ヒト科の進化的放散と系統

 ヒト科(大型類人猿)の進化的放散と系統に関する研究(Rocatti, and Perez., 2019)が公表されました。ヒト科の進化的放散に関しては、生態学的および行動学的特徴とともに、身体サイズ・移動関連形態・頭蓋のサイズおよび形態の多様化も見られます。とくに人類系統においては、頭蓋のサイズおよび形態においてヒト科の他種とはかなり異なっていました。ただ、人類系統に限らず、ヒト上科(類人猿)というクレード(単系統群)の進化的放散において、頭蓋のサイズと形態の変化は重要でした。それは、霊長類の多くの生物的側面に関連すると考えられているからです。とくに、移動形態や食性や社会構造のような生態学的および行動学的特徴における変化は、クレードにおける特有の頭蓋形質の変化と関連しています。霊長類では具体的には、移動と大後頭孔の相対的位置や、食性と歯列のサイズおよび形態や、社会的集団サイズと脳の頭蓋内鋳型の密接な関係に見られます。本論文は、ヒト上科の現生種および化石標本の頭蓋データから、ヒト科の進化的放散による多様化について検証します。

 まず、ヒト上科においてヒト科とテナガザル科の明確な違いが改めて確認されました。頭蓋の特徴の多様化パターンからは、漸進的な変化が確認されましたが、過去400万年では異なる変化が見られます。これは、以前の研究での想定よりも複雑な進化を示唆し、本論文はヒト科の非漸進的な頭蓋進化を提示しています。ヒト上科クレードにおいて、中新世ではむしろ継続的な傾向が見られますが、鮮新世~更新世にかけては、とくにヒト科クレードにおいて、すべてのサブクレード間で形状の多様性が増加します。

 この鮮新世~更新世にかけての断続平衡モデルに近い非継続的進化過程では、ヒト上科の頭蓋顔面進化が、絶滅および現生種の単一の適応的放散の結果なのか、それとも気候と生態系の変化および/あるいは行動学的・形態学的な重要な変化に起因する連続した適応的放散なのか、まだ不明です。本論文は、形態測定分析により、ヒト上科霊長類にはかなりの頭蓋顔面サイズおよび形態の変動がある、と示します。これらの結果は、新規の多様な形態が比較的短期間に急速に進化した結果としての、異なる適応的放散を示唆するかもしれません。しかし本論文は、そうした急速な進化が少ない化石標本に起因するデータ不足の結果にすぎないかもしれない可能性も指摘します。

 本論文はヒト科の進化的放散の要因について、環境変動を挙げています。過去1000万年、アフリカ東部および南部では、大地溝帯の変動など地球規模での変化が生じました。その結果、アフリカ熱帯地域において、高木密度と草原およびサバナ(疎林と低木の点在する熱帯と亜熱帯の草原地帯)が相互に、縮小・拡大していきました。これは、チンパンジー系統と人類系統の分岐の要因になったかもしれません。アフリカ東部では、森林・小規模な林地・草原が斑状に分布するようになります。この広範な生態的地位は、400万年前頃にはアウストラロピテクス属系統が占拠するようになり、アウストラロピテクス属は広範な地域の資源を利用できました。草原の拡大は、アウストラロピテクス属クレードの重要な適応的特徴である直立二足歩行にも関連しているかもしれません。こうした変化は、アフリカ大陸内外において、消費される資源の量と多様性を増加させ、生態的地位と生息地の広範な占拠を伴ったかもしれません。

 また本論文は、気候変化も含む環境変動とともに、文化革新もヒト科の形態学的多様性と関連する要因だった可能性を指摘します。本論文は、ヒト科の進化的放散の根底にある地理的多様性もおそらく気候変化および文化的革新と関連しており、ヒト上科内のいくつかの事例では、異所性が新種出現の主要な原因の一つだったかもしれない、と示唆します。本論文は、ヒト科の放散と関連する要因の複雑さから、地理的および適応的要因を含むさまざまな進化的放散過程があった、と想定しています。しかし本論文は、観察された大進化パターンの要因の解明には、より多くの古気候および考古学的データが必要になる、と指摘しています。

 本論文はまとめとして、ヒト科の進化的多様化は漸進的で継続的な過程ではなく、過去1000万年に変化していき、より複雑で変動的だった、と示唆しています。最近のいくつかの研究はホモ属の多様化に焦点を当てていますが、本論文は、ヒト進化のよりよい理解には、異なる進化的スケールでの過程の複雑さを明確に扱う将来の研究が必要である、と指摘しています。小規模パターンがおそらくは小進化の過程に関連しているのに対して、大進化規模におけるパターンはおそらく、複数のクレードにまたがって作用する発達的・生態学的・進化的過程と関連しているのではないか、と本論文は推測します。また本論文は、大進化の多様化を調査する進化的研究には、古生物学的データの追加が重要になる、と指摘します。現生種を用いての系統学的比較方法は予備的でしかない、というわけです。

 本論文が具体的に提示するヒト上科系統樹は、おおむね通説に合致したものです。テナガザル科とヒト科はそれぞれ異なるクレードを形成し、ヒト科ではオランウータン亜科とヒト亜科がそれぞれ異なるクレードを形成します。ヒト亜科では、ゴリラ系統(ゴリラ族)とヒトおよびチンパンジー系統(ヒト族)がそれぞれ異なるクレードを形成します。もちろん、チンパンジー系統と人類系統もそれぞれ異なるクレードを形成しますチンパンジー系統では、チンパンジーとボノボがそれぞれ異なるクレードを形成します。ここまでは、通説と同じと言えるでしょう。しかし、本論文の人類進化系統樹に関しては、異論も少なくないかもしれません。以下に、本論文のヒト上科系統樹および各標本の位置を示した図4を掲載します。
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 本論文が対象としているのはアウストラロピテクス属以降ですが、まず、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)とその他の系統が分岐します。アファレンシスは、300万年前以降の全人類系統の共通祖先との見解が有力でしょうから、これは通説とおおむね合致すると言えそうです。「頑丈型」と言われるパラントロプス属はクレードを形成し、エチオピクス(Paranthropus aethiopicus)からロブストス(Paranthropus robustus)とボイセイ(Paranthropus boisei)が派生したとされます。この見解は今でも一定以上有力かもしれませんが、頑丈型については、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれ、クレードを形成しない、との見解もあります(関連記事)。

 ホモ属へとつながる系統では、アウストラロピテクス属でもアフリカヌス系統とホモ属の共通祖先系統との分岐が示されています。その後のホモ属系統は、ハビリス(Homo habilis)とその他の系統が分岐します。ハビリスが全ホモ属の共通祖先系統になった、との見解は今でも一定以上有力でしょうから、その意味では本論文の見解は有力説と整合的と言えそうです。しかし、そもそもハビリスという分類群自体がどこまで妥当なのか、問われるべきだと思います(関連記事)。

 本論文の系統樹で議論になりそうなのはこの後のホモ属の分岐で、まずフロレシエンシス(Homo floresiensis)と他のホモ属系統が分岐します。これは、フロレシエンシスがハビリスのようなエレクトス(Homo erectus)よりもっと祖先的なホモ属系統から進化した、とする見解(関連記事)と整合的です。もっとも私は、フロレシエンシスはアジア南東部のエレクトスから進化した、とする見解(関連記事)の方が有力と考えています。この後のホモ属の分岐で、ルドルフェンシス(Homo rudolfensis)系統と他のホモ属系統が分岐する、という点も議論となりそうです。ルドルフェンシスがフロレシエンシスよりも現生人類(Homo sapiens)系統と近縁だとすると、私にとってはかなり意外です。

 エレクトスの出現以降の分岐は、おおむね有力説と合致しています。まずエレクトス系統と他のホモ属系統が分岐します。ナレディ(Homo naledi)については、系統樹における位置づけが明確ではありませんでしたが(関連記事)、本論文では、エレクトス系統の分岐の後に、他のホモ属系統と分岐した、とされています。おそらく、この推定は妥当だと思います。その後は、現生人類系統とハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)およびネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統が分岐します。ここで問題となるのは、ハイデルベルク人という分類群の妥当性で(関連記事)、これは上述のハビリスと同様なのですが、本論文が指摘するように、この問題の解明にはより多くの化石データが必要なのでしょう。


参考文献:
Rocatti G, and Perez SI.(2019): The Evolutionary Radiation of Hominids: a Phylogenetic Comparative Study. Scientific Reports, 9, 15267.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-51685-w

大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』第40回「バック・トゥ・ザ・フューチャー」

 1959年、田畑政治たちは1964年夏季オリンピック大会を東京に招致しようとしていましたが、IOC(国際オリンピック委員会)総会で演説予定だった外交官が負傷し、田畑たちは嘉納治五郎を看取った平沢和重に演説を依頼します。しかし、1964年に東京で夏季オリンピック大会を開催するのは時期尚早だと考える平沢は、その要請を断ります。そんな平沢に、田畑は1945年以来の自分たちのオリンピックへの熱い想いを語り始めます。

 今回は敗戦後の流れが一気に描かれ、ダイジェスト的な感じでした。回想場面も多く、最終章を迎えて、これまでの描写を踏まえた集大成の始まりを予感させました。1954年の時点でのフィリピンにおける反日感情の強さと、田畑へのオリンピックの熱意を結びつける話の流れはよかったと思います。田畑が1953年の衆院選に出馬したことは知りませんでしたが、自民党公認と言ってしまったのはまずかったな、と思います。まだ保守合同前で自民党結成前だったからです。調べてみたら、田畑は自由党から出馬し、立候補者中8人(定数4)6位でした。脚本では自由党になっていたのかもしれませんが。