早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺

 早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺に関する研究(Alt et al., 2020)が公表されました。中期~後期更新世にはヒトは基本的に狩猟採集民でしたが、平等主義の倫理のため本質的には善良で平和的だった、という考えがかつては浸透していました。この仮説では、12000年前頃の農耕開始以後(もちろん、地域により農耕開始年代は異なりますが)、とくに定住・階層・財産と密接に関連した適応的な社会経済的戦略が、根本的に本来の生活様式を壊した、と想定されます。財産と所有物を守るため、ヒトは暴力の使用を余儀なくされた、というわけです。

 しかし、こうした非暴力的な過去の人類史は今では反証されており、それは攻撃的行動が先史時代と現代の狩猟採集民共同体で一般的に示されてきたからです(関連記事)。しかし、狩猟採集民共同体における暴力の程度と役割についてはまだ議論が続いています。ヒトの暴力が進化的遺産なのか、という問題は高い関心を集めている、と言えそうです。本論文は、ヒトの暴力が進化的遺産であることは明らかで、それはヒトだけが同種を殺す大型類人猿の唯一の種ではないからだ、と指摘します。ヒトの攻撃性は、その本質に深く根ざした重要な系統発生要素がある、というわけです(関連記事)。ヒトは自身を、合理的で行動制御のメカニズムを備えていると考える傾向にあるため、これを受け入れるのはなかなか困難です。

 本論文は、スペイン王国ウエスカ(Huesca)県のピレネー山脈に位置するエルストロクス(Els Trocs)洞窟遺跡の発掘成果を報告しています。この標高1500m以上の地点の斜面に、エルストロクス洞窟の入口があります。エルストロクス遺跡では、土器や石器などの物質残骸に加えて、子供や成人のヒト骨格遺骸や屠殺された家畜および野生動物の骨が含まれています。これまでに特定された13人は、年代的に離れた新石器時代の異なる3期(第1期・第2期・第3期)に分類されます。したがって、これらの「埋葬」は単一事象の1集団ではありません。本論文は、第1期(紀元前5326~紀元前5067年)の9人(成体5人と子供4人)を分析しています。第1期の9人の放射性炭素年代は密集しており、全員に死亡前後の暴力の痕跡が見られます。

 これら早期新石器時代の9人の年代および形態学背景に関して、その遺骸に見られる暴力の痕跡は、この9人が紛争の犠牲となった珍しい事象であることを示唆します。成人は頭蓋骨にのみ一貫して矢傷を示し、成人に加えて子供は、頭蓋と全体骨格へ類似した鈍器による暴力の痕跡を示します。紛争状況における弓矢のような投射武器の使用は、近隣の同時代のラドラガ(La Draga)遺跡の矢だけではなく、さまざまな暴力活動を描く同時代の岩絵でも証明されています。敵対集団間の戦闘場面を含むそうした描写は、イベリア半島の岩絵にも存在します。エルストロクス遺跡のヒト遺骸の直接的で明確な暴力の痕跡に加えて、こうした間接的な証拠は、エルストロクス遺跡の第1期の9人が虐殺の犠牲者になった、という仮説を裏づけます。

 エルストロクス遺跡の重要性は、新石器時代の意図的な暴力の初期の証拠を提示していることです。既知の情報では、エルストロクス遺跡の集落共同体全体の虐殺は、集団的暴力の直接的証拠としては最初期のものとなります。エルストロクス遺跡の第1期は、年代的にはヨーロッパ中央部における最初の農耕文化である線形陶器文化(Linear Pottery Culture、LBK)の最終段階で、紀元前6千年紀末~紀元前5千年紀初頭となり、大変動の時期です。線形陶器文化末期のヨーロッパ中央部において、こうした大量殺戮は孤立した事例ではなく頻繁に生じていた、との見解も提示されていますが(関連記事)、イベリア半島の他地域では同時代のこうした虐殺はまだ報告されていません。エルストロクス遺跡第1期で見られる集団的暴力の注目される珍しい特徴は、エブロ渓谷沿いというイベリア半島の早期新石器時代における主流の移住経路から離れている、その地理的位置です。

 本論文は、理論的および分析的観点から、エルストロクス遺跡のヒト遺骸の複雑な暴力的知見から、二つの基本的な問題を提起します。一方は加害者について、もう一方は高齢の成人および子供の集団に見られた、一見すると抑制されていない過剰な暴力の動機についてです。本論文は、加害者の問題には直接的に答えられない、と指摘します。考古学的に、加害者はほとんど証拠を残さなかったからです。しかし、全体的な文脈に基づくと、代替的な仮説をいくつか提示できます。

 集団遺伝分析からは、エルストロクス遺跡の犠牲者は早期新石器時代移住者として特徴づけられます。それは、イベリア半島で農耕と畜産を確立した共同体の構成員です。ストロンチウムおよび酸素の同位体データと考古学的文脈から推測すると、犠牲者たちが移住民の第一世代だったかどうか、確定できません。ほとんどの新石器時代の移住民は肥沃な三日月地帯から地中海経由でヨーロッパ西部に到達しましたが、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由でヨーロッパ中央部から北方から到来した可能性は除外できません。この仮定の根拠は集団の遺伝的特徴です。エルストロクス遺跡第1期の成人男性(CET 5)はミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)ではN1a1a1で、早期新石器時代ヨーロッパ中央部では一般的ですが、スペインではまだ確認されていません。CET 5は、イベリア半島では最古となる、ヨーロッパ中央部新石器時代の農耕民集団のmtHgと合致する早期新石器時代個体です。最近になって、フランス北東部では、ヨーロッパ中央部から南西部への仮説的移住経路に沿った、新石器時代のmtHg- N1a個体群が報告されており、エルストロクス遺跡第1期の個体群がローヌ渓谷経由で北方から到来した可能性を示唆します。

 本論文は、エルストロクス遺跡集団がイベリア半島の他の早期新石器時代移民集団と異なり、虐殺された理由について考察しています。早期新石器時代のエルストロクス遺跡集団も他のイベリア半島集団も、ともに比較的急速に在来の共同体と混合したと考えられます。本論文は、エルストロクス遺跡集団が殺戮された理由として、イベリア半島の新石器時代移住民の主流から少し離れた孤立した地域に存在した可能性を検証しています。考古学的文脈・動物および植物考古学的データと、エルストロクス遺跡の犠牲者集団の人口統計学的構成から示唆されるのは、犠牲者たちがより大きな新石器時代共同体における高齢の構成員と子供を表し、彼らは集団の大半から離れており、季節的移牧、つまり家畜の移動の過程でピレネー山脈において夏を過ごしていた、ということです。

 本論文は、加害者集団とその動機に関して二つの仮説を提示します。たとえば、原因が本質的に領土であるならば、加害者たちは、自分たちの採集領域に侵略してきた新石器時代集団を見て、残忍に殺害した在来の狩猟採集民だったかもしれません。あるいは、領土をめぐる紛争がエスカレートした二つの新石器時代集団間の紛争だったかもしれません。この推論では、暴力的事象が起きた地形は多くの資源を提供する台地である、と想定されます。また、行動の一般的パターンからも加害者の動機が推測されています。地域的な集団間の紛争の一般的原因は、時間と場所、起源もしくは民族に関わらず、所有物(家畜・女性・収穫物)の獲得と、希少な資源(土地・水・狩猟)をめぐる紛争です。しかし、現在の「人種」間もしくは民族間の紛争とは対照的に、共同体の体系的な皆殺しは、お互いをよく知っており、社会文化的根源を共有するかもしれない近隣集団間の暴力の応酬においてはむしろ稀になる、と本論文は指摘します。

 エルストロクス遺跡における虐殺は、完全に詳細に明かされることはないかもしれませんが、本論文が注目しているのは、ピレネー山脈の奥地で行使された暴力の程度は、加害者側のひじょうに高い潜在的攻撃性で、それは法医学で「過剰殺害」とされる現象です。明らかなのは、二つの競合集団が衝突したことです。上述のように、加害者は在来の狩猟採集民だったかもしれませんし、競合する地元もしくは他地域の新石器時代農耕民集団だったかもしれません。本論文は、犯罪者プロファイリングの観点からは、エスカレートした偶然の遭遇である可能性はほとんどない、と指摘します。殺害手順は体系的に計画されて実行され、行為の動機は深刻である、というわけです。ただ、その背景については、いくつかは未解決のままとなりそうです。

 国も含めての近隣集団間、多民族社会内の異なる民族集団間、多数派集団と少数派集団との間の暴力的対立はしばしば、人々の外見・言語・宗教・イデオロギー・生活および文化様式もしくは民族的帰属の利用に基づいています。現在と過去の無数の争いの事例は、「文明」によりヒト社会における暴力への根本的性質を克服する、という見解を揺るがしてきました。暴力が自身を守るため、あるいは共同体を保護するのに役立つならば、社会的に許容されます。しかし、暴力が第三者もしくは平和な人々の繁栄と生活に対する搾取と権力を目指している場合、否定的な意味合いを有します。その構造的形態では、暴力は力の行使に役立ち、間違いなくヒトの文化的進化の産物です。「えこひいき(ネポチズム)」により繰り返し揺さぶられる世界では、条約と法律は常に一時的にのみ平和をもたらすようです。人道に対する注目すべき犯罪は、法律もしくは国際法により防止されることは決してありませんでした。「えこひいき(ネポチズム)」とは、非血縁者を犠牲にして、自らの血縁者を身びいきすることで、他の霊長類に見られる社会行動です(関連記事)。

 本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺を、人類史の文脈に位置づけようとしています。上述のように、系統発生学的および神経犯罪学的研究は、暴力と犯罪が生物学的起源を有する、といういくつかの証拠を提供します。しかし、ヒトは誰も殺人者として生まれるわけではなく、社会的過程が我々の行動を深く制御する、と本論文は指摘します。進化生物学では、ヒトはその始まり以来、他の個体群に依存し、脅威に晒されてきた、と論じられます。つまり、ヒトの進化的基盤は、一方では自身の集団や親族を強く結びつける原因として、他方では異質な個体群への恐怖や拒絶と強く結びつける原因として存在するはずだ、と本論文は指摘します。民族的ネポチズムの概念は、この二重の行動傾向の原因の説明として機能し、そこに民族紛争の起源も見られる、というわけです。したがって紛争は、均質な社会よりも人々が密接に関連しつながっている異質な多民族社会で多く発生するだろう、と本論文は指摘します。

 ネポチズムの起源に関する仮説は、包括適応度や血縁選択や遺伝的類似のような社会生物学的理論に焦点を当てます。民族的ネポチズムへの否定できない傾向はヒトの本質に深く根差しているように見えるため、政治的もしくは社会的危機状況における民族中心主義・ナショナリズム・人種差別・外国人嫌悪を促進するかもしれず、最悪の場合は大量虐殺にまで到達する、と本論文は指摘します。本論文はこれらの知見を踏まえて、ポストコロニアル理論や過去の人類は平和で(非暴力部族社会論)集団内および集団間の暴力は現代的現象という理論は、かつてたいへん人気だったものの、さまざまな証拠はそうした見解を論駁してきており、対照的に暴力は太古の昔からヒトの歴史に存在してきたことを示している、と指摘します。

 本論文はエルストロクス遺跡第1期の虐殺について、おそらく異なる起源や世界観の人々の間、先住民と移住民もしくは経済的あるいは社会的競合の集団間暴力の早期のエスカレーションで、敵対的集団間の衝突のような排外的な印象を伝えている、と指摘します。このような対立はいつくかの社会的動物種でも発生します。チンパンジーはヒトのように世界を「我々」と「彼ら」に分けます。したがってヒトでは、暴力は本質的現象の意味で理解されるべきで、ヒトは善悪を問わず暴力を制限できるものの、完全に克服することはできない、と本論文は指摘します。本論文は持続可能な未来について、継続的な対話による文化と宗教の間の障壁の除去と同様に、多民族社会への相互の敬意・寛容・開放性を通じてのみ達成されるだろう、との展望を提示しています。

 以上、ざっと本論文について見てきました。本論文は、早期新石器時代ピレネー山脈におけるヒト集団の虐殺について、ヒトの暴力の深い進化的起源を示す一例になると指摘しつつ、それを克服するような特質もヒトは進化の過程で得てきたことを強調しています。持続可能な未来に関する本論文の提言は尤もではありますが、総論賛成各論反対は人類社会の普遍的事象とも言え、実行は容易ではないでしょう。とはいえ、文字記録の残っている以前も含めて人類史から知見を得て、試行錯誤していくしかない問題である、とも思います。

 本論文は戦争の起源との関連でも注目されます。戦争の起源に関しては、注目が高いこともあり、今でも激しい議論が続いています(関連記事)。この問題は通俗的には、「本能」なのか「後天的」なのか、「タカ派」なのか「ハト派」なのか、といった単純な二分法的議論が浸透しているように思います。しかし、本論文の知見からも示されるように、ヒトに集団暴力へと向かわせる深い進化的基盤があることは否定できません。とはいえ、ヒトの暴力は常に発動されるわけではなく状況次第でもあり、少なくとも一定以上は制御可能であることも確かです。その意味で戦争の起源に関する論点は、更新世の狩猟採集社会が暴力的で、国家の成立によりそうした暴力が抑制されるようになったのか、あるいはその逆なのか、ということなのかもしれません。もちろん、それも単純にすぎる見方で、もっと複雑で包括的な説明が可能なのかもしれません。戦争の起源については、人類の今後にも大きく関わってくる問題なので、今後も地道に調べていくつもりです。


参考文献:
Alt KW. et al.(2020): A massacre of early Neolithic farmers in the high Pyrenees at Els Trocs, Spain. Scientific Reports, 10, 2131.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-58483-9

先コロンブス期の人為的活動に起因するアマゾン川流域の植物の優占種

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、先コロンブス期の人為的活動に起因するアマゾン川流域の植物の優占種に関する研究(Levis et al., 2017)が公表されました。日本語の解説記事もあります。アマゾン川流域における植物の栽培は8000年以上前から行なわれています。この研究は、植物の栽培がもたらす永続的な影響をより詳しく理解するため、アマゾン川流域の1170ヶ所の森林区域及び4000種類以上の植物種に関する既存データを解析しました。これにより、先コロンブス期の人々により一時的・部分的あるいは完全に栽培されていた植物種が85種類特定されました。

 その結果、これらの栽培種は栽培されていなかった種に比べて優占種となっている可能性が5倍も高い、と明らかになりました。さらに、栽培種は先コロンブス期の居住地・塚・棚地及び岩絵といった遺跡周辺に集中していることも明らかになりました。アマゾン川流域における栽培種の相対的な数の多さと豊富さの変化の30%は地域の環境条件により説明がつき、またその20%は過去の人間活動を表す指標により説明できる、と本論文は推測しています。

 この知見は、ヒトが栽培種によりアマゾン川流域の森林を豊かにしたのか、あるいは元々これらの種が豊富だったために人間がその近くに住むことを選択したのかという、「卵が先か、鶏が先か」に類似した問題を提起している、と本論文は指摘します。本論文はこれについて、他には見られない生態的地位の存在と複数の栽培種が予期しない場所で見つかっていることなどから、ヒトがアマゾン川流域の森林を豊かにした可能性が高い、と推測しています。先コロンブス期アメリカ大陸での人為的開発の程度については今でも議論されているようですが、さまざまな証拠からは、大規模なものだった可能性が高いのではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
Levis C. et al.(2017): Persistent effects of pre-Columbian plant domestication on Amazonian forest composition. Science, 355, 6328, 925-931.
https://doi.org/10.1126/science.aal0157

古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃に関する研究(Evans et al., 2018)が公表されました。日本語の解説記事もあります。紀元後800~1000年頃となる古典期終末期のマヤ文化の崩壊は一般的に、過去の気候急変が古代社会の衰退にどれほど大きな影響を及ぼすのか、という事例として使用されます。マヤ地域の古気候研究では、古典期マヤ社会の崩壊が異例な乾燥期に起きたことは示されているものの、この時期が実際にどの程度乾燥していたのか、明確になっていません。大半の気候データは、たとえば他の時期より単純に湿度が高い、もしくは乾燥しているなど、質的な復元に限られています。

 この研究は、沈殿石膏を含む堆積物コアを使ってメキシコのチチャンカナブ(Chichancanab)湖の水の同位体組成を復元しました。この研究は、過去の乾燥状態の代用として、湖の底に層状に沈殿した石膏の結晶構造に組み込まれた水分子の三重項酸素と水素の同位体組成を測定しました。その結果、古典期終末期、マヤ低地の年間降水量は平均で約50%、最も乾燥していた時期では最大70%も減少していたことを発見しました。また、現在と比較して相対湿度が3~8%減少していたという測定結果も初めて出せました。この知見により、低地マヤ社会が経験した旱魃の深刻さと継続期間が明らかになったとともに、マヤの農耕および社会政治的システムに対する旱魃の影響をより深く理解するために必要な定量的データが得られました。


参考文献:
Evans NP. et al.(2018): Quantification of drought during the collapse of the classic Maya civilization. Science, 361, 6401, 498-501.
https://doi.org/10.1126/science.aas9871