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zoom RSS 『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(前編)

<<   作成日時 : 2019/01/02 09:07   >>

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 クリストファー・ライアン(Christopher Ryan)、カシルダ・ジェタ(Cacilda Jetha)著、更科功・石川牧子・国友良樹訳で、2017年9月に作品社より刊行されました。第1刷の刊行は2014年7月です。原書の刊行は2010年です。字数制限2万文字を超過してしまったので、この前編と後編に分割します。本書は、人類社会が長期にわたって一夫一妻的傾向にあった、と想定する通説を批判し、現代人系統は過去にチンパンジー(Pan troglodytes)やボノボ(Pan paniscus)のような「乱婚」社会を経験し、その証拠が生殖器官をはじめとして現代人の表現型に見られる、と主張します。

 本書の見解には、参考にすべきところが少なくない、と思います。たとえば、通説の根拠とされている各種調査には、調査しやすい人々を対象としたものが少なくなく、人類全体の傾向の代表として妥当なのか疑わしい、といった指摘です。これはもっともですが、たとえば「孤立」集団の調査が倫理的にも安全上もいかに困難か、最近のインド洋での事例(関連記事)からも明らかで、いかに妥当な調査をするのかは、たいへん難しい問題だと思います。また、ダーウィン(Charles Robert Darwin)をはじめとして、研究者たちの観察・考察が同時代の社会的規範や個人的体験、とくに性嫌悪により歪められることは珍しくない、といった本書の指摘もたいへん重要だと思います。本書がとくに言及しているのは、セクシュアリティにまつわる社会的規範と個人的体験が観察・考察を歪める可能性ですが、これは、時代・社会の異なる外部者ができるだけ多く参加して検証していくしかないでしょう。

 このように、本書の指摘には有益なところが少なくありませんし、著者二人は博学で、この点の面白さもあります。何よりも、通説が決定的な根拠に基づいているのではない、との指摘は重要です。ただ、著者二人も認識しているに違いありませんが、本書の主題である過去(おもに更新世)の配偶行動に関して、「確定的な」証拠を提示することは不可能です。したがって、どれだけ関連する証拠(関連度合いの強弱の判断も議論となってくるわけですが)を提示でき、各証拠を統合した整合的で説得力のある先史時代人類社会像を提示できるのかが、重要となります。しかし、セクシュアリティを中心とする本書の提示する先史時代の人類社会像は説得力に欠け、とても最有力の仮説にはなりそうにない、というのが私の率直な感想です。

 私がそのように思うのは、本書が不誠実だと考えているからでもあります。それは、本書が二分法の罠的な技巧を少なからず用いていることもありますが、何よりも、戯画化が度を越している、と考えているためです。まず本書は、「単婚すなわち一夫一妻という結婚が、われわれ人類の本質であり、ここから逸脱する者は、人類の品位を汚すといった偽りの物語が大手を振っている」と主張します(P16)。しかし、最近数十年間に、まともな研究者でそのような倫理的・道徳的観念に依拠した見解を主張している人がいるのか、はなはだ疑問です。現代世界の多くの地域の通俗的観念では、近代化(すなわち西洋化)の進展もあり、確かに一夫一妻が大前提とされていますが、一夫一妻が人類の本質とまで本気で考えている人が非専門家層に多くいるのかも、疑問です。率直に言って、本書のこの認識は多分に藁人形論法だと思います。冒頭からこんな調子なので、この時点で本書には疑問と不信感を抱いてしまったのですが、読み進めても、それらは解消されていくどころか、ますます深まっていきました。

 配偶子へのコストに基づく雌雄の繁殖戦略の違いと競合を指摘する進化心理学的知見は、文化的偏見に起因する性嫌悪に基づいている、と本書は主張しますが(P39〜41)、これも藁人形論法だと思います。有性生殖の生物において、雌雄の繁殖戦略に競合的・軍拡競争的側面が多分にあるのはとても否定できないでしょう。何よりも問題なのは、社会生物学論争に関する認識です。社会生物学論争の結果、人間の行動は遺伝子により決定されるとする立場と、社会により決定されるとする立場に落ち着いた、と本書は評価しています。この認識は、いかに読者を説得するための技巧だとしても、もはや誇張どころではなく、捏造と言うべきでしょう。学界にそうした絵に描いたような遺伝子決定論者が存在するのか、はなはだ疑問です。本書は、真実はその両極端の立場の間にある、と指摘しています。本書こそ冷静な科学的知見を披露しているのだ、と読者に印象づけようとして、あえて読者に誤認させようとしているのではないか、と疑いたくなります。一応本書は、単純化しすぎているように見えるかもしれない、と弁明してはいますが、本書の社会生物学論争に関する認識は、本書への私の不信感を決定的なものとしました。本書に垣間見られる進化心理学への敵意も、社会生物学論争に関するこの認識に由来しているように思います。

 また、女性の性衝動は弱いとする進化心理学の通説には問題がある、と本書はたびたび指摘します。進化心理学の知見が不足している私には、本書の指摘が妥当なのか、的確な判断はできませんが、進化心理学の知見を戯画化しているのではないか、との疑念は拭えません。そもそも、女性の性欲が一般的に?言われているほど弱くはないとしても、それが人類社会乱婚説を証明するものではないと思います。以下でも述べていきますが、本書が引用している数々の知見は、人類社会乱婚説と決定的に矛盾するわけではない、というだけで、その確たる証明になっているわけではない、と思います。一夫一妻的な傾向の強い社会を想定する仮説でも、本書の引用した知見は基本的に、決定的に矛盾するわけでもないと思います。このように、本書にたいしては疑問・不信感が拭えませんが、まずは本書の大まかな見解について述べ、その後に本書の主張する具体的な根拠を見ていきます。なお本書では、「乱婚」には「行き当たりばったり」の性交という意味合いは一切なく、選好が行なわれている、と定義されています。


●本書の見解の概要

 本書は、現代人系統が、戦いに勝ち残った1頭のアルファ雄がハーレムを形成するゴリラ型の配偶システムから乱婚社会へと移行し、遅くともホモ・エレクトス(Homo erectus)の時点では乱婚社会だった、と想定しているようです。その根拠は雌雄の体格差です。霊長類社会では、これが大きいと(性的二形)、単雄複雌のハーレム型の配偶システムを形成する傾向にあるからです。本書は、アウストラロピテクス属よりも前に存在したアルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)では雌雄の体格差が小さかった、との見解(関連記事)が400万年以上にわたる一夫一妻を想定する仮説の根拠とされていることから、ラミダスでは雌雄の体格差が小さかった、との見解に慎重です。本書のこの認識はとくに問題ないと思いますし、そもそもラミダスは現代人系統ではない可能性が高い、と私は考えています。

 ラミダスの人類系統樹における位置づけはさておき、本書は、アウストラロピテクス属における雌雄の体格差は大きかった、との有力説を採用しています。アウストラロピテクス属の性的二形については異論も提示されているのですが(関連記事)、最初期の広義のエレクトスにおいても、性的二形はアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)と大差がなく、チンパンジーよりも大きかった、との見解さえ提示されています(関連記事)。おそらくアウストラロピテクス属においても、性的二形は顕著だった可能性が高いでしょう。本書は、数百万年前に現代人系統はハーレム型社会を脱した(P23)、との認識を示しているのですが、雌雄の体格差という観点からは、その時期は150万年前以降である可能性も想定されます。

 本書は、現代人とチンパンジーおよびボノボ(チンパンジー属)、とくにボノボとの類似性を強調し、現代人系統が過去にボノボと類似した乱婚社会を経験した、と主張しています。したがって、本書では明示されていないように思いますが、アウストラロピテクス属の時点では雌雄の体格差が依然として大きかったとの認識からは、現代人系統の雌雄の体格差がゴリラよりもチンパンジーおよびボノボにずっと近づいたのは、現代人系統とチンパンジー属系統とが分岐してかなり経過してから、という見解が導かれます。本書は、チンパンジー属系統の雌雄の体格差がどのように進化してきたのか、明示していませんが、現代人系統が過去にはゴリラと類似していたと認識しているわけですから、チンパンジー属系統もかつては雌雄の体格差が大きかった(性的二形)と想定している可能性が高そうです。つまり、現代人系統とチンパンジー属系統とで、雌雄の体格差の縮小および乱婚社会への移行が並行して起きた、というわけです。もちろん、収斂進化は生物史においてきょくたんに珍しいわけではありませんが、本書の論理では、現代人系統とチンパンジー属系統の社会構造・配偶システムの類似性をもたらした重要な遺伝子発現の変化には共通性がない、ということになります。したがって、チンパンジー属系統が現生種では現代人と最近縁とはいっても、そのこと自体は、チンパンジー属系統と現代人系統とが類似の社会を形成した、との仮説の状況証拠にはなりません。

 なお、本書では、現代人系統とチンパンジー属系統との分岐年代は500万年前にすぎない、とされていますが(P15)、原書刊行後の研究では約1345万〜678万年前とも推定されています(関連記事)。チャドで発見された、704±18万年前と推定されている(関連記事)サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)が、現代人の直系祖先ではないとしても(その可能性は高いと思います)、チンパンジー属の祖先系統と分岐した後の人類系統に区分される可能性は高そうですから、現代人の祖先系統とチンパンジー属の祖先系統の分岐は700万年以上前だった可能性が高いと思います。もっとも、本書が指摘するように、この分岐の後もしばらくは、両系統間で交雑があったかもしれません(関連記事)。

 最初期の(広義の)エレクトスの頃なのか、150万年前頃以降なのかはともかく、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の祖先集団もしくはそのきわめて近縁な集団と考えられる、43万年前頃のイベリア半島北部の人類集団の性差は現代人と大きく変わらなかったので(関連記事)、遅くとも100万年前頃には、現代人系統の性差は現代人とさほど変わらなかった、と推測されます。もちろん、当時は狩猟採集社会だったわけで(地域により異なったでしょうが、狩猟への依存度は後期更新世より低かったかもしれません)、現代の狩猟採集社会の研究から、性差が縮小して以降の狩猟採集社会では厳格な平等主義が貫かれており、それは食料の分配だけではなく性に関しても同様だった、と本書は主張します。さらに本書は、この小規模の親密な血縁集団(バンド)で形成される狩猟採集社会において、ほとんどの成体が任意の一定期間、複数の性的関係を結び、それは農耕と私有財産の発生まで続いた、との見通しを提示します。

 これが大きく変わるのが農耕開始以降で、そこで乱婚社会を形成して以降初めて、父性の確認が重要課題になった、と本書は主張します。現代人系統において農耕開始まで父性の確認が重要課題ではなかったとの想定は、本書の乱婚社会説の鍵となります。通説では、父性の確認は人類にとって最大の重要性を有しており、それは進化心理学においても同様です。しかし本書は、現代人のセクシュアリティの起源に関する通説は、農耕開始以降の劇的な変化への人類の柔軟な適応行動の誤認に由来し、本質は異なる、と主張します。本書はその根拠として、世界各地の狩猟採集社会の事例や、現代人の生殖器官および性行動と近縁種との比較を挙げます。以下、多岐にわたるそれらの根拠のうちいくつかを見ていきますが、疑問は少なくありません。


●現代人とボノボとの類似性

 本書は、通説においては、男性は嘘つきのゲス野郎に、女性は嘘つきの二股をかける金目当ての男たらしに進化したと想定されている、というように要約し、通説を批判しています(P71)。しかしこれも、自説の妥当性を読者に印象づけるための技巧で、戯画化を通り越して捏造に近いのではないか、と思います。また本書は、排卵の隠蔽は人間だけの例外として重要との認識を前提として通説は組み立てられている、と説明します(P89〜92)。しかし、現代人も含めて現生類人猿系統は、排卵の隠蔽というか発情徴候が明確ではないことが一般的です。むしろこの点では、現生類人猿系統においてチンパンジー属が例外的です(関連記事)。つまり、類人猿系統においてチンパンジー属系統のみが特異的に発情徴候を明確化するような進化を経てきただろう、というわけです。ここでも、本書が通説を意図的に戯画化しているのではないか、と疑問を抱いてしまいます。

 類人猿系統の中で現代人とは遠い関係にあるテナガザルは単婚だと指摘されていますが(P97〜98)、霊長類系統、とくに類人猿系統の繁殖行動は柔軟で、その社会構造も比較的短期間に変わり得るものと考えるのが妥当でしょうから(関連記事)、人類系統が単婚ではなかったことを系統関係から証明するのは難しいと思います。何よりも、上述したように本書の論理では、類人猿系統における近縁性は、現代人系統が乱婚社会であることの証明にはなりません。また、テナガザルを人類のセクシュアリティのモデルとみなす通説的見解が否定されていますが、そうした見解が主流と言えるのか、疑問があります。現代人の特徴は、単婚を基礎とする家族が複数集合した共同体にあり、それはテナガザルとは大きく異なるからです。単婚というだけで、テナガザルが人類社会のモデルになる、との見解は果たして主流なのでしょうか。テナガザルは単雄単雌(単婚)で暮らし、大きな社会を形成しません。本書は、大きな社会集団を形成して生活する霊長類に、単婚社会の種は存在しない、とたびたび強調します。しかし、単婚の家族と共同体を両立させたところに人間社会独自の特徴と(あくまでも個体数と生息範囲の観点からの)大繁栄の要因がある、という見解の方がずっと説得的だと思います(関連記事)。

 本書は、ボノボでは雌の社会的地位が高く、母と息子の絆が強いと指摘しており(P100、107〜114)、それは妥当だと思います。また、ボノボの雄の地位は母親に由来する、とも本書では指摘されています。しかし、これはボノボが母系社会であることを意味しません。多様な社会構造を示す現代人を除いて、現生類人猿系統はいずれも父系もしくは非母系社会を示しており(関連記事)、現代人社会も多くは父系的です。本書では説明されていませんが、ボノボも雌が群れを出ていく非母系社会です。もっとも、本書はボノボが母系社会だと明確に主張しているわけではありませんが。本書はボノボと現代人との性行動の類似性を強調しますが、ボノボのように挨拶代わりといった感じで性交渉を行なうような現代人社会は存在しないと思いますし、何よりも、発情徴候の明確化という重要な違いが軽視されていることは問題です。この観点からは、チンパンジー属の乱交的な社会は、人類系統と分岐した後に生じた、と考えるのが最も節約的だと思います。チンパンジーが複数の地域集団(亜種)に分岐していることから推測すると(関連記事)、ボノボ系統の平和的な社会も、チンパンジー系統との分岐後に生じた可能性が高いでしょう。

 また本書は、チンパンジーとボノボの雌雄の体格差は現代人と「まったく同じ範囲に収まっている」とたびたび強調していますが、これは身長と体重とを都合よく合わせて評価した「体格差」だと思います。体重の雌雄差(雄の体重÷雌の体重)では、チンパンジーが1.3倍なのにたいして現代人は1.1倍で、有意な差があります(関連記事)。一般的にも、確かに現代人の性差はゴリラよりもチンパンジー属の方にずっと近いのですが、チンパンジー属よりも小さく、一夫一妻型のテナガザルと乱交型のチンパンジーとの中間である、といった見解が有力だと思います。本書は、おそらく意図的なのでしょうが、現代人とチンパンジー属との類似性を誇張しているように思われます。

 なお本書は、現代人の傑出した特徴として、社会的であることと過剰なセクシュアリティを挙げており(P124〜128)、どうも、身体能力の点で現代人には傑出したものがない、と言いたいようです。しかし、現代人の長距離走行能力はなかなかのものですし、何よりも、投擲能力は現生種においては傑出しており、これは現代人とその祖先および近縁系統の生態的地位の確立に、たいへん重要な役割を果たしたのではないか、と思います。また本書では、セクシュアリティに関して、いつでも性行動のできる現代人とチンパンジー属の特異性が強調されていますが、ゴリラの雄は常に交尾可能ですし、オランウータンの雌も、雄に求められれば大抵は交尾を許可します。チンパンジー属ではない類人猿系統と、現代人との性行動は、本書が強調するよりもずっと類似しているのではないか、と思います。


●現代人の暴力性の起源

 本書は現代人系統が更新世というか農耕開始前にはそれ以降と比較してより平和的な社会を構築していた、と強調します。本書は、人間やその近縁系統が本質的には攻撃(暴力)的か平和(協調)的か、とたびたび問いかけますが(P101〜104)、これは二分法の罠と言うべきで、環境に応じて攻撃(暴力)的でも平和(協調)的でもあるのが人間やその近縁系統の本質で、とくに人間は柔軟なのだ、と考えるのが妥当であるように思います。また本書は、多くの科学者が、人類の持つ攻撃性の根源を霊長類としての過去に位置づけようとしているのに、人類の持つ肯定的な衝動が霊長類から連続していることは認めたがらない、と通説側を批判しています(P107)。しかしこれも、通説側がかなり戯画化されているのではないか、との疑念は拭えません。また本書は、チンパンジーの「暴力性」は人為的活動の結果かもしれない、と指摘しています(P281〜284)。つまり、人間の「暴力性」の起源をチンパンジーとの最終共通祖先の段階までさかのぼらせる見解は誤りではないか、というわけです。しかし原書刊行後、チンパンジーの同士の攻撃には人間の存在の有無は関係していない、との見解が提示されています(関連記事)。


●父性の確認と多様な現代人社会

 第6章は、父親が一人ではない社会は珍しくないと強調し、父性の確認が人類進化史において重要ではなかった、と示唆します。民族誌的研究は私の大きな弱点なので、本書の見解の妥当性の判断については、今後の課題となります。ただ、狩猟採集社会とはいっても、現代と過去とでは条件が異なります。現代の狩猟採集社会は、農耕社会に、さらに後には工業社会にたいして劣勢に立った結果として存在しています。本書は、厳格な平等主義がほぼ普遍的な狩猟採集社会の環境は、現代人系統というか現生人類(Homo sapiens)が5万年前、さらには10万年前に直面していた環境に酷似している、と主張します(P148〜149)。しかし、更新世の気候は完新世よりも不安定でしたし、何よりも、農耕社会の存在は更新世と完新世の大きな違いです。またユーラシア大陸やアメリカ大陸においては、狩猟対象となった大型動物が更新世後期には現在よりも豊富に存在していました。これらの違いを無視して、現在の狩猟採集社会と更新世の狩猟採集社会の類似性を強調することは妥当ではないでしょう。

 こうした「分割父性」という考え方の採用は、集団全体で父親としての感情を共有することだ、と主張されています(P159〜162)。しかし、尾上正人氏の指摘にあるように、伝統社会において、DVや殺人の原因の大半が不貞(に対する男の嫉妬感情)に由来することをどう説明するのか、という重要な疑問が残ります。また、中国南西部のモソ族社会では、父性の確認が重要とは思われていないので、男性が自分の姉妹の子を自分の子として育てている、と本書は主張します(P186〜194)。しかしこれについては、包括適応の理解が根本的に欠落しており、父性が重要と思われていないのではなく重要だからこそ、姉妹の子のみ信用するのだ、との尾上氏の指摘が妥当でしょう。

 そもそも、『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P180〜185)、ゴリラはある程度、交尾と妊娠との関係を理解している可能性が低くありません。雄ゴリラにとって父性の確認は重要で、それをある一定以上の精度で判断して子殺しをするか否か決めている、というわけです。現代人系統も、農耕社会への移行にともなう価値観・世界観の変動により父性に拘るようになったというよりも、ずっと父性の確認に拘り続けた、と想定する方が節約的であるように思います。本書は、現代の狩猟採集社会では父性の確認を軽視もしくは無視するかのような認識が見られる、と強調しますが、それは、現生人類(系統だけではないかもしれませんが)の高度な象徴的思考能力と、入れ子構造を持つシナリオを心のなかで生み出す際限のない能力(関連記事)と、高い好奇心の産物と解釈するのが妥当なように思います。

 インドネシアの西スマトラ州のミナンカバウ族社会は母権制的だ、と本書は主張します(P195〜199)。だからといって、それは更新世の人類社会が父権制もしくは父系性的だったことを否定する根拠にはならないと思います。けっきょくのところ、こうした多様な現代人社会が証明するのは、現生人類はきわめて柔軟に社会を構築する、ということだと思います。さらに言えば、霊長類にもそうした柔軟性が見られますし、現代人も含まれる類人猿系統はより柔軟なのだと思います。

 また本書は、農耕開始以降に女性の社会的地位が低下したと主張しますが、そうだとしても、それが農耕開始前の母権制の存在を証明するものではない、と思います。本書は、農耕開始以降、女性の生存能力は根本的変化を被り、狩猟採集時代とは異なり、生存に不可欠な資源と保護を入手するために、自身の生殖能力を引き換えになければならなくなった、と主張します(P18〜22)。しかし、ホモ・エレクトス以降に出産がさらに困難になっていったことを考えると、ホモ属では遅くとも180万年前頃には、女性が「生殖能力と引き換え」に生存に不可欠な資源と保護(夫に限らず、夫の親族もしばしば参加したことでしょう)を入手するようになっていたのが一般的だった、と考えるのが妥当だと思います。


●先史時代の現代人系統の社会

 先史時代の人間は、孤独で、貧しく、意地が悪く、残忍で、短命だった、という誤った考え方はいまだに普遍的に受容されている、と本書は指摘します(P226)。しかし、他はともかく、「孤独」だったというような主張が主流なのか、きわめて疑わしいと思います。通説の側の先史時代の主流的認識は、家族を基礎単位としつつ、ある程度の規模の共同体(というかバンド)を形成して生活していた、というものだと思います。通説の側で「孤独」が主張されるとしたら、人口密度の低さに起因する、他集団との接触機会の少なさという意味合いだと思います。

 現代人の祖先は、農耕開始前には広範な慢性的食糧難を経験しなかった、と本書は主張します(P267〜268)。しかし、現代人系統はアフリカで進化した可能性が高く、そのように断定できるだけの遺骸がそろっているとは思えません。一方、現代人の遺伝子プールにはほとんど寄与していないでしょうが、ヨーロッパのイベリア半島のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)に関しては、飢餓は日常的だった、と指摘されています(関連記事)。また、フランス南東部のネアンデルタール人に関しても、飢餓が珍しくなかった、と示唆されています(関連記事)。

 もちろん、これらはおそらく現代人系統とはほとんど無関係のネアンデルタール人系統で、場所もアフリカとヨーロッパとでは異なります。しかし、更新世の現生人類社会が本書で強調されるほど豊かだったのか、疑問は残ります。おそらく、遊動的な狩猟採集社会では授乳期間が長く、その分出産間隔が長いことと、本書でも指摘されているように、体脂肪率の低さから繁殖可能年齢が現代よりも高かったために人口密度が低いままだったので、定住的で人口増加率の高い農耕社会よりも、個体の健康度は高い傾向にあった、ということなのでしょう。

 しかし、だから平和的だったのかというと、疑問の残るところです。人口密度が低く、人類も他の類人猿系統と同様に女性が出生集団から離れていくような社会だったとすると、繁殖相手をめぐる闘争はかなり厳しかった可能性もあります。じっさい、更新世の人類社会において、女性が出生集団を離れていく傾向にあったことを示唆する証拠はありますが、母系的だったことを示唆する証拠は現時点ではないと思います(関連記事)。確かに、前近代農耕社会と比較すると、更新世の狩猟採集社会の方が個体の健康度は高かったかもしれません。しかし、本書はそれを過大評価しているのではないか、との疑念は拭えません。また本書ではたびたび、人類は絶滅しかけたと主張され、その一例として74000年前頃のトバ噴火が挙げられます。しかし、トバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)には複数の研究で疑問が呈されています(関連記事)。もっとも、原書刊行後の研究も多いので、仕方のないところもあるとは思いますが。

 本書は現代人系統の狩猟採集社会において厳格な平等主義が貫かれている、と強調します。それが、全構成員に繁殖機会を与える乱婚社会ともつながっている、というのが本書の見通しです。しかし、そもそも、なぜ狩猟採集社会で厳格な平等主義が貫かれているかというと、人類にはそれに反する生得的性質があるからでしょう。他の動物とも共通するところが多分にありますが、人類には公平さへの要求と自己利益増大への要求や優位・劣位関係の把握に囚われていること(関連記事)など、相反する生得的性質が備わっています。一方の性質により他方の性質を抑圧するのが狩猟採集社会の厳格な平等主義の本質で、それは殺害も含む懲罰を伴うものだと思います。本書が指摘する、繁殖の共有が現代人系統における過去の一定期間の「本性」だとする見解は、少なくとも半面は間違っているように思います。

 平等主義とも密接に関連しているだろう利他的傾向は、身内贔屓よりも脆弱なので、身内贔屓を抑え込むための厳格な平等主義が集団の構成員に与えた抑圧・ストレスは、小さくないと思います。狩猟採集社会から農耕社会への移行に関しても、そうした観点からの評価も必要でしょう。父性への拘りとも密接に関連するだろう身内贔屓が、農耕開始以降の世界観・価値観の大きな変化に伴い出現したと想定するよりは、他の霊長類の事例からも、身内贔屓は人類史を貫く本性の一側面だった、と考える方がはるかに説得的だと思います。

 かりに本書が主張するように、農耕開始前の現代人系統社会がそれ以降より平和的だったとしても(かなり疑わしい、と私は考えていますが)、それは集団規模の小ささのために厳格な平等主義という統制が有効だったからで、潜在的には農耕開始以降の社会と変わらない残酷さを抱えていただろう、と私は考えています。食や性において一定以上平等が保たれるような平穏な状況ならともかく、飢餓などの緊急時には厳格な平等主義が崩壊し、むき出しの暴力的状況が出現した可能性は高かったように思います。そうした緊急事態は、完新世よりも気候が不安定だった更新世には、さほど珍しくなかったのではないか、と私は推測しています。


●現代人系統の配偶システム

 人類の祖先の配偶システムとして古くから一夫一妻があり、一夫多妻から一夫一妻へと移行したという通説は、人類の祖先に複雄複雌という配偶システムが存在しなかったことを前提としている、と本書は指摘します(P327〜328)。そこから本書は、雄間競争の緩和には一夫一妻だけではなく複雄複雌も有効で、現代人の最近縁系統であるチンパンジーおよびボノボの事例が参考になる、と主張します。つまり、人類の祖先が乱交的だった、との本書の主張につながるわけですが、これも、多分に二分法の罠的な詐術であるように思います。

 「プレ・ヒューマンへの想像力は何をもたらすか」(関連記事)で指摘されているように、マウンテンゴリラでは、血縁関係(親子や兄弟)にある複数の雄が交尾相手を重複させずに共存しています。霊長類は繁殖様式も含めて社会構造を柔軟に変えていく系統であり、現生類人猿系統が基本的に父系もしくは非母系であることを考えると、人類系統は、マウンテンゴリラのように複数の雄が複数の雌と共存して交尾相手を重複させない父系的な社会から、そうした家族的要素を解体せずにより大規模な共同体を形成していった、と考える方が、ずっと説得的だと思います。

 第16章は、現代人の男性器サイズや精子の特徴から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と論じます。確かに、この点で現代人はゴリラよりチンパンジーおよびボノボの方に近いと言えるかもしれません。しかしこれも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。『家族進化論』(関連記事)が指摘するように(P143〜144)、人類が精子競争を高めるような繁殖戦略を採用したのは、チンパンジーおよびボノボほどには乱交的な社会を経験せずとも、社会・文化により、ペアの永続的な結合を強めるような方向にも、乱交を許容して精子競争を高めるような方向への変異幅を持っていたから、とも考えられます。この柔軟性こそ現代人系統の重要な特徴で、故に家族を解体せずにそれらを統合してより大規模な社会を形成できたのでしょう。また、その柔軟性が、母権制的とも言えるような社会も含めて多様な社会を生み出したのだと思います。

 第17章では男性器の形状から、現代人系統が乱婚的社会を経験した、と主張されていますが、これも、現代人系統が乱婚的社会を経験したと仮定すると矛盾しないとは言えても、乱婚的社会説を証明するものではない、と思います。現代人の大きな男性器は、乱婚的社会を経験したからではなく、単に一夫一妻的社会の配偶者選択で重要だったから、とも解釈できます。第19章で主張される、女性のオルガスムと乱婚的社会の経験とを結びつける見解や、男性はセクシュアリティに新規性を求める、と主張する第21章の見解も同様に、乱婚的社会説を証明するものではないでしょう。本書が指摘する、現代人における乱婚的社会を経験した痕跡は、基本的に一夫一妻仮説でも説明のつくことだと思います。さらに言えば、本書が主張する乱婚的社会を経験した痕跡のいくつかは、とくに選択圧を受けたわけではなく、遺伝的浮動だったか、関連する遺伝子が別の表現型にも関わっており、その表現型で選択圧を受けた結果である可能性も考えられます。

 配偶システムと関連して子育てについて通説は、人類社会において古くより、一人の女性が一人の男性に頼って子育てしてきたと想定している、と本書は主張します(P458)。しかし、人類学の教科書(関連記事)でも指摘されているように、人類の子育てには両親だけではなく親族も関わっている、との見解は一般的であるように思います。まあ、私は学説史をしっかりと把握できているわけではないので、的外れなことを言っているかもしれませんが。上述してきたように、こうした本書の戯画化は珍しくありません。進化心理学などの学問領域では、「愛」と「性欲」が交換可能な用語だと考えられている、と本書は批判します(P167〜169)。この批判もまた、戯画化されているのではないか、との疑念を拭えません。ただ、本書において、結婚という用語の多義性・曖昧さや、研究者も社会の規範に影響を受けることが強調されているのは(P167〜182)、基本的には意義があると思います。

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