白村江の戦い補足

 1年ほど前(2018年6月2日)に、日本は百済の植民地だったとする説を取り上げました(関連記事)。それと関連する説として、倭(日本)と百済との特別に親密な関係を想定する見解も取り上げました。そうした見解では、日本の王族(皇族)の故地は百済だった、と示唆されることも珍しくありません。唐との無謀な戦いに挑み、白村江で惨敗するに至ったのには、日本と百済の特殊な関係があったからだ、というわけです。かつて、天智天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)は百済の王族だった、との説さえ主張されたほどです。しかし、1年ほど前の記事で指摘したように、結果的に白村江の戦いでの惨敗に終わった日本による百済救援は、当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様なので、日本と百済との特別に親密な関係を想定する必要はないと思います。

 百済は660年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に滅亡したとはいえ、復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いを見せました。5世紀後半にも百済は滅亡しかけてから復興しており、百済(残党)への支援は、当時としては無謀とは言えないでしょう。もちろん、南北朝時代だった5世紀後半とは異なり、660年には唐が存在し、その唐が新羅と共に百済を滅ぼした、という状況の違いはあります。しかし、当時はまだ高句麗が健在で、唐は太宗の時代と白村江の戦いの少し前にも高句麗に攻め入って撤退していました。客観的に見ても、当時、日本が百済救援方針を採用しても無謀とまでは言えないでしょう。もちろん、日本が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。日本は、長年日本に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。

 1年ほど前の記事ではこのように述べたのですが、その後で読んだ浅野啓介「白村江の戦い」佐藤信編『古代史講義【戦乱篇】』にて、百済復興運動の中心となった鬼室福信のもたらした情報から、唐は戦いに介入してこないだろう、と日本の首脳層が判断していた、との見解が提示されていました(関連記事)。もちろん、鬼室福信のもたらした情報に希望的観測側面が多分にあったことは否定できないでしょう。しかし、これは単なる望的観測ではなく、唐の高宗(李治)は百済(残党)にたいする大規模な軍の派遣に慎重だったものの、劉仁軌の進言により大規模な唐水軍が朝鮮半島へと派遣された、という事情がありました。鬼室福信が日本にもたらした情報には一定以上の現実性があったわけで、この観点からも、白村江の戦いへといたる日本の選択を、単なる無謀とみなすことは妥当ではなく、したがって日本と百済との間の特別に親密な関係を想定する必要はない、と思います。

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