中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史

 中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史に関する研究(Marcus et al., 2020)が報道されました。サルデーニャ島は、100歳以上の割合が高く、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような自己免疫疾患や病気の割合が平均よりも高いため、病気や加齢に関連する可能性のある遺伝的多様体を発見するために注目されてきました。サルデーニャ島の現代人全体の遺伝的多様体の頻度は、しばしばヨーロッパ本土とは異なり、ヨーロッパ本土では現在ひじょうに稀な遺伝的多様体も見られ、その独特な遺伝的構成が研究されてきました。

 アルプスのイタリアとオーストリアの国境付近で発見されたミイラの5300年前頃の「アイスマン」のゲノムは、サルデーニャ島の現代人とよく似ていました。また、スウェーデン・ハンガリー・スペインなど、離れた地域の初期農耕民も、遺伝的にはサルデーニャ島の現代人とよく似ていました。この類似性の理解には、ヨーロッパにおける人口史の解明が必要です。ヨーロッパにおける現代人に直接的につながる人類集団は、まず旧石器時代と中石器時代の狩猟採集民です。次に、新石器時代農耕民集団が紀元前7000年頃以降に中東からアナトリア半島とバルカン半島を経てヨーロッパに到来し、在来の狩猟採集民集団と交雑しました。紀元前3000年頃以降にポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)を中心とするユーラシア草原地帯の集団がヨーロッパに拡散し、さらに混合しました。これらヨーロッパの現代人を構成した遺伝的系統は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)・初期ヨーロッパ農耕民(EEF)・早期草原地帯集団としてモデル化できます。サルデーニャ島の人類集団は早い段階で高水準のEEF系統の影響を受け、その後は比較的孤立しており、ヨーロッパ本土とは異なり草原地帯系統の影響をほとんど受けなかった、と推測されています。しかし、このサルデーニャ島の人口史モデルは、古代ゲノムデータではまだ本格的に検証されていませんでした。

 サルデーニャ島の最古の人類遺骸は2万年前頃までさかのぼります。考古学的記録からは、サルデーニャ島の人口密度は中石器時代には低く、紀元前六千年紀の新石器時代の開始以降に人口が増加し、紀元前5500年頃、新石器時代の土器はサルデーニャ島を含む地中海西部に急速に拡大した、と推測されています。後期新石器時代には、サルデーニャ島の黒曜石が地中海西部で広範に見られ、サルデーニャ島が海洋交易ネットワークに統合されたことを示唆します。青銅器時代の紀元前1600年頃に、独特な石造物で知られるヌラーゲ文化が出現します。ヌラーゲ文化後期の考古学および歴史学的記録は、ミケーネやレヴァントやキプロスの商人など、いくつかの地中海集団の直接的影響を示します。紀元前9世紀後半から紀元前8世紀前半にかけて、現在のレバノンとパレスチナ北部を起源とするフェニキア人がサルデーニャ島南岸に集落を集中して設立したため、ヌラーゲ文化の集落はサルデーニャ島の大半で減少しました。サルデーニャ島は紀元前6世紀後半にカルタゴに支配され、紀元前237年にはローマ軍に占領されて、その10年後にローマの属州となりました。サルデーニャ島はローマ帝国期を通じて、イタリアおよびアフリカ北部中央と密接につながっていました。ローマ帝国崩壊後、サルデーニャ島は次第に自立していきましたが、ビザンツ帝国をはじめとする地中海の主要勢力との関係は続きました。

 サルデーニャ島の住民は集団遺伝学において長く研究されてきましたが、その理由の一部は、上述のように医学にとって重要なためです。サルデーニャ島の現代人集団は遺伝的に複数の亜集団に分類されており、中央部と東部の山岳地帯は比較的孤立しており、WHGおよびEEF系統がわずかに多い、と明らかになっています。サルデーニャ島集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究では、コルシカ島と文化・言語的つながりのある北部において、中央部と東部の山岳地帯より遺伝的構成の変化が大きく、21人の古代mtDNA研究では、サルデーニャ島特有のmtDNAハプログループ(mtHg)のほとんどは新石器時代かその後に起源があり、それ以前のものはわずかだった、と推測されています。サルデーニャ島のフェニキア人居住地のmtDNA分析では、フェニキア人集団とサルデーニャ島集団との継続性と遺伝子流動が推測されています。カルタゴおよびローマ期の大規模共同墓地では、3人でβサラセミア多様体が見つかっています。

 本論文は、放射性炭素年代で紀元前4100~紀元後1500年頃となる、サルデーニャ島の20ヶ所以上の遺跡で発見された70人のゲノム規模データを生成します。本論文は、サルデーニャ島の人口史の3側面を調査します。まず、紀元前5700~紀元前3400年頃の新石器時代の個体群です。当時、サルデーニャ島に拡大した初期の人々はどのような遺伝的構成だったのか、という観点です。次に、紀元前3400~紀元前2300年頃の銅器時代から紀元前2300~紀元前1000年頃の青銅器時代です。考古学的記録に観察される異なる文化的移行を通じて、遺伝的転換はあったのか、という観点です。最後に、青銅器時代以後で、地中海の主要な文化とより最近のイタリア半島集団は、検出可能な遺伝子流動をもたらしたのか、という観点です。本論文は、サルデーニャ島の初期標本はヨーロッパ本土の初期農耕民集団と遺伝的類似性を示し、ヌラーゲ文化期を通じて混合の顕著な証拠はなく比較的孤立しており、その後は、地中海北部および東部からの交雑の証拠が観察される、との見通しを提示します。

 サルデーニャ島の70人の古代DNAに関しては、完全なmtDNA配列と、120万ヶ所の一塩基多型から構成されるゲノム規模データが得られました。核DNAの平均網羅率は1.02倍です。70人の内訳は、中期~後期新石器時代が6人、早期銅器時代が3人、中期青銅器時代早期が27人、ヌラーゲ文化期が16人で、それ以後では同時代でも遺伝的相違が大きいため、遺跡単位で分類されています。フェニキアおよびカルタゴの遺跡では8人、カルタゴ期では3人、ローマ期では3人、中世は4人です。これらの新石器時代~中世にかけてのサルデーニャ島の人類遺骸からのDNAデータが、ユーラシア西部およびアフリカ北部の既知のデータと比較されました。

 中期~後期新石器時代のサルデーニャ島の個体群は遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ西部本土集団、とくにフランスの個体とよく類似していますが、イタリア半島など同時代の他地域の標本数が不足している、と本論文は注意を喚起しています。中期~後期新石器時代ののサルデーニャ島個体群は、早期新石器時代のアナトリア半島集団と比較して、WHG系統の存在が特徴となっています。サルデーニャ島の中期新石器時代~ヌラーゲ文化期までの52人に関しては、mtDNAハプロタイプが全員、Y染色体ハプロタイプが男性34人中30人で決定されました。mtHgは、HVが20人、JTが19人、Uが12人、Xが1人です。同定されたY染色体ハプログループ(YHg)では、11人がR1b1b(R1b-V8)、8人がI2a1b1(I2-M223)で、新石器時代のイベリア半島で一般的なこの2系統で過半数を占めます。YHgでR1b1bもしくはI2a1b1を有する既知の最古の個体はバルカン半島の狩猟採集民および新石器時代個体群で、両者ともに後に西方の新石器時代集団で見られます。

 サルデーニャ島では、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、遺伝的連続性が確認されます。対照的に、ヨーロッパ中央部のような本土では、新石器時代から青銅器時代にかけて、大きな遺伝的構成の変化が見られます。qpAdm分析では、サルデーニャ島の中期および後期新石器時代の個体群が、ヌラーゲ期の個体群の直接的祖先である可能性を却下できません。qpAdm分析ではさらに、新石器時代アナトリア系統との混合モデルにおいて、WHG系統はヌラーゲ期を通じて安定して17±2%のままと示されます。中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群では、たとえば後期青銅器時代のイベリア半島集団のような、顕著な草原地帯系統は検出されません。また、イラン新石器時代およびモロッコ新石器時代系統のどちらも、中期新石器時代からヌラーゲ文化期までのサルデーニャ島の個体群には遺伝的影響を及ぼしていない、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島個体群には、遺伝子流動の複数の証拠が見つかっています。サルデーニャ島の現代人集団は、ヌラーゲ文化期と比較して、遺伝的にはユーラシア西部・アフリカ北部集団により近縁です。これは、草原地帯系統の割合が現在のヨーロッパ本土集団より低いとはいえやや見られるようになり、地中海東部系統がかなり増加したためです。ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団には、複雑な遺伝子流動があった、と推測されます。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島集団における遺伝子流動を直接的に評価するため、17人の古代DNAが直接解析されました。新たな系統の流入という推定と一致して、ヌラーゲ文化期後にはmtHgの多様性が増加しました。たとえば、現在アフリカ全体では一般的であるものの、サルデーニャ島ではこれまで検出されていなかったmtHg- L2aです。YHgでも、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期まで見られず、現代人では15%ほど存在するR1b1a1b(R1b-M269)がカルタゴ期と中世で確認されます。また、カルタゴ期遺跡ではYHg-J1a2a1a2d2b(J1-L862)、中世個体ではYHg-E1b1b1a1b1(E1b-L618)が見られます。YHg-J1a2a1a2d2bはレヴァントの青銅器時代個体群で最初に出現し、サルデーニャ島の現代人では5%ほど見られます。

 これらを踏まえてモデル化すると、サルデーニャ島では新石器時代からヌラーゲ文化期までほぼ新石器時代アナトリア系統とWHG系統で占められていたのが、ヌラーゲ文化期後には草原地帯系統と新石器時代イラン系統と新石器時代アフリカ北部(モロッコ)系統が加わります。草原地帯系統と新石器時代イラン系統はともに0~25%の範囲でモデル化されます。また、フェニキア期~カルタゴ期の遺跡の6人では、20~35%と高水準のアフリカ北部系統が推定されました。サルデーニャ島の現代人でも、わずかながら検出可能なアフリカ北部系統が見られます。しかし、このフェニキア期~カルタゴ期の遺跡から現代までの直接的連続性のモデルは却下されます。対照的に、ヌラーゲ文化期後の他の遺跡の個体は全員、サルデーニャ島現代人の単一の起源としてモデル化可能です。

 古代のサルデーニャ島個体群に最も近い現代人は、東部のオリアストラ県(Ogliastra)とヌーオロ県(Nuoro)の個体群です。興味深いことに、カルタゴ期のオリアストラ県の個体は、他の個体群と比較してオリアストラ県の個体群と遺伝的により近縁です。また、サルデーニャ島北東部の個体群はヨーロッパ本土南部集団により近く、サルデーニャ島南西部の個体群は地中海東部により近くなっています。これは、サルデーニャ島における地中海北部系統と地中海東部系統の地域間の混合の違いを反映している、と示唆します。

 このように、中期~後期新石器時代のサルデーニャ島個体群は、地中海西部の他のEEF集団と同様に、本土EEFとWHGの混合としてモデル化されます。この期間のサルデーニャ島の男性のYHgは大半がR1b1b(R1b-V88)とI2a1b1(I2-M223)で、両方ともバルカン半島の中石器時代狩猟採集民および新石器時代集団で最初に出現し、後にイベリア半島のEEF集団でも多数派ですが、新石器時代アナトリア半島もしくはWHG個体群では検出されていません。これらは、紀元前5500年頃にヨーロッパ地中海沿岸を西進した新石器時代集団からのかなりの遺伝子流動の結果と考えられます。ただ本論文は、中期新石器時代よりも前のサルデーニャ島やイタリア半島の常染色体の古代DNAが不足しているので、この遺伝子流動の時期と影響について、北方もしくは西方からのどちらが重要なのか確定的ではない、と注意を喚起しています。中期新石器時代のサルデーニャ島個体群のWHGの推定割合はそれ以前のヨーロッパ本土のEEF集団より高く、ヨーロッパ本土では混合の進展に伴いしだいにWHG系統の割合が増加することから、サルデーニャ島への遺伝子流動には時間差があったことを示唆しますが、最初の地域的な交雑の結果か、あるいは本土との継続的な遺伝子流動の結果だったかもしれません。この問題の解決には、サルデーニャ島の中石器時代および早期新石器時代個体群のゲノム規模データが必要となります。

 中石器時代から紀元前千年紀初めまで、サルデーニャ島への異なる系統の遺伝子流動の証拠は見られません。この遺伝的構造の安定性は、紀元前3000年頃以降、ユーラシア中央部草原地帯からかなりの遺伝子流動があったヨーロッパの他地域と、しだいにWHG系統が増加していったヨーロッパ本土の多くの早期新石器時代および銅器時代とは対照的です。上述のように、中期新石器時代からヌラーゲ文化期まで、サルデーニャ島個体群ではWHGの割合が約17%で安定しています。イベリア半島の鐘状ビーカー(Bell Beaker)集団のように、遺伝的に類似した集団からの遺伝子流動の可能性は否定できませんが、草原地帯系統の欠如は、サルデーニャ島がヨーロッパ本土の多くの青銅器時代集団から遺伝的に孤立していたことを示唆します。また、現在ヨーロッパ西部において最も高頻度で、紀元前2500~紀元前2000年頃のブリテン島とイベリア半島への草原地帯系統の拡大と関連しているYHg- R1b1a1bが、ヌラーゲ期の紀元前1200~紀元前1000年頃まで見られないことも、中石器時代から紀元前千年紀初めまでのサルデーニャ島の遺伝的孤立の証拠となります。サルデーニャ島からの標本数が増加すれば、微妙な交雑を検出できるかもしれませんが、サルデーニャ島が青銅器時代ヨーロッパの大規模な遺伝子流動から孤立していた可能性は高そうです。考古学的記録からは、サルデーニャ島はこの期間に地中海の広範な交易網の一部に組み込まれていましたが、それが遺伝子流動と結びついていないか、類似した遺伝的構造の集団間のみで交易が行なわれていた、と考えられます。とくに、ヌラーゲ文化期は遺伝的構成の変化が検出されず、その石造建築の設計はミケーネなど東方集団からの流入によりもたらされた、という仮説に反します。

 ヌラーゲ文化期後のサルデーニャ島では、地中海北部および東部からの遺伝子流動の証拠が見られます。フェニキアおよびカルタゴ期の遺跡で、最初に地中海東部系の出現が観察されます。地中海北部系統はそれよりも後に出現し、サルデーニャ島北西部の遺跡で確認されます。ヌラーゲ文化期後の個体の多くは、直接的な移民もしくはその子孫としてモデル化できますが、他の個体は在来のヌラーゲ文化期の系統をより高い割合で有します。全体的に、ヌラーゲ文化期後の系統の多様性は増加し、これは、イベリア半島(関連記事)やローマ(関連記事)やペリシテ人(関連記事)など、鉄器時代以後の地中海も対象にした詳細な古代DNA研究と整合的です。

 サルデーニャ島の現代人は、古代標本で観察された遺伝的変異内に収まり、同様のパターンは、鉄器時代に系統多様性が著しく増加し、その後は現在まで減少していくイベリア半島とイタリア半島中央部でも見られます。サルデーニャ島においては、東部のオリアストラ県とヌーオロ県の現代人ではヌラーゲ文化期後の新たな系統の割合が低く、他地域よりもEEFやWHG系統の割合が高くなっています。サルデーニャ島内を対象とした主成分分析は、オリアストラ県の個体群が比較的孤立していた可能性を示唆します。サルデーニャ島北部は、ヌラーゲ文化期後に地中海北部系統の影響をより強く受けた、と推測されます。これらの結果は、紀元前にフェニキア人およびカルタゴ人がおもにサルデーニャ島の南部および西部沿岸に居住し、コルシカ島からの移民はサルデーニャ島北部に居住した、とする歴史的記録と一致します。

 本論文は紀元前二千年紀後のサルデーニャ島における遺伝子流動を推測し、これはサルデーニャ島の遺伝的孤立を強調した以前の研究と矛盾しているように見えますが、他のヨーロッパ集団との比較では、サルデーニャ島が青銅器時代~ヌラーゲ文化期に孤立していたことは確認されます。また、ヌラーゲ文化期後の混合にしても、おもに草原地帯系統が比較的少ない集団に由来する、と推測されます。その結果、サルデーニャ島の現代人集団はヨーロッパの他地域と比較してひじょうに高い割合のEEF系統を有しており、アイスマンのような銅器時代ヨーロッパ本土の個体と高い遺伝的類似性を示します。高い割合のEEF系統を有する集団としてバスク人が知られており(関連記事)、サルデーニャ島集団との遺伝的関係が示唆されていました。本論文でも、現代バスク人と古代および現代のサルデーニャ島集団との類似性が示されました。サルデーニャ島集団もバスク人も異なる起源の移民の影響を受けているものの、共有されたEEF系統が地理的分離にも関わらず遺伝的類似性を示すのだろう、と本論文は推測しています。

 サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡の個体群では、アフリカ北部および地中海東部系統との強い遺伝的関係が示されました。これは、以前の古代DNA研究でも示されている(関連記事)、フェニキア人の地中海における拡散を反映していると考えられます。また、サルデーニャ島のフェニキアおよびカルタゴ期の遺跡でも、早期の方がアフリカ北部系統の割合は低く、アフリカ北部系統との交雑が後のカルタゴの拡大に特有だったか、異なる系統の到来だった可能性を示します。アフリカ北部系統の割合は、フェニキアおよびカルタゴ期よりも後では低下しており、サルデーニャ島も含むヨーロッパ南部のいくつかの集団における、低いものの明確に検出されるアフリカ北部系統の割合という観察と一致します。ローマでも、アフリカ北部系統の割合が帝政期以後に低下します(関連記事)。

 本論文は、古代DNA研究における古代と現代との遺伝的連続性および変容について、古代DNAの標本数の少なさと、現代(医学的な目的での遺伝情報収集)と古代では標本が異なるバイアスで収集されていることから、一般化に注意を喚起します。本論文はそれを踏まえたうえで、サルデーニャ島においては、中期新石器時代から後期青銅器時代まで、遺伝子流動が最低限か、遺伝的に類似した集団の継続の可能性が高いことを指摘します。ヌラーゲ文化期の始まりも、明確な遺伝子移入により特徴づけられません。鉄器時代以降のサルデーニャ島は、地中海の広範な地域と結びついていました。地中海西部を対象とした他の研究でも同様の結果が得られており、サルデーニャ島は新石器時代以降遺伝的に孤立してきた、という単純なモデルよりも実態は複雑だったことを示します。サルデーニャ島の現代人には地域的な違いも見られ、歴史的な孤立・移住・遺伝的浮動により、独特なアレル(対立遺伝子)頻度が生じた、と考えられます。この遺伝的歴史の解明は、βサラセミアやグルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)欠損症のような、サルデーニャ島も含めて地中海全域の遺伝性疾患を理解するのに役立つでしょう。


参考文献:
Marcus JH. et al.(2020): Genetic history from the Middle Neolithic to present on the Mediterranean island of Sardinia. Nature Communications, 11, 939.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14523-6

新生児の代謝に影響を与える母親の腸内微生物

 母親の腸内微生物が新生児の代謝に影響を与えることを報告した研究(Kimura et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。バランスの取れた微生物叢は良好な健康状態と関連しており、微生物叢の異常や変化は、肥満・心疾患・糖尿病など複数の疾患および障害と関連しています。母親の微生物叢が乳児の健康に与える影響は充分立証されていますが、胎児の段階で母親の腸内微生物が子の微生物叢にどのように影響するのか、あまり明らかになっていません。

 この研究は、とくに細胞および腸内微生物と器官のシグナル伝達を刺激する微生物叢由来代謝物である短鎖脂肪酸(SCFA)に重点を置き、マウスモデルでこの問題を検証しました。その結果、妊娠している母親の腸内微生物によって作られた短鎖脂肪酸が、GPR41およびGPR43(脂肪細胞上のタンパク質受容体)の細胞シグナル伝達を介して子の神経細胞・腸細胞・膵臓細胞の分化を刺激する、と明らかになりました。この発達過程は子がバランスの取れたエネルギーレベルを維持するうえで有用であり、微生物を完全に欠損した母親の子は肥満や耐糖能障害などのメタボリックシンドロームに非常にかかりやすい、と明らかになりました。

 これらの知見からは、たとえば食事の変更を推奨するなど、母親の微生物叢を標的とすることで、子を将来の代謝疾患から守る予防戦略を提供できる可能性が示唆されます。またこの研究は、1つの特定のSCFA(プロピオン酸)が、子の代謝疾患発症予防において重要な役割を果たした、と明らかにしました。したがって、プロピオンの補給が、可能性のある治療経路となるかもしれませんが、妊娠中のこの方法の安全性と有効性はまだ決定されていない、とも指摘されています。


参考文献:
Kimura I. et al.(2020): Maternal gut microbiota in pregnancy influences offspring metabolic phenotype in mice. Science, 367, 6481, eaaw8429.
https://doi.org/10.1126/science.aaw8429

両生類に広く見られる生体蛍光

 両生類の生体蛍光に関する研究(Lamb, and Davis., 2020)が公表されました。これまでに生体蛍光(生物が光エネルギーを吸収して蛍光を発すること)が観察された両生類は、サンショウウオ1種とカエル3種だけでした。この研究は、32種の両生類のそれぞれ1~5個体に青色光と紫外光を当てて、これらの個体が発する光の波長を分光測定しました。その結果、研究対象の全ての両生類種が蛍光を発した、と明らかになりました。ただ、蛍光のパターンは種によって大きく異なっており、斑点・縞模様・骨の形などがあり、全身蛍光もありました。

 両生類は、緑色光や青色光に感受性のある桿体細胞が眼に含まれているため、生体蛍光により低光量下で互いの位置を特定している、と本論文は推測しています。生体蛍光により、両生類とその環境との間のコントラストが高くなり、他の両生類により容易に検出できるようになる、というわけです。両生類の生体蛍光は、他の生体蛍光性の生物種で観察されているように、隠蔽擬態(カムフラージュ)・捕食者擬態・配偶者選択に役立っている可能性があります。

 この研究は、生体蛍光の基盤となる機構として、皮膚・分泌物・骨の中に蛍光タンパク質と蛍光化合物が存在していることを挙げ、あるいは一部の両生類の色素胞(色素を有し、光を反射する細胞)の化学組成と構造的組成が関係している可能性を指摘しています。これらの知見は、現生両生類の祖先が生体蛍光能力を有しており、その結果、現生両生類の間に生体蛍光現象が広まったことを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物学:生体蛍光は両生類に広く見られるものかもしれない

 生体蛍光(生物が光エネルギーを吸収して蛍光を発すること)が、両生類(サンショウウオ、カエルなど)に広く見られるという見解を示す論文が、Scientific Reports に掲載される。これまでに生体蛍光が観察された両生類は、サンショウウオ(1種)とカエル(3種)だけだった。

 今回、Jennifer LambとMatthew Davisは、32種の両生類のそれぞれ1~5個体に青色光と紫外光を当てて、これらの個体が発する光の波長を分光測定した。その結果、研究対象の全ての両生類種がすべて蛍光を発したことが分かった。ただし、蛍光のパターンは、種によって大きく異なっており、斑点、縞模様、骨の形があり、全身蛍光もあった。

 両生類は、緑色光や青色光に感受性のある桿体細胞が眼に含まれているため、生体蛍光によって低光量下で互いの位置を特定しているとLambとDavisは考えている。生体蛍光によって、両生類とその環境との間のコントラストが高くなり、他の両生類によって容易に検出できるようになるのだ。両生類の生体蛍光は、他の生体蛍光性の生物種で観察されているように、隠蔽擬態(カムフラージュ)、捕食者擬態、配偶者選択に役立っている可能性がある。

 LambとDavisは、生体蛍光の基盤となる機構として、皮膚、分泌物、骨の中に蛍光タンパク質と蛍光化合物が存在していることを挙げ、あるいは一部の両生類の色素胞(色素を有し、光を反射する細胞)の化学組成と構造的組成が関係している可能性を指摘している。

 以上の知見は、現生両生類の祖先が蛍光を発する能力を有しており、その結果、現生両生類の間に生体蛍光現象が広まったことを示唆している。



参考文献:
Lamb JY, and Davis MP.(2020): Salamanders and other amphibians are aglow with biofluorescence. Scientific Reports, 10, 2821.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59528-9

山本博文『歴史をつかむ技法』第4刷

 新潮新書の一冊として、新潮社から2013年11月に刊行されました。第1刷の刊行は2013年10月です。本書は、歴史をどう理解するのか、専門家がその「技法」を一般向けに解説しています。専門家にとっては当然の常識でも、一般層はほとんど知らないというか理解していないことは、歴史学に限らずほとんどの分野で見られます。本書は、専門家がその大きな溝を埋めようとした試みと言えるでしょう。それが成功しているのかとなると、私の見識では判断が難しいのですが、本書からもう一歩先に進むための読書案内がない点は失敗のように思います。

 私も含めて一般層が何気なく使う歴史用語の由来や、そこにどのような問題が潜んでいるのか、といった問題も本書は取り上げていますが、これは一般層が気づきにくいだけに、有益な解説になっていると思います。また、歴史学を裁判に例えているのは、分かりやすくてよいのではないか、と思います。じっさい、歴史学と裁判との間には強い類似性があるのではないか、と非専門家の私も思います。歴史の法則をめぐる本書の解説も、一般層には分かりやすいのではないか、と思います。本書は、偶然に見える個々の歴史的事件にも、それぞれの時代に一貫した動因や要因がある、と指摘します。

 本書はそうした歴史学の基礎的な概念に関する抽象的な解説だけではなく、邪馬台国の頃から日露戦争の頃までの日本史の大きな流れも概説として提示しています。著者の専門は近世史なので、やや分量の多い古代史や中世史に関しては、専門家からは異論があるのではないか、と思います。ただ、高校までの日本史教育の後、とくに日本史を学ばず、関連する本もあまり読んでこなかったものの、日本史には興味があり再度学んでみたい、というような層にはこれでよいのではないか、と思います。たとえば、足利義昭が武田信玄や上杉謙信などを糾合して「信長包囲網」を作った、と本書は述べますが、武田信玄存命の頃は、織田信長と上杉謙信は友好関係にあったと思います。

不妊の原因となる遺伝子

 不妊の原因となる遺伝子に関する研究(Ishiguro et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。全身の組織・器官では、通常は体細胞分裂と呼ばれる細胞分裂により延々と細胞の増殖が行なわれます。一方、卵巣や精巣では減数分裂と呼ばれる特殊な細胞分裂により卵子や精子が作り出されます。いずれも細胞分裂でありながら、体細胞分裂は、同じ染色体(遺伝情報)のコピーを倍加させてから均等に分裂することにより、元と同じ二つの細胞を作り出すのに対して、減数分裂は染色体の数が元の半分になることにより、母方・父型の遺伝情報だけを持つ卵子や精子を作り出します。卵巣や精巣では、はじめは通常通りの体細胞分裂により細胞増殖が行なわれ、ある一時期を境に減数分裂が行なわれます。しかし、体細胞分裂から減数分裂に切り替わるメカニズムの解明は長年の懸案とされ、その詳細は不明でした。また、減数分裂の制御は不妊症など生殖医療とも直結する重要な問題でありながら、世界的にも攻め倦んでいる課題でした。

 この研究は、生殖細胞が卵子や精子を作り出す過程で減数分裂がどのように起きているのか調べるために、精巣内に含まれるタンパク質を解析し、質量分析法を駆使した解析により、減数分裂のスイッチとして働く遺伝子を特定してマイオシン(Meiosin)と命名しました。このマイオシン遺伝子は、精巣や卵巣内で減数分裂が始まる直前の特定の時期にだけ活性化するという極めて珍しい性質を持っている、と明らかになりました。この研究は、ゲノム編集によりマウスの遺伝子を人為的に操作してマイオシン遺伝子の働きを阻害すると、オスもメスも不妊となることを明らかにしました。この研究はさらに、遺伝子破壊マウスの精巣・卵巣の詳細な解析により、マイオシン遺伝子が減数分裂の発動に必須の働きをしている、と解明しました。マイオシン遺伝子は精子・卵子を形成するための数百種類の遺伝子に一斉にスイッチを入れる司令塔の役割を果たしていました。ただ、マイオシン遺伝子が減数分裂開始の役割を担っている、と明らかになったものの、その詳細はまだ充分には解明されていない、とも指摘されています。

 これらの成果はマウスを用いて検証されましたが、マイオシン遺伝子はヒトにもある、と明らかになりました。ヒトに見られる不妊症は原因不明とされる症例が多い、と知られています。この研究の知見は、とくに卵子や精子の形成不全を示す不妊症の病態の解明に資するのではないか、と期待されます。また、ヒトでは加齢卵子における減数分裂の異常が流産やダウン症などの染色体異常を引き起こすエラーの原因になる、と知られています。近年の晩婚化傾向や高齢出産などの社会的背景からも、将来的には減数分裂のクオリティを担保する技術開発の応用へと発展することが期待されます。不妊の原因に関わる遺伝子と考えられるマイオシン遺伝子は、今後の生殖医療に一石を投じることになりそうです。また、進化的関連からも注目されます。


参考文献:
Ishiguro K. et al.(2020): MEIOSIN Directs the Switch from Mitosis to Meiosis in Mammalian Germ Cells. Developmental Cell, 52, 4, 429–445.E10.
https://doi.org/10.1016/j.devcel.2020.01.010

トバ山大噴火の前後も継続したインドにおける人類の痕跡(追記有)

 トバ山大噴火前後のインドにおける人類集団の痕跡に関する研究(Clarkson et al., 2020)が報道されました。インドを中心とするアジア南部は、現生人類(Homo sapiens)到来の年代およびその文化的特徴、それに伴う非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の置換などの点で注目されています。また、74000年前頃(アルゴン-アルゴン法で75000±900~73880±320年前)となるスマトラ島のトバ山大噴火の影響に関しても、インドは議論の対象となっています。トバ大噴火は、火山灰のような微小物質の大量噴出と効果による冷却効果などにより生態系に大きな影響を与え、現生人類(Homo sapiens)も含めて人類は激減した、とのトバ大惨事仮説(トバ・カタストロフ理論)が提示されています。

 この時期のインドの人類遺骸はまだ確認されていませんが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析からは、インドが現生人類によるオーストラレシアへの拡散における重要な地理的拠点になった、と示されています。この議論で焦点になっているのは、トバ大噴火の前に現生人類がインドに到達していたかどうかです。現生人類は、ルヴァロワ(Levallois)技術と尖頭器から構成される細石器を伴わないアフリカの中期石器時代技術でトバ大噴火の前にインドに到達したのか、ハウイソンズ・プールト(Howiesons Poort)遺跡のような細石器技術を有して、トバ大噴火後の6万~5万年前頃にインドに到達したのか、という問題です。しかしインドでは、明確に8万~5万年前頃に位置づけられている遺跡がほとんどないため、この問題の検証は困難でした。アフリカとアジア南部の更新世の人類遺骸は少ないため、アジア南部の記録に関する議論は、石器や少数の線刻のあるダチョウの卵殻などといった考古学的記録、現代人集団のDNAに焦点が当てられてきました。

 本論文は、インド北部のマディヤ・プラデーシュ州(Madhya Pradesh)のミドルソン川渓谷に位置するダバ(Dhaba)遺跡の豊富な石器群を報告しています。ダバ遺跡では8万~4万年前頃という重要な期間の詳細な考古学的系列が明らかになっており、インドの遺跡群における年代的位置づけは、インドの14万~104000年前頃の中部旧石器時代/後期アシューリアン(Late Acheulean)遺跡と、39000年前頃となる石刃主体の上部旧石器時代との間となります。本論文は、ダバ遺跡の文化系列で収集されたカリウムの豊富な長石(カリ長石)に基づく赤外光ルミネッセンス法(IRSL)年代測定結果を報告しています。ダバ遺跡は3ヶ所(ダバ1~3)の発掘地点で構成されています。

 IRSL年代は、ダバ1の下部では79600±3200~78000±2900年前で、上部では70600±3900~65200±3100年前です。ダバ2は55000±2700~37100±2100年前で、ダバ3は55100±2400~26900±3800年前です。ダバ遺跡はトバ大噴火の直前から最終氷期極大期近くまで続いたことになります。ダバ遺跡の人工物は、8万~25000年前頃までの約55000年間に及びます。この期間は、技術的には3段階に区分されます。ダバ1の石器群は8万~65000年前頃で、ルヴァロワ式の石核・剥片・尖頭器・石刃などを含み、ほぼ全て燵岩(チャート)・泥岩・珪化石灰岩で作られています。ダバ2および3では、人工物の堆積が最も豊富な55000~47000年前頃にもルヴァロワ技術が継続しますが、47500±2000年前よりも上の層ではルヴァロワ技術は確認されていません。細石器技術はダバ2および3で48000年前頃に出現し、その主要な石材は石英で、瑪瑙がそれに続きます。37000年前頃までにダバ2および3では人工物は劇的に低下し、この後、細石刃はほとんど見つかりません。瑪瑙と玉髄はこの最終期の主要な石材です。ダバ遺跡の文化層はトバ大噴火の前後で継続しており、細石器技術の導入まで大きな変化はなく、アフリカ・アラビア半島・オーストラリアの中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群とひじょうに類似しており、本論文ではアフリカの東方に拡散した現生人類の所産と解釈されています。

 ダバ遺跡の技術的変化はルヴァロワ技術から細石器技術まで段階的で、石材選択や再加工戦略や石核縮小技術など広範で体系的に顕著な変化を含みます。ダバ遺跡ではルヴァロワ技術と細石器技術の重複も一部あり、48600±2700年前となるダバ3のJ層と47500±2000年前となるダバ3のE層です。ビームベートカー(Bhimbetka)のようなインドの他の主要な遺跡も、ダバ遺跡のように中部旧石器から細石器まで、段階的な変化を記録しています。ダバ遺跡は、トバ大噴火の前後に、インドでアフリカの中期石器時代のような技術が存在したことをさらに確かなものとします。細石器技術の出現は、おそらく現生人類がインド北部に最初に出現してからかなり後のことでした。

 近年の遺伝学の研究からは、出アフリカ系現代人の主要な祖先集団は7万~52000年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散し、それ以前にアフリカからユーラシアへと拡散した早期現生人類がわずかに出アフリカ系現代人に遺伝的影響を残している、と推測されます。人類遺骸の証拠からは、現生人類が20万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散した、と推測されています(関連記事)。これはユーラシア西方ですが、早期現生人類のアフリカから東方への拡散では、現生人類遺骸に関しては、アラビア半島で85000年以上前(関連記事)、中国南部で12万~8万年前頃(関連記事)、スマトラ島で73000~63000年前頃(関連記事)のものが発見されており、中期石器時代や中部旧石器時代の石器群と関連しています。オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡では、65000年前頃の石器群が発見されており(関連記事)、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群とアフリカやアラビア半島やオーストラリアの中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群の強い類似性は、トバ大噴火に先行する早期現生人類のアフリカから東方への拡散の考古学的証拠となります。インドのダバ遺跡は、アフリカおよびアラビア半島からオーストラリアへと拡散する早期現生人類の重要な中継地だったかもしれないという点で、大いに注目されます。

 本論文は、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群がトバ大噴火の前後で大きく変わらないことから、トバ大噴火でもインド北部において人類集団が環境変化に適応して存続していた、と指摘します。トバ大噴火の人類への影響は、トバ大惨事仮説が想定するほど大きくなかったのではないか、というわけです。じっさい、気候学者や地球科学者の間ではトバ大惨事仮説はあまり支持されていないそうです。また、近年のアフリカやインドの考古学的研究も、トバ大惨事仮説には否定的です(関連記事)。トバ大惨事仮説は一般向けのテレビ番組でも通説として取り上げられることが多いように思いますが(関連記事)、もうやや異端的な説として扱うべきでしょう。

 本論文は、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群を現生人類の所産と推測していますが、その根拠となる、インドよりも東方の早期現生人類の証拠に関しては疑問が呈されているので(関連記事)、アジア南東部やオーストラリアへの現生人類のトバ大噴火前の拡散に関しては、まだ判断を保留しておくべきだろう、と思います。ただ、ダバ遺跡のルヴァロワ石器群とアフリカやアラビア半島の中期石器時代もしくは中部旧石器時代の石器群との類似性から、現生人類が8万年以上前にアジア南部まで拡散してきた可能性は高そうです。仮にそうだとしたら、アジア南部の古代型ホモ属と現生人類との接触がどのようなものだったのか、注目されますが、現時点ではあまりにも証拠が少ないので、今後の研究の進展を俟つしかありません。アジア南部にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が拡散してきた証拠はありませんが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統が存在した可能性は低くないように思います。

 また、上述のように、現生人類がトバ大噴火の前にアジア南部やオーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島と陸続きでサフルランドを形成していました)にまで拡散していたとしても、出アフリカ系現代人の主要な祖先集団ではなく、せいぜい一部に遺伝的影響を残しただけと考えられます。インド北部の早期現生人類集団は、トバ大噴火前後の環境変化にも適応できたものの、細石器技術を有する後続の現生人類集団に、人口規模や社会構造や技術水準などで劣勢となり、消滅したか吸収されたのかもしれません。この問題に関しては、現生人類拡散の数理モデル(関連記事)も参考にしつつ、考古学的記録や遺伝学的データも併せて研究が進められていくのではないか、と期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:トバ山の大噴火を生き延びた現生人類

 現生人類は、約7万4000年前に発生したトバ山の大噴火を挟んでインド北部に居住し続けていたという見解を示した論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この論文には、ソン川渓谷の遺跡から石器が発見され、この地域に現生人類が過去8万年間にわたって居住し続けてきたことが示されたことが報告されている。この新知見は、現生人類がアフリカから東に向かって分散したことに関する手掛かりになる。

 インドネシアのスマトラ島にあるトバ山の噴火は、長期にわたる火山の冬を引き起こし、現生人類のアフリカからの分散とオーストラレーシアへの定着を阻害したと主張されてきた。こうしたヒト集団に対する影響については論争が続いているが、主要地域(インドなど)からの考古学的証拠は少ない。

 今回、Chris Clarksonたちの研究チームが、インドのミドル・ソン川渓谷にあるダバの遺跡で行われた考古学的発掘調査で発見された大量の石器について報告している。発見された石器は、約8万年前のルヴァロワ文化の中核的石器群(石核から剥片を剥離して作られた石器)から細石器技術(通常の長さが数センチメートルの小型の石器を製作する技術)に移行した約4万8000年前の石器まで含まれていた。この考古学的記録に連続性が認められることから、この地域に居住していた現生人類はトバ山の大噴火を生き延びたことが示唆されている。

 ダバで発見されたルヴァロワ石器とアラビアで発見された10万~4万7000年前の石器とオーストラリア北部で発見された6万5000年前の石器に類似点があり、このことは、古代の現生人類のアフリカからの分散によって、これらの地域の間に結び付きが生じたことを示唆している。



参考文献:
Clarkson C. et al.(2020): Human occupation of northern India spans the Toba super-eruption ~74,000 years ago. Nature Communications, 11, 961.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14668-4


追記(2020年3月1日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。現生人類(Homo sapiens)はアフリカから世界中への拡散の過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と遭遇しました。本論文は、ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類と同等な繁殖能力や認知能力を有していたという仮定において、古代型ホモ属と現生人類との間の文化に関する問題を検証しています。

 本論文が問題としているのは、古代型ホモ属が先住している地域への現生人類の拡散と、その地域での現生人類的な石器(小石刃・細石器・背付き石器・尖頭器など)の出現に時間差があることです。つまり、石器文化の変化と人類系統の交替が必ずしも対応していない、ということです。このズレはヨーロッパでも見られますが、中国を中心とするアジア東部で顕著です。とくに中国北部では、現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、と指摘されています(関連記事)。本論文は、集団の人口と文化水準が連動し、分布を拡大する現生人類と先住の古代型ホモ属の間の資源をめぐる種間競争モデルを想定し、数学的な手法により集団変化を予測するとともに、そのモデルに基づいて、アジア東部における現代人的な石器の出現が現生人類の到達より遅れたとされる現象を解釈します。

 本論文で理論的考察のモデルは、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」を考察するために著者たちが提案しました。モデルとはそもそも、複雑すぎる現実の中から本質的と思われる要素を抽出し、それらの間の関係性を強引かつ定量的に設定するもので、現実と(はなはだしく)乖離しているといっても過言ではなく、モデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になる、と本論文は指摘します。本論文は「集団」という用語を10~100人程度の規模と想定し、集団規模が大きいほど、その文化水準(道具の種類数が多く、高機能なものが含まれるなど)は高い、と理論的に予測されます。人口が多いほどアイデアが多く生まれ、多様な技術が共存でき、特別に知能の発達した人が含まれる可能性は高い、と考えられるからです。逆に、文化水準が高いほど人口が維持できる、とも予測できます。ただ、獲物の乱獲により人口を維持できなくなる危険性も伴う、と本論文は指摘します。

 本論文はこれらを踏まえたうえで、学習可能な技術を想定し、この技術の所持者が多い集団ほど、文化水準が高いと仮定します。この技術は、他者を模倣して習得されるか、失敗した場合は、試行錯誤などにより自力で習得できる、と仮定されます。自力習得される技術は、同じ目的を果たすのであれば、既存のものと完全に一致する必要はありません。また、一定の割合の者は習得した技術を忘却する、と仮定されます。本論文のモデルは、人口が多いほど技術所持者も多い、と予測されます。人口動態は、環境収容力に制約されます。また、技術の難易度も考慮されます。

 本論文はこれらを踏まえて、古代型ホモ属の先住地域に現生人類が拡大してきた事例を検証します。両者の間では文化的接触がなく、交雑第一世代は古代型ホモ属と現生人類のどちらかの社会に吸収される、と仮定されます。不均一な地形や変動する気候の影響は無視されます。ここまでの仮定では、古代型ホモ属と現生人類は同等に設定されており、現生人類の分布拡大と古代型ホモ属の絶滅は起こり得ません。そこで本論文は、この対称性を崩す条件として、初期条件の違いを新たに設定します。アフリカおよびレヴァントの初期現生人類は高人口高文化水準にあり、レヴァントを除くユーラシアの古代型ホモ属は、低人口低文化水準だった、と想定されます。

 このモデルでは、現生人類の分布拡大に伴い、古代型ホモ属の分布域は縮小していきます。古代型ホモ属のみの地域と現生人類のみの地域では、人口文化水準は以前と変わらず、前者が低く、後者は高いままです。しかし、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域では、人口文化水準は古代型ホモ属のみの地域よりもさらに低くなります。これは、古代型ホモ属も現生人類も種間競争の影響で人口がきょくたんに少なくなっている、と予測されるからです。この現生人類の分布拡大は、二重波モデルとして表されます。第一波は、まだ先住の古代型ホモ属が存在する地域への拡大で、第二波は、すでに現生人類のみの地域への拡大です。第一波の速度は第二波より速い、と予測されます。また、古代型ホモ属が現生人類と共存しながらアフリカに到達することは、遺伝学と考古学の証拠に反するので、そうならないよう、技術難易度を表すパラメタに上限が設定されます。

 第一波が第二波より速いため、各地点への両者の到着に時間差が生じます。種間競争が弱く、文化水準に関わる技術難易度が高いほど、時間差が大きくなります。また、第一波と第二波の速度は一定と仮定されるため、現生人類の起源地であるアフリカから遠くなるほど、時間差が大きくなります。集団中の技術所持者数がその集団の文化水準を決定する、と仮定されているので、人口の少ない第一波の現生人類集団では、現代人的な石器は製作されてもわずかで、遺物として残らないか発見されいな可能性も考えられる、と本論文は指摘します。一方、第二波の現生人類集団は高人口高文化水準なので、現代人的な石器が見られる、と予測されます。これが、アフリカから遠いアジア東部において、現生人類の到達と現代人的な石器の出現の時間差が大きい理由だろう、と本論文は指摘します。また本論文は、遺伝学の研究では、第二次出アフリカ後の現生人類の人口が1万年以上の長期間激減し、ボトルネック(瓶首効果)が起きたことも、現生人類と古代型ホモ属とが共存する地域での低人口密度を表しているかもしれない、と指摘します。

 本論文は、アフリカ起源の現生人類が高人口高文化水準、ユーラシアの古代型ホモ属が低人口低文化水準と設定し、現生人類のアフリカから世界中への拡散と、古代型ホモ属の絶滅を説明しました。ただ、現生人類も最初は低人口低文化水準だったと考えられます。本論文は、低人口低文化水準から高人口高文化水準への移行には3段階あった、と推測しています。まず、低人口低文化水準の集団がある地域に複数存在する状況において、そのうち1集団で人口と技術所持者が偶然に少し増えて、高人口高文化水準の平衡点の吸引域に入り、その後に高人口高文化水準の平衡点に収束します。高人口高文化水準に達した集団から地域内の他集団への人の移住があれば、受け入れ側の集団でも高人口高文化水準状態への遷移が可能となります。こうして、地域内集団の多くが、一種の連鎖反応により高文化水準に次々と遷移します。本論文は、こうした平衡遷移過程が起きやすい場として、氷期の繰り返しのような地球規模の環境劣化の中、生物がかろうじて生存できる比較的好条件のレフュージア(待避地)を挙げます。平衡遷移過程には集団間の移住率が重要で、低すぎても高すぎても働きません。ただ、平衡遷移過程は条件が整っても作動するとは限らず、偶然が伴う、とも指摘されています。地球規模の環境が改善すると、退避地が分布拡大の起点になり得ます。具体例としては、2万年前頃の最終氷期極大期の後のヨーロッパが挙げられています。

 このような平衡遷移過程が現生人類のみで起きた理由について、本論文は不明としています。近親交配の証拠(関連記事)から示唆されるように、古代型ホモ属の集団は孤立しており、集団間の移住がきわめて限定的だったのかもしれません。また本論文では、アジア東部への現生人類および現代人的な石器の到来は同一経路だったとの前提が採用されていますが、じっさいには南北2経路の可能性が高い、と指摘されています。本論文が指摘するように、上述のモデルから導かれる予測を現実に適用するには解釈が重要になり、そのための証拠は、とくに遺伝学において急速に蓄積されつつあります。本論文のモデルは現生人類の拡散の解明に大きく貢献できそうですが、より妥当な仮説の提示には、遺骸・DNA・遺物などの具体的証拠が必要となります。


参考文献:
青木健一(2020)「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第6章P199-220

ナミビアの牧畜民におけるペア外父性

 ナミビア北西部のヒンバ(Himba)牧畜民集団におけるペア外父性(extra-pair paternity、EPP)に関する研究(Scelza et al., 2020)が公表されました。動物行動に関する伝統的な見解においては、社会的に一夫一妻の種では比較的低いペア外父性(extra-pair paternity、EPP)率のはずだ、と想定されます。しかし、DNA解析の発展により鳥類の分類は大きく変わり、以前は社会的に一夫一妻と分類されていた種の大半が一夫多妻に分類されました。近年ではこうした知見を踏まえて、ペア外父性の種間および種内変動の両方の決定要因の理解が注目されるようになり、性選択、父性と一夫一妻と父親の世話の間の関係についての研究が続けられています。

 人類学では長く、文献から社会的一夫一妻の限界が強調されてきました。一夫一妻もしくは一夫多妻婚を通じての安定した共同関係の出現は、父親からの投資、血統および継承構造などへの必須の前適応と考えられています。しかし、婚姻内の性的排他性からの慣習的予測にも関わらず、婚外関係がしばしば発生します。集団間における婚外関係の頻度はかなり可変的ですが、標準的な社会の57%では、女性の不貞の割合が中程度以上あると報告されています。一部の社会では、こうした同時期の共同関係は公式もしくは非公式に容認された方法で見られ、たとえば妻の貸し出しです。しかし、他の社会では、婚外関係は厳密に隠されており、検出された場合は厳罰を伴います。これらのデータは、特定の状況下で女性が一妻多夫から利益を得られる、という広範な予測に合致します。

 ヒトにおけるEPPの高品質の遺伝的証拠は過去5~10年で蓄積されつつありますが、ほぼヨーロッパ系集団にのみ焦点が当てられています。人類学者が強調する同時に複数の配偶的関係の一定以上の割合とは異なり、現代および過去の集団の遺伝的データは一貫して、ひじょうに低いEPP率を明らかにしてきました。たとえば、ネーデルラントにおいては、EPP率は人口密度および階層と相関しており、最もペア外父性率が高くなる人口密度の高い下層階級でも、5.9%程度で、最も低くなる人口密度が低い上層階級では0.4~0.5%程度と推定されています(関連記事)。最近の非ヨーロッパ系を対象とした研究でも、たとえばマリのドゴン(Dogon)集団でEPP率は1.8%程度と推定されています。そのため遺伝学においては、ヒト社会におけるEPP率は無視できる程度のものだ、との見解が有力でした。しかし、現在おもに研究されている集団は家父長制の社会経済制度であり、均一的な標本群なので、より広範な社会経済的規範の集団の研究が必要と指摘されています。

 EPP率の研究は倫理的問題になりかねないので、調査には対象者の同意と情報保護など慎重さが必要となります。本論文は、調査対象者の同意と二重盲検法の採用により、バイアスをできるだけ減少させます。本論文が対象としたのは、非ヨーロッパ系となるナミビア北西部のヒンバ牧畜民集団です。ヒンバ集団の718人のDNAが解析され、人口記録および調査対象者の父性に関する自己申告と合わせて、EPP率や自己申告の正確性が検証されました。まず、171人の既婚者が調査され、女性の77%、男性の85%には、少なくとも1人の婚外パートナーがいました。婚外パートナーは、おおむね1人もしくは2人で、若い男性(16~25歳と26~35歳)ではほぼ100%おり、男女ともに若い方が高い傾向にあるものの、男性の場合は36~45歳と45歳超で割合はほぼ変わらず、女性では45歳超でやや低下する傾向が見られます。

 ヒンバ集団の平均EPP率は48%で、夫婦の70%は少なくとも1人のペア外父性の子供を有しています。女性151人と男性161人からは、生物学的な父子関係に関する自己申告が得られ、男女ともに70%程度の確率で父性を正しく判断できており、女性の方が男性よりもやや高い精度でした。父性を間違って判断した場合、男女ともに夫側の実子と判断しながら他の男性の実子だった方が、夫側の実子ではないと判断しながらそうだった場合よりもずっと多くなっています。この結果を知らされたヒンバ集団は、父性の判断の正確性が過小評価されている、と主張しました。夫側は自分の子供ではないと信じている時でさえ、子供の父親と報告したのだろう、というわけです。じっさい上述のように、夫側の実子と判断しながら他の男性の実子だった方が多いわけで、男性はもっと正確に父性を判断できているかもしれません。

 これらのデータは、EPPがヒトではおおむね無視できる、という遺伝学の有力な見解とは対照的です。ヒンバ集団はEPPに関して、ヒト集団における一方の極にいるかもしれませんが、同時に複数のパートナーと関係を有する頻度が高いのは、ヒンバ集団だけではありません。EPPの変異幅を正確に評価するには、より多様な経済的および社会的環境での研究が必要になる、と本論文は指摘します。現時点では、ヒト集団間のEPPの変異幅の要因について、ほとんど知られていません。本論文、同時に複数の性的関係を有する女性の割合が75%程度と高いことから、母系継承、採集と園耕への依存、男性に偏った成人の性比、配偶者不在の長期化と関連している可能性を提示しますが、その因果関係が明確ではないことを指摘します。

 本論文は、ヒンバ集団における父性に対する高い正確性に注目します。EPPは多くの場合、男性が知らずに別の男性の子孫に投資する「不義」と推定されています。この男性にとっての脅威は、 EPPを防止および検出し、そうしたコストのかかるエラーを回避するために存在すると考えられている、一連の心理的メカニズムと関連しています。以前の研究は、父性の信頼性と実際の父性の間の一致を示してきましたが、本論文は、ヒンバ集団の男女両方とも、EPPの事例の検出において意外なことに正確である、と指摘します。本論文におけるEPP検出の男性の精度は、以前の研究で見られたものをはるかに上回ります。以前の研究では、低い父性信頼性の男性は30%の確率で正しかったのに対して、本論文におけるヒンバ集団の男性は70%以上で正しい、と示されています。これは、高頻度のEPP状況で男性が子供に投資する(世話をする)動機に関して、顕著な示唆を与える、と本論文は指摘します。

 高い父性信頼性と高いEPPの組み合わせは、ヒンバ集団の男性が全体的に、「寝取られていない(不義ではない)」ことを意味します。本論文は、男性が実子以外も世話する理由として、大きな安全となり得る社会的評判への見返りを期待しての社会的父親としての義務や、男性に偏った性比のような社会経済的状況では、一部の男性にとって一妻多夫こそ最良の選択になる、といったことを挙げています。これらの知見が、より広範囲の集団を対象とした多くの父性研究への窓を開き、ヒトにおけるEPPの程度についてさらに明確にするよう、本論文は提言しています。これにより、将来の研究は「不義」とEPPの曖昧さを区別し、EPPが特定の集団における親の世話とパートナー選択に影響を与えるのかどうか、与えるのならば、その過程と理由は何なのか、解明されていくのではないか、と本論文は今後を展望しています。

 本論文は、ヒト社会におけるEPPが集団により大きく異なり、かなり高い割合の集団もいることを示した点で、注目されます。しかも、ヒンバ集団においては、男性側が実子ではないと判断している子供にも投資している(世話をしている)ことが珍しくなさそうであることから、これを「寝取られ(不義)」と区別する必要性があることも、本論文の重要な指摘となります。こうした実子ではないと判断している子供への投資(世話)がどのように形成され、その理由が何なのかという問題は、まだ明確ではありません。本論文はその理由として、社会的評判や性比の偏りを示唆していますが、確かに、それは要因になり得るとは思います。おそらくヒンバ集団の事例は、ヒトがもともと父性には拘っていなかったことではなく、ヒトが社会状況により多様な社会を築いてきたことを反映しており、ヒトが進化の過程で長く「乱婚社会」を経験してきた、という仮説の根拠にはなり得ないでしょう。


参考文献:
Scelza BA. et al.(2020): High rate of extrapair paternity in a human population demonstrates diversity in human reproductive strategies. Science Advances, 6, 8, eaay6195.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay6195

ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類系統との交雑

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(Rogers et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。本論文は、すでに昨年(2019年)6月、査読前に公開されていました(関連記事)。その時と内容は基本的に変わっていないようなので、今回は多少の変更点などを中心に簡単に取り上げます。

 本論文の要点は、現生人類(Homo sapiens)系統と分岐した後の、ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先である「ネアンデルソヴァン(neandersovan)」は、220万~180万年前頃にネアンデルソヴァンおよび現生人類系統の共通祖先系統と分岐した「超古代系統」と分岐した、というものです。ネアンデルソヴァン系統におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統の推定分岐年代は737000年前頃(査読前の論文では731000年前頃)で、その少し前にネアンデルソヴァン系統と現生人類系統が分岐したと推定されますから、その間にネアンデルソヴァン系統と超古代系統が交雑したことになります。本論文におけるネアンデルタール人系統とデニソワ人系統との推定分岐年代は、たとえば44万~39万年前頃とする他の研究(関連記事)よりもずっと古くなりますが、これはネアンデルソヴァン系統と超古代系統の交雑のように、本論文が複雑な交雑を想定しているからではないか、と推測されています。

 ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡では、185万年前頃までさかのぼる人類の痕跡が確認されています(関連記事)。本論文は、人類の出アフリカは大別して3回あり、200万年前頃となる最初に超古代系統がアフリカからユーラシアへと拡散し、その後はアフリカの人類とは交流せず、80万~70万年前頃となる2回目の出アフリカでネアンデルソヴァン系統がユーラシアへと拡散した超古代系統と交雑し、7万~5万年前頃となる3回目に現生人類がユーラシアへと拡散した、と推測しています。もっとも、すでにゲノムが解析されている現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人には遺伝的影響を残していない人類系統による、他の出アフリカもあっただろう、と考えられます。たとえば、中国北西部の212万年前頃の人類(関連記事)です。また、出アフリカ系現代人の主要な祖先ではない現生人類系統の出アフリカも20万年以上前から複数回あった、と推測されます(関連記事)。

 人口史については、超古代系統の有効人口規模は2万~5万人と推定されており、ネアンデルタール人やデニソワ人よりも多かった、と推定されています。また、本論文の筆頭著者のロジャース(Alan R. Rogers)氏は、以前の研究(関連記事)では、ネアンデルタール人の人口は他の研究の推定よりかなり大きかった、と推定されていました。ネアンデルソヴァン系統は人口が減少し、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統との分岐後に人口が数万人規模まで増加していき、各地域集団に細分化されていった、というわけです。一方、他の研究では、ネアンデルソヴァン系統が現生人類系統と分岐した後、ネアンデルタール人系統もデニソワ人系統も人口がずっと減少していった、と推測されています(関連記事)。本論文は、クロアチアのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列(関連記事)も対象とすることで、他の研究と近いネアンデルタール人の人口史を推定しています。

 本論文の課題の一つとして挙げられているのは、他の研究で提示されている遺伝学的に未知の古代系統の交雑など、人類史における複雑な交雑事象を踏まえて、どう整合的に解釈するのか、ということです。たとえば、現生人類およびネアンデルソヴァンの共通祖先と分岐した超古代系統がアフリカでアフリカ西部集団の祖先と交雑した、という最近の研究(関連記事)や、サハラ砂漠以南のアフリカ集団における未知の人類系統との交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)です。ただ、後者の研究では、それが単一もしくは複数のアフリカの現生人類系統である可能性は除外されていません。また、早期現生人類がネアンデルタール人と交雑し、その後でネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って来た」ので、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響は以前の推定よりずっと高い、という研究(関連記事)もあります。

 このように、人類史において異なる系統間の交雑は珍しくなかったようです。超古代系統とネアンデルソヴァン系統は、分岐してから120万年以上経過してから交雑したと推定されており、分岐してから100万年程度では、交雑の大きな障壁にはならないようです。ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類とは、分岐してから70万年ほど経過して交雑していますから、単純に時間経過だけを考えると、交雑はより容易だった、と言えそうです。もちろん、分岐してからの時間が短くとも、生殖隔離をもたらすような変異が蓄積される可能性もありますが。アザラシにおいても、現生人類とネアンデルタール人の場合よりも遺伝距離が2.5倍の種間で交雑が生じており(関連記事)、おそらく哺乳類において一般的に交雑は珍しくなく、それが進化の一因になったのでしょう。


参考文献:
Rogers AR, Harris NS, and Achenbach AA.(2020): Neanderthal-Denisovan ancestors interbred with a distantly related hominin. Science Advances, 6, 8, eaay5483.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay5483

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、近年飛躍的に発展した古代ゲノム研究を概観するとともに、その理論的発展も取り上げ、ゲノム研究の具体的な手法も解説しています。たとえばPSMC法は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定する、という原理とアルゴリズムに基づきます。これにより1個体から過去の個体数が推測され、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、50万年以上前に現生人類系統と分岐して以降、ずっと人口が減少していた、と指摘されています(関連記事)。この長期的な人口史については、その後で異論が提示されていたものの(関連記事)、さらにその後で訂正され、やはり以前の推定が妥当とされています(関連記事)。一方、現代人の各地域集団系統は30万~20万年前頃に共通して人口のピークを示し、分岐がそれ以降であることを示唆するとともに、非アフリカ系集団では10万年前頃から人口が減少し始めて、6万~4万年前頃に最低となります。これは、非アフリカ系現代人の祖先集団に当時ボトルネック(瓶首効果)が起きたことを示唆します。また、4集団テストでは、変異数により集団間の近縁関係が推定されるとともに、異なる統計手法で混合率も推定されます。これにより、非アフリカ系現代人はアフリカ系現代人よりもネアンデルタール人に近いことと、非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人系統の混合率が推定されます。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人において、複雑な交雑が生じた可能性を指摘します。たとえば、早期現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動で、これは14万年以上前に起きた可能性が高そうです。ネアンデルタール人と出アフリカ系現代人の祖先集団や、デニソワ人とオセアニア系現代人の祖先集団との交雑は早くから知られていましたが、もっと入り組んだ交雑があった、というわけです。さらに、まだ人類遺骸は特定されていないものの、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統と分岐した遺伝学的に未知の人類系統とデニソワ人との交雑の可能性も指摘されています。これらの関係は本論文の図5-1で示されています。

 現時点で核DNAが解析されているネアンデルタール人は、大きく東西の2系統に分類されます。東方系は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性1個体で、その他は西方系です。非アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人は西方系で、ネアンデルタール人の東西系統の分岐は14万年以上前、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは58000年前頃、その集団とネアンデルタール人との交雑は54000~49000年前頃、出アフリカ系現代人の祖先集団のうち東西ユーラシア集団の分岐は52000~46000年前頃と推定されています。ただ、この推定年代は、今後の研究の進展により変わってくる可能性が低くないでしょう。

 核DNAが解析された最古の現生人類個体は、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見されました(関連記事)。このウスチイシム個体の年代は45000年前頃で、どの非アフリカ系集団とも同じような遺伝距離を示しているため、ユーラシア集団が東西に分裂した頃の現生人類と推測されています。核DNAが解析された更新世の現生人類個体としては、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)が挙げられます。このマリタ個体は、アメリカ大陸先住民集団やヨーロッパ集団と密接な関係にあると想定されたゴースト集団を実証するもので、古代ユーラシア北部集団を表します。その後さらに、古代ユーラシア北部集団をユーラシア北東部に広範に存在した古代シベリア北部集団の子孫とする見解が提示されています(関連記事)。

 現代ヨーロッパ人の形成において重要であるものの、まだ存在が確認されていない集団(ゴースト集団)として、基底部ユーラシア集団があります。これは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されています。ゴースト集団なので分布範囲は不明ですが、アジア西部とアフリカ北部が有力です。45000~37000年前頃のユーラシアには、この基底部ユーラシア集団とともに、複数の現生人類集団の存在がゲノム解析で確認されていますが(関連記事)、42000~37000年前頃のルーマニアの「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された「Oase 1」や上述のウスチイシム個体のように、現代には子孫を残していないと考えられる集団も存在したようです。ヨーロッパロシアにあるコステンキ-ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された若い男性は、現代ヨーロッパ人と遺伝的に近縁とされていますが(関連記事)、この時期のヨーロッパ人には、後世のヨーロッパ人とは異なり、上述の基底部ユーラシア集団の遺伝的影響は見られません。33000年前頃に、コステンキ近くまで画策してきた狩猟採集民がグラヴェティアン(Gravettian)を発展させ、ヨーロッパ西部に逆流し、グラヴェティアンは1万年以上続きます。

 完新世になると、ヨーロッパにはアジア西部から農耕民が到来します。このヨーロッパの初期農耕民のゲノムにおける基底部ユーラシア集団由来の領域は44%に達する、との見解もありますが、10%未満との推定もあり、確定していません。現代ヨーロッパ集団は、大まかには、ユーラシア西部集団を基本に、基底部ユーラシア集団と古代ユーラシア北部集団が直接・間接的に関わって形成された、と把握できます。まず、ヨーロッパ西部の狩猟採集民が存在するところに、アナトリア半島やレヴァントやイランといったアジア西部の農耕民が到来し、先住の狩猟採集民と混合していきます。ヨーロッパ東部では、在来の狩猟採集民にイランの農耕民が拡散してきて混合し、牧畜も始めたポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)集団が形成されました。この集団からヤムナヤ(Yamnaya)文化が出現し、5000年前頃以降ヨーロッパに拡散し、大きな遺伝的影響を残しました。ヨーロッパ東部の狩猟採集民は古代ユーラシア北部集団から大きな遺伝的影響を受けており、現代ヨーロッパ人は間接的に古代ユーラシア北部集団を祖先としています。また、古代ユーラシア北部集団はアメリカ大陸先住民の祖先でもありました。また、エチオピアのモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノム解析と現代人のゲノムとの比較に基づき、ユーラシア西部からアフリカへの3000年前頃の「逆流」の規模は以前の推定よりも大きく、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%を占めるのではないか、と推測されています(関連記事)。

 アジアにおける現生人類集団の形成において重要となるのは、ネアンデルタール人だけではなくデニソワ人の存在も考慮に入れなければならないことです。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAで異なっており(関連記事)、単一の祖先関係を反映する分枝が、必ずしも集団の系統関係を反映するわけではない、と本論文は注意を喚起しています。デニソワ人は、肌の色が濃く、褐色の髪と目だった、と推測されています。デニソワ人の遺伝的影響は現代人でも各地域集団で大きく異なり、オセアニアでは高く、アメリカ大陸(先住民集団)やアジア東部および南部では多少見られ、ユーラシア西部とアフリカではほとんど見られません。本論文は、デニソワ人がシベリアからアジア南東部まで広範に存在したのではないか、と推測し、デニソワ人には複数系統存在し、それぞれオセアニアやアジア東部の現代人の祖先集団と交雑した(関連記事)、との見解を取り上げています。本論文は、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散においてヒマラヤ山脈の北方を東進する経路においても現生人類とデニソワ人が交雑した可能性を指摘し、その根拠として上述のマリタ遺跡の少年にもデニソワ人の遺伝的影響が見られることを指摘します。これは私も見落としており、参考文献が思い浮かばなかったので、今後時間を作って調べていきます。また本論文は、現代アジア東部人の祖先集団がアジア南東部から北上する過程でデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した、と推測しています。

 本論文は現生人類の出アフリカを、上述のネアンデルタール人に遺伝的影響を残した14万年以上前の第一次と、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団による6万年前頃の第二次に区分し、両者は大きく系統が異なる、と推測しています。この第一次出アフリカ集団がオセアニアの現代人に遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。じっさい、この第一次出アフリカがオーストラリアまで到達した可能性を示唆する考古学的証拠も提示されています(関連記事)。この場合、オセアニア系統とアジア東部および南東部系統との分岐は、ユーラシア東西系統との分岐後となります。ただ、第一次出アフリカはオセアニアまで到達したものの、第二次出アフリカの先発隊的存在だった、との見解もあり、オセアニア系の分岐はユーラシア東西系統の分岐よりも早くなります。本論文は、オセアニア系の位置づけが定まらないのは、オセアニア系にデニソワ人からの遺伝子流動があるためで、この効果を除外しないと、オセアニア系の位置づけが古くなってしまう、と指摘します。ただ本論文は、現時点でのゲノムデータが適切に除外できるのか、という問題を提起しています。オセアニア・アジア・ヨーロッパの各集団のうち、2集団のみに共有される非アフリカ系現代人に特異的な変異に注目した研究では、オセアニア系は明らかにアジア系とより多くの変異を有しており、第一次出アフリカ集団がオセアニアにまで到達しても、第二次出アフリカ集団にほぼ完全に置換されたか、第一次出アフリカにおけるオセアニアへの到達を示唆する遺跡の年代が誤りなのだろう、と本論文は指摘します。

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属との交雑は、現生人類の適応に重要な役割を果たした、と考えられています。非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は、各個人では2%程度ですが、合計すると40%程度になり、さらに現代人のゲノムを調査していけば、70%に達するかもしれない、と推測されています。ただ、現生人類のゲノムに見られる古代型ホモ属由来のDNAには、遺伝子の翻訳領域やその発言調節領域もしくは保存的な非翻訳領域など、機能的に重要な領域が少ないことから、古代型ホモ属のゲノムは現生人類にとって有害だった、との見解も提示されています。本論文も、現生人類と古代型ホモ属のゲノムは50万年以上独立に進化した後で混合したので、相互に不和合になる変化も蓄積しているはずだ、と指摘します。一般的に生殖に関連した遺伝因子は進化が速く、雑種の雄の妊性をいち早く低下させます。また、古代型ホモ属の個体数は長期にわたって現生人類との比較で一桁少ないと推定されていることから、古代型ホモ属には相対的に強い遺伝的浮動により有害変異が蓄積しやすかったことも指摘されています。

 このような不適応説を支持する証拠は、上部旧石器時代から現代にいたるまで、現生人類のゲノムにおける後期ネアンデルタール人からの混合率が単調に減少し、有害な変異が4万年以上にわたってじょじょに排除されているように見えることです。しかし本論文は、有害変異が長期にわたって排除されることは、集団遺伝学的には説明が難しい、と指摘します。さらに、アルタイ地域のネアンデルタール人ではなく、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団により近いクロアチアのネアンデルタール人で推定すると、単調な減少は見られなくなります。ただ、早期現生人類のウスチイシム人やコステンキ人のゲノムではネアンデルタール人由来の領域が多いことも確かなので、複数回の交雑などを考慮する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文は、単調な減少がないからといって、ネアンデルタール人のゲノムが現生人類にとって有害ではなかった、とは言えないとも指摘します。有害な変異も多かったものの、交雑後間もなく現生人類の祖先集団から急速に除去されただろう、というわけです。そうならば、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域を排除する仕組みはもはや存在せず、将来にわたって現生人類のゲノムの一部として伝達されるだろう、と本論文は予測します。

 非アフリカ系現代人のゲノムに見られる古代型ホモ属由来の適応的な変異としては、チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1(関連記事)やイヌイットに見られる寒冷適応関連遺伝子TBX15やWARS2(関連記事)があり、ともにデニソワ人由来です。現代ヨーロッパ人に他地域よりも高頻度で見られる脂質代謝関連遺伝子は、ネアンデルタール人由来と推測されています(関連記事)。その他には、免疫や髪・皮膚の色に関連した遺伝子で古代型ホモ属由来のものがある、と指摘されています。本論文は、こうした古代型ホモ属から現生人類への適応的浸透が特定の地域集団に限定されており、現代人全体で適応的になっている事例は報告されていない、と指摘します。現代人のゲノムにおける出アフリカ以降の適応的変化でも同様で、これは全体に拡散するには時間不足だからではなくも適応進化の要因が病原菌や高地や寒冷地といった地域的な環境への適応にあるからだ、と本論文は指摘します。

 また本論文は、古代型ホモ属からの適応的浸透には、たとえば乳糖耐性のような文化と関連した事例がないことも指摘します。他には、アジア東部において高頻度で見られる、アルコール分解の強弱に関連するアルデヒド代謝能力です。これは、長江流域で稲作が始まり、その発酵産物を摂取するようになったことと関連し、代謝を遅滞するような選択圧が作用した、と推測されています。また、社会構造の変化や異文化との接触に伴う選択圧も想定されます。これらも地域的な適応ですが、現時点で既知のこうした変異はすべて、現生人類の遺伝子プールにすでに存在したか、新たに出現したもので、古代型ホモ属由来ではありません。本論文は、古代型ホモ属のゲノムが出アフリカ後の現生人類の適応を可能にした有益な変異の貯蔵庫であったことは認めつつ、文化という現生人類が生み出した独自の「環境」に適応する素材とはなり得なかった、と指摘します。ゲノムには時間に関する情報は満載であるものの、空間に関する情報はそれ自体ではきわめて限定的で、移動し続けてきた現生人類の歴史を復元するには、学際的な研究が必要になる、と提言しています。


参考文献:
高畑尚之(2020)「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第5章P151-197

大河ドラマ『麒麟がくる』第6回「三好長慶襲撃計画」

 1548年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)秋、畿内では細川晴元とその重臣である三好長慶との対立が深まっていました。長慶は連歌の会に出席すべく、密かに都を訪れます。明智光秀(十兵衛)は伊平次から、その場で松永久秀と長慶を襲撃する計画があると聞き、三淵藤英と細川藤孝に面会に行きます。藤英は晴元がこの襲撃計画の黒幕だろう、と光秀に打ち明けますが、しょせんは細川勢の内輪揉めで、将軍の上意と受け取られるのは困るので動けない、と言います。しかし光秀は、世を太平にするには将軍が公言せねばならないと藤英に訴え、それを近くで聞いていた将軍の足利義輝は、光秀を追うよう、藤英と藤孝に命じます。

 連歌の会で久秀と長慶が襲撃されたところを光秀と藤英と藤孝が救出に赴き、久秀も長慶も無事に脱出し、それを見た晴元は切歯扼腕します。負傷した光秀は望月東庵を訪ね、駒とも再会します。光秀は訪ねてきた藤孝に都に留まるよう誘われますが、まずは美濃をまとめて藤孝と将軍を支える、と答えます。そこへ、美濃の大垣城をめぐって斎藤利政(道三)と織田信秀が争いを始めた、と望月東庵が光秀に知らせます。利政は織田方の大垣城を奪い、相変わらずその軍事的手腕は冴えています。まだ傷の癒えていない光秀は駒とともに美濃に戻ります。

 今回は、都の政治的抗争に光秀が巻き込まれ、久秀や藤英や藤孝との絆が深まりました。まず間違いなく創作でしょうが、その後の関係を考えると、藤孝との深い絆をこの時期より描くのは、長期の連続ドラマとして大きな問題はないと思います。藤孝も光秀もまだともに若く、理想主義的なところがあるので、意気投合するのは納得のいく描写でした。視聴率低下が面白おかしくマスメディアで取り上げられるようになった本作ですが、ここまで私はひじょうに楽しめていますし、今後の展開も期待できます。やや不安だった駒の物語にも謎がありそうで、謎解きの点でも楽しみです。

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文はまず、3万年前頃までには、現生人類(Homo sapiens)が極寒地域や標高4000m以上の高地から熱帯雨林までアジア全域の多様な環境に適応して拡散していた、と指摘します。しかし、いつ到来したのかについては、議論が続いています。アジアで最古級の現生人類遺骸として注目されているのは、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された73000~63000年前頃の現生人類の歯です(関連記事)。しかし本論文は、この2点の歯は博物館の収集物から見つけられたもので、報告者たちが見つけたものではなく、古い地層で発見されたのか定かではない、と本論文は疑問を呈します。また、この歯が出土したとされる層から発見されたオランウータンの歯には、地中の鉱物が取り込まれて黒いシミができている一方で、全体的に脱色もしていますが、現生人類の歯はそれとは状態が大きく違うことも疑問点とされています。

 本論文は、西太平洋における渡海を伴う現生人類の拡散に注目しています。現生人類は、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・ タスマニア島は陸続きでした)に47000年前頃もしくは6万年以上前、日本列島とフィリピンへ38000年前頃に拡散した、と考えられます。つまり、西太平洋の広域で5万~3万年前頃に現生人類が海に進出していたわけで、人類が最初に本格的に海洋進出を開始したのは西太平洋かもしれません。日本列島に現生人類が拡散してきた38000年前頃には、海面が現在と比較して80mほど低く、台湾がユーラシアの一部となり、北海道がサハリンとつながっているなど、現在とはかなり地形が異なります。しかし、津軽海峡と対馬海峡には当時も海があり、沖縄の島々も大陸や九州と陸続きにはなっていないため、日本列島の中心部は基本的に海で隔てられていました。日本列島における現生人類と関連していると考えられる遺跡では、九州と本州が最も古く、日本列島最古の現生人類は朝鮮半島から対馬海峡を経て到来した、と考えられます。また本論文は、台湾からの渡海も想定しています。考古学では、25000年前頃北方から新たな石器文化が到来した、と考えられています。つまり、北方・朝鮮半島・台湾という大陸の三方から日本列島へ、やや異なる時代に現生人類が到来しただろう、というわけです。

 琉球列島における現生人類の痕跡は、最北の種子島で35000年前頃、奄美大島では3万年前頃、徳之島では3万年前をややさかのぼる頃、沖縄島では35000年前頃(サキタリ洞遺跡では世界最古級とされる23000年前頃貝殻製の釣り針が発見されています)、宮古島では3万年前頃、石垣島では27500年前頃までさかのぼります。それまで無人だった琉球列島の全域に、3万年前頃に突然現生人類が出現するわけです。屋久島はかつて九州と陸続きになったことがあるため、動物相は日本列島主要部と類似していますが、屋久島より南の島々にはアマミノクロウサギなど固有種がおり、動物相はかなり異なります。これは、屋久島より南の島々の長期の孤立を示します。

 本論文は、琉球列島への3万年前頃の航海は、その後に人類集団が少なくとも一定期間以上継続したと考えられることから、すべてを漂流の結果と考えるのには無理がある、と指摘します。また本論文は、伊豆諸島の神津島の黒曜石が本州で見つかっており、その年代は38000年前頃までさかのぼることから、その頃にはすでに意図的な航海が存在した、と指摘します。3万年前頃の台湾から琉球列島への航海を再現した実験から、現生人類が世界中へ拡散した理由として、避難や追放など消極的な理由だけではなく、新たな世界に挑戦する心理があったのではないか、と推測しています。この航海実験にどれだけの妥当性があるのかは、今後も検証が続けられていくでしょう。


参考文献:
海部陽介(2020)「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第4章P129-149

三畳紀中期の新種鱗竜形類

 三畳紀中期の新種鱗竜形類に関する研究(Sobral et al., 2020)が公表されました。鱗竜形類は規模と多様性が最大級の四肢動物系統で、10500種以上が含まれており、現代のトカゲ類・ヘビ類・ムカシトカゲ類の祖先に相当します。しかし、化石標本は、数ヶ所の三畳紀の遺跡でしか発見されておらず、鱗竜形類の初期進化はほとんど解明されていません。この研究は、ドイツのベルベルグにある三畳紀中期(約2億4700万年~2億3700万年前)の堆積層から発見された小さな化石について報告しています。

 分析の結果、この化石標本は、初期鱗竜形類の新種(Vellbergia bartholomaei)と明らかになりました。また、この化石標本は遺跡で発見された中で最小のものに分類され、ベルベルグで発掘された初めての幼体化石である可能性が指摘されています。この新種初期鱗竜形類は、下顎と比べて幅の狭い歯・細長い歯・低い歯などの独特な特徴を示しており、他の鱗竜形類種と異なっていますが、現代のトカゲ類とムカシトカゲ類の祖先に見られる特徴も見られます。これらの知見は、この新種初期鱗竜形類がトカゲ類とムカシトカゲ類の共通祖先である可能性を示唆しており、初期爬虫類の進化に関する理解に寄与します。

 この新種初期鱗竜形類化石は、鱗竜形類の初期進化を解明するうえでベルベルグの遺跡が重要なことを示す新たな証拠となります。三畳紀前期の化石記録は数が少ないため、地球上で起こった既知の絶滅事象の中で最大規模のペルム紀と三畳紀の境界(約2億5200万年前)で生じた大量絶滅の後、脊椎動物が回復し、現生種に多様化した過程を解明するうえで、三畳紀中期の化石標本が根本的に重要なものとなっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:爬虫類の進化の謎に光を与える先史時代の小さなトカゲ

 先史時代の爬虫類の新種がドイツで発見され、Vellbergia bartholomaeiと命名されたことを報告する論文が、今週Scientific Reportsに掲載される。この爬虫類種の解剖学的特徴によって、鱗竜形類の初期進化の理解が深まる。

 鱗竜形類は、規模と多様性が最大級の四肢動物系統で、1万500種以上が含まれており、現代のトカゲ類、ヘビ類、ムカシトカゲ類の祖先に当たる。しかし、化石標本は、数か所の三畳紀の遺跡でしか発見されておらず、鱗竜形類の初期進化は、ほとんど解明されていない。

 今回、Gabriela Sobralたちの研究チームは、ドイツのベルベルグにある三畳紀中期(2億4700万年~2億3700万年前)の堆積層から小さな化石を発見した。分析の結果、この化石標本は、初期の鱗竜形類の新種であることが分かった。そして、この遺跡で発見された化石標本の中で最も小さいものに分類され、ベルベルグで発掘された初めての幼体化石である可能性がある。V. bartholomaeiは、下顎と比べて幅の狭い歯、細長い歯、低い歯などの独特な特徴を示しており、他の鱗竜形類種と異なっているのだが、現代のトカゲ類とムカシトカゲ類の祖先に見られる特徴も寄せ集められている。これらの知見は、Vellbergiaがトカゲ類とムカシトカゲ類の共通祖先である可能性を示唆しており、初期爬虫類の進化に関する理解が深まる。

 この化石は、鱗竜形類の初期進化を解明する上でベルベルグの遺跡が重要なことを示す新たな証拠である。三畳紀前期の化石記録は数が少ないため、地球上で起こった既知の絶滅事象の中で最も規模の大きいペルム紀と三畳紀の境界(約2億5200万年前)で生じた大量絶滅の後、脊椎動物が回復し、現生種に多様化した過程を解明する上で三畳紀中期の化石標本が根本的に重要なものとなっている。



参考文献:
Sobral G, Simões TR, and Schoch RR.(2020): A tiny new Middle Triassic stem-lepidosauromorph from Germany: implications for the early evolution of lepidosauromorphs and the Vellberg fauna. Scientific Reports, 10, 2273.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58883-x

保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』第3刷

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2018年7月に刊行されました。第1刷の刊行は2018年7月です。本書は、昭和時代の「怪物」とそれにまつわる「謎」を取り上げています。具体的には、東條英機は何に脅えていたのか(第1章)、石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたのか(第2章)、石原莞爾の「世界最終戦論」とは何だったのか(第3章)、犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか(第4章)、渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか(第5章)、瀬島龍三は史実をどう改竄したのか(第6章)、吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか(第7章)です。

 本書の全体的な論調として気になるのは、勧善懲悪的な側面がやや強いように思えるところです。本書は概して大日本帝国軍部に厳しく、吉田茂など部に対抗した人々に好意的です。もちろん、教条的・精神論的・保身的な軍人と対立し、むしろ敵視されていたような軍人は好意的に取り上げられています。たとえば、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎です。本書では、その娘である渡辺和子への著者による取材も取り上げられていますが、渡辺和子は二・二六事件を終生赦さなかった、と指摘されています。渡辺和子がとくに嫌っていたのは、二・二六事件で父を殺害した実行犯の軍人たちよりも、それを煽りながら、「後ろにいて逃げ隠れした人たち」でした。具体的には、真崎甚三郎と荒木貞夫です。

 本書第1章は、東條英機が何に脅えていたのか、論じています。本書は、昭和天皇から非戦を期待されて首相に就任した後の東條が「自らの影」、陸相時代など首相就任前に自らが煽った強硬論に脅えていた、と論じます。本書の描く東條英機は、大日本帝国の統治機構をろくに理解しておらず、視野狭窄で意固地な器の小さい人物で、首相どころか師団長の器でさえなかった、との印象を受けます。正直なところ、本書は東條を過小評価しているのではないか、と思うのですが、東條が首相の器ではなかったことは否定できないでしょう。そうした人物が難局で首相に就任したことに、東條個人の力量だけではなく、大日本帝国とその軍部の問題も潜んでいるのだと思います。

『卑弥呼』第34話「ハシリタケル」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年3月5日号掲載分の感想です。前号は休載だったので、今回まで長く感じました。前回は、鬼八たちが平伏してヤノハを崇めているところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、今回は、ヤノハたちが捕虜とした鬼八荒神(キハチコウジン)とともに舟で千穂へと向かう場面から始まります。千穂への入口となる祭祀場では、残ったテヅチ将軍が、鬼八荒神の配下の者たちを武装解除させ、監視していました。ヤノハはオオヒコに、捕虜たちが抵抗しない限り何もするな、と命じていました。自分の言葉が届いた以上、もう山杜(ヤマト)の臣民である、というわけです。テヅチ将軍は日見子(ヒミコ)たるヤノハを慈悲深い方と、オオヒコは勇敢な方と言います。ヤノハが僅かな供を連れて鬼八荒神の本拠地に向かった、とオオヒコから聞いたテヅチ将軍は驚きます。ヤノハは当初、ミマト将軍とイクメとミマアキとクラトだけでよいと言っていましたが、オオヒコが説得して護衛6名が同行しました。少人数で大丈夫なのか、不安に思うテヅチ将軍に対して、ヤノハには人を魅きつける優しさと豪胆さに冷酷な戦術もあり、兵法を学んでいたとしか思えない、とオオヒコは言います。ヤノハは名だたる戦人の一族のような、高貴な出自なのだろう、とテヅチ将軍は考えます。

 那(ナ)国のウツヒオ王の砦である那城の門前では、トメ将軍の率いる軍勢が待機していました。都までの簡単な進軍だった、来た、見た、勝ったの心境だ、と呟きます。作者の読み切り作品である『さらばカエサル』(関連記事)を意識した台詞でしょうか。そこへウツヒオ王の近衛兵が来て、トメ将軍のみが王に呼び出されます。ホスセリ校尉はトメ将軍の身を案じますが、トメ将軍は王を信じている、と言って一人で向かいます。ウツヒオ王はまず、トメ将軍が大河(筑後川と思われます)を渡り暈(クマ)軍を敗走させたことを誉めます。ウツヒオ王は続いて、那の貴族・戦人・民全員が、トメ将軍が謀反を起こしたと信じ、姿を隠している、と伝えます。そのため、トメ将軍の凱旋のさい、道にも邑にも人がいなかった、というわけです。トメ将軍が、島子(シマコ)のウラが軍勢を率いて自分の首を狙っていると本気で疑っていた、と言うと、ウツヒオ王は、それが事実で、そのためにウラを謀反人と断じて、近衛兵の多くを討伐に差し向けた、と打ち明けます。ウラの兵の大半はウツヒオ王の側に戻り、僅かな手勢で都萬(トマ)に逃亡しました。都萬はウラ家と同じく、月読命を主神と崇めているからです。しかし、那から都萬に行くには暈と同盟関係にある穂波(ホミ)を通らねばならないので無理なのでは、とトメ将軍が疑問を呈すと、伺見(ウカガミ)の報告によると、一行は旅の楽団に化け、ウラは楽器箱(琴の入れ物)に身を潜めて国境を越えた、と答えます。ウラは生き残るためなら法も破るのか、と呟きます。

 ウツヒオ王はトメ将軍に褒美として、大夫の冠位を授け、大将軍に任命しようとしますが、不満そうなトメ将軍を見て、島子の地位が欲しいのか、と尋ねます。即座に肯定するトメ将軍に、島子になって何がしたいのか、とウツヒオ王は尋ねます。するとトメ将軍は、大陸に行って漢(後漢)の進んだ文明を一目見たい、と答えます。ウツヒオ王はトメ将軍に、島子に任命する条件として、暈との停戦を提示します。トメ将軍はウツヒオ王に、暈軍は強大なので、穂波・伊都(イト)・末盧(マツラ)と同盟を結んで互角になる、と進言します。しかし、その三国が同盟に同意するとは思えない、と答えます。そこでトメ将軍は、山社の王を名乗る日見子(ヤノハ)と手を組むよう、ウツヒオに提案します。ヤノハが生き残れそうなのか、ウツヒオ王に尋ねられたトメ将軍は、無類の兵法家なので日向(ヒムカ)は時間の問題と答えます。するとウツヒオ王、山社がまずもう一つの聖地である千穂に攻め入った理由を理解します。トメ将軍は、首尾よく「鬼」を退治すれば都萬も軍の派遣を躊躇するはずだ、とヤノハの選択に感心します。あとはその日見子(ヤノハ)が聖地の千穂に君臨するに値する血筋かどうかだ、とウツヒオ王は言いますが、ヤノハを実際に見ているトメ将軍は、ヤノハが高貴な血筋とはとても思えなかったのか、苦笑します。日見子が下賤の身ならば都萬は黙っていないぞ、とウツヒオ王は言います。

 千穂に到着したヤノハたちは、まず天照大御神の住まいらしき建物に礼拝した後、「鬼」とされてきた千穂の民の棲家である洞窟に到達します。千穂の女性たちが自分たちを警戒していることに気づいたミマアキは、我々はお前たちの王を捕えていると説明し、ヤノハを新たな日見子と紹介します。そり言葉を聞いて平伏する女性たちに、五瀬邑より人柱として連れ去られたのではないか、とヤノハは尋ねます。すると、一人の女性が、自分は妃のウノメで、捕虜となっている王は真の名を15代目ハシリタケルという、と答えます。鬼八荒神について問われたウノメは、話すので夫を返してもらいたいと要求し、ヤノハはハシリタケルを解放します。ハシリタケルは仮面を外し、精悍な顔が現れます。ウノメによると、はるか南方の海を彷徨っていた千穂の一族は16代前に筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に流れ着き、安住の地として千穂を選び、アララギの里と名づけたそうです。15代目(とウノメは言っていますが、15代前ということでしょうか?)の時、鬼八荒神よりも前にこの地を治めていたミケイリ王が帰還し、戦いは8年続いて鬼八荒神の一族は8人だけ残る敗北を喫しました。すると、ミケイリ王は降伏した8人をもてなし、サヌ王(記紀の神武と思われます)の帰還までこの地を侵す者すべてを根絶やしにするなら、命を奪わず居住を認める、と提案しました。鬼八荒神の一族のこれまでの蛮行はそのためだった、というわけです。サヌ王(四男)はミケイリ王(三男)の弟です。ハシリタケルは妻のウノメに耳打ちし、サヌ王の他に鬼八荒神の一族が服従してよいのは日向に残ったサヌ王の末裔のみ、とミケイリ王に命じられたが、日見子(ヤノハ)はその血筋なのか、と直接尋ねさせます。するとヤノハが、今まで隠していたが、自分こそはその昔日向に残ったサヌ王の末裔だと答えるところで、今回は終了です。


 今回は、那国の情勢と鬼八荒神の秘密が描かれました。那国では、ウツヒオ王が島子のウラを追討しましたが、ウラは島子としての地位をトメ将軍に奪われるのではないか、との疑念から那国にとって不利益となってもトメ将軍を敵視する、といった様子が見られましたから、ウツヒオ王の判断は妥当なところだと思います。ウツヒオ王は暗愚ではなかったわけで、それをトメ将軍も理解しているからこそ、ウツヒオ王と単独で面会したのでしょう。これまで、九州の各国の王が一通り登場しましたが、いずれも暗愚な王ではなさそうです。まあ、すでに鞠智彦(ククチヒコ)に殺された暈のタケル王は幼稚な人物でしたが、これも分不相応な日見彦(ヒミヒコ)の地位に祭り上げられて勘違いしてしまった、とも言えるわけで、鞠智彦が言っていたように、元々は賢い人だったのでしょう。当時はまだ、王となるには血筋だけではなく器量も重要だったのでしょう。ヤノハが山社建国に成功したら、九州の諸国がどう動くのか、楽しみです。『三国志』から予想すると、おそらく最終的には暈国以外は山社に従うのでしょう。

 鬼八荒神については、かなり謎が明かされました。鬼八荒神の一族は、琉球諸島もしくは台湾から九州に漂着したのでしょう。鬼八荒神一族の蛮行の理由も明かされました。鬼八荒神が従うのは日向に残ったサヌ王の末裔のみという条件も提示され、これはすでに示唆されていたので納得がいきますが、とてもサヌ王の末裔とは言えないヤノハがどのように鬼八荒神を納得させるのか、注目です。ヤノハは日向出身ではありますが、さすがにサヌ王の末裔ではなさそうです。鬼八荒神は、サヌ王の末裔か否か判断する何らかの手段を有しているでしょうから、相変わらずヤノハの危機は続いている、と言えるでしょう。ヤノハは日向の出身ながらサヌ王についてまったく知らなかったようですから、あるいは私が想像している以上の危機かもしれませんが、サヌ王に関する知識はすでにある程度得ているので、そこから大胆にこの危機を乗り越えるのでしょうか。『三国志』によると卑弥呼(日見子)は鬼道により人々を掌握した、とありますから、鬼八荒神を配下とすることは、本作でもかなり重要になるのではないか、と思います。創作歴史ものとしてここまではかなり面白くなっており、次回もたいへん楽しみです。

産業革命以前のメタンから示される人為起源のメタン排出

 産業革命以前のメタン排出に関する研究(Hmiel et al., 2020)が公表されました。大気中のメタン(CH4)は強力な温室効果ガスで、そのモル分率は産業革命以前の時代の2倍以上になっています。化石燃料の抽出と使用は、最大の人為的メタン排出源の一つですが、こうした寄与の正確な規模は議論になっています。炭素14のメタンを使って、化石メタン(炭素14を含まないメタン)の排出と同時期の生物起源の放出源とを区別できます。しかし、20世紀半ば以降、原子炉からの炭素14メタンの直接排出が充分に絞り込まれていないため、この方法は難しくなっています。

 さらに、人為的な排出源と天然の地質学的放出源(水溜りや泥火山など)の間での化石メタンの総排出量の分配については、議論が続いています。現在、年間172〜195Tg(テラグラム)です。排出インベントリーは、後者が総排出量の中で年間約40〜60Tgを占めている、と示唆します。約11600年前の更新世末期には、地質学的な放出は年間15.4Tg未満でしたが、この時期は陸域を大きな氷床が覆っており、海水準が低く、永久凍土が広範囲に及んでいたため、現在の放出と完全には類似していません。

 本論文は、産業革命以前の氷床コアの炭素14メタンの測定結果を用いて、当時の大気への自然な地質学的メタン放出量は年間約1.6 Tg 、最大で年間5.4 Tgと、現在の推定より1桁少なかった、と示します。この結果は、人為起源の化石メタン排出量が、年間約38~58 Tg、つまり最近の推定の25〜40%ほど過小評価されていることを示しています。この記録は、大気と気候に及ぼす人間の影響を浮き彫りにしており、全球のメタン収支のインベントリーの確固たる目標を与え、排出量削減目標の策定に役立ちます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:産業革命以前の14CH4が示す、より大きな人為起源の化石CH4排出

気候科学:大気中のメタンに残されたヒトの痕跡

 メタンは強力な温室効果ガスであり、メタンの排出は地球温暖化全体の重要な要素である。しかし、メタン排出源の解明にはまだ問題が残っている。今回B Hmielたちは、氷床コアから得られた同位体の証拠を用いて、産業革命以前の天然のメタン排出源が、これまで考えられていたよりずっと小さかったことを示している。従って、人間が生み出すメタンの排出量は、これまで示唆されていたよりずっと多い。



参考文献:
Hmiel B. et al.(2020): Preindustrial 14CH4 indicates greater anthropogenic fossil CH4 emissions. Nature, 578, 7795, 409–412.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1991-8

過去5万年間の鳥の渡り

 過去5万年間の鳥の渡りに関する研究(Somveille et al., 2020)が公表されました。多くの鳥類種は、気候の季節変動に応答して渡りをします。渡り行動は柔軟に変化し、たとえば、現在進行中の気候変動に対処するために渡りの経路を変えてしまった鳥類種もいます。これに対して、氷期は季節性がそれほどはっきりしないため、鳥類の渡りの重要性が現代と比べてはるかに低かった、と主張する仮説が提起されていました。

 この研究は、鳥類の渡りが過去5万年間続いていた可能性の高いことを明らかにしました。この研究で用いられたのは、エネルギー効率(資源の利用可能性と移動のエネルギーコストとの関係)に基づいて全世界の鳥類の季節的地理分布をシミュレートするモデルで、その妥当性の検証が、海洋鳥類以外の現生鳥類のほぼ全て9783種の既知の分布を用いて行なわれました。そのうえで、このモデルを過去の気候の再構築に適用してシミュレーションを行なったところ、2万年前頃になる最終氷期最盛期と現在の間氷期の間に大きな気候変化があったにも関わらず、全世界で鳥類の渡りが重要な役割を果たし続けた、と明らかになりました。

 一方、アメリカ大陸では最終氷期最盛期に渡りを行なった鳥類種の数は現在よりも少なかった、と明らかになっており、地域差もありました。しかし、世界全体では、鳥の渡りは最終氷期においても現在と同じくらい重要だった可能性がひじょうに高く、じゅうらいの見解よりも古くから起こっていた、とこの研究は指摘します。このシミュレーションは、鳥類の渡りが今後の気候変動にどのように応答するのかを予測するさいに一つの基準になる、と結論づけられています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:過去5万年間の鳥の渡りを再現するためのモデルを作成する

 過去5万年に及ぶ世界の鳥類の渡りパターンを再現する全球モデルが作成され、世界中の鳥の渡りは、最終氷期においても今と同じくらい重要だった可能性が非常に高いことが分かった。この新知見は、鳥の渡りが、これまで考えられていたよりも古くから起こっていたことを示唆している。この研究について報告する論文が、Nature Communicationsに掲載される。

 多くの鳥類種は、気候の季節変動に応答して渡りをする。渡り行動は、柔軟に変化し、例えば、現在進行中の気候変動に対処するために渡りの経路を変えてしまった鳥類種もいる。これに対して、氷期は、季節性がそれほどはっきりしないため、鳥類の渡りの重要性が現代と比べてはるかに低かったとする学説が提起されていた。

 今回、Marius Somveilleたちの研究チームは、鳥類の渡りが過去5万年間続いていた可能性の高いことを明らかにした。今回の研究で用いられたのは、エネルギー効率(資源の利用可能性と移動のエネルギーコストとの関係)に基づいて全世界の鳥類の季節的地理分布をシミュレートするモデルで、その妥当性の検証が、海洋鳥類以外の現生鳥類のほぼ全て(9783種)の既知の分布を用いて行われた。そのうえで、このモデルを過去の気候の再構築に適用してシミュレーションを行ったところ、最終氷期最盛期(約2万年前)と現在の間氷期の間に大きな気候変化があったにもかかわらず、全世界で鳥類の渡りが重要な役割を果たし続けたことが明らかになった。一方、注目すべき地域差も判明しており、例えば、北米・中南米では、最終氷期最盛期に渡りを行った鳥類種の数が、現在よりも少なかった。

 今回のシミュレーションは、鳥類の渡りが今後の気候変動にどのように応答するのかを予測する際に1つの基準となる、とSomveilleたちは結論付けている。



参考文献:
Somveille M. et al.(2020): Simulation-based reconstruction of global bird migration over the past 50,000 years. Nature Communications, 11, 801.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14589-2

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、中国を中心としたアジア東部における現生人類(Homo sapiens)の起源、つまり現生人類がいつアジア東部に到来したのか、という問題を取り上げています。これに関しては、現生人類の拡散は1回だけで、6万年前頃にアフリカから拡散し始め、アジアやオーストラリアへ一気に拡散した、という見解と、主要な拡散は2回あり、最初は10万年前頃、2回目は6万年前頃だった、という見解が提示されています。

 本論文はまず、アジア東部の環境を取り上げます。中国の自然環境は南北に二分されます。北部は旧北区の亜乾燥地域で、南部は降水量が多く、典型的な亜熱帯・熱帯の植生が広がっています。もちろん、これは現代の気候ですが、中国は過去250万年の古気候記録も豊富で、人類拡散の研究に役立っています。本論文では、現生人類のアジア東部への拡散と関わってくる、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5および4の植生復元図が掲載されており、温暖なMIS5では現在とさほど変わらない地形ですが、寒冷なMIS4(MISは奇数が温暖期、偶数が寒冷期)では、砂漠が拡大するとともに、海水面の低下により陸地が増大し、現在とは大きく異なる地形であることが改めて了解されます。温暖で湿潤な時期には中国北部では砂漠が縮小し、西方や北方からの移住が容易となった一方で、中国南部では密集した森林の発達により移住はやや困難となります。逆に寒冷期には、南部への移住は容易になるものの、北部では北方や西方からの移住は拡大した砂漠により困難となります。中国への南方からの移住は、難易度の違いはあれどもどの時期にも可能だったのに対して、北方への移住は温暖な時期にのみ可能だったことになります。こうした人類の移住パターンは過去50万年以上にわたって繰り返されていただろう、と本論文は指摘します。

 黄土高原の気候復元データからは、過去50万年に温暖湿潤な時期は4回あった、と明らかになっています。この時期の中国北部の人類遺骸としては、MIS7における遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡の頭蓋骨があります。年代は、大茘人の方がやや新しい20万年前頃と推定されています。本論文は両者をハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類していますが、ハイデルベルゲンシスという分類群には大きな問題があると思うので(関連記事)、とりあえず非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と考えておきます。

 本論文は、中国北部で確認されているホモ・エレクトス(Homo erectus)は金牛山遺跡や大茘遺跡の古代型ホモ属の祖先ではない、という見解を採用しています。中国北部の河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸(関連記事)については、33万年前頃、20万~16万年前頃、16万年前頃よりもずっと新しいなど、年代が確定していませんが、分類も難しい、と本論文は指摘します。エレクトスでもハイデルベルク人でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑系統かもしれない、と本論文は推測しています。河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、MIS 5となる125000~105000年前頃の頭蓋骨(関連記事)について本論文は、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人的特徴とが混在していることから、交雑の可能性を指摘しています。このように、現生人類が中国に拡散してきた時、すでに異なる系統のホモ属が存在しており、交雑が起きた可能性も考えられます。

 早期現生人類の証拠としてアジア南東部で挙げられているのは、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタンパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(関連記事)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)遺跡、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)です。このうち、現生人類の痕跡として最古となりそうなのは、73000~63000年前頃の現生人類の歯が発見されているリダアジャー遺跡ですが、疑問も呈されています(関連記事)。タンパリンの現生人類遺骸の推定年代は63000~44000年前頃です。ニア洞窟では45000年前頃の現生人類頭蓋骨が発見されており、熱帯雨林における適応の最古級の事例という点で注目されます。なお、ニア洞窟では10万年以上前の人類の痕跡も報告されています(関連記事)。

 中国南部では、広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前とされる現生人類の下顎骨と歯が発見されています(関連記事)。これは在地の人類集団と外来の現生人類との交雑集団である可能性も指摘されています。また本論文は、これが単に新しいホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性も提示しています。さらに、この智人洞窟の人類遺骸については、年代に疑問が呈されています。年代は洞窟の床面の一部に堆積したフローストーン(流華石)に基づいていますが、数cmの幅に密集して堆積した流華石の最上部が55000年前頃、最下部が10万年前頃と推定されており、どの部分が下顎骨と関連しているのか決定するのは不可能だろう、というわけです。湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)では、10万~8万年前頃の現生人類の歯が48本発見されています(関連記事)。福岩洞窟では床面全体が8万年前頃の流華石に覆われており、中国南部には8万年前頃に現生人類が到来していたことになります。しかし本論文は、現生人類の歯が出土した層の形成過程について、さらに詳細に調査されるべきである、と慎重な姿勢を示します。

 このように、中国南部には10万~8万年前頃に現生人類が到来していた可能性もあるものの、その年代についてはまだ議論の余地があるようです。雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡では、14310±340~13590±160年前のホモ属遺骸が発見されています(関連記事)。馬鹿洞人には祖先的特徴も見られ、未知のホモ属系統である可能性も指摘されていますが、山間盆地の点在する環境なので、非現生人類種とは言えないまでも孤立した集団ではないか、と本論文は指摘しています。モンゴル国東部に位置するヘンティー(Khentii)県ノロヴリン(Norovlin)郡のサルキット渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の頭蓋に関しては、祖先的特徴が指摘されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では現生人類の変異内に収まる、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、形態から種を決定するのは難しくなってきており、また現生人類とネアンデルタール人との交雑集団をどう区分すべきなのか、といった問題が生じてきている、と指摘します。

 中国北部は、現生人類の到来を検証するうえで重要となる8万~3万年前頃には、砂漠と草原との間の変化が何回も起きていたように、ひじょうに不安定な気候だった、と明らかになっています。中国北部では、さらに北方からの人類移住の証拠も見られ、防寒性の高い服がすでに使用されていたことを示唆します。チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では4万~3万年前頃の現生人類のものと思われる石器群が発見されており(関連記事)、これも当時の人類の寒冷適応を示しています。内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000~37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、本論文はその製作者を、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑集団と推測しています。

 中国北部において確実な現生人類の痕跡として最古のものは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類の下顎と足の骨で、石器の共伴はありませんが、形態学でも遺伝学でも現生人類に分類されています(関連記事)。田园洞窟の現生人類男性は日常的に履物を使用していた、と推測されています(関連記事)。北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)遺跡では現生人類の頭蓋骨と、ヨーロッパの上部旧石器時代初頭のものとよく似たビーズが発見されており、年代は36000年前頃と推定されています。

 寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡では、4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群が発見されており、少なくとも2種類の石刃剥離工程を示すものも含まれ、モンゴルやシベリアの同時代石器群と対比されていますが、中国南部の石器群とは大きく異なります。水洞溝2遺跡では、36000~28000年前頃にかけて断続的にヒトが居住した、と推測されています。水洞溝2遺跡の石器群や装身具はシベリアで発見されたものとよく似ています。中国北部の早期現生人類と関連していると推測される考古学的記録はモンゴルやシベリアのそれとの共通性が高く、中国南部と異なっていますが、これは上述の自然環境の違いを反映しているようです。25000年前頃以降には、中国北部に細石刃石器群が出現し、シベリアやモンゴルや朝鮮半島や日本列島北部でも発見されていることから、北方からの移住は繰り返されていた、と示唆されます。中国北部への現生人類の拡散は、水洞溝1遺跡のような大型石刃石器群を有する集団、次に水洞溝2遺跡のような小型石刃石器群を有する集団、その次に細石刃石刃石器群を有する集団の3回ほどあっただろう、と推測しています。

 本論文は、以上のように中国における人類史は複雑で、それは広大な面積と多様な自然環境に起因する、と指摘します。中国には、現生人類の到来前に他の人類がすでに存在していました。本論文は、上述の金斯太洞窟遺跡の事例から、現生人類が中国北部の環境に適応できた一因として、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人とデニソワ人の交雑集団から技術を学んだ可能性すら考慮すべきである、と指摘します。中国を含めてアジア東部への現生人類の拡散は、以前の想定よりもずっと複雑だったようで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Dennell R. 、西秋良宏翻訳(2020)「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第3章P95-126

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文はまず、現生人類がアフリカからアジアへ拡散前に存在したアジアの先住人類を取り上げています。その代表格というか最もよく知られているのはネアンデルタール人で、東方ではアルタイ地域まで拡散したことが確認されています。これは北方でのことで、南方では、現在のパキスタンとインドあたりまでネアンデルタール人の用いたムステリアン(Mousterian)石器が確認されています。ただ、パキスタンとインドでは明確なネアンデルタール人遺骸は確認されていません。また本論文は、ムステリアン石器が中華人民共和国内モンゴル自治区で発見されていることから(関連記事)、ユーラシア北方ではアジア東部までネアンデルタール人が拡散した可能性も指摘しています。

 本論文は、ヨーロッパで進化したネアンデルタール人がアジアにまで拡散した一因として、7万~5万年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)4の寒冷乾燥化を挙げています。ただ、本論文が指摘するように、アルタイ地域ではMIS4よりも前のネアンデルタール人の存在が確認されています。そこで本論文は、ネアンデルタール人の東方への拡散は少なくとも2回あった、と指摘します。本論文はその考古学的証拠として、MIS5にさかのぼるネアンデルタール人の存在が確認されているアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)の石器群と、近隣のチャグルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟やオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟の石器群とが異なることを挙げています。どちらもルヴァロワ技術を用いていたものの、チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟では表裏非対称な両面加工の削器が頻用されていたのに対して、デニソワ洞窟ではそれが見られません。両面加工削器は、ヨーロッパでは中部旧石器時代後半のヨーロッパ中部および東部で流行したカイルメッサーグループ(Keilmessergruppen)に固有です。チャグルスカヤ洞窟やオクラドニコフ洞窟のネアンデルタール人は、ヨーロッパ中部および東部のカイルメッサーグループ集団がアルタイ地域にまで拡散してきたのに対して、デニソワ洞窟のネアンデルタール人はカイルメッサーグループが流行する前のヨーロッパ、もしくは流行していなかったヨーロッパから到来したのだろう、というわけです。ヨーロッパからアルタイ地域への移動で障壁になりそうなのはウラル川ですが、ウラル川が縮小した乾燥期にネアンデルタール人は渡河したのだろう、と本論文は推測します。本論文のこうした見解は、今年(2020年)公表された研究でも支持されており、ユーラシア草原地帯をネアンデルタール人は東進したのだろう、と推測されています(関連記事)。

 アジアの非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)としてはネアンデルタール人が有名ですが、2010年に初めて存在の確認された古代型ホモ属が、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)です。デニソワ人はまずデニソワ洞窟でその存在が確認され、ネアンデルタール人と近縁な系統で、現生人類やネアンデルタール人との交雑が確認されています(関連記事)。アジア東部には種区分の曖昧な中期~後期更新世のホモ属遺骸が少なからずあるので、それらの中にデニソワ人に分類できるものがある可能性は低くなさそうです。

 現生人類がアフリカからアジアへと拡散していった時期には、ホモ・エレクトス(Homo erectus)がまだ存在していた可能性もあります。アジア南部の十数万年前頃のホモ属遺骸の分類に関してはまだ議論が続いていますが、エレクトスも用いた握斧がアジア南部では13万年前頃まで使われており、中部旧石器の出現がその頃以降なので、現代人の主要な祖先集団ではないとしても、最初期の現生人類がアジア南部でエレクトスと遭遇した可能性も考えられます。

 アジア南東部では、エレクトス系統と考えられる(異論は根強いというか、むしろやや優勢かもしれませんが)人類が後期更新世まで存続していました。フローレス島においては5万年前頃までホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が存続し、ルソン島では67000~50000年以上前と推定されているホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)が存在していました(関連記事)。これらのホモ属は、現生人類と遭遇した可能性があります。フロレシエンシスの場合は、アジア南東部やオセアニアの現代人の主要な祖先集団が拡散してきた頃まで存在が確認されているので、あるいは現生人類との遭遇が絶滅の主因だった可能性もじゅうぶん考えられます。本論文は、アジア南部および南東部はアジア西部やヨーロッパや日本列島と比較して考古学の調査密度が格段に低いことから、今後も驚異的な発見がなされる可能性は高い、と指摘します。

 人類遺骸・考古学・遺伝学の証拠から、6万~5万年前頃以降に現生人類がアジア各地に本格的に拡散していったことはほぼ確実とされています。一方、その前の20万年前頃にも現生人類はアジア西部まで拡散していました。本論文は、6万年前頃よりも前の現生人類のアフリカからの拡散を第一次出アフリカ、それ以後の拡散を第二次出アフリカと呼んでいます。第一次出アフリカで現生人類は現在のギリシアまで拡散していたようですが(関連記事)、それよりも西方のヨーロッパ地域にまで拡散していた証拠はまだありません。東方への拡散に関しては、ヒマラヤ山脈の北方を通りアジア中央部から北東部へと拡散する経路と、南方を通りアジア南部から南東部へと拡散する経路が考えられます。

 北方経路に関しては、第一次出アフリカの確実な証拠はまだありません。近年、これに関して注目されているのは、ウズベキスタンのオビラハマート(Obi-Rakhmat)洞窟の人類遺骸です。じゅうらい、その年代は中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期となる5万年前頃と推定されていましたが、2018年に11万~10万年前頃と報告されています。以前から、オビラハマート洞窟の少年の歯はネアンデルタール人的である一方で、頭蓋断片はネアンデルタール人的特徴と現生人類的特徴とが混在している、と指摘されていました(関連記事)。本論文は、この少年遺骸と共伴する石器群が、アジア西部で最古となる19万~18万年前頃の現生人類的遺骸が発見されているミスリヤ洞窟(Misliya Cave)の石器群(関連記事)と類似していることに注目しています。

 類似した石器群は、ウズベキスタンのホジョケント(Khodjakent)遺跡でも発見されています。中部旧石器時代前期となるこれらの石器群は、イスラエルのタブン(Tabun)洞窟の層位的証拠に基づいてタブンD型と呼ばれています。タブンD型石器群はアジア西部および中央部だけではなく、ジョージア(グルジア)のデジュルジュラ(Djruchula)洞窟でも発見されており、年代は20万年以上前と推定されています。デジュルジュラ洞窟ではホモ属の歯が1点発見されており、ネアンデルタール人と推定されています。アジア西部のタブンD型石器群は25万~10万年前頃と推定されています。本論文は、オビラハマート洞窟とデジュルジュラ洞窟のホモ属遺骸がともにネアンデルタール人だとすると、アジア西部の現生人類とは独立して類似したタブンD型技術を発展させたか、アジア西部の初期現生人類集団と交雑も含めた交流があったかもしれない、と指摘します。さらに東方となると、中国北東部ではタブンD型もその後のルヴァロワ技術で幅広剥片を多産するタブンC型も発見されていません。そのため本論文は、第一次出アフリカの北方経路に関しては、仮にあったとしても、アジア東部にまでは到達しなかっただろう、と指摘します。

 南方経路に関しては、アフリカの初期現生人類の石器と類似した石器がアラビア半島やアジア南部で発見されていることと、アジア南東部やオセアニアで5万年前以前の現生人類の痕跡が報告されていることから、以前より可能性が高いと主張されていました。12万~10万年前頃と推定されているアラビア半島南部のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層では、アフリカ東部の初期現生人類に好まれていた両面加工石器(下部旧石器時代の握斧とは異なり、細長い形態も含まれます)が発見されました。同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘するアラビア半島南部の石器群も報告されています。本論文は、この両面加工石器の存在から、現在のイラン南部やパキスタンあたりまで初期現生人類が拡散していた可能性を指摘します。また、パキスタンのタール渓谷では、ヌビア型石核剥離技術の石器が報告されています。

 インド東部中央のジュワラプラム(Jwalapuram)遺跡では、タブンC型に類似したルヴァロワ技術が確認されており、これもアジア南部への現生人類拡散の根拠とされています。昨年(2019年)、インドのサンダヴ(Sandhav)遺跡の11万年前頃のルヴァロワ石器群が報告されており(関連記事)、南方経路での第一次出アフリカのさらなる証拠と言えるかもしれません。ただ本論文は、アジア南部のこれら中部旧石器時代の石器群について、どれも確実とは言えない、と指摘します。アジア南部の両面加工石器群はどれも表面採集で年代が確定的ではなく、ジュワラプラム遺跡の74000年前頃よりも古い層では、両面加工石器やヌビア型石器は発見されていない、というわけです。南方経路に関しては、アジア南部で確定的な証拠が発見されていなくとも、さらに東方のアジア南東部やオセアニアで発見されていれば確証される、とも言えそうです。これに関しては、オーストラリアやスマトラ島などで6万年以上前の現生人類の痕跡が主張されていますが、それらの年代には疑問も呈されています(関連記事)。

 第二次出アフリカの証拠は一気に増え、考古学的な時代区分では上部旧石器時代初頭となります。その特徴は、中部旧石器時代のルヴァロワ方式の伝統を残しながら石刃を生産する石核剥離技術です。そうした石器群がアルタイ地域のカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されており、年代は47000~45000年前頃と推定されています。当初、この石器群は在地における中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行と解釈されていましたが、現在では、西方からの集団の拡散とする見解の方が有力なようです。類似した石器群はモンゴルのトルボル(Tolbor)遺跡で発見されており、年代は45000年前頃と推定されています。類似した石器群は、東方では中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝遺跡まで広がっており、年代は4万年以上前と推定されています。上部旧石器時代初頭の石器群は50000~47000年前頃にレヴァントで出現したと推測されており、数千年で中国西部まで拡散したことになります。ただ、レヴァントとアルタイ地域の間のイラン北部やアジア中央部西方では、まだ発見されていません。チェコでは類似した石器群が発見されているので、ユーラシア北方草原地帯経由だったかもしれません。

 以上は北方経路でしたが、南方経路では、イラン南部での最古の上部旧石器こそ4万年前頃までしかさかのぼりませんが、そのずっと東方のアジア南東部やオセアニアでは、同じ頃かややさかのぼる頃の現生人類の痕跡が確認されています。たとえば、オーストラリアのウィランドラ湖群(Willandra Lakes)地域のマンゴー湖(Lake Mungo)やボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)では4万年前頃の現生人類遺骸が発見されています。現生人類がどのようにアフリカやアジア西部からユーラシア南東部やオセアニアにまで到達したのかという問題で、本論文はインドのパトネ地方の遺跡群で発見されている半月形の幾何学石器群に注目しています。類似した6万数千~5万年前頃の石器群が、タンザニアのムンバ(Mumba)岩陰遺跡や南アフリカ共和国のクラシーズ(Klasies)河口遺跡群などで発見されていることから、アフリカからアジア南部への直接的な拡散の可能性も指摘されています。また、ダチョウの卵殻で造られたビーズや線刻製品なども、アフリカとインドで発見されています。ただ本論文はこの仮説の難点として、両地域の中間地帯となるアラビア半島南部で類似した石器群が発見されていないことを挙げています。アラビア半島南部のジェベルフアヤ遺跡では、上述のように12万~10万年前頃の石器群が発見されていますが、4万年前頃の層では、幾何学石器とは大きく異なる剥片主体の石器群が発見されています。アフリカとインドの幾何学石器については、現在では水没した地域に痕跡が残っている、との見解もありますが、収束進化との見解の方が有力なようです。

 考古学と人類化石の証拠からは、アフリカからアジアへの拡散は20万年前頃よりしばしばあったものの、最も成功したのは6万~5万年前頃以降の拡散と考えられ、それはゲノム分析とも整合的です。その理由として、現生人類の認知能力が変異により飛躍的に進化史、象徴能力や短期記憶や学習能力が格段に高度になったから、との見解が提示されています。これは主に、現生人類と古代型ホモ属との考古学的記録の比較に基づいています。両者の間で最も目立つのは社会活動に関する遺構や遺物で、アジア西部に当てはまるとされていますが、北回り・南回りを問わず、他のアジア地域でも同様です。たとえば、集団内もしくは集団間の絆を示すような装身具や、洞窟壁画や、遠隔地素材を用いた道具などです。一方、ネアンデルタール人が装飾品を用いた事例もありますが、限定的です。ただ本論文は、こうした行動に関する証拠は、生得的な認知能力だけではなく、生まれ育った社会の歴史や文化、また選好や自然環境などにより変わることから、認知能力の飛躍的な進化を考古学的証拠のみで検証することに慎重です。

 本論文はこの問題との関連で、現生人類の拡散において、北回りではアジア西部、中でもレヴァントの石器製作技術が中国北部にまで及んでいた一方で、南回りではそうした明瞭な広域的類似が考古学的記録に見られない、と指摘します。これは研究進展度の違いに起因しているかもしれないものの、北と南の生態環境の違いを反映しているのではないか、と本論文は指摘します。生態環境によりヒトの生存戦略は違ってくるだろう、というわけです。北回りでも南回りでも温帯が中心ですが、北回りは寒帯と亜寒帯、南回りは熱帯と亜熱帯にも広がっています。

 北回りで現生人類遺跡の密集域は天山・ヒマラヤ山脈とその北縁の草原地帯と山麓地帯で、「シルクロード」ともほぼ重なり、更新世においても移動しやすい経路だったと考えられます。東西方向の移動は、類似した自然環境である場合が多く、一般的に南北方向の移動よりも容易です。北回りの現生人類集団の技術的特徴は石刃製作で、これは細長く規格的なので携帯性が優れていたからではないか、と本論文は推測しています。北回りでは資源密度が低く、単位集団あたりの領域は広かったと考えられるので、長距離移動を強いられる条件下では、携帯性に優れた道具が有利だった、というわけです。また、石刃は原石を有効に活用できることも利点だった、と本論文は指摘します。こうした石刃は槍に利用されていたと考えられ、さらに投槍器が用いられていた可能性もあります。

 一方南回りでは、アジア南部において、第二次出アフリカの痕跡を示す石刃石器群の分布が途絶えます。さらに、第一次出アフリカの痕跡も、ネアンデルタール人の痕跡も、アジア南部で途絶えます。本論文はその理由として、生態環境の違いによる適応技術の変更を挙げています。南回りでは、東西方向の移動とはいえ、モンスーン地域への適応を必要としました。アジア西部が地中海からの湿気による冬雨地域であるのに対して、アジア南部以東は日本列島と同じく大洋性の夏雨地帯で、夏は高温多湿で森林も発達しています。狩猟対象となるのも、ガゼルやロバなど草原性の動物から、スイギュウやサルや昆虫など大小さまざまな森林性動物へと変わります。また南回りでは、海洋や島嶼環境への適応も求められました。南回りでは、多様な技術を反映して、北回りよりもずっと現生人類拡散の考古学的証拠を見つけにくくなっています。また、アジア南東部以東で目立つのは特徴をとらえにくい剥片製の不定形石器で、中国南部では鋸歯縁をつけた不定形石化が目立つとされますが、中部旧石器時代の石器群と明瞭な違いを示すわけではないため、現生人類到達の指標とはしにくい、と本論文は指摘します。アジアのモンスーン地帯での現生人類の適応に関しては、民族誌から有機質の材料、とくに竹が石器の代替品とされていた可能性が指摘されています。ただ本論文は、竹を利用できたから現生人類がアジアのモンスーン地帯で成功した、というような見解には慎重で、古代型ホモ属も竹を利用できたはずと指摘します。また本論文は、南回りでの特徴として、島々へ渡海する技術や貝製釣り針を活用した釣魚技術などの開発を挙げています。現生人類の第二次出アフリカにおいて、南回りは斉一的な技術展開の北回りとは異なり、地域によりきわめて多様な適応が進みました。

 こうした石器技術の地理的差異は、すでに現生人類出現前の下部旧石器時代(サハラ砂漠以南のアフリカでは前期石器時代)に見られました。両面加工石器である握斧(ハンドアックス)は、アフリカやヨーロッパでは多数発見されていますが、アジア南東部以東ではめったに見られません。アジア南東部以東では、握斧以前の石器技術が長く用いられ続けました。この違いについては、開けた草原地帯と植生豊かな森林地帯とでは、社会の在り様、さらには文化の創造と伝達過程が異なったのではないか、との見解も提示されています。西方の草原地帯では、資源がオアシスなど特定地域に偏在する傾向にあり、ライオンなどからの捕食圧もあるので、比較的大きな集団での生活が有利だったのに対して、アジア南東部などの温暖森林では、どこでも一定の資源が得られ、捕食圧も低いため、集団が分散して少人数での生活が可能だった、というわけです。さらに、集団規模が大きいと社会学習が有効に機能するため複雑な技術も継承されやすく、確固たる石器製作技術伝統が発展する一方で、単位社会あたりの人口が少ないと、伝統を維持するよりは個体学習により地域的な文化を生み出す可能性が高くなる、との見解も提示されています。これは現生人類拡散前の地域的な石器技術の違いに関する説明ですが、現生人類についても示唆を与えるものと本論文は評価しています。


参考文献:
西秋良宏(2020A)「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第2章P53-94

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、現生人類(Homo sapiens)がアフリカからアジア西部へと拡散した頃の考古記録を取り上げています。アジア西部は、アフリカ起源の現生人類がアフリカ外へと最初に拡散した地域で、現生人類とは異なる系統のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺骸も発見されているため、遺伝的・文化的な両者の相互作用という観点からも大いに注目されています。

 アジア西部で最古となる現生人類候補の化石はレヴァントで発見されており、年代は19万~18万年前頃ですが(関連記事)、現時点で発見されているネアンデルタール人遺骸はこれよりも後となります。ネアンデルタール人遺骸はレヴァントで7万~5万年前頃にも確認されており、現生人類が一度拡散した地域に後からネアンデルタール人が再度拡散してきた事例は、現時点で化石記録ではアジア西部、とくにレヴァントだけです。本論文は、アジア西部にネアンデルタール人が拡散してきた時、現生人類がレヴァントにいなかった(アフリカへ撤退もしくは絶滅)可能性と、共存していた可能性を提示しています。レヴァントではイスラエルのマノット洞窟(Manot Cave)55000年前頃の現生人類遺骸が発見されており(関連記事)、この頃にネアンデルタール人と現生人類が交雑したと推測されているだけに、注目されます。5万年前頃以降になると、アジア西部で明確なネアンデルタール人遺骸は発見されておらず、現生人類遺骸のみが確認されていることから、アジア西部のネアンデルタール人は絶滅し、現生人類のみが人口を増加させ、アジア西部に定着した、と考えられます。

 現生人類のアフリカからアジア西部への拡散については、気候変動との関連が指摘されています。13万~7万年前頃となる洋酸素同位体ステージ(MIS)5には何度か、アフリカ北部からアラビア半島にかけての広大な砂漠地帯も「緑化」したと明らかになっており、サハラ砂漠以南のアフリカと類似した気候になったことから、現生人類がアフリカから拡散したのではないか、と考えられます。類似した環境では行動や技術が大きく変わる必要なく、じっさい、この時期のアラビア半島のジェベルフアヤ(Jebel Faya)遺跡C層やドファール地域の石器は、同時代のアフリカ東部から北東部の石器と形態や製作技術が似ている、と指摘されています(関連記事)。具体的には、両面加工の木葉形の石器やヌビア型ルヴァロワ(Levallois)方式と分類される剥片石器です。

 一方レヴァントではタブン(Tabun)C型というレヴァント独自の石器技術が見られるものの、同時代のアフリカ北東部で流行していたヌビア型との類似性を指摘する見解もあります。当時のレヴァントは、湿潤化したアラビア半島とは気候変動パターンが異なり比較的乾燥しており、石器技術はその違いを反映しているかもしれない、と本論文は指摘します。本論文は、アラビア半島からレヴァントにかけて拡散した初期現生人類集団は、ずっと安定した好適環境にいたわけではなく、しばしば生じた気候変動に応じて再移動したり技術を変えたりする必要があり、また集団構造による文化伝達の相違も技術変化の要因だったかもしれない、と指摘します。

 このように中部旧石器時代前期~中期にかけて現生人類がアジア西部へと初めて拡散しますが、中部旧石器時代後期にはネアンデルタール人が増加し、現生人類は減少したと考えられています。ネアンデルタール人はヨーロッパで進化史、アジア西部へと南下してきたようです。MIS4に地球規模の寒冷化があり、アフリカやアジア西部よりも高緯度のヨーロッパではその影響が強かったでしょうから、ネアンデルタール人は南下してきたのではないか、というわけです。そのため、アジア西部における現生人類の分布は縮小したと考えられるものの、アフリカではネアンデルタール人遺骸は発見されていないので、ネアンデルタール人の南下はアジア西部のどこかで止まったはずです。本論文は、当時アラビア半島からアフリカ北部にかけては寒冷化の影響で乾燥帯が広がっていた一方で、レヴァントは死海堆積物の分析から比較的湿潤だったと明らかになっているので、乾燥帯がネアンデルタール人の南下の障壁になった、と推測しています。一方、アジア西部における現生人類の分布が縮小したのは、気候変動とネアンデルタール人の侵入の両方が関わっており、現生人類はナイル川流域やアラビア半島南西部やレヴァントといった退避地にのみ分布していた可能性がある、と本論文は指摘します。当時レヴァントでは、ネアンデルタール人と現生人類が遭遇した可能性も充分あった、というわけです。

 当時、ネアンデルタール人も現生人類もルヴァロワ方式を用いて石器を製作していました。ルヴァロワ方式では大きく定形的な剥片を製作できますが、レヴァント地方のルヴァロワ方式の特徴は、三角形のポイントが多いことです。食性についても、ネアンデルタール人と現生人類の間で大きな違いはなかったようで、ともに主要な狩猟対象は、オーロクスやアカシカといった大型有蹄類の他は、ノロジカやダマジカやロバやガゼルなどの小型有蹄類でした。また、捕まえやすいカメやトカゲなどの小動物も利用され、海岸部の遺跡では貝を食べていた痕跡も確認されています。有蹄類の狩猟では、身体の大きい成獣が主要な標的とされていました。植物では、マメ類が利用されています。埋葬もレヴァントのネアンデルタール人と現生人類の両方で見られ、またともに動物の角や骨といった副葬品を伴う場合もあります。

 このように、中部旧石器時代のレヴァントにおけるネアンデルタール人と現生人類の行動様式には共通点が多く見られますが、違いの一つは貝製ビーズの利用で、現時点ではスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)という現生人類の洞窟遺跡でしか見つかっていません。これをネアンデルタール人と現生人類の象徴能力の差と考える見解もありますが、同時代のヨーロッパのネアンデルタール人が装飾品を残した事例も確認されており(関連記事)、本論文は、中部旧石器時代の現生人類とネアンデルタール人の行動様式は、違いよりも共通点の方が多かった、と推測しています。

 このように、アジア西部では10万年以上にわたってネアンデルタール人と現生人類とが共存していた可能性もありますが、最終的にはネアンデルタール人は消滅しました。レヴァントにおける最後のネアンデルタール人遺骸の年代は、現時点では5万年前頃です。上述のようにイスラエルのマノット洞窟では55000年前頃の現生人類遺骸が発見されているので、アジア西部においてネアンデルタール人が消滅した頃、現生人類が存在していたとしても不思議ではありません。ネアンデルタール人の消滅と現生人類の運命を分けた要因は、高い関心を集めています。本論文はまず、ネアンデルタール人および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統が現生人類系統と50万年以上前に分岐して以降、ネアンデルタール人とデニソワ人の系統は人口が減少し続けたと推定されている(関連記事)、という長期的な人口動向を指摘します。アジア西部でのネアンデルタール人の消滅も長期的な人口減少の結末だった、というわけです。ただ、この長期的な人口史については、異論も提示されています(関連記事)。

 また本論文は、現生人類の方も20万年前頃から5万~4万年前頃にかけて個体数が減少しており、それは非アフリカ系集団において強く認められる一方で、この時期に世界中に現生人類が拡散していったことに注目しています。そのため本論文は、当時のユーラシアでは現生人類にとってもデニソワ人やネアンデルタール人のような古代型ホモ属にとっても個体数の維持は難しく、それは、気候変動による資源環境の変化や、拡散先での新たな環境への対応や、拡散のために集団が細分化したことなどが背景にあるのではないか、と推測しています。長期的な人口減少が現生人類にも古代型ホモ属にも見られ、そのピークが5万~4万年前頃だったとすると、古代型ホモ属は「絶滅」に至り、現生人類は「ボトルネック(瓶首効果)」ですんだおかげで現代も存続している、と本論文は指摘します。

 本論文は5万~4万年前頃に現生人類と古代型ホモ属で運命が分かれた理由を、考古学的に検証しています。ネアンデルタール人が消滅した5万年前頃のアジア西部では、ハインリッヒイベント(HE)5による大規模な寒冷化が明らかになっています。これをネアンデルタール人消滅の要因とする見解もありますが、実際にどの程度生物相に影響を与えたかについては、論争が続いています。たとえば、アジア西部における最後のネアンデルタール人遺骸が発見されているイスラエル北部のアムッド洞窟(Amud Cave)では、5万年前頃になっても小動物骨の構成に大きな変化はなく、シリアのデデリエ(Dederiyeh)洞窟では、乾燥化したのではなく、逆に湿潤化したと解釈されるような証拠も見つかっています。ただ、イスラエル北部のケバラ(Kebara)洞窟では、ネアンデルタール人と関連している層で新しくなるほど、大型有蹄類の比率が減少し、小型有蹄類でも若齢個体の比率が増加しており、頭蓋比率の減少から狩猟場が遠くなったと推測されていることから、気候変動による動物資源の変化が指摘されています。ただ、長年の狩猟により動物資源が枯渇した可能性も提示されています。現時点では、ネアンデルタール人が絶滅した頃のレヴァントの気候や資源環境について、まだ合意は形成されていないようです。

 アジア西部でネアンデルタール人が消滅した頃、上部旧石器時代が始まります。この大きな考古記録の変化に伴い、ネアンデルタール人の遺骸は発見されなくなり、現生人類遺骸のみが発見されるので、上部旧石器文化の担い手は現生人類のみと考えられています。ヨーロッパやアジア北部では、中部旧石器が古代型ホモ属、上部旧石器が現生人類と考えられてきましたが、アジア西部では中部旧石器文化の担い手がネアンデルタール人と現生人類の両方だったので、この図式は当てはまりません。

 この大きな文化変化は、石器に関しては石刃の増加により示されます。レヴァントでは、中部旧石器時代には20%程度だった石刃が、上部旧石器時代初期には40%、それに続く4万年前頃以降の上部旧石器時代前期には60%程度まで増加します。また、上部旧石器時代初期から前期にかけて、石刃のサイズが減少していく傾向にあります。小型の石刃は小石刃と呼ばれています。石刃はそのままでナイフとして用いられますが、さらに加工して定形的な道具が作られることもあります。上部旧石器時代で特徴的なのは、動物の皮をなめす掻器(エンドスクレーパー)や骨などに溝を掘る彫刻刀型石器(ビュラン)です。また、石刃の先端部を尖らせて作られる尖頭器も増加し、小石刃から作られる小型尖頭器も顕著に増えます。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけてのこうした石器形態や製作技術の変化の意義は、まだ明らかになっていません。皮をなめす道具(サイドスクレーパー)もビュランも中部旧石器時代にありました。小型尖頭器に関しては、投槍などの射的武器の先端に装着して新たな狩猟法をもたらし、現生人類の人口増加の一因になった、との見解も提示されています。ただ本論文は、小型尖頭器の出現は上部旧石器時代前期になってからなので、ネアンデルタール人の消滅とは関係ないだろう、と指摘します。また、石刃生産への集約は石材をより効率的に消費できる、と以前は指摘されていましたが、最近の研究では、石刃技術でも刃部の獲得効率が上昇するとは限らないと明らかになっており、石刃技術が現生人類の生存とその後の繁栄に役立ったのか、まだ確証は得られていないようです。

 中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての行動変化のもう一つの指標は動物資源の利用です。中部旧石器時代と比較して上部旧石器時代には、より広範な種類の小型動物が利用されるようになります。たとえば、ウサギやリスや鳥や魚です。これらの小型動物は、カメなどと比較して捕獲に工夫が必要で、1個体あたりの可食部も限られているので、捕獲コストに対する収率という観点から「低ランク資源」と呼ばれています。低ランク資源の利用は、上述のケバラ洞窟の事例で示されるように、すでに中部旧石器時代後期には進行していた、とも指摘されています。

 上部旧石器時代には、貝殻製ビーズのような装飾品も増加しました。ただ、アジア西部でネアンデルタール人遺骸の発見されている中部旧石器時代後期の遺跡では、貝製ビーズの発見がまだ報告されていません。上述のようにこの頃には現生人類も共存していた可能性があるわけですが、貝製ビーズが見つからない理由はよく分かりません。上部旧石器時代には、レヴァントだけではなくヨーロッパなど広範な地域でビーズの利用が見られ、ビーズの形やサイズは類似していた、と指摘されています。ビーズは複数をつないで組み合わせ、多様なシグナルを創出するので、その形は均質であることが求められたのだろう、と本論文は推測しています。また、イベリア半島からレヴァントまでという広範な地域でのビーズの共通性は、ビーズ交換などを通じて築かれた社会ネットワークが、広範囲に連結した結果と解釈されています。狩猟採集民社会の互恵的な関係では、ネットワークへの参加により環境・社会的なリスクが軽減されたかもしれない、というわけです。

 上部旧石器時代における行動の変化に関しては、これらに加えて資源の収集範囲や居住移動パターンや居住空間構造などが指摘されてきましたが、それらが現生人類の存続とネアンデルタール人の消滅という結果の要因だったのか明らかではない、と本論文は指摘します。かつて、ユーラシア西部の上部旧石器時代やアフリカの後期石器時代に特徴的な考古記録は「現代人的行動」という概念でまとめられ、古代型ホモ属との違いが指摘されていました。しかし、現生人類の拡散・定着という観点から研究が進展すると、「現代人的行動」は地域により多様であることが明らかになってきました。たとえば、ユーラシア西部から北部の上部旧石器時代に特徴的な石刃小石刃は、アジア南東部やオセアニアではほとんど見られません。さらに、石刃や装飾品などの「現代人的行動」がネアンデルタール人でも確認されるようになってきました。

 一方、現生人類の起源地であるアフリカでさえも、「現代人的行動」の記録が一様に発達してきたわけではなく、地域によってはなかったり、一度生じても後で消えてしまったりするようなモザイク的な消長パターンである、と明らかになってきました(関連記事)。本論文は、5万~4万年前頃に現生人類とネアンデルタール人は広範に分布しており、各集団が経験したボトルネックや絶滅の背景となる環境は多様だったと考えられる、と指摘します。じっさい、ネアンデルタール人と現生人類それぞれの内部での多様性と、両者の間の共通説も明らかになってきており、両者の運命を分けた要因について、特定の行動要素に一般化することは難しくなっている、と指摘します。

 現在では、現生人類が多様な環境に拡散して定着できた要因として、「変動する状況や環境に応じて革新を生み出す才能や柔軟性」や「技術の根底にある創意工夫の才や柔軟性」が挙げられています。本論文は、この抽象的な説明を具体化できるのが考古学である、と指摘します。まず、現生人類が拡散していった時期の考古記録の地理的変異を整理することで、その文化地理的パターンは自然環境に対応して説明できるかもしれませんし、そうでない場合は文化伝達プロセスなどが要因として考えられます。次に、現生人類の特徴的行動の発生プロセスを明らかにすることが挙げられています。本論文は、これらの研究を進めるには、まず考古記録の年代決定が重要になる、と指摘します。

 本論文は、その具体的事例として、レヴァントのヨルダン南部を取り上げています。ヨルダン南部は、旧石器時代には現在よりも湿潤だった時期もあるものの、それでも同時代のレヴァント北部と比較するとより乾燥していたようで、シカやイノシシなど森林性の動物遺骸は発見されていません。このように資源には制約のあったヨルダン南部ですが、旧石器時代の多くの遺跡が残っています。ヨルダン南部における中部旧石器時代から上部旧石器時代にかけての石器の形態や製作技術の変化の大きな傾向として、ルヴァロワ方式から石刃の増加と、その後の石刃の小型化が指摘されています。石刃の増加と小型化は、現生人類が拡散・定着していった時期のユーラシア西部・中央部・北部で広範に見られる現象です。また、鳥などの小型動物の利用が増加し、装飾品が出現するのも特徴です。ヨルダン南部では上部旧石器時代に185km離れた地中海や55km離れた紅海の貝殻が見つかるようになりますが、そのほとんどは小型で食用とは考えられず、次第にビーズに加工されたものが増加していきます。これに関しては、ヨルダン南部の住民が海岸まで移動して集めてきた可能性と、社会的ネットワークを通じて海岸に近い集団から入手した可能性が指摘されています。


参考文献:
門脇誠二(2020)「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第1章P7-52

中国貴州省のルヴァロワ石器をめぐる議論

 中国南西部となる貴州省(Guizhou Province)の観音洞洞窟(Guanyindong Cave)遺跡で発見されたルヴァロワ(Levallois)石器群に関する研究(Hu et al., 2019A)を、2018年11月に当ブログで取り上げました(関連記事)。この研究(以下、Hu論文1)に対して批判(Li et al., 2019B)が公表され(以下、Li論文)、さらにこの批判に対して反論(Hu et al., 2019B)が公表されました(以下、Hu論文2)。以下、この議論について見ていきます。

 更新世のルヴァロワ技術は調整石核技術のなかでもとくに有名で、伝統的な5段階の石器製作技術区分では様式3(Mode 3)となります(関連記事)。調整石核技術は、事前に調整した石核から剥片を剥離する技法で、予め剥片の形を思い浮かべ、それを剥離するために微妙な石核の調整が必要となることから、高い認知能力と器用な手先を必要とします。そのため、様式3の出現は人類史において画期的だった、とも評価されています。ルヴァロワ技術のような調整石核技術はアフリカにおいて60万~50万年前頃に開発され、ユーラシアにおいても40万~30万年前頃に出現しますが、アジア東部においてはほとんど見られず、5万年前頃以降になってようやく一部の遺跡で出現し、たとえば中華人民共和国内モンゴル自治区で確認されています(関連記事)。

 しかし、Hu論文1は、観音洞遺跡において17万年前頃までさかのぼるルヴァロワ石器群が存在した、と主張します。観音洞遺跡のルヴァロワ石器群は、現時点では時空間的に孤立した事例となります。Li論文は、Hu論文1で示された観音洞遺跡の石器群の年代に関しては認めるものの、それがルヴァロワ技術であるとの主張には疑問を呈しています。Li論文は、Hu論文1が提示したルヴァロワ技術の概念は誤用されている、と指摘します。ルヴァロワ技術の定義となる6つの基準のうち1つもしくは2つのみを強調し、ルヴァロワ技術と特定しているものの、それではルヴァロワ技術と認定するには不充分である、というわけです。

 またHu論文1は、石核の非対称な表面をルヴァロワ技術と一致していると主張するものの、この基準がルヴァロワ技術の概念の定義に用いられた証拠はない、とLi論文は指摘します。Li論文は、中国の他の更新世遺跡の事例を参照し、観音洞遺跡の石器群において、剥片がルヴァロワ石器と表面上は類似している場合もあるものの、その技術はルヴァロワ技術と比較してずっと単純で体系化されていない、と指摘します。Li論文は、中国南部ではまだルヴァロワ技術は確認されていない、という現時点での有力説を改めて支持し、中国南部の中期~後期更新世の石器群は、ルヴァロワ技術よりも単純な技術を用いて製作されていた、との見解を提示しています。

 Hu論文2はLi論文に反論しています。Hu論文2は、Hu論文1が観音洞遺跡の石器群を石核・剥片・副産物から総合的に分析し、中でも石核を最重要視した、と指摘します。剥片ではなく石核こそルヴァロワ技術を直接的に示すからです。Hu論文2は、観音洞遺跡の石器群の石核には、教科書的なルヴァロワ石核がほとんどないものの、事前の調整技術の痕跡が認められ、Hu論文1で提示されたルヴァロワ技術の概念はじゅうらいの使用の範囲内に充分収まっている、と主張します。またHu論文2は、石核の非対称な表面がルヴァロワ技術の概念に用いられた証拠はない、とLi論文は主張するものの、石核の非対称な表面がルヴァロワ技術の概念に収まる可能性を指摘した学術文献もある、と指摘します。

 Hu論文2はこれらを踏まえて、観音洞遺跡の石器群は世界の他の場所で発見されたルヴァロワ石器群の範囲内にある、との結論を提示しています。Hu論文2は、専門家たちが出土場所を知らずに観音洞遺跡の石器群を観察すれば、議論の余地なくルヴァロワ石器と分類すると確信している、と主張します。Hu論文2は、Li論文の指摘が考古学の発展において必要かつ有益だったことを認めつつ、観音洞遺跡の石器群のように、中国南部にはルヴァロワ石器は存在しない、というじゅうらいの有力説に反するような発見が、他地域で用いられてきたルヴァロワ技術の識別基準よりも厳しい基準の適用を正当化するわけではない、と指摘します。

 一般論として、じゅうらいの有力説に反するような地域での発見に対して、厳しい検証が向けられるのは当然としても、だからといって、有力説に合致する他の地域での発見に適用されるよりも厳しい基準を満たすよう要求することは、不当だと言えるでしょう。Li論文とHu論文2の妥当性について、的確に評価できるだけの見識は私にはありませんが、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器である可能性は、現時点では充分検証するに値すると思います。ただ、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器だとすると、時空間的に孤立した事例であることも否定できないので、近い年代・地域でのルヴァロワ石器の確認が期待されます。また、観音洞遺跡の石器群がルヴァロワ石器に分類できるのか否かという問題をさて置くとしても、その製作者がどの人類系統なのか、という問題はたいへん興味深く、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Hu Y. et al.(2019A): Late Middle Pleistocene Levallois stone-tool technology in southwest China. Nature, 565, 7737, 82–85.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0710-1

Hu Y. et al.(2019B): Robust technological readings identify integrated structures typical of the Levallois concept in Guanyindong Cave, south China. National Science Review, 6, 6, 1096-1099.
https://doi.org/10.1093/nsr/nwz192

Li F. et al.(2019B): A refutation of reported Levallois technology from Guanyindong Cave in south China. National Science Review, 6, 6, 1094-1096.
https://doi.org/10.1093/nsr/nwz115

大河ドラマ『麒麟がくる』第5回「伊平次を探せ」

 1548年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)秋、明智光秀(十兵衛)は主君の斎藤利政(道三)に、鉄砲の製造法と足利将軍家が鉄砲を大量に必要としている理由を調べるよう命じます。光秀は家臣の藤田伝吾から、美濃の伊平次が鉄砲の製造を知っているかもしれず、近江の国友村にいると聞いて、近江へと向かいます。国友村は将軍より、鉄砲の製造を外に漏らさないよう、命じられていました。伊平次は都の本能寺にいると国友村で聞いた光秀は、都へと向かいます。

 光秀は将軍の足利義輝が滞在中の本能寺で、将軍の奉公衆の細川藤孝と遭遇します。藤孝が怪しげな光秀に斬りかかっているところを義輝は見かけ、光秀に声を掛けます。光秀は護衛を務める三淵藤英と再会し、伊平次が本能寺にはいない、と知らされます。光秀は藤英に連れられて松永久秀と再会します。久秀は光秀に、鉄砲が抑止力になる、と教えます。伊平次の居場所を突き止めていた久秀は、光秀を連れて伊平次を訪ねます。久秀は伊平次に鉄砲の製造を依頼しますが、伊平次は面倒と断ります。しかし伊平次は、光秀の依頼は直ちに聞き入れます。伊平次は子供の頃光秀に命を助けられたことがありました。

 今回は、光秀の再度の上京が描かれました。若き日の光秀の事績は不明なので、創作のやりがいがあるとは思います。まあそれだけに、制作者側の力量が試されるわけですが、今のところは成功しているように思います。光秀と藤孝との出会いも、当時日本で普及し始めた鉄砲をめぐる動向と絡めて、上手く設定されているように思います。また、都の政治情勢もしっかりと踏まえた創作になっており、良い意味で大河ドラマらしくなっています。人物造形もおおむね成功しており、とくに斎藤利政(道三)と松永久秀は、演者の力量もあって多くの視聴者を惹きつけているのではないか、と思います。やや不安なのは、視聴者目線を意識しているらしい第二の主人公である駒なのですが、こちらについては即断せず、長い目で見ていこうと考えています。現時点では、本作は私にとって当たりで、今後の視聴も楽しみです。

ニワトリではなく飼育していたキジを消費していた中国北西部の初期農耕民

 中国北西部の初期農耕民によるニワトリではなく飼育していたキジの消費を報告した研究(Barton et al., 2020)が公表されました。現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられており、この問題に関しては2014年の総説的論文が今でも有益だと思います(関連記事)。中国北部も9000~7000年前頃に農耕が独自に始まった地域で、地域特有の植物の栽培化と動物の家畜化が進行し、それはキビ属とエノコログサ属(アワ)といった穀類やブタやイヌやニワトリといった家畜です。

 農耕への移行の原因については今でも議論が続いており、とくに高い関心が寄せられているのは、アジア東部のニワトリ(Gallus gallus domesticus)です。ニワトリは現在地球上で最も広範に存在する家畜ですが、ニワトリが、どこで、いつ、どのように進化したのか、合意は得られていません。中国の早期新石器時代の農耕村落遺跡では、しばしばニワトリとして識別されてきた中型の鳥の骨が含まれており、ニワトリの家畜化の最古の事例と解釈されてきました。しかし、こうした新石器時代の中国においてニワトリが出土した遺跡の中には、ニワトリの野生祖先である熱帯に適応したセキショクヤケイ(Gallus gallus)が現在では繁栄していない、中国北部の乾燥地域に位置しているものもあり、議論となっています。

 本論文は、1978~1984年に中華人民共和国甘粛省(Gansu Province)秦安県(Qin'an County)の大地湾(Dadiwan)遺跡で発掘された鳥の骨を分析しています。大地湾遺跡におけるヒトの痕跡は8万年前頃までさかのぼり、農耕の最初の痕跡は老官台(Laoguantai)文化期となる7800年前頃(以下、すべて較正年代です)以降となります。6300年前頃までに、大地湾遺跡では農耕が発展して文化は複雑的となり、永続的な建築・貯蔵施設・工芸品生産地区・豪華な埋葬が出現し、ヒエやキビが栽培化され、イヌとブタが一年中穀類で飼育されたという同位体証拠も提示されています。

 以前の研究では、この早期新石器時代農耕共同体の鳥も穀物を与えられた推測されており、それはおそらくC4植物のキビで、夏の間にのみ成長します。大地湾遺跡では、中型の鳥の骨のコラーゲンの安定同位体値は、C4およびC3植物両方の通年植生を示す範囲に収まります。これは、たとえば現代のキジや過去のシチメンチョウ(Meleagris gallopavo)の値とよく一致します。大地湾遺跡の多くのブタや一部のイヌと同様に、同遺跡の鳥の骨の安定同位体値も、自ら探した餌とともに、農耕により生産された穀類も食べていたことを示唆します。

 大地湾遺跡の鳥は当初、ニワトリも含まれるヤケイ属の一種(Gallus sp.,)と識別されていましたが、最初の分析者は、一部の鳥がキジ科のイワシャコ(Alectoris chukar)もしくは単にキジ科かもしれない、と認識していました。本論文は、大地湾遺跡の鳥の分類学的不確実性を解決するため、すでに安定同位体値が評価された、以前はヤケイ属と識別された個体を分析しました。これらの標本はすべて、7900~7200年前頃となる老官台(Laoguantai)文化期(3点)、もしくは6300~5900年前頃となる仰韶(Yangshao)文化期(5点)の層で発見されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果、本論文で対象とされた大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥はすべてコウライキジ(Phasianus colchicus)に分類されました。これらはさらに亜種に区分できますが、詳細な系統関係の確定にはさらなる遺伝的情報が必要になる、と本論文は指摘します。

 大地湾遺跡は中国で最古の明確な農耕集落で、北西部乾燥地帯に位置します。大地湾遺跡とその周囲のヒト生物群系に生息し、その後にヒトに消費された鳥は、家畜化されたニワトリでも、その野生祖先であるセキショクヤケイでもなく、コウライキジと特定されました。重要なことに、大地湾遺跡の先史時代の鳥と遺伝的に合致する現生3亜種はすべて、砂漠・草原・乾燥高地帯を含む中国北部の混合的環境で現在確認されます。これは、外来の鳥ではなく地元の鳥が消費されたことを示します。

 現在、これらの大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥が囲いで飼育されたとか、その卵をヒトが消費したとかいう証拠はなく、直接的にヒトが管理したという証拠さえありません。本論文の分析から言えるのは、大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥の食性は野生動物に似ておらず、食性のかなりの部分を新石器時代以降のヒトだけが提供できる穀類に依存していたに違いない、ということです。大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥は、穀物貯蔵庫の穀類、もしくは栽培化されたキビの収穫と処理で生じる廃棄物を食べ、その鳥をヒトが食べた、というわけです。

 本論文は早期新石器時代の大地湾遺跡における、鳥(コウライキジ)とヒトとのこの単純な共生を「低水準の鳥の生産」と呼び、それが地域的な収穫量を高めるための意図的で低コストとなるヒトの生存戦略だった、と指摘します。農耕共同体の敷地内もしくは隣接する農地内の農業廃棄物を加減するだけで、食用となる鳥の量さを調整できるため、低水準の食料生産においては効果的な手段でした。さらに、この慣行は、農耕共同体が分裂もしくは移住するたびに、籠に入れて輸送したり抱きかかえたりせずとも開始できました。地元の環境に固有の鳥は、単に自分のために農耕共同体の廃棄物を食べ、人々はその鳥を食べた、というわけです。

 鳥の骨のコラーゲンの同位体パターンは、新石器時代の中国北部の他の場所でも見られ、「低水準の鳥の生産」が温帯環境に居住する広範囲の民族言語的集団において適応的だった、と示唆します。このような考古学的な鳥遺骸の時空間的研究は、「低水準の鳥の生産」がキジに限定されていたのかどうか、明らかにできるかもしれません。また、キジあるいはニワトリやその野生祖先を含む他の肉質の地上性の鳥が先史時代にどの程度管理されていたのか、という問題の解明にも役立つのではないか、と期待されます。

 上述のように、農耕と牧畜は世界各地で年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まった、と考えられていますが、その過程は「革命」と呼べるような急激なものではなく、試行錯誤を伴う漸進的なものだった、と今では考えられています。たとえば中央アナトリア高原では、狩猟採集から農耕への移行期間は短くなく、早期新石器時代には農耕民集団と狩猟採集民集団とが混在していた、と指摘されています(関連記事)。中国北部の早期新石器時代村落でも、農耕開始からしばらくは生産性が低く、穀類やその収穫の過程で生じる廃棄物を鳥に食べさせ、ある程度管理することで多様な栄養源を確保していたのでしょう。その鳥が、早期新石器時代の中国北部では在来野生種のコウライキジだった、というわけです。こうした早期新石器時代農耕民の経験が、後に中国北部にはその祖先種(セキショクヤケイ)が存在しないニワトリを導入して飼育するさいにも役立った、と考えられます。


参考文献:
Barton L. et al.(2020): The earliest farmers of northwest China exploited grain-fed pheasants not chickens. Scientific Reports, 10, 2556.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59316-5

テストステロンの疾患リスクへの影響の性差

 テストステロンの疾患リスクへの影響の性差に関する研究(Ruth et al., 2020)が公表されました。テストステロンは女性も男性も作る天然ホルモンの一種で、テストステロンの補充療法は、骨の健康増進や性機能・体組成の改善に広く用いられています。しかし、テストステロンが病気の転帰に及ぼす影響については、ほとんど分かっていません。この研究は、イギリスバイオバンク登録者425097名から得られたテストステロン量のデータと遺伝的データを使って、テストステロンを調節している2571の遺伝的変数を調べ、それらと2型糖尿病、多嚢胞性卵巣症候群といった代謝疾患やがんとの関連を調べました。

 その結果、テストステロン量が高くなりやすい遺伝的素因を持つ女性は、2型糖尿病リスクが37%、多嚢胞性卵巣症候群のリスクが約50%も高い、と明らかになりました。男性では、高テストステロンは一般に保護作用を示し、2型糖尿病のリスクは15%近くも下がりました。また高テストステロンは、女性では乳癌と子宮内膜癌、男性では前立腺癌のリスク上昇につながることも明らかになりました。これらの知見は、テストステロンが健康に及ぼす影響における性差による違いを示しており、今後の臨床研究では性別特異的な遺伝的解析が必要になった、と指摘されています。また、こうした性差には進化的要因がありそうですから、そうした観点でも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【内分泌学】テストステロンの疾患リスクへの影響は女性と男性とで異なる

 テストステロン量が心血管代謝疾患やがんのリスクに影響を及ぼす可能性があるが、この影響は女性と男性で違いがあることを報告する論文が掲載される。

 テストステロンは、女性も男性も両方が作る天然ホルモンの一種で、テストステロンの補充療法は、骨の健康増進や性機能、体組成の改善に広く用いられている。しかし、テストステロンが病気の転帰に及ぼす影響については、ほとんど分かっていない。

 今回John Perry、Timothy Fraylingたちは、英国バイオバンク登録者42万5097名から得られたテストステロン量のデータと遺伝的データを使って、テストステロンを調節している2571の遺伝的変数を調べ、それらと2型糖尿病、多嚢胞性卵巣症候群といった代謝疾患やがんとの関連を調べた。すると、テストステロン量が高くなりやすい遺伝的素因を持つ女性は、2型糖尿病リスクが37%、多嚢胞性卵巣症候群のリスクが約50%も高いことが分かった。男性では、高テストステロンは一般に保護作用を示し、2型糖尿病のリスクは15%近くも下がった。また高テストステロンは、女性では乳がんと子宮内膜がん、男性では前立腺がんのリスク上昇につながることも明らかになった。

 これらの知見は、テストステロンが健康に及ぼす影響が女性と男性では違いがあることを示しており、著者たちは、今後の臨床研究では性別特異的な遺伝的解析が必要なことが浮き彫りになったと結論付けている。




参考文献:
Ruth KS. et al.(2020): Using human genetics to understand the disease impacts of testosterone in men and women. Nature Medicine, 26, 2, 252–258.
https://doi.org/10.1038/s41591-020-0751-5

近くにいるクラゲに刺されなくても痛みを感じる理由(追記有)

 近くにいるクラゲに刺されなくても痛みを感じる理由に関する研究(Ames et al., 2020)が公表されました。マングローブ林の流域に生息するサカサクラゲ属のクラゲ(Cassiopea xamachana)は、浅瀬の底で上下逆さになっており、フワフワした口腕が上向きについています。アメリカ合衆国フロリダ州やカリブ海やミクロネシアの周辺でシュノーケリングをする人々が、クラゲに直接接触していないのにクラゲに刺された感覚(stinging water)を経験したことは、かなり以前から報告されています。その原因については、多くの学説が提唱されてきましたが、正確には分かっていません。

 この研究は、サカサクラゲ属に関する科学文献を20世紀初頭までさかのぼって調べて、stinging waterに関する手掛かりを調査しました。その結果、サカサクラゲ属動物が分泌する粘液に非常に小さな細胞塊(カッシオソーム)が含まれている、と明らかになりました。この研究は顕微鏡を使って、カッシオソーム(cassiosome)の外層が数千個の刺胞(クラゲの刺細胞)に覆われていることを発見しました。刺胞は、クラゲの触手の特殊化した細胞に通常含まれている毒素入りカプセルで、被食者を殺せます。さらにこの研究は、クラゲがカッシオソームを含む粘液を小さな手榴弾のように水中に放出して、stinging waterを生じさせることを明らかにし、Cassiopea xamachanaの近縁4種からもカッシオソームを発見しました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


クラゲが近くで泳いでいると突き刺されたような痛みを感じるのはなぜか

 サカサクラゲ属のCassiopea xamachanaの粘液に含まれる刺細胞からできている構造が明らかになり、cassiosome(カッシオソーム)と命名された。カッシオソームは、被食者を殺すことができ、マングローブ林の流域でシュノーケリングをする人々が経験するstinging waterという感覚を引き起こしている可能性が高い。今回の研究結果を報告する論文が、Communications Biologyに掲載される。

 マングローブ林の流域に生息するサカサクラゲ属のクラゲは、浅瀬の底で上下逆さになっており、フワフワした口腕が上向きについている。米国フロリダ州、カリブ海、ミクロネシアの周辺でシュノーケリングをする人々は、クラゲに直接接触していないのにクラゲに刺された感覚(stinging water)を経験したことをかなり以前から報告している。その原因については、数々の学説が提唱されてきたが、正確な原因は分かっていない。

 今回、Gary Voraたちの研究チームは、サカサクラゲ属に関する科学文献を1900年代初頭までさかのぼって調べて、stinging waterに関する手掛かりを探した。その結果、サカサクラゲ属動物が分泌する粘液に非常に小さな細胞塊(カッシオソーム)が含まれていることが判明した。Voraたちは、顕微鏡を使って、カッシオソームの外層が数千個の刺胞(クラゲの刺細胞)に覆われていることを発見した。刺胞は、クラゲの触手の特殊化した細胞に通常含まれている毒素入りカプセルである。そして、Voraたちは、クラゲがカッシオソームを含む粘液を小さな手榴弾のように水中に放出して、stinging waterを生じさせることを明らかにし、C. xamachanaの近縁種(4種)からもカッシオソームを発見した。



参考文献:
Ames CL. et al.(2020): Cassiosomes are stinging-cell structures in the mucus of the upside-down jellyfish Cassiopea xamachana. Communications Biology, 3, 67.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-0777-8


追記(2020年2月18日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

加藤徹『西太后 大清帝国最後の光芒』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2005年9月に刊行されました。本書は西太后の伝記ですが、西太后を広く中国史の文脈に位置づけているのが特徴です。本書は2005年刊行ですから、その後の研究の進展により訂正されるべきところもあるかもしれませんが、日本語で読める手頃な西太后の伝記としては、今でも優れているのではないか、と思います。日本では今でも、一般的には西太后への印象は悪いでしょうし、その中には本書で否定された荒唐無稽な逸話もあるでしょうから、その意味でも、本書を今読む意義はあると思います。

 西太后というと、一般的には権力欲旺盛で残忍な人物と考えられているでしょうが、本書はこの点について注意を喚起しています。本書は、権勢には戦争による領土拡張も含む、思い通りの国造りを目指す男性型と、至高の生活文化を満喫する女性型とがあり、西太后は後者だった、と指摘します。男性型と女性型という区分が適切なのか、大いに疑問が残りますが、権勢とはいっても、政治権力志向と生活文化志向に区分することは重要だと思います。もちろん、少なからぬ権力者はその両方を志向するでしょうし、生活文化志向も政治権力志向と無縁ではあり得ませんが、西太后が本質的には生活文化志向型だった、との指摘はおそらく妥当でしょう。

 本書は、同じ最高権力者の女性とはいっても、西太后は漢の呂后や唐(周)の武則天(則天武后)とは異なり、目標としたのは乾隆帝の生母である崇慶太后だった、と指摘します。西太后の本意は、息子の同治帝やその後継者とした甥の光緒帝が成人後は政治を任せ、豪勢で優雅な生活を楽しみ、50歳や60歳といった節目となる誕生日を盛大に祝ってもらうことだった、と本書は指摘します。じっさい、西太后は成長した光緒帝に一度は政権を返上しています。また本書は、西太后(に限らず支配層)の贅沢な生活が、所得再分配的な意味合いもあったことを指摘します。

 このような志向の西太后が最高権力者として君臨できたのは、本人の優れた資質と努力もあったわけですが、本書から窺えるのは、西太后が当時の支配層の女性としても珍しく文書を理解でき、それが権力掌握に役立ったとはいっても、公文書作成能力は科挙官僚や一般官人に遠く及ばず、狭い宮廷社会での権力者としては優れていても、広い視野の優れた政治家とはとても言えそうにない、ということです。もっとも、政治権力志向型の野心家ではなかった西太后に言わせれば、自分は政治家として大国の舵取りをするつもりはなかったから、そのための修養を積んでこなかった、ということなのでしょう。

 また本書は、西太后が現代中国の在り様の雛型を作った、と指摘します。現在、中国が領土を主張する地域はほぼ西太后が権力者だった時代のものですし、光緒帝が「過激化」する前には認めていた中体西用を基底に置く洋務運動は改革開放以降の路線と通ずる、というわけです。さらに重要なのは、西太后が義和団を利用して列強を打倒し、さらなる権力の掌握を図ったことは、大衆を政治運動に活用するという点で、後の文化大革命と通ずる、という視点です。本書は西太后を、現代中国を理解するうえで重要な人物として描き出しており、たいへん興味深く読み進められました。なお、本書は光緒帝暗殺説を否定していますが、本書刊行後の2008年に、光緒帝暗殺説が有力になった、と報道されました(関連記事)。

アフリカ西部の現代人集団に見られる未知の人類系統の遺伝的痕跡

 アフリカ西部の現代人集団に見られる遺伝学的に未知の人類系統(ゴースト系統)の遺伝的痕跡に関する研究(Durvasula, and Sankararaman., 2020)が公表されました。人類史において、異なる系統間の複雑な交雑が重要な役割を果たしてきたことは、近年ますます強調されるようになってきたと思います(関連記事)。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった古代型人類と現生人類(Homo sapiens)との複数回の交雑も指摘されています(関連記事)。古代型人類の遺伝的影響は、ネアンデルタール人が非アフリカ(出アフリカ)系現代人全員に比較的似た水準で、デニソワ人がオセアニアでとくに強く、アジア南部および東部で多少残しているように、おもに非アフリカ系現代人で確認されてきました。

 サハラ砂漠以南のアフリカ(以下、アフリカは基本的にサハラ砂漠以南を指します)に関しては、化石記録が稀で、その気候条件から古代DNAの解析は困難なので、古代型人類から現代人への遺伝子流動の分析は困難です。いくつかの研究ではアフリカにおける古代型人類から現生人類への遺伝子流動が指摘されています。たとえば、アフリカにおける未知の人類系統と現生人類系統との複雑な交雑の可能性を指摘した研究(関連記事)や、非アフリカ系現代人よりもアフリカ系現代人の方で未知の人類系統由来のハプロタイプがずっと多いと推測した研究です(関連記事)。しかし、アフリカにおける現生人類と未知の人類系統との交雑の詳細ははまだよく理解されていません。

 本論文は、ナイジェリアのイバダン(Ibadan)のヨルバ人(YRI)、シエラレオネのメンデ(Mende)人、ナイジェリアのエサン(Esan)人、ガンビア西部のガンビア人というアフリカ西部の現代人4集団の全ゲノム配列を用いて、古代型人類との交雑を検証しました。一塩基多型の頻度分布から示されるのは、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人、さらにはデニソワ人と交雑したとされる「超古代型人類」(関連記事)とも異なる、遺伝学的に未知の人類系統との交雑を想定しないとデータを整合的に説明しにくい、ということです。この未知の人類系統は、現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先系統と102万~36万年前頃に分岐し、現代アフリカ西部集団の祖先と124000年前頃以降に交雑して、そのゲノムに2~19%ほど寄与している、と推定されています。

 ヨルバ人とメンデ人のゲノムの6.6~7.0%はこの未知の人類系統に由来する、と推定されます。ヨルバ人とメンデ人のゲノムに高頻度で見られるこの古代型遺伝子としては、17番染色体上の癌抑制と関連するNF1(ヨルバ人で83%、メンデ人で85%)や、4番染色体上のホルモン調節と関連するHSD17B2(ヨルバ人で74%、メンデ人で68%)などがあります。NF1もHSD17B2も、以前の研究で正の選択の可能性が指摘されています。一方、以前の研究で古代型人類からアフリカ系現代人への遺伝子流動の可能性が指摘されていた(関連記事)、ヒトの唾液豊富に含まれるタンパク質の一つであるムチン7をコードしている、繰り返し配列のコピー数の違い(5しくは6)が見られるMUC7遺伝子に関しては、とくに頻度上昇は見られませんでした。

 ゲノム解析から、アフリカ南部の石器時代の個体は他の集団と35万~26万年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。最近の研究でも、アフリカ系現代人の分岐はたいへん古く複雑だった、と指摘されています(関連記事)。本論文は、新たに得られた未知の人類系統の交雑の痕跡をこの深く複雑な分岐に適切に位置づけるには、アフリカ全体の現代人のゲノム分析とともに、アフリカの古代ゲノムの分析も必要になる、と指摘します。また、新たな手法を用いた最近の研究では、アフリカ系現代人のゲノムにも、非アフリカ系現代人ほどではないとしても、以前の推定よりずっと多いネアンデルタール人由来の領域があると推定されており(関連記事)、こうした点も踏まえて、今後の研究が進展していくのだろう、と期待されます。

 本論文は新たな分析により得られた知見から、未知の人類系統がかなり最近までアフリカにおいて存在して現生人類と交雑した可能性とともに、もっと早期に現生人類の一部集団と交雑し、その集団が本論文で分析した現代アフリカ西部集団の祖先と交雑した可能性を提示しています。また本論文は、これらの仮説が相互に排他的ではなく、アフリカでは複数の多様な集団からの遺伝子流動が起きた可能性も指摘しています。アフリカの化石記録では、現代人的特徴を有する個体は20万年以上前から各地で見られ、現生人類の起源はアフリカ全体を対象に考察されねばならない複雑なものだった、との見解も提示されています(関連記事)。

 アフリカでは、現生人類が5万年前頃にオーストラリア(更新世の寒冷期にはニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました)まで拡散した(関連記事)後にも、祖先的特徴を有する人類が確認されています。たとえば、16300~11700年前頃と推定されているナイジェリアのイウォエレル(Iwo Eleru)で発見された個体や、25000~20000年前頃と推定されているコンゴのイシャンゴ(Ishango)で発見された個体で、完全に現代的な華奢な人類が出現するのは35000年前頃との見解も提示されています。これらの個体は、古代型人類系統もしくは古代型人類系統の遺伝的影響をまだ強く残した交雑系統だったのかもしれません。

 また本論文は、非アフリカ系現代人でもアジア東部(北京)やヨーロッパ北部および西部の現代人集団がアフリカ西部集団と一塩基多型の分布頻度で類似したパターンを示していることから、古代型人類由来のゲノムの一部が、アフリカ系現代人系統と非アフリカ系現代人系統の分岐前に現生人類系統において共有されていた可能性も指摘しています。古代型人類と現生人類との交雑は、非アフリカ系現代人系統がアフリカ系現代人から分岐する前に起きた可能性も考えられるわけです。こうした古代型人類からの遺伝子流動と多様な環境への適応における役割の理解には、アフリカ中の現代および古代ゲノムの分析が必要になる、と本論文は指摘します。人類史における交雑はたいへん複雑だったようで、追いついていくのは困難なのですが、私にとってかなり優先順位の高い問題なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Durvasula A, and Sankararaman S.(2020): Recovering signals of ghost archaic introgression in African populations. Science Advances, 6, 7, eaax5097.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aax5097

禁煙により非喫煙者と変わらなくなる一部の細胞の変異量

 一部の細胞の変異量が禁煙により非喫煙者と変わらなくなることを報告した研究(Yoshida et al., 2020)が公表されました。喫煙は肺癌を引き起こし、この過程は、煙草の煙に含まれる60種類以上の発癌物質がDNAを直接損傷して変異させることにより進行します。肺癌細胞のゲノムに煙草が及ぼす重大な影響に関しては充分に裏づけられていますが、正常な気管支細胞に関しては同等のデータが存在しません。

 この研究は、喫煙の影響を細胞レベルで解明するため、合計16人の気管支上皮細胞を調べました。その内訳は、小児3名、喫煙歴のない者4名、元喫煙者6名、現役の喫煙者3名です。この研究では、気管支細胞の単一細胞から632個のコロニーが作り出され、そのゲノムの塩基配列が解読され、遺伝的変異のデータセットが得られました。

 その結果、これらの変異の大部分は喫煙が原因だった、と判明しましたが、予想外だったのは、同じ人における変異の量(変異負荷)の細胞間変動性が喫煙によって増大したことでした。同じ気管支上皮の生検で得られた細胞であっても、変異量が10倍も異なること(1細胞当たり1000個から10000個以上まで)もありました。

 元喫煙者や現役の喫煙者から採取した細胞の大部分は、変異量が多かったものの、変異量が同年齢の喫煙歴のない者と変わらない細胞もありました。現役の喫煙者に、ほぼ正常な変異量の細胞がほとんどなかったのに対して、元喫煙者の場合には、そうした細胞の出現頻度が4倍に達し、研究対象の細胞の20~40%を占めていました。また、この研究は、ほぼ正常な変異量の細胞のテロメアが、元喫煙者の変異量の多い細胞よりも長いことを見いだしており、テロメアが長い細胞は、細胞分裂の回数が少なく、休止状態の幹細胞の子孫細胞である可能性がある、と推測しています。

 ドライバー変異(癌の発生や悪化の直接的な原因となる遺伝子変異)は年齢とともに頻度が増え、喫煙経験の全くない中年被験者では4~14%の細胞に存在しました。現喫煙者では25%以上の細胞にドライバー変異が存在し、2個または3個ものドライバー変異を有する細胞も0~6%確認されました。このように、喫煙は変異負荷や細胞間の不均一性、ドライバー変異を増大させますが、禁煙は煙草による変異生成を免れた有糸分裂停止細胞による気管支上皮の復元を促進します。健康における禁煙の有効性が改めて確認された、というわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【遺伝学】タバコをやめると喫煙のシグナルが減る

 対象者(16人)の肺の細胞を調べたところ、一部の細胞の変異量が、元喫煙者と喫煙歴のない者で同じだったことが判明した。また、喫煙していた者が禁煙すると、その肺組織の一部にタバコ煙への曝露による損傷のない細胞が補充されることも示唆された。この研究について報告する論文が掲載される。

 今回、Peter Campbellたちの研究チームは、喫煙の影響を細胞レベルで解明するため、合計16人の気管支上皮細胞を調べた。その内訳は、小児3名、喫煙歴のない者4名、元喫煙者6名、現役の喫煙者3名である。今回の研究では、気管支細胞の単一細胞から632点のコロニーが作り出され、そのゲノムの塩基配列解読が行われ、遺伝的変異のデータセットが得られた。その結果、これらの変異の大部分は喫煙が原因だったことが判明したが、予想外だったのは、同じ人における変異の量(変異負荷)の細胞間変動性が喫煙によって増大したことだった。同じ気管支上皮の生検で得られた細胞であっても変異の量が10倍も異なること(1細胞当たり1000から10000以上まで)があった。

 元喫煙者や現役の喫煙者から採取した細胞の大部分は、変異量が多かったが、変異量が同年齢の喫煙歴のない者と変わらない細胞もあった。現役の喫煙者に、ほぼ正常な変異量の細胞がほとんどなかったのに対し、元喫煙者の場合には、そうした細胞の出現頻度が4倍に達し、研究対象の細胞の20~40%を占めていた。また、Campbellたちは、ほぼ正常な変異量の細胞のテロメアが、元喫煙者の変異量の多い細胞よりも長いことを見いだしており、テロメアが長い細胞は、細胞分裂の回数が少なく、休止状態の幹細胞の子孫細胞である可能性があるという考えを示している。


医学研究:喫煙とヒト気管支上皮における体細胞変異

医学研究:正常な上皮での喫煙に誘発される変異生成の動態

 喫煙は、肺組織において発がん物質誘発性の変異生成につながり、がんを駆動する変異が生じるリスクを高める。疫学研究では、禁煙には有益な累積的効果があることが示唆されている。今回P Campbellたちは、喫煙者、元喫煙者、喫煙非経験者の正常な気管支上皮から得た単一細胞由来のコロニー632個の変異状態を調べた。その結果、喫煙がゲノムの不均一性を高めており、それには既知および新規の変異シグネチャーの散発的な寄与があることが示唆された。現喫煙者の細胞にはがんのドライバー変異の増加が認められる一方、元喫煙者の一部の細胞は変異負荷がほぼ正常でテロメアがより長く、これは、禁煙の効果と気管支上皮のほぼ正常な細胞による復元とが関連付けられることを示唆している。



参考文献:
Yoshida K. et al.(2020): Tobacco smoking and somatic mutations in human bronchial epithelium. Nature, 578, 7794, 266–272.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1961-1

妊娠中の母親のパラベン類曝露に関連している小児期の体重

 小児期の体重が妊娠中の母親のパラベン類曝露に関連していることを報告した研究(Leppert et al., 2020)が公表されました。パラベン類の化合物は抗菌性と抗真菌性を有し、数々の消費者製品に使用されていますが、経口摂取や皮膚吸収によって体内に入り、尿や血液中に検出されることが知られています。この研究は、出生前のパラベン類曝露が小児期に過体重になるリスクに及ぼす影響を調べました。この研究では、2006年から2008年までに母子629組のコホートからデータを収集し、妊娠34週の母親に記入させた質問票を用いてパラベン類曝露を評価し、出生後の子供の体重と身長を毎年計測しました。

 その結果、パラベン含有化粧品の使用を申告した母親の尿から高濃度のパラベン類が検出された。また、ブチルパラベン(BuP)の母体尿中濃度は、その子が小児期初期から小児期中期に過体重になるリスクと正の相関を示し、その傾向は、女児の方が強いことも明らかになりました。この研究は、マウスモデルを用いて、母親のブチルパラベン曝露が雌の仔の食物摂取量と体重を増加させる、と実証し、この作用には、脳内領域における(食物摂取の調節に関連している)プロオピオメラノコルチン遺伝子の発現レベルを低下させるエピジェネティック修飾が介在している可能性を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【健康】小児期の体重は妊娠中の母親のパラベン類曝露に関連している

 妊娠時の母親がブチルパラベン(BuP)にさらされると、子が8歳までに過体重になる原因となる可能性のあることを報告する論文が、Nature Communicationsに掲載される。

 パラベン類の化合物は、抗菌性と抗真菌性を有し、数々の消費者製品に使用されているが、経口摂取や皮膚吸収によって体内に入り、尿や血液中に検出されることが知られている。

 今回、Tobias Polteたちの研究チームは、出生前のパラベン類曝露が小児期に過体重になるリスクに及ぼす影響を調べた。この研究では、2006年から2008年までに母子(629組)のコホートからデータを収集し、妊娠34週の母親に記入させた質問票を用いてパラベン類曝露を評価した。そして出生後の子どもの体重と身長が毎年計測された。その結果、パラベン含有化粧品の使用を申告した母親の尿から高濃度のパラベン類が検出された。また、BuPの母体尿中濃度は、その子が小児期初期から小児期中期に過体重になるリスクと正の相関を示し、その傾向は、女児の方が強かった。

 Polteたちは、マウスモデルを用いて、母親のBuP曝露が雌の仔の食物摂取量と体重を増加させることを実証し、この作用には、脳内領域における(食物摂取の調節に関連している)プロオピオメラノコルチン遺伝子の発現レベルを低下させるエピジェネティック修飾が介在している可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Leppert B. et al.(2020): Maternal paraben exposure triggers childhood overweight development. Nature Communications, 11, 561.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-14202-1

早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺

 早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺に関する研究(Alt et al., 2020)が公表されました。中期~後期更新世にはヒトは基本的に狩猟採集民でしたが、平等主義の倫理のため本質的には善良で平和的だった、という考えがかつては浸透していました。この仮説では、12000年前頃の農耕開始以後(もちろん、地域により農耕開始年代は異なりますが)、とくに定住・階層・財産と密接に関連した適応的な社会経済的戦略が、根本的に本来の生活様式を壊した、と想定されます。財産と所有物を守るため、ヒトは暴力の使用を余儀なくされた、というわけです。

 しかし、こうした非暴力的な過去の人類史は今では反証されており、それは攻撃的行動が先史時代と現代の狩猟採集民共同体で一般的に示されてきたからです(関連記事)。しかし、狩猟採集民共同体における暴力の程度と役割についてはまだ議論が続いています。ヒトの暴力が進化的遺産なのか、という問題は高い関心を集めている、と言えそうです。本論文は、ヒトの暴力が進化的遺産であることは明らかで、それはヒトだけが同種を殺す大型類人猿の唯一の種ではないからだ、と指摘します。ヒトの攻撃性は、その本質に深く根ざした重要な系統発生要素がある、というわけです(関連記事)。ヒトは自身を、合理的で行動制御のメカニズムを備えていると考える傾向にあるため、これを受け入れるのはなかなか困難です。

 本論文は、スペイン王国ウエスカ(Huesca)県のピレネー山脈に位置するエルストロクス(Els Trocs)洞窟遺跡の発掘成果を報告しています。この標高1500m以上の地点の斜面に、エルストロクス洞窟の入口があります。エルストロクス遺跡では、土器や石器などの物質残骸に加えて、子供や成人のヒト骨格遺骸や屠殺された家畜および野生動物の骨が含まれています。これまでに特定された13人は、年代的に離れた新石器時代の異なる3期(第1期・第2期・第3期)に分類されます。したがって、これらの「埋葬」は単一事象の1集団ではありません。本論文は、第1期(紀元前5326~紀元前5067年)の9人(成体5人と子供4人)を分析しています。第1期の9人の放射性炭素年代は密集しており、全員に死亡前後の暴力の痕跡が見られます。

 これら早期新石器時代の9人の年代および形態学背景に関して、その遺骸に見られる暴力の痕跡は、この9人が紛争の犠牲となった珍しい事象であることを示唆します。成人は頭蓋骨にのみ一貫して矢傷を示し、成人に加えて子供は、頭蓋と全体骨格へ類似した鈍器による暴力の痕跡を示します。紛争状況における弓矢のような投射武器の使用は、近隣の同時代のラドラガ(La Draga)遺跡の矢だけではなく、さまざまな暴力活動を描く同時代の岩絵でも証明されています。敵対集団間の戦闘場面を含むそうした描写は、イベリア半島の岩絵にも存在します。エルストロクス遺跡のヒト遺骸の直接的で明確な暴力の痕跡に加えて、こうした間接的な証拠は、エルストロクス遺跡の第1期の9人が虐殺の犠牲者になった、という仮説を裏づけます。

 エルストロクス遺跡の重要性は、新石器時代の意図的な暴力の初期の証拠を提示していることです。既知の情報では、エルストロクス遺跡の集落共同体全体の虐殺は、集団的暴力の直接的証拠としては最初期のものとなります。エルストロクス遺跡の第1期は、年代的にはヨーロッパ中央部における最初の農耕文化である線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)の最終段階で、紀元前6千年紀末~紀元前5千年紀初頭となり、大変動の時期です。線形陶器文化末期のヨーロッパ中央部において、こうした大量殺戮は孤立した事例ではなく頻繁に生じていた、との見解も提示されていますが(関連記事)、イベリア半島の他地域では同時代のこうした虐殺はまだ報告されていません。エルストロクス遺跡第1期で見られる集団的暴力の注目される珍しい特徴は、エブロ渓谷沿いというイベリア半島の早期新石器時代における主流の移住経路から離れている、その地理的位置です。

 本論文は、理論的および分析的観点から、エルストロクス遺跡のヒト遺骸の複雑な暴力的知見から、二つの基本的な問題を提起します。一方は加害者について、もう一方は高齢の成人および子供の集団に見られた、一見すると抑制されていない過剰な暴力の動機についてです。本論文は、加害者の問題には直接的に答えられない、と指摘します。考古学的に、加害者はほとんど証拠を残さなかったからです。しかし、全体的な文脈に基づくと、代替的な仮説をいくつか提示できます。

 集団遺伝分析からは、エルストロクス遺跡の犠牲者は早期新石器時代移住者として特徴づけられます。それは、イベリア半島で農耕と畜産を確立した共同体の構成員です。ストロンチウムおよび酸素の同位体データと考古学的文脈から推測すると、犠牲者たちが移住民の第一世代だったかどうか、確定できません。ほとんどの新石器時代の移住民は肥沃な三日月地帯から地中海経由でヨーロッパ西部に到達しましたが、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由でヨーロッパ中央部から北方から到来した可能性は除外できません。この仮定の根拠は集団の遺伝的特徴です。エルストロクス遺跡第1期の成人男性(CET 5)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)ではN1a1a1で、早期新石器時代ヨーロッパ中央部では一般的ですが、スペインではまだ確認されていません。CET 5は、イベリア半島では最古となる、ヨーロッパ中央部新石器時代の農耕民集団のmtHgと合致する早期新石器時代個体です。最近になって、フランス北東部では、ヨーロッパ中央部から南西部への仮説的移住経路に沿った、新石器時代のmtHg- N1a個体群が報告されており、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由で北方から到来した可能性を示唆します。

 本論文は、エルストロクス遺跡集団がイベリア半島の他の早期新石器時代移民集団と異なり、虐殺された理由について考察しています。早期新石器時代のエルストロクス遺跡集団も他のイベリア半島集団も、ともに比較的急速に在来の共同体と混合したと考えられます。本論文は、エルストロクス遺跡集団が殺戮された理由として、イベリア半島の新石器時代移住民の主流から少し離れた孤立した地域に存在した可能性を検証しています。考古学的文脈・動物および植物考古学的データと、エルストロクス遺跡の犠牲者集団の人口統計学的構成から示唆されるのは、犠牲者たちがより大きな新石器時代共同体における高齢の構成員と子供を表し、彼らは集団の大半から離れており、季節的移牧、つまり家畜の移動の過程でピレネー山脈において夏を過ごしていた、ということです。

 本論文は、加害者集団とその動機に関して二つの仮説を提示します。たとえば、原因が本質的に領土であるならば、加害者たちは、自分たちの採集領域に侵略してきた新石器時代集団を見て、残忍に殺害した在来の狩猟採集民だったかもしれません。あるいは、領土をめぐる紛争がエスカレートした二つの新石器時代集団間の紛争だったかもしれません。この推論では、暴力的事象が起きた地形は多くの資源を提供する台地である、と想定されます。また、行動の一般的パターンからも加害者の動機が推測されています。地域的な集団間の紛争の一般的原因は、時間と場所、起源もしくは民族に関わらず、所有物(家畜・女性・収穫物)の獲得と、希少な資源(土地・水・狩猟)をめぐる紛争です。しかし、現在の「人種」間もしくは民族間の紛争とは対照的に、共同体の体系的な皆殺しは、お互いをよく知っており、社会文化的根源を共有するかもしれない近隣集団間の暴力の応酬においてはむしろ稀になる、と本論文は指摘します。

 エルストロクス遺跡における虐殺は、完全に詳細に明かされることはないかもしれませんが、本論文が注目しているのは、ピレネー山脈の奥地で行使された暴力の程度は、加害者側のひじょうに高い潜在的攻撃性で、それは法医学で「過剰殺害」とされる現象です。明らかなのは、二つの競合集団が衝突したことです。上述のように、加害者は在来の狩猟採集民だったかもしれませんし、競合する地元もしくは他地域の新石器時代農耕民集団だったかもしれません。本論文は、犯罪者プロファイリングの観点からは、エスカレートした偶然の遭遇である可能性はほとんどない、と指摘します。殺害手順は体系的に計画されて実行され、行為の動機は深刻である、というわけです。ただ、その背景については、いくつかは未解決のままとなりそうです。

 国も含めての近隣集団間、多民族社会内の異なる民族集団間、多数派集団と少数派集団との間の暴力的対立はしばしば、人々の外見・言語・宗教・イデオロギー・生活および文化様式もしくは民族的帰属の利用に基づいています。現在と過去の無数の争いの事例は、「文明」によりヒト社会における暴力への根本的性質を克服する、という見解を揺るがしてきました。暴力が自身を守るため、あるいは共同体を保護するのに役立つならば、社会的に許容されます。しかし、暴力が第三者もしくは平和な人々の繁栄と生活に対する搾取と権力を目指している場合、否定的な意味合いを有します。その構造的形態では、暴力は力の行使に役立ち、間違いなくヒトの文化的進化の産物です。「えこひいき(ネポチズム)」により繰り返し揺さぶられる世界では、条約と法律は常に一時的にのみ平和をもたらすようです。人道に対する注目すべき犯罪は、法律もしくは国際法により防止されることは決してありませんでした。「えこひいき(ネポチズム)」とは、非血縁者を犠牲にして、自らの血縁者を身びいきすることで、他の霊長類に見られる社会行動です(関連記事)。

 本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺を、人類史の文脈に位置づけようとしています。上述のように、系統発生学的および神経犯罪学的研究は、暴力と犯罪が生物学的起源を有する、といういくつかの証拠を提供します。しかし、ヒトは誰も殺人者として生まれるわけではなく、社会的過程が我々の行動を深く制御する、と本論文は指摘します。進化生物学では、ヒトはその始まり以来、他の個体群に依存し、脅威に晒されてきた、と論じられます。つまり、ヒトの進化的基盤は、一方では自身の集団や親族を強く結びつける原因として、他方では異質な個体群への恐怖や拒絶と強く結びつける原因として存在するはずだ、と本論文は指摘します。民族的ネポチズムの概念は、この二重の行動傾向の原因の説明として機能し、そこに民族紛争の起源も見られる、というわけです。したがって紛争は、均質な社会よりも人々が密接に関連しつながっている異質な多民族社会で多く発生するだろう、と本論文は指摘します。

 ネポチズムの起源に関する仮説は、包括適応度や血縁選択や遺伝的類似のような社会生物学的理論に焦点を当てます。民族的ネポチズムへの否定できない傾向はヒトの本質に深く根差しているように見えるため、政治的もしくは社会的危機状況における民族中心主義・ナショナリズム・人種差別・外国人嫌悪を促進するかもしれず、最悪の場合は大量虐殺にまで到達する、と本論文は指摘します。本論文はこれらの知見を踏まえて、ポストコロニアル理論や過去の人類は平和で(非暴力部族社会論)集団内および集団間の暴力は現代的現象という理論は、かつてたいへん人気だったものの、さまざまな証拠はそうした見解を論駁してきており、対照的に暴力は太古の昔からヒトの歴史に存在してきたことを示している、と指摘します。

 本論文はエルストロクス遺跡第1期の虐殺について、おそらく異なる起源や世界観の人々の間、先住民と移住民もしくは経済的あるいは社会的競合の集団間暴力の早期のエスカレーションで、敵対的集団間の衝突のような排外的な印象を伝えている、と指摘します。このような対立はいつくかの社会的動物種でも発生します。チンパンジーはヒトのように世界を「我々」と「彼ら」に分けます。したがってヒトでは、暴力は本質的現象の意味で理解されるべきで、ヒトは善悪を問わず暴力を制限できるものの、完全に克服することはできない、と本論文は指摘します。本論文は持続可能な未来について、継続的な対話による文化と宗教の間の障壁の除去と同様に、多民族社会への相互の敬意・寛容・開放性を通じてのみ達成されるだろう、との展望を提示しています。

 以上、ざっと本論文について見てきました。本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈におけるヒト集団の虐殺について、ヒトの暴力の深い進化的起源を示す一例になると指摘しつつ、それを克服するような特質もヒトは進化の過程で得てきたことを強調しています。持続可能な未来に関する本論文の提言は尤もではありますが、総論賛成各論反対は人類社会の普遍的事象とも言え、実行は容易ではないでしょう。とはいえ、文字記録の残っている以前も含めて人類史から知見を得て、試行錯誤していくしかない問題である、とも思います。

 本論文は戦争の起源との関連でも注目されます。戦争の起源に関しては、注目が高いこともあり、今でも激しい議論が続いています(関連記事)。この問題は通俗的には、「本能」なのか「後天的」なのか、「タカ派」なのか「ハト派」なのか、といった単純な二分法的議論が浸透しているように思います。しかし、本論文の知見からも示されるように、ヒトに集団暴力へと向かわせる深い進化的基盤があることは否定できません。とはいえ、ヒトの暴力は常に発動されるわけではなく状況次第でもあり、少なくとも一定以上は制御可能であることも確かです。その意味で戦争の起源に関する論点は、更新世の狩猟採集社会が暴力的で、国家の成立によりそうした暴力が抑制されるようになったのか、あるいはその逆なのか、ということなのかもしれません。もちろん、それも単純にすぎる見方で、もっと複雑で包括的な説明が可能なのかもしれません。戦争の起源については、人類の今後にも大きく関わってくる問題なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Alt KW. et al.(2020): A massacre of early Neolithic farmers in the high Pyrenees at Els Trocs, Spain. Scientific Reports, 10, 2131.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58483-9

先コロンブス期の人為的活動に起因するアマゾン川流域の植物の優占種

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、先コロンブス期の人為的活動に起因するアマゾン川流域の植物の優占種に関する研究(Levis et al., 2017)が公表されました。日本語の解説記事もあります。アマゾン川流域における植物の栽培は8000年以上前から行なわれています。この研究は、植物の栽培がもたらす永続的な影響をより詳しく理解するため、アマゾン川流域の1170ヶ所の森林区域及び4000種類以上の植物種に関する既存データを解析しました。これにより、先コロンブス期の人々により一時的・部分的あるいは完全に栽培されていた植物種が85種類特定されました。

 その結果、これらの栽培種は栽培されていなかった種に比べて優占種となっている可能性が5倍も高い、と明らかになりました。さらに、栽培種は先コロンブス期の居住地・塚・棚地及び岩絵といった遺跡周辺に集中していることも明らかになりました。アマゾン川流域における栽培種の相対的な数の多さと豊富さの変化の30%は地域の環境条件により説明がつき、またその20%は過去の人間活動を表す指標により説明できる、と本論文は推測しています。

 この知見は、ヒトが栽培種によりアマゾン川流域の森林を豊かにしたのか、あるいは元々これらの種が豊富だったために人間がその近くに住むことを選択したのかという、「卵が先か、鶏が先か」に類似した問題を提起している、と本論文は指摘します。本論文はこれについて、他には見られない生態的地位の存在と複数の栽培種が予期しない場所で見つかっていることなどから、ヒトがアマゾン川流域の森林を豊かにした可能性が高い、と推測しています。先コロンブス期アメリカ大陸での人為的開発の程度については今でも議論されているようですが、さまざまな証拠からは、大規模なものだった可能性が高いのではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
Levis C. et al.(2017): Persistent effects of pre-Columbian plant domestication on Amazonian forest composition. Science, 355, 6328, 925-931.
https://doi.org/10.1126/science.aal0157

古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃に関する研究(Evans et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。紀元後800~1000年頃となる古典期終末期のマヤ文化の崩壊は一般的に、過去の気候急変が古代社会の衰退にどれほど大きな影響を及ぼすのか、という事例として使用されます。マヤ地域の古気候研究では、古典期マヤ社会の崩壊が異例な乾燥期に起きたことは示されているものの、この時期が実際にどの程度乾燥していたのか、明確になっていません。大半の気候データは、たとえば他の時期より単純に湿度が高い、もしくは乾燥しているなど、質的な復元に限られています。

 この研究は、沈殿石膏を含む堆積物コアを使ってメキシコのチチャンカナブ(Chichancanab)湖の水の同位体組成を復元しました。この研究は、過去の乾燥状態の代用として、湖の底に層状に沈殿した石膏の結晶構造に組み込まれた水分子の三重項酸素と水素の同位体組成を測定しました。その結果、古典期終末期、マヤ低地の年間降水量は平均で約50%、最も乾燥していた時期では最大70%も減少していたことを発見しました。また、現在と比較して相対湿度が3~8%減少していたという測定結果も初めて出せました。この知見により、低地マヤ社会が経験した旱魃の深刻さと継続期間が明らかになったとともに、マヤの農耕および社会政治的システムに対する旱魃の影響をより深く理解するために必要な定量的データが得られました。


参考文献:
Evans NP. et al.(2018): Quantification of drought during the collapse of the classic Maya civilization. Science, 361, 6401, 498-501.
https://doi.org/10.1126/science.aas9871

マヤ文化における貯蔵・流通

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、マヤ文化における貯蔵・流通に関する研究(McKillop et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。塩は生命の維持に不可欠ですが、人類の主要な生業が狩猟採集から農耕へと移行していく時期に、人類が塩をどのように確保していたのか、明確ではありませんでした。この研究は、ベリーズのマヤ文化期のパインズ・クリーク製塩遺跡群(Paynes Creek Salt Works)と呼ばれる遺跡群の石器分析から、貴重な塩をどのように生産・貯蔵して流通させていたのか、推測しています。マヤ文化は紀元前 1000 年頃から紀元後 16 世紀にスペインが侵略するまで、アフリカやユーラシアとの交流なしに中央アメリカ大陸で独自に発達した都市文化でした。マヤ人は鉄器や大型の家畜を使わず、石器を主要利器として高さ 70mに及ぶ石造神殿ピラミッドを人力で建造しました。マヤの支配層 は、16世紀以前のアメリカ大陸で4万~5万に及ぶ文字や、暦・算術・天文学を発達させました。このうち、紀元後300~900年がマヤ文化古典期となります。

 パインズ・クリーク製塩遺跡群は、周囲をマングローブの林に囲まれ、海面上昇により塩水ラグーンの下に沈んでおり、面積は約7.8㎢です。海面上昇により、一帯の遺跡は完全に水没していました。マングローブが堆積してできた酸性の泥炭は、炭酸カルシウムで構成される骨・貝殻・小型の遺骸を分解してしまうため、発掘では魚や動物の骨はほとんど出土しませんでした。一方、マングローブの泥炭には、中央アメリカ大陸の熱帯雨林で通常なら腐敗してしまう木材を保存する性質もあります。残されていた木材は2004年に発見され、 4000 本以上の木杭が手がかりとなって、塩水を入れた甕を火にかける方式で製塩を行なっていた作業所がこの一帯に多数存在した、と明らかになりました。土器を使用する伝統的な製塩の手法は現代にも受け継がれ、土器製塩と呼ばれています。

 パインズ・クリーク製塩遺跡群で発見された20 点のチャート製石器の使用痕は、高倍率の金属顕微鏡で分析されました。このうち一部の石器には木の加工の使用痕が確認されましたが、大部分のチャート製石器は魚・肉・皮の加工に使用された、と明らかになりました。石器の使用痕データは、マヤ文化の経済活動や食生活を検証する上できわめて重要な意味を有します。パインズ・クリーク製塩遺跡群では紀元後600~900年に、住居内ではなく木造の製塩作業小屋の中で一世帯の消費量を大幅に上回る塩が生産されました。塩はカリブ海沿岸部だけでなくマヤ低地内陸部とも交換されました。

 先コロンブス期の中央アメリカ大陸において、家畜はイヌと七面鳥だけでしたが、この研究は、古典期マヤ人が他にも動物性タンパク質を摂取していた、との見解を提示しています。この研究は石器の使用痕データから、塩漬けや干し物にされた海産魚のマヤ低地海岸部からマヤ低地内陸部の地域間交換が、一定の動物性タンパク質の供給を担っていた、と推測しています。使用痕分析されたチャート製石器は、魚・肉・皮の加工に主に使用されていました。近隣のワイルド・ケイン・キー遺跡の住居跡のゴミ捨て場からは、アジやスズキなどの骨が出土しています。こうした魚の干物を作る際に、チャート製石器で魚の腹を切り開いて内蔵を出した、と考えられます。皮の搔き取りに関する使用痕は、魚を塩漬けにするさいに塩分の浸透を促進するため鱗を取る作業だった、との可能性が指摘されています。パインズ・クリーク製塩遺跡群から出土したカヌーと木製櫂からは、ベリーズ沿岸部から内陸部の途中までカヌーが輸送に用いられた、と示唆されます。たとえば、内陸部のルバアントゥン遺跡では、動物遺存体の39%はアジやスズキを含む海産魚です。さらに内陸部のティカル遺跡やセイバル遺跡においても、海産魚の骨が出土しており、魚の干物は徒歩で内陸部に輸送された、と推測されています。

 ただ、パインズ・クリーク製塩遺跡群では、魚の背骨1 点とマナティの肋骨片1 点が出土しているだけです。骨の出土量がきょくたんに少ないのは、マングローブ泥炭は酸性なので、上述のように、土器の夾雑物の石灰岩やマングローブ泥炭に堆積した牡蠣の貝殻の炭酸カルシウムが溶け出し、魚骨や他の骨が保存されにくいことも一因として考えられます。しかしこの研究は、魚全体が塩干しによる干物として骨ごと内陸部に運ばれたのが主因だろう、と推測しています。仮に魚の干物の重量を減らすために頭部を切除したのならば、骨を切断した使用痕が石器に残っているはずですが、パインズ・クリーク製塩遺跡群のチャート製石器には骨の加工に関する使用痕は全く確認されていません。一方、カリブ海沿岸の古典期マヤ人は、マナティの肉を食用しました。一部の分析石器から、マナティなど動物の肉の切断や皮の搔き取りに使われた可能性が指摘されています。

 マヤ低地海岸部からマヤ低地内陸部への地域間交換品としては、これまでに塩・カカオ豆・放血儀礼に用いられたアカエイの尾骨・海の貝などが挙げられてきました。これらの交換品に加えて、海産魚の干物が、マヤ低地の地域間交換において従来考えられていたよりも重要な役割を果たしていた可能性が高い、とこの研究は指摘します。逆にマヤ低地内陸部からは、トウモロコシや他の物資が運搬された、と推測されています。調味料としての塩だけでなく、塩漬けにされた魚の干物は、ユーラシア東西で古くから動物性タンパク質の保存食や交易品として重要な役割を果たしてきました。塩干しによる魚の干物は長期間にわたって貯蔵できます。塩と魚の干物は貯蔵可能で、マヤ低地内陸部の食料の不足を補い、古典期マヤ諸王国の富の蓄積に重要な役割を果たした、と考えられます。これらの知見により、マヤ文化古典期の人々が生命維持に必要な塩をどのように生産して流通させていたのか、具体的なモデルとして描けるようになりました。


参考文献:
McKillop H, and Aoyama K.(2018): Salt and marine products in the Classic Maya economy from use-wear study of stone tools. PNAS, 115, 43, 10948–10952.
https://doi.org/10.1073/pnas.1803639115

航空調査によるマヤ文化の見直し

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、航空調査によるマヤ文化の見直し関する研究(Canuto et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。マヤ低地中央部は大部分が深い森林に覆われた地域のため新たな遺跡の発見は困難で、1集落を完全に地図化して特徴を明確にするには長い年月を必要とします。そのため、マヤ文化の都市生活様式や人口や土地利用や社会政治的複雑性についての情報は限られていました。しかし航空調査では、レーザー光線のパルスを使って土地被覆と地形の3D地図を作製する技術が用いられ、広範囲にわたる林冠の下の地面の詳しい地図が迅速に作製されるので、建造物や道路や農業の様子を景観スケールで記録できます。この研究は、マヤ低地地域についてこれまでで最大規模の航空調査の結果を発表しました。

 この研究は、グアテマラのペテン県にある隣り合わない合計2000㎢の12地域の地図を作製し、マヤ低地の様々な地域を対象に、都市から奥地までのマヤ集落の特徴を明らかにしました。この研究は、61000以上の古代建造物が確認されたことから、紀元後650~800年頃となる古典期後期のマヤ低地一帯には1100万人以上が居住していた、と推測しています。また、この地域の各地にある多数の湿地帯は大幅に農業用に変えられ、道路網は遠く離れた都市や町をつなぎ、一部の都市や町はしっかりと要塞化されていた、と明らかにしました。これは予期していなかった結果でした。ただ、こうした航空調査は従来の「現場に実際に足を運ぶ」考古学的調査方法に替わるものでなく、それだけに頼らないよう、中位が喚起されています。


参考文献:
Canuto MA. et al.(2018): Ancient lowland Maya complexity as revealed by airborne laser scanning of northern Guatemala. Science, 361, 6409, eaau0137.
https://doi.org/10.1126/science.aau0137

忘却を制御するミクログリア

 ミクログリアによる忘却の制御に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトの脳は、記憶を記憶痕跡(動的なシナプス回路によりつなぎ合わされているニューロン集団)にコードし、保存すると考えられています。これらのシナプス結合を経て記憶痕跡を再活性化することで、特定の記憶を思い出せます。記憶痕跡を再活性化できない場合は、関連した記憶を失うことになります。脳のシナプス結合は非常に動的なので、シナプス回路の再配線が、記憶痕跡細胞をつなぐネットワークの減弱化または切断により、過去に形成された記憶の喪失に寄与している可能性があります。

 脳に存在するマクロファージであるミクログリアは、脳発達時の過剰なシナプスの切り取りを担っており、生涯のシナプスのダイナミクスの制御に関与しています。しかし、ミクログリアの活動が成熟した脳の忘却と記憶の抹消も制御しているのかどうか、不明でした。この研究は、記憶を訓練したマウスの健康な脳のミクログリアと記憶痕跡細胞を観察し操作して、忘却の制御における働きを検証しました。ミクログリアを欠損させるかその活性を阻害すると、忘却が阻害された、と明らかになりました。この知見は、完全なミクログリアが記憶痕跡細胞の解離を媒介し、関連する記憶の分解および最終的には消去を引き起こす、と示唆しています。記憶痕跡細胞の活動を阻害することも、ミクログリアによる記憶痕跡細胞シナプスの消去を促進し、あまり活動的でない記憶を忘れさせました。

 良くも悪くも記憶を忘れる能力は、ミクログリアと、ミクログリアが記憶痕跡ニューロンをつなぐシナプスを減弱させ消失させる傾向に依存している、というわけです。この知見は、脳の発達中に活動的であることが知られているミクログリアが高齢期の忘却にも影響しているのかどうかという疑問に答えるもので、記憶の抹消の基礎となる重要な機構を提示し、忘却と健忘症の理解に役立つ可能性がある、と指摘されています。


参考文献:
Wang C. et al.(2020): Microglia mediate forgetting via complement-dependent synaptic elimination. Science, 367, 6478, 688–694.
https://doi.org/10.1126/science.aaz2288

中国の紀元前の陵墓で発見された絶滅テナガザル

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、中国の陵墓で発見された絶滅テナガザルに関する研究(Turvey et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究は、中華人民共和国陝西省西安市長安区にある2300~2200年前頃の陵墓で発見されたテナガザルについて報告しています。この陵墓には、秦の孝文王の側室で荘襄王の母(つまり、少なくとも系図上は始皇帝の父方祖母となります)である夏太后(夏姫)が葬られている、と推測されています。

 この陵墓ではテナガザルの遺骸が発見されましたが、当時、テナガザルは「高貴な動物」と認識され、上流階級層にペットとして飼われていました。そのため、このテナガザルは夏太后に飼われていた、と考えられます。このテナガザル遺骸はおもに不完全な顔の骨が残っており、頭蓋と歯の寸法の詳細分析と他の現生および絶滅テナガザル種との比較の結果、新属新種(Junzi imperialis)に分類されました。

 これにより、アジア東部には歴史時代にこれまで未知の類人猿が存在し、おそらくはヒトの直接的活動により絶滅した、と示されました。この研究はまた、ヒトに起因するさまざまな霊長類の絶滅が過小評価されている可能性を指摘しています。テナガザルに関しては、10世紀に長安近郊で捕獲され、18世紀まで陝西省に生息していた、との記録が残っており、記録のない現在は絶滅している他の種の存在も示唆しています。人類による動物の絶滅は、とくに現生人類(Homo sapiens)においては、普遍的な事象なのでしょう。


参考文献:
Turvey ST. et al.(2018): New genus of extinct Holocene gibbon associated with humans in Imperial China. Science, 360, 6395, 1346-1349.
https://doi.org/10.1126/science.aao4903

アリにおける真社会性の制御の遺伝的基盤

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、アリにおける真社会性の制御の遺伝的基盤に関する研究(Chandra et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。全てのアリは真社会性(eusociality、生殖役割が一部のメンバーに特化されることを含めた高度な社会性)を有すると考えられており、一つのコロニー内のほとんどのアリの個体は、自らの生殖能力を放棄して、産卵する女王アリに仕えています。この研究は、こうした行動がインスリンシグナル伝達と、インスリン様ペプチド2遺伝子(ilp2)の発現により制御されている、と明らかにしました。

 真社会性を有するアリに共通して見られる生殖役割の厳格な分化は、アリの共通祖先におけるまだ分化が不完全な社会に見られる生活周期、つまり生殖と卵の世話の役割が交互に担われていたことを反映している、と考えられます。最終的に、このような周期的な生殖行動は、現在の真社会的コロニーに見られる、産卵する女王アリと卵の世話をする働きアリという固定した役割を反映するように適応してきました。しかし、真社会性の起源とその遺伝的な基盤は不明で、なぜ女王アリが産卵するのに働きアリに限って産卵しないのか、という疑問は未解決のままでした。

 この研究はトランスクリプトーム解析の手法を用いて、様々な生殖戦略の数種のアリを対象として、生殖を行なうアリと行なわないアリの脳内で発現の仕方が異なる複数の遺伝子を検証しました。この研究は、生殖を行なうアリではインスリン様ペプチド2遺伝子(ilp2)が恒常的に高度に発現されていた、と明らかにしました。この研究は次に、それほど明確な労働分業を示さないアリ(クローナルレイダーアント)において、遺伝子ilp2が生殖サイクルに果たす役割を検証し、ilp2の発現が低下している幼虫の存在を明らかにしました。しかし、ilp2がコードするペプチドの濃度を高めることで、このような幼虫のシグナル伝達のあり方を変えることができ、働きアリと女王アリの分化がより厳格に確立されました。

 これらの知見は、インスリンシグナル伝達がいかなる真社会性の調節においても関与することを示しており、そうした行動の起源について、分化が不完全な祖先の社会において幼虫に対する栄養の与えられ方の違いがシグナル伝達により強められた、と推測されます。アリはとくに複雑な社会を形成する動物ですが、そうした真社会性が発達するうえで、単一の遺伝子の発現が決定したわけではないとしても、強い影響を及ぼした可能性が考えられる、というわけです。


参考文献:
Chandra V. et al.(2018): Social regulation of insulin signaling and the evolution of eusociality in ants. Science, 361, 6400, 398-402.
https://doi.org/10.1126/science.aar5723

深く潜水して捕食者から逃れるクジラ

 深く潜水して捕食者から逃れるクジラに関する研究(Soto et al., 2020)が公表されました。この研究は、潜水の深さ・潜水時の角度と発声を探知するセンサーを装着したアカボウクジラ(Ziphius cavirostris)とコブハクジラ(Mesoplodon densirostris)合計26頭から得られたデータを解析しました。これらのクジラは、きめ細かく調整された潜水行動で深い水域に移動し、反響定位(音を使って獲物を探すこと)によって採餌しており、シャチに捕獲されやすい浅い水域では発声を抑制していました。これらのクジラが発声を始めたのは、平均水深450m地点で、それから個別に餌を探し始めました。その後、クジラは平均水深750m地点で再び群れになり、平均水平距離1kmをかけて浅い角度で静かに浮上しました。深く潜水するクジラは他にもいますが、こうした行動は観察されていません。

 この研究は、これらのクジラが、シャチの攻撃範囲内の水深から離れるまで発声を抑制し、浮上する地点を予測できないようにして、シャチの追跡を防いでいる、と推測していますが、この戦略のコストが大きいことも指摘しています。1時間以上の長い時間をかけて潜水から静かに浮上するために、他のハクジラ類が用いる潜水戦略と比べて、採餌時間が約35%短縮されます。これらの新知見は、アカボウクジラとコブハクジラの独特な潜水・発声行動を駆動する強い進化力が捕食リスクであった可能性を示唆しています。これは、クジラの大量座礁に関係があるとされてきた、海軍ソナーに対するクジラの反応を説明する上で役立つかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【海洋生物学】捕食者から逃れるために群れの中で協調して深く潜水するクジラ

 群れで行動するアカボウクジラとコブハクジラは、極端な同調潜水行動を通じて、捕食されるリスクの低減を図っていることを明らかにした論文が、今週Scientific Reportsに掲載される。深く潜水するクジラは他にもいるが、こうした行動は観察されたことがない。この行動の根底にある理由は分かっていない。

 今回、Natacha Aguilar de Soto、Mark Johnson、Peter Madsenたちの研究チームは、潜水深さ、潜水時の角度と発声を探知するセンサーを装着したアカボウクジラとコブハクジラ(合計26頭)から得られたデータを解析した。これらのクジラは、きめ細かく調整された潜水行動で深い水域に移動し、反響定位(音を使って獲物を探すこと)を行って採餌しており、シャチに捕獲されやすい浅い水域では発声を抑制していた。これらのクジラが発声を始めたのは、平均水深450メートルの地点で、それから個別に餌を探し始めた。その後、クジラは、平均水深750メートルの地点で再び群れになり、平均水平距離1キロメートルをかけて浅い角度で静かに浮上した。

 この研究チームは、これらのクジラが、シャチの攻撃範囲内の水深から離れるまで発声を抑制し、浮上する地点を予測できないようにして、シャチの追跡を防いでいるという考えを示しているが、この戦略のコストが大きいことも指摘している。1時間以上の長い時間をかけて潜水から静かに浮上するために、他のハクジラ類が用いる潜水戦略と比べて採餌時間が約35%短縮される。

 以上の新知見は、アカボウクジラとコブハクジラの独特な潜水・発声行動を駆動する強い進化力が捕食リスクであった可能性を示唆している。このことは、クジラの大量座礁に関係があるとされてきた海軍ソナーに対するクジラの反応を説明する上で役立つかもしれない。



参考文献:
Soto NA. et al.(2020): Fear of Killer Whales Drives Extreme Synchrony in Deep Diving Beaked Whales. Scientific Reports, 10, 13.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-55911-3

ミトコンドリアDNAの進化への気温の影響

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の進化への気温の影響に関する研究(Lajbner et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトを含む多細胞生物のDNAの大部分は、細胞の核内に折りたたまれて格納されています。しかし、ごくわずかですが、ミトコンドリアと呼ばれる、細胞に必要なエネルギーを産出し、細胞内の様々な代謝を調整する細胞内小器官の中にも、DNAが収められています。核内DNAが両親からの遺伝情報を受け継ぐのとは異なり、mtDNAは母親から子へと受け継がれます。長年にわたり、この小さなmtDNAの塩基配列多型は、細胞機能に影響を与えることもなく、また自然淘汰を受けることもない、と考えられてきました。そのため、遺伝学の研究から気候変動の研究に至る多様な分野で、mtDNAは個体群や生物種間の関係や進化の過程を調べる最良のツールとして利用されてきました。

 しかし近年では、mtDNAの多型の中でも、状況によりある多型のタイプが選択される、と報告されています。この研究は、これまで考えられてきた以上にmtDNAが自然選択受けやすい、との見解を提示しています。この研究は、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)を用いて、生息環境の気温の違いがmtDNA多型の一種の選択におよぼし得ることを示しました。これは、自然界におけるmtDNA多型の存在頻度に対する温度選択圧の影響を示唆する、初めての試みとなります。

 この研究は、オーストラリア東海岸に生息するショウジョウバエの間で見られる2種のmtDNA多型を調査しました。一方はオーストラリア北部地帯の温暖な亜熱帯性地域で一般的に見られるショウジョウバエ群で、もう一方はより寒冷な南部地帯に一般的にみられるショウジョウバエ群です。この研究は、それぞれの地域でショウジョウバエを採集し、これらの2群間で相互交配をすることで遺伝的に均一な個体群を作り、それを4つの実験群に分けました。2つの実験群はそれぞれ19℃と25℃の定温で飼育し、残りの2群は、ショウジョウバエが採集された2ヶ所の1日の気温の変化を再現した環境で飼育しました。この研究は3ヶ月経過した後、各実験群のmtDNAの塩基配列を決定しました。この研究はまた、ショウジョウバエの体内に生息する共生細菌ボルバキア(Wolbachia)の存在が、mtDNAの選択におよぼす影響も調べました。結果を区別するために、一部のショウジョウバエには抗生物質を使用し、実験前からボルバキア感染の可能性を完全に取り除きました。

 温暖な環境(25度の恒温状態)で飼育されたショウジョウバエ群では、2つのmtDNA多型のうち、一方の多型をもつ個体がもう一方の多型を持つ個体に比べて多い、と明らかになりました。このmtDNA多型は温暖な北部地域に生息するショウジョウバエに広く見られるものと同一でした。一方で、寒冷な環境(19℃の恒温状態)で飼育されたショウジョウバエ群では、寒冷な南部に生息するショウジョウバエに広くみられるmtDNA多型タイプを持つ個体が多い、と明らかになりました。しかし、これら二つの結果は、事前にボルバキア感染を抗生物質により除去したグループのみで確認されました。さらに明らかになったのは、オスのショウジョウバエで観察された多型パターンが、必ずしもメスのショウジョウバエで見られるパターンと一致するわけではない、ということでした。

 これらの結果は、気温がmtDNAの多型パターンに影響を与えることを示しています。さらに、気温のみならず、性別や微生物による感染などの要素もミトコンドリアゲノムの進化に影響し得る、と示唆しています。今後の課題として、ミトコンドリアゲノムのどの部分が気温に敏感に反応するのか特定し、さらにそのメカニズムを理解する研究が必要と指摘されています。また、今後mtDNAを遺伝的ツールとして使用するさいには、温度環境に反応して変化する可能性を考慮する必要がある、とも指摘されています。本論文刊行後の研究では、ヒトにおけるミトコンドリアへの選択圧とトレードオフ(交換)が指摘されており(関連記事)、ミトコンドリアへの選択圧は生物において一般的だった、と考えられます。また、エネルギー産生というミトコンドリアの主要な役割から、この研究が示したように、そうした選択圧はおもに気温への適応に関わっているのではないか、とも予測されます。ヒトも含めて、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Lajbner Z. et al.(2018): Experimental evidence that thermal selection shapes mitochondrial genome evolution. Scientific Reports, 8, 9500.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-27805-3

以前の推測より複雑だったトウモロコシの栽培化

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、トウモロコシの栽培化に関する研究(Kistler et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。トウモロコシはメキシコの野草テオシントが進化した栽培種で、南北アメリカ大陸全域に急速に拡散しました。古代、トウモロコシは農地のいたる所で栽培され、16世紀にヨーロッパ人が本格的にアメリカ大陸に到達した頃には、アメリカ大陸でありふれた食物源になっていました。トウモロコシがかつて栽培化されたことは広く知られていますが、その栽培化や南米での拡散の基本的な部分は依然として不明で、さらに、既存の考古学およびゲノムデータも必ずしも一致していませんでした。

 この研究は、南アメリカ大陸のトウモロコシのうち、栽培化された在来品種と考古学的試料である古代トウモロコシのゲノム配列を決定し、それらを世界各地の現代および古代のトウモロコシとテオシントの遺伝系統種と比較しました。その結果、トウモロコシの祖先は「栽培化半ばで」南アメリカ大陸に伝播した、とこの研究は推測しています。トウモロコシは、栽培化を示す遺伝的特徴が定着する前にメキシコの先祖から分離し、それらとは明らかに異なる南アメリカ大陸系統種が進化した、というわけです。一部のトウモロコシ種はその後引き続いてヒトが選択し、完全に栽培化しました。この研究は、ゲノムに関する研究結果と考古学的・古生態学的・言語学的データを組み合わせ、似てはいるものの別物である二次改良はアマゾン南西部で始まった、と推測しています。9000年前頃に現在の中央メキシコで始まったトウモロコシの栽培化は、以前考えられていたよりかなり複雑で微妙に異なるものだった、というわけです。


参考文献:
Kistler L. et al.(2018): Multiproxy evidence highlights a complex evolutionary legacy of maize in South America. Science, 362, 6420, 1309–1313.
https://doi.org/10.1126/science.aav0207

社会的行動を駆動する神経回路の生化学的影響

 社会的行動を駆動する神経回路の生化学的影響に関する研究(Demir et al., 2020)が公表されました。生物は、配偶相手と遭遇して相手を評価する可能性を高めるために、さまざまな行動戦略を進化させてきました。多くの種は、配偶者となり得る相手の位置や、性的・社会的状態についての情報を伝達するために、フェロモンを使っています。マウスでは、雄に存在する主要な尿タンパク質のダーシン(darcin)が、雌による接近を誘発し、学習を促すにおいマーカーの成分になっています。この研究は、ダーシンが誘引・超音波発声・尿マーキングを含む複雑かつ多様な行動レパートリーを誘発するとともに、学習パラダイムの強化因子としても働いていることを示しています。

 この研究は、ダーシンに対する全ての行動反応に必要な、副嗅球から発して扁桃体内側核後部に至る遺伝的に決定された回路を突き止めました。さらにこの研究が、扁桃体内側核のダーシン応答性ニューロンを光遺伝学的に活性化すると、ダーシンが誘発する生得的行動と条件付けされた行動の両方が誘発されました。これらのニューロンは、ニューロン性の一酸化窒素合成酵素を発現する地理的に分けられた細胞集団をなしています。この研究は、ダーシンで活性化するこの神経回路が、フェロモン情報を自己の内部状態と統合し、配偶相手との遭遇と配偶者選択を促す可能性のある、可変性の生得的行動と学習強化された行動の両者を誘発している、との見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:フェロモンであるダーシンは生得的行動と学習強化された行動の回路を駆動する

神経科学:神経回路の生化学的影響が社会的行動を駆動する

 ダーシン(darcin)は雄の齧歯類尿中の主要タンパク質で、おそらく配偶者選択に関わっている。今回R Axelたちは、副嗅球と扁桃体を含む神経回路を明らかにし、これがダーシンに応答してこのフェロモンに関連した全応答を駆動することを示している。



参考文献:
Demir E. et al.(2020): The pheromone darcin drives a circuit for innate and reinforced behaviours. Nature, 578, 7793, 137–141.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1967-8

大河ドラマ『麒麟がくる』第4回「尾張潜入指令」

 1548年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)春、織田軍は侵攻してきた今川軍と戦いますが、決着はつかず、織田信秀は肩に屋を受けてしまいます。斎藤利政(道三)は、体調がすぐれないと噂の信秀と懇意の望月東庵を脅迫して、信秀の状態を探らせようとします。鉄砲をまだ上手く扱いきれない明智光秀(十兵衛)は、主君の利政に命じられ、望月東庵の助手の駒を人質として、菊丸とともに尾張に潜入します。東庵に薬草を届けた光秀と菊丸は信秀の命を受けた家臣に襲撃されますが、石を投げた者たちに救われ、逃げることに成功します。東庵は、信秀がもう長くはないと見立てて、光秀からそう伝えられた利政は満足します。

 今回の注目点の一つは、信秀の人物像が描かれたことです。戦いでは利政に圧倒されてしまった信秀ですが、利政と同じくしたたかな戦国時代の領主といった感じで、キャラが立っています。望月東庵もそうですが、今のところ、本作はおおむね人物造形に成功しているように思います。ただ、駒はやや微妙なところがあり、第二の主人公という設定らしいので、多少不安は残ります。今回の注目点としては、光秀が尾張で織田の人質とされていた竹千代(徳川家康)と遭遇したことと、光秀と本能寺との因縁が若い頃からあった、との設定です。織田の家臣たちに襲撃された光秀を助けたのが誰なのか、ということも気になりますが、序盤から色々と伏線が張られているようで、楽しみです。

北海道の縄文時代のコクゾウムシ混入土器

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、北海道の縄文時代のコクゾウムシ混入土器に関する研究(Obata et al., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。コクゾウムシ(Sitophilus zeamais)はオサゾウムシ科の甲虫で、貯蔵米の害虫として知られています。2003年頃より、土器の表面や断面についたタネやムシの痕跡を探る土器圧痕法という研究手法により、日本全国で縄文土器を中心にコクゾウムシの圧痕が多数検出されてきました(関連記事)。このコクゾウムシは、現在では、圧痕で発見される昆虫の9割以上を占めています。

 本論文の筆頭著者である小畑弘己氏の研究チームは、2010年、1万年前頃のコクゾウムシ圧痕を日本南部の種子島で発見し、それまでイネとともに朝鮮半島経由でユーラシア大陸から渡来したと考えられてきたコクゾウムシが、イネの伝播よりずっと前からドングリやクリなどの貯蔵堅果類を加害する害虫だった、と明らかにしました。小畑氏たちは、土器圧痕調査を進める中で、2012年には日本の北部に位置する青森県三内丸山遺跡においてもコクゾウムシが存在する、と明らかにしました。寒い冬を迎える地域にもコクゾウムシが生息していたことは、ヒトによる食料の拡散と冬でも暖かな屋内環境があったことを示すもので、現代の貯蔵食物(穀物)害虫拡散のメカニズムがすでに縄文時代にあった、と推定されます。

 小畑氏たちは、2013年から開始した北海道の館崎遺跡における土器圧痕調査の過程で、北海道で初めてコクゾウムシ圧痕を発見し、2016年2月にはコクゾウムシが多量に土器の粘土中に練り込まれた土器を発見しました。小畑氏たちはこの土器をX線CT撮影し、断層に現れるコクゾウムシの空隙を数え、土器の残存部に417点のコクゾウムシ成虫が含まれている、と明らかにしました。さらに、土器は部分的に欠落箇所があり、これらが完全に残っていた場合、土器の表面積の計算上、501点という多量のコクゾウムシ成虫が入っていた可能性もあります。

 また本論文は、全国で発見された43ヶ所337点のコクゾウムシ圧痕の体の大きさを計測・比較し、東日本のコクゾウムシの体長が西日本のコクゾウムシより2割ほど大きいことを発見しました。本論文はその大きさの違いについて、コクゾウムシの加害した食料(縄文人の利用堅果類)の違い、つまり、東日本のクリと西日本のコナラ属(イチイガシ、果実は通常ドングリと呼ばれます)の栄養価の違いに起因する、と推定しています。さらに本論文は、クリは北海道には本来自生せず、これまでの研究において、三内丸山遺跡に代表される円筒土器文化圏の人々が北海道へ運んだものと考えられていることから、館崎遺跡におけるコクゾウムシの発見は、東北の縄文人たちが船で津軽海峡を越えて、コクゾウムシに加害されたクリ果実を運んだ証拠である、という可能性を指摘しています。小畑氏は、多量のコクゾウムシ成虫が混入された意味について、縄文人たちがクリの化身としてクリ果実の豊穣を願って練り込んだのではないか、と推定しています。


参考文献:
Obata H, Morimotob K, and Miyanoshita A.(2019): Discovery of the Jomon era maize weevils in Hokkaido, Japan and its mean. Journal of Archaeological Science: Reports, 23, 137–156.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2018.10.037

ショウジョウバエの「文化伝達」

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ショウジョウバエの「文化伝達」に関する研究(Danchin et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。地域特有の伝統が生まれて存続できることこそ、文化の証だと考えられてきました。文化的伝統の社会伝達が、認知機能があまり発達していない種を含む、現在知られている非ヒト動物にも存在し得ることが理論上は示唆されていますが、その実証的証拠はほとんどありません。しかも、文化継承の根底にあるプロセスもよく分かっていません。

 この研究は、継承された特徴が社会的に学習されてほかの動物に広がること、という動物文化の機構的定義を提案し、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の交尾手順に当てはめています。この研究は一連の実験を通して、雌のショウジョウバエに他のメスがさまざまなパートナーと交尾するところを見せると、雌のショウジョウバエは他の雌から交尾相手に対する好みを素早く学習し、自らの交尾相手を選ぶさいにその好みを真似る傾向が強かった、と明らかにしました。この研究はさらに、この観察結果に基づくモデルにより、こうした社会的な学習と適合が地域特有の伝統を生み出して何千世代も維持し得ることと、考慮すべき進化的意味をもつことが裏づけられた、と指摘します。文化はヒトとごく一部の鳥類・哺乳類にしか存在しない、と以前は考えられていましたが、文化をもつ動物が次々に明らかにされてきており、この研究の知見は、文化が生物の系統樹においてもっと広範に存在する可能性を示唆しています。


参考文献:
Danchin E. et al.(2018): Cultural flies: Conformist social learning in fruitflies predicts long-lasting mate-choice traditions. Science, 362, 6418, 1025–1030.
https://doi.org/10.1126/science.aat1590

マラリアを伝搬する蚊の熱源探索行動

 マラリアを伝搬する蚊の熱源探索行動に関する研究(Greppi et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。温血宿主を発見して吸血するために不可欠なマラリアを伝搬する蚊の熱源探索行動は、昔は体温を低く保つための熱の回避に特化していた温度受容体に依存しています。現在マラリアを伝搬する蚊がこの受容体を持っているのは、熱源を標的にする、つまり餌を見つけるためです。この研究は、蚊の熱源探索阻止の方法を示唆しており、マラリアのような蚊が媒介する病気を抑制する新しい方法の開発指針になる、と期待されます。

 あらゆる媒介昆虫の中でもおそらく蚊は最もよく知られており、さまざまな病原体の宿主の伝搬に関与しています。ワクチンの使用や媒介蚊への殺虫剤使用といった方法でマラリアを抑制するのは難しい、と判明しており、研究者たちは代替手段を模索しています。病気を拡大する他の昆虫と同様に、蚊は体温感知の特殊な受容体を使って、餌である血液源を狙っています。しかし、蚊の熱源探索行動の分子基盤は解明されていません。この研究は、祖先伝来の冷却活性化受容体が、サハラ砂漠以南のアフリカの大半の地域でマラリアを伝搬する主要媒介蚊である、ガンビエハマダラカ(Anopheles gambiae)の熱感知に関与しているのかどうか、評価しました。

 この研究は、ゲノムレベル解析と標識CRISPR-Cas9突然変異体を用いて、進化過程で保存された感覚温度受容体IR21aを熱源探索行動の主要推進源として特定しました。Ir21aは他の昆虫では冷却受容体として熱の回避を仲介しており、これにより昆虫は最適な体温を維持できるようになっています。この研究は、ガンビエハマダラカの吸血習性が高温感知を促進するためのこの先祖伝来の温度受容体を転用して進化した、と推測しています。Ir21aの阻止により熱源探索行動が完全になくなることはありませんでしたが、雌の蚊が血液源を発見する能力は大幅に低下しました。これまでの媒介者生態の研究の中心は化学受容で、温度受容は比較的軽視されていましたが、この研究が熱感覚の大本を特定することで、生物の媒介による病気を抑制できる可能性が開けました。


参考文献:
Greppi C. et al.(2020): Mosquito heat seeking is driven by an ancestral cooling receptor. Science, 367, 6478, 681–684.
https://doi.org/10.1126/science.aay9847

井上寿一『論点別昭和史 戦争への道』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2019年11月に刊行されました。本書は、10の視点での敗戦までの昭和史(1926~1945年)です。それぞれ、天皇(なぜ立憲君主が「聖断」を下したのか)、女性(戦争に反対したのか協力したのか)、メディア(新聞・ラジオに戦争責任はなかったのか)、経済(先進国か後進国か)、格差(誰が「贅沢は敵だ」を支持したのか)、政党(なぜ政党内閣は短命に終わったのか)、官僚(なぜ官僚が権力の中枢を占めるようになったのか)、外交(なぜ協調外交が戦争を招いたのか)、日米開戦(なぜ回避できなかったのか)、アジア(侵略か解放か)です。

 本書は敗戦までの昭和史の現代的意義として、現代日本社会の諸問題の歴史的な起源が昭和の始まりにまでさかのぼることを挙げています。確かに、政治と官僚や国民世論に影響を受ける外交やさまざまな格差など、現代日本社会の諸問題の起点として、敗戦までの昭和時代は有益な視点を提供している、とは思います。本書は、上述のさまざまな論点に関して、著者の見解のみを提示するのではなく、論争史に言及しつつ、複数の見解を取り上げています。とはいっても、一般向けであることを意識して、さまざまな見解が比較的分かりやすく紹介されており、参考文献も多数掲載されているので、敗戦までの昭和史の入門書として適していると思います。

 本書で取り上げられている論点の中には、すでに他の新書などでも扱われているものもあり、当ブログで言及したものもありますが、興味深いものが多く、現代日本社会への示唆にもなっています。全体的に本書は、アメリカ合衆国との戦争の回避など、選択されなかった可能性の検証に力点を置いているように思います。たとえば、敗戦前の政党政治は五・一五事件で終わり、敗戦後に復活しましたが、五・一五事件の後もしばらくは、政党政治の復活が有力視されていた、というような見解です。では、なぜ政党政治が敗戦前には復活しなかったのか、という視点から、本書は昭和初期日本の特徴を解明していこうとします。本書は、敗戦前日本の政党政治が大日本帝国憲法下の高度な分権体制を動かせる強力なもので、世界恐慌や対外危機といった対外的要因と、官僚や軍部といった非選出勢力の進出と、政党の腐敗といった自壊的な対内的要因との複合効果により終焉した、との見通しを提示しています。

 本書は日本が最終的にアメリカ合衆国との戦争を選択したことに関して、何度も回避する機会があった、と指摘します。それが最終的に開戦に至った理由として、陸軍は「万一の僥倖」に賭け、海軍は組織利益を守るために避戦よりも開戦を選択した、と本書は指摘します。結果的に、陸軍はジリ貧に陥ることを恐れてドカ貧になってしまった、と言えるでしょう。アメリカ合衆国との関係を悪化させた要因として、よく日独伊三国同盟が挙げられますが、当時の日本の支配層には、これにより日本の外交的立場が強化され、アメリカ合衆国との交渉で有利になる、との思惑があったようです。しかし、独ソ戦が始まり、日本にとっての日独伊三国同盟の外交効果は低下した、と本書は指摘します。本書は、日本がアメリカ合衆国との戦争を回避できなくなった時点として、1941年6月を挙げています。同月22日に独ソ戦が始まり、25日に南部仏印進駐が決定されたからです。

ヒトの脳オルガノイドの適性

 ヒトの脳オルガノイドの適性に関する研究(Bhaduri et al., 2020)が公表されました。皮質オルガノイドは、実験室で培養され、3次元構造へ自己組織化する細胞塊で、発生段階のヒト大脳皮質の特徴をモデル化したものです。このようなオルガノイドモデルは、脳発生の研究で利用されることが多くなってきていますが、発生段階の脳とオルガノイドモデルに存在する細胞や分子のカタログの比較がほとんど行なわれていないため、オルガノイドモデルがどの程度正確なのか、不明です。この研究は、こうした論点に取り組むために、発生期や皮質領域が異なる個々のヒト初代皮質細胞約20万個の個別細胞の遺伝子発現プロファイルを記録し、それを参照リストとして用いて、オルガノイド培養物の正確性を測定しました。

 その結果、ヒトの脳内細胞とオルガノイド培養物には、いくつかの重要な違いがある、と明らかになりました。皮質の発生は、前駆細胞の成熟軌跡、さまざまな細胞サブタイプの出現、新生ニューロンの領域指定により特徴づけられます。ヒトの脳内細胞は、発生の過程でそれぞれ異なる軌跡をたどって、広範で多様な細胞サブタイプの集団を形成する、というわけです。対照的に、オルガノイドは広範なクラスの細胞を含みますが、細胞サブタイプごとのアイデンティティーや前駆細胞の適切な成熟を再現しません。オルガノイド培養物からは、成熟度の低い細胞種が生じる傾向が見られた、というわけです。

 皮質領域の分子シグネチャーはオルガノイドのニューロンに出現するものの、空間的に分離されていません。ヒトの脳細胞には領域特異的な特徴があり、皮質内の位置に依存していますが、こうした空間的構成がオルガノイドにはなかったわけです。オルガノイドは細胞のストレス経路も異所性に活性化し、これにより細胞タイプの指定が障害されました。しかし、オルガノイドのストレスやサブタイプの異常は、マウス皮質への移植により軽減されました。

 数多くの種類のオルガノイドを培養できるようになっていますが、オルガノイドを用いたヒトの脳の発生モデルは、生命の初期段階を忠実にモデル化するという点で充分とは言えず、さらなる改善が必要となります。この研究で示された知見は、ヒト脳発生モデルとしての皮質オルガノイドの正確度を評価および改善するための枠組みを提供します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


【神経科学】ヒトの脳オルガノイドの適性を調べる

 オルガノイドを用いたヒトの脳の発生モデルは、生命の初期段階を忠実にモデル化するという点で十分とは言えず、さらなる改善が必要だという考えを示す論文が掲載される。

 皮質オルガノイドは、実験室で培養され、3次元構造へ自己組織化する細胞塊のことで、発生段階のヒト大脳皮質の特徴をモデル化したものだ。このようなオルガノイドモデルは、脳発生の研究で利用されることが多くなってきているが、発生段階の脳とオルガノイドモデルに存在する細胞や分子のカタログの比較がほとんど行われていないため、オルガノイドモデルがどの程度正確なのかが明らかでない。今回、Arnold Kriegsteinたちの研究チームは、この論点に取り組むために、発生段階のヒト皮質から採取した約20万個の個別細胞の遺伝子発現プロファイルを記録し、それを参照リストとして用いて、オルガノイド培養物の正確性を測定した。

 ヒトの脳内細胞とオルガノイド培養物には、いくつかの重要な違いがあった。ヒトの脳内細胞は、発生の過程でそれぞれ異なる軌跡をたどって、広範で多様な細胞サブタイプの集団を形成するが、オルガノイド培養物からは、成熟度の低い細胞種が生じる傾向が見られた。ヒトの脳細胞には領域特異的な特徴があり、皮質内の位置に依存しているが、こうした空間的構成がオルガノイドにはなかった。数多くの種類のオルガノイドを培養できるようになっているため、Kriegsteinたちは、今回の研究とそれによって得られるカタログが、他の研究者がそれぞれの組織培養系の適性を評価する上で役立つことを期待している。


細胞生物学:皮質オルガノイドにおける細胞ストレスは分子サブタイプの指定を障害する

細胞生物学:ヒト脳発生のオルガノイドモデルには改善が必要か

 ヒト脳発生の三次元オルガノイドモデルが急速に取り入れられたことにより、神経回路の組み立てや機能について、新しい多くの知見が得られるようになっている。しかしA Kriegsteinたちは、オルガノイドの発生が脳の自然な発生を忠実に再現していない可能性があるという証拠を示している。ヒト脳の細胞は、発生中に異なる軌跡をたどって、広範で多様な細胞サブタイプのプールを生み出すが、オルガノイド細胞の運命の軌跡は、共通性が高くて成熟度が低く、細胞は似たような分子シグネチャーを示し、空間的分離を示さないようである。これらのデータや解析から、ヒト脳発生のオルガノイドモデルには改善の余地がある可能性が示唆された。



参考文献:
Bhaduri A. et al.(2020): Cell stress in cortical organoids impairs molecular subtype specification. Nature, 578, 7793, 142–148.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-1962-0

バラノピド類の長期保育と分類

 バラノピド類(varanopid)の長期保育と分類に関する二つの研究が報道されました。一方の研究(Maddin et al., 2020)は、バラノピド類の長期保育について報告しています。現在、長期保育としても知られる生後の子の保育は、鳥類や哺乳類や魚類など多くの脊椎動物で広く見られますが、他の動物群では見られません。過去の研究からは、約2億9800万~2億5100万年前となるペルム紀のアフリカ南部のバラノピド単弓類(Heleosaurus scholtzi)の化石に見られるものが、長期保育の最初の例と示唆されています。しかし、親と幼生が一緒に保存されている証拠はめったに発見されないため、その行動の進化を追うことは容易ではありません。

 この研究は、カナダのノバスコシア州で発見された、約3億6千万~2億9900万年前となる石炭紀の、木のような切り株の中に関節がつながった状態で一緒に保存されていた新種バラノピド類(Dendromaia unamakiensis)の成体と幼体の部分骨格を報告しています。これには成体1頭およびその後肢の後ろにいて尾で囲われている同族の幼体1頭が含まれ、この研究は、切り株内部の隠された場所がその親子の巣になっていて、そこで親が子を守りながら長時間過ごしていた、と推測しています。これは、長期保育がじゅうらいの想定よりも約4000万年さかのぼることを示唆します。

 ただ、こうしたバラノピド類が系統樹のどこに当てはまるのか、議論されてきました。これまで、バラノピド類は哺乳類の祖先である単弓類として分類されてきました。しかし、もう一方の研究(Ford, and Benson., 2020)は、バラノピド類が羊膜類の中でも哺乳類も含まれる単弓類ではなく爬虫綱に分類されるものの、トカゲ類・ヘビ類・カメ類・鳥類とはまた異なる分類群を形成する、という新たな系統樹を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【生態学】既知最古の長期保育の例

 これまで知られていなかった単弓類種(現在のオオトカゲに似た動物)の化石について報告する論文が掲載される。約3億900万年前のものであるその標本には、成体1頭およびその後肢の後ろにいて尾で囲われている同族の幼体1頭が含まれ、従来の想定から4000万年さかのぼる年代に長期保育(extended parental care)が始まったことを示唆している。

 現在、長期保育としても知られる生後の子の保育は、鳥類、爬虫類、哺乳類、魚類、両生類などの多くの脊椎動物に広く見られるが、他の動物群では見られない。過去の研究からは、ペルム紀(2億9800万~2億5100万年前)の南アフリカのvaranopid単弓類Heleosaurus scholtziの化石に見られるものが長期保育の最初の例であることが示唆されている。しかし、親と幼生が一緒に保存されている証拠はめったに発見されないため、その行動の進化を追うことは容易でない。

 Hillary Maddinたちは、石炭紀のカナダ・ノバスコシア州で木のような切り株の中に関節がつながった状態で一緒に保存されていたDendromaia unamakiensisというvaranopidの成体と幼体の部分骨格について紹介している。研究チームは、切り株内部の隠された場所がその親子の巣になっていて、そこで親が子を守りながら長時間過ごしていたのではないかと考えている。

 D. unamakiensisのようなvaranopidが正確には動物系統樹のどこに当てはまるのかについての解釈は、議論のある問題である。旧来、この動物群は哺乳類の祖先である単弓類として分類されてきた。同時掲載される別の論文では、David FordとRoger Bensonが、varanopidは、哺乳類と近縁ではなく、後にワニ類、トカゲ類、ヘビ類、カメ類、鳥類を生じた「双弓類」という爬虫類群の一部だったのではないことを示している。



参考文献:
Ford DP, and Benson RB.(2020): The phylogeny of early amniotes and the affinities of Parareptilia and Varanopidae. Nature Ecology & Evolution, 4, 1, 57–65.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-1047-3

Maddin HC, Mann A, and Hebert B.(2020): Varanopid from the Carboniferous of Nova Scotia reveals evidence of parental care in amniotes. Nature Ecology & Evolution, 4, 1, 50–56.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-1030-z

スイレンのゲノムと顕花植物の初期進化

 スイレンのゲノムと顕花植物の初期進化に関する研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。スイレンは被子植物スイレン目に属します。アンボレラ目(Amborellales)、スイレン目(Nymphaeales)、アウストロバイレヤ目(Austrobaileyales)は合わせて「ANAグレード被子植物」と呼ばれ、これらは現生の主要被子植物につながる系統から最も早く分岐した系統の現生の分類群です。この研究は、熱帯スイレンの一種であるニンファエア・コロラタ(Nymphaea colorata)の409Mbpのゲノム配列について報告しています。

 系統発生学的な解析から、アンボレラ目とスイレン目が、他の全ての現生被子植物に対する連続した姉妹系統であることが裏づけられました。ニンファエア・コロラタのゲノムと、他のスイレン19種のトランスクリプトームからは、スイレン目で全ゲノム重複が1回起きたことと、それはスイレン科(Nymphaeaceae)とおそらくハゴロモモ科(Cabombaceae)で共有されていることとが明らかになりました。この全ゲノム重複で保持されている遺伝子の中には、花成への移行と花の発生を調節する遺伝子のホモログが含まれます。

 ニンファエア・コロラタにおける花器官のABCE遺伝子のホモログの幅広い発現は、初期の被子植物にも、同様に広範な活性を持つ花器官決定の祖先的なABCEモデルが存在したことを裏づけているかもしれません。スイレンで進化した魅力的な芳香と色は主要被子植物にも共通する特徴で、この研究はそれらの生合成遺伝子と推定される遺伝子をニンファエア・コロラタで複数特定しました。花の芳香をもたらすそうした化合物および生合成遺伝子からは、それらが主要被子植物のものと平行して進化してきた、と示唆されました。ニンファエア・コロラタは系統発生学的に独特な位置にあり、そのゲノムからは、被子植物の初期進化を明らかにする手掛かりが得られます。


参考文献:
Zhang L. et al.(2020): The water lily genome and the early evolution of flowering plants. Nature, 577, 7788, 79–84.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1852-5

確証バイアスの形成に関係する脳領域

 確証バイアスの形成に関係する脳領域についての研究(Kappes et al., 2020)が公表されました。人間は、過去の自分の選択や判断にとって不利な情報を過小評価する傾向があります。これは確証バイアスといい、政治から科学・教育に至る、あらゆる事柄に重大な影響を及ぼし、信念形成の一つの特性となっていますが、その基盤となる機構は、ほとんど解明されていません。

 この研究は、確証バイアスの形成過程が後内側前頭前野(pMFC)という脳領域で起こるのではないか、という仮説を立てました。pMFCには、意思決定に関する情報を追跡し、一旦下した決定を変更すべき時に信号を送る、という機能があります。この研究では、参加者(42人の成人)を2人1組にして、数々の不動産物件について、その市場価格が画面上に表示された価格より高いか安いかをそれぞれの参加者に判定させ、その判定にどれほど自信があるのかに応じて、1から60セントの範囲で賭け金を設定させました。次に、参加者をMRIスキャナーに入れ、上記の不動産物件を再び見せて、当初の判定内容と賭け金の額を示したうえで、ペアの相手の判定内容と賭け金を示して、自分の賭け金の額を最終決定させて、自分の当初の判定にどの程度の自信があるのかを示させました。

 その結果、参加者は、その当初の判定がペアの相手の判定によって裏づけられると、賭け金を増額して最終決定し、参加者が最終決定した賭け金とペアの相手の賭け金が相関していました。また、この研究は、ペアの相手の判定が参加者の当初の判定に影響を及ぼすことにpMFCの活動が関係しているものの、それは参加者とペアの相手の判定が一致した場合に限られることも確認した。これらの結果は、他人の意見の説得力に対するpMFCの感受性が生じるのは意見が一致する場合のみで、意見が一致しない場合には感受性が低下して、確証バイアスに寄与する可能性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【神経科学】確証バイアスの形成に関係する脳領域

 後内側前頭前野(pMFC)という脳領域が、ヒトの確証バイアスに寄与しているという研究知見を報告した論文が掲載される。他人の意見の説得力に対するpMFCの神経感受性が、自分の信念に対する反証となる意見で低くなるというのだ。

 人間は、過去に自らが行った選択や判断にとって不利な情報を過小評価する傾向がある。これは、確証バイアスといい、政治から科学、教育に至る、あらゆる事柄に重大な影響を及ぼし、信念形成の1つの特性となっているが、その基盤となる機構は、ほとんど解明されていない。今回、Andreas Kappes、Tali Sharotたちの研究グループは、確証バイアスが形成されるプロセスがpMFCで起こるのではないかという仮説を立てた。pMFCは、意思決定に関する情報の追跡を行い、一旦下した決定を変更すべき時に信号を送るという機能がある。

 今回の研究では、参加者(42人の成人)を2人1組にして、数々の不動産物件について、その市場価格が画面上に表示された価格より高いか安いかをそれぞれの参加者に判定させ、その判定にどれほど自信があるのかに応じて1から60セントの範囲で賭け金を設定させた。次に、参加者をMRIスキャナーに入れ、上記の不動産物件を再び見せて、当初の判定内容と賭け金の額を示したうえで、ペアの相手の判定内容と賭け金を示して、自分の賭け金の額を最終決定させて、自分の当初の判定にどの程度の自信があるのかを示させた。

 その結果、参加者は、その当初の判定がペアの相手の判定によって裏付けられると、賭け金を増額して最終決定し、参加者が最終決定した賭け金とペアの相手の賭け金が相関していた。また、Kappesたちは、ペアの相手の判定が参加者の当初の判定に影響を及ぼすことにpMFCの活動が関係しているが、それが参加者とペアの相手の判定が一致した場合に限られることを確認した。

 以上の結果は、他人の意見の説得力に対するpMFCの感受性が生じるのは意見が一致する場合のみであり、意見が一致しない場合には感受性が低下して、確証バイアスに寄与する可能性のあることを示唆している。



参考文献:
Kappes A. et al.(2020): Confirmation bias in the utilization of others’ opinion strength. Nature Neuroscience, 23, 1, 130–137.
https://doi.org/10.1038/s41593-019-0549-2

高温と早産

 高温と早産に関する研究(Barreca, and Schaller., 2020)が公表されました。気候変動を原因とした高温気象の発生が増えると、乳児の健康への悪影響の可能性が高まりますが、この脅威の規模に関してじゅうぶんな研究は行なわれていませんでした。妊娠期間の短縮は、新生児のその後の健康および認知機能の低下と関連する、と考えられています。また高温気象は、早産傾向と妊娠期間の短縮をもたらすことが、先行研究によって示唆されています。しかし、高温気象のために妊娠期間が何日短縮されたのかは、正確には分かっていません。

 この研究は、アメリカ合衆国における郡レベルの1日の出生率の推定変動率を用いて、20年間にわたる高温気象に関連した妊娠期間の短縮日数の総数を定量化しました。この研究で用いられた標本には、5600万人の出産が含まれています。この研究は、最高気温が摂氏32.2度(華氏90度)を超える日に出生率が5%上昇し、平均妊娠期間が6.1日短縮する、と推定しています。一部の出産は、2週間の早産でした。全体的には、アメリカ合衆国では高温気象のため、1969~1988年に年間平均25000人の乳児が早産で生まれ、妊娠期間が年間15万日以上短くなった、と推定されます。この研究は、気候の将来予測によれば、今世紀末までに妊娠期間がさらに年間25万日短縮する可能性がある、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【気候変動】高い気温と早産のつながり

 米国では、高温気象のため、1969~1988年に年間平均2万5000人の乳児が早産で生まれ、妊娠期間が年間15万日以上短くなったことを示唆する論文が掲載される。高温気象が発生すると、その日の出産件数が増え、最大2週間の早産になることもあるとされる。

 気候変動を原因とした高温気象の発生が増えると、乳児の健康に悪影響が及ぶ可能性が高まるが、この脅威の規模に関しては十分な研究が行われていなかった。妊娠期間の短縮は、新生児のその後の健康と認知機能の低下と関連すると考えられている。また、高温気象は、早産傾向と妊娠期間の短縮をもたらすことが、先行研究によって示唆されている。しかし、高温気象のために妊娠期間が何日短縮されたのかは正確には分かっていない。

 今回、Alan BarrecaとJessamyn Schallerは、米国内の郡レベルの1日の出生率の推定変動率を用いて、20年間にわたる高温気象に関連した妊娠期間の短縮日数の総数を定量化した。今回の研究で用いられたサンプルには、300万郡・日以上にわたる5600万人の出産が含まれていた。論文著者は、最高気温が摂氏32.2度(華氏90度)を超える日に出生率が5%上昇し、平均妊娠期間が6.1日短縮すると推定している。一部の出産は、2週間の早産だった。

 論文著者は、気候の将来予測によれば、今世紀末までに妊娠期間がさらに年間25万日短縮する可能性があると結論付けている。



参考文献:
Barreca A, and Schaller J.(2020): The impact of high ambient temperatures on delivery timing and gestational lengths. Nature Climate Change, 10, 1, 77–82.
https://doi.org/10.1038/s41558-019-0632-4

現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響(追記有)

 現代アフリカ人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響に関する研究(Chen et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。現生人類(Homo sapiens)は絶滅した他のホモ属(古代型ホモ属)と交雑してきました(関連記事)。具体的には、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)です。すべての非アフリカ系現代人のゲノムには、約2%のネアンデルタール人由来の領域があり、その中でもオセアニア系には、デニソワ人由来の領域が追加で2~4%存在します(関連記事)。

 しかし、古代型ホモ属のゲノムの中には現代人に継承されていない大きな領域も確認されており、選択が生じた可能性も指摘されています(関連記事)。一方で、古代型ホモ属由来の配列が有益だった可能性も指摘されています(関連記事)。ただ、古代型ホモ属から現生人類への遺伝子流動における、機能的影響や選択については、まだ研究が始まったばかりである、と本論文は指摘します。また、非アフリカ系現代人のゲノムにおける古代型ホモ属由来の領域の割合について、アジア東部系がヨーロッパ系よりも20%ほど高いことなど(関連記事)、地域差が見られることも指摘されてきました。これに関しては、ヨーロッパ系現代人の祖先集団が、まだ化石の確認されていない仮定的な存在(ゴースト集団)で、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていなかったと推測される「基底部ユーラシア人」と交雑したからだ、との仮説(希釈仮説)や、選択の違いを想定する説や、ボトルネック(瓶首効果)説や、複数回交雑説など、さまざまな仮説が提示されており、まだ確定していません(関連記事)。

 こうした現生人類と古代型ホモ属との間の遺伝子流動について、近年では研究が飛躍的に発展してきました。それは研究手法改善の結果でもあり、古代型ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により古代型ホモ属との交雑の痕跡と思われる領域を検出する方法では、以前には検出できなかったデニソワ人と現生人類との複数回の交雑が明らかになりました(関連記事)。本論文は、古代型ホモ属と交雑していない参照現代人ゲノム配列を必要とせず、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統を検出する新たな手法であるIBDmixを用いて、現生人類とネアンデルタール人の交雑を検証します。本論文はIBDmixを、ユーラシア・アメリカ・アフリカの現代人の大規模ゲノムデータセットに適用し、現代アフリカ人におけるネアンデルタール人系統に関する新たな知見を提示し、ユーラシア人におけるネアンデルタール人系統の相対的な水準を再検証するとともに、適応的な遺伝子移入の事例を調査します。

 これまで、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の識別には、一般的にヨルバ(YRI)などネアンデルタール人と混合していないとされる現代人のゲノムを参照配列として利用し、共有配列を特定したうえで決定します。しかし、参照配列にネアンデルタール人配列が含まれていると、対象となる現代人のネアンデルタール人配列を見落とす場合があります。本論文が用いる新たな手法であるIBDmixの名称は、遺伝的原理である「同祖対立遺伝子(identity by descent)」に由来します。IBDmixでは、現代人の参照配列は利用されません。同祖対立遺伝子(IBD)とは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは、2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。

 本論文は、現生人類のゲノムにおけるネアンデルタール人配列に関して、5万年前頃の両者の交雑に起因する配列と、50万年前頃かそれ以前に共通祖先を有していたことに起因する配列とを区別するために、IBDmixを用いました。以前の手法は、ネアンデルタール人と交雑していないとされる現代人のゲノムを参照配列として、現生人類のゲノムにおける、共通祖先に由来しないネアンデルタール人由来の領域を特定しました。しかし本論文は、この方法では、どの集団の個体のゲノムを参照配列として用いるかにより、ネアンデルタール人由来の領域の推定に相違が生じる可能性を指摘します。IBDmixでは、変異頻度やIBD領域の長さのようなネアンデルタール人の配列の特徴を用いて、共通配列が最近の交雑なのか、それとも共通祖先に起因するのか、区別します。

 IBDmixの使用により、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人系統の領域をより正確に検出できるようになりました。ただ、以前の研究では、現代人に遺伝的影響を残しているネアンデルタール人は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性個体(関連記事)の集団(東方系ネアンデルタール人)とは遺伝的にやや異なる集団(西方系ネアンデルタール人)と推測されています(関連記事)。そのため本論文は、参照古代型ゲノム(本論文では南シベリアのネアンデルタール人)が遺伝子移入をもたらした古代型ゲノム(西方系ネアンデルタール人)と離れた関係にある場合、IBDmixがどのように機能するのか、検証しました。その結果、短い配列でわずかな低下が観察されましたが、全体的なパフォーマンスは一貫していました。本論文は、IBDmixが古代型ホモ属からの遺伝子移入を検出する強力な手法であることを指摘します。

 本論文は、1000ゲノム計画に登録された地理的に多様な現代人集団からの2504人のゲノムにIBDmixを適用し、南シベリアのネアンデルタール人個体の参照ゲノムを利用して、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の配列を特定しました。2504人の現代人のゲノムでは、重複分を除くと、合計でネアンデルタール人由来の12億9千万塩基対が特定されました。上述のように、IBDmixは現代人の参照配列にネアンデルタール人と交雑していないと推定されるアフリカ集団を利用しなかったため、現代アフリカ人集団におけるネアンデルタール人由来の領域を初めて堅牢に特定できました。

 アフリカ人では、ナイジェリアのエサン(ESN)集団の1640万塩基対(16.4 Mb)からケニアのルヒヤ(Luhya)集団の1800万塩基対まで、平均して1700万塩基対のネアンデルタール人配列が特定されました。これは、以前の推定である26000~500000塩基対よりもはるかに多くなります。また、アフリカ人のゲノムのネアンデルタール人配列のうち94%以上は、非アフリカ人と共有されていました。非アフリカ系現代人のゲノムに見られるネアンデルタール人配列の平均は、ヨーロッパ系が5100万塩基対、アジア東部および南部系がともに5500万塩基対で、以前の推定である20%よりもずっと低く、8%ほどの違いしかありませんでした。なお、アメリカ合衆国やカリブ海のアフリカ系のゲノムに見られるネアンデルタール人配列は、非アフリカ系との交雑を反映してかアフリカ人よりは多いものの、アジア系よりはずっと少なくなっています(2270万~2750万塩基対)。

 アフリカ人に見られる、以前の推定よりもずっと多いネアンデルタール人配列の起源について本論文は、ネアンデルタール人と交雑した出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカに「戻って」きたことに加えて、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類がネアンデルタール人と交雑したことを想定すると最も整合的である、と見出しました。また、アフリカに戻って来た現生人類は、大きく分けると、アジア東部系と分岐した後のヨーロッパ系(ユーラシア西部系と言う方がより正確かもしれませんが)であることも明らかになりました。

 上述のように、本論文が示す現代人のネアンデルタール人配列の割合は、以前にも推定されていたようにヨーロッパ系よりもアジア東部系の方が高いものの、その違いは以前の推定である20%増よりもずっと低い8%増である、と明らかになりました。これは、以前の手法では、ネアンデルタール人と交雑していないという前提の現代アフリカ人のゲノムを参照配列として用いていたことに起因する、と本論文は指摘します。IBDmixでアフリカ人に見られるネアンデルタール人配列を除去して計算すると、ネアンデルタール人配列はヨーロッパ系よりもアジア東部系が18%ほど増加します。これは、ヨーロッパ系(ユーラシア西部系)現生人類がアフリカに「戻って」きたことにより、アフリカ人のみと共有されるネアンデルタール人配列が、アジア東部系よりもヨーロッパ系(ユーラシア西部系)の方でずっと多いためです(前者が2%なのに対して後者が7.2%)。以前の推定ではこの効果が無視されていた、というわけです。

 本論文は、現代人に見られる高頻度のネアンデルタール人由来のハプロタイプについても検証しています。これらは現生人類の適応度を高めたかもしれないため、以前から注目されていました。本論文は固有の高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプを、非アフリカ系現代人で38、アフリカ人で13特定し、以前に特定されている高頻度ハプロタイプと比較しました。非アフリカ系現代人の38ハプロタイプのうち19は、以前の研究で報告されていました。また、アフリカ人とヨーロッパ人が共有する高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプも特定されました。これはIBDmixの威力を示しています。アフリカ人固有となる13の高頻度ネアンデルタール人ハプロタイプには、免疫機能に関連する遺伝子(IL22RA1およびIFNLR1など)や紫外線感受性関連遺伝子(DDB1およびIL22RA1など)があります。これらのうちいくつかは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動でもたらされたかもしれませんが、アフリカ人とヨーロッパ人で共有される高頻度のネアンデルタール人ハプロタイプのうちの一つ(3番染色体に位置します)のみが、現生人類から南シベリアのネアンデルタール人への遺伝子移入(関連記事)の結果として特定された遺伝子座と重なっており、その他は重なっていません。こうした高頻度のネアンデルタール人ハプロタイプは、アフリカ人の進化史における選択の考察に有益です。

 上述のように、古代型ホモ属のゲノムの中には現代人に殆どあるいは全く継承されていない大きな領域(不毛領域)も確認されており、選択が生じた可能性も指摘されています。その結果、ネアンデルタール人に関しては、以前に報告されていた6ヶ所の不毛領域のうち、7番染色体の発話能力に関連するFOXP2と、3番染色体の脳細胞の突起抑制に関連するROBO1およびROBO2を含む4ヶ所で改めて確認されました。これは、デニソワ人の不毛領域とも一致します。古代型ホモ属の不毛領域の頻度はアフリカ人全体の標本を含めても含めずとも大きく変わらず、アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人配列がおもに非アフリカ系現生人類からの遺伝子移入に起因する、という推測と一致します。

 本論文は、現生人類と古代型ホモ属との交雑の検出にIBDmixがきわめて有効であることを示しました。しかし本論文は、IBDmixは古代型人類の参照ゲノム配列を必要とするため、未知もしくは配列されていない人類系統から現生人類へと遺伝子移入された配列の検出には適していない、と注意を喚起しています。また本論文は、IBDmixにおいて、ゲノムおよび集団間の遺伝的組換え率の不均一性による影響があることも指摘しています。そのため、標本サイズが限定され、アレル(対立遺伝子)頻度と遺伝的組換え率の推定が不正確である個体のゲノムへの適用は困難です。IBDmixはゲノム解析におけるこれまでの手法の上位互換ではなく、相互補完的手法になる、というわけです。

 本論文は上述のように、アフリカ人のゲノムに見られるネアンデルタール人由来の領域の割合が、以前の推定よりもずっと高いことを明らかにしました。とはいえ、その割合は非アフリカ系現代人の約1/3と低くなっています。しかし、じゅうらいの推定よりもずっと高いこの割合は、アフリカの人類集団が静的ではなく動的で、現生人類の出アフリカ後も同様だったことを示します。それは、最近のアフリカ西部の古代DNA研究でも改めて示されました(関連記事)。

 出アフリカ現生人類集団の一部がアフリカへと「戻り」、アフリカ集団に遺伝的影響を与えたことは、以前から指摘されていました。古代DNA研究では、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%ほどはユーラシア西部集団に由来し、アフリカ西部・中央部・南部の現代人集団にも、この「逆流」の遺伝的影響は及んでいる、とすでに2015年の研究で推測されていました(関連記事)。2017年の古代DNA研究では、現代人では早期に分岐した集団とされるコイサンも、アフリカ東部やユーラシアの集団から9~30%の遺伝的影響を受けている、と推定されています(関連記事)。また現代人のゲノムデータに基づく2015年の研究では、アフリカ西部のヨルバ(Yoruba)人集団と、古代ユーラシア人集団との10500~7500年前頃の交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。

 本論文は、アフリカ全土の集団において、多様な水準でゲノムにネアンデルタール人由来の領域が見られても不思議ではない、と指摘します。私も、漠然とした想定よりも高かったものの、とくに不思議な結果ではない、と思います。「純粋なサピエンスはアフリカ人のみ」といった認識もネットで見られますが、それには大きな問題があります(関連記事)。また近年では、現生人類の形成過程がたいへん複雑であることを指摘した見解も提示されており(関連記事)、そもそも「純粋な種」という概念自体に問題があるのでしょう。

 また上述のように、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカの前に、アフリカからユーラシアへと拡散した現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動の可能性が指摘されています。この年代に関しては、10万年前頃から25万年前頃まで、議論が続いていますが、本論文は15万~10万年前頃と推定しています。ただ本論文は、追加のデータが必要とも指摘しています。ネアンデルタール人やデニソワ人など古代型ホモ属と現生人類との交雑は、たいへん複雑だった可能性が高そうです。

 アフリカ人のゲノムにおける以前の推定よりもずっと高いネアンデルタール人配列の割合を明らかにしたことと共に、本論文の知見で重要なのは、上述のように、ヨーロッパ系とアジア東部系の間でゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の割合の違いが以前の推定よりもずっと小さい、と示したことです。以前はこの違いについて、上述の希釈仮説も提示されていました(関連記事)。希釈仮説に対しては、ヨーロッパ系とアジア東部系の間の、ゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の割合の違いを説明できるほどではない、との批判もありますが、本論文によりその違いは以前の推定よりもずっと小さい、と見直されたので、希釈仮説がより説得的になった、とも言えるかもしれません。ただ本論文は、現生人類の特定の集団とネアンデルタール人との追加の交雑が起きた可能性を排除するわけではない、と注意を喚起しています。


参考文献:
Chen L. et al.(2020): Identifying and Interpreting Apparent Neanderthal Ancestry in African Individuals. Cell, 180, 4, 677–687.E16.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.01.012


追記(2020年2月4日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

大河ドラマ『麒麟がくる』第3回「美濃の国」

 斎藤利政(道三)は美濃に侵攻してきた織田信秀の軍勢を撃退し、信秀と通じていた美濃守護の土岐頼純を毒殺します。1548年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、夫の土岐頼純を父の斎藤利政に毒殺された帰蝶が明智光秀(十兵衛)を訪ねてきます。幼き頃、明智家で1年ほど過ごした帰蝶にとって、心の休まる場所でした。利政は息子の高政(義龍)とともに土岐頼芸を訪ね、美濃守護への復帰を要請します。しかし、頼芸も利政を嫌い、信秀と通じて利政を追い落とそうとします。頼芸から我が子と思って頼りにしていると言われた高政は、母の深芳野に、実父は利政ではなく頼芸ではないか、と尋ねますが、深芳野は即座に否定します。利政・高政親子の確執は初回から描かれていましたが、その確執は深まっていき、和解の兆候は見えません。この親子関係は前半の見どころとなりそうです。

 今回、高政が光秀に、父の利政は戦が上手いものの、内政には問題があり、強引なやり方で国衆に反感を買っており先はない、と打ち明けます。ここまで、大物感溢れる人物として描かれている斎藤利政(道三)ですが、あくまでも高政の視点ではあるものの、重大な欠陥もある、と示されました。高政が光秀を頼りにしていることも明示され、両者の関係の推移も注目されます。今回は帰蝶の出番が多く、全て昨年(2019年)11月下旬以降に撮り直したのかと考えると、どうしても帰蝶の登場場面への評価は甘くなってしまいますが、それを割り引いても、悪くはない演技だと思います。とくに、凛とした感じはなかなかよいと思います。今後、慣れてくるともっとよくなるのではないか、と期待しています。幼少時の駒を救った男性の話はすでに語られていましたが、今回、美濃と関係があるのではないか、と示唆されました。これはかなり重要な設定のようなので、謎解きに注目しています。

喫煙と飲酒による脳の高齢化

 喫煙と飲酒による脳の高齢化に関する研究(Ning et al., 2020)が公表されました。以前の研究で、特定の生活習慣(過度の喫煙やアルコール摂取など)が特定の脳領域に悪影響を及ぼす、と示されていますが、とくに脳全体を考えた場合に、喫煙とアルコール摂取が脳年齢とどのように関連しているのか、明らかではありません。この研究は、機械学習のいくつかの手法とMRIを用いて、イギリスバイオバンクにデータ登録されている45~81歳の被験者(合計17308人)の相対脳年齢を決定しました。相対脳年齢は、MRI測定に基づく脳年齢を同世代の平均脳年齢に照らして算定されます。

 この研究は、喫煙習慣に関する情報が収集された11651人において、1日の大半または1日中喫煙していた者の相対脳年齢が、喫煙頻度が低い者や禁煙している者より高かったことを見いだしました。喫煙量が1パック・年増えると、相対脳年齢が0.03年上昇していました。1パック・年は、1年を通じて平均1日1箱のタバコを吸うことと定義されます。また、飲酒行動に関する情報が収集された11600人において、ほぼ毎日飲酒していた者の相対脳年齢が、それよりも飲酒頻度が低い者又は全く飲酒しない者の相対脳年齢より高いことも明らかになりました。また、1日当たりのアルコール摂取量が1グラム増えると、相対脳年齢が0.02年高くなりました。

 これらの知見は、喫煙と飲酒が脳年齢に及ぼす有害な影響は、おもに喫煙と飲酒の頻度が高い者に生じており、脳年齢がわずかに上昇することを示唆しています。この研究は、喫煙とアルコール摂取以外にも、さまざまな環境因子と遺伝因子が脳年齢に関連しているかもしれない点にも注意を喚起しています。また、こうした関連の解明をさらに進めるには、より大きなサンプルを用いた研究が必要とも指摘されています。脳年齢のわずかな上昇とはいえ、煙草と酒が心底嫌いな私にとって、勇気づけられる研究です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【健康】毎日の喫煙と飲酒が脳の高齢化につながっているかもしれない

 飲酒と喫煙を毎日行う者は、それよりも飲酒と喫煙の頻度が低い者と比べて、相対脳年齢がやや高いという研究結果を報告する論文が掲載される。

 以前の研究で、特定の生活習慣(過度の喫煙やアルコール摂取など)が特定の脳領域に悪影響を及ぼすことが示されているが、特に脳全体を考えた場合に、喫煙とアルコール摂取が脳年齢とどのように関連しているのかは明らかでない。

 今回、Arthur W. Togaたちの研究チームは、機械学習のいくつかの手法とMRIを用いて、英国バイオバンクにデータ登録されている45~81歳の被験者(合計1万7308人)の相対脳年齢を決定した。相対脳年齢は、MRI測定に基づく脳年齢を同世代の平均脳年齢に照らして算定される。

 Togaたちは、喫煙習慣に関する情報が収集された1万1651人において、1日の大半または1日中喫煙していた者の相対脳年齢が、喫煙頻度が低い者や禁煙している者より高かったことを見いだした。そして、喫煙量が1パック・年増えると、相対脳年齢が0.03年上昇していた。1パック・年は、1年を通じて平均1日1箱のタバコを吸うことと定義される。また、飲酒行動に関する情報が収集された11600人において、ほぼ毎日飲酒していた者の相対脳年齢がそれよりも飲酒頻度が低い者又は全く飲酒しない者の相対脳年齢より高かった。また、1日当たりのアルコール摂取量が1グラム増えると、相対脳年齢が0.02年高くなった。以上の知見は、喫煙と飲酒が脳年齢に及ぼす有害な影響が、主に喫煙と飲酒の頻度が高い者に生じており、脳年齢がわずかに上昇することを示唆している。

 Togaたちは、喫煙とアルコール摂取以外にも、さまざまな環境因子と遺伝因子が脳年齢に関連している可能性がある点にも注意を要するとしている。こうした関連の解明をさらに進めるには、より大きなサンプルを用いた研究が必要とされる。



参考文献:
Ning K. et al.(2020): Association of relative brain age with tobacco smoking, alcohol consumption, and genetic variants. Scientific Reports, 10, 10.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56089-4

菜食による尿路感染症のリスク低減

 菜食(ベジタリアン食)による尿路感染症のリスク低減に関する研究(Chen et al., 2020)が公表されました。尿路感染症は多くの場合、腸内細菌(大腸菌など)が原因になっています。腸内細菌は尿道から尿路に侵入し、腎臓と膀胱に悪影響を及ぼします。以前の研究で、尿路感染症の原因と知られている大腸菌株の主要な貯蔵場所の一つは食肉と明らかになっていますが、食肉の摂取を避ければ、尿路感染症のリスクが低減するのかどうかは、分かっていません。

 この研究は、台湾の仏教徒の健康転帰における菜食の役割を調査する研究(慈濟ベジタリアン研究)に参加した台湾の仏教徒(9724人)における尿路感染症の罹患率を調べました。その結果、尿路感染症の全体的なリスクは、菜食主義者(ベジタリアン)の方が非菜食主義者より16%低い、と明らかになりました。また、研究対象となった3040人の菜食主義者のうち217人が尿路感染症を発症したのに対して、非菜食主義者6684人のうち、尿路感染症を発症したのは444人でした。菜食に関連した尿路感染症リスクの低減は、女性よりも男性の方が大きかったものの、男性の尿路感染症の全体的なリスクは、食事に関係なく女性よりも79%低いことも明らかになりました。

 大腸菌が存在していることの多い鶏肉や豚肉を食べないことが、尿路感染症の原因となり得る大腸菌の摂取を避ける方法になるのではないか、とこの研究は推測しています。また、この研究は、多くの菜食主義者の高食物繊維食が腸内大腸菌の増殖を阻止し、腸内の酸性度を高めることにより尿路感染症のリスクの低減を図れる、との見解も提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【健康】尿路感染症のリスク低減にベジタリアン食が役立つかもしれない

 ベジタリアン食(菜食)が、尿路感染症(UTI)のリスク低下につながる可能性があることを報告する論文が掲載される。

 UTIは、腸内細菌(大腸菌など)が原因になっていることが多い。腸内細菌が、尿道から尿路に侵入し、腎臓と膀胱に悪影響を及ぼすのだ。以前の研究で、UTIの原因であることが知られた大腸菌株の主要な貯蔵場所の1つは食肉であることが明らかになっているが、食肉の摂取を避ければ、UTIのリスクが低減するのかどうかは分かっていない。

 今回、Chin-Lon Linたちの研究チームは、台湾の仏教徒の健康転帰における菜食の役割を調査する研究(慈濟ベジタリアン研究)に参加した台湾の仏教徒(9724人)におけるUTIの罹患率を調べた。その結果、UTIの全体的なリスクは、ベジタリアン(菜食主義者)の方が非ベジタリアンより16%低いことが判明した。また、研究対象となった3040人のベジタリアンのうちの217人がUTIを発症したのに対し、非ベジタリアン6684人のうち、UTIを発症したのは444人だった。ベジタリアン食に関連したUTIリスクの低減は、女性よりも男性の方が大きかったが、男性のUTIの全体的なリスクは、食事に関係なく女性よりも79%低かった。

 大腸菌が存在していることの多い鶏肉や豚肉を食べないことが、UTIを引き起こす可能性のある大腸菌の摂取を避ける方法になるとLinたちは考えている。また、Linたちは、多くのベジタリアンの高食物繊維食が腸内大腸菌の増殖を阻止し、腸内の酸性度を高めることによってUTIのリスクの低減を図れるという考えも示している。



参考文献:
Chen YC. et al.(2020): The risk of urinary tract infection in vegetarians and non-vegetarians: a prospective study. Scientific Reports, 10, 906.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58006-6

村井良太『佐藤栄作 戦後日本の政治指導者』

 中公新書の一冊として、中央公論新社から2019年12月に刊行されました。本書は、日本の首相として連続在職日数の最長記録を有する佐藤栄作(2020年8月には佐藤栄作の姪孫である安倍晋三首相がこの記録を抜くかもしれませんが)の伝記で、誕生から政治家になる前までに1章、政治家になってから首相に就任する前までに2章、首相時代に3章、首相退任後に1章が割かれています。佐藤栄作の人生のうち、政治家になる前の期間の方が長いのですが、首相時代を中心に政治家としての側面に焦点を当てた構成になっています。

 本書は佐藤栄作を、軽武装・経済中心・対米防衛依存という吉田茂路線を政権の長期化により新たな意味づけとともに固定化した政治家として位置づけています。吉田路線は敗戦後間もない時期の選択であり、日本が経済成長後も吉田路線を踏襲することは必然ではなかった、と言えるかもしれません。その意味で、長期の佐藤政権は戦後日本において重要な役割を果たした、と言えるでしょう。じっさい、戦後の政界において、自主路線と軍備の強化、それを可能とするための日本国憲法改正への動きは決して無視できるほど弱くはなかった、と思います。また第二次世界大戦後において、日本の軍備強化と軍国主義復活の可能性には世界の国々から厳しい視線が注がれており、それは日本の経済成長とともにより現実的な脅威として受け止められた、という側面もあるとは思います。

 経済大国が軍事大国化しないことはあり得るのか、という疑念は高度経済成長後の日本に対して多くの人々が抱いた疑念でしょうが、佐藤は対米防衛依存という形で軍事大国化を志向しようとはせず、日本国憲法改正に消極的で、佐藤の兄の岸信介はこうした佐藤政権の姿勢に不満だったようです。これは、安全保障・外交をアメリカ合衆国に丸投げしている、との批判になりますし、じっさい、アメリカ合衆国の動揺や政策方針の転換により、危うい立場に陥ることもあり得ます。佐藤内閣以後の政権はこの問題に苦慮し続けている、とも言えるでしょうが、戦争の惨禍を痛感していた佐藤栄作の方針は、当時の日本の状況を考慮すれば、少なくとも大間違いではなかった、と思います。

『卑弥呼』第3集発売

 待望の第3集が発売されました。第3月集には、

口伝15「言伝」
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_31.html

口伝16「情報戦」
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_3.html

口伝17「秘儀」
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_36.html

口伝18「舞台設定」
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_12.html

口伝19「黄泉返り」
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_40.html

口伝20「イサオ王」
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_13.html

口伝21「戦闘開始」
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_42.html

口伝22「血斗」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_9.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。本作は207年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)頃の九州を舞台としています。これまでに明かされている世界観から推測すると、本作の邪馬台国は宮崎県(旧国名の日向)に設定されているようです。しかし、神武東征説話も取り入れられていることから、やがては畿内というか纏向遺跡が舞台になるかもしれません。本作の神武は、天照大神から数えて6代目の日見彦という設定です。おそらくは現在の奈良県にいるだろう神武(サヌ王)の子孫とヤノハがどう関わってくるのか、ということも今後注目されます。

 現時点ではほぼ九州の諸国・人物しか登場していませんが、今後は本州・四国、さらには朝鮮半島と後漢や魏も舞台になりそうで、司馬懿など『三国志』の有名人物の登場も予想されますから、ひじょうに雄大な規模の物語になるのではないか、と期待されます。本作の人物造形はたいへん魅力的で、この点でもとくに楽しめているのですが、第3集で初登場となったトメ将軍は、とくに魅力的に描かれています。おそらくトメ将軍は、倭国から魏に派遣された大夫の難升米でしょうから、今後も活躍場面が多そうで、注目しています。本作は現時点でもたいへん楽しめていますが、今後さらに面白くなりそうな要素が多いだけに、何とか長期連載になってほしいものです。