人類の分布範囲の変遷

 中新世前期に大繁栄した類人猿(ヒト上科)は、中新世中期以降の森林縮小により衰退していきます。そうしたなかで、ヒト・チンパンジー・ゴリラの共通祖先は地上での活動を増やし適応していくことで生き延び、地上では樹上よりも発酵の進んでいる果物を見つける可能性が高いので、エタノール代謝能力を高めるような変異が生存に有利に働き、集団に定着していったのではないか、との見解も提示されています(関連記事)。中新世中期以降に衰退していった類人猿の中で、人類系統は例外的に繁栄し、とくに現生人類(Homo sapiens)は、生息域と個体数の観点では大繁栄したと言えるでしょう。

 人類の分布は、初期には起源地のアフリカに留まっていました。長い間、人類の出アフリカは異論の余地のほぼないホモ属によって初めて達成された、と考えられていました。この異論の余地のほぼないホモ属とはエレクトス(Homo erectus)ですが、アフリカの最初期の異論の余地のほぼないホモ属を、エルガスター(Homo ergaster)と区分する見解もあります。ここでは、エルガスターという種区分を採用せず、エレクトスで統一します。つまり、ホモ属的特徴とアウストラロピテクス属的特徴が混在している、ハビリス(Homo habilis)のようなホモ属に分類すべきか議論のある分類群(関連記事)はアフリカに留まった可能性が高い、というわけです。

 この仮説は、まずジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された人類集団(関連記事)により揺らいでいきます。このドマニシ集団にはホモ属とアウストラロピテクス属の特徴が混在しており、エレクトスでもハビリスでもないホモ属の新種ジョルジクス(Homo georgicus)と分類する見解もあります。異論の余地のほぼないホモ属にも出アフリカは可能だったのではないか、というわけです。さらに、中国北部において212万年前頃の石器が発見されたことで(関連記事)、祖先的(アウストラロピテクス属的)特徴を有するホモ属が220万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散し、ユーラシア東部まで到達していた可能性も想定できるようになりました。ただ、この中国北部の212万年前頃の人類集団がどの系統なのか、人類遺骸は共伴していないため不明で、あるいはエレクトスの起源が220万年前頃までさかのぼり、エレクトスがユーラシア東部まで拡散した可能性もあるとは思います。

 ともかく、212万年前頃までに人類集団がユーラシア東部まで拡散していた可能性は高そうです。200万年前頃前後にユーラシアに拡散した集団がその後も拡散先で継続したのか、あるいは絶滅してアフリカから新たにホモ属が拡散してきたのかは不明ですが、ともかく、現生人類の拡散以前にも、人類はアフリカだけではなくユーラシアに広く分布していました。しかし、この分布範囲には現生人類と比較して限界があった、と長く考えられてきました。それは、北極圏やアメリカ大陸やオセアニアです。これらは、極限環境への拡散や渡海を必要とします。砂漠・熱帯雨林・高地・北極圏といった極限環境への拡散や渡海は現生人類にのみ可能で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)にしてもエレクトスにしても、ホモ属が進化してきたアフリカの森林と草原の混在した環境と類似した地域に拡散した、というわけです(関連記事)。

 しかし、こうした見解は大きく揺らぎつつあります。まず、現生人類ではないホモ属による渡海例としては、インドネシア領フローレス島(関連記事)とルソン島(関連記事)で知られています。現生人類ではないホモ属遺骸は、フローレス島では70万年前頃、ルソン島では67000~50000年以上前のものが、人類の痕跡は、フローレス島では100万年以上前、ルソン島では70万年以上前のものが確認されています。ただ、渡海が航海を意味するとは限らず、津波や暴風雨などによる漂着も想定されます。ネアンデルタール人に関しては、地中海航海の可能性が指摘されています(関連記事)。極限環境にしても、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がチベット高原東部で確認されました(関連記事)。現生人類ではないホモ属が極限環境の少なくとも一部に拡散していた可能性は高い、というわけです。

 ただ、アメリカ大陸とオセアニアに関しては、現生人類ではないホモ属が拡散した確実な証拠は得られていません。オセアニアへの拡散にはかなりの距離の渡海が必要となり、アメリカ大陸への拡散にも、渡海もしくは寒冷期における寒冷地への拡散が必要となります。そのため、アメリカ大陸とオセアニアに拡散したのは現生人類のみである可能性が高そうです。ただ、アメリカ大陸に関しては13万年前頃の人類の痕跡が主張されています(関連記事)。この見解が正しいとすると、現生人類である可能性も否定できないものの、現生人類ではないホモ属の可能性が高そうです。とはいえ、あまりにも異例の発見だけに、さすがにこの見解への賛同は少ないようで、今後この見解が正しいと認められる可能性はかなり低そうです(関連記事)。

 オセアニアに関しては、オーストラリア大陸における12万年前頃の人類の痕跡が主張されており、遺伝学からはデニソワ人が3万年前頃までニューギニア島(もしくは、更新世寒冷期にオーストラリアと陸続きになっていたサフルランド)に存在していた、との見解が提示されていることは、注目されます(関連記事)。現生人類が10万年以上前にオーストラリア大陸というかサフルランドまで拡散した可能性も考えられないわけではありませんが、デニソワ人がサフルランドにまで拡散した可能性もある、というわけです。ただ、オーストラリア大陸の12万年前頃の人類の痕跡という主張はまだ広く認められているわけではありませんし、サフルランドにおけるデニソワ人の痕跡も確認されていません。けっきょく、アメリカ大陸にもオセアニアにも、現生人類ではないホモ属が拡散した可能性はかなり低いのではないか、と思います。極限環境のなかでは、北極圏や砂漠や熱帯雨林に現生人類ではないホモ属が拡散した可能性も低いと思います。もっとも、今後どのような発見があるのか予想は難しく、私もさほど自信はありませんが。

ウェブリブログの大規模メンテナンス延期

 来月(2019年6月)4日、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルがある、と予告されていたのですが(関連記事)、来月下旬に延期になったそうです(関連記事)。過疎ブログではありますが、備忘録として私にとって今では不可欠なものとなったので、トラックバック機能の廃止はひじょうに困るものの、ブログの衰退が言われて久しい中、ブログサービスが廃止とならないだけでもありがたい、と言うべきでしょうか。ウェブリブログからの引っ越しもそろそろ考えるべきかもしれませんが、引っ越し先のブログサービスがいつまで続くのか、という問題もあるので、ウェブリブログがサービスを続ける限りは留まるつもりです。

 他人と手軽につながりやすいという点で、ブログはTwitterやFacebookやInstagramなどに大きく劣っているでしょうから、そこがブログ衰退の最大の理由かな、と思います。私のように、自己満足の備忘録として有用だから、という理由でブログを続ける人は少ないのでしょう。13年前にブログを始めた頃、反応がないので止めます、と言ったブログをいくつか見かけました。そうした理由でブログからより反応の得やすいネットサービスに移行した人は多いのでしょう。私のように、過疎ブログでも13年近くほぼ毎日更新し続ける人間は、世間の多数派からは異常に見えるのかもしれませんが、自分がひじょうに偏屈な人間だという自覚はあるので、まあそんなものかな、とは思います。

ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』57話~60話

57話「蒸発」8
 家族を捨てて蒸発した男性が殺人事件の目撃者となり、狙われる話です。男性の妻は感じの良い人で、子供までいるのに蒸発した男性に、若いジーパンは疑問と不信感を抱きます。そんなジーパンに、自分も蒸発したいと思った時がある、と山さんは打ち明けます。複雑な生い立ちの山さんは、一歩間違えれば自分が犯罪者になっていた可能性も率直に認めているように(90話)、自分の弱さをはっきりと自覚しています。しかし、そうした自分の弱さを曝け出せるというのは、それだけ自信があることも意味しており、自分が刑事を続けて道を踏み外さずにいることに自負を抱いているのでしょう。ジーパンにとっては、山さんもそうですが、ボスや長さんも刑事としてだけではなく人生の師でもあるように思います。これは、この時期にはまだ若手としての性格を残していたゴリさんや殿下との大きな違いだと思います。

 初期と後期の違いと言えば、初期の山さんの口の悪さがありますが、今回はボスに対してもぞんざいな感じの話し方で、まだ後期とは大きく異なるな、と思います。また、ボスが久美ちゃんに、捜査に関する話に口を挟みすぎる、と注意したことも注目されます。久美ちゃんは後の事務員とは異なり、捜査への興味を隠さず、積極的に話しかけていくところがあります。私は、歴代事務員で最もキャラが立っていたのは久美ちゃんだと思いますし、お気に入りなのですが、一部視聴者にはこうしたキャラが不評で、そのために後の事務員は控えめになったのかもしれません。まあ、久美ちゃんの次の事務員のチャコもなかなか積極的でしたから、久美ちゃんとチャコのキャラへの一部視聴者への反感?に配慮して、アッコとナーコのキャラは控えめになったのかもしれません。

 すでに55話で予告されていましたが(関連記事)、今回から七曲署は西山署長体制となります。赴任回からジーパンが大暴れしてボスが説教されるなど、後の一係と西山署長の関係性はすでに定まっていたかのような感があります。この後10年近く七曲署は西山署長体制が続くわけで、本作では他の署長の存在感が薄くなってしまうくらい、強く視聴者の印象に残ったのではないか、と思います。嫌味で俗っぽく、責任を回避し、ボスに責任を押しつける傾向があるなど、悪役的なところのあった西山署長ですが、それでも可能な範囲で一係を庇おうとしたところもあり、かなりキャラが立っていたと思いますし、息子が登場した主演回に近い話もありました。今後は、西山署長と一係とのやり取りも楽しみの一つとなります。


58話「夜明けの青春」9
 若者の挫折・不満・怒り・焦燥・軽率さを描いた話で、青春ドラマ的性格が強くなっており、本作初期は後期よりも青春ドラマ的性格が強かったと思います。ただ、主演はジーパンではなく山さんで、若者の暴走を大人が寄り添って理解し説得するという、本作の定番の一つになっています。冒頭で山さんが犯人の若い男性の説得に失敗し、自殺させてしまうのですが、山さんにしては珍しいくらいの大失敗だと思います。後年の山さんにはこうした大失敗が見られないだけに、この時点ではまだ、最初期の試行錯誤的なところが多分に残っている、と言えるかもしれません。この失敗を踏まえての、山さんの若い男女2人への説得は見ごたえがありました。ゴリさんの情報屋として登場するトクさんは、マカロニ殉職回(関連記事)に登場したゴリさんの情報屋と同一人物だと思います。この後の登場がなかったのは残念ですが、演者の上田忠好氏はこの後も何度か出演しており、好きな俳優だけに、出演回を楽しみにしています。冒頭の山さんの失敗でボスが署長に呼び出された時、ボスが山さんを気遣って、署長に説教された話はせず、子供の自慢話をされた、と語っていましたが、後に署長の子供が登場したこともありましたから、伏線にもなっています。


59話「生命の代償」8
 会社の不正の責任を押し付けられ、家族への援助と引き換えに自殺を強要された男性の決断が描かれます。家族を盾に取られ、巨大な組織から圧力をかけられた一個人が家族を幸せにすべくどう対応するのか、という点で普遍的な話になっています。こうした普遍性もまた、本作を今でも楽しめる一因になっています。この男性が自殺しそうだったのを見た長さんは、男性をずっと追いかけ続けます。不正容疑で警視庁から取り調べを受けた男性はジーパンに一喝されて会社との対峙を決意し、会社側に命を狙われて危ういところを長さんとジーパンが救います。長さん主演作ですが、長さんと組んだジーパンとのダブル主演といった感じで、2人以外のレギュラーはほとんど登場しません。長さんとジーパンの世代差、父親視点の長さんと息子視点のジーパンとが対照的に描かれ、なかなか上手く構成されていると思います。この点でも普遍的な話になっており、なかなか楽しめました。


60話「新宿に朝は来るけれど」6
 ジーパンと容疑者の若い女性との関係が主題となります。ジーパンが主演ということもありますし、女性だけではなくジーパンも含めて若者たちの悩みが描かれ、58話よりも青春ドラマ的性格が強くなっています。男性を殺した若い女性の意図が不明で、同じく若いジーパンが接触を続けていく中で女性の心理に近づいてくという構造は、王道的で安定感があります。若い女性を演じたのは桃井かおり氏で、このような意図を読みにくい不思議系の役によく合っていると思います。謎解き要素の点でもまずまず楽しめました。世の中に絶望し、未来を悲観したという事件の根本的動機には普遍的なところがあり、こうした普遍性も本作の魅力の一つになっていると思います。若手刑事の悲恋ものとしての性格もあり、これは本作の定番の一つです。今回、シンコが久々に登場しましたが、ジーパン編ではシンコの出演率が低いため、貴重だとさえ感じてしまいます。まあ、今回はあまり出番がありませんでしたが。

原勝郎の古代~中世日本史認識

 以前、原勝郎『日本中世史』を取り上げましたが(関連記事)、その古代~中世日本史認識は、その後の日本人の歴史認識に大きな影響を及ぼしたように思います。原の古代~中世日本史認識をまとめると、以下のようになります。

 古代日本は中華文明を輸入し、律令国家体制と、一見すると華麗な文化を築きましたが、中華文明の影響は皮相・局所的で、社会全体の健全な発達には有害でした。都の貴族層は腐敗・堕落して実務能力を喪失し、その文化も堕落して見るべきものは少なかったのが実情でした。こうした不健全な古代社会を一新した鎌倉幕府の基盤は、他地域と比較して中華文明の影響が小さく、粗野でありながら健全さを保持していた東国社会にありました。このような日本史の流れは、ローマ帝国の腐敗・崩壊と野蛮視されていたゲルマンなどの粗野な民族との勃興という、西洋史の古代から中世への展開に擬えられます。

 これは近代黎明期の日本の「脱亜入欧」精神を強く反映した歴史認識と言えそうですが、こうした歴史認識は現代日本社会においても根強いのではないか、と思います。もちろん現在では、原の歴史認識がそのまま通用するわけではありません。ただ、縄文時代から一貫した「日本」の存在を措定して賛美し続けるような近年の「愛国的」見解と比較すると、ずっとまともかな、とは思います。原の『源氏物語』への評価はかなり厳しいのですが、「世界最古の長編小説」とか「1000年も前の女性の文学作品が残っている」とか言って日本賛美ネタとして消費するだけの言説と比較すると、はるかに奥深いとは思います。

第3世代Ryzen発表

 第2世代Ryzen(Zen+アーキテクチャ)の発表(関連記事)から約1年1ヶ月経過し、ついに第3世代Ryzen(Zen2アーキテクチャ)が発表されました。現在使用しているデスクトップパソコンが購入からすでに7年半以上経過しており(関連記事)、最近ではやや不安定ですし、ワードやブラウザなどで処理速度にもやや不満があるので、第3世代Ryzen搭載のデスクトップパソコンが発売されたら、買い替えようと考えていました。Intel製CPUは、最近ではセキュリティ問題が頻繁に報告されており、パッチを適用すると性能が低下することもあり(私の環境でも、ディスクアクセス速度が低下しました)、次はAMD製CPU搭載製品と決めていました。

 それだけに、Zen2アーキテクチャには大いに期待していたのですが、第2世代と同じく第3世代もRyzen 7は8コアのままで、価格は3700Xが329ドルですから、もっと「攻撃的な」価格を期待していただけに、やや残念です。逆に、AMDはそれだけ第3世代Ryzenの性能に自信を持っている、ということでしょうか。3700Xの周波数は3.6~4.4GHz駆動とのことですから、2700Xとほぼ同じです。しかし、TDPは2700Xが105Wにたいして、3700Xは65Wですから、消費電力あたりの性能はかなり向上しているようです。周波数当たりの命令実効性能(IPC)は15%改善されたとのことですし、3700X は36MBキャッシュと2700Xより2倍以上増えていますから、2700Xと周波数はほぼ同じとはいえ、3700Xの性能は確実に向上しているのでしょう。

 第3世代では新たにRyzen 9というモデルも設定され(3900X)、12コアながら周波数は3.8~4.6GHz駆動で、70MBキャッシュもさることながら、TDPが105Wであることは大いに注目されます。第3世代Ryzenは第2世代よりもかなり省電力になっているようです。価格は、3700Xより周波数の高い(3.9~4.5GHz駆動)3800Xが399ドル(TDPは105W)、3900Xが499ドルです。購入するなら、3700Xと3900Xのどちらかと考えていますが(CPUを直接購入するわけではありませんが)、再来月(2019年7月)7日の発売日に公開されるだろう性能を見てから最終的に判断する予定です。AMDの新GPUも発表されていますが、こちらも性能を見て購入するか否か、判断します。

双系的な現生人類社会

 最近、神武天皇のY染色体を強調する言説について、皇位継承と絡めて述べましたが(関連記事)、人類社会の構造について、少し補足しておきます。古代日本社会を双系的と解釈する見解は現在では有力とされているでしょうが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来し、それが人類社会を重層的に組織化したのだと思います(関連記事)。前回の記事ではそこから人類社会が母系的なのか父系的なのか、と単純化してしまったところがありますが、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続けるのが現生人類の普遍性ならば、そもそも現生人類社会は基本的に双系的とも言えます。

 とはいっても、じっさいには、現代人の社会は父系的性格の強いものから母系的性格の強いものまで存在し、それは現生人類の高い認知能力に由来する柔軟な行動を反映しているのでしょう。父系的性格の強い事例としては、オスマン朝における君主の継承が挙げられます。母方の身分が問われずというか、むしろ低い方が好都合と考えられていたオスマン朝の君主継承は、父系継承に純化したものとさえ言えそうです(関連記事)。これは、君主の母親の身分が高いと、外戚として権力を振るう可能性がある、と懸念されていたためでもあるようです。これも、現生人類社会に普遍的な双系的特徴を前提とした対応策と言えるでしょう。外戚が存在しないようにしたこと、有力な後継者となり得る兄弟の排除、高官といえども君主の命で殺される場合が多く、奴隷を取り立てて奴隷身分のまま高官とすることも多かった制度が、オスマン朝の長期の持続を可能としました。

 前回の記事では、古代(6世紀半ば以降を想定しています)日本の支配層は基本的に父系的で、母方も重視されたことを母系的と解釈することは間違いだ、と指摘したのですが、これは、父系にかなり偏った双系的社会と訂正すべきではないか、と考えを改めました。古代日本の支配層に限らず、父系的継承の社会は古代から世界で広く見られますが、これは、そもそも人類社会が他の現生大型類人猿(ヒト科)と同じく父系的な社会から始まったためではないか、と私は考えています(関連記事)。その意味で、双系的社会は母系的社会から父系的社会への移行期的性格と位置づけることはできず、現生人類社会の本質と考えるべきでしょう。

 また、「原始的な」母系社会から父系的社会へと「発展(進歩)」した、というような通俗的唯物史観は根本的に間違っており、現生人類の社会は状況に応じて柔軟に変わっていくものなので、通俗的唯物史観は薄弱な根拠で偏見を助長するという意味でも問題ではないか、と私は考えています。唯物史観はもはや影響力を失い、これをことさらに攻撃することに否定的な人も少なくないでしょうが、今でも(通俗的)唯物史観の影響は根強く、自覚せずに囚われてしまっている場合も多いのではないか、と思います。凡人の私もその例外ではないので、唯物史観の悪影響については意識し続けねばなりませんし、唯物史観の批判は今でも重要だと考えています。

アメリカ大陸の人類史をめぐる政治的対立

 学問も人間の営みである以上、その政治性が問題となることは避けられませんが、もちろん、分野によりその程度はかなり異なります。歴史学は政治的議論と関わりやすい分野でしょうが、古人類学も例外ではありません。とくにアメリカ大陸に関しては、激しい政治的議論が続けられてきました。論点の一つは「最初のアメリカ人」です。世界最大の経済・軍事規模を誇り、情報発信力の高いアメリカ合衆国が存在することもあり、アメリカ大陸への人類最初の移住に関しては、報道が多いように思います。これが問題となったのは、「最初のアメリカ人」はアメリカ大陸先住民集団と類似していないとの見解が提示され、ヨーロッパ起源との説さえ主張されたからでした。「最初のアメリカ人」を「ヨーロッパ人」とするのは、ヨーロッパ系勢力によるアメリカ大陸での侵略行為の責任を軽減する意図があるのではないか、との疑念が提示されており、アメリカ大陸の先住民の中には警戒感があるようです。

 ただ、「最初のアメリカ人」の起源地をヨーロッパとする見解にはしっかりとした根拠もありました。アメリカ大陸先住民集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)にはX2aが存在し、アジア東部にはユーラシア西部で見られるX2が基本的に存在しないからです。これは遺伝学的状況証拠ですが、形態学的にも、最初期のアメリカ大陸住民は後のアメリカ大陸先住民集団と類似していない、との見解が提示されていました。1996年7月にアメリカ合衆国ワシントン州で偶然発見された成人男性の「ケネウィック人(Kennewick Man)」に関しては、当初「白人」との形態学的類似性が指摘され、上述のようにヨーロッパ系によるアメリカ大陸での侵略行為の責任軽減を警戒している人々からの強烈な反発を招来しました。その後の形態学的研究では、ケネウィック人とアイヌやポリネシア人といった環太平洋集団との類似性が指摘されています。

 この問題の解明の重要な鍵となったのが、シベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された少年遺骸です(関連記事)。この少年は遺伝的にはユーラシア西部集団と近縁で、アメリカ大陸先住民集団とは近縁であるものの、アジア東部集団とは近縁ではない領域も確認されています。マリタ遺跡の少年は、現代ではその遺伝的構成が失われてしまった古代ユーラシア北部集団に分類され、ヨーロッパ東部狩猟採集民集団を通じて、ヨーロッパ系現代人にも遺伝的影響を及ぼしています。古代ユーラシア北部集団がアメリカ大陸先住民集団とヨーロッパ系集団の共通祖先になっており、両者の類似性は1万年以上前のヨーロッパからアメリカ大陸への移住の根拠にはならない、というわけです。

 ケネウィック人は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)はアメリカ大陸先住民集団に多いQ-M3、常染色体もアメリカ大陸先住民集団の変異内に収まり、mtHgはX2aですから、遺伝的にはアメリカ大陸先住民集団と言って間違いないでしょう(関連記事)。9200~8340年前頃のケネウィック人のmtHgはX2aで、mtHg-X2の分岐と分布からも、アメリカ大陸先住民集団のmtHg-X2aはヨーロッパ起源ではなく、シベリアを東進してきた古代ユーラシア北部集団に由来すると考えるのが妥当でしょう。ケネウィック人の属する集団が現代のアメリカ大陸先住民集団の祖先なのか、それとも現代人にはほとんど遺伝子を伝えていないのか、まだ解明されていないと思いますが、ケネウィック人は「白人」でもアイヌの祖先系統でもなく、アメリカ大陸先住民と区分すべきでしょう。

 アメリカ大陸の人類史をめぐる政治的議論のもう一方の論点は、先コロンブス期のアメリカ大陸における人為的開発の程度です。先コロンブス期アメリカ大陸には広大な「手つかず」の自然が広がっており、先住民は自然と「共生」していた、という見解は環境保護派がとくに好み、「政治的に正しい(ポリコレ)」ともされています。そのため、先コロンブス期にアメリカ大陸は大規模に開発されており、初期のアメリカ大陸住民が大型動物の大量絶滅をもたらした、という見解(関連記事)は開発派を利することになりかねないとして、環境保護派は概して批判的です(関連記事)。また、アメリカ大陸の初期人類が大型動物の大量絶滅に関わっていたという見解は、ヨーロッパ系勢力のアメリカ大陸での侵略行為を相対化するものではないか、との疑念もあるでしょう。しかし、自然と「共生」していたという先住民像は、先住民は素朴で単純な社会生活を送っていたことを前提としているという意味で、先住民の主体性を無視した軽蔑だと思います。環境保護のような良心的見解が本当に先住民に敬意を払ったものなのか、慎重に検証することも必要でしょう。

大相撲夏場所千秋楽

 今場所は白鵬関が初日から休場となったものの、新大関の貴景勝関など若手の台頭もあり、場所前の盛り上がりはなかなかのものだったと思います。しかし、その貴景勝関は4日目の取り組みで負傷して5日目~7日目まで休場し、8日目に出場したものの負けて、9日目から再休場となりました。8日目の再出場に批判的だった人は、私も含めて多かったでしょうが、ともかく今は、治療に専念してもらいたいものです。貴景勝関以外の横綱・大関陣で最も若いのは29歳の高安関だけに、22歳の貴景勝関への期待は大きいのですが、最近数場所を見ていると、研究されてきた感があり、押し相撲だけで横綱に昇進するのは難しいようにも思います。とはいえ、他の若手もまだ力不足ですから、貴景勝関への期待が大きくなるのも当然ではありますが。

 大関復帰のかかった栃ノ心関は10目まで9勝1敗と好調だったものの、そこから平幕相手に3連敗してしまいました。明らかに硬くなっている様子で、ある程度は仕方のないこととはいえ、優勝も狙える位置にいただけに、何とも惜しいと思います。もっとも、10日目から膝の状態が悪かったことも大きいようですが。栃ノ心関は14日目に鶴竜関に勝ち、大関復帰を決めました。立ち合いで変化しての勝利で、お世辞にも褒められるような内容ではないのですが、精神的に追い詰められていただけに、仕方のないところでしょうか。まあ、私は新入幕の頃からずっと栃ノ心関を応援し続けてきたので、つい甘い見方になってしまいますが。栃ノ心関は千秋楽に高安関と対戦して負け、10勝5敗となりました。ともかく、栃ノ心関が大関に復帰できたのはたいへん嬉しく、状態も回復したようですし、来場所は重圧からも解放されるでしょうから、また優勝争いに絡んでもらいたいものです。

 優勝争いは、一時は鶴竜関と栃ノ心関の一騎討ちになりそうでしたが、両者ともに終盤に崩れ、13日目が終わった時点で西前頭8枚目の朝乃山関が2敗で単独首位に立つという、予想外の展開となりました。14日目に朝乃山関は豪栄道関に勝ち、上述のように栃ノ心関が鶴竜関に勝ったため、朝乃山関が千秋楽を待たずに初優勝を決めました。朝乃山関は千秋楽に御嶽海関と対戦して圧倒され、12勝3敗で今場所を終えました。この結果を今場所前に予想していた人は皆無に近いと思うのですが、14日目の豪栄道関との一番を見ると、かなり力をつけてきたようにも思います。ただ、千秋楽の一番を見ると、大関昇進も狙えるか否かは、(出場する)横綱・大関陣全員と対戦することになるだろう来場所の内容を見ないと、判断の難しいところです。

 鶴竜関は終盤まで優勝争いに絡みましたが、14日目に朝乃山関に優勝を決められ、千秋楽結びの一番で豪栄道関に勝ち、11勝4敗で今場所を終えました。鶴竜関は満身創痍といった感じで、白鵬関が休場しただけに、今場所は優勝しておきたかったところです。当ブログでは、鶴竜関は横綱に相応しくないと言い続けてきましたが、横綱昇進から5年以上経過し、横綱として4回優勝しているのですから、水準の横綱と考えるべきかな、とは思います。稀勢の里関の大怪我とその後の不調による引退や、不祥事による日馬富士関の引退や、白鵬関の衰えといった他の横綱の引退・不調もありますが、伸び悩んでいる若手が多い中、これだけ長く横綱を務めていることに、相撲愛好者の一人として感謝しています。できれば、親方の条件として日本国籍保有者であることを撤廃し、鶴竜関には白鵬関とともに相撲協会に指導者として残ってもらいたいものです。豪栄道関と高安関はともに9勝6敗で、ともにしばらくは大関の地位を維持できそうですが、横綱昇進は無理でしょう。

 逸ノ城関は先場所14勝1敗でしたが、内容が悪かったので懸念していたところ、今場所は8日目~11日目まで休場し、12日目から復帰したものの、5勝に終わりました。今場所も内容はたいへん悪く、時々力強さを見せるだけだったので、このまま時々三役に復帰するだけで終わりそうだと思うと、残念です。本当は、今頃逸ノ城関や照ノ富士関が横綱として君臨していなければならなかったのですが。来場所大関に復帰する栃ノ心関を含めて、横綱・大関陣は貴景勝関を除くと高安関の29歳が最年少ですから、白鵬関・鶴竜関の2横綱に全盛期の力はもうないことを考えると、若手の伸び悩みは深刻だと思います。まあ、少子高齢化が進んでいますから、モンゴルやヨーロッパから有望な若手を入門させたとしても、全体の水準が低下していくのは仕方のないところでしょうか。

mtDNAの選択における核DNAの影響

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の選択における核DNAの影響に関する研究(Wei et al., 2019)が報道されました。例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的には母系継承で、ヒトも例外ではありません。細胞によっては数千個存在するミトコンドリアのDNAは基本的にはほぼ同一なのですが(同質性、homoplasmy)、変異型の共存も見られ、異質性(heteroplasmy)として知られています。この異質性はミトコンドリア病と関連している場合があります。

 本論文は、おもにイギリスの国立衛生研究所の膨大な遺伝データを利用し、異質性mtDNAがどのように母親から子供へと継承されたのか、1526組の母子を含む12975人の全ゲノム配列を分析し、その結果を他の40325人でも検証しました。1526組の母子のうち45.1%で、mtDNAの1%以上に影響を及ぼす異質性が確認されました。女性の生殖細胞発生中に、細胞あたりのmtDNA量は減少します。これはおもに遺伝的浮動により制御されており、子の世代での異質性の水準の相違をもたらしますが、ヒト以外の一部の動物において、この過程でmtDNAの多様体にたいして何らかの選択圧が生じているのではないか、と推測されています。本論文は、ヒトでも同様の選択圧が生じているのか、また核DNAが影響しているのか、検証しました。

 この異質性多様体は、タンパク質をコードしていない領域の場合は継承される可能性が高く、逆にタンパク質をコードしている領域の場合は継承される可能性が低い、と明らかになりました。mtDNAの遺伝においては、単純な遺伝的浮動だけではなく、何らかの選択を受けており、継承されやすい多様体とそうではない多様体がありそうだ、というわけです。また、以前に世界中で観察されていたmtDNAの多様体は、新たな多様体よりも継承される可能性が高い、ということも明らかになっています。

 核DNAとの関連で注目されるのは、多くのヒトでは、核DNAとmtDNAの遺伝的多様体の地理的起源は同じであるものの、少数ながら両者が一致しない個体も存在することです。たとえば、核DNAがヨーロッパ人由来の一方で、mtDNAはアジア人由来といった事例です。これは、母系のある時点で異なる地域集団の母親が存在したためです。本論文は、異なるmtDNA系統と核DNA系統を有する人々では、最近生じたmtDNA多様体は、同じmtDNA系統よりも同じ核DNA系統と合致している場合が多い、と推測しています。これは、mtDNAの異質性多様体の生殖細胞発生中の選択圧に核DNAが関与していることを示唆します。

 この知見が「実用的観点」で重要となるのは、ミトコンドリア病の治療です。ミバエやマウスでの研究では、mtDNAと核DNAの不適合が寿命や心血管系および代謝系の合併症に影響を与えた、と指摘されています。ミトコンドリア病の治療として、他者からミトコンドリアを提供してもらう方法が用いられていますが、そのさいにmtDNAと核DNAとの適合を調べる必要があるかもしれず、ミトコンドリアの交換は以前に考えられていたほど容易ではないだろう、というわけです。


参考文献:
Wei W. et al.(2019): Germline selection shapes human mitochondrial DNA diversity. Science, 364, 6442, eaau6520.
https://doi.org/10.1126/science.aau6520

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第20回「恋の片道切符」

 嘉納治五郎がクーベルタンに手紙を送ったことにより、1920年開催のアントワープ夏季オリンピック大会の種目にマラソンが採用されることになりました。金栗(池部)四三は他の選手とともに、アメリカ合衆国を経由しての太平洋から大西洋への航路でアントワープへと向かいます。アントワープで四三は三島弥彦と久々に再会します。1912年のストックホルム夏季オリンピック大会では四三と三島だけだった日本選手ですが、今回は15人が出場し、四三と三島は感慨深げでした。しかし、マラソンに出場した四三は金メダルを期待されながら、長年の無理による疲労蓄積もあって16位に終わりました。期待のマラソンで日本勢が惨敗したことで、日本での結果報告会は大荒れとなります。四三を罵倒する人々にたいして、妻のスヤは夫を擁護します。傷心の四三はすぐには帰国せず、ベルリンを訪問していたところ、槍投げの練習に励む女性たちと遭遇します。これが次回以降の展開とつながってきそうです。

 今回は世代交代が主題となっていた感もあり、これまでの積み重ねを経ての描写には感慨深いものがありました。古今亭志ん生(美濃部孝蔵)だけではなく帝大生時代の田畑政治も描かれ、今後の展開の布石として悪くはなかったと思います。また、本作の弱点とされる本筋との接続の悪さも、田畑に関しては解消されつつあるように思います。まあ、古今亭志ん生の方は相変わらず本筋との接続が悪く、本作の弱点が解消されたとは言えません。もっとも、こちらの方も、弟子の五りんと本筋との関係が示唆されているので、今後上手く接続されるのではないか、と今でも期待しています。

鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析補足

 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)Dの起源について最近述べましたが(関連記事)、鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析(関連記事)について言及するのを忘れていたので、補足します。青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では32人中31人が「渡来系」で、1人が「縄文系」と推定されています。一方、核DNA解析では、父系(YHg)の多数が「縄文系に近い」と分類されたそうです。おそらく、現代日本人のYHgにおいて30~40%と高い割合を占めているD1bなのでしょう。じっさい、「縄文人」においてYHg-D1bが確認されています。

 単純に考えれば、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の社会構造は父系的だったことになります。在来の縄文系集団に、弥生時代以降にユーラシア東部より渡来した人々が主体の集団から女性が「嫁入り」してくような構造があった、というわけです。しかし、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。ただ、予想される「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響から推測すると、現代日本人のYHg-D1bが「縄文人」由来である可能性はじゅうぶん考えられます(関連記事)。

 それはともかく、もし現代日本人のYHg-D1b1の多くが弥生時代以降の「渡来系」由来で、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の男性もYHg-D1b1だとしたら、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団は、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」ではなく、どちらでも「渡来系」が圧倒的に優勢だったと考えられます。もっとも、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団のYHgの詳細は報道では不明なので、「縄文系」と推測されるD1b2aなのかもしれませんが。より詳しい情報を得ないと判断の難しいところですが、現時点での報道からは、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団を、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」と単純化するのには慎重であるべきだと思います。

 日本に限らず、自集団の起源論に高い関心が寄せられている国・地域は多いでしょう。一般層の日本人起源論でとくに関心が高いのは、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響のように思います。これに関しては、「縄文人」と現代日本人との連続性を強調する見解と断絶を強調する見解とがネットでは「大きな声」になっているように思われ、迂闊なことを言うと直ちに罵倒・嘲笑を受ける、といった印象さえ私は抱いています。現時点では、日本も含めてユーラシア東部に関しては、とてもヨーロッパのような水準で人類集団の形成過程を論じられる状況ではないと思います。現代日本人の起源の解明には、日本列島だけではなくユーラシア東部の古代DNA研究の大きな進展が必要となるので、それまでは安易に断定してしまわないよう、私も気をつけておかねばなりません。

チンパンジーによるカメの捕食(追記有)

 チンパンジー(Pan troglodytes)によるカメの捕食に関する研究(Pika et al., 2019)が報道されました。長い間、道具の使用はヒトに特有と考えられていましたが、今では、ラッコ(Enhydra lutris)のような哺乳類だけではなく、カレドニアガラス(Corvus moneduloides)のような鳥類でも確認されています。他の非ヒト動物と比較して、チンパンジーはひじょうに多様な技術を用いることが確認されています。たとえば、一部のチンパンジーは道具を使用して根茎や球根を掘って食べます(関連記事)。また、チンパンジーが昆虫・鳥類・哺乳類・腹足類など多様な動物を食べることも確認されています。しかし、チンパンジーが習慣的に爬虫類を食べることは確認されていませんでした。チンパンジーが何らかの道具による打撃技術を用いて、カメを食べることもある、との見解も提示されていましたが、直接的証拠は得られていませんでした。

 本論文は、ガボンのロアンゴ国立公園(Loango National Park)のレカンボ(Rekambo)集団の中央部集団チンパンジー(Pan troglodytes troglodytes)によるモリセオレガメ(Kinixys erosa)の捕食行動を、2016年7月から2018年5月まで観察しました。この行動は繰り返されているため、習慣的と考えられます。チンパンジーによるモリセオレガメの捕食事象は、成体の雄7頭および雌1頭と青年期の雄1頭および雌1頭の計10頭で38回確認されており、そのうち34回で成功しています。この捕食で最も頻繁な行動順序は、まずチンパンジーがモリセオレガメを発見して捕獲し、木の幹のような固い表面(地面の場合もあります)でカメの腹甲を片手で打ち砕いた後に、木に登って肉を食べる、というものです。本論文は、チンパンジーが、ナッツ類と殻の硬い果実や、カタツムリのような食料の中身を取り出すための打ち壊し技術として、硬い表面に叩きつけるかハンマーを使うのかについて、この知見が新たな手掛かりをもたらした、と評価しています。

 この捕食事象では注目すべき内容が複数確認されました。まず、青年期の個体や成体雌はモリセオレガメを発見しても、自身で腹甲を叩き割って肉を食べることには失敗しています。これは、成体雄の強い筋力および長期の学習と実践が必要なためかもしれません。青年期の個体がモリセオレガメの腹甲を叩き割るのに失敗しても、他の成体雄に渡して、肉を食べることができました。これと関連して、捕食の現場に他の集団構成員がいる場合、モリセオレガメの肉は分け与えられました。そのさい、積極的な相互作用や服従を示す態度が見られないことから、本論文は平和的な獲物の共有と評価しています。

 モリセオレガメの捕食期間が限定的であることも注目されます。この捕食事象が確認されたのは、2016年7月、2017年5月~10月、2018年5月~6月の乾期のみでした。この理由として、本論文は複数の仮説を提示しています。まず、カメルーンとナイジェリアのモリセオレガメの活動が5月~10月の乾期に最も盛んとなり、11月~4月の雨期には休息することから、ガボンのモリセオレガメの活動パターンも同様だとすると、チンパンジーが乾期に動き回るモリセオレガメを見つけやすい、という仮説です。次に、乾期にはモリセオレガメが乾燥した落ち葉の間を移動するため、チンパンジーはその音により発見しやすい、という仮説です。また、チンパンジーにとって重要な食料資源の多様性と入手難易度は雨期と乾期で異なり、チンパンジーの活動範囲のパターンが雨期と乾期では異なる、という仮説です。どの仮説が妥当なのか、あるいは複数の仮説の組み合わせを考えるべきなのか、問題の解明には今後の研究が必要になる、と本論文は指摘します。

 本論文は、他のチンパンジー集団でカメの捕食が確認されていない理由として、生態的地位がほとんど重ならないことや、カメ以外の肉の入手が容易であることを挙げています。また本論文は、カメの腹甲を叩き割る打撃技術が1個体により発明され、社会的学習を通じて集団内に定着した可能性も提示しています。こうした要因の複合と考えるのが、現時点では妥当かもしれません。カメを発見する機会が少なく、また他の動物の捕食が比較的容易な環境では、わざわざ食べるのに手間のかかるカメを食べようと判断する個体はいないのでしょう。

 本論文が重視しているのは、樹上でモリセオレガメの肉を半分ほど食べたチンパンジーが、残りの肉を木に置いて他の木に移って一晩休憩し、朝になるとモリセオレガメの肉を残してきた木に戻って残りの肉を食べた、という観察事例です。これについて本論文は、鳥類や肉食動物や齧歯類で確認されている、食料蓄蔵行為と類似性を指摘しています。しかし本論文は、チンパンジーがわざわざ木に肉を残してきており、地面に肉を落としたわけではないことから、この説明には否定的です。もう一方の説明は、チンパンジーは未来を認識でき、意図的に木に残りの肉を置いてきた、というものです。こうした未来を認識して計画できる能力は、ヒトだけのものだと長年考えられてきました。しかし本論文は、飼育下ではカワラバト(Columba livia)や大型類人猿などでも確認されていることから、チンパンジーの認知能力は高度で柔軟であり、おそらく将来の計画立案も可能だろう、と推測しています。本論文が指摘するように、チンパンジーなど非ヒト霊長類の行動研究は、人類進化史の研究にも役立つと期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


モリセオレガメを捕食するチンパンジーが初めて観察されたことについて報告する論文が、今週掲載される。

 モリセオレガメを捕食するチンパンジーが初めて観察されたことについて報告する論文が、今週掲載される。

 チンパンジーはさまざまな動物を狩猟し、その肉を摂取することがすでに知られているが、これまでカメを捕食するチンパンジーの直接観察はなかった。

 今回、Simone Pikaたちの研究グループは、ロアンゴ国立公園(ガボン)に生息するRekambo群集の野生チンパンジー(Pan troglodytes troglodytes)の群れにおける捕食行動について説明している。Pikaたちは2016年7月から2018年5月までの期間中に、これらの野生チンパンジーのうち10個体によるモリセオレガメ(Kinixys erosa)の捕食事象を計38例(うち捕食に成功したのは34例)観察した。カメの捕食は、研究対象となった雄の成体チンパンジーのほとんど、あるいは全ての個体で頻繁に観察され、獲物の発見、それに続く木の幹のような固い表面でカメの腹甲を片手で打ち砕くという独特な一連の行動によって構成されていた。その後、チンパンジーは肉を食べるために木に登った。観察された捕食事象38例のうち23例では、捕食に成功したチンパンジーが、同じ群れの他の個体(カメの腹甲を打ち砕けなかった個体を含む)と肉を分け合った。

 チンパンジーは、多種多様な道具の使用方法を発達させてきたことが知られており、例えば、槍のような道具を使って穴の中にいる獲物を捕らえることができる。今回の研究での観察結果は、チンパンジーが、ナッツ類と殻の硬い果実、カタツムリのような食料の中身を取り出すための打ち壊し技術として、硬い表面に叩きつけるかハンマーを使うのかについての新たな手掛かりをもたらした。また、この観察結果はチンパンジーの認知能力が大規模で柔軟なこと、そしておそらくは将来の計画立案を裏付けていると、Pikaたちは考えている。



参考文献:
Pika S et al.(2019): Wild chimpanzees (Pan troglodytes troglodytes) exploit tortoises (Kinixys erosa) via percussive technology. Scientific Reports, 9, 5704.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-43301-8


追記(2019年5月28日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

森恒二『創世のタイガ』第5巻(講談社)

 本書は2019年5月に刊行されました。第5巻は、タイガが、住まわせてもらっている現生人類(Homo sapiens)の集落を襲撃してきたネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と戦う場面から始まります。タイガは苦戦しつつも、ウルフ(タイガが飼っている狼)と共同してネアンデルタール人を殺していきます。タイガはネアンデルタール人を殺していく中で、気分が高揚していくのを感じます。タイガは、自分たちが戦っているところを上から眺める、ネアンデルタール人の長らしき男性に気づきますが、集落の救出を優先します。

 タイガの仲間たちもネアンデルタール人と戦っていましたが、恐怖のあまりレンは逃げ出し、残りの仲間もネアンデルタール人に殺されそうになります。そこに現れたのがティアリで、ネアンデルタール人相手に善戦しますが、やはり一人では苦戦します。ティアリも殺されそうな状況のなか、タイガとウルフが現れ、ネアンデルタール人を倒していきます。タイガは気が高ぶり雄叫びをあげ、状況が不利と見たネアンデルタール人たちは撤退していきます。タイガはティアリの兄であるナクムたちと喜びを分かち合います。ネアンデルタール人の長らしき男性は、「ベラード、イルドゥガ」と呟いて仲間たちとともに撤退します。これで終わりと思うなよ、というような意味でしょうか。現生人類の死者3人は丁寧に埋葬され、ネアンデルタール人の死者20人以上は一括して埋められました。

 勝利に沸く現生人類部族でしたが、ティアリは、タイガが現代人(ティアリからは未来人)の仲間たちと無事を喜んでいる姿を見て、立ち去ります。この戦いの結果、タイガたちは現生人類部族から一層の信頼を得て、柵の中に住むことを許されました。ウルフはネアンデルタール人との戦いの中で、斧や棍棒により怪我をしたため、タイガはその対策としてウルフと訓練に励んでいました。そこへレンが現れ、ネアンデルタール人を殺すのは殺人だ、お前は戦いを楽しんでいた、とタイガを責め立てます。レンは、ネアンデルタール人の遺伝子は現代人にも存在しているのに、ネアンデルタール人を殺してよいのか、とタイガに指摘します。けっきょく二人は分かり合えず、物別れとなります。

 ティアリとの関係が微妙になったと感じていたタイガは、ティアリを誘って狩猟に行きます。そこでタイガは、タイガの仲間の女性たちは綺麗なのに、自分は傷があり醜いのではないか、とティアリが悩んでいることを知り、戦うティアリは綺麗だ、と励まします。命を救われたことからタイガに恋心を抱き続けてきたティアリは、タイガの言葉に喜びます。ティアリは日本語も習得しつつあり、一部日本語を交えてタイガと話しています。一方、タイガはこの時代の現生人類の言語を次第に解するようになってきましたが、タイガの仲間たちはほとんど話せないようです。タイガの仲間たちは捕虜にされていた期間もそれなりにありましたし、もっと言語を習得していても不思議ではなさそうなのですが。

 狩猟の途中で、ティアリはマンモスの群れに気づきます。現生人類の部族はマンモスのことをドゥブワナと呼んでいます。マンモスの群れが普段より早い時期に近づいていることを知った現生人類の男性たちは、集落一帯の草木をマンモスに食べつくされる前に移動しようと考えます。タイガが仲間たちにそのことを話すと、アラタは、人類はまだマンモスに勝てない段階だ、「地上の王」になっていない、と指摘します。するとレンは、マンモスを滅ぼすつもりか、思いあがっている、と怒ります。

 タイガとアラタは、新拠点を探す現生人類に同行し、その中にはティアリもいました。南からマンモスの群が迫り、北にはネアンデルタール人(現生人類の部族はムシェンジと呼んでいます)がいる中、ネアンデルタール人を倒してマンモスを狩る、とタイガは言います。ところが、新たな集落と予定していた土地には、別の現生人類部族がすでにいました。ナクムはこの部族を「東の民」と呼んでいます。ナクムは「東の民」に、先々代のその前からここは我々の土地と決まっている、と主張します。しかし、「東の民」は、そんな大昔の約束は知らない、東の地はマンモス(ドゥブワナ)の群れが絶え間なく出現してもはや人の住める土地ではなくなった、お前たちを皆殺しにしたくないから去れ、と言います。現生人類の2部族の間で今にも戦いが勃発しそうな中、マンモスの群れが出現し、2部族には迎え撃つ力がなく、逃げまどうばかりです。タイガはマンモスに殺されそうになった「東の民」の1人を助けたものの、「東の民」にはかなりの死者が出ました。マンモスの群れが去った後、タイガたちも「東の民」もその場を離れます。

 タイガたちが受け入れてもらった部族では、マンモスの群れにどう対処するのか、議論が続きますが、どこに行けばよいか分からず、かといってここに留まってもマンモスの群れに荒らされるだけなので、結論が出ません。賢者ムジャンジャは、何か話したそうに近づいてきたタイガに、発言を促します。タイガは、マンモスを倒そう、と集落の人々に訴えますが、当然のことながら、無謀だとして反対する人は少なくありません。しかし、ネアンデルタール人との戦いでも活躍した「戦士」タイガの勇敢さと知恵に期待する人々もいました。ムジャンジャは、タイガの提案に従うか否か、人々の判断に委ねます。タイガの仲間たちでも、レンだけではなくアラタもマンモスと戦うことに反対します。レンはタイガに、お前は英雄になりたいだけだ、と指摘します。そこへ集落の女性と子供たちが現れ、タイガは改めて、マンモスと戦う決意を固めます。

 タイガは、マンモスと戦えるだけの力が自分たちにはある、と集落の人々に納得させるため、狩りに出ます。タイガはリクにチョッキ銛を、集落の女性たちにロープを作ってもらい、オオツノジカを見事に仕留めます。これで集落の男性たちも覚悟を決め、タイガとともにマンモス狩りに出かけます。タイガは火を使ってマンモスの群れを追い立て、1頭のマンモスに標的を定めて、次々にチョッキ銛を投げ込みます。そこへ、マンモスが2頭戻って来て、タイガは崖から落ちてしまい、集落男性たちも逃げ出そうとします。しかし、タイガが立ち上がり、ティアリがそれを集落の男性たちに告げるところで、第5巻は終了です。


 第5巻は、タイガの活躍によりネアンデルタール人の襲撃を退けるところから、マンモス狩りの始まりまでが描かれました。タイガの仲間たちの中でも、レンは旧石器時代に馴染めず、ネアンデルタール人の襲撃以降、旧石器時代に適応しているタイガとのすれ違いが多くなっています。タイガたちはいきなり旧石器時代に飛ばされたわけですから、極限環境への適応を強いられているわけで、そこでの人間の対応は普遍的な物語の定番の一つと言えるでしょう。この普遍性は、本作の魅力の一方の基礎になっていると思います。

 本作の魅力のもう一方は、人類進化にまつわる謎解き要素です。現生人類はいかにネアンデルタール人との競合で優位に立ったのか、という謎は本作の主題の一つだと思います。現時点では、ネアンデルタール人と現生人類との競合で、現生人類の方が技術面では優位に立っていることを示唆するような描写はありますが、決定的ではないようです。タイガたちのもたらす知恵・技術により、現生人類はネアンデルタール人を圧倒するようになるのかもしれません。そうだとすると、本作の舞台はレヴァントでしょうか。

 本作の謎と言えば、ティアリを除いて旧石器時代人の女性が登場しないこともあったのですが、第5巻では多くの現生人類女性が描かれました。女性で狩りや偵察に出るのはティアリだけなので、これまで現生人類の女性は登場しなかった、ということなのでしょう。ティアリが狩りや偵察に出向くのは、ティアリが武勇に優れていることや性格もあるのでしょうが、「まざり者」の子供という出自が大きいのかもしれません。第5巻では現生人類の別部族も描かれましたが、ティアリの父親か母親は、おそらく現生人類の別部族出身なのでしょう。

 現生人類とネアンデルタール人との関係も本作の大きな謎だと思います。第5巻でも、ネアンデルタール人の女性は相変わらず登場しませんでした。やはり、現生人類もネアンデルタール人も、戦いや偵察といった危険な行為は男性の担当という設定なのでしょうか。第5巻ではレンが現生人類とネアンデルタール人の交雑について言及していましたが、これは伏線かもしれません。あるいは今後、ネアンデルタール人の女性も登場し、タイガや他の現生人類男性と配偶関係を結ぶような話になるのかもしれません。ともかく、今後の展開がひじょうに楽しみです。



 第1巻~第4巻までの記事は以下の通りです。

第1巻
https://sicambre.at.webry.info/201708/article_27.html

第2巻
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_28.html

第3巻
https://sicambre.at.webry.info/201806/article_42.html

第4巻
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_57.html

現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響

 現代日本人のうち、人数では圧倒的な割合を占める本州・四国・九州(「本土日本人」)の人々がどの程度「縄文人」の遺伝的影響を受けているのか、という問題については、複数の推定値が提示されています。「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合は、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の「縄文人」の研究では15%程度(関連記事)、愛知県田原市伊川津町貝塚の2600年前頃の「縄文人」のゲノムも解析したアジア南東部現代人集団の形成過程についての研究では21%程度(関連記事)、北海道礼文町の船泊遺跡の3800年前頃の「縄文人」の研究では10%程度(関連記事)と推定されています。

 これらのうち、高品質なゲノム配列が得られているのは船泊遺跡の「縄文人」なので、これが最も信頼できる推定値とは言えます。では、現代「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合は10%で確定なのかというとそうではなく、篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』は、現代「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合を20%程度と推定しています(関連記事)。「10%」という数字が、あたかも確定的であるかのごとくネットなどで喧伝される危険性には注意しなければならないでしょう。

 なぜこのような違いが生じるのかというと、ゲノム配列の品質の問題もあるのですが、重要なのは、どの「縄文人」集団が現代「本土日本人」により強く遺伝的影響を残したのか、ということです。『日本人になった祖先たち』は、東日本よりも西日本の「縄文人」の方が現代「本土日本人」により多くの遺伝的影響を残している、と推定しています。その意味で、愛知県の2600年前頃の「縄文人」のゲノム解析から、現代「本土日本人」のゲノムへの「縄文人」の影響が21%程度と推定されていることを考慮すると、西日本「縄文人」のゲノム解析結果からは、現代「本土日本人」のゲノムへの「縄文人」の影響が、25%程度かそれ以上になっても不思議ではないと思います。

 最近当ブログにて、現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)で30~40%と高い割合を占めるDの起源について、その多くが「縄文人」ではなく弥生時代以降の「渡来系」である可能性も考えられる、と述べました(関連記事)。しかし、現代「本土日本人」のゲノムに「縄文人」の中でより大きな影響を残したのが西日本集団だとすると、YHg-Dが西日本の「縄文人」である可能性もじゅうぶん考えられます。これについては、西日本だけではなく、ユーラシア東部の古代DNA研究が進まないと、なかなか確定的なことは言えないでしょう。

 このように、古代の人類集団の現代人のゲノムへの影響については、どの集団を対象とした比較かにより、推定値が異なってきます。古代人のゲノム解析事例はまだ少ないので、「縄文人」のように1個体もしくは2個体からのゲノム配列のみが比較の場合も多く、今後の研究の進展により、数値が変わってくる可能性は高いでしょう。A集団の現代人B集団への遺伝的影響とはいっても、A集団内部のA1集団とA2集団のどちらを比較対象として、どちらがB集団により強い遺伝的影響を残した集団と近縁なのかにより、推定値は変わってくる、というわけです。

 具体的には、たとえばネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の事例がそうです。以前には、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列は南シベリアのアルタイ地域でしか得られていなかったのですが(関連記事)、その後、クロアチアでも、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が得られました(関連記事)。非アフリカ系現代人全員の祖先集団が交雑したネアンデルタール人集団は、南シベリアのネアンデルタール人よりもクロアチアのネアンデルタール人の方と近いと推定されており、非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の推定値は、以前よりも高いと見直されました。同様のことが、「縄文人」の現代「本土日本人」への遺伝的影響についても言えるでしょう。

母親の存在により増加するボノボの雄の適応度

 ボノボ(Pan paniscus)の雄の適応度と母親の存在との関係についての研究(Surbeck et al., 2019)が報道されました。ほとんどの社会性哺乳類は母系社会なので、母親の支援および同居による適応的利益の研究は、おもに娘たちが対象とされてきました。しかし、母親が成体の息子と同じ集団にいる場合、息子の適応度を増大させるよう行動することも報告されています。たとえば、シャチの母親は息子を有望な狩猟場に導き、息子の生存率を向上させている、と考えられます。しかし、雄の繁殖成功への母親の影響を調査した研究はヒト以外にはほとんどありません。

 本論文は、ボノボの4集団39頭およびチンパンジー(Pan troglodytes)の7集団263頭の雄を対象に、母親の存在と雄の繁殖成功との関係を調査しました。ボノボもチンパンジーもともに父系的な社会を構築し、例外もあるとはいえ、基本的に雌は成長(性成熟)すると出生集団を離れていきます。ボノボもチンパンジーも、母親は息子の側で暮らし、雄間競争において息子を助けます。しかし、これまでの証拠から、ボノボの方は、息子の繁殖成功を増加させる、と示唆されています。たとえば、ボノボの母親はしばしば、息子を発情期の雌に接近できるような場所へと連れて行き、他の雄による干渉から息子の交配を保護し、息子が高い支配的地位を獲得して維持するのを助けます。一方、出生集団に留まる少ない娘たちにたいしては、母親は息子ほどには支援に熱心ではないようです。これは、ボノボの父系社会を前提とした適応的行動と解釈できるでしょう。

 こうしたボノボの母親の行動は、ボノボではチンパンジーよりも雌の社会的地位が高く、最高位が一貫して雌により占められているボノボにおいて、成体の雄が全ての雌に支配的であるチンパンジーより効果的と考えられます。じっさい、ボノボの調査の結果、母親とともに集団で生活している成体の雄は、そうではない雄よりも約3倍(3.14倍)子を儲ける可能性が高い、と明らかになりました。対照的に、チンパンジーにおいて母親の存在は息子の繁殖成功と強い関係はなく、むしろ子を儲ける可能性はやや低いと明らかになりました(1.26倍)。繁殖年齢の平均はボノボが21.8歳、チンパンジーが23.3歳です。

 ヒトとシャチにおいては、母親の存在・行動が直系子孫(子および孫)の適応度と関連している、との知見が得られています。これは、雌が閉経後も長く生きるという珍しいパターンの進化と関連している、と考えられてきました。野生のボノボの長期生存率データはまだ得られていませんが、飼育下のデータは、チンパンジーよりもボノボの方が生存率は高いかもしれないと示唆しており、この仮説と一致します。また、雌が閉経後も長く生きるような生活史は、雌が出生集団から拡散するような父系的社会も含む、交配と拡散のシステム下で進化する可能性が高い、と理論的に予測されています。しかし、ボノボの雌は上述のような行動により息子を通じて自身の遺伝子を有する孫の数を増加させ得るものの、閉経後の生存期間は明らかに長くありません。この問題を解明するには、多くの種を対象とした長期の共同研究が必要になる、と本論文は指摘します。

 以前から、ボノボでは雌の社会的地位が高く、母と息子の絆が強くて雄の地位は母親に由来する、と指摘されており(関連記事)、本論文の見解は意外ではありませんでしたが、定量的な調査結果を報告したことには大きな意義があると思います。問題となるのは、本論文が指摘するように、ボノボにおいて雌が閉経後も長く生きるような生活史はなぜ進化しなかったのか、ということです。そうした生活史の進化は、ボノボにはなく、ヒトやシャチにはある選択圧が大きな役割を果たしたのかもしれません。それが何なのか、私の現在の見識では思いつかないので、今後の研究の進展を期待しています。


参考文献:
Surbeck M. et al.(2019): Males with a mother living in their group have higher paternity success in bonobos but not chimpanzees. Current Biology, 29, 10, R354–R355.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.03.040

再コード化された大腸菌ゲノムの全合成

 再コード化された大腸菌ゲノムの全合成に関する研究(Fredensl et al., 2019)が公表されました。タンパク質をコードするゲノム領域は、その塩基配列がRNAポリメラーゼによってメッセンジャーRNAに転写され、次にタンパク質に翻訳されます。このようなリーディングフレームは開始コドンの位置で規定されます。しかし、各アミノ酸に対応するコドン(3塩基暗号)は複数あり、また翻訳を終結させる終止コドンも3通りあります。この冗長性は生物の翻訳に広く見られる固有の性質です。この研究は、大腸菌(Escherichia coli)の全ゲノムを再コード化して、2通りのセンスコドンと1通りの終止コドンを除去しました。この研究は、技術的にはこれまでの再コード化の試みを超えるもので、実質的には同義コドンの完全な圧縮が可能と立証しています。将来的には、このような置換されたコドンを用いて非天然型アミノ酸をコードできるようになるかもしれない、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


合成生物学:再コード化された大腸菌ゲノムの全合成

合成生物学:コドンを3つ減らして61通りに

 タンパク質をコードするゲノム領域は、その塩基配列がRNAポリメラーゼによってメッセンジャーRNAに転写され、次にタンパク質に翻訳される。このようなリーディングフレームは開始コドンの位置で規定される。しかし、各アミノ酸に対応するコドン(3塩基暗号)は複数あり、また翻訳を終結させる終止コドンも3通りある。この冗長性は生物の翻訳に広く見られる固有の性質である。J Chinたちは今回、大腸菌(Escherichia coli)の全ゲノムを再コード化して、2通りのセンスコドンと1通りの終止コドンを除去した。この研究は、技術的には、これまでの再コード化の試みを超えるもので、実質的には、同義コドンの完全な圧縮が可能であることを立証している。将来的には、このような置換されたコドンを用いて非天然型アミノ酸をコードできるようになるかもしれない。



参考文献:
Fredens J. et al.(2019): Total synthesis of Escherichia coli with a recoded genome. Nature, 569, 7757, 514–518.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1192-5

片山一道「地球上から消えた人々」

 本論考は、赤澤威編『ネアンデルタール人の正体 彼らの「悩み」に迫る』(朝日新聞社)に所収されています(第2章)。同書の刊行は2005年2月で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との違いを強調する傾向が強く、現生人類アフリカ単一起源説でも完全置換説(現生人類とネアンデルタール人など他系統の人類との交雑はなかった、とする見解)への支持がとくに高い時期だったように思います。そうした時期を反映して、同書も認知能力などの点でネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する傾向にあり、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の可能性を指摘しつつ、全体的には否定的な論調となっています。

 そんな中で、同書の論考として異色なのが片山一道「地球上から消えた人々」です。本論考はまず、ネアンデルタール人と現生人類との形態学的違いは大きいとされているものの、現代人の中にも北極圏やオセアニアには現生人類の標準偏差から外れるほどの人々がいる、と指摘します。ネアンデルタール人も寒冷地に適応してボトルネック(瓶首効果)などの影響によって、現生人類とは異なる形態を発達させたのであり、ネアンデルタール人と現生人類との違いは、種が異なっていたからではなく、生活圏の異質さとボトルネックなどの偶然性を反映しているのではないか、というのが本論考の見解です。

 ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する傾向に懐疑的な本論考は、ネアンデルタール人の絶滅に関しても、当時(2004年前後)の主流的見解に疑問を呈します。当時、アフリカから拡散してきた現生人類によりネアンデルタール人は絶滅し、両者の間に交雑はなかった、との見解が主流でした。本論考は、同書の他の論考の著者の多くも「その匂いをまき散らしています」と批判的に言及しています。本論考はネアンデルタール人の絶滅について、ネアンデルタール人の人口規模は小さく、生活条件の悪化などにより衰退して絶滅したか、人口規模のより大きな現生人類と混血し、併呑される形で消滅した、と推測しています。ネアンデルタール人の絶滅に関しては諸説ありますが(関連記事)、今になってみると、本論考の見解はおおむね妥当だったのではないか、と思います。

 ただ、手元にないのでどの本だったか忘れましたが、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果が提示された1997年より少し前に刊行された辞典的な本か教科書的な本で、ネアンデルタール人と現生人類の形態的違いは大きいものの、遺伝子を比較すればあまり変わらないのではないか、と片山氏は述べており、これは明確に間違いだったと言えるでしょう。片山氏は山極寿一との対談「直立歩行と言語をつなぐもの」にて、現生人類多地域進化説派であることを明言しており、近年では多地域進化説復権の傾向は確かにあるものの、それは部分的なものであるとも思います(関連記事)。

 ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する傾向に懐疑的な本論考は、洞窟壁画についても、「はでな傑作はともかく、つつましい洞窟絵画などはネアンデルタールの発明によるのではないか」と推測しています。現生人類の起源に関して、2003~2004年頃に完全置換説から交雑説に転向した私は、心情的には同書のなかでも本論考にとくに共感しました。しかし、さすがに洞窟壁画をネアンデルタール人が描いたと考えるのには無理があるかな、と思っていました。しかし、2005年に同書を読んだ後も本論考の見解がずっと頭に残り、ネアンデルタール人が洞窟壁画を描いていたと明らかになれば痛快だな、と妄想していました。

 それだけに、イベリア半島南部の南部のネルハ洞窟(Nerja cave)の壁画がネアンデルタール人の所産かもしれない、と2012年2月に報道された時には大いに興奮したものです(関連記事)。残念ながらその後、ネルハ洞窟の壁画は現生人類の所産である可能性がきわめて高いと明らかになりましたが(関連記事)、2018年2月に、イベリア半島の複数の洞窟壁画を描いたのはネアンデルタール人である可能性が高い、との研究が公表されました(関連記事)。正直なところ、2005年の時点でネアンデルタール人が洞窟壁画を描いた、との見解を提示した本論考について、同書の他の論考の執筆者はかなり批判的だったでしょうし、そうなれば面白いな、と思っていた私でさえ、かなり厳しいだろうな、と冷ややかでした。しかし今になってみると、本論考の見解は洞窟壁画に関しても妥当だったわけで、やはり碩学の見解は専門からやや離れた分野でも侮れないな、と改めて思ったものです。


参考文献:
片山一道、山極寿一(1998)「直立歩行と言語をつなぐもの」『大航海』22号(新書館)

片山一道(2005)「地球上から消えた人々」赤澤威編『ネアンデルタール人の正体 彼らの「悩み」に迫る』(朝日新聞社)P57-87

中国における朝鮮人女性性奴隷疑惑

 中華人民共和国において朝鮮民主主義人民共和国の女性数千人が性労働者として強制的に働かされている、との報告書の公表について報道されました。ロンドンに本部のあるコリア・フューチャー・イニシアティヴという人権団体が調査したそうです。もちろん、これがどこまで正確な調査なのか、という問題はありますし、謀略を主張する人は日本でもいるでしょうが、現在の中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の大きな経済格差と陸続きであるという地理的関係から、おおむね事実である可能性が高いだろう、と私は判断しています。

 そもそも、政治的に朝鮮民主主義人民共和国は中華人民共和国にとって「唯一の同盟国」とさえ言えるのに、中華人民共和国における朝鮮民主主義人民共和国への好感度は周辺8ヶ国で最低であることから窺えるように(関連記事)、中華人民共和国の国民の朝鮮民主主義人民共和国への視線には厳しいものがあり、そこには多分に蔑視も含まれている可能性が高いと思います。また、両国の政府同士も相互にかなり根強い不信感を抱いているのでしょうが、現状ではお互いに相手と友好関係を演出した方がよい、と考えているのだと思います。まあ、国家間の関係はそんなものと言えるかもしれませんが。上記報道を読むと、大韓民国の企業が「お得意様」であるかのような印象を受けますが、これは言語の問題が大きいのでしょう。もっとも、調査対象の女性たちの多くは12~29歳で、外国人労働者の多い地域にある売春宿で働かされていたとのことですから、多くの国の男性が関わっているのでしょう。

 これは深刻な人権問題ですが、現代日本社会にとって、とても他人事でありません。私は、1980年代と比較して日本社会の人権状況が悪化した、とはまったく考えておらず、基本的には改善されてきた、と認識していますが、ヨーロッパ北部および西部諸国との差は1980年代よりも現代の方が大きくなっている、と言える可能性は高いように思います。近代の基本的な価値観を提示したのはヨーロッパであり、今でも日本社会にとって模範とすべきはヨーロッパ、とくに北部と西部だと考えています。もちろん、ヨーロッパを理想化するのではなく、その先進性の影の部分も把握し、取捨選択して日本に合った社会設計を進めなければなりませんが。

 なお、「伝統的思想」に新たな社会への規範を目指そうという動きもあるでしょうが、かなり疑問です。たとえば、新儒家と「ポリコレ」との調和に期待するかのような言説をネットで見かけたこともありますが、率直に言って、中国の伝統思想には近代の要素が何でもある、と主張し、桑原隲蔵に批判された近代初期の中国の一部知識層と本質的には変わらないのではないか、と思います。現代日本社会にとって、もはや保守すべきは「ヨーロッパ近代」ではないか、と私は考えています。私は安定した社会に高い価値を認めているので、つい抑圧的・強権的な統治にも惹かれてしまいますが、やはり自由なども含めて人権の前に超えてはならない一線はある、と思います。「効率的な」治安維持や経済発展のための人権抑圧にたいして感受性が鈍くなってしまえば、やがて取り返しのつかない社会になってしまうでしょう。日本は、そうした方向とは明確に一線を画すべきだと思います。

イギリスの住宅の庭に集まる鳥類群集の変遷

 イギリスの住宅の庭に集まる鳥類群集の変遷に関する研究(Plummer et al., 2019)が公表されました。この研究は、1973/74~2012/13年に実施された「Garden Bird Feeding Survey(庭での野鳥の餌付けに関する調査)」に対する自宅所有者の回答内容を分析し、イギリスの住宅の庭で観察された鳥類種は全国規模で変化がなかった、と明らかにしました。ただ、個々の庭付き住宅の所有者は、餌台に集まる鳥類種の多様性が増加し、モリバトやゴシキヒワといった多くの鳥類種が餌台をより頻繁に使うようになった、という観察結果も示されています。そのためイギリスの都市部では、餌台を使う鳥類種の個体数が増えたものの、餌台を使わない鳥類種の個体数は変わりませんでした。この研究は、餌が多様化し、設置された餌台の種類も増えているため、採餌要件の特殊性の高い鳥類種の集まる機会が増えている可能性が高いと主張し、自宅所有者による餌付け方法が絶えず変化したことは、庭での鳥類群集の構成の変化に寄与してきた、との見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】英国の住宅の庭に集まる鳥類群集の変遷

 英国の住宅の庭で、過去40年間に鳥の餌台の利用が増え、鳥に与える餌の種類も増えたために、餌台に集まる鳥類群集の構成が変化した可能性があるとする論文が、今週掲載される。今回の研究は、英国の自宅所有者が野鳥を餌付けする方法とそうした住宅の庭に集まる鳥類の多様性に関するデータを使って、食物源の拡大が、餌台に集まる鳥類種の多様性の増加と関連していることを示唆している。

 今回、Kate Plummerたちの研究グループは、1973/74~2012/13年に実施されたGarden Bird Feeding Survey(庭での野鳥の餌付けに関する調査)に対する自宅所有者の回答内容を分析し、英国の住宅の庭で観察された鳥類種は全国規模で変化がなかったことを明らかにした。ただし、個々の庭付き住宅の所有者は、餌台に集まる鳥類種の多様性が増加し、多くの鳥類種(例えば、モリバト、ゴシキヒワ)が餌台をより頻繁に使うようになったという観察結果を示している。そのため英国の都市部では、餌台を使う鳥類種の個体数が増えたが、餌台を使わない鳥類種の個体数は変わらなかった。

 Plummerたちは、餌が多様化し、設置された餌台の種類も増えているため、採餌要件の特殊性が高い鳥類種が集まる機会が増えている可能性が高いと主張しており、自宅所有者による餌付け方法が絶えず変化したことが、庭での鳥類群集の構成の変化に寄与してきたという考えを示している。



参考文献:
Plummer KE. et al.(2019): The composition of British bird communities is associated with long-term garden bird feeding. Nature Communications, 10, 2088.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10111-5

日本における対韓感情の世代差

 日本における大韓民国への感情の世代差に関する、毎日新聞の澤田克己記者の記事が公表されました。この記事は、「なぜ嫌韓は高齢者に多いのだろうか」と題した澤田氏のコラムへの批判的な記事への対応といった内容になっています。確かに、澤田氏が指摘するように、最新(2018年10月)の日本国内世論調査では、若い世代よりも高齢世代の方が、顕著に対韓感情は悪くなっています。こうした結果が出ると、世代論を言い出す人が少なくないようで、社会に一般的に見られる高齢者批判と結びつけられる傾向にあるように思います。澤田氏の記事も、高齢世代の嫌韓感情の一因として定年後の社会からの疎外感を挙げています。じっさい、以下のような反応があり、そうした反応はありふれているように思います。

脳内の新陳代謝が滞っている感じ。
世代交代しないと、やっぱり社会は活性化しないんだろうなぁ。


 しかし、素朴な常識論になってしまいますが、世代間での有意な違いを、各世代への肯定的もしくは否定的な印象と安易に結びつけてはならない、と思います。この件で言えば、若い世代の対韓感情が高齢世代よりも顕著に良いことを、「頭の固い」高齢世代と「柔軟で偏見に囚われない」若い世代といった通俗的な世代論と結びつけてよいのだろうか、というこです。では、若い世代の対韓感情が高齢世代よりも顕著に良いことを、そうした通俗的な世代論と絡めて好意的に受け取る人は、近年、高齢世代よりも若い世代で有意に自民党支持率が高いことも、若い世代への肯定的な印象と結びつけて論じるのか、ということでもあります。世代間で有意な違いの見られる事象は興味深く、その理由を追求することは必要でしょうが、それを通俗的な世代論と安易に結びつけてはならないでしょう。

『卑弥呼』第17話「秘儀」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年6月5日号掲載分の感想です。前回は、自分の策が凶と出ても、それはそれで面白いではないか、とヤノハが不適に言うところで終了しました。今回は、ヤノハが日向(ヒムカ)時代の夢を見ている場面から始まります。当時(2世紀末~3世紀初頭)の日向には鉄(カネ)はもちろん青銅(アオカネ)も少なく、石器が用いられていたので、内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)から来る賊に襲撃されれば、ひとたまりもありませんでした。しかし、ヤノハは比較的平和な邑で裕福な家の養女として育ちました。ヤノハは、日の守(ヒノモリ)の義母が家の壁にかけていた2枚の銅鏡を思い出します。ある日、ヤノハの弟であるチカラオが毒蛇に咬まれ、ヤノハは義母に、刀を火に翳すよう、命じられます。ヤノハは義母に刀を渡しますが、弟が助かるのか、不安な様子です。義母はヤノハに軟膏の壺と葉薬の籠を取ってくるよう命じ、焼いた刀をチカラオの傷口に当てて毒を吸い出し、葉薬に軟膏を塗って患部に当てます。心配な様子のヤノハに、発見が遅かったので、チカラオはもう根の国の門くらいまでたどり着いている頃だ、と義母は言います。弟を黄泉の国から呼び戻してほしい、と懇願するヤノハに、お前の弟を死なせはしない、と言った義母は、銅鏡2枚をヤノハに持ってくるよう命じ、自分はチカラオを抱えて外に出ようとします。義母はヤノハに、魂を取られるので、銅鏡に自分の顔を気安く映さないよう、注意します。須佐之男(スサノオ)様の国に向かうチカラオの魂を天照様の力で呼び戻してもらうのだ、と義母はヤノハに説明します。

 ヤノハが山社(ヤマト)の楼観で目を覚ますと、イクメがいました。ヤノハがうなされていたためか、イクメはヤノハが悪い夢を見ていたのではないか、と案じます。故郷が夢に出てきたが、弟の顔を忘れてしまったようだ、とヤノハは寂しげに答えます。イクメは、短期間で日向から暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に行き、さらにはトンカラリンを経て山社に来たヤノハの苦難の連続を思いやります。イクメが朝早くからヤノハを訪ねたのは、今晩闇に紛れて山社を出立するためでした。イクメの弟のミマアキが安全な場所まで同行してくれる、とイクメはヤノハに説明します。イクメの父であるミマト将軍は、ヤノハを捕えると決めたものの、娘に懇願されたため、出奔するなら見逃そうとしているわけです。山社を出てどこに行くのだ、とヤノハに問われたイクメは、豊秋津島(トヨアキツシマ)と答えます。サヌ王(神武天皇と思われます)が東征して拓いたという新たな山社を目指そう、というわけです。しかし、ヤノハは乗り気ではありません。自分がサヌ王で新たな山社を造ったとしたら、そこを故郷の筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の写し鏡のようにして、似たような景色の場所を選び、山野に筑紫島と同じ名をつけ、その中心に山社を構えるので、すでにその新たな山社には日見子か日見彦が鎮座しているはずだ、とヤノハは説明します。自分が新たな日見子と名乗って出ても受け入れられないだろう、というわけです。イクメ焦った様子で、では父に捕縛されることを選ぶのか、とヤノハに問いかけます。ヤノハは冷静に、3日の猶予をいただきたいとミマト将軍に伝えるよう、イクメに指示します。理由を理解できないイクメに、3日あれば風向きが変わると義母がよく言っていた、と説明します。ヌカデに任せた那国のトメ将軍との交渉が情勢を変える、とヤノハは考えているのでしょうか。

 その頃山社では、最高位の祈祷女(イノリメ)であるイスズが、ヤノハが真の日見子(ヒミコ)であるか、伺いを立てるために籠ってから4日経過していました。年長の祈祷女は、不眠不休で伺いを立てるイスズの体調を案じますが、天照様は何も言わないので、このままではヤノハを偽の日見子と断定できないことから、イスズは焦っているようです。すると年長の祈祷女は、天照様の神託が降りなくとも、真の日見子か否か見極める方法がある、とイスズに進言します。もしヤノハが本物の日見子なら、天照様が乗り移っているはずなので、秘儀を見せていただきたい、とヤノハに提案してはどうか、と年長の祈祷女は言います、それは真の日見子のみが天照大神より伝えられる、生と死を司る祭礼で、それを目の当たりにすれはせ、見ている者の命もどうなるか分からない、という危険なもののようです。躊躇うイスズにたいして年長の祈祷女は、ヒルメ様もタケル王も偽物の日見子と断定して女性なので、できるはずがない、と年長の祈祷女は答え、イスズも納得します。

 鞠智彦(ククチ)の里では、鞠智彦が立ち去る暈国のタケル王を見送っていました。タケル王は、ヤノハは偽の日見子だと断定し、ヤノハの手足を砕くよう命じたのに、直ちに実行しない鞠智彦に不信感を抱いたのか、鞠智彦に冷ややかな視線を向けているように見えます。タケル王がどこに向かうのか、配下のウガヤに問われた鞠智彦は、暈と那の国境、つまり戦場の最前線だ、と答えます。タケル王自ら出陣するのでしょうか、とウガヤに問われた鞠智彦は、それならまだよいが、タケル王は最前線の兵を全員引き連れて急遽山社に向かうそうだ、と答えます。鞠智彦はウガヤに、旅の準備を命じます。鞠智彦は、どう対応すべきか、イサオ王に相談するつもりだ、とウガヤに伝えます。

 天照大神の秘儀を見せていただきたい、というイスズの意向はすぐにヤノハに伝えられました。その秘儀を見せてもらえば、イスズはヤノハを支持してもよい、というわけです。断れないのか、とヤノハに問われたイクメは、秘儀を見る者の命も縮めると言われており、イスズも真剣なのだ、と答えます。その秘儀が何なのかまったく思い浮かばないヤノハは、途方に暮れます。天照大神に伺いを立てて初めて伝えられるものなので、知らなくて当然だ、とイクメはヤノハに伝えます。ヤノハはそれでも、天照大神が自分に素直に伝えてくれるのか、とまったく自信がない様子です。楼観の下では祈祷女たちが儀式の準備を進めており、祭壇を設えて護摩を焚いているため、その煙がヤノハにも届いていました。その秘儀がどんなものなのか少しは知っているのか、とヤノハに問われたイクメは、100年前の日見子の治世以来、誰も見たことはないが、古老が言うには鏡を使うらしい、と答えます。ヤノハはイクメに、祈祷の準備が整うまでしばらく一人にしてもらいたい、と言います。

 万策尽きたといった感じのヤノハは、誰も見たことのない秘儀なら適当にやってもばれないのではないか、と一旦は考えますが、適当とはいってもそれなりの説得力というか厳粛さが必要だと思いなおします。モモソならどうしたのだろうか、と考えたヤノハは、友であるモモソを突き落とした自分は大罪を犯したのだ、と後悔します。そこへモモソが現れ、夢で教えたただろう、すでに「お鏡の秘儀」を知っているではないか、と伝えます。モモソの幻覚?はすぐに消えて、弟のチカラオを黄泉の国から救おうとした義母が、「日の鏡」と「地の鏡」という二つの鏡が必要だ、と言っていたことをヤノハが思い出したのところで今回は終了です。


 今回はヤノハの過去が描かれ、それが現在の窮状を打開する鍵になる、と示唆されました。ヤノハの義母が本格的に描かれたのは今回が初めてですが、日の守として儀式や占いだけではなく、自然現象も含めてあらゆる事象に通じた知識人でもあるように思います。また、今回の描写からは、ヤノハの義母は養子の2人に愛情を注いでいるように見えます。ヤノハは危険を冒してまで義母の遺体を回収しようとしていましたから、義母には深く感謝しているのでしょう。また、ヤノハは弟の命を救おうと必死になっており、賊に襲撃されて義母を殺され、弟が行方不明になるまでは、生きるために手段を択ばず、親友のモモソも殺してしまうような狂気の人物ではなく、ごく一般的な情感の持ち主だったように思います。ヤノハは義母を殺されて精神的な大打撃を受けたのでしょう。注目されるのは、ヤノハが弟の顔を忘れてしまった、と打ち明けたことです。ヤノハは、賊に襲撃されて弟は死んだと考えていますが、義母とは異なり、死体を確認したわけではありません。おそらくヤノハの弟は生きており、『三国志』にあるように、卑弥呼(日見子)となったヤノハを支える「男弟」となるのでしょうが、再会した時には、弟が成長したこともあり、ヤノハの方は弟と気づかないのかもしれません。

 鞠智彦が会おうとしているイサオ王も注目されます。これまで作中では言及のなかった人物ですが、鞠智彦がわざわざ難題の相談に行くということは、権威のある重要人物だと思われます。あるいは、タケル王に位を譲った暈の前代の王でしょうか。イクメから、おそらく神武天皇のことであろう、6代目の日見彦たるサヌ王が東征して豊秋津島(おそらく本州を指すのでしょう)新たに築いた山社を目指そう、と進言されたヤノハが乗り気ではなかったことは、今後の展開との関連で重要だと思います。ヤノハとイクメはこのままサヌ王が豊秋津島に築いた新たな山社に行き、そこを拠点に日見子(卑弥呼)たるヤノハが倭国を統治し、それは奈良県の纏向遺跡一帯ではないか、とも予想していたのですが、日向(現在の宮崎県)の奥にあるという現在の山社が『三国志』の邪馬台国という展開になりそうです。しかし、ヤノハの存命中に纏向遺跡一帯に「遷都」し、箸墓古墳にヤノハが葬られる、という展開も考えられます。ともかく、後には魏や呉も絡んできて壮大な物語になりそうですし、短期的には、ヤノハが現在の苦境をどう切り抜けるのかという点が焦点となりますから、今後もたいへん楽しめるのではないか、と期待しています。

現生人類の初期の拡散をめぐる議論

 近年、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散がじゅうらいの想定よりも早かった可能性を指摘する研究が相次いで公表され、当ブログでも以前取り上げました(関連記事)。具体的には、現生人類(的な特徴を有する集団)が、レヴァントでは194000~177000年前頃(関連記事)、アラビア半島では88000年前頃(関連記事)、アジア東部では12万~8万年前頃(関連記事)、アジア南東部では73000~63000年前頃(関連記事)に存在した、との見解が提示されています。また、オーストラリアにおける人類の痕跡は65000年前頃までさかのぼる、との見解も提示されています(関連記事)。

 しかし、こうした現生人類の早期拡散説には疑問も呈されています。それらは本当に現生人類の遺骸なのか、年代は信用できるのか、というわけです(関連記事)。じっさい、上記のアジア南東部・アジア東部・オーストラリアの事例に関しては、年代に疑問が呈されています(関連記事)。また、ルソン島で発見された67000年前頃の人類遺骸も、かつては現生人類のアジア南東部への初期拡散の事例と解釈されたこともありましたが(関連記事)、その後の研究で、この遺骸はホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)と分類されました(関連記事)。

 このように、ユーラシア東部やオセアニアへの現生人類の初期の拡散については疑問が呈されており、まだ確定したとは言い難い状況だと思います。しかし、上記のオーストラリアの事例に関しては、近年の研究の進展により別の可能性も想定されるようになったという意味で、興味深いと思います。昨年(2018年)、オーストラリア南東部のモイジル(Moyjil)遺跡における人類の痕跡が12万年前頃にさかのぼる、と報告されています。これはまだ確定したとは言えないでしょうが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がニューギニア島に存在した可能性を指摘した研究(関連記事)との関連で注目されます。つまり、6万年以上前のオーストラリアにおける人類の痕跡は、現生人類ではなくデニソワ人のものかもしれない、というわけです。

「美しすぎる」内親王佳子さま、すごい人気です

 4年前(2015年2月26日)に公開された表題の記事を見つけました。佳子内親王の人気は高いと強調し、秋篠宮家の教育にも肯定的な記事で、4年前と現在とで、秋篠宮家への報道機関の論調が大きく変わったことを改めて痛感させられます。少し前までは東宮家(現在は天皇家)叩きが盛んで、それと対照的に秋篠宮家が称賛されていたように見えましたから、その反動でもあるように思います。有名人を持ち上げておいて叩くのは報道機関の常套手段ですが、報道機関を批判するだけではなく、そうしたことを喜んでしまう多数の一般国民の心性も批判されねばならないのでしょう。率直に言って、凡人の私にもそうした心性があることは否定できません。

 そもそも、秋篠宮家が持ち上げられるようになったのは、東宮家(現在は天皇家)叩きが盛んになってからのように思います。公務を怠る妻(現在は皇后)と、それに何の対応もできない不甲斐ない皇太子(現在は天皇)という見立てとの対比で、公務に励み皇室を支える秋篠宮家といった構図が描かれていったように記憶しています。とくに、2006年9月に秋篠宮家に男子(悠仁親王)が生まれて以降、秋篠宮家を持ち上げる風潮が強くなり、東宮家叩きと秋篠宮家称賛の根本要因としては、皇位継承者の有無が大きかったように思います。

 しかし、昭和天皇崩御から1年も経たずに婚約が内定し、しかも現在は天皇の兄よりも先の結婚だったこともあり、文仁親王の評判は1980年代~1990年代にはかなり悪かった、と記憶しています。当時は、出来の良い兄にたいして出来の悪い文仁親王といった感じでの報道が多く、文仁親王の素行についても、真偽不明の噂が出回っており、さすがに大手報道機関が取り上げることはなかったものの、凡人である私でさえ知っていたくらいでした。当時の印象が強く残り続けたので、21世紀になってからの秋篠宮家を持ち上げるような報道には、かなりの違和感がありました。しかし、最近の報道機関やネット上の秋篠宮家叩きは、さすがに行き過ぎではないか、と思うことも少なくありません。こうした論調もまた、今後容易に変わり得るのであり、常識論ではありますが、安易に現在の風潮に乗るべきではない、と改めて思います。

 秋篠宮家の評価暴落にともない、秋篠宮家の文仁親王やその息子の悠仁親王ではなく、天皇陛下と皇后陛下の唯一の子である愛子内親王への即位を望む日本国民が増えているように思います。それは、愛子内親王がたいへん優秀である(と報道されている)ことも大きいのでしょうが、報道機関が天皇家叩きを始めたら、簡単に勢いを失うような危ういものでしかないように思います。愛子内親王が即位するとしたら、その子供にも皇位継承権を、と考えるのが多くの国民の人情でしょうし、それは女系容認論につながりかねないので、一部の報道機関が執拗に愛子内親王叩きを始める可能性も考えられ、それでも国民が愛子内親王の皇位継承を強く支持し続けるかというと、疑問が残ります。個人的には、琴光喜関のファンだった愛子内親王は、双羽黒(北尾)関のファンだった私と同じく、「持っていない人」ではないか、との不安は残ります。

中国軍と韓国軍は「韓国戦争」で、ともに日本と戦った戦友

 1年半ほど前(2017年11月)にネットで、大韓民国の小中学校では、大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と一度も戦争をしたことがなく、「韓国戦争(朝鮮戦争)」では、南では米英仏韓の国連軍が、北では中ソの連合軍が日本軍を追い出したと教えられている、といった内容の情報が流れてきました。1945年、第二次世界大戦で敗北した日本は満洲から追われて朝鮮半島に侵入して占領し、悪逆非道の限りを尽くしたものの、1950年6月25日に始まった「韓国戦争」で、南では米英仏韓の国連軍に、北では中ソの連合軍に朝鮮半島から追い出されたのであり、大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国と戦争をしなかった、というわけです。ほぼ同じ内容の文章がネットで散見されるので、日本社会ではそれなりに知られているのでしょう。

 もちろん、内容は出鱈目なのですが、大韓民国の小中学校ではこうした内容が教えられている、ということを本気にした人はそれなりにいるようです。この文章を引用した人は、大韓民国の小中学校でのこうした教育を批判せず、日本だけを歴史修正主義と批判するから話がおかしくなってくる、と指摘しています。しかし、日本語訳のある『国定韓国高等学校歴史教科書』を参照せずとも、大韓民国の歴代政権の民主化までの強烈な反共主義による国家統制を想起すれば、大韓民国が公教育でのこうした与太話を許可するはずもないので、ガセネタに違いない、と分かりそうなものです。

 1998年以降、大韓民国では「従北」と揶揄されるような「革新」政権がたびたび出現しましたが、強烈な反共主義の系譜の「保守」政権による奪還も見られます。「保守」政権で上記のような内容の教育が許されるとはとても思えませんし、「革新」政権であっても、小中学校で上記のような内容が教えられるようになったとしたら、「保守」派が黙っておらず、アメリカ合衆国も巻き込むでしょうから、「革新」政権が上記のような内容の教育を小中学校で実施させるとはとても思えません。

 朝鮮現代史や大韓民国にほとんど関心のないような人が、上記のガセネタに引っかかるのは、仕方のないところもあるかもしれません。しかし、朝鮮近現代史関連の歴史認識で散々論争するような人が、上記のガセネタを即座に全否定しないようでは、その人の知見が「論争」に耐えるような水準にはとても届かないか、偏見が強すぎて認知が偏っている、言われても当然だと思います。そうした人が「やや保守」と自称し、参考文献を読んできた自分は歴史認識などの論争で比較的中立だと自負したところで、本当に参考文献を理解できているのか、きわめて怪しく、そうした人の言説は価値がないと思われても仕方ないでしょう。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第19回「箱根駅伝」

 アメリカ合衆国横断の駅伝を思いついた金栗四三は、その国内予選として箱根駅伝を計画します。1920年にアントワープでオリンピック大会が開催されることも決まり、四三は歓喜しますが、すぐに資金などの現実的な問題に気づき、悩みます。四三は帰省しますが、早く熊本に戻ってくるよう圧力を受け、まだ東京に拠点を置いてオリンピック大会を目指し、後進育成のための箱根駅伝も計画しているため、居心地の悪さを感じます。しかし、アントワープはまだ第一次世界大戦の被害から立ち直っておらず、また前回のオリンピック大会で死者が出たことから、マラソンは種目に入っていませんでした。嘉納治五郎はこのことを四三に言い出せず、四三はそうと知らずに箱根駅伝の運営に全力を尽くします。

 今回は箱根駅伝の企画から第1回大会までが描かれました。相変わらず、1960年代初頭の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)一門の落語で四三の話を語るという構成になっています。今回、五りんと四三とのつながりに関して、母親がかつて播磨屋で働いていたことだけではなく、父親が箱根駅伝大会に出場したことも明かされ、じょじょに古今亭志ん生と四三とのつながりが見えてきた感もあります。しかし、まだ両者が上手く接続されていないことも確かで、ここが本作の弱点になっており、視聴率低迷の要因なのでしょう。しかし、この後両者が上手くつながってくるのではないか、と私はまだ期待しており、楽しみに視聴を続けています。

デニソワ人についてのまとめ(2)

 2年近く前(2017年9月)に種区分未定のデニソワ人(Denisovan)についてまとめましたが(関連記事)、その後に研究が大きく進展し、情報が古くなったので、再度整理します。当ブログで取り上げながら見落としてしまった関連情報もありそうなので、気づいたら追加・訂正していきます。


●基本情報

 デニソワ人は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、現生人類(Homo sapiens)ともネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とも異なる後期ホモ属の分類群で、種区分は未定です。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。

 これは、デニソワ人に関する最初の研究が公表された2010年3月から2019年4月まで、デニソワ人と確認されている遺骸がいずれも断片的なので、更新世人類としては豊富な遺伝学的情報が得られていたものの、形態学的情報はわずかしか得られていなかったからです。一方、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属は、形態学的情報はそれなりに得られているものの、遺伝学的情報はまったく得られていないため、デニソワ洞窟以外で発見された、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属遺骸のどれがデニソワ人に分類されるのか、照合できない状況が続いていました。

 この状況は、チベット高原東部で発見された右側半分の下顎骨がデニソワ人と分類されたことで、今後大きく変わってくると期待されます(関連記事)。なぜならば、デニソワ人の形態学的情報がじゅうらいよりも大きく増加したため、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属遺骸との照合がずっと容易になったからです。チベット高原東部の下顎骨の分析では、遺骸のタンパク質の総体(プロテオーム)を解析し、アミノ酸配列を識別することで、系統を分類する手法が用いられました。この手法はデニソワ洞窟で発見された人類遺骸でも用いられ、1点の断片的な骨がホモ属と分類されたり(関連記事)、4点の断片的な骨がホモ属と分類されたりしており(関連記事)、その有益性が確認されています。

 まずは、デニソワ人遺骸に関する基本的な情報を以下の表1にまとめましたが、デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人ではない遺骸も含めています。情報は今年1月に公表された研究におもに依拠していますが、推定年代は考古学的と遺伝学で大きく異なる場合もあり、あくまでも目安にすぎません(関連記事)。性別・年代を確認できなかった個体の欄は空白としています。この他にデニソワ洞窟では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析によりデニソワ人と分類された頭頂骨の一部(関連記事)が発見されていますが、まだ詳細な研究が公表されていないと思いますので、今回は表から除外しました。
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●形態学的特徴

 上述のように、チベット高原東部の下顎骨が発見されるまで、デニソワ人の形態学的情報はわずかしか得られていませんでした。そうした中で、デニソワ人に分類されているデニソワ4・デニソワ8の臼歯はたいへん大きく、ネアンデルタール人や現生人類とは異なる祖先的特徴を有する、と指摘されていました(関連記事)。デニソワ4・デニソワ8の年代は異なるので、この臼歯の特徴はデニソワ人の一部の個体に見られる例外ではなく、デニソワ人に共通する特徴である可能性が高そうです。ただ、デニソワ人の臼歯のサイズは鮮新世の人類に匹敵するくらい大きいものの、後期更新世の現生人類やネアンデルタール人の中には、デニソワ人と同程度のサイズの臼歯を有する個体もいます。

 このように形態学的情報が乏しかったデニソワ人ですが、上述したように、チベット高原東部で発見された右側下顎骨(夏河下顎骨)がデニソワ人もしくはそのきわめて近縁な系統と確認され(関連記事)、デニソワ人に関する形態学的情報がじゅうらいよりも大きく増加しました。この下顎骨には歯も残っており、デニソワ洞窟のデニソワ人と同じくらい大きく、またホモ・エレクトス(Homo erectus)よりもネアンデルタール人や現生人類など他の中期更新世ホモ属と類似した点も見られます。ただ全体的には、夏河下顎骨は形態的にネアンデルタール人や現生人類と比較して祖先的特徴がより強いようです。夏河下顎骨と年代の近そうな類似したアジア東部のホモ属遺骸として、台湾沖で発見された下顎骨が挙げられています(関連記事)。また、中国河北省で発見された後期更新世のホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎骨との類似性が指摘されています。デニソワ人はアジア東部に広く分布していたのかもしれません。


●DNA解析と系統樹における位置づけ

 形態学的情報がほとんど得られていなかったため、デニソワ人の研究は遺伝学が主流となりました。まずミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果が2010年3月に公表され(関連記事)、初めてデニソワ人という分類群が提示されました。その後2010年12月に核DNAの解析結果も公表されました(関連記事)。ここで問題となったのは、mtDNAと核DNAとで、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の系統関係が異なることです。ただ、種系統樹と遺伝子系統樹が一致しないことは、たとえばゴリラ・チンパンジー・ヒトのように、分岐してから(進化史の基準では)さほど時間の経過していない種の間では珍しくないので(関連記事)、とくに驚くべきことではないでしょう。

 この不一致は、後期ホモ属間の複雑な交雑と進化を反映しているかもしれないという意味で、注目されます。この問題を考察するうえで参考になるのが、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群です。SH集団には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)、祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。そのため、SH集団は形態学的には、ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人集団か、そのきわめて近縁な集団と考えられます。

 後期ホモ属の各系統の分岐年代は、研究により異なります。たとえば、核DNAに基づく推定分岐年代は、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類の祖先系統では、765000~550000年前頃もしくは589000~553000年前頃、デニソワ人系統とネアンデルタール人系統では473000~445000年前頃もしくは381000年前頃との研究がある一方で(関連記事)、前者を751690年前頃、後者を744000年前頃とする研究や(関連記事)、前者を63万~52万年前頃、後者を44万~39万年前頃とする研究もあります(関連記事)。43万年前頃というSH集団の年代から、後者は遅くとも50万年以上前である可能性が高そうで、歯の分析からは、前者が125万~85万年前頃と推定されています(関連記事)。

 mtDNAに基づく推定分岐年代は、現生人類および(後期)ネアンデルタール人の共通祖先系統とデニソワ人系統とが141万~72万年前頃、ネアンデルタール人の祖先系統と現生人類の祖先系統が468000~360000年前頃です(関連記事)。なお、Y染色体のDNA解析では、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の推定分岐年代は806000~447000年前頃です(関連記事)。以下にmtDNAと核DNAによる後期ホモ属系統樹を掲載しますが、このように推定分岐年代は研究により異なるので、図の年代は確定的ではありません。
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 この図で示されているように、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の系統関係において、mtDNAでは現生人類とネアンデルタール人が近縁関係にあるのにたいして、核DNAではネアンデルタール人とデニソワ人が近縁関係にあります。さらに問題となるのは、SH集団はmtDNAではデニソワ人と近縁で(関連記事)、核DNAではネアンデルタール人と近縁ということです(関連記事)。これら後期ホモ属の系統関係は、おそらく複雑な交雑を反映しているのではないか、と私は考えていますが、現時点ではまだ決定的な解釈は提示されていません。

 現時点で有力な一方の見解は、デニソワ人のmtDNAは遺伝学的に未知の人類系統(既知の人類遺骸の中に存在しているかもしれません)からもたらされたのではないか、というものです(関連記事)。この未知の人類系統は、デニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統と400万~100万年前頃に分岐し、デニソワ人と交雑した、と推測されています。もう一方の有力な見解は、ネアンデルタール人のmtDNAは元々デニソワ人に近く、後にヨーロッパに拡散してきた遺伝学的に未知のホモ属系統(こちらも、既知の人類遺骸の中に存在しているかもしれません)により後期ネアンデルタール人型に置換された、というものです(関連記事)。この未知のホモ属系統は、デニソワ人およびネアンデルタール人系統よりも現生人類系統に近縁で、ユーラシアにルヴァロワ(Levallois)技術をもたらした可能性が指摘されています。SH集団のDNA解析からは、現時点では後者の見解が最も有力だと思います。そうだとすると、ドイツ南西部のネアンデルタール人のmtDNA解析から、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は27万年前頃までに起きたのかもしれません(関連記事)。また、そもそもデニソワ人という分類学的実体があるのか、疑問視する見解も注目されます(関連記事)。

 デニソワ人の間の系統関係については、mtDNAの解析結果に基づく系統樹が、デニソワ洞窟の年代を報告した研究の図4に示されています(関連記事)。
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 より古いデニソワ2および8と、より新しいデニソワ3および4がそれぞれ分類群を形成しています。デニソワ人はデニソワ洞窟一帯に同じ系統が長期にわたって居住し続けたのではなく、気候変動などによりデニソワ洞窟一帯への拡散とそこからの撤退を繰り返し、デニソワ洞窟の10万年以上前のデニソワ人と10万年前以降のデニソワ人は祖先-子孫関係にはなく、異なる系統なのかもしれません。DNAが解析されているデニソワ人はデニソワ洞窟でしか確認されておらず、その遺伝的多様性は、複数の遺跡で発見されているネアンデルタール人とほぼ同等で、世界規模の現代人よりも低くなります。もちろん、デニソワ人にしてもネアンデルタール人にしても、今後の新たなDNA解析により遺伝的多様性が高くなる可能性はあります。なお、デニソワ人の遺骸からではありませんが、環境DNA研究の古代DNAへの応用により、デニソワ洞窟の中期更新世の堆積物からデニソワ人のmtDNAが確認されています(関連記事)。


●現生人類やネアンデルタール人との交雑

 上述のように、デニソワ人はデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統と400万~100万年前頃に分岐した人類系統と交雑した、と推測されていますが、ネアンデルタール人や現生人類との間の複雑な交雑も指摘されています。これら後期ホモ属の系統関係と交雑については昨年3月にまとめましたが(関連記事)、その後も新たな研究が次々と公表されています。デニソワ人もネアンデルタール人も現生人類と交雑しましたが、多少の地域差があるとはいえ、非アフリカ系現代人にほぼ等しく遺伝的影響の見られるネアンデルタール人にたいして、デニソワ人の現代人への遺伝的影響には明確な地域差があり、ユーラシア西部ではほぼ見られない一方で、オセアニアでは顕著に高くなっています(関連記事)。

 デニソワ人の現代人各地域集団への遺伝的影響については、現代人のゲノムに占める他系統由来の領域のうち、ネアンデルタール人とデニソワ人の区別が曖昧なものもあることなどから確定的ではありませんが、最近の研究では、おおむねゲノムに占める割合は、パプア系では4~6%とネアンデルタール人の影響の2%程度より高く、アジア大陸部(南部・南東部・東部)では、0.17~0.33%と推定されています(関連記事)。また、デニソワ人とネアンデルタール人との交雑も指摘されています(関連記事)。ただ、得られたゲノム配列の品質の問題から、ネアンデルタール人や現生人類との交雑がはっきりと確認されているのはデニソワ3だけです(関連記事)。

 デニソワ人と現生人類との交雑の場所はアジア東部もしくは南東部(関連記事)、年代は54000~44000年前頃(関連記事)と推定されています。ただ、これはデニソワ人と現生人類との交雑を1回のみと想定した場合の推定で、複数回の交雑を想定する見解も提示されており、最近では複数回説の方が有力なように思えます。交雑複数回説はおおむね、デニソワ人が複数系統に分岐したことを想定しています。上述のように、デニソワ人は南シベリアとチベット高原東部でのみ確認されていますが、現代人でとくに強い遺伝的影響が見られるのはオセアニアなので、その生息範囲は広かったのではないか、と以前より推測されていました。

 具体的には、現代人に見られるデニソワ人の遺伝的影響の地域差から、デニソワ人は北方系と南方系に分岐し、前者はオセアニア系現代人の祖先と、後者はアジア東部・南部系現代人の祖先と交雑した、との見解が提示されています(関連記事)。さらにその後、デニソワ人は少なくとも3系統に分岐し、それぞれがパプア人系統やアジア東部系統と交雑し、そのうち1系統は3万年前頃以降も存在した可能性があり、ニューギニア島(更新世の寒冷期には、オーストラリア大陸やタスマニア島とも陸続きとなり、サフルランドを形成していました)まで拡散していたかもしれない、との見解も提示されています(関連記事)。以下に掲載する、この研究の図4に、デニソワ人と現生人類との交雑についてまとめられています。
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 デニソワ人とネアンデルタール人の交雑については、デニソワ11が交雑第一世代と確認されています(関連記事)。デニソワ11は母がネアンデルタール人、父がデニソワ人で、13歳以上の女性と推測されています。デニソワ11の父親の系統は、デニソワ11の300~600世代前、つまり1世代を20~30年と仮定すると、136000~85000年前頃にネアンデルタール人と交雑した、と推定されています。ただ、デニソワ11の父親の系統が交雑したネアンデルタール人は、デニソワ11の母親のネアンデルタール人とは異なる系統と推測されています。また、高品質なゲノム配列が得られている唯一のデニソワ人であるデニソワ3の系統と、デニソワ11の父親の系統は、デニソワ3の7000年前に分岐した、と推定されています。なお、デニソワ人とネアンデルタール人の混合集団がオセアニアやアジア東部・南部の現代人の祖先と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。デニソワ人とネアンデルタール人の交雑については、以下に掲載する、昨年8月に両者の交雑第一世代を報告した研究の図4にまとめられています。
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●人口史と生息範囲

 デニソワ人の遺伝的多様性の低さから、デニソワ人系統は現生人類系統との分岐後ずっと人口が減少していったか(関連記事)、人口が増大していっても、集団規模の小さい状態から急速に拡大し、遺伝的多様性が増大するじゅうぶんな時間がなかっただろう(関連記事)、と推測されています。ただ、この推測はデニソワ洞窟のデニソワ人1個体(デニソワ3)のゲノム解析に基づいており、上述のようにデニソワ人には複数系統存在した可能性が高そうなので、各系統は比較的孤立しており遺伝的多様性は低かったとしても、デニソワ人系統はデニソワ3から推測されるよりも遺伝的多様性が高かったのではないか、と思います。

 遺伝的多様性と関連してよく指摘されるのが、ネアンデルタール人やデニソワ人といった非現生人類ホモ属は近親交配のために絶滅したのではないか、ということです。じっさい、デニソワ洞窟のデニソワ人(デニソワ5)は半きょうだい(片方の親を共有するきょうだい関係)のような近親関係にあり、近い祖先の間でも近親交配が多かった、と推測されています(関連記事)。イベリア半島北部のエルシドロン(El Sidrón)洞窟遺跡のネアンデルタール人集団も、近親交配の頻度の高さが指摘されています(関連記事)。ただ、近親交配が習慣となっていて絶滅要因になったというよりは、孤立して衰退していった結果として近親交配の頻度が高くなり絶滅した、考えるべきでしょう。現生人類も含めて更新世のホモ属では、発達異常の多さから近親交配頻度の高さが指摘されていますが(関連記事)、それも孤立・衰退の結果なのだと思います。クロアチアのネアンデルタール人でも(関連記事)デニソワ洞窟のデニソワ人(デニソワ3)でも(関連記事)直近の祖先での近親交配は確認されておらず、非現生人類ホモ属にも近親交配を避けるメカニズムが備わっていた可能性は高いでしょう。

 上述のように、デニソワ人は複数系統に分岐していき、各系統は比較的孤立していたのではないか、と推測されます。現代人におけるデニソワ人の遺伝的影響が、ユーラシア西部系にはほとんど見られず、オセアニア系で顕著に高く、アジア東部や南部でわずかに見られることから(関連記事)、デニソワ人系統はネアンデルタール人系統と分岐した後、ユーラシア東部に拡散した、と推測されます。現時点では、デニソワ人は南シベリアのアルタイ山脈とチベット高原東部で確認されていますが、現代人への遺伝的影響の地理的範囲から、アジア南東部や南部にも存在した可能性が高そうです。デニソワ人の生息範囲については最近まとめましたが(関連記事)、ユーラシア東部に広く拡散し、上述のように(何らかの手段で渡海して)ニューギニア島まで拡散した可能性も想定されます。


●現代人の表現型への影響

 デニソワ人と現生人類との交雑で注目されているのは、現代人に残るデニソワ人由来と推定されるゲノム領域に、適応度に関わるような遺伝子があるのか、ということです。デニソワ人だけではなくネアンデルタール人に関してもよく言われるのが、現生人類はアフリカから世界各地へと拡散する過程で、デニソワ人やネアンデルタール人のような先住人類との交雑により拡散先の地域での適応的な遺伝子を獲得し、それが現生人類の拡散を容易にした、という説明です。具体的には、免疫に関わる遺伝子が取り上げられることが多く、たとえば、現代人のToll様受容体関連遺伝子のうち、ハプロタイプ7がデニソワ人由来と推測されています(関連記事)。その他のデニソワ人由来の免疫関連遺伝子としては、TNFAIP3がインドネシアとパプアニューギニアの現代人で確認されています(関連記事)。確かに、こうした免疫関連遺伝子が現生人類の新たな環境に有利に作用した可能性は高いと思います。ただ、それが現在は免疫疾患の原因となっていることもあるでしょう。

 この他には、現代チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1の多様体がデニソワ人に由来する、と推測されています(関連記事)。このEPAS1遺伝子の多様体は血中のヘモグロビン値を低く抑え、高地への適応を高めます。上述のように、デニソワ人がチベット高原東部にも存在したと明らかになったことから、デニソワ人も高地に適応していた可能性が高くなりました。デニソワ人系統において高地適応関連遺伝子が選択され、それはデニソワ人との交雑を通じてユーラシア東部系現代人の祖先集団にも継承されたのでしょうが、高地に拡散したチベット人系統においてとくに選択圧により定着した、ということなのでしょう。なお、EPAS1遺伝子を含むDNA配列の解析から、チベット人系統においてもデニソワ人との複数回の交雑があった、と推測されています(関連記事)。また、平滑筋細胞の増殖・脂肪生成と関連した遺伝子においても、デニソワ人から現生人類への遺伝子流動の可能性が指摘されています(関連記事)。

 一方、デニソワ人やネアンデルタール人由来の遺伝子のなかには、かつては中立的だったか有益だったのに、現在の環境では適応度を下げているものもあります。免疫機能の強化はアレルギー反応をもたらすかもしれませんし、ネアンデルタール人由来の遺伝子では、鬱病の危険性を高める遺伝子多様体が指摘されています(関連記事)。また、具体的な影響はまだ不明ですが、現代人のゲノムに占めるデニソワ人もしくはネアンデルタール人由来と推定されている領域の割合が、常染色体よりもX染色体の方でずっと低くなっていることから、デニソワ人やネアンデルタール人と現生人類との交雑により繁殖能力が低下したのではないか、と推測されています(関連記事)。さらに、デニソワ人のゲノムの言語や発話・脳およびその発達・脳細胞シグナル伝達に関わる遺伝子のある領域は、現代人系統において排除されたのではないか、と推測されています(関連記事)。ネアンデルタール人のゲノムでも、発話や精巣の形成と関連する遺伝子は現代人では見られない、と指摘されています(関連記事)。

 このように、デニソワ人やネアンデルタール人との交雑は現生人類にとって、免疫関連遺伝子など適応度を上げたものもあるものの、適応度を下げたものもあると推測されます。現代人のゲノムに占めるデニソワ人やネアンデルタール人由来の領域の比率が低い(せいぜい2~6%)なのは、適応度を下げることが多かったからなのでしょう。ネアンデルタール人に関しては、現生人類と比較して人口規模が小さかったので、除去されなかった(強い選択圧に曝されなかった)弱い有害な遺伝的多様体が、交雑の結果より大規模な集団である現生人類に浸透すると除去されるのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、これはデニソワ人にも当てはまりそうです。現生人類がデニソワ人やネアンデルタール人との交雑により適応度を下げる遺伝的多様体を受け取ったのに、現代でもその遺伝的痕跡が残っているということは、後期ホモ属における異なる系統間の交雑が珍しくなかったからだと思います。

 なお、デニソワ人やネアンデルタール人との交雑が現生人類の適応度を下げたのは、染色体数が異なっていたからだ、との見解もありますが、デニソワ人の染色体数は現代人と同じく46本である可能性がきわめて高いので、系統関係から推測すると、ネアンデルタール人の染色体数も46本である可能性が高いと思います(関連記事)。つまり、現代人以外の現生大型類人猿(ヒト科)の染色体数は48本なので、チンパンジー系統と現代人系統の最終共通祖先の染色体数も48本だったものの、それ以降、遅くともデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の最終共通祖先の時点では46本に減っていた可能性が高い、というわけです。なお、デニソワ人の肌・髪・眼の色は比較的濃かった、と推測されています(関連記事)。


●考古学的文脈と象徴的思考能力

 デニソワ洞窟のデニソワ人は考古学的な年代区分では、中部旧石器時代早期から中部旧石器時代中期を経て上部旧石器時代初頭(Initial Upper Palaeolithic)まで存在したことになります(関連記事)。デニソワ洞窟の中部旧石器時代の人工遺物は広い意味でネアンデルタール人と共通するところが多そうですから、デニソワ人がユーラシア西方から拡散してきたか、ユーラシア西部起源のネアンデルタール人が東進してきて中部旧石器をもたらしたのではないか、と思います。中部旧石器は伝統的な5段階の石器製作技術区分では様式3(Mode 3)となります(関連記事)。じゅうらい、アジア東部では様式3の石器技術は少ないとされていたのですが、近年では、北部となる中国内モンゴル自治区で47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)様石器群が(関連記事)、南部となる貴州省では17万~8万年前頃のルヴァロワ(Levallois)技術石器群が発見されています(関連記事)。これらの中部旧石器の製作者がどの人類系統なのか不明だったのですが、チベット高原東部におけるデニソワ人の存在が確認されたことから、デニソワ人だった可能性は低くないと思います。

 デニソワ人の文化が中部旧石器であることは激しい議論を惹起しないでしょうが、問題は上部旧石器時代初頭の人工遺物、とくに装飾品のような象徴的思考能力の証拠となり得るものです。ネアンデルタール人に関しては、装飾品を製作したり壁画を描いたりした証拠が蓄積されつつあり(関連記事)、現生人類と同等ではないかもしれないとしても、一定水準以上の象徴的思考能力を有していた、と考えられます。そのため、ネアンデルタール人と近縁なデニソワ人にも一定水準以上の象徴的思考能力を想定できます。おもに今年1月に公表された研究(関連記事)に依拠して、以下の表2にデニソワ3より上層のデニソワ洞窟の上部旧石器時代初頭の主要な人工遺物をまとめました。
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 その他にもデニソワ洞窟では、50000~45000年前頃となるマンモスの牙製のティアラと思われる装飾品が発見されています(関連記事)。またその後の研究では、デニソワ洞窟の上部旧石器時代初頭の飾品や骨器の年代は48000~45000年前頃と推定されています(関連記事)。ロシアの研究者には、これらの人工遺物の製作者をデニソワ人と考える傾向があるようで(関連記事)、その可能性もあるとは思いますが、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の現生人類DNA解析(関連記事)からは、現生人類がシベリアに到達したのは46880~43200年前頃と推定されているため、現生人類の所産である可能性の方が高いように思います。ただ、デニソワ人の本格的な研究はまだ10年に満たず、最近になって形態学的情報が飛躍的に増加し、今後研究が大きく進展しそうなので、現時点では判断を保留しておくのが無難かな、と思います。

佐藤信『日本古代の歴史6 列島の古代』

 『日本古代の歴史』全6巻の第6巻として2019年3月に吉川弘文館より刊行されました。本書は第1巻~第5巻で扱われた、更新世~平安時代にかけての概説となっており、ユーラシア東部世界を視野に入れた叙述になっていることと、考古学的成果も積極的に取り入れているのが特徴です。本書は、更新世~平安時代という長期間を対象とした概説だけに(更新世~縄文時代への言及はきわめて少ないので、実質的には弥生時代以降となりますが)、第1巻~第5巻と比較してやや薄くなっていることや、源頼朝が征夷大将軍に固執していたとの認識など、疑問の残る見解があることは仕方ないかな、とは思います。

 ただ、10世紀には国司のなかでも長官に権限が集中していったことが再度述べられているように、更新世~平安時代という長期間を対象とした概説として、こうした繰り返しはやや構成に問題があるように思います。あるいは、これは本書の刊行の遅れと関連しているのかもしれません。また、長期間を対象とした概説として、考古学的成果も取り入れたいのは分かるとしても、平城京の解説はやや細かすぎるのではないか、と思います。本書は、中央政治史・地方情勢・文化史と多岐にわたっての解説となっているだけに、平城京に関する細かい考古学的成果は、どうも浮いているように思います。どうも本書は、大まかな概説とするのか、特定の観点からの通史とするのか、焦点が定まっていないように思います。率直に言って、『日本古代の歴史』第1巻~第5巻まではなかなか楽しんで読み進められただけに、本書は期待外れでした。ただ、これは期待値が高かったからでもあり、弥生時代~平安時代の概説としては、一読の価値があると思います。


なお、第1巻~第5巻の記事は以下の通りです。

木下正史『日本古代の歴史1 倭国のなりたち』
https://sicambre.at.webry.info/201307/article_28.html

篠川賢『日本古代の歴史2 飛鳥と古代国家』
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_10.html

西宮秀紀『日本古代の歴史3 奈良の都と天平文化』
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_20.html

佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』
https://sicambre.at.webry.info/201402/article_25.html

坂上康俊『日本古代の歴史5 摂関政治と地方社会』
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_17.html

歯の進化率から推測されるネアンデルタール人と現生人類の分岐年代

 歯の進化率からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の分岐年代を検証した研究(Gómez-Robles., 2019)が報道されました。ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代には高い関心が寄せられており、議論が続いています。ネアンデルタール人と現生人類の事例に限らず、DNA変異率は領域により異なると予想されることから、系統間の分岐年代の推定は難しくなっています。また近年では、ネアンデルタール人と近縁な種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の存在も明らかとなり(関連記事)、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐年代も注目されています。まず、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類系統とが分岐し、その後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐した、と推測されています(関連記事)。

 これら後期ホモ属の各系統間の推定分岐年代に関して具体的には、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と現生人類の祖先系統では、765000~550000年前頃もしくは589000~553000年前頃、デニソワ人系統とネアンデルタール人系統では473000~445000年前頃もしくは381000年前頃との研究がある一方で(関連記事)、前者を751690年前頃、後者を744000年前頃とする研究や(関連記事)、前者を63万~52万年前頃、後者を44万~39万年前頃とする研究もあります(関連記事)。近年では大まかに言えば、前者を60万~50万年前頃、後者を50万~40万年前頃とする見解が有力であるように思います。

 しかし、その年代は、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃のホモ属遺骸群を考慮に入れると、もっとさかのぼる可能性が高い、と本論文は指摘します。SH集団には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)、祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。そのため、SH集団は形態学的には、ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人集団か、そのきわめて近縁な集団と考えられます。また核DNA解析でも、SH集団はデニソワ人よりもネアンデルタール人の方と近縁と推測されています(関連記事)。そのため、ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐年代が45万年前頃以降とは考えにくく、そうすると、ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代も現在の有力説よりさかのぼることになります。

 本論文は、歯の進化率の定量的データからネアンデルタール人と現生人類の分岐年代を推測しています。以下、本論文の著者の以前の論文(関連記事)に倣って、ネアンデルタール人と現生人類の分岐年代を[N-MH]LCA(ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先)年代と表記します。本論文の見解は、同じ問題を扱った以前の論文と、大きな違いはありません。著者の人類の各系統の歯の進化率には大きな違いはなく、[N-MH]LCAの推定年代により各系統の進化率は異なってきます。本論文はこれを用いて、人類の各系統の歯の進化率を推定し、より可能性の高い[N-MH]LCA年代を検証しています。

 SH集団の歯は、ネアンデルタール人の歯と複数の類似性を示しつつも、祖先的特徴と派生的特徴とが混在しています。本論文は、SH集団の歯の進化率が他の人類系統と大きく変わらないのであれば、[N-MH]LCAの年代は80万年前頃よりも新しくなりそうにない、と指摘します。逆に、SH集団の歯の進化率が高ければ、[N-MH]LCAの年代は80万年前頃以降になるわけです。しかし本論文は、そうした選択圧の証拠はなく、ホモ・またエレクトス(Homo erectus)の歯から推測されるような祖先的な形態や、SH集団の歯の形態からも、とくに機能的な意味はなく、強い選択圧があったとは考えにくい、と指摘します。ただ、現代人のうちアメリカ大陸先住民とアジア東部集団に高頻度で見られるシャベル状切歯と関連している遺伝子が、汗腺密度や乳腺管分岐とも関連していると推測されているように(関連記事)、歯の形態と関連する遺伝子が他の表現型とも関連しており、その表現型に強い選択圧が生じた場合は、歯の進化率が高くなることも想定されると思います。

 また、SH集団の歯の形態が強い創始者効果のためだとすると、[N-MH]LCA年代が80万年前頃以降という可能性も考えられます。その場合、SH集団の祖先集団に、SH集団で定着した独特な歯の特徴が存在したと考えられます。イベリア半島がヨーロッパで孤立した地域となった可能性もあることから、本論文はこの仮説の有効性を認めています。しかし、化石記録の少なさからこの仮説の可能性を除外できないとはいえ、現時点ではこの仮説を支持する証拠もない、と本論文は指摘します。

 SH集団が異なる人類系統間の交雑系統であるとすると、[N-MH]LCA年代が80万年前頃以降とも考えられます。形態的にも、SH集団には祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴とが混在しています。しかし、SH集団には現生霊長類の交雑初期世代に見られるような骨格異常が見られないことから、SH集団が交雑系統である可能性はあるものの、現時点ではとくに強く支持されるわけではない、と本論文は指摘します。このように、[N-MH]LCAの年代が80万年前頃以降という可能性を排除できるわけではないものの、積極的に支持できるわけでもない、というのが本論文の見解です。

 本論文は、[N-MH]LCA年代は80万年以上前で、SH集団の歯の進化率は他の人類系統とさほど変わらなかった、との想定が最も節約的と指摘します。[N-MH]LCAが80万年以上前だとすると、これより新しい人類化石はその候補となりません。たとえば、ハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)として一括されるヨーロッパやアフリカやアジアのホモ属化石群です。ただ本論文は、[N-MH]LCA年代が古くなりすぎると、ホモ・エレクトス系統と分岐した後のデニソワ人・ネアンデルタール人・現生人類の共通祖先系統の歯の進化率が高くなりすぎるため、[N-MH]LCA年代としては125万~85万年前頃の可能性が高そうだ、とも指摘しています。この年代は、現在の遺伝学の有力説と比較すると確かに古すぎますが、上述したように遺伝学では近い推定年代も提示されており、あり得ないほど古い年代とは言えないと思います。本論文が指摘するように、より正確なホモ属の進化過程の復元には、新たな化石の発見と既知の化石の再評価が不可欠で、今後もできるだけ研究の進展を追いかけていきたいものです。


参考文献:
Gómez-Robles A.(2019): Dental evolutionary rates and its implications for the Neanderthal–modern human divergence. Science Advances, 5, 5, eaaw1268.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw1268

樹脂の塊から解析されたスカンジナビア半島の中石器時代の古代DNA

 スカンジナビア半島の中石器時代の古代DNAに関する研究(Kashuba et al., 2019)が報道されました。古代DNA研究では、早期氷河期以後のヨーロッパには、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)・スカンジナビア狩猟採集民(SHG)という3集団の存在が指摘されています。SHGはWHGとEHGの混合と推測されています(関連記事)。これは、最終氷期終了後のスカンジナビア半島への人類集団の移住に、南からの11500年前頃のWHG、北東からの10300年前頃のEHGという2経路があったことを示唆し、考古学的証拠とも一致します。この記事の年代は、放射性炭素年代測定法による較正年代です。ただ、DNAが解析されたSHGとヨーロッパ東部の早期石刃製作技術との直接的関連はまだ確認されていませんでした。この件もそうですが、古代DNA研究における問題の一つは、DNA解析された個体と物質文化とのつながりが明確でない場合も少なくないことです。

 本論文は、スウェーデンの中石器時代のヒューセビークレヴ(Huseby Klev)遺跡(HK遺跡)で発見された、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊8点から3人(ble004・ble007・ble008)のDNAを解析しました。このうち女性は2人、男性は1人です。中部旧石器時代以降、カバノキ属の樹皮の樹脂の塊は石器製作で接着剤として使われていました。当時の人々はこの樹脂の塊を噛んで接着剤として用いており、じっさい、歯型が残っています。年代は10040~9610年前頃で、スカンジナビア半島で確認された人類のDNAとしては最古となります。DNA解析により3人のゲノム規模データが得られました。網羅率は0.10倍・0.11倍・0.49倍です。ble004とble007は二親等程度の関係と推測されています。ミトコンドリアDNAハプログループ(mtHg)は全員U5a2dと分類されました。

 ゲノム規模データからは、HK遺跡の3人がスカンジナビア半島の最初期人類集団と遺伝的にひじょうに近縁だと明らかになり、SHG をWHGとEHGの混合とする推測が改めて確認されました。また、HK遺跡ではヨーロッパ東部の石器技術の影響が確認されており、HK遺跡の3人のDNA解析は、SHGとヨーロッパ東部平原の石器技術との直接的関連を示したという点でも注目されます。HK遺跡の3人は、EHGよりもWHGの遺伝的影響が強い、と明らかになりました。以前の研究ではヨーロッパ東部平原文化の影響から、SHGにおけるEHGの強い遺伝的影響が想定されていました。本論文は、スカンジナビア半島における最初期人類集団では、遺伝子流動を伴わないような文化交流もあったのではないか、と推測しています。

 カバノキ属の樹皮の樹脂の塊には、乳歯で噛まれた痕跡もあることから、子供も作業に関わっていたと推測されます。上述のように、男女ともにこの作業に関わっていましたから、子供にはまだ性別分業が確立していなかった、とも考えられます。カバノキ属の樹皮の樹脂の塊のような咀嚼物は、人類の遺骸がなくとも、古代DNA研究を可能にしますから、今後大きく古代DNA研究を発展させるのではないか、と期待されます。また本論文は、こうした咀嚼物が当時の環境・生態系・口腔微生物叢の情報源となり得ることを指摘しており、この点での研究の進展も楽しみです。


参考文献:
Kashuba N. et al.(2019): Ancient DNA from mastics solidifies connection between material culture and genetics of mesolithic hunter–gatherers in Scandinavia. Communications Biology, 2, 185.
https://doi.org/10.1038/s42003-019-0399-1

ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』53話~56話

53話「ジーパン刑事登場」8
 マカロニが殉職し、新たに一係に配属になったのはジーパンでした。ジーパンは、やはり存在感があり、初登場回から多くの視聴者に強い印象を残したのではないか、と思います。人物造形の方も、未熟な若手刑事と拳銃嫌いという設定が、今回だけではなくその後も上手く機能しており、ジーパンの登場から殉職までの1年1ヶ月ほどは、若手刑事の成長物語という側面が強くなっているように思います。マカロニに関しては、あまり成長物語といった感じはなかったのですが、1年での降板が当初は想定されていなかったこともあるのでしょうか。ジーパン以降の若手刑事の多くには、成長物語としての側面が見られるように思うので、本作の路線を決定づけるうえで、ジーパンの役割は大きかったと思います。

 話の方は、ジーパンが自分の境遇を犯人と重ね合わせ、共感するところもあり、犯人も若い男性なので、青春ものといった感じになっています。犯人が狂気を秘めた役だったのは、いかにも本作の鎌田敏夫氏脚本とった感じです。それにしても、マカロニが殉職して大変なのは分かりますが、淡々とした感じでマカロニの後釜はいつ来るのですか、とボスに尋ねた殿下には驚かされました。シンコ・ゴリさん・山さん・長さんもマカロニの死を吹っ切れすぎているな、と思う描写もありましたが、ゴリさんが拳銃を持たないジーパンに怒鳴った場面で、マカロニの死を引きずっており、無理をして元気に振舞っているのだな、と明示されました。また、今回から事務員として久美ちゃんが登場したことも注目されます。この頃になると、各刑事のキャラ・若手刑事の成長物語といった基本的な構造・7人前後の刑事と事務員といった本作の一般的な印象に近づきあるように思います。マカロニ編は全体的に面白かったのですが、視聴率的な意味での本作の全盛期というか、多くの視聴者にとっての『太陽にほえろ!』像からすると、かなり異質だとは思います。


54話「汚れなき刑事魂」7
 スナックで爆発事件が起き、3人が即死します。冒頭で店員の若い男性の怪しい動きが描かれ、犯人であることが強く示唆されます。その男性はジーパンの知り合いで、山さんがその男性を容疑者の一人として挙げたことにジーパンは強く反発します。ジーパンを山さん・長さん・ゴリさん、とくに山さんが教育していくといった感じで話が進み、未熟な若手刑事と教育係としてのベテラン刑事という王道的な構成となっています。けっきょくジーパンの知り合いが犯人で、若手刑事の未熟さと苦悩を強調する構成も王道的だと思います。ジーパンのアクションシーンはやはり魅力的で、最後の手錠を手で強引に外す場面はさすがにやり過ぎといった感もありますが、娯楽ドラマとしては有だと思います。メインゲストは水谷豊氏で、今となっては貴重な映像と言えるでしょう。


55話「どぶねずみ」7
 銃砲店が襲撃され、一家は殺害されてライフル銃が盗まれます。犯人はすぐには事件を起こさず、捜査も行き詰りますが、ジーパンが老女に頼まれていた犬の捜索から、偶然犯人に行き当たります。事件とイヌの捜索がどう結びつくのか、気になっていたのですが、なかなか工夫されていると思います。犯人は本作ではたまに見る狂気を秘めた男性で、脚本は本作でそうした犯人を描くことの多い鎌田敏夫氏なので、いかにもといった感じです。人付き合いがあまり上手くなさそうなジーパンが、人間不信に陥っている同じく若者の犯人の心理を把握するという構造は、しっかりと計算されているな、と思います。犯人の人物像があまり掘り下げられなかったのは残念ですが、まずまず楽しめました。今回、本庁から平田昭彦氏の演じる西山警部(後に警視)が捜査に関わってきて、次の異動で七曲署の署長に赴任する、とボスに伝えます。本作の署長といえば、やはり出演期間が長期にわたっただけに、まず平田氏を思い浮かべる視聴者が多いことでしょう。西山警部がジーパンにジーパンの父親のことを話すなど、ジーパンのキャラを立てようという工夫が見られます。西山警部とジーパンとを対照的に描いた苦い結末も悪くなかったと思います。


56話「その灯を消すな」6
 街を支配しようとする暴力団の前に、人々が屈服しそうになる中、若い男性をゴリさんが必死に庇う話です。かつて街を支配していた暴力団の組長が暴力団同士の抗争で人を殺してしまい、ゴリさんは怯える若い男性の証人を説得し、その証言のおかげで組長は逮捕されます。ゴリさんは証人の若い男性に、組長が出所しても必ず守る、と約束します。組長が出所することになり、ゴリさんは約束を守るべくその街に赴きます。ゴリさんは、地元の警察署に妨害され、暴力団に殴られて蹴られても耐え抜き、ついにかつて世話をした男性から重要な証言を得て、組長を逮捕に追い込みます。体力に優れた好漢であるゴリさんの個性がよく活かされており、この頃には各刑事のキャラが固まりつつあることを窺わせます。しかし、けっきょく若い男女は街を追われることになり、爽快感もあるものの、苦い結末となりました。終盤がやや急展開だったのは残念ですが、ゴリさんの活躍は楽しめました。ゴリさんが庇う若い男性を演じたのは北條清嗣(今回は北條清名義)氏で、本作の常連の一人ですが、善人役で出演したのは今回だけだと思います。

文在寅大統領に関する備忘録

 大韓民国の文在寅大統領について、覚えているうちにこれまで得た情報をまとめておきます。

●日本への関心は低い
 2017年の大統領選の時からすでに専門家に指摘されていたと記憶していますが、文在寅大統領は「反日」なのではなく、そもそも日本への関心が低いそうです。これは、バブル崩壊以降、世界における日本の相対的な経済的地位および影響力が低下し、それは大韓民国にとっても同様だからなのでしょう。大韓民国では、日本はもはや特別に重要な外国ではなく、それ故に軽視してもかまわない、といった雰囲気が強くなりつつあるのでしょうか。

●確たる対日政策はない
 文在寅政権を「反日」と解釈する一般層が日本では多いようですが、上述のように文在寅大統領をはじめとして現在の政権要人の多くは日本にさほど関心を抱いておらず、日本の相対的な地位低下にともない、日本にはぞんざいに対応してもよい、というような雰囲気があるというか、そもそも確たる対日政策が定まっていないそうです。それが、多くの日本人にとっては、「反日」に見える、という側面があるようです。

●確たる対中政策もない
 大韓民国はもはや「西側陣営」から中華人民共和国側に「寝返った」と、考えている日本人は少なくないかもしれません。しかし、革新とされる文政権には確たる対中政策もないようです。もっとも、大韓民国における中華人民共和国の影響力は、とくに経済面においてたいへん強く、また中華人民共和国は日本よりもずっと「怖い国」なので、さすがに日本よりはずっと丁寧に対応しているようです。大韓民国では、財界の意向により強く左右される保守政権の方が、経済面での利害関係から、対中関係には積極的なようです。

●強烈な民族主義
 文政権に確たる対日・対中政策がない根本的な要因は、その強烈な民族主義にあるようです。朝鮮民主主義人民共和国にたいしては同民族ということで強い共感を抱き、それは人権という普遍的価値観を上回っているようにさえ見えます。「従北」とも揶揄される文在寅政権にとって、朝鮮民主主義人民共和国との何らかの形での統一は悲願であり、それ故に朝鮮民主主義人民共和国および南北朝鮮和解のための最重要国(障壁)になっているアメリカ合衆国との関係に注力しているので、対日・対中政策が疎かになっているようです。

●外交の天才
 2017年11月にアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領が大韓民国を訪問し、国会で演説しました。これも含めて就任半年までの外交的成果から、文在寅大統領を「外交の天才」と評する人もいたようです(関連記事)。この評価は、2018年6月の米朝首脳会談の頃までは本気で主張する人もいたように思います。日本でも、「リベラル」系のアカウントが本気でそう主張していたように記憶しています。しかし、現時点では、文在寅大統領はトランプ大統領にも朝鮮民主主義人民共和国の金正恩国務委員会委員長にも、不信感を抱かれているように思います。文大統領は強烈な民族主義から朝鮮民主主義人民共和国との和解、さらには統一への道筋をつけたい、と対北政策にのめり込むあまり、米朝首脳会談を実現させるべく無理を重ねてしまい、トランプ大統領にも金委員長にも、2019年2月の第2回米中首脳会談の失敗の戦犯とされてしまったように見えます。文大統領が大韓民国の国力と自身の力量を超えた仲介役になろうとして失敗したのではないか、と思います。最近では、さすがに日本でも、文大統領を「外交の天才」と本気で主張する人はほぼいないようで、もっぱら大韓民国に好感情を抱いていない人々が、文大統領への揶揄として用いているようです。こうした外交の失敗と、何よりも経済政策の迷走により、文大統領の支持率は就任当初よりかなり低下しています。

宇垣美里氏「私自身、昔からやっかみを受けやすかった」

 2019年5月14日付読売新聞朝刊の特別面に、作家の朝井リョウ氏とフリーアナウンサーの宇垣美里氏の対談が掲載されています(ネットでも公開されています)。朝井氏から読書遍歴を訊かれた宇垣氏は、原点に近い本として坂口安吾『堕落論』と山田詠美『風葬の教室』を挙げ、虐めを受けている女子転校生がどう立ち向かうか、という話の後者は、「私自身、昔からやっかみを受けやすかったので勉強になりました」と述べています。宇垣氏は今年(2019年)3月にTBSを退社しており、近年では民放地上波放送をほぼ視聴しなくなった私でも退社前から知っているくらいなので、知名度はかなり高いと思います。

 宇垣氏の容貌から考えて、「やっかみを受けやすかった」ことは事実である可能性が高いだろうな、とは思います。少なくとも、宇垣氏はそう確信しているのでしょう。ただ、多くの人はそう思っても公言しないでしょうから、宇垣氏は正直な人とも言えます。宇垣氏は長田高校出身とのことですから、中学時代は校内で成績上位だったのでしょうし、ミスキャンパスにも選ばれ、何よりもTBSアナウンサーに採用されたわけですから、多くの人よりもずっと自己肯定感を得る機会があったのでしょう。「闇キャラ」を前面に出せるのも、自分に確たる自信があるからなのだろう、と思います。

 もっとも、ネットで検索してみた限りではそれなりにいそうな宇垣氏のアンチは、「やっかみを受けやすかった」発言は宇垣氏の傲慢・性格の悪さは表れで、まともな指摘・批判も多かったのではないか、と主張するかもしれません。確かに、そう解釈されても仕方のないところがあるとは思います。アンチにとって、宇垣氏の「やっかみを受けやすかった」発言は都合の良い攻撃材料となることでしょう。宇垣氏の容貌が好みの私としては、宇垣氏の発言をできるだけ好意的に解釈したいところではありますが。

 結局のところ、ある発言を問題視するか否か、あるいは好意的に受け取るか否かは、発言者の属性に依拠しているところが多分にあります。誰が発言したかではなく、発言内容で評価せよ、との意見は正論ではありますが、発言内容を深く理解するには発言者の属性を把握しておいた方がよいことも珍しくないでしょうし、常識論になりますが、発言内容とともに発言者の属性も気に留めておくのが無難なのだと思います。まあ、政治問題はとくにそうですが、あまりにも発言者の属性を意識しすぎると、誤解してしまうことも珍しくなく、私も人物の好き嫌いの激しい方だと自覚しているので、注意せねばなりません。

「縄文人」のゲノム解析(追記有)

 「縄文人」のゲノム解析について報道されました。「縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できた」とのことですので、「縄文人」としては初めて高品質なゲノム配列が決定された、ということでしょうか。この「縄文人」は北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性です。表現型では、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛で、瞳は茶色で酒に強く、耳垢は湿っていることなどが明らかになったそうです。また、北極圏の住民に多く見られる、脂肪分の多い食べ物を代謝するのに有利に働く遺伝子の変異も見つかり、狩りや漁を中心とした生活の様子が裏づけられた、とのことです。

 この船泊遺跡の「縄文人」女性から、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度と推定されています。また、「縄文人」の祖先は、38000~18000年前頃に、ユーラシア大陸の住民から分岐したと推定されているそうです。「縄文人」は遺伝的には、台湾先住民・韓国人・極東ロシアのウルチ人など、アジア東部沿岸の南北に広範な人々と近いことが明らかになった、とのことです。これらの情報はおおむね、篠田謙一氏の昨年(2018年)の解説記事(関連記事)や今年3月に刊行された著書(関連記事)で明らかにされていたので、とくに意外な感はありません。

 ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度との推定に関しては、まだ確定的とは言えないでしょう。篠田氏の今年3月に刊行された著書では、現代日本人には東日本よりも西日本の「縄文人」の方がより多くの遺伝的影響を残していると推定されることと、縄文時代と現代のミトコンドリアDNAハプログループの比較から、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は20%程度になりそうだ、と推測されています。今後、「縄文人」やユーラシア東部の古代DNA研究が進めば、「縄文人」がどのように形成されたのか、また現代日本列島にどの程度の遺伝的影響を残し、地域差はどれくらいあるのか、といったことがより詳細に解明されるのではないか、と期待されます。


追記(2019年5月14日)
 国立科学博物館からのプレスリリースが公表されました。船泊遺跡の「縄文人」のゲノム解析に関する論文は今月(2019年5月)下旬に公表予定とのことです。

ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先集団のユーラシアでの進化

 『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』では、ホモ属の分岐がユーラシアで起きた、と主張されています(関連記事)。ホモ属としてエレクトス(Homo erectus)が最初にアフリカからユーラシアへと拡散し、ユーラシアでネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)などに分岐していき、アフリカに「戻った」一部の系統から現生人類が派生した、というわけです。これは、現生人類系統がアフリカでずっと進化したと仮定する有力説よりも、ホモ属の大規模な移住回数をより少なく想定できることが根拠の一つとなっています。

 同書は、有力説に従うと、ホモ属の大規模な移住が4回必要になる、と指摘します。その4回とはいずれもアフリカからユーラシアへの移動で、180万年以上前のエレクトス、その後の「超旧人類」、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先、現生人類です。「超旧人類」とは、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と140万~90万年前頃に分岐し、デニソワ人と交雑した、と推測されている遺伝学的に未知のホモ属です(関連記事)。一方、エレクトスによるホモ属最初の出アフリカの後、ユーラシアでホモ属が分岐していった、とする同書の見解では、ホモ属の大規模な移住は、180万年以上前のエレクトスの出アフリカ、エレクトスの子孫系統の一部のユーラシアからアフリカへの「帰還」、現生人類の出アフリカの3回と想定されるので、有力説より節約的というわけです。

 しかし、こうしたアフリカとユーラシアの間のホモ属の移動は珍しくなく、現代人には遺伝的影響を残していない人類系統によるアフリカからユーラシアへの拡散も少なからずあった、と考えると、ホモ属の大規模な移住の回数をより少なく想定できるからといって、同書の見解が説得的であるとは言えないように思います。このように考えるのは、現代人の祖先ではなさそうな人類系統の出アフリカが珍しくなかったことを示唆する証拠が提示されているからです。たとえば、中国北部では212万年前頃の石器が発見されています(関連記事)。これは現時点ではほぼ完全に孤立した証拠で、どの人類系統の製作なのか、不明です。エレクトスかもしれませんが、現時点では可能性は低いと考えるべきでしょう。240万~140万年前頃にアフリカにいた、ハビリス(Homo habilis)のようなエレクトス以前のホモ属や、ホモ属よりも前(一部はホモ属と共存)の人類であるアウストラロピテクス属が、この212万年前頃の石器を製作した可能性も提示されています。

 こうした可能性は、他の証拠からも支持され得ます。ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された人類遺骸には、アウストラロピテクス属的な祖先的特徴とホモ属的な派生的特徴とが混在しており、脳もホモ属としては小さく、推定脳容量は546~780㎤です(関連記事)。また、アジア南東部の島嶼部で発見された人類遺骸の中には、ホモ属に分類されているものの、その祖先的特徴から、アウストラロピテクス属的特徴の強い系統の子孫と推測されているものもあります。一方は、インドネシア領フローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)で(関連記事)、もう一方は、ルソン島で発見されたホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)です(関連記事)。私は、フロレシエンシスもルゾネンシスもエレクトスから派生し、祖先的とされる特徴は島嶼化による小型化に起因するのではないか、と考えていますが、中国北部の212万年前頃の石器の事例からも、エレクトスよりも前のアウストラロピテクス属的特徴を強く保持する人類系統が、220万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した可能性は高いと思います。

 そうすると、ホモ属も含めて人類の大規模な出アフリカはきょくたんに珍しいことではなく、大規模な移住回数をより少なく想定できることは、仮説の確たる根拠にはなり得ない、と思います。もちろん、アフリカからユーラシアへと拡散した人類がアフリカに「戻る」こともあったでしょうし、そうした系統の中から現生人類が派生した可能性もあるとは思います。また、スペイン北部で発見された96万~80万年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)に、現生人類とネアンデルタール人双方の特徴が見られることも『交雑する人類』は根拠として挙げており、同書のホモ属進化に関する見解に一定以上の説得性があることは確かでしょう。しかし今後、現生人類とネアンデルタール人双方の特徴が見られる100万年前頃のホモ属化石が、アフリカで発見される可能性はかなり高いのではないか、と私は予想しています。

ポーランド南部の後期新石器時代集団墓地の被葬者のDNA解析

 ポーランド南部の後期新石器時代集団墓地の被葬者のDNA解析に関する研究(Schroeder et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の集団墓地で2011年に発掘調査が行なわれました。この集団墓地は球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(GA)と関連しており、殺害された成人と子供の計15人が丁寧に埋葬されていました。16点の放射性炭素年代測定から、この虐殺事件は紀元前2880~紀元前2776年と推定されました。

 埋葬された15人の内訳は、男性が8人、女性が7人です。男性のうち成人が3人、10代が2人、10歳未満の子供が3人で、女性のうち成人が5人、10代が2人です。最高齢は50~60歳の女性で、最年少は1.5~2歳の男児です。この15人のゲノムが解析され、網羅率は1.1~3.9倍です。コシツェなどGA集団は、遺伝的には旧石器時代~中石器時代以来のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とアナトリア半島起源の新石器時代農耕民集団(ANF)の混合により形成され、WHGよりANFの方が影響は強くなっています。これはヨーロッパの他地域の新石器時代農耕民集団と同様です。ゲノム解析から表現型も推測されており、この15人はほとんど、褐色の目、黒もしくはダークブロンドの髪と、中間的から濃い肌の色を有していました。

 この15人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAも解析されました。mtDNAハプログループ(mtHg)はHV0aやK1a1b1eなど6タイプに分類されましたが、8人の男性のY染色体DNAハプログループ(YHg)は全員I2a1b1a2b1に分類されました。ホモ接合性から、この15人では近親交配の痕跡はない、と推測されています。この15人では、近親度からおもに4つの核家族が確認されました。母親が子供を抱き、きょうだいが隣同士になっているなど、親族関係に応じた埋葬になっていることから、この15人をよく知る者が埋葬した、と考えられます。この件に関して興味深いのは、母親と息子の組み合わせが4組存在するのにたいして、父親と息子の組み合わせは1組しか存在しないことで、被葬者の父親たちがこの15人を埋葬した可能性を本論文は提示しています。

 YHgの分析から、コシツェ遺跡のGA集団は父系的社会を形成していた、と考えられます。後期新石器時代~初期青銅器時代のドイツのバイエルン州南部では父系的社会の存在が確認されており(関連記事)、当時ヨーロッパ中央部では父系的社会が一般的だったのかもしれません。ただ、コシツェ遺跡の男女間で、ストロンチウム同位体比の明確な違いは確認されませんでした。しかし、mtHgの多様性とYHgの単一性から、コシツェのGA集団は父系的だった、と本論文は指摘します。GA集団はおもにウシの牧畜に依存していたようです。この生業形態の遊動性は、分裂と融合の流動的な社会を形成したと考えられます。コシツェ遺跡の15人のストロンチウム同位体比からも、比較的高い遊動性が示唆されています。コシツェ遺跡のGA集団は父系的で大規模な拡大家族を形成していた、と推測されています。

 コシツェ遺跡の15人には全員、負傷の痕跡が見られ、最も一般的なのは頭蓋の骨折です。これは、頭部への強打が死因だったことを示唆します。上肢の骨折がないことから、この15人は戦死したのではなく、捕らえられて処刑された、と推測されます。これは、ヨーロッパ先史時代の特定段階における広範で高頻度の暴力パターンに当てはまり、新石器時代には、人口圧力から資源や土地をめぐる競争が激化したのではないか、と推測されます(関連記事)。新石器時代における集団間の紛争は、共同体全体を標的とするか、男性に特化しているかのどちらかに分類されるようで、後者の場合、成人女性や子供は捕虜の対象です。コシツェ遺跡の場合は、儀式的暴力や家族内殺人の可能性も排除できませんが、共同体全体が標的とされていただろう、と本論文は推測します。成人男性が少ないことから、彼らは襲撃時に集落から離れた場所にいたか、逃亡した、と本論文は推測しています。あるいは、コシツェ遺跡の成人男性が狩猟や他集落の襲撃に出かけた隙を狙われたのかもしれません。

 紀元前2880~紀元前2776年頃に起きたコシツェ遺跡の虐殺の原因の特定は将来も不可能でしょうが、縄目文土器(Corded Ware)文化が急速にヨーロッパ中央部に拡大してきた時期と合致していることに、本論文は注目しています。早期縄目文土器文化集団も含むポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源の集団の遺伝的影響をGA集団が受けていないことから、コシツェ遺跡のGA集団は縄目文土器文化集団と敵対的関係にあり、その紛争の中で虐殺事件が起きたのかもしれません。本論文は、遺伝学・形態学・考古学(同位体分析)を統合した興味深い結果を提示しており、同様の研究はヨーロッパを中心に盛んになりつつあるように思いますが、日本列島も含めてユーラシア東部圏でも同様の研究が進展するよう、期待しています。


参考文献:
Schroeder H. et al.(2019): Unraveling ancestry, kinship, and violence in a Late Neolithic mass grave. PNAS, 116, 22, 10705–10710.
https://doi.org/10.1073/pnas.1820210116

神武天皇のY染色体

 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179~180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6~7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀~12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。

バスク人の起源とインド・ヨーロッパ語族の拡散

 当ブログではバスク人についてほとんど言及していませんが、その起源と関わる研究を取り上げたことがあります。バスク人は、インド・ヨーロッパ語族集団が支配的なヨーロッパにおいて、孤立言語であるバスク語を話しているため、その起源について関心が寄せられてきました。バスク語の孤立性から、バスク人は旧石器時代や中石器時代からイベリア半島で継続してきた集団で、比較的孤立していたのではないか、との見解が長い間有力でした。

 古代DNA研究が進むと、ヨーロッパの他地域と同じく、バスク人は新石器時代になってアナトリア半島からイベリア半島に進出してきた初期農耕民の子孫ではないか、との見解が提示されました(関連記事)。もっとも、ヨーロッパの他の多くの地域と同様にイベリア半島北部においても、アナトリア半島起源の農耕民集団は、じょじょに更新世からの在来狩猟採集民集団と交雑していった、と推測されています。バスク人は遺伝的には、ヨーロッパにおいてきわだって特異的な存在ではないだろう、というわけです。

 もっとも、現代ヨーロッパ人の起源については、アナトリア半島起源の農耕民集団と更新世からの在来の狩猟採集民集団との融合だけでは説明できません。現代ヨーロッパ人の遺伝的構成に大きな影響を及ぼしているのは、青銅器時代にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきたヤムナヤ(Yamnaya)文化集団を代表とする遊牧民集団です(関連記事)。ウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などによる移動力・戦闘力の点での優位が、青銅器時代のヨーロッパにおけるポントス-カスピ海草原地帯起源の遊牧民集団の広範な拡散と大きな遺伝的影響をもたらした、と考えられます。この遊牧民集団のヨーロッパへの拡散は、とくに父系において大きな影響力を有した、と推測されています(関連記事)。15世紀末以降のアメリカ大陸もそうですが、征服的側面の強い大規模な人類集団の移動は男性主体で、被征服地はとくに父系で強い影響を受ける傾向にあるのかもしれません。バスク人も、この遊牧民集団の遺伝的影響を強く受けています(関連記事)。

 ヤムナヤ文化集団の大規模な拡散は、インド・ヨーロッパ語族の拡散との関連でも注目されています。インド・ヨーロッパ語族の起源について大別すると、アナトリア半島の初期農耕民説とロシア南西部草原地帯説があります。後者の仮説の発展版が、ヤムナヤ文化集団によるヨーロッパやアジア南西部・中央部・南部という広範な地域へのインド・ヨーロッパ語族の拡散説です。この見解は近年では有力になりつつあるように思います。しかし、アナトリア半島に関しては、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の前にインド・ヨーロッパ語族系言語が用いられており、アジア中央部および南部に関しては、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響はほとんどない、との見解も提示されています(関連記事)。

 それでも、ヨーロッパに関しては、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族を広めた可能性は高そうです。しかし、ヨーロッパの他地域と同様にヤムナヤ文化集団の遺伝的影響を強く受けたバスク人の言語はインド・ヨーロッパ語族ではありません。なぜこのような違いが生じたのか、現時点ではよく分かりません。バスク人は、ヤムナヤ文化集団の遺伝的影響を強く受けた後は、遺伝的には比較的孤立していたと推測されています(関連記事)。ヤムナヤ文化集団はヨーロッパにおいて全地域集団の言語をインド・ヨーロッパ語族に転換させたわけではなく、当初は新石器時代以来の言語を保持し続けた集団もそれなりに存在したものの、他集団との交流により次第にインド・ヨーロッパ語族へと転換していった中、バスク人は比較的孤立していたので、新石器時代以来の言語を保持し続けたのかもしれません。そうだとすると、バスク人の言語が新石器時代にイベリア半島に拡散してきたアナトリア半島農耕民集団に由来するのか、それとも中石器時代以前の狩猟採集民集団に由来するのか、気になるところです。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第18回「愛の夢」

 今回は、金栗四三のマラソンと夫婦関係、1910年代と1960年代の古今亭志ん生(美濃部孝蔵)、黎明期の近代女子体育教育が描かれました。正直なところ、本作の視聴率低迷の一因であろう、それぞれの物語の断絶感は否めず、本作の欠点が強調されてしまった感は否めません。しかし、女子体育教育は四三の次の目標となりますし、古今亭志ん生と四三も、久しぶりに登場した美川も媒介として両者が気づかないところで深い縁ができつつあるように思いますから、今後、現在は分断されているように見える各物語が上手く結びついていくのではないか、と期待しています。

 まあ、私のように気長に待てる視聴者は少ないでしょうから、視聴率が低迷するのは仕方のないところでしょうか。このところ毎週のように、本作の低視聴率が面白おかしく報道されていますが、今回は、視聴率低迷の一因と指摘されている構成そのものになっていたので、制作陣が外野の無責任の声に惑わされてないことを反映しているのかな、とも思います。そうだとすると、私はこの作風を支持しているので、最後までこの方針を貫いてほしいものです。視聴率が低迷していることから、本作を失敗と言う人は少なくないようですが、私は楽しみに視聴を続けています。

バルト海東部地域のウラル語族の起源

 バルト海東部地域のウラル語族の起源に関する研究(Saag et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ほとんどのヨーロッパ人の遺伝的構成は、旧石器時代~中石器時代のヨーロッパの狩猟採集民と、新石器時代のアナトリア半島起源の初期農耕民と、青銅器時代前後のポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とする草原地帯遊牧民という、3系統の組み合わせです。

 バルト海東部地域もその例外ではありません。バルト海東部の人類集団においては、中石器時代以降の遺伝的情報が得られています。中石器時代の狩猟採集民は、遺伝的にヨーロッパに拡散したヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)と最も類似しています。バルト海東部におけるヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)への遺伝的移行は、紀元前3900年以降となる新石器時代の櫛目文土器文化(Comb Ceramic culture、CCC)集団の到来の影響と推測されています。ポントス-カスピ海草原地帯起源の後期新石器時代縄目文土器文化(Corded Ware culture)は紀元前2800年以降にバルト海東部に到達し、ヨーロッパの他地域と同様に、草原地帯遊牧民の遺伝的影響がもたらされました。

 インド・ヨーロッパ語族が支配的なヨーロッパにおいて、ウラル語族の存在するヨーロッパ北東部に関しては、現代人集団にヨーロッパの他地域よりも強いシベリア系の遺伝的影響が確認されています。バルト海東部では、Y染色体DNAハプログループ(YHg)のN3a系統が高頻度で確認されており、N3a系統はヨーロッパのウラル語族であるのフィン・ウゴル語派集団のほとんどおよびシベリア全域のいくつかの集団で共有されています。古代DNA研究からは、青銅器時代以降にシベリアからウラル語族集団が到来し、ウラル語族系言語をもたらしたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の人類の古代DNAを解析し、既知の古代および現代の遺伝的データと比較することで、バルト海東部における遺伝的構成の変容を検証しています。

 本論文は、青銅器時代~中世にかけてのバルト海東部地域の56人の歯根からDNAを解析しました。地域はさらにエストニアとイングリアに区分されています。このうち15人は分析できるだけのデータが得られなかったので除外され、8人からはミトコンドリアDNA(mtDNA)と(男性の場合は)Y染色体DNAのハプログループを決定できるだけのデータが得られたものの、常染色体では情報分析に充分なデータが得られず、33人は解析に充分なデータが得られました。この33人のゲノム解析の網羅率は0.017倍~0.734倍です。その内訳は、紀元前1200~紀元前400年となる後期青銅器時代のエストニア(EstBA)の15人と、紀元前800/500~紀元後50年となる先ローマ期鉄器時代のエストニア(EstIA)の6人と、紀元前500~紀元後450年となるイングリアの先ローマ期からローマ期鉄器時代(IngIA)の5人と、紀元後1200~紀元後1600年となる中世エストニア(EstMA)の7人です。

 新たに特定された41人の古代のmtDNAハプログループ(mtHg)は全て現代エストニア人にも確認され、特定の地域に限定されない、と明らかになりました。父系では、30人の古代のYHgが特定されました。EstBAの16人は全員YHg- R1aで、後期新石器時代のCWCとはまったく異なりません。EstIAの3人とIngIAの2人もYHg- R1aですが、EstIAの3人はシベリア系のYHg- N3aで、これまでバルト海東部において確認されたYHg- N3としては最古となります。EstMAのYHgは、3人がN3a、2人がR1a、1人がJ2bです。CWC以前のバルト海東部のYHgはI・R1b・R1a5・Qですから、東方の草原地帯由来のR1aに実質的に置換されたようです。エストニアでは、フェノスカンジアとは異なり、青銅器時代にシベリア系のN3aは検出されていませんが、標本が少ないためにまだ検出できていないだけで、青銅器時代に存在した可能性を除外できない、と本論文は指摘します。ただ、YHg- N3aの頻度は青銅器時代よりも鉄器時代で顕著に高く、ヨーロッパ東部におけるYHg-R1a1とYHg-N3a3の拡大時期は類似しており、エストニアにおけるN3aの出現もしくは少なくとも現代エストニア人と匹敵する程度の頻度になったのは、青銅器時代~鉄器時代の移行期のみだっただろう、と本論文は結論づけています。この頃に、エストニアにシベリア系集団が到来したのではないか、というわけです。

 青銅器時代以降のエストニアの常染色体では、以前のバルト海東部地域の研究で指摘されていたように(関連記事)、WHG系統の明確な比率増加が見られます。EstBA・EstIA・IngIA・EstMA・現代エストニアの集団は相互に平均してよく類似しており、他の現代ヨーロッパ人と比較して現代バルト海東部地域集団においてWHGの比率が比較的高いのは、青銅器時代以来のことだろう、と本論文は指摘します。銅器時代~鉄器時代にかけて、エストニアの人類集団の常染色体では、それまでにはほぼ検出されなかったシベリア系の要素が出現します。これはシベリア系YHgの出現時期とおおむね一致します。フェノスカンジアの人類集団ではシベリア系統が3500年前頃に出現したと推測されていますが(関連記事)、バルト海東部の人類集団ではこれよりも後の紀元前千年紀となる青銅器時代~鉄器時代の移行期に、ウラル語族のシベリア系統集団の遺伝的影響を受けたようです。これは、言語学で推定されている、バルト海東部におけるフィン・ウゴル語派の多様化の時期とも一致しており、バルト海東部では青銅器時代~鉄器時代の移行期にウラル語族のシベリア系統集団が到来し、考古学的証拠に基づくと、それはヴォルガ-ウラル地域からの南西経路だったのではないか、と本論文は推測しています。ただ、エストニアの鉄器時代以降の人類集団において、常染色体でのシベリア系の影響はY染色体よりもずっと低く、青銅器時代~鉄器時代にかけてバルト海東部に拡散してきたシベリア系集団は男性主体だったか、シベリア系集団が支配的な地位を確立して父系社会を築いた、とも考えられます。

 本論文は、新たにDNAを解析した個体間の親族関係も推定しています。X14とV16という青銅器時代の2個体は、かなり近い近親関係にありました。2人は母系でも父系でも同じハプログループに分類され、mtHgではH1b2、YHgでも他のEstBA 男性全員と同様にR1aでした。Y染色体DNA解析の網羅率が充分ではないため、2人が父系でどの程度近い関係にあるのか定かではありませんが、mtDNAの全解析ではハプロタイプが一致しており、2人は母親を同じくする半兄弟もしくは男性とその姉妹の息子(オジと甥の関係)だった、と推測されます。この2人の石窯での埋葬場所は13km離れており、石窯での埋葬例が少ないことから、こうした墓は限られたエリート層のものだっただろう、と本論文は指摘します。放射性年代測定では、X14が2481±30年前、V16が2399±27年前です。推定死亡年齢は、X14が35~40歳、V16が30~40歳です。本論文は、X14がオジでV16は(その姉妹の息子となる)甥だろう、と推測しています。

 本論文は、バルト海東部の古代人類集団の表現型の変化についても検証しています。バルト海東部のCWC集団では、肌の色は濃かったと推測されています。その後、バルト海東部の人類集団では肌の色が薄いもしくは中間的になっていき、さらに青い目とより明るい髪の色の比率が増加しました。バルト海東部の人類集団においては、色素沈着機能を低下させるような遺伝的多様体の比率が青銅器時代以降に増加していった、と考えられます。ヨーロッパでは中石器時代まで薄い色の肌はまだ広まっていなかったのではないか、と推測されていますが(関連記事)、青銅器時代には薄い肌の色が高頻度で存在していた、と指摘されています(関連記事)。また、ヨーロッパ北部においてとくに高い乳糖耐性関連の遺伝的多様体の頻度も、バルト海東部では後期新石器時代以後に増加したことが明らかになりました。


参考文献:
Saag L. et al.(2019): The Arrival of Siberian Ancestry Connecting the Eastern Baltic to Uralic Speakers further East. Current Biology, 29, 10, 1701–1711.E16.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2019.04.026

Vybarr Cregan-Reid『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』

 ヴァイバー・クリガン=リード(Vybarr Cregan-Reid)著、水谷淳・鍛原多惠子訳、真柴隆弘解説で、飛鳥新社より2018年12月に刊行されました。原書の刊行は2018年です。本書は、現代社会の環境の多くが人間にとって「ミスマッチ」となっており、それが腰痛・糖尿病・肥満・近視などの要因になっている、と指摘します。『人体600万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』(関連記事)と類似した主題の本ですが、同書は原書の刊行が2013年なのにたいして、本書は原書の刊行が2018年なので、その分新たな知見も得られるので、併せて読むとよいでしょう。

 本書が強調しているのは、現代人の多くがあまりにも身体を動かさない生活を送っており、それがさまざまな疾患の根本的原因になっている、ということです。人間は身体を動かさずに同じ姿勢でいるような環境に適応してきたわけではないので、そうした姿勢を要求する時間の長い生活は現代人にとって「ミスマッチ」になっている、というわけです。本書はこの問題について、椅子に座っての仕事が増大してきたように、労働環境の改善も指摘していますが、食器洗浄機の使用や映像試聴や読書など私生活、さらには子供の頃からの学校での教育環境(長時間の座学)といった習慣も改善されねばならない、と指摘します。

 本書は人間の生活が環境に適応できなくなった契機として、まず農耕の開始を挙げています。これにより以前より進んでいた定住生活が確立し、狩猟採集生活よりも運動量が低下しやすくなったこともありますが、何よりも、食生活が狩猟採集生活よりも炭水化物に偏重した契機になったことを本書は問題としています。それ以上に本書が問題としているのは産業革命・近代化です。これにより、長時間の同じ姿勢による労働慣行が確立し、人間の健康を損なうことになった、と本書は指摘します。本書は、更新世の狩猟採集民よりも新石器時代の農耕民の方が骨密度は低かったものの、現代人はさらに激減している、との研究を引用しています(関連記事)。本書は、人類進化に関する解説は期待していたほど多くはなかったのですが、しっかりとした根拠のあるかなり「実用的」な本になっており、私も自分の生活習慣を見直さねばならないな、と改めて認識させられました。人類進化に関心のない人にもお勧めの一冊です。


参考文献:
Cregan-Reid V.著(2018)、水谷淳・鍛原多惠子訳『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』(飛鳥新社、原書の刊行は2018年)

アウストラロピテクス・セディバがホモ属の祖先である可能性は低い

 アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus)がホモ属の祖先なのか、検証した研究(Du, and Alemseged., 2019)が報道されました。セディバはホモ属的な特徴を有するアウストラロピテクス属化石として知られており、現時点では、南アフリカ共和国のマラパ(Malapa)遺跡でしか確認されていません(関連記事)。セディバの推定年代は197万7000年±7000年前です(関連記事)。セディバの歯はアフリカ東部のアウストラロピテクス属よりもセディバと同じくアフリカ南部で発見されているアウストラロピテクス・アフリカヌス (Australopithecus africanus)に似ており、セディバの下顎はアフリカヌスと異なる一方で初期ホモ属と似ている、と指摘されています(関連記事)。

 セディバを報告した研究者たちは、セディバが現代人も含むホモ属の祖先と主張しましたが、セディバの推定年代は197万年前頃なので、ホモ属の祖先である可能性は低い、と考える研究者が2010年の公表当初から多かったように思います。すでにホモ・ハビリス(Homo habilis)と分類されている233万年前頃の化石(A.L. 666-1)が発見されていたからです。その後、エチオピアで発見されたホモ属的特徴を備える280万~275万年前頃の下顎骨が2015年に公表され、種区分は未定であるもののホモ属と分類されたことから(関連記事)、セディバをホモ属の祖先とする見解はさらに苦しくなった感があります。

 本論文は諸文献を調べ、セディバがホモ属の祖先なのか、検証しました。本論文は、先種の化石よりも子孫種の化石の方が古いこともあり得る、と指摘します。祖先種の一部から子孫種が分岐し、その後で祖先種と子孫種が一定期間共存しているような場合です。セディバがホモ属の祖先であるには、セディバの一部からホモ属系統が分岐し、ホモ属系統にホモ属の派生的特徴が出現した後も、少なくとも80万年間はセディバが存続してホモ属と共存しなければなりません。

 本論文は諸文献から、人類系統において祖先-子孫関係にあると仮定される28の組み合わせを調べました。そのうち、祖先の化石が子孫の化石より新しいのは1例だけでした。インドネシアで発見された広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)化石(Kedung Brubus 1)の年代は80万~70万年前頃で、広義のエレクトスから派生したと考えられるアンテセッサー(Homo antecessor)は90万~80万年前頃までさかのぼりのます。本論文は、人類系統において種の平均的な存続期間は約100万年で、祖先の化石が子孫の最古の化石より80万年新しくなる可能性は限りなく可能性は0に近い、と指摘します。

 一方、エチオピアで発見されたホモ属的特徴を備える280万~275万年前頃の下顎骨について、ホモ属と分類することに慎重な見解も提示されているので、より広くホモ属と認められている233万年前頃の上顎化石(A.L. 666-1)を最古のホモ属標本とみなし、人類種の平均的な存続期間をアフリカの大型哺乳類の平均的な種存続期間の上限である約200万年と仮定し、改めてセディバがホモ属の祖先となり得るのか、検証しました。その結果、この過程でも、セディバがホモ属の祖先である可能性は0に近い、と本論文は指摘します。

 本論文は、セディバがホモ属の祖先ではないとすると、ホモ属の祖先の最有力候補をアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)とする以前からの見解が依然として有効だろう、と指摘します。アファレンシスは、最古のホモ属化石として有力な、280万~275万年前頃のホモ属的な下顎やハビリスと分類されている上顎化石(A.L. 666-1)と同じくエチオピアで発見され、280万~275万年前頃のホモ属的な下顎にはアファレンシス的な特徴も認められており、300万年前頃というアファレンシスの下限年代は280万~275万年前頃に近いからです。

 現時点では、ホモ属の祖先に関して、アファレンシス(の一部)から進化したとする本論文の見解が最有力だと言えるでしょう。では、セディバのホモ属的特徴をどう説明すべきなのか、という問題が生じます。いくつかの想定が可能でしょうが、一つは収斂進化です。アウストラロピテクス属系統の一部でも、独立してホモ属と類似した特徴が一部進化した、というわけです。より可能性が高そうなのは、300万年前頃にアウストラロピテクス属においてホモ属的特徴を備えた系統が出現し、その後にホモ属系統とセディバ系統に分岐した、という想定です。さらに、ホモ属において異なる系統間の交雑が珍しくなく(関連記事)、それはチンパンジー属(関連記事)やヒヒ属(関連記事)でも同様だったことから、アウストラロピテクス属系統と初期ホモ属系統との間でも交雑があり、セディバはホモ属系統の遺伝的影響を受けたアウストラロピテクス属系統である可能性も想定されます。ホモ属の起源の解明には新たな化石の発見が必要なので、短期間に大きく進展する可能性は低そうですが、今後も研究の進展をできるだけ追いかけていくつもりです。


参考文献:
Du A, and Alemseged Z.(2019): Temporal evidence shows Australopithecus sediba is unlikely to be the ancestor of Homo. Science Advances, 5, 5, eaav9038.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aav9038

コウモリのように飛んだ小型恐竜(追記有)

 コウモリのように飛んだ小型恐竜に関する研究(Wang et al., 2019)が公表されました。スカンソリオプテリクス類は小型恐竜(体重約200g)の分類群で、前肢と指がひじょうに長く、樹上生活する羽毛恐竜として復元されるのが一般的です。しかし、2015年に発見されたスカンソリオプテリクス類恐竜イー(Yi qi) は、これとは異なっていました。イーには、尖筆状突起(styliform element)に支えられた、コウモリの翼に似た膜状翼があったと考えられます。この種の膜状翼は、恐竜以外の飛行能力を有する脊椎動物の系統(コウモリ類や翼竜類など)が持っていたものの、獣脚類恐竜も有していたことはこれまで知られていませんでした。

 この研究は、新たなスカンソリオプテリクス類(Ambopteryx longibrachium)について、これがイーと同じような膜状翼と尖筆状突起を有していたと説明しています。しかし、このスカンソリオプテリクス類にはイーと異なる特徴がいくつかあり、たとえば、前肢骨の幅が広く、短い尾の末端で椎骨が融合しており、ひじょうに長い前肢は後肢より長い、といったものです。この研究は、スカンソリオプテリクス類と鳥類の系統が分岐し、異なる経路で飛行能力を備えるに至ったものの、その分岐が近づいた頃に翼構造に著しい変化が生じたことを明らかにしました。またこの研究は、スカンソリオプテリクス類に備わっていた膜状翼と長い前肢は、短期間で終わった飛行実験を示すもので、その後、羽毛の生えた翼が優勢になった可能性がひじょうに高い、という見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【化石】コウモリのように飛んだ小型恐竜の化石証拠

 コウモリのような翼を持つスカンソリオプテリクス類恐竜の新種の化石が中国遼寧省で発見されたことを報告する論文が、今週掲載される。この化石標本は、約1億6300万年前のものと年代測定され、鳥類に近縁の恐竜類が飛行し始める直前の時期にいろいろな翼構造を試していたことを示唆する証拠となる。

 スカンソリオプテリクス類は、小型恐竜(体重約200グラム)の分類群で、前肢と指が非常に長く、樹上生活する羽毛恐竜として復元されるのが一般的だ。しかし、最近発見されたスカンソリオプテリクス類恐竜のYi qi は、これとは異なっていた。イー(Yi qi)には、尖筆状突起(styliform element)に支えられた、コウモリの翼に似た膜状翼があったと考えられるのだ。この種の膜状翼は、恐竜以外の飛行能力を有する脊椎動物の系統(コウモリ類や翼竜類など)が持っていたが、獣脚類恐竜も有していたことはこれまで知られていなかった。

 今回、Min Wangたちの研究グループは、Ambopteryx longibrachiumと名付けたスカンソリオプテリクス類について、これがイーと同じような膜状翼と尖筆状突起を有していたと説明している。しかし、Ambopteryxにはイーと異なる特徴がいくつかあり、例えば、Ambopteryxは前肢骨の幅が広く、短い尾の末端で椎骨が融合しており、非常に長い前肢は後肢より長い。

 Wangたちは、スカンソリオプテリクス類と鳥類の系統が分岐し、異なる経路で飛行能力を備えるに至ったが、その分岐が近づいた頃に翼構造に著しい変化が生じたことを明らかにした。また著者たちは、スカンソリオプテリクス類に備わっていた膜状翼と長い前肢は、短期間で終わった飛行実験を示すものであり、その後、羽毛の生えた翼が優勢になった可能性が非常に高いという考えを示している。


古生物学:ジュラ紀の新たなスカンソリオプテリクス類と獣脚類恐竜における皮膜状の翼の消滅

Cover Story:皮膜の翼:Ambopteryxのコウモリの翼に似た皮膜によって見直される恐竜の飛行の進化

 表紙は、新たに発見された恐竜Ambopteryx longibrachiumの想像図である。今回M Wangたちは、約1億6300万年前の後期ジュラ紀にさかのぼるAmbopteryxの化石について報告している。Ambopteryxは、長い手指を持つ樹上性の小型羽毛恐竜として描かれることの多い、スカンソリオプテリクス類の恐竜である。しかし、Ambopteryxは他のスカンソリオプテリクス類とは異なり、羽毛と、尖筆状突起(styliform element)と呼ばれる副骨によって支持されるコウモリに似た皮膜状の翼の両方の証拠を有している。皮膜状の翼は、2015年に発見されたイー(Yi qi)で最初に認められ、かなりの物議を醸して以来、今回が2例目となる。Ambopteryx の発見は、イーが例外ではなかったことを示しており、スカンソリオプテリクス類が、羽毛に加えて一般的にコウモリのような翼も有していた可能性を提起している。



参考文献:
Wang M. et al.(2019): A new Jurassic scansoriopterygid and the loss of membranous wings in theropod dinosaurs. Nature, 569, 7755, 256–259.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1137-z


追記(2019年5月11日)
 ナショナルジオグラフィックで報道されました。

翼竜類の多様な外被

 翼竜類の多様な外被に関する研究(Yang et al., 2019)が報道されました。初期の羽毛様構造体はかつて、現在の鳥類の祖先を含む恐竜類の生物群に特有のものと考えられていました。一方、羽ばたき飛行を身に付けた最初の脊椎動物である翼竜類は、毛皮を有するものとして描かれることが多くなっています。この研究は、中国で発見された約1億6500万~1億6000万年前のジュラ紀の短尾型翼竜類に分類されている、保存状態が良好な2体の化石標本(翼を広げた大きさで推定約40~45cm)を顕微鏡および分光イメージング技術で調べました。その結果、この翼竜類が4種類の外被を有していた、と明らかになりました。それは、頭部・胴部・脚部・尾部を覆う、ふわふわした毛皮のような断熱性の構造体と、頭部の一部と翼で見られる、現代の羽毛に類似した3種類の曲がった糸状の繊維です。

 このような種々の外被は、体温調節・知覚・シグナル伝達・空気力学において機能的な役割を果たしていた、と考えられます。翼竜類に羽毛様の構造体があったというこの知見から、羽毛は、恐竜類と翼竜類の両者がどちらかの祖先から受け継いだか、それとも両系統で別々に進化したかのいずれかだと示唆されます。また、走査型電子顕微鏡法が今後さらに改良されれば、生きていた当時の恐竜類と翼竜類の正確な姿に関するより多くの手掛かりが得られるかもしれない、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


さまざまな素材からなる翼竜類の驚異の外被

 一部の翼竜類が、羽毛や毛皮のようなさまざまな構造体による多様な外被に覆われていたことを示唆する論文が、今週掲載される。

 初期の羽毛様構造体はかつて、現在の鳥類の祖先を含む恐竜類の生物群に特有のものと考えられていた。一方、羽ばたき飛行を身に付けた最初の脊椎動物である翼竜類は、毛皮を有するものとして描かれることが多い。

 Baoyu Jiang、Michael Bentonたちは今回、約1億6500万~1億6000万年前に現在の中国に生息していた短尾型翼竜類の、保存状態が良好な2体の化石標本を、顕微鏡および分光イメージング技術で調べた。その結果、この翼竜類が4種類の外被を有していたことが明らかになった。すなわち、頭部、胴部、脚部、および尾部を覆うふわふわした毛皮のような断熱性の構造体と、頭部の一部と翼で見られる、現代の羽毛に類似した3種類の曲がった糸状の繊維である。

 このような種々の外被は、体温調節、知覚、シグナル伝達、および空気力学において機能的な役割を果たしていたと考えられる。翼竜類に羽毛様の構造体があったという今回の知見から、羽毛は、恐竜類と翼竜類の両者がどちらかの祖先から受け継いだか、それとも両系統で別々に進化したかのいずれかであることが示唆される。

 関連するNews & ViewsでLiliana D’Albaは、走査型電子顕微鏡法が今後さらに改良されれば、生きていた当時の恐竜類と翼竜類の正確な姿に関するより多くの手掛かりが得られるかもしれないと述べている。



参考文献:
Yang Z. et al.(2019): Pterosaur integumentary structures with complex feather-like branching. Nature Ecology & Evolution, 3, 1, 24–30.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0728-7

ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアル

 来月(2019年6月)4日、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルがあるそうで、最大容量や1記事の制限文字数増加は改善点と言えるでしょう(関連記事1および関連記事2)。ウェブリブログを始めてから13年近く、ほぼ毎日更新してきましたが、ずっと過疎ブログのままです。より多くの人に読んでもらうという観点からは大失敗の当ブログですが、当ブログで収入を得ることが目的ではなく、実質的に備忘録としてしか機能していませんし、私はそれで満足しているので、とくに問題はありません。

 ただ、備忘録の観点からは、トラックバック機能の廃止はひじょうに困ります。私の場合、ある問題についてのまとめ的な記事だけではく、新規記事を書こうとした場合でも、過去の関連記事を参照することが珍しくなく、ある程度記憶に残っている場合もありますが、ブログ検索を利用することも珍しくありません。しかし、ブログ検索では拾いきれない記事もあるので、ある記事にトラックバックがついていると、関連記事を効率的に検索でき、たいへん便利です。すでに当ブログの記事数は5000本を超えており、分類したりまとめ記事を作成したりして整理しているものの、トラックバックによる関連記事検索の効率性を何度も実感してきただけに、大きな衝撃を受けています。

 ブログサービスではトラックバック機能の廃止が主流となっているようで、ウェブリブログもそれに倣ったのでしょうが、私のウェブリブログ利用法では、トラックバック機能の廃止はたいへん不便です。せめて、自分のブログ記事間のトラックバック機能だけは残しておいてもらいたかったのですが、まあ仕方のないところでしょうか。これからは、まとめ記事をもっと効率的に活用していかねばならないでしょう。何とも残念なウェブリブログにおけるトラックバック機能の廃止ですが、ブログサービスが廃止にならなかっただけまだましだった、と言うべきでしょうか。

シナ・チベット語族の系統関係と起源

 シナ・チベット語族の系統関係と起源に関する研究(Sagart et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。中国語・チベット語・ビルマ語を含むシナ・チベット語族はインド・ヨーロッパ語族とともに世界の2大言語族で、話者は前者が約32億人、後者が約14億人です。しかし、シナ・チベット語族の起源と拡散はアジア東部およびその周辺地域(アジア南東部や南部の一部)の先史時代・歴史時代の解明に重要であるにも関わらず、インド・ヨーロッパ語族と比較して研究は遅れています。

 本論文は、シナ・チベット語族の50言語から語彙を収集し、データベースを構築することにより、シナ・チベット語族の各言語間の系統関係と起源を推定しました。この中には、過去の言語のデータも含まれています。中国語の記録は紀元前1400年前頃、チベット語は紀元後764年、ネワール語(ネパール・バサ語)は紀元後1114年、ビルマ語は紀元後1113年までさかのぼります。また本論文は、農耕と牧畜に関する考古学的データも収集して組み合わせることにより、シナ・チベット語族の起源地も推測しました。

 本論文は、シナ・チベット語族が大きく、中国語系統と、ビルマ語やチベット語などを含むそれ以外の系統に二分されることを指摘します。ただ、アジア南東部および南部の一部の言語は、中国語系統により近縁です。また本論文は、シナ・チベット語族の起源は7200年前頃で、その担い手は中国北部の新石器時代農耕民集団である、後期磁山(Cishan)文化および早期仰韶(Yangshao)文化ではないか、と推測しています。ここから、農耕民集団の拡大に伴い、シナ・チベット語族も拡散し、分岐していったのではないか、というわけです。

 先月(2019年4月)、言語学・遺伝学・考古学・人類学の研究成果を統合し、109の言語における949の語彙の系統分析により、シナ・チベット語族の起源を検証した研究が公表されました(関連記事)。その研究でも、シナ・チベット語族の起源は中国北部の黄河流域にあり、5900年前頃に(7800~4200年前頃)拡散・多様化が始まった、と推測されており、本論文とおおむね整合的だと思います。現時点では、シナ・チベット語族の起源は黄河流域の新石器時代農耕民集団にあり、アジア東部およびその周辺地域に拡大していった、との見解が最有力と言えそうです。


参考文献:
Sagart L. et al.(2019): Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. PNAS, 116, 21, 10317–10322.
https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116

現代日本人のY染色体DNAハプログループDの起源

 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)では、Dが30~40%と高い割合を占めています。YHg-Dは現代では珍しいハプログループで、おもにアジア東部の一部地域とアンダマン諸島で見られます。アンダマン諸島ではYHg-Dは高頻度で見られ、アジア東部では日本列島とチベットを除くときわめて低頻度でしか存在しません。そのため、YHg-Dを現代日本人の独自性の根拠とする言説をネットでよく見かけます。とくに、「縄文人」においてYHg-Dが確認されてからは、長期にわたる日本の独自性が強調される傾向にあるように思います。「縄文人」の父系は現代日本人においてもその多くが継続している、というわけです。

 確かに、現代日本人で高頻度なのはYHg-D1b(ちなみに、チベットで高頻度なのはYHg-D1aです)で、これは「縄文人」でも確認されていますから、そうした言説に一定以上の根拠があることは否定できません。ただ、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。

 この問題は十数年前より考えていましたが、少なからぬ人も考えているであろうように、YHg-Dがかつてアジア東部に一定以上の頻度で広範に存在していた可能性は低くないように思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」の核DNA解析数はまだ少なく、東日本に遍在しているため、今後西日本の「縄文人」の解析が進めば、YHg-D1b1がかなりの頻度で発見されるかもしれません。ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域はせいぜい20%程度にしかならないと予想されており(関連記事)、父系の30~40%が「縄文系」だと多いかな、とも思います。もちろん、あり得ない数値ではありませんし、仮に現代日本人のYHg-D1b1のうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」だとしても、現代日本人の父系の一定以上の割合は「縄文系」だと思いますが。

デニソワ人の生息範囲


 昨年(2018年)~今年にかけて、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についての研究が大きく進展したように思います。デニソワ人については以前一度まとめたのですが(関連記事)、まだ2年も経過していないのに、もうかなり情報が古くなってしまったので、近いうちに改訂版を掲載しようと考えています。つい最近まで、デニソワ人は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)だけでしか確認されていませんでした。しかし、オーストラリア先住民やパプア系においてとくにデニソワ人の遺伝的影響が高いと明らかになっていたので、デニソワ人の生息範囲はアルタイ山脈に限らず、もっと広かったのではないか、と以前よりずっと考えられていました。

 ただ、つい最近まで、まだ本格的な研究はおそらく公表されていないだろう頭頂骨の一部(関連記事)を除くと、デニソワ人のものとされる頭頂骨デニソワ人の遺骸は手の指骨や歯といった断片的なものだったので、遺伝学的情報は更新世の人類としては豊富に得られていたものの、形態学的情報はほとんど得られておらず、更新世の他地域の人類との照合が困難でした。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でも現生人類(Homo sapiens)でもない更新世人類に関しては、形態学的情報はそれなりに得られているものの、遺伝学的情報はまったく得られていないからです。なお、DNAが解析されている43万年前頃のイベリア半島北部のホモ属集団は、形態学的にも(関連記事)遺伝学的にも(関連記事)ネアンデルタール人の祖先集団もしくは初期ネアンデルタール人ときわめて近縁な集団と推測されるので、後期ネアンデルタール人の直系の祖先ではないとしても、大まかに言えばネアンデルタール人系統だろう、と私は考えています。

 上述したように、デニソワ人の生息範囲はアルタイ山脈に限らず、もっと広かったのではないか、と以前よりずっと考えられおり、既知のホモ属遺骸の中にデニソワ人と同じ系統に区分できるものがあるのではないか、と推測していた人は多かったと思います。とくに、中国で発見された中期~後期更新世のホモ属遺骸の中には分類の曖昧なものが少なからずあることから、デニソワ人の有力候補と考えられていました。しかし、上述した理由のため、デニソワ人とネアンデルタール人および現生人類ではないホモ属遺骸との照合が困難なため、確証は得られていませんでした。

 ところが、今月(2019年5月)、チベット高原東部で1980年に発見された16万年以上前のホモ属下顎骨が、タンパク質分析の結果、デニソワ人もしくはそのきわめて近縁な系統と明らかになり(関連記事)、デニソワ人に関する研究は大きく進展しました。この右側半分の下顎骨は、デニソワ洞窟以外で初めて確認されたデニソワ人というだけでも大きな意義を有するのですが、それだけではありませんの他にも大きな研究の進展をもたらしました。まず、これまでのデニソワ人遺骸と比較すると、はるかに豊富な形態学的情報が得られたことです。これにより、遺伝学的情報が得られていない、ネアンデルタール人でも現生人類でもないホモ属との照合がじゅうらいよりずっと容易になりました。デニソワ人の形態および生息範囲の研究が大きく進展するのではないか、と期待されます。次に、この下顎骨は標高3280mという高地で発見されたことから、デニソワ人は非現生人類ホモ属としては初めて、高地のような極限環境への拡散が確認されたことになります。ただ、チベット高原東部で発見されデニソワ人(もしくはそのきわめて近縁な)系統と分類された下顎骨に関しては、1980年に僧侶により発見されたと報道されているように、考古学的文脈に曖昧なところがあり、この点に批判が寄せられても仕方のないところだと思います。1980年に発見されたのに、本格的な研究が2010年代に始まったのも、厳密な考古学的発掘によるものではなく、その信頼性に疑問が呈されそうなので、放置されていたからではないか、と邪推したくなります。ただ、年代は下顎骨の付着物の放射性年代測定法によるものですし、系統分析は下顎骨の歯からのコラーゲン分析によるものなので、年代とデニソワ人(もしくはそのきわめて近縁な)系統という分類は妥当だろう、と思います。

 このように、デニソワ人の遺骸は現時点でアルタイ山脈とチベット高原東部のみで確認されています。一方、遺伝学的にもデニソワ人の生息範囲が推測されています。上述したように、デニソワ人の遺伝的影響はオーストラリア先住民やパプア系においてとくに高いので、デニソワ人はアジア南東部にも存在したのではないか、と以前より推測されていました。今年になって公表された、デニソワ人の複数系統の可能性を指摘した研究は、デニソワ人が渡海してニューギニア島(もしくは、更新世寒冷期にオーストラリアと陸続きになっていたサフルランド)に拡散していたのではないか、と推測しています(関連記事)。そうだとすると、デニソワ人は比較的寒冷なアルタイ山脈やチベット高原東部だけではなく、熱帯地域にも適応していた可能性が高くなります。デニソワ人系統はネアンデルタール人系統との最終共通祖先から分岐した後、複数の系統に分岐していき、高地や比較的寒冷な地域に適応した系統と、熱帯地域に適応した系統が存在したのかもしれません。これはまだ遺伝学的な推測で、決定的な証拠が提示されているわけではありません。ただ、当ブログではまだ取り上げていませんが、昨年、オーストラリア南東部のモイジル(Moyjil)遺跡における人類の痕跡が12万年前頃にさかのぼる、と報告されています。この見解が妥当だとすると、どの人類系統か確証は得られていませんが、あるいはデニソワ人の1系統がサフルランドまで拡散したのではないか、と妄想したくなります。デニソワ人については、今後も形態学・遺伝学・考古学で大きな研究の進展が期待されるので、ひじょうに注目しています。

イベリア半島南部の最初期現生人類をめぐる議論

 今年(2019年)1月に、イベリア半島南部における43400~40000年前頃の現生人類(Homo sapiens)拡散の可能性を報告した論文(Cortés-Sánchez et al., 2019A)が公表されました(関連記事)。この論文(以下、C論文)は、イベリア半島南部にも、ヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に現生人類が拡散してきた可能性を提示したことから、注目されました。その根拠となったのは、イベリア半島南部に位置するスペインのマラガ(Málaga)県のバホンディージョ洞窟(Bajondillo Cave)遺跡の中部旧石器時代後期~上部旧石器時代の年代です。以下、この記事の年代は基本的に、放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 C論文は、バホンディージョ洞窟では第19層~第14層(新しいほど上層となります)までが中部旧石器時代となり、まず間違いなくネアンデルタール人が担い手のムステリアン(Mousterian)インダストリーが46000年前頃まで続き、第13層では石刃や小石刃が出現するようになり、第12層は典型的な上部旧石器、第11層は発展オーリナシアン(Evolved Aurignacian)、第10層はグラヴェティアン(Gravettian)インダストリーになる、との見解を提示しています。C論文は第13層石器群について、数が少ないこと(100個未満)や骨器が共伴しないといった問題を指摘しつつも、プロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)もしくは早期オーリナシアン(Early Aurignacian)と分類しています。第13層の年代は43400~40000年前頃です。

 この見解がなぜ重要かというと、今ではヨーロッパにおいてネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)はおおむね4万年前頃までに絶滅したと考えられているものの(関連記事)、イベリア半島南部への現生人類の拡散は、エブロ川を境とする生態系の違いによりヨーロッパ西部の他地域よりも遅れ(エブロ川境界仮説)、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が4万年前以降も生存していた、との見解(ネアンデルタール人後期絶滅説)が根強いからです(関連記事)。ヨーロッパにおいては、ムステリアンはネアンデルタール人のみ、オーリナシアンは現生人類のみが担い手だった、との見解が通説となっています。C論文が妥当だとすると、イベリア半島北部に42868~41686年前頃に出現したオーリナシアンは、ほとんど変わらない年代でイベリア半島南部にも拡散していたことになります。


 このC論文の見解にたいして、2本の批判論文とC論文の著者たちによる反論が掲載されました。まずは、おもに石器技術に関するC論文への批判論文(de la Peña., 2019)です(以下、P論文)。P論文はまず、バホンディージョ洞窟第13層石器群は以前には多くの文献で、特徴的なムステリアン剥片と上部旧石器要素の両方を有する曖昧な技術と説明されており、C論文も第13層石器群がプロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアンと明確に区分できるだけの充分な証拠がないことを認めている、と指摘します。

 そこでP論文は、第13層石器群の説明と定義が問題になり、プロトオーリナシアンもしくは早期オーリナシアン以外で説明することも可能だ、と指摘します。P論文がまず問題とするのは、第13層石器群には明確に石刃と関連しているものの、オーリナシアン石器群と異なる技術的特徴も有するのならば、まだ識別・定義されていない上部旧石器時代のインダストリーとしての定義も可能ではないか、ということです。P論文は、イベリア半島南部の早期上部旧石器時代においては、ヨーロッパの他地域とは異なり、よく発展した剥片戦略が見られる、と指摘します。次にP論文が挙げているのは、第13層がムステリアン集団による石刃技術の採用を反映している可能性です。P論文は、この二つの可能性のどちらが妥当なのか、判断は困難だと指摘しています。

 さらにP論文が明代としているのは、層序学的混乱です。第13層には明らかな上部旧石器時代インダストリーである発展オーリナシアンの第11層との接触が見られ、土壌が下方に移動していく仮定も報告されているのに、C論文はこの重要な堆積物形成過程を無視している、とP論文は指摘します。C論文は第13層石器群をオーリナシアンとよく関連づけられておらず、現生人類がイベリア半島南部へ43400~40000年前頃というヨーロッパ西部の他地域とさほど変わらない年代に拡散した、とする根拠は弱いと結論づけています。


 次に、同じくC論文への批判論文(Anderson et al., 2019)です(以下、A論文)。A論文は、バホンディージョ洞窟の土壌の移動が第11層~第13層で識別されており、第14層~第11層は層序的混合の疑いのために以前は年代測定計画から除外されていた、と指摘します。さらにA論文が問題とするのは、第13層は遺跡の中央部の限られた部分にしか存在せず、その下のムステリアン層およびその上の発展オーリナシアン層の両方と接触している、ということです。それにも関わらず、C論文は説明なしに混合のないオーリナシアンとしての第13層石器群という解釈を提示している、とA論文は指摘します。

 A論文は、石器技術的にも第13層の石器群がオーリナシアンと分類できるのか、疑問視します。以前の文献では、第13層の石器群の分類が、「中部旧石器/上部旧石器」、「中部旧石器?」、ムステリアンとオーリナシアンもしくは上部旧石器要素のおそらくは混合というように、曖昧というわけです。またA論文は、第13層石器群には石刃要素があるものの、剥片要素も強く見られることも問題としています。またA論文は、第13層石器群の掻器が発展オーリナシアンの第11層の掻器とは異なり、石刃よりもむしろ剥片から製作されている、と指摘します。第13層の掻器は中部~上部旧石器時代の再加工剥片と類似しており、オーリナシアンと関連させる理由はない、というわけです。

 またA論文は、ムステリアンの第14層と比較して第13層では石刃が増加するものの、それだけではオーリナシアンへと分類する根拠にはならず、第13層石器群が年代的に中部旧石器時代のムステリアンと明らかな上部旧石器時代の発展オーリナシアンの間に位置することも、第13層石器群がオーリナシアンである根拠にはならない、と指摘します。オーリナシアンをどのように区分するのか、議論が続いているものの、いずれにしても、ある石器群をオーリナシアンと分類するには、広義のオーリナシアンと共通する特別な技術的特徴を示す必要がある、とA論文は指摘します。現時点で第13層石器群をオーリナシアンと分類し、現生人類のイベリア半島南部への4万年以上前の拡散と関連づけるのは時期尚早だ、というのがA論文の結論です。


 これら2本の批判にたいして、C論文の著者たちの一部による反論(Cortés-Sánchez et al., 2019B)が掲載されています(以下、C反論)。C反論は全体として、批判論文2本がバホンディージョ洞窟の層序と石器分類に関する研究の進展をしっかりと抑えていない、と強調しています。これらの問題はC論文では補足情報としてまとめられているものの、参考文献はスペイン語なので、見落とされているところが少なからずあるのかもしれません。また年代に関しても、2016年のイベリア半島地中海沿岸部の放射性炭素年代測定計画において、バホンディージョ洞窟遺跡の標本が計画の分析基準を満たしておらず、年代が採用されなかったことから、古い年代観が根強く残り、誤解を招来しているのではないか、とC反論は指摘します。バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が周知されない状況にあったのではないか、というわけです。

 まず第13層石器群の分類について、決してムステリアンではなく、一貫して上部旧石器として識別されている、とC反論は主張します。またC反論は、オーリナシアンおよびその下位区分の定義は一貫しているわけではない、と指摘します。P論文は第13層石器群がまだ識別されていない上部旧石器時代インダストリーである可能性を示唆していますが、C論文は、明確に上部旧石器である第13層石器群を「最も適切な」分類としてオーリナシアンと解釈している、とC反論は指摘します。

 バホンディージョ洞窟の層序撹乱の可能性について、C反論は否定する根拠を2点挙げています。一つは、第13層石器群には撹乱を示唆するような転移の証拠は見られない、というものです。次に、第13層石器群の発見場所の燃焼構造の基づく分析です。植物オパールと放射性炭素年代測定から、中部旧石器時代水準の炉床とは燃焼要素および温度の両方とは明らかに対照的なパターンが示される、とC反論は指摘します。こうした知見から、第13層石器群の年代を上部旧石器時代と判断するのは妥当だろう、というわけです。

 C反論は、バホンディージョ洞窟に関する研究の進展が広く知られておらず、古い年代観と組み合わせて推測に推測を重ねた結果、第13層石器群が後代の嵌入であることを示唆するような批判がなされたのだ、と指摘します。C論文にたいする批判は、誤解の積み重ねだろう、というわけです。C反論は、C論文の提示した新たな年代観は、ヨーロッパ西部において、ネアンデルタール人の絶滅は4万年以上前、現生人類の拡散も遅くとも4万数千年前までさかのぼるとする、近年の知見と整合的だと指摘します。


 以上、C論文にたいする批判論文2本と反論をざっと見てきました。バホンディージョ洞窟第13層の攪乱を懸念する批判論文2本にたいして、C反論は的確に対応できているのではないか、と思います。やはり問題となるのは、第13層石器群の分類で、「広義のオーリナシアン」とするのが適切なのか、門外漢の私には的確な判断ができませんが、今後の研究の進展が期待されます。これは、ヨーロッパだけではなく、アジア南西部も含めての大規模な研究となるので、すぐに結論の出る問題ではなさそうですが。

 ヨーロッパ西部の他地域とほぼ変わらない43400~40000年前頃に、イベリア半島南部に現生人類が拡散してきた、との見解については、現時点では保留しておくのが無難かな、と思います。それは、第13層石器群を「明確に」オーリナシアンと分類できないからでもありますが、何よりも、ヨーロッパの中部旧石器時代~上部旧石器時代移行期の遺跡では人類遺骸が少ないため(それでも他地域よりはずいぶんと恵まれているのでしょうが)、この時期の各インダストリーの担い手の人類系統を多くの場合でまだ確定できないからです。担い手について議論が続いていますが、現生人類の影響を受けているかもしれないとはいえ、シャテルペロニアン(Châtelperronian)の担い手がネアンデルタール人だった可能性は低くないでしょうから(関連記事)、ネアンデルタール人がイベリア半島南部の上部旧石器的なインダストリーの担い手であった可能性も想定しておくべきだと思います。


参考文献:
Anderson L, Reynolds N, and Teyssandier N.(2019): No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 713.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0885-3

Cortés-Sánchez M. et al.(2019A): An early Aurignacian arrival in southwestern Europe. Nature Ecology & Evolution, 3, 2, 207–212.
https://doi.org/10.1038/s41559-018-0753-6

Cortés-Sánchez M. et al.(2019B): Reply to ‘Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns’ and ‘No reliable evidence for a very early Aurignacian in Southern Iberia’. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 714–715.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0887-1

de la Peña P.(2019): Dating on its own cannot resolve hominin occupation patterns. Nature Ecology & Evolution, 3, 5, 712.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0886-2

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第17回「いつも2人で」

 1915年6月、第一次世界大戦(もちろん、当時はそう呼ばれていなかったわけで、作中でも嘉納治五郎は欧州戦争と呼んでいます)の長期化により、翌年にベルリンで開催予定だった夏季オリンピック大会は中止と決定され、前回大会でマラソンに出場して棄権した雪辱を果たそうとした金栗四三は落ち込み、無気力状態に陥ります。下宿先の播磨屋の部屋に引き籠る四三を、仲間が励ましに行きます。そんな四三を妻のスヤが訪ね、落ち込む四三を励まします。スヤの発言に手がかりを得た四三は後継者を育てようと決意し、教師となります。四三は、後の駅伝競走となる、団体の長距離戦を構想していました。四三は神奈川で教師となり、嘉納治五郎とともに構想の実現化に動き、京都から上野までの駅伝が開催され、四三がアンカーを務め、駅伝は大きな評判を呼びます。

 今回は、夏季オリンピック大会の中止に絶望した四三が立ち直り、駅伝という新たな目標を見つけて動き出し、大成功を収めるところまで描かれました。スヤの妊娠もあり、明るい感じで終わりました。主人公の挫折と復活という王道的な物語ですが、これまでの人間関係の積み重ねを活かした話になっており、よかったと思います。女性のスポーツへの参加という、今後の展開への伏線もしっかりと張られており、やはり構成は上手くできていると思います。まあ、今更視聴率が大きく上がるとも思えませんが、最終回まで外野の声に惑わされず、この作風を維持してもらいたいものです。

アジア東部の中期更新世のホモ属

 アジア東部の中期更新世のホモ属遺骸に関する研究(Wu et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。アジア東部における中期~後期更新世のホモ属の進化は複雑です。それは一つには、複数系統の人類が存在した可能性のためで(関連記事)、もう一つには、在来のホモ属と現生人類(Homo sapiens)の出現について連続性と不連続性のどちらを重視するのか、という問題が解決していないからです(関連記事)。

 本論文は、中華人民共和国安徽省池州市(Chizhou)東至県(Dongzhi County)の華龍洞(Hualongdong)遺跡の人類遺骸を分析しました。華龍洞遺跡では頭蓋断片や大腿骨や遊離歯などのホモ属遺骸が発見されており、年代はウラン-トリウム法により、中期更新世となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)9e~8cにかけての331000~275000年前頃と推定されています。本論文はおもに、頭蓋部分の保存状態良好な華龍洞6(HLD 6)化石を分析しています。

 華龍洞6は、低く幅広い頭蓋冠と顕著な眼窩上隆起を有するなど祖先的な特徴とともに、突出していない顔面や大きくない顎や単純な咬合形態など、後の現生人類の出現の前兆とも言えるような特徴も有しています。華龍洞遺跡のホモ属遺骸は、前後のアジア東部のホモ属遺骸との類似性が見られ、アジア東部におけるホモ属系統の地域的継続性を示唆します。また本論文は、アジア東部に限らず、中期~後期更新世においてアフリカ北部および南部・ヨーロッパ・アジア南東部島嶼部などにおいても、ホモ属の地域的継続性が見られる、と指摘します。さらに本論文は、アジア東部に限らず、中期更新世においては世界的に、各地域での継続性とともに、脳容量の増加や顔面の華奢化といった共通傾向も見られる、と指摘しています。

 本論文の見解は旧多地域進化説(関連記事)を想起させます。もちろん本論文は、そこまであからさまに旧多地域進化説的な見解を提示しているわけではありませんが。脳容量の増大や華奢化が中期更新世のホモ属において世界的に共通する傾向だとしても、分岐した後のネアンデルタール人系統と現生人類系統でそれぞれ脳容量が増大しているように、その遺伝的基盤は異なる可能性が高いでしょう。あるいは、中期更新世においてもアフリカからユーラシアといったように地域間の移動はあり、人口が少ない時代だけに、小規模集団の移動が在来の集団に大きな影響を及ぼした可能性も想定されます。現生人類の進化については、多地域進化説の復権(関連記事)と言えるような状況になりつつあるようにも思いますが、それは旧多地域進化説の復権にはならないと思います。また、チベット高原東部で発見され、デニソワ人(Denisovan)と確認された下顎骨(関連記事)と華龍洞6との系統関係も注目されます。


参考文献:
Wu XJ. et al.(2019): Archaic human remains from Hualongdong, China, and Middle Pleistocene human continuity and variation. PNAS, 116, 20, 9820–9824.
https://doi.org/10.1073/pnas.1902396116

大木毅『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』

 角川新書の一冊として、KADOKAWAから2019年3月に刊行されました。ロンメルについて、近年の研究動向を踏まえた伝記を読みたいというよりも、そもそもロンメルについて基礎的な知識も怪しいので、一から知りたい、という目的で本書を読みました。じっさい私は、ロンメルについての初歩的な知識も欠けており、第二次世界大戦後に西ドイツでシュトゥットガルト市長(この都市名も本書を読むまで忘れていたのですが)を務めた息子の他に、娘がいたことを知りませんでした。しかも、ロンメルはその娘の母親とは結婚しなかったというか、後に妻となる女性との遠距離交際中にも関わらず、娘の母親となる女性と関係を持って、子供を儲けていました。正直なところ、ロンメルについて漠然と高潔な人格を想像していた私にとって、軍人としての失敗・欠点の指摘よりも、こちらの私生活の醜聞めいた話の方がずっと衝撃的でした。

 ただ本書は、暴露本的な関心からこの醜聞を取り上げたわけではありません。本書が強調するのは、ロンメルは「アウトサイダー」だった、ということです。貴族ではなく、それどころかプロイセン出身でも高級官僚や大学教授などのような「将校適性階級」でもなく中産階級出身だったロンメルは、陸軍幼年学校・士官学校・陸軍大学にも行っておらず、軍での実績を強調せねば、昇進できないどころか退役せざるを得ないような傍流にいた、と本書は強調します。ロンメルには過剰な功名心があるとか、自己顕示欲が過大とかいった悪評があるのですが、これは単にロンメルの個性に帰せられる問題ではなく、ドイツ軍では「アウトサイダー」だった立場によるところが大きい、と本書は指摘します。ロンメルの倫理的に問題のある女性関係も、厳しい性的規範が叩き込まれた貴族や「将校適性階級」では考えにくく、やや開放的な中産階級出身だったからではないか、と本書は推測します。

 軍人としてのロンメルは、初の実戦となった第一次世界大戦で功績を挙げていきますが、この時すでに、過剰な功名心など第二次世界大戦でも見られる欠陥を露呈しています。それでも、勇敢に戦い、はったりを使って敵を翻弄するロンメルは功績を挙げていき、軍同僚・上層部の評価と信頼を高めていきます。ドイツは第一次世界大戦で敗北し、軍部も大幅に縮小されましたが、第一次世界大戦とその直後の治安活動での功績が認められたのか、ロンメルは軍部に残れることになりました。ロンメルはヴァイマル期には不遇でしたが、これはベルサイユ条約で厳しい制約を課された当時のドイツ陸軍では仕方のないことでした。

 それだけに、軍備復興・拡張を掲げたナチス政権に対しては当初、少なくとも敵対的ではなかっただろう、と本書は推測しています。ナチス政権期にロンメルは、次第にヒトラーとの関係を深めていき、ヒトラーに心酔していくようになります。これは、ヒトラーがロンメルの著書『歩兵は攻撃する』やロンメルの護衛行動を高く評価したこともありますが、ドイツ陸軍本流との関係が悪かったヒトラーにとって、傍流のロンメルは好ましく見えた、ということもあったようです。ロンメルは第二次世界大戦初期でも勇猛な指揮で功績を挙げましたが、その長所が問題なく発揮されたのは師団長までだった、と本書は評価しています。本書はその一因として、ロンメルが高級指揮官の教育を受けなかったことを挙げています。つまり、ロンメルには大局的な戦略観が欠けていた、というわけです。また本書は、ロンメルが上述した過剰な功名心と自己顕示欲のためイギリス軍を過大評価し、これがダンケルクの停止命令に影響を及ぼした可能性も指摘しています。

 こうしたロンメルの長所と欠点はアフリカ戦線でもよく現れました。その勇猛果敢な姿勢はアフリカ戦線においてヒトラーをはじめとしてドイツ軍上層部の予想以上の戦果をもたらしましたが、一方で人的犠牲も多く、ロンメルは国民的英雄となったものの、ロンメルに否定的な評価もドイツ軍内部では根強く存在し続けました。上述したように、ロンメルはヒトラーに引き立てられて元帥まで昇進し、当初はロンメルもヒトラーに心酔していました。しかし、アフリカ戦線でドイツ軍が劣勢に陥っても、現状を無視して退却を認めず、死守命令を出すヒトラーに、ロンメルは不信感を抱くようになり、ノルマンディー上陸作戦以降、それは決定的となります。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件へのロンメルの関与については議論がありましたが、本書は、新たに紹介された軍高官の証言などから、ロンメルはヒトラー暗殺計画を知っており、それを支持していた、との見解に妥当性を認めています。本書は新書という制約の中で、ロンメルの生涯を過不足なく取り上げているように思います。本書は日本語で読めるロンメル伝として長く定番となるでしょう。

ネアンデルタール人によるイヌワシの捕獲

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)によるイヌワシ(Aquila chrysaetos)の捕獲に関する研究(Finlayson et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ネアンデルタール人は鳥を捕獲できなかった、と長く考えられてきました。ネアンデルタール人には、空を高速で飛べる鳥の捕獲に必要な認知能力・技術がなかっただろう、というわけです。一方現生人類(Homo sapiens)は、他の人類系統には起きなかった認知革命により、ネアンデルタール人よりも広範な動物を狩猟対象とできた、と考えられていました。しかし近年では、ネアンデルタール人が鳥を捕獲していた証拠が蓄積されつつあります。ジブラルタルのゴーラム洞窟(Gorham's Cave)遺跡ではネアンデルタール人がカワラバト(Columba livia)を食べていた、と明らかになりました(関連記事)。また、ネアンデルタール人は鳥を食べただけではなく、クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡の13万年前頃の層では、オジロワシ(Haliaëtus [Haliaeetus] albicilla)の爪を装飾品として利用していた痕跡も確認されています(関連記事)。

 本論文はおもにヨーロッパを対象として、ムステリアン(Mousterian)期154遺跡(125000~32000年前頃)、オーリナシアン(Aurignacian)期57遺跡(43000~36000年前頃)、グラヴェティアン(Gravettian)期33遺跡(34000~24000年前頃)、マグダレニアン(Magdalenian)期176遺跡(20000~13000年前頃)の鳥の利用を調査しました。ムステリアンはネアンデルタール人、それ以外は現生人類の所産と考えられています。ただ、オーリナシアン以降の文化の担い手が現生人類のみである可能性はきわめて高そうですが、ムステリアンの一部や、シャテルペロニアン(Châtelperronian)などムステリアンとオーリナシアンの移行期の諸文化については、多くの遺跡で人類遺骸が共伴していないため、その担い手については慎重に考えるべきかもしれません。

 ネアンデルタール人が標的とした鳥は大きく二分されます。一方はカワラバト(Columba livia)やカラスのような中型の鳥で、岩陰遺跡や洞窟遺跡といったネアンデルタール人の居住地の近くに大規模な群で生息しているので、ネアンデルタール人はこれらの鳥を比較的容易に捕獲していた、と考えられます。もう一方は大型の鳥である猛禽類で、上述のオジロワシのように、羽や爪(鉤爪)のために捕獲された、と考えられます。猛禽類の中では、ムステリアン期~マグダレニアン期まで、つまりネアンデルタール人から現生人類まで一貫して、発見された遺跡数ではイヌワシが最多となっており、ネアンデルタール人にとって猛禽類の中で主要な標的だったことを示唆します。

 イヌワシはアフリカ大陸北部・ユーラシア大陸・北アメリカ大陸に広く分布しています。イヌワシはアメリカ大陸先住民の信仰やギリシア・ローマ神話において崇められ、しばしば太陽信仰と関連づけられてきました。北半球において、イヌワシは体重2.8~6.4kgと最大級の猛禽類です。イヌワシは岩陰遺跡や洞窟といったネアンデルタール人の居住地近くに巣を作り、繁殖期以外には定期的に動物死骸を摂食するので、ネアンデルタール人に待ち伏せの機会を与えたかもしれない、と本論文は推測しています。イヌワシは他の大型類人猿を追い払えるほどの強さを示すため、人類に崇められるようになった、と本論文は指摘します。なお本論文は、日本の天狗のモデルはイヌワシだった、との見解を取り上げています。

 イヌワシの解体痕(cut marks)はほとんど肉のない翼にも見られ、ネアンデルタール人が注意深く羽を取った、と示唆します。また、イヌワシの脚と足にも解体痕が見られることから、ネアンデルタール人はイヌワシの爪も取っていたのではないか、と推測されています。イヌワシの部位を用いた装飾品は発見されていませんが、上述したように、まず間違いなくネアンデルタール人の所産である13万年前頃のオジロワシの爪の装飾品の事例があることから、ネアンデルタール人がイヌワシの爪や羽も装飾品に用いた可能性は高そうです。

 イヌワシの主要な生息地域がアフリカ外で、ネアンデルタール人による猛禽類の捕獲と装飾品への利用が13万年前頃には始まっており、ヨーロッパにおけるイヌワシへの拘りはネアンデルタール人もその後の現生人類も同様と考えられることから、本論文は、現生人類がネアンデルタール人からイヌワシなど猛禽類の捕獲や装飾品への利用を学んだかもしれない、と指摘しています。象徴的文化行動に関して、シャテルペロニアンなどにおいて現生人類からネアンデルタール人への伝播事例はよく主張されていますが(関連記事)、逆にネアンデルタール人から現生人類への伝播事例もあったのではないか、というわけです。この他には、ネアンデルタール人の皮なめし用の骨角器技術が現生人類に伝わった可能性も指摘されています(関連記事)。もちろん本論文は、ヨーロッパに拡散してきた現生人類が、独自に猛禽類の捕獲と装飾品への利用を始めた可能性も認めていますが、ネアンデルタール人から現生人類への象徴的文化行動の伝播があった可能性は低くないように思います。本論文も、近年のネアンデルタール人見直し傾向(関連記事)に沿ったものになっているように思います。

 もちろん、早ければ75万年前頃には分岐していた(関連記事)ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間に、何らかの認知能力の違いがあっても不思議ではありません。私もその意味で、近年のネアンデルタール人見直し傾向とはいっても、ネアンデルタール人と現生人類の認知能力が同じだと強く主張したいわけではありません。しかし、とくに象徴的文化行動において、ネアンデルタール人には不可能と考えられていた行為の証拠が近年蓄積されつつあることから(関連記事)、ネアンデルタール人と現生人類との違いが強調されていた時期(1997~2010年頃)の主流的論調よりは、ネアンデルタール人と現生人類の認知能力は類似していた可能性が高いと思います。


参考文献:
Finlayson S. et al.(2019): Neanderthals and the cult of the Sun Bird. Quaternary Science Reviews, 217, 297–309.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2019.04.010

デニソワ人と確認されたチベット高原の中期更新世の下顎骨(追記有)

 チベット高原で発見された中期更新世人類の下顎骨に関する研究(Chen et al., 2019)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事(Warren., 2019A)と論説が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、1980年に中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖カルスト洞窟(Baishiya Karst Cave)で発見され、その後は蘭州大学で保管されていたホモ属の右側半分の下顎骨を分析しました。この個体の年齢は、歯の萌出から青年期と推測されています。この洞窟の近くには白石崖寺(関連記事)があります。報道によると、僧侶が発見したとのことで、発見時の状況が考古学的に曖昧なことは批判されそうですが、たいへん重要な論文だと思うので、取り上げます。

 夏河下顎骨の研究は2010年代になって本格的に始まりました。夏河下顎骨の年代は、炭酸塩付着物をウラン-トリウム法で年代測定することにより、16万年以上前という結果が得られました。海洋酸素同位体ステージ(MIS)6には、人類はチベット高原を占拠していたことになります。これまで、チベット高原における人類最古の痕跡の年代は4万~3万年前頃と推定されており(関連記事)、これは現生人類と考えられています。したがって、夏河下顎骨はチベット高原における最古の人類の痕跡となります。

 夏河下顎骨からはその個体のDNAは確認されませんでした。そこで本論文は、夏河下顎骨の歯の象牙質のコラーゲンを分析し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や現生人類(Homo sapiens)などと比較した結果を報告しています。人類遺骸のタンパク質の総体(プロテオーム)を解析し、アミノ酸配列を識別することで、人骨の系統的分類が可能となり、たとえば、現生人類のコラーゲンはアスパラギン酸と呼ばれるアミノ酸を大量に含んでいる一方で、ネアンデルタール人のアミノ酸はアスパラギンというアミノ酸を豊富に含んでいます(関連記事)。その結果、夏河下顎骨はデニソワ人(Denisovan)もしくはそのきわめて近縁な系統に分類されました。ただ、現生人類アフリカ単一起源説の代表的研究者であるストリンガー(Chris Stringer)氏は、タンパク質分析による人類系統の研究はまだ初期段階にあり、比較標本はDNAよりも少ないため、もっと標本数を増やす必要がある、と指摘しています。以下、夏河下顎骨の系統関係を示した本論文の図2です。
画像

 デニソワ人については、遺伝学から複数系統の存在の可能性が指摘されており(関連記事)、夏河下顎骨をデニソワ人系統と分類しても大過ないように思いますので、この記事では夏河下顎骨をデニソワ人の1系統として扱います。デニソワ人(Denisovan)は、これまで南シベリアのアルタイ山脈の渓谷に位置するデニソワ洞窟(Denisova Cave)でのみ確認されていた種区分未定のホモ属で、ネアンデルタール人と近縁な分類群です(関連記事)。

 夏河下顎骨はデニソワ洞窟以外で初めて確認されたデニソワ人となり、これだけでも大発見なのですが、保存状態の比較的良好な右側下顎骨であることも大きな意味を有します。デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人遺骸はどれも手の指骨や歯といった断片的なもので、形態学的情報はたいへん少なかったからです。デニソワ人に関しては、更新世人類としては豊富な遺伝学的情報が得られています。しかし、デニソワ人候補の既知のホモ属遺骸は、形態学的情報はそれなりに得られているものの、遺伝学的情報はまったく得られていないので、既知のホモ属遺骸のうちどれがデニソワ人と同じ分類群となるのか、照合できない状況が続いていました。夏河下顎骨がデニソワ人と確認されたことにより、既知のホモ属遺骸とデニソワ人の照合はじゅうらいよりもずっと容易になったわけで、本論文の意義はたいへん大きいと思います。デニソワ人の遺伝的影響は、現代人ではオセアニアでとくに高く、アジア東部でも確認されています。そのため、デニソワ人は広範に拡散していたのではないか、と予想されていましたから、デニソワ洞窟から離れた地域でデニソワ人が確認されたこと自体は、多くの人にとって意外ではなかったと思います。

 夏河下顎骨は中期更新世人類では一般的な祖先的形態を示し、その変異内に収まります。夏河下顎骨の歯に関しては複数の分析が行なわれ、ホモ・エレクトス(Homo erectus)よりもネアンデルタール人や現生人類など他の中期更新世ホモ属と類似した点も見られます。全体的に、夏河下顎骨は形態的にネアンデルタール人や現生人類と比較して祖先的特徴がより強いようです。夏河下顎骨と年代の近そうな類似したアジア東部のホモ属遺骸として、台湾沖で発見された澎湖1(Penghu 1)が挙げられています(関連記事)。また、中華人民共和国河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡で発見された後期更新世のホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎骨との類似性が指摘されています。デニソワ人はアジア東部に広く分布していたのかもしれません。

 16万年以上前という夏河下顎骨の年代は、デニソワ洞窟最古のデニソワ人遺骸と推定されているデニソワ2(Denisova 2)の194400~122700年前頃に匹敵する古さです(関連記事)。デニソワ人系統とネアンデルタール人系統の分岐年代には複数の説があり、473000~445000年前頃(関連記事)とも744000年前頃(関連記事)とも推定されています。いずれにしても、デニソワ人の初期の遺骸はまだ確認されていないことになります。デニソワ人の形態学的情報が以前よりずっと多くなったので、形態学的観点からデニソワ人と近縁な系統に属すると推測されるホモ属遺骸を確認することが以前より容易になり(とはいっても、まだネアンデルタール人と比較してデニソワ人の形態学的情報はたいへん少ないのですが)、デニソワ人の分布範囲と進化について、より解明しやすくなった、と言えるでしょう。

 夏河下顎骨の重要性は他にもあり、それは16万年以上前に標高3280mに位置する白石崖カルスト洞窟一帯にデニソワ人が拡散していたことです。これまで、砂漠・熱帯雨林・高地・北極圏といった極限環境に進出できたのは現生人類だけだった、との見解も提示されていました(関連記事)。しかし夏河下顎骨は、デニソワ人が少なくとも高地には適応できていたことを示しました。もっとも、私もそうですが、この結果を予想していた人は少なくなかったと思います。現代チベット人にはデニソワ人由来と推測されている高地適応関連遺伝子が確認されているからです(関連記事)。ただ、じゅうらいはデニソワ人が標高700mのデニソワ洞窟でしか確認されていなかったため、じっさいに高地に適応していたのか、不明でした。デニソワ人に由来する現代チベット人の高地適応関連遺伝子が夏河下顎骨系統からもたらされたのか、不明ですが、今後周辺地域でデニソワ人遺骸が発見され、ゲノム解析に成功したら、より精度の高い推測が可能となるでしょう。

 上述したように、残念ながら夏河下顎骨のDNA解析には成功していません。しかし、デニソワ洞窟の研究に関わっているドウカ(Katerina Douka)氏は、白石崖カルスト洞窟の堆積物にDNAが保存されている可能性を指摘しています。じっさい、デニソワ洞窟を含む複数の遺跡で、堆積物からデニソワ人やネアンデルタール人のDNAが確認されています(関連記事)。こうした方法でも、デニソワ人の拡散範囲を推測できるようになるのではないか、と期待されます。また、デニソワ人の高地適応が明らかになったことから、アジアの高地で今後デニソワ人遺跡が確認されていく可能性も指摘されています。たとえば、キルギスの海抜約2000mのセルアンガー(Sel’Ungur)洞窟では人類の子供の腕の骨が発見されていますが、DNAは解析されていません。この子供はデニソワ人かもしれない、と古人類学者のヴィオラ(Bence Viola)氏は指摘します。本論文の意義はたいへん大きく、今後長く引用され続けることでしょう。今後、デニソワ人遺骸がさらに多くの遺跡で確認されることを期待しています。


参考文献:
Chen F. et al.(2019): A late Middle Pleistocene Denisovan mandible from the Tibetan Plateau. Nature, 569, 7756, 409–412.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1139-x

Warren M.(2019A): Biggest Denisovan fossil yet spills ancient human’s secrets. Nature, 569, 7754, 16–17.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-01395-0


追記(2019年5月7日)
 以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



【考古学】高地のチベット高原でも生活していたデニソワ人

 デニソワ人の下顎骨の化石がチベット高原の洞窟で発見され、16万年前のものと年代測定された。これが、シベリアのデニソワ洞窟以外の場所で生活していた古代ヒト族のデニソワ人の証拠だとする初めての研究報告が、今週掲載される。この下顎骨は、チベット高原で発見された最も古いヒト族の化石とされる。この発見は、デニソワ人が高地の低酸素環境に適応した時期が、現生人類がチベット高原に到達した頃よりかなり前だったことを示している。

 デニソワ人は、ネアンデルタール人の姉妹群で、すでに絶滅しており、シベリア南部のデニソワ洞窟で発見された断片化石とアジアにおける現生人類の遺伝情報が一部残っていたことだけが解明の糸口となっている。現在のシェルパ族、チベット人とその近隣に住む民族は、高地での生存に役立つデニソワ人由来の遺伝的バリアントを持っている。しかし、古代ヒト族のデニソワ人の化石証拠は、標高わずか700 mのデニソワ洞窟で発見されたものしかないため、デニソワ人が高地に適応した原因ははっきりしていなかった。

 今回のJean-Jacques Hublin、Frido Welker、Dongju Zhangたちの研究グループの論文で、チベット高原の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave;標高3280 m)で発見されたヒト族の下顎骨について説明されている。この下顎骨から見つかったタンパク質の解析で、デニソワ人の骨と同定され、放射性同位体年代測定によって16万年以上前のものであることが判明した。この測定年代は、これほどの標高のチベット高原にヒト族が生活していたことを示す最古の証拠(約3~4万年前と年代測定された)よりも前だった。この骨化石が高地で見つかったことは、デニソワ人が高地の低酸素環境への適応をもたらす遺伝的バリアントを有していた理由となる可能性がある。また、この下顎骨の年代は、デニソワ洞窟で発見された最古のデニソワ人の化石の測定年代とも矛盾しておらず、この下顎骨の特徴の一部(歯列など)は、先行研究で明らかになったデニソワ人の化石の特徴と類似している。

 以上をまとめると、今回の研究で得られた新知見は、東アジアでのヒト族の進化史の解明を進める上で役立つものと考えられる。



追記(2019年5月8日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2019年5月16日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類学:チベット高原で発見された中期更新世後期のデニソワ人の下顎骨

人類学:高地に適応していたデニソワ人

 チベット高原の東端、海抜約3200 mの洞窟で出土したヒト族の下顎骨が今回、含まれていた古代タンパク質の分析から、「デニソワ人」として知られる謎めいた古代ヒト族のものと判定された。デニソワ人の存在を示すものとしては、これまでに1個体のゲノム、種の判別につながらない少数の断片的標本、そして東南アジアやオセアニアの一部の現代人のゲノムに残されている遺伝的痕跡が見つかっている。この下顎骨は、シベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟以外の地で初めて発見されたデニソワ人化石であり、重要な形態学的特徴を示すものであるとともに、年代は約16万年前と、既知のデニソワ人標本としては最古のものである。今回発見されたのは、2本の大きな大臼歯が残る下顎骨の右半分で、これは、これまで分類ができずヒト族のものであること以外は謎に包まれてきた中国で出土した他の複数の標本とも比較できる可能性がある。発見場所が高地であることもまた、別の謎を解くカギになるかもしれない。現代のチベット人やシェルパ族のDNAにはデニソワ人由来のEPAS1遺伝子が存在しており、これが現在チベット高原に暮らす人々に高地の低酸素環境への適応をもたらしている。しかし、現生人類がチベット高原に定着したのはデニソワ人の年代のはるか後で、高地適応遺伝子であるEPAS1がより低地に暮らす現生人類や、海抜がわずか700 mというデニソワ洞窟のデニソワ人化石に存在することは謎であった。今回発見された標本の場所と年代の古さは、デニソワ人がはるか昔にチベット高原に定着し、ことによるとそこで進化した後で標高のより低い地域に移動したことを示している可能性がある。さすがに「イエティ」説を思い浮かべてしまう人もいるのではなかろうか。

『卑弥呼』第16話「情報戦」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年5月20日号掲載分の感想です。前回は、ヌカデがトメ将軍の陣地に行き、山社国からの使者と名乗り、トメ将軍との面会を求めるところで終了しました。今回は、トメ将軍とヌカデが会見する場面から始まります。トメ将軍はまず、1日待たせたことをヌカデに謝ります。トメ将軍は那国と暈国の境の陣地を抜け、穂波(ホミ)国に赴いていた、とヌカデに説明します。那軍の半分を東南に移動させ、そこから暈を攻めようとして穂波の将軍に協力を求めたものの、暈と同盟関係にある穂波は即座に断った、とトメ将軍はヌカデに打ち明けます。トメ将軍が率直に打ち明けたことにヌカデが驚くと、色香のあるお姫様には嘘をつけない、とトメ将軍は言います。すると、ヌカデは鋭い目つきでトメ将軍を睨みます。トメ将軍は、ヌカデが紫の衣を着ていたため、高貴な出自と考えていましたが、戦女(イクサメ)か女忍(メノウ)だと見抜きます。自分が女好きなのを知って寝所での暗殺を命じられたのか、とトメ将軍に尋ねられたヌカデは、最初はそのつもりだったが、日見子たるヤノハの命で策を変えた、と答えます。トメ将軍は、ヌカデが自分と対峙する暈のオシクマ将軍を裏切った、と悟ります。

 トメ将軍は話題を変え、暈で新たな日見子が顕われ、山社(ヤマト)に逃げ込むという大騒動が勃発した、とヌカデに語りかけます。するとヌカデは、日見子(たるヤノハ)は逃げたのではなく、山社の独立を宣言したのだ、と反論します。トメ将軍は、山社を国にするとは考えたものだ、と感心したように言います。トメ将軍に用件を問われたヌカデは、山社で新たに生まれた国を支持して助けてもらいたい、と願い出ます。トメ将軍に山社を助ける理由を問われたヌカデは、新たな日見子は倭国の支配を考えておらず、国々の自治を尊重するつもりだ、と答えます。トメ将軍に新たな日見子が何者なのか、尋ねられたヌカデは、この百年で初めてトンカラリンの儀式より生還した祈祷女(イノリメ)で、正真正銘。天照大神に選ばれたお方だ、と答えます。するとトメ将軍は、偽物か本物かはどうでもよい、人としての日見子を知りたい、とヌカデに尋ねます。ヌカデは、新たな日見子の名前はヤノハといい、日向(ヒムカ)の日の守(ヒノモリ)の養女で、秀でた戦女だ、と答えます。戦場で会いたかったな、と言ったトメ将軍は、ヤノハのどこを気に入ったのか、ヌカデに尋ねます。ヤノハはこのままでは暈国のタケル王に嬲り殺しにされるわけで、なぜ負ける側につくのか、というわけです。ヌカデは、ヤノハの生きる力に惚れたからだ、と答えます。ヤノハは生き残るためなら躊躇なく百人、千人の命を犠牲にする鬼鬼しき心を有している一方で、倭国を平和にせねばならないと考える賢き心も持ち合わせているからだ、というわけです。自分はヤノハに賭けた、どうせ短い命なら、目的をもって全力で生きたい、と決意を述べるヌカデにたいして、面白いではないか、とトメ将軍は言います。

 その頃山社では、ミマト将軍が娘のイクメに、鞠智彦(ククチヒコ)の命に従い、ヤノハを鞠智の里に連行することにした、と告げていました。イクメは反対しますが、イクメの言う通りヤノハが本物の日見子だとしても、勝ち目はなく、自分は戦人なので負ける戦いはしないし、恩のある人を裏切れない、とミマト将軍はイクメを諭します。ミマト将軍は、イクメと同様にタケル王が偽の日見彦だと言知っていましたが、吉野(吉野ケ里遺跡のことだと思います)を捨てた我々一族を拾ってくれた鞠智彦には恩義がある、とイクメに言います。ミマト将軍は、タケル王の命にしたがってヤノハの手足を砕き、目鼻を削ぎたくないし、暈の「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長であるヒルメの命に従い、種智院の私怨にも巻き込まれたくない、せめてもの誠意が鞠智への護送だ、とイクメに説明します。するとイクメは、ならぶ自分はここで死ぬ、一生のお願いなので、自分と日見子様(たるヤノハ)を見逃してもらえないだろうか、と父のミマト将軍に懇願します。ミマト将軍が気づいた時にはヤノハとイクメはどこかに出奔し、行方不明になったと報告してほしい、というわけです。ミマト将軍は困惑した様子で、どこに逃げるのだ、とイクメに尋ねます。するとイクメは、渡海して東に向かう、と言います。豊秋津島(トヨアキツシマ)の日出処(ヒイズルトコロ)にあるという新たな山社を探す、というわけです。豊秋津島とは本州を指すと思われます。筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の王たちは信じているようだが、サヌ王が築いた日下(ヒノモト)の国はただの言い伝えかもしれない、とミマト将軍は東方行きを諦めるよう、イクメを説得します。しかしイクメは、ヤノハとともに東方に行く、と固い決意を示します。説得は無理だと判断したのか、考えさせてくれ、とミマト将軍は言い、イクメは感謝します。ミマト将軍は話題を変えて、息子のミマアキが帰ってきたことをイクメに伝えます。ミマアキはオシクマ将軍のもと、暈と那の最前線で修行しており、兵500人が増員されたので、ミマト将軍が呼び戻した、というわけです。ミマト将軍は、息子が一人前の武人に育ったことを喜び、イクメも弟との再会をたいそう喜びます。

 鞠智の里では、普段は鹿屋(カノヤ)にいるタケル王が鞠智彦と会っていました。わざわざ鞠智の里に来たタケル王に鞠智彦が恐縮して見せると、今や一刻の猶予もない、とタケル王は言います。それほど切迫した事態ではないと思う、と鞠智彦は誤魔化そうとしますが、自分と天照大神を貶める輩が出たのに、何を悠長にしているのだ、とタケル王は鞠智彦を嘆息します。タケル王は焦っているのでしょうが、鞠智彦を信頼しているためか、詰問するといった雰囲気ではありません。今すぐ鞠智彦に預けた自分の手勢を返してもらいたい、とタケル王は鞠智彦に言いますが、すでにタケル王の手勢は暈と那の国境に配備済みだ、と鞠智彦は答えます。するとタケル王は、すぐ呼び戻すよう、鞠智彦に伝えます。1000人の兵で山社を囲めば、偽の日見子も降伏するだろう、というわけです。鞠智彦は、タケル王の手勢は500人のはずなのに、と困惑します。するとタケル王は、オシクマ将軍の兵を含めて千人だ、と答えます。つまり、那との最前線の全軍を山社に向かわせるわけです。那との最前線から山社まで行軍に3日、偽の日見子(たるヤノハ)の拘束に1日、最前線までの帰還に4日の、ほんの8日だけだ、とタケル王は鞠智彦に説明します。すると鞠智彦は、ミマト将軍が日見子を拘束するのは時間の問題だ、とタケル王に進言します。余所者のミマト将軍を信じるのか、とタケル王に問われた鞠智彦は、自信に満ちた表情で、ミマト将軍は絶対に裏切らない、と答えます。

 山社では夜を迎え、寝所にいるヤノハにアカメが一連の経緯を報告していました。那と暈の戦況をヤノハに問われたアカメは、暈の兵は1000人で那の兵は500人なので、兵力は暈が圧倒的に優位だ、と答えます。兵数は関係ないだろう、とヤノハに指摘されたアカメは、その通りで、暈の兵は疲弊している一方で、那の兵の士気はきわめて高く、大河(筑後川と思われます)を渡ることさえできれば、トメ将軍の率いる那軍が有利だ、と答えます。何としてもトメ将軍には大河を渡ってもらわねば、と言うヤノハに、ミマト将軍がどう決断したのか、アカメは尋ねます。するとヤノハは、ミマト将軍は律義に人なので、自分を拘束しようと決意したはずだ、と答えます。狼狽するアカメにたいしてヤノハは、指示を伝えます。それは、鹿屋と鞠智の里で、ミマト将軍がタケル王と鞠智彦を裏切り、新たな日見子の下、山社の独立を策している、という噂を流すことでした。飛語は志能備(シノビ)が最も得意とする技なので容易ですが、と言うアカメは、その噂がヤノハにとって吉と出るのか、危ぶんでいました。自分の策が凶と出ても、それはそれで面白いではないか、とヤノハが不適に言うところで、今回は終了です。


 今回も、主要人物の思惑と駆け引きが描かれ、たいへん楽しめました。ずっと掲載順が良いので、読者から支持を得ているのでしょうか。まあ、『ビッグコミックオリジナル』が、人気順に作品を掲載しているのか、定かではありませんが。今回まず注目されるのは、これまで何度も言及されており、やっと初登場となった那国のトメ将軍です。トメ将軍は二枚目の優秀な人物といった感じで、違和感のない人物造形になっていました。トメ将軍は那国要人のウラからは信頼されていないような感じでしたが(第14話)、これはトメ将軍が武人として優秀ではないというよりは、庶民出身であることと、那国の方針を巡る対立が関わっているのではないか、と思います。この点も、今後描かれるのではないか、と期待しています。トメ将軍がヌカデの提案にどう答えるのか、まだ分かりませんが、トメ将軍の決断は物語を大きく動かすことになりそうです。

 暈では、タケル王がヤノハをすぐにでも事実上の死刑にしたいと考えているのにたいして、ヤノハの能力に興味を抱いている鞠智彦は、ヤノハを鞠智の里に連れてきて、面会しようとしています。タケル王は鞠智彦を信頼しているようですし、鞠智彦はタケル王に少なくとも表面上は敬意を払っていますが、両者の思惑には違いがあるので、二人のやり取りは緊張感のある面白いものとなっています。鞠智彦はヤノハをどうするつもりなのか、まだ明示されていないのですが、優秀なので自分の配下として使おうとしているのでしょうか。

 ミマト将軍は、ヤノハと鞠智彦が考えているように、義理堅い武人のようです。ミマト将軍は、今では没落したかつて筑紫島で最大だった吉の国の出身で、鞠智彦に取り立ててもらった恩義に今でも強く感じ入っているようです。しかし、暈では余所者だからということなのか、家族の絆を大事にしているように見えるミマト将軍は娘のイクメに甘いところがあり、今回も、娘とヤノハの逃亡を見逃すべきか、悩んでいました。そこで重要な役割を担いそうなのが、今回初登場となったミマト将軍の息子でイクメの弟となるミマアキです。トメ将軍と同じく今回が初登場となったミマアキですが、トメ将軍がこれまでたびたび言及されていたのにたいして、ミマアキの存在は前回までまったく明らかにされていませんでした。しかし、ミマアキは同じ作画者の『天智と天武~新説・日本書紀~』の主人公である中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)を足して2で割り、さらに中大兄と大海人、とくに中大兄の邪悪な要素を取り除いたような爽やかな外見になっていましたから、重要人物であることは間違いないと思います。何よりも、ミマアキという名前は、『日本書紀』の御間城入彦五十瓊殖天皇、つまり崇神天皇を想起させますから、その意味でも重要人物ではないか、と思います。イクメは父のミマト将軍に、ヤノハとともにおそらくは本州である豊秋津島へと渡り、その昔サヌ王(おそらくは『日本書紀』の神武天皇)が日向から東征して築いたという新たな山社を目指すつもりのようです。もしイクメの計画通りに話が進むならば、本作の邪馬台国は現在の有力説にしたがって奈良県の纏向遺跡一帯に設定されているのかもしれません。これまでは、『三国志』の記述と本作の地理設定から、現在の宮崎県である日向が邪馬台国で、卑弥呼(日見子)となったヤノハの晩年に纏向遺跡一帯に「遷都」するのではないか、と予想していたのですが、意外と早い段階で舞台は現在の奈良県に移るのかもしれません。私の予想はともかく、魏や呉も登場しそうで、たいへん壮大な物語になりそうなので、今後の展開がたいへん楽しみです。

ボノボと未知の類人猿系統との交雑

 ボノボ(Pan paniscus)と未知の類人猿系統との交雑に関する研究(Kuhlwilm et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ボノボとチンパンジー(Pan troglodytes)は現代人(Homo sapiens)にとって最近縁の現生種です(関連記事)。現代人も含めて大型類人猿(ヒト科)の各系統間の推定分岐年代はまだ確定したとは言えない状況でしょうが、オランウータン・ゴリラ・チンパンジーおよびボノボ・現代人の最終共通祖先からまずオランウータン系統が分岐し、次にゴリラ・チンパンジーおよびボノボ・現代人の最終共通祖先からゴリラ系統が分岐し、その後でチンパンジーおよびボノボ系統と現代人系統が分岐し、最後にチンパンジー系統とボノボ系統が分岐した、という順番はほぼ間違いなさそうです。

 最近の研究では、現代人・チンパンジー(およびボノボ)・ゴリラの共通祖先系統とオランウータン系統が1590万年前頃、現代人・チンパンジーの共通祖先系統とゴリラ系統が910万年前頃、現代人系統とチンパンジー系統とが660万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。チンパンジー系統とボノボの系統の推定分岐年代も確定していませんが、255万~145万年前頃との見解も提示されており(関連記事)、ボノボとチンパンジーの共通祖先の一部集団が、180万もしくは100万年前頃のひじょうに乾燥した期間に水量の低下したコンゴ川の浅瀬を渡ってコンゴ川の南側に達し、ボノボに進化したのではないか、とも推測されています(関連記事)。現生ボノボのミトコンドリアDNA(mtDNA)の推定合着年代は95万年前頃で、その後にボノボは西方へと拡散した、と推測されています。

 チンパンジー系統はこの後、西部集団(Pan troglodytes verus)・ナイジェリア-カメルーン集団(Pan troglodytes ellioti)・中央部集団(Pan troglodytes troglodytes)・東部集団(Pan troglodytes schweinfurthii)という4系統(亜種)に分岐していきました。まず、633000~544000年前頃に、東部集団および中央部集団の系統と西部集団およびナイジェリア-カメルーン集団の系統が分岐した後、25万年前頃に西部集団の系統とナイジェリア-カメルーン集団の系統が、182000~139000年前頃に東部集団の系統と中央部集団の系統が分岐した、と推定されています(関連記事)。こうした交雑は、寒冷期にコンゴ川の水位が低下したために起きたのだろう、と推測されます。

 おそらくは100万年以上前に分岐しただろうボノボ系統とチンパンジー系統との間に、その後で交雑が起きた、との見解も提示されています(関連記事)。ボノボ系統は、まず55万~20万年前頃にチンパンジーの東部集団および中央部集団の共通祖先系統と、次にチンパンジーのナイジェリア-カメルーン集団の系統と、さらに20万年前頃以降にチンパンジーの中央部集団の系統と交雑した、と推測されています。本論文はさらに、古代型系統のゲノムが存在しない場合の遺伝子移入を同定するために開発された方法を用いて、チンパンジーとボノボのゲノム解析による偶然では説明しにくい変異の多さから、ボノボと絶滅した未知の類人猿系統(ゴースト集団)の交雑を推定しています。一方チンパンジーには、この未知の類人猿系統との交雑の痕跡は検出できませんでした。この「ゴースト集団」は、チンパンジーおよびボノボの共通祖先系統と330万年前頃に分岐し、ボノボ系統とは637000~377000年前頃に交雑した、と推定されています。

 本論文は、複数のボノボのゲノムから、最大で4.8%ほどの「ゴースト集団」のゲノムを復元しています。注目されるのは、この「ゴースト集団」のゲノムは、ボノボの染色体に均一に分布しているわけではない、ということです。ボノボの常染色体における「ゴースト集団」の遺伝的影響は3%以下ですが、各染色体により「ゴースト集団」由来の領域の割合は異なります。さらに、常染色体ではなくX染色体では、とくに「ゴースト集団」の影響が低くなっています。これらの知見は、ボノボ系統において「ゴースト集団」との交雑において、適応度を上げる遺伝子も下げる遺伝子も流入したことを示唆します。また本論文は、「ゴースト集団」から流入した遺伝子がボノボの脳・腎臓・免疫システムに影響を与えた可能性も指摘しています。本論文の提示する系統間の関係と交雑は、図3にまとめられています。
画像

 ヒト科においては、現代人も含まれる後期ホモ属において、異なる系統間の複雑な交雑があった、と推測されています(関連記事)。現代人系統と分岐した後のチンパンジーおよびボノボ系統も、おそらくは同様だったのでしょう。さらに霊長類に範囲を広げると、ヒヒ属の異なる系統間で複雑な交雑があった、と推測されています(関連記事)。霊長類にいて、異なる系統間の交雑は珍しくなかったのでしょう。一方で、こうした交雑が適応度を下げる場合もあり、各系統の分離を固定化した、という側面も多分にあったのでしょう。現代人系統と分岐した後のチンパンジーおよびボノボ系統の中新世~更新世の化石はほとんど見つかっておらず、今後も期待しにくいだけではなく、発見されてもDNA解析はかなり困難でしょうから、絶滅系統の存在および現生種との交雑関係を明らかするような本論文の手法は、低緯度地域の生物の進化史の復元で大いに役立つことが期待されます。私の見識・能力では追いつくことも難しいのですが、今後の研究の進展が楽しみですから、できるだけ追いかけていきたいものです。


参考文献:
Kuhlwilm M. et al.(2019): Ancient admixture from an extinct ape lineage into bonobos. Nature Ecology & Evolution, 3, 6, 957–965.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0881-7

古人類学の記事のまとめ(37)2019年1月~2019年4月

 2019年1月~2019年4月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2019年1月~2019年4月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

大型類人猿における変異率と各系統間の分岐年代
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_49.html

ヒヒ属の複雑な進化史
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_5.html

石器の起源
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_49.html

チンパンジーの行動多様性への人間の影響
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_15.html

ジャワ島におけるメガントロプスの存在
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_42.html


●ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

現代人と似た歯の成長を示す10万年以上前の東アジア北部のホモ属
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_36.html

アフリカのハイデルベルゲンシス
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_10.html

アジア東部における中期更新世ホモ属の多様性
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_13.html

ハイデルベルゲンシスの位置づけ
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_34.html

ルソン島の後期更新世の新種ホモ属
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_17.html


●ネアンデルタール人関連の記事

象徴的思考能力をはじめとしてネアンデルタール人の認知能力に関する記事のまとめ
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_5.html

唯物論はネアンデルタール人級の発想
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_8.html

ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入と選択の効果
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_40.html

ネアンデルタール人と現生人類の交雑第一世代は発見されるのか
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_44.html

更新世の投槍の威力とネアンデルタール人の投槍
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_51.html

デニソワ洞窟の中部旧石器時代~上部旧石器時代の年代
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_55.html

近親交配によるイベリア半島北部のネアンデルタール人の形態と絶滅
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_17.html

ネアンデルタール人の絶滅に関する議論
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_18.html

先人たちの無能さをあざ笑う
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_25.html

ジブラルタルの末期ネアンデルタール人の足跡
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_30.html

草食動物への依存度の高かったフランスのネアンデルタール人
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_44.html

ヨーロッパ西部の後期ネアンデルタール人と初期現生人類の食性と移動性
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_24.html

2019年度アメリカ自然人類学会総会(ネアンデルタール人とデニソワ人の分岐年代)
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_50.html

レヴァントにおけるネアンデルタール人の進化
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_53.html

日本人にはネアンデルタール人のY染色体遺伝子が少し残っています
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_54.html


●デニソワ人関連の記事

デニソワ人の頭蓋
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_7.html

アジア南東部におけるデニソワ人など後期ホモ属の複雑な交雑史
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_17.html

パプア人系統とチベット人系統におけるデニソワ人との複数回の交雑
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_51.html

デニソワ洞窟の中部旧石器時代後期~上部旧石器時代初期の年代
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_1.html

デニソワ人のホモ属進化史における位置づけ
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_11.html

現生人類と複数系統のデニソワ人との複雑な交雑
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_19.html

アメリカ大陸におけるデニソワ人の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_23.html


●フロレシエンシス関連の記事

リアンブア洞窟のネズミの身体サイズの変化とフロレシエンシスの消滅
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_26.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

Kate Wong「ホモ・サピエンス成功の舞台裏」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_21.html

未知のホモ属と現生人類との交雑
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_35.html

イベリア半島南部における4万年以上前のオーリナシアン
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_42.html

地上波版より分かりやすかったBS版『生命大躍進』第3集「ついに“知性”が生まれた」
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_7.html

多地域進化説の復権
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_14.html

熱帯雨林環境におけるスリランカの初期現生人類の狩猟戦略
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_35.html

中国南部の末期更新世の祖先的特徴を有する人類
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_46.html

現生人類の出アフリカ直前のアフリカ南部から東部への移動
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_36.html

レヴァントオーリナシアン特有の象徴的な遺物
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_39.html

後期ホモ属の系統樹
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_42.html

現代人系統の染色体数はいつ46本になったのか
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_21.html

ヨーロッパにおける旧石器時代の食人
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_24.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

モンゴル東部の更新世人類頭蓋の年代とmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_3.html

ユーラシア東部の現生人類集団の2層構造
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html

山田康弘『縄文時代の歴史』
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_42.html

鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_10.html

アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

シナ・チベット語族の起源
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_37.html

篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_39.html

ユーラシア内陸部の人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_45.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

アジア東部系と共通するラテンアメリカ系の明るい肌の色の遺伝的基盤
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_20.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

アフリカからイベリア半島への先史時代の遺伝子流動
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_52.html

コーカサス地域の銅石器時代~青銅器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html

ヨーロッパの巨石文化の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_4.html

イベリア半島の人類集団の長期にわたる遺伝的歴史
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_28.html

在来の狩猟採集民により始まったアナトリア半島の農耕
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_32.html

カナリア諸島先住民の起源
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_34.html

ブリテン島における新石器時代農耕民の起源
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_26.html

ヨーロッパの新石器時代巨石文化集団の構造
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_28.html

十字軍兵士のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_33.html

シチリア島の上部旧石器時代早期の痕跡の見直し
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_41.html


●進化心理学に関する記事

『性の進化論 女性のオルガスムは、なぜ霊長類にだけ発達したか?』第4刷(前編)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_3.html
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_4.html

Kevin Laland「ヒトがヒトを進化させた」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_15.html

Thomas Suddendorf「思考力をもたらした2つの性質」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_16.html

Susan Blackmore「意識を持つのは人間だけか」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_17.html

Christine Kenneally「高度な言語が生まれた理由」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_19.html

Michael Tomasello「モラルを生んだ生存競争」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_22.html

複雑社会の出現後に始まった道徳を説く神への信仰
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_16.html


●その他の記事

ヒトにおける父親からのmtDNAの遺伝
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_10.html

Chet C Sherwood「データで見る脳の違い」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_20.html

Menno Schilthuizen「都市が変える生物進化」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_25.html

Pedro Domingos「分身AIがつくる社会」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_26.html

John Gribbin「人類という奇跡」
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_27.html

人類の社会構造と近親婚
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_28.html

DNAの二重螺旋構造解明のワトソン氏が人種差別発言で名誉職剥奪
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_30.html

朝型人間の遺伝的要因
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_54.html

中期完新世まで現代よりも多様だったパンダの食性
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_1.html

進化否定論者は「まともな人間」ではないのか
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_23.html

日本の人類学には日本人の優秀性を証明しようという差別的な動機があった
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_28.html

現代人のmtDNAハプログループの多様性
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_55.html

李相僖、尹信榮『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_37.html

更科功『進化論はいかに進化したか』
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_30.html

古代DNA研究の問題点
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_43.html

近年の人類進化に関する衝撃的な研究
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_44.html



過去のまとめ一覧

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