俳優人生の予測

 俳優人生の予測に関する研究(Williams et al., 2019)が公表されました。映画俳優の失業率は90%で、俳優の仕事で生計を立てている者はわずか2%ほどであるため、単純に充分な仕事(持続的生産性)のあることが、多くの俳優にとっての成功を意味しています。この研究は、世界的なデータベースを用いて、1888~2016年の200万人以上の映画俳優のキャリアにわたる生産性の時間的パターンを調べました。その結果、大部分の俳優はそのキャリアにおいて高く評価された仕事の数がひじょうに少なかった一方、ごく一部の俳優ではこうした仕事の数が100を超えることから、仕事の割り当てに関する「豊かな者がさらに豊かになる」機構が示唆されました。

 俳優のキャリアにおいて仕事に費やした時間の割合は予測不能ですが、その活動期はホットストリーク(仕事が続く流れ)とコールドストリーク(全く仕事のない流れ)の時期に分けられ、仕事のあった年の翌年は仕事を得る可能性が高く、仕事がなかった年の翌年は仕事を得る可能性が低くなる傾向が見られる、と分かりました。また、生産性が最も高い年は俳優のキャリアの初期近くにある傾向があり、女優の方がこの効果はより顕著で、男優よりもキャリアは短くなる可能性が高い、と指摘されています。この研究は、それぞれの俳優について、生産性が最も高い年は過去のことなのか今後のことなのかを、仕事の履歴から85%の精度で予測できる、と明らかにしました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会学】映画俳優人生における最も生産性の高い時期を予測する

 俳優の映画やテレビの仕事の生産性が最も高い年が、過去にあったのか、それとも今後のことになるのかを予測できる機械学習法について報告する論文が、今週掲載される。この論文では、生産性が最も高い年は俳優のキャリアの初期近くにある傾向があり、女優の方がこの効果はより顕著で、男優よりもキャリアが短くなる可能性が高いと報告されている。

 映画俳優の失業率は90%で、俳優の仕事で生計を立てている者はわずか約2%であるため、単純に十分な仕事(持続的生産性)のあることが、多くの俳優にとっての成功を意味している。

 今回、Lucas Lacasaたちの研究グループは、世界的なデータベースを用いて、1888~2016年の200万人以上の映画俳優のキャリアにわたる生産性の時間的パターンを調べた。その結果、大部分の俳優はそのキャリアにおいて高く評価された仕事の数が非常に少なかった一方、ごく一部の俳優ではこうした仕事の数が100を超えることから、仕事の割り当てに関する「豊かな者がさらに豊かになる」機構が示唆された。また、俳優のキャリアにおいて仕事に費やした時間の割合は予測不能だが、その活動期はホットストリーク(仕事が続く流れ)とコールドストリーク(全く仕事のない流れ)の時期に分けられ、仕事のあった年の翌年は仕事を得る可能性が高く、仕事がなかった年の翌年は仕事を得る可能性が低くなる傾向が見られることが分かった。Lacasaたちは、それぞれの俳優について、生産性が最も高い年は過去のことなのか今後のことなのかを、仕事の履歴から85%の精度で予測できることを明らかにした。



参考文献:
Williams OE, Lacasa L, and Latora V.(2019): Quantifying and predicting success in show business. Nature Communications, 10, 2256.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10213-0

最古のオルドワン石器とその技術的系統

 最古のオルドワン(Oldowan)石器とその技術的系統に関する研究(Braun et al., 2019)が報道されました。解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。近年まで、最初の石器群はオルドワン(Oldowan)とされていて、エチオピアのゴナ(Gona)で発見された258万~255万年前頃の石器が最古と考えられていました。近年になって、ケニアの西トゥルカナ(Turkana)のロメクウィ(Lomekwi)3遺跡で発見された石器群の年代が330万年前頃と報告され、石器の年代が一気にさかのぼりました(関連記事)。この石器群はロメクウィアン(Lomekwian)と分類されています。

 本論文は、エチオピアのアファール州のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域のボコルドラ1(Bokol Dora 1)遺跡(BD1)の石器群の年代と、その技術的系統を報告しています。BD1石器群はオルドワンと分類され、その年代は火山灰層のアルゴン-アルゴン法と古地磁気測定により258万年以上前と推定されました。BD1石器群は現時点では最古のオルドワンとなります。BD 1石器群は、おもに単純な石核と剥片から構成され、その64%は細粒流紋岩で作られており、当時は容易に入手可能でした。共伴した動物化石から、258万年前頃のBD1遺跡一帯は開放的な草原だったと推測されています。BD1石器群は

 BD1石器群は、他の早期オルドワン・後期オルドワン・早期アシューリアン(Acheulean)・ロメクウィアン・チンパンジーなど現生非ヒト霊長類の用いた石と比較されました。ロメクウィアンについては実験考古学的手法から、チンパンジーのような石を叩いて用いる強打志向の技術的段階と、オルドワン以降の剥片指向の技術的段階との中間的な製作技術段階が評価されていました(関連記事)。この評価が妥当だとすると、霊長類に広く見られる道具使用から、ロメクウィアン段階を経てオルドワン段階へと発展した、という図式が描けそうです。

 しかし本論文は、石器群の統計的パターンの詳細な分析により、ロメクウィアンと最初期オルドワンや現生非ヒト霊長類の道具との間の技術的関連はほとんどない、との結論を提示しています。ロメクウィアンと最初期オルドワンとの大きな違いは、前者にはなくて後者にはある、大きな石核から鋭利な剥片を体系的に製作する技術です。本論文は、オルドワンが非ヒト霊長類にも広く見られる道具使用とは明らかに異なるとして、オルドワンの意義を指摘します。また本論文は、鮮新世において人類系統では多様な道具使用が始まっており、そうした中から派生的特徴を有するオルドワン石器群の製作が始まった可能性を提示しています。ロメクウィアンもそうした鮮新世における多様な道具使用の一例で、石器の開発は人類史において何度も独立して起きたかもしれない、と本論文は指摘します。ロメクウィアンとオルドワンに直接的な技術的関係はないだろう、と私は考えていたので(関連記事)、本論文の見解は意外ではありませんでした。

 本論文は、オルドワン出現の背景として、環境および人類の表現型の変化との関連を指摘しています。上述のように258万年前頃のBD1遺跡一帯は開放的な草原でしたが、350万~300万年前頃は森とまばらな樹木の混在する環境でした。350万~300万年前頃には、BD1遺跡の近隣でアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が発見されています。一方、BD1遺跡も含まれるレディゲラル調査区域では、280万~275万年前頃のホモ属的な下顎が発見されています(関連記事)。アウストラロピテクス属と比較して、このホモ属的な下顎の歯は縮小しています。より精巧な剥片石器の使用による食料の加工が、より効率的な栄養摂取および歯の縮小と関連しているのではないか、というわけです。おそらく、本論文のこの見通しは妥当だと思いますが、その確証には、260万年以上前の石器と人類遺骸のさらなる発見が必要となるでしょう。


参考文献:
Braun DR. et al.(2019): Earliest known Oldowan artifacts at >2.58 Ma from Ledi-Geraru, Ethiopia, highlight early technological diversity. PNAS, 116, 24, 11712–11717.
https://doi.org/10.1073/pnas.1820177116

愛知県の「縄文人」のゲノム解析(追記有)

 愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2019)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。伊川津縄文人のゲノム解析結果については、すでにアジア南東部の現代人の形成過程を検証した研究で取り上げられていましたが(関連記事)、本論文は伊川津縄文人(IK002)と古代および現代の各地域集団とのより詳しい関係を検証しています。

 本論文はIK002のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAの解析結果を報告しており、その平均網羅率は、ミトコンドリアが146倍、常染色体は1.85倍です。最近公表された北海道の礼文島の船泊遺跡の縄文人のような高網羅率(関連記事)ではありませんが、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析では網羅率が0.03倍以下でしたから(関連記事)、高温多湿な気候で、火山が多く強い酸性土壌のため、古代DNA研究に適していない日本列島の古代人のゲノムデータとして、たいへん貴重だと思います。IK002のmtDNAハプログループ(mtHg)はN9b1で、現代日本人では2%以下と稀ですが、縄文人では典型的です。本論文は、IK002のゲノムデータと、おもにユーラシア東部の古代および現代の人類集団と比較し、縄文人の起源および現代人への遺伝的影響を検証しています。

 化石とゲノムデータの証拠から、アジア東部現代人集団と関連する系統は、4万年前頃にはアジア東部に存在していた、と考えられています。これは4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性のゲノムデータに基づいています(関連記事)。アフリカからユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散経路としては、ヒマラヤ山脈の北方もしくは南方が想定されています。現代人のゲノム解析では、アジア東部集団の南方経路起源を支持する研究があります(関連記事)。IK002と8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民との遺伝的類似性からも、アジア東部集団の南方経路起源が支持されます(関連記事)。

 考古学的記録では、ユーラシア圏東端の日本列島において38000年前頃以降の石器が確認されており、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、本州・四国・九州の日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られます。しかし、日本列島では更新世の人類遺骸はほとんど発見されていません。この後、日本列島では16000年以上前に土器の使用が始まり、土器の使用としては世界でも古いと言うるでしょう。土器の使用以降を、狩猟・漁撈・採集で特徴づけられる縄文時代と定義する時代区分区もあります(関連記事)。考古学的証拠では旧石器時代から縄文時代への継続性が指摘されており、縄文人がおそらく最終氷期極大期末まで日本列島で孤立したままの旧石器時代集団の直接的子孫である、という仮説が提示されています。そのため、縄文時代のさまざまな分野の研究は、アジア東部集団の起源と移住の理解に重要となります。

 IK002と世界各地の古代および現代の人類集団とのゲノムデータの比較の結果、IK002は現代のアジア南東部および東部集団と4万年前頃の華北の田园男性系統との間に位置する、と明らかになりました。41264ヶ所の一塩基多型を用いると、IK002は現代の北海道アイヌと強い遺伝的類似性を示し、アイヌは縄文人の直接的子孫という以前からの説が支持されます。IK002は現代の北海道アイヌを除いて、ユーラシア東部および日本列島の現代人集団とはわずかに異なります。IK002系統は、アジア東部系統とアメリカ大陸先住民系統とが分岐する前に、これらの共通祖先系統から分岐したと推測されます。

 より詳しく述べると、ユーラシア集団が東西に分岐した後、ユーラシア東部系統では田园男性系統が分岐します。その後、ユーラシア東部系統はアジア東部・アジア北東部およびシベリア東部集団(NS-NA)系統とアジア南東部系統に分岐します。この後、36000±15000年前頃にアジア東部系統とNS-NA系統が分岐する前に、IK002系統が分岐します。なお、アジア東部系統とNS-NA系統の間には、36000±15000年前頃に分岐した後も、25000±1100年前頃まで遺伝子流動があり、アメリカ大陸先住民系統はアジア北東部およびシベリア東部系統と22000~18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。IK002系統は36000±15000年前頃よりも前にアジア東部・NS-NA系統と分岐したと推測されるので、縄文人系統は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解を本論文は支持しています。この系統関係は、以下に引用する本論文の図4で示されています。
画像

 IK002系統のアフリカからの拡散経路については、シベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃の少年のゲノムデータ(関連記事)との比較から推測されました。マリタの少年(MA-1)を北方経路の古代ユーラシア北部集団と仮定すると、ユーラシア西部集団にも遺伝的影響を及ぼした古代ユーラシア北部集団から、NS-NA系統およびそこから派生したアメリカ大陸先住民系統への遺伝子流動は確認されたものの、IK002を含む古代および現代のアジア南東部および東部集団への遺伝子流動はなかった、と明らかになりました。これは、アジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきたことを示唆します。

 IK002系統がアジア東部系統と基底部で分岐していることから、現代のアジア東部集団へのIK002(縄文人)系統の影響はわずかと予想されます。しかし現代人では、日本人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・ロシアのオホーツク海沿岸~沿海地域の少数民族は、他のアジア東部集団と比較してIK002と顕著に多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、これは7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)も同様です。一方、ユーラシア東部内陸部集団にはIK002との遺伝的類似性は見られず、8000年前頃には、ユーラシア東部内陸部のIK002関連系統は、完全ではないとしても、おおむね後の移民により置換されたか、そもそも存在しなかった、と示唆されます。IK002との遺伝的類似性は、ユーラシア東部圏沿岸地域集団のみで見つかっており、古代および現代のユーラシア東部内陸部集団では見つかっていません。ユーラシア東部圏沿岸地域集団のうち、台湾先住民のアミ人およびタイヤル人とフィリピンのイゴロット人(Igorot)はオーストロネシア系で、台湾先住民はユーラシア大陸東部から13200±3800年前頃に到来したと考えられていますが、イゴロット人の起源はまだよく分かっていません。

 IK002との遺伝的類似性がアジア東部内陸部より沿岸部で顕著なのは、アジア東部への現生人類の最初の移住の波が、南方からの沿岸経路による北上だったことを示唆します。あるいは、最初の移住の波は沿岸経路だけではなく陸路もあったものの、最初の移住の波の遺伝的構成が、内陸部では北方から南方への逆移動などにより消滅した、とも考えられます。アジア東部に限らず、初期現生人類の拡散経路として沿岸は注目されており、舟による海上移動もあったのではないか、と推測されています。しかし、更新世の舟は考古学的証拠として残りにくい、という問題があります。それでも、オーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)のようにユーラシアからの移住にさいして渡海が必要な地域もあることから、更新世の現生人類が航海をしていたことは確実だと思います。

 これらの知見は、IK002系統も含めてアジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきて、IK002系統およびその近縁系統はおもにユーラシア東部沿岸を北上してきた、と示唆します。しかし上述のように、北海道の旧石器時代集団では25000年前頃、日本列島「本土」では20000年前頃以降に、シベリア中央部のバイカル湖周辺地域起源と考えられる細石刃技術が確認されています。古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響が、IK002系統も含む古代および現代のアジア南東部・東部集団で見られないことと、日本列島における25000年前頃以降のバイカル湖周辺地域起源の細石刃技術の存在をどう整合的に解釈するのかは、難しい問題です。本論文は、古代ユーラシア北部集団が細石刃技術を開発した集団ではない可能性と、古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響を受けたNS-NA集団からの文化伝播の可能性を想定しています。この問題の解明には、バイカル湖周辺地域とロシアのオホーツク海沿岸および沿海地域の、細石刃技術を有する集団のゲノムデータが必要になる、と本論文は指摘しています。

 また、これらの知見は、縄文人と弥生時代以降にユーラシア東部から日本列島に到来した集団との融合により「本土日本人」が形成され、アイヌは「本土日本人」よりも縄文人の遺伝的影響を強く受けている、との古典的仮説を強く支持します。IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本論文は、「本土日本人」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定しています。一方、アミ人へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。これは、IK002系統がホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民系統と近縁な系統から遺伝的影響を受けて成立したこと(関連記事)とも関係しているのではないか、と本論文は指摘しています。

 本論文の見解は、福島県の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析(関連記事)や、最近公表された北海道の縄文人の高品質なゲノム配列(関連記事)とおおむね合致するものだと思います。その意味で、縄文人は独自の遺伝的構成の集団であると、改めて示されたと言えるでしょう。本論文が指摘するように、ユーラシア東部集団の移住史を理解するには、古代ゲノムデータはまだ不足しています。それだけに、今後大きな発展が期待されます。今後、縄文人とより遺伝的に類似した古代ユーラシア東部集団か確認される可能性は高いと思いますが、遺伝的に既知の縄文人の範囲内に収まる集団が日本列島以外で発見される可能性はきわめて低いと思います。縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響については、まだ推定の難しいところだと思います。今後、西日本の縄文人のゲノムデータが蓄積されていけば、縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響は、北海道や伊川津の縄文人(IK002)から推定されているよりも高くなるのではないか、と予想しています(関連記事)。



参考文献:
Gakuhari T. et al.(2019): Jomon genome sheds light on East Asian population history. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/579177


追記(2020年8月26日)
 本論文が『Communications Biology』誌に掲載されたので、当ブログで取り上げました(関連記事)。トラックバック機能が廃止になっていなければ、トラックバックを送るだけですんだので、本当に面倒になりました。

朝日新聞のベネズエラ情勢報道

 昨日(2019年6月3日)付の朝日新聞朝刊には、ベネズエラ情勢に関する特集的な記事が掲載されていました。チャベス政権の電力相への取材記事も掲載されていて、なかなか読みごたえがありました。ざっと読んで改めて思ったのは、現在のベネズエラの惨状はチャベス政権およびその後継としての現在のマドゥロ政権に責任があるものの、それはベネズエラ社会に根深い腐敗体質によるものなので、マドゥロ政権が崩壊して、チャベス路線に否定的な勢力が政権を担ったとしても、ベネズエラが復興するのは容易ではない、ということです。

 チャベス政権が国営石油会社を私物化していき、優秀な技術者が国外へと逃げ出していったことも、現在の惨状の一因になっている、と指摘されていました。しかし、だからといって、チャベス政権よりも前の政権が清廉だったわけでもなく、それまでの政権の腐敗へのベネズエラ国民の不満が、チャベス政権を誕生させたのだと思います。元電力相への取材記事はなかなか興味深く、マドゥロ政権が外国人の目に触れやすい首都の安定を優先し、地方を犠牲にしている、と元電力相は批判しています。

 また元電力相は、今年起きた大規模停電の原因として、アメリカ合衆国の陰謀ではなく、人材不足などに起因する不備を指摘しています。元電力相は今でもチャベス路線を基本的には支持していますが、政権運営があまりにも恣意的で腐敗していったことを批判しています。元電力相はチャベス政権とマドゥロ政権が軍部を優遇していることも批判していますが、それが、これだけの惨状を招来したマドゥロ政権の延命に大きく貢献していることは否定できないでしょう。もっとも、それは多くのベネズエラ国民にとってたいへん不幸であることも間違いないと思います。なお、当ブログにおける最近のベネズエラ情勢に関する記事は以下の通りです。

独裁者マドゥロを擁護する「21世紀の社会主義」の無責任
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_43.html

ベネズエラの現状に関する言説補足
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_48.html

ベネズエラ情勢におけるグアイド氏の役割と評価
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_2.html

チャビスタ劣化コピー、ベネズエラ人に自説を批判されるとレイシズム丸出し
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_19.html

天安門事件から30年

 今年(2019年)は天安門事件から30年ということで、日本の新聞でも天安門事件について例年より大きく取り上げられているように思います。天安門事件についてよく想起するのは、劉暁波氏にノーベル平和賞が授与されると決定した時に当ブログで取り上げた(関連記事)、あるブログ記事の、中国の民主化運動にたいする以下のようなコメントです。

でも、彼らは21世紀の孫文、梁啓超だと思いますよ。彼らの動向を馬鹿にしてはいけないんじゃないでしょうか。思えば日清戦争直後から満州事変まで、日本人は、中国の時の権力者集団とばかり「友好」「友愛」を深めては、却って中国人の恨みを買っていたという歴史の教訓を忘れるべきではないと思うのですが。

 天安門事件後、中国は諸外国から制裁を受けたものの、その後経済が飛躍的に発展しました。では、中国の政治体制を賛美し、政権と「友好関係」を築けばよいのかというと、そんな単純なことではないだろう、とも思います。近年ずっと、日本社会の対中感情は悪いのですが、中国の経済・軍事力がこのまま増強されていけば、中国に従属しよう、との論調が日本で強くなっていくかもしれません。もしそうなれば、中国の民主化運動にたいして、経済発展と社会的安定を損なう愚行とか「西側の傀儡」とか「和平演変」とか罵倒・嘲笑・冷笑する人が増えていくかもしれませんが、それは長期的には日中友好を傷つける可能性もあるでしょう。中国との友好関係は、単に中国政府に迎合すればよい、というものでもないでしょう。もっとも、これは中国側にも言えることで、日本との友好関係は、日本政府との良好な関係のみを意味するものではない、と思います。

パラントロプス属の分類

 日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)とボイセイ(Paranthropus boisei)および南部のロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されています。エチオピクスは270万~230万年前頃、ボイセイは230万~140万年前頃、ロブストスは180万~100万年前頃に存在し、身長は110~140cm、脳容量は500ml程度と推定されています(Lewin.,2002,P123)。近年では、ロブストスの絶滅年代が60万年前頃までくだる可能性を指摘した研究もあります(関連記事)。パラントロプス属による石器の使用はまだ確認されていません。

 これら3種のパラントロプス属については、アファレンシス(Australopithecus afarensis)やアフリカヌス(Australopithecus africanus)などと同じくアウストラロピテクス属とする見解も提示されており、分類をめぐって見解が一致しているとは言えない状況です。さらに、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります(諏訪.,2006)。つまり、一般的にパラントロプス属と分類されている3種は単系統群を形成しないかもしれない、というわけです。もしそうならば、少なくとも、これら3種を包含したパラントロプス属という分類群は成立しません。

 この問題については、以前当ブログ(関連記事)で取り上げた『アニマル・コネクション 人間を進化させたもの』(Shipman.,2013)にて、訳者の河合信和氏が論じています(P308~309)。河合氏は、一般的には同じくパラントロプス属と分類されている、アフリカ東部のボイセイと南部のロブストスの道具使用が大きく異なることを重視しています。ロブストスは、おそらくシロアリを捕食するために骨器を用いていましたが、ボイセイの方は骨器を使った形跡がまったくありません。これは単なる文化受容の差ではなく、両者の系統が異なっているからではないか、と河合氏は指摘します。つまり、ボイセイとロブストスのよく似た形態は収斂進化の結果だろう、というわけです。私も近年ではこの見解に傾いているのですが、この問題の解決には、既知の化石の再検証も重要ですが、何よりも新たな化石の発見が必要となるでしょう。


参考文献:
Lewin R.著(2002)、保志宏訳『ここまでわかった人類の起源と進化』(てらぺいあ、原書の刊行は1999年)

Shipman P.著(2013)、河合信和訳『アニマル・コネクション 人間を進化させたもの』(同成社、原書の刊行は2011年)

諏訪元(2006)「化石からみた人類の進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)

アフリカ東部への牧畜の拡大

 アフリカ東部への牧畜の拡大に関する研究(Prendergast et al., 2019)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、アフリカ東部のうち、おもに現在のケニアとタンザニアとなる地域への牧畜の拡大と、人類集団の遺伝的構成の起源と変容を検証しています。本論文で採用されているアフリカ東部の時代区分は、50000年前頃~最近までの後期石器時代(LSA)、5000~1200年前頃の牧畜新石器時代(PN)、2500年前頃~最近までの鉄器時代(IA)、1200年前頃以降の牧畜鉄器時代(PIA)です。本論文は、LSAの3人、早期牧畜時代およびPNの31人、IAの1人、PIAの6人という計41人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAを解析し、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)DNAを決定しました。また、のうち35人には直接的な放射性炭素年代測定法が適用されました。これらのデータは、既知の古代アフリカ人と現代のアフリカおよび中東の人類集団と比較されました。

 アジア南西部起源の家畜ヒツジ・ヤギ・ウシは、アフリカ北東部に8000年前頃に初めて導入され、アフリカ東部への導入は5000年前頃に始まり、アフリカ南端には2000年前頃までに到達しました。牧畜がアフリカ東部にどのように拡散したのか、不明なところが多分に残されています。家畜の出現はエチオピア北部とジブチでは比較的遅く、4500~4000年前頃となります。サハラ砂漠以南のアフリカで確認されている最初の家畜はトゥルカナ湖近くのPNで、漁撈と牧畜が行なわれ、精巧な記念碑的墓地が建設されました。家畜はトゥルカナ盆地で急速に拡大しましたが、さらに南方への拡大は緩やかで、4200年前頃以降にPNの家畜や土器がケニアの南中央地溝帯へと少しずつ流入し始めました。

 しかし、3300年前頃までは、牧畜はケニアとタンザニア北部へは拡大しませんでした。アフリカ東部においては、LSA採集民と牧畜民との共存が長く続いていきます。ケニアとタンザニアでは牧畜新石器時代(3300~1200年前頃)には、家畜に大きく依存した多様な牧畜社会が発展し、牧畜は地域の経済・社会・自然景観を変えました。PNには、大別するとエルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器(SPN)という二つの集団が共存しており、SPNはエルメンテイタン(El)より広範な地域で確認されます。SPNの文化は多様なので、複数の集団を内包している可能性も指摘されています。

 こうしたPNにおける牧畜民と採集民の関係、さらにはもっと後のIAの農耕民との関係については、不明な点が少なくありません。アフリカ東部の鉄器は最初にヴィクトリア湖を経由して流入し、2000年前頃までにアフリカ東部沿岸に到達しました。しかし、鉄器が牧畜民の間に広く定着したと確認されているのは1200年前頃以降です。こうした採集民・牧畜民・農耕民の混合によりアフリカ東部集団は形成されていき、現在の多様な遺伝・言語(文化)的状況が見られるようになりました。本論文は、古代DNA解析からのデータと既知のデータとを比較し、アフリカ東部における複雑な人類集団の形成過程を検証します。

 LSAの3人は全員、既知の古代採集民と近縁で、おそらくは更新世からの在来集団と推測されます。一方、PNとIAの牧畜民には、異なる遺伝的系統が見られます。本論文は、アフリカ東部集団の形成を、3系統の混合としてモデル化しています。その3系統とは、アフリカ北東部早期牧畜民系統(EN)、アフリカ東部採集民系統、アフリカ西部系統です。ENは、スーダン系統のEN1とアフリカおよびレヴァント系統のEN2に区分されます。アフリカ東部における大まかな人類集団の形成過程は次の通りです。まず、アフリカ北東部に8000年前頃以降に牧畜が導入されてEN1とEN2が形成されていきます。5000~4000年前頃、EN1とEN2の混合した早期アフリカ北東部牧畜民(ENP)がアフリカ東部に拡散してきますが、牧畜民が採集民を置換したわけではなく、両者は共存を続けます。この牧畜民の拡大は、アフリカの気候が乾燥化していくなか、信頼性の高い水源としてより重要になったナイル川沿いの南下だったと推測されます。PNではYHg-E1b1b1b2b2a1が高頻度で見られ、アフリカ北東部および東部における牧畜民の拡大との関連が推測されます。mtHgは、EN1、EN2、アフリカ北部およびユーラシア西部と密接に関連するタイプを含む、モザイク状を形成します。

 鉄器がアフリカ東部に流入したのは2500年前頃以降で、最初はヴィクトリア湖経由だったと推測されています。この頃に鉄器とともにアフリカ東部に拡散してきたのは、アフリカ西部起源のバンツー語族農耕民集団と考えられます。鉄器時代以降アフリカ東部では、アフリカ西部系統と在来の採集民および牧畜民系統との混合集団が形成されていき、アフリカ西部系統の遺伝的影響の強い集団も出現します。これはゲノム規模でもYHgでも見られるようになります。一方、アフリカ東部で鉄器が牧畜民の間に広く定着したのは1200年前頃以降で、アフリカ西部系統の遺伝的影響の弱い牧畜民集団も存続しました。アフリカ東部におけるこうした各人類集団の変遷を文章にまとめるのは私の見識では困難なので、以下に本論文の図3を掲載します。
画像

 本論文は、アフリカ東部における乳糖耐性の定着も検証しています。アフリカ東部の3000~1000年前頃の牧畜民はほとんどが乳糖不耐性で、最近になって乳糖耐性関連遺伝子多様体の頻度が高くなった、と推測されます。その意味で、タンザニアのギジマンゲダ洞窟(Gishimangeda Cave)で発見された、2150~2020年前頃の男性で乳糖耐性関連遺伝子多様体が確認されたのは注目されます。あるいは、この男性はアフリカ東部の乳糖耐性関連遺伝子多様体が出現した個体と年代・地理的に近く、アフリカ東部でもまずはこの地域で乳糖耐性関連遺伝子多様体は定着していったのかもしれません。乳糖不耐性でも、発酵技術などにより効率的に乳製品から栄養を摂取でき、たとえばモンゴルでは、乳糖耐性関連遺伝子多様体は牧畜の始まった頃には確認されておらず、現代でも稀です(関連記事)。乳糖分解は腸内細菌叢とも関連しており、乳糖耐性関連遺伝子多様体に依拠せずとも、人類は乳製品を効率的に消化できます。これも人類の柔軟性の一例と言えそうです。


参考文献:
Prendergast ME. et al.(2019): Ancient DNA reveals a multistep spread of the first herders into sub-Saharan Africa. Science, 365, 6448, eaaw6275.
https://doi.org/10.1126/science.aaw6275

日本列島の言語

 日本語起源論など日本列島の主要な言語の起源論・形成論についての勉強はまったく進んでいないのですが、当ブログの関連記事を一度整理しておきます。日本列島の主要な言語としては、日本語・琉球語・アイヌ語があります。過去にはこれらと大きく異なる系統の話者数の多い言語が存在した可能性もありますが、今となってはほぼ検証不可能です。このうち、日本語と琉球語は同系統で、これらを同系統の別言語あるいは方言のどちらの関係にあると考えるかは、かなりのところ政治的判断に依拠していると言えるでしょう。今回は、どちらが妥当なのか、判断を保留します。アイヌ語は、これら2言語とは大きく異なる系統です。

 琉球語は、おそらく紀元後11~12世紀に始まるグスク時代に九州から渡来してきた集団によりもたらされた日本語と、それ以前の日本語とは大きく異なる系統の言語との融合により形成されたのではないか、と考えられます(関連記事)。日本語の起源について大別すると、縄文時代に祖語があり、漢字文化圏の影響を受けつつ形成されてきた、とする見解と、弥生時代にユーラシア東部から日本列島に渡来した人々の言語が祖語になっている、とする見解があるように思います。日本語系統(日本語および琉球語)は「系統不明」とされています。日本語系統と近縁な言語はかつてユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのでしょう(関連記事)。これは、同じく「系統不明」とされているアイヌ語にも当てはまるのでしょう。

 日本語の起源・形成論は、アイヌ語との関連で考えるのがよさそうです。日本語祖語がすでに縄文時代より日本列島に存在したとすると、日本語とは別系統のアイヌ語はどこに起源があるのか、という問題が生じます。日本語祖語を縄文時代の日本列島中間部(九州・四国・本州)集団に求める見解では、アイヌ語はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に起源がある、と想定されています(関連記事)。アイヌ文化の母胎は、南下してきたシベリア系北方文化と、日本列島中間部を経て北上してきた縄文文化との融合にある、というわけです。

 縄文文化は北海道全域に広がったわけではありませんが、おおむね北海道から九州まで分布し、「縄文人」の形態に関しては、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、地域では北海道から九州まで、年代では早期から晩期前半まで、ほとんど同一とされています(関連記事)。そのため、「縄文人」は比較的孤立した集団と考えられていますが、北海道では、たとえば九州と比較して地域内の差異が比較的大きい、とも指摘されています(関連記事)。

 これが「縄文人」の地域差の要因だとすると、同じく「縄文人」とまとめられているとはいっても、東北の北部および北海道とそれ以南とでは、言語が大きく異なっていた可能性も考えられます。そうすると、日本語もアイヌ語も縄文時代の日本列島の集団の言語に起源がある、と想定できます。一方、日本語は縄文時代の日本列島の集団の言語に起源があり、アイヌ語はオホーツク文化集団に起源がある可能性も考えられます。現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は高く見積もっても30%程度かもしれませんが(関連記事)、仮に現代というか飛鳥時代以降の日本列島の住民に最も大きな遺伝的影響を残しているのが、弥生時代~古墳時代にユーラシア東部から日本列島に渡来した集団だとしても、「縄文人」の言語が基本的に継承された可能性はじゅうぶん想定できると思います(関連記事)。

 『三国志』からは、日本語祖語が3世紀前半までに少なくとも西日本で話されていた可能性は高いように思います。したがって、日本語祖語が「縄文人」に由来しないのだとすれば、弥生時代にユーラシア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団に起源があると考えられます。この場合、アイヌ語系の地名の南限が東北地方であることから、「縄文人」が広範にアイヌ語祖語を話していたというよりは、「縄文人」の言語は地域により大きな違いがあったか、アイヌ語祖語とも日本語祖語とも異なる系統の言語だった可能性が高そうです。

 もう一つ別の可能性として考えられるのは、弥生時代に先駆けて縄文時代後期~晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた「海の民」もしくは園耕民が、日本語祖語を日本列島にもたらした、という想定です(関連記事)。この「海の民」もしくは園耕民は、弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団と遺伝的に近い、と推測されています。日本語の起源が解明される可能性は低そうですが、考古学と遺伝学の研究の進展により、今よりも精度の高い推測が可能になるのではないか、と期待されます。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第21回「櫻の園」

 金栗(池部)四三は1920年開催のアントワープ夏季オリンピック大会のマラソンで金メダルを期待されながら16位に終わったことから、失意のあまりすぐに帰国せず、ヨーロッパ諸国を訪れていました。ベルリンを訪れていた四三は、槍投げの練習に励んでいる女性たちと遭遇します。目標を見失いかけていた四三は、第一次世界大戦で敗れたため、アントワープ夏季オリンピック大会に出場できなかったドイツの女性たちの諦めない様子を見て、女子スポーツ教育への道を志します。四三の妻のスヤは、夫が熊本に帰ると期待していましたが、四三は嘉納治五郎に相談し、女子スポーツ教育のため東京府立第二高等女学校の教師となり、で東京に留まる、と決意していました。スヤは熊本に帰ろうとしますが、四三はスヤを引き留めます。四三は東京府立第二高等女学校でスポーツ教育を進めようとしますが、お嬢様の学生がそろっており、スポーツ教育に熱心な四三への態度は冷やかで、四三は思うように女子スポーツ教育を進められません。しかし、四三が女子学生に頼み込んで槍投げをやったことから、女子学生の間でもスポーツへの関心が高まります。

 今回は、雪辱を期したアントワープ夏季オリンピック大会で惨敗し、目標を見失ってしまった四三が女子スポーツ教育という新たな目標を見つけ、気力を取り戻すところが描かれました。四三が女学校で当初は学生に受け入れられなかったのはいかにもといった感じでしたが、そこから学生がスポーツに夢中になっていく過程は、やや駆け足だったかな、と思います。アントワープ大会では日本の水泳選手団も惨敗し、その衝撃が描かれました。さほど長い場面ではなく、現時点での本筋とも言うべき四三の話とはまだ上手く接続していませんが、後半の主人公である田畑政治が深く関わってくるので、必要な描写だったと思います。一方、やや長く描かれた古今亭志ん生と(美濃部孝蔵)の話の方は、相変わらず本筋と上手く接続できていないと思います。ただ、古今亭志ん生と田畑政治の関係はすでに描かれているので、後半は本筋とより深く関わるのかな、と期待しています。

北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列

 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800~3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70~90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20~30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000~18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9~15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀~紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415

乃至政彦『平将門と天慶の乱』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2019年4月に刊行されました。本書は、平将門の怨霊譚など、将門が後世においてどう語られてきたのか、という問題も取り上げつつ、天慶の乱を中心に将門の生涯を解説していきます。やや個人の心情に踏み込みすぎているかな、とも思うのですが、将門の怨霊譚にもそれなりに分量が割かれており、一般向け書籍であることを強く意識した叙述なのでしょう。将門が祖父の平高望に始まる坂東の平氏一族の争いに巻き込まれた要因として、将門およびその父である良持と源護との間に姻戚関係がなかったことを、本書は重視しています。

 見逃していたのは、平貞盛の母が藤原秀郷の姉もしくは妹だということです。これまでそれなりに平将門というか天慶の乱関連本を読んできましたが、記憶にありませんでした。天慶の乱においてこの姻戚関係はかなり重要になってくるので、これまで読んだ本で取り上げられていながら見落としていたとすると、なんとも恥ずかしい限りです。まあ、江戸時代末期に編纂された『系図纂要』が典拠とのことですから、どこまで信用できるのか、門外漢には判断の難しいところですが。

 本書は、将門の生年は通説より遅く910年頃と推測しています。その根拠として、将門は「少年」時に藤原忠平に仕えており、父の位階が従四位下だったことから21歳に従七位上に叙されるはずなのに、生涯無位無官だったからです。将門は21歳になる前に父の死のために931年頃に帰国し、一族間の所領争いに巻き込まれた、と本書は推測しています。もちろん、この問題に関して決定的な根拠を提示することはできませんが、本書の見解はなかなか興味深いと思います。新皇即位前後の時系列など、本書の見解を直ちに全面的に受け入れるべきではないでしょうが、今後の議論の叩き台になっていくのではないか、と思います。