亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』

 これは8月6日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年7月に刊行されました。都内の某大型書店で本書を購入したのですが、入荷数が多いのに驚きました。本書は刊行前よりネットで話題になっているように見えましたが、それは私の観測範囲の狭さが原因で、知名度のあまり高くない争乱だけに、刊行当初より書店に多数入荷されるとは予想していませんでした。同じ中公新書の『応仁の乱』(関連記事)の大ヒットもありましたし、第二次?中世史ブームが起きているということでしょうか。

 それはさておき、本書についてですが、観応の擾乱は、初めて知った小学校高学年の頃より、情勢の変転が急で理解しにくい争乱だ、との印象をずっと抱いてきました。本書はまず、観応の擾乱の前提となる室町幕府初期の体制と、室町幕府内部の対立の深まりを解説した後、観応の擾乱の具体的な様相を叙述し、最後に観応の擾乱の位置づけを論じています。なかなか分かりやすい構成になっており、本書からは、おそらく一般層には理解しにくいだろう観応の擾乱を、一般向けにできるだけ平易に解説しよう、との意図が伝わってきます。

 本書は観応の擾乱を、鎌倉幕府と建武政権の影響を強く受けた体制から室町幕府独自の体制が構築される契機になった、と重視しています。後に幕府の模範とされた足利義満期の体制も、観応の擾乱を契機とする改革が基礎になっている、というわけです。本書はこうした枠組みのもと、通説・俗説とは異なる見解を多く提示しています。室町幕府初期の体制について、一般層でも日本中世史に関心のある人の多くは、足利尊氏とその弟である直義との二頭政治で、尊氏が主従制的支配権を、直義が統治権的支配権を掌握していた、との見解を知っていることでしょう。しかし本書は、初期室町幕府において、尊氏が全権限を直義に委ねたわけではないにしても、直義が「三条殿」として事実上の最高権力者だった、との見解を提示しています。また本書は、尊氏と直義の役割分担について、創造(変革)の尊氏と保全(既存の秩序維持)の直義との見解を提示しています。

 このような前提のもと、本書は観応の擾乱を検証していきます。本書は観応の擾乱の要因として、直接的には尊氏の実子で直義の養子だった直冬の処遇問題があったのではないか、と推測しています。尊氏は優秀な実子の直冬を忌み嫌っており、それが諸将の反感を招来したのではないか、というわけです。さらに、その反感は、尊氏の意向に忠実で、尊氏の嫡男である義詮を次期将軍にすべく献身していた高師直に集中したのではないか、とも指摘されています。

 本書は、直冬の処遇問題が直接的契機となった観応の擾乱が深刻化した理由として、所領問題、とくに恩賞宛行を重視しています。直義は保守的で高師直は革新的との見解もありますが、両者はともに保守的なところがあり、それが両者の急速な没落を招来したのではないか、との見通しを本書は提示しています。直義も高師直も、恩賞問題で自陣営の武将を満足させることができず、そのために急速に支持を失っていったのではないか、というわけです。直義と高師直との間に理念・政策上の大きな違いはなく、恩賞問題への不満が諸将の急速な鞍替えにつながった、との見解を本書は提示しています。本書を読んで改めて、観応の擾乱における事態の流動性の高さを思い知らされました。

 恩賞問題と関連して、本書は裁判の方法の違いを重視しています。中世の裁判として、争う双方の主張を聴いて裁定をくだす「理非糾明」と、訴えた者の主張のみを聴いて一方的に判決をくだす「一方的裁許」があります。前者が理想的・進歩的との観念が今でも強いものの、戦乱が長期化するなかで、時間を要する「理非糾明」の裁判では恩賞問題で諸将の不満を高め、高師直や直義が支持を急速に失う結果になったのではないか、と本書は推測しています。鎌倉幕府の政治を理想とする直義は、高師直と同様に新たな時代に上手く対応できず、急速に没落したのではないか、というわけです。

 一方、一般にはあまり高く評価されていない義詮は、裁判を「一方的裁許」の方へと大きく舵を切り、幕府への求心力を強めた、と高く評価されています。また、尊氏と義詮が一時的に東西を分割する体制を築いたことで、室町幕府初期の役割を分割する体制から、領域を分割する体制へと移行していったことも、観応の擾乱の大きな意義として評価されています。これにより、それぞれの領域で最高権力者が権限を一元的に掌握することになった、というわけです。

 人物論について積極的なのも本書の特徴で、観応の擾乱における直義は無気力で、それは40歳を過ぎて誕生した嫡男が夭折したことや、尊氏とは戦いたくなかったことが原因ではないか、と指摘されています。また、直冬が尊氏に負けた要因として、直義と同様に尊氏と戦いたくなかった心理があるのではないか、と指摘されています。一方で、観応の擾乱以前には直義や高師直に依存して将軍としては無気力なところのあった尊氏は、観応の擾乱勃発以降は精力的に行動し、そうした気概の差が勝敗を決したのだ、と本書は評価しています。本書は、40代半ばまで無気力だった尊氏の変貌には勇気を与えられる、と述べていますが、現在(2017年8月)、観応の擾乱勃発の頃の尊氏とほぼ同じ年齢の私も共感します。もっとも、尊氏も直義も双方との講和を最後まで模索しており、観応の擾乱が深刻化した要因として、双方の強硬派(たとえば、尊氏陣営では義詮、直義陣営では桃井直常)の存在も指摘されています。

 観応の擾乱の背景として、相次ぐ災害が指摘されていることも注目されます。パイが縮小するなか、奪い合いが激化したのではないか、というわけです。観応の擾乱の頃の14世紀半ばについては、杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)において、ユーラシア規模の気候悪化とそれに伴うモンゴル帝国の衰退との見解も提示されているので、その意味でも注目される見解だと思います。また、正平の一統で講和条件を破ったのは南朝である、と強調されていることも印象に残ります。尊氏や義詮は、直義との戦いのために仕方なく一時的に南朝と講和したのではなく、少なくとも直義よりは本気だった、とされています。本書では、観応の擾乱における直義の南朝への降伏は禁じ手と指摘されていますが、確かに、四条畷の戦いで機内およびその周辺では事実上軍事的敗北が確定していた南朝がその後もしぶとく存続し、南北朝の争乱が長期化した契機なったという意味で、禁じ手と言うべきなのでしょう。

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