和田裕弘『織田信忠 天下人の嫡男』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年8月に刊行されました。本書は織田信忠の親族と事績を丁寧に解説しており、一般向けの信忠の伝記として今後長く定番になるでしょう。信忠は本能寺の変で落命したさいに数え年26歳で、すでに家督を継承していたとはいえ、実権は父の信長にあったので、一般的な印象はさほど強くないかもしれません。かつて(今でも?)言われていた俗説として、信長は徳川家康の嫡男である信康が優秀なのに対して、自分の嫡男の信忠が凡庸であることから、信康を警戒して自害に追い込んだ、というものがあります。

 しかし本書は、信康が自害した時点で、信忠の実績は信康を凌駕しており、他の戦国大名と比較しても遜色なかった、と評価しています。もちろん本書が指摘するように、信忠の実績は父である信長の威光あってのもの、という側面があったことは否定できません。しかし、信忠が、大軍を率いた1577年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の信貴山城攻めや1578年の播磨への救援や1582年の武田攻めなどで、大過なく功績を重ねてきたことは確かです。本書はとくに、信貴山城攻めについて、長年友好関係にあった上杉まで敵に回るなか、離反した松永久秀を短期間で攻め滅ぼした功績は大きかった、と指摘します。もしここで織田軍が退却するか城攻めが長期化すれば、織田は史実よりもずっと苦境に立たされていたかもしれない、というわけです。

 若くして落命したことと、父である信長の個性が強烈だったこともあるのか、信忠の逸話はあまり伝わっておらず、その中には信忠にとってあまり名誉とは言えないようなものもあります。たとえば、信忠の大きな功績と言える武田攻めでは、武田側に立つ軍記『高遠記集成』に、信忠は兵として勇敢であるものの、将の器ではない、とあるそうです。本書は、若い二代目が安全な本陣で堅城の攻略を命じても歴戦の兵卒が命懸けで攻めかかったのか分からないし、と信忠を弁護していますが、信忠はすでに大軍で実績を挙げているだけに、「天下人」の後継者としては軽率とも言えるかもしれません。

 信忠と父である信長との関係は、おおむね良好だったようですが、1581年には仲違いし、これは朝廷にも伝わるなど、広く知られていたようです。しかし、同年7月には和解しており、その後で尾を引いた形跡はない、と本書は指摘します。この父子仲違いは広く知られていただけに、1582年の本能寺の変のさい、信長がまず信忠の謀反を疑った、という話も生まれたのでしょう。その本能寺の変で、信忠が落ち延びることはじゅうぶん可能だったものの、それは結果論だろう、というのが本書の見解です。

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