平野明夫編『家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像』

 これは12月4日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2016年11月に刊行されました。本書は、同じく歴史新書の一冊として、一昨年(2014年)刊行された『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(関連記事)と、昨年(2015年)刊行された『秀吉研究の最前線 ここまでわかった「天下人」の実像』(関連記事)の続編と言えそうです。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、柏書房より昨年刊行された『家康伝説の嘘』(関連記事)とあわせて読むと、徳川家康についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



●平野明夫「はじめに─家康の伝記と松平・徳川中心史観をめぐって」P3~16
 江戸時代における家康についての諸伝記の成立過程とその特徴について簡潔に解説されています。すでに江戸時代初期において、史実に反して、家康の伝記で家康個人、さらには徳川(松平)氏を称揚する傾向が見られるそうです。続いて、近現代歴史学における家康および徳川(松平)氏の研究について概観されていますが、実証性の高まった近現代歴史学においても、「徳川(松平)中心史観」的な側面が見られることもあったようです。1970年代以降、「徳川中心史観」への自覚的な反省も見られるようになり、現在まで続く動向となっているようです。



第1部 戦国大名への道


●村岡幹生「家康のルーツ・三河松平八代 松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」P22~46
 家康へといたる松平氏の動向が解説されています。家康の前の松平氏については、史料が少なく、曖昧としたところが多分にあるようですが、諸史料からより妥当な松平氏像を提示する試みになっていると思います。本論考でも、家康の祖父である清康による東三河遠征と三河統一など、後世の文献による松平氏顕彰の傾向が指摘されています。清康に関しては、英雄とする人物像に少なからぬ捏造があるようです。また、松平氏が、15世紀には賀茂姓を称したこともある、との指摘も興味深いものです。


●平野明夫「人質時代の家康 家康は、いつ、今川氏から完全に自立したのか」P47~65
 家康の幼少期から桶狭間の戦いの後の今川氏からの自立までが検証されています。色々と興味深い見解が提示されているのですが、まず、今川氏と織田氏はずっと対立していたわけではなく、三河での軍事行動で協調していた時期もあり、その時には松平氏は今川氏に従属していたのではなく、今川・織田両氏と対立していた、ということです。次に、家康(竹千代)は幼少期には駿府ではなく吉田にいた可能性が高い、ということです。後世の史書には、家康は駿府で厚遇されていた、とする「徳川・松平中心史観」による作為が見られるのでないか、というわけです。桶狭間の戦いの後、家康(元康)は今川義元の後継者である氏真から直ちに離反したわけではなく、仇討ちを勧めたものの、氏真にはそれを実行する様子が見られなかったので、家康は今川かを見限った、との俗説にたいして、それは家康神格化のための捏造であり、家康は桶狭間の戦いの直後から自立を図っていた、との見解も注目されます。


●安藤弥「領国支配と一向宗 「三河一向一揆」は、家康にとって何であったのか」P66~84
 三河一向一揆は、家康による三河領国化の進展の重要な契機になった、と評価されています。ただ、家康の家臣団の分裂や戦況の推移などから、家康が意図的に起こしたものではなく偶発的だった、とも指摘されています。三河一向一揆の背景として、当時激しかった松平(徳川)氏と今川氏との対立があり、時代が下ると、三河の一向一揆教団にのみ「反乱」の責任を負わせるような言説が出てきますが、本論考は、だからといって三河の一向一揆教団の重要性を軽視してはならない、と注意を喚起しています。また本論考は、本能寺の変後に、家康が三河の一向一揆教団を赦免したことも視野に入れていく必要がある、と提言しています。


●堀江登志実「家康の譜代家臣 家康の家臣団は、どのように形成されたのか」P85~100
 家康の家臣団が西三河を基盤として、東三河から遠江へと領地が拡大し、さらには武田氏の滅亡と本能寺の変により駿河・信濃・甲斐も所領としていき、後北条氏滅亡後に関東に移封となる過程で、今川・武田・後北条の旧臣を取り込んでいったことが指摘されています。武田旧臣の取り込みのさいには、井伊直政が重要な役割を担ったようです。関東移封後にとくに重用された本多忠勝・榊原康政・井伊直政には、徳川氏から与力が付属させられ、この与力は本多・榊原・井伊の家臣というより、徳川の家臣という意識が強く、その意識は江戸時代にも続いた、と指摘されています。



第2部 戦国大名 徳川家康


●遠藤英弥「今川氏真と家康 義元の死後、家康と今川家との関係はどうなったのか」P102~114
 本論考は、上述の平野明夫「人質時代の家康」とは異なり、家康と今川氏真との対立は、桶狭間の戦いの直後ではなく、その翌年からだと推測しています。その一因として、今川氏が同盟相手の北条氏に援軍を送ったため、三河にまで援軍を派遣する余裕がなかっただろう、ということが挙げられています。氏真の器量については、後々まで付き従った家臣がいることからも、暗愚説は後世の創作が多分にあるのではないか、と指摘されています。また、家康が氏真を保護した理由として、武田との抗争における名分の確保が指摘されています。


●平野明夫「名将たちと家康の関係 信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」P115~129
 家康が信長・武田信玄・上杉謙信を相手に独自の外交を展開したことが検証されています。この問題で重要となるのは家康と信長との関係で、1570年以前は、徳川から織田への援軍は足利義昭の要請によるものであり、家康が信長に従属するようになったのは1575年以降だとされます。1575年以前は、信長と謙信を巻き込んで武田包囲網を形成しようとした家康の外交方針が、信長のそれとは齟齬をきたすようなこともあった、と指摘されています。また、家康が今川から自立した時期は桶狭間の戦いの直後であるものの、氏真が家康の反逆を認識したのはそれから少し経過してからではないか、と推測されています。


●宮川展夫「北条氏と家康 徳川氏と北条氏の関係は、関東にいかなる影響を与えたのか」P130~146
 家康と北条氏との関係は断続的なものだった、と指摘されています。桶狭間の戦いの後、家康が今川氏と対立するようになると、北条氏は和睦仲介者として家康と接触しますが、この和睦は成立しませんでした。家康も北条氏も武田氏と対立するようになると、家康と北条氏は関係を復活させますが、北条氏が武田氏との同盟を復活させ、再び関係が途絶えます。武田氏が衰退するなか、北条氏は家康との交渉を再開しますが、これは、織田体制での生き残りをかけたもので、家康が織田体制において関東の「惣無事」を担当していたからでした。この体制は本能寺の変の後も続き、家康は秀吉との対立を経て、今度は豊臣体制において同様の役割を担い、北条氏と接触します。しかし、この家康の立場は、北関東の反北条氏の有力者との関係も含むものであり、家康の立場が北条氏にとって微妙なものでもあったことが指摘されています。



第3部 豊臣大名 徳川家康


●播磨良紀「秀吉と家康 豊臣政権の中枢で、積極的な役割を果たした家康」P148~160
 家康と秀吉との関係は、小牧・長久手の戦い前には良好であり、対立関係を経て家康が秀吉に従属した後は、家康は豊臣政権の重鎮として行動し、実績を積み重ねていった、と指摘されています。家康が豊臣政権において面従腹背だったのか、定かではないものの、少なくとも史料に見える行動からは、豊臣政権を崩壊させようという意図は窺えない、というのが本書の見解です。後の結果からの逆算や、それも反映した後の時代の文献により、当時の両者の関係が的確に把握できていない、ということもあるようです。これは、秀吉と家康の関係に限らない問題なのでしょう。


●谷口央「五か国総検地と太閤検地 家康の検地は、秀吉に比べ時代遅れだったのか」P161~179
 家康は秀吉に臣従した後まもなく、五ヶ国の領地において検地を実施しています。この検地の性格をめぐって、太閤検地論争以降に議論が続いており、時代遅れだった、との見解も提示されました。本論考は、この領国総検地により、有力農民層に基づく年貢収納体制から村請制へと転換していったとして、豊臣政権からの直接の指示は史料上確認できないものの、事実上の太閤検地として位置づけられる、との見解を提示しています。豊臣政権の奉行ではなく、大名が主導した検地ということでしょうか。


●中野達哉「関東転封と領国整備 家康の「関東転封」は、何をもたらしたのか」P180~201
 関東転封後の家康の領国整備について解説されています。関東転封後は、まだ各村の石高を把握できていないので、上級家臣団の領地については、まず拠点となる城が指定され、それと同時かやや遅れて石高が確定した後、じっさいの領地が決まっていったようです。関東転封の翌年から領国内での検地が進み、上級家臣団の領地も確定していきますが、これには時間を要したようです。こうした関東での徳川氏による領国整備により、関東は近世へと移行していった、との見通しが提示されています。


●佐藤貴浩「家康と奥州 「関東入国」直後、「奥羽仕置」で大活躍した家康」P202~219
 1590年、秀吉は伊達政宗を臣従させ、奥羽も支配下に置きますが、奥羽の情勢は安定せず、大崎・葛西一揆や九戸一揆など動乱が続きます。家康はこうした不穏な奥羽情勢への対応に忙殺され、知行割といった重要な問題にも豊臣秀次とともに関与していました。家康は豊臣政権の家臣としてその維持に奔走しており、これが後の家康の政治的基盤の形成に役立った、と考えられます。また家康は、奥羽情勢への対応から、新たな所領である関東の領国整備を進めることがなかなかできなかったようです。



第4部 天下人 徳川家康


●鍋本由徳「イギリス商人の家康理解 大御所 徳川家康はエンペラーかキングか」P222~239
 17世紀初頭のイギリス商人は家康を皇帝として認識しており、それは家康の死まで変わらなかった、と指摘されています。家康の息子である秀忠は、すでに1605年に征夷大将軍に就任していましたが、当時のイギリス商人は、あくまでも家康を最高権力者として把握していました。こうした認識の背景として、ヨーロッパにおいては譲位・隠居が一般的ではなかったことが指摘されています。当時のイギリス商人にとっての日本の皇帝は天下人という概念とよく一致する、と言えるかもしれません。


●大嶌聖子「大御所・家康と駿府 家康最晩年の「政権移譲構想」と隠居問題とは」P240~258
 家康は1605年に征夷大将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府城に移りました。しかし、秀忠が担ったのは徳川の家政であり、家康は大御所として全国統治権を掌握し続けました。これも隠居の一例ですが、当時の隠居には多層的な意味合いが含まれていたことと、家督を譲った先代と新たな当主とが職務を分担し、先代が実質的な最高権力者として君臨するような体制は、戦国時代にも見られることが指摘されています。その家康が、1615年には隠居を計画し、隠居所も選定していったことが本論考では取り上げられており、それは、家康にとって孫である家光(竹千代)の元服の後見役を務めることと関連づけられていた政権移譲構想だった、というのが本書の見解です。


●生駒哲郎「家康の信仰と宗教政策 東照大権現への神格化は、家康の意志だったのか」P259~282
 家康の存命時の信仰と家康死後の江戸幕府の宗教政策が比較・検証されています。家康の宗教観については、天海との出会いが転機になったのではないか、と指摘されています。家康の死後、遺言は一部守られず、家康の遺体は久能山から日光山へと移されました。これには、日本の諸神はすべて日光山の東照大権現の分身であり、日光山は諸神の中心でなければならないとの観念があったから、と本論考は推測しています。また、家康の本格的な神格化は家康死後に始まったのであり、家康は秀吉とは異なり、死後に日本を守護する神として祀られるような意図はなかっただろう、というのが本書の見解です。

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この記事へのコメント

なんてこったい(!!)
2016年12月04日 00:21
洋泉社から4冊発売されました『○○研究の最前線』は、複数の研究者によるテーマ別の執筆内容から今は無き新人物往来社の『○○のすべて』シリーズを連想します。ただ、今川家の軍師の雪斎と家康の師弟関係に触れて無かったのは意外でした。
2016年12月04日 19:54
雪斎と家康の師弟関係については、後世の家康神格化の一例で、家康は元服まで駿府にはおらず、雪斎との師弟関係もなかったのでは、と本書では示唆されていましたね。
なんてこったい(!!)
2016年12月05日 20:15
管理人様、見落としがありまして申し訳ありません。ただ、実際の家康の傅役(養育係)は誰が勤めたのでしょう? 松平家の家老・重臣のうちの人々とは思われますが。織田信長の場合、平手政秀を中心にした人々だったそうですが。
2016年12月06日 00:35
私もその点にはあまり関心がなかったので、知りません。

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