長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2019年2月に刊行されました。以前は「楽市楽座」について強い関心を抱き、色々と調べましたが、もう15年以上勉強を怠っていたので、最近の研究成果を把握するために読みました(まあ、15年前に最新の研究成果を把握できたいたのかというと、そうではないのですが)。本書は「楽市楽座」に関する各史料を個別の状況に即して検証しており、学説史も簡潔に紹介していますから、「楽市楽座」に関する一般向け書籍として現時点では決定版と言えるでしょうし、長く参考にされ続けると思います。私のような非専門家が「楽市楽座」について今後何か発言しようとしたら、まず本書を参考にすべきでしょう。

 本書はまず、「楽市楽座」とはいっても、関連文書22通で、「楽市」は14通、「楽市楽座」は7通、「楽座」は1通での使用が確認されている、と指摘します。「楽座」はより限定的な場面でしか使用されなかった、というわけです。また本書は、そもそも「楽市楽座」関連文書自体、時間的にも地理的にも限定されていた、と指摘します。現存文書では、時間的には1549年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)~1610年まで、地理的には東は武蔵国、西は播磨国までとなります。日本史上、「楽市楽座」はかなり限定的な使用だったことになります。

 そこから本書は、そもそも「楽市楽座」には、近世への道を切り拓いたというような政策的効果があったのか、疑問を呈しています。本書は「楽市楽座」関連文書を個別に検証し、戦乱後の市場の復興や、敵対的勢力との関係の中での物流の確保といった、独特の事情があったことを指摘します。中世から近世への大きな流れの中、それを推し進める役割を果たしたというよりは、個別の事情により「楽市楽座」が要請された、というわけです。また本書は「楽市楽座」に関して、大名側からの恣意的側面だけではなく、地域社会の働きかけという観点も重視しています。

 さらに本書は、「楽市楽座」により市場の繁栄が保証されたわけではなく、衰退した場合もそれなりにあり、江戸時代には人々が「楽市」や「楽座」といった用語に無関心だったことからも、「楽市楽座」は近世を切り拓くような画期的政策ではなかった、と指摘します。この観点からは当然、織田信長の「楽市楽座」を先進的・画期的とする見解は否定されます。私は20年以上前から信長の「先進(革新)性」を強調する見解に疑問を抱いてきたので(ネット上で最古の関連記事は2001年5月17日公開)、信長の保守的傾向を強調する近年の傾向や、本書の見解には基本的に同意します。

 「楽座」についての本書の見解はなかなか興味深いものです。私は以前、「楽座」とは特定の座に属していない商人も「楽市場」では商売可能なことを意味する、と考えていました。本書はもちろん、「楽市楽座」に近世への道の開拓という積極的側面を強調する見解で想定される、座の廃止を否定しているのですが、むしろ、大名側が座に特権商売の対価として義務づけてきた役銭の支払を免除し、負担を伴わない本来あるべき姿たる「楽」へと立ち返らせる政策だった、と主張しています。本書は、「楽座」が「楽市」よりも限定的だったのは、座からの役銭に財政基盤(の一部)を依存していた大名側の都合によるものだった、と推測しています。それでも時として「楽座」を大名側が認めたのは、上述のような個別の事情があったからでした。もちろん信長にも、他の戦国大名と同様に座を廃止する必要はなく、信長は伝統的な体制を活用して勢力を拡大していきました。

 本書は、座の解体策を進めたのは豊臣秀吉だった、と指摘します。本能寺の変直後の秀吉にとって、信長が構築した支配体制をいかに継承し、自身の正当性を示すのかが重要でしたが、1585年7月に関白に任じられた頃から、座を否定して商人支配体制を大規模に再構築するという新たな政策を実行していった、と本書は推測します。「楽座」の最後の事例が1585年10月であることは、そうした状況変化を反映しているのだろう、と本書は指摘します。一般に「織豊政権」と呼ばれますが、信長と秀吉との違いは大きいのではないか、と以前から私は考えていました。商人統制の観点からも、信長と秀吉の違いは大きいようです。

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