山内昌之、細谷雄一編『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年8月に刊行されました。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。



序章●山内昌之「令和から見た日本近現代史 ヘロドトスの「悪意」から劉知幾の「公平」へ」P3~29
 近現代日本の起点として、徳川家康による江戸幕府開設が「日本1.0」として高く評価されています。「日本2.0」は明治維新、「日本3.0」は第二次世界大戦後というわけで、現代日本社会の通俗的な歴史観と通ずるところも多分にあるように思います。本論考では歴史認識と相互理解の難しさが説かれており、日本では中国や南北朝鮮が強く意識されるでしょうが、本論考の指摘するようにこうした関係はアジア東部に限定されているわけではありません。


第1章●瀧井一博「立憲革命としての明治維新」P31~48
 19世紀において立憲制度と不可分だった議会制度は、明治時代当初よりその採用が自明視されていたものの、その歩みは平坦ではなかった、本論考は指摘します。当初の立憲構想として、木戸孝允は君主による「独裁」を主張しますが、それは国民の信任に立脚したものという前提がありました。一方、大久保利通も立憲には賛成ですが、「君民共治」を主張しています。本論考は、両者ともに民の開花を促すという点では共通しており、その実現過程についても構想に大きな隔たりはなかった、と指摘します。本論考は明治維新を立憲革命と把握し、立憲体制確立の要因として、指導者たちの長期的視野、独自の歴史を踏まえた憲法制定が基本方針とされたこと、伊藤博文による憲法の相対化を挙げています。


第2章●岡本隆司「日清戦争と東アジア」P49~66
 本論考は、おもに朝鮮半島から遼東半島が戦場となった日清戦争について、朝鮮半島をめぐる争いの鍵は興隆にしても衰退にしても、日本列島の変動だった、とまず指摘します。その上で本論考は、日清戦争が東アジア史と世界史の分水嶺だった、と指摘します。帝国主義もしくは世界の構造化が東アジアにまで及んだのは日清戦争だった、というわけです。本論考は、中国の近代化が本格化するのはアヘン戦争ではなく、その半世紀後の日清戦争だった、と主張します。さらに本論考は、東アジア諸国の相互理解として、前近代の歴史の重要性を指摘しています。


第3章●細谷雄一「日露戦争と近代国際社会」P67~90
 本論考は日露戦争の世界史的意義を検証しています。日露戦争は第一に、海洋国家のイギリスと大陸国家のロシアとの地球規模での対立と密接に関わっていました。日露戦争の結果、ロシア海軍はもはやイギリスにとって脅威とはならず、イギリスとロシアとの接近を可能としました。これが、第一次世界大戦の前提の一つを形成します。また、「白人種」のロシアが「有色人種」の日本に負けたことは、「白人」による国際秩序を動揺させることになりました。また、日露戦争の総力戦の萌芽としての性格も指摘されています。


第4章●奈良岡聰智「第一次世界大戦と日中対立の原点」P91~107
 本論考は、日清戦争以降も対立一辺倒ではなかった日中関係において対立の側面が急速に強くなった契機は、1915年の対華二十一ヵ条要求だった、と指摘します。日本がこうした強圧的な要求を突如提示した背景として、本論考は満洲問題を挙げています。日露戦争で勝ったものの、賠償金を得られなかった日本は、併合した朝鮮半島の安全保障の観点からも、満洲権益に固執するようになります。しかし、日本が獲得した中国大陸の権益は不安定で、日本の支配層の中では危機感が高まっていました。日本は、第一次世界大戦の勃発に乗じて山東省のドイツ権益を奪い、その返還と引き換えに中国に譲歩を迫ろうとしました。また、対華二十一ヵ条要求の背景として、日本国内の世論の盛り上がりがあり、政府はこれを抑えられませんでした。対華二十一ヵ条要求は、中国だけではなく西洋列強の不信も招来し、日本外交を制約することになりました。


第5章●川島真「近代日中関係の変容期 1910年代から1930年代」P109~137
 本論考は日清戦争や義和団事件にも言及しつつ、1910年代から1930年代の日中関係を概観しています。本論考は日中関係の理解において、中国をめぐる列強関係と、日中二国間関係を区別する必要がある、と指摘します。いわゆる幣原外交のように、列強間では協調していても、日中二国間関係は改善されていたとは言えない状況もあった、というわけです。なお、近年中国政府は、日中戦争の起点を盧溝橋事件から満州事変へと変え、これには国共合作を強調しなくなったことと関連しているようです。ただ本論考は、塘沽停戦協定から盧溝橋事件までの1933~1937年までの期間を「戦争」とするのにはかなり無理がある、と指摘しています。じっさい、1936年末の西安事件後も中国が日本と戦争を始めたわけではなく、盧溝橋事件直後も、日中双方とも開戦を意識していませんでした。


第6章●小林道彦「政党内閣と満洲事変」P139~160
 満州事変で関東軍は最終的に満洲全域を占領するのですが、それは関東軍の「電撃的軍事行動」ではなく、政党内閣と関東軍との政治闘争の紆余曲折を経ての結果だった、と本論考は指摘します。その背景として、当時の関東軍の規模は小さく、基本的には権益防衛のための軍隊で、鉄道とその沿線でしか戦えなかった、という事情がありました。そのため、一時は政党内閣側が優位に立ち、石原莞爾も満洲の「独立」は無理だと諦めかけたのですが、幣原外相の統帥権干犯問題により、強硬派が主導権を掌握するに至ります。


第7章●小谷賢「戦間期の軍縮会議と危機の外交 第二次世界大戦への道(1)」P161~180
 本論考はおもに戦間期のヨーロッパ情勢を取り上げています。この間、ワシントン海軍軍縮条約のように、軍縮が機能したこともありましたが、世界恐慌を契機として、各国は軍縮よりも利権確保・拡大に向かい、軍縮体制は崩壊していきます。本論考はその転機を1933~1934年頃としています。ヨーロッパにおいては、ドイツでヒトラー政権が成立して以降、ドイツの拡大政策が明らかになってきましたが、これに対してイギリスとフランスが宥和的だったため、第二次世界大戦に至った、との見解が有力です。ただ本論考は、当時イギリスもフランスも世論は避戦傾向が強く、ドイツとの宥和は強く支持された、とも指摘しています。


第8章●森山優「「南進」と対米開戦 第二次世界大戦への道(2)」P181~201
 太平洋戦争へと至る日本の選択が検証されています。1940年のヨーロッパにおけるドイツの快進撃に幻惑されたドイツとの同盟締結、アメリカ合衆国の反応を読み誤った南部仏印進駐、独ソ戦の始まりによる北進論の盛り上がり、アメリカ合衆国の軍備の強大化を予想できていながら、開戦を選択したことなど、当時の日本の選択は後世から見ると愚かなのですが、当時としては、国内諸勢力の利害と主張を調停する強い権力・政治的枠組みが存在しなかったことや、石油禁輸による数年後の石油枯渇が現実化するなか、戦えるうちに戦おうと判断したことなど、「狂気」に取りつかれての選択ではなく、同じ状況では誰もが陥りかねない判断だった、と了解されます。


第9章●楠綾子「米国の日本占領政策とその転換」P203~219
 本論考は、日本の占領期の改革について、戦中からの方向性が進展したという側面もあるとしても、戦後日本の在り様を形成した諸改革を可能としたのは、実質的にはアメリカ合衆国単独の占領だった、と評価しています。また本論考は、1947~1948年を転機とする占領期の「逆コース」について、非軍事化・民主化から経済復興への移行は当初からの予定にあり、アメリカ合衆国にとっても、負担軽減から日本の経済復興が期待された、と指摘しています。ただ本論考は、これがアジアとヨーロッパにおける冷戦の深刻化と重なったことも指摘しています。本論考は、占領期の改革がその後の日本の在り様を規定するに至った理由として、自由で民主的な改革の受益者が多かったからだろう、と推測しています。


第10章●日暮吉延「東京裁判における法と政治」P221~236
 東京裁判において、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法の疑いが濃厚なので、判事たちの間でも一致した意見はなかったそうです。それと関連して、東京裁判での死刑判決の根拠については、残虐行為(戦争法規慣例違反)に求めるべきだ、との判断がイギリスとアメリカ合衆国にはあったようです。つまり、東京裁判の死刑判決の根拠は「重大な残虐行為(B級犯罪)」に求められ、「平和に対する罪(A級犯罪)」だけでは終身刑に留まった、というわけです。海軍で死刑判決を受けた者がいなかったのも、残虐行為について証拠不十分とされたからでした。


第11章●木村幹「日本植民地支配と歴史認識問題」P237~254
 本論考は、日本の植民地支配が例外的だったとする見解について、肯定的にせよ否定的にせよ間違いが含まれている、と指摘します。肯定的立場の間違いとしては、宗主国財政の植民地に対する赤字転落とその結果としての植民地の経済発展は、日本にだけ見られた特殊なものではなく普遍的だった、と指摘されています。一方、否定的立場の間違いとしては、日本の植民地支配に伴う犠牲者が他の植民地よりも多かったと単純化できず、戦争時の植民地からの動員も、同化政策も、他の植民地でも見られる、と本論考は指摘します。たとえば、創氏改名と似たような政策は、フランスでも早い時期から行なわれていました。なお、日本風の名前に改めることは強制されなかったので創氏改名は問題ない、との認識もそれなりに浸透しているようですが、問題なのは、日本と異なる社会構造の朝鮮半島に、イエ社会を基盤とする日本の社会制度を強制したことだと思います。本論考は、そもそも植民地支配は多様であり、日本の植民地を肯定する議論においては、それが抜け落ちている、と指摘します。本論考は、多様な植民地に共通するのは、法律が宗主国とは異なっていることであり、その意味で朝鮮半島と台湾が日本の植民地だったことは明確だ、と指摘します。また本論考は、日本の植民地も、台湾・南樺太・関東州・朝鮮半島・南洋群島で成立の経緯も統治の実態も多様で、時間的にも違いがあり、日本の植民地支配の問題点の多くが、敗戦前の5年ほどに集中している、と指摘します。


第12章●井上正也「戦後日中関係」P255~272
 戦後の日中関係が概観されています。1972年までの日中関係を規定したのは、冷戦構造でした。アメリカ合衆国は日本と中華人民共和国の接近を妨げました。しかし、中ソ対立に伴い、アメリカ合衆国と中華人民共和国が接近すると、日中関係も進展し、「国交正常化」、さらには日中平和友好条約へと至り、1980年代には日中関係は良好な状態で安定し、日本国内における対中感情も好意的でした。しかし、冷戦崩壊後は、歴史認識問題の激化もあり、日中関係は対立的側面が強くなっていきます。本論考はこのように戦後日中関係を概観しますが、冷戦後の日中関係の悪化は、中国の高度経済成長により経済面で日中の競合が強くなった、という経済的側面や、それと関連して、日本の相対的な衰退に伴う日中の国力差の縮小・さらには逆転による、中国の海洋侵出の強化などが要因として考えられますが、その根本的原因は、冷戦構造の崩壊というかソ連の消滅だと思います。「魂の悪い」日本人が増えたことによる日本社会の「右傾化」ではなく、ソ連という日中共通の巨大な敵が崩壊したというか没落したことこそ、日中関係悪化の根源だと私は考えています。


第13章●中西寛「ポスト平成に向けた歴史観の問題 戦後から明治へ、さらにその先へ」P273~295
 本論考は、体制選択問題が落ち着いた1960年代に形成された戦後意識が、現在まで大きく変わらなかった、と指摘します。これは、敗戦以前の日本の近代化に関する歴史意識とも深く結びついていた、というのが本論考の見通しです。1960年代前半には、近代日本が海洋国家として発展する可能性を秘めながら、軍事力を基軸とする大陸国家になったことが失敗と把握されました。1960年代後半には、近代日本の成功を前提とし、明治時代と現在との連続性を維持しつつ、再度の失敗をいかに回避するか、というように問題意識が微妙に変化しました。こうした歴史認識は「司馬史観」に代表されます。本論考は、前近代も視野に入れつつ、近代日本の「成功」体験に安住しない、新たな歴史観の構築を提案しています。

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