mtDNAに基づく漢人の地域的な違い

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく漢人の地域的な違いを報告した研究(Li et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。漢人は現代中国人の約91.6%を占める巨大な人類集団です。以前の研究では、漢人の遺伝的多様性の高さが観察されています。mtDNAとY染色体DNAと核ゲノムのデータに基づくと、漢人の間では南北の遺伝的違いが観察されます。しかし、とくにmtDNA研究は、部分的な配列もしくは限定された地域の標本に基づいており、広範な漢人の間で同様のパターンが観察されるのか不明だ、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中国のほぼすべての省および同水準の行政区の21668人の漢人のmtDNAの、4004ヶ所の多様体を解析しました。

 漢人のmtDNAハプログループ(mtHg)では、D4が16.46%と最多で、11.19%のB4、9.46%のF1、8.13%のM7、7.12%のA 、6.49%のD5、4.95%のB5、4.29%のN9と続きます。この頻度は中国およびその周辺でも地域により異なります。mtHg-D4は北部および北東部で高頻度となり、B4はおもに南部に分布しています。F1は南部および南西部において比較的高頻度で、北部の一部地域でも高頻度です。M7はおもに南部で見られ、そのうちM7bがおもに広西チワン族自治区と広東省で見られるのにたいして、M7cは台湾で比較的高頻度で見られます。Aは北部と北西部において最も頻度が高く、南部の一部地域でも比較的高頻度です。

 興味深いことに、北部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばD4a・D4e・A5は、南部においてより高頻度です。一方、南部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばM7aやB4bなどは北部において高頻度で見られ、南北の漢人集団の遺伝的混合を表しているようです。他の比較的稀なmtHgの分布でも、地域差が見られます。M8・Z・Yは寧夏回族自治区において高頻度で見られ、F4は江蘇省と雲南省に分布しています。ユーラシア西部で一般的なmtHg- N2・R1・R0・Uは、中国ではおもに北西部で見られ、ユーラシア東西の遺伝的混合との見解と一致します。方言とmtHgとの強い相関は検出されませんでした。しかし本論文は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)と方言の間で、より強い相関が見られる可能性を指摘しています。

 mtDNAデータからは、漢人の遺伝的構成が中国の南北で異なる、との以前からの見解が改めて確認されました。しかし、常染色体のDNAデータに基づく地理的分布とはやや異なり、これは女性の特定の移動に起因するかもしれない、と本論文は指摘します。また、中国中部地域の南方漢人は、北方漢人とより密接に関連しています。一方、南方漢人でも、珠江流域の集団は一つのまとまりに分類されます。これは、漢人を遺伝地理的に区分する場合、南北で二分するよりも、黄河(北部)・長江(中部)・珠江(南部)という3河川流域の集団として三分する方が適していることを示唆します。具体的に漢人のmtHgと中国における地理的分布との相関では、D4は北部、B4は中部、M7は南部において高頻度で確認され、それぞれ黄河・長江・珠江流域の一とよく一致しています。

 本論文は、こうした大河により異なる分布がいつ確立されたのか調べるため、D4・M7・B4に分類される4859人のmtDNAの全配列データを集め、各mtHgの合着年代を推定しました。その結果、D4は41760~20160年前頃、B4は61490~29790年前頃、M7は54110~37560年前頃と推定されました。一方、それらのmtHgのサブハプログループの推定合着年代は、46950~220年前頃となり、後期旧石器時代から歴史時代への継続的な人口拡大を示唆します。これらのサブハプログループの推定合着年代は、約6割が11500~5500年前頃となる早期完新世で、2000年前頃以降では4.24%でした。本論文は、とくに黄河・長江・珠江という主要3河川流域の漢人集団の母系の遺伝的構成は、早期完新世には確立していた、と推測しています。

 また本論文は、mtDNAの全配列データセットに基づき、漢人の人口史を推定しました。漢人は全体的に、18870年前頃以降に増加しました。これは、最終氷期極大期(LGM)後の気候改善に伴うと推測されています。その後、漢人で最も急速な増加は9430年前頃に見られます。これは早期完新世における第二の人口増加を反映し、漢人を南北に二分した場合でも、黄河・長江・珠江という主要3河川流域に三分した場合でも同様です。本論文はこれを、黄河・長江・珠江流域における初期農耕の3タイプを反映している、と認識しています。中国の初期農耕では、長江流域のコメや黄河流域のキビがよく知られていますが、6000年前頃となる稲作導入前の、珠江流域を含む中国南部の温帯湿潤地域農耕も近年確認されるようになっています。中国におけるこれら3タイプの初期農耕はそれぞれ、1万年前頃の3河川(黄河・長江・珠江)流域に起源があり、12800~11600年前頃となるヤンガードライアス期後の気候改善が契機になった、と本論文は推測します。本論文の推定では、この期間に3河川流域で急速な人口増加が見られます。農耕の潜在的な人口増加力は普遍的なのでしょう。本論文は、3河川流域の遺伝的相違は古代農耕の拡大の結果と推測しています。本論文で観察された黄河流域と他の河川流域との遺伝的類似性は、黄河流域からのキビ農耕の北方拡大により説明されています。

 本論文はこれらの結果から、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と指摘します。本論文はこれに関して、中国における初期農耕との関連を指摘しています。また本論文はこれらの結果から、河川が人類集団の移住の障壁となった可能性を示唆します。現代漢人は母系では、黄河・長江・珠江という主要3河川流域における早期新石器時代農耕民の遺伝的痕跡を基本的に保持しており、本論文は主要3河川流域それぞれの古代農耕の重要性を強調しています。しかし、これは母系遺伝のmtDNAデータに基づいているので、父系遺伝のY染色体DNAデータにより、たとえば中国の初期農耕民の拡大が性的に偏った過程だったのかどうかなど、より詳細な人口史が明らかになるだろう、との見通しを本論文は提示しています。

 本論文は現代人のmtDNAデータに依拠しているので、さらに詳細な人口史を明らかにするには、古代DNAデータが必要となります。しかし、ユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部と比較して大きく遅れており、現時点では、大規模データを扱う場合、現代人が対象となるのは仕方のないところだと思います。本論文は、これまでの漢人のmtDNAデータの、部分的な配列や地理的に限定されていたという制約を超えたという意味で、たいへん意義深いと思います。今後、中国をはじめとしてユーラシア東部でも古代DNA研究が進展していくでしょうが、人口史の推測には、古代人のDNAだけではなく現代人のDNAデータも重要となります。本論文は、漢人のmtDNAデータに関して、今後長く基準となりそうな重要な成果を提供したと思います。

 もちろん、本論文が指摘しているように、あくまでも現代人を対象とした母系遺伝のmtDNAデータに基づいた漢人の人口史推定なので、Y染色体DNAデータやゲノムデータ、とくに前者では、また違った人口史が見えてくる可能性が高いと思います。まだ確定的とはとても言えませんが、人類史において、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなかったのではないか、と私は考えています(関連記事)。ヨーロッパに関しては、最初に農耕をもたらしたアナトリア半島起源の集団では大きな性差がなかったものの、後期新石器時代~青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの移住集団は男性主体だった、と推測されています(関連記事)。中国でも、初期農耕集団の拡大では大きな性差がなく、後の魏晋南北朝時代や五代十国時代などでは、男性に偏った大規模な移住があったのかもしれません。

 本論文は、母系における漢人の遺伝地理的相違が、すでに早期完新世に成立していた、と推測しています。これは、漢人系統においての短くとも1万年近くとなる、一定以上の遺伝的継続性を示唆します。今後、現代人と古代人のゲノムデータの蓄積により、漢人系統が早期完新世集団の遺伝的影響をどれだけ保持しているのか、といった問題も解明されていくでしょう。もちろんこれは、早期完新世に漢民族が成立していたことを意味するわけではありません。そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではありません。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。

 その意味で、漢民族に限らずどの民族でも、現代に近い遺伝的構成の集団の確立時期をもって、民族の形成期と判断することはできない、と思います。前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。ただ、漢民族のような巨大な集団ほど、前近代における民族の存在を前提とすることには慎重であるべきとは思います。それは、民族成立の指標として、高い比率での構成員の自認が必要と考えているからです。これは、漢民族ほどの規模ではなくとも、「ヤマト(日本)民族」も同様でしょう。漢民族の成立を本格的に論じられるのは精々近代になってからで、「ヤマト(日本)民族」に関しても、どう古く見積もっても江戸時代後期までしかさかのぼらないだろう、と私は考えています。ただ、この問題を本格的に勉強したわけではないので、とても断定的に主張できるわけではありませんし、優先度はさほど高くないので、今後も自信をもって主張できそうにはありませんが。


参考文献:
Li YC. et al.(2019): River Valleys Shaped the Maternal Genetic Landscape of Han Chinese. Molecular Biology and Evolution, 36, 8, 1643-1652.
https://doi.org/10.1093/molbev/msz072

髙倉純「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 20)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P97-104)。この他にも興味深そうな報告があるので、今後読んでいくつもりです。なお、本論文の年代は原則として較正されたものです。

 本論文は、アジア北部のシベリアやモンゴルにおける中期旧石器時代(中部旧石器時代)から後期旧石器時代(上部旧石器時代)への移行期を取り上げています。この移行期に関しては、現生人類(Homo sapiens)の拡散と適応の問題への注目とも重なり、考古学的に長い研究の歴史があります。この時期に、石器製作伝統は文化的な断絶を示すのか否か、断絶が認められる場合、新たな伝統はどの地域に系統的にたどれるのか、また伝統の違いと生物学的な人類集団とは対応するのか、といった問題群がおもに議論されてきました。こうした問題群は、遺伝人類学から次々ともたらされる新たな知見とも関わり、考古学者だけにとどまらず、ユーラシア大陸の人類進化にかかわる様々な研究者からも多大な関心を集めるものになっている、と本論文は指摘します。

 本論文は、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の編年理解について検証していますが、研究の進展差から、実質的にはアルタイ山地からザバイカルにかけての南西シベリア諸地域とモンゴルを対象としています。編年が構築されるさいに適用される研究の枠組みには、地域に限定されない普遍的な観点からの議論とともに、地域に特有の背景から生じた特殊性が含まれていることにも注意が必要と、本論文は指摘します。それは、研究の対象とする資料の種類・遺存の状況に起因することもあるでしょうし、該当地域・国の研究・教育体制や歴史的諸条件に一定の影響を受けている側面も否定できないだろう、というわけです。本論文は、日本の旧石器考古学にも、同様な普遍性と特殊性が内包されている、と指摘します。ロシアやモンゴルや日本や欧米の研究者の間で時に生じる評価の齟齬には、そうした問題が内在しているのではないか、というわけです。

 本論文は、旧石器時代研究における編年に関して、変動する環境・資源構造の中に人類集団の活動を把握していこうとする枠組みが必要と指摘しています。こうした目的で資料を収集し、その位置づけを明らかにしていこうとするならば、岩相層序(lithostratigraphy)、生物層序(biostratigraphy)、「考古層序」(archaeostratigraphy)、数値年(numerical dates)の四者の統合的提示が理想であるものの、ヨーロッパとは異なり、アジア北部でそうした統合的な議論が有効に示されてきたわけではなく、今後に多くの課題を残している、と本論文は指摘します。本論文はおもに、中部旧石器時代~上部旧石器時代の移行期における時期区分と石器製作伝統の設定にかかわる問題を整理しています。

 本論文はまず、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の石器群の類型区分とそれに基づく石器製作伝統の設定や時期区分がどのように議論されてきたのか、概観します。アジア北部における移行期の研究は、まずルヴァロワ(Levallois)技術術の展開・消長を指標に、長期的系統性を認める議論が提示されました。その後の研究でも、移行期における文化の系統的連続性が議論されました。近年では、移行期の石器群区分に関して、「カラ・ボム(Kara-Bom)・トレンド」や「カラコル・トレンド」という系統的な単位が設定され、複数の異なる系統がアジア北部で移行期には長期的に継続した、との仮説が提示されています。重点的な議論の対象とする地域や資料、編年区分を導く基準は異なるものの、アジア北部において長期にわたる特定の技術型式学的要素の連続性を認め、それを文化的あるいは人類集団の系統性の表れとみなす観点は、議論の枠組みとして共有されてきました。長期的な連続性を示す系統を軸に石器群の位置づけを評価しようとする議論は、アジア北部での移行期の資料を対象とする他の研究者にも見出せる、と本論文は指摘します。

 移行期の石器群に認められるとする長期的な系統的連続性の存在は、石器群の評価を導き出した枠組みからは独立した、岩相層序や生物層序や数値年代といった他のデータからの検証を必要とします。しかし、以前のモンゴルやアルタイ山地における諸遺跡の調査においては、そうした議論の展開を可能とするような編年にかかわる高精度のデータが、信頼性の高い安定的なコンテクストから体系的に得られていなかった、と本論文は指摘します。相互検証のためには、少なくとも取り扱う時間の目盛りを1万~数万年という単位から、千~数千年という程度の単位に絞り込んでいかなければならなかった、というわけです。そうした状況下では、当該期における「文化の系統的連続性の存在」と「その枠内での石器群の変化=編年的な段階の設定」が、相互依存的な論理を前提として仮設されてしまった側面は否定できない、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中部旧石器時代と上部旧石器時代をどう区分し、どのような意義を与えるのか、という課題に立ち戻るさい、石器製作伝統の系統的連続性が仮設される以上、時代区分にあたっては、たとえばヨーロッパのような他地域から外挿的に年代的な基準を当てはめることに逢着せざるを得ない、と主張します。

 近年では、石器の接合資料分析と遺跡形成過程の再検討により、「カラ・ボム・トレンド」と「カラコル・トレンド」の指標的な資料が出土しているとされる、カラ・ボム遺跡とウスチ・カラコル遺跡の上部旧石器時代出土石器群に関して、これまで時間的に併存すると見なされていた石器群が、上部旧石器時代のなかで時間差を示すものである、と再解釈されるにいたっているそうです。また、中部旧石器時代を代表する特徴的な石器製作伝統であるシビリャチーハ(Sibiryachikha)伝統が上部旧石器時代にも「残存」し、上部旧石器時代の石器群と「併存」していたとする評価については、シビリャチーハ伝統に帰属する石器群が検出されたチャグルスカヤ洞窟において48000年前頃よりも古くなるという放射性炭素年代測定値が得られるようになってきたことで、少なくとも長期的な「併存」を支持することは難しくなっている、と本論文は指摘します。系統的連続性の仮設から石器群の類型区分と編年的な段階設定を導くという枠組みに関しては、それとは独立したデータからの検証によって見直しが迫られている状況にある、というわけです。

 2000年代以降のアジア北部における研究では、遺跡形成過程の再検討により石器群の一括性が見直され、また高精度化された年代測定値の集積により、従来想定されてきた編年の妥当性が問い直されるようになってきたそうです。その一方で、初期上部旧石器時代(Initial Upper Paleolithic、IUP)あるいは前期上部旧石器時代(Early Upper Paleolithic、 EUP)という時期区分と石器群区分の捉え方が導入されるようになってきており、アジア中央部および南西部やヨーロッパ東部といった他地域での時期区分も考慮しながら、それとの比較を重視し、地域間の関係(移住・伝播もしくは収斂進化)を把握しようとする志向が強くなっている、と本論文は把握しています。じゅうらいの、地域内での時間的かつ系統的な連続性を仮設する枠組みとは別の観点からの議論が導入されるようになった、というわけです。

 本論文はモンゴルの上部旧石器時代を、アジア中央部や南西部といった周辺地域との対比も視野に入れて、初期(IUP)・前期(EUP)・中期(MUP)・後期(LUP)の4期に区分しています。EUPの年代に関しては、開始が39000~38000年前頃、終末が29000~28000年前頃との結果が提示されています。IUPの開始は48000~45000年前頃と推定されており、南シベリアのアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の骨製尖頭器や装身具の年代測定値とも整合的です(関連記事)。IUPとEUPの区分に関しては、IUPにおける大・中形石刃の剥離をもたらした石刃剥離技術や「彫器石核技術」の存在と、EUPにおける細石刃技術の存在が重要な指標とされています。ルヴァロワ技術に関しては、中部旧石器時代およびIUPで確認されていますが、モンゴルのチヘン2遺跡などEUPの一部の石器群においても存在が確認できるそうです。ルヴァロワ技術のみでは特定の段階の指標と見なすことができないことは明らかで、剥離工程の諸特徴や組成等の変化を考慮することが必要となっている、と本論文は指摘します。

 IUPの成立過程、とくにその担い手の人類集団に関しては、関連資料の数値年代が高精度化されたことで、関連諸事象の年代的位置づけの絞り込みが可能となってきたにも関わらず、化石人類の共伴事例がまだ確認されていないために、議論が続いています。この問題に関してはおもに、(1)他地域から新たに拡散してきた現生人類が残した、(2)中部旧石器時代からの先住集団が文化変容を遂げた、(3)現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との混合・交雑集団が残した、という仮説が提示されています。

 本論文が、中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期における編年との関連で重視しているのは、近年、中部旧石器時代晩期(Terminal Middle Paleolithic、TMP)という段階が設定され、議論されるようになってきたことです。モンゴルのハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層(5層からはIUPの石器群が出土)の出土資料の検討の結果、各種の削器類に代表される二次加工石器に伴う、ルヴァロワ技術から剥離される石刃や剥片の諸特徴とその組み合わせが着目され、それ以前の不定形剥片を基盤とする中部旧石器時代の石器群との区別のために、IUPに先行するTMPという段階が設定されているそうです。TMPの段階の石器群としては、オルホン1遺跡の3層、モイルティン・アム遺跡の5・4層、ハルガニン・ゴル5遺跡の7・6層石器群をモンゴルでの指標的な資料とし、アルタイ山地ではカラ・ボム遺跡の中部旧石器時代石器群やデニソワ洞窟の開口部8・9層や東ギャラリー11.3層・11.4層で出土している石器群がそれに該当する、と本論文は主張します。その継起年代は60000~45000年前頃で、これらの石器群の製作者はデニソワ人だった可能性が最も高い、と本論文は指摘します。TMPとIUPの石器群の間では、ルヴァロワ技術に関してとくに多くの共通点が認められますが、IUPにのみ認められる小形石刃剥離技術の存在や石核の稜形成の工程等に着目することにより、両者を弁別する特徴が見出せるだろう、と指摘されています。

 TMPとして設定された段階に一定の技術型式学的諸特徴を共有する石器群が拡散していると確認されれば、IUPの前段階が編年的に明確になり、IUPとの比較の対象が特定できるようになったことには一定の意味がある、と本論文は指摘します。ただ、該当例としてあげられている石器群のなかには、一括性や年代的位置づけに問題を含むものもあり、今後の検証が求められる、とも本論文は指摘します。モンゴルの該当遺跡では、現時点での放射性炭素年代測定値はハルガニン・ゴル5遺跡6層において得られているだけなので、他の遺跡での数値年代の取得による追検証が必要というわけです。

 このように、アジア北部における中部旧石器時代~上部旧石器時代へ移行する段階に関しては、TMP・IUP・EUPという時期設定がなされてきています。それぞれの時期に関しては、一括性が見込まれる石器群資料をもとに、技術型式学的な諸特徴を指標として石器製作伝統と同義の観点から設定がなされ、数は少ないものの、層位的な出土事例をもとに相対的な前後関係が把握されるとともに、数値年代によって相互の継起年代が推定されるにいたっています。得られている数値年代が限られているため、TMPの年代観の妥当性の検証は今後の課題ですが、TMPの設定の妥当性およびIUPとの型式組成や剥離技術、石材利用行動等に関する比較、とくに年代的重複の有無や程度といった相互の年代的位置づけの精査は、IUPの成立過程をめぐる今後の考古学的研究のなかで重要な検討課題となっていくだろう、と本論文は指摘します。本論文は、こうした比較作業のなかで、石刃や剥片を剥離する際の剥離法や剥離具の同定を重視しています。

 さらに本論文は、TMPと同一時期のアジア中央部および南西部やヨーロッパ東部における石器群との比較作業も重要な課題になる、とも指摘しています。アルタイ山地のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟やチャグルスカヤ洞窟で確認されているシビリャチーハ伝統は、想定されている年代的位置づけによる限り、このTMPの石器群と同一地域内で「併存」している可能性が高そうですが、技術型式学的には全く異なる特徴を示す両者の併存のあり方を明らかにしていくことも、人類進化の探求のうえでは興味深い課題になるだろう、と本論文は今後の見通しを提示しています。

 本論文はこのように、アジア北部の中部旧石器時代~上部旧石器時代への移行期の研究において、編年の単位となる時期として、TMP・IUP・EUPが設定され、各時期の石器群に見られる型式組成や剥離工程の諸特徴、あるいは各時期の継起年代等が追及されてきている現状を概観しています。年代的位置づけの妥当性を数値年代によって検証する試みも、年代測定の高精度化と議論の目的の違いに応じた試料選択が果たされることにより、多角的に推進されつつある、と本論文は指摘します。しかし、編年の単位として任意の時空間を区切る石器製作伝統の枠組みが適用されてはいないために、今後、同一段階内での地域差が本格的に論じられるようになると、どのような体系のなかでその地域差の位置づけをおこなっていくのか、という点が問題となるだろう、と本論文は注意を喚起します。TMP・IUP・EUPといった時期区分の設定は、アジア南西部や中央部と同じような時間的スケールで様々な事象の生起の比較を試みていくさいには有効な時間的枠組みとなり得るものの、地域差の顕在化を明らかにしていくさいには、石器製作伝統の設定にもとづいて整理をおこなっていく必要性があるのではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
髙倉純(2019)「北アジアにおける中期旧石器から後期旧石器時代にかけての編年の諸問題」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2018年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 18)』P97-104

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第25回「時代は変る」

 今回から第二部となります。金栗(池部)四三は1924年にパリで開催された夏季オリンピック大会に出場しますが、すでに全盛期を過ぎていたことから、マラソンで棄権してしまいます。その帰国報告会で四三たち陸上選手や嘉納治五郎を厳しく糾弾したのが、若き新聞記者の田畑政治でした。ここは、金栗四三から田畑政治へと主人公の座が引き継がれたことを上手く表現できていたのではないか、と思います。それにしても、朝日新聞社での面接もそうでしたが、田畑は本当に暑苦しく、強烈な人物造形になっています。まあ確かに、田畑は面白い人物ですが、あまりにも騒々しいので、主人公としてはくどすぎるかな、とも思います。私はなかなか楽しめていますが。

 今回は、大正から昭和への改元時期を上手く背景に盛り込み、田畑の強烈なキャラもあり、かなり面白くなっていました。ただ、今回はあまりにも騒がしい内容だったので、この調子が続くようだと、視聴を続けて疲れそうではあります。もっとも、満足感のある疲れなので、苦にはならないかな、と思いますが。今回初登場となった高橋是清を演じたのは萩原健一氏で、今年(2019年)3月26日に亡くなりました(関連記事)。萩原氏にとってこれが遺作となるのでしょうか。改めて、萩原氏が68歳で亡くなったのは惜しい、と思ったものです。