説明します。生前の行ないに基づいて死後贈られる名誉ある名とされており、唐では偉人・英雄に贈られているものの、日本ではまだ一人もいない、と三船は解説します。とはいっても、聖武天皇は「天智天皇」と発言しているわけですが、読者に分かりやすく説明するにさいして仕方のない演出と言うべきでしょうか。聖武天皇にその最高級の名前を問われた三船が、「これ以上無い究極最高の誉れある名前」として「聖徳太子」と答えるところで、今回は終了です。


 今回は、本作の謎解きが一気に進展した感があります。聖徳太子とは本来蘇我入鹿のことだった、という設定は本作の冒頭で強く示唆されていましたので、聖徳太子とされている厩戸皇子、さらには上宮王家が作中世界ではどのように位置づけられるのか、ということが本作最大の謎ではないか、と考えてきました。これまで、上宮王家滅亡事件が作中世界で起きたとまったく描かれておらず、法隆寺を建てたのは大海人皇子(天武天皇)となっていたので、上宮王家は作中では架空の存在なのではないか、と考えるようになりました。

 今回、作中世界では、上宮王家が大怨霊と化した(と行信が主張している)入鹿の鎮魂のために創作された架空の存在であることが明かされ、本作最大の謎(あくまでも私がそう考えているだけですが)はほぼ解明されました。行信は、上宮王家滅亡の首謀者を誰にするのか悩んでいる、と語っていたので、それが入鹿だとされるようになった経緯が次回かその次々回で明らかになるのでしょう。これで、作中世界で残る大きな謎は、天智天皇の最期とその遺体の安置された場所ということになりそうです。

 今回の行信と光明皇后・聖武天皇夫妻とのやり取りから判断すると、737年時点での『日本紀(日本書紀)』には上宮王家の存在は記述されておらず、現代というか奈良時代後半?以降の人々の知る『日本書紀』は、行信の提案を承諾した光明皇后・聖武天皇夫妻の意向により加筆・修正された、ということになりそうです。したがって、作中設定では、聖徳太子関連のさまざまな文字資料は全て737年以降の作ということになります。さすがにこの設定には無理があるように思いますが、創作ものですから有でしょう。

 入鹿の分身としての聖徳太子と上宮王家を行信が創作し、聖徳太子という名を行信の甥である淡海三船が考えた(三船単独ではなく、行信と協議してのことかもしれませんが)という設定は、なかなか興味深いと思います。三船は奈良時代までの天皇の漢風諡号を一括して撰定したと伝わっており、その学識からも(現時点ではまだ十代半ばのようですが)、天智天皇と天武天皇の子孫(したがって、作中設定では蘇我入鹿の子孫ということにもなります)という血筋からも、聖徳太子という名前を考案し、本作の因縁を終結させる重要な役割を担う人物として相応しいように思います。

 行信は三船の叔父ということになっていますが、はっきりと天智天皇系の顔である三船と比較化すると、天智天皇系の顔とはいっても、その特徴は弱いので、本当に葛野王の息子なのか、やや疑わしいようにも思われます。しかし、光明皇后・聖武天皇夫妻に、藤原不比等の四人の息子の相次ぐ病没を、当時の人々が噂しており、(少なくとも作中世界では)説得力もあっただろう長屋王のためではなく、悪人としての評価が定着しつつあっただろう蘇我入鹿のためだと行信が強く主張したのは、葛野王の息子であり、したがって天智天皇・天武天皇・蘇我入鹿の子孫ということになる行信の血筋の故だと考える方が、作中世界においては説得力のある話になるように思います。

 長屋王ではなく蘇我入鹿の鎮魂をわざわざ訴えた行信の意図は、入鹿を怨霊として封じ込めるためだけというよりは、もはや国家の立場として入鹿を聖人として称揚することはできないものの、せめて法隆寺の再興と入鹿の分身の創作という形で入鹿の名誉を回復し、天智天皇と入鹿の出会いから始まる、自分の祖先たちの長きにわたる因縁を終結させたい、というものでもあるように思います。行信と同じく天智天皇・天武天皇・蘇我入鹿の子孫である三船の想いも同様なのかもしれません。行信の父である葛野王は、その母である十市皇女、あるいは母方祖父の天武天皇から直接、天智天皇の最期も含めて歴史のさまざまな「真相」を聞いており、それが行信にも伝わり、入鹿を封じ込めつつも賞賛しようとする行信の動機になっているのかもしれません。

 もっとも、蘇我入鹿の分身を聖徳太子という「これ以上無い究極最高の誉れある名前」とし、『日本紀(日本書紀)』に追記するという話になっていますが、現行の『日本書紀』には「聖徳太子」という名称そのものはなく、「聖徳太子」の初見は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』のようです。ただ、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあるので、現行『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。本作で『日本紀(日本書紀)』改訂の事情がどう描かれるのか、注目されますが、残りの話数が少なそうなので、具体的にはあまり詳しく触れられないかもしれません。

 本作の行信は、後に厭魅の罪で左遷させられた僧侶と同一人物という設定のようです。光明皇后・聖武天皇夫妻と行信の扱いが予想以上に大きいので、行信が後に左遷させられた理由も、行信の「真の意図」と絡めて描かれるのかもしれません。蘇我入鹿を象った仏像は、現在では法隆寺夢殿に安置されている救世観音像であり、光背が頭に釘で打ち付けられています。その理由と実行者が、行信が左遷させられた理由と大きく関わってきそうです。

 次回の予告はなかったので、次回で完結か否か、判断の難しいところですが、告知がなかったということは、次回で完結ではなく、その次で完結でしょうか。できれば、藤原史(不比等)が台頭する様子や、天武朝の人間模様などがこれから行信の回想という形で描かれ、単行本で第11集分まで連載が続いてもらいたいものです。しかし、ここまで一気に謎解きが進んだとなると、単行本第10集で完結となるのでしょう。残り2話といったところでしょうか。何とも寂しい限りですが、わりときれいにまとまりそうな感があるので、安堵もしています。残る作中最大の謎(と私が考えているだけですが)である、天智天皇の最期と遺体の安置場所についても、しっかりと明かされることを願っています。

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