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zoom RSS 清水克行『戦国大名と分国法』

<<   作成日時 : 2018/09/30 06:49   >>

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 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2018年7月に刊行されました。本書が取り上げている戦国大名は、結城(結城氏新法度)・伊達(塵芥集)・六角(六角氏式目)・今川(今川かな目録)・武田(甲州法度之次第)です。これらの検証から、戦国時代・大名に共通する特徴と、各大名固有の特徴・状況が浮かび上がってきます。本書は、分国法から見た戦国時代の社会・大名家の状況を一般向けに描き出し、たいへん読みやすく面白い一冊になっています。戦国時代に関心のある人にはお勧めです。

 雑多で体系的ではなく、法として未熟なのが結城氏新法度の特徴です。そのため、結城氏新法度に関しては、法曹官僚が関わっておらず、結城家当主の政勝が一人で制定したと推測されています。本書は結城氏新法度を、法律というよりも政勝個人の愚痴や恫喝を感情のままに書き綴った手紙と評しています。そのため、政勝個人の人となりが窺え、その点でも興味深い内容だと思います。結城氏新法度からは、戦国大名が家臣団の統制にいかに苦労したか、窺えます。また、大名が一方的に分国法を制定して家臣団に強制するのではなく、家臣団の協議を反映していたことも窺えます。他の分国法からも窺えますが、戦国大名は権力集中を志向しつつ、家臣団の意向を無視できない存在でもありました。

 塵芥集も結城氏新法度と同じく、大名である伊達稙宗単独の制定と推測されています。そのため、結城氏新法度と同様に不備が多く体系化されていないところもありますが、結城氏新法度よりは整備されている、と本書は評価しています。塵芥集は御成敗式目を参照して制定されたことが明らかですが、稙宗の誤読から有効ではない条文も散見されます。これと関連していると思われますが、結城氏新法度も塵芥集も仮名書きなのは、多くの家臣や領民に布告するためではなく、大名の識字能力の限界ではないか、と本書は推測しています。塵芥集は、おもに刑事事件関連の検断沙汰の規定が詳細なのにたいして、所領・年貢関連の庶務沙汰は、御成敗式目の引用ですますなど大雑把です。これについて本書は、東北では土地開発が近畿より進んでおらず、未開拓の土地が多かったからではないか、と推測しています。おそらくそのことと関連するのでしょうが、下人の規定は詳細で、戦国時代の東北地方では土地よりも人を集めることの方が重要だった、との見解を本書は提示しています。塵芥集の制定から6年ほどで稙宗は失脚し、塵芥集の実効性はほとんどなかったようです。それでも、大名たる稙宗が公共性を意識して統治に意欲的であることが窺え、戦国大名の役割を解明するうえで重要な史料と言えそうです。もちろん、当時の社会の状況・観念を知るうえでも貴重な史料となります。

 六角氏式目の背景として、六角家というか、六角家の所領である近江の先進性が指摘されています。当時、近江では小農経営が確立しつつあり、多数の下人に依存するような大規模農業経営ではなくなっていたので、六角氏式目には下人に関する規定がないのだろう、と推測されています。取引に関する規定も、商業が盛んな近江の先進性を示している、と指摘されています。六角家の先進性としては、楽市令や石垣を巡らせた観音寺城および同城への家臣団の集住が挙げられています。このように先進的な所領支配を前提とした六角氏式目ですが、その制定の契機は、六角家における深刻な内紛でした(観音寺騒動)。大名と重臣層との深刻な対立を踏まえて、六角氏式目は、大名を制約する方向で家臣団が主体となって制定しました。戦国大名としての六角家の家臣団統制が失敗しての内紛の結果制定されたというわけですが、それでもなお家臣団が大名を必要としたのは、村落支配のためには武士階層の広汎な結集が望ましく、また、自力救済の貫徹では武士階層も相互に疲弊してしまうことから、上位の調停権力が求められたからでした。しかし、そのためには大名として六角家を報じ続ける必要はないわけで、すでに内紛で求心力を失っていた六角家は、六角氏式目制定の翌年、織田信長の侵攻の前にあっさりと没落します。なお、六角氏式目は、個人制定と思われる結城氏新法度や塵芥集よりも体系的で整備されている、と評価されています。

 本書では、今川かな目録は最もよく整備された分国法と評価されています。そのため、今川かな目録の制定には法曹官僚が深く関わっているのではないか、と推測されています。寿桂尼が今川かな目録の制定に関与したとも言われていますが、その証拠はとくにない、と本書では指摘されています。今川かな目録は、中世の慣習を反映しつつ、大名による領国統治の強化が志向されています。今川かな目録追加には雑多なところがあり、当主である今川義元個人の制定と思われるものの、それなりに整備されているのは、今川家における分国法の知識・運用の蓄積と、寺院で修業を積んでいた義元個人の素養のためかもしれない、と本書は推測しています。今川かな目録追加は社会の現状実を反映して下人の規定などを修正し、守護大名ではなく戦国大名としての今川家の強い自負が見られます。本書は、検地や楽市令や訴訟制度など今川家の先進性を強調し、さらに、「国家」と「国民」の観念が形成されつつあったことも指摘しています。

 甲州法度之次第には今川かな目録の強い影響が見られますが、単なる引用ではなく、独自性もあります。甲州法度之次第は、当初は26条で、後に度々の追加により最終的には55条へと増加した、と推測されています。この追加分は大別すると税制および貸借紛争で、武田家が拡大するなか、軍役の負担が家臣団・領民にとって重いものだったことが窺われます。また、甲州法度之次第は当初家中法的性格が強く、後に領国法的性格へと移行していった、と指摘します。これは、武田家による領国支配の成熟とも評価できるかもしれません。

 本書はまとめとして、分国法の共通する特徴を、自力救済の抑制・大名権力の絶対化・公共性の体現・既存の法習慣の吸収および再編と指摘しています。このような分国法は、戦国大名の自立性の指標とされてきました。しかし本書は、分国法の制定された戦国大名においても、当主が不在であれば審理が進まなかったことなど、訴訟制度が整備されておらず、法の支配が貫徹していたとはとても言えない、と指摘します。毛利・島津・上杉・徳川など、分国法を定めなかった、もしくは現在に伝わっていない少なからぬ大名が勢力を拡大し、近世大名として生き残っていることからも、戦国大名にとって分国法は必要条件ではなかった、というのが本書の見解です。戦国大名にとって、手間のかかる法による支配よりも、領土拡大による恩賞授与の方が、領国内の紛争を解消する手段として効率的だったのではないか、というわけです。とはいえ、分国法に歴史的意義がなかったわけではなく、既存の法習慣の吸収および再編は日本法制史において画期的で、近世社会に継承されていく、と本書は指摘しています。

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