筒井清忠編『昭和史講義3─リーダーを通して見る戦争への道』

 これは7月30日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2017年7月に刊行されました。筒井清忠編『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)と筒井清忠編『昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道』(関連記事)の続編となります。両書ともに好評だったのか、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。編者による「まえがき」は、歴史研究と人物について考えさせられるところが多く、参考になります。本書もたいへん有益だったので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。


●奈良岡聰智「加藤高明─二大政党政治の扉」P17~34
 短期間とはいえ、大日本帝国憲法下で二大政党による政権担当が「憲政の常道」とされるようになったことについて、加藤高明の功績が大きかった、と評価されています。加藤高明が粘り強く、政権を担える政党にまで憲政党(後の立憲民政党)を成長させたことが、「憲政の常道」の確立に大きく寄与した、というわけです。加藤内閣の最大の実績として普通選挙の実現が挙げられており、通俗的には「ムチ」たる治安維持法との引き換えとされていますが、加藤内閣は治安維持法の制定に消極的で、各政治勢力との妥協の結果だったことが指摘されています。加藤内閣の実績として、腐敗防止のために政党による恣意的な官僚人事を制限したた統治機構改革や、幣原喜重郎を外相に起用しての国際協調外交も挙げられています。第一次世界大戦時の大隈内閣での強硬外交路線により、加藤高明は国内外から警戒されていましたが、内閣発足前にすでに穏健路線に転換していた、と指摘されています。


●今津敏晃「若槻礼次郎─世論を説得しようとした政治家の悲劇」P35~52
 首相時代を中心に解説されています。若槻礼次郎が「先を読む」政治家として把握されています。若槻が読み通そうとしたのは日本とその国民でした。しかし、若槻は国民を扇動するのではなく、説得しようとしたものの、専門家による「秘密外交」の時代から第一次世界大戦を経て「国民外交」の時代になると、世論は若槻の説得に飽き足らず、それがけっきょくは大日本帝国を破綻に追い込んだ、と示唆されています。押しが弱いと言われる若槻ですが、本論考を読んで、確かにそう受け取られても仕方ないな、と思うところが多分にあります。胆力に欠ける、と言ってしまえばそれまでですが、聡明で先を読みすぎてしまった、というところも多分にあるのでしょう。


●小山俊樹「田中義一─政党内閣期の軍人宰相」P53~72
 本書で取り上げられている15人のうち、宇垣一成・松岡洋右・重光葵を除いて全員首相経験者なのですが(幣原喜重郎のみは第二次世界大戦後に首相就任)、本論考は首相就任前の解説が多めなのが特徴となっています。田中は駐在武官としてロシアで4年ほど過ごした経験があり、これが革命および軍隊と国民との乖離への警戒を醸成していったようです。田中は、総力戦への対応など、確固たる信念を抱きつつも、機会主義的なところが多分にあり、それが反発を買うこともあったようです。政友会を基盤とする田中内閣は、憲政会政権とは大きく異なる内外の政策を進めていき、二大政党制の時代が強く印象づけられます。首相就任当初は順調に見えた田中内閣の政権運営ですが、初の普通選挙となる1928年2月の選挙が野党と1議席しか違わない結果に終わると、求心力を失っていき、張作霖爆殺事件が決定打となって天皇・宮中の不信を招き、ついには総辞職となります。


●西田敏宏「幣原喜重郎─戦前期日本の国際協調外交の象徴」P73~89
 国際協調的とされる幣原外交がおもに取り上げられています。幣原喜重郎の外務官僚時代にもかなりの分量が割かれており、幣原外交がどのような文脈で登場したのか、個人的・国際的背景から解説されています。英米を中心とする列強と協調し、中国におけるナショナリズムの高揚を強く意識して配慮した幣原外交の路線は、二大政党制下での田中内閣への政権交代により、否定されたというか後退したところもありましたが、田中内閣の総辞職により、幣原喜重郎は次の浜口雄幸内閣で外相に再任されます。しかし、浜口内閣での幣原外交は、世界恐慌下の新情勢で挫折し、満州事変では軍の一部の独断専行を阻止できませんでした。第二次世界大戦後の首相時代の解説は少ないのですが、敗戦国日本を平和国家という新たな方向に導き、国際社会に復帰させるうえで、幣原外交の国際協調路線が大きな資産となったことが指摘されています。


●井上敬介「浜口雄幸─調整型指導者と立憲民政党」P91~106
 おもに浜口内閣について解説されていますが、首相就任までの浜口雄幸の経歴についても簡潔に取り上げられています。浜口内閣では緊縮財政が掲げられましたが、浜口は若槻内閣での北海道拓殖計画調査会の会長時代に、健全財政の観点からすでに合意のあった公債発行に反対し、地域全体の開発を停滞させたことが指摘されています。民政党政権の浜口内閣については、党人派と幣原喜重郎・井上準之助に代表される「外部」勢力との対立関係が前提としてあり、調整型指導者としての浜口が両者の緊張関係を緩和していた、と指摘されています。そのため、浜口は狙撃されて完治していない状態で、両派の対立緩和のために衆院本会議に出席せざるを得ませんでしたし、浜口の死後に民政党は内紛により下野することになります。浜口の調整能力の高さにより、民政党は二大政党の一翼を担えた、と評価されています。浜口内閣の政策については、内政では世界恐慌下での金解禁による不況の深刻化と、英米との協調維持との信念からロンドン海軍軍縮条約の締結に成功したことが挙げられています。ただ、不況下において、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約の締結に、野党の政友会が浜口内閣打倒に邁進した結果、地方の窮状は置き去りにされ、国民の二大政党にたいする不信は高まり、ついには政党内閣が崩壊するにいたった、とも指摘されています。


●五百旗頭薫「犬養毅─野党指導者の奇遇」P107~126
 上述したように、本書で取り上げられている15人のうち12人は首相経験者なのですが、本論考で取り上げられている犬養毅は、幣原喜重郎のように第二次世界大戦後に首相に就任したわけではないのに、大半が首相就任前の解説となっています。犬養は政党政治の確立に尽力し、高い人気を得たものの、豹変することも珍しくなく、非難の対象にもなりました。犬養は満州事変後に首相に就任したものの、対中関係を改善させることはできませんでした。本論考では、犬養は事態の急変にも悠長であり、それは犬養が野党指導者として慢性的な逆境のなかで生きてきたからではないか、と指摘されています。


●村井良太「岡田啓介─「国を思う狸」の功罪」P127~144
 首相就任前の海相時代や、ロンドン海軍軍縮条約での役割についてもかなりの分量が割かれています。五・一五事件により戦前日本の政党政治は終焉したとされていますが、犬養内閣の後の斎藤内閣とその後の岡田内閣でも、政党政治への復帰が模索されているというか、それが既定路線であるかのように思われてもいました。本論考では、岡田啓介の海相・首相としての評価は低く、全体主義の流れに抗しながらも議会主義的ではない良心的な権威主義国家を招来し、軍国主義国家への道を開いた、と指摘されています。ただ、首相退任後の岡田は重臣として成長し、終戦工作などで重要な役割を果たした、と評価されています。


●渡邉公太「広田弘毅─「協和外交」の破綻から日中戦争へ」P145~162
 本論考はおもに、広田弘毅が斎藤内閣の外相だった頃から首相時代を経て第一次近衛内閣の外相だった頃までを取り上げています。この間、広田は欧米列強との協調と中国との安定した関係を目指しましたが、じっさいには英米中との関係が悪化していきました。この一因として、広田の対中外交が日本の主張を押しつける強硬なものだったことが指摘されています。この広田外交の背景として、軍部や世論の強硬路線があったのではないか、と指摘されています。


●髙杉洋平「宇垣一成─「大正デモクラシー」が生んだ軍人」P163~182
 広田内閣の後に宇垣内閣が実現していたら、その後の日本の進路は史実と大きく異なっていたのではないか、との見解は一部で根強くあるようです。その根拠となるのは、宇垣一成が陸軍大臣として政党内閣に協力し、陸軍の反対を押し切って軍縮を成し遂げ、大命降下まで行きながら陸軍の反対で組閣が阻まれた、との評価です。宇垣は民主主義・政党政治に理解があり、陸軍の反対を押し切るだけの強い指導力のあった人物だった、というわけです。しかし本論考は、こうした評価には疑問も残る、と指摘しています。軍縮は宇垣の強い指導力で成し遂げられたものの、そもそも参謀本部の提案であり、宇垣の政党内閣への協力にしても、統帥権の独立という陸軍の組織的利益と自身の政治的影響力の確保にあった、というわけです。また、この軍縮により、陸軍では世界的な軍縮の時代のなか、自らが不当な評価をされた、との不満が高まっていったようです。さらに、浜口内閣での宇垣の軍縮策は陸軍の反対にあって受け入れられず、宇垣の指導力を過大に評価することに注意が喚起されています。五・一五事件後の政局のなかで、提携を期待された二大政党が反目するようになると、宇垣は政党との距離を置き、組閣を図るようになります。しかし、宇垣と政党との密接な関係との印象は陸軍において根強く、そのために大命降下がありながら宇垣は組閣に失敗しました。政党政治の擁護者としての強い印象が宇垣を首相の有力候補者とした一方で、宇垣内閣の実現を阻んだ、というわけです。このように、本論考は宇垣の限界を強調しているように見えますが、宇垣が戦前にあって民主主義・政党政治への理解の深い軍人であったことも指摘されています。


●庄司潤一郎「近衛文麿─アメリカという「幻」に賭けた政治家」P183~202
 近衛文麿の対米認識という観点から政治家としての近衛が解説されています。近衛は訪米経験から終生アメリカ合衆国にたいして期待と憧れを抱いており、対米交渉と終戦工作に尽力したにも関わらず、GHQから逮捕命令が出されたことで、アメリカ合衆国に裏切られたとの思いを強くし、自殺の一因になったのではないか、と本論考では推測されています。近衛は歴代の首相のなかでも評価は低く、最低とする人も少なくないでしょうが、本論考では、首相辞任後の近衛について、東条内閣打倒と終戦は近衛なくしてあり得なかっただろう、と高く評価されています。


●畑野勇「米内光政─天皇の絶対的な信頼を得た海軍軍人」P203~222
 米内光政に関して、海軍兵学校での成績がさほど優秀ではなく、軍政経験もほぼ皆無だったのに、なぜ林銑十郎内閣で海相に起用されたのか、日中戦争に突入し、不拡大・交渉重視の方針から上海派兵という強硬路線に転換したのはなぜか、首相時代の米内は何を追求したのか、という観点から検証されています。まず、米内が海相に、さらにその二ヶ月前に連合艦隊司令長官に就任した理由について、異例のことであり、理由は定かではない、とされています。日中戦争初期における方針転換については、米内は昭和天皇への忠誠心がきわめて高く、昭和天皇の意向を反映させようとしたことと、そもそも盧溝橋事件の解決策として交渉と武力行使を対立的に把握していなかったことが指摘されています。海相・首相時代の米内に関しては、国務と統帥の峻別および海軍部内の統制堅持という昭和天皇の方針に忠実だったことが指摘されています。首相時代には、第二次世界大戦当初のドイツの快進撃により、ドイツ・イタリアとの関係の強化を主張する機運が高まり、昭和天皇の意向である対米関係改善が難しくなったことから辞職を決意し、陸軍に責任を転嫁して内閣総辞職を実行した、というのが本書の見解です。陸相の畑俊六が陸軍の意向により辞表を提出し、陸軍が後任者を推薦しなかったことから米内内閣が崩壊したのではなく、米内は畑陸相に辞表提出を求めて、内閣崩壊を陸軍の責任にした、というわけです。


●森山優「松岡洋右─ポピュリストの誤算」P223~239
 本論考は、解釈の難しい松岡洋右の外交方針を検証しています。松岡の言動をどれだけ集積しても、松岡の考えを抽出するのは難しい、と指摘する本論考は、先行研究を参照しつつ、松岡の意図を検証しています。松岡は、軍部よりも過激な意見を主張することで統制力を発揮する「先手論」を好んだ、と本論考は指摘します。過激策の主張により軍部から慎重な言質をとり、曖昧な「両論併記的国策」が決定されていった、というわけです。対米戦への大きな分水嶺となった南部仏印進駐にしても、このような松岡の手法が一因になったことを本論考は指摘しています。軍部は松岡への対抗策として、本心では消極的ながら過激策を主張していった、というわけです。対米交渉への松岡の抵抗に関しては、アメリカ合衆国のヨーロッパ参戦を阻止するための引き延ばし工作だった、との見解も提示されているそうです。


●戸部良一「東条英機─ヴィジョンなき戦争指導者」P241~258
 本論考は生真面目ではあるものの、総力戦時代の強力な指導者ではなかった、との東条英機像を提示しています。東条は、生真面目に政治と軍事とを、さらには軍政と統帥とを分離しようとしました。東条は首相と陸相を兼ね、後には参謀総長も兼務しましたが、生真面目にそれぞれの立場を使い分けただけだ、と指摘されています。連合国のルーズヴェルトやチャーチルが、戦争の理念とヴィジョンを語り、強大な権力を握って政治・軍事統合の機能的制度を創出した、総力戦の時代にふさわしい指導者になったのにたいして、東条はその水準に達しなかった、というわけです。東条の昭和天皇にたいする忠誠心は昭和天皇も認めていましたが、本論考は、戦争指導の重圧を天皇に依存することで耐えようとした側面も多分にあるのではないか、と推測しています。


●波多野澄雄「鈴木貫太郎─選択としての「聖断」」P259~277
 鈴木貫太郎の首相としての在任期間は短かったのですが、敗色が決定的となった戦争を、昭和天皇の意向にしたがって終結させる任を果たしました。本論考はおもに鈴木の首相時代を検証していますが、首相就任の前提となった侍従長時代など鈴木と昭和天皇の関係についても解説しています。首相としての鈴木は一撃講和論に拘り、沖縄戦後も、本土決戦の可能性を排除していなかったようです。ポツダム宣言にたいして、鈴木は意思表示をしないつもりでしたが、陸軍の拒絶論を抑えきれず、黙殺と表明してしまいます。鈴木は、これが原爆投下とソ連参戦の口実になったと後悔していたようですが、本論考は、両方とも既定路線であり、鈴木の黙殺は直接の理由ではなかった、と指摘しています。本論考は、鈴木が戦争終結に聖断を利用したことについて、輔弼制度の崩壊であり、明治憲法体制の事実上の崩壊ではあったものの、政治が国民と天皇の手に取り戻されることになった、と評価しています。


●武田知己「重光葵─対中外交の可能性とその限界」P279~298
 本論考はおもに、1930年に対中外交の現地最高責任者になってから、太平洋戦争が始まる前までの重光葵の外交方針を検証しています。重光の外交方針は現状打破にも見えますが、一方で、中国におけるナショナリズムの高揚への配慮や、列強との協調路線を志向していたことも指摘されています。重光は、防共という概念で列強との協調を模索していたようです。しかし、ドイツ・イタリアとの提携路線の強化により、英米との協調路線は破綻します。重光が列強との協調路線において防共を重要な共通目的にしようとした理由は、重光が駐ソ大使時代にソ連の強さを再認識したことだったようです。

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