佐藤長門『日本史リブレット人003 蘇我大臣家 倭王権を支えた雄族』

 これは10月8日分の記事として掲載しておきます。山川出版社より2016年5月に刊行されました。蘇我大臣家とは、大臣職を父系直系で世襲した稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏四代のことです。よく、この四代は蘇我本宗家と呼ばれますが、当時は父系での直系継承が確立していないので、蘇我大臣家という呼称を用いた、と本書は説明しています。もっとも、本書が指摘するように、当時はまだ氏から家が分立していたわけではありません。したがって本書は、蘇我大臣家という呼称も妥当とは言えないものの、他に適切な用語がないので、蘇我大臣家とする、と説明しています。

 蘇我氏は稲目の代に台頭した、と言われています。本書はその背景として、朝鮮半島での利権喪失(鉄の安定供給の途絶)により地域首長層の権威が不安定化し、その結果として大王への求心力が高まり、日本列島各地の貢納・奉仕関係が大王に一元化され、王権の行政事務が量的に拡大したことを挙げています。大王がすべての貢納・奉仕関係を直接掌握できなくなり、その管轄権を一部の王族・群臣といった有力階層に委ねる体制が構築されていき、王権全体の意思統一を図るために有力階層を糾合する合議機構が創設されることになった、というのが6世紀前半の政治状況に関する本書の見通しです。

 この合議機構(群臣会議)の統括者たる大臣(臣姓氏族の代表という意味ではなく、群臣会議の統括者という意味です)として台頭したのが蘇我稲目で、その要因として、貢納・奉仕集団を上手く統括できたからではないか、と本書は推測しています。蘇我氏は渡来系氏族などを統括し、「先進的な」技術・文化に明るくなっていったようです。なお本書は、群臣会議形成の主導権はあくまでも王権側にあり、氏族側は自立していたわけではなく、王権に依拠する存在だった、と指摘しています。群臣会議は王権側にたいする氏族勢力側の牙城ではなく、蘇我大臣家は王権を凌ぐ存在だったわけではない、というわけです。

 稲目の台頭は、貢納・奉仕集団の統括という政治的功績による群臣会議の統括者(大臣)たる地位と、それによる王権との外戚関係にある、と本書は指摘します。稲目の娘たちの産んだ王族が相次いで大王に即位し、馬子の娘の産んだ王族も有力な大王継承候補とみなされました。しかし、外戚関係は偶然性に左右されるところが大きく、群臣会議の統括者たる地位も、絶えず群臣からの支持を必要とします。大王推古没後の後継者決定にさいして蝦夷が群臣の意見を求めたのは、蝦夷の優柔不断な個性が原因ではなく、大臣として当然の行動だった、というわけです。

 偶然性に左右される外戚関係と、利害関係の錯綜するなか、絶えず群臣からの支持を得ることで維持される蘇我大臣家の卓越した地位は、意外と脆弱なものだった、と言えるかもしれません。蝦夷・入鹿の代での蘇我大臣家の突然の没落を、本書はそのような文脈で解釈しています。蝦夷・入鹿の代にはその娘たちが有力王族の妻になったことが確認されていません。また、冠位制の導入などにより群臣の地位が相対的に低下した一方で、皇極朝には蘇我大臣家の地位が突出していきます。蘇我大臣家は、乙巳の変の前にはすでに有力な王族・氏族に見限られており、それ故にあっけなく滅亡したのではないか、というわけです。

 蘇我氏の台頭と没落、およびその背景について、やや類型化されているというか、きれいにまとまりすぎている、という感もありますが、私のような門外漢が蘇我大臣家の歴史的位置づけについて調べるさいに、参考文献としてたいへん有益だと思います。乙巳の変での蘇我大臣家の没落は、本書が指摘するように、王族・氏族からなる有力階層による共同正犯事例なのかもしれません。大王崇峻の殺害や、斑鳩宮家(上宮王家)滅亡事件も、同様の事例と言えるかもしれません。

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