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zoom RSS 江戸時代の新知見

<<   作成日時 : 2018/10/28 18:53   >>

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 新知見とはいっても、江戸時代に詳しい人々には常識的なものが多そうですし、私が見落としている新知見も多そうですが、まだ一般にはあまり知られていないかな、と思うものを中心にいくつかまとめてみました。基本的には『週刊新発見!日本の歴史』の該当号を参照しました。各項目の()の数字は号数を示します。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。

●環境都市としての江戸は過大評価(第30号
 江戸のリサイクルとしては、紙・金属などの回収・再利用システムや、鋳掛・陶磁器の焼継(割れ口をガラスで焼結する)といった修理に関わる職人の存在や、屎尿の肥料使用(下肥)などがあります。しかし、金属製品が少ないのはリサイクルされていた可能性が高いとしても、日用品の陶磁器での焼継の痕跡は確認例が少なく、通い徳利は酒屋に戻されるはずなのに、膨大な量がほぼ完全な形で発見されています。下肥は江戸では当初屎のみが利用されており、尿の利用は19世紀まで遅れました。そのため、尿は側溝に垂れ流しされていました。再利用の対象は生産力と受容のバランス(経済価値)に重点があったようです。現在の環境問題・資源問題から重視されるようになったリサイクルと、江戸における再利用は発想がまったく異なり、近代になって「ものを大切にする心」が突然失われたわけではありません。また、「外国人」の記録などから、江戸は清潔な都市だったと言われています。しかし、そうした江戸が綺麗であるという感覚は、現代の「衛生」と結びついた「清潔」の感覚とは必ずしも一致しないでしょう。ゴミ処理においては不法投棄が後を絶たず、肥料となる生ゴミが恒常的に発生していたことも窺えます。上水井戸と共同便所やゴミ捨て場とは近接することも少なくなく、幕末のコレラの流行には、そうした生活環境も影響した可能性が指摘されています。

●文書行政への転換が進んだ享保の改革(第32号
 享保の改革には中央集権的志向があり、官僚制度の整備が進められるとともに、災害・疫病などにたいして、じゅうらいの領主単位の対応からより広域的な「国家・公共」政策が模索されました。官僚制度の整備においては、行政の文書化が重要な役割を果たしました。じゅうらいの個人の記憶に頼っていた行政から、文書行政への転換が強く進められたのが8代将軍吉宗の時代でした。こうした傾向は社会全体にも見られ、享保の改革以降、村・地域の歴史をまとめた「旧記」や「地誌」が各地で成立するようになりました。享保の改革の意義は、日本列島を急速に「文字社会化」・「文明化」したことにあります。こうした吉宗の政治志向は「大きな政府」、それと対照的な尾張藩の徳川宗春の政策は「小さな政府」志向とも把握されます。宗春の失脚は、藩主の理想・個性に基づく藩主が主導する政治から、藩主が藩官僚と協同で改革を行なう政治への転換点とも位置づけられ、近世の名君は前期と後期とで性格が異なります。

●「慶安御触書」は実在しなかった(第34号
 「慶安御触書」については、すでに明治時代から疑問が呈されており、戦後になっても、江戸幕府の公式法令集『御触書集成』や近世前期の法令集『御当家令条』に収録されていないことや、内容面からも、実在が疑問視されていました。しかし、幕府法令でなければ何なのか、という疑問が解決されなかったため、その存在は完全には否定されませんでした。そうした状況のなか、近年になって、1697年に甲府藩領において発布された「百姓身持之覚書」32カ条が、「慶安御触書」とほぼ同内容だと確認されました。これにより、東日本に多い村役人や甲斐・信濃の地域的な村役人の呼称が「慶安御触書」に見える理由も明らかとなりました。さらに、この「百姓身持之覚書」の原型は、現時点では、1665年の「百姓身持之事」という甲斐・信濃の地域的教諭書までさかのぼることも分かりました。この「百姓身持之覚書」が「慶安御触書」として認識されるようになった契機は、「百姓身持之覚書」を1649年2月26日に発令した「慶安御触書」とした木版本を、美濃岩村藩が刊行したことでした。これには、岩村藩主松平家の出身で林家の養子となり、幕府学問所総裁となった林述斎が関わっていたようです。林述斎が編纂に関わっていた江戸幕府の正史『徳川実記』に「慶安御触書」が幕府法として掲載され、明治時代になり、司法省刊行の『徳川禁令考』にも収録され、「百姓身持之覚書」は「慶安御触書」として日本社会に定着しました。

●大塩平八郎の見直し(第36号
 「庶民の窮状を救うために決起した英雄」として描かれることの多い大塩平八郎についても、見直しが進んでいるようです。大塩の決起による火災被害と食料不足が深刻だったことや、市中放火の決起計画を知って止めようとした門人が大塩に殺害されたことも指摘されています。また、豪商や彼らと癒着した役人たちを罵倒していた大塩は、豪商たちに話を持ちかけて幕府の有力者に大金を融通したこともあるそうです。さらに、まだ確定した事実ではありませんが、大坂町奉行が大坂の米を江戸に移出したことを蜂起の理由とした大塩が、その裏では水戸藩に抜米を斡旋していた疑惑も指摘されています。

●近世ヨーロッパでは日本は世界七帝国の一つと認識されていた(第36号
 近世ヨーロッパ世界の日本認識は、日本の自己認識にも影響を与えました。当時、ヨーロッパ世界では日本が世界七帝国の一つ(他は、ヨーロッパではロシア・神聖ローマ・オスマン、アジアでは清・ペルシア・インド)として認識されており、一程度以上の敬意が払われていました。その理由として、日本が「群小の領邦君主たち」の上に君臨しており、琉球・蝦夷・高麗(朝鮮)が日本に服属している、との認識(たとえば17世紀後期に来日したケンペル)があったようです。このようなヨーロッパにおける江戸時代日本認識において、「皇帝」とみなされていたのは天皇ではなく将軍(天下人)でした。このような情報が帰還した漂流民などから日本の知識層に伝わり、日本の自己認識に大きな影響を与えていたようです。一方で、江戸時代にたびたび起きた日本とヨーロッパ勢力との衝突事件から、日本は防衛力が弱いと西洋列強には見抜かれており、幕末の西洋列強の「砲艦外交」は、そうした情報に基づいていました。

●ペリー来航時の開国派と攘夷派という対立区分は妥当ではない(『日本近世の歴史6』
 ペリー来航時の日本の知識層の対立区分に関しては、「開明的な開国派」と「頑迷固陋な攘夷派」との対立という単純な図式は妥当ではありません。当時の日本の知識層においては、華夷秩序的な枠組みで「対外関係」を把握する者がほとんどでした。こうした華夷秩序的価値観は、欧米列強との交流を通じて捨て去られていき、ヨーロッパ的な国際関係がそれに取って代わります。それに伴い、日本の知識層において、華夷秩序的価値観が主流だった時にはしっかりと認識されていなかった、欧米列強との条約にともなう不平等性が認識されていき、明治政府の重要な課題になっていきました。しかし、華夷秩序的価値体系が主流だったベリー来航時点において、国家間の安易な上下・優劣関係を設けず、同質な諸国家の集合による国際社会を想定した古賀侗庵の教えが昌平黌では浸透していました。

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