カメルーンの古代人のDNA解析(追記有)

 カメルーンの古代人のDNA解析に関する研究(Lipson et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。カメルーン西部のグラスフィールド(Grassfields)地域に位置するシュムラカ(Shum Laka)岩陰は、アフリカ中央部西方の後期更新世および完新世の先史時代の研究にとって最重要の遺跡です。シュムラカ遺跡における最古の人類の痕跡は暦年代で3万年前頃ですが、とくに興味深いのは、8000年前頃の後期石器時代末と2500年前頃の鉄器時代の始まりの間の人工物と人類遺骸です。この移行期は「石器時代から金属時代」と呼ばれることもあり、土器だけではなく新たな石器もじょじょに出現しました。

 石器時代から金属時代への移行期のシュムラカ岩陰遺跡の人類集団の生計戦略の証拠はおもに採集を示しますが、アベルの木(Canarium schweinfurthii)の果実の利用の増加は物質文化の発展と一致しており、後の農耕の開始にもつながりました。シュムラカ遺跡におけるこうした文化的変化とその早期の出現はとくに関心を抱かれてきましたが、それは、完新世においてカメルーンとナイジェリアの間の現在の境界一帯がおそらくはバンツー語族の発祥地で、バンツー語族集団は3000~1500年前頃にアフリカの南半分の大半に拡散し、現在のバンツー語族の広大な範囲と多様性を生じたからです。

 シュムラカ遺跡では合計18人の遺骸が発見されており、埋葬段階は年代的に2区分されています。6人の錐体骨からDNA抽出が試みられ、石器時代から金属時代への移行期の8000年前頃となる前期2人と、3000年前頃となる後期2人の計4人から遺伝的データが得られました。前期の2人は、3~5歳の「2/SE I」と12~18歳の「2/SE II」です。後期の2人は、6~10歳の「4/A」と3~5歳の「5/B」です。最終的な網羅率は0.7~7.7倍です。

 シュムラカ遺跡の石器時代~金属器時代移行期の4人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)はいずれも、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人に見られるものです。なお、5/Bのみが女性で他の3人は男性です。前期2人のmtHgはいずれもL0a (L0a2a1)で、L0aはアフリカで広く見られます。後期2人のmtHgはいずれもL1c (L1c2a1b)で、L1cはアフリカ中央部および西部の農耕民と狩猟採集民の両方で見られます。

 YHgでは、前期の2/SE IがB、後期の4/A がB2bで、YHg-Bは現在ではアフリカ中央部の狩猟採集民でよく見られます。2/SE IIのYHgは、ほとんどカメルーン西部でしか見られないA00です。A00は現代人のYHgでは最初に分岐した系統で、その分岐年代は338000年前(関連記事)とも275000年前(関連記事)とも推定されています。2/SE IIはYHg- A00でも、現代人の系統とは37000~25000年前に分岐した系統と推定されています。近親関係では、2/SE Iと2/SE IIは4親等程度、4/Aと5/Bはオジとメイ(オバとオイ)もしくは半キョウダイ(両親の一方のみが同じキョウダイ関係)程度の関係と推定され、シュムラカ岩陰遺跡が大家族の墓地として使用された、という考古学的解釈が遺伝学的にも支持されます。また、この4人には近い祖先での近親交配の可能性も指摘されています。

 主成分分析では、シュムラカ遺跡の4人はカメルーンと中央アフリカ共和国の狩猟採集民と最も類似しています。しかし、シュムラカ集団を単純にアフリカ中央部西方の狩猟採集民系統と位置づけることはできません。本論文は、現生人類(Homo sapiens)の進化の中でシュムラカ集団を位置づけ、現生人類系統においては4系統が最初期に短期間で分岐していった、と推測しています。それは、アフリカ中央部狩猟採集民系統、アフリカ南部狩猟採集民系統、その他の現生人類系統、「ゴースト」系統です。このゴースト系統は、アフリカ西部集団とエチオピア高地のモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性(関連記事)にわずかに遺伝的影響を残している、と推定されています。アフリカ中央部狩猟採集民系統は、西部系統と、エチオピアのムブティ(Mbuti)に代表される東部系統とに分岐し、シュムラカ集団は西部系統に位置づけられます。この最初の分岐については、現代人の最も深い分岐が20万年以上前と推定されていること(関連記事)からも、25万~20万年前頃には起きていた、と本論文は推測します。

 現生人類における4系統への最初の主要な分岐の後、アフリカ中央部狩猟採集民系統とアフリカ南部狩猟採集民系統以外の現生人類系統において、2回目の主要な分岐が起きます。それは、アフリカ西部系統、アフリカ東部の狩猟採集民系統(モタ個体に代表されます)および農耕牧畜民系統、出アフリカ系統です。本論文は、この2回目の分岐は8万~6万年前頃に起きたと推定し、mtHg-L3の多様化やYHg- CTの起源とも一致する、と指摘します。出アフリカ系統はモタ系統と最も近いものの、深い分岐のゴースト系統の遺伝的影響は受けていない、と推測されています。アフリカ西部系統では、まず基底部アフリカ西部系統が分岐し、その後でバンツー語族関連系統およびカメルーンのレマンデ(Lemande)系統とメンデ(Mende)およびヨルバ(Yoruba)系統が分岐します。

 もちろん、これらの系統は相互に影響しており、現生人類や古代型ホモ属のゴースト系統から影響を受けた系統もあり、たとえばアフリカ西部系統は両者から、モタ個体は現生人類のゴースト系統から影響を受けています。シュムラカ集団は基底部アフリカ西部系統から強い遺伝的影響を受けた、と推定されています。シュムラカ集団内では、移行期後期の個体は前期の個体と比較して、ややアフリカ中央部狩猟採集民系統の影響が高い、と推定されています。以下、これらの分岐および交雑と、推定移動経路を示した本論文の図4を掲載します。
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 シュムラカ遺跡の4人は、アフリカ中央部狩猟採集民系統約35%と基底部アフリカ西部系統約65%との混合、もしくは狩猟採集民系統と、アフリカ西部系統内の1系統およびアフリカ西部系統および東部系統で分岐した系統の2系統が追加で混合した、とモデル化できます。シュムラカ系統は、8000年以上前となる後期石器時代にカメルーン西部に居住していた集団の子孫で、その後に、北方から到来したと考えられる系統と混合した、と本論文は推測します。シュムラカ遺跡の4人の年代は、石器時代から金属器時代の移行期となるので、北方からの遺伝的影響はこの文化的移行とも関連しているかもしれません。こうした文化的移行は、石器技術の変化や土器の出現などを含みます。また、この北方からの遺伝的影響については、現在のサハラ砂漠とサヘル砂漠で一時的に植生が豊かだった時期と対応しているだろう、と本論文は推測しています。本論文は、アフリカ西部北方とサヘルの現代人集団は、後の移住による混合の影響を受けているため、シュムラカ集団の遺伝的起源を正確に特定するには、さらなる古代DNA研究が必要になる、と指摘します。

 本論文が取り上げたシュムラカ遺跡の4人は、石器時代から金属器時代への移行期の初期と末期に限定されていますが、約5000年の遺伝的類似性は、遺伝的にも、死者の埋葬法といった文化的にも、長期にわたる集団の継続性を示唆します。しかし、ほとんどのカメルーンの現代人集団は、シュムラカ遺跡の4人よりも他のアフリカ西部系統の方と遺伝的に近縁です。カメルーンの現代の狩猟採集民もまた、遺伝的には基底部アフリカ西部系統が欠如しており、シュムラカ遺跡集団は少なくとも主要な祖先ではなさそうです。ただ、アレル(対立遺伝子)の共有水準から、遺伝的には完全に不連続とは限らない、とも指摘されています。じっさい、シュムラカ遺跡の2/SE IIのYHgは現代のカメルーン西部でほぼ排他的に見られるA00で、かつてはYHg- A00がもっと多様だったことを示唆します。YHg-A00は他のYHgと30万~20万年前頃に分岐したと推定され、YHg-A00と、アフリカ中央部狩猟採集民と関連するシュムラカ系統、もしくはアフリカ西部系統の深い分岐との関連を示唆します。

 言語学および遺伝学からは、カメルーン西部がバンツー語族集団の発祥地である可能性が最も高い、と考えられています。ただ、中期完新世の考古学的記録は乏しく、シュムラカはこの過程の初期段階を示す重要な遺跡として注目されてきました。しかし、シュムラカ遺跡の移行期のゲノム解析からは、バンツー語族がすでに広範に拡大していたと考えられる3000年前頃でさえ、バンツー語族を含む現在のニジェール・コンゴ語族集団とは大きく異なる、と推測されます。これは、シュムラカ集団が現在のバンツー語族集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。ただ本論文は、これらの結果により、バンツー語族集団の発祥地がカメルーン西部のグラスフィールド(Grassfields)地域であるという有力説が、否定されるわけでも支持されるわけでもなく、グラスフィールド地域には複数のひじょうに分化した集団が存在し、言語の多様性は高かったかもしれないし、低かったかもしれない、と指摘します。また本論文は、シュムラカ遺跡が異なる遺伝的系統や文化・言語の複数集団により連続的に、もしくは同時に使用されていたかもしれず、その証拠は現在の考古学的記録からは見えないかもしれない、とも指摘します。

 本論文で注目されるのは、アフリカ西部系統における未知の(ゴースト)ホモ属系統との交雑を検出していることです。西部系統も含めて現代のサハラ砂漠以南のアフリカ集団における未知のホモ属との交雑の可能性は、以前から指摘されていました(関連記事)。本論文はその候補として、アフリカ北西部の30万年前頃の現生人類的なホモ属化石(関連記事)や、ナイジェリア南西部の12000年前頃の古代型ホモ属の特徴を有する個体を挙げています。本論文は、遺伝学的研究の進展により、現代人の形成過程のさらなる複雑さが明らかになるかもしれない、と今後を展望しています。本論文のこの見通しはまず間違いなく正しいだろう、と私も考えています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化学】古代のヒトDNAとアフリカのヒト集団史

 中央アフリカ西部で見つかった古代のヒトDNAの解析が行われて、アフリカのヒト集団史の諸論点(例えば、バンツー語話者の起源)を解明するための手掛かりが得られた。この新知見を報告する論文が、今週掲載される。

 アフリカ大陸のカメルーン西部に位置するシュム=ラカ遺跡は、中央アフリカ西部の先史時代(後期更新世と完新世)を研究するうえで重要な考古学的遺跡で、バンツー語の発祥地と考えられている草原にある。今回、David Reich、Mark Lipsonたちの研究チームは、この遺跡に埋葬されていた4人の子ども(2人が約8000年前、2人が3000年前と年代測定された)の古代DNAを解析し、4人全員の祖先の特徴が、中央アフリカ西部の現代の狩猟採集民の祖先の特徴に最も類似していることを見いだした。この知見は、カメルーン西部の住民とアフリカ大陸全土のバンツー語話者が、これら4人の子どもやその所属集団の子孫ではないことを暗示している。

 また、4人の子どものゲノムにも混合の痕跡が見られ、その祖先が別の集団に属する者と交雑したことが暗示されている。さらに、3回の顕著な放散が認められ、そのうちの1回は約30万~20万年前に起こり、その結果、現代の集団に寄与する少なくとも4つの主要分枝が生じた。



参考文献:
Lipson M. et al.(2020): Ancient West African foragers in the context of African population history. Nature, 577, 7792, 665–670.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1929-1


追記(2020年1月25日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。



追記(2020年1月30日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



進化学:アフリカのヒト集団史的な背景におけるアフリカ西部の古代狩猟採集民

進化学:シュム・ラカ遺跡の古代ヒトゲノム

 D ReichとM Prendergastたちは今回、カメルーン西部のシュム・ラカ(Shum Laka)遺跡から出土した、約8000年前と約3000年前に埋葬された計4人の子どもの古代ゲノムデータについて報告している。この遺跡は、中部アフリカの西部における後期更新世から完新世の先史研究において重要である。得られた4人の祖先プロファイルは、現在の中部アフリカ西部の狩猟採集民のものに最も近いことから、4人が属する集団が現在のバントゥー諸語話者の祖先ではないことが示唆された。著者たちはアフリカのヒト集団史に関して、系統発生モデルから、祖先の広範な混血事象およびアフリカ内での重要な3回の放散事象などの手掛かりを得ている。

山内昌之、細谷雄一編『日本近現代史講義 成功と失敗の歴史に学ぶ』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年8月に刊行されました。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。



序章●山内昌之「令和から見た日本近現代史 ヘロドトスの「悪意」から劉知幾の「公平」へ」P3~29
 近現代日本の起点として、徳川家康による江戸幕府開設が「日本1.0」として高く評価されています。「日本2.0」は明治維新、「日本3.0」は第二次世界大戦後というわけで、現代日本社会の通俗的な歴史観と通ずるところも多分にあるように思います。本論考では歴史認識と相互理解の難しさが説かれており、日本では中国や南北朝鮮が強く意識されるでしょうが、本論考の指摘するようにこうした関係はアジア東部に限定されているわけではありません。


第1章●瀧井一博「立憲革命としての明治維新」P31~48
 19世紀において立憲制度と不可分だった議会制度は、明治時代当初よりその採用が自明視されていたものの、その歩みは平坦ではなかった、本論考は指摘します。当初の立憲構想として、木戸孝允は君主による「独裁」を主張しますが、それは国民の信任に立脚したものという前提がありました。一方、大久保利通も立憲には賛成ですが、「君民共治」を主張しています。本論考は、両者ともに民の開花を促すという点では共通しており、その実現過程についても構想に大きな隔たりはなかった、と指摘します。本論考は明治維新を立憲革命と把握し、立憲体制確立の要因として、指導者たちの長期的視野、独自の歴史を踏まえた憲法制定が基本方針とされたこと、伊藤博文による憲法の相対化を挙げています。


第2章●岡本隆司「日清戦争と東アジア」P49~66
 本論考は、おもに朝鮮半島から遼東半島が戦場となった日清戦争について、朝鮮半島をめぐる争いの鍵は興隆にしても衰退にしても、日本列島の変動だった、とまず指摘します。その上で本論考は、日清戦争が東アジア史と世界史の分水嶺だった、と指摘します。帝国主義もしくは世界の構造化が東アジアにまで及んだのは日清戦争だった、というわけです。本論考は、中国の近代化が本格化するのはアヘン戦争ではなく、その半世紀後の日清戦争だった、と主張します。さらに本論考は、東アジア諸国の相互理解として、前近代の歴史の重要性を指摘しています。


第3章●細谷雄一「日露戦争と近代国際社会」P67~90
 本論考は日露戦争の世界史的意義を検証しています。日露戦争は第一に、海洋国家のイギリスと大陸国家のロシアとの地球規模での対立と密接に関わっていました。日露戦争の結果、ロシア海軍はもはやイギリスにとって脅威とはならず、イギリスとロシアとの接近を可能としました。これが、第一次世界大戦の前提の一つを形成します。また、「白人種」のロシアが「有色人種」の日本に負けたことは、「白人」による国際秩序を動揺させることになりました。また、日露戦争の総力戦の萌芽としての性格も指摘されています。


第4章●奈良岡聰智「第一次世界大戦と日中対立の原点」P91~107
 本論考は、日清戦争以降も対立一辺倒ではなかった日中関係において対立の側面が急速に強くなった契機は、1915年の対華二十一ヵ条要求だった、と指摘します。日本がこうした強圧的な要求を突如提示した背景として、本論考は満洲問題を挙げています。日露戦争で勝ったものの、賠償金を得られなかった日本は、併合した朝鮮半島の安全保障の観点からも、満洲権益に固執するようになります。しかし、日本が獲得した中国大陸の権益は不安定で、日本の支配層の中では危機感が高まっていました。日本は、第一次世界大戦の勃発に乗じて山東省のドイツ権益を奪い、その返還と引き換えに中国に譲歩を迫ろうとしました。また、対華二十一ヵ条要求の背景として、日本国内の世論の盛り上がりがあり、政府はこれを抑えられませんでした。対華二十一ヵ条要求は、中国だけではなく西洋列強の不信も招来し、日本外交を制約することになりました。


第5章●川島真「近代日中関係の変容期 1910年代から1930年代」P109~137
 本論考は日清戦争や義和団事件にも言及しつつ、1910年代から1930年代の日中関係を概観しています。本論考は日中関係の理解において、中国をめぐる列強関係と、日中二国間関係を区別する必要がある、と指摘します。いわゆる幣原外交のように、列強間では協調していても、日中二国間関係は改善されていたとは言えない状況もあった、というわけです。なお、近年中国政府は、日中戦争の起点を盧溝橋事件から満州事変へと変え、これには国共合作を強調しなくなったことと関連しているようです。ただ本論考は、塘沽停戦協定から盧溝橋事件までの1933~1937年までの期間を「戦争」とするのにはかなり無理がある、と指摘しています。じっさい、1936年末の西安事件後も中国が日本と戦争を始めたわけではなく、盧溝橋事件直後も、日中双方とも開戦を意識していませんでした。


第6章●小林道彦「政党内閣と満洲事変」P139~160
 満州事変で関東軍は最終的に満洲全域を占領するのですが、それは関東軍の「電撃的軍事行動」ではなく、政党内閣と関東軍との政治闘争の紆余曲折を経ての結果だった、と本論考は指摘します。その背景として、当時の関東軍の規模は小さく、基本的には権益防衛のための軍隊で、鉄道とその沿線でしか戦えなかった、という事情がありました。そのため、一時は政党内閣側が優位に立ち、石原莞爾も満洲の「独立」は無理だと諦めかけたのですが、幣原外相の統帥権干犯問題により、強硬派が主導権を掌握するに至ります。


第7章●小谷賢「戦間期の軍縮会議と危機の外交 第二次世界大戦への道(1)」P161~180
 本論考はおもに戦間期のヨーロッパ情勢を取り上げています。この間、ワシントン海軍軍縮条約のように、軍縮が機能したこともありましたが、世界恐慌を契機として、各国は軍縮よりも利権確保・拡大に向かい、軍縮体制は崩壊していきます。本論考はその転機を1933~1934年頃としています。ヨーロッパにおいては、ドイツでヒトラー政権が成立して以降、ドイツの拡大政策が明らかになってきましたが、これに対してイギリスとフランスが宥和的だったため、第二次世界大戦に至った、との見解が有力です。ただ本論考は、当時イギリスもフランスも世論は避戦傾向が強く、ドイツとの宥和は強く支持された、とも指摘しています。


第8章●森山優「「南進」と対米開戦 第二次世界大戦への道(2)」P181~201
 太平洋戦争へと至る日本の選択が検証されています。1940年のヨーロッパにおけるドイツの快進撃に幻惑されたドイツとの同盟締結、アメリカ合衆国の反応を読み誤った南部仏印進駐、独ソ戦の始まりによる北進論の盛り上がり、アメリカ合衆国の軍備の強大化を予想できていながら、開戦を選択したことなど、当時の日本の選択は後世から見ると愚かなのですが、当時としては、国内諸勢力の利害と主張を調停する強い権力・政治的枠組みが存在しなかったことや、石油禁輸による数年後の石油枯渇が現実化するなか、戦えるうちに戦おうと判断したことなど、「狂気」に取りつかれての選択ではなく、同じ状況では誰もが陥りかねない判断だった、と了解されます。


第9章●楠綾子「米国の日本占領政策とその転換」P203~219
 本論考は、日本の占領期の改革について、戦中からの方向性が進展したという側面もあるとしても、戦後日本の在り様を形成した諸改革を可能としたのは、実質的にはアメリカ合衆国単独の占領だった、と評価しています。また本論考は、1947~1948年を転機とする占領期の「逆コース」について、非軍事化・民主化から経済復興への移行は当初からの予定にあり、アメリカ合衆国にとっても、負担軽減から日本の経済復興が期待された、と指摘しています。ただ本論考は、これがアジアとヨーロッパにおける冷戦の深刻化と重なったことも指摘しています。本論考は、占領期の改革がその後の日本の在り様を規定するに至った理由として、自由で民主的な改革の受益者が多かったからだろう、と推測しています。


第10章●日暮吉延「東京裁判における法と政治」P221~236
 東京裁判において、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法の疑いが濃厚なので、判事たちの間でも一致した意見はなかったそうです。それと関連して、東京裁判での死刑判決の根拠については、残虐行為(戦争法規慣例違反)に求めるべきだ、との判断がイギリスとアメリカ合衆国にはあったようです。つまり、東京裁判の死刑判決の根拠は「重大な残虐行為(B級犯罪)」に求められ、「平和に対する罪(A級犯罪)」だけでは終身刑に留まった、というわけです。海軍で死刑判決を受けた者がいなかったのも、残虐行為について証拠不十分とされたからでした。


第11章●木村幹「日本植民地支配と歴史認識問題」P237~254
 本論考は、日本の植民地支配が例外的だったとする見解について、肯定的にせよ否定的にせよ間違いが含まれている、と指摘します。肯定的立場の間違いとしては、宗主国財政の植民地に対する赤字転落とその結果としての植民地の経済発展は、日本にだけ見られた特殊なものではなく普遍的だった、と指摘されています。一方、否定的立場の間違いとしては、日本の植民地支配に伴う犠牲者が他の植民地よりも多かったと単純化できず、戦争時の植民地からの動員も、同化政策も、他の植民地でも見られる、と本論考は指摘します。たとえば、創氏改名と似たような政策は、フランスでも早い時期から行なわれていました。なお、日本風の名前に改めることは強制されなかったので創氏改名は問題ない、との認識もそれなりに浸透しているようですが、問題なのは、日本と異なる社会構造の朝鮮半島に、イエ社会を基盤とする日本の社会制度を強制したことだと思います。本論考は、そもそも植民地支配は多様であり、日本の植民地を肯定する議論においては、それが抜け落ちている、と指摘します。本論考は、多様な植民地に共通するのは、法律が宗主国とは異なっていることであり、その意味で朝鮮半島と台湾が日本の植民地だったことは明確だ、と指摘します。また本論考は、日本の植民地も、台湾・南樺太・関東州・朝鮮半島・南洋群島で成立の経緯も統治の実態も多様で、時間的にも違いがあり、日本の植民地支配の問題点の多くが、敗戦前の5年ほどに集中している、と指摘します。


第12章●井上正也「戦後日中関係」P255~272
 戦後の日中関係が概観されています。1972年までの日中関係を規定したのは、冷戦構造でした。アメリカ合衆国は日本と中華人民共和国の接近を妨げました。しかし、中ソ対立に伴い、アメリカ合衆国と中華人民共和国が接近すると、日中関係も進展し、「国交正常化」、さらには日中平和友好条約へと至り、1980年代には日中関係は良好な状態で安定し、日本国内における対中感情も好意的でした。しかし、冷戦崩壊後は、歴史認識問題の激化もあり、日中関係は対立的側面が強くなっていきます。本論考はこのように戦後日中関係を概観しますが、冷戦後の日中関係の悪化は、中国の高度経済成長により経済面で日中の競合が強くなった、という経済的側面や、それと関連して、日本の相対的な衰退に伴う日中の国力差の縮小・さらには逆転による、中国の海洋侵出の強化などが要因として考えられますが、その根本的原因は、冷戦構造の崩壊というかソ連の消滅だと思います。「魂の悪い」日本人が増えたことによる日本社会の「右傾化」ではなく、ソ連という日中共通の巨大な敵が崩壊したというか没落したことこそ、日中関係悪化の根源だと私は考えています。


第13章●中西寛「ポスト平成に向けた歴史観の問題 戦後から明治へ、さらにその先へ」P273~295
 本論考は、体制選択問題が落ち着いた1960年代に形成された戦後意識が、現在まで大きく変わらなかった、と指摘します。これは、敗戦以前の日本の近代化に関する歴史意識とも深く結びついていた、というのが本論考の見通しです。1960年代前半には、近代日本が海洋国家として発展する可能性を秘めながら、軍事力を基軸とする大陸国家になったことが失敗と把握されました。1960年代後半には、近代日本の成功を前提とし、明治時代と現在との連続性を維持しつつ、再度の失敗をいかに回避するか、というように問題意識が微妙に変化しました。こうした歴史認識は「司馬史観」に代表されます。本論考は、前近代も視野に入れつつ、近代日本の「成功」体験に安住しない、新たな歴史観の構築を提案しています。