20万年前頃までさかのぼるエーゲ海中央の人類の痕跡

 20万年前頃までさかのぼるエーゲ海中央の人類の痕跡に関する研究(Carter et al., 2019)が報道されました。人類の拡散経路の解明は人類進化史研究において重要です。近年まで、島や砂漠や山岳地帯といった特定の環境は人類にとって居住に適さず、現生人類(Homo sapiens)によって初めて可能になった、との見解が有力でした(関連記事)。また、海や大河は現生人類ではない人類にとって障壁として機能したと考えられており、航海は「現代的行動」の指標の一つとされてきました。そのため、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など現生人類ではない人類の拡散経路は陸上に限定されていた、と考えられてきました。

 しかし、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がチベット高原に進出していた、と最近確認されました(関連記事)。また、意図的な航海なのか漂流なのか、議論が続いていますが、フローレス島では現生人類ではないホモ属フロレシエンシス(Homo floresiensis)の存在が確認されており、やスラウェシ島でも現生人類ではなさそうな人類の痕跡が発見されています(関連記事)。現生人類の拡散経路でも、海上の役割をめぐって議論が激化しています。

 こうした人類の拡散経路をめぐる議論で、東地中海のエーゲ海地域は長い間無視されてきました。アナトリア半島西部とギリシア本土を隔てるエーゲ海は、現生人類ではない人類にとって通行不可能な障壁だっただろう、と考えられてきたわけです。そのため、現生人類ではない人類によるアジア南西部からヨーロッパへの拡散経路は、陸上のマルマラ・トラキア回廊と想定されていました。また、現生人類のヨーロッパへの初期の拡散も、この経路が想定されていました。地中海における本格的な航海は中石器時代に始まった、というわけです。しかし、最近の考古学および古地理学的研究により、このモデルは見直されつつあります。

 エーゲ海には、古地理学的復元により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5e・7・11といった間氷期には島々の間に海が存在したものの、MIS8・10・12といった氷期には海面が低下したため、アナトリア半島やギリシア半島と陸続きになった、と推測されています。氷期に出現したエーゲ海盆地は、生態学的に豊かな低地と湖などの淡水港を有する、人類にとって魅力的な土地でした。これは、現在のエーゲ海のキクラデス諸島での人類の活動を仮定していますが、その直接的証拠はこれまで提示されていませんでした。

 ステリダ(Stelida)はキクラデス諸島で最大のナクソス島(Naxos)の北西沿岸に位置しています。ステリダには石器製作にとって高品質のチャート採石場があり、剥片が散乱していて、過去の人類の使用を証明しています。ステリダ石器群は1981年に発見された当初、暫定的に早期新石器時代もしくは続旧石器時代と分類されました。しかし、ステリダ石器群はキクラデス諸島のもっと後の新石器時代や青銅器時代の石器群と似ておらず、一方でナクソス島くらいの大きさの地中海の島では更新世の人類の痕跡が確認されていなかったため、議論は複雑化していきました。最近では、エーゲ海島嶼部の植民は早期完新世までしかさかのぼらない、との見解が提示されました。エーゲ海島嶼部の下部および中部旧石器は、よく年代測定された石器群が少ないことから、更新世における人類の存在の確実な証拠にはならない、と指摘されています。

 現生人類ではない人類のエーゲ海島嶼部の通過もしくは居住の有無は、人類の認知能力に関する理解に大きな意味を有する、と一般に受け入れられています。この潜在的重要性を考えると、堅牢な根拠が必要で、それは豊富な標本サイズや石器タイプや技術の分類だけではなく、層序化された発掘からの健全な化学的年代測定も含まれる、と本論文は指摘します。本論文の著者たちは、これらの問題を念頭に置いて、2013年にステリダで発掘調査を開始しました。本論文は、エーゲ海中央で最初に発掘された層序化系列を、中期更新世から完新世までのよく確認されて年代測定された層からの人工物とともに詳述します。

 ステリダの調査地区は、岩相層序ではLU1~LU8に、土壌層序ではS1~S5に区分されています。LU1がS1、LU4aとLU4bがS2に、LU5がS3、LU6がS4、LU7がS5に相当します。石器は、最古層となるLU8を除いて全ての層で豊富に存在します。年代は赤外光ルミネッセンス法(IRSL)で測定され、LU7が198400±14500年前、LU6が94100±6500年前、LU5が22100±1500年前、LU4が18200±1300年前、LU3が14900±1000年前、LU2が12900±900年前です。LU5とLU6の間は侵食により年代が大きく離れています。

 ステリダではほぼ石器の人工物約12000点が発見され、そのうち9000点以上は年代測定された層のものでした。これらの石器の大半は、製作の初期段階で生じたもので、最終段階の石器は他の場所での使用のために少なかった、と推測されています。ステリダ石器群には、下部旧石器時代から上部旧石器時代を経て中石器時代までの石器群と、製作・形状・修正が一致しているものも含まれます。LU1には典型的なエーゲ海中石器時代石器群が含まれており、LU1からLU5では上部旧石器時代のものと分類される石器群が発見されました。この上部旧石器時代的な石器群の中には、オーリナシアン(Aurignacian)に見られる竜骨型スクレーパー(carinated scrapers)や、彫器・掻器・石刃などが含まれています。

 LU1からLU5には中部旧石器時代のルヴァロワ(Levallois)および円盤状石核技術の石器群も含まれています。これらの中には、ギリシア本土で発見され、ネアンデルタール人の所産とされているムステリアン尖頭器も含まれます。またLU1からLU5には、下部旧石器時代から中部旧石器時代早期にかけての地中海東部非アシューリアン(Acheulean)剥片伝統石器群も発見されており、スクレーパーや両面石器が含まれています。LU6ではルヴァロワおよびその疑似石器群が発見され、より大きな剥片や石刃様剥片などが含まれます。LU7の石器群は風化が進んでいたため分類が困難で、スクレーパーなどが含まれています。LU7の年代は198400±14500年前で、下部旧石器時代もしくは中部旧石器時代早期に相当します。

 本論文は、中期更新世にまでさかのぼる人類の痕跡に関して、おおむね明確に分類されて年代の確かな石器群を報告しており、エーゲ海中央における中期更新世の、おそらくは現生人類ではない人類も含む活動に関する最初の確実な証拠を提供します。以前には、アナトリア半島とギリシア本土にだけ、ネアンデルタール人やそれ以前の人類が存在した、と考えられていました。ギリシア南部では豊富なムステリアン石器群が発見され、ネアンデルタール人の所産とされているので、ナクソス島が中部旧石器時代の一時期にはギリシア本土およびアナトリア半島と陸続きになったことを考えると、ネアンデルタール人がナクソス島に存在していたとしても不思議ではない、と本論文は指摘します。

 また、ネアンデルタール人には短距離航海が可能だった、との見解も提示されており(関連記事)、あるいはナクソス島が大陸部と陸続きではなかった時代にも、ネアンデルタール人が大陸部から拡散してきた可能性も考えられます。アナトリア半島西部やレスボス島でも下部旧石器時代の石器群が発見されており、レスボス島ではその年代が258000±48000~164000±33000年前と推定されており、中期更新世にアナトリア半島西部からエーゲ海中央に人類が拡散してきた可能性も考えられます。これは、現生人類ではない人類も、マルマラ・トラキア回廊以外の経路でヨーロッパに拡散してきた可能性を示唆します。

 ステリダでの中期更新世の人類の痕跡は、まだ現生人類ではない人類の航海の証拠とはなりません。ステリダの下部~中部旧石器時代の人類の痕跡は断続的だった可能性があるので、ナクソス島が陸続きだった氷期にのみ人類が移動してきたかもしれない、というわけです。ネアンデルタール人やそれ以前の人類による航海の可能性が排除されるわけではありませんが、その証明には、石器や人類遺骸の直接的な年代測定と、更新世の海水準変動の正確な年代が必要になる、と本論文は指摘します。

 ステリダの事例は、人類のヨーロッパへの拡散経路に関する有力説の再考を促します。また、ナクソス島も含むエーゲ海中央は、淡水や動植物など資源に恵まれているため、氷期には人類にとって待避所になった可能性もあります。本論文は、エーゲ海中央は人類にとって魅力的だったものの、その資源の分布状況はモザイク状で、また新たな病原体への対応など、その利用・移動には革新的な適応戦略が必要だっただろう、と指摘します。また本論文は、寒冷期に湖も存在するエーゲ海中央に陸路で拡散してきた人類が、温暖期に向かって海面が上昇する中で、短距離航海技術を開発した可能性も指摘します。

 本論文は、フローレス島などアジア南東部島嶼部の前期~中期更新世の人類も、航海技術を開発していたかもしれない、と指摘します。私は、偶然の漂着の可能性の方が高いのではないか、と考えているのですが、確信しているわけではありません。本論文は現生人類の拡散に関しても、オーストラリアへ5万年前頃までに到達した可能性が高いことから、ヨーロッパでもマルマラ・トラキア回廊だけではなく、エーゲ海中央経由の事例があったかもしれない、と指摘します。本論文は、現生人類ではない人類も含めて、更新世の遺跡の探索はじゅうらいよりも広範囲でなければならない、と指摘します。今後、世界各地の島嶼部で、現生人類ではない人類の痕跡の報告が増えていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Carter T. et al.(2019): Earliest occupation of the Central Aegean (Naxos), Greece: Implications for hominin and Homo sapiens’ behavior and dispersals. Science Advances, 5, 10, eaax0997.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax0997

浅野裕一『儒教 怨念と復讐の宗教』

 講談社学術文庫の一冊として、2017年8月に講談社より刊行されました。本書の親本『儒教 ルサンチマンの宗教』は平凡社新書の一冊として1999年5月に平凡社より刊行されました。本書は儒教の開祖とも言うべき孔子を、怨念と復讐に囚われた誇大妄想の人物と指摘します。孔子は、有徳の聖人こそが受命して天下を統治するという徳治主義を主張し、自らを周王朝の礼に通じた聖人と自負していました。本書は、孔子が自分こそ新王朝の開祖に相応しいと自負しており、門人にも同時代の人々にもそう認識されていた、と指摘します。

 しかし、現実の孔子は高貴な家柄の出自ではなく、周王朝の礼を体系的に学べたわけではないので、当然それを体得できていたわけではなく、孔子の主張した礼(儀式体系)は、多分に孔子の創作・妄想だった、と本書は指摘します。さらに、現実の孔子は新王朝の開祖どころか、当時存在した多くの国の一国で重用されることさえほとんどありませんでした。有徳の聖人こそが受命して天下を統治するという徳治主義および孔子こそ聖人だったという主張と、現実の孔子には新王朝の開祖どころか政治的実績がほとんどないという矛盾解消に怨念と復讐を募らせていき、晩年の孔子もその後の儒教も苦しい説明を強いられた、というのが本書の見通しです。

 儒教側はこの矛盾解消のために、孔子を王、さらには帝へと格上げしようとします。漢代以降、紆余曲折はありましたが、儒教側の努力が実り、ついに唐代に孔子は王号を獲得します。その後も変動はありつつも、大元ウルスにおいて孔子の権威は頂点に達し、帝の目前にまで迫ります。明代前半期にも、孔子の権威の絶頂期は続きました。しかし、16世紀の嘉靖帝(世宗)の治世において、大礼問題を契機として、孔子は王号を剥奪されます。これは、嘉靖帝が道教に傾倒していたことも大きいようです。これまでにも、孔子を帝へと格上げしようという動きは何度かありましたが、皇帝権威の並立という問題から、見送られてきました。歴代中華王朝において、儒教を国家の理念としつつも、現実の政治指導者である皇帝の権威・理念と、孔子を帝にまで格上げしようとする言わば儒教「原理主義」との間には、潜在的な敵対関係が続いていた、と言えるのかもしれません。

 孔子の権威を確立しようという儒教側の最後の人物として、本書は康有為を挙げています。康有為は、孔子には実質的に聖人としての確たる事績がない、という儒教の根本的な弱点を解消するために、孔子よりも前の古代を暗黒時代として描き、孔子を中華文化の創始者として位置づけようとしました。近代における「西洋の衝撃」にたいして、「改革者」として分類されることの多い康有為ですが、単にヨーロッパ近代に接近しようとしたのではなく、長期にわたる儒教側の怨念・復習に基づく運動の最終走者でもあった、というわけです。「孔子教」を確立しようという康有為の試みはすぐに挫折し、中国は儒教をいかに克服するのか、という問題と本格的に向き合い、試行錯誤していくことになります。

 しかし、中国においては経済発展とともに、儒教再評価の動きが盛んになってきています。伝統文化を反近代的として一方的に否定するだけではなく、見直そうとする社会的余裕が生じてきた、ということでしょうか。しかし本書は、いわゆる新儒学について、儒教から務めて宗教色を取り除き、近代西欧哲学と宋学を混淆した個人の倫理思想へと模様替えを図っているものの、宗教の宿す毒気が抜かれているので、確かに見かけは上品だとしても、逆にその分だけ迫力もなくなり、至って面白みに欠けるので、こんなつまらないもので中国世界の未来が切り開かれるとは思えない、と辛辣な評価をくだしています。「リベラル」志向の中国研究者の一部?の間で、新儒学と「ポリコレ」との調和への期待もあるのかもしれませんが、本書が指摘するように、新儒学に中国世界の未来を切り開くような力はないでしょう。

 孔子の主張した礼が多分に創作で、孔子が自分こそ新王朝の開祖に相応しいと自任しており、儒教はその論理と現実との矛盾に苦慮した、との本書の見解は確かに魅力的ですし、説得力があるとは思います。長い歴史を誇る秦王朝と異なり、歴史が浅く社会最上層の人々が中枢だったとはとても言えず、本書の云う「無頼の軍事集団を基盤に成立した」漢王朝にとって、儒教の提示する(創作を多分に含んだ)儀礼体系でも必要とされて採用されていった、との本書の見通しも妥当だと思います。ただ、誇大妄想の孔子の主張は当初から少なからぬ人々の支持を得ており、それ故に儒教は戦国時代を生き残ることもできたように思います。その理由については、上天信仰と先王尊崇という中華世界の規範の枠組みに収まっていたから、との説明はできるものの、根本的なところは本書を読んでもはっきりとしませんでした。社会が大きく変わっていき、下層からも台頭する人々が現れるなかで、孔子の提示する礼は社会秩序の維持に有用だとして魅力的に思えたのかな、とも思います。また、本書は儒教と孔子の虚偽性を厳しく指摘しますが、人類の宗教と開祖にはそうした性格が濃厚な場合も少なくないでしょうから、とくに儒教だけの問題とは言えないでしょうが、儒教においてそうした性格がとくに強い、とは言えるかもしれません。

 以前にも述べましたが、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と私は考えています(関連記事)。本書を読んで、その考えはさらに強くなりました。毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っていなかったと思います。近代日本では、教育勅語が大きな影響力を有して敗戦まであからさまな批判が躊躇されたように、近代化の中でなし崩し的に儒教が都合よく取り入れられたように思われ、その意味で、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みの意義は現代日本社会でも大きい、と私は考えています。

オルドビス紀の集団行動(追記有)

 オルドビス紀の集団行動に関する研究(Vannier et al., 2019)が公表されました。集団的な社会的行動は、数百万年にわたる自然選択によって進化してきたことが知られており、数々の実例が現生節足動物によって示されています。たとえば、鎖のようにつながった状態で移動するチョウやガの幼虫、アリやイセエビです。しかし、集団行動の起源と初期の歴史は、ほとんど知られていません。この研究は、約4億8000万年前となるモロッコのオルドビス紀前期の節足動物である三葉虫の一種(Ampyx priscu)の化石が、直線状に集まった状態で数例見つかったことを報告しています。

 この三葉虫は体長が16~22mmで、胴体の前面に頑丈な棘があり、胴体の後方に向かって一対の非常に長い棘がありまし。この三葉虫化石の集合体それぞれで、各個体は胴体の前面を同じ方向に向けて一列に並び、棘を介して他の個体との接触を維持していました。この研究は、観察された化石のパターンのスケールを考慮すると、このように一貫した直線性と方向性の原因が、受動的運搬や水流による堆積であった可能性は低く、移動中に突然死んだ可能性の方が高い、と推測しています。たとえば、嵐に遭遇し、堆積物中に生き埋めになった、というわけです。

 この研究は、三葉虫が海底を伝って移動していたことから、集団移動しており、長く伸びた棘を使って身体的接触を行ない、一列での移動を維持した可能性がひじょうに高い、と推測しています。嵐によって三葉虫の環境が撹乱されると、それが運動センサーと触覚センサーによって感知され、それに対するストレス応答として、三葉虫はもっと静かな深い海域への集団移動に駆り立てられた、というわけです。同様の行動は、現代のイセエビにも見られます。

 これに対して、今回観察された化石のパターンの原因は、性的に成熟した個体が産卵場に移動する季節的な繁殖行動であった可能性もあります。この三葉虫は盲目なので、棘と化学物質を介した感覚刺激を用いて協調していた可能性がある、というわけです。この発見は、約4億8000万年前の節足動物が、その神経の複雑さを利用して、現生動物と同じような一時的な集団行動を発達させた可能性を明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【古生物学】整然と並んでいた4億8000万年前の節足動物

 古代の節足動物の複数の化石が直線状に整列した状態で発見され、これは、集団行動を示しており、環境からの合図に応答したもの、あるいは繁殖のための季節的移動の一環とする見解を示した論文が、今週掲載される。今回の研究で得られた知見からは、現生動物と同じような集団行動が早ければ4億8000万年前から存在していたことが示唆されている。

 集団的な社会的行動は、数百万年にわたる自然選択によって進化してきたことが知られており、数々の実例が現生節足動物によって示されている。例えば、鎖のようにつながった状態で移動するチョウやガの幼虫、アリやイセエビだ。しかし、集団行動の起源と初期の歴史は、ほとんど知られていない。

 今回のJean Vannierたちの論文には、モロッコのオルドビス紀前期(約4億8000万年前)の三葉虫(節足動物)の一種であるAmpyx priscusの化石が直線状に集まった状態が数例見つかったことが記述されている。A. priscusは、体長が16~22ミリメートルで、胴体の前面に頑丈な棘があり、胴体の後方に向かって一対の非常に長い棘があった。Vannierたちが調べたA. priscusの化石の集合体のそれぞれで、個々のA. priscusが、胴体の前面を同じ方向を向けて一列に並び、棘を介して他の個体との接触を維持していた。Vannierたちは、今回観察された化石のパターンのスケールを考慮すると、このように一貫した直線性と方向性の原因が、受動的運搬や水流による堆積であった可能性は低く、A. priscusが移動中に突然死んだ可能性の方が高いと考えている。例えば、嵐に遭遇し、堆積物中に生き埋めになったというのだ。

 Vannierたちは、A. priscusが海底を伝って移動していたことから、集団移動を行い、長く伸びた棘を使って身体的接触を行い、一列での移動を維持した可能性が非常に高いという考えを示している。嵐によってA. priscusの環境が撹乱されると、それが運動センサーと触覚センサーによって感知され、それに対するストレス応答として、A. priscusがもっと静かな深い海域への集団移動に駆り立てられたと考えられる。同様の行動は、現代のイセエビにも見られる。これに対して、今回観察された化石のパターンの原因は、性的に成熟した個体が産卵場に移動する季節的な繁殖行動であった可能性もある。A. priscusが盲目であることから、Vannierたちは、三葉虫が棘と化学物質を介した感覚刺激を用いて協調していた可能性があるという仮説を提示している。

 今回の発見は、4億8000万年前の節足動物がその神経の複雑さを利用して一時的な集団行動を発達させた可能性を明らかにしている



参考文献:
Vannier J. et al.(2019): Collective behaviour in 480-million-year-old trilobite arthropods from Morocco. Scientific Reports, 9, 14941.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-51012-3


追記(2019年10月23日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。