敗戦と司馬史観(追記有)

 何かの記念日に毎年同じ話題を書くのも芸がないと思い、これまで8月15日に戦争関連の話題に言及したのは、ブログを始めた2006年だけだったのですが(関連記事)、たまには戦争関連の記事を掲載してみます。私は中学生の頃から二十代前半の頃まで、具体的には1985~1994年頃まで、小説だけではなく随筆も含めて、司馬遼太郎作品の熱心な愛読者でした。司馬作品を読まなくなったのは、特定の歴史事象や人物にたいする評価を不快に思ってある時から急にアンチになったからではなく、歴史学者の一般向け書籍をじゅうらいよりも読むようになり、そちらの方が面白くなって、自然に司馬作品から離れていったからでした。すでに司馬氏が亡くなった1996年2月12日の時点で、司馬作品にやや冷めていたことを覚えていますが、1998年頃には司馬作品で語られる歴史像・人物評価にかなり批判的になっており、当ブログでは、司馬作品と通ずる織田信長像を提示する堺屋太一氏の見解を批判的に取り上げたこともあります(関連記事)。

 第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦へといたる過程について、いわゆる司馬史観では、敗戦までの昭和期の軍人の異常性と、明治期の軍人・政治家の「健全性」が対照的に強調され、両者が切断されました。この見解に関しては、司馬作品の熱心な愛読者だった頃から疑問に思っていたのですが、その後、すっかり批判的になりました。ただ、大敗北で落ち込んだ日本国民にとって、敗戦までの昭和期の軍人を日本史から切断し、その異常性を強調することが、ある種の癒し・国民統合として作用したことも否定できないのではないか、と今では思います。小説・随筆などでそうした史観を提示したことも、司馬氏が一時は(今でも?)国民的作家たり得た一因だったのでしょうし、敗戦後の日本社会においてそうした物語が求められた、という側面も多分にあるのだと思います。織田信長についても同様で、司馬氏は敗戦後日本の願望・癒しとしての織田信長像を提示したのではないか、と私は以前から考えています。司馬氏の提示した信長像は、敗戦によりいっそう強固となった欧米への劣等感を払拭してくれるような、後進性を超越した近代的・先進的・独創的英雄で、敗戦後の日本には、そうした英雄を待望する感情が根底にあったのだと思います。まあ、それが戦後日本人にとっての「癒し」において、高度経済成長よりも重要だった、というわけではありませんが。

 信長はさておき、第二次世界大戦における大日本帝国の敗戦へといたる過程についてですが、別に敗戦までの昭和期の軍人および政治家・官僚・財界人・知識人・報道機関などは、その中に「異常」と呼べるような個人が何人かいたとしても、全体的にはとくに「異常」だったわけではなく、敗戦までの昭和期日本の個々の決断は、人類史において普遍的に見られるものだったと思います。多大な犠牲を払って獲得した土地・利権を手放したくないとか、犠牲者数が増加したので安易な講和はできないとか、あそこに攻め込んでも某国(組織)は大して反応を見せないだろうとか、大破局という結果を知っている後世の人々には愚劣極まりない決断に見えることも、基本的には自己評価が高く楽観的な、普遍的人間心理に基づくものです。それだけに、過去にも、モンゴルに滅ぼされたホラズムや普仏戦争時の第二帝政下のフランスなど珍しい事例ではなく、今後も同じ誤りを犯す可能性はありますし、現在進行形で犯しているものでもあるのだと思います。また、広い視野で判断できる人は昔も今も少なく、ましてやそれを理解して実行に移せる人はもっと少なく、さらには、視野が狭くごく狭い自分の世界・組織に生きる強硬派を上手く抑えられるような手腕の人はごく少数、と考えるべきでしょう。大日本帝国と同様の大失敗はいつどこでも起き得ることで、完全に防ぐことは不可能なのですが(少なくとも現代人には)、多様な意見を堂々と主張できる空間を確保することは、大日本帝国のような破局を防ぐのに役立つとは思います。

 もちろん、多様な意見を堂々と主張できる空間を確保できたところで、破局にいたるかもしれない現在進行形の問題を解決できるとは限りません。それは、上述したように、広い視野で判断できる人は昔も今も少ない、といった問題もあるのですが、ほとんどの社会問題は結局のところ、トレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくからではないか、と思います。とくに経済問題はそうですが、人間社会には多分にゼロサムゲーム的なところがあります。あちらを立てればこちらが立たずで(トレードオフ)、何かを変えようとすれば、特定の範囲の人々に犠牲・減益(精神的なものも含めて)を強いる場合が多く、したがって抵抗も起きます。

 また、個人も含めて小さな単位では合理的な行動が、より広範な単位では不利益になることは珍しくありません(合成の誤謬)。質素倹約は個人や家庭単位では将来の不測の事態に備えるという点でも合理的な選択で、多くの社会で美徳とされますが、多くの人が質素倹約に努めれば、社会が貧困化してけっきょくは多くの人が苦しむことになります。子供を持たない生活は、個人もしくは夫婦単位では、子供の過ちの責任を負う機会を減らすことができ、生活水準を下げずにすみますし、仕事もしくは趣味の点で生き甲斐を感じる機会を増やせるという点で、じつに合理的な選択です。しかし、多くの人がそのような選択をとったら、社会は崩壊します。こう言うと、人口減少は結構なことだ、と言い出す知識階層の人々が少なからずいるのですが、そういった人々が情報を発信するネット環境にしても既存マスメディアにしても、それらを運用するために必要なものとして、水道・電気・道路に限らず多くの社会資本の維持が必要だと考えると、人口減少を受け入れるべきだ、といったことを安易に言うべきではないと思います。少なくとも現在の快適な生活の何割かを捨て去ること、さらには死ぬ可能性が高くなることを覚悟で発言すべきでしょう。

 人口減少に限らず、多くの社会問題はトレードオフと合成の誤謬に行きつくので、解決は難しくなっています。その昔、リベラルと自称する歴史学者が、普段はブラック企業と自民党政権を罵倒し、自分はファシズムについて考え抜いた、安倍政権はファシズムだと言い張り、人口減少を恐れるな、経済成長のパラノイアから脱せよ、と主張していました。しかしその歴史学者はある時、自分のお勧めの本について、Amazonでポチっと、と実にお気楽に発言し、私は呆れ果てたものです。「Amazonでポチっと」本を購入することに、どれだけの社会資本の維持が必要なのか、またどれだけの負担を関連企業・組織の従業員に強いているのか、まったく思いが及んでいない様子でした。自分にとっての快適さの一つが、多くの人々の犠牲の上に成り立っていることが、まったく見えていなかったのでしょう。その意味で、ある社会問題の改善は、ある範囲の人々の利益を侵害することが多々あります。それが、ごく狭い範囲の支配層ならば、「不正な特権」の是正だから正しいではないか、との意見もあるでしょう。しかし、多くの場合、そのように単純な事例ではないと思います。

 最近話題になった東京医大の件にしても、より広く見れば医療従事者にたいする過重負担が根底にあります。看護師による患者殺害容疑など、医療従事者にたいする過重負担が要因と思われる歪みは可視化されたものでも少なくなく、改善は急務です。しかしそれにより、全員がいつ経験しても不思議ではない病気・負傷の治療の水準が、現在よりもある程度以上低下することは避けられないでしょう。しかも、それは貧困層にたいしてより大きな影響を与える可能性が高いと思います。医療従事者の労働環境は直ちに是正されねばなりませんが、そのさいに、日本の住民全員が、治療水準のある程度以上の低下を受け入れる覚悟が必要でしょう。もちろん、なるべく公平感を損なわないような制度設計が望まれますし、その担保には多様な言論空間が必要でしょうが、あちらを立てればこちらが立たずで、日本全体での合意はなかなか難しいと思います。こういう問題こそ、政治家が一定以上の有権者から嫌われる覚悟を持って決断し、進めねばならないのでしょう。後半は表題から外れた内容になってしまいましたが、この機会に、まとまりがないとしても、普段の思いつきを文章にしてみよう、と思った次第です。


追記(2018年8月15日)
 述べ忘れましたが、終戦記念日が現在のように8月15日に固定されたのは1950年代半ば以降で、占領期の新聞報道では、9月2日が事実上の終戦記念日として位置づけられていました(関連記事)。また、東京医大の件に関しては、もちろん、性差など医療従事者にたいする過重負担よりもさらに広範な社会問題が根底にあります。

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