mtDNAに基づく漢人の地域的な違い

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく漢人の地域的な違いを報告した研究(Li et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。漢人は現代中国人の約91.6%を占める巨大な人類集団です。以前の研究では、漢人の遺伝的多様性の高さが観察されています。mtDNAとY染色体DNAと核ゲノムのデータに基づくと、漢人の間では南北の遺伝的違いが観察されます。しかし、とくにmtDNA研究は、部分的な配列もしくは限定された地域の標本に基づいており、広範な漢人の間で同様のパターンが観察されるのか不明だ、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中国のほぼすべての省および同水準の行政区の21668人の漢人のmtDNAの、4004ヶ所の多様体を解析しました。

 漢人のmtDNAハプログループ(mtHg)では、D4が16.46%と最多で、11.19%のB4、9.46%のF1、8.13%のM7、7.12%のA 、6.49%のD5、4.95%のB5、4.29%のN9と続きます。この頻度は中国およびその周辺でも地域により異なります。mtHg-D4は北部および北東部で高頻度となり、B4はおもに南部に分布しています。F1は南部および南西部において比較的高頻度で、北部の一部地域でも高頻度です。M7はおもに南部で見られ、そのうちM7bがおもに広西チワン族自治区と広東省で見られるのにたいして、M7cは台湾で比較的高頻度で見られます。Aは北部と北西部において最も頻度が高く、南部の一部地域でも比較的高頻度です。

 興味深いことに、北部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばD4a・D4e・A5は、南部においてより高頻度です。一方、南部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばM7aやB4bなどは北部において高頻度で見られ、南北の漢人集団の遺伝的混合を表しているようです。他の比較的稀なmtHgの分布でも、地域差が見られます。M8・Z・Yは寧夏回族自治区において高頻度で見られ、F4は江蘇省と雲南省に分布しています。ユーラシア西部で一般的なmtHg- N2・R1・R0・Uは、中国ではおもに北西部で見られ、ユーラシア東西の遺伝的混合との見解と一致します。方言とmtHgとの強い相関は検出されませんでした。しかし本論文は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)と方言の間で、より強い相関が見られる可能性を指摘しています。

 mtDNAデータからは、漢人の遺伝的構成が中国の南北で異なる、との以前からの見解が改めて確認されました。しかし、常染色体のDNAデータに基づく地理的分布とはやや異なり、これは女性の特定の移動に起因するかもしれない、と本論文は指摘します。また、中国中部地域の南方漢人は、北方漢人とより密接に関連しています。一方、南方漢人でも、珠江流域の集団は一つのまとまりに分類されます。これは、漢人を遺伝地理的に区分する場合、南北で二分するよりも、黄河(北部)・長江(中部)・珠江(南部)という3河川流域の集団として三分する方が適していることを示唆します。具体的に漢人のmtHgと中国における地理的分布との相関では、D4は北部、B4は中部、M7は南部において高頻度で確認され、それぞれ黄河・長江・珠江流域の一とよく一致しています。

 本論文は、こうした大河により異なる分布がいつ確立されたのか調べるため、D4・M7・B4に分類される4859人のmtDNAの全配列データを集め、各mtHgの合着年代を推定しました。その結果、D4は41760~20160年前頃、B4は61490~29790年前頃、M7は54110~37560年前頃と推定されました。一方、それらのmtHgのサブハプログループの推定合着年代は、46950~220年前頃となり、後期旧石器時代から歴史時代への継続的な人口拡大を示唆します。これらのサブハプログループの推定合着年代は、約6割が11500~5500年前頃となる早期完新世で、2000年前頃以降では4.24%でした。本論文は、とくに黄河・長江・珠江という主要3河川流域の漢人集団の母系の遺伝的構成は、早期完新世には確立していた、と推測しています。

 また本論文は、mtDNAの全配列データセットに基づき、漢人の人口史を推定しました。漢人は全体的に、18870年前頃以降に増加しました。これは、最終氷期極大期(LGM)後の気候改善に伴うと推測されています。その後、漢人で最も急速な増加は9430年前頃に見られます。これは早期完新世における第二の人口増加を反映し、漢人を南北に二分した場合でも、黄河・長江・珠江という主要3河川流域に三分した場合でも同様です。本論文はこれを、黄河・長江・珠江流域における初期農耕の3タイプを反映している、と認識しています。中国の初期農耕では、長江流域のコメや黄河流域のキビがよく知られていますが、6000年前頃となる稲作導入前の、珠江流域を含む中国南部の温帯湿潤地域農耕も近年確認されるようになっています。中国におけるこれら3タイプの初期農耕はそれぞれ、1万年前頃の3河川(黄河・長江・珠江)流域に起源があり、12800~11600年前頃となるヤンガードライアス期後の気候改善が契機になった、と本論文は推測します。本論文の推定では、この期間に3河川流域で急速な人口増加が見られます。農耕の潜在的な人口増加力は普遍的なのでしょう。本論文は、3河川流域の遺伝的相違は古代農耕の拡大の結果と推測しています。本論文で観察された黄河流域と他の河川流域との遺伝的類似性は、黄河流域からのキビ農耕の北方拡大により説明されています。

 本論文はこれらの結果から、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と指摘します。本論文はこれに関して、中国における初期農耕との関連を指摘しています。また本論文はこれらの結果から、河川が人類集団の移住の障壁となった可能性を示唆します。現代漢人は母系では、黄河・長江・珠江という主要3河川流域における早期新石器時代農耕民の遺伝的痕跡を基本的に保持しており、本論文は主要3河川流域それぞれの古代農耕の重要性を強調しています。しかし、これは母系遺伝のmtDNAデータに基づいているので、父系遺伝のY染色体DNAデータにより、たとえば中国の初期農耕民の拡大が性的に偏った過程だったのかどうかなど、より詳細な人口史が明らかになるだろう、との見通しを本論文は提示しています。

 本論文は現代人のmtDNAデータに依拠しているので、さらに詳細な人口史を明らかにするには、古代DNAデータが必要となります。しかし、ユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部と比較して大きく遅れており、現時点では、大規模データを扱う場合、現代人が対象となるのは仕方のないところだと思います。本論文は、これまでの漢人のmtDNAデータの、部分的な配列や地理的に限定されていたという制約を超えたという意味で、たいへん意義深いと思います。今後、中国をはじめとしてユーラシア東部でも古代DNA研究が進展していくでしょうが、人口史の推測には、古代人のDNAだけではなく現代人のDNAデータも重要となります。本論文は、漢人のmtDNAデータに関して、今後長く基準となりそうな重要な成果を提供したと思います。

 もちろん、本論文が指摘しているように、あくまでも現代人を対象とした母系遺伝のmtDNAデータに基づいた漢人の人口史推定なので、Y染色体DNAデータやゲノムデータ、とくに前者では、また違った人口史が見えてくる可能性が高いと思います。まだ確定的とはとても言えませんが、人類史において、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなかったのではないか、と私は考えています(関連記事)。ヨーロッパに関しては、最初に農耕をもたらしたアナトリア半島起源の集団では大きな性差がなかったものの、後期新石器時代~青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの移住集団は男性主体だった、と推測されています(関連記事)。中国でも、初期農耕集団の拡大では大きな性差がなく、後の魏晋南北朝時代や五代十国時代などでは、男性に偏った大規模な移住があったのかもしれません。

 本論文は、母系における漢人の遺伝地理的相違が、すでに早期完新世に成立していた、と推測しています。これは、漢人系統においての短くとも1万年近くとなる、一定以上の遺伝的継続性を示唆します。今後、現代人と古代人のゲノムデータの蓄積により、漢人系統が早期完新世集団の遺伝的影響をどれだけ保持しているのか、といった問題も解明されていくでしょう。もちろんこれは、早期完新世に漢民族が成立していたことを意味するわけではありません。そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではありません。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。

 その意味で、漢民族に限らずどの民族でも、現代に近い遺伝的構成の集団の確立時期をもって、民族の形成期と判断することはできない、と思います。前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。ただ、漢民族のような巨大な集団ほど、前近代における民族の存在を前提とすることには慎重であるべきとは思います。それは、民族成立の指標として、高い比率での構成員の自認が必要と考えているからです。これは、漢民族ほどの規模ではなくとも、「ヤマト(日本)民族」も同様でしょう。漢民族の成立を本格的に論じられるのは精々近代になってからで、「ヤマト(日本)民族」に関しても、どう古く見積もっても江戸時代後期までしかさかのぼらないだろう、と私は考えています。ただ、この問題を本格的に勉強したわけではないので、とても断定的に主張できるわけではありませんし、優先度はさほど高くないので、今後も自信をもって主張できそうにはありませんが。


参考文献:
Li YC. et al.(2019): River Valleys Shaped the Maternal Genetic Landscape of Han Chinese. Molecular Biology and Evolution, 36, 8, 1643-1652.
https://doi.org/10.1093/molbev/msz072

髙倉純「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P97-104)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。なお、本論文の年代は原則として較正されたものです。

 本論文は、アジア北部のシベリアやモンゴルにおける中期旧石器時代(中部旧石器時代)から後期旧石器時代(上部旧石器時代)への移行期を取り上げています。この移行期に関しては、現生人類(Homo sapiens)の拡散と適応の問題への注目とも重なり、考古学的に長い研究の歴史があります。この時期に、石器製作伝統は文化的な断絶を示すのか否か、断絶が認められる場合、新たな伝統はどの地域に系統的にたどれるのか、また伝統の違いと生物学的な人類集団とは対応するのか、といった問題群がおもに議論されてきました。こうした問題群は、遺伝人類学から次々ともたらされる新たな知見とも関わり、考古学者だけにとどまらず、ユーラシア大陸の人類進化にかかわる様々な研究者からも多大な関心を集めるものになっている、と本論文は指摘します。

 本論文は、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の編年理解について検証していますが、研究の進展差から、実質的にはアルタイ山地からザバイカルにかけての南西シベリア諸地域とモンゴルを対象としています。編年が構築されるさいに適用される研究の枠組みには、地域に限定されない普遍的な観点からの議論とともに、地域に特有の背景から生じた特殊性が含まれていることにも注意が必要と、本論文は指摘します。それは、研究の対象とする資料の種類・遺存の状況に起因することもあるでしょうし、該当地域・国の研究・教育体制や歴史的諸条件に一定の影響を受けている側面も否定できないだろう、というわけです。本論文は、日本の旧石器考古学にも、同様な普遍性と特殊性が内包されている、と指摘します。ロシアやモンゴルや日本や欧米の研究者の間で時に生じる評価の齟齬には、そうした問題が内在しているのではないか、というわけです。

 本論文は、旧石器時代研究における編年に関して、変動する環境・資源構造の中に人類集団の活動を把握していこうとする枠組みが必要と指摘しています。こうした目的で資料を収集し、その位置づけを明らかにしていこうとするならば、岩相層序(lithostratigraphy)、生物層序(biostratigraphy)、「考古層序」(archaeostratigraphy)、数値年(numerical dates)の四者の統合的提示が理想であるものの、ヨーロッパとは異なり、アジア北部でそうした統合的な議論が有効に示されてきたわけではなく、今後に多くの課題を残している、と本論文は指摘します。本論文はおもに、中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期における時期区分と石器製作伝統の設定にかかわる問題を整理しています。

 本論文はまず、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の石器群の類型区分とそれに基づく石器製作伝統の設定や時期区分がどのように議論されてきたのか、概観します。アジア北部における移行期の研究は、まずルヴァロワ(Levallois)技術術の展開・消長を指標に、長期的系統性を認める議論が提示されました。その後の研究でも、移行期における文化の系統的連続性が議論されました。近年では、移行期の石器群区分に関して、「カラ・ボム(Kara-Bom)・トレンド」や「カラコル・トレンド」という系統的な単位が設定され、複数の異なる系統がアジア北部で移行期には長期的に継続した、との仮説が提示されています。重点的な議論の対象とする地域や資料、編年区分を導く基準は異なるものの、アジア北部において長期にわたる特定の技術型式学的要素の連続性を認め、それを文化的あるいは人類集団の系統性の表れとみなす観点は、議論の枠組みとして共有されてきました。長期的な連続性を示す系統を軸に石器群の位置づけを評価しようとする議論は、アジア北部での移行期の資料を対象とする他の研究者にも見出せる、と本論文は指摘します。

 移行期の石器群に認められるとする長期的な系統的連続性の存在は、石器群の評価を導き出した枠組みからは独立した、岩相層序や生物層序や数値年代といった他のデータからの検証を必要とします。しかし、以前のモンゴルやアルタイ山地における諸遺跡の調査においては、そうした議論の展開を可能とするような編年にかかわる高精度のデータが、信頼性の高い安定的なコンテクストから体系的に得られていなかった、と本論文は指摘します。相互検証のためには、少なくとも取り扱う時間の目盛りを1万~数万年という単位から、千~数千年という程度の単位に絞り込んでいかなければならなかった、というわけです。そうした状況下では、当該期における「文化の系統的連続性の存在」と「その枠内での石器群の変化=編年的な段階の設定」が、相互依存的な論理を前提として仮設されてしまった側面は否定できない、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中部旧石器時代と上部旧石器時代をどう区分し、どのような意義を与えるのか、という課題に立ち戻るさい、石器製作伝統の系統的連続性が仮設される以上、時代区分にあたっては、たとえばヨーロッパのような他地域から外挿的に年代的な基準を当てはめることに逢着せざるを得ない、と主張します。

 近年では、石器の接合資料分析と遺跡形成過程の再検討により、「カラ・ボム・トレンド」と「カラコル・トレンド」の指標的な資料が出土しているとされる、カラ・ボム遺跡とウスチ・カラコル遺跡の上部旧石器時代出土石器群に関して、これまで時間的に併存すると見なされていた石器群が、上部旧石器時代のなかで時間差を示すものである、と再解釈されるにいたっているそうです。また、中部旧石器時代を代表する特徴的な石器製作伝統であるシビリャチーハ(Sibiryachikha)伝統が上部旧石器時代にも「残存」し、上部旧石器時代の石器群と「併存」していたとする評価については、シビリャチーハ伝統に帰属する石器群が検出されたチャグルスカヤ洞窟において48000年前頃よりも古くなるという放射性炭素年代測定値が得られるようになってきたことで、少なくとも長期的な「併存」を支持することは難しくなっている、と本論文は指摘します。系統的連続性の仮設から石器群の類型区分と編年的な段階設定を導くという枠組みに関しては、それとは独立したデータからの検証によって見直しが迫られている状況にある、というわけです。

 2000年代以降のアジア北部における研究では、遺跡形成過程の再検討により石器群の一括性が見直され、また高精度化された年代測定値の集積により、従来想定されてきた編年の妥当性が問い直されるようになってきたそうです。その一方で、初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、IUP)あるいは前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、 EUP)という時期区分と石器群区分の捉え方が導入されるようになってきており、アジア中央部および南西部やヨーロッパ東部といった他地域での時期区分も考慮しながら、それとの比較を重視し、地域間の関係(移住・伝播もしくは収斂進化)を把握しようとする志向が強くなっている、と本論文は把握しています。じゅうらいの、地域内での時間的かつ系統的な連続性を仮設する枠組みとは別の観点からの議論が導入されるようになった、というわけです。

 本論文はモンゴルの上部旧石器時代を、アジア中央部や南西部といった周辺地域との対比も視野に入れて、初期(IUP)・前期(EUP)・中期(MUP)・後期(LUP)の4期に区分しています。EUPの年代に関しては、開始が39000~38000年前頃、終末が29000~28000年前頃との結果が提示されています。IUPの開始は48000~45000年前頃と推定されており、南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の骨製尖頭器や装身具の年代測定値とも整合的です(関連記事)。IUPとEUPの区分に関しては、IUPにおける大・中形石刃の剥離をもたらした石刃剥離技術や「彫器石核技術」の存在と、EUPにおける細石刃技術の存在が重要な指標とされています。ルヴァロワ技術に関しては、中部旧石器時代およびIUPで確認されていますが、モンゴルのチヘン2遺跡などEUPの一部の石器群においても存在が確認できるそうです。ルヴァロワ技術のみでは特定の段階の指標と見なすことができないことは明らかで、剥離工程の諸特徴や組成等の変化を考慮することが必要となっている、と本論文は指摘します。

 IUPの成立過程、とくにその担い手の人類集団に関しては、関連資料の数値年代が高精度化されたことで、関連諸事象の年代的位置づけの絞り込みが可能となってきたにも関わらず、化石人類の共伴事例がまだ確認されていないために、議論が続いています。この問題に関してはおもに、(1)他地域から新たに拡散してきた現生人類が残した、(2)中部旧石器時代からの先住集団が文化変容を遂げた、(3)現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合・交雑集団が残した、という仮説が提示されています。

 本論文が、中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期における編年との関連で重視しているのは、近年、中部旧石器時代晩期(Terminal Middle Paleolithic、TMP)という段階が設定され、議論されるようになってきたことです。モンゴルのハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層(5層からはIUPの石器群が出土)の出土資料の検討の結果、各種の削器類に代表される二次加工石器に伴う、ルヴァロワ技術から剥離される石刃や剥片の諸特徴とその組み合わせが着目され、それ以前の不定形剥片を基盤とする中部旧石器時代の石器群との区別のために、IUPに先行するTMPという段階が設定されているそうです。TMPの段階の石器群としては、オルホン1遺跡の3層、モイルティン・アム遺跡の5・4層、ハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層石器群をモンゴルでの指標的な資料とし、アルタイ山地ではカラ・ボム遺跡の中部旧石器時代石器群やデニソワ洞窟の開口部8・9層や東ギャラリー11.3層・11.4層で出土している石器群がそれに該当する、と本論文は主張します。その継起年代は60000~45000年前頃で、これらの石器群の製作者はデニソワ人だった可能性が最も高い、と本論文は指摘します。TMPとIUPの石器群の間では、ルヴァロワ技術に関してとくに多くの共通点が認められますが、IUPにのみ認められる小形石刃剥離技術の存在や石核の稜形成の工程等に着目することにより、両者を弁別する特徴が見出せるだろう、と指摘されています。

 TMPとして設定された段階に一定の技術型式学的諸特徴を共有する石器群が拡散していると確認されれば、IUPの前段階が編年的に明確になり、IUPとの比較の対象が特定できるようになったことには一定の意味がある、と本論文は指摘します。ただ、該当例としてあげられている石器群のなかには、一括性や年代的位置づけに問題を含むものもあり、今後の検証が求められる、とも本論文は指摘します。モンゴルの該当遺跡では、現時点での放射性炭素年代測定値はハルガニン・ゴル5遺跡6層において得られているだけなので、他の遺跡での数値年代の取得による追検証が必要というわけです。

 このように、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代へ移行する段階に関しては、TMP・IUP・EUPという時期設定がなされてきています。それぞれの時期に関しては、一括性が見込まれる石器群資料をもとに、技術型式学的な諸特徴を指標として石器製作伝統と同義の観点から設定がなされ、数は少ないものの、層位的な出土事例をもとに相対的な前後関係が把握されるとともに、数値年代によって相互の継起年代が推定されるにいたっています。得られている数値年代が限られているため、TMPの年代観の妥当性の検証は今後の課題ですが、TMPの設定の妥当性およびIUPとの型式組成や剥離技術、石材利用行動等に関する比較、とくに年代的重複の有無や程度といった相互の年代的位置づけの精査は、IUPの成立過程をめぐる今後の考古学的研究のなかで重要な検討課題となっていくだろう、と本論文は指摘します。本論文は、こうした比較作業のなかで、石刃や剥片を剥離する際の剥離法や剥離具の同定を重視しています。

 さらに本論文は、TMPと同一時期のアジア中央部および南西部やヨーロッパ東部における石器群との比較作業も重要な課題になる、とも指摘しています。アルタイ山地のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟やチャグルスカヤ洞窟で確認されているシビリャチーハ伝統は、想定されている年代的位置づけによる限り、このTMPの石器群と同一地域内で「併存」している可能性が高そうですが、技術型式学的には全く異なる特徴を示す両者の併存のあり方を明らかにしていくことも、人類進化の探求のうえでは興味深い課題になるだろう、と本論文は今後の見通しを提示しています。

 本論文はこのように、アジア北部の中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の研究において、編年の単位となる時期として、TMP・IUP・EUPが設定され、各時期の石器群に見られる型式組成や剥離工程の諸特徴、あるいは各時期の継起年代等が追及されてきている現状を概観しています。年代的位置づけの妥当性を数値年代によって検証する試みも、年代測定の高精度化と議論の目的の違いに応じた試料選択が果たされることにより、多角的に推進されつつある、と本論文は指摘します。しかし、編年の単位として任意の時空間を区切る石器製作伝統の枠組みが適用されてはいないために、今後、同一段階内での地域差が本格的に論じられるようになると、どのような体系のなかでその地域差の位置づけをおこなっていくのか、という点が問題となるだろう、と本論文は注意を喚起します。TMP・IUP・EUPといった時期区分の設定は、アジア南西部や中央部と同じような時間的スケールで様々な事象の生起の比較を試みていくさいには有効な時間的枠組みとなり得るものの、地域差の顕在化を明らかにしていくさいには、石器製作伝統の設定にもとづいて整理をおこなっていく必要性があるのではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
髙倉純(2019)「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P97-104

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第25回「時代は変る」

 今回から第二部となります。金栗(池部)四三は1924年にパリで開催された夏季オリンピック大会に出場しますが、すでに全盛期を過ぎていたことから、マラソンで棄権してしまいます。その帰国報告会で四三たち陸上選手や嘉納治五郎を厳しく糾弾したのが、若き新聞記者の田畑政治でした。ここは、金栗四三から田畑政治へと主人公の座が引き継がれたことを上手く表現できていたのではないか、と思います。それにしても、朝日新聞社での面接もそうでしたが、田畑は本当に暑苦しく、強烈な人物造形になっています。まあ確かに、田畑は面白い人物ですが、あまりにも騒々しいので、主人公としてはくどすぎるかな、とも思います。私はなかなか楽しめていますが。

 今回は、大正から昭和への改元時期を上手く背景に盛り込み、田畑の強烈なキャラもあり、かなり面白くなっていました。ただ、今回はあまりにも騒がしい内容だったので、この調子が続くようだと、視聴を続けて疲れそうではあります。もっとも、満足感のある疲れなので、苦にはならないかな、と思いますが。今回初登場となった高橋是清を演じたのは萩原健一氏で、今年(2019年)3月26日に亡くなりました(関連記事)。萩原氏にとってこれが遺作となるのでしょうか。改めて、萩原氏が68歳で亡くなったのは惜しい、と思ったものです。

タンパク質解析が明らかにする人類進化

 人類進化の理解にタンパク質解析が有益なことを報告した解説(Warren., 2019B)が公表されました。古代DNA研究は近年飛躍的に発展しており、人類史の理解を大きく進展させました。しかし、古代DNA研究には制約もあります。まず、時間的制約があり、10万年以上前の人類のDNA解析成功例はたいへん少なく、最古の事例は43万年前頃のスペイン北部のホモ属集団です(関連記事)。次に、環境の制約があり、高温地域は寒冷地域よりもDNAが残存しにくくなります。そのため、低緯度地帯では中緯度以上の地帯よりも古代DNA研究がずっと困難となります。

 こうした制約から、人類進化史の重要な問題を古代DNA研究で解明するのは困難になっています。たとえば、70万年前頃のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や現生人類(Homo sapiens)との関係です。ハイデルベルク人はネアンデルタール人と現生人類の共通祖先なのか、それともネアンデルタール人のみの祖先系統なのか、あるいは両者の共通祖先系統とは異なる系統なのか、古代DNA研究で結論を提示することはきわめて困難です。また、高温地域のフローレス島で発見されたホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)は、10万年前以降も存在していましたが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)の子孫なのか、それともより祖先的な(アウストラロピテクス属的特徴をより多く残している)系統から進化したのか、古代DNA研究では判断が困難です。これは、同じく高温地帯のルソン島で発見された、67000~50000年以上前のホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)に関しても同様です(関連記事)。

 そこで注目されているのがタンパク質解析です。タンパク質はDNAよりも長く残存する、とされています。早くも1950年代には、化石からアミノ酸が確認されました。しかし、古代のタンパク質の配列決定に必要な技術が確立したのは、現代のタンパク質を分析する質量分析法が応用されるようになった21世紀になってからです。質量分析法は本質的に、タンパク質を結合ペプチド(アミノ酸の短い鎖)に分解し、それらの質量を分析して化学的構成を推定します。質量分析計を用いた動物考古学(ZooMS)と呼ばれるこの方法では、1種類のコラーゲンが分析されます。

 これにより、南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された2000個以上の小さく断片的な骨の中から、人類の骨が識別されました(関連記事)。現在、この技術の適用により、アジアの人類の骨の確認が進められています。ただ、ZooMSでは詳細な系統区分は困難なので、そのためにはタンパク質の総体(プロテオーム)を解析することが必要となります。これはZooMSよりずっと多くの情報をもたらしますが、その解釈は面倒です。プロテオーム解析(プロテオミクス)により得られた情報を危地の配列と照合することで、コラーゲンや他のタンパク質の正確な配列を同定できます。次に、この新たに決定されたタンパク質配列を他の人類集団と比較し、系統樹を作成します。これは古代DNA研究と類似しています。

 プロテオミクスには、古代DNA研究の困難な年代や地域の人類の系統関係を明らかにする可能性があります。じっさい、チベット高原東部で発見された16万年以上前の人類の骨が、タンパク質分析により種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と確認されました(関連記事)。また、絶滅したサイのステファノリヌス(Stephanorhinus)属のタンパク質も解析されています。チベット高原東部のデニソワ人のタンパク質が歯の内部の象牙質から得られたのにたいして、ステファノリヌス属のタンパク質は歯を覆うエナメル質から得られました。エナメル質は脊椎動物の体内で最も硬い物質で、アミノ酸の浸出を防ぎます。180万年前頃のジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された動物遺骸のプロテオーム解析からは、絶滅したケブカサイ(Coelodonta antiquitatis)との密接な関連が指摘されています。北極圏で発見された340万年前頃のラクダからのコラーゲン配列も報告されており、タンザニアで発見された380万年前頃のダチョウの卵殻からもタンパク質の配列が報告されています。このダチョウの卵殻が発見された場所の年間平均気温は約18℃で、とくに寒冷な環境ではありません。これは、比較的高温な地域の更新世人類のタンパク質解析の成功も期待させる結果です。

 ただ、古代プロテオミクスには困難や問題も指摘されています。これまで、古代の人類のタンパク質配列をかなり容易に推定できたのは、すでにゲノム配列の得られているデニソワ人とネアンデルタール人と現生人類が対象だったからです。これにより、タンパク質配列を予想できます。しかし、ゲノム配列の得られていない人類に関しては、タンパク質配列は困難となります。また、古代の人類のタンパク質は小さな断片に分解され、現代のタンパク質で汚染されていることが多いことも課題となります。

 古代の歯と骨に含まれるタンパク質の数は少ないため、標本の識別に使用できる情報は比較的少なく、チベット高原東部のデニソワ人では、8種類の異なるコラーゲンから2000をわずかに超えるアミノ酸が同定されました。これらのアミノ酸のうち1種類だけがネアンデルタール人および現生人類とは異なっており、デニソワ人と分類される根拠となりました。そのため、エレクトス標本からタンパク質の配列を決定できても、現生人類や他のホモ属との関係について判断できるほどの充分な情報は得られないかもしれない、と指摘されています。

 一方、古代DNAではずっと多くの情報を得ることができます。また、タンパク質は骨の構造を形成するという重要な機能を担うことが多いため、進化につれて変化するとは限りません。たとえば、エナメル質に特有のタンパク質は、デニソワ人とネアンデルタール人と現生人類では同じです。これは他の大型類人猿とは異なるので、よりデニソワ人やネアンデルタール人や現生人類より古い人類集団のタンパク質を配列できれば、いつ人類系統においてこのタンパク質への変化が起きたのか、明らかにできるかもしれません。また、タンパク質配列が古代の人類集団でどのように異なるのか、ほとんど明らかになっておらず、デニソワ人に関しても、他の個体では異なっていた可能性も指摘されています。

 古代プロテオミクスに関して懸念されているのは、かつて古代DNA研究では、1990年代~2000年代初頭にかけて、中生代の生物のDNA解析に成功した、と派手に報道されたことがあったものの、その後に試料汚染や方法論の問題から否定されたからです。そのため、プロテオミクスでも同様のことが起きるのではないか、と懸念する研究者は少なくないようです。一方、プロテオミクスにおける方法論の進展も見られ、380万年前頃の卵殻のタンパク質配列に関しては、タンパク質が卵殻のミネラルクリスタルの表面に結合している、と明らかになり、現代までタンパク質が残存していた理由も説明されました。こうしたタンパク質が残存している理由の説明は、プロテオミクスをより堅牢なものとします。古代プロテオミクスには、古代DNA研究では困難な人類進化史に関する問題を明らかにする可能性が秘められているという点で、今後の研究の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Warren M.(2019B): Move over, DNA: ancient proteins are starting to reveal humanity’s history. Nature, 570, 7762, 433–436.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-01986-x

小路田泰直『日本史の思想』、『「邪馬台国」と日本人』、『邪馬台国と「鉄の道」』

 小路田泰直氏の著書で過去に取り上げたものを一つの記事にまとめます。『日本史の思想』の雑感は2001年12月に前編後編に分割して、『「邪馬台国」と日本人』の雑感は2001年5月に、『邪馬台国と「鉄の道」』の雑感は2011年9月にそれぞれ掲載しました。小路田氏の著書の雑感をまとめようと思ったのは、近年、小路田氏の著書『卑弥呼と天皇制』(洋泉社、2014年)への批判をツイッターで見かけたからなのですが、現在は検索しても見つけられませんでした。もっとも、後述する『邪馬台国と「鉄の道」』を読んで失望したので、『卑弥呼と天皇制』への批判にも驚きませんでした。

 しかし、『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』をその10年以上前に読んで感銘を受けたので、小路田氏がどのようなことを述べて、自分がどう受け取ったのか、改めて確認する意味で、一つの記事にまとめます。また、2万字という制限内に収まるので、利便性のためにも、一つの記事にまとめる方がよいかな、と判断しました。『日本史の思想』と『「邪馬台国」と日本人』の雑感は、当ブログ開始前に掲載したので、現在とは考え方が違っているところもありますし、文字遣いもかなり異なっているのですが、明らかな誤字と段落構成の訂正と説明文以外は、基本的にそのままにしておきます。なお、この3冊と深く関わりそうなその後に読んだ本として、増淵竜夫『歴史家の同時代史的考察について』があります(関連記事)。



『日本史の思想』

 柏書房より1997年に発行された。副題は「アジア主義と日本主義の相克」である。本書の後に取り上げる小路田氏の著書『「邪馬台国」と日本人』を先に読んだが、本書の方が先に発表されている。『「邪馬台国」と日本人』の内容は、本書を踏まえてのものでもあるので、なるべく早く読んでおこうと思っていたのだが、織田信長について色々と調べていたので、読み終えるのが遅れてしまった。

 小路田氏の関心は、現在の日本の民主主義の在り様である。「辺境」に押し付けて解決する日本の戦後民主主義は、もはや成り立たず、変わらねばならない。では、どうすれば変われるのか。そのためには日本の民主主義の成り立ちを深く知る必要があり、本書はそのための模索である。以下、先ず概略を、次に雑感を述べていく。


 戦後歴史学は、大正デモクラシーと戦前ファシズムとの間に越えがたい断絶を認めてきたが、両者の間には連続性が認められ、大きな差はなかった。15年戦争を、「我々」の政治参加の存在した大正デモクラシーの必然的帰結ではなく、天皇制や軍部によって抑圧された独裁時代の過誤として戦後歴史学は認識した。その結果、戦後歴史学の歴史認識は、歴史の変化を自らの主体的行為の帰結ではなく、「我々」にとってはどこまでも他者である誰かの作為や状況に帰せて説明する、没主体的なものとなった。

 大正デモクラシーは、社会的同権化と政治的民主化という二つの要素の組み合わせであった。一般に、両者は同じ民主主義の中で調和すると考えられているが、そうではない。社会的同権化は議会制民主主義の大衆政治(衆愚政治)化=形骸化と巨大な官僚集団の誕生=政治の官僚化を齎す。政治の官僚化は政治の無秩序化を齎すから、それを矯正するには政治の民主化が必要だった。故に、民主主義が政治風土として定着していようがいまいが、大正デモクラシーは必要とされたのだが、それは政治の官僚化の必要から生まれた民主主義であって、国民の欲求・参加意識に支えられたものではなく、故に大正デモクラシーは脆くも崩壊した。

 当時の日本には、社会的豊かさと、社会的同権化を進め「官僚的行政」を肥大化させていくために必要な民主主義を、それでも民主主義だと理解して受容するだけの強固なナショナル・アイデンティティが存在しなかったのである。何故なら、日本の歴史学が、国民共同の過去の記憶を創出することに失敗し続けたからであった。その理由を史学史の中に探ろうとするのが本書の課題である。


 日本近代国家の完成された形態を大日本帝国憲法体制に求めるとすると、それは水戸学的名分論とアジア主義の二つの歴史観・思想によって支えられていた。前者は、国民の信頼(世論)という客観的で具体的な基準を設けた点と、世論を祖法(皇祖皇宗の法)に名を借りた法として規範化し、叡慮(天皇の意思)に名を借りた命令として意志かした点に、特徴があった。

 また、仏教伝来以前に真の日本文化を認めた点も特徴と言える。後者は、自らの伝統の中に、自立した個人を前提に形成される市民社会の伝統を発見しようとして、アジア規模における文明の交流に着目した内省的なナショナリズムで、日本においては、仏教伝来以降の歴史に真の日本文化が認められた。

 このままでは、両者は重要な点で相容れないが、アジア主義において、日本はアジア文明の博物館である、と想定されることにより、両者の接近が可能となった。つまり、他に征服されることなく、途切れなく主権が続いてきたこの日本は、アジアの文化の貯蔵庫となった、という想定である。絶え間ない征服と王朝の興亡のあった中国の文化は、日本において保存され、遂には中国の学者自身、知識の源泉を日本に求めるようになった、というのである。

 この「日本=アジア文明の博物館論」により、日本文化の形成はアジア文明の圧倒的影響下で行なわれたとするアジア主義と、万世一系の天皇が日本を統治することを正当視する名分論的国体論とが融合しやすくなった。「日本=アジア文明の博物館論」はまた、モンゴルの膨張によりアジア文明の破壊、モンゴルを阻止した日本と西欧という観点を提示することにより、日本と西欧の対等性・日本とアジアの非対等性という認識を提示し、同時にモンゴルを退けたという点を強調することで、名分論的歴史観との間に神国思想という接点を持つことができた。


 大日本帝国憲法体制が、水戸学的名分論だけでなく、これと歴史観が大いに異なるアジア主義を必要とし、アジア主義の側に水戸学的名分論との接点が模索されたのには、理由があった。名分論の論理は、必然的に大政委任論、更には天皇親政論にまで行き着かざるを得なかったが、名分論が成立するには天皇が不執政の君主である必要があり、矛盾が生ずることになる。

 故に、名分論を成立させるには、「天皇の意志=覇者の意志」という虚構が成立し、その覇者に大政が委任される必要があった。明治政府は、当初、英国型責任内閣制を導入し、議会多数党の党首=覇者にしようとしたが、議会を通じて形成される世論に全幅の信頼は置けず、責任内閣制を断念せざるを得なかった。

 そこで政府は、個人の天賦の自由を前提に成立させる立憲制を、国家の伝統に規制された特殊な制度として成立させようとし、そのために、特殊主義と歴史主義の合理化が要求された。そこで必要とされたのが、一つには社会有機体説または社会進化論であり、もう一つがアジア主義であった。アジア主義を用いて、日本の伝統が立憲的に読み換えられたのである。

 アジア主義は、日本のナショナリズムに普遍的価値を与える役割を果たした。アジア主義は、差異はあれど、西欧の侵出に対してアジアに広く見られたものだった。アジア主義は、自らの文化的自立性を主張し、尚且つ価値相対主義に陥ることなく文化的多元主義として理念化された。未開・野蛮として(半)植民地化されてきたアジア諸国が、自らの文化的個性を強調することによって独立を達成しようとした時、頼るべき唯一の普遍思想だった。

 アジア主義が広まったのは、アメリカのアジアにおける発言力が拡大したからであった。世界は、強国が小国を併合して文明化させる天賦の権利を有する国際法秩序から、全ての民族に天賦の国権を認める国際法秩序へと移り変わっていった。つまり、建国の条件が、完全な文明化(西欧化)から、民族存在の事実=伝統へと変わっていたのである。そこで、伝統の近代的読み換えが必要とされたが、その際に活用されたのがアジア主義であった。

 だが、アジア主義と名分論との蜜月は長続きせず、南北朝正閏論争においてアジア主義者の喜田貞吉が敗れると(1911年)、正式に体制のイデオロギーから排除されることとなった。そして、アジア主義の凋落を示すのが津田左右吉の登場であった。以下、やや詳しく津田の歴史学について見ていく。


 津田は、中国思想の停滞・非普遍・反社会性を強調した。それは、中国文明の感化力の乏しさと日本への影響をできるだけ過小評価し、中国思想が近代国民国家の思想足り得ないことを証明するためであった。近代日本国民国家の淵源を外来のアジア文明に求めようとしたアジア主義者とは正反対の主張である。

 続いて津田は、日本の地理的孤立性とそれに起因する文化的後進性を証明したが、それは、日本文化よりも高度な中国文化を日本は理解できなかった、従って日本文化への中国文化の影響が皮相なもの(中央貴族段階)に留まった、と主張するためであった。

 故に津田は、記紀の中国思想やインド(仏教)思想で書かれた箇所は、潤色としてあっさりと切り捨ててしまった。津田は、古代以来中国文明の日本への影響は大きなものではなかった、日本と中国とは別個の世界で、一つの東洋という世界を形成していない、と主張するためにその膨大な歴史研究を行なったのである。

 津田の神代史(神話)研究が高く評価されたのは、記紀を史実を記した史書として読むのではなく、編者の精神を今日に伝える物語として読む立場を確立したからであった。津田は、本居宣長のように『古事記』を完全な史書と見做す立場だけでなく、記紀の記事を、確たる証拠もなく何らかの史実の反映と見做す立場でさえ、徹底的に排斥し、7世紀前後の日本の支配層の思想を解明する手法を確立した。従って、津田の神代史研究は、神代史を物語として成立させている基本精神の発見し、その基本精神に沿って神代史を物語として再構成させ、改めてその基本精神を確認する、という方法になった。

 津田の考えた基本精神とは、「気に乗じ、折にふれて、皇室の由来を世に示さうとする特別の意思」であった。津田の推量した神代史の形成のされ方は、「神代史は皇祖を日神とするといふ思想が中心となってゐて、それを一方に於いて大和奠都・出雲退譲の歴史的事実と結合するために、日孫降臨及びオホナムチ国ゆづりの物語が出来、一方に於いて、それを国家に於ける皇室の位置と調和させるためにイザナギ・イザナミ二神の国土及び日神生産の物語が出来たのである。さうして、その二つを連結するためにスサノヲの物語が作られたのである」というものであった。

 津田は、こうした物語を作った古代国家が、氏族制的言説(祖先崇拝・族制制度の時代に起る思想)によって統合された、極めて凝集性の高い国家だと考えたのである(氏族制=血縁社会は観念にすぎなかった)。津田は、上代史については、『日本書紀』をあくまで史書として読むことを心掛けた。その結果、記紀の原型が形成され始めた頃には、日本は氏族制社会を出て国家段階の社会に入っていたとした。また、大化改新の意義を低く評価し、大化改新によって「廃罷」された氏族制度は「政治上」に残った「旧慣」にすぎなかった、とした。

 また津田は、日本における古代国家形成は、外部の影響は受けず、内部の刺激だけで行なわれたとし、古代日本は、「天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと同じくし血統を同じくせられ、国民といふ一大家族の内部にあって其の核心となってゐらせられる」といった、主権者に対する恰も同族の長に対するが如き親愛の観念によって統合された、極めて特異な国家だったとした。つまり、日本がアジアの一角に位置しながら、例外的に近代国民国家の形成に成功し得た理由を科学的に証明しようとしたのである。そして、このように証明するには、日中間の文化的な溝の深さを強調するしかなかった。

 津田の学問の動機は、学問をする動機の最も重要なるものは、それによって国家の発達、国民文化の進歩に貢献しようとするところにあり、学問の効果は国家の隆盛となって現はれるのであります、であり、その目的は、国民の精神生活を豊かにし、特色ある国民的文化を形成し、人類の文化の発達に寄与し、またそれによって国家の品位と権威とを世界に高める、だった。

 更に津田は、(神代史をその形成された時代の思想によって解明した結果は)過去のいろいろの学者の考が、おのづから皇室の尊厳と国体の本質とを傷つけることになってゐるのとは反対に、ますますそれを明らかにする、とより明確にその目的を語っていたのである。


 日露戦争後、アジア主義は凋落し、日本をアジアの盟主として位置付ける膨張主義的な大アジア主義へと転換していったが、一方で、民族自決の原則を強制する「パクスアメリカーナ」も成立しつつあった。本来は民族自決の主張であったアジア主義がいとも簡単に膨張主義的な大アジア主義へと転換したのは、国家が、一度動員した国民の排外的感情の暴走を抑制する能力を持たないからであった。何故国家が抑制能力を持たないのかというと、国家自体が近代社会を創出するに際して、排外主義の統合効果を過剰に利用し過ぎていたからだった。

 近代日本は、何か公的事業を行なう際、関係する諸利害を、個々の利害を越えた一つの利益(公益または国益)に統合していく仕組みとしての立憲制の創出に最終的には失敗し、その失敗を補うために、天皇の超越性を演出したが、天皇の絶対性には天皇不執政の原則と天皇親政原理の矛盾が付き纏う。従って、如何なる水準であれ、近代日本社会の統合には、共通の他者を排除することによって生まれる共同体意識=排外主義を利用することが求められた。

 故に、例えば市制を施行し(1888年)都市団体を創出するために、都市住民の農村に対する排他性を利用することが不可欠であった。日本の近代都市が、将来の都市化を見込めば、当然あらかじめ政治的傘下に収めておくべき周辺農村を敢えて政治的傘下に収めようとはせず、社会資本整備を遅らせ、際限なきスプロール化を招いてしまったのは、そのためだった。排外主義を内蔵してしまった国家に、排外主義の暴走が食い止められなかったのは必然的だったのである。


 アジア主義凋落の跡を埋める思想には、門戸開放体制(パクスアメリカーナ)に順応すべく、日本という国家を、日本列島と日本文化によって先天的に限定された存在として論じることと、日本人をより積極的な政治主体に変え、政治に強い指導力を生み出すことを可能にすることが要求され、これに応えて影響力を強めたのが、広い意味での日本主義であった。それは、日本という国家の存在根拠を、一人一人の国民の皇祖皇宗の「建国当初の抱負」に対する自覚と共感に求める思想で、万世一系の天皇の血統に日本国の正当性を求める一種の名分論だった。

 だが、日本主義は二つの点で従来の名分論とは根本的に異なっていた。一つは、民族存在の事実ではなく、一人一人の日本人の主体的な共感に国家を基づかせようとした点である。もう一つは、祖宗の遺訓を万国に通じる普遍的真理と認識していた従来の名分論に対して、それを日本社会の中で日本人にのみ理解できる特殊日本的な真理と認識した点である。従って日本主義は、植民地支配の根拠を、従来のアジア主義のように敢えて歴史に求めることを拒否する思想だった。

 従って、日本主義は、極端に権力・同化主義的な侵略主義に発展する可能性も、石橋湛山の小日本主義のように反植民地主義に発展する可能性も持った思想だった。日露戦争後、アカデミズムの世界では、アジア主義から日本主義への移行が確実に始まっていたが、アジア主義が一旦広まった後だけに、日本主義の確立はなかなか困難だった。


 そこで、日本主義確立のために先ず取られた方法が、日本の歴史を純粋な日本史として描き、東洋史への埋没から救い出すことであった。内藤湖南が、「日本文化の起源とその根本を知る為にはどうしても先づ支那文化を知らなければならぬ。今、歴史といふものを日本の歴史だけで打切ってしまって、その以前の支那の事を知らぬといふと、日本文化の由来を全く知らぬことになる、更には、大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です」と述べたようなアジア主義の呪縛から日本史を解き放つための方法は、三つあった。

 一つ目は、既に津田が指摘したように、常識的に考えると日本が最も深刻に中国文明の影響下に置かれたと思われる古代において、外来文化の影響が実は小さく、所詮は表面的な影響に過ぎなかったことを発見することだった。

 二つ目は、中国文明の影響を長期間色濃く受けた中央貴族の歴史ではなく、中国文明の影響を殆ど受ける筈のない地方(関東)武士、またはより下からの民衆の歴史として、日本史を描き直すことだった。日本中世史の創始者とされる原勝郎は、関東武士の世界の中に歴史発展の原動力を見付けたのである。

 三つ目は、現代日本の古典を古代ではなく中世に求めることで、これにより外来文化をひたすら受け入れて発展してきた古代貴族の歴史と切り離して、地方の武士や民衆を主体とした内なる国民形成史を描くことができた。とはいえ、このように日本史を東洋史とは無関係な純粋な日本史として描くことは、史実の壁があり容易ではなかった。そこで日本主義者達は、更に二つの方法を選択した。


 一つは、「歴史は現代史である」という立場での方法、つまり、歴史を現代の歴史研究者の主観に完全に従属させる、という方法だった。この立場を推し進め、歴史を敢えて実証から解放し、理論へと飛躍させることによって、歴史を客観的な史実をありのまま記述する学問から、歴史家の主観によって過去を主体的に(従って未来への実践を視野において)統合する叙述の学問へと変貌せしめるのに功があったのが、内田銀蔵と平泉澄であった。

 この立場では、「我等紛れもなき日本人」の描き得る歴史は、必然的に「桜咲く日本の国土の上に幾千年」刻まれてきた歴史としての日本史しかなくなるのであり、如何にアジアから多様な影響を受けようとも、国土に限定された日本史が正当なものということになるのである。所謂皇国史観は、この方法の歴史的帰結であり、一種の戯画化であった。

 もう一つは、日本史を、予めその普遍性が約束された西洋史の方法に沿って描くという方法だった。そうすれば、日本史に普遍性が宿ることになり、普遍的なものは自ずから自己完結性を帯びるからである。この方法は、近代日本の歴史学が西洋歴史学を範としたためか、広く行なわれた。一見すると西洋史とは無縁に見える津田史学にしても、中国やインドの文化・思想が国民の実生活から遊離していたと主張していたのに対して、西洋文化は国民の実生活に密着したことを認め、西洋思想は日本人にとって決して異国の思想ではない、としていた。


 だが、日本主義を確立するには、日本史を自己完結的に描くだけでは不充分であった。何故ならば、一つには、帝国主義的膨張を続ける日本という現実の下では、アジア主義の方が受け入れられやすかったからである。もう一つは、如何に日本史を東洋史から切り離して描いてみても、その虚偽性が明らかだったからである。そこで、日本主義を確立するには、国家を先天的に空間的に限定することの必然性を哲学的に論証しなくてはならなかった。

 その課題を担ったのは、「場の論理」を確立した西田幾多郎と、『風土』を書き風土論を確立した和辻哲郎だった。和辻は西田哲学の影響も受けつつ、国家や社会が固有の時間(伝統)と空間(風土)によって限界付けられた存在だと主張した。それは、一つには、日本という国家を、どこまでも日本列島とそこに育った文化によって限定された空間として捉え、アジア主義と決別して日本主義に哲学的基礎を与えるためであった。

 もう一つは、津田のような極端な事実歪曲を行なうことなく、「日本人がいかに深くシナ文化を吸収したにしても、日本人はついに前述の如きシナ的性格を帯びるには至らなかった」という津田同様の結論に到達するためだった。文化における風土の規定性を言うことによって、如何に日本文化が中国文化やその他の外来文化の影響を受けようとも、その固有性を語ることができたのである。和辻は津田の古代史理解を批判したが、それは和辻が希代のコスモポリタンだったからではない。善き日本主義者たらんとすれば、外来文化の影響を正当に評価した上で日本主義を主張しなければならないのである。


 こうして日本主義は完成したが、植民地帝国日本の現実とアジア主義のナショナリズムの根強さが、その定着を妨げた。アジア主義は、日露戦争後に膨張主義的帝国主義の代名詞に転換していき、それは国内社会の同権化を目的としていた。故に、アジア主義は大衆に浸透してその命脈を保った。

 これに対して、「建国当初の抱負」に対する自覚を持たせることに主眼を置く日本主義は、社会契約論にも似たエリート主義的思想で、大衆には受け入れられなかった。明治以降の日本は、名望家(市民)社会の建設に挫折し、社会の大衆化と権力の「一君」化が先行した、エリート主義があまり強固な基盤を持つことのできない社会だったのである。

 アジア主義が日本主義と比較して強靭だったのには、もう一つの理由があった。第一次世界大戦後、アメリカ型消費文化が世界的に広がる中、日本社会のアイデンティティを保とうとすれば、アメリカ型消費文化に対抗可能な「物質文明」を構想する必要があったが、そのための想像力の源は、日本主義ではなくアジア主義に求めなければならなかった。何故ならば、日本主義は祖宗の時代の文化という、捉えようのないものを理想化する思想であり、アジア主義のように固有の物質的表象を持たなかったからである。

 日本主義者達は、日本社会に「公共性の観念」を確立することを最大の現実的関心とし、そのためには公共財の荘厳化を図る必要があったが、以上の理由で、国家が公共財の荘厳化を図るべく新たな伝統文化の「創造」を企図した時、日本主義ではなくアジア主義に依存せざるを得なかった。人々の内面に「公共性の観念」を喚起できない日本主義は、容易に戦前期日本社会には定着しなかったのでる。


 だが日本主義は、第二次世界大戦後に定着した。その理由は、一つには敗戦により植民地帝国としての現実が失われたためであった。もう一つは、象徴天皇制の成立により天皇親政の原則と不執政の原則との矛盾が取り除かれたためであった。最後に、アメリカの核の傘に入ったことにより、国家水準での強固なアイデンティティ確立の必要性が取り除かれたためであった。敗戦は、日本社会に日本主義の受け入れられる素地を築いたのである。

 故に、戦後歴史学は戦前期歴史学以上に日本社会の自明性を前提に形成され、単一民族説が一般化した。戦後歴史学の出発点が、嘗ての原の試みを敷き写すが如く、草深い東大寺領黒田荘に住む武士や民衆史として中世を叙述した石母田正の『中世的世界の形成』から始まったことは、その象徴であった。故に、戦後歴史学は、網野善彦らによって、その日本主義と農本主義とを激しく攻撃されているのである。


 社会現象を大きく政治と経済に分けると、経済に「物語」(虚構された社会像)は必要ないが、政治にはそれは必要である。「物語」によって観念化され、一旦現実から遊離させられた社会を前提にしなければ、つまり、あるがままの社会を前提にしたのでは、政治は成り立たないのである。経済の基盤は人間の多様性そのもので、経済社会に立ち現れる諸個人は、全て個性的である。

 一方政治の基礎は、人間の多様性そのものではなく、抽象・非個性化された平等な個人の集合体としての社会である。その証拠に、大抵の国において、各国民は平等に一票ずつ選挙権を持っている。政治は、例えば貧富の差の拡大といった、経済の齎す差異化作用に相抗して、社会の均質化を保持するための人間行為なのである。故に、政治には、多種多様で差別し差別される人間を、平等な人間として立ち上げる虚構が必要なのである。そしてその虚構を構想するために、社会を同等の個人の共同体として描く、ある種の「物語」が必要なのである。

 しかし、本質的に多様性と差別性を帯びていて、故に社会的分業と文明が成立した人間社会を、同等の資格を持った個人の集合体として描くことは、容易ではない。古代以来、社会の紐帯として、西洋においては「愛」が、東洋においては「孝」が語られてきたが、社会がそれらによって満たされたことは一度もなかった。

 常に「性悪説」と「法家の思想」が社会を担保し続けてきた。戦後歴史学は、人間を本来的に共同体的な動物と見做し、本源的共同体を想定するところから歴史叙述を始めてきたが、それは、過去をともすれば近代の反対物として描こうとする近代人の錯覚に過ぎなかった。人間は、本来多様で公益なしには生存できない動物だった。

 では、共同体の「物語」は如何にして作られたのかというと、それは共同体の歴史を語ることによってであった。その理由は、一つには、「体験」=過去の共有が、人間が相互に同胞として理解しあうための最も大きな手掛かりになるからだった。もう一つには、一君万民式に人々の平等を確保しようとすれば、「先王制作の道」であれ「祖霊」であれ、歴史の中に居場所のある何らかの絶対者を想定せねばならなかったからである。故に、社会を同胞社会として描く「物語」の中心には、どうしても歴史的な語りがなくてはならなかった。

 こうした事態は近代になっても変わらなかった。近代になると、「先王制作の道」や「祖霊」を証明するための歴史ではなく、国民の歴史が描かれるようになるが、それも、主権者たる国民を絶対者の地位に置くためのものであった。故に、歴史をどう描くかは、いつの時代にも政治の最大の関心事だった。歴史学=歴史観の変遷(史学史)と政治の変遷(政治史)との間には、密接不可分の関係があるのである。


 本書は、政治動向と歴史思潮の移り変わりとを相互に関連付けて近代日本を概観しており、大変示唆に富んだものである。一般に、戦前は神憑り的で非科学的な皇国史観が一世を風靡し、戦後歴史学は戦前期歴史学と一線を画して科学的な研究成果を積み重ねてきた、などと言われているが、事はそう単純ではない。

 皇国史観を生んだ日本主義は、実は戦後になって却って定着したのであり、戦後歴史学は日本主義に基づいたものであった。日本主義者の代表的存在である津田左右吉は、戦後になって反動化したとして戦後歴史学の主流からは大いに非難されたが、その研究内容自体が否定されたわけではなく、戦後歴史学は津田史学を実証的・科学的として高く評価し続けてきた。

 その戦後歴史学が厳しく批判したのが、2年前(1999年)話題となった西尾幹二氏の『国民の歴史』で、私も評判になったので読んだことがあった(関連記事)。同書は一般では賛否両論といった感じだったが、歴史学界では概ね評判が悪く、戦前の皇国史観の焼き直しとの批判も少なからずあった。『国民の歴史』批判派に言わせると、西尾氏は科学的な研究に立脚した戦後歴史学の成果を無視している、ということになり、戦後歴史学と西尾氏とは対極に位置するかの如き感があった。

 ところが、『国民の歴史』の内容は、実は津田左右吉の主張と大いに共鳴するところがあり、徹底した日本孤立論を主張している。確かに、『国民の歴史』は戦後歴史学の提示した歴史像とは、一見すると大いに異なるのかもしれないが、実は同根から生じたという側面が多分にあった。

 戦後歴史学の側からの厳しい批判にも関わらず、一般の間で『国民の歴史』がそれなりに高い評価を受けたのは、戦後歴史学への不信・不満があるからだ、との評価もあり、確かにその指摘にも妥当性はあろう。だが、より根本的な問題は、両者が同根から生じたものだということで、故に、戦後歴史学の側が『国民の歴史』を徹底的に批判することは困難なのではなかろうか。

 戦前・戦中・戦後を通じて、津田の歴史観・思想は首尾一貫していた。ところが戦後歴史学は、津田が戦後になってマルクス主義の台頭に脅威を覚えて国体護持論を主張すると、津田は反動化したとして厳しく批判した。こうした事実の中に、戦後歴史学の重要な問題点と、『国民の歴史』が国民の間で一定の影響力を有した理由が見えてくるのではなかろうか。

 私は中学生の頃、日本人単一民族説は寧ろ戦後になって常識となったのだ、と何かの本で読んで、疑問に思ったことがある。日本人単一民族説は、皇国史観が一世を風靡した戦前の方が明らかに受け入れられやすいように思えたからである。そうした疑問点も含めて、本書は近代日本の政治動向と歴史思潮の変遷を、その社会的背景と共に実に上手く説明しており、近代日本史学史についての議論に有益な提言をしているように思われる。



『「邪馬台国」と日本人』

 平凡社新書として、今年(2001年)初めに平凡社から発行された。書名は『「邪馬台国」と日本人』となっているが、主題は近現代日本における「日本史」叙述・認識の問題で、皇国史観が如何にして生まれ、何故未だに克服されていないのかを論じている。邪馬台国論争は、皇国史観に傾斜していく戦前の日本史研究状況を説明する一挿話として描かれているといった感じで、書名は、「皇国史観の形成過程」とでもするのが妥当なように思う。或いは、邪馬台国を書名に入れた方が人目を引くから、といった理由で、編集者がこの書名を提案したのだろうか(邪推かな・・・)。

 冒頭では、歴史認識・叙述の在り方として、物語としての歴史(構成主義的歴史観)と客観的歴史観とが挙げられ、以下の章で、近代日本における歴史認識・叙述が、両者の間を揺らぎながら次第に前者に傾倒していき、遂には皇国史観が成立するに至った経緯が、『大日本編年史』の編纂と挫折・白鳥庫吉と津田左右吉の思想と認識を通じて述べられている。簡潔に要旨を述べると、次のようになる。


 不平等条約改正・一流国の仲間入りを目指した明治前半の日本に要求されたのは、文明国としての証であり、具体的にはそれは立憲制であった。だから、立憲制国家に相応しい力量のある国民を育成するために、普遍的な価値観に基づく文明史としての客観的な『大日本編年史』の編纂が企図された。だが、憲法が制定される頃になっても、先進国の立憲制には到底及ばないことが明らかになっていく。そこで政府は、天皇の絶対的権威を持ち出して政府の議会に対する優越を歴史的に説明しようとし、特殊的性格を持つ日本という歴史像の創出を企図し始めた。

 この流れは、その頃より民族自決の原則が主張されるようになったことによって、一層強くなった。何故なら、独立国としての条件が、文明水準から民族の存在へと転換することを意味したからである。故に、以後の日本では、日本の特殊性を歴史に求める傾向が強くなったが、それは歴史の物語化を招来した。その理由は、一つには中国(外来)文化の影響を受けない日本固有の文化の存在を確認できなかったからであり、もう一つには、流入する中国文化に圧倒されないよう、古くに成立した固有文化に回帰して歴史的発展を図る復古の英雄の存在を想定するしかなかったからである。

 だが、日本の特殊性を歴史に求める動きの中にも、物語を作り上げることによるものではなく、実証的手法によるものもあった。その手法を開拓したのが、東洋史家の白鳥庫吉とその弟子である津田左右吉であった。白鳥は、記紀神話などの古伝説を、過去の事実を反映した歴史として理解する前に、書き手の思想の産物として理解しようとした。白鳥は、日本神話には中国思想の影響があるが、その影響を受けていない日本固有思想の部分は、自然崇拝に留まっている中国思想より優れている、とした。

 そして、中国思想の流入にも関わらず日本固有の思想が消え失せなかったのは、歴史のある時期までは、日本は中国と文化的に隔絶されていたからだ、とした。この見解の補強のため、白鳥は邪馬台国九州説を唱え、それに執着した。大和朝廷、即ち日本の主要部分が中国と接触した時期が遅いほど、自説には有利になるからである。だが白鳥は、一見すると中国思想の影響を受けていないように思われる日本神話の一部も、実は仏教の影響により形成されたものだと気付いていた。だが、日本孤立主義を採って「満州進出不可論」を主張し、「尊厳なる国体の本質と、我が皇室の万世一系であらせられる真の理由」を発見することを企図していた「国士」白鳥は、生前にはその考えを一部にしか漏らさなかった。

 白鳥の弟子である津田は、一層徹底した日本孤立主義論者だった。津田は、中国思想は普遍的なものではなく、また文化水準の低い日本に浸透したわけではなかったとし、日本における中国文化の影響を軽視した。津田は、日本と中国との違いを強調し、両者は東洋文明・文化などといって一つに括れるものではなく、全く別個の地域であった、と主張した。そのため津田は、一つの東亜を形成しようとした時流への反逆者と受け取られ、戦前には政府から睨まれることとなり、反戦・反体制の歴史家と理解された。

 津田や白鳥とは対極的に、一つの東亜という立場にたったのが内藤湖南で、内藤は西洋文明に対する東洋文明の対抗可能性を歴史研究の課題としていた。故に内藤は、日本の歴史を東洋の歴史に組み込む必要性を感じ、日本文化の固有性や外来文化摂取の選択性といった議論に反駁し、邪馬台国畿内説を主張したのである。

 白鳥と津田の、日本的固有文化を歴史的に実証せんとする試みに限界が見えると、同様の目的を掲げる者の多くが皇国史観を選択することとなった。皇国史観は、単に物語的歴史の延長にあるのではなく、進んで日本人になろうとする皇道実践に生命をかける歴史家の主体性に支えられてはじめて成り立つ歴史観であり、日本文化の特殊性を証明しようとする大きな流れの最後の姿であった。

 皇国史観は、戦後になって非合理・非科学的として糾弾されたが、その誕生過程・理由を解明するといった徹底的な克服はなされなかった。それは、戦後歴史学もつい昨日までは皇国史観と五十歩百歩だったので、歴史家がそれに触れたくないためであり、もう一つは、戦後日本も、国家のアイデンティティ確立のために、日本文化の特殊性・固有性を主張するしかなく、歴史学がその証明のために動員されたからであった。戦後歴史学は根本的に皇国史観を超えることはなく戦前期歴史学と連続しており、その中では、実証的・反戦的と理解されていて日本孤立論を採る津田史学とのみ公然と接続することによって、戦前期歴史学との連続を図った。


 戦後歴史学が津田史学とのみ・・・との最後の辺りには疑問もあるが、戦後歴史学においても日本の孤立性が強調されてきたことを考えると、一定の妥当性は認めてもよいのかもしれない。皇国史観形成の過程については、上手く題材を選択して纏めており、なかなか分かりやすく説得力があると思う。皇国史観が過去の問題ではないことや、日本の新たなるアイデンティティの確立など、現在の重要問題へと上手く繋がる内容となっており、歴史を学ぶ本来の意義を再確認させてくれる本だと思う。戦後になって反動化したと非難された津田左右吉についても、やはり井上光貞氏や今谷明氏が仰るように、戦前戦後を通じてその主張が首尾一貫していることを確認できたことも収穫であった。

 うーん、殆ど要約になってしまったか・・・。



『邪馬台国と「鉄の道」』

 歴史新書の一冊として、洋泉社から2011年4月に刊行されました。小路田氏の著書では、邪馬台国論争を手掛かりとして、近代日本におけるナショナリズムと歴史認識の問題を論じた『「邪馬台国」と日本人』が面白く、上述しました。

 本書は、その『「邪馬台国」と日本人』において、邪馬台国が畿内にあろうと九州にあろうとどちらでもよい、と軽率に述べてしまったことへの反省が執筆動機とのことで、期待して読み始めたのですが、正直なところ、かなり困惑させられる内容でした。一般にもよく知られている『日本書紀』や『古事記』や「正史」などの史書のみならず、地名や神社の由来などの伝承を大いに活用することで、古代の流通と社会を復元し、日本古代史像を見直す、という意欲的な試みではあるのですが、本書の最後に、「ただし展開したのはどこまでも仮説なので、実証的でないといわれればそこまでだ」と述べられているように、専門分野ではないにしても、歴史学の研究者が一般向けに執筆した歴史本としては、かなり問題があるように思います。

 それは、神武など実在を疑う見解が主流と言ってよい人物の実在を主張しているからではなく、封建制という概念について、しっかりと定義されているわけではなく、通時的に用いていることや、地名や慣習や神社の伝承などがいつからのものなのか、詳しく言及されるわけでもなく、漠然と古くからあるかのような前提で議論が展開されているように思われるからです。つまり、その時代の概念・価値観・名称に基づく議論かどうか怪しく、超歴史的というか、あまりにも長期間にわたる一貫性を前提とした主張になっているのではないか、との疑問が残ります。古代と近代とをあまりにも異質な世界として認識することへの疑問など、本書の主張には考えさせられるものが多いとは思いますが、まだ方向性が漠然と示された段階で、検証・議論が大いに必要なのでしょう。

12万年前頃のネアンデルタール人の核DNA解析(追記有)

 12万年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の核DNA解析に関する研究(Peyrégne et al., 2019)が報道されました。ネアンデルタール人の早期の形態学的証拠は、頭蓋(関連記事)と頭蓋以外(関連記事)において、43万年前頃と推定されているスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)のホモ属集団で得られています。SH集団は、核DNAでもネアンデルタール人との近縁性が確認されています(関連記事)。ただ、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、SH集団はネアンデルタール人や現生人類(Homo sapiens)よりもデニソワ人と近縁です(関連記事)。

 イベリア半島南部は例外かもしれませんが(関連記事)、ネアンデルタール人は4万年前頃までにほぼ絶滅した、と考えられています(関連記事)。最近の研究では、ヨーロッパからアジア中央部までのネアンデルタール人は単一集団に属し、その最終共通祖先の年代は97000年前頃と推定されています(関連記事)。4万年前頃に絶滅したネアンデルタール人は、この集団と考えられます。この集団は、高品質なゲノム配列の得られている、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)の5万年前頃のネアンデルタール人個体(関連記事)に代表されます。ここでは、西方(ヨーロッパ)系としておきます。一方、同じく高品質なゲノム配列の得られている南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)でも、130000~90900年前頃(関連記事)のネアンデルタール人の個体が確認されており(関連記事)、ここでは東方(アルタイ)系としておきます。

 デニソワ洞窟では、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人の、118100~79300年前頃の交雑第一世代個体が発見されています(関連記事)。その母親は遺伝的に、同じデニソワ洞窟の東方系個体よりも、ずっと後のクロアチアの西方系の方と類似していました。これは、アルタイ地域のネアンデルタール人集団において、13万~8万年前頃に東方系の少なくとも一部が西方系に置換された可能性を示唆します。ただ、西方系と東方系が一時的に共存した場合も想定されます。東方系と西方系の分岐は、145000~130000年前頃と推定されています。

 こうした東西系統間の置換も想定されるネアンデルタール人集団の人口史を解明するには、ヨーロッパの早期ネアンデルタール人のゲノム配列が必要となりますが、これまで10万年以上前のものは、SH集団を例外として得られていませんでした。本論文は、ヨーロッパの12万年前頃のネアンデルタール人2個体のゲノムを配列しました。一方は、すでにmtDNAが解析されていた、ドイツ南西部のホーレンシュタイン-シュターデル(Hohlenstein–Stadel)洞窟(以下HSTと省略)で発見された大腿骨化石です(関連記事)。HST個体は、mtDNA系統では他のネアンデルタール人系統と最も早期に(27万年前頃、316000~219000年前)分岐した、と推定されています。年代は、mtDNA解析から124000年前頃(183000~62000年前頃)と推定されています。もう一方は、ベルギーのスクラディナ洞窟(Scladina Cave)で発見された上顎骨で、年代は、ウランとトリウムの同位体比では127000年前頃(173000~95000年前頃)、mtDNA解析では12万年前頃(168000~76000年前頃)と推定されています。

 mtDNA解析に基づくネアンデルタール人集団の系統樹では、まずHST個体が他の個体群と分岐します。次に、アルタイ地域のデニソワ洞窟の個体(東方系)がヨーロッパの個体群(西方系)と分岐します。上述のようにHST個体のmtDNAはすでに解析されており、本論文でも同様の結果が得られました。スクラディナ個体のmtDNAは、デニソワ洞窟の個体とクレード(単系統群)を構成します。つまり、mtDNAに基づくネアンデルタール人の系統樹では、HST個体が「孤立系統」、スクラディナ個体が東方系に分類され、ともに西方(ヨーロッパ)系とは異なる、というわけです。

 HST個体もスクラディナ個体も、年代が12万年前頃と古く、発見後数十年間に多くの人に触れているため、ゲノム規模解析に充分なDNA量を入手することは困難でした。核DNAは、HST個体で1憶6800万塩基対、スクラディナ個体で7800万塩基対の配列が得られました。ゲノムデータでは、HST個体は男性、スクラディナ個体は女性と推定され、形態学的評価と一致します。これら2個体のゲノム配列は、高品質なゲノム配列が得られている、アルタイ地域のデニソワ洞窟のネアンデルタール人個体およびクロアチアのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人と比較されました。その結果、HST個体もスクラディナ個体も、東方系よりも西方系の方と密接に関連していました。本論文は、HST個体とスクラディナ個体を西方系の祖先系統と分類し、西方系ネアンデルタール人集団はヨーロッパにおいて遅くとも12万年前頃には確立していた、との見解を提示しています。ヨーロッパにおいては、8万年以上にわたるネアンデルタール人の遺伝的継続性があっただろう、というわけです。

 問題となるのは、核DNAではHST個体もスクラディナ個体も西方系なのに、mtDNAでは両者とも西方系には分類されないことです。この不整合について本論文は、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換との関連を指摘しています。ネアンデルタール人系統と現生人類系統との推定分岐年代は、mtDNAでは468000~360000年前頃(関連記事)、核DNAでは63万~52万年前頃(関連記事)です。本論文では採用されていませんが、両系統の分岐を25920世代前(751690年前頃)と推定する見解もあります(関連記事)。この場合、mtDNAの分岐年代との違いがさらに大きくなります。

 上述のようにSH集団は、核DNAでもネアンデルタール人との近縁性が確認されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では、ネアンデルタール人や現生人類よりもデニソワ人と近縁です。本論文は、おそらく他の早期ネアンデルタール人もデニソワ人に近いmtDNAを有していただろう、と推測しています。一方、後期ネアンデルタール人は、デニソワ人よりも現生人類に近いmtDNAを有しています。つまり、ネアンデルタール人のmtDNAは本来デニソワ人と近縁で、核DNAとも系統関係は一致していたものの、後に現生人類の祖先系統もしくはその近縁系統との交雑により、デニソワ人よりも現生人類の方と近縁になった、というわけです。もちろん、これはまだ確定的ではなく、複数の見解が提示されています(関連記事)。

 本論文は、後期ネアンデルタール人のmtDNAは、現生人類の祖先系統もしくはその近縁系統との交雑によりもたらされた、との見解を前提に、HST個体とスクラディナ個体のmtDNAの由来を推測しています。以前のHST個体のmtDNA解析では、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は、遅くとも27万年前頃(316000~219000年前頃)に起きた、と推定されていました(関連記事)。本論文は、この置換のさいにネアンデルタール人系統にもたらされた多様なmtDNA系統のうちの一つが、HST個体のそれではないか、と推測しています。つまり、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は、27万年前頃よりも後だった、というわけです。

 この問題に関して本論文はもう一つ仮説を提示しています。それは、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAの置換は27万年前頃以前に起き、HST個体のmtDNA系統は、ネアンデルタール人集団における孤立系統を表しているのではないか、というものです。寒冷な海洋酸素同位体ステージ(MIS)6よりも前にHST系統は他のネアンデルタール人系統と分岐し、寒冷化により各ネアンデルタール人系統は孤立して進化し、温暖なMIS5に各系統が拡散して遭遇した結果、遺伝子流動が生じたかもしれない、というわけです。本論文は、そうした遭遇が、ヨーロッパ北部より温暖で待避所として適していただろう、中東またはヨーロッパ南部からの再植民の結果だった可能性を指摘しています。

 後期ホモ属の進化と相互作用は複雑だった、と私は考えています(関連記事)。ネアンデルタール人系統に限定しても、それは同様だったのでしょう。ネアンデルタール人系統でも、置換も含めて東方系と西方系との間の相互作用があったようですし、後期西方系に限定しても、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文で明らかになった、ネアンデルタール人系統におけるmtDNAと核DNAの系統樹の不整合も、まだ確定的な説明ができる状況ではありません。本論文は、ネアンデルタール人の人口史をさらに詳細に解明するには、さらに古いネアンデルタール人のDNA配列が必要になる、と指摘しています。この分野の近年における研究の進展は目覚ましいので、今後も新たな知見が次々と得られることでしょう。追いついていくことは困難ですが、できるだけ多くの研究を当ブログで取り上げていくつもりです。


参考文献:
Peyrégne S. et al.(2019): Nuclear DNA from two early Neandertals reveals 80,000 years of genetic continuity in Europe. Science Advances, 5, 6, eaaw5873.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw5873


追記(2019年6月28日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

動物の多細胞性の起源と多能性の継承

 動物の多細胞性の起源と多能性の継承に関する研究(Sogabe et al., 2019)が公表されました。多細胞動物の初期進化は、単細胞性の鞭毛虫類と、海綿動物の襟細胞との間に見られる形態的類似性に結びつけられてきました。この研究は、海綿動物の一種(Amphimedon queenslandica)において、3種類の異なる細胞タイプの単一細胞RNAを解析し、襟細胞はこれまで考えられていたほど襟鞭毛虫類とは似ておらず、原始細胞が、もっと複雑な多細胞生物に見られる多能性関連遺伝子を発現していることを見いだしました。原始細胞は海綿動物の他のさまざまな細胞タイプへ分化できると思われ、襟細胞はそのような細胞タイプの一つですが、原始細胞へと戻ることができます。この研究は、初期の多細胞生物は、似たような細胞が集まった単純な球体ではなく、はるかに精巧だった、とする新たな見方の必要性を示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:動物の多細胞性の起源と、多能性

進化学:多細胞性へのカギとなる可塑性

 多細胞動物の初期進化は、単細胞性の鞭毛虫類と、海綿動物の襟細胞との間に見られる形態的類似性に結び付けられてきた。今回B Degnanたちは、海綿動物の一種であるAmphimedon queenslandicaにおいて、3種類の異なる細胞タイプの単一細胞RNAを解析し、襟細胞はこれまで考えられていたほど襟鞭毛虫類とは似ておらず、原始細胞が、もっと複雑な多細胞生物に見られる多能性関連遺伝子を発現していることを見いだしている。原始細胞は海綿動物の他のさまざまな細胞タイプへ分化できると思われ、襟細胞はそのような細胞タイプの1つだが、原始細胞へと戻ることができる。この研究は、初期の多細胞生物は、似たような細胞が集まった単純な球体ではなく、はるかに精巧だった、とする新しい見方の必要性を示している。



参考文献:
Sogabe S. et al.(2019): Pluripotency and the origin of animal multicellularity. Nature, 570, 7762, 519–522.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1290-4

自然災害による世界の輸送インフラの被害額の評価

 自然災害による世界の輸送インフラの被害額の評価に関する研究(Koks et al., 2019)が公表されました。この研究は、世界の道路および鉄道の資産データとハザードマップを用いて、世界の輸送インフラが、熱帯性低気圧、地震、陸面氾濫による洪水、河川の氾濫による洪水、沿岸洪水などの自然災害にどれほど曝されており、これらの自然災害がどれほど大きなリスクとなっているのか、算出しました。その結果、世界の輸送インフラの約27%が一つ以上の自然災害に遭遇しており、全球の年間被害予想額は31億~220億ドル(約3400億円~2兆4200億円)に及ぶ可能性がある、と明らかになりました。

 また、この研究は、こうした自然災害に対してとくに脆弱なのが、パプアニューギニアなどの小島嶼開発途上国の輸送インフラであることも明らかにしました。被害額の絶対値が最も大きかったのは、中国や日本などの高所得国でしたが、リスクのGDP比は、ジョージアやミャンマーなどの中所得国の方が大きいことも明らかになりました。この研究は、各国が交通計画を立てるさいに、リスク情報を評価に組み込んで改善を図ることが重要と主張しています。これは、自然災害による損害を防止するための主要な改善に目標を絞り込むことで、すべての交通資産に対する予算の支出額を最小限に抑えるのに役立つ可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【環境】自然災害によって世界の輸送インフラに生じた被害額の評価

 自然災害によって世界の道路インフラと鉄道インフラに生じた損害の年間被害額の平均値が、約146億米ドル(約1兆6000億円)に達する可能性があることを明らかにした論文が、今週掲載される。今回行われたモデリング研究では、この損害の約73%は、極端な降雨によって引き起こされた地表水と河川の氾濫によることが示唆されている。

 今回、Elco Koksたちの研究グループは、世界の道路と鉄道の資産データと、ハザードマップを使って、世界の輸送インフラが、熱帯性低気圧、地震、陸面氾濫による洪水、河川の氾濫による洪水、沿岸洪水などの自然災害にどれほどさらされており、これらの自然災害がどれほど大きなリスクとなっているかを算出した。その結果、世界の輸送インフラの約27%が、1つ以上の自然災害に遭遇しており、全球の年間被害予想額が31億~220億ドル(約3400億円~2兆4200億円)に及ぶ可能性のあることが判明した。またKoksたちは、こうした自然災害に対して特に脆弱なのが、パプアニューギニアなどの小島嶼開発途上国の輸送インフラであることを明らかにした。被害額の絶対値が最も大きかったのは、中国や日本などの高所得国であったが、リスクのGDP比は、ジョージアやミャンマーなどの中所得国の方が大きかった。

 Koksたちは、各国が交通計画を行う際にリスク情報を評価に組み込んで改善を図ることが重要だと主張している。これは、自然災害による損害を防止するための主要な改善に目標を絞り込むことで、全ての交通資産に対する予算の支出額を最小限に抑えるのに役立つ可能性がある。



参考文献:
Koks EE. et al.(2019): A global multi-hazard risk analysis of road and railway infrastructure assets. Nature Communications, 10, 2677.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10442-3

マウスの骨からウランを除去する化合物

 マウスの骨からウランを除去する化合物に関する研究(Wang et al., 2019)が公表されました。ウランは原子力発電にとって重要な資源ですが、放射性毒性と化学毒性のために健康へのリスクがあります。被曝後にウランの約2/3は腎臓を介して体外に除去されますが、残りは腎臓と骨に留まり、腎臓の損傷や骨欠損および癌のリスク増加を引き起こす可能性があります。体内に吸収されたウランの除去は、キレート剤と呼ばれる分子を使用すると実現可能ですが、既存の製剤は骨からウランを効率的に除去できず、毒性が高いものもあります。

 この研究は、既存のヒドロキシピリジノンを基にしたキレート剤を改良し、骨中のウラン錯体との親和性が向上したキレート剤を作製しました。この研究は、作製されたキレート剤がマウスの腎臓と骨からウランを効率的に除去でき、他のキレート剤と比較して毒性が低いことを実証し、さらに、この化合物を経口投与した場合にも有効性が維持されることを明らかにしました。これは、この研究で作製されたキレート剤がウランに被曝したヒトに使用できる薬剤として有望視される可能性を示唆していますが、今後さらなる試験の必要がある、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【医学研究】マウスの骨からウランを除去する化合物

 放射性元素のウランに被曝したマウスの骨と腎臓からウランを除去できる化学薬品について報告する論文が、今週掲載される。この結果は、この化合物がウランに被曝したヒトに使用できる薬剤として有望視される可能性を示唆しているが、今後さらなる試験を行う必要がある。

 ウランは原子力発電にとって重要な資源だが、放射性毒性と化学毒性のために健康へのリスクがある。被曝後にウランの約2/3は腎臓を介して体外に除去されるが、残りは腎臓と骨に残存し、腎臓の損傷や骨欠損とがんのリスク増加を引き起こす可能性がある。体内に吸収されたウランの除去は、キレート剤と呼ばれる分子を使用すると実現可能だが、既存の製剤は、骨からウランを効率的に除去できず、毒性が高いものもある。

 今回、Shuao Wangたちの研究グループは、既存のヒドロキシピリジノンを基にしたキレート剤を改良して、骨中のウラン錯体との親和性が向上したキレート剤を作製した。Wangたちは、このキレート剤がマウスの腎臓と骨からウランを効率的に除去でき、他のキレート剤と比較して毒性が低いことを実証し、さらに、この化合物を経口投与した場合にも有効性が維持されることを明らかにした。



参考文献:
Wang X. et al.(2019): A 3,2-Hydroxypyridinone-based Decorporation Agent that Removes Uranium from Bones In Vivo. Nature Communications, 10, 2570.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10276-z

ファミリー劇場HDリマスター版『太陽にほえろ!』61話・63話~67話

61話「別れは白いハンカチで」5
 麻薬捜査官である村岡房江の再登場となります。ボスと村岡との会話で、マカロニに言及されていたのは、マカロニの死を改めて思い知らされたという点で、寂しさもありました。話の方は村岡房江シリーズの定番で、村岡を麻薬捜査官と知らない若手刑事が村岡を不審に思いつつ関わりを持ち、村岡が自分の捜査を犠牲にしても危機に陥った若手刑事を救う、という展開です。まあ、村岡はたまにしか登場しないので、見飽きるというほどではありませんが。マカロニ・ジーパン・テキサス・ボンと、歴代の若手刑事の教育係的役割を担った村岡ですが、ロッキー以降は登場しませんでした。正直なところ、鮫島勘五郎とは異なり、そこまで楽しみなセミレギュラーではないのですが、やや残念ではあります。


63話「大都会の追跡」8
 出所してすぐに単独で銀行強盗事を起こした男性と、かつての恋人で現在は別人の妻となっている女性との関係を中心に話が展開します。安定して幸せな生活を捨ててまで、犯罪者である過去の恋人と駆け落ちしようとする女性の覚悟はなかなか見ごたえがありました。男性の方はもう結婚したかつての恋人を忘れているのではないか、女性は馬鹿な選択をした、と若いジーパンが疑問を抱くのにたいして、山さんはもう若くはない男性の情念と男女の機微を説きます。山さんに限らず、ボスや長さんは、ジーパンにとって刑事としてだけではなく、人生の師にもなっている、ということなのでしょう。一係と逃亡を企てる男女との駆け引きに暴力団も絡んできて、緊張感が持続してなかなか楽しめました。青春ドラマ的性格の強い初期ですが、今回は大人向けの話といった感じです。多様な話があったことは、本作の人気と長期放送を支えていたように思います。


64話「子供の宝・大人の夢」7
 玩具会社をめぐる陰謀が描かれます。当初は製品事故を起こしたとして世論から糾弾された会社が実は被害側で、かつて会社創業時にその社長の共同経営者だった男性が、自らの利益のために陰謀を企てていた、という話です。陰謀に巻き込まれた玩具会社の社長は大人物といった感じで、ボスはこの社長を信じられると言って、捜査を進めます。この玩具会社の社長を演じたのは千秋実氏で、視聴者からまだ確たる支持を得ていない、との懸念もあったからなのか、初期は後期と比較して、今回のように大物ゲストの出演が多いように思います。久美ちゃんが珍しく捜査に直接深く関わったという点でも楽しめました。


65話「マカロニを殺したやつ」10
 ジーパン登場から3ヶ月近く経過しましたが、マカロニ殺害犯はこの時点ではまだ逮捕されていませんでした。今回はマカロニ殉職(関連記事)の後日譚ですが、山さんの執念、一係の刑事たちの仲間への強い想い、序盤に登場したチンピラが終盤で重要な役割を担ったこと、マカロニを知らないジーパンの疎外感と長さんの叱咤激励、マカロニ殺害犯が偶然殺されてしまったという苦い結末と、その場に到着した山さんの激昂など、話の構造もたいへんよくできており、殉職刑事の後日譚としては文句なしに最高だと思います。マカロニ殺害犯についてとくに描かれる予定はなかったものの、視聴者の要望により制作された、との話をどこかで読んだ記憶がありますが、私も本放送時に視聴していたら、解決編を制作してほしい、と強く願ったことでしょう。


66話「生きかえった白骨美人」7
 女性を連続して絞殺した犯人が逮捕されますが、真犯人は自分だと、田口という52歳の男性が自首してきます。ジーパンは真面目に男性を取り調べますが、山さんやゴリさんには、田口がよく真犯人だと偽って自首してくることを知っていました。田口は、3年前に可愛がっていた娘が失踪してからおかしくなって記憶喪失となり、若い女性の死体が発見されるたびに、犯人だと自首するようになりました。そんな中、3年ほど前に殺された女性の白骨化した身元不明の遺体が発見されます。今回は、この遺骸から生前の姿を復元した科学警察研究所技師の川上という女性が、重要人物として登場します。一係と川上のやり取りは喜劇調で、なかなか楽しめました。発見された女性遺骸の身元が田口の娘とすぐ明らかになり、有力容疑者もすぐに分かりましたが、一係が捜査を進めていく過程と容疑者に仕掛けた罠はなかなか面白くなっていました。久美ちゃんが目立っていたことも、ボスが最後に命の尊さを田口に説いた場面もよかった、と思います。


67話「オリの中の刑事」10
 鮫島勘五郎シリーズの第2回となります。今回は、友人の妻の毒殺未遂容疑で殿下が逮捕され、一係と鮫島が殿下の容疑を晴らしていくという話となります。鮫島が城北署の方針と殿下への恩義との間で苦しむ描写は、見ごたえがありました。一係の刑事が容疑者になる、という話は他にもありますが、さすがにそうはないので、新鮮さはあります。こうした苦難に遭う刑事として、殿下は適任だと思います。この頃には各刑事のキャラが固まってきたということでもあるのでしょう。話の方は、夫婦・友人関係の機微が描かれ、謎解き要素もあってなかなか楽しめました。鮫島勘五郎シリーズで殿下が主演だったのは最初の2回だけなのですが、鮫島と殿下の間に深い信頼関係が築かれたことに納得できるような話になっていたと思います。これ以降も、鮫島が殿下を信頼しているような場面が描かれ、長期シリーズの長所が上手く活かされているな、とたびたび思ったものです。


 これで、欠番を除いて、PART2も含めた『太陽にほえろ!』全話の感想を当ブログで述べたことになります。ファミリー劇場ではジーパン編の再放送が続くので、今後も視聴していきます。再視聴時に以前とは違った感想を抱くことも珍しくないので、大きく変わったものがあれば、当ブログで取り上げるかもしれませんが、当分は、『太陽にほえろ!』に関する記事を掲載することはなさそうです。

3000年前から「石器」を製作していたヒゲオマキザル(追記有)

 ヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)の「石器製作」が3000年前までさかのぼることを報告した研究(Falótico et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。サルやチンパンジーやラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られています。しかしこれまでのところ、ヒトを除く動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけでした。ヒゲオマキザルに関してはすでに、意図的に石を壊し、断片化されて端の鋭い剥片と石核を意図せず繰り返し「作り」、その剥片と石核が意図的に生産された人類の石器に見られる特徴と形態を有している、と報告されています(関連記事)。

 本論文は、ブラジルのセラ・ダ・カピバラ国立公園(Serra da Capivara National Park)で、ヒゲオマキザルが過去3000年(約450世代)にわたって、「石器」を用いて木の実を割っていた痕跡を報告しています。また、ヒゲオマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆されました。3000~2400年前頃には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な「石器」を使用していました。2400~300年前までは、ヒゲオマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石を使用していた。300年前~現在では、再びわずかに小型の「石器」を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係しています。

 本論文は、使われる石の変化について複数の説明が考えられる、と指摘しています。たとえば、ヒゲオマキザルの群れにより使う「石器」が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの「石器」が必要であった可能性です。ヒゲオマキザルの3000年にわたる「石器」の使用には変化が見られ、そうした事例は人類系統を除くと初めてになる、と本論文は指摘します。人類系統の石器製作も、かなり深い進化的基盤に依拠しており、とくに高度に発達したものと言えるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


オマキザルは3000年前から石器を製作していた

 野生のヒゲオマキザル(Sapajus libidinosus)が3000年以上前から石器を製作しており、その技法が時と共に変化してきたことを示唆する論文が、今週掲載される。

 サルやチンパンジー、ラッコは、いずれも野生で石を使って木の実や貝の殻を割ることが知られている。しかしこれまでのところ、ヒト以外の動物で考古学的記録が知られているのはチンパンジーだけだった。

 今回Tomos Proffittたちは、ブラジルでオマキザルの考古学的遺跡を発掘した。現在、そこではサルが石を使ってカシューナッツの殻を割っている。放射性炭素年代測定と石器の分析の結果、オマキザルは3000年(すなわち450世代)にわたり、石を使って木の実を割ってきた可能性が明らかになった。また、オマキザルが時と共にその方法を変化させてきたことも示唆された。3000年の歴史を持つこの遺跡の最初期には、オマキザルは現在よりも小型で軽量な石器を使用していた。2500~300年前までは、オマキザルは食物を加工処理するために、より大きくて重い石器を使用していた。そして最近では再びわずかに小型の石器を使用するようになり、これは現在のカシューナッツ割りと関係している。

 Proffittたちは、使われる石器の変化を説明する仮説が複数考えられ、オマキザルの群れによって使う石器が異なっていた可能性や、カシューナッツがより多く得られるようになる以前は、異なる食物の加工処理に異なるサイズの石器が必要であった可能性があることを示唆している。



参考文献:
Falótico T. et al.(2019): Three thousand years of wild capuchin stone tool use. Nature Ecology & Evolution, 3, 7, 1034–1038.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0904-4


追記(2019年6月27日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

山岡拓也「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P105-112)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、アジア南東部の更新世の考古学的研究を整理しています。

 アジア南東部の4万年前以前の人類の痕跡については、ベトナム北部のソンヴィ石器群やインドネシア領フローレス島のマタメンゲ遺跡など複数報告されており、いずれも礫石器と剥片石器を共に含む石器群です。いくつかの遺跡や石器群の年代は100万年以上前と報告されていますが、すべての遺跡や石器群でしっかりとした年代的根拠が得られているわけではなかった、と指摘されています。そうした中で近年、ベトナム中部のザライ省では、複数の遺跡で両面調整石器を含む石器群が発見されています。石器群の中にはテクタイト製の石器も含まれており、石器群の特徴とテクタイトの年代から70~90万年前と推定されています。スラウェシ島のタレプ(Talepu)遺跡では20万~10万年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。ルソン島北部では777000~631000年前頃の石器群が発見されています(関連記事)。

 本論文はおもに20万~2万年前頃のアジア南東部を対象にしていますが、年代的な根拠が得られており、石器群の内容について分かる遺跡はさほど多くない、と指摘します。マレーシアのレンゴン渓谷のコタタンパンでは石器群は74000年以上前と推定されています。フローレス島では、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)の遺骸が10万~6万年前頃、フロレシエンシスと関連する石器が19万~5万年前頃と推定されています(関連記事)。マレーシアのレンゴン渓谷のブーキットブヌでは出土した石器の一部の年代は、183万年前頃までさかのぼる、と推定されています。ただ、石器を包含する層序の堆積物に関しては、4万年前頃と推定されています。石器の石材には珪岩・水晶・チャート・燧石・スエバイトなどが利用されており、様々な礫器に加えて大型の両面調整の握斧(handaxes)も出土しており、石器群の内容は4万年前以前の石器群と共通します。コタタンパン遺跡ではおもに珪岩の河川礫が利用されており、石器群にはチョッパーやチョッピング・トゥールやピックなどの礫石器とともに、錐状の石器や大形のスクレイパーなどの剥片石器が含まれています。レンゴン渓谷の遺跡では礫石器が数多く出土している一方で、リアンブアから出土した4万年前以前の石器群は、おもに剥片石器で構成されており、礫石器はほとんど確認されていません。フリーハンド・樋状剥離・折断剥離・両極剥離の4つの剥離技術が復元され、二次加工のある剥片石器や二次加工が加えられていない小形の剥片が使用された、と想定されています。

 アジア南東部の更新世の遺跡は、4万年前以前とそれ以降では立地に大きな違いがあります。4万年前以前の遺跡はおもに河岸段丘上に残されていたのに対して、4万年前以降は洞穴内に残されるようになります。ここから、石器利用を含む行動体系がかなり変化した、と推定されています。また4万年前以降には、アジア南東部でも大陸部と島嶼部で、石器群に異なる特徴が見られるようになります。大陸部では石器群に礫石器が含まれるのに対して、島嶼部の石器群には礫石器はほとんど含まれず、剥片石器のみから構成されます。

 ベトナム北部では、片面加工の礫石器であるスマトラリス等で特徴づけられるホアビニアン(Hòabìnhian)・インダストリーが更新世までさかのぼります。そのうちソムチャイ洞穴やディウ岩陰の年代は2万年前近くまでさかのぼります。ディウ岩陰とソムチャイ洞穴では刃部磨製石斧も出土しており、1万8千年前までさかのぼると推定されています。また、ングォム洞穴では剥片石器を主に含む石器群が発見されており、年代は2万年前以上と推定されています。タイでも複数の遺跡でホアビニアン・インダストリーが更新世にまでさかのぼり、タムロッド洞穴・ランカムナン洞穴・モーキウ洞穴などの年代は2万年以上前と推定されています。またランロンリンエン洞穴においては、完新世の層序ではホアビニアン・インダストリーと呼べる石器群が出土しているものの、放射性炭素年代測定法で37000~27110年前と推定されている更新世の層序では、チョッパーやスクレイパーなどから構成される、ホアビニアン・インダストリーとは異なる石器群が出土しています。ボルネオ島のニア洞穴では、多くの年代測定値が公表され、年代は確実に4万年以上前となります。石器群には礫石器がかなり多く含まれ、その中には斧形石器も含まれるため、ホアビニアン・インダストリーとほぼ同じ内容と指摘されています。ベトナム北部ではその他にハンチョー洞穴で、2万年前頃までさかのぼるホアビニアン・インダストリーが確認されており、斧形石器も含まれていると報告されています。ホアビニアン・インダストリーが出土した層序よりさらに下層からも剥片1点と焼けた動物骨が出土しており、年代は3万年前頃です。ングォム洞穴では、出土した石器の内容が比較的詳しく報告されており、23000±200年前となる最古の文化層からは、掻器・削器・鋸歯縁石器などの剥片石器や斧形石器とみられる石器も出土しています。

 このようにホアビニアン・インダストリーの年代は、少なくとも2万年前までさかのぼります。近年、中国南西部では43500年前頃のホアビニアン・インダストリーが確認されています。そのため、ベトナムやタイなどのホアビニアン・インダストリーの年代もさらにさかのぼるのではないか、と予想されています。本論文は、アジア南東部大陸部の4万年前以前と4万年前以降の更新世石器群の違いの一つとして、スマトラリスのような定形的な斧形石器が含まれるか否かを挙げています。

 アジア南東部島嶼部で4万~2万年前頃の石器群が出土した遺跡としては、パラワン島のタボン洞穴、ジャワ島のケプレック洞穴とブラホロ洞穴、スラウェシ島のリアンブルン2、タラウド諸島のサリバブ島のリアンサル、ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴、アロール諸島のアロール島のリアンルンドゥブなどが報告されており、これらの遺跡からは削器・抉入石器・鋸歯縁石器などの剥片石器を含む石器群が出土しています。これらの他にも、多くの4万年前以降の更新世遺跡が発掘されていますが、近年ではいくつかの遺跡でより詳しく石器群の内容が報告されています。東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)では、2つのグリッド(Square AとSuare B)から出土した石器について報告されています(関連記事)。その中では、折断剥離・両極剥離に加えて、単設打面や両設打面の剥離、打面転異を繰り返す剥離など様々な剥離技術が示されるとともに、打面調整を行う求心的な剥離のほか、「両側縁が並行するか先細る形状で、1本かそれ以上の縦長の稜が認められる4cm以上の長さの縦長剥片」という定義の「細石刃」が石器群に含まれている、と示されています。ただ、こうした「細石刃」を剥離したことが認められる石核は出土していないようです。ジェリマライの最も古い文化期の較正年代は42000~35000年前ですが、その時期でもこれらの剥離技術のすべてが確認されています。また、石器群には石核石器はほとんど含まれていないようで、錐状の石器や剥片の端部や側縁に二次加工が施された様々なスクレイパー・鋸歯縁石器・抉入石器などの剥片石器から構成されています。こうした石器は最古の文化期でも確認されています。ジェリマライでの剥片剥離や二次加工のあり方は、フローレス島のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡の石器群と類似している、と指摘されています。

 タラウド諸島のリアンサルでは、C3グリッドから出土した石器群について報告されています。この石器群では特徴的な横長剥片の剥離技術が認められ、錐状の石器・スクレイパー・抉入石器などの剥片石器で構成されています。抉入石器の中にはひじょうに大きな1枚の剥離面で抉りが作出されているものもあり、二次加工技術として注目されています。較正年代で35000~32000年前となる3層と較正年代で21000~18000年前となる2B層が更新世の層序となりますが、二次加工のある剥片石器の比率は上層の完新世の層序と比較して少なく、抉入石器は3層からは出土しておらず2B層から5点出土しています。リアンサルでは被熱した石器が多く出土していることから、剥離しやすくするために加熱処理をしている可能性が指摘されています。リアンサルと比較的近接するスラウェシ島のリアンサカパオ1でも、31000~25000年前の層序から出土した石器群について報告されています。ここでも他の二次加工のある剥片石器に加えて、ひじょうに大きな一枚の剥離面からなる抉入石器が出土しています。また、多くの石器で被熱した痕跡が認められているものの、剥離しやすくするための加熱処理の証拠はなく、埋没後に偶発的に炉などの火で熱せられたのではないか、と推定されています。

 アジア南東部島嶼部で4万年前以上前の石器群の内容を把握できるのはリアンブアから出土した資料ですが、4万年前以降の石器群との違いは今のところ確認されていません。ただ、石器群の特徴が比較的詳しく記載されているジェリマライやリアンサルの事例を見ると、一般的に不定形な剥片石器が卓越する石器群と一括りに捉えられるアジア南東部島嶼部の石器群の中にも、剥離技術や剥片石器の種類などに違いがありそうで、必ずしも単純な石器群と一括して捉えられるわけではなさそうだ、と本論文は指摘しています。また本論文は、石器群の詳細な分析を蓄積することで、4万年前以前の石器群と4万年前以降の石器群との間に何らかの違いが見出されるように思われる、との見通しを提示しています。

 アジア南東部では、石器以外の更新世の人工遺物についても報告されています。ハルマヘラ諸島のモロタイ島のゴロ洞穴では32000~28000年前の層序から海棲の巻貝を素材とした打製の貝器が出土しており、素材の獲得から廃棄に至る製作-利用-廃棄の工程が復元されています。東ティモールのジェリマライでは、較正年代で23000~16000年前の層序から貝製釣針の欠損資料が出土しています。東ティモールのマヂャクル2では、較正年代で36500~34500年前の層序から欠損した銛先の基部とみられる骨器が出土しています。この骨器の長さは2cm弱、幅は1cm程で、両側に連続する刻みが入った側縁部と逆三角形状の端部から構成されています。両側縁の連続した刻みは着柄するための加工と推測されています。アフリカの中期石器時代のカタンダから出土した骨器に類似した資料があると指摘されており、これはアジア南東部における着柄に関わる最古の証拠とされています。

 象徴行動に関しても、近年、アジア南東部島嶼部で様々な証拠が得られています。東ティモールのレネハラでは、ウラン系列法により、方解石の層で挟まれた顔料の層の年代が29300~24000年前と明らかにされています。スラウェシ島南部の7遺跡では、ウラン系列法による洞窟二次生成物の年代測定の結果、更新世の洞窟壁画が明らかにされています(関連記事)。最古の手形の年代はリアンティンプセンの39900年前で、同遺跡では、バビルサ(シカイノシシ)が描かれた、35400年前となる最古の動物壁画も確認されています。近接するリアンサカパオ1に残されている洞窟壁画についても、文化層の年代や描かれているモチーフ(手形や動物)から、更新世に遡ると推定されています。東ティモールのジェリマライとマヂャクル2では更新世の海棲巻貝のビーズが出土しています。ジェリマライの方は較正年代で37000年前となります。ジェリマライでは較正年代で42000~38000年前となる層序から、加工痕があり顔料が付着したオウムガイの貝殻片も発見されています。スラウェシ島南部のリアンブルベトゥでは、較正年代で30000~22000年前となる層序から、クスクスの指骨製のペンダントやバビルサの下顎切歯製のビーズやその未製品が出土しています。また、利用されたオーカーや刻みの入った石器、顔料の付着した石器なども出土しています。このように、骨角器・顔料・ビーズ・ペンダント・壁画など、これまで「現代人的行動」と関わると把握されてきた遺物が、アジア南東部島嶼部で、近年多数発見されています。それに加えて貝製の道具や道具製作の痕跡も発見されており、こうした遺物は海域世界であるアジア南東部島嶼部ならではの道具資源利用と言えるかもしれない、と本論文は指摘しています。また、こうした人工遺物はおおむね4万年前以降に出現しており、それ以前の石器群には伴わないことが重要と思われる、と本論文は指摘しています。

 本論文はまとめとして、アジア南東部の考古学的研究を整理しています。これまでアジア南東部全域で様々な遺跡が発見され、発掘調査が行なわれてきたものの、発掘調査の成果全体を収録した報告書の刊行はきわめて稀で、ほとんどの場合、発掘調査や出土遺物の内容について個別の論文で発表されるそうです。出土した石器について個別の位置情報を記録し、出土した資料全点を提示することもほとんど行なわれていないそうです。そのため、代表的な石器と大まかな年代を把握できる、というのが一般的な状況だと本論文は指摘します。また、遺跡の発掘調査はトレンチやグリッド単位で行なわれているものの、他地域での遺跡調査と比較すると、発掘調査が行なわれている面積は比較的狭い印象を受ける、とも本論文は指摘します。また、いくつかの遺跡で出土資料について報告されていますが、遺跡全体でのデータを提示するというよりも、いくつかのグリッドから出土した資料について報告するといった事例が多いそうです。そのため、これまでに提示されている情報は他地域と比較して少ないようです。こうした現状から、これまでに各遺跡で得られている石器群の内容の詳細を記載していくことが必要な作業ではないか、と本論文は指摘します。

 本論文ではほとんど言及されていませんが、遺跡から出土する動植物遺存体の分析も進められており、熱帯雨林域や海域世界で初期現生人類(Homo sapiens)がどのように適応したのか、具体的な証拠が得られつつあります。アジア南東部は、先行して研究が進められてきたヨーロッパ・アジア南西部・アフリカとは異なる環境であるため、初期現生人類の柔軟な適応能力を示す証拠として注目され、オセアニアも含めた多くの遺跡で古環境や生業に関わる情報が蓄積されています。

 また本論文は、人工遺物の研究から技術や行動に関する具体的な情報を得ることが必要とも指摘しています。人工遺物の中で最も多く残されているのは石器なので、石器についてその種類や製作技術を詳細に記載することに加えて、石器の利用が自然環境への適応とどのように関わっていたのか、具体的に明らかにすることが求められている、というわけです。これまでに、間接的な証拠から、環境に適応するためのより複雑な技術や行動の存在が予測されてきました。ニア(Niah)洞穴では、動物遺存体の分析結果に基づき、投射具を用いた狩猟や植物製の罠を用いた狩猟が推定されていますし、アジア南東部島嶼部やオセアニアにおいて4万年前以降に遺跡が急増することは、初期現生人類が舟により渡海したことを示している、と把握されています。そうした複雑な技術や行動に関わる証拠を石器の研究から得ることで、研究がさらに発展するのではないか、というわけです。たとえば、アジア南東部の更新世では、二次加工の状態や形態から狩猟具の先端部として用いられたと考えられる石器は存在しないものの、パラワン島のイリ洞穴の更新世末の層序から出土した二次加工のない剥片に、衝撃剥離痕と着柄と関わる膠着材の残滓が残されている、と報告されています。そうした痕跡は、その石器が着柄されて狩猟具として用いられ、おそらく投射具とともに用いられていたことを示しています。本論文は、こうした痕跡が4万年前以降のより古い時期の更新世遺跡から出土した石器に認められるかどうか、検討する必要性を指摘しています。

 また一般的にアジア南東部では、初期現生人類は道具製作において植物資源に大きく依存していたと考えられており、より直接的な証拠を得るための努力が続けられてきました。近年、アジア南東部の伝統的な生活を送る集団の植物利用について調べ、伐採や加工といった植物利用に関わる作業を複製された石器を用いて行ない、複製された石器に残された痕跡と遺跡から出土した石器に残された痕跡を比較することで、植物加工技術に関わる具体的な手がかりを得ようとする研究が行なわれています。本論文が注目しているのは、石器が植物の加工に用いられたという証拠を探すだけでなく、具体的な作業内容を特定することで、植物利用に関わる複雑な技術の存在を明らかにしようとする試みです。一般的にアジア南東部の更新世の石器は単純な技術で製作されていると考えられていますが、その背後にあったはずの、初期現生人類の複雑な技術や行動に関する証拠を得るためには、使用痕分析を組み合わせた研究の進展が必要ではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
山岡拓也(2019)「東南アジアにおける旧石器時代の考古資料と研究の特徴」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P105-112

中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化および人類の拡散との関係

 中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化に関する研究(Stewart et al., 2019)が公表されました。鮮新世~更新世における移動・絶滅などの動物相の変化は、人類の拡散との関連で注目されてきました。しかし、高い関心が寄せられてきたのはアフリカ東部および北部とアジア南西部のレヴァントで、これらの近隣地域であるアラビア半島に関しては、おもに更新世の脊椎動物記録の不足のため、議論から除外される傾向にありました。

 アラビア半島内陸部は現在ではおおむね砂漠ですが、過去の湿潤な時期には草原が広がり、30万年以上前には人類も存在していました(関連記事)。そこで本論文は、蓄積されてきたアラビア半島の動物相記録を、近隣のアフリカ北部および東部、レヴァントも含むアジア南西部、アジア中央部南方、アジア南部の動物相記録と比較し、これらの地域の動物相の変化を検証し、人類の拡散との関連を論じています。検証対象とされた動物は、ウシ・カバ・サイ・ハイエナ・イノシシ・キリン・ラクダ・ゾウなどの哺乳類です。

 動物相記録からは、アフリカとユーラシアの間の動物の移動が、前期更新世となる120万~78万年前頃にはほとんどなかった、と示唆されます。ただ例外もあり、アフリカ起源の大型ヒヒ(Theropithecus oswaldi)が160万~100万年前頃にレヴァントとイタリアで確認されています。ユーラシアでは大型ハイエナ(Pachycrocuta brevirostris)が100万~90万年前頃に絶滅しており、アフリカ起源のブチハイエナ(Crocuta crocuta)の増加による競合が原因かもしれません。

 中期更新世は78万年前頃に始まります。これ以降、顕著な乾燥や草原拡大といったように気候変動が激化していきます。中期~後期更新世におけるアフリカとユーラシアの動物相の最も顕著な変化は、60万~40万年前頃に起きました。この時期にサハラ砂漠地域の乾燥化が進展したにも関わらず、アラビア半島には、ウシ科のアラビアオリックス(Oryx leucoryx)の祖先種のような在来系統だけではなく、ウシ科のエランド(Taurotragus oryx)やハーテビースト(Alcelaphus buselaphus)といったアフリカ起源の動物が出現し、動物が移動できるようなユーラシアとアフリカの間の経路は継続していたようです。

 その地理的位置から、アラビア半島にはユーラシアの他地域やアフリカ起源の動物が流入しました。中期~後期更新世にかけてのアラビア半島におけるアフリカ起源の動物の代表は、巨大な角を有するウシ科のペロロビス(Pelorovis)属です。アラビア半島内部への動物相の拡散は、ウシ科のオリックス(Oryx)属のような乾燥適応種を除けば、湿潤な時期と考えられます。したがって、その頃のアラビア半島はアフリカ東部の草原と類似した環境だったので、人類のアラビア半島への拡散は、顕著な行動学的および/または技術的革新を必要としなかっただろう、と本論文は推測しています。

 また本論文は、アラビア半島の気候が乾燥化していった時に、動物相が後退もしくは絶滅した可能性を提示しています。これは人類も同様だったのでしょう。後退に関して本論文は、より環境条件のよい高地が待避所となり、気候が回復した時に再度拡散したかもしれない、と推測しています。また本論文は、こうした気候変動が種分化をもたらした可能性を指摘しています。ただ本論文は、アラビア半島における化石記録がまだ不足している、と注意を喚起しています。中期~後期更新世のアラビア半島における動物相の変化の研究には、まだ進展の余地が多くある、と言えそうです。


参考文献:
Stewart M. et al.(2019): Middle and Late Pleistocene mammal fossils of Arabia and surrounding regions: Implications for biogeography and hominin dispersals. Quaternary International, 515, 12–29.
https://doi.org/10.1016/j.quaint.2017.11.052

仲田大人「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P125-132)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文は、初期後期旧石器(上部旧石器)群(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)の研究の現状を整理しています。本論文はまず、広い意味でのIUPの特徴を整理しています。

 IUPの定義およびその特徴は石刃製法です。もっとも広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることです。平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似しています。ただ、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります。また、石核小口面から小石刃を製作する彫器状石核を伴うこともあります。IUPは地中海東部においては、後期ムステリアン(Mousterian)の上層で前期オーリナシアン(Aurignacian)の下層に位置します。ヨーロッパ中部では中部旧石器時代後半と前期オーリナシアンの中間層に位置し、継続していくことはありません。シベリア・アルタイ地域ではムステリアンと上部旧石器時代前半(EUP)の間に位置づけられます。モンゴル北部では、IUPはプリズム式石刃技術を用いたEUPアセンブリッジに継続します。華北やモンゴル南部ではIUPの前後に石核・剝片石器群が残されます。較正年代では50000~35000年前頃の間に見られます。1ヶ所の遺跡において複数の年代値が得られている場合でも、最大で10000年の開きもあります。IUPには中部旧石器および上部旧石器に見られる石器型式が伴います。IUPに独特な二次加工石器はとくにレヴァント地域で発達しました。エミレー式尖頭器や基部を両面加工したルヴァロワ式尖頭器、平坦横打刻面をもつシャンフランです。また彫器状石核は、シベリアのアルタイ地域やモンゴルやトランスバイカル地域で組成されくます。IUPの石刃技術は多様で、特徴的なのは単方向または両方向の石刃石核です。アジア南西部ではこれらは時間的に連続し、後者がやや早くから現れます。非ルヴァロワ式のプリズム型石核や半周縁型石核の製作も石器群間で異なります。レヴァントのIUPにはビーズや骨角器やその他の「典型的」な上部旧石器的遺物があります。装飾品や骨角器は、トルコ・ブルガリア・シベリア・モンゴルの遺跡から報告されています。しかし、多くの遺跡ではそうした遺物を欠いています。ビーズと骨角器の有無ついては、保存状態によるものか、場所の機能か、または文化的実践の違いによるものかどうか、不明です。

 本論文はIUPの特徴を、石刃製法を主体的に有し、時に装飾品や有機製品などが伴う、と整理しています。こうした道具行動が突如として拡大し、それが各地の石器群シークエンスに侵入するかたちで把握されることは、IUPの担い手が現生人類(Homo sapiens)であることを強く示唆する、と本論文は指摘します。じっさいに、アジア南西部ではIUPに伴う現生人類遺骸が回収されています。しかし本論文は、IUPの石刃製法にはルヴァロワ式の石核技術によるものがあったり、中期的な二次加工石器も組成されたりと、中部旧石器期から上部旧石器への移行ないしは継続性を示す要素も見られることから、現生人類以外の人類が担い手であった可能性も否定しきれない、と指摘しています。

 IUPの理解において重要になるのは、イスラエルのボーカー・タクチット(Boker Tachtit、以下BT)遺跡です。BT遺跡では、両打面石核から単打面石刃石核への変化、つまりルヴァロワ式の収束石刃石核からいわゆる容積的(Volumetric)な石刃石核技術へ次第に変化していく様相が把握されました。BT遺跡第1層から第3層では両打面のルヴァロワ式石核と収束ルヴァロワ石片、さらにはレヴァントの「移行期」に特徴的なエミレー式尖頭器が伴うものの、よりあたらしい第4層においてはそうした組成の代わりに上部旧石器的な要素が主体になる、と指摘されました。そこから、移行期に相当するエミラン(Emiran)がいつ上部旧石器とみなされるのか、問題となりました。その後のトルコのユチャユズル(Üçağızlı)洞窟遺跡などの事例から、編年モデルが提示され、レヴァント地域一帯において上部旧石器的様相の石器群にはいずれもルヴァロワ式の石刃製法があること、遺跡によって組成差はあるものの、石器群の「地域化」が進行している状況を示す石器型式やシャンフランやエミレー式尖頭器やウンム・エル・トレル式尖頭器が見られるようになること、またレヴァントだけでなく、ヨーロッパ東部のボフニシアン(Bohunician)やアルタイのカラボム(Kara-Bom)などでもこれによく似た石刃製法や石器型式が見られることなどが指摘されました。こうした広義のIUPが提案された理由として、「エミラン」という用語は学史的に重要ではあるものの、その中にはエミランの特徴型式を有さない石器群も多いことと、エミランを「移行期」と呼ぶにしても、中部旧石器後半の石器群と上部旧石器のそれとの系統的な関係が充分に裏づけられていないことが挙げられ、中立的な把握としてのIUPという枠組みが提案されています。

 一方、IUPを広く把握するのではなく、インダストリーごとの変異に注目する見解もある、と本論文は指摘します。BT遺跡第1層・第2層の資料をエミランとして限定的に把握したり、両方向ルヴァロワ式の石核技術とエミレー式尖頭器をもつものを前期、単方向石刃石核とシャンフランやウンム・エル・トレル式尖頭器をもつ一群を後期として把握したりするような見解です。より細かくIUPを区分する見解では、レヴァントにはボーカリアン(Bokerian)、クサル・アキリアン(Ksar Akilian)といったレバノン山岳地帯に展開する集団と、イスラエルやパレスチナに生じたエミランの存在が提案されています。これらは単系的にではなく、地域や時間あるいは担い手さえも異なって現れ、現生人類の出アフリカに起因してレヴァント一帯で起きた「中部旧石器ルネッサンス」の産物ではないか、というわけです。このようにIUPの理解については、広汎な地理上に技術的にとてもよく似た石器群が分布しているという認識のもと、石器群をいったん包括的に把握する方向性が打ちだされる一方で、分布地理を広くとって見えてくる石器群の変異に注目し、エンティティの種類をとらえる立場も提出されている、と本論文は整理しています。

 IUPという用語は、BT遺跡第4層の石器群を基準としており、その範囲も当初はレヴァント地域を超えるものではありませんでした。しかし切子打面と硬質ハンマーによる直接打法と平坦石核という3点の技術的特徴を持つルヴァロワ的な石刃石核技術に加えて、上部旧石器的な石刃石核技術の組み合わせをもつ石器群をIUPと定義すれば、これに相当する石器群はレヴァント以外にも点々と分布している、と明らかになってきました。つまり、広汎な「文化現象」として理解されるようになったわけです。現在では、IUPの分布はレヴァントとヨーロッパ東部からアジア北東部にいたる広範な地域で確認されています。年代もおよそ47000年前から35000前で、1万年間以上の期間にわたって展開しました。しかし、IUP現象が世界各地で石器群シークエンスの一段階を必ずしも示さないことにとは注意すべきである、と本論文は指摘します。IUPは現時点で、ヨーロッパ中部以西および以北、ザグロスから南アジアにおいては類例が確認されていません。パキスタン北部のリウォトについてはその可能性が示唆されていますが、アジア南部について詳細は明らかではありません。また、考古層位の問題としても、IUPはレヴァントやヨーロッパでは中部旧石器群の上層かつ上部旧石器群の下層で見つかるものの、中国やモンゴルでは上部旧石器時代に通有の剥片石器群に上下を挟まれています。このように、各地の中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行は一様ではありません。IUPもそうしたいくつかある状況の一つといえるかもしれない、と本論文は指摘します。

 IUPが広範な地域に見られる理由について、本論文はやや詳しく検証しています。まず、じっさいに各地の様子をみていくと、地中海レヴァント、チェコモラビア、シベリア・アルタイ、および環バイカル/モンゴル北部といった複数のIUP遺跡を含んだ「ホットスポット」が見られます。表面的に同型のようであっても、技術的・型式的には均質ではないだろう、というわけです。硬質ハンマーによる打撃や調整打面や平坦作業面石核という一般的特性には、地域的な変異も多く備わっています。こうした変異の理由について、担い手の違いも考えられます。ただ、ユーラシア東部では化石の共伴事例がまだないため、IUPの担い手は不明です。考古学的には、中部旧石器と上部旧石器の「移行」(レヴァント)または「連続的な発達」(アルタイ)の要素として仮定できるかもしれない、と本論文は提案します。ただ、突如として在地石器群の伝統のなかに入りこんでくる場合(ヨーロッパ中部および東部)もあれば、独自の技術や石器型式を作りだしてもいる場合(レヴァントやユーラシア東部)もあります。またIUPで準備した石刃技術を継続しない石器群もあります(水洞溝遺跡)。

 このように、IUPとはいっても地域間の違いは見られるわけですが、共通要素が広範な地域で見られることは否定できません。これについて、文化史的視点(伝播や移住)や適応論的な視点(行動選択)、つまり人類の移動の結果なのか、それとも各地で独自に開発されたのか、という問題が提起されています。本論文は、近年大きく進展した古代DNA研究が、この問題の解明に役立つ可能性を指摘しています。また、生物進化のみではなくそれに応じてヒトの文化も進化する「二重遺伝モデル」の発展により、文化的行動が集団内でどのように蓄積されるのか、または集団間で伝達されるのか、理論モデルも提示されています。

 生物系統学や分岐学から持ちこまれた見方を援用して、広範な地域のIUP現象についてのモデルが提示されています。これに関しては、3通りの仮説があります。最初は、広く分布しているIUP集団の少なくとも一部は、ユーラシアを横断する現生人類の初期の拡散経路を追跡している、という見解です。互いに離れた場所の石器群における類似はIUPが相同形質(homologous)を有していることになり、この場合、祖先集団が地理的に拡散する中でもたらされた文化的形質を継承してきた結果とみなされます。ただ本論文は、担い手が現生人類とは限らない、と注意を喚起しています。次は、石器群の分布は文化的アイデアの拡散を示すというもので、既存の集団ネットワークを伝って拡大していきます。この場合に共有される形質は相同性(homology)を示すことになります。アイデアや情報の伝播や拡散の背景には、じっさいの集団拡散というより遺伝子流入に類似したプロセスが想定されます。最後は、相互のIUPには文化的連続性はほとんどなく、観察される変異は、互いによく似た技術選択が各地域で独自に、なおかつ何度か繰り返されて収斂した結果とするもので、この場合、石器群間での類似は相似(homoplasy)を表すと理解されます。

 IUP現象に関しては、これら3モデルのどれが妥当なのか、まだ確定しておらず、これらのうちのいくつか、または全てが組み合わさっている可能性も指摘されています。重要なことは、相同か相似か、あるいは収斂進化か平行進化か、そのうちのどれかであると断定することではなく、まずは石器群の変異を明らかにし、それを評価するための適切なモデルを用意することだろう、と本論文は指摘します。IUPの変異を把握する場合、個別の石器型式よりも石器群を対象としての議論が望まれる、というわけです。石核技術などは水平伝達あるいは垂直伝達による知識や行動がともに観察できるからです。またモデルについては、仮想の系統樹作成の必要が指摘されていまする。最大節約法の系統樹は形質の有無とその変化率がわかっている場合はとくに有効で、その点で物質文化に応用しやすいのですが、考古学的アセンブリッジの系統関係や収斂進化について論じるのであれば、文化進化に特化した単純なモデルを構築するか、形質が徐々になおかつ垂直に伝達されるというモデルが必要になる、と本論文は指摘します。

 IUPに関してはユーラシア西部で検証が進んでおり、、(1)ルヴァロワ式石核や上部旧石器の石核技術を組み合わせて製作される石刃、とりわけ(2)縦長の尖頭石刃の製作、(3)石刃素材の二次加工石器として、端削器や彫刻刀型石器や裁断石器が新たに組成されるとともに、(4)中部旧石器的な側削器や鋸歯縁石器もよく見つかる、といった特徴が共通要素として指摘されています。同様の石器群はアジア北東部および東部にもありますが、それらをユーラシア西部と同じのものと把握できるのか、と問題提起されています。

 ユーラシア東部のIUPの傾向としては、まず石核技術に2モードあることが指摘されています。一つは、礫や板材を母材として石核整形や稜付石刃を割りとって石刃製作を進めていくものです。打面管理が一般的で、打面調整や頭部調整が加えられます。石核型式は単打面小口型石核、両打面平坦石核です。作業面が小口から幅広平坦面へ半周する石核も見られます。平坦石核はルヴァロワ式石核技術に類似するものの、典型的なそれではありません。最終形態の断面形は左右非対称になります。もう一つのモードは、石刃ないしは小石刃製作に関連するもので、彫刻器状石核が特徴です。素材は大型石刃製作のプロセスで得られた厚手石刃ないし剝片です。これら二つの石割り作業で目的剝片とされるのは尖頭石刃/小石刃や両側縁平行石刃や稜付き石刃です。それらが二次加工石器の素材とされ、上部旧石器的石器型式を組成するようになります。尖頭器や掻器が伴う一方で、真正な彫刻器や二次加工のある小石刃などは見当たらず、これにノッチや鋸歯縁石器が加わります。アルタイからモンゴル、さらには華北地域にかけて、ルヴァロワ式、あるいはそれに類似した平坦作業面石核が特徴的に見られます。非対称石核とルヴァロワ式石核の石核技術の組み合わせが見られるアルタイからモンゴル北部にかけての石器群は、相同的な関係のパッケージと指摘されています。一方で、モンゴル南部から華北の石器群においては今のところ彫刻器状石核がないか稀であることと、水洞溝ではルヴァロワ式石核技術こそみられるものの、それ以前の石器群は在地的な石核・剝片石器群ということもあり、石刃製作の進化的プロセスには不明な点が多く、アルタイ地域と相同とはみなせない、と指摘されています。

 石刃の分割方式に関しても、カラポムの大型石刃とその分割法の検証からは、石刃が意図的に分割された可能性も指摘されています。分割された石刃の破断面には、それらが台石上で打撃されたことを示すヘルツコーンや破断面両極に残る打撃点があり、曲げ折りや台石に石刃を直接打ちつけて分割したさいに生じる蝶番状剥離の痕跡が見られます。これらの分割片は、二次加工石器や彫刻器状石核の素材に変換されている、と指摘されています。同様の手法はモンゴルのトルボルやトルバガにおいても確認されています。これに関しては、同じく石刃分割片を多く回収している水洞溝遺跡の石刃が意図的に折断されたものではないか、と推測されています。水洞溝遺跡石器群に組み合わせ石器や複合石器の特徴があるのか、検証されましたが、観察所見(分割サイズ、破断面の打撃痕、着柄痕の有無)からは人為的意図は読みとれず、この分割は自然破損、すなわち剥離時の事故や踏みつけなどの結果だと指摘されています。数少ない比較資料ですが、シベリアおよびモンゴル北部と華北とでは、たとえ類似する表現形質であっても、重大な違いが潜んでいる可能性が示唆されます。水洞溝遺跡にかぎらず、アジア東部のIUPについては、いくつかの地域的変異が今後も見出されるだろう、と本論文は予想しています。

 本論文は日本列島におけるIUPの存在について、「敢えていえば」という限定つきで長野県の37000~36000年前頃となる八風山II遺跡の石器群を候補に挙げています。また本論文は、北海道のルベの沢やモサンル下層も候補に挙げています。IUPの石核技術は大別すると二つとなりそうで、一方(モードA)は、分割された板状素材が石核原型とされるものです。打面は平坦面で、作業面の稜形成は礫面と分割面の交差する稜上を横打加工して準備されます。作業面は小口に設定され、剥離の進行によって広い平坦面に移行することもあります。打面調整は顕著ではありません。ただ小剝片をとって頭部調整するものや打面転位により作業面管理がなされることもあります。目的剥片には尖頭石刃も含まれますが、多様な形態を示し、近位端が細部加工されてナイフ形石器(尖頭形石器)が作られます。もう一方(モードB)は、いわゆる彫刻器状石核に類似した樋状剥離をもつ厚手石刃で、素材の側縁が作業面に見立てられます。小石刃が打ち割られていますが、これが目的剝片かどうかは不明です。八風山II石器群は、モードAの小口型石核を備えていることになります。またモードB、つまり彫刻器状石核についても、積極的に評価するなら認められるかもしれないものの、ルヴァロワ式類似の平坦石核技術が決定的に欠落している、と本論文は指摘します。八風山II遺跡の石器群においては二次加工石器も貧相で、ナイフ形石器以外、定型的な石器はありません。これについては遺跡の性格も勘案しなくてはならず、この石器群がIUPの変異を示すのか、それとも在地適応で発達した石器群なのか、評価が重要になってくる、と本論文は指摘します。八風山II遺跡の石器群にも見られる小口型石核技術を有する石器群をBT-1、周縁型石刃石核をもつ石器群をBT-2として、EUP石器群という大きな枠組みで把握する見解も提示されています。ヨーロッパや中国や朝鮮半島の石器群との比較の結果、EUP石器群の石刃技術に最も類似するのが朝鮮半島の好坪洞や龍山洞などの石器群である、という見解も提示されています。小口型石核から周縁型石核への変化は、一つは、日本列島内での文化的な適応を示すと言えそうですが、もう一つは、古本州島と朝鮮半島の間で並行して起きていることを重視して、これらの地域間での集団と石器技術の何度かの拡散があったのではないか、というわけです。ただ本論文は、こうした見解も重要ではあるもののが、小口型石核をもつ石器群をグレード(段階)ではなく、クレード(分岐群)と把握できるかもしれない、との見解を提示しています。

 本論文は最後に、IUP現象の重要性を指摘します。考古学的には、中部旧石器時代から上部旧石器時代へどのように移行するのか、その鍵を握る石器群であることが挙げられています。また、IUP石器群がいくらかの変異を有しつつユーラシアに展開しているという文化的動態が、現生人類の拡散を示すのか、それとも現代人的行動の地域的な発達を示すのか、その解明にも寄与する、と本論文は指摘します。ただ、この問題に取り組むには、各地の石器群の変異を明らかにしていかねばならない、と本論文は注意を喚起します。また本論文は、石刃技術の系統関係を世界史的に把握していくことは、日本列島へのヒトの到来の時期と経路を解明する有力な手がかりになるので、IUP石器群の変異に日本列島の資料も含まれるのか、明らかにしていくことも課題として挙げています。


参考文献:
仲田大人(2019)「IUP(初期後期旧石器石器群)をめぐる研究の現状」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P125-132

ノストラダムスは令和の危機も予言した――『大予言』著者・五島勉氏のいま

 表題の記事がデイリー新潮で公開されました。五島勉氏の、『大予言』シリーズには希望も書いていた、との「弁明」や、『大予言』刊行当時の子供たちにショックを与えたことは申し訳ない、との「懺悔」は、これまでの五島氏へのインタビューと大差のないもので、率直に言って、これといって注目すべきところのある記事ではありませんでした。あえて言えば、『大予言』シリーズが話題だった頃、シェルターの問い合わせが多かった、というシェルター会社の西本誠一郎社長の証言くらいでしょうか。

 内容自体はさほど目新しさのない記事でしたが、やはり、今年(2019年)11月には90歳になる五島勉氏が、今でもインタビューに応じられるくらい元気そうなのは、五島氏のファンである私としては嬉しいものです。五島氏には、黙示録を題材にした新作の構想があるそうですから(関連記事)、何とか書き上げてもらいたいものです。まあ五島氏も、さすがに新ネタを大きく取り入れることは難しいでしょうから、過去作の流用を基本に時事ネタを随所に入れる、といった内容になりそうですが、それでも、近年の情勢を五島氏がどう認識しているのか、ということも気になるので、刊行を楽しみにしています。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第24回「種まく人」

 1923年9月1日の関東大震災により、東京は壊滅的な打撃を受けます。金栗(池部)四三は、シマが行方不明となったことで、自分を責めていました。嘉納治五郎は、完成間近の神宮競技場に被災者を収容するよう、東京市長の永田秀次郎に進言します。傷心の四三は帰省し、家族は暖かく迎えますが、四三の義母の池部幾江は、こんな時に東京を見捨てるのか、と四三を責め立てます。しかし、それは四三を励ますためのもので、兄の実次の言葉に自分の思い上がりを気づかされた四三は妻のスヤとともに東京に戻り、復興活動に尽力します。

 今回で金栗四三を主人公とする第一部は完結となり、次回からは田畑政治が主人公の第二部が始まります。今回は、関東大震災からの復興が庶民視点から描かれ、近代史を扱った歴史ドラマとして見ごたえがありましたが、極限状況での普遍的な人間ドラマとしてもよかったと思います。第一部の最後が復興運動会で、ストックホルム編の後はほとんど出番のなかった三島弥彦と大森安仁子も登場したのは、第一部の締めに相応しく、感慨深くもありました。人見絹枝も再登場し、第二部との接続も意識した構成になっていたように思います。視聴率低迷が面白おかしく取り上げられている本作ですが、第二部もたいへん楽しみです。

高橋啓一「中国東北部~北部におけるマンモス-ケサイ動物群と北方系細石刃石器群」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A02「ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明」の2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P30-34)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。本論文はマンモス‐ケサイ動物群(Mammuthus - Coelodonta fauna)に関して、まず以下のように説明します。

 マンモス‐ケサイ動物群は、中期~後期更新世にユーラシア大陸北部~北アメリカ大陸中部にかけて広がったマンモスゾウを中心とする寒冷~冷涼な気候に適応した哺乳動物群で、マンモス動物群(Mammoth fauna)と呼ばれることも一般的です。北アメリカ大陸においては、この動物群の要素の中にケサイは存在しません。マンモス‐ケサイ動物群がユーラシア大陸北部の広大な地域に分布を拡大した4万~3万年前頃、その分布の中心部における構成種は、マンモスゾウ(Mammuthus primigenius)、ケサイ(Coelodonta antiquitatis)、トナカイ(Ragifer tarandus)、バイソン(Bisonpriscus)、ノウマ (Equus przewalskyi)、サイガ(Saiga tatarica)、ホッキョクギツネ(Vulpes lagopus)、ホラアナハイエナ(Crocuta crocuta spelaea)、ホラアナグマ(Ursus spelaeus)、ステップナキウサギ(Ochotona pusilla)、ホッキョクウサギ(Lepus arcticus)、レミング類、ハタネズミ類などの草原棲の動物たちでした。

 本論文は、マンモス‐ケサイ動物群の分布の中心部に、温帯性や森林性の動物が見られないことを特徴として挙げています。ただ、マンモス‐ケサイ動物群の分布の南縁部には温帯地域の動物たちが含まれていたり、山地が近い場所にはやや高い標高に生息する動物たちが混じっていたりもした、と指摘されています。こうしたマンモス‐ケサイ動物群は、地球規模の気候変動やそれに伴う植生の変化に伴って、分布範囲を南北に移動していきました。マンモス‐ケサイ動物群の中心とも言えるマンモスゾウは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3後半期に、最も南方へと拡大しました。ユーラシア東部では中国山東省済南市において較正年代で37500年前頃の遺骸が、ユーラシア西部ではスペインのグラナダ市において較正年代で40400~30600年前頃、イタリア北部のポーバレーにおいて較正年代で47500~39700年前頃となる遺骸が発見されています。北アメリカ大陸では中部にまでマンモスゾウが南下しましたが、その南限地の年代はよく分かっておらず、それよりも北に位置するサウスダコタ州ホットスプリングにおいて、較正年代で30900~29900年前頃の遺骸が発見されています。本論文は、ユーラシア大陸でも北アメリカ大陸でも、マンモスゾウの南限はおよそ北緯36~37度で、ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれている気候の寒暖が繰り返された時期になる、と指摘しています。

 中国北部~東北部のマンモス‐ケサイ動物群については、マンモスゾウやケサイやトナカイなどの典型的なマンモス‐ケサイ動物群の他に、温帯性のオオツノジカ(Megaceros ordosianus)やスイギュウ(Bubalus wansjocki)やイノシシ(Sus scrofa)やトラ(Panthera tigris)と、乾燥地帯のラクダ(Camelus knoblochi)などの遺骸も発見されており、典型的な北方のマンモス‐ ケサイ動物群の構成種とはやや異なっている、と指摘されています。ただ、これらの様々な種類の動物たちが同じ時代に属するのか、それとも厳密には若干異なる時代に生息していたのか、との問題については、個々の標本の年代測定が必要となるものの、そうした研究はまだ行なわれていないので、現時点では結論を出せない、と本論文は慎重な姿勢を示します。中国の北方地域に温帯の動物相が混在する原因については、度重なる気候の寒暖の変化により温帯の動物相が北方にまで分布を拡大したことや、こうした動物には熱帯だけに生息するような本当に暖かい気候を好む種は含まれていないことなどが指摘されています。これらの動物群の年代は4万~1万年前頃とされていますが、1990年以前に測定されたものも多く、33800±1700年前という以前の推定年代が、新たな測定では43500 + 998 / -888年前とかなり古くなることもあり、今後の研究の進展を俟つ必要がありそうです。ただ、MIS3~2の中国東北部が、動物地理的には寒冷な動物相と温暖な動物相の境界域だったことは確かだろう、と指摘されています。

 更新世の動物群と石器との関連については、中国東北部と華北では、較正年代で27000~17000年前頃となる、最終氷期極大期(LGM)へと寒冷化する気候の中で、マンモス-ケサイ動物群がシベリアから南下するのに伴って、周辺調整横-斜刃型彫器と楔型細石刃石核を持つ北方系細石刃石器群も中国北東部に南下し、較正年代で17000~9000年前頃には、華北でもこうした技術が見られるようになる、と指摘されています。上述のように、中国山東省済南市において較正年代で37500年前頃のマンモスゾウ遺骸が発見されていることから、当時すでにマンモスーケサイ動物群は華北にまで南下していた、と考えられます。つまり、中国東北部や華北地域には、北方系細石刃石器群よりも、マンモスーケサイ動物群が先に南下しただろう、というわけです。一方、中国東北部と華北地域の北方系細石刃石器群の分布範囲や南限は、マンモスーケサイ動物群の主要な構成種の分布範囲や南限とよく一致しているので、この石器技術は中国東北部と華北地域の植生や動物群に関連している、と指摘されています。


参考文献:
高橋啓一(2019)「中国東北部~北部におけるマンモス-ケサイ動物群と北方系細石刃石器群」『パレオアジア文化史学:ホモ・サピエンスのアジア定着期における行動様式の解明2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)』P30-34

山極寿一、小原克博『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』

 平凡社新書の一冊として平凡社より2019年5月に刊行されました。補論を除いて対談形式になっています。第1章では、宗教の起源として共存のための倫理が挙げられており、この点に関して、(人間を除く)動物と人間との間の連続性が指摘されています。宗教を人間と動物の決定的な違いとするヨーロッパ世界で根強い観念が、一定以上相対化されています。ただ、人類の出アフリカは未知の環境への拡散との見解については、初期人類というか非現生人類の出アフリカはアフリカと同じような環境への拡散だった、との見解も提示されているので(関連記事)、議論のあるところだとは思います。

 第2章では、人類史における暴力は一定以上進化的産物であるものの(関連記事)、暴力行使の頻度が上昇した要因として、一定以上の規模の集団を維持するのに必要な「共感能力」の「暴発」と、未来投資型の生業である農耕の始まりにより土地への執着が強くなったからではないか、と指摘されています。人類史における暴力行使頻度の変化については、本書の見解を直ちに全面的に受け入れるのではなく、今後も調べていくつもりです。大規模な集団の維持に宗教が大きな役割を果たし、個人を抑圧するような側面もあったものの、仏教・キリスト教・イスラム教といった「世界宗教」は当初、既存の秩序を破壊するような役割も担った、とも指摘されています。急速に大規模化した集団に、現代人の制度や社会性や心は追いついていない、と指摘されています。

 第3章では、日本人は欧米と一まとめにしがちですが、キリスト教の有り様にしても、両者には大きな違いがある、と指摘されています。アメリカ合衆国ではキリスト教が資本主義化している、というわけです。また、近代において宗教にとって代わったヒューマニズムが、あまりにも個としての人間に集中していることが懸念されています。

 第4章では、霊長類は元々とくに視覚が発達しているものの、現代社会はあまりにも視覚に依存している、と懸念されています。もっと他の感覚も活用すべきだ、というわけですが、多くの宗教では身体作法が重視されてきた、とも指摘されています。近代に多くの地域で宗教の地位が大きく低下したことは否定できないでしょうが、こうしたところに宗教の叡智が感じられます。現代人は情報に使われている側面が多分にある、との指摘はもっともで、私も反省すべき点が多々あります。

 第5章では、個人主義が行きすぎ、個人が孤立しがちな現代社会において、集団・共同体を再建する核として、大学の役割が強調されています。大学は、もっと開かれて多様な人々が多様な方法で学べる場になるべきではないか、と提言されています。

 補論では、絵画などネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の象徴的思考の痕跡はほとんどなく、現生人類(Homo sapiens)との大きな違いと指摘されています。しかし、この根拠となる比較が適切なのか、疑問が残ります。現時点での証拠からは、ネアンデルタール人の絶滅もしくは衰退後まで、両者の間で象徴的思考の痕跡に決定的な違いがあるのか、確定的とは言えなさそうだからです(関連記事)。ゴリラやチンパンジーでは、一度集団を離れた個体が元の集団に戻ることはないのに対して、人間はある程度会わなくても仲間意識が持続するようになり、集団を離れた個体が元の集団に戻ることも可能になった、と本書は指摘します。本書はここに、人間とゴリラやチンパンジーとの大きな違いを見いだしています。本書はまた、言葉が身体を離れてしまい、人間がロゴスに依存して大きく身体性を損なってしまったことに、現代の社会問題の根底的要因を見いだしています。


参考文献:
山極寿一、小原克博(2019)『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』(平凡社)

シロイルカとイッカクの雑種

 シロイルカ(Delphinapterus leucas)とイッカク(Monodon monoceros)の雑種に関する研究(Skovrind et al., 2019)が公表されました。両者は500万年前頃に分岐し、165万~125万年前頃に両者の間で遺伝子流動があった、と推定されています。この研究は、1990年に西グリーンランドで発見され、デンマーク自然史博物館に保管されている頭蓋骨の歯から抽出したDNAを解析し、この頭蓋骨のDNAと、頭蓋骨が発見された西グリーンランドの同じ地域に生息するシロイルカ8頭およびイッカク8頭から得たDNAと比較されました。その結果、この頭蓋骨標本は遺伝的に、54%がシロイルカで、46%がイッカクである、と示唆されました。この研究は、個体の性別を決定する一般的な方法であるX染色体と常染色体の比を用いて、この雑種が雄であると推定しました。また、この個体のミトコンドリアDNA解析から、その母親がイッカクと示唆されました。つまり、父親がシロイルカというわけです。

 この研究はまた、頭蓋骨から抽出した骨コラーゲンに含まれる炭素と窒素の同位体を分析し、イッカク18頭およびシロイルカ18頭の頭蓋骨の参照パネルの骨コラーゲンと比較しました。その結果、頭蓋骨から抽出された試料に含まれる炭素同位体の濃度は他の頭蓋骨よりも高く、この雑種の食餌は親種のいずれとも異なっていた、と示唆されました。この研究は、こうした知見に基づき、この雑種がイッカクやシロイルカよりも海底に近い場所(深海底域)で採餌していた、と推測しています。500万年前頃に分岐し、165万~125万年前頃は遺伝子流動の痕跡の確認されていない種間でも交雑が起き得るわけですから、アザラシの事例(関連記事)などからも、哺乳類において交雑は珍しくないと考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】シロイルカとイッカクの間で雑種形成があったことを示す博物館所蔵の頭蓋骨

 1990年に西グリーンランドで発見された頭蓋骨から得られた遺伝子を解析した結果、これが雌のイッカクと雄のシロイルカの第一世代の雄の子孫のものであることが明らかになったと報告する論文が、今週掲載される。この知見は、イッカクとシロイルカの間で雑種形成があった可能性を示す唯一の証拠となる。

 今回、Mikkel Skovrind、Eline Lorenzenたちの研究グループは、デンマーク自然史博物館に保管されている頭蓋骨の歯から抽出したゲノムDNAの解析を行った。今回の研究では、この頭蓋骨のDNAと、頭蓋骨が発見された西グリーンランドの同じ地域に生息するシロイルカ8頭とイッカク8頭から得たゲノムのDNAとが比較された。この解析から、この頭蓋骨標本は54%がシロイルカで、46%がイッカクであることが示唆された。著者たちは、個体の性別を決定する一般的な方法であるX染色体数と常染色体数の比を用いて、この雑種が雄であると推定した。また、個体のミトコンドリアゲノム(全DNAのごく一部で、雌の生殖系列を介してのみ遺伝する)の解析から、この雑種の母親がイッカクであることが示唆された。

 著者たちはまた、博物館所蔵の頭蓋骨から抽出した骨コラーゲンに含まれる化学元素(炭素と窒素)の同位体を分析し、これをイッカク18頭およびシロイルカ18頭の頭蓋骨の参照パネルの骨コラーゲンと比較した。その結果、頭蓋骨から抽出された試料に含まれる炭素同位体の濃度は他の頭蓋骨よりも高く、この雑種の食餌が親種のいずれとも異なっていたことが示唆された。著者たちは、この知見に基づいて、この雑種がイッカクやシロイルカよりも海底に近い場所(深海底域)で採餌していたと推測している。



参考文献:
Skovrind M et al.(2019): Hybridization between two high Arctic cetaceans confirmed by genomic analysis. Scientific Reports, 9, 7729.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44038-0

性選択の始まりの説明

 性選択の始まりの説明に関する研究(Muralidhar., 2019)が公表されました。性選択の原動力に関する有力な仮説の一つは、フィッシャーの「ランナウェイ過程」で、雄の形質にはその形質に対する雌の選り好みが関係している、と考えられます。雄の形質と雌の好みは、両方が固定されるまで共に進化します。このとき重要なのは、クジャクの長い上尾筒であれ、カエルの甘美な鳴き声であれ、形質の種類は雌に好まれる限り何でも構わないことです。しかしこの仮説には、「ハンディキャップ原理」や「優良遺伝子仮説」といった他の仮説と同様に、雄の形質やその形質に対する雌の選り好みが、いずれも全くのゼロからは始まり得ないという問題があります。では、雄のディスプレイ形質とそれに対する雌の選り好みは、どのように始まったのか、という問題にたいして、一種のごまかしのようですが、そうした形質と選り好みの進化では、それらは何らかの確率論的過程によって集団の一定の割合にまで徐々に数を増やす必要がある、と説明されています。これは、遺伝的浮動あるいは中立進化により起こると考えられています。

 この研究は、こうした行き詰まりを打開する新たな仮説を提案します。異なる性染色体、とくに雌を介してのみ伝わる遺伝的要素(鳥類やチョウ類のW染色体など)を持つ種では、雌には利益となるものの、雄にはコストとなる形質に対して選り好みを示すことがあります。雌のこうした選り好み(この好みは娘に伝えられます)はコストを伴わないため、その広がりはほとんど制約を受けませんが、雄はこれに振り回されてコストを負担しなければならなくなります。XY型(ショウジョウバエや哺乳類など)の場合や性染色体に偽常染色体領域がある場合は複雑になりますが、それでも最初に必要なのは、種が別個の性染色体を持つことだけと指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:利己的な性染色体の配偶相手の選り好み

進化学:性選択への新しい道筋

 性選択の原動力に関する有力な仮説の1つは、フィッシャーの「ランナウェイ過程」で、雄の形質にはその形質に対する雌の選り好みが関係していると考える。雄の形質と雌の好みは、両方が固定されるまで共に進化する。このとき重要なのは、クジャクの長い上尾筒であれ、カエルの甘美な鳴き声であれ、形質の種類は雌に好まれる限り何でも構わないことである。しかしこの仮説には、「ハンディキャップ原理」や「優良遺伝子仮説」といった他の仮説と同様に、雄の形質やその形質に対する雌の選り好みが、いずれも全くのゼロからは始まり得ないという問題がある。では、雄のディスプレイ形質とそれに対する雌の選り好みは、どのように始まったのか。その答えは、一種のごまかしのようだが、そうした形質と選り好みの進化では、それらは何らかの確率論的過程によって集団の一定の割合にまで徐々に数を増やす必要がある、というものである。これは、遺伝的浮動あるいは中立進化によって起こると考えられている。今回P Muralidharは、こうした行き詰まりを打開する新たな仮説を提案している。異なる性染色体、特に雌を介してのみ伝わる遺伝的要素(鳥類やチョウ類のW染色体など)を持つ種では、雌には利益となるが雄にはコストとなる形質に対して選り好みを示すことがある。雌のこうした選り好み(この好みは娘に伝えられる)はコストを伴わないため、その広がりはほとんど制約を受けないが、雄はこれに振り回されてコストを負担せざるを得なくなる。XY型(ショウジョウバエや哺乳類など)の場合や性染色体に偽常染色体領域がある場合は話は複雑になるが、それでも最初に必要なのは、種が別個の性染色体を持つことだけである。



参考文献:
Muralidhar P.(2019): Mating preferences of selfish sex chromosomes. Nature, 570, 7761, 376–379.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1271-7

ミトコンドリアの選択を引き起こす断片化

 ミトコンドリアの選択を引き起こす断片化に関する研究(Lieber et al., 2019)が公表されました。ミトコンドリアゲノムは母系遺伝しますが、ミトコンドリアゲノムには変異が生じやすく、ミトコンドリアで働く選択機構は、こうした変異で起こり得る有害な影響を打ち消しています。この研究は、in situハイブリダイゼーション法(組織切片・細胞・染色体に存在する特定の核酸シークエンスの局在を検出する方法)を用いて、ショウジョウバエ(Drosophila)の生殖系列において個々のミトコンドリア対立遺伝子を可視化する系を樹立しました。ミトコンドリアの融合が減少すると、対立遺伝子が複数のミトコンドリアへと分散されることになり、ゲノムの混合が妨げられる、と明らかになりました。これはまた、有害な変異を持つATP産生能の低いミトコンドリアが、オートファジー経路によって分解されるための標識となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


細胞生物学:生殖系列ではミトコンドリアの断片化によって有害なmtDNAの選択的除去が駆動される

細胞生物学:断片化がミトコンドリアの選択を引き起こす

 ミトコンドリアゲノムは母系遺伝するが、ミトコンドリアゲノムには変異が生じやすいことを考えると、ミトコンドリアで働く選択機構は、こうした変異で起こり得る有害な影響を打ち消している。R Lehmannたちは今回、in situハイブリダイゼーション法を用いて、ショウジョウバエ(Drosophila)の生殖系列において個々のミトコンドリア対立遺伝子を可視化する系を樹立した。ミトコンドリアの融合が減少すると、対立遺伝子が複数のミトコンドリアへと分散されることになり、ゲノムの混合が妨げられることが分かった。これはまた、有害な変異を持つATP産生能の低いミトコンドリアがオートファジー経路によって分解されるための標識となる。



参考文献:
Lieber T. et al.(2019): Mitochondrial fragmentation drives selective removal of deleterious mtDNA in the germline. Nature, 570, 7761, 380–384.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1213-4

『卑弥呼』第19話「黄泉返り」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年7月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)の楼観で自分が日見子であると証明するための儀式を始めたヤノハが、自分が日見子である、イスズとウズメに名乗るところで終了しました。今回は、ヤノハが義母とともに、毒蛇に咬まれて瀕死の弟であるチカラオを救おうとする回想場面から始まります。ヤノハは「日の鏡」でチカラオに日光を当てますが、チカラオは目を覚ましません。不安になるヤノハに、チカラオの魂は天照様と須佐之男(スサノオ)様の中間、つまり生死の境で彷徨っている、と義母は説明します。チカラオを甦らせるにはどうするのか、とヤノハに問われた義母は、退路を断つのだ、と答えます。黄泉の国への出入り口である「地の鏡」を粉々に割れば、須佐之男様も追ってこられない、というわけです。義母はヤノハに「地の鏡」を渡し、割るように促します。ヤノハは「地の鏡」を地面に打ちつけますが、割れなかったので石の槌で叩き割ろうとします。しかし、「地の鏡」はわずかにひび割れするだけでした。この間、義母はヤノハの行動をにこやかに見守っていました。けっきょく、義母は銅鏡を粉々に割り、チカラオは翌日、朝日とともに目を覚ましました。喜ぶヤノハに、これが黄泉返りの秘儀だ、と義母は言います。万物のほとんどは生きていない、もうすでに死んだか、まだ生まれていないか、死こそが普通の状態だ、と義母はヤノハに教えます。生は一瞬の大切な奇跡なので、生の世界に長く留まりたいならなりふりかまわず戦え、と義母はヤノハに言い聞かせます。

 舞台は現代の山社(ヤマト)に戻ります。ヤノハは楼観で山社の祈祷女(イノリメ)の長であるイスズと、副長のウズメに、天照大御神の秘儀を見せよと言うのか、と尋ねます。イスズはやや躊躇うような表情を見せつつも、ぜひお願いしたい、と答えます。ヤノハは二人に、自分が日見子(ヒミコ)である証が欲しいのか、と尋ねます。暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長であるヒルメと同様に、自分を偽者の日見子と思うのか、というわけです。ヤノハは答えない二人に、秘儀とは天照様の弟で黄泉の国の王である須佐之男様との対面だ、と説明します。これはイスズもウズメも知っていました。無意味な儀式を行なえば、二柱の神の怒りを買い、災いがイスズとウズメに及ぶかもしれない、というわけです。イスズは、天照大御神の秘儀とは死んだ人間を甦らせる方法で、同時に生者を殺す呪術と知っていました。承知のうえで秘儀を見せよというのか、と問われたイスズとウズメのうち、ウズメは自信のある様子でそうだと答えますが、イスズは沈黙で答えます。

 ヤノハはイスズとウズメに「地の鏡」を渡すよう、イクメに命じ、「地の鏡」を渡された二人は、鏡を表に向けて覗くよう、ヤノハに命じられます。ヤノハはイスズとウズメに、二人の魂は今、黄泉の国の入り口で彷徨っている、地より蛇が出れば魂は黄泉へと導かれる、と伝えます。思わず鏡から目をそらしたウズメは、秘儀を体験したいのになぜ目をそらすのか、とヤノハに問い質され、再び鏡に目を向けます。すると、ケシの実の樹液を粉にしたものを焚いている効果なのか、ウズメは蛇の幻覚を見て狼狽し、お許しください、と言い続けます。何か見えたか、とヤノハに問われたイスズは、大蛇が顕われた、と答えます。狼狽したウズメは、自分は死ぬのですか、とヤノハに尋ねます。するとヤノハは、いつかは自分も分からないが、ごく近いうちに、と答えます。するとウズメはすっかり怯え、お助けください、と懇願し続けます。その様子を見たヤノハは、二人の魂を取り戻すのが天照様より授かった秘儀だ、と言ってイスズとウズメを安心させます。ヤノハは、天照大御神(アマテラスオホミカミ)、又の名を大日靈貴神(オオヒルメノムチノカミ)、又の名を天照坐皇大御神(アマテラシマススメオホミカミ)、とその名を唱え始め、一瞬沈黙した後、天照様が怒っておられる、二人の魂を黄泉から戻すのは嫌だとおっしゃっている、と述べ、なぜですか、と天照大御神に問いかけます。この様子を見たウズメは顔面蒼白になります。

 その頃、那と暈の国境の戦場の最前線の那の陣営側で、那のトメ将軍と、ヤノハの命を受けたヌカデとが面会していました。トメ将軍は暈の陣地に放った乱波(ラッパ)は、暈のタケル王が鹿屋(カノヤ)を出て最前線に向かっている、と報告を受けていました。するとヌカデは、日見子(ヤノハ)様の予言通りと言います。ヤノハは、大河(筑後川と思われます)さえ無事越せれば那軍の勝利と予言していました。トメ将軍は、大河を渡れば勇敢な自軍が勝利すると分かっているが、渡河の途中で暈軍から弓や槍で攻撃されて自軍は全滅するので不可能だ、と言います。するとヌカデは、暈軍の兵が数日間河岸からいなくなったとしたら、とトメ将軍に問いかけます。日見子はそう予言したのか、タケル王がオシクマ将軍たちの陣地を訪れる目的は軍勢を最前線から動かすためなのか、とトメ将軍に問われたヌカデは肯きます。トメ将軍は痛快といった感じで、もし現実にそうなれば、自分も日見子を支持する、と言います。

 山社では、狼狽したウズメが楼観から鏡を投げ落としましたが、イクメの弟で地上にいるミマアキが確認したところ、鏡は割れていませんでした。ますます狼狽したウズメは地上に降りて行き、ヤノハはイクメに、同行するよう指示します。ウズメは槌で鏡を割ろうとしますが、ひび割れして歪むだけで割れず、絶望した様子を見せます。黄泉の国から戻るには、「地の鏡」を割らねばならないのでしょう。ウズメ殿が狼狽しているのにイスズ殿は冷静ですね、とヤノハは言います。イスズは、自分もまだ黄泉の国に召されたくない気持ちは同じだと言い、そのためにはヤノハを日見子と信じなかったことで怒った天照様を鎮めねばならず、天照様は自分たちがヤノハを日見子と信じた証を欲しがっておられるのか、とヤノハに確認します。ヤノハが沈黙するのを見て、ついにイスズは、ヤノハに天照大御神からお告げがあったのだろう、と認めます。イスズは、ヤノハの様子を見て、お告げの内容を悟ります。それは、イスズが生きたければ、姉と慕うヒルメを即刻殺せ、というものでした。ヤノハが義母からの、生の世界に長く留まりたいならなりふりかまわず戦え、との教えを回想しているところで、今回は終了です。


 今回は、生に執着するヤノハの生き様の根源が明かされました。ヤノハが義母から、生きていくうえで必要な知識を授かったことは、これまでにも描かれていました。それだけではなく、ヤノハの人生観の根源も義母の教えに由来すると明かされ、ヤノハが危険を冒してまで義母の遺体を敵兵から回収したほど、義母を強く慕っていたことも納得できました。義母がどのように「地の鏡」を割ったのか、今回は明かされませんでしたが、それがイスズとウズメを心服させる重要な鍵になる、とヤノハは考えているのでしょう。ヤノハの機知と度胸には感嘆させられます。ヤノハの「本性」を知っているヌカデとアカメがヤノハに賭けようとするのも、納得できます。ヤノハがタケル王をどう動かしてこの危地を脱しようとしているのかも、少し見えてきましたが、タケル王はヤノハの策に踊らされそうではあるものの、鞠智彦(ククチヒコ)の方は一筋縄ではいかなそうです。ヤノハが暈と那の争いをどう利用してこの危地を脱するのか、面白い話になりそうで期待しています。次回は巻頭カラーとのことで、たいへん楽しみです。

『アナザーストーリーズ』「“太陽にほえろ!”誕生~熱きドラマ、若者たちは走った~」

 BSプレミアムで放送されたので視聴しました。BSプレミアムのドキュメンタリーはBS4Kでも放送されることが多いので、最近ではBSプレミアムの番組を録画して視聴することはほとんどなくなり、大河ドラマ『葵徳川三代』の再放送と映画数本と「ZARDよ永遠なれ 坂井泉水の歌はこう生まれた」を視聴したくらいで、番組表もほとんど確認していなかったため、この放送を危うく見逃すところでした。このように『太陽にほえろ!』を扱った番組が今でも放送されるのは、ありがたいことです。

 内容は、すでに知っていた話も少なからずあったものの、放送開始当初の緊張感が改めて伝わってきて、なかなかよかったと思います。最近亡くなったこともあってか(関連記事)、萩原健一氏の話を中心に最初期の話が多かったのですが、音楽に大野克夫氏を推薦したことや、殉職による降板という本作の大きな特徴を確立したことといい、萩原氏が本作の基本を確立したとも言えるので、当然でしょうか。『太陽にほえろ!』での萩原氏の出演期間は約1年でしたが、その功績・影響はひじょうに大きかったと思います。もっとも、当初は新人刑事として沢田研二氏の起用が検討されており、断られたために萩原氏が起用されたそうで、これは初めて知りました。

 私にとって新鮮だったのは君塚良一氏の話で、君塚氏が『太陽にほえろ!』のアンチテーゼとして『踊る大捜査線』の脚本を執筆した、という話はどこかで読んだ記憶がありましたが、脚本にも関わっていたのはすっかり忘れていました。もっとも、君塚氏の脚本は小川英氏によりほぼ全面的に手直しされたそうですが。調べてみると、君塚氏が関わったのは423話「心優しき戦士たち」(関連記事)と434話「ある誘拐」(関連記事)で、後者はまずまずの面白さでしたが、前者は私にはまったく合いませんでした。どちらも長さん主演なのは、君塚氏の意図なのでしょうか。

 その他に知らなかったというか、初めて聞いたのが、『太陽にほえろ!』終了の打ち上げパーティーでの石原裕次郎氏の肉声です。石原氏は当時すでにかなり体調が悪く、打ち上げパーティーにも出席できなかったのですが、テープにメッセージを吹き込んで送ったそうです。ドラマでのボスの台詞をずっと聞いてきた私からすると、かなり弱弱しい声との印象を受けたのですが、自分の体調の悪さには一切言及せず、今後の話をしているのは石原氏らしいと思います。もっとも、最終回(関連記事)の時点で石原氏の体調の悪さは明らかでしたから、それから数ヶ月経過した時点だと、さらに体調は悪化していたのでしょう。石原氏は52歳で亡くなりましたから、本当に早すぎる死だったな、と改めて残念に思います。

Y染色体DNA解析から推測される縄文時代晩期の人口減少

 父系継承のY染色体(厳密にはわずかにX染色体との間で組換えが起きますが)DNA解析から縄文時代晩期の人口減少を推測した研究(Watanabe et al., 2019)が報道されました。解説記事もあります。本論文は、現代日本人を北海道のアイヌ、本州・四国・九州(およびそれぞれのごく近隣の島々)から構成される「本土」、沖縄の琉球の3集団に区分しています。私も、これは遺伝的にも文化的にもおおむね妥当な区分だと思います。ただ、言語を中心とする文化的には、本土集団と琉球集団が近縁なのにたいして、アイヌ集団は両集団とはかなり異なります。

 現代日本人の形成過程は、3集団それぞれで異なります。アイヌ集団は「縄文人」を基盤にオホーツク文化集団などユーラシア北東端集団との融合により形成された、と考えられています(関連記事)。本土集団は、縄文人と弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した集団との融合により形成され、後者の方が現代人にはずっと多くの影響を残している、と推測されています(関連記事)。琉球集団は、在来の集団と中世に九州南部から到来した集団との融合により成立した、と考えられます(関連記事)。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、ある程度の幅が想定されていますが、アイヌ集団では66%、本土集団では9~15%、琉球集団では27%です(関連記事)。アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を受けており、本土集団は、弥生時代以降のアジア東部からの渡来集団の遺伝的影響を強く受けている、と考えられています。

 本論文は現代日本人345人のY染色体の全塩基配列を決定し、28254ヶ所の一塩基多型を解析しました。本論文はこのデータを、3006ヶ所の一塩基多型を用いて解析されたアジア東部大陸部の各現代人集団と比較しました。対象となったのは、韓国人、ベトナムのキン人、中国北部(北京)の漢人、中国南部の漢人、中国のシーサンパンナタイ族自治州のタイ人です。現代日本人のY染色体DNAは異なる7クレード(単系統群)に区分されました。このうちクレード1はアジア東部大陸部で見られず、現代日本人において特異的です。一方、例外も報告されているものの(関連記事)、原則として母系継承のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、日本人特有のクレードが見られませんでした。

 クレード1の割合は、現代日本人の本土集団で35.34%、全体では35.7%です。クレード1はY染色体DNAハプログループ(YHg)D1bに相当します。クレード1の割合は現代日本人3集団において最も縄文人と遺伝的に近縁なアイヌ集団で81.3%と高く、本論文はクレード1が縄文人由来と推測しています。クレード2および3は日本人も含むアジア東部集団やアジア南東部集団で比較的高く、クレード2はYHg- O1、クレード3はYHg- O2に相当します。クレード4および5はYHg-C、クレード6および7はYHg-Nに相当します。本土集団における各クレードの割合は、クレード2が35.4%、クレード3が19.7%、クレード4が4.1%、クレード5が4.1%、クレード6が0.9%、クレード7が0.6%です。縄文人におけるY染色体DNAの7クレード割合は、クレード1が約70%、クレード2が14%、クレード3が2%と推定されました。本土集団のクレード3はほぼ弥生時代(以降の)移民に由来すると考えられます。

 本土集団のクレード1の122人のY染色体に関して、ベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析が行なわれました。これは、組換えのない相同領域に注目してサンプルDNAに関する分岐パターンと分岐年代を推定し、そこから集団サイズの履歴を推定する方法です。縄文時代が始まった直後の12500年前頃以後に男性の有効人口規模はじょじょに増加し、3200年前頃に急激に減少しました。その後すぐ、クレード1の有効人口規模は増加しました。クレード3の68人の分析では人口減少は観察されず、弥生時代の移民が日本列島に到来した時に、深刻なボトルネック(瓶首効果)は起きなかった、と示唆されました。これは、本土集団のゲノムの80~90%が弥生時代以降の日本列島への移民に由来する、という以前の観察と一致します。

 縄文時代は、草創期(16500~11500年前頃)→早期(11500~7000年前頃)→前期(7000~5470年前頃)→中期(5470~4420年前頃)→後期(4420~3220年前頃)→晩期(3220~2350年前頃)と一般的に区分されています(関連記事)。本論文は縄文時代の始まりを12500年前頃としていますが、これは、土器製作の開始だけでは縄文時代の指標とは言えず、より定住性が高いことなど縄文的な生活様式の定着が指標になる、との見解を本論文が採用しているからでしょう。もちろん、縄文時代もその次の弥生時代も、本土に限っても一律に移行したわけではなく、地域による年代差があったでしょう。なお、北海道が縄文時代に移行するのは本土に遅れて9000年前頃だった、との見解もあります(関連記事)。

 本論文の見解は、縄文時代後期~晩期にかけての人口減少という考古学的知見と整合的です。以前の研究では、縄文時代後期~晩期にかけて、気候変動とともに食性が変わった、と報告されており、狩猟採集への依存度の高い縄文人の人口は、寒冷化による食料不足により減少したのではないか、と本論文は指摘しています。本論文の知見は、弥生時代以降の急速な人口増加も示唆します。これは、本格的な稲作の導入により、食料を安定的に調達できたからではないか、と本論文は指摘しています。本論文の縄文時代後期~弥生時代初期にかけての人口変動の推定は、厳密には男性に限定されています。人類集団の混合が起きる時、一般的に混合集団への遺伝的寄与は男女で異なるので、縄文人女性の人口史は縄文人男性のそれとは異なっていたかもしれない、と本論文は指摘しています。本論文というか一般的な見解に従えば、縄文人の現代日本人への遺伝的影響は、ゲノム解析からの推定よりもY染色体DNAからの推定の方がずっと高そうです。しかし、後述のように、この見解には疑問も残ります。

 YHg-D1bとなるクレード1は日本列島でしか見られず、YHg-D1もアジア東部ではほぼ日本列島とチベット人にしか見られません。中国と韓国でYHg-D1がほぼ見られないことから、YHg-D1系統の分岐と日本列島への拡散経路およびその年代について、現時点では詳細は不明です。本論文は、YHg-D1bの分岐は縄文人の祖先が日本列島に到達する前に起きた、と推測しています。ただ、現代日本人で多数派なのはYHg- D1b1なのに、縄文人では最近まで詳細な解析の可能な個体ではYHg-D1b2aしか確認されておらず(解説記事)、最近になってYHg-D1b2bが確認されました(関連記事)。いずれにしても、YHg- D1b1はまだ縄文人では確認されていないので、本論文でのクレード1がすべて縄文人由来なのか、断定は時期尚早だと思います。

 チベットと日本列島にYHg-D1が高頻度で存在し、その中間の中国と韓国にほぼ存在しないことから、YHg-D1はかつてユーラシア東部に広範に存在していたものの、文献が残っているような時代も含めてその後の大規模な人類集団の移動により、中国や韓国では他の系統に置換された可能性があります。私が想定しているのは、本論文でのクレード1の一定以上の割合が、弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来している可能性なのですが、この仮説は、無視してよいほど可能性が低いわけではないものの、優先順位はかなり低いので後回しにしてもよい、といった水準ではなく、真剣に検証されるべきだと思います。この問題に関しては最近取り上げましたが(関連記事)、やはり現代人のDNA解析だけで過去の人類史を復元するのには大きな限界があり、ユーラシア東部の古代DNA研究の進展を俟つしかないでしょう。


参考文献:
Watanabe Y et al.(2019): Analysis of whole Y-chromosome sequences reveals the Japanese population history in the Jomon period. Scientific Reports, 9, 8556.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44473-z

喫煙行動の関連遺伝子座

 喫煙行動の関連遺伝子座についての研究(Matoba et al., 2019)が公表されました。喫煙は、ヒトのさまざまな疾患のリスク因子です。この研究は、日本人集団における喫煙行動に関連する遺伝的因子を調べるために、165436人を対象として、喫煙に関連した4形質について全ゲノム関連解析を行ないました。その結果、1日あたりの喫煙本数に関連する3つの遺伝子座(EPHX2–CLU、RET、CUX2–ALDH2)、喫煙の開始に関連する3つの遺伝子座(DLC1、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)、喫煙開始年齢に関連する1つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG)を含む計7つの新たな遺伝子座が同定されました。

 このうち3つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)は、追加の性別層別化全ゲノム関連解析によって明らかとなりました。この追加の解析からは、男女で影響に差がある、と判明しました。異性間連鎖不均衡スコア回帰分析の結果からも、喫煙開始の遺伝的因子に男女間で有意差がある、と分かりました。形質間連鎖不均衡スコア回帰分析および形質関連組織解析から、1日あたりの喫煙本数には、他の3つの喫煙行動とは異なる特異的な遺伝的背景があることも明らかになりました。またこの研究は、喫煙行動と遺伝的背景が共通する11の疾患についても報告しています。

 この研究は、これらの知見は追試試料を欠くため慎重に考慮すべきであるものの、喫煙行動の遺伝的構造を明らかにするもので、アジア東部の人類集団を対象としたさらなる研究により、この研究の結果が確認されねばならない、と指摘しています。私は子供の頃から煙草が心底嫌いで、一度も煙草を吸ったことがなく、吸いたいと思ったこともまったくないのですが(たいへん不愉快なことに、受動喫煙の経験は多数あります)、これは環境要因だけではなく遺伝的要因もあるのでしょうか。なお、現代人(Homo sapiens)において、ニコチン依存症の危険性を高める、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来と推測される遺伝子も確認されています(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


日本人165,436人を対象とした喫煙行動のGWASから7つの新たな遺伝子座と共通の遺伝的構造が明らかとなった

 喫煙は、ヒトのさまざまな疾患のリスク因子である。日本人集団における喫煙行動に関連する遺伝的因子を調べるために、165,436人を対象として、喫煙に関連した4つの形質について全ゲノム関連解析を行った。その結果、1日あたりの喫煙本数に関連する3つの遺伝子座(EPHX2–CLU、RET、CUX2–ALDH2)、喫煙の開始に関連する3つの遺伝子座(DLC1、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)、喫煙開始年齢に関連する1つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG)を含む計7つの新たな遺伝子座が同定された。このうち3つの遺伝子座(LINC01793–MIR4432HG、CXCL12–TMEM72-AS1、GALR1–SALL3)は、追加の性別層別化全ゲノム関連解析によって明らかとなったものである。この追加の解析からは、男女で影響に差があることが判明した。異性間連鎖不均衡スコア回帰分析の結果からも、喫煙開始の遺伝的因子に男女間で有意差があることがわかった。形質間連鎖不均衡スコア回帰分析および形質関連組織解析から、1日あたりの喫煙本数には、他の3つの喫煙行動とは異なる特異的な遺伝的背景があることが明らかとなった。また、喫煙行動と遺伝的背景が共通する11の疾患についても報告する。今回の研究は追試試料を欠くため慎重に考慮すべきであるが、得られた知見は、喫煙行動の遺伝的構造を明らかにするものである。東アジア人集団を対象としたさらなる研究によって、我々の結果が確認されることが必要である。 日本人集団の喫煙行動の遺伝的因子が調べられ、喫煙行動に関連する7つの遺伝子座と、喫煙行動と遺伝的背景を共有する11の疾患が同定された。



参考文献:
Matoba N. et al.(2019): GWAS of smoking behaviour in 165,436 Japanese people reveals seven new loci and shared genetic architecture. Nature Human Behaviour, 3, 5, 471–477.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0557-y

アーモンドの栽培化を可能にした変異

 アーモンド(Prunus amygdalus)の栽培化を可能にした変異に関する研究(Sánchez-Pérez et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。まだ議論もあるものの、アーモンドの木の最初の栽培化は近東で完新世前半に始まったと考えられており、エジプトとギリシアにおけるナッツの初期の考古学的証拠により支持されています。しかし、野生アーモンドの種には苦くて毒性のある青酸配糖体アミグダリンが蓄積されます。これまでの研究から、アーモンドの最初の栽培化は、食べられない野生型に由来する食用の甘い種の遺伝子型を選抜することで可能になった、と示唆されています。しかし、最初の栽培化以来、アーモンドは地球上で最も広まったナッツ類となっているものの、アーモンドの分布と経済的重要性にも関わらず、そのゲノムの詳細な理解はバラ科の植物など他種よりも遅れており、甘い食用のナッツを作り出せる遺伝子の性質も分かっていませんでした。

 本論文は、アーモンドの完全な参照ゲノムを報告し、アセンブルした配列を用いて、毒性のある苦いアーモンドと甘いアーモンドの遺伝的差異を解明しました。これにより、甘い種の遺伝子型に関連する転写因子のクラスターが発見されました。このうちbHLH2が毒性化合物アミグダリンの産生の生合成経路の制御に関与している、と明らかになりました。この結果から、bHLH2の変異によりアミグダリンの産生が抑制され、その結果甘いアーモンドの遺伝子型が生み出され、栽培化中に積極的に選抜された、と示されました。私は植物の進化史や栽培化の歴史には本当に疎いのですが、人類進化史とも深く関わっているので、今後少しずつ知見を得ていこう、と考えています。


参考文献:
Sánchez-Pérez R. et al.(2019): Mutation of a bHLH transcription factor allowed almond domestication. Science, 363, 6445, 1095–1098.
https://doi.org/10.1126/science.aav8197

Y染色体DNAハプログループDの起源

 Y染色体DNAハプログループ(YHg)Dの起源に関する研究(Haber et al., 2019B)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ゲノム規模データ(関連記事)からも、単系統(母系および父系)のミトコンドリアDNA(mtDNA)およびY染色体DNA(関連記事)からも、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは7万~5万年前頃の1回だった、と推測されており、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)の分岐年代や移動について詳しく検証され続けています。

 しかし、Y染色体DNAハプログループ(YHg)に関しては、現在の分布が単純な系統地理的モデルと合致していないため、長く議論が続いてきました。非アフリカ系現代人のYHgはCT系統ですが、短期間のうちにC・DE・FTの各系統に分岐していった、と推測されています。YHg-DE系統はその後すぐに、D系統とE系統に分岐していきます。YHg-C・D・FTの各系統は基本的に非アフリカ系現代人に見られますが、E系統はおもにアフリカに分布しているため、これらの系統がいつどこで分岐したのか、確定したとは言えない状況です。

 これまで、YHg-DE系統の分岐に関して、大別するとアジア起源説とアフリカ起源説が提示されてきました。アジア起源説では、YHg-CT系統の出アフリカ後、DE系統がD系統とE系統に分岐し、E系統がアフリカに「戻った」と想定されます。アフリカ起源説では、YHg-CT系統の出アフリカ後、DE系統がC・FT系統が分岐した後でアフリカに「戻って」D系統とE系統に分岐し、その後でD系統がアフリカからユーラシアに拡散した、と想定されます。アフリカ・ユーラシア間の系統移動が、アジア起源説では2回、アフリカ起源説では3回となるため、アジア起源説の方がより節約的と考えられてきました。

 YHg-DE系統の分岐に関する問題は、DE系統に分類されるものの、DにもEにも分類されない稀なハプログループDE*の存在により、さらに複雑になりました。YHg-DE*の存在はまずナイジェリアの5人で確認され、その後アフリカ西部のギニアビサウ出身者1人と、ユーラシア東部のチベット人2人で確認されました。本論文は、以前報告されたナイジェリアのDE*系統の5人を改めて分析するとともに、YHg-Dのチベット人4人も含めて世界規模のデータと比較しました。ナイジェリアの5人のうち、2組は重複の可能性が高いと推定されたため、3人が分析対象とされました。

 Y染色体DNA配列に基づく系統樹はすべて一貫した構造を示し、ナイジェリア人のYHg-DE*系統はD系統とE系統の分岐に近い系統を形成します。ナイジェリア人のYHg-DE*系統と他の系統との一塩基多型の共有は、D系統で7ヶ所、E・C1b2a・F2の各系統でそれぞれ1ヶ所となります。本論文は、単一の一塩基多型の共有を反復変異とみなし、ナイジェリア人のYHg-DE*系統を、じゅうらいのYHgの名称を変更せずにすむように、D0系統と命名しています。

 本論文はYHg各系統間の分岐年代を、B系統とCT系統は101100年前頃、CおよびFT系統とDE系統は76500年前頃、D系統とE系統は73200年前頃、D0系統と他のD系統は71400年前頃と推定しています。D系統とE系統の分岐後すぐに、D0系統と他のD系統が分岐したことになります。D0系統はさらに3系統に区分され、2500年前頃と1900年前頃に分岐します。D0系統は常染色体ゲノムの分析から、祖先がアフリカ西部系と確認されています。YHg-DE系統は、アフリカ系のD0とE、非アフリカ系のDに区分されます。本論文は、YHg-DE系統がどこで分岐し、どのように移動していったのか、3通りの仮説を検証しています。

(1)B系統とCT系統が分岐した101000年前頃~CおよびFT系統とDE系統が分岐した77000年前頃までは、非アフリカ系現代人系統にはCT系統しか存在していないことから、CT系統がアフリカからユーラシアに拡散し、D0系統とE系統がD0系統の起源の71000年前頃~E系統のアフリカでの分岐が始まる59000年前頃にアフリカに「戻った」と推測されます。この仮説でも以下の2仮説でも、E1b1b1系統が47000~28500年前頃にアフリカからユーラシアへ拡散した、と推測されています。

(2)C系統とFT系統の分岐した76000年前頃~D系統とE系統の分岐した73000年前頃の間に、C・DE・FTの3系統がアフリカからユーラシアへ拡散し、その後で(1)と同様にD0系統とE系統が71000年前頃~59000年前頃にアフリカに「戻った」と推測されます。

(3)D0系統の起源の71000年前頃~FT系統の分岐が始まる57000年前頃には、C・D0・その他のD・E・FTの5系統が存在し、このうちE・D0以外のC・D・FTがこの期間にアフリカからユーラシアへ拡散したと推測するもので、この場合、ユーラシアからアフリカへの「逆流」を想定する必要はありません。

 本論文のYHg-D0系統はナイジェリアの3人のY染色体DNAに基づいています。推定年代は、前提となる変異率の違いにより異なってくるため、確定的ではありません。しかし、西シベリアの45000年前頃の現生人類遺骸(関連記事)など、DNAが解析されている個体を参照すると、より年代を絞り込めます。非アフリカ系現代人は全員、ゲノムにネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域を2%ほど有しています。ネアンデルタール人と現生人類の交雑が複数回起きたとしても(関連記事)、非アフリカ系現代人のゲノムに存在するネアンデルタール人由来の領域の大半は、非アフリカ系現代人がアフリカからユーラシアへ拡散してから各地域集団に分岐していく前まで間の(1回の)交雑に由来する、と考えられます。

 この交雑の時期について、本論文は59400~49900年前頃とする見解(関連記事)を採用していますが、54000~49000年前頃まで限定する見解も提示されています(関連記事)。本論文は、この現生人類とネアンデルタール人との交雑の推定年代から、上記のシナリオでは(3)を支持しています。mtDNAの分析におけるアフリカ系統から非アフリカ系統の推定分岐年代は、古代DNAも対象とすると95000~62000年前頃、現代人を対象とすると65000~57000年前頃となり、(3)と一致する、と本論文は指摘します。

 アフリカにおける現代のYHgの分布は、過去1万年のバンツー語族集団の拡大やユーラシアからアフリカへの遺伝子流動(関連記事)の結果、大きく変わりました。現在、YHgで最古の分岐系統が見られるのはアフリカ西部で(関連記事)、常染色体ではアフリカ南部の狩猟採集民集団において最古の分岐が推定されていること(関連記事)とは対照的です。これは、アフリカにおける現生人類の深い分岐(関連記事)を示唆しているのではないか、と本論文は指摘しています。

 アフリカにおけるYHgの分布に関しては、10万~5万年前頃のアフリカ人の古代DNA解析には成功しておらず、今後も期待薄であることを考慮すると、アフリカ中央部および西部の現代人のYHgのさらなる研究が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は、アフリカ内におけるDE系統の起源と、その後のC・D・FT系統のアフリカからユーラシへの拡散という仮説を支持します。現代日本人もYHg-Dの割合は高く、その起源について議論があるので(関連記事)、その意味でも注目される研究です。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics, 212, 4, 1241-1248.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368

アフリカにおける現代人系統と未知の人類系統との交雑

 アフリカにおける現生人類の人口史に関する研究(Lorente-Galdos et al., 2019)が公表されました。現生人類(Homo sapiens)の起源はアフリカにあり(関連記事)、ゲノム規模解析でもミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でもY染色体DNAハプログループ(YHg)でも、現代人において最も早く分岐した系統は、アフリカの狩猟採集民集団です。現生人類はアフリカからユーラシアへと拡散し、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった先住人類と交雑しました(関連記事)。一方、アフリカに留まった現生人類に関しては、「純粋なサピエンス」との認識も見られますが(関連記事)、アフリカにおける現生人類と遺伝学的に未知の人類系統との交雑を指摘する見解もあります(関連記事)。

 本論文は、アフリカ全土の多様な生態系および生活様式と主要な語族を網羅する15集団の21人と、ユーラシアの4人を対象として、高網羅率(21.01~46.63倍)のゲノム配列を決定しました。この21人は全員男性で、mtHgとYHgも決定されました。本論文はこのデータから、アフリカ人集団における人口史と過去の交雑を検証しました。全体としてアフリカの個体群は遺伝的に、コイサン、ピグミー、サハラ砂漠以南農耕民、北部の4集団に区分されます。サハラ砂漠以南の農耕民集団はほとんど、狩猟採集民系統をいくらか有しています。その割合はおもに集団間の地理的距離と関連しています。コイサンなどの狩猟採集民集団との地理的距離が近い農耕民集団では、狩猟採集民系統の割合が増加します。サハラ砂漠以南のアフリカでは、狩猟採集民集団は農耕民集団よりも遺伝的に多様で、本論文はこれをバンツー語族集団の拡大と関連している、と推測しています。

 サハラ砂漠以北となるリビア人のようなアフリカ北部集団は、サハラ砂漠以南のアフリカ集団よりもユーラシア集団(その中でも東部よりも西部の方)と近縁で、サハラ砂漠はアフリカの人類集団にとって大きな障壁となっていたかもしれません。一方、アフリカ北部集団とユーラシア西部集団の遺伝的近縁性から、現生人類の移動にとって地中海よりもサハラ砂漠の方が大きな障壁だった、と考えられます。また、アフリカ北西部・北部中央・中央部北方の集団において近親交配の痕跡が確認されましたが、その程度の推定のためには、より多くの標本が必要になる、と本論文は指摘しています。アラビア人集団とイラン人集団では、歴史的に近親交配の頻度が高かった、と推測されていますが(関連記事)、アフリカの一部集団でも同様なのか、注目されます。

 有効人口規模は、10万年前頃まではアフリカとユーラシアの各地域集団でほぼ同じです。これは、現代人の各地域集団への分岐が10万年前頃以降に始まった可能性を示唆しています。ただ、コイサン集団系統の分岐はもっとさかのぼる可能性が高そうです。ユーラシア集団とアフリカ北部集団では10万~4万年前頃まで有効人口規模が減少し、その後も1万年前頃までは有効人口規模が小さかったのにたいして、サハラ砂漠以南のアフリカ集団は10万年前頃から1万年前頃近くまでほぼ一貫してユーラシアおよびアフリカ北部集団よりも有効人口規模がずっと大きく、同じく人口減少を経ているものの、減少率はユーラシアおよびアフリカ北部集団よりも低くなっています。バカピグミーでは3万年前頃に有効人口規模が急増していますが、これが人口の増加もしくは分離と混合のどれに起因するのか推測するには、今後の分析が必要になる、と本論文は指摘しています。

 本論文は古代型人口(集団)との交雑関係について、6通りのモデルを検証しました。現生人類は、アジア東部(EAs)、ヨーロッパ(Eu)、サハラ砂漠以南アフリカ西部(WAf)、ムブティピグミー(Mbt)、コイサン(Kho)が、非現代人系統では、アルタイ地域の東方ネアンデルタール人(N)および非アフリカ系現代人の共通祖先と交雑したネアンデルタール人系統(NI)、ネアンデルタール人やデニソワ人と近縁で現生人類系統と交雑したと推定されるゴースト集団(Xn)、アルタイ地域のデニソワ人(DI)、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と分岐したゴースト集団(Xe)、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の現生人類系統から現代人系統と分岐した推定上のアフリカ系統(XAf)が検証対象とされました。6通りのモデルのうち、Bの可能性が最も高い、という結果が得られました。以下に掲載する本論文の図4に、6通りのモデルが示されています。
画像

 現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人およびデニソワ人との交雑については、じゅうらいの見解と同じく、アフリカ北部およびユーラシア集団で低頻度ながら見られたのにたいして、サハラ砂漠以南のアフリカ集団では見られませんでした。本論文は、ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先系統と分岐した後の現生人類系統から現代人系統と分岐した推定上のアフリカ系統(XAf)が、サハラ砂漠以南のアフリカ集団の複数系統(コイサン、ムブティピグミー、西部)と10万年前~5万年前頃にかけて交雑した、と推定しています。ただ、本論文はネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との分岐を43万年前頃と推定しており、これは新しすぎるのではないか、と思います(関連記事)。本論文の見解に関しては今後さらに研究が進むでしょうが、アフリカの環境条件を考えると、ネアンデルタール人やデニソワ人のような非現生人類のDNA解析はおそらく無理でしょう。そうすると、研究の進展には現代人のゲノム規模データの蓄積が必要となります。上述のように、アフリカに留まった現生人類(Homo sapiens)は「純粋なサピエンス」との認識もネットではよく見られるので、この問題に関する研究の進展が大いに期待されます。


参考文献:
Lorente-Galdos B. et al.(2019): Whole-genome sequence analysis of a Pan African set of samples reveals archaic gene flow from an extinct basal population of modern humans into sub-Saharan populations. Genome Biology, 20, 4, 77.
https://doi.org/10.1186/s13059-019-1684-5

白村江の戦い補足

 1年ほど前(2018年6月2日)に、日本は百済の植民地だったとする説を取り上げました(関連記事)。それと関連する説として、倭(日本)と百済との特別に親密な関係を想定する見解も取り上げました。そうした見解では、日本の王族(皇族)の故地は百済だった、と示唆されることも珍しくありません。唐との無謀な戦いに挑み、白村江で惨敗するに至ったのには、日本と百済の特殊な関係があったからだ、というわけです。かつて、天智天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)は百済の王族だった、との説さえ主張されたほどです。しかし、1年ほど前の記事で指摘したように、結果的に白村江の戦いでの惨敗に終わった日本による百済救援は、当時の「国際情勢」で理解できる妥当なものであり、それはその後の対朝鮮半島外交も同様なので、日本と百済との特別に親密な関係を想定する必要はないと思います。

 百済は660年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に滅亡したとはいえ、復興運動はかなりの成果を収め、一時は旧領の過半を回復する勢いを見せました。5世紀後半にも百済は滅亡しかけてから復興しており、百済(残党)への支援は、当時としては無謀とは言えないでしょう。もちろん、南北朝時代だった5世紀後半とは異なり、660年には唐が存在し、その唐が新羅と共に百済を滅ぼした、という状況の違いはあります。しかし、当時はまだ高句麗が健在で、唐は太宗の時代と白村江の戦いの少し前にも高句麗に攻め入って撤退していました。客観的に見ても、当時、日本が百済救援方針を採用しても無謀とまでは言えないでしょう。もちろん、日本が激動の朝鮮半島情勢を傍観する選択肢も、唐・新羅と組む選択肢もあったわけですが、百済救援方針が無謀とは考えられなかったことと、窮地にある百済にたいして決定的に優位に立てそうなことから、百済救援方針が採用されたのでしょう。日本は、長年日本に滞在し、復興百済の王に迎えられることになった余豊璋に織冠を授けており、(将来の)百済王を明確に臣下に位置づけられる、という政治的成果に大きな価値を認めたのでしょう。

 1年ほど前の記事ではこのように述べたのですが、その後で読んだ浅野啓介「白村江の戦い」佐藤信編『古代史講義【戦乱篇】』にて、百済復興運動の中心となった鬼室福信のもたらした情報から、唐は戦いに介入してこないだろう、と日本の首脳層が判断していた、との見解が提示されていました(関連記事)。もちろん、鬼室福信のもたらした情報に希望的観測側面が多分にあったことは否定できないでしょう。しかし、これは単なる望的観測ではなく、唐の高宗(李治)は百済(残党)にたいする大規模な軍の派遣に慎重だったものの、劉仁軌の進言により大規模な唐水軍が朝鮮半島へと派遣された、という事情がありました。鬼室福信が日本にもたらした情報には一定以上の現実性があったわけで、この観点からも、白村江の戦いへといたる日本の選択を、単なる無謀とみなすことは妥当ではなく、したがって日本と百済との間の特別に親密な関係を想定する必要はない、と思います。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第23回「大地」

 金栗(池部)四三を免職にしようという動きに反対する東京府立第二高等女学校の学生たちは教室に立て籠もり、中心的人物である村田富江は、父との100m走に勝ち、父に女子のスポーツ教育を認めさせ、四三は免職されずにすみます。反省する四三を、いつか正しいと認められる時代が来る、と嘉納治五郎は励ましす。その嘉納は、神宮の競技場完成の目途が立ったことで、意気軒昂でした。そんな中、1923年9月1日、関東大震災が発生します。四三は浅草に出かけたシマを探しに行きますが、見つかりません。四三は村田富江から、シマが凌雲閣の12階にいた、と聞かされます。凌雲閣は半壊しており、半ば諦めかけていたシマの夫を四三は励まします。

 今回は関東大震災が描かれ、重い雰囲気で話が展開しました。今回も古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面がそれなりに長く描かれましたが、関東大震災時の一庶民の苦難を描くという意味では、悪くはなかった、と思います。シマが五りんの祖母だったことも明かされ、本筋とのつながりも見えてきました。私のように、本筋とのつながりがそのうち描かれると期待して視聴し続けていた私は楽しめましたが、これまでの本筋とのつながりの悪さは否めず、それが視聴率低迷の一因でもあるのでしょう。無責任な外野は本作の視聴率低迷を面白おかしく騒ぎ立てますが、そうした声には惑わされず、制作を続けてもらいたいものです。

ポーランド中央部における新石器時代~前期青銅器時代の人類史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ポーランド中央部における新石器時代~前期青銅器時代の人類集団の遺伝的構成の変容に関する研究(Fernandes et al., 2018)が公表されました。ヨーロッパ系現代人は遺伝的に、更新世の狩猟採集民、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに到来した農耕民、後期新石器時代~青銅器時代にかけてポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた遊牧民の混合により形成されました。ヨーロッパの新石器時代の農耕民集団は、在来の狩猟採集民集団と混合していきましたが(関連記事)、その進展は地域により異なります(関連記事)。

 本論文は、ポーランド中央部北方のクヤヴィア(Kuyavia)地域の、紀元前4300~紀元前1900年頃となる中期新石器時代から早期青銅器時代の17人のゲノム規模データを分析しました。クヤヴィア地域の考古学的な時代区分は、紀元前5400~紀元前5000年頃の線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)、紀元前4700~紀元前4000年頃となるレンジェル文化(Lengyel Culture)、紀元前3800~紀元前3000年頃の漏斗状ビーカー文化(Funnel Beaker Culture、TRB)、紀元前3000~紀元前2300年頃の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、GAC)、紀元前2700~紀元前2200年頃の縄目文土器文化(Corded Ware Culture、CWC)、紀元前2500~紀元前1900年頃の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)となり、一部が共存しています。レンジェル文化で本論文においてゲノム解析の対象となったのは、ブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、BKG)です。平均網羅率は0.71~2.50倍です。

 BKGは遺伝的にはおおむねヨーロッパの中期新石器時代農耕民集団と類似していますが、N22とN42の2人は例外です。N22はヨーロッパ西部狩猟採集民集団(WHG)ときわめて近縁で、N42は前期~中期新石器時代農耕民集団とWHG系統の中間に位置します。クヤヴィア地域の人類集団の遺伝的構成でまず注目されるのは、BKGからGACにかけて、WHG系統要素が増加していることです。これは、在来の狩猟採集民との混合によるものと推測されます。紀元前4300年頃のN42個体はほぼWHG系統なので、クヤヴィア地域においては、紀元前5400年頃のLBK農耕民の到着から少なくとも紀元前4300年頃までの1000年以上、外来の農耕民集団とほとんど混合しなかった狩猟採集民集団が存在し、両者は共存していた、と推測されます。こうしたWHG系統の増加(復活)傾向はドイツ中央部のTRB集団でも見られますが、本論文は、クヤヴィア地域ではそれ以前のBKGで見られることから、農耕民集団と狩猟採集民集団との混合はLBKの後に起きたのではないか、と推測しています。これに関して本論文は、クヤヴィア地域だけではなくヨーロッパ中央部でこの時期に一般的に見られる、人口減少との関連を指摘しています。農耕民集団にとって、狩猟採集民との密接な接触はLBK後の集団存続の鍵となったのではないか、というわけです。

 BKG・TRB・GAC集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)には、ヨーロッパの新石器時代農耕民によく見られるN1a・T2・J・K・Vが含まれており、ゲノム規模データと一致します。なお、N22はU5a、N42はU5bです。新石器時代の個体群でY染色体DNAハプログループ(YHg)が解析された3人はI2a2aに分類されています。本論文は、BKGにおけるmtHg- U5とYHg- Iが中石器時代のヨーロッパ起源であることから、クヤヴィア地域では更新世の狩猟採集民集団が母系でも父系でも新石器時代農耕民社会で存続しており、類似の事例はカルパチア盆地やバルカンでも報告されている、と指摘しています。

 クヤヴィア地域の人類集団の遺伝的構成が大きく変わるのは後期新石器時代で、CWC集団において、ポントス-カスピ海草原系統(草原地帯系統)の遺伝的影響が強く見られます。これは、青銅器時代の1個体のYHgがR1aであることとも一致します。一方、CWCとかなり年代の重なるGACには、草原地帯系統が見られません。またGACでは、それ以前の集団よりもWHG系統の割合が増加しています。草原地帯系統の欠如と高いWHG系統の割合という特徴は、クヤヴィア地域だけではなく、ポーランドのキエシュコボ(Kierzkowo)の5人とウクライナのイラーツカ(Ilatka)の3人でも確認されています。ただ、これらはGACの早期集団なので、後期GAC集団には草原地帯系統が存在したかもしれない、と本論文は指摘しています。クヤヴィア地域のCWC集団に関して本論文が注目しているのは、既知のCWC集団よりもWHG系統の割合が高いことです。これは、上述のように、クヤヴィア地域では少なくとも紀元前4300年頃まで、アナトリア半島起源の農耕民集団と混合しなかった狩猟採集民集団が存在したことと関連しているのではないか、と本論文は推測しています。それは、CWCと侵入してきた草原地帯文化集団との相互作用は複雑で、地域により異なっていた、との考古学的知見と一致している、と本論文は指摘しています。また、本論文刊行後の研究では、GAC集団とCWC集団との激しい争いを想定する見解も提示されています(関連記事)。

 ヨーロッパ系現代人の形成過程は、上述のように大まかには、更新世の狩猟採集民、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに到来した農耕民、後期新石器時代~青銅器時代にかけてヨーロッパに拡散してきた草原地帯遊牧民の混合と把握されます。しかし、その融合時期や混合の比率が各地域により異なっていたことは、本論文でも改めて示されたと思います。古代DNA研究の進展は著しいのですが、近代以降の知の中心・基準となり遺跡の発掘・研究が進んでいることと、DNAの保存に比較的好条件の環境であることから、ヨーロッパが中心となっています。本論文を読んで改めて、ヨーロッパにおける古代DNA研究が進展していることを思い知らされました。日本列島も含むユーラシア東部圏の古代DNA研究が、ヨーロッパも含むユーラシア西部と比較して大きく遅れていることは否定できませんが、日本人である私としては、今後少しでもヨーロッパとの差が縮まってほしい、と希望しています。


参考文献:
Fernandes DM et al.(2018): A genomic Neolithic time transect of hunter-farmer admixture in central Poland. Scientific Reports, 8, 14879.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-33067-w

自然と健康・幸福感の関係

 自然と健康・幸福感の関係についての研究(White et al., 2019)が公表されました。この研究は、イギリスの成人19806人を対象として、過去1週間に自宅の庭を除く野原や森林などの自然環境で過ごした時間と、自己申告に基づいた健康と幸福感について調査しました。この調査によると、自然の中で120分以上過ごしたと申告した人は、「健康状態が良い」または「幸福感が強い」と申告する傾向が強く見られました。この研究は、こうした関連が近隣の利用可能な緑地の規模とは無関係なことを明らかにしました。さらに、この関連は全ての年齢層の参加者(長期的な健康問題を抱えている人を含む)に見られ、この知見が、単に健康状態の良好な人々の方が自然環境を訪れる頻度が高いことによるものではない、という可能性が示唆されました。

 またこの研究は、一度に自然の中で120分を過ごした場合と短時間の自然環境への訪問を1週間に数回行った場合では差が生じなかった、と報告しています。自然の中で過ごした時間が週120分未満である場合は、幸福感の向上との関連が認められませんでしたが、自然環境で200~300分を過ごしても、さらなる効果は得られませんでした。この研究は、こうした知見は予備的なものではあるものの、健康と幸福感の有意な向上をもたらす可能性のある自然環境と触れ合う時間に関して、証拠に基づいたシンプルな勧告を示して議論するうえで、重要な出発点になると結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【健康】自然の中で過ごすことが健康と幸福感の向上につながる

 週120分以上を自然環境で過ごすことが、健康と幸福感に関連することを明らかにした研究論文が、今週掲載される。

 今回、Mathew Whiteたちの研究グループは、イギリスの成人1万9806人を対象として、過去1週間に野原や森林などの自然環境(自宅の庭を除く)で過ごした時間と、自己申告に基づいた健康と幸福感について調査した。この調査によると、自然の中で120分以上過ごしたと申告した人は、「健康状態が良い」または「幸福感が強い」と申告する傾向が強かった。

 Whiteたちは、この関連が近隣の利用可能な緑地の規模とは無関係なことを見いだした。また、この関連は全ての年齢層の参加者(長期的な健康問題を抱えている人を含む)に見られ、この知見が、単に健康状態の良好な人々の方が自然環境を訪れる頻度が高いことによるものではない可能性が示唆された。またWhiteたちは、一度に自然の中で120分を過ごした場合と短時間の自然環境への訪問を1週間に数回行った場合では、差が生じなかったと報告している。自然の中で過ごした時間が週120分未満である場合は、幸福感の向上との関連が認められなかったが、自然環境で200~300分を過ごしても、さらなる効果は得られなかった。

 Whiteたちは、今回の知見は予備的なものではあるが、健康と幸福感の有意な向上をもたらす可能性のある自然環境と触れ合う時間に関して証拠に基づいたシンプルな勧告を示すことを議論する上で、重要な出発点になると結論付けている。



参考文献:
White MP et al.(2019): Spending at least 120 minutes a week in nature is associated with good health and wellbeing. Scientific Reports, 9, 7730.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44097-3

ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連

 ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連についての研究(Rogers et al., 2019)が公表されました。この研究は、民間の医療保険会社から入手した非特定化データを用いて、2001~2017年にアメリカ合衆国で生まれた乳児147万4535人のコホートを調べました。その結果、ロタウイルスワクチンの接種を完了した(必要な用量のワクチンを接種された)小児は、ワクチン接種を受けていない小児より1型糖尿病のリスクが低い、と明らかになりました。2006~2017年に生まれ、ワクチン接種を受けた小児540317人のうち、糖尿病を発症したのが192人だった(年間10万人当たり12.2人に相当)のにたいして、同時期に生まれ、ワクチン接種を受けていない乳児246600人のうち糖尿病を発症したのは166人でした(年間10万人当たり20.6人に相当)。ワクチンの部分接種(接種回数が1~2回不足している場合)は、糖尿病の罹患率との関連が認められませんでした。

 2006~2017年の間には、2種類のロタウイルスワクチン(5種類のロタウイルスに対する防御をもたらす五価ワクチンと、1種類のロタウイルスに対する防御をもたらす一価ワクチン)が使用されていました。いずれかのワクチンを接種された小児は、接種されなかった小児と比較して、ロタウイルス感染による入院率が94%低く、ワクチン接種後60日以内の入院者数は、全体で31%少ない、と明らかになりました。この結果は、これらのワクチンが安全であることを示唆している、と考えられます。五価ワクチンの3回接種を完了した乳児は、1型糖尿病のリスクが37%低下しました。

 ヒトと動物の先行研究から、ロタウイルス感染は、1型糖尿病やβ細胞の破壊、膵臓のロタウイルス感染と関連している、と明らかになっています。ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連をより詳細に調査するためには、さらなる研究が必要となりますが、この研究は、ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病の予防に役立つ実用的な手段となる可能性がある、との見解を提示ています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【公衆衛生】ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病のリスク低下と関連

 乳児を対象とした研究で、下痢や体調不良の一般的な原因の1つであるロタウイルスに対するワクチンの定期接種が1型糖尿病のリスク低下と関連しているという見解を示す論文が、今週掲載される。

 今回、Mary Rogersたちの研究グループは、民間の医療保険会社から入手した非特定化データを用いて、2001~2017年に米国で生まれた乳児147万4535人のコホートを調べた。その結果、ロタウイルスワクチンの接種を完了した(必要な用量のワクチンを接種された)小児は、ワクチン接種を受けていない小児より1型糖尿病のリスクが低いことが明らかになった。2006~2017年に生まれ、ワクチン接種を受けた小児54万317人のうち、糖尿病を発症したのは192人だった(年間10万人当たり12.2人に相当)。これに対し、同時期に生まれ、ワクチン接種を受けていない乳児24万6600人のうち糖尿病を発症したのは166人だった(年間10万人当たり20.6人に相当)。ワクチンの部分接種(接種回数が1~2回不足している場合)は、糖尿病の罹患率との関連が認められなかった。

 2006~2017年の間には、2種類のロタウイルスワクチン(5種類のロタウイルスに対する防御をもたらす五価ワクチンと、1種類のロタウイルスに対する防御をもたらす一価ワクチン)が使用されていた。いずれかのワクチンを接種された小児は、接種されなかった小児に比べてロタウイルス感染による入院率が94%低かった。また、ワクチン接種後60日以内の入院者数は、全体で31%少なかった。この結果は、これらのワクチンが安全であることを示唆していると考えられる。五価ワクチンの3回接種を完了した乳児は、1型糖尿病のリスクが37%低下した。

 ヒトと動物の先行研究から、ロタウイルス感染は、1型糖尿病やβ細胞の破壊、膵臓のロタウイルス感染と関連していることが明らかになっている。ロタウイルスワクチン接種と1型糖尿病のリスク低下との関連をより詳細に調査するためにはさらなる研究が必要だが、Rogersたちは、ロタウイルスワクチン接種が1型糖尿病の予防に役立つ実用的な手段となる可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Rogers MAM, Basu T, and Kim C.(2019): Lower Incidence Rate of Type 1 Diabetes after Receipt of the Rotavirus Vaccine in the United States, 2001–2017. Scientific Reports, 9, 7727.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44193-4

渡邉義浩『漢帝国 400年の興亡』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年5月に刊行されました。本書は秦王朝崩壊期から『三国志』の時代までを対象とし、漢王朝の前提となる秦の制度と、漢王朝滅亡後の漢の「古典化」にも言及しています。本書は、「漢」がいかに「中国の古典」となったのか、儒教を中心に解説しています。古典的というか通俗的見解では、前漢武帝期に儒教が国教化された、となっています。しかし日本でも、20世紀後半には一般向け書籍でそうした見解が批判的に取り上げられるようになり、私のような非専門家層にも、かなり知られるようになったのではないか、と思います。

 本書も、前漢武帝期に儒教が「国教化」されたわけではなく、前漢景帝期に始まり、後漢章帝期の白虎観会議(紀元後79年)で完成した、との見解を提示しています。本書はこの過程を、多様な儒教解釈の変遷から検証しています。正直なところ、儒教史に疎い私にとって、一読しただけで的確に全体像を把握するのは無理だったので、今後再読するつもりです。前漢成立後、儒教は時の権力者に取り入るため、多様な解釈を提示します。この権力者の中には、皇帝だけではなく、霍光や王莽のような権臣もいます。霍光はあくまでも臣下の地位に留まり続けましたが、王莽は儒家の新解釈も利用して皇帝に即位します(新王朝)。本書では、儒教が柔軟な解釈で時の権力者に取り入っていった様子が鮮やかに叙述されており、儒教が「国教」となり、「中国の古典」の中核となったことも納得できます。

 本書の主題は漢王朝がいかに「中国の古典」になったのか、ということであり、儒教解釈の変遷が詳しく解説されているので、表題から受ける印象とは異なり、前後合わせて400年ほどの漢王朝の一般向けの標準的な通史という性格は弱くなっているように思います。しかし、本書冒頭の秦王朝崩壊期における劉邦と項羽の覇権争いの解説はかなりのところ古典的というか通俗的な物語的な叙述になっており、読み終わってから振り返ると、本書の中では浮いてしまっているようにも思います。まあ、この時代に関しては子供の頃に得た知識からあまり上積みのない私にとって、なじみ深い叙述ではありましたが。本書を読み始めた時は、一般向けを強く意識した物語的な漢王朝史になるのかな、と予想しただけに、その後の儒教解釈の変遷の(一般向けとしては)詳しい解説が始まると、やや戸惑いました。秦王朝崩壊期に関する一般向け書籍は何冊か所有しているので、21世紀以降のものを再読して、近年の研究成果に基づいた解説を再度把握しておこう、と考えています。

澤藤りかい他「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P10-15)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散と、各地域集団の形成過程に関する近年の研究動向を整理しています。本論文はまず、昨年(2018年)刊行された『交雑する人類』(関連記事)を取り上げ、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散を概観しています。39000年以上前にユーラシアへと拡散した現生人類については、45000年前頃となるシベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡の個体(関連記事)も40000年前頃となるルーマニアのワセ(Oase)遺跡の個体(関連記事)も、現代にはほとんど子孫が残っておらず、39000年前頃のイタリア半島の噴火のためではないか、と指摘されています。ただ、この噴火によりヨーロッパの現生人類が絶滅したとの見解には異論もあります(関連記事)。

 39000年前頃以降のヨーロッパでは、現代人にも遺伝的影響を残した狩猟採集民系統が拡散します。それを代表するのは、37000年前頃のヨーロッパロシアのコステンキ14(Kostenki 14)遺跡の個体(関連記事)と35000年前頃のベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡の個体(関連記事)で、文化的にはオーリナシアン(Aurignacian)期となります。32000~22000年前頃のヨーロッパでは、オーリナシアン期の集団と遺伝的に近縁で、文化的にはグラヴェティアン(Gravettian)の狩猟採集民集団が広く拡散します。地理的に広範囲に拡散したにも関わらず、この狩猟採集民集団は遺伝的にひじょうに類似していました。

 19000~14000年前頃のヨーロッパでは、最終氷期極大期(LGM)が終了して温暖化が進展し、寒冷期に待避所的な地域だったイベリア半島から、人類集団が再拡大します。この集団は文化的にはマグダレニアン(Magdalenian)となり、19000年前頃となるスペイン北東部のエルミロン(El Mirón)遺跡の個体は、ベルギーのオーリナシアン期の個体と遺伝的に近縁です。一方、この時期のベルギーのゴイエット個体は、グラヴェティアン期の集団と遺伝的に近縁でした。14000年前頃になると、さらに温暖化が進展して氷河が広範に融解していき、ヨーロッパ南東部のイタリア半島やバルカン半島から拡散した集団が、先住集団をおおむね置換した、と推測されています(関連記事)。この集団は、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体に代表され、現代の中東集団とも遺伝的に近縁な関係にあります。

 5万年前頃?以降、ユーラシア東部に拡散した現生人類は、サフルランド(更新世寒冷期にニューギニア島・オーストラリア大陸・タスマニア島が陸続きとなって形成された大陸)系統とアジア東部(および南東部)系統に分岐します。アジア東部では9000年前頃以降、同じユーラシア東部狩猟採集民系統ではあるものの、大きく異なる黄河集団と揚子江集団がそれぞれ農耕を開始し、この2集団が衝突・交雑し、北から南への祖先系統の勾配が形成されます。まだ遺伝的には特定されていない揚子江集団は陸路でベトナムとタイ、海路で台湾島という2経路で拡散しました。チベット人は、黄河集団から2/3、在来の狩猟採集民集団から1/3の遺伝的影響を受けて成立したのではないか、と推測されています。

 アジア南東部では、揚子江集団と在来の狩猟採集民集団との混合により現代人につながる各地域集団が形成された、と推測されています(関連記事)。この移住の大きな波は2回あり、最初は4000年前頃以前に農耕をもたらした集団、次が2000年前頃に青銅器文化をもたらした集団です。アジア南東部在来の狩猟採集民集団については、アフリカからユーラシア南部を東進してきてアジア南東部に到達し、アジア東部やサフルランドに拡散せず、アジア南東部に留まった集団が基盤となったようです(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)との交雑に関しては、ユーラシア東西でそれぞれ複数回あっただろう、との見解(関連記事)が採用されています。ただ、ヨーロッパ系現代人よりもアジア東部系現代人の方が、ネアンデルタール人由来のゲノム領域の割合が高い理由については、依然として不明と指摘されています。現生人類と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑についても、複数回説(関連記事)が採用されています。今年(2019年)4月に公表された研究でも、現生人類とデニソワ人の交雑複数回説が主張されています(関連記事)。デニソワ人については、最近情報をまとめました(関連記事)。

 愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」については、すでにアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団との遺伝的近縁性が指摘されており、「縄文人」も含めてアジア南東部および東部の最初期現生人類集団が、ユーラシア南方経路でアフリカから拡散してきたのではないか、と推測されています(関連記事)。本論文は「伊川津縄文人(IK002)」を主役とした論文を現在準備中と述べていますが、まだ査読中ではあるものの、最近公開されました(関連記事)。また、アゼルバイジャンの古人骨のゲノム解析も試みられているとのことで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
澤藤りかい、木村亮介、石田肇、太田博樹(2019)「東アジア・東南アジアのヒトの遺伝的多様性とその形成過程」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P10-15

地球最古の菌類

 地球で最古かもしれない菌類についての研究(Loron et al., 2019)が公表されました。菌類は現代の生態系の重要な構成要素で、陸上での最初の生命の徴候と関連しています。しかし、これまで明確な菌類化石の最古の年代は約4億年前で、古生代中期より古い菌類の化石記録は存在していませんでした。この研究は、カナダ北極域のノースウエスト準州にあるグラッシーベイ累層から出土し、河口性の頁岩に保存されていた有機壁を持つ約10億~9億年前の微化石(Ourasphaira giraldae)標本について報告しています。

 この研究は、分離菌糸を同定して、微化石標本の細胞壁にキチン(菌類の細胞壁を形成する繊維状物質)が存在していると明らかにし、この微化石の構造が菌類に特徴的と結論づけています。この新知見は、地質学的記録に残された最古のキチンを示しています。また、この知見により、オピストコンタ(動物と菌類が含まれるクラウン群真核生物)の出現時期がじゅうらいの推定よりもずっと前にさかのぼることも明らかになりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【化石】地球に初めて出現した菌類?

 カナダ北極域の頁岩層に保存されていた大量の化石菌類が、10億~9億年前のものと年代決定されたことを報告する論文が、今週掲載される。先行研究では、明確な地球最古の菌類の化石記録の年代は少なくとも4億年前であるという測定結果が得られていたが、今回の知見によって原生代中期までさかのぼることとなった。

 菌類は現代の生態系の重要な構成要素であり、陸上での最初の生命の徴候と関連している。それにもかかわらず、約4億年前の古生代中期より古い菌類の化石記録は存在していなかった。

 今回、Corentin Loronたちの研究グループは、カナダのノースウエスト準州にあるグラッシーベイ累層から出土した河口性の頁岩に保存されていた有機壁を持つ微化石Ourasphaira giraldaeの標本について報告している。Loronたちは、分離菌糸を同定して、微化石標本の細胞壁にキチン(菌類の細胞壁を形成する繊維状物質)が存在していることを明らかにし、これによってO. giraldaeの構造が菌類に特徴的なものだと結論付けている。この新知見は、地質学的記録に残された最古のキチンを示している。また、この知見によって、オピストコンタ(動物と菌類が含まれるクラウン群真核生物)の出現時期はこれまで考えられていたよりもずっと前にさかのぼることになった。


古生物学:カナダ北極域で見つかった原生代の初期菌類

古生物学:最初の菌類

 菌類の化石記録における最初の明確な記録は、陸上に生命が存在したことを示す最初のしるしと結び付けられていて、これは約4億年前の頁岩に存在する。C Loronたちは今回、菌類の化石記録を原生代の中期にまでさかのぼらせた。これは、カナダ北極域の10億~9億年前の頁岩中に保存されていた、有機物からなる細胞壁を持つ多細胞生物の微化石の大量の記録によるものである。これらの微化石はOurasphaira giraldaeのもので、その形態は菌類の特徴を示していて、複数に分枝した有隔菌糸を持ち、キチンの存在が明らかになった。これはキチンの存在を示す最古の地質学的記録で、菌類との類似性を強く示している。この記録はまた、オピストコンタ(後生動物、菌類とそれらに類縁の原生生物から構成される)の起源を原生代にまでさかのぼらせるものである。



参考文献:
Loron CC. et al.(2019): Early fungi from the Proterozoic era in Arctic Canada. Nature, 570, 7760, 232–235.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1217-0

『ドラえもん』「ネアンデルタール人を救え」

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について検索していたら気づいたので、録画して視聴しました。『ドラえもん』を視聴するのはいつ以来なのか、思い出せないくらいですが、21世紀になってからは視聴していないと思います。本当に久しぶりの視聴でしたが、記憶にある声とはずいぶんと違っていたのには戸惑いました。そういえば、かなり前に、『ドラえもん』の声優陣が交代する、と報道があったように記憶しています。検索したら、2005年に主要キャラの声優が交代したそうです。

 話の方は、博物館でネアンデルタール人の展示を見てきた、と自慢げにスネ夫が語ったことから、のび太と静香がネアンデルタール人に興味を抱き、ドラえもんと共にタイムマシーンでネアンデルタール人の存在していた時代に行く、というものです。のび太たちの行った世界では、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)が共存しており、ジャイアンに似たネアンデルタール人男性、スネ夫に似た現生人類男性、のび太に似た現生人類女性がいました。スネ夫の仲間の男性2人も登場します。

 もちろん、子供向け娯楽アニメ作品なので、かなりデフォルメされているわけですが、現生人類と比較してのネアンデルタール人の力強さや、ネアンデルタール人所産の壁画・ネックレスにも言及されており、かなり調べた上で書かれた脚本だと思います。ネアンデルタール人の方は1人しかおらず、現生人類の方は少なくとも4人いることも、両者がヨーロッパで遭遇した時、現生人類の方が人口はずっと多かった、との知見(関連記事)を踏まえたものだと思います。ネアンデルタール人にたいする一般的な印象に関しては、専門的な知見を踏まえた一般向け書籍やドキュメンタリー番組よりも、人気娯楽作品の方の影響が大きいでしょうから、今回のような最新の知見を踏まえたうえでの脚本は望ましいものだと思います。

 ジャイアンに似たネアンデルタール人男性は、のび太に似た現生人類女性に恋をします。ジャイアンに似たネアンデルタール人は気弱な男性なので、のび太に似た現生人類女性は彼を仲間に受け入れようとするものの、スネ夫たち現生人類男性3人は反対します。けっきょく、ジャイアンに似たネアンデルタール人は力強さを見せて現生人類の仲間に受け入れられるわけですが、のび太たちがタイムマシーンで現代に戻る時、現代人もネアンデルタール人のDNAを2%ほど受け継いでいる、とドラえもんが説明していることと関連していると思います。これは、ジャイアンに似たネアンデルタール人が自分たちの先祖かもしれない、との静香の発言とともに、ネアンデルタール人と現生人類との交雑という最新の知見を踏まえたものなのでしょう。子供向け娯楽アニメ作品の枠を守りつつも、最新の知見を踏まえた内容になっており、全体的にはなかなか良質な作品になっていたと思います。

ハリスホークの獲物追跡

 ハリスホーク(Parabuteo unicinctus)の獲物追跡に関する研究(Brighton, and Taylor., 2019)が公表されました。先行研究から、ハヤブサは「比例航法」と呼ばれる自動追尾ミサイルと同じ誘導則を用いて、獲物を迎撃すると明らかになっています。しかし、比例航法では、機動性の高い獲物に狙いを定めた時に、タカなどの他の鳥類種が頻繁に行き来する雑然とした生息域を飛行する実行可能な経路が得られません。この研究は、飼育下繁殖された5羽のハリスホーク(モモアカノスリ)が、不規則ですばやく飛行する人工標的を追跡するさいの飛行50回の軌跡を高速度カメラで撮影したうえで、その飛行をモデル化し、ハリスホークの攻撃軌跡との一致度が最も高い数学的誘導則を突き止めました。

 その結果、ハリスホークが混合誘導則を用いている、と明らかになりました。すなわち、追跡飛行における方向転換が、視線の変化率、およびハリスホークの攻撃方向と標的に対する視線の間の角度(偏差角)に関するフィードバックによって決まる、というわけです。この研究は、こえした混合則が応答速度を向上させ、追跡におけるオーバーシュート(追跡していた獲物より前に飛び出してしまうこと)のリスクを低減させ、獲物の不規則で機動的な飛行に惑わされないようにしている、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物学】ハリスホークの狩猟に用いられる混合誘導システム

 タカ科のハリスホーク(モモアカノスリ)が獲物を追跡する際に飛行を誘導するために用いられ、獲物の不規則で機動的な飛行に惑わされないようにするフィードバックシステムが、数学的な混合誘導則に基づいていることを明らかにした論文が、今週掲載される。

 先行研究から、ハヤブサは自動追尾ミサイルと同じ誘導則(いわゆる「比例航法」)を用いて獲物を迎撃することが明らかになっている。しかし、比例航法では、機動性の高い獲物に狙いを定めた時に、タカなどの他の鳥類種が頻繁に行き来する雑然とした生息域を飛行する実行可能な経路が得られない。

 今回、Graham TaylorとCaroline Brightonは、飼育下繁殖された5羽のハリスホークが不規則ですばやく飛行する人工標的を追跡する際の飛行50回の軌跡を高速度カメラで撮影した上で、その飛行をモデル化して、ハリスホークの攻撃軌跡との一致度が最も高い数学的誘導則を突き止めた。その結果、ハリスホークが混合誘導則を用いていることが判明した。すなわち、追跡飛行における方向転換が、視線の変化率、およびハリスホークの攻撃方向と標的に対する視線の間の角度(偏差角)に関するフィードバックによって決まることが分かった。著者たちは、この混合則が応答速度を向上させ、追跡におけるオーバーシュート(追跡していた獲物より前に飛び出してしまうこと)のリスクを低減させていると主張している。



参考文献:
Brighton CH, and Taylor GK.(2019): Hawks steer attacks using a guidance system tuned for close pursuit of erratically manoeuvring targets. Nature Communications, 10, 2462.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10454-z

ユーラシア草原地帯牧畜民の穀類消費の増加と地域間の相互作用

 ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類消費の増加と地域間の相互作用の関係を検証した研究(Miller, and Makarewicz., 2019)が報道されました。ユーラシア草原地帯はは、東西のヒト・家畜・物資・文化が行き交う重要な交通路であり、もちろんそれに留まらない独自の文化を開花させてきました。本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における穀類、とくにキビ(Panicum miliaceum)やアワ(Setaria italica)といった雑穀の消費がどのように定着していったのか、検証しています。こうした雑穀の栽培は、まずアジア東部、具体的には中国北部で紀元前六千年紀早期には始まっており、その後で西方へと拡散していった、と考えられます。

 この他にユーラシアで重要な穀類としてコムギとオオムギがあり、こちらはまずアジア南西部で紀元前8500年前頃までに栽培が始まり、紀元前6000年前頃までにはイラン高原へ、紀元前5500年前頃までにはパキスタンへというように、東方へと拡大していき、アジア東部には紀元前2000年前頃に到達しました。本論文は、人類遺骸の同位体分析を用いて、穀類がどれだけ消費されていたのか、地域と年代(紀元前5500年以前~紀元後500年)による違いを検証しています。C4植物のアワやキビの雑穀とC3植物のオオムギおよびコムギは、同位体分析により消費が区別されます。本論文での地域区分は、以下に引用する図2に示されています。
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 本論文は、ユーラシア草原地帯牧畜民における雑穀の消費が次第に西方に拡大していき、第一段階の低水準の消費から、紀元前二千年紀半ばとなる青銅器時代~鉄器時代移行期以後の第二段階に大きく増加した、と示します。たとえばミヌシンスク盆地では、第一段階となる紀元前三千年紀後期から紀元前二千年紀早期にかけての前期青銅器時代に、狩猟採集民による低水準の雑穀消費の可能性が指摘されています。青銅器時代にはすでに地域間の相互作用があり、雑穀も西方へと拡大していったわけですが、本論文は、雑穀消費が低水準であることと、同位体分析による雑穀消費の痕跡が、炭化した種子の最初の出現時期よりかなり遅れることから、ユーラシア草原地帯の牧畜民の雑穀は、まず儀式的に用いる威信財として少量の栽培から始まったのではないか、と推測しています。

 第二段階では、ユーラシア草原地帯の牧畜民で雑穀の消費が大きく増加します。本論文はこの要因として、ユーラシア草原地帯における複雑な政治的統合の拡大・強化を指摘しています。これにより、青銅器時代~鉄器時代移行期以後には、第一段階よりもさらに地域間の相互作用が強化されたのではないか、というわけです。本論文は、雑穀が威信財的な機能も担う希少作物だった第一段階と比較して、第二段階には牧畜民社会における支配層の地位を区別する食料へと変わっていったのではないか、と指摘しています。なお、雑穀の出現時期と場所から、雑穀は中国北部より新疆ウイグル自治区を経由して西方に拡散していったのではないか、と本論文は推測しています。

 一方、青銅器時代~鉄器時代移行期以後にも、雑穀がほとんど消費されない地域もありました。一方はモンゴル草原で、遊牧民的な生活に根差す生活様式に固執するようなイデオロギーがあったためではないか、と本論文は推測しています。モンゴル草原で雑穀の消費が増大するのは紀元前千年紀末に近く、これは匈奴の強大化との関連が指摘されています。もう一方はトランスウラル地域で、水の利用性や農耕技術とも関連して、コムギとオオムギが選択されたのではないか、と本論文は推測しています。

 このように、例外的な地域もあるとはいえ、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会では、当初はおそらく儀式用として希少だった雑穀が、政治的統合の拡大・強化とそれに伴う相互作用の増大により、次第に食料として定着していった様子が窺えます。一方で本論文は、ユーラシア草原地帯の牧畜民社会の雑穀消費が、同時代の中国の水準に及ばないことも指摘しています。中国では、漢王朝期でもおおむね、コムギ・オオムギ・マメ類は貧困層の飢饉対策用の社会的地位の低い食糧で、雑穀の方が重視されていたようです(関連記事)。この状況が変わるのは漢王朝末期で、製粉技術の革新により、コムギは麺類に用いられる価値の高い食材と認識されるようになりました。


参考文献:
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w

音楽と発話に対するヒトとサルの脳の応答

 音楽と発話に対するヒトとサルの脳の応答に関する研究(Norman-Haignere et al., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。発話と音楽はヒトに特有なものと考えられており、そこに含まれる倍音の周波数成分が、ピッチ(音の高低の度合い)として認識されます。ピッチを判別する能力は、発話と音楽にとって重要です。ヒトの場合、ピッチの知覚に関係していると考えられている脳の聴覚野は、雑音よりも倍音に対して強く応答しますが、これと類似した脳領域が他の動物に存在するのか、分かっていません。

 この研究は、機能的MRIを用いて、人工の倍音と録音されたマカクザルの発声などの天然の倍音に対するヒトとマカクザルの脳の応答を測定し、ピッチのない雑音に対する応答と比較しました。1つの実験では、4人のヒト被験者が倍音に対して強い応答を示しましたが、3匹のマカクザルにはこのような応答はほとんど見られませんでした。別の実験では、マカクザルの自然な発声と、それを加工して倍音の代わりに雑音を組み込んだ音声に対する、6人のヒトと5匹のマカクザルの脳の応答が測定され、ヒトの脳は倍音の発声に対する選択性がマカクザルの脳よりも強い、と明らかになりました。この研究は、聴覚皮質の構成がヒトとマカクザルで異なっており、発話と音楽がヒトにとって独自の重要性を持っていることが原因かもしれないと結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


音楽と発話に対するヒトとサルの脳の応答

 ヒトの脳の聴覚野には倍音に対する選好性が見られるが、マカクザルの脳にはこれが見られないことを報告する論文が、今週掲載される。

 発話と音楽はヒトに特有なものと考えられており、そこに含まれる倍音の周波数成分が、ピッチ(音の高低の度合い)として認識される。ピッチを判別する能力は、発話と音楽にとって重要だ。ヒトの場合、ピッチの知覚に関係していると考えられている脳の聴覚野は、雑音よりも倍音に対して強く応答するが、これと類似した脳領域が他の動物に存在するかは分かっていない。

 今回、Sam Norman-Haignereたちの研究グループは、機能的MRIを用いて、人工の倍音と録音されたマカクザルの発声などの天然の倍音に対するヒトとマカクザルの脳の応答を測定し、ピッチのない雑音に対する応答と比較した。1つの実験では、4人のヒト被験者が倍音に対して強い応答を示したが、3匹のマカクザルにはこのような応答はほとんど見られなかった。別の実験では、マカクザルの自然な発声と、それを加工して倍音の代わりに雑音を組み込んだ音声に対する6人のヒトと5匹のマカクザルの脳の応答を測定した。ヒトの脳は、倍音の発声に対する選択性がマカクザルの脳よりも強かった。

 Norman-Haignereたちは、聴覚皮質の構成がヒトとマカクザルで異なっており、発話と音楽がヒトにとって独自の重要性を持っていることが原因かもしれないと結論付けている。



参考文献:
Norman-Haignere SV. et al.(2017): Divergence in the functional organization of human and macaque auditory cortex revealed by fMRI responses to harmonic tones. Nature Neuroscience, 22, 7, 1057–1060.
https://doi.org/10.1038/s41593-019-0410-7

フランスのブドウの歴史

 フランスのブドウの歴史に関する研究(Ramos-Madrigal et al., 2019)が公表されました。ヨーロッパブドウ(Vitis vinifera)は6000年前に初めて栽培化され、多くの場合クローン化によって栽培されます。このため、種子が手に入る限り古くまで、系統をたどることができます。歴史資料によれば、ブドウは紀元前6世紀にギリシア人によりフランスへ持ち込まれたものの、フランス南部の大部分にワイン生産が広がったのは、紀元前1世紀になってローマ人に占領されてからのことでした。数千品種のブドウが文書記録により記録または特定されていますが、これまで現代の品種をその歴史的祖先と結び付けることは困難でした。

 この研究は、フランスの考古学的遺跡9ヶ所から得られた28個の種子のゲノムを解析しました。その年代は、中世からローマ時代、さらには鉄器時代(紀元前510~475年)までさかのぼります。解析の結果、全ての試料は野生ブドウではなく栽培品種のもので、現在のワイン生産に使用されている品種に近縁と明らかになりました。紀元後1050~1200年のものとされた試料1点は、現在の「サヴァニャン・ブラン」と遺伝的に同一であると確認され、この品種がフランスで900年近くにわたって栽培されてきたことが示されました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ブドウの歴史

 フランスのブドウの遺伝的祖先を明らかにした論文が、今週掲載される。この研究は、何百年も前に栽培されていたブドウ品種の一部が現在も使用されていることを示している。

 ヨーロッパブドウ(Vitis vinifera)は6000年前に初めて栽培化され、クローン化によって栽培されることが多い。このため、種子が手に入る限り古くまで、系統をたどることができる。歴史資料によれば、ブドウは紀元前6世紀にギリシャ人によってフランスへ持ち込まれたが、フランス南部の大部分にワイン生産が広がったのは、紀元前1世紀になってローマ人に占領されてからのことであったという。数千品種のブドウが文書記録によって記録または特定されているが、これまで現代の品種をその歴史的祖先と結び付けることは困難であった。

 今回、Nathan Walesたちの研究グループは、フランスの考古学的遺跡9か所から得られた28個の種子のゲノムを解析した。その年代は、中世からローマ時代、さらには鉄器時代(紀元前510~475年)までさかのぼる。解析の結果、全ての試料は野生ブドウではなく栽培品種のものであり、現在のワイン生産に使用されている品種に近縁であることが明らかになった。西暦1050~1200年のものとされた試料1点は、現在の「サヴァニャン・ブラン」と遺伝的に同一であることが確認され、この品種がフランスで900年近くにわたって栽培されてきたことが示された。



参考文献:
Ramos-Madrigal J. et al.(2018): Palaeogenomic insights into the origins of French grapevine diversity. Nature Plants, 5, 6, 595–603.
https://doi.org/10.1038/s41477-019-0437-5

初期現生人類のユーラシア東部への拡散経路

 初期現生人類(Homo sapiens)のユーラシア東部への拡散経路に関する研究(Li et al., 2019)が報道されました。アジア東部では、10万年前頃までさかのぼるとされる現生人類遺骸が、湖南省(関連記事)や広西壮族(チワン族)自治区(関連記事)といった中国南部で発見されています。ただ、これら初期現生人類遺骸については、前者(関連記事)も後者(関連記事)も、その年代には疑問が呈されています。アジア中央部・シベリアのアルタイ地域・中国北部では、10万年前頃の現生人類の存在は確認されていません。一方、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)が、16万年前頃にチベット高原東部に存在していた、と確認されています(関連記事)。

 上記の10万年前頃の中国南部の現生人類は、かりに年代と分類が妥当だとしても、現代人の直接的な祖先系統もしくはその近縁な系統ではなさそうです。現代人と近縁な系統と確認されているアジア東部で最古の個体は、北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)で発見されており、年代は4万年前頃です(関連記事)。もっともこの系統は、現代のユーラシア西部系よりは東部系に近縁であるものの、現代のユーラシア東部系とは早期に分岐した、と推測されています。またモンゴルでは、34000年前頃の現生人類遺骸が発見されています(関連記事)。

 アフリカ起源の現生人類のユーラシア東部への拡散経路としては、おもにヒマラヤ山脈の南方が重視されてきました。近年ではその中でも、インド洋沿岸を東進したとする仮説が注目されているように思います(関連記事)。「縄文人」に関する最近の研究でも、アジア東部で最初の現生人類は南方経路を東進してきた可能性が高い、と指摘されています(関連記事)。しかし、後期更新世にシベリアに出現する細石刃技術を有した現生人類集団は、北方経路でユーラシアを東進してきたのではないか、と推測されています。これは、現代ではその遺伝的構成が失われてしまったものの、ヨーロッパとシベリア東部の人類集団、さらにはアメリカ大陸先住民集団にも遺伝的影響を残した、シベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃の少年(関連記事)に代表される、古代ユーラシア北部集団です。古代ユーラシア北部集団は、その前にシベリアに広範に拡散していた、ユーラシア西部系と近縁な古代シベリア北部集団から派生した、と推測されます(関連記事)。

 このユーラシア北方経路に関しては、アルタイ山脈よりも北のシベリア経路が重視されてきました。それは、アルタイ山脈・天山山脈・ゴビ砂漠・タクラマカン砂漠は一貫して移動の大きな障壁だった、と考えられていたからです。地理情報システム(GIS)モデルに古気候記録と地理的特徴と考古学的データを組み合わせ、シベリア経路以外の経路もあった可能性が高い、と主張します。寒冷な時期には、シベリア経路による東進の可能性が高いものの温暖で湿潤な時期には、アルタイ山脈以南の経路が取られた可能性は高い、というわけです。本論文は、過去の環境の推定から、現代は氷河や砂漠といった移動困難な地域も、かつては氷河や砂漠が縮小し、移動がより容易になった、と指摘します。そもそも、現生人類は砂漠・熱帯雨林・高地・北極圏といった極限環境に本格的に拡散していったわけで(関連記事)、気候変化により移動がより容易になれば、現代の環境では移動困難と思われる経路を取ったとしても不思議ではないでしょう。

 本論文は、ユーラシア北部における現生人類の主要な拡散経路として、(I)アルタイ山脈のすぐ南を通り、東進して祁連山脈の北方を通るアルタイ経路、(II)天山山脈の北方とアルタイ山脈の南方に位置する天山経路、(III)天山山脈の南方を通るタリム経路、(IV)アルタイ山脈の北方となるシベリア南部を通る経路、の4経路を挙げています。IVはじゅうらいの有力説で採用されている経路で、本論文が主張するI~IIIはIVほど考古学的証拠が充実しているわけではなく、その証明は今後の課題となりますが、本論文の見解は妥当性の高いものだと思います。以下に、I~IVの経路が示されている本論文の図2を掲載します。
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 本論文は、初期現生人類のユーラシア東部への拡散と関連しそうな考古学的痕跡を3区分しています。それは、典型的なルヴァロワ(Levallois)技術を有する中部旧石器時代、ルヴァロワ技術とプリズム技術の組み合わせを有する上部旧石器時代初頭、より体系化された剥片技術とわずかな再加工を有する早期上部旧石器時代です。このうち、上部旧石器時代初頭と早期上部旧石器時代の人工物に関しては、現生人類が担い手である可能性は高そうです。しかし、中部旧石器時代の人工物に関しては、とくに5万年以上前の場合は、他系統の人類の可能性が高いと言えるでしょう。

 じっさい、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とデニソワ人はアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で確認されており(関連記事)、上述のようにデニソワ人はチベット高原東部でも確認されています(関連記事)。本論文は、シベリア以南のアジア中央部~東部にかけての経路は、現生人類の拡散だけではなく、他系統の人類との相互作用の観点からも注目される、と指摘しています。ユーラシア東部の更新世人類進化史は、ユーラシア西部と比較すると遅れていると言えるでしょうが、それだけに今後の発展の余地があるとも言えるわけで、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Li F, Vanwezer N, Boivin N, Gao X, Ott F, Petraglia M, et al. (2019) Heading north: Late Pleistocene environments and human dispersals in central and eastern Asia. PLoS ONE 14(5): e0216433.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0216433

ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類との交雑

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先と未知の人類との交雑の可能性を指摘した研究(Rogers et al., 2019B)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。本論文の見解の概要は、すでに第88回アメリカ自然人類学会総会で報告されていました(関連記事)。デニソワ人については最近まとめ(関連記事)、後期ホモ属の複雑な交雑パターンについては以前まとめましたが(関連記事)、本論文のような新たな知見によりますます複雑になってきた感があります。追いかけていくのは大変ですが、少しでも多く当ブログで取り上げ続けていく予定です。

 本論文は、現生人類(Homo sapiens)やネアンデルタール人やデニソワ人といった後期ホモ属の系統および交雑関係とその年代や、人口規模を検証しています。本論文は図にて、現生人類をアフリカ系統(X)とヨーロッパ系統(Y)に区分し、ネアンデルタール人系統(N)およびデニソワ人系統(D)のランダムなヌクレオチドに見られる派生アレル(対立遺伝子)の頻度を調べました。また、ネアンデルタール人に関しては、高品質なゲノム配列の得られている、東方のアルタイ地域系(関連記事)のAと西方のクロアチア系(関連記事)のVに区分されています。各系統の小文字は、ヌクレオチド部位パターンを示します。XYのような組み合わせはX(アフリカ系現生人類)とY(ヨーロッパ系現生人類)の共通祖先系統を表し、xynのような組み合わせは、アフリカ系現生人類とヨーロッパ系現生人類とネアンデルタール人のランダムなヌクレオチドが有する派生アレルです。

 本論文は、各系統のヌクレオチド部位パターン頻度の違いから、最も可能性の高いホモ属系統関係を推測しています。それは、XYNDがまずXYとNDに分岐した後、それぞれXとY、またNとDに分岐した、というものです。ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の共通祖先系統であるNDを、本論文はネアンデルソヴァン(neandersovan)と呼んでいます。さらに、XYNDと分岐した「超古代型人類」の存在が想定され、これはSと表されています。もちろん、「超古代型人類」とはいっても遺伝学的に未知というだけで、既知の人類化石の中にこの系統に分類できるものがあるかもしれません。超古代型人類からデニソワ人への遺伝子流動はすでに以前から指摘されており(関連記事)、本論文でも改めて確認されましたが、本論文では、超古代型人類からネアンデルソヴァンたるNDへの遺伝子流動も推定されています。この他に、以前より指摘されていた、ネアンデルタール人系統からヨーロッパ系現生人類(というか、非アフリカ系現代人)への遺伝子流動と、XとYが分岐する前の現生人類系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動も改めて確認されました。これらの関係は、以下に引用する本論文の図1にまとめられています。
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 超古代型人類であるS系統とXYND系統との分岐年代は、前提とする変異率により異なってくるのですが、本論文は200万年前頃と推定しています。これは、アフリカからユーラシアに拡散した最古の人類集団である初期ホモ属を表しているのではないか、と本論文は推測しています。ただ、中国北部で212万年前頃の石器が発見されていることから(関連記事)、人類の出アフリカはもっとさかのぼる可能性もあります。そうした人類は、現代人やネアンデルタール人やデニソワ人といったゲノム解析されている人類に遺伝的影響を残さなかったのかもしれません。また、初期ホモ属もしくはXYND系統はアフリカではなくユーラシアで進化したかもしれませんが、その可能性は低い、と私は考えています(関連記事)。

 本論文は、研究により違いの大きい、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の分岐年代も詳しく検証しています。本論文の筆頭著者のロジャース(Alan R. Rogers)氏は、以前の研究(関連記事)では25660世代前(744000年前頃)と推定していました。本論文では、731000年前頃と推定されています。しかし、381000年前頃(関連記事)との見解や44万~39万年前頃との見解もあります(関連記事)。本論文は、中期更新世早期となる60万年前頃、アシューリアン技術(Acheulean)を有してヨーロッパに出現したホモ属をネアンデルタール人系統と考えています。しかし、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の分岐を40万年前頃とする見解では、60万年前のヨーロッパのホモ属は、後に後にアフリカから拡散してきた系統に置換されて絶滅し、ネアンデルタール人系統ではない、とも想定されています。

 本論文は、この問題の解明の手がかりとして、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人類集団を重視しています。SH集団は、核DNA解析では、SH集団はネアンデルタール人と近縁と推定されており(関連記事)、43万年前頃というSH集団の推定年代は、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の分離よりも後となります。そうすると、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の分岐年代をし、381000年前頃や44万~39万年前頃と推定する見解は、SH集団の存在と矛盾することになります。しかし、本論文の見解はSH集団の存在と矛盾せず、本論文の見解が妥当だと思われます。

 さらに本論文は、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の推定分岐年代が異なる理由も検証しています。その一因は、分子時計、つまり前提としている変異率が異なるからです。しかし、本論文の分子時計では381000年前頃は502000年前頃と修正されますが、それでも本論文の提示する731000年前頃よりずっと新しくなります。本論文はこの違いの他の要因として、本論文が後期ホモ属における複雑な進化モデルを想定しているからではないか、と推測しています。それは、超古代型人類とネアンデルソヴァンおよびデニソワ人との交雑という、複数回の交雑事象です。

 本論文とロジャース氏の以前の研究では、ネアンデルタール人の人口規模の推定が異なっています。以前の研究では、ネアンデルタール人の人口は他の研究の推定よりかなり大きかった、と推定されていました。ネアンデルソヴァン系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、というわけです。しかし、本論文におけるネアンデルタール人の推定人口規模は、他の研究により近くなっています。

 この違いは、本論文のより複雑な交雑モデルが原因ではありません。なぜならば、以前の研究で採用された、1回の遺伝子流動事象を想定したモデルでも類似した結果が得られるからです。以前の研究との本論文の違いは、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列も対象としていることです。以前の研究が公表された時点では、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列はまだ公表されていませんでした。クロアチアのネアンデルタール人のゲノム配列がなければ、依然としてネアンデルタール人の大きな人口規模が推定されます。また、超古代型人類の人口規模はネアンデルタール人やデニソワ人よりも大きく、10000~46000人と推定されています。

 本論文と以前の研究との違いとしては、超古代型人類とXYND系統も含む他のホモ属系統との推定分岐年代もあります。以前の研究では、この分岐年代は140万~90万年前頃と推定されており、最初の人類がユーラシアに拡大した190万年前頃よりもずっと後のことでした。しかし本論文は、この超古代型人類はXYND系統も含む他のホモ属系統と200万年前頃に分岐したと推定しており、それはアフリカからユーラシアに拡大した最初の人類系統だろう、と指摘しています。また本論文は、この超古代型人類は、ネアンデルソヴァンと交雑した系統と、デニソワ人と交雑した系統の少なくとも2系統に分岐していっただろう、と推測しています。

 本論文は、人類史におけるアフリカからユーラシアへの主要な拡大は3回だった、と指摘します。最初はXYND系統も含む他のホモ属系統と分岐した超古代型人類系統による190万年以上前の拡散、2回目は70万年前頃のネアンデルソヴァン(ND系統)、3回目は5万年前頃の現生人類です。2回目と3回目の時点では、ユーラシアに先住人類が存在した、と本論文は指摘します。アフリカからユーラシアに拡散したネアンデルソヴァンはユーラシアに先住していた超古代型人類と交雑してほぼ置換し、同様のことが、アフリカからユーラシアに拡散した現生人類とユーラシアに先住していたネアンデルタール人およびデニソワ人との間にも起きたのだろう、と本論文は指摘します。本論文の見解は、SH集団も考慮に入れた場合、おおむね妥当なものだろう、と思います。もちろん、現生人類のアフリカからの拡散が5万年前頃よりもさかのぼり、複数回起きた可能性も低くなさそうですから(関連記事)、後期ホモ属の進化史はさらに複雑になっていきそうで、整理するのも大変になりそうですが、できるだけ最新の知見を取り入れて追いついていきたいものです。


参考文献:
Rogers AR. et al.(2019B): Neanderthal-Denisovan ancestors interbred with a distantly-related hominin. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/657247

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第22回「ヴィーナスの誕生」

 金栗(池部)四三の情熱もあり、東京府立第二高等女学校では女子スポーツが盛んになっていきます。そんな中、シマは妊娠し、スポーツ選手でも教師としてもまだ業績がないのに妊娠したことで悩みます。これは現代日本社会にも通ずる問題で、ドラマでこうした普遍性が描かれるのは悪くないと思います。女子スポーツへの理解の乏しさも、女性問題の一環として、現代にも通ずる普遍性があると思います。まあ今回は、やや類型的な描写になっていたかな、という感もありますが、初登場の人見絹枝も絡めて全体的にはなかなか楽しめる構成になっていました。

 今回は、冒頭で古今亭志ん生(美濃部孝蔵)の場面が長く描かれました。本作の視聴率低迷の要因とされている落語場面ですが、批判にも関わらず長い時間が割かれていることは、制作陣が外部の声に惑わされていないということなのかな、と思います。外部の声はおおむね無責任なものなので、惑わされないことはよいと思います。今後も、当初の制作方針を貫いてもらいたいものです。ただ、やはり現時点では落語場面と本筋が上手く接続していないことも否定できません。しかし、今後どう接続していくのか、気長に待つつもりです。

アメリカ大陸北極域とシベリアにおける人類集団の変遷(追記有)

 アメリカ大陸北極域とシベリアにおける人類集団の変遷に関する二つの研究が報道されました(報道1および報道2)。いずれもオンライン版での先行公開となります。『ネイチャー』のサイトには解説記事(Stone., 2019)が掲載されています。一方の研究(Sikora et al., 2019)は、シベリア北東部における後期更新世~完新世にかけての現生人類(Homo sapiens)集団の変容とその相互関係を検証しています。現在、シベリア北東部には多様な民族が存在します。シベリア北東部で最古となる確実な人類の痕跡は、31600年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)で、上部旧石器時代の石器と骨や牙製の人工物が確認されています。

 最終氷期極大期(LGM)となる23000~19000年前頃までに、ヤナRHS文化はシベリア北東部から消滅し、その代わりに細石刃技術の優占する文化がアムール地域の北方と東方に拡大しました。この細石刃文化は末期更新世まで、ベーリンジア(ベーリング陸橋)やシベリア北東端のチュクチ半島には拡大しませんでした。シベリア北東部における文化変容は後期完新世まで続きますが、それが在来集団における技術的変化なのか、異なる集団の移住なのか、議論が続いています。後者の場合、各集団が相互にどのように関連しているのか、また現代のシベリア集団やアメリカ大陸先住民集団(NA)とどう関連しているのか、詳しくは明らかになっていません。この問題の解明のため、31600年前頃となるヤナRHSのヒトの乳歯2点から600年前頃までとなるシベリア北東部の34人の全ゲノムデータが作成されました。

 ヤナRHSの2人は男性で、これまで知られていなかった「古代シベリア北部集団(ANS)」と分類されます。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はユーラシア西部の狩猟採集民に多いUで、Y染色体DNAハプログループ(YHg)は、現代のNAで広く見られるQとRの祖型のP1です。ゲノムデータでは、ヤナRHS集団はユーラシア北部とアメリカ大陸という広範な地域の現代人との遺伝的類似性を示し、ユーラシア西部集団とより近縁です。これは、ロシア西部のスンギール(Sunghir)遺跡集団(関連記事)や4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)といった他の上部旧石器時代集団では、遺伝的に近縁なのがそれぞれユーラシア西部とアジア東部の現代人といったように地理的に限定されているのと比較すると、対照的です。

 ANSは基本的にはユーラシア西部系統に位置づけられ、初期アジア東部系統から22%の遺伝的影響を受けています。ユーラシアの現生人類集団は43100年前頃に東西の各系統に分岐し、ANSは38700年前頃に他のユーラシア西部系統と分岐した、と推定されています。ヤナRHS集団のゲノムに占めるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合は非アフリカ系現代人とほぼ同じの約2%で、現代人よりも長いネアンデルタール人由来の領域はないので、ANS系統における近い世代での追加のネアンデルタール人との交雑はなさそうです。

 ANSと、NAに40%ほどの遺伝的影響を残したと推定されている24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡集団(関連記事)との比較では、マリタ集団は他のユーラシア西部集団よりもヤナANSの方とアレル(対立遺伝子)をより多く共有しており、マリタ遺跡集団に代表される古代ユーラシア北部集団は、ANSの子孫と考えられます。ANSは、31600年前頃までにユーラシア北東部に広範に拡大していたことになります。ヤナRHSの2人は近親関係にはなく、スンギール遺跡の個体群のゲノム解析の結果(関連記事)からも、ある程度広範な配偶ネットワークがLGM以前のシベリアの上部旧石器時代狩猟採集民には存在した、と推測されます。

 ヤナRHSの後、シベリア北東部に出現する細石刃文化集団のゲノムはまだ解析されていません。本論文は、9800年前頃となるシベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)を、30000年前頃以後に形成された「古代旧シベリア集団(APS)」系統とみなしています。コリマ1は、mtHg-G1b、YHg-Q1a1bで、そのゲノムデータは、コリャーク(Koryaks)やイテリメン(Itelmen)やチュクチ(Chukchis)といった現代のシベリア北東端集団およびNAとの遺伝的類似性を示します。コリマ1はNAと同じく、ANSとアジア東部集団(EA)との混合ですが、アメリカ大陸先住民集団(63%)よりはアジア東部系統の遺伝的影響が強くなっています(75%)。

 APSもNAも、ANS関連系統ではヤナRHS集団よりもマリタ集団の方とより近縁で、ヤナRHS集団が直接的に、後のAPSやNAに遺伝的影響を残したわけではなさそうです。NAの祖先集団は、EA系統と30000年前頃に分岐し、その後で24000年前頃にAPSとベーリンジア集団(ここからNAが派生します)に分岐しました。古代ベーリンジア集団(AB)は、アラスカのアップウォードサン川(Upward Sun River)で発見された個体(USR1)のゲノムデータに代表されます(関連記事)。APSとABは20000年前頃にANS系統から遺伝的影響を受けています。コリマ1はアラスカのUSR1と遺伝的類似しており、シベリア北東部でこれまでに発見された個体では、最もNAの祖先集団と類似しています。気候変動は、更新世の人類集団の移動の要因とされています。ヤナRHSに人類の痕跡が確認される時、シベリア北東部には広範に人類が存在していましたが、LGMにおける人類の痕跡は確認されていません。この間、ベーリンジア南部が人類にとって待避所となり、遺伝子流動が起きていたようです。

 古エスキモーを代表するグリーンランドの2300~400年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体はコリマ1と遺伝的に類似しているものの、コリマ1よりもEAとより大きな遺伝的類似性を示します。サカク個体をコリマ1で代表されるAPSと、7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体(関連記事)で代表される古代EAの混合としてモデル化することにより、サカク個体はEAから約20%の遺伝的影響を受けている、と推定されます。

 ベーリング海のシベリア沿岸に位置するウエレン(Uelen)とエクヴェン(Ekven)の2700~1600年前頃となる新エスキモー集団は、現代のイヌイットと遺伝的に密接に関連しています。新エスキモー集団はAPSから69%、クローヴィス(Clovis)文化のアンジック(Anzick)遺跡の男児(関連記事)に代表されるNAから31%の遺伝的影響を受けた混合集団と推定されます。これはエスキモー・アリュート語族のシベリアへの「逆流」という言語学的証拠と合致します。この遺伝子流動はABと他のNAとの20900年前頃の分岐の後のことで、エクヴェン個体群は、ABよりもアメリカ大陸先住民集団の方とより多くのアレルを共有しています。NAからシベリアへの遺伝子流動は、ベーリンジアが消滅した後の5000年前頃にも起きていました。

 現代シベリア集団は遺伝的に異なる2系統に区分されます。「新シベリア集団(NS)」と呼ばれる大半は、ヨーロッパ集団とEAとの間に位置します。もう一方はEAとNAとの間に位置し、APSとイヌイット集団を含みます。APS系統は早期青銅器時代までシベリア地域で一般的だったものの、その後はシベリア北東部に限定されており、現代のコリャーク(Koryaks)やイテリメン(Itelmen)と類似した、3000年前頃のオホーツク海沿岸のオルスカヤ(Ol’skaya)集団で確認されます。NSはシベリア北東部において、ANS からAPSの第一の事例に続く、第二の主要な人口置換をもたらしました。NSは北方に拡大してAPSをほぼ置換しました。注目すべき例外はエニセイ(Yeniseian)語族のケット人(Ket)で、NSと近縁ではあるものの、APS系統から約40%の遺伝的影響を受けており、APSがかつてはユーラシア北部に広範に存在していたことを示します。

 シベリア南部のバイカル湖地域のウスチベラヤ(Ust’Belaya)とその近隣の新石器時代および青銅器時代の人類集団のゲノムは、約6000年の遺伝的に異なる3系統の連続性を示します。最初期の個体群はおもに古代EA系統を示し、早期青銅器時代においてAPS系統が見られ(最大で約50%)、後期銅石器時代~前期青銅器時代にかけて中央アジアで栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化に代表されるユーラシア西部草原地帯系統の影響(約10%)も受けました。本論文は、APSの南方への拡大を示唆します。これはバイカル湖で観察された、新石器時代のYHg-Nから早期青銅器時代の間のYHg-Qという置換とも一致します。

 600年前頃となるウスチベラヤの個体はNSの範囲内に収まり、シベリア北東部の760年前頃のヤングヤナ(Young Yana)個体と類似していることから、比較的近い過去における新NSの拡大を示します。NSは基本的におもにEA系統としてモデル化でき、ユーラシア西部草原地帯系統の割合は多様です。ユーラシア西部草原地帯系統の最大の比率は、現代と青銅器時代および鉄器時代のアルタイ集団で観察されます。これらの知見から、完新世におけるシベリア南部および東部を通じてのかなりの人類集団の移動と交雑が示されます。人類集団は複数方向に拡散しますが、更新世に見られる大規模な集団置換の明確な証拠は得られていません。

 上述のように、APSはかつてユーラシア北部に広範に存在しており、おそらく西方ではウラル山脈まで到達した、と示唆されます。ユーラシア北部の西端では、フィンランド南部のレヴェンルータ(Levänluhta)遺跡の個体群からの遺伝的データとストロンチウム同位体データが、1500年前頃となる後期完新世のフィンランド南西部のサーミ人(Saami)系統の存在を示しています(関連記事)。サーミ人系統は現在ではフィンランド南西部の北端に限定されており、APS系統との類似性が見られます。しかし本論文は、古代サーミ人は東方起源系統を有しているものの、これはAPS系統よりもEA系統でよりよくモデル化される、と指摘します。APS系統の影響はウラル山脈を越えてユーラシア西部へとおそらく拡大しなかった、というわけです。ユーラシア東西の遺伝子流動は比較的最近まで続き、現代フィンランド人はより大きなシベリア人(東方)系統を古代のレヴェンルータ個体群よりも有しており、現代フィンランド人のウラル語とスカンジナビア語という二重起源を表しているかもしれません。

 以上の知見をまとめると、本論文は、シベリア北東部における後期更新世~完新世にかけての人類集団の3回の主要な拡大と、それに続く大規模な置換を明らかにしました。最初の拡大は、現代ではその遺伝的構成が失われてしまったANS(古代シベリア北部集団)で、ヤナRHS個体に代表されます。ANSは43100年前頃のユーラシア東西系統の分岐からさほど経過していない38700年前頃に多様化していき、ユーラシア西部系統に近いものの、ユーラシア東部系統からも1/5ほど遺伝的影響を受けています。これは、この頃に初期現生人類がユーラシアの広範な地域に急速に拡大していった、と指摘する先行研究と一致します。ANSはユーラシア北部に広範に拡大しました。

 2回目の主要な拡大は、EA(アジア東部集団)系統とANS系統の子孫との混合したAPS(古代旧シベリア集団)で、20000~18000年前頃にシベリア北東部に到達し、AB (古代ベーリンジア集団)の母胎となりました。AB からNA(アメリカ大陸先住民)が派生します。APSは、考古学的には細石刃技術が指標となります。かつては広範に存在した、いわゆるマンモス・ステップがLGM(最終氷期極大期)後に収縮していくなか、新たな生業を開発したのではないか、と考えられます。APSもユーラシア北部に広範に拡大しましたが、ウラル山脈よりも西には拡大しなかった、と推測されます。

 3回目の主要な拡大は、中期完新世のNS(新シベリア集団)です。NSはEAを母胎とし、13000年前頃のAPSとの交雑と、5000年前頃以後の、アジア中央部草原地帯からの青銅器時代集団との交雑を通じて、ANS系統の遺伝的影響を間接的に受けた、と本論文は示唆します。NSはシベリア北東部のAPS系統をほぼ置換しましたが、カムチャッカ半島など一部ではAPS系統の影響が強く残っています。なお、アマゾン地域の現代(関連記事)および古代(関連記事)のアメリカ大陸先住民集団の一部にオーストラレシア人の遺伝的影響が見られますが、本論文または以前の研究における古代のシベリアおよびベーリンジアの人類集団では、その証拠は得られていません。

 このようにユーラシア北部では過去40000年にわたって、大規模な現生人類集団の移動・置換・混合の複雑なパターンが見られます。本論文は、類似の過程が北半球の広範な地域で起きただろう、と指摘しています。しかし、ユーラシア北東部に最初に拡散してきた人類集団であるANSは、今ではその遺伝的構成が失われてしまいましたが、ユーラシア北部とアメリカ大陸の古代および現代の人類集団にその遺伝的影響を残しています。本論文は、ユーラシアの北東部を中心ユーラシア北部における過去40000年の人類集団の遺伝的構成の変容を検証してきましたが、今後の課題として、ヤナRHS遺跡の個体とコリマ遺跡の個体との間の、2万年ほどの人類ゲノムデータの空白期間を埋めることが指摘されています。


 もう一方の研究(Flegontov et al., 2019)は、アメリカ大陸北極圏の人類集団の遺伝的構成の変容を検証しています。現代のアメリカ大陸先住民(NA)は、ユーラシア東部からベーリンジアを経由してアメリカ大陸に到達しました。本論文は、その移住の波は少なくとも4回あった、と指摘します。1回目は、現代のアジア東部集団(EA)と関連した集団の、14500年前頃までのアメリカ大陸への拡散です。本論文はこのアメリカ大陸最初の人類集団を「最初の人々(FA)」と呼んでいますす。2回目は、「集団Y」と呼ばれるオーストラレシア人関連系統の遺伝的影響を有する人々の、アマゾン地域先住民の祖先集団への遺伝的影響です(関連記事)。3回目は、5000年前頃以降の「古エスキモー(PE)」関連系統のアメリカ大陸北極圏への拡大です。4回目は、「新エスキモー(NE)」による800年前頃に北極圏への拡大で、現代のユピク(Yup’ik)やイヌイット(Inuit)の祖先集団です。

 なお、「古エスキモー」や「新エスキモー」という用語は、カナダおよびアメリカ合衆国の学者や先住民全員に受け入れられているわけではない、と本論文は注意を喚起しています。北極圏の大集団について本論文は、遺伝子と言語の関係がよく一致しているため、ナ・デネ語族とエスキモー・アリュート語族とチュクチ・カムチャツカ語族と呼んでいます。PEの考古学的記録は5000~700年前頃まで見られますが、現代の北極圏集団への遺伝的影響がどの程度なのかは不明です。前の研究では、イヌイットやユピクやアリュート(Aleuts)といった現代の北極圏集団の祖先集団によりPEはほぼ置換された、との見解も提示されていますが(関連記事)、議論が続いてます。

 本論文はこの問題の検証のため、アメリカ大陸北極圏とシベリアの古代人48個体のゲノム規模データを生成しました。その内訳は、アリューシャン列島の2050~280年前頃の11人、900~550年前頃の北アサバスカ(Athabaskans)の3個体、1770~620年前頃となるチュクチ古ベーリング海文化集団のエクヴェン(Ekven)とウエレン(Uelen)埋葬地の21個体、1900~1610年前頃となる中期ドーセット(Dorset)文化の古エスキモーの1個体、7020~610年前頃となるバイカル湖近くのウスチベラヤ(Ust’-Belaya)埋葬地の12個体です。これら48個体の24万ヶ所の一塩基多型が解析され、既知の古代および現代の人類集団のゲノムデータと比較されました。

 その結果、アメリカ大陸北極圏およびシベリア北東端の人類集団は、PEの遺伝的影響をかなり受けている、と示されました。これには、ユピクやイヌイットやアリュートのようなエスキモー・アリュート語族集団と、アサバスカやトリンギット(Tlingit)のようなナ・デネ語族集団が含まれ、その範囲はアラスカおよびカナダとアラスカ以外のアメリカ合衆国に及んでいます。PEはアラスカに到達した後すぐ、5000~4000年前頃に、南方のFA系統と交雑しました。アリューシャン列島とアサバスカの祖先集団は、PE系統とFA系統の混合集団から直接的に遺伝的影響を受けました。つまり、人類の移動はユーラシア北東端からアメリカ大陸への一方向だけではなく、その逆もあったわけです。

 NE の祖先集団はFA系統から60%、PE系統から40%ほどの遺伝的影響を受けて成立しました。この集団はその後、PE系統と近縁なシベリア北東部系統から15%ほどの影響受け、シベリア北東端のエクヴェンおよびウエレン集団が成立し、NEとしてアメリカ大陸北極圏へと拡散し、文化的には先住のPEをほぼ置換しました。本論文と上記論文(Sikora et al., 2019)は、エクヴェンおよびウエレン遺跡集団とNEとの密接な遺伝的関連の想定は同じですが、NE系統の成立過程については、ユーラシア北部の各系統のモデル化も含めて一致していないところもあります。この問題は、古代ゲノムデータの蓄積により次第に解消されていくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【ゲノミクス】古エスキモーとシベリア人の集団史の謎が氷解し始めた

 シベリアと北米の古代人と現代人のゲノム解析が行われ、これらの地域における主要な移住現象とヒト集団史に関する手掛かりが得られたことを報告する論文が、今週掲載される。

 古エスキモーは、約5000年前に広大なアメリカ北極域に最初に定住した人々であり、約1000年前に新たに加わった現在のイヌイット族とユピック族の祖先に取って代わられた。古エスキモーとアメリカ先住民、イヌイット族、ユピック族、アレウト族の遺伝的関係は、はっきりとは分かっていない。

 今回、Stephan Schiffelsたちは、アメリカ北極域とシベリア(チュクチ、東シベリア、アリューシャン列島、アラスカ、カナダ北極域を含む)出身の古代人48人と、現代のアラスカのイヌピアットと西シベリアに住む人々のゲノムのデータを示している。Schiffelsたちの分析によれば、北米のヒト集団史は、古エスキモーとファースト・アメリカンの間の遺伝子流動によって形成され、そこからエスキモー・アリュート語とナ・デネ語を話す集団の出現に至ったとされる。

 一方、Eske Willerslevたちは別の論文で、現在のロシア極東地域に位置するシベリア北東部に由来する、3万1000~600年前のものと年代測定された34の古代ゲノムについて報告している。この地域は、4万年以上にわたってヒトが居住しているが、その詳しい集団史の解明は進んでいない。Willerslevたちは、この時期の複雑な集団動態について説明しており、これには、(1)これまで知られていなかった旧石器時代の古代北シベリアの集団(初期の西ユーラシアの狩猟採集民と遠い類縁関係にある)がこの地域に初めて到来したこと、(2)その後の古代人(古シベリア人とアメリカ先住民)につながる東アジアの民族が到来したこと、(3)多くの現代シベリア人の祖先である新シベリア人と呼ばれる東アジア人が完新世に移住したこと、という少なくとも3つの主要な移住現象が含まれる。



参考文献:
Flegontov P. et al.(2019): Palaeo-Eskimo genetic ancestry and the peopling of Chukotka and North America. Nature, 570, 7760, 236–240.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1251-y

Sikora M. et al.(2019): The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature, 570, 7760, 182–188.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1279-z

Stone AC. et al.(2019): The lineages of the first humans to reach northeastern Siberia and the Americas. Nature, 570, 7760, 170–172.
https://doi.org/10.1038/d41586-019-01374-5


追記(2019年6月13日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用(引用1および引用2)します。



古代ゲノミクス:シベリア北東部における更新世以降のヒトの集団史

古代ゲノミクス:シベリア北東部のヒトの集団史

 今回、E Willerslevたちによって、現在の極東ロシアに当たるシベリア北東部から得られた34例の古代ゲノムが報告されている。これらの古代ゲノムには、この地域で見つかったヒトの遺物としては最古である、ヤナRHS遺跡から得られた良質のゲノム2例が含まれる。解析の結果、シベリア北東部の複雑な集団史の詳細が明らかになり、後期更新世から完新世の初期にかけて主要な集団移動とそれに続く大規模な置き換わりが少なくとも3回あり、その後の完新世を通してより小規模な集団の流動があったことが示された。ヤナRHS遺跡に代表されるシベリア北東部の最初の居住者は、分岐年代の古い初期ユーラシア人系統の最初期の子孫であるとともに、西ユーラシア人が東アジア人から分岐して間もない約3万8000年前に西ユーラシア人からさらに分岐した集団であった。


古代ゲノミクス:古エスキモーの遺伝的祖先とチュクチ半島および北米への移動

古代ゲノミクス:古エスキモーのゲノム

 S SchiffelsとD Reichたちは今回、チュクチ半島、東シベリア、アリューシャン列島、アラスカ、カナダ北極域を含む、シベリアから北米北極域にわたる地域の古代人48人のゲノム規模のデータを、現在のアラスカのイヌピアット族集団および西シベリア人集団のデータと共に報告している。解析の結果、北米の集団史が、古エスキモーと最初に南北アメリカ大陸に移動した現代の東アジア人に近縁な集団との間の2つの主要な混合事象によって形作られ、そこから新エスキモーおよびナ・デネ語族の話者集団の両方が生じたことが示唆された。

佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』

 歴史文化ライブラリーの一冊として、吉川弘文館より2019年4月に刊行されました。本書は皇位継承の視点からの政治史となっています。表題に「中世史」とあるように、おもに院政期から室町時代前半までが対象となっていますが、古代にもそれなりの分量が割かれています。通史で皇位継承問題に言及されることは珍しくありませんが、古代にもそれなりの分量を割きつつ、中世史を一貫して皇位継承の観点から叙述する試みは、一般向け書籍としては新鮮かな、と思います。

 本書は、現代日本社会で理想例として考えている人が多そうな父親から息子への皇位継承は歴史的に形成されてきたものであり、古代には兄弟間の皇位継承も珍しくなかった、と指摘します。これは、天皇(大王)の明確な代行者がまだ確立しておらず、天皇に政治的判断力と権威が要求されるため、即位条件として一定以上の年齢であることが要求されていたからでした。天皇の代行者としての摂政の確立により、幼年男子の即位も可能となり、皇位の父子継承の条件が整いました。

 しかし、摂関政治期には外戚の、院政期には治天の君の意向が強い影響力を有し、皇位継承はその時々の政治状況に左右され、父子継承が確立したわけではありませんでした。承久の乱の後、鎌倉幕府は朝廷に対して圧倒的な優位を確立しましたが、後嵯峨即位時を除いて、鎌倉幕府は基本的に皇位継承問題への介入には消極的でした。本書がその例外としているのは平頼綱政権期で、ここで皇統の分裂が確立し、南北朝時代を迎えます。南北朝時代に北朝では天皇が大きく政治的実権を失い、これ以降、もはや皇統の分裂も移動もなくなり、現代日本社会で考えられているような皇位の父子継承が確立した、と本書は指摘します。もちろん、天皇が後継者となる息子を必ず儲けられるとは限りませんが、父子関係でない場合には養子関係が設定されました。こうした父子関係にない場合の皇位継承にさいして養子関係を結ぶことは平安時代からあり、皇位の父子継承への拘りはずっとあったわけですが、それが確立したのは天皇が政治的実権をほぼ失った室町時代だった、というわけです。

同期している飼い犬と飼い主の長期ストレスレベル(追記有)

 飼い犬と飼い主の長期ストレスレベルの同期に関する研究(Sundman et al., 2019)が公表されました。この研究は、シェトランドシープドッグ33匹とボーダーコリー25匹、およびその飼い主の毛髪コルチゾール濃度を測定し、通年のストレスレベルの推移を調べました。その結果、ヒトのコルチゾール濃度が上昇すると、イヌ、とくに雌においてコルチゾール濃度が上昇する、と明らかになりました。この結果は、イヌとその飼い主のストレスレベルが同期している可能性を示唆しています。イヌとヒトのストレスの関連は夏と冬の両方で観察されていることから、コルチゾール濃度の季節的変動はストレスの同期性に影響しない、と示唆されます。

 また、この研究は飼い主に、イヌの興奮性・訓練に対する反応性・攻撃性・または恐怖心といった形質を評価する有効な質問票と、飼い主自身の外向性・協調性・または神経症的傾向といった性格特性を評価する有効な質問票への回答を依頼しました。その結果、所有者による分類に基づくイヌの性格は、飼い主の毛髪コルチゾール濃度にほとんど影響しない、と明らかになりました。これに対して、飼い主の誠実性と寛容性という性格特性は、イヌのコルチゾール濃度の上昇と関連し、飼い主の神経症的傾向は、イヌのコルチゾール濃度の低下と関連していました。この結果は、飼い主がイヌのストレスレベルに反応しているのではなく、イヌが飼い主のストレスレベルを反映している可能性を示唆しています。この研究によれば、これらの知見はヒトとイヌの関係の強さを裏づけるさらなる証拠で、イヌの福祉の改善にも重要な意味を持っている可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【動物行動学】飼い犬と飼い主の長期ストレスレベルが同期している

 飼い主の長期ストレスが、その飼い犬のストレスレベルの高さと関連していることを、58匹のイヌとその飼い主を対象とした研究によって明らかにした論文が、今週掲載される。

 今回、Lina Rothたちの研究グループは、シェトランドシープドッグ(33匹)とボーダーコリー(25匹)、およびその飼い主の毛髪コルチゾール濃度を測定し、1年を通したストレスレベルの推移を調べた。その結果、ヒトのコルチゾール濃度が上昇すると、イヌ、特に雌のイヌにおいてコルチゾール濃度が上昇することが判明した。この結果は、イヌとその飼い主のストレスレベルが同期している可能性を示唆している。イヌとヒトのストレスの関連は夏と冬の両方で観察されていることから、コルチゾール濃度の季節的変動はストレスの同期性に影響しないことが示唆される。

 また、Rothたちは飼い主に、イヌの興奮性、訓練に対する反応性、攻撃性、または恐怖心といった形質を評価する有効な質問票と、飼い主自身の外向性、協調性、または神経症的傾向といった性格特性を評価する有効な質問票への回答を依頼した。その結果、イヌの性格(所有者による分類に基づく)は、飼い主の毛髪コルチゾール濃度にほとんど影響しないことが明らかになった。これに対して、飼い主の誠実性と寛容性という性格特性は、イヌのコルチゾール濃度の上昇と関連し、飼い主の神経症的傾向は、イヌのコルチゾール濃度の低下と関連していた。この結果は、飼い主がイヌのストレスレベルに反応しているのではなく、イヌが飼い主のストレスレベルを反映している可能性を示唆している。

 Rothたちによれば、これらの知見はヒトとイヌの関係の強さを裏付けるさらなる証拠であり、イヌの福祉の改善にも重要な意味を持っている可能性がある。



参考文献:
Sundman AS et al.(2019): Long-term stress levels are synchronized in dogs and their owners. Scientific Reports, 9, 7391.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-43851-x


追記(2019年6月13日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

捕食者の侵入により崩壊するトカゲの共存

 捕食者の侵入による在来集団への影響に関する研究(Pringle et al., 2019)が公表されました。島嶼などの孤立していた生態系への捕食者の定着が、人間の活動によって加速しています。しかし、捕食者の侵入による影響については、侵入当初から研究を始めることがほとんどできないため、予測が困難です。この研究は、捕食者の侵入による影響を明らかにするため、在来の最上位捕食者で半陸生のブラウンアノール(Anolis sagrei)により占められているバハマ諸島の16の島嶼において、2種のトカゲを島ごとに異なる組み合わせ(2種もしくは3種)で移入させる実験を行ないました。この研究は、他の2種にたいして捕食者となるキタゼンマイトカゲ(Leiocephalus carinatus)を5~7匹、および/または樹上に生息する競争者であるバハマングリーンアノール(Anolis smaragdinus)を10~11匹移入させ、これら3種のトカゲについて、個体群サイズ・生息場所の利用状況・食餌の構成・食物連鎖上の位置を6年間にわたって測定しました。

 キタゼンマイトカゲが存在しない環境では、バハマングリーンアノールとブラウンアノールは、それぞれ異なる食餌と生息場所のニッチを占め、ブラウンアノールが地上に近い場所に生息していました。ここにキタゼンマイトカゲを移入させると、ブラウンアノールが捕食への恐怖により樹上で生息するようになって、その食餌はバハマングリーンアノールの食餌に近づいた。その結果、ブラウンアノールとバハマングリーンアノールの両方を移入させた4島のうちの2島で、食料源の争いに敗れたバハマングリーンアノールが絶滅しました。この知見は、孤立した生態系に新たな捕食者種が侵入すると、最上位捕食者は必ずしも生物多様性の増大を促進せず、捕食のリスクによって種の共存が不安定化し、異種の共存を容易にしていたニッチの崩壊が起こり得る、と示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【生態学】捕食者の侵入がトカゲの共存を崩壊させる

 捕食者であるトカゲをカリブ海の小島嶼に移入させたところ、在来のトカゲの個体群の行動が変化し、結果として異種のトカゲの共存様式が変化し、個体群の絶滅につながったことを報告する論文が、今週掲載される。今回の研究では、こうした影響が、全世界の島嶼や湖での捕食者の移入シナリオにも当てはまる可能性のあることが示唆されている。

 島嶼などの孤立していた生態系への捕食者の定着が、人間の活動によって加速している。ただし、捕食者の侵入による影響については、侵入当初から研究を始めることがほとんどできないため、予測が難しい。

 今回、Robert Pringleたちの研究グループは、捕食者の侵入による影響を明らかにするため、バハマ諸島の16の島嶼において、2種のトカゲを島ごとに異なる組み合わせで移入させる実験を行った。バハマ諸島は、半陸生のブラウンアノール(Anolis sagrei)によって占められており、Pringleたちは、ここに5~7匹のキタゼンマイトカゲ(Leiocephalus carinatus、地上に生息する最上位捕食者)および/または10~11匹のバハマングリーンアノール(Anolis smaragdinus、樹上に生息する競争者)を移入させた。そして、これら3種のトカゲについて、個体群サイズ、生息場所の利用状況、食餌の構成、および食物連鎖上の位置を6年間にわたって測定した。

 キタゼンマイトカゲが存在しない環境では、バハマングリーンアノールとブラウンアノールは、それぞれ異なる食餌と生息場所のニッチを占め、ブラウンアノールが地上に近い場所に生息していた。ここにキタゼンマイトカゲを移入させると、ブラウンアノールが樹上で生息するようになり、その食餌はバハマングリーンアノールの食餌に近づいた。その結果、ブラウンアノールとバハマングリーンアノールの両方を移入させた4つの島のうちの2つで、食料源の争いに敗れたバハマングリーンアノールが絶滅した。この知見は、孤立した生態系に新たな捕食者種が侵入すると、異種の共存を容易にしていたニッチの崩壊が起こり得ることを示している。


進化生物学:捕食者に誘導される、ニッチ構造および種の共存の崩壊

Cover Story:群集の危機:導入された捕食者への恐怖が島嶼生態系の種の共存を崩壊させる

 今回R Pringleたちは、島嶼生態系への捕食者導入がどのように他の種に影響を及ぼすか調べている。著者たちは、アノールトカゲの一種である半地上性のブラウンアノール(Anolis sagrei)が在来の最上位捕食者であったバハマの16島嶼において、別のアノールトカゲである樹上性のAnolis smaragdinusと、両者の捕食者となるゼンマイトカゲの一種である地上性のLeiocephalus carinatusを、それぞれ単独で、または共に導入した。その後著者たちは、この3種の個体群サイズ、生息地利用、食物を6年にわたって追跡した。L. carinatusが存在しない島嶼では、この2種のアノールトカゲは共存し、食物と生息地に関して別々のニッチを占めていた。しかし、L. carinatusも導入された4島嶼では、捕食への恐怖によって、ブラウンアノールが樹上に安全を求めるようになり、A. smaragdinusと資源を奪い合って、2島嶼ではA. smaragdinusが絶滅した。著者たちは、この「避難競争」の例は、最上位捕食者は必ずしも生物多様性の増大を促進せず、捕食のリスクによって種の共存が不安定化し得ることを示していると指摘している。



参考文献:
Pringle RM. et al.(2019): Predator-induced collapse of niche structure and species coexistence. Nature, 570, 7759, 58–64.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1264-6

古墳時代中期の会津地方の支配層男性の復元像

 古墳時代中期の会津地方の支配層男性の復元像について報道されました。福島県喜多方市の灰塚山古墳という前方後円墳で、2017年にほぼ完全な男性遺骸が発見されました。この男性は身長158cm、華奢な体型でした。また、この男性は比較的面長で、鼻の付け根が平らな渡来系の顔つきだった、とのことです。この男性には脊椎に癒着があり、腰痛に悩まされていたことが窺えます。死亡時推定年齢は50代後半で、歯のすり減り具合から、固い物は食べておらず、同位体分析から、コメと川魚を食べていた、と推測されています。

 この研究を率いた辻秀人氏は、能登半島などを経由して古墳時代の会津地方に到来した渡来系の集団がヤマト政権の政治的な後ろ盾を得ながら支配し、前方後円墳はその現れではないか、と述べているそうです。研究の進展が楽しみです。上記報道によると、ミトコンドリアDNA(mtDNA)も解析されたとのことですが、詳細は不明で、男性が渡来系と判断された根拠に用いられたのか、分かりません。形態から「渡来系」と判断されたのでしょうか。核DNAを解析すれば、より詳細にこの男性の出自を推測できるでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。「縄文人」との関係など日本列島における人類集団の変遷は、今後大きく進展する可能性があり、楽しみです。

『卑弥呼』第18話「舞台設定」

 『ビッグコミックオリジナル』2019年6月20日号掲載分の感想です。前回は、毒蛇に咬まれたヤノハの弟のチカラオを助けるため、銅鏡2枚を用いた儀式を義母が行なっていた、とヤノハが思い出したところで終了しました。今回は、その時のことをヤノハが回想する場面から始まります。義母に「日の鏡」を持ってくるよう指示されたヤノハですが、その重さに思わず落としてしまいます。義母は不安になるヤノハを、そう簡単には割れないから大丈夫だ、と安心させます。ヤノハとともに「日の鏡」から反射された日光を浴びた義母は、天照様の力をいただいたから我々は守られる、とヤノハに伝えます。誰から守られるのか、とヤノハに尋ねられた義母は、根の国(黄泉の国)の須佐之男(スサノオ)様からだ、と答えます。今よりチカラオを根の国から呼び戻そう、と言った義母は、ヤノハに「地の鏡」を木陰に置くよう、指示します。義母はヤノハに、顔を鏡に安易に映さないよう、注意します。義母によると、鏡は「屈む」に通じ、昔は、根の国から顕われた恐ろしい大蛇を屈んで拝むための神具だったそうです。義母はチカラオの姿を「地の鏡」に映し、鏡は根の国への出入り口で、そこに映っている(死にかけている、ということなのでしょう)チカラオは根の国にいるチカラオの映身(ウツシミ)で、魂そのものだ、とヤノハに説明します。義母は、鏡を使ってあの世に行ったチカラオの魂を救い出そう、とヤノハに言います。ヤノハは、この儀式で自分が学んだのは、青銅の鏡は重く壊れないということだけだった、と回想します。

 山社(ヤマト)の楼観で過去の儀式を思い起こしていたヤノハに、日見子であることを証明するための儀式の準備が整った、とイクメが声をかけます。イクメはヤノハに弟のミマアキを紹介し、ヤノハには何か思うところがあったようです。自分の弟のチカラオを想起したのか、あるいはミマアキが美男子だからでしょうか。ミマアキが黥をしていない理由をヤノハに尋ねられたイクメは、日見子もしくは日見彦の世話をする役だからだ、と答えます。もしよければ、ミマアキに日見子たるヤノハの給仕や毒見や身辺警護をさせたい、とのイクメの申し出に、ヤノハは快諾します。イクメはヤノハに、きちんとした服に着替えるよう、促します。ヤノハの全裸姿を見たミマアキは目をそらします。ヤノハは自分の美しさを自覚しており、わざとミマアキに自分の全裸姿を見せつけたのでしょう。正装に着替えたヤノハを見て、イクメは神々しいお姿だ、と言い、ミマアキは見惚れた感じで美しい、と言います。

 儀式を行なう部屋に着いたヤノハは、イクメとミマアキにしばらく一人にさせてほしい、と言います。山社には鏡がどれくらいあるのか、とヤノハに問われたイクメは、大小合わせて10枚ほどだ、と答えます。ヤノハはイクメに、神託の後、最も大きな鏡と手に持てる鏡を2枚運んでくるよう、イクメに指示します。用意された儀式を行なう部屋に入ったヤノハ、中の様子を調べ始めます。護摩はヌルデで、匂いからケシの実の樹液を粉にしたものだとヤノハ気づきました。ヤノハの義母もこれをよく使っており、参拝者に幻覚や幻聴を起こさせるのだな、とヤノハ悟ります。部屋の縄を見たヤノハは、縄は根の国の蛇を表す、と義母が言っていたことを思い出します。天照大神の鎮座する社が意外と小さいことに気づいたヤノハは、好都合な舞台設定を思いつきます。

 一方、鞠智(ククチ)の里では、鞠智彦(ククチヒコ)が輿に乗って出かけるところでした。鞠智彦はタケル王と同じく暈と那の戦場の最前線に向かうのか、庶民らしき2人が噂していたところ、ヤノハの指示を受けたアカメが、以夫須岐(イフスキ)に向かった、と話しかけます。以夫須岐とは現在の指宿のことでしょうか。南に何の用で行くのか、と2人に尋ねられたアカメは、イサオ王に会いに行ったのだ、と答えます。2人は、イサオ王とは暈で最強の王で、タケル王の父だ、と話します。何か問題が起きて伺いを立てるのだろうが、それは聖地である山社のことかもしれない、とアカメは2人に話します。山社のミマト将軍が独立を宣言したとの噂が広がっているので、鞠智彦はその相談のためイサオ王に謁見しようとしているのではないか、とアカメは2人に言います。さらにアカメは2人に、事実なのか自分も知らないが、ミマト将軍は新たな日見子を擁立した、と伝えます。アカメはこうして、暈で噂を広めているのでしょう。

 山社では、イクメが山社の祈祷女(イノリメ)の長であるイスズと、副長のウズメに、日見子様のお目通りがかなった、と報告していました。しかし、ヤノハが偽者の日見子と確信しているイスズは、お目通りとは偉そうに、と言って冷やかです。イクメはイスズとウズメに、日見子たるヤノハが天照大神の秘儀を見せるので、日の出前に楼観に来てもらいたい、と伝えます。生と死の秘儀を見れば、イスズとウズメの身にも危険が及ぶかもしれない、とイクメは忠告しますが、覚悟のうえだ、とイスズは気丈な様子を見せます。イスズとウズメがイクメとともに楼観に着くと、その下ではミマアキがヤノハの指示で火を燃やしていました。楼観に登ったイスズとウズメが、薄暗い中で様子のよく見えないヤノハに名乗ったところ、わずかな戸の隙間から入ってきた日光が鏡に反射したのか、ヤノハの背後が眩しいくらい明るく照らされます。ヤノハがイスズとウズメに、自分が日見子である、と名乗るところで今回は終了です。


 ヤノハはこれまで、生へのひじょうに強い執着心と、そのためには手段を選ばない非情さと、優れた身体能力および知恵により、危機を脱してきました。暈の主要人物に日見子と認められず、絶体絶命の危機にある今も、ヤノハは自分の能力と知識を総動員して生き延びようとしており、このヤノハの強い個性が本作の主題にも魅力にもなっているように思います。今回、ヤノハがミマアキを魅了したような場面も描かれましたが、ヤノハは自分の性的魅力が高いことを自覚しており、その利用に躊躇しないことはこれまでも描かれてきたので、一貫していると思います。ミマアキはヤノハにすっかり魅了されてしまったようで、今後は姉のイクメとともにヤノハの忠実な臣下となりそうです。『三国志』から推測すると、ミマアキは卑弥呼(日見子)の部屋に出入りして給仕の世話をしていたというただ一人の男性で、チカラオが政治を補佐した「男弟」でしょうか。ヤノハは、弟のチカラオが死んだと考えていますが、チカラオの死体は確認されていないので、今後登場する可能性が高い、と予想しています。ヤノハがどのような細工でイスズとウズメに自分を日見子と認めさせるのか、楽しみです。

 ヤノハの直接的な話以外で注目されるのは、鞠智彦が謁見しようとしているイサオ王です。イサオ王は権威のある重要人物で、タケル王に位を譲った暈の前代の王ではないか、と前回は予想したのですが、今回、タケル王の父と明らかになりました。タケル王は、夜に胡座をかき、天に明日のお暈(ヒガサ)さまの来訪を願い、天下の泰平を祈る役割の日見彦、鞠智彦は、日中はタケル王に代わって戦や政を決める役割で、二人がいての暈の国だ、と第7話にて説明されています。しかし今回、イサオ王は暈で最も強大な王だと説明されています。鞠智彦のいる鞠智は現在の熊本県菊池市、タケル王のいる暈(クマ)の国の「首都」である鹿屋(カノヤ)は現在の鹿児島県鹿屋市、イサオ王のいる以夫須岐は現在の鹿児島県指宿市と推測されますから、暈は現在の熊本県から鹿児島県を領域としているようです。さらに、筑後川で那と対峙しているということは、福岡県の一部、旧国名では筑後の一部も領域でしょうか。おそらく作中設定では、暈は九州の諸国では最大の領域を有していると思われます。そのため、日見彦たるタケル王が対外的には暈の最高位であるものの、実質的には分割統治体制で、タケル王と鞠智彦とイサオ王以外にも王的な人物がおり、その中で、タケル王の父ということもあり、イサオ王が最も強大と考えられているのかもしれません。イサオ王はいかなる人物なのか、暈の王位はどう継承されるのか、暈の統治体制はどうなっているのか、といったヤノハの運命と今後にも関わってきそうな問題は次回以降明かされていきそうです。今回も楽しめましたが、ネットでは検索しても反応が少ない感じなのは残念です。邪馬台国に興味のない人にも楽しめそうな作品だと思うのですが。現時点ではまだ後漢が存在していますが、今後、魏や呉も関わってきそうなので、現代日本社会に多そうな『三国志』愛好者も引き込めるとよいのですが。

俳優人生の予測

 俳優人生の予測に関する研究(Williams et al., 2019)が公表されました。映画俳優の失業率は90%で、俳優の仕事で生計を立てている者はわずか2%ほどであるため、単純に充分な仕事(持続的生産性)のあることが、多くの俳優にとっての成功を意味しています。この研究は、世界的なデータベースを用いて、1888~2016年の200万人以上の映画俳優のキャリアにわたる生産性の時間的パターンを調べました。その結果、大部分の俳優はそのキャリアにおいて高く評価された仕事の数がひじょうに少なかった一方、ごく一部の俳優ではこうした仕事の数が100を超えることから、仕事の割り当てに関する「豊かな者がさらに豊かになる」機構が示唆されました。

 俳優のキャリアにおいて仕事に費やした時間の割合は予測不能ですが、その活動期はホットストリーク(仕事が続く流れ)とコールドストリーク(全く仕事のない流れ)の時期に分けられ、仕事のあった年の翌年は仕事を得る可能性が高く、仕事がなかった年の翌年は仕事を得る可能性が低くなる傾向が見られる、と分かりました。また、生産性が最も高い年は俳優のキャリアの初期近くにある傾向があり、女優の方がこの効果はより顕著で、男優よりもキャリアは短くなる可能性が高い、と指摘されています。この研究は、それぞれの俳優について、生産性が最も高い年は過去のことなのか今後のことなのかを、仕事の履歴から85%の精度で予測できる、と明らかにしました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会学】映画俳優人生における最も生産性の高い時期を予測する

 俳優の映画やテレビの仕事の生産性が最も高い年が、過去にあったのか、それとも今後のことになるのかを予測できる機械学習法について報告する論文が、今週掲載される。この論文では、生産性が最も高い年は俳優のキャリアの初期近くにある傾向があり、女優の方がこの効果はより顕著で、男優よりもキャリアが短くなる可能性が高いと報告されている。

 映画俳優の失業率は90%で、俳優の仕事で生計を立てている者はわずか約2%であるため、単純に十分な仕事(持続的生産性)のあることが、多くの俳優にとっての成功を意味している。

 今回、Lucas Lacasaたちの研究グループは、世界的なデータベースを用いて、1888~2016年の200万人以上の映画俳優のキャリアにわたる生産性の時間的パターンを調べた。その結果、大部分の俳優はそのキャリアにおいて高く評価された仕事の数が非常に少なかった一方、ごく一部の俳優ではこうした仕事の数が100を超えることから、仕事の割り当てに関する「豊かな者がさらに豊かになる」機構が示唆された。また、俳優のキャリアにおいて仕事に費やした時間の割合は予測不能だが、その活動期はホットストリーク(仕事が続く流れ)とコールドストリーク(全く仕事のない流れ)の時期に分けられ、仕事のあった年の翌年は仕事を得る可能性が高く、仕事がなかった年の翌年は仕事を得る可能性が低くなる傾向が見られることが分かった。Lacasaたちは、それぞれの俳優について、生産性が最も高い年は過去のことなのか今後のことなのかを、仕事の履歴から85%の精度で予測できることを明らかにした。



参考文献:
Williams OE, Lacasa L, and Latora V.(2019): Quantifying and predicting success in show business. Nature Communications, 10, 2256.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-10213-0

最古のオルドワン石器とその技術的系統

 最古のオルドワン(Oldowan)石器とその技術的系統に関する研究(Braun et al., 2019)が報道されました。解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。近年まで、最初の石器群はオルドワン(Oldowan)とされていて、エチオピアのゴナ(Gona)で発見された258万~255万年前頃の石器が最古と考えられていました。近年になって、ケニアの西トゥルカナ(Turkana)のロメクウィ(Lomekwi)3遺跡で発見された石器群の年代が330万年前頃と報告され、石器の年代が一気にさかのぼりました(関連記事)。この石器群はロメクウィアン(Lomekwian)と分類されています。

 本論文は、エチオピアのアファール州のレディゲラル(Ledi-Geraru)調査区域のボコルドラ1(Bokol Dora 1)遺跡(BD1)の石器群の年代と、その技術的系統を報告しています。BD1石器群はオルドワンと分類され、その年代は火山灰層のアルゴン-アルゴン法と古地磁気測定により258万年以上前と推定されました。BD1石器群は現時点では最古のオルドワンとなります。BD 1石器群は、おもに単純な石核と剥片から構成され、その64%は細粒流紋岩で作られており、当時は容易に入手可能でした。共伴した動物化石から、258万年前頃のBD1遺跡一帯は開放的な草原だったと推測されています。BD1石器群は

 BD1石器群は、他の早期オルドワン・後期オルドワン・早期アシューリアン(Acheulean)・ロメクウィアン・チンパンジーなど現生非ヒト霊長類の用いた石と比較されました。ロメクウィアンについては実験考古学的手法から、チンパンジーのような石を叩いて用いる強打志向の技術的段階と、オルドワン以降の剥片指向の技術的段階との中間的な製作技術段階が評価されていました(関連記事)。この評価が妥当だとすると、霊長類に広く見られる道具使用から、ロメクウィアン段階を経てオルドワン段階へと発展した、という図式が描けそうです。

 しかし本論文は、石器群の統計的パターンの詳細な分析により、ロメクウィアンと最初期オルドワンや現生非ヒト霊長類の道具との間の技術的関連はほとんどない、との結論を提示しています。ロメクウィアンと最初期オルドワンとの大きな違いは、前者にはなくて後者にはある、大きな石核から鋭利な剥片を体系的に製作する技術です。本論文は、オルドワンが非ヒト霊長類にも広く見られる道具使用とは明らかに異なるとして、オルドワンの意義を指摘します。また本論文は、鮮新世において人類系統では多様な道具使用が始まっており、そうした中から派生的特徴を有するオルドワン石器群の製作が始まった可能性を提示しています。ロメクウィアンもそうした鮮新世における多様な道具使用の一例で、石器の開発は人類史において何度も独立して起きたかもしれない、と本論文は指摘します。ロメクウィアンとオルドワンに直接的な技術的関係はないだろう、と私は考えていたので(関連記事)、本論文の見解は意外ではありませんでした。

 本論文は、オルドワン出現の背景として、環境および人類の表現型の変化との関連を指摘しています。上述のように258万年前頃のBD1遺跡一帯は開放的な草原でしたが、350万~300万年前頃は森とまばらな樹木の混在する環境でした。350万~300万年前頃には、BD1遺跡の近隣でアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)が発見されています。一方、BD1遺跡も含まれるレディゲラル調査区域では、280万~275万年前頃のホモ属的な下顎が発見されています(関連記事)。アウストラロピテクス属と比較して、このホモ属的な下顎の歯は縮小しています。より精巧な剥片石器の使用による食料の加工が、より効率的な栄養摂取および歯の縮小と関連しているのではないか、というわけです。おそらく、本論文のこの見通しは妥当だと思いますが、その確証には、260万年以上前の石器と人類遺骸のさらなる発見が必要となるでしょう。


参考文献:
Braun DR. et al.(2019): Earliest known Oldowan artifacts at >2.58 Ma from Ledi-Geraru, Ethiopia, highlight early technological diversity. PNAS, 116, 24, 11712–11717.
https://doi.org/10.1073/pnas.1820177116

愛知県の「縄文人」のゲノム解析

 愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2019)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、興味深い内容なので取り上げます。伊川津縄文人のゲノム解析結果については、すでにアジア南東部の現代人の形成過程を検証した研究で取り上げられていましたが(関連記事)、本論文は伊川津縄文人(IK002)と古代および現代の各地域集団とのより詳しい関係を検証しています。

 本論文はIK002のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAの解析結果を報告しており、その平均網羅率は、ミトコンドリアが146倍、常染色体は1.85倍です。最近公表された北海道の礼文島の船泊遺跡の縄文人のような高網羅率(関連記事)ではありませんが、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析では網羅率が0.03倍以下でしたから(関連記事)、高温多湿な気候で、火山が多く強い酸性土壌のため、古代DNA研究に適していない日本列島の古代人のゲノムデータとして、たいへん貴重だと思います。IK002のmtDNAハプログループ(mtHg)はN9b1で、現代日本人では2%以下と稀ですが、縄文人では典型的です。本論文は、IK002のゲノムデータと、おもにユーラシア東部の古代および現代の人類集団と比較し、縄文人の起源および現代人への遺伝的影響を検証しています。

 化石とゲノムデータの証拠から、アジア東部現代人集団と関連する系統は、4万年前頃にはアジア東部に存在していた、と考えられています。これは4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性のゲノムデータに基づいています(関連記事)。アフリカからユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散経路としては、ヒマラヤ山脈の北方もしくは南方が想定されています。現代人のゲノム解析では、アジア東部集団の南方経路起源を支持する研究があります(関連記事)。IK002と8000年前頃のホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民との遺伝的類似性からも、アジア東部集団の南方経路起源が支持されます(関連記事)。

 考古学的記録では、ユーラシア圏東端の日本列島において38000年前頃以降の石器が確認されており、シベリア中部のバイカル湖周辺地域に由来すると思われる細石刃が、北海道では25000年前頃以降、本州・四国・九州の日本列島「本土」では20000年前頃以降に見られます。しかし、日本列島では更新世の人類遺骸はほとんど発見されていません。この後、日本列島では16000年以上前に土器の使用が始まり、土器の使用としては世界でも古いと言うるでしょう。土器の使用以降を、狩猟・漁撈・採集で特徴づけられる縄文時代と定義する時代区分区もあります(関連記事)。考古学的証拠では旧石器時代から縄文時代への継続性が指摘されており、縄文人がおそらく最終氷期極大期末まで日本列島で孤立したままの旧石器時代集団の直接的子孫である、という仮説が提示されています。そのため、縄文時代のさまざまな分野の研究は、アジア東部集団の起源と移住の理解に重要となります。

 IK002と世界各地の古代および現代の人類集団とのゲノムデータの比較の結果、IK002は現代のアジア南東部および東部集団と4万年前頃の華北の田园男性系統との間に位置する、と明らかになりました。41264ヶ所の一塩基多型を用いると、IK002は現代の北海道アイヌと強い遺伝的類似性を示し、アイヌは縄文人の直接的子孫という以前からの説が支持されます。IK002は現代の北海道アイヌを除いて、ユーラシア東部および日本列島の現代人集団とはわずかに異なります。IK002系統は、アジア東部系統とアメリカ大陸先住民系統とが分岐する前に、これらの共通祖先系統から分岐したと推測されます。

 より詳しく述べると、ユーラシア集団が東西に分岐した後、ユーラシア東部系統では田园男性系統が分岐します。その後、ユーラシア東部系統はアジア東部・アジア北東部およびシベリア東部集団(NS-NA)系統とアジア南東部系統に分岐します。この後、36000±15000年前頃にアジア東部系統とNS-NA系統が分岐する前に、IK002系統が分岐します。なお、アジア東部系統とNS-NA系統の間には、36000±15000年前頃に分岐した後も、25000±1100年前頃まで遺伝子流動があり、アメリカ大陸先住民系統はアジア北東部およびシベリア東部系統と22000~18100年前頃に分岐した、と推測されています(関連記事)。IK002系統は36000±15000年前頃よりも前にアジア東部・NS-NA系統と分岐したと推測されるので、縄文人系統は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、という見解を本論文は支持しています。この系統関係は、以下に引用する本論文の図4で示されています。
画像

 IK002系統のアフリカからの拡散経路については、シベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃の少年のゲノムデータ(関連記事)との比較から推測されました。マリタの少年(MA-1)を北方経路の古代ユーラシア北部集団と仮定すると、ユーラシア西部集団にも遺伝的影響を及ぼした古代ユーラシア北部集団から、NS-NA系統およびそこから派生したアメリカ大陸先住民系統への遺伝子流動は確認されたものの、IK002を含む古代および現代のアジア南東部および東部集団への遺伝子流動はなかった、と明らかになりました。これは、アジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきたことを示唆します。

 IK002系統がアジア東部系統と基底部で分岐していることから、現代のアジア東部集団へのIK002(縄文人)系統の影響はわずかと予想されます。しかし現代人では、日本人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・ロシアのオホーツク海沿岸~沿海地域の少数民族は、他のアジア東部集団と比較してIK002と顕著に多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、これは7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)も同様です。一方、ユーラシア東部内陸部集団にはIK002との遺伝的類似性は見られず、8000年前頃には、ユーラシア東部内陸部のIK002関連系統は、完全ではないとしても、おおむね後の移民により置換されたか、そもそも存在しなかった、と示唆されます。IK002との遺伝的類似性は、ユーラシア東部圏沿岸地域集団のみで見つかっており、古代および現代のユーラシア東部内陸部集団では見つかっていません。ユーラシア東部圏沿岸地域集団のうち、台湾先住民のアミ人およびタイヤル人とフィリピンのイゴロット人(Igorot)はオーストロネシア系で、台湾先住民はユーラシア大陸東部から13200±3800年前頃に到来したと考えられていますが、イゴロット人の起源はまだよく分かっていません。

 IK002との遺伝的類似性がアジア東部内陸部より沿岸部で顕著なのは、アジア東部への現生人類の最初の移住の波が、南方からの沿岸経路による北上だったことを示唆します。あるいは、最初の移住の波は沿岸経路だけではなく陸路もあったものの、最初の移住の波の遺伝的構成が、内陸部では北方から南方への逆移動などにより消滅した、とも考えられます。アジア東部に限らず、初期現生人類の拡散経路として沿岸は注目されており、舟による海上移動もあったのではないか、と推測されています。しかし、更新世の舟は考古学的証拠として残りにくい、という問題があります。それでも、オーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)のようにユーラシアからの移住にさいして渡海が必要な地域もあることから、更新世の現生人類が航海をしていたことは確実だと思います。

 これらの知見は、IK002系統も含めてアジア東部集団がアフリカから南方経路でユーラシア東部へと拡散してきて、IK002系統およびその近縁系統はおもにユーラシア東部沿岸を北上してきた、と示唆します。しかし上述のように、北海道の旧石器時代集団では25000年前頃、日本列島「本土」では20000年前頃以降に、シベリア中央部のバイカル湖周辺地域起源と考えられる細石刃技術が確認されています。古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響が、IK002系統も含む古代および現代のアジア南東部・東部集団で見られないことと、日本列島における25000年前頃以降のバイカル湖周辺地域起源の細石刃技術の存在をどう整合的に解釈するのかは、難しい問題です。本論文は、古代ユーラシア北部集団が細石刃技術を開発した集団ではない可能性と、古代ユーラシア北部集団の遺伝的影響を受けたNS-NA集団からの文化伝播の可能性を想定しています。この問題の解明には、バイカル湖周辺地域とロシアのオホーツク海沿岸および沿海地域の、細石刃技術を有する集団のゲノムデータが必要になる、と本論文は指摘しています。

 また、これらの知見は、縄文人と弥生時代以降にユーラシア東部から日本列島に到来した集団との融合により「本土日本人」が形成され、アイヌは「本土日本人」よりも縄文人の遺伝的影響を強く受けている、との古典的仮説を強く支持します。IK002系統からの遺伝的影響の推定は難しく、かなり幅があるのですが、本論文は、「本土日本人」に関しては8%程度の可能性が最も高い、と推定しています。一方、アミ人へのIK002系統からの遺伝的影響は41%と「本土日本人」よりずっと高く、統計量で示された、「本土日本人」の方がアミ人よりもIK002と遺伝的類似性が高い、との結果とは逆となります。これは、アミ人がIK002系統から早期に分岐した異なる集団からの強い遺伝的影響を受けたからではないか、と本論文は推測しています。これは、IK002系統がホアビン文化(Hòabìnhian)狩猟採集民系統と近縁な系統から遺伝的影響を受けて成立したこと(関連記事)とも関係しているのではないか、と本論文は指摘しています。

 本論文の見解は、福島県の3000年前頃の縄文人の部分的なゲノム解析(関連記事)や、最近公表された北海道の縄文人の高品質なゲノム配列(関連記事)とおおむね合致するものだと思います。その意味で、縄文人は独自の遺伝的構成の集団であると、改めて示されたと言えるでしょう。本論文が指摘するように、ユーラシア東部集団の移住史を理解するには、古代ゲノムデータはまだ不足しています。それだけに、今後大きな発展が期待されます。今後、縄文人とより遺伝的に類似した古代ユーラシア東部集団か確認される可能性は高いと思いますが、遺伝的に既知の縄文人の範囲内に収まる集団が日本列島以外で発見される可能性はきわめて低いと思います。縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響については、まだ推定の難しいところだと思います。今後、西日本の縄文人のゲノムデータが蓄積されていけば、縄文人の現代「本土日本人」への遺伝的影響は、北海道や伊川津の縄文人(IK002)から推定されているよりも高くなるのではないか、と予想しています(関連記事)。



参考文献:
Gakuhari T. et al.(2019): Jomon genome sheds light on East Asian population history. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/579177

朝日新聞のベネズエラ情勢報道

 昨日(2019年6月3日)付の朝日新聞朝刊には、ベネズエラ情勢に関する特集的な記事が掲載されていました。チャベス政権の電力相への取材記事も掲載されていて、なかなか読みごたえがありました。ざっと読んで改めて思ったのは、現在のベネズエラの惨状はチャベス政権およびその後継としての現在のマドゥロ政権に責任があるものの、それはベネズエラ社会に根深い腐敗体質によるものなので、マドゥロ政権が崩壊して、チャベス路線に否定的な勢力が政権を担ったとしても、ベネズエラが復興するのは容易ではない、ということです。

 チャベス政権が国営石油会社を私物化していき、優秀な技術者が国外へと逃げ出していったことも、現在の惨状の一因になっている、と指摘されていました。しかし、だからといって、チャベス政権よりも前の政権が清廉だったわけでもなく、それまでの政権の腐敗へのベネズエラ国民の不満が、チャベス政権を誕生させたのだと思います。元電力相への取材記事はなかなか興味深く、マドゥロ政権が外国人の目に触れやすい首都の安定を優先し、地方を犠牲にしている、と元電力相は批判しています。

 また元電力相は、今年起きた大規模停電の原因として、アメリカ合衆国の陰謀ではなく、人材不足などに起因する不備を指摘しています。元電力相は今でもチャベス路線を基本的には支持していますが、政権運営があまりにも恣意的で腐敗していったことを批判しています。元電力相はチャベス政権とマドゥロ政権が軍部を優遇していることも批判していますが、それが、これだけの惨状を招来したマドゥロ政権の延命に大きく貢献していることは否定できないでしょう。もっとも、それは多くのベネズエラ国民にとってたいへん不幸であることも間違いないと思います。なお、当ブログにおける最近のベネズエラ情勢に関する記事は以下の通りです。

独裁者マドゥロを擁護する「21世紀の社会主義」の無責任
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_43.html

ベネズエラの現状に関する言説補足
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_48.html

ベネズエラ情勢におけるグアイド氏の役割と評価
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_2.html

チャビスタ劣化コピー、ベネズエラ人に自説を批判されるとレイシズム丸出し
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_19.html

天安門事件から30年

 今年(2019年)は天安門事件から30年ということで、日本の新聞でも天安門事件について例年より大きく取り上げられているように思います。天安門事件についてよく想起するのは、劉暁波氏にノーベル平和賞が授与されると決定した時に当ブログで取り上げた(関連記事)、あるブログ記事の、中国の民主化運動にたいする以下のようなコメントです。

でも、彼らは21世紀の孫文、梁啓超だと思いますよ。彼らの動向を馬鹿にしてはいけないんじゃないでしょうか。思えば日清戦争直後から満州事変まで、日本人は、中国の時の権力者集団とばかり「友好」「友愛」を深めては、却って中国人の恨みを買っていたという歴史の教訓を忘れるべきではないと思うのですが。

 天安門事件後、中国は諸外国から制裁を受けたものの、その後経済が飛躍的に発展しました。では、中国の政治体制を賛美し、政権と「友好関係」を築けばよいのかというと、そんな単純なことではないだろう、とも思います。近年ずっと、日本社会の対中感情は悪いのですが、中国の経済・軍事力がこのまま増強されていけば、中国に従属しよう、との論調が日本で強くなっていくかもしれません。もしそうなれば、中国の民主化運動にたいして、経済発展と社会的安定を損なう愚行とか「西側の傀儡」とか「和平演変」とか罵倒・嘲笑・冷笑する人が増えていくかもしれませんが、それは長期的には日中友好を傷つける可能性もあるでしょう。中国との友好関係は、単に中国政府に迎合すればよい、というものでもないでしょう。もっとも、これは中国側にも言えることで、日本との友好関係は、日本政府との良好な関係のみを意味するものではない、と思います。

パラントロプス属の分類

 日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)とボイセイ(Paranthropus boisei)および南部のロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されています。エチオピクスは270万~230万年前頃、ボイセイは230万~140万年前頃、ロブストスは180万~100万年前頃に存在し、身長は110~140cm、脳容量は500ml程度と推定されています(Lewin.,2002,P123)。近年では、ロブストスの絶滅年代が60万年前頃までくだる可能性を指摘した研究もあります(関連記事)。パラントロプス属による石器の使用はまだ確認されていません。

 これら3種のパラントロプス属については、アファレンシス(Australopithecus afarensis)やアフリカヌス(Australopithecus africanus)などと同じくアウストラロピテクス属とする見解も提示されており、分類をめぐって見解が一致しているとは言えない状況です。さらに、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります(諏訪.,2006)。つまり、一般的にパラントロプス属と分類されている3種は単系統群を形成しないかもしれない、というわけです。もしそうならば、少なくとも、これら3種を包含したパラントロプス属という分類群は成立しません。

 この問題については、以前当ブログ(関連記事)で取り上げた『アニマル・コネクション 人間を進化させたもの』(Shipman.,2013)にて、訳者の河合信和氏が論じています(P308~309)。河合氏は、一般的には同じくパラントロプス属と分類されている、アフリカ東部のボイセイと南部のロブストスの道具使用が大きく異なることを重視しています。ロブストスは、おそらくシロアリを捕食するために骨器を用いていましたが、ボイセイの方は骨器を使った形跡がまったくありません。これは単なる文化受容の差ではなく、両者の系統が異なっているからではないか、と河合氏は指摘します。つまり、ボイセイとロブストスのよく似た形態は収斂進化の結果だろう、というわけです。私も近年ではこの見解に傾いているのですが、この問題の解決には、既知の化石の再検証も重要ですが、何よりも新たな化石の発見が必要となるでしょう。


参考文献:
Lewin R.著(2002)、保志宏訳『ここまでわかった人類の起源と進化』(てらぺいあ、原書の刊行は1999年)

Shipman P.著(2013)、河合信和訳『アニマル・コネクション 人間を進化させたもの』(同成社、原書の刊行は2011年)

諏訪元(2006)「化石からみた人類の進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)

アフリカ東部への牧畜の拡大

 アフリカ東部への牧畜の拡大に関する研究(Prendergast et al., 2019)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文は、アフリカ東部のうち、おもに現在のケニアとタンザニアとなる地域への牧畜の拡大と、人類集団の遺伝的構成の起源と変容を検証しています。本論文で採用されているアフリカ東部の時代区分は、50000年前頃~最近までの後期石器時代(LSA)、5000~1200年前頃の牧畜新石器時代(PN)、2500年前頃~最近までの鉄器時代(IA)、1200年前頃以降の牧畜鉄器時代(PIA)です。本論文は、LSAの3人、早期牧畜時代およびPNの31人、IAの1人、PIAの6人という計41人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAを解析し、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)DNAを決定しました。また、のうち35人には直接的な放射性炭素年代測定法が適用されました。これらのデータは、既知の古代アフリカ人と現代のアフリカおよび中東の人類集団と比較されました。

 アジア南西部起源の家畜ヒツジ・ヤギ・ウシは、アフリカ北東部に8000年前頃に初めて導入され、アフリカ東部への導入は5000年前頃に始まり、アフリカ南端には2000年前頃までに到達しました。牧畜がアフリカ東部にどのように拡散したのか、不明なところが多分に残されています。家畜の出現はエチオピア北部とジブチでは比較的遅く、4500~4000年前頃となります。サハラ砂漠以南のアフリカで確認されている最初の家畜はトゥルカナ湖近くのPNで、漁撈と牧畜が行なわれ、精巧な記念碑的墓地が建設されました。家畜はトゥルカナ盆地で急速に拡大しましたが、さらに南方への拡大は緩やかで、4200年前頃以降にPNの家畜や土器がケニアの南中央地溝帯へと少しずつ流入し始めました。

 しかし、3300年前頃までは、牧畜はケニアとタンザニア北部へは拡大しませんでした。アフリカ東部においては、LSA採集民と牧畜民との共存が長く続いていきます。ケニアとタンザニアでは牧畜新石器時代(3300~1200年前頃)には、家畜に大きく依存した多様な牧畜社会が発展し、牧畜は地域の経済・社会・自然景観を変えました。PNには、大別するとエルメンテイタン(Elmenteitan)とサバンナ牧畜新石器(SPN)という二つの集団が共存しており、SPNはエルメンテイタン(El)より広範な地域で確認されます。SPNの文化は多様なので、複数の集団を内包している可能性も指摘されています。

 こうしたPNにおける牧畜民と採集民の関係、さらにはもっと後のIAの農耕民との関係については、不明な点が少なくありません。アフリカ東部の鉄器は最初にヴィクトリア湖を経由して流入し、2000年前頃までにアフリカ東部沿岸に到達しました。しかし、鉄器が牧畜民の間に広く定着したと確認されているのは1200年前頃以降です。こうした採集民・牧畜民・農耕民の混合によりアフリカ東部集団は形成されていき、現在の多様な遺伝・言語(文化)的状況が見られるようになりました。本論文は、古代DNA解析からのデータと既知のデータとを比較し、アフリカ東部における複雑な人類集団の形成過程を検証します。

 LSAの3人は全員、既知の古代採集民と近縁で、おそらくは更新世からの在来集団と推測されます。一方、PNとIAの牧畜民には、異なる遺伝的系統が見られます。本論文は、アフリカ東部集団の形成を、3系統の混合としてモデル化しています。その3系統とは、アフリカ北東部早期牧畜民系統(EN)、アフリカ東部採集民系統、アフリカ西部系統です。ENは、スーダン系統のEN1とアフリカおよびレヴァント系統のEN2に区分されます。アフリカ東部における大まかな人類集団の形成過程は次の通りです。まず、アフリカ北東部に8000年前頃以降に牧畜が導入されてEN1とEN2が形成されていきます。5000~4000年前頃、EN1とEN2の混合した早期アフリカ北東部牧畜民(ENP)がアフリカ東部に拡散してきますが、牧畜民が採集民を置換したわけではなく、両者は共存を続けます。この牧畜民の拡大は、アフリカの気候が乾燥化していくなか、信頼性の高い水源としてより重要になったナイル川沿いの南下だったと推測されます。PNではYHg-E1b1b1b2b2a1が高頻度で見られ、アフリカ北東部および東部における牧畜民の拡大との関連が推測されます。mtHgは、EN1、EN2、アフリカ北部およびユーラシア西部と密接に関連するタイプを含む、モザイク状を形成します。

 鉄器がアフリカ東部に流入したのは2500年前頃以降で、最初はヴィクトリア湖経由だったと推測されています。この頃に鉄器とともにアフリカ東部に拡散してきたのは、アフリカ西部起源のバンツー語族農耕民集団と考えられます。鉄器時代以降アフリカ東部では、アフリカ西部系統と在来の採集民および牧畜民系統との混合集団が形成されていき、アフリカ西部系統の遺伝的影響の強い集団も出現します。これはゲノム規模でもYHgでも見られるようになります。一方、アフリカ東部で鉄器が牧畜民の間に広く定着したのは1200年前頃以降で、アフリカ西部系統の遺伝的影響の弱い牧畜民集団も存続しました。アフリカ東部におけるこうした各人類集団の変遷を文章にまとめるのは私の見識では困難なので、以下に本論文の図3を掲載します。
画像

 本論文は、アフリカ東部における乳糖耐性の定着も検証しています。アフリカ東部の3000~1000年前頃の牧畜民はほとんどが乳糖不耐性で、最近になって乳糖耐性関連遺伝子多様体の頻度が高くなった、と推測されます。その意味で、タンザニアのギジマンゲダ洞窟(Gishimangeda Cave)で発見された、2150~2020年前頃の男性で乳糖耐性関連遺伝子多様体が確認されたのは注目されます。あるいは、この男性はアフリカ東部の乳糖耐性関連遺伝子多様体が出現した個体と年代・地理的に近く、アフリカ東部でもまずはこの地域で乳糖耐性関連遺伝子多様体は定着していったのかもしれません。乳糖不耐性でも、発酵技術などにより効率的に乳製品から栄養を摂取でき、たとえばモンゴルでは、乳糖耐性関連遺伝子多様体は牧畜の始まった頃には確認されておらず、現代でも稀です(関連記事)。乳糖分解は腸内細菌叢とも関連しており、乳糖耐性関連遺伝子多様体に依拠せずとも、人類は乳製品を効率的に消化できます。これも人類の柔軟性の一例と言えそうです。


参考文献:
Prendergast ME. et al.(2019): Ancient DNA reveals a multistep spread of the first herders into sub-Saharan Africa. Science, 365, 6448, eaaw6275.
https://doi.org/10.1126/science.aaw6275

日本列島の言語

 日本語起源論など日本列島の主要な言語の起源論・形成論についての勉強はまったく進んでいないのですが、当ブログの関連記事を一度整理しておきます。日本列島の主要な言語としては、日本語・琉球語・アイヌ語があります。過去にはこれらと大きく異なる系統の話者数の多い言語が存在した可能性もありますが、今となってはほぼ検証不可能です。このうち、日本語と琉球語は同系統で、これらを同系統の別言語あるいは方言のどちらの関係にあると考えるかは、かなりのところ政治的判断に依拠していると言えるでしょう。今回は、どちらが妥当なのか、判断を保留します。アイヌ語は、これら2言語とは大きく異なる系統です。

 琉球語は、おそらく紀元後11~12世紀に始まるグスク時代に九州から渡来してきた集団によりもたらされた日本語と、それ以前の日本語とは大きく異なる系統の言語との融合により形成されたのではないか、と考えられます(関連記事)。日本語の起源について大別すると、縄文時代に祖語があり、漢字文化圏の影響を受けつつ形成されてきた、とする見解と、弥生時代にユーラシア東部から日本列島に渡来した人々の言語が祖語になっている、とする見解があるように思います。日本語系統(日本語および琉球語)は「系統不明」とされています。日本語系統と近縁な言語はかつてユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのでしょう(関連記事)。これは、同じく「系統不明」とされているアイヌ語にも当てはまるのでしょう。

 日本語の起源・形成論は、アイヌ語との関連で考えるのがよさそうです。日本語祖語がすでに縄文時代より日本列島に存在したとすると、日本語とは別系統のアイヌ語はどこに起源があるのか、という問題が生じます。日本語祖語を縄文時代の日本列島中間部(九州・四国・本州)集団に求める見解では、アイヌ語はサハリン経由で北海道へ流入した細石刃文化集団に起源がある、と想定されています(関連記事)。アイヌ文化の母胎は、南下してきたシベリア系北方文化と、日本列島中間部を経て北上してきた縄文文化との融合にある、というわけです。

 縄文文化は北海道全域に広がったわけではありませんが、おおむね北海道から九州まで分布し、「縄文人」の形態に関しては、細かな地域差・時期差が指摘されているとはいえ、地域では北海道から九州まで、年代では早期から晩期前半まで、ほとんど同一とされています(関連記事)。そのため、「縄文人」は比較的孤立した集団と考えられていますが、北海道では、たとえば九州と比較して地域内の差異が比較的大きい、とも指摘されています(関連記事)。

 これが「縄文人」の地域差の要因だとすると、同じく「縄文人」とまとめられているとはいっても、東北の北部および北海道とそれ以南とでは、言語が大きく異なっていた可能性も考えられます。そうすると、日本語もアイヌ語も縄文時代の日本列島の集団の言語に起源がある、と想定できます。一方、日本語は縄文時代の日本列島の集団の言語に起源があり、アイヌ語はオホーツク文化集団に起源がある可能性も考えられます。現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は高く見積もっても30%程度かもしれませんが(関連記事)、仮に現代というか飛鳥時代以降の日本列島の住民に最も大きな遺伝的影響を残しているのが、弥生時代~古墳時代にユーラシア東部から日本列島に渡来した集団だとしても、「縄文人」の言語が基本的に継承された可能性はじゅうぶん想定できると思います(関連記事)。

 『三国志』からは、日本語祖語が3世紀前半までに少なくとも西日本で話されていた可能性は高いように思います。したがって、日本語祖語が「縄文人」に由来しないのだとすれば、弥生時代にユーラシア東部から日本列島へと農耕をもたらした集団に起源があると考えられます。この場合、アイヌ語系の地名の南限が東北地方であることから、「縄文人」が広範にアイヌ語祖語を話していたというよりは、「縄文人」の言語は地域により大きな違いがあったか、アイヌ語祖語とも日本語祖語とも異なる系統の言語だった可能性が高そうです。

 もう一つ別の可能性として考えられるのは、弥生時代に先駆けて縄文時代後期~晩期に、ユーラシア東部から日本列島に渡来してきた「海の民」もしくは園耕民が、日本語祖語を日本列島にもたらした、という想定です(関連記事)。この「海の民」もしくは園耕民は、弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団と遺伝的に近い、と推測されています。日本語の起源が解明される可能性は低そうですが、考古学と遺伝学の研究の進展により、今よりも精度の高い推測が可能になるのではないか、と期待されます。

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第21回「櫻の園」

 金栗(池部)四三は1920年開催のアントワープ夏季オリンピック大会のマラソンで金メダルを期待されながら16位に終わったことから、失意のあまりすぐに帰国せず、ヨーロッパ諸国を訪れていました。ベルリンを訪れていた四三は、槍投げの練習に励んでいる女性たちと遭遇します。目標を見失いかけていた四三は、第一次世界大戦で敗れたため、アントワープ夏季オリンピック大会に出場できなかったドイツの女性たちの諦めない様子を見て、女子スポーツ教育への道を志します。四三の妻のスヤは、夫が熊本に帰ると期待していましたが、四三は嘉納治五郎に相談し、女子スポーツ教育のため東京府立第二高等女学校の教師となり、で東京に留まる、と決意していました。スヤは熊本に帰ろうとしますが、四三はスヤを引き留めます。四三は東京府立第二高等女学校でスポーツ教育を進めようとしますが、お嬢様の学生がそろっており、スポーツ教育に熱心な四三への態度は冷やかで、四三は思うように女子スポーツ教育を進められません。しかし、四三が女子学生に頼み込んで槍投げをやったことから、女子学生の間でもスポーツへの関心が高まります。

 今回は、雪辱を期したアントワープ夏季オリンピック大会で惨敗し、目標を見失ってしまった四三が女子スポーツ教育という新たな目標を見つけ、気力を取り戻すところが描かれました。四三が女学校で当初は学生に受け入れられなかったのはいかにもといった感じでしたが、そこから学生がスポーツに夢中になっていく過程は、やや駆け足だったかな、と思います。アントワープ大会では日本の水泳選手団も惨敗し、その衝撃が描かれました。さほど長い場面ではなく、現時点での本筋とも言うべき四三の話とはまだ上手く接続していませんが、後半の主人公である田畑政治が深く関わってくるので、必要な描写だったと思います。一方、やや長く描かれた古今亭志ん生と(美濃部孝蔵)の話の方は、相変わらず本筋と上手く接続できていないと思います。ただ、古今亭志ん生と田畑政治の関係はすでに描かれているので、後半は本筋とより深く関わるのかな、と期待しています。

北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列

 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800~3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70~90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20~30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000~18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9~15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀~紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science, 127, 2, 83–108.
https://doi.org/10.1537/ase.190415

乃至政彦『平将門と天慶の乱』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2019年4月に刊行されました。本書は、平将門の怨霊譚など、将門が後世においてどう語られてきたのか、という問題も取り上げつつ、天慶の乱を中心に将門の生涯を解説していきます。やや個人の心情に踏み込みすぎているかな、とも思うのですが、将門の怨霊譚にもそれなりに分量が割かれており、一般向け書籍であることを強く意識した叙述なのでしょう。将門が祖父の平高望に始まる坂東の平氏一族の争いに巻き込まれた要因として、将門およびその父である良持と源護との間に姻戚関係がなかったことを、本書は重視しています。

 見逃していたのは、平貞盛の母が藤原秀郷の姉もしくは妹だということです。これまでそれなりに平将門というか天慶の乱関連本を読んできましたが、記憶にありませんでした。天慶の乱においてこの姻戚関係はかなり重要になってくるので、これまで読んだ本で取り上げられていながら見落としていたとすると、なんとも恥ずかしい限りです。まあ、江戸時代末期に編纂された『系図纂要』が典拠とのことですから、どこまで信用できるのか、門外漢には判断の難しいところですが。

 本書は、将門の生年は通説より遅く910年頃と推測しています。その根拠として、将門は「少年」時に藤原忠平に仕えており、父の位階が従四位下だったことから21歳に従七位上に叙されるはずなのに、生涯無位無官だったからです。将門は21歳になる前に父の死のために931年頃に帰国し、一族間の所領争いに巻き込まれた、と本書は推測しています。もちろん、この問題に関して決定的な根拠を提示することはできませんが、本書の見解はなかなか興味深いと思います。新皇即位前後の時系列など、本書の見解を直ちに全面的に受け入れるべきではないでしょうが、今後の議論の叩き台になっていくのではないか、と思います。