伊藤之雄『大隈重信』上・下

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年7月に刊行されました。大隈重信は83歳まで生き、若き日より政治の場で活躍し、76歳で首相に就任し(第二次大隈内閣)、78歳まで務めただけに、取り上げるべき事柄は多く、新書で取り上げるとなると、過不足なく適切にその事績を叙述するのはなかなか難しいと思います。本書は新書としては大部の上下2巻構成になっていますが、冗長であるとの印象はまったく受けず、大隈の活動がいかに長く、また近代日本の成立と深く関わっていたのか、改めて思い知らされました。本書は長く、大隈の入門書として読まれ続けることでしょうし、日本近代史の復習にも適していると思います。

 本書はまず、大隈がどのような業績を挙げたのか分かりにくい人物だと指摘します。大隈は生前たいへん人気のある政治家で、その葬儀は国民的な盛り上がりを見せました。しかし、そうした人気が大隈の業績への適切な評価に基づいていたのかというと、進歩的とか庶民的とか、曖昧な印象によるところが多分にあったのでしょう。近現代史に詳しくない私も、大隈の業績となると、的確に答えることはできません。むしろ、1881年に人生のほぼ半ばで失脚した後は、おもに在野で活躍し、政治的には外相として不平等条約改正に失敗し、その後で2度首相に就任したとはいえ、最初は短期間で退陣してほとんど実績を挙げられず、2回目は対華21ヶ条要求でむしろ日本に悪影響を残したと私は認識しており、政治家としてはむしろ悪印象を抱いていました。

 本書はその大隈の事績を、幕末の若き日から晩年まで丁寧に追いかけています。佐賀藩士の息子として生まれた大隈は、藩主として、さらには隠居後も佐賀藩の実権を掌握していた鍋島閑叟(直正)の方針もあり、幕末の段階では顕著な功績を挙げたとまでは言えませんが、上層部に優秀な人物と認められ、明治新政府でも重用されます。大隈はまず財政と外交で人々に有能さを印象づけ、木戸孝允の派閥の一員として頭角を現します。ただ本書は、外交で活躍したとはいっても、大隈には本格的な英語力はなかった、と指摘します。

 木戸に重用された大隈ですが、そのあまりにも急進的な姿勢により、次第に木戸に疎まれるようになります。大隈は若い頃からたいへんな自信家だったようで、自分の方針を容易に曲げませんでした。それが、地元の長州や世界の実情をより詳しく把握するようになった木戸には、危ない政治方針と見えたようです。木戸よりもさらに漸進的な改革を志向した大久保も、当初はそうした理由で大隈を警戒していました。しかし大隈は、単なる強情な自信家ではなく、若き日より上層部に取り入るだけの話術も備えていた、と本書は評価します。大隈が明治新政府で1881年まで決定的に失脚しなかったのは、有能であるとともに、大隈のこうした側面も大きかったのでしょう。

 1881年に失脚した後の大隈は、政界中枢との関係を保ちつつ、おもに在野から政党を育てていくことで政権復帰を画策し続けます。それは首相や外相など大臣に就任したことで実現しますが、在任期間は短く(第二次政権は約2年半とやや長めですが)、充分な実績を残せたかというと、疑問の残るところです。これは、大隈の個性や選択の誤りもあるでしょうが、薩長土肥とはいっても、最も政治的勢力の弱い肥前出身だったことが、生涯にわたって政治的足枷になっていたのではないか、と思います。政党の育成に関しても、大隈は有力な競合相手である自由党、さらには自由党系が主勢力の一端を担って成立した立憲政友会に、長く遅れをとっていました。

 けっきょくのところ、1881年以後、大隈は政治家としておおむね不遇で、とくに日露戦争後は不遇な時期が長く続きました。そうした中でも大隈は政権復帰の意志を捨てず、政権中枢とつかず離れずの関係を維持し、各地を遊説し、軍部とも接触して捲土重来を期していたようです。この時期、大隈は東西「文明」の融和を唱え、新聞を盛んに利用し、自分が開明的で庶民的な大物政治家であることを印象づけていました。これが、上述の大隈の人気の高さと好印象に大きく貢献したのでしょう。とはいえ本書は、大隈に外国語の基礎的能力と外遊経験がなく、失脚してからは政権中枢に復帰した期間が短かったと指摘しつつも、大隈の外交についての知見が伊藤博文をはじめとして元老と比較してさほど見劣りするものではなかった、と評価しています。また大隈は、比較的早い時期から、経済に関しては政府の介入よりも民間の活力を重視する立場をとり、現代的に言えば「小さな政府」論者でした。

 日露戦争後の政治的に不遇な時期を経て、大隈は1914年に再度首相に就任します。これは、第一次護憲運動の盛り上がりとシーメンス事件により、薩長藩閥勢力への批判が高まったことと、大隈の国民的人気を背景にしており、第一次護憲運動は大隈自身の大きな功績ではないので、幸運だったとも言えますが、各地での遊説など上述の不遇な時期の活動が結実したことも確かでしょう。第二次大隈政権は、後の原敬内閣と比較すると、軍部の掌握などで不充分な点はありましたし、何よりも対華21ヶ条要求は大きな禍根を残しましたが、大隈の長年の悲願である政党政治への道を整備したことも否定できないでしょう。

 大隈は若き日よりイギリス風の政党政治を目標として、近代黎明期においておおむね急進的な政治的立場で活動してきました。しかし大隈は原理主義的な政治家ではなく、妥協や状況に応じての政策変更も示してきました。また大隈は、自分と敵対したり自分を裏切ったりした人物でも受け入れる寛容さを、加齢とともに身につけていきました。このように成熟した政治家として成長したことで、当時としては異例の高齢での首相再登板もあったのでしょう。外遊経験や外国語の基礎力がなかったことに起因する、外国情勢判断の誤り(その最たるものが第二次政権での対華21ヶ条要求です)もありますが、本書は総合的には大隈を大物政治家として評価しています。

 全体的に、1881年に失脚して以降の長い後半生において、大隈が政治家として顕著な実績を残したとは言えないでしょうが、大隈のような大物政治家の政党政治への試行錯誤があってこそ、日本でも政党政治が定着していったのだと思います。それが第二次世界大戦へと向かう過程で崩壊したことは残念ですが、第二次世界大戦後の政党政治の再建も、戦前の蓄積があってこそだと思いますので、大隈をはじめとして戦前の政党政治への努力が無駄に終わったとは言えないでしょう。大隈は単純な理解のできない多面的で複雑な人物なのでしょうが、本書はそうした側面をよく描いている伝記になっているのではないか、と思います。

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