文藝春秋編『日本史の新常識』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社から2018年11月に刊行されました。以下、備忘録として各論考についてまとめます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。



◎序章 通史


●出口治明「交易から見れば通史がわかる」P8~30
 交易こそが人類社会の繁栄をもたらすのであり、社会・国家は開かれていなければならない、との観点からの日本通史です。当然、江戸時代の「鎖国」への評価は低く、確かに本論考の指摘するような側面は否定できませんが、「華夷変態」による戦乱に巻き込まれず、安定した社会を維持できた、という側面もあるとは思います。唐の衰退に伴う遣唐使の延期と唐の滅亡以降に、「日本」と「中国」との交易が盛んになった理由として、国家権力の弱体化が挙げられていますが、根本的な要因は江南の経済発展およびその刺激もあっての、日本列島も含む周辺地域の経済発展だと思います。



◎第1章 古代


●片山一道「「弥生人」の大量渡来はなかった」P32~35
 「縄文人」は形態的に共通性がある一方で、「弥生人」には共通した形態的特徴が見られず、在来の「縄文系」や「渡来系」が混在しており、両者は融合しつつ、「渡来系」から「縄文系」へと文化が伝わっていき、農耕社会へと移行していくなかで「縄文系」も「渡来系」に近づいていった、と指摘されています。弥生時代以降に断続的に朝鮮半島から日本列島への人類集団の移住があり、それは短期間の大量移住ではなかったものの、やがて人口増加率の違いなどから、現代日本人においては弥生時代以降の「渡来系」の遺伝的比率が「縄文系」のそれを圧倒したのではないか、と私は推測しています。


●森下章司「前方後円墳がピラミッドより大きいワケ」P36~43
 前方後円墳は社会的・政治的秩序を反映していた、と指摘されています。また、「中国」の墳墓とは異なり、日本列島の巨大な前方後円墳においては、埋葬者への祭りが続けられた形跡は乏しく、これが前方後円墳の象徴的意味を解く鍵になるかもしれない、と指摘されています。これは、王位など高貴な地位における父系的な継承がじゅうぶん確立していなかったことを反映しているのかもしれず、今後も考え続けていきたい問題です。


●水谷千秋「謎の天皇・継体はヤマト王権の中興の祖」P44~51
 継体「天皇」は地方の傍系王族の一因で、渡来人との関係の深い近江を拠点として、豊かな経済力と先進地域からの情報・技術を有していたことから、「天皇」に選ばれたのではないか、と推測されています。また本論考は、継体は当時衰えていたヤマト王権を、「磐井の乱」の鎮圧や百済との密接な関係の構築により立て直した、ヤマト王権中興の祖だと指摘しています。


●倉本一宏「蘇我氏と藤原氏を繁栄させた「最新技術」」P52~59
 蘇我氏は葛城集団の後継者で、大王家を支えるための補完勢力として大王家により生み出されたのではないか、と推測されています。また、その権勢を支えたのはユーラシア大陸東部由来の最新の技術の導入でした。母方祖父が蘇我氏である持統天皇は、蘇我氏にはかつての力はないと判断して、蘇我氏と姻戚関係にあり、優秀だった藤原不比等に注目した、と本論考は推測します。藤原氏もまた、かつての蘇我氏と同様に、「律令制」と「国史」という最新技術の導入により、大王(天皇)家を補完する勢力として認知されるようになった、と本論考は推測しています。


●河上麻由子「「日出ずる処の天子」宣言は苦肉の策」P60~65
 倭は、600年の遣隋使が失敗に終わったことから、当時のユーラシア東部における仏教色の濃い外交に倣って、607年の遣隋使を計画した、と指摘されています。「日出ずる処」と「日没する処」との表現も仏典に由来します。607年の遣隋使における「天子」との表現も、中華思想というよりは、仏教経典の文脈での使用(天子とは仏教を信奉する国王)だったのですが、倭王が隋帝と同じ崇仏国王との認識は、隋帝からはやはり不遜な態度に思えただろう、と指摘されています。


●倉本一宏「壬申の乱の陰に「唐vs.新羅の戦争」」P66~70
 大友を中心とする天智「天皇」没後の近江朝廷は唐への傾斜を強め、唐の要請にしたがって新羅を攻撃するために、東国を中心に(西国は白村江の戦いで疲弊していたため)徴兵を進めていたものの、それが大海人に利用されてしまい、壬申の乱で敗北した、と指摘されています。大友は対唐製作に忙殺され、吉野に退去した大海人にまで意識が向かなかったのではないか、と推定されています。



◎第2章 奈良、平安


●武澤秀一「東大寺大仏建立は宗教改革だった」P72~75
 聖武天皇は大仏建立前に巡幸と遷都を繰り返しましたが、本論考は、聖武天皇が伊勢神宮にまず向かったことを重視しています。本論考はその理由を、大仏建立が天照大御神の逆鱗に触れると聖武天皇が恐れていたからではないか、と推測しています。本論考はこれを、聖武天皇が祖先神信仰から仏教へと国家鎮護の主軸を「宗教改革」だったからではないか、と解釈しています。神祇と仏教との間に一定の緊張関係があったというか規定されていたのは間違いないとしても、本論考の想定するように、それが「祖先神信仰」と仏教との対立的関係として解釈できるのか、今後も少しずつ勉強を続けていきたいものです。


●渡辺晃宏「長屋王の変 悲劇の王の「私生活」」P76~82
 1988年に発見された長屋王家木簡は、それだけでじゅうらいの木簡数を上回るほどで、奈良時代の木簡研究を飛躍的に発展させました。本論考からは、長屋王家が上位の支配層として全国から貢進物を受け取り、豊かな生活を送っていたことが窺えます。また本論考は、8世紀は律令国家の解体過程ではなく、建設の時代だった、と指摘しています。


●倉本一宏「本当は激務だった平安貴族」P81~84
 平安時代の貴族は遊宴と恋愛にのみ熱意を示し、毎日ぶらぶら過ごしていた、という通俗的な歴史像は平安時代の女流文学作品の表層的な理解によるものだ、と指摘されています。本論考は、平安時代の貴族にとって儀式を先例通りに執行することが最大の政治眼目とされており、激務だったことが強調されています。


●繁田信一「「光源氏」は暴力事件の常習犯」P85~89
 光源氏と境遇の似ていた敦明親王、光源氏のモデルとも言われる藤原道長、蟄居時代の光源氏のモデルとも言われている藤原伊周が、いずれも暴力事件を起こしていた、と紹介されています。しかも、敦明親王は常習犯とさえ言えるくらいでしたが、敦明親王の標的は自分に皇太子の地位を辞退させた藤原道長の取り巻きの国司・その前任者たちで、道長への遺恨が原因だったのではないか、と推測されています。平安時代の貴族はずいぶんと血腥かった、と本論考は指摘しています。


●榎本渉「遣唐使中止でも日中交流は花盛り」P90~94
 これまで、前近代の「日中」関係で注目されていたのは、遣唐使の時代と遣明使の室町時代で、その間の時代の「日中」の交流は低調で、そのために「国風文化」が開花したと考えられてきた、と本論考は指摘します。実質的な遣唐使は839年が最後となりますが、「中国」製陶磁器の分析からは、むしろその後に「日中」の経済的関係が飛躍的に発展し、遣明使の時代にはむしろ「日中」の経済的関係は低調だった、と本論考は指摘します。また、文化的にも、平安時代~南北朝時代にかけて、日本は「中国」から文化的影響を受け、とくに鎌倉時代には禅宗や建築や彫刻などで「宋風」要素が顕著だった、と指摘されています。こうした平安時代~南北朝時代にかけての「日中」交流が軽視されていた理由として、民間の海商や僧侶が担い手の主体だったので、国家単位での歴史把握が主流だった近代においては注視されてこなかったことが挙げられています。



◎第3章 鎌倉、室町


●本郷和人「鎌倉幕府成立年は一一八〇年が妥当だ」P96~100
 鎌倉幕府の成立年代をめぐる議論が取り上げられています。この問題は、鎌倉幕府を日本史上においてどう位置づけるのかにより、異なってくるものだと思います。以前は学校教育で定説とされていた1192年説は、江戸時代的な観念に囚われている、と本論考は否定的です。本論考は1180年説を支持していますが、学界では1185年説が有力とのことです。この問題については、今後も調べていきたいものです。


●伊東潤「北条政子「子殺し・孫殺し」の修羅」P101~109
 北条政子は息子や孫を見殺しにしても鎌倉幕府を守ろうとした女傑だった、と高く評価されていますが、この問題については今後も慎重に考えていきたいものです。また、鎌倉幕府は、歌舞音曲にうつつを抜かし、無為徒食する公家たちの支配体制から脱し、収穫は土地を耕した者である御家人とその領民たちが手にできるようにした、と評価されていますが、さすがにこの認識は問題があると思います。鎌倉幕府の御家人も、民から搾取する側に立っていたことはとても否定できないでしょう。


●服部英雄「元寇の真実 「神風」は吹かなかった」P110~117
 文永の役でモンゴル軍と日本軍の戦い1日だけで、モンゴル軍は撤退したとか、弘安の役でモンゴル軍は台風のため全滅したとかいった俗説が批判されています。また弘安の役の後、モンゴル人と高麗人と漢人(華北の人々を指すのでしょう)は全員殺され、南宋人は奴隷とされた、とされていますが、後に高麗王が捕虜の厚遇に感謝する国書を送ってきたことから、南宋人を除く捕虜が皆殺しにされた、との説は疑わしい、とも指摘されています。モンゴル襲来については、著者の『蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実』が分かりやすくてよいと思います(関連記事)。


●杉山正明「元寇の目的は中国兵のリストラだった」P118~122
 弘安の役の旧南宋兵は、数は多くても老人・愚連隊・やくざなどが大半で、実質的には武器の代わりに農具などを携えた移民船団だった、と指摘されています。つまり、大元ウルスは、役に立たない(しかも社会の不穏分子でもある)旧南宋の職業軍人たちを海外投棄したのではないか、と本論考は推測しています。この問題については、今後も考えていきたいものです。


●亀田俊和「「逆賊」足利尊氏は最後まで尊王を貫いた」P123~130
 足利尊氏は第二次世界大戦における敗戦までの近代日本において、最大の逆賊とされていました。しかし本論考は、尊氏は後醍醐天皇を終生敬愛し続けており、後醍醐天皇との戦いに消極的だったことや、幕府を開く立場にまでなったのに厭世的だったことは、尊氏が「精神疾患」だったからではない、と指摘します。また本書は、正平の一統に関しても、尊氏は南朝と便宜的に講和したのではなく、本気だったのではないか、と指摘されています。



◎第4章 戦国、江戸


●本郷和人「応仁の乱は「東軍」が勝った」P132~149
 応仁の乱の原因と勝者・敗者の判定を歴史家は明快に答えられねばならないとか、織田軍は当時の戦国大名のなかで鉄砲を桁違いに保有していたとか、関ヶ原の戦いの結果、日本は商業ではなく農業を、カネではなくコメを中心とした国へと変わっていったとか、疑問に思う見解が続きます。カネではなくコメを中心とした国が何を意味するのか、定かではありませんが、石高制のことだとしたら、すでに豊臣政権が採用していますし、それ以前に戦国時代の西国において、貫表示から石表示へと変わっていったわけですから、的外れだと思います。


●黒田基樹「「汁かけ飯」北条氏政はバカ殿ではない」P150~157
 北条家、とくに氏政は敗者として評価が低いのですが、その領国支配は江戸時代と本質的に変わらない、と高く評価されています。また、氏政は父祖から継承した大領国を発展させ、北条家としては最大の版図を築いており、これをそのまま維持できないなら滅亡してもかまわないと考えていた、と指摘されています。


●谷口克広「織田信長の意外なポピュリズム」P158~163
 足利義昭との対立のさいの事例から、信長が「外聞」、つまり世間をたいへん気にしていたことが紹介されています。信長は個性が強く、周囲のことを気にかけなかったように一般的には思われているかもしれませんが、そうではなかった、というわけです。


●村井章介「豊臣秀吉の世界帝国構想は妄想か」P164~169
 文禄の役の当初、豊臣秀吉は、後陽成天皇を北京に移し、自身は寧波を居所とする、という「壮大な」構想を抱いていました。これは秀吉の妄想と一蹴されることも多いのですが、本論考は、その実現可能性を頭から否定するのは現代人の傲慢で、じっさい小勢力だったジュシェン(マンジュ)は後に明の領域を征服した、と指摘します。本論考は、秀吉が失敗してヌルハチとその後継者たちが成功した理由として、明との接触経験の濃淡に起因する、異文化での戦いという感覚の有無ではないか、と指摘しています。


●服部英雄「秀頼はやっぱり秀吉の子ではない」P170~172
 豊臣秀吉は、出産経験のある複数の女性を側室としていたのに、秀吉の子供を産んだのは茶々(淀殿)だけで、それも秀吉が50代になってからのことでした。さらに、茶々が秀頼を妊娠した時には長く「隠密」とされており、それを知らされた時の秀吉の反応や、秀頼の誕生日から逆算しての秀吉と茶々の行動からも、秀頼は秀吉の実子ではない、と本論考は指摘します。本論考は、それでも秀吉が秀頼を嫡男と認定した理由として、嫡子への継承という形と織田信長の姪という茶々の血統にこだわったからではないか、と推測しています。本論考は、同時代人は秀頼が秀吉の実子だとは信じておらず、無理のある秀頼への継承が豊臣氏の滅亡を招いたのではないか、と指摘しています。


●堀新「「豊臣家康」「豊臣秀忠」って誰?」P173~176
 豊臣秀吉は豊臣氏・羽柴名字を諸大名に与え、江戸幕府は松平名字を大大名に与えました。豊臣政権において、徳川のみは豊臣氏・羽柴名字を名乗らなかった、との理解も見られますが、秀吉死後においても、家康の三男で後に江戸幕府第2代将軍となる秀忠は羽柴武蔵守と名乗っていました。家康は1602年に源氏・徳川名字に復し、1645年に第3代将軍家光が、家康・秀忠の官位叙任文書をすべて源氏に書き改めさせました。


●山本英二「「慶安御触書」は実在しない」P177~180
 この問題については以前当ブログでも取り上げました(関連記事)。その時に言及していなかった指摘としては、百姓代という用語が見えないことから、18世紀をくだらないと考えられることや、林述斎により「慶安御触書」と命名された御触書が、天保の大飢饉や広域化する百姓一揆に直面していた大名・幕府代官たちに、あるべき村と百姓の理想像として採用されていった、ということがあります。


●福留真紀「名門・酒井雅楽頭家を再興した凄腕家老」P181~188
 酒井雅楽頭家は大老も輩出した名門でしたが、第5代将軍綱吉期に没落し、御家断絶とはならなかったものの、長い雌伏の時を過ごしました。酒井雅楽頭家の復権の転機となったのは第11代将軍家斉期で、多くの子供を儲けた家斉の娘の一人(喜代姫)との婚姻により、家格は旧来に復すことになりました。これに大いに貢献したのが酒井雅楽頭家の家老である河合隼之助で、幕閣有力者と巧みに結びつき、それを活かして主家の復権を進めていきました。また河合は、幕閣有力者との結びつきを活かし、現代的な視点からは「汚い」とも言える手段を用いて藩の財政立て直しにも貢献した辣腕家だったことが紹介されています。


●鬼頭宏「江戸の少子化が近代化を支えた」P189~193
 日本は17世紀に人口が約1500万人から約3000万人と倍増しましたが、18世紀になると人口は横ばい状態となりました。しかし、18世紀以降の江戸時代において経済成長は続いており、1人当たりの石高は、1720年頃と比較して1870年頃とでは3割以上増加していました。この間、幼児死亡率が改善して平均寿命が延びており、出産年齢を遅くし、1世帯当たりの子供の数を減らすといった計画的な人口調整が行なわれていたのではないか、と本論考は推測しています。また、藩によっては出産と死産を調査したり、育児手当を出したりしていて、人口調整に強い関心を示していた、と示唆されます。江戸時代後半の人口停滞期に1人当たりの所得水準は維持・向上させたのであり、そこで生まれた経済的余裕が近代化の原資になった、と本論考は指摘しています。



◎第5章 幕末、明治


●横山茂彦「倒幕の雄藩がなぜ「松平姓」なのか」P196~198
 江戸幕府は松平を有力大名に姓として与え、大名統制に利用しました。その対象となったのは、毛利・島津・山内・鍋島などでした。つまり、いわゆる薩長土肥はすべて、藩主が松平を姓としていたわけで、そうした西国雄藩により江戸幕府は倒された、という皮肉があったわけです。


●菊地明「坂本龍馬は殺人の「指名手配犯」だった」P199~206
 坂本龍馬は薩摩藩の意向を受けて活動する浪士として幕府に警戒されており、寺田屋で幕吏を殺害したことにより、「指名手配犯」として幕府に追われることになりました。本論考は、龍馬の警戒心が弱かったことと、1867年4月に脱藩の罪が許されて藩籍が復していたにも関わらず、それが周知されていなかったことにより、龍馬は殺害された、と指摘しています。


●家近良樹「西郷隆盛は「ストレス病」で苦しんだ」P207~210
 西郷隆盛は緻密で繊細な感覚の持ち主で、大久保利通との比較でもより怜悧・緻密だ、と本論考は指摘します。また、西郷は清濁併せ呑む度量の大きい人物というより、人に対して好悪の感情が激しく、こうした性格の西郷は終生強いストレスに苦しめられた、と本論考は指摘します。征韓論における西郷の無策とも考えられる言動についても、強いストレスと体調不良により尋常な状態ではなかったからだ、と本論考は推測しています。西郷にとって最大のストレスとなったのは、島津久光からの攻撃だった、と本論考は推測しています。


●笠原英彦「岩倉使節団「留守政府」の功績」P211~214
 岩倉具視や木戸孝允や大久保利通たちが海外を視察している約2年間の「留守政府」は、身分制度の抜本的見直し、財政再建、行政と司法の分離といった司法改革、国民皆学制度への着手、土地売買の自由化、全国的な戸籍調査、太陽暦の実施など、大胆な改革を急速に進めた、と評価されています。ただ、「留守政府」には政治的リーダーシップの弱さという問題を抱えており、調整能力が不足していた結果、予算の分捕り合戦と権限の衝突が起きた、とも指摘されています。ただ、こうした政治的リーダーシップの弱さが、かえって各省の独走を許し、行政面での近代化を促進した、とも評価されています。


●鹿島茂「司馬遼太郎が見抜いた「西郷幻想」の危うさ」P215~222
 西郷隆盛待望論が盛んになり、西郷幻想が世論を覆うようになると、日本は危機の最中に突入しつつある、と司馬遼太郎は見抜いており、『翔ぶが如く』を執筆したのではないか、と本書は推測します。司馬が西郷幻想の危険を感じた具体的状況として、本書はまず荒木貞夫待望論を、次に近衛文麿待望論を挙げています。本論考はさらに、西南戦争の本質は革命で、昭和の戦争指導者は西郷幻想に囚われており、「大東亜革命」を夢見ていたのではないか、と推測します。率直に言って、本論考の解釈にはかなり無理があると思います。日本が対米英戦へと突入したのは、「革命」を夢見たからではなく、強力な調整能力を有する個人・組織が存在せず、各組織が相互に利害を主張して牽制し合い、面子を保とうとした結果で、大局的な目標のために戦争に突き進んだ、というわけではないと思います。本論考の指摘する対米英戦の「革命」要素は、むしろ開戦後の日本側による自己正当化のための主張という側面が強いように思います。


●渡辺惣樹「日米戦争 知られざる「原点」」P223~228
 19世紀末~20世紀初頭のアメリカ合衆国にとって、大西洋と太平洋の両大洋からの攻撃をいかに防ぐのか、ということが安全保障上の重要な課題でした。そのため、米西戦争で当初の目的にはなかったフィリピンを奪います。これは、ハワイの併合に反対する上院議員にハワイの重要性を悟らせるためでした。当時、フィリピンを列強が狙っていましたが、アメリカ合衆国がとくに警戒したのはドイツで、それはドイツがフィリピンを奪えば、西太平洋が「ドイツの湖」と化してしまうからでした。しかし、アメリカ合衆国にとって、ハワイからグアムを通じた細い補給線に頼るフィリピンの維持は難しく、その最大の脅威は日本であることが明らかになってきます。そこでアメリカ合衆国の対日方針として、日本の目を北方に向けさせることが基本となり、アメリカ合衆国が日本の大韓帝国併合を認めたのも、そうした文脈があったからでした。

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