ハンガリーとウラル地域の父系のつながり

 ハンガリーとウラル地域の父系のつながりに関する研究(Post et al., 2019)が公表されました。ウラル語族集団は現在、シベリア西部からヨーロッパ北東部までユーラシア北部の広範な地域に存在します。約1300万人の話者がいるハンガリー語もウラル語族の一派ですが、現在、その話者であるハンガリー人(マジャール人)は他のウラル語族集団と離れた地域に居住しています。ハンガリー語と最近縁の言語は、ヨーロッパ中央部のハンガリーから遠く離れたシベリア西部に居住する集団のマンシ(Mansi)語およびハンティ(Khanty)語で、ハンガリー語も含めてこれらはウゴル諸語を形成します。ハンガリー語は、紀元後千年紀の後半にテュルク語族のいくつかより強い影響を受けました。

 言語学と考古学から、ハンガリー人の起源はシベリア西部にある、と考えられてきました。しかし、ハンガリー人は遺伝的に、近隣のインド・ヨーロッパ語族集団とひじょうに類似しています。これは、常染色体でもY染色体DNAでもミトコンドリアDNA(mtDNA)でも同様です。対照的に、ハンガリー人は言語では近縁となるウラル語族の大半とはとくに強い遺伝的関連を示しません。これは、ハンガリー人の祖先が紀元後9世紀末頃にカルパチア盆地に到達し、過去1100年間の異なる集団間の均質化の過程により遺伝的構造が大きく変化した、という以前からの人類学の知見と一致します。

 古代mtDNA研究からは、ハンガリーの征服者たちと、アジア内陸部やヨーロッパ北部および東部やロシア中央部やオビ川とエルティシ川の間の地域の現代人との、強い遺伝的類似性が明らかになりました。また、紀元後8~9世紀にカルパチア盆地に存在したアヴァール人に関しては、推定上のハンガリー人の祖先より明らかに多かった、と考えられています。アヴァール人の庶民のmtDNAとアヴァールおよびスラヴの混合墓地から、アヴァール人の庶民はアジア系集団よりも中世ヨーロッパ集団の方と遺伝的には顕著に近縁と明らかになりました。これは、アヴァール人支配層が母系では庶民に影響を及ぼさなかった、と示唆します。父系的な支配集団が形成されていた、ということでしょうか。

 紀元後6~7世紀となるハンガリーのソラッド(Szólád)遺跡の埋葬者21人のY染色体DNAハプログループ(YHg)は、常染色体から推測される地域パターンとおおむね一致し、おもにヨーロッパ中央部および南部のYHg(E・I1・I2a2・T・R1a・R1b)に分類されます(関連記事)。近隣地域からカルパチア盆地への多くの移住を考慮に入れると、現代ハンガリー人の遺伝的構成が近隣集団とひじょうに類似しているのはよく了解されます。しかし、現代ハンガリー人の遺伝的構成に、東方の起源地であるウラル地域からの遺伝子流動が反映されているのか、という問題は残ります。

 そこで注目されているのがYHg-Nで、ウラル語族の拡大と関連している、と考えられてきました。これまで、YHg-N3はヨーロッパ中央部の現代のインド・ヨーロッパ語族集団では報告されていませんが、現代ハンガリー人では4%ほどとなり、他のウラル語族集団より低い割合となっています。YHg- N3a4は、ハンガリー人とマンシ人およびハンティ人というウゴル語族集団とを関連づけるサブクレードではなかい、と以前より考えられてきました。紀元後9~10世紀のハンガリーの人類集団はYHg-Nのサブクレードに分類され、その中にはYHg- N3a4も確認されています。

 また、ハンガリーの古代人のDNA研究では、mtDNAハプログループ(mtHg)にアジア東部起源のものがあることも確認されています。mtHgでは、古代のハンガリーの人類集団は、ヴォルガ・ウラル地域のテュルク語族系の現代バシキール人(Bashkirs)との類似性が指摘されていました。バシキール人は、テュルク語族とウゴル語族とインド・ヨーロッパ語族の各集団の混合と考えられています。本論文は、初めてハンガリー人の高網羅率のY染色体DNA配列データを用いて、ウラル山脈およびシベリア西部地域の集団と比較し、YHg- N3a4の分岐年代を推定し、その時空間的な分散パターンを明らかにしています。

 YHg- N3a4は、B535とB539というサブクレードに二分されます。両者の分岐は4200年前頃と推定されています。B539はさらにB540とB545に分岐し、その年代は4200年前頃と推定されています。B540は、マンシ人およびハンティ人集団のサブクレードと、ハンガリー人およびバシキール人のサブクレードに区分されます。両者の推定分岐年代は3900年前頃です。B545はハンガリー人とバシキール人とタタール人(Tatars)のサブクレードに区分されます。B540とB545の拡大は、ともに2900~2700年前頃に始まった、と推定されています。YHg- N3a4のハンガリー人は全員B539サブクレードに分類され、オビ・ウゴル諸語のマンシ人およびハンティ人、ヴォルガ・ウラル地域のテュルク語族のバシキール人およびタタール人も含まれます。YHg- N3a4が比較的高頻度で見られる地域は、サブクレードB535がフィンランド人を中心としたヨーロッパ北東部で、サブクレードB539がウラル山脈南方です。この二つのサブクレードの地理的分布パターンには、明らかに違いがあります。B539にはB540とB545というサブクレードがあり、ハンガリー人とバシキール人では両方見られます。

 上述のように、考古学でも言語学でも、ハンガリー人の起源がウラル山脈の東のシベリア西部だと考えられてきました。ヴォルガ・ウラル地域におけるその起源としては、紀元後6~8世紀のカシュナレンコヴォ(Kushnarenkovo)文化集団、それに続く紀元後9~10世紀のカラヤクポヴォ(Karayakupovo)文化集団が想定されてきました。考古学的証拠からは、ハンガリー人の祖先集団(古マジャール人)の一部は紀元後9世紀半ばに西方へと移動し、現在のウクライナとなるドニエプル川下流地域に出現した、と推測されています。しかし、紀元後11~13世紀のチヤリクスカヤ(Chiyalikskaya)文化の遺跡からは、ウラル地域における古マジャール人の存続が支持されます。さらに、他の証拠からも、古マジャール人はウラル地域で紀元後13世紀まで存続していた、と指摘されています。ハンガリー人の東方の故地は古代ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの初期の年代記で言及されています。

 YHgは通常、滑らかな分布パターンを示しますが、YHg- N3a4のサブクレードB539の分布は独特です。古代DNA研究により、YHg- Nは新石器時代の中国とバイカル湖地域において、すでに6000年以上前に高頻度で多様である、と明らかになっており、その起源はユーラシア東部と考えられます。YHg- N3a4-B539は、ウラル地域とシベリア西部が中心的な分布地域ですが、低頻度ながら遠く離れたハンガリーで見られ、その間ではほとんど確認されていません。シミュレーションにより、ランダムな遺伝的浮動モデル、ヨーロッパとウラル山脈地域およびシベリア西部との間の単一の移住モデルは棄却されています。カルパチア盆地のハンガリーでは、紀元後10世紀の征服者の墓地でYHg- N3a4が確認されており、この頃のハンガリーの征服者の少なくとも一部がウラル地域起源だったことを示唆します。

 バルト海地域で高頻度のYHg- N3aでは、明確な南北の頻度勾配傾向が見られます。YHg- N3a3-VL29はエストニア人とラトヴィア人の間では高頻度で、ウクライナ人の間でも検出されます。これはYHg- N3aの分布の西端となり、ハンガリー人でも同様の分布が予想されますが、ハンガリーにも低頻度ながら存在するYHg- N3a4-B539とそのサブクレードの事例は異なります。ヴォルガ・ウラル地域、シベリア西部、それらから地理的に遠いハンガリーにおけるYHg- N3a4-B539の存在は、段階的な頻度勾配で説明するのは容易ではなく、現代ハンガリー人の祖先集団(古マジャール人)の移住が想定されます。

 サブクレードB 540内のマンシ人およびハンティ人とハンガリー人およびバシキール人との分岐は2900~2700年前頃に始まったと推定されており、これはオビ・ウゴル諸語とハンガリー語の分岐を紀元前10世紀に起きたと推定する言語学的データと一致します。ただ、ウラル語族系統樹の最近の言語学的復元では、ウゴル語族系統の推定分岐年代の幅が、4900~1700年前とより広くなっています。シベリア西部では寒冷気候の最盛期が紀元後8~9世紀で、その結果としていくつかのシベリア西部集団が移動したか可能性も指摘されており、古マジャール人の西進はこれで説明できるかもしれません。

 上述のように、現代ハンガリー人におけるYHg- N3a4- B539の頻度は低いのですが、紀元後9世紀後期~10世紀早期のハンガリーの墓地ではその頻度が26.3%と高いので、ウラル山脈地域の古マジャール人におけるYHg- Nの割合は顕著に高かったかもしれません。また、ウラル山脈地域周辺の古マジャール人の起源として、カシュナレンコヴォ文化およびカラヤクポヴォ文化が指摘されていることから、両文化の人類集団のY染色体および常染色体の多様性の研究が、ハンガリー人の人口史への新たな洞察を提供できるだろう、と本論文は指摘しています。ハンガリーの言語状況は、男性主体の父系的な集団による征服の結果として説明できるかもしれません。こうした事例は人類史において普遍的だったのではないか、と私は考えているのですが(関連記事)、まだ明らかに勉強不足なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Post H. et al.(2019): Y-chromosomal connection between Hungarians and geographically distant populations of the Ural Mountain region and West Siberia. Scientific Reports, 9, 7786.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44272-6

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第28回「走れ大地を」

 1931年8月、田畑政治発案の日米対抗水泳戦が開かれ、日本が圧勝しますが、今回はアメリカ合衆国側が遠征で日本側は自国での戦いだったのに対して、翌年ロサンゼルスで開かれる夏季オリンピック大会では逆となることから、田畑は楽観していませんでした。また田畑は、高石や鶴田といった実績のある選手よりも、伸びしろのある若手選手の方を重視していました。意気軒昂の田畑は、嘉納治五郎に東京市長の永田秀次郎を紹介され、皇紀2600年となる1940年に東京で夏季オリンピック大会を開催する予定だと聞かされます。

 嘉納は東京へのオリンピック招致に動き出しますが、日米対抗水泳戦の翌月、満洲事変が勃発します。田畑の先輩記者の河野一郎は、満洲事変が関東軍の自作自演であることを知りつつ、報道できないことや、新聞社にいても庶民の生活向上に役立たないことから新聞の無力を悟り、政治家への転身を図ります。新聞記者として生きていく決意を語る田畑にたいして、河野は何か実績を作るよう、励まします。そこで田畑は、すでに面識のある高橋是清を訪ね、次の首相が犬養毅だと教えられ、犬養とも遭遇します。これが田畑にとって初の特ダネとなり、上司の緒方竹虎から水泳指導に力を入れることも認められ、見合い相手も紹介されます。若手選手を優先し、オリンピックでのメダルに強く拘る田畑に高石は反発しますが、松澤一鶴は高石を宥めます。田畑が中心になって企画したオリンピック応援歌は1932年5月15日に披露されますが、その日、首相の犬養毅は襲撃され、その晩に没します(五・一五事件)。

 今回は、日米対抗水泳戦で圧勝し、1940年オリンピック大会の東京への誘致運動も現実化していくという、日本スポーツ界の明るい面と、満洲事変後の不安な政情とが対比的に描かれました。これはドラマとして王道的な構成になっており、今回はなかなか上手く描かれていたのではないか、と思います。犬養毅は今回だけの出演となりそうですが、主人公である田畑との絡みは巧みに構成されていたと思います。今後は、この明暗両面が描かれ、ついには暗が圧倒し、東京でのオリンピック開催を返上する、という展開になるのでしょう。田畑が勝負というかオリンピックでの金メダルに拘る理由も、今後詳しく描かれるのではないか、と期待しています。