荒木敏夫「古人大兄皇子論」

 私は以前より古人大兄に関心を抱いていたので(関連記事)、古人大兄について検索していて本論文を見つけたので、読みました。古人皇子は、『日本書紀』では古人大兄皇子・古人大市皇子・吉野太子(皇子・大兄)と呼ばれています。古人大兄の父は舒明天皇(当時、天皇という称号が用いられていたのか、確証はありませんが)で、母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女です。異母きょうだいとして、母が宝皇女(皇極・斉明天皇)の葛城(中大兄)皇子(天智天皇)・間人皇女・大海人皇子(天武天皇)がいます。

 本論文はまず、宝皇女が舒明の「皇后(大后)」で、後に即位し、その二人の息子(中大兄・大海人)も即位したとはいっても、古人大兄も推古朝の権力者であった蘇我馬子の娘を母とすることから、舒明朝における古人皇子の位置は決して劣位だったわけではない、と指摘します。舒明即位時に蘇我馬子はすでに故人だったものの、その息子で蘇我本宗家を継いだ蝦夷が古人大兄を強く支持していたと考えられ、一方で宝皇女は、630年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に「皇后」になったものの、宝皇女の外戚となる敏達天皇の子の彦人皇子に始まる息長系王統の力は、蘇我氏に比肩できるようなものでなかった、と本論文は指摘します。また、645年の乙巳の変により、有力な後援者である蘇我本宗家が滅亡した後も、古人大兄の即位が支配層により論じられていることも、古人大兄が有力な皇位(王位)継承候補者だった根拠として挙げられています。古人大兄の「大兄」が、同母集団内の王位(皇位)を継承し得る有力な皇子(長子)を示していると考えられることも、古人大兄の地位の高さの根拠と言えそうです。

 また本論文は、古人大兄の地位を示すものとして、乙巳の変において古人大兄が急ぎ「私宮」に帰ったことに注目しています。この「私宮」は、「私部」を「キサイベ」と訓むように、「私宮」を「キサイノミヤ」と訓む可能性を否定するものでないものの、これまで古人皇子の「ミコノミヤ(皇子宮)」にあたるものと理解されてきた、と本論文は指摘します。本論文は「ミコノミヤ(皇子宮)」についてまず、藤原宮成立以前に大王(天皇)宮とは異なる地に認められた皇子の居所で、「大兄」に該当する皇子またはそれに準じる者が経営主体になった、と指摘します。この皇子宮は、舎人を中核的構成員として、女官や後の雑戸・奴婢身分に連なる隷属民も仕える、独自の経済的基盤も有する家政機関です。これは、厩戸皇子(聖徳太子)の斑鳩宮の事例から、7世紀初頭以前にさかのぼります。本論文は、古人大兄にとって皇位(王位)継承の(潜在的な)競合者だった軽(孝徳天皇)と葛城(天智天皇)と同様に古人大兄も皇子宮を持っていたと推測しています。

 そのうえで本論文は、乙巳の変後、同年に起きたとされる古人大兄の「謀反事件」を検証しています。この「謀反」に加わった人物として、蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津がいます。古人大兄と「謀反」を共謀した筆頭者とされる蘇我田口臣川堀は、蘇我本宗家の滅亡後も古人大兄を支持し続けたのだろう、と本論文は推測しています。川堀のその後は不明ですが、氏族としての蘇我田口臣氏は、後に孝徳朝で東国国司に任じられています。倭漢文直麻呂については、倭漢氏一族が蘇我氏と深い繋がりをもっていたことから、古人大兄との関係が生まれた、と本論文は推測します。

 また本論文は、古人大兄の「謀反」に関わった5人のうち、吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津は「謀反」後の活動が見られることを指摘します。このうち吉備笠臣垂は、「謀反」を密告した功により処分を免れ、664~685年の間に冠位(26階中9位の大錦下)を賜り、また功田も下賜されています。倭漢文直麻呂は654年の遣唐使の判官に任じられており、また冠位を賜っていました。朴市秦造田来津は663年の白村江の戦いに参陣し、戦死しています。「謀反」に連座したと見られる倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津も、完全な政治的失脚を免れたのだろう、と本論文は推測しています。

 古人大兄の名前の一つである「大市」について、本論文は地名と氏族名の可能性を提示しています。地名としての大市は『日本書紀』に見え、倭迹々日百襲姫命の葬られた場所とされています。これは現在では、一般に箸墓と呼ばれる古墳と考えられています。ただ本論文は、『日本書紀』に見える倭迹々日百襲姫命の埋葬場所が、現在では箸墓と呼ばれる古墳と保証されているわけではない、とも指摘しています。また本論文は、「大市」を氏族名と仮定した場合、大和国城上郡大市郷と密接な関係を窺わせる氏族ではないか、と推測しています。

 本論文は最後に、645年の古人大兄の「謀反事件」の顛末を述べた『日本書紀』の異伝の一つに、古人大兄は斬られ、その「妃妾」は自殺したとあるものの、その娘の倭姫王は668年に即位した天智天皇の大后(皇后)に立てられた、と指摘します。晩年の天智天皇と、その弟である大海人(天武天皇)との会話から、倭姫王は非常時における大王代行や女帝として即位の可能性も考えられた存在と推測されます。本論文は、倭姫王は天智天皇の大后としての実績を積み上げていたのだろう、と推測しています。その直接的契機は、倭姫王と葛城(天智天皇)との婚姻にあるわけですが、これは葛城との婚姻による関係構築を考えた古人大兄の決断にあった、と本論文は指摘します。本論文はその時期を、舒明天皇が死去し、その大后だった宝皇女が即位した(皇極天皇)641年~642年前後と推測しています。


参考文献:
荒木敏夫(2013)「古人大兄皇子論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第179集P295-311
https://doi.org/10.15024/00002075