現代文化の変化の速さ

 現代文化の変化の速さに関する研究(Lambert et al., 2020)が公表されました。20世紀には、長期に及ぶ数々の実地調査により、動物集団の生物学的進化に関する研究が進み、進化上の変化の速度が推定されました。文化については、考古学的記録を対象としたこれまでの研究から、生物進化の変化と同等に変化することが示唆されていたものの、その速さについてはよく分かっていませんでした。

 この研究は、広範な近過去の歴史記録が存在する文化的なアーティファクト(ポップミュージック・文学・科学論文・車など)の「集団」、ならびに比較対照としての動物集団(ダーウィンフィンチ・オオシモフリエダシャク・ヒトリガ・イギリスに生息するカタツムリの一種など)に注目し、進化生物学者が開発した指標を使って、両群について経時的に変化する速度の計算を試みました。

 その結果、文化的特性も生物学的形質も同等の速度で変化する、と明らかになりました。また、文化はランダムに変化することはなく、文化を安定化させる選択圧、あるいは文化を特定の方向に進化させる選択圧によって形作られることも分かりました。この知見は、人間の文化が生物体の進化より極めて速く進化する、という定説に異議を唱えるものです。近年、文化進化論(関連記事)への注目が高まっているなか、興味深い研究です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会学】現代文化の変化する速さを測る

 現代の文化は緩やかに進化し、その速度は生物の進化速度と同等であることを報告する論文が掲載される。この知見は、人間の文化が生物体の進化より極めて速く進化するという定説に異議を唱えるものである。

 20世紀には、長期に及ぶ数々の実地調査によって、動物集団の生物学的進化に関する研究がなされ、進化上の変化の速度が推定された。文化については、考古学的記録を対象としたこれまでの研究から、生物進化の変化と同等に変化することが示唆されていたものの、その速さについてはよく分かっていなかった。

 今回、Armand Leroiたちは、広範な近過去の歴史記録が存在する文化的なアーティファクト(ポップミュージック、文学、科学論文、車など)の「集団」、ならびに比較対照としての動物集団(ダーウィンフィンチ、オオシモフリエダシャク、ヒトリガ、英国に生息するカタツムリの一種など)に注目した。そして進化生物学者が開発した指標を使って、両群について経時的に変化する速度の計算を試みた。その結果、文化的特性も生物学的形質も同等の速度で変化することが明らかとなった。また、文化はランダムに変化することはなく、文化を安定化させる選択圧、あるいは文化を特定の方向に進化させる選択圧によって形作られることも分かった。



参考文献:
Lambert B. et al.(2020): The pace of modern culture. Nature Human Behaviour, 4, 4, 352–360.
https://doi.org/10.1038/s41562-019-0802-4

土器破片の食物残渣からの年代測定

 土器破片の食物残渣からの年代測定に関する研究(Casanova et al., 2020)が報道されました。土器は遺跡から最も一般的に出土する人工物の一つです。そうした土器の型式学に基づく相対年代の決定は1世紀以上にわたってきましたが、放射性炭素年代測定法を用いる土器の正確な年代測定は、有機物の混和材の残存に限界があり、目に見える残渣に関する信頼性が低いため、きわめて困難と分かっています。本論文は、分取ガスクロマトグラフィーで精製した2種類の脂肪酸であるパルミチン酸とステアリン酸を用いた、土器に吸収されていた食物残渣中の炭素14の加速器質量分析に基づく考古学的土器の直接的な年代測定法について報告しています。

 本論文は、土器から抽出された脂質の正確な化合物特異的放射性炭素年代測定の結果を示しています。得られた年代は、年輪年代学的な年代、ならびにこれまでに放射性炭素年代が決定されている他の物質を含有する遺跡の包含物や地域的編年との比較により、厳密に評価されました。注目されるのは、土器に含まれるパルミチン酸およびステアリン酸それぞれから得られた化合物特異的な年代は、結果の内部精度管理として機能し、年代が測定されている他の一般的な物質の年代と完全に適合していたことです。

 土器の正確な放射性炭素年代測定からは、(1)土器の使用年代、(2)特定の食品が利用されていた時期など、有機物残渣の古さ、(3)従来の手法で年代測定可能な物質の存在しない遺跡の編年、(4)土器の型式編年の直接検証が得られます。本論文は、この方法による、イギリス・アナトリア半島・ヨーロッパ中部および西部・アフリカのサハラ地域で出土した新石器時代の土器に残る、乳製品および肉製品の利用年代を明らかにしました。たとえば、ロンドンの新石器時代の遺跡では、微量の乳脂肪が新たな手法で年代測定され、5600年前頃と明らかになっています。これは、イギリスに農耕が到来した6000年前頃からわずか400年後のことで、最初にイギリスに農耕・牧畜をもたらした集団との関係が想定されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:考古学的土器の正確な化合物特異的14C年代測定

考古学:洗っていない土器は歴史に残る

 考古学者なら誰でも、割れた土器の破片が古代史を再構築するための重要な情報資源であることを知っている。問題は、その年代をどうやって正確に測定するかだ。R Evershedたちは今回、土器の破片に安定的に吸収された食物残渣の脂質から正確な放射性炭素年代を得る方法を提示している。彼らは、他の方法で年代がよく知られているさまざまな遺跡にこの方法を適用するとともに、得られた年代を用いて英国のロンドンからアフリカのサハラ砂漠まで、実に多様な地域から出土している土器の年代を明らかにしている。



参考文献:
Casanova E. et al.(2020): Accurate compound-specific 14C dating of archaeological pottery vessels. Nature, 580, 7804, 506–510.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2178-z

中期新石器時代~前期青銅器時代のスイスの人口史

 中期新石器時代~前期青銅器時代のスイスの人口史に関する研究(Furtwängler et al., 2020)が報道されました。遺伝学的研究により、新石器時代のヨーロッパ中央部の人々は遺伝的に、先住のヨーロッパ狩猟採集民と、アナトリア半島西部早期農耕と関連した系統を有する新たに侵入してきた人々との混合だった、と明らかにされてきました。青銅器時代への移行直前の新石器時代末期には、ヨーロッパで新たな系統構成の到来が遺伝的に検出され、それはヨーロッパ中央部と東部の縄目文土器複合(Corded Ware Complex、CWC)の出現と一致します。この新たな遺伝的構成は、ヤムナヤ(Yamnaya)複合と関連する個体群で見られる、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの系統と最も密接に関連していました。この新たなヨーロッパ第三の系統構成は、ヨーロッパの多くの地域で証明されていますが、その他の他地域における到来の正確な年代は、この遺伝的混合の基礎となる人口統計学的過程と同様に、あまり明確ではありません。

 スイスの新石器時代は考古学的に、有機物が保存されている湖岸と沼地の定住地遺跡、ローヌ渓谷の高山遺跡、高山峠遺跡で占められています。定住地遺跡とは別に、新石器時代末期になると巨石墓など石製の遺跡が発見されてきました。湿地帯遺跡の木製品など、スイスでは年代測定可能な新石器時代の遺物が豊富に発見されており、ヨーロッパ中央部の人口史の研究に寄与しています。スイスにおけるCWC関連発見物は、湖岸の居住地で排他的に発見されており、東部のチューリッヒ湖地域と西部の三湖地域でとくに多く発見されています。ヌーシャテル湖(Lake Neuchâtel)の遺跡は、CWCの影響を受けた地域の南西端に位置します。東部では、新たな縄目文土器様式が急速に採用された一方で、西部ではこの過程が数世紀続きました。

 湖岸や湿地には多くの新石器時代および前期青銅器時代遺跡がありますが、それらと直接的に関連した埋葬はありません。これは、すでに紀元前五千年紀には石の墓が用いられていたからでもあります。しかし、この埋葬習慣はおそらく紀元前3800年頃に終わり、その頃には湖岸の居住地が多くなり始めました。前期青銅器時代の埋葬は、ローヌ渓谷など内陸部高山地域に集中しており、この時期の湖岸の居住地は知られていません。多くの墓がある期間では居住地がなく、その逆に多くの居住地がある期間では対応する埋葬がありません。そのため、これまでに刊行されてきたスイスの古代ゲノムは4個体分だけです。そのうち1個体は後期更新世狩猟採集民で、残りの3人は鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象と関連しており、支石墓に埋葬されています。

 本論文は、新石器時代から青銅器時代のスイスにおける遺伝的構成の移行、つまり草原地帯関連系統の到来時期・起源・混合過程と、この移行の前後の社会的・人口統計学的構造について、詳細に調査します。本論文は、スイスとドイツ南部とフランスのアルザス地域の、新石器時代から前期青銅器時代の96人のゲノム規模データを報告します。また、前期鉄器時代とローマ期から1人ずつ、ゲノム規模データを報告します。年代はすべて放射性炭素年代測定法に基づいています。

 96人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、N1a・W・X・H・T2・J・U2・U3・U4・U5a・U5b・K・U8です。全ゲノム解析では、120万ヶ所の一塩基多型が特定され、その中にはX染色体の49704ヶ所と、Y染色体の32670ヶ所も含まれます。Y染色体ハプログループ(YHg)はおもに、G2a2a1a2a・I2a1a2・R1b1a1b1a1a2b1です。この96人の遺伝的データは、ヨーロッパ中央部および西部の同時期の個体・アナトリア半島新石器時代農耕民・ポントス-カスピ海草原の同時代399人、さらには現代人と比較されました。

 主成分分析では、異なる2クラスタが識別されました。一方は紀元前4770~紀元前2500年頃の個体群で、もう一方は紀元前2900~紀元前1750年頃の個体群です。このうち最古級の個体群はアナトリア半島関連早期農耕民に近く、もっと後の巨石埋葬文化の個体群は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)およびイベリア半島もしくはドイツ中央部の前期~中期新石器時代個体群の方へと移動するとともに、現代サルデーニャ島個体群に近縁です。この移動は、ヨーロッパの他地域でも観察されている、中期新石器時代における狩猟採集民系統の増加を反映しています(関連記事)。

 紀元前2900~紀元前1750年頃のクラスタは、それ以前の個体群と比較して、それ以降の他のヨーロッパ集団と同じように、ヤムナヤ文化関連系統の方へと移動しています。このクラスタでは、最古級の個体群が草原地帯の後期新石器時代集団に最も近いのに対して、それよりも新しい個体群は、再び中期・後期新石器時代クラスタの方へと移動します。末期新石器時代と前期青銅器時代の全個体は、現代ヨーロッパ人の範囲内に収まりますが、本論文で取り上げられた新たに解析された個体群は、現代スイス人集団とは重ならず、中期青銅器時代以後のスイスにおける追加の集団遺伝的変化が示唆されます。

 本論文で新たに分析された個体群は、WHGとアナトリア半島西部新石器時代農耕民(ANF)とサマラ(Samara)の草原地帯の牧畜民(YAM)の間に位置し、ヨーロッパの「アイスマン」のような後期新石器時代個体群や青銅器時代の鐘状ビーカー複合個体群と類似しています。そこで本論文は、新たに分析した個体群をWHGとANFとYAMの3系統の混合としてモデル化しました。その結果、全体的なパターンは以前の分析と一致しており、前期~中期新石器時代の個体群はWHGとANFの双方向の混合だったのに対して、紀元前2700年頃以降の個体群にはかなりのYAM関連系統が見られます。さらに、この構成比は遺跡間で大きく異なり、時間の経過とともに減少する傾向があります。

 直接的に移行期の個体群を取り上げていない、ドイツとイギリスの新石器時代と青銅器時代の個体群を分析した以前の研究と比較して、本論文は空白期間のない新石器時代から青銅器時代への移行期の個体群も対象としています。本論文で新たに分析された個体群では、YAM関連系統は紀元前2700年頃以前には実質的に存在せず、紀元前2700年頃になると急激に増加します。この移行期の個体群では、YAM関連系統の割合は0~60%で、次の1000年では25~35%に低下します。また、本論文の分析対象地域では、YAM関連系統が出現して1000年後にも、YAM関連系統なしでモデル化できる4人の女性がいます。

 新石器時代末期と青銅器時代の個体群の常染色体とX染色体の比較から、常染色体はX染色体よりもYAM関連系統にずっと密接と明らかになりました。これは、女性よりも男性がYAM関連系統をこの地域に多くもたらした、と推定する以前の研究と一致します。またこの地域では、紀元前2700年頃以降にミスマッチ率が増加していることから、遺伝的多様性が大きく増加した、と推測されます。本論文の分析対象個体群では、YAM関連系統のピークは紀元前2750年頃で、他の研究で推測されている紀元前2600年頃より古くなっています。この違いは、草原地帯関連系統がより早期に到来したことを示唆しているかもしれませんが、分析の不確実性の範囲内のため、決定的ではありません。また、分析対象の個体群の年代は時間的に不均一なので、将来のより高密度な標本での改善が期待されます。

 この新石器時代から青銅器時代にかけての遺伝的構成の大きな変化については、単一の混合事象ではなく、数百年にわたって起きていた、と推測されます。イベリア半島・ブリテン島・ドイツ・スイスの地域間比較では、YAM関連系統を有する集団と在来の新石器時代集団との混合は、紀元前3000~紀元前2500年頃と類似した年代を示し、その最初の場所については明らかにされません。この混合は、まずスイスで起きたか、その他の場所で混合した集団が、スイスへと移動してきたのかもしれません。

 次に本論文は、YAM関連系統を有する集団と混合したのがどの新石器時代集団なのか、qpAdm分析で検証しました。その結果、イベリア半島の中期新石器時代集団とフランスの新石器時代集団では適合したものの、スイスの後期新石器時代もしくは球状アンフォラ(Globular Amphora)文化(GA)個体群を追加すると失敗しました。これは、フランスやイベリア半島よりも東方に位置するスイスの後期新石器時代集団とGA関連集団が、より西方のANFおよび草原地帯牧畜民よりも、スイスの新石器時代末期と青銅器時代の集団の遺伝的起源として相応しいことを示唆します。

 5ヶ所の埋葬地の個体群で親族関係が確認されました。そのうち女性は少なく、孫の世代では女性のmtHgが継承されていない場合もある一方で、男性のYHgは孫の世代にも継承されています。この母方もしくは父方のみで継承される単系統遺伝の結果と安定同位体分析から、本論文の分析対象地域は当時、同時代のヨーロッパの他地域でも示唆されていたように(関連記事)、女性が出生地を離れて遠方の集落で結婚し、男性が出生地に留まるような、父系的社会だった可能性が高そうです。

 スイスの現代人と末期新石器時代集団との比較では、現代スイスが3言語(ドイツ語・フランス語・イタリア語)地域に分割されたうえで検証されました。その結果、これら3地域とも、単純な継続モデルは棄却され、末期新石器時代および前期青銅器時代個体群との遺伝的類似性は、現代イタリア語地域集団では最小限、フランス語地域集団ではより古い遺跡の個体群でアレル(対立遺伝子)の共有が多く、ドイツ語地域集団とはより新しい遺跡の個体群でアレルの共有が多い、と明らかになりました。

 機能的一塩基多型も分析されました。ヨーロッパ人では明るい肌の色と関連するSLC24A5の複数の派生的アレルは、本論文の分析対象の全個体で見られました。また、明るい肌の色と関連するSLC24A5の頻度は増加する傾向にあり、明るい目の色と関連するHERC2の頻度は、末期新石器時代にかけて増加する傾向にありました。ヨーロッパでは現在高頻度の乳糖耐性変異(rs4988235)は、本論文の分析対象となった中期および後期新石器時代個体群には存在しません。唯一の例外は紀元前2105~紀元前2036年頃となる末期新石器時代の個体で、乳糖耐性変異の見られるヨーロッパの個体としては最古級となります。これら古代集団に乳糖耐性変異がほとんどないことは、この変異が末期新石器時代に生じ、青銅器時代の始まり以降に頻度が増加した、との仮説と一致します。

 本論文の分析結果は、中期および後期新石器時代のスイスの個体群はヨーロッパの後期狩猟採集民と早期農耕民の子孫で、紀元前2700年頃以後、草原地帯関連系統も見られるようになった、という以前の研究と一致します。ドイツのエルベ川~ザーレ川地域とスイスのシュプライテンバッハ(Spreitenbach)のCWC個体群の遺伝的類似性は、CWCがヨーロッパ中央部の大半において比較的遺伝的に均一な集団だったことを示唆します。

 上述のように、遺伝的に推測される社会・家族構造は、草原地帯関連系統の到来前後を通じて同じく父系的だったようで、安定同位体分析でも確証されています。前期青銅器時代には女性の遊動性がより高かったことも、この社会・家族構造と関連しています。上述のように、前期青銅器時代までと現代とで、スイスの集団の遺伝的構成は異なっています。この変化をもたらした複数の要因のうちとくに本論文が注目するのは、西ローマ帝国末期以降のいわゆる大移動です。

 上述のように、草原地帯関連系統がスイスに到来してから1000年後まで、草原地帯関連系統の検出されない女性が複数確認されました。そのうち最も新しい個体の年代は紀元前2213~紀元前2031年頃です。これは、青銅器時代開始期には異なる遺伝的構成の集団が近接して共存していたことを示唆します。この複数の女性のうち1人は、安定同位体分析により地元出身ではない、と明らかになっています。スイスで新たに確立した草原地帯関連系統を有する集団と、草原地帯関連系統をまったく或いはほとんど有さない遊動的な女性たちとの混合は、スイスにおける草原地帯関連系統の到来から数世紀にわたる、草原地帯関連系統の勾配の原因になった、と推測されます。

 そこで問題となるのは、この草原地帯関連系統を有さない集団がヨーロッパ中央部のどこにいたのか、ということです。初期の単系統遺伝の研究で示唆されるように、強い遺伝的分化を示す言語的に孤立したアルプス渓谷は、その有力候補と考えられます。しかし、類似したパターンを示すドイツ南部のレヒ川渓谷の事例(関連記事)を考慮すると、草原地帯関連系統のない集団の起源はそれほど南にあるとは限らない、と本論文は指摘します。安定同位体分析では、草原地帯関連系統を有さない4人の女性全員が生涯ずっとスイスにいたのか不明です。したがって、この4人の女性の出身地がさらに南方、たとえばまだこの時期の古代DNA研究の不足しているイタリアだった可能性もある、と本論文は指摘します。しかし、草原地帯関連系統を有さない個体群は、たとえばイベリア半島では紀元前2479~紀元前1945年頃まで、クレタ島のミノア文化集団では紀元前2900~紀元前1700年頃まで、サルデーニャ島ではその後でさえ確認されており、この時期のスイスにおける草原地帯関連系統を有さない集団の起源地の解明は今後の課題です。

 また本論文は、草原地帯関連系統がスイスに到来したのが、ドイツやイギリスと同じ頃か、やや早かったことに注目しています。ただ本論文は、イギリスとドイツのエルベ川~ザーレ川地域において、後期・末期新石器時代と前期青銅器時代の間の標本が不足していることから、ヨーロッパ中央部における草原地帯関連系統の拡大経路の正確な解明には、さらなる調査が必要と指摘しています。このように、まだ詳細が不明な点もあるとはいえ、ヨーロッパにおける完新世の集団形成史は、アジア東部も含むユーラシア東部よりもずっと進んでいます。今後は、ユーラシア東部に関しても古代DNA研究が急速に進展することを期待しています。


参考文献:
Furtwängler A. et al.(2020): Ancient genomes reveal social and genetic structure of Late Neolithic Switzerland. Nature Communications, 11, 1915.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15560-x

アイスランド人のゲノムに基づくネアンデルタール人からの遺伝子移入の性質(追記有)

 アイスランド人のゲノムに基づいて、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からの遺伝子移入の性質を検証した研究(Skov et al., 2020)が報道されました。日本語の報道もあります。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。非アフリカ系現代人集団のゲノムには、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と関連する非現生人類(Homo sapiens)ホモ属(古代型ホモ属)に由来する領域が2%ほどある、と推定されています(関連記事)。ヨーロッパ現代人では、1回もしくは複数回のネアンデルタール人の単一集団との交雑により、古代型系統がもたらされた、と推測されています。多くの古代型ゲノムの断片は現代人集団では分離しているので、古代型ゲノムはヨーロッパ人の全ゲノム配列データから部分的に見つけることが可能です。古代型断片が識別されれば、その多様体が現代人の表現型の多様性に与える効果も特定できます。

 現代人における古代型断片識別の以前の試みは一般的に、既存の古代型ゲノムに依存しており、それは古代型集団のハプロタイプ多様性を部分的に表します。さらに、非アフリカ系現代人の共通祖先集団へとゲノムの一部領域をもたらしたネアンデルタール人はおそらく、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)およびネアンデルタール人と、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人です(本論文ではまとめてDAVと省略されています)という、高網羅率のゲノム配列の得られている3人の古代型ホモ属個体から時空間的に分離した集団です。現代人のゲノムの古代型断片の中には、DAVゲノムに依存する手法では見落とされるものがあると推測されます。もし、現生人類にゲノムの一部領域をもたらしたネアンデルタール人の遺伝的情報が、たとえば古代型集団間の交雑のため、DAVゲノムの1つによく表されないとしたら、さらに多くの古代型断片が見落とされるでしょう。本論文は、現代ヨーロッパ人における古代型の多様性と、そのDAVゲノムとの関係を調査しました。

 本論文は、DAVゲノムで条件づけされていない状態の隠れマルコフモデルを使用して、27556人のアイルランド人の網羅率30倍のゲノムから、55132の一倍体ゲノムで独立して古代型断片を調べます。このモデルは、サハラ砂漠以南のアフリカ人292人を外群とした場合に発見されなかった派生的アレル(対立遺伝子)の、高密度を伴う断片を検出します。その後の分析で、古代型であると90%以上の確率で推定される14422595ヶ所の断片が得られました。

 古代型断片では、サハラ砂漠以南のアフリカ人には存在しない395304ヶ所の一塩基多型においてアレルが確認されます。これらの多様体のうち、147925ヶ所がDAVゲノムで見つかりました(以下、DAV多様体)。これらの多様体とその断片は、古代型起源である可能性がひじょうに高そうです。残りの247379ヶ所の一塩基多型では、DAVゲノムで観察されなかった派生的アレルが見られます。そのうちいくつかは、現生人類に遺伝子移入をもたらしたネアンデルタール人に存在したかもしれませんが、3個体分となるDAVゲノムでは見つかりませんでした。他のアレルは、遺伝子移入後に現生人類の古代型断片で生じたかもしれません。残りは、アフリカ人参照配列では観察されなかった非古代型多様体です。

 DAVゲノムで観察されなかった古代型多様体は、同じ古代型断片からのDAV多様体と強い連鎖不平衡にある、と予想されます。247379の推定される古代型多様体のうち、47193は少なくとも1つの近隣DAV多様体(DAV関連多様体)と関連していますが、一方で145153の古代型多様体は、DAV多様体を伴う断片で見つかったものの、それらとは関連していませんでした。後者のDAV非関連多様体は、DAVおよびDAV関連多様体よりも低頻度の傾向があり、その変異の多くはネアンデルタール人からの遺伝子移入の後に古代型断片で起きた、と示唆されます。残りの55033の多様体は、DAV多様体を伴わないと推定される古代型断片ゲノムで見つかり、以下これを非DAV多様体と呼びます。

 現生人類へと遺伝子移入された古代型多様体は、少なくとも5万年前頃には存在したに違いないので、同じ頻度の非古代型多様体よりも複数集団で見つかる可能性が高くなります。アレル頻度の制御後、ヨーロッパ人集団では、DAV非関連および非DAV多様体はそれぞれ55%と64%、DAVおよびDAV関連多様体はそれぞれ84%と77%見つかります。これは、わずかなDAV非関連および非DAV多様体が古代型起源であることと一致します。DAV非関連多様体はDAV多様体よりも推定される古代型断片の末端に近く(前者は12300塩基、後者は26800塩基)、断片末端での偽陽性のわずかな増加を示唆します。

 112709の特有の断片に対応する14422595の古代型断片候補は、読み取り可能な24億4500万塩基対ゲノムのうち11億7900万塩基対(48.2%)をカバーし、以前の研究を超えます。DAV関連およびDAV多様体を開始および終了する断片を切り取った後、古代型網羅率は9億6200万塩基対(読み取り可能なゲノムのうち39.3%で、59124の特有の断片にまたがります)と推定されます。古代型網羅率の最も保守的な推定値は、DAV多様体にのみ定義された末端に基づいて、9億2900万塩基対(読み取り可能なゲノムのうち38%で、56388の特有の断片にまたがります)と推定されます。55132の一倍体ゲノムの分析後でさえ、全ての古代型断片がアイスランド人で検出されるわけではない、と推測され、他の集団ではさらに多く発見されます。

 平均261.6の古代型断片は約3300万塩基対と対応し、一倍体ゲノムごとに識別されます。ゲノムの読み取り可能な位置は、平均して743の古代型断片にカバーされており、分析された55132の一倍体ゲノムにおいて1.34%の平均頻度に対応します。これらはおそらく過小評価されています。なぜならば、本論文の手法は、短いか、もしくは非古代型断片からじゅうぶんに分岐していない古代型断片を見落とすからです。シミュレーションは偽陽性率28.5%を示唆し、古代型断片の頻度が1.9%に近いかもしれない、と示唆します。

 DAVおよびDAV関連多様体を考慮すると、重複する古代型断片間の平均ヌクレオチド多様性は、ネアンデルタール人とデニソワ人のヘテロ接合性と類似しています。いくつかのゲノム領域は複数の遺伝子移入ハプロタイプを示唆するひじょうに多様な古代型断片を含んでいました。現代人に寄与した古代型個体群の数に焦点を当てるため、重複断片をクラスター化し、1万塩基対ごとに1多様体の平均対距離を超えない亜集団に分割しました。各亜集団は遺伝子移入する古代型ハプロタイプと近似している、と仮定されます。DAVおよびDAV関連多様体のみが亜集団の定義に用いられると、1亜集団だけに割り当てられた断片の割合は88.1%で、それはDAV多様体のみを用いると93.2%に増加します。しかし、そのような厳しい基準でさえ、最大6の異なる古代型ハプロタイプを有するゲノム領域が見つかり、複数の古代型個体群が遺伝子移入に関わっていた、と示唆されます。

 最多の多様体を共有する古代型断片とDAVゲノムの分布では、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人(VN)は50.8%、アルタイ地域のネアンデルタール人(AN)は13.1%、デニソワ人(DV)は3.3%です。高品質なゲノム配列の得られている古代型ホモ属3個体のうち2個体もしくはそれ以上は20.4%、DAVゲノムと共有されていない未知のものは12.2%です。未知の起源の断片はシミュレーションの偽陽性古代型断片よりも長くなっています(それぞれ、77900塩基対と40700塩基対)。しかし、未知の断片の偽陽性率がより高いことは、DAV多様体を含む古代型断片よりも、サハラ砂漠以南のアフリカ人へのより短い平均合着時間によって示唆されます。本論文の検出手法は既存の古代型ゲノムに依存していないので、長さに沿って異なるDAVゲノムのモザイク状断片を検出できます。モザイク状断片の例では、最初の25万塩基対において複数のDV特有の派生的アレルを伴い、それにAN特有の多様体が続きます。断片の18.9%はモザイク状です。

 以前から推定されていたように(関連記事)、現生人類への遺伝子移入をもたらしたネアンデルタール人は、ANよりもVNに近い、と本論文でも改めて確認されました。しかし、本論文の手法では、ANとDVのゲノムと最も密接に関連する多くの長い断片も見つかり、以前の研究でもヨーロッパ人においてそのような断片が報告されてきました。考えられる理由の一つは、ANとDVに関連するゲノムを有する複数集団から、現生人類への遺伝子移入をもたらしたネアンデルタール人への遺伝子移入が、現生人類とネアンデルタール人の交雑の前に起きた、ということです。あるいは、現生人類への遺伝子移入をもたらしたネアンデルタール人は、偶然にもVNのゲノムよりもANとDVのゲノムに類似しているように見える不完全な系統分類のため、古代に分岐したハプロタイプを有していたVNのような集団だったかもしれません。これらの古代型断片の起源を解決するため、異なる人口統計学的および交雑モデル下で広範なシミュレーションが行なわれました。その結果、アイスランド人のゲノムにおいて観察されたDV様断片の特徴は、DV様集団との以前の交雑を有する集団を想定しなければ、VN様集団からの単純な遺伝子移入と一致しない、と示唆されます。除外できない同様に興味深いシナリオは、現生人類とネアンデルタール人との主要な交雑事象前の、DV様集団から非アフリカ系現代人の共通祖先への直接的交雑です。本論文は、アイスランド人で特定された古代型断片と、高網羅率のDAVゲノムの間の対での相違を用いての、異なる古代型集団の有効人口規模と、以前の研究で推定された分岐年代を推定しました。ネアンデルタール人は比較的小さい有効人口規模(2000~3000個体)を有し、以前の分析と一致します。

 本論文で用いたアイスランド人の標本規模は27556人と大きいので、古代型遺伝子移入がほとんど若しくは全くないゲノム領域のより詳細な識別が可能となりました。この領域は「古代型砂漠」と呼ばれています。DAV多様体を含まない断片を有する100万ヶ所の検索では、5億7千万塩基対(読み取り可能なゲノムの23.3%)を覆う282ヶ所の異なる古代型砂漠が見つかりました。以前の研究で指摘されていたように(関連記事)、X染色体はとくに、古代型遺伝子移入が欠けています。古代型砂漠では、非古代型砂漠よりもわずかに遺伝子密度が高いこと(100万塩基対あたり、前者は7.52±0.372個、後者は6.87±0.179個)も明らかになりました。また、遺伝子密度を調整した後でも、古代型砂漠では非古代型砂漠よりも組み換え率が低い、と明らかになりました。さらに、DAV関連およびDAV多様体にまたがる古代型断片の割合は、組み換え率がより高い領域でさらに高く、古代型断片のヌクレオチド多様性もこれらの領域でより高い、と明らかになりました。まとめると、これらの観察結果が示唆するのは、有害ではない古代型多様体はおそらく、組み換えにより有害な古代型断片から切り離されると、現生人類の遺伝子プールで保持される可能性が高かった、ということです。

 変異の率とタイプは、現生人類集団間と大型類人猿種間で異なるかもしれない、いくつかの要因に影響を受けます。アイスランド人のゲノムにより、異なる系統の染色体間で同じ順番の遺伝子とその領域に関して、古代型と非古代型の断片の比較が可能となり、分岐してから古代型遺伝子移入が起きるまでの約50万年間に、変異過程の違いが現生人類とネアンデルタール人の間で存在したのか、決定できるようになりました。古代型と非古代型の断片の間の、アフリカ人とも共有されるものも含めての派生的アレルの数における平均的違いが計算されました。最適なシナリオは、古代型断片における2%高い一塩基多型密度と対応しますが、同じシナリオの合着シミュレーションと分散で用いられたパラメータと関連する不確実性を考慮すると、ネアンデルタール人から現生人類への主要な遺伝子移入事象(6万~5万年前頃)前に、ネアンデルタール人系統においてより高い変異率は見られませんでした。

 次に、古代型と非古代型の断片の間の変異範囲が比較されました。古代型と非古代型の塩基置換の比率から、ネアンデルタール人は現生人類と比較して、母親の出産年齢が高く、父親が子供をもつ年齢が低い、と推測されますが、他の要因も除外できません。ネアンデルタール人は有効人口規模が小さく選択が効率的ではないため、現生人類よりも有害な変異を蓄積していた、と示唆されています(関連記事)。機能的影響の4区分(最低・低・中・高)で比較すると、アイスランド人の古代型断片では有害な多様体が過剰には見つかりませんでした。したがって、現生人類との交雑時に遺伝子移入されたネアンデルタール人断片がより多くの有害な多様体を有していたならば、これらは浄化選択によりすでに除去されたでしょう。

 現代人の表現型多様性への古代型多様体の影響を調べるため、214192人のアイスランド人の約3200万の多様体に基づく271の形質との関連が検証されました。395304の古代型派生的アレルと、271の表現型との関連が評価され、連鎖不平衡を考慮した後、651の独立した関連標識に対応する、4361の表現型関連多様体が得られました。次に、その近隣の相関する非古代型多様体が、古代型多様体候補よりも強い関連性を有するのか、検証されました。その結果、101の古代型多様体候補が残りました。さらに、ゲノム規模での古代型多様体の有意性を検証した後、64の古代型多様体候補が残りました。最後に、他の古代型多様体と高い連鎖不平衡ではない多様体を除外し、表現型と関連した5つの古代型多様体が残りました。このうち一つは、ANとVNにも見られる派生的アレル(rs17632542)で、前立腺特異抗原水準の低下と強い関連があり、前立腺癌のリスクをやや低下させます。次は、ヘモグロビンの濃度を低下させ、同じ領域の他の強いシグナルに対応する非古代型多様体の調整に耐えるアレル(rs28387074)です。残りの三つは、身長をわずかに減少させるアレル(rs3118914)と、平均赤血球ヘモグロビン量を減少させるアレル(rs72728264)と、血漿プロトロンビン時間を増加させる(血液を凝固させやすくさせる)アレル(rs6013)です。rs3118914とrs72728264はDAV非関連多様体で、これは他のDAV非関連多様体と強い連鎖不平衡にあります。一方、以前の研究とは対照的に、シミ・髪や目の色・クローン病や狼瘡のような自己免疫疾患と古代型多様体との間に、統計的に有意な相関は見られませんでした。また、以前に指摘されていた免疫機能や頭蓋形態(関連記事)に関して、ネアンデルタール人の影響の強い証拠はありませんでした。

 以前に報告された古代型多様体と関連する30の表現型も評価されました。そのうち4表現型では、検証するのにじゅうぶん類似した表現型がありませんでした。残りの26表現型のうち、10個は全ゲノム規模関連で有意ではなく、13個は真の関連性がありそうな近隣の非古代型多様体を条件づけると、有意性を失いました。これらの非古代型多様体はアフリカ人集団にも存在し、報告されていた13の古代型多様体よりも表現型により大きな影響を与えます。したがって、古代型多様体とされて関連知見で以前に報告された26個のうち3個のみが、古代型起源と結論づけられます。これは、表現型関連に古代型起源を推測するさいに、非古代型多様体の検討の重要性を強調します。表現型多様性への古代型遺伝子移入のゲノム規模の効果を評価するため、各アイルランド人の有する古代型派生アレルも数えられ、271の各表現型との関連で古代型系統の多遺伝子性スコアも検証されました。たとえば身長の場合、古代型遺伝子移入から続いている断片が、現代アイスランド人を高くするのか低くするのか、検証されました。検証数の調整後、多遺伝子性スコアと271の検証されたあらゆる表現型との間の関連の証拠は見つからず、古代型系統は、現代人の表現型多様性に、最大でも穏やかな方向性の影響しか与えていない、と示唆されます。

 古代型ゲノムの大部分は、6万~5万年前頃に遺伝子移入を受けた現生人類集団の現代の子孫から得られる、と示されます。回収された古代型断片は、VNと類似した古代型集団に属する、複数の古代型個体群からのものと一致します。しかし、DVゲノムにより近い古代型断片のかなりの割合は、不完全な系統分類では説明できません。むしろ、DVの遺伝子移入が必要となります。それは上述のように、直接的に現生人類へともたらされたか、後に現生人類と交雑したネアンデルタール人にもたらされたもので、現生人類の出アフリカ後すぐに起きたに違いありません。なぜならば、その兆候は全ての非アフリカ系現代人集団に見られるからです。これは、アルタイ山脈の西方にDV様集団が存在し、そこで遺伝子流動が起きた、と考えられます。これは、ヨーロッパ(関連記事)とアルタイ山脈(関連記事)のネアンデルタール人の広範な集団移動に関する蓄積されつつある証拠と一致します。人類集団間の交雑の複雑な歴史のより詳細な解明には、追加の古代型ゲノムが必要となります。

 以上、本論文の内容について、不正確な理解ながらざっと見てきました。現代人の表現型へのネアンデルタール人の遺伝的影響は、以前に推測されていたよりもずっと低そうだ、と本論文は示します。ただ、対象はアイルランド人なので、今後広範な地域集団に対象を拡大して研究が進められることを期待しています。また、本論文ではおそらく時間的に間に合わなかったため言及されていませんが、最近、サハラ砂漠以南の現代アフリカ人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、非アフリカ系現代人の約1/3とはいえ、以前の推定よりもはるかに高かった、との見解も提示されています(関連記事)。この点も踏まえて、今後の研究は進展していくのでしょう。

 本論文で注目されるのは、アイスランド人のゲノムのうち古代型由来と思われる領域に、無視できない割合で、デニソワ人由来と、DAVゲノムと共有されない領域があることです。本論文が指摘するように、ユーラシアにおけるネアンデルタール人の広範な移動と、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑が明らかになっているので、デニソワ人と交雑してそのゲノムの一部を継承したネアンデルタール人集団が、非アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑した、と想定できます。ただ、まだ査読前ですが、最近公表された研究では、ユーラシア西部のネアンデルタール人のゲノムにはデニソワ人由来の領域がほとんど或いは全く検出されない、と報告されています(関連記事)。しかし、本論文が指摘するように、アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人は、高品質なゲノム配列が得られている個体の中ではVNと遺伝的に最も近いものの、時空間的には別集団で、複数存在した可能性も考えられます。おそらくそのネアンデルタール人集団はアジア南西部、もっと限定するとレヴァントに存在した可能性が高そうで、デニソワ人と交雑したネアンデルタール人集団の子孫だったのかもしれません。また、DAVゲノムと共有されない領域についても、アジア南西部や南部の遺伝学的に未知の人類集団との交雑の影響が想定されます。後期ホモ属の交雑・進化史はたいへん複雑になってきましたが、少しずつ地道に追いかけていきたいものです。


参考文献:
Skov L. et al.(2020): The nature of Neanderthal introgression revealed by 27,566 Icelandic genomes. Nature, 582, 7810, 78–83.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2225-9


追記(2020年6月4日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



進化学:アイスランド人2万7566人のゲノムから明らかになったネアンデルタール人からの遺伝子移入の本質

進化学:アイスランドに残された旧人類の痕跡

 非アフリカ人では、ゲノムの約2%をネアンデルタール人からの遺伝子移入にたどることができる。そのため、ネアンデルタール人が現生人類に及ぼした影響には大きな関心が集まっている。今回L Skovたちは、アイスランド人2万7566人のゲノムに旧人類由来と推定される染色体断片1440万個を見いだし、現生人類ゲノムに残された旧人類の痕跡を詳細に調べている。これらの断片の約84.5%はアルタイ山脈またはヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人起源、3.3%はデニソワ人起源に割り当てられたが、約8分の1に相当する12.2%については起源が不明であった。

古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史

 古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類(Homo sapiens)集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。世界でも農耕・牧畜が早期に始まった地域であるアジア東部には、現在世界の1/5以上の人口が居住しており、主要な言語は、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族(モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族)、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族の11語族に分類されます。過去1万年に、アジア東部では大きな経済および文化の変化がありましたが、採集から農耕への移行期における遺伝的多様性と主要な交雑事象や集団移動と遺伝的構成の変化に関しては、チベット高原と中国南部の現代人の多様性の標本抽出が少ないため、現在でも理解は貧弱です。また、ユーラシア西部および中央部では人口史の解明に貢献してきた古代DNAデータが、アジア東部では不足していることも、人口史理解の妨げとなっています。

 本論文は、中国とネパールの46集団から、383人(中国は337人、ネパールは46人)の現代人の遺伝子型を特定し、191人のアジア東部古代人のゲノム規模データを報告します。その多くは、まだ古代DNAデータが公開されていない文化集団からのものです。モンゴルからは、紀元前6000~紀元後1000年頃の52遺跡の89人のゲノムデータが報告されます。中国からは、紀元前3000年頃となる新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡の20人です。日本からは、紀元前3500~紀元前1500年頃となる縄文時代の狩猟採集民7人です。ロシア極東からは23人が報告されています。18人は紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン2(Boisman-2)共同墓地から、1人は紀元前1000年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化から、3人は中世となる紀元後1000年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)および渤海靺鞨(Bohai Mohe)文化から、1人はサハリン島の歴史時代の狩猟採集民です。台湾東部では、漢本(Hanben)のビルハン(Bilhun)遺跡と緑島の公館(Gongguan)遺跡から、紀元前1400~紀元後600年頃となる後期新石器時代~鉄器時代の52人です。このうち、ボイスマン2遺跡の両親と4人の子供の核家族を含む、近親関係が検出されました。これら新たなデータは、縄文時代の4人、「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡からのアムール川流域の新石器時代の8人(関連記事)、アジア南東部の新石器時代から鉄器時代の72人、ネパールの8人という、以前報告されたデータと併せて分析されました。

 主成分分析では、アジア東部の人口構造は、重要な例外があるものの、地理および言語分類と相関しています。中国北西部とネパールとシベリアの集団は主成分分析ではユーラシア西部集団に寄っており、70~5世代前に起きたと推定されるユーラシア西部関連集団との複数回の混合事象を反映しています。ユーラシア西部関連系統が最小の割合のアジア東部集団は3クラスタです。そのうち、まず「アムール川流域クラスタ」は、古代および現代のアムール川流域に住む集団と地理的に、また言語的にはツングース語とニヴフ語を話す現在の先住民と相関します。次に「チベット高原クラスタ」は、ネパールのチョクホパニ(Chokhopani)とメブラク(Mebrak)とサムヅォング(Samdzong)の古代人と、シナ・チベット語族話者でチベット高原に居住する現代人において最も強く表れます。最後に「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾集団およびオーストロアジア語族とタイ・カダイ語族とオーストロアジア語族話者であるアジア南東部と中国南部の現代人で最大となります。漢人はこれらのクラスタの中間にあり、北部漢人は中国北部に位置する新石器時代の五庄果墚遺跡個体群の近くに位置します。モンゴル内では2クラスタが観察されます。一方は地理的にはモンゴルの東方に位置するアムール川流域クラスタとより近く、もう一方は後期銅石器時代~前期青銅器時代にかけてアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の個体群とより近く、こちらはモンゴルの西方となります。一方、何人かの個体はこれら2クラスタの中間に位置します。

 モンゴル「東部」クラスタの最古級の2人はモンゴル東部のヘルレン川(Kherlen River)地域で発見され、推定年代は紀元前6000~紀元前4300年で、アジア北東部では早期新石器時代に相当します。この3人は、遺伝的にバイカル湖周辺地域の新石器時代個体群と類似しており、ユーラシア西部関連集団との混合の最小限の証拠が見られます。モンゴル北部の他の7人の新石器時代狩猟採集民は、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連した系統から5.4±1.1%の影響を受けている、とモデル化されます。これはユーラシア東西の混合の勾配の一部で、西に行くほどユーラシア西部系統と近縁になります。モンゴルの「西部」クラスタの最古の2人は、ひじょうに異なる系統を示します。この2人はアファナシェヴォ文化と関連したシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡で発見され、年代は紀元前3316~紀元前2918年頃です。この2人は現在のロシアのアルタイ地域のアファナシェヴォ文化個体群と区別できず、同様にヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群とも類似しているので、ヤムナヤ文化集団の東方への移住がアファナシェヴォ文化の人々に大きな影響を与えた、との見解が支持されます。本論文で分析されたこの時代より後のモンゴルの全個体群は、モンゴル新石器時代集団とより西方の草原地帯関連系統との混合です。

 本論文は、この後のモンゴル人の混合史を定量化しました。モンゴル古代人の単純な混合モデル化は、モンゴル東部系統(65~100%)とWSHG系統(0~35%)になります。ヤムナヤ関連系統は無視できる程度で、ロシアのアファナシェヴォおよびシンタシュタ(Sintashta)文化集団関連系統によりもたらされました。このモデルに当てはまるモンゴルの集団は、新石器時代の2集団(WSHG系統が0~5%)のみではなく、青銅器時代~鉄器時代にも存在します。アファナシェヴォ文化との強い関連で発見された個体のうち、紀元前3316~紀元前2918年頃の個体ではアファナシェヴォ関連系統がほぼ100%でモデル化され、ヤムナヤ関連系統の強い影響が見られますが、それよりも後の紀元前2858~紀元前2505年頃の男児には、ヤムナヤ関連系統の証拠が見られませんでした。この男児は、アファナシェヴォ文化との強い関連で埋葬されながら、ヤムナヤ関連系統が見られない最初の個体となります。アファナシェヴォ文化は、ヤムナヤ関連系統を有さない個体群により採用された可能性がありますこれは、人々の移動というよりはむしろ、アイデアの伝播を通じて文化が拡大した事例もある、と示唆します。その後になる紀元前2571~紀元前2464年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体は、アファナシェヴォ文化関連系統の強い影響でモデル化されます(49.0±2.6%)。

 モンゴルの中期青銅器時代以降、アファナシェヴォ文化地域に拡大したヤムナヤ関連系統が存続した確たる証拠はありません。代わりに後期青銅器時代と鉄器時代以後には、ヤムナヤ関連系統はアファナシェヴォ文化移民ではなく、その後の中期~後期青銅器時代に西方からモンゴルに到来した、2/3はヤムナヤ関連系統で1/3はヨーロッパ農耕民関連系統のシンタシュタおよびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団によりもたらされた、と推測されます。シンタシュタ関連系統は、モンゴルの後期青銅器時代個体群で5~57%程度見られ、西方からの到来が確認されます。早期鉄器時代以降、モンゴルでは漢人系統からの遺伝子流動の証拠が検出されます。漢人を外集団に含めると、新石器時代と青銅器時代の全集団はモンゴル東部系統・アファナシェヴォ関連系統・シンタシュタ関連系統・WSHG系統の混合でモデル化できますが、早期鉄器時代の個体や匈奴とその後のモンゴル集団ではモデル化できません。匈奴とその後のモンゴル集団における漢人系統の割合は20~40%と推定されます。

 アファナシェヴォ関連系統は、後期青銅器時代までにモンゴルではほぼ消滅しましたが、中国西部では紀元前410~紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)遺跡では持続していた、と推測されます。この集団は、モンゴル東部系統とアファナシェヴォ関連系統とWSHG系統の混合としてモデル化できます。アファナシェヴォ文化とモンゴル新石器時代の典型的系統は石人子溝個体群に寄与し、タリム盆地のトカラ語が、ヤムナヤ草原地帯牧畜民の東方への移住を通じて拡大し、アファナシェヴォ文化の外見でアルタイ山脈やモンゴルに拡大し、そこからさらに新疆へと拡大した、とする見解が支持されます。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化に関する議論にとって重要となります。インド・ヨーロッパ語族の既知で二番目に古い分枝であるトカラ語系統が、紀元前四千年紀末には分岐していたことになるからです。

 ロシア極東では、紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン文化と、鉄器時代となる紀元前1000年頃のヤンコフスキー文化と、紀元前6000年頃となる「悪魔の門(Devil’s Gate)」の個体群が遺伝的にひじょうに類似しており、この系統がアムール川流域では少なくとも8000年前頃までさかのぼることを示します。この遺伝的継続性は、Y染色体ハプログループ(YHg)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でも明らかです。ボイスマン遺跡個体群では、YHg-C2a(F1396)とmtHg-D4・C5が優勢ですが、これは現在のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族でも同様です。新石器時代のボイスマン遺跡個体群は、縄文人との類似性を共有しています。また、アメリカ大陸先住民集団は、ボイスマン個体群やモンゴル東部系統と、他のアジア東部集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を有しています。ボイスマン個体群と他のアジア東部集団では、アメリカ大陸先住民集団のゲノムに1/3程度寄与したとされる、24000年前頃の古代ユーラシア北部系統個体(関連記事)と共有アレルの割合が同じなので、アメリカ大陸先住民集団からの遺伝子の「逆流」の可能性は低そうです。なお、古代ユーラシア北部系統は、より広範に拡散していた、さらに古い年代の古代シベリア北部集団の子孫と推測されています(関連記事)。この遺伝的知見は、ボイスマン個体群とモンゴル新石器時代系統が、アメリカ大陸先住民集団にアジア東部関連系統をもたらした集団と深く関連していた、という想定で説明できそうです。また、バイカル湖周辺の新石器時代および前期青銅器時代個体群は、モンゴル東部系統とのかなりの(77~94%)共有でモデル化され、この系統がバイカル湖とモンゴル東部とアムール川流域という広範な地域に拡大していた、と明らかになります。アムール川流域の現代人の中には、もっと南方の漢人と関連するアジア東部集団に由来する系統を13~50%有する集団もいます。紀元後1050~1220年頃となる黒水靺鞨の1個体では、漢人もしくはその関連集団からの系統が50%以上見られるので、少なくとも中世初期にはアムール川流域集団と漢人関連集団との混合が起きていたようです。

 標高4000m以上のチベット高原は、人類にとって最も過酷な生活環境の一つです。チベット高原における人類の拡散は更新世までさかのぼりますが、永続的な居住の証拠は3600年前頃以降と推測されています(関連記事)。本論文は、チベット高原の現代人を遺伝的に17集団に分類しています。「中核チベット人」は、チョコパニ(Chokopani)のような古代ネパール人個体群(関連記事)と密接に関連しており、ユーラシア西部系統や低地アジア東部系統とは過去数十世代にわたって最小限の混合(交雑)しかしていない、と推測されます。「北部チベット人」は中核チベット人とユーラシア西部系統との混合で、高地と低地をつなぐチベット高原東端の「チベット・イー回廊」集団は、チベット語話者だけではなく、チャン語やロロ・ビルマ語話者を含み、この系統はアジア南東部クラスタ関連系統を30~70%ほど有します。チベット人と遺伝的に近い集団として、新石器時代五庄果墚集団・漢人・チアン人(Qiang)があり、チベット人は、他の現代アジア東部集団よりもチアン人と漢人の方に遺伝的影響を残した新石器時代五庄果墚集団と密接に関連する集団系統を有する、と示唆されます。この混合は80~60世代前(1世代28年として2240~1680年前頃)に起きた、と推定されます。これは2集団の混合の下限年代なので、じっさいの混合は、チベット高原で農耕の始まった3600年前頃に始まっていた、と本論文は推測します。黄河上流~中流域の農耕民が新石器時代から青銅器時代に中原と同様にチベット高原に拡散してきて、5800年前頃以降となるYHg-Oの分枝をチベット高原にもたらした、と推測されます。チベット人のYHg-Dは、在来の狩猟採集民集団に由来する可能性が高いように思われます。

 南方では、少なくとも紀元前1400~紀元後600年頃となる台湾の漢本(Hanben)および公館(Gongguan)文化の個体群が、遺伝的には現代オーストロネシア語族話者およびバヌアツの古代ラピタ(Lapita)文化集団と最も類似しています。これは、漢本および公館文化の鉄器時代個体群において支配的なYHg-O2a2b2(N6)とmtHg-E1a・B4a1a・F3b1・F4bが、オーストロネシア語族話者の間で広く見られることでも明らかです。本論文は、現代のオーストロアジア語族話者である台湾のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)を、多様なアジ集団と比較しました。古代台湾集団とオーストロネシア語族集団は、他のアジア東部集団よりも、中国本土南部および海南省のタイ・カダイ語族話者と顕著にアレルを共有しています。これは、現代タイ・カダイ語族話者と関連した古代集団が、台湾に5000年前頃に農耕をもたらした、との仮説と一致します。「縄文人」は、他のアジア東部集団と比較して、古代台湾個体群と顕著に多くアレルを共有していますが、例外はアムール川流域クラスタです。

 漢人は世界で最多の人口の民族とされます。考古学と言語学に基づき、漢人の祖先集団は中国北部の黄河上流および中流域の早期農耕民で構成され、その子孫の中には、チベット高原に拡散し、現在のチベット・ビルマ語派の祖先集団の一部になった、と推測されています。考古学と歴史学では、過去2000年に漢人(の主要な祖先集団)がすでに農耕の確立していた南方に拡大した、と考えられています。現代人のゲノム規模多様性分析では、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、本論文の分析でも改めて確認されました。新石器時代の五庄果墚集団と現代のチベット人およびアムール川流域集団は、アジア南東部クラスタと比較して、漢人と顕著に多くのアレルを共有しています。一方、アジア南東部クラスタは、五庄果墚集団と比較して、漢人の大半と顕著により多くのアレルを共有しています。これらの知見から、漢人は、五庄果墚集団と関連した集団と、アジア南東部クラスタと関連した集団との間で、さまざまな混合割合を有している、と示唆されます。現代漢人はほぼ全員、黄河流域の新石器時代五庄果墚集団と関連した系統(77~93%)と、長江流域の稲作農耕民と密接に関連した古代台湾集団と関連した集団の混合としてモデル化できます。これは、長江流域農耕民関連系統が、オーストロネシア語族およびタイ・カダイ語族話者のほぼ全系統と、オーストロアジア語族話者の約2/3の系統と関連している、という本論文の推定と一致します。五庄果墚集団のゲノムが現代人に汚染されている可能性はありますが、そうだとしても、混合の推定値に3~4%以上の誤差はもたらさないだろう、と本論文は推測しています。北部漢人集団におけるユーラシア西部関連系統との交雑の年代は45~32世代前で、紀元後618~907年の唐王朝と、紀元後960~1279(もしくは1276)年の宋王朝の時期に相当します。歴史的記録からも、この時期の漢人(の主要な祖先集団)と西方集団との混合が確認されますが、これは混合の下限年代で、もっと早かった可能性があります。

 現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は、漢人系統(84.3%)と「縄文人」系統(15.7%)の混合、もしくは朝鮮人系統(87.6%)と縄文人系統(12.4%)の混合としてモデル化され、両者を統計的に区別できません。この分析が示唆するのは、日本の「本土」系統が直接的に漢人もしくは朝鮮人によりもたらされた、ということではなく、まだ古代DNAデータの得られていない、漢人と朝鮮人の系統に大きな割合を残した集団と関連した祖先的集団からもたらされた、ということです。7人の「縄文人」は、紀元前1500~紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1人と、紀元前3500~紀元前2000年頃となる千葉市の六通貝塚の6人です。船泊遺跡の方は、高品質なゲノム配列が得られている女性個体ではなく、男性個体が分析対象となっており、この男性個体はmtHg-N9b1で、YHgは以前D1a2a2b(旧D1b2b)と報告されていましたが(関連記事)、今回はDとのみ報告されています。六通貝塚の6人のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に分類されている3人のうち2人がN9b1、1人がN9b2aです。六通貝塚の6人のうち3人が男性で、YHgはD1a2a1c1(旧D1b1c1)です。現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。本論文はまだ査読前ですが、これは「縄文人」としては初めて確認されたYHg-D1a2a1の事例になると思います。これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだったので、YHg-D1a2a1が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定していたのですが(関連記事)、これでYHg-D1a2aが「縄文人」由来である可能性はやはり高い、と言えそうです。

 本論文は、以上の知見をまとめて、アジア東部における集団形成史を図示しています。アジア東部集団は、古代の2集団から派生したとモデル化できます。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)個体(関連記事)と同系統のユーラシア東部北方集団(以下、北方集団)で、もう一方はアンダマン諸島のオンゲ(Onge)集団と密接に関連したユーラシア東部南方集団(以下、南方集団)です。アジア東部集団の系統はこの祖先的2集団に由来し、それぞれの割合はさまざまです。

 このモデルでは、モンゴル東部系統とアムール川流域のボイスマン関連系統は、北方集団関連系統からの割合が最大で、他のアジア東部集団と比較して、南方集団関連系統からの割合は最小限に留まっています。モンゴル東部系統の近縁系統は、チベット高原に拡大し、南方集団関連系統の在来狩猟採集民と混合しました。台湾の古代漢本集団は、南方集団関連系統(14%)と北方集団関連系統(86%)の混合としてモデル化されます。縄文人は南方集団関連系統で早期に分岐した系統(45%)と北方集団関連系統(55%)との混合としてモデル化されます。これらの知見は、後期更新世にアジア南東部から日本列島を経てロシア極東まで、沿岸経路での移住があった、との仮説と一致します。上部旧石器時代(後期旧石器時代)のアジア東部の古代ゲノムデータが少ないので、アジア東部の祖先的集団の深い分岐の復元は限定的になってしまいます。そのため、この混合を示した図は角に単純化されており、より詳細な関係は将来の研究に委ねられます。以下、本論文の図5です。
画像

 最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していきました。ユーラシア西部では、ヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団、新石器時代黄河流域農耕民、台湾鉄器時代集団の間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01~0.02)。今後の課題として優先されるのは、まだ仮定的存在で、現代人集団のアジア南東部クラスタの主要な系統になったと推測される、長江流域集団の古代DNAデータを得ることです。これにより、アジア南東部の人々の拡散が、古代人の移動と相関しているのか否か、理解できます。

 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。もちろん、これまでにもアジア東部の古代DNA研究は進められていましたが、本論文は初の包括的な研究結果を示した画期的成果と言えそうです。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア東部に限らず、アジア南東部、さらにはオセアニアの古代DNA研究に不可欠と言えそうな長江流域集団の古代DNAデータが得られておらず、ヨーロッパをはじめとしてユーラシア西部の水準にはまだ遠く及ばないように思います。上述の図からは、(ユーラシア東部)北方集団からアジア東部北方および南方系統が分岐し、長江流域早期農耕民集団はおもに南方系統、五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団に代表される黄河流域早期農耕民集団はおもに北方系統に由来すると考えられますが、アジア東部の南北両系統、さらにはその祖先となった(ユーラシア東部)北方集団がいつどのような経路でアジア東部に到来したのか、まだ不明です。ヤムナヤ関連系統、さらにはその祖先の一部である古代シベリア北部集団の遺伝的影響が漢人など華北以南のアジア東部集団ではひじょうに小さいことを考えると、北方集団はヒマラヤ山脈の北方(北回り)ではなく南方(南回り)経由でアジア東部に到来し、年代と場所は不明ながら、南北両系統に分岐したのではないか、とも考えられます。ともかく、アジア東部を含めてユーラシア東部の古代DNAデータがユーラシア西部と比較して明らかに少ない現状では、ユーラシア西部のような精度での集団形成史はまだ無理なので、アジア東部圏の日本人である私としては、大いに今後の研究の進展に期待しています。


参考文献:
Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606

大河ドラマ『麒麟がくる』第15回「道三、わが父に非ず」

 家督を息子の斎藤高政(義龍)に譲った利政は、出家して道三と名乗ります。明智光秀(十兵衛)は叔父の光安に呼ばれ、高政の弟の孫四郎から、織田と敵対する可能性の高い高政を当主から退かせる企てに加わるよう、依頼しますが、光秀は即座に拒絶します。孫四郎は、織田信長に嫁いだ姉の帰蝶に扇動されていました。高政はこの件を把握しており、光秀を呼び出します。孫四郎と帰蝶が自分を軽視していることに不満な高政は、帰蝶に扇動を止めさせるよう、光秀に命じます。道三に面会に行った光秀ですが、道三は、高政も帰蝶も孫四郎も信長も自力で道を切り開くしかない、と突き放します。尾張では守護の斯波義統が討たれ、内紛が生じます。帰蝶は信長の叔父の信光を扇動して、信長と敵対していた守護代の織田彦五郎を討たせ、信長は一気に勢力を拡大します。織田との同盟にずっと懐疑的な高政は、稲葉良通(一鉄)に煽られ、孫四郎への警戒心を強めて、その弟の喜平次とともに城内に呼んで殺害します。息子二人を殺された道三は激昂します。

 今回は、尾張と美濃の内紛を軸に話が展開しました。高政と道三の対立は、これまでの流れの帰結といった感じで、よかったと思います。今回も帰蝶の暗躍が目立ちましたが、本作の帰蝶はなかなか政治的手腕に優れており、上手く信長を操っている感もありますが、信長の方もそれを理解したうえで踊らされているように思います。両者の関係が、信長の勢力拡大とともにどう変わっていくのか、注目されます。藤吉郎(豊臣秀吉)と駒との縁も注目されます。藤吉郎はまだ光秀とは出会っていませんが、駒という共通の知人がいるわけで、これが光秀と藤吉郎の関係にどう影響するのか、楽しみにしています。

ヨーロッパ北部の中期更新世後期の木製品から推測される狩猟技術

 ヨーロッパ北部の中期更新世後期の木製品に関する研究(Conard et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ドイツ北部のニーダーザクセン(Lower Saxony)州のシェーニンゲン(Schöningen)遺跡では、中期更新世となる30万年前頃までさかのぼる保存状態の良好な遺物が発見されています。とくに注目されるのは、多くの石器や動植物遺骸とともに、更新世遺跡ではめったに発見されない木製品が発見されていることです。

 2011年の発掘で発見された木製品は、断片化された小さな端を含めて長さが64.5cm(本体は63.4cm)、最大直径は2.9cm、重さは264gの細長い棒です。この棒の両端は尖っており、トウヒ(Picea sp.)の枝もしくは茎から慎重に作られた、と推測されます。シェーニンゲン遺跡で発見された木製品には、マツ(Picea sp.)で作られた、より長くて大きな複数の投槍も含まれています。

 新たに発見されたトウヒの木製棒には、掘ったり剥がしたりする時にできるものではない明確な摩耗が見られ、民族誌および実験的な事例に見られる投槍の衝撃破壊および損傷に一致する痕跡が確認されたので、投擲に使用された可能性が高い、と推測されています。この木製棒は飛んでいる間、重心の周りを回転し、ブーメランのように投げ手には戻ってきません。代わりに、回転は獲物への攻撃精度を高めながら、真っ直ぐで正確な軌道を維持するのに役立ちます。

 この木製棒はさまざまな距離で効果的な武器であり、鳥やウサギ、さらにはウマのようなより大きな獲物を狩るのに使用できる、と考えられます。じっさい、シェーニンゲン遺跡では多くの動物遺骸が発見されています。ただ、木製棒の投擲で大型の獲物を仕留めた事例は中期更新世に関しては報告されておらず、民族誌の事例から、複数の武器で狩猟が行なわれていたのではないか、と本論文は推測しています。木製棒の投擲可能距離は、5~30mの短い距離から100mまで多様で、本論文はシェーニンゲン遺跡の新たに発見された木製棒については、その中間の投擲距離を想定していますが、証明には実験が必要と指摘しています。また実験では、このサイズの棒を投げると、毎秒最速30mに達します。中期更新世の投槍の威力は、以前の実験でも指摘されています(関連記事)。

 本論文は、中期更新世後期となる下部旧石器時代において、ヨーロッパ北部では複数の武器を使用した高度な狩猟が行なわれていた可能性は高く、それは更新世において広範な地域で同様だっただろう、と推測しています。本論文は、シェーニンゲン遺跡の人工物の製作者についてとくに言及していませんが、当時、ヨーロッパ南西部における複数系統のホモ属の共存可能性が指摘されており(関連記事)、ヨーロッパ北部に関しても、同様の状況を想定しておくべきかもしれません。


参考文献:
Conard NJ. et al.(2020): A 300,000-year-old throwing stick from Schöningen, northern Germany, documents the evolution of human hunting. Nature Ecology & Evolution, 4, 5, 690–693.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1139-0

現生種からは分からない進化史

 現生種の時間較正した系統樹(以下、現生種の時間系統樹)からは進化史が分からないことを指摘した研究(Louca, and Pennell., 2020)が公表されました。現生種の時間系統樹は、多様化の動態の推定に広く用いられています。しかし、このような推定の信頼性についてはかなり議論されてきており、この重要な問題はこれまで解決されていません。この研究は、ほとんどの既存の推定法の基礎になっている、一般化した出生–死亡モデルに基づく現生種の時間系統樹から抽出できる正確な情報を明確にします。

 この研究は、どの多様化シナリオについても、代替となる多様化シナリオが無数に存在し、それらのシナリオからはいかなる現生種の時間系統樹も同等の尤度で生み出されることを証明しました。これらの「一致」シナリオは、データが無限に存在しても、現生種の時間系統樹のみを用いて区別することはおそらくできません。重要なのは、一致する多様化シナリオは、著しく異なっているものの、妥当性については同様な動態を示し得ることで、これまでの多くの研究では系統学的証拠が拡大解釈されてきた可能性を示唆しています。

 この研究は、過去の多様化動態について利用可能な全ての情報を含む、識別可能で解釈の容易な変数を導入し、これらの変数が現生種の時間系統樹から推定可能であることを実証します。この研究は、これらの識別可能な変数を測定しモデル化することが、歴史的な多様化動態を研究するためのよりロバストな方法につながる、と指摘します。また、これらの知見から、古生物学的データはいくつかの大進化的な疑問に答えるうえで今後も重要であり続ける、とも明らかになりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:現生種の時間系統樹は無数の多様化の歴史と一致する

進化学:現生種を見ても進化の歴史は分からない

 生物の形態を決めるものは何なのか。アリや寄生バチの種類は無数にあるのに、シーラカンスは2種しか現生していないのはなぜか。これらの疑問のうち少なくともいくつかについては、その根底に種分化と絶滅の速度の変動を見積もる必要性がある。しかし、このような速度を見積もるのは困難であることがよく知られている。S LoucaとM Pennellは今回、そのような不確実性の厳しい現実を明らかにしている。彼らはどんな種分化–絶滅モデルにも、代替となる出生–死亡モデルが無数に存在し、それらは候補モデルとしてどんな現生種の時間系統樹も同等にうまく説明し得ることを突き止めた。我々に集められるデータはこうした研究に不適格であるだけでなく、驚くことにデータ量が無限にあっても、ある系統樹を作り出すシナリオ同士を区別するには不十分なのである。



参考文献:
Louca S, and Pennell MW.(2020): Extant timetrees are consistent with a myriad of diversification histories. Nature, 580, 7804, 502–505.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2176-1

降雨と火山噴火の関係

 降雨と火山噴火の関係についての研究(Farquharson, and Amelung., 2020)が公表されました。2018年5月のハワイ島キラウエア火山の亀裂貫入と噴火は、少なくともこの200年間で最も特異な噴火推移の一つですが、その引き金となった機構はまだよく分かっていません。この噴火では、2018年5月から8月にかけて火山の周囲に地割れができ、山頂では爆発的噴火が複数回発生し、カルデラが崩壊しました。降雨は、地震事象を誘発し、火山活動を変化させると知られていますが、そうした降雨の影響が観測されたのは火山の地下の浅い部分に限られており、降雨により深部マグマの動きが活発化するのかどうか、明らかになっていません。そのため、噴火前の数ヶ月間は異常に降水量が多かった2018年5月のキラウエア火山についても、降雨が浅部の火山活動を変化させる可能性は指摘されてきましたが、マグマ輸送に関連する深部で影響を及ぼし得るのか、まだ分かっていません。

 この研究は、噴火の直前と噴火の最中に、降雨がキラウエア火山の地下に浸透したことで、深さ1~3 kmの空隙圧が0.1~1 kPa増大し、約50年間で最大の圧力に達したことを示します。この研究は、地溝帯内部の空隙圧の変化により火山体の弱化と力学的な破壊が生じ、これに乗じて岩脈の貫入が起こり、最終的に噴火が促進された、との見解を提示しています。降雨により誘発される噴火の引き金は、山頂部の前兆的膨張が見られなかったことと矛盾せず、この貫入が他の事例とは異なり、地溝帯への新たなマグマの強力な貫入を原因とはしない、と示しています。

 さらに、歴史的な噴火事象の統計解析により、キラウエア火山の噴火と貫入の時期と頻度に降雨パターンが大きく寄与している、と示唆されました。乾季よりも短い雨季に、1790年以降の火山噴火の約60%が起こっていました。したがって、火山活動は火山体の岩石破壊の引き金になる極端な降雨によって変化し得るため、火山災害の評価のさいにはそうした要因も考慮すべきである、と本論文は提言しています。とくに、現在進行している人為起源の気候変動に関連してますます極端になる気候パターンは、降雨が引き金になる火山現象の可能性を世界中で増大させるかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


地球科学:キラウエア火山の噴火の引き金となったのは雨だった

 2018年に起きたキラウエア火山(米国ハワイ州)の噴火は、極端な降雨によって引き起こされたという考えを示した論文が、Nature に掲載される。この新知見は、火山のハザード評価を行う際に降雨を考慮に入れるべきことを示している。

 降雨は、地震事象を誘発し、火山活動を変化させることが知られている。しかし、そのような降雨の影響が観測されたのは、火山の地下の浅い部分に限られており、降雨によって、深部マグマの動きが活発化するのかどうかは、明らかになっていない。キラウエア火山の噴火は、複雑な多段階的過程だったが、何が引き金となったのかという点は解明されていない。この2018年の噴火では、同年5月から8月にかけて火山の周囲に地割れができ、山頂では爆発的噴火が複数回発生し、カルデラが崩壊した。

 今回のJamie FarquharsonとFalk Amelungの研究では、2018年の噴火に対する降雨の影響を調べた。ハワイでは、この噴火の前に数か月間にわたって降水量が異常に多い状態があった。今回の研究では、雨水が火山の地下に浸透し、噴火直前と噴火時の間隙圧がそれまでの約50年間の最高レベルに上昇したことが判明し、そのために火山の構造が弱体化して、マグマが侵入して噴火したという考えが提示されている。また、FarquharsonとAmelungは、過去のキラウエア火山の噴火の統計解析を行い、乾季よりも短い雨季に1790年以降の火山噴火の約60%が起こっていたことを明らかにした。このことは、過去のキラウエア火山の噴火と降雨との相関関係を示唆している。

 FarquharsonとAmelungは、降雨と火山噴火の関係の解明が進めば、将来的に、降雨が誘発する火山活動の予測に役立つ可能性があるという考えを示している。


火山学:極端な降雨が引き金となった2018年のキラウエア火山の亀裂噴火

Cover Story:噴火と雨:2018年のキラウエア火山の噴火を極端な降雨が誘発した可能性

 表紙は、米国ハワイ島のキラウエア火山の2018年の亀裂噴火時の溶岩流である。今回J FarquharsonとF Amelungは、極端な降雨によって大量の溶岩の流出が生じた可能性を示す、モデル化による証拠を提示している。降雨によって浅部の火山活動が変わり得ることは知られているが、降雨がマグマの移動に関連するより深部にまで影響を及ぼし得るかどうかはよく分かっていなかった。著者たちは、2018年の噴火前の数か月間に降った記録的な大雨がキラウエア火山の地下に浸透し、地下水の圧力をこの50年で最も高い値まで増大させたと提唱している。これによって、岩盤が弱くなり、割れ目ができてマグマが新たな場所へ上昇できるようになり、最終的に噴火が生じたと思われる。著者たちは、1790年以降のキラウエア火山の噴火史を改めて調べ、噴火の約60%が、1年の最も湿潤な時期に起こっていることを見いだした。彼らは、降雨と火山活動のつながりをより深く理解すれば、火山活動の予測を改善できる可能性があると示唆している。



参考文献:
Farquharson JI, and Amelung F.(2020): Extreme rainfall triggered the 2018 rift eruption at Kīlauea Volcano. Nature, 580, 7804, 491–495.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2172-5

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』第10刷

 朝日出版社より2009年11月に刊行されました。第1刷の刊行は2009年7月です。本書は中学生と高校生を対象とした著者の5日間の講義の書籍化です。対象となるのは日清戦争から太平洋戦争までですが、日清戦争の前史としての日清関係も詳しく取り上げられており、「戦争を選択した」という観点からの大日本帝国史とも言えそうです。本書の特色は、同時代のさまざまな立場からの考察です。これは歴史学において当然とも言えますが、私もそうであるように、非専門家はどうしても現代の自身の観点から勧善懲悪的な物語を望み受け入れやすくなってしまうので、本書のように同時代のさまざまな立場からの考察を強く出した一般向け書籍を読んでいくことが重要になる、とは思います。

 同時代のさまざまな立場に関しては、日本の諸勢力・要人はもちろん、戦争を主題とするだけに、外国政府および要人も対象となります。これにより、たとえば満州事変のさいのリットン調査団の報告書が、日本にとって宥和的なところも多分にあり、それはイギリスなど当時の列強の状況判断に基づくものだった、と了解されます。もっとも、私も同様の見解を他の一般向け書籍で読んだことがあるくらいですし、この見解はすでに、現代日本社会では一般層にもそれなりに浸透しているかもしれませんが。著者はよく松岡洋右に甘いと言われるそうですが、本書でも、松岡が単に粗暴で先見の明のない無能な政治家だったわけではない、と読み取れます。

 同時代の視点で重要となるのは、日清戦争の解釈です。本書は、帝国主義的風潮の時代において、近代化(西洋化)に成功して興隆していく日本が、旧体制に固執する頑迷固陋な落ち目の大清帝国(ダイチン・グルン)を侵略した、という勧善懲悪的な物語にのみ落とし込むのではなく、「東アジア」における日清(日中)の長きにわたる主導権争いの結果として把握しています。また本書は、1880年代半ばの時点では、日本型の発展の可能性も、中国(ダイチン・グルン)型の発展の可能性も充分あった、と指摘します。中国社会の重要な転機として、アヘン戦争よりも日清戦争を重視する見解(アヘン戦争後も強靭な中国伝統経済は根本的には変わりませんでした)をすでに読んでいたので(関連記事)、本書の指摘はとくに意外ではありませんでした。

ヒヒの意思決定

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ヒヒの意思決定に関する研究(Strandburg-Peshkin et al., 2015)が公表されました。日本語の解説記事もあります。これまで、階層が確立された霊長類やオオカミといった動物は、民主主義的プロセスを通して合意に至っているのか、それとも、その決定は支配力のあるリーダーが行なっているのか、という点に関心が寄せられていました。

 この研究は、ケニアのンバラ(Mpala)研究センターで、25頭の野生のアヌビスヒヒに特別設計のグローバル・ポジショニング・システム(GPS)機能の付いたカラーを装着し、1秒ごとにヒヒの居場所を記録し、ヒヒらの互いに連動しあう動きを分析しました。その結果、特定のヒヒらが先導者となっており、先導者であるヒヒらは他のヒヒから離れるように動き始め、他のヒヒに「後を追わせる」、もしくは自分たちが戻ってくるまでその場で「待たせる」、ということが明らかになりました。

 この研究は、ヒヒでは多数のヒヒが先導者となり、先導者らの行き先が特定の方向に一致する時は後を追う傾向が強い、と見出しました。しかし、どこに行くかについて先導者らの意見が分かれている時は決定が遅れます。ヒヒは2つの行き先の角度が90度より大きい場合はそのうちの1つを選択するものの、2頭の先導者がそれぞれに示す方向の角度が90度以下の場合は妥協を図ろうとします。

 これらの知見は、野生のヒヒにおける社会的地位とリーダーシップの間の重要な差異を強調するもので、群れの間で共有される民主主義に基づく意思決定は、高度に階層化された社会的階級を持つ種の間にも広がっていることを示しています。強力で優勢な支配層が存在する種においてさえ、「民主主義」が特定の社会集団の行き先や行動を導く集団行動や集団決定に内在する特性だと考えられる、というわけです。人類にもこうした認知的基盤が備わっている、と考えられます。


参考文献:
Strandburg-Peshkin A. et al.(2015): Shared decision-making drives collective movement in wild baboons. Science, 348, 6241, 1358-1361.
https://doi.org/10.1126/science.aaa5099

完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連

 完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連についての研究(Racimo et al., 2020)が報道されました。8500年前頃まで、ヨーロッパはおもに比較的低密度で暮らす狩猟採集民集団で占められていました。このヨーロッパの人口構造は、新石器時代にアナトリア半島から農耕民が到来したことで変わりました。第二のヨーロッパにおける大規模な移動は、青銅器時代初期に、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連した集団が、東方からヨーロッパに到来してきたことです(関連記事)。ヤムナヤ文化と関連した集団は、西方に移動してヨーロッパ中央部および北部の縄目文土器(Corded Ware)文化と関連し、その後にヨーロッパ北西部の鐘状ビーカー(Bell Beaker)現象と関連して、家畜ウマとインド・ヨーロッパ語族祖語をもたらしたかもしれません。

 過去1万年にわたって、ヨーロッパは土地被覆構成で大きな変化を経てきましたが、新石器時代とヤムナヤ文化のヨーロッパへの移住がその変化にどの程度寄与したのか、まだ不明です。最近の花粉に基づく研究では、広葉樹林の劇的な減少が6000年前頃から現在までに起きた、と示唆されます。この森林喪失は2200年前頃から激化し、ヨーロッパ大陸全体で草原や耕作地に置換されていきました。しかし、これらの過程は全地域で均一に進行したわけではありません。たとえば、ヨーロッパ中央部では広葉樹林のかなりの減少が4000年前頃から始まりましたが、大西洋沿岸ではそのずっと前に半開植生で占められていました。一方、スカンジナビア半島南部では、森林の顕著な現象は少なくとも中世までありませんでした。より早期の狩猟採集民集団は、周囲の植物相と動物相に限定的な影響しか及ぼさなかった可能性が高いので、おそらくこれらの現象は、森林伐採や農耕・牧畜の確立を含む新たなヒトの景観利用活動により部分的に影響を受けました。気候変化パターンもまた、植生変化に影響を与えたかもしれません。さらに、植生変化は集団の拡大する新たな領域を開いたかもしれません。しかし今まで、古植生の変化を特定のヒト集団の移動と明示的に関連づける、もしくは因果的役割を仮定して、気候要因とヒトに基づく要因を区別する取り組みはほとんど行なわれていませんでした。

 本論文は、ヨーロッパ大陸全体で主要な完新世の移動が時間の経過とともにどのように展開したのか追跡し、それが植生景観の変化とどう関連しているのか、理解することを目的とします。本論文は、古代ゲノムの系統推論と地球統計学的手法を統合します。これらの手法の使用により、系統移動の詳細な時空間的地図を提供し、農耕の拡大と植生変化の関係を明らかにします。さらに、これらの移動の最前線の速度を推定し、その結果を放射性炭素年代測定された考古学的遺跡から得られた文化的拡散の復元と比較します。広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の植生増加は、狩猟採集民系統の現象と同時に発生し、青銅器時代の草原の人々の速い移動と関連していたかもしれません。また、この期間中の気候パターンの自然変動は、これらの土地被覆変化に影響を与えた、と見出します。本論文の手法は、古代DNA研究と考古学的データセットを統合する将来の地球統計学的研究への道を開きます。

 本論文は、ヨーロッパの人類集団の遺伝的構成について、上部旧石器時代~中石器時代の狩猟採集民(HG)、アナトリア半島から拡散してきた新石器時代農耕民(NEOL)、ヤムナヤ文化関連集団(YAM)の3系統の割合の推移をモデル化しました。当然、より多くの系統で詳細なモデル化は可能ですが、本論文は、ボトルネック(瓶首効果)とゴースト集団との交雑による混乱を避けるため、この3系統の推移に基づいて検証しています。NEOLは新石器時代農耕文化と、YAMはヤムナヤ関連文化と密接に関連していますが、系統と文化は常に一致しているとは限らない、と本論文は注意を喚起します。HGはヨーロッパ西部狩猟採集民系統(WHG)とほぼ対応しています。

 本論文はまず、放射性炭素年代測定法による較正年代を利用して、各系統の割合がヨーロッパにおいてどのように推移していったのか、地図化します。これにより、YAMの移動速度はNEOL(1.8km)の2倍以上と明らかになりました。次に本論文は、ヨーロッパ完新世における土地被覆構成の変化を地図化します。その結果、ヨーロッパ全土の水準においては、広葉樹林の減少と牧草地・自然草原の増加は、NEOLの到来後ではなく、YAM到来後に起きた、と明らかになりました。ただ、本論文は地域差もあることを指摘します。フランス中部では、YAMの増加と広葉樹林の減少が一致します。対照的に、ヨーロッパ南東部と南西部では、YAMが増加しても森林被覆は低水準で安定していました。これが人為的なものだとすると、地中海沿岸の農耕牧畜体系の樹木栽培の結果かもしれない、と本論文は推測します。ヨーロッパ全土の水準においては、耕作可能な土地の大幅な増加は、NEOLの到来よりずっと後の完新世後期となります。総合的に、HGと広葉樹林の割合の高さが、またYAMと牧草地・自然草原の高い割合とが相関しますが、NEOLは植生との関連が弱いか存在しない、と本論文は指摘します。

 NEOLの拡大は、放射性炭素年代測定法による年代の得られている新石器時代農耕集団遺跡の拡大とおおむね一致しており、ヨーロッパでは、中央部を北進する方向と、地中海沿岸を西進する方向に二分されます。文化区分では、これは線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化とインプレッサ・カルディウム(Impressa/Cardial Pottery)文化に相当し、両文化がおそらくは人々の移動により拡大した、との見解が支持されます。上述のように、YAMの拡大はNEOLの拡大より速く、これはウマの使用を含む多くの理由が考えられます。YAMはヤムナヤ文化および縄目文土器(Corded Ware)文化と関連した個体群に高い割合で見られ、ユーラシア草原地帯からヨーロッパへと拡散した、と推測されます。ただ、縄目文土器文化集団がウマを飼っていた証拠は限定的で、混合農業を営んでいた可能性が指摘されています。

 ヨーロッパにおける各系統と植生景観との関連では、まずHG は広葉樹林と正の相関がある一方で、YAMは広葉樹林植生と負の相関があり、草原および耕作地と正の相関があります。また、気候と土地被覆タイプの間の関連も確認されました。たとえば、気温の上昇は、低木地や牧草地および草原や耕地の増加と関連していました。上述のように、NEOLと植生の変化との強い関連は見いだされませんでした。この理由として、本論文のモデルでは効果を明確に検出するにはあまりにも小規模だったか、局地化されていたことが指摘されています。以前の研究では、少なくともヨーロッパ北西部では、新石器時代共同体がある程度は地域的な環境を変えた、と指摘されています。ヨーロッパ北部や北西部のような地域では、NEOLの増加と一致して広葉樹林がわずかに減少していますが、これはヨーロッパ全土の水準では観察されません。広葉樹林の顕著な減少はヨーロッパ西部および北西部ではずっと後に起き、YAMの増加と一致します。なお、地中海沿岸で栽培されているオリーブやクリやクルミの広葉樹林に含まれるので、これらの栽培種のある地域に関しては、本論文の森林変化を推測する能力は限定的となります。

 6000年前頃に始まる広葉樹林の減少に続いて、ヨーロッパ大陸の一部の地域で草原と攪乱地がわずかに増加します。これらの植生タイプは地中海および黒海地域において完新世初期を通じて自然に存在し、現在までかなり安定していました。対照的にヨーロッパ西部では、これらの植生はYAMが増加し始めた青銅器時代に中間水準に達し、その後も増加し続けました。ヨーロッパ南部と東部では、YAMの増加と草原および攪乱地の増加が一致しませんでした。これは、過去3000年の人口密度の劇的な増加も反映しているかもしれません。そのため土地利用に強い変化が生じ、結果として大陸全体の植生が攪乱されたかもしれない、というわけです。新石器時代と青銅器時代の人口増減も、小規模ではあるものの植生景観に影響を与えたかもしれません。本論文は、将来の研究では人口密度やヒトの活動の他の要素を組み込む必要があるかもしれない、と指摘します。ただ本論文は、遺伝的構成の変化が古代DNA研究に依存しており、それは環境や歴史的な偏りに左右されるものであることに注意を喚起しています。また上述のように、HG・NEOL・YAMの3系統でモデル化していることも本論文は指摘しています。こうして単純化したモデル化は、じっさいの複雑な移動・混合を反映しているのではなく、その近似値になる、というわけです。

 古代DNA研究と植生景観の変化を関連づけた本論文の手法はたいへん注目され、今後発展していく分野だろう、と期待されます。ただ、本論文が指摘するように、ヒトのさまざまな活動も考慮していかねばなりませんし、栽培植物が解析能力を限定的としているところもあります。また、遺伝的構成の変化は古代DNA研究に依存していますが、これは環境や歴史的な偏りに標本が左右され、ヨーロッパ全土のような広範囲での考察のさいに、偏りが生じてしまう危険性もあります。ただ、このような研究が可能なのも、ヨーロッパの古代DNA研究が他地域よりも大きく進展しているためで、この点で日本列島も含めてアジア東部が大きく遅れていることはとても否定できず、日本人の私としては残念です。今後、アジア東部、さらにはユーラシア東部での古代DNA研究の進展が期待されます。


参考文献:
Racimo F. et al.(2020): The spatiotemporal spread of human migrations during the European Holocene. PNAS, 117, 16, 8989–9000.
https://doi.org/10.1073/pnas.1920051117

ホモ・ナレディの子供の遺骸

 ホモ・ナレディ(Homo naledi)の子供の遺骸に関する研究(Bolter et al., 2020)が報道されました。人類進化における成熟過程と生活史戦略に関する知識は、人類化石記録において未成体遺骸がひじょうに稀で、残っていたとしても部分的あるため、妨げられています。現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)を除くと、未成体の部分的な人類骨格は、アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)とアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)とホモ・エレクトス(Homo erectus)の3種でしか報告されていませんでした。人類の発達過程の進化史のより詳しい理解には、新たな未成体化石が必要です。

 2015年に公表された、南アフリカ共和国のライジングスター洞窟(Rising Star Cave)で発見されたホモ・ナレディ(Homo naledi)化石には、未成体遺骸も含まれています。ライジングスター洞窟においては、ディナレディ空洞(Dinaledi Chamber)で新生児から高齢個体まで少なくとも15個体分の化石が発見されており、レセディ空洞(Lesedi Chamber)では成体と未成体を含む少なくとも3個体分の化石が確認されています(関連記事)。ナレディの年代は、中期更新世後期となる335000~226000年前頃と推定されています。本論文は、2013~2014年のディナレディ空洞における発掘で発見された未成体遺骸について報告しています。この未成体遺骸は少なくとも9個体分となります。このうち、学童期(juvenile)となる未成体の1個体(DH7)には、歯が一部残る下顎骨・上腕骨・手の指骨・脛骨・腓骨・距骨・舟状骨などが残っています。

 DH7の骨格成熟は、近縁種である198万年前頃のアウストラロピテクス・セディバの部分的骨格(MH1)と、160万年前頃となるホモ・エレクトス(Homo erectus)の部分的な骨格(KNM-WT 15000)と類似しています。MH1は9~11歳、KNM-WT 15000は8.3~8.8歳と推定されています。ともに非ヒト類人猿に近い成熟速度で現代人よりも速く、ホモ・ナレディも同様とも考えられます。しかし、ナレディの形態的特徴は複雑です。歯に関しては、ナレディの歯の萌出パターンは現生人類と類似しており、小臼歯は第二大臼歯が充分に放出するまでに充分に放出します。しかし、ナレディの歯根形成パターンは、非ヒト類人猿の方に似ています。また、ナレディの歯のエナメル質沈着パターンは、現生人類も含めて他の人類とは異なります。ナレディの脳サイズと身体サイズも、既知の人類の組み合わせに当てはまらないので、その成熟パターンの解釈はさらに複雑となります。祖先的特徴と派生的特徴の混在するナレディは、個々の身体部位で成長速度が異なっていたかもしれない、というわけです。ナレディの推定脳容量は480~610ccで、アウストラロピテクス・セディバとホモ・エレクトスの中間です。ナレディの推定身長は成体では143.5cmで、セディバと類似しています。セディバとエレクトスとナレディが類似した発達パターンを共有しているのならば、DH7の推定年齢は8~11歳です。

 しかし、人類進化系統樹におけるナレディの位置づけに関しては議論があります。ナレディは早期ネアンデルタール人および早期現生人類とともに、中期更新世後期に存在した人類系統で、頭蓋データの比較から、ナレディとネアンデルタール人と現生人類の共通祖先系統がホモ・エレクトス系統と分岐した後に、ナレディの系統とネアンデルタール人および現生人類の共通祖先系統が分岐した、との見解も提示されています(関連記事)。この見解が妥当だとすると、ナレディの成長パターンは現生人類やネアンデルタール人に近かったかもしれず、DH7の推定年齢は11~15歳となります。あるいは、ナレディの成長パターンはセディバやエレクトスとネアンデルタール人や現生人類の中間だったかもしれません。ナレディの成長パターンの分析は、現生人類の成長パターンの進化の理解にも貢献できるでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Bolter DR, Elliott MC, Hawks J, Berger LR (2020) Immature remains and the first partial skeleton of a juvenile Homo naledi, a late Middle Pleistocene hominin from South Africa. PLoS ONE 15(4): e0230440.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0230440

サモアの人口史

 サモアの人口史に関する研究(Harris et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。オセアニアへの人類の移住には、2回の大きな波がありました。最初の波は遅くとも5万年前頃までに起きたと考えられ、パプア諸語集団とオーストラリア先住民集団の祖先が、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)とその近辺の島々に到来しました。2番目の波は5000年前頃に始まったオーストロネシア語集団で、アジア南東部島嶼部から最初にニアオセアニアへと到来し、その後でリモートオセアニアへと拡散しました。遺伝学的研究では、この最初のオーストロネシア語集団は最小限度パプア集団と交雑した、と推測されています(関連記事)。しかし、リモートオセアニアの現代オーストロネシア語集団は20~30%程度のパプア人系統を有しており、おそらくは80~50世代前(1世代30年として2400~1500年前)のオーストロネシア語集団とパプア集団との交雑に起因します。

 本論文は、リモートオセアニアに植民したオーストロネシア語集団の子孫である現代サモア人の遺伝的多様性を調査し、以前には考古学的データのみで処理されていた複数の歴史問題に取り組みます。考古学的データからは、複雑な装飾のラピタ土器を含む類似した物質文化を特徴とする生物学的および言語学的に関連する集団により、サモア諸島への最初の定住は2880~2750年前頃に起きた、と推測されています。この装飾土器はサモア諸島では比較的急速に消滅し、その後すぐに装飾のない土器に置換され、サモア諸島の最初の定住から700~800年ほどの遺跡で発見されます。サモア諸島のこれら初期の遺跡は、同年代の近隣となるトンガやフィジーのずっと豊富な考古学的記録とは対照的で、サモア諸島人口史が不明な理由となっています。

 これは、サモア諸島初期集団の人口規模に関する議論の手がかりとされ、小規模で孤立した集団を反映している、との見解が提示されています。しかし、相対的な島の沈下と陸地の堆積により破壊もしくは転置されたのであって、サモア諸島初期集団の規模は大きかったか、少なくとも他のリモートオセアニア集団と同等だった、との仮説も提示されています。また、2000~1500年前頃に、ミクロネシアのカロリン諸島経由でサモア諸島への第二次移住があり、交雑もしくは部分的置換が起きた、との見解も提示されています。装飾のない土器は、1500~1000年前頃に考古学的記録から消えます。このすぐ後に、複雑なサモア諸島の首長制が出現して、サモア人が東西ポリネシアへと航海し、主要な人口統計学的変化が起きた、と示唆されます。サモア諸島の過去には多くの問題が残っており、一般的な遺伝学的研究ではオセアニア集団の標本抽出が不足しているため、遺伝的手法はまだこの研究には含まれていません。

 近現代史では、18世紀にヨーロッパ西部系の人々がサモアに到来した影響について議論があり、19世紀早期にはサモアにおけるヨーロッパ系の政治的支配が確立しました。ヨーロッパ西部系の人々はサモアに病気をもたらし、先住民の人口激減をもたらしました。20世紀初期には、アジア東部の移民労働者がサモア諸島西部に到来しました。こうした近現代における移民が、サモア諸島の人口史を混乱させました。現在、サモア集団の97%は、首都のアピア(Apia)を含むウポル(Upolu)島と、サバイイ(Savai’i)島に居住しています。本論文は、サモアにおける初期と最近の人口動態の解明のため、主要な2島の4国勢調査地域33村の1197人の高網羅率(平均約38倍)となる全ゲノム配列を分析しました。4国勢調査地域は、サバイイ島のSAV、ウポル島のAUA・NWU・ROUで、都市部がAUA(263人)・NWU(358人)、農村部がSAV(253人)・ROU(323人)です。このうち、血縁関係者を除いた969人の常染色体17058431ヶ所の多様体が特定されました。これが、古代および現代人類のゲノムデータと比較されました。

 主成分分析では、サモア人はオセアニア集団と最も密接で、次がアジア東部集団です。ADMIXTURE分析では、419人のサモア人はそのゲノムの少なくとも99%がほぼ単一のクラスタに由来します。このクラスタは他のオーストロネシア集団でも顕著で、パプア人・サモア人・他のオーストロネシア集団の系統を組み合わせているようです。本論文で分析されたサモア人では、非オセアニア系統は最小限しか見られません。これは、4人の祖父母全員がサモア人という分析対象者の条件と一致します。アフリカ系統の大半はアフリカ西部出身、ヨーロッパ系統はおもにヨーロッパ西部出身で、これはヨーロッパによるサモアの植民地化の歴史と一致します。アジア東部系統は、おもに中国南部とメコン川流域です。中国からサモアへの移民労働者の到来は19世紀以降となりますが、これは中国でも南部出身者だったことを示します。

 DMIXTURE分析では、サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の比率は平均24.36%です。また、パプア人系統はサモア人において均一に分布しており、この混合はサモアへの到達の前に起きたかもしれません。しかし、パプア系統との複数回の交雑の可能性は除外されません。また、このパプア人系統は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)ではなく、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)系統と相関しており、サモア人のゲノムにおけるデニソワ人系統が、パプア人系統との交雑を通じて入ってきたことを示唆します。サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の割合は、ポリネシア集団でもトンガ人の35.38%よりも低くなっています。ラピタ文化集団によりトンガとサモアが植民された後、80~50世代前(1世代30年として2400~1500年前頃)にリモートオセアニアへのパプア集団の拡大に伴い、オーストロネシア集団との第二の交雑の波があった、と推測されています。この第二の交雑の波は、リモートオセアニアのラピタ文化地域全体では均一ではなかったかもしれません。

 稀な多様体に注目すると、農村間同士よりも都市部と農村部とで共有の度合いが高い、と明らかになりました。また都市部では、全調査地域と共有する比較的稀な多様体が見られます。これは、農村部から都市部への非対称的な移住を示唆しており、サモアにおける都市化パターンと一致しています。都市化は、非オセアニア系集団との交雑にも影響を及ぼした可能性があります。都市部住民のゲノムでは、アフリカ・アジア東部・ヨーロッパ系統が農村部より増加しています。

 18世紀以降、サモア諸島にはヨーロッパ人が到来し、植民地化していきました。その過程で、ヨーロッパ人の持ち込んだ感染症により、10世代前(300年前頃)にサモアの人口は減少し、5世代前(150年前頃)に回復し始め、その後は指数関数的に人口が増加しました。サモアにおけるこのボトルネック(瓶首効果)は、現代サモア人の遺伝的構造に影響を及ぼしています。サモア人と非サモア系との交雑は、ボトルネック後に起きた可能性が高そうです。なお、1918年のインフルエンザ大流行(いわゆるスペイン風邪)では、サモア人におけるボトルネックは観察されませんでしたが、サモア西部では死亡率が20%に達した、と推定されています。推定されるウポル島とサバイイ島の有効人口規模の推移からは、35~30世代前(1050~900年前頃)に両集団が分岐した、と推測されます。ウポル島の有効人口規模(75400人)はサバイイ島のそれ(33600人)より大きく、遺伝的多様性の違いとも一致します。

 サモアの有効人口規模の歴史は100世代前(3000年前頃)の成長期から始まり、ラピタ文化集団がサモア諸島に定住したとされる考古学的な推定年代と一致します。しかし、有効人口規模は100世代前から35~30世代前まではひじょうに低く、この期間の最小推定値は700~900人、最大推定値は3300~3440人です。これは、初期集団の規模が小さかったという仮説を支持します。これは、この時点で恐らくはより大きな集団規模を有した他のオセアニア集団と異なります。この期間のサモアの集団規模の小ささは、オーストロネシア集団の拡大中に他でも見られた急速な移住過程と、サモアにおける限定的な沿岸移住に、部分的に起因するかもしれません。ただ、この期間のサモアの考古学的記録はまばらなので、これは一つの潜在的な可能性にすぎず、サモアの人口規模の小ささの理由の特定には、追加の考古学的データが必要です。

 35~30世代前(1050~900年前頃)に人口増加の長い期間が始まり、ウポル島とサバイイ島の人口史も分岐していき、有効人口規模は1万人を超えます。これは、景観の変化が広く見られる期間に起き、そのほとんどは農耕に起因する可能性が高く、推定される複雑な首長制の起源と一致します。これと関連するかもしれないのは、上述した、67~50世代前(2000~1500年前頃)にミクロネシアのカロリン諸島経由でサモア諸島への移住があったという仮説で、本論文で推定された人口増加時期に先行します。他の重要な文化的変化もこの時期に起きた、と報告されてきました。50~33世代前(1500~1000年前頃)には土器が消滅し、33~17世代前(1000~500年前頃)に開拓地が増加しました。極端な仮説になりますが、本論文で推定されたサモアの有効人口規模の分岐と増加は、先住の創始者集団と交雑し、置換したかもしれない、サモアにおける新たな集団の到来に起因するかもしれません。この場合、現代サモア人のゲノムにおけるパプア人系統の割合が均一であることから、新たな到来集団はすでにパプア人と交雑していた、と考えられます。

 サモアの初期の人類史については議論があり、上述した2000~1500年前頃の集団置換の可能性も含まれます。本論文の遺伝的データは、35~30世代前(1050~900年前頃)にウポル島とサバイイ島の集団が分岐し、それに続いて人口が増加していった、と推定し、潜在的な集団置換を支持します。また、100世代前(3000年前頃)から始まる小さな成長期間と、その後の約70世代(2100年間)の人口低迷も示されます。これは、ラピタ文化の到来とその早期の小さな人口希望を支持する考古学的知見と一致します。しかし、完全な集団置換があった場合、35~30世代前以前の人口史は、元々のラピタ文化集団ではなく、新たな侵入集団を反映しています。古代DNAの証拠なしには、集団置換があったのか、何らかの他の事象が人口増加に結びついたのか、結論を出せません。確かなのは、35~30世代前に明らかな人口動態の変化があり、長く深刻なボトルネックの後に指数関数的な人口増加が始まった、ということです。したがって、この前にサモアに大きな集団が存在していたのならば、完全な集団置換はなさそうです。

 現代サモア人が96~92世代前(2880~2750年前頃)の移住集団の子孫なのか、あるいは33世代前(1000年前頃)の移住集団の子孫なのかに関わらず、サモアの人口構造はおそらくつい最近形成されたものでしょう。稀な多様体の共有は、一般的な多様体に偏った分析よりも、詳細な人口構造と最近の人口統計学的事象をよく解明します。主成分分析ではでは識別できなかった、最近起きた都市化の兆候は、稀な多様体の共有に注目することで観察されました。これは、人口統計学的研究には高網羅率の全ゲノム配列が必要であることを示しています。

 サモアにおいては、35~30世代前(1050~900年前頃)に人口が増加したものの、10世代前(300年前頃)には人口が崩壊し、それはヨーロッパ人の到来による可能性が高く、その後に5世代前(150年前頃)になって指数関数的に人口が増加しています。ウポル島集団はサバイイ島集団よりも遺伝的多様性が高く、現代サモアの人口構造はつい最近の都市化により推進されてきました。現代人の遺伝的データから、サモアの詳細な人口史が明らかになり、それは以前の考古学的研究を補強するとともに、サモアの人口史はごく最近の集団規模の変化の動的な期間を特徴としている、と明らかになります。この研究は、肥満および関連疾患の最近の増加というサモアにおける公衆衛生問題の解決にも寄与し、それはオセアニア全域における将来の研究にも役立つ、と期待されます。


参考文献:
Harris DN. et al.(2020): Evolutionary history of modern Samoans. PNAS, 117, 17, 9458–9465.
https://doi.org/10.1073/pnas.1913157117

フローレス島の更新世鳥類化石の分析

 インドネシア領フローレス島の更新世鳥類化石の分析に関する研究(Meijer et al., 2019)が公表されました。フローレス島中央部のソア盆地(約400㎢)では、100万~70万年前頃となる前期更新世後期~中期更新世早期の動物化石と石器が発見されており、その中にはワラセアで最古となるマタメンゲ(Mata Menge)遺跡の人類遺骸も含まれています(関連記事)。この人類遺骸は、フローレス島西部のリアンブア(Liang Bua)洞窟遺跡で発見された中期~後期更新世の人類であるホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)との形態的類似から、フロレシエンシスの祖先である可能性が指摘されています。

 また、100万~70万年前頃のソア盆地の石器群と、5万年前頃が下限年代となるリアンブア洞窟の石器群との技術的類似性も注目されています。当時のマタメンゲ遺跡一帯は、サバンナのような熱帯草原地帯だった、と推測されています。フローレス島では、動物化石と石器は同じ層で発見されていますが、動物の処理に石器が使用されたのか、定かではありません。現時点では、マタメンゲ遺跡の動物化石の蓄積に人類が関与しているのか否か、定かではありません。

 フローレス島などアジア南東部島嶼部(ISEA)は、19世紀末に発見されたホモ・エレクトス(Homo erectus)や、21世紀になって発見されたホモ・フロレシエンシスなど、人類進化史で注目される地域ですが、アフリカで進展しているような化石生成論的枠組みは現在欠けており、化石生成論的研究はひじょうに限られています。ISEAではウォレス線の東西で動物相が大きく異なり、ワラセア諸島では、典型的な肉食哺乳類や、ヤマアラシのような化石生成に寄与する動物が存在しなかったため、動物遺骸の蓄積はおもにフクロウと現生人類の活動に起因しています。しかし、非現生人類がどの程度動物遺骸の蓄積に関与したのかは、まだ不明です。

 ISEAにおける、人類による動物遺骸への直接的関与については、ジャワ島で40万年以上前となる貝殻に刻まれた幾何学模様が確認されていますが(関連記事)、まだ明確な証拠はほとんど得られていません。そこで本論文は、マタメンゲ遺跡の前期~中期更新世の鳥類遺骸群表面の痕跡について、人為的なものなのか否か、マルチ集束共焦点顕微鏡分析により検証しました。ジルコン・フィッショントラック法により、脊椎動物化石と石器の発見されている下層の年代は88万±7万年前~80万±7万年前と推定されています。その上層では人類遺骸と石器が発見されており、70万年前頃と推定されています。

 マタメンゲ遺跡では、21世紀の発掘で187点の鳥類化石が発見されており、そのうち8点は堆積物などにより有用な情報が得られませんでした。これら鳥類化石には、カモ科やスズメ目など少なくとも9分類が含まれます。このうち多く(66個)が人類遺骸の発見されている上層で回収されています。鳥類化石のうち141個(79%)には骨表面の縦方向のひび割れが、24個(13%)には剥離が見られます。これらの特徴は、鳥類化石群の蓄積中と蓄積後に形成されていった、と推測されています。

 前期更新世末期~中期更新世早期のマタメンゲ遺跡では、鳥類化石と人類の痕跡との密接な関連が見られ、これはずっと後の中期~後期更新世のリアンブア洞窟でも同様です。鳥類の利用はかつて人類系統では現生人類(Homo sapiens)に固有と考えられていましたが、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も利用していた、と現在では考えられています(関連記事)。これは、フロレシエンシス系統と現生人類およびネアンデルタール人の共通祖先系統の最終共通祖先の時点ですでに存在したか、各系統で独自に発達したのかもしれません。しかし、マタメンゲ遺跡では、人類が鳥類を食べたり装飾品に利用したりするといった明確な直接的証拠は見つからず、これはリアンブア洞窟遺跡でも同様です。本論文は、死肉漁りをしている鳥類の観察により、人類が食料を見つけていた可能性を指摘しています。

 本論文は、前期更新世末期~中期更新世早期のマタメンゲ遺跡において、人類が鳥類を直接的に利用していた明確な証拠を検出しませんでした。しかし本論文は、この分析では直接的な比較データが不足しているので、あくまでも予備的なものにすぎない、と指摘します。その意味で、フローレス島の非現生人類ホモ属(フロレシエンシス系統)が鳥類を直接的に利用していた可能性もあると考えるべきでしょう。今後、さらなる研究により、フローレス島、さらにはISEAにおける、非現生人類ホモ属と鳥類との関係が明らかになっていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Meijer JM. et al.(2019): Characterization of bone surface modifications on an Early to Middle Pleistocene bird assemblage from Mata Menge (Flores, Indonesia) using multifocus and confocal microscopy. Palaeogeography, Palaeoclimatology, Palaeoecology, 529, 1-11.
https://doi.org/10.1016/j.palaeo.2019.05.025

ネアンデルタール人製作の猛禽類の爪の装飾品

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)製作の猛禽類の爪の装飾品に関する研究(Radovčić et al., 2020)が公表されました。クロアチアのクラピナ(Krapina)遺跡では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とその他の動物の骨・歯やムステリアン(Mousterian)石器が多数発見されています。また、少なくとも3個体分のオジロワシ(尾白鷲)の鉤爪8個と趾骨1個も発見されており、その年代は電子スピン共鳴法とウラン系列法により海洋酸素同位体ステージ(MIS)5eの13万年前頃と推定されています。クラピナ遺跡ではネアンデルタール人以外の人類の痕跡は確認されていません。

 オジロワシの鉤爪は装飾品として用いられた、と推測されています(関連記事)。オジロワシはクラピナ遺跡一帯において一般的ではなく、捕獲は容易ではありません。猛禽類の爪を装飾品として利用することは、スペインの遺跡でも確認されています(関連記事)。ただ、猛禽類の爪が複数確認されているのはクラピナ遺跡だけです。本論文は、クラピナ遺跡のオジロワシの鉤爪のうち1個(386.1)の詳細な分析結果を報告しています。この鉤爪には、半透明のケイ酸塩層の下の解体痕内に繊維がある、と明らかになりました。また鉤爪の表面には顔料の小さな点も見られ、マンガンと酸化鉄に似ています。ネアンデルタール人がこれらを着火(関連記事)や芸術(関連記事)に用いた可能性が指摘されています。本論文は、光学顕微鏡以上の強力な分析能力を有し、非破壊的な分析を可能とする手法(非侵襲的な赤外線シンクロトロン分光法)により、顔料の由来と性質を調べました。

 繊維と顔料の小さな点は、半透明のケイ酸塩層の下にあります。繊維はコラーゲンと推測されます。このコラーゲンは、元々の三重螺旋構造を失っており、繊維の古さが確認されます。本論文は、この繊維が他の爪との結合のため用いられた革もしくは腱の紐だろう、と推測しています。最近、ネアンデルタール人の繊維技術が指摘されており(関連記事)、ネアンデルタール人が紐を使用していた可能性は充分考えられます。小さな点は、赤色および黄色の顔料と木炭の残骸(黒色)です。赤色および黄色の顔料は洞窟で自然に発生するわけではないので、ネアンデルタール人による意図的な痕跡だろう、と本論文は推測します。黒色の顔料は一般的に酸化マンガン起源ですが、鉤爪(386.1)では検出されません。本論文は、この鉤爪の黒色が意図的なのか否か、判断を保留しています。

 本論文は、非侵襲的手法による装飾品分析の威力を示したという点で、意義深いと思います。また、ネアンデルタール人による装飾品の詳細が明らかになったという点でも、注目されます。ネアンデルタール人による装飾品の製作はもはや明らかです。もっとも、その質量は現生人類(Homo sapiens)と比較して劣るとの見解は根強いでしょうが、クラピナ遺跡のオジロワシの鉤爪は13万年前頃なので、同年代で比較すると、ネアンデルタール人の方が見劣りする、とは断定できないでしょう。

 こうしたネアンデルタール人の象徴的思考能力が、現生人類と共通する遺伝的基盤に由来するのか、それとも収斂進化的なものなのか、不明です。ただ、前者だとしても、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の時点で存在したのではなく、ネアンデルタール人系統と分岐した後の広義の現生人類系統で発達した能力で、母系(ミトコンドリア)でも父系(Y染色体)でも推測されるように(関連記事)、広義の現生人類系統からネアンデルタール人系統への遺伝子流動によりもたらされたものかもしれません。


参考文献:
Radovčić D. et al.(2020): Surface analysis of an eagle talon from Krapina. Scientific Reports, 10, 6329.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-62938-4

狩猟採集民集団における親族の少なさ

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、狩猟採集民集団における親族の少なさに関する研究(Dyble et al., 2015)が公表されました。日本語の解説記事もあります。これまでの研究では、狩猟採集民集団内に親族が少ないことの一因として、夫婦になると家族を残して家を出るような夫婦の結びつき、つまり生涯にわたる一夫一婦の関係が注目されてきました。この研究は、狩猟採集民がこのような居住形態をとるようになった経緯をさらに深く理解するために、行動モデルを作成しました。

 このモデルには2種類あり、一つは所帯をもつ場所に関して狩猟採集民の夫婦両方が同等の権限をもつモデルで、もう一つは夫婦の一方だけが権限をもつモデルです。この研究は、男女両方が生活場所について決定権をもつ場合、夫も妻もキャンプにおける自分の親族の数を最大限増やそうとして相互の親族のいるキャンプに移動するので、男性あるいは女性だけが決定権をもつ場合よりも、個々のコミュニティ内の近縁者の数はかなり少なくなることを見出しました。フィリピンの先住民族であるアイタ(Agta)とアフリカ中央部のムベンジェレ(Mbendjele)もしくはバヤカ(Bayaka)という現代狩猟採集民社会のデータは、このモデルと厳密に一致しました。

 この研究は、男女平等によりキャンプ内の人々の血縁性は常に弱まるようであるものの、重要なのは、その結果として親族が1人以上住んでいるキャンプの数が増えるので、資源や戦争のような複雑な要因がなくても、集団間の協力と情報交換の道筋ができる、と指摘します。この研究は、人間社会の発展と行動進化を現在理解するうえで、重要な役割を果たすと期待されます。それは、階層的で女性が拡散するシステムから、複数拠点を有する平等主義的な社会への移行で、これは親族関係にない者の間の社会的ネットワークや文化的蓄積や協力を発展させるだろう、というわけです。


参考文献:
Dyble M. et al.(2015): Sex equality can explain the unique social structure of hunter-gatherer bands. Science, 348, 6236, 796-798.
https://doi.org/10.1126/science.aaa5139

大河ドラマ『麒麟がくる』第14回「聖徳寺の会見」

 斎藤利政(道三)と織田信長は美濃との国境に近い尾張の聖徳寺で会見することになりました。先に聖徳寺に到着した利政は、信長がなかなか現れないことに苛立ちます。利政は、率直な物言いで才覚と胆力と先見性を備えた信長を気に入り、明智光秀(十兵衛)は安堵します。今川軍が尾張を攻めてきたため、信長は岳父の利政に援軍を依頼します。利政は援軍を派遣しようとしますが、息子の高政(義龍)は国衆の稲葉良通とともに強く反対します。優秀で底知れない野心を秘めている信長は自分に似ている、と信長を高く評価する利政に高政は強く反発し、光秀も援軍の早急な派遣に反対しますが、利政は援軍の派遣を強行します。稲葉良通は高政に、早く家督を継承するよう、促します。利政が援軍を派遣したこともあり、信長は今川軍の撃退に成功します。高政の母である深芳野は亡くなり、さすがに利政も動揺します。高政は利政に、すぐに自分に家督を継承させるよう、要求し、すっかり動揺してしまった利政は承諾します。

 今回は、やはり利政と信長の会見が最大の見どころで、これまで歴史創作もので描かれてきた内容とはかなり異なっていたように思われます。本作の信長は純粋な人物として描かれており、会見での利政とのやり取りはその人物造形に沿ったものになっていました。本作の信長に関しては、放送開始前には不安視する人が少なくなかったようですが、現時点では、その人物造形と演技は成功しているように思います。この人物造形を前提として、信長と光秀の関係がどのように推移し、本能寺の変へと至るのか、今からたいへん楽しみです。

スペインで発見された中新世の小型霊長類

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、スペインで発見された中新世の小型霊長類に関する研究(Alba et al., 2015)が公表されました。日本語の解説記事もあります。狭鼻下目(狭鼻小目)は霊長類で、旧世界ザルと類人猿が互いに分岐する前から生息しており、類人猿はさらに小型類人猿と大型類人猿へと分岐しました。小型類人猿は狭鼻下目に見られる特徴を有していないため、大型類人猿の矮性版との見解も提示されています。

 しかし、2011年1月にスペインのカタロニア地方で発見された新種の小型霊長類(Pliobates catalonia)の化石は、この2種類の類人猿が分岐したと考えられているよりもかなり後となる1160万年前頃に生息していたにもかかわらず、狭鼻下目と大型類人猿の特徴を併せ持っています。たとえば、歯はより祖先的で、鋭い歯尖はより中央にあって突き出しているものの、頭蓋と脳の対体重比は大型類人猿のそれにより近いことが明らかになっています。

 この新種小型霊長類で注目されるのは肢で、手首の回内運動によって充分な回転が得られるため、慎重に木に這い登ることが可能になっています。これは大型類人猿の特徴です。しかし、肘には現生類人猿とその他の霊長類を区別する重要な特徴はなく、腕でぶら下がりながら肘の関節を固定することが可能になっています。さらにややこしいことに、この新種小型霊長類の骨張った外耳は、狭鼻下目より前に生息していたサルより祖先的です。総合すると、これらの知見は、あらゆる類人猿の最も新しい共通の祖先は一般的に考えられていたほど大型類人猿には似ていない可能性があることを示しています。


参考文献:
Alba DM. et al.(2015): Miocene small-bodied ape from Eurasia sheds light on hominoid evolution. Science, 350, 6260, aab2625.
https://doi.org/10.1126/science.aab2625

渡辺信一郎『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』第2刷

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2019年11月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年11月です。『シリーズ中国の歴史』の特色は、単純な時代区分による通史になっていないことです。本書は新石器時代から安史の乱までを扱っていますが、主要な対象は中原で、江南への言及は少なくなっています。江南は第2巻で扱われるそうですが、こちらも新石器時代からが対象となっています。『シリーズ中国の歴史』は、中国を地理的に草原・中原・興南・海域に区分し、各巻で時代を重複させつつ、現代中国へと至る歴史を総合的に浮き彫りする、という意図で編纂されているようです。今後の中国通史の一つの在り様を示すことになるかもしれません。

 本書は、社会の基層構造の変容と、それに対応していった政治・国家制度の変遷、さらには両者の相互関係を叙述しており、通俗的な中国史本のような英雄物語はほぼ皆無です。新石器時代には、仰韶文化期の単独聚落構造が、龍山文化期には2層~3層の階層構造へと変わります。この社会構造は長く続き、これを前提として、まず殷(商)王朝までの貢献制と、それよりも複合化した西周王朝期の封建制が成立します。春秋時代を経て戦国時代になると、郡県制へと移行していき、秦・漢の大帝国が出現します。長期にわたった漢帝国のもとで階層分化が進んでいき、華北では魏晋南北朝期に大農法が成立するに至ります。本書は、漢王朝、とくに後漢期に成立した国制が後世には模範とされたという意味で、これを古典国制と呼んでいますが、その成立にさいしては、単なる時代錯誤の短命政権と通俗的に言われてきた王莽の役割が大きかったことも指摘します。

 本書は情報量が多く、近いうちに再読しなければなりませんが、問題点もあります。すでにTwitterで以前から情報を得ていましたが、本書はミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく臨淄住民の遺伝的近縁性について、2500年前頃にはヨーロッパ集団に近く、2000年前頃にはアジア中央部集団に近い、という(本書刊行時点で)20年近く前(2000年)の研究を肯定的に引用しています。私も以前この情報を肯定的に引用してしまったのですが、その後の研究により、2500年前頃の臨淄住民が遺伝的にはヨーロッパ集団に近い、という研究は否定されています(関連記事)。古代臨淄住民は、mtDNAではヨーロッパ集団よりも現代中国南部集団に近い、と明らかになっています。

 また本書は、このすでに否定された研究に基づく、2500年前頃にユーラシア大陸全域に広がる人類集団(パン・ユーラシアン)が存在した、との見解を肯定的に引用していますが、もちろん間違いです。ユーラシアにおいて東西系統が分岐したのは43100年前頃で(関連記事)、その後もユーラシア東部やオセアニアとの遺伝的類似性を示す個体はヨーロッパに存在していましたが、最終氷期極大期(LGM)後の末期更新世には消滅していました(関連記事)。古代DNA研究の進展は目覚ましく、今後は歴史学においても古代DNA研究を活用することが多くなり、その成果は新書など一般向けの本でも引用されるでしょうが、その信憑性については、執筆者である研究者以上に、編集者がしっかり調べないとならないだろう、と思います。


参考文献:
渡辺信一郎(2019)『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』(岩波書店)

火山噴火に伴う二酸化炭素排出による三畳紀末期の地球温暖化

 火山噴火に伴う二酸化炭素排出による三畳紀末期の地球温暖化に関する研究(Capriolo et al., 2020)が公表されました。約2億100万年前となる三畳紀末期の大量絶滅では、全ての海生種と陸生種の大部分が死滅しましたが、その原因は、同時期に発生したことが知られている顕著な気候変動と海面上昇と考えられています。中央大西洋マグマ分布域における大規模噴火の際に排出された火山性二酸化炭素は、地球温暖化・海面上昇・海洋酸性化をもたらし、大量絶滅の過程に対する重要な寄与因子だと考えられてきましたが、これについては議論が続いています。

 三畳紀末期の中央大西洋マグマ分布域の玄武岩質岩石には、マグマ中に溶解していたガス成分がマグマから離溶して形成された微小な気泡として保存されており、この研究は、その微小な気泡を分析し、この玄武岩質岩石に大量の二酸化炭素が含まれている、と明らかにしました。この研究はその分析結果を用いて、こうした火山噴火のさいに排出された火山性二酸化炭素の総量を推定しました。その結果、1つの噴火相(500年間に10万㎦の溶岩の噴出)に排出された二酸化炭素の総量が、21世紀中に摂氏2度の温暖化シナリオで人間活動により排出される二酸化炭素の予想総量に匹敵する可能性が高い、と明らかになりました。この研究は、火山性二酸化炭素の大量排出により引き起こされた三畳紀末期の気候と環境の変化が、人為起源の温暖化を原因として近い将来予想される気候と環境の変化に類似しているかもしれない、と指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


環境:火山噴火による二酸化炭素排出が三畳紀末期の地球温暖化の一因となった

 三畳紀末期に火山噴火によって大気中に排出されたCO2の量は、21世紀中の人為起源CO2の予想総排出量に匹敵する可能性の高いことが明らかになった。この新知見は、今週、Nature Communications で発表される。このような大量の火山性CO2は、三畳紀末期の地球温暖化、海面上昇、海洋酸性化に寄与した可能性が高い。

 三畳紀末期(約2億100万年前)の大量絶滅では、全ての海生種と陸生種の大部分が死滅したが、その原因は、同時期に発生したことが知られている顕著な気候変動と海面上昇だと考えられている。中央大西洋マグマ分布域における大規模噴火の際に排出された火山性CO2は、大量絶滅の過程に対する重要な寄与因子だと考えられてきたが、これについては議論が続いている。

 三畳紀末期の中央大西洋マグマ分布域の玄武岩質岩石には、マグマ中に溶解していたガス成分がマグマから離溶して形成された微小な気泡が保存されており、今回、Manfredo Caprioloたちの研究チームは、この微小な気泡を分析し、この玄武岩質岩石に大量のCO2が含まれていることを示す証拠を発見した。Caprioloたちは、分析結果を用いて、こうした火山噴火の際に排出された火山性CO2の総量を推定した。その結果、1つの噴火相(500年間に10万立方キロメートルの溶岩が噴出する)に排出されたCO2の総量が、21世紀中に摂氏2度の温暖化シナリオで人間活動によって排出されるCO2の予想総量に匹敵する可能性の高いことが明らかになった。

 Caprioloたちは、火山性CO2の大量排出によって引き起こされた三畳紀末期の気候と環境の変化が、人為起源の温暖化を原因として近い将来予想される気候と環境の変化に類似している可能性があるという考えを示している。



参考文献:
Capriolo M. et al.(2020): Deep CO2 in the end-Triassic Central Atlantic Magmatic Province. Nature Communications, 11, 1670.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15325-6

脳の働きによる効果的な謝罪方法

 脳の働きによる効果的な謝罪方法に関する研究(Ohtsubo et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。これまで謝罪の研究では、誠意のある謝罪が許しを引き出しやすい、ということは知られていました。しかし、どのような謝罪の内容だと誠意があるとみなされるのか、という具体的な研究はありませんでした。これまでの研究で、個人間の謝罪では、謝罪にコストをかけることで誠意が伝わる、と明らかになっていました。たとえば、被害の補償を申し出る、大事な用事をキャンセルして謝罪を優先するといった、謝罪する側に何らかの不利益が生じることが謝罪のコストとなります。このようなコストをかけてでも謝るということは、謝罪する側が本当に申し訳ない、関係を改善したいと思っていなければできません。しかし、謝罪は個人だけがするものではなく、現代社会では組織・企業・国などの集団が謝罪をする場面も多く、集団の謝罪においてもコストがかかっているほど誠意があるとみなされるのか、というこれまで検討されてこなかった問題を、この研究は取り上げました。

 この研究は、まず予備調査として、大学生108名に第三者の立場から企業や組織が問題を起こした場面を想像してもらい、それに対して企業が「コストをかけて謝罪した」・「単に謝罪した」・「謝罪しなかった」と分類して、それぞれの対応にどれくらい誠意が感じられるかを評定してもらいました。たとえば、ある会社の製品で発火事故が何件か生じたという場面で、その企業が「すぐに謝罪し製品の交換も行なうと発表する場合」・「単に製品の不具合について謝罪する場合」・「調査中として謝罪しない場合」について評定してもらいました。全部で15種類の組織の問題があり、それぞれについて3種類の対応があったため、合計45種類のシナリオが評定されました。

 その結果、誠意の知覚はコストのかかる謝罪ほど高くなっていました。個人間の謝罪の場面では、誠意を知覚すると、脳の意図処理ネットワーク(前頭前皮質・両側の側頭頭頂接合部、楔前部)が活発化する、と以前の研究で明らかになっています。そのため、この研究もfMRIを用いて、集団によるコストのかかる謝罪が、コストなしの謝罪(ただ謝罪するだけ)、謝罪なしと比較して意図処理ネットワークを活発化するのか、調べました。スキャナの中での実験の手続きは、まず集団の過ちの説明があり、それに対する集団の対応が説明され、その集団を許せるかどうかを評定し、その後で10秒間休憩してもらい、次のシナリオへと移っていきます。この方法を予備調査と同様に、今度は10種類の組織の問題それぞれに3種類の対応シナリオを用意し、計30回繰り返してもらいました。実験に参加した25人分のデータを分析した結果、前頭前皮質についてはコストのかかる謝罪条件でも特に強い活動が見られませんでしたが、両側の側頭頭頂接合部と楔前部では、コストがかかる謝罪を想像した場合、コストなし謝罪や謝罪なしの対応を想像した場合よりも強く活動していました。

 この知見は、謝罪を受ける側が、個人の謝罪と同じように集団からの謝罪を処理している、と示しています。つまり、個人間の場面で効果的なコストのかかった謝罪は、文脈に応じて適切に集団用に変更した場合、集団謝罪の場面でも有効である、と示唆されています。個人間の謝罪の機能は友好的な関係の回復にあります。企業の謝罪は集団の利益の保持など個人の謝罪とは異なる目的があるかもしれませんが、人々の脳は、それを対個人の場面と同じ場所で処理している可能性が示唆されました。これを理解すれば、効果的な集団の謝罪方法なども理解できるようになる、と考えられます。こうした謝罪の機能と効果は、もちろん文化により異なるところは大きいでしょうが、共通する側面も多分にあり、それは進化的基盤に基づくものだと思います。進化心理学的側面からのこうした研究も少しずつ調べていきたいものです。


参考文献:
Ohtsubo Y. et al.(2020): Costly group apology communicates a group’s sincere “intention”. Social Neuroscience, 15, 2, 244–254.
https://doi.org/10.1080/17470919.2019.1697745

竹花和晴「ネアンデルタール人と彼等の死、特に埋葬と墓」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P99-113)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文が対象とするネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)は、125000~37000年前頃までで、後期ネアンデルタール人と言えそうです。本論文は、ネアンデルタール人の死に関わる埋葬と、そのイメージの変遷を検証しています。ネアンデルタール人の埋葬例は、スペインからウズベキスタンまでの広範囲で確認されています。本論文は、16~19遺跡という数を提示しています。しかし本論文は、じっさいには39基の初期埋葬墓が確認されているだけと指摘します。そのうちの18基は、代表的な2遺跡に由来します。一方は、フランス西部ドルドーニュ(Dordogne)県のラフェラシー(La Ferrassie)遺跡(8基)で、もう一方はイラク北東部クルディスタン地域のシャニダール洞窟(Shanidar Cave)遺跡(10基)です。

 人類の埋葬かもしれない事例としては、後期ネアンデルタール人よりもずっとさかのぼる、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡( 以下、SHと省略)が知られています。SHは、入口からまったく光の届かない全暗黒の中、屈曲した洞内の最奥の一角となり、一度はまれば人類も多くの他の動物も脱出できません。SHでは少なくとも28個体分となる6700個以上の人骨が発見されており、その年代は43万年前頃と推定されています。非人類動物化石も発見されていますが、草食動物の骨はなく、肉食動物の骨には解体痕のような人類による消費の痕跡が確認されていません。石器は両面加工石器(biface)が1個発見されているだけです。この石器を副葬品と解釈する研究者もいます。SH集団はハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類されてきましたが、形態学的にも遺伝学的にも広義の早期ネアンデルタール人と考えるのが妥当と思われます(関連記事)。

 ネアンデルタール人の埋葬に関する研究は、最初に確認されたフランスではとくに進んでいます。ラシャペルオーサン( La Chapelle-aux-Saints)遺跡のネアンデルタール人男性は脊椎骨に障害を抱えており、主要な歯も失っていたことから、介護を受けながら死に、丁寧に埋葬された、と考えられています。ラフェラシー遺跡では合計7個体のネアンデルタール人遺骸が発見されており、「集団墓地」とさえ言えそうな様相を示します。ラキーナ(La Quina)遺跡では27個体が発見されていますが、20世紀前半に発掘され、ネアンデルタール人の埋葬はなかったとの固定観念のもと、埋葬に関する研究は進まなかったそうです。

 ネアンデルタール人の人肉食は複数の遺跡で指摘されていますが(関連記事)、本論文は、民族学的な猟奇的共食い風習(cannibalisme)と単に人肉嗜食(anthropophage)を区別しなければならず、ネアンデルタール人においては後者が考えられる、と指摘します。本論文は基本的に、ネアンデルタール人における食養生上(diététique)の消費のみを対象としていますが、フランスのシャラント(Charente)県にあるマリヤック(Marillac)遺跡では、儀式などそれ以外の目的での食人の可能性が指摘されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人による埋葬を認めない研究者も、アメリカ合衆国を中心にいますが、本論文は、ネアンデルタール人に対する伝統的固定観念に囚われた、あまり生産的ではない批判と、冷ややかに評価しています。本論文は、家族的細胞構成員がその「死」を明らかに認識し、死肉漁りの肉食獣等の蹂躙から保護して、その生前の存在を、彼らの活動領域の特定の場所において象徴化もしくはモニュメント化する行為は、現生人類(Homo sapiens)のみではなくネアンデルタール人においても明確に認められる、と指摘します。19世紀以来の蔑視と先入観が学術上の弊害をもたらす要因として存在するものの、より詳細なデータ収集と正しい比較検討を継続せねばならない、と本論文は提言しています。


参考文献:
竹花和晴(2020)「ネアンデルタール人と彼等の死、特に埋葬と墓」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P99-113

新たに確認された大西洋を渡ったアメリカ大陸の霊長類

 新たに確認された大西洋を渡ったアメリカ大陸の霊長類に関する研究(Seiffert et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。アメリカ大陸に生息していた霊長類として、これまでは広鼻小目(Platyrrhini)のみが知られていました。この研究は、ペルーのジュルア川(アマゾン川の支流)左岸沿いの距離100mにわたる堆積物で新たに発掘された4個の大臼歯化石の分析により、広鼻小目とは異なる霊長類が短期間南アメリカ大陸に存在していたことを示します。

 この大臼歯は、広鼻猿類の歯とは根本的に異なり、様々な特徴の中でもとくに凹凸が多く、より球状である、と明らかになりました。統計的確率分析の結果、これらの種をパラピテクス上科(Parapithecoidea)とパラピテクス科といったアフリカ霊長類に分類される新種(Ucayalipithecus perdita)とされました。この新種は、始新世(5600万~3390万年前頃)から漸新世(3390万~2300万年前頃)にアフリカ北部に生息し、現在では絶滅している霊長類パラピテクス科(Parapithecidae)のものと非常によく似ています。

 広鼻猿類霊長類の祖先とは別に、アフリカを起源とするこの新種は、3500万~3200万年前頃に、現在よりは海面が低下して狭いいものの荒れていた大西洋を、流木に乗って渡った、と推測されています。パラピテクス類も広鼻小目も、厳しい環境への適応能力がきわめて高かったので渡海しても生き延びられた、と推測されています。アメリカ大陸に到達したこれら霊長類は、迅速に慣れない土地に採食行動を適応させたり、食料と縄張りを得るために奮闘したりしなければならず、そうしながらどちらの霊長類も同じくらい、少なくとも1150万年間生き続けた、と考えられます。これらアメリカ大陸の初期霊長類はひじょうに回復力が強く、行動も幅広かった、と考えられます。この研究は、アメリカ大陸における哺乳類の起源について興味深い事例を新たに提示したとともに、地球で最も生物が多様な地域の1つを形成した過程の解明にも役立つと考えられます。


参考文献:
Seiffert ER. et al.(2020): A parapithecid stem anthropoid of African origin in the Paleogene of South America. Science, 368, 6487, 194–197.
https://doi.org/10.1126/science.aba1135

山岡拓也「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P92-98)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 更新世のオセアニアの地域区分は、オーストラリアとニューギニアとニア・オセアニアの島嶼部となります。更新世の期間中、ニューギニア島やタスマニア島はオーストラリア大陸と接続しており、サフル大陸(サフルランド)を形成していました。サフル大陸へ拡散できた人類は現生人類(Homo sapiens)のみと考えられていますが、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がニューギニア島まで拡散した可能性も提示されています(関連記事)。ただ、その可能性が高いとは言えないので、ここでは現生人類のみがサフル大陸へと拡散した、との前提で述べていきます。

 サフル大陸への現生人類の到達年代については、47000年前頃との見解が有力になりつつありましたが、2017年に、65000年前頃までさかのぼる、との見解(関連記事)が提示されています。ただ、この見解に対する批判もあります(関連記事)。サフル大陸における現生人類の最初の出現年代がどこまでさかのぼるのか、当分は議論が続きそうです。サフル大陸に拡散した現生人類は、その後でビスマルク諸島やソロモン諸島にも拡散し、34000年前頃までにはソロモン諸島北部にも到達しました。

 オセアニアの旧石器時代石器群の特徴は、石核石器が卓越していることと、定形的な二次加工のある剥片石器が乏しいことです。石核石器として、磨製石斧やくびれのある石斧とともに馬蹄形石核があり、主要な剥片石器にはスクレイパー類やその中の拇指状掻器があります。またオーストラリアでは、旧石器時代の時点ですでに磨製石斧が使用されていました。ニューギニア島ではくびれのある石斧も石器群の中に含まれています。更新世にさかのぼる可能性があるくびれのある石斧を含む石器群は、オーストラリア南部のカンガルー島の遺跡でも発見されており、カルタン文化と呼ばれています。もう一つの特徴的な石核石器とされた馬蹄形石核は、平坦な打面から周縁をめぐるように剥離された石核で、オーストラリアの北部・南東部・西部・タスマニア島など広範囲で発見されています。この馬蹄形石核は、従来、石核石器としてとらえられていたものの、近年では、実験結果などに基づき、石核石器(道具)というよりは石核として認識されています。

 こうした石核石器に加えて、石器群には剥片石器のスクレイパー類が共伴しますが、タスマニアにおいては拇指状掻器という小形の石器が石器群に含まれます。タスマニアの遺跡は少なくとも35000年前頃までさかのぼりますが、24000年前頃以降に拇指状掻器を組成する石器群が出現し、1万年前頃まで継続します。オーストラリアでは完新世の石器群に日本のナイフ形石器と類似する急角度の二次加工(Backing)で成形された小形の剥片石器(幾何学形細石器、Backed artifacts)があり、更新世の石器群にも含まれます。更新世にさかのぼる幾何学形細石器も発見されています。急角度の二次加工は、タスマニア島のボーン洞窟で3万年前頃から確認されることから、急角度の二次加工の技術はオーストラリアでは少なくとも3万年前頃から二次加工技術のレパートリーの一つと考えられています。

 オーストラリアでは、磨石は更新世末から完新世初頭にかけての15000~12000年前頃に定着するとされていましたが、オーストラリアの南東部に位置するクディー・スプリング遺跡では35000年前となる多数の磨石の破片が出土しています。それらの磨石の残渣分析の結果から、イネ科植物の種子加工に用いられていたと推定されており、28000年前頃の拇指状掻器2点が発見されています。ただ、近年の動物遺存体の年代測定の結果、この遺跡の層序は乱れていると指摘されており、更新世の磨石などをめぐっては、信頼できる層序と年代からの裏づけが必要となります。その他に、オーストラリア北部のナウワラビアI遺跡やマラクナンジャII遺跡(マジョベベ遺跡)でも更新世の層序から磨石が出土しています。

 またオーストラリアでは、これらの石器が含まれていない石器群も多く発見されています。たとえば、オーストリア西部のデビルズ・レア遺跡では、オーストラリアで最長期間にわたる更新世の考古資料が発見されており、1000点以上の石器が出土していますが、その石器群は小形剥片で特徴づけられるとされています。また、上述のように、一般的にオーストラリアの更新世石器群においては、スクレイパー類が多く含まれ、実際に様々なスクレイパーの分類がこれまでに示されてきましたが、そうしたスクレイパーの多様なあり方は、それぞれスクレイパーの種類が意図して作り出されたというよりは、刃部の再生の結果生じたのではないか、との解釈も提示されています。

 オセアニア地おいては開地の遺跡に加えて貝塚や洞窟などの遺跡もあり、石器以外の有機質の考古資料も得られています。そうした考古資料から、サフル大陸において、アフリカやヨーロッパでの研究が進められている、「現代人的行動」のパッケージを構成する要素がどのように出現しているのかも検討されています。具体的には、交換ネットワーク、鉱物資源の獲得、装身具、芸術や象徴的表現、埋葬、経済的集約化、骨器やその他の有機質資料、新しい石器技術などです。

 サフル大陸において、交換ネットワークの存在は、4万年前頃以降に確認されています。サフル大陸内や北東に位置する島々との間で海棲貝類・オーカー・石器石材について、産地から遠く離れた遺跡で出土する事例があることから、かなり広域で運搬あるいは交換されていた、と分かっています。鉱物資源の獲得に関わる情報として、石器石材の獲得に関する情報があります。石器石材の採掘の証拠は24000年前頃にさかのぼりますが、石器石材の採掘がより一般的になるのは磨製石斧などが交換される完新世後半と分かっています。

 装身具については、ビーズなどの製作が42000年前頃に遡り、ツノガイや小さなイモガイ、カンガルー類の骨、イタチザメの歯で作られたビーズ(あるいはペンダント)などの例があります。線刻礫については、25000年前頃までさかのぼる事例があります。芸術や象徴的表現については、オーカーの利用が42000年前頃まで遡り、岩絵については4万年前頃までさかのぼる可能性があります。埋葬については、おもにマンゴー湖が取り上げられており、最古の事例は4万年前頃までさかのぼります。

 経済的な集約化に関しては、貝類・カンガルー類・イネ科植物の種子の加工に利用されたと推定されている磨石などの事例があります。サフル大陸の各地での淡水棲貝類の貝塚が残されており、最古の事例は4万年前頃で、海棲貝類の貝塚はサフル大陸の北西と北東に位置する島々で発見されており、少なくとも 33000年前頃までさかのぼります。オーストラリア(サフル大陸)の遺跡で海棲貝類などの海産資源が本格的に利用されるのは完新世半ばで、更新世での利用はあまり明確ではないものの、いくつかの遺跡で出土しており、3万~2万年前頃と推定されています。

 また、タスマニア島では3万年前頃以降にカンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟具として用いられていました。上述のように、イネ科植物の種子を加工するための磨石が更新世の遺跡でも発見されていますが、それも経済的な集約化の例とされています。クディー・スプリング遺跡の磨石の出土例に基づけば35000年前頃までさかのぼりますが、上述のように層序の信頼性に疑問が呈されており、磨石が出土している他の遺跡の出土例に基づけば、磨石の出現年代は2万年前頃となります。

 骨器やその他の有機質資料については、骨製尖頭器の出土事例があり、古いものは約22000年前頃までさかのぼります。骨製尖頭器が出土した遺跡の大半は、タスマニア島を含むサフル大陸南部に位置します。骨製尖頭器は狩猟具の先端部として用いられたほか、動物の皮の穴あけや石器の二次加工で用いられたと考えられています。石器については、新しい石器製作技術ととらえられるものとして、磨製石斧・拇指状掻器・急角度の二次加工のある小形幾何学形石器が挙げられています。

 このように、サフル大陸における「現代人的行動」のパッケージは、その全要素が最初からそろっていたわけではなく、その後の約3万年間を通して付け加わっていった、と示されています。サフル大陸の最初期の遺跡では、「現代人的行動」のパッケージの全要素を確認できるわけではないものの、サフル大陸に舟で渡ってきて多様な環境へ適応し、独自の物質文化を残したことを考えると、サフル大陸に最初に到達した現生人類は行動上の現代性を備えていた、と想定されます。それを踏まえると、「現代人的行動」を示すパッケージとされた行動リストのみでは、現生人類の行動上の現代性を評価できない、と指摘されています。最初期の遺跡で認められず、その後時間の経過とともに「現代人的行動」のパッケージの要素が付け加わっていく要因は、人口密度や人口圧の増大にあると考えられますが、それのみがパッケージの要素が付け加わる要因ではないようです。

 オーストラリアにおける象徴的表現の出現状況については、芸術・装身具・石器に表現されるスタイルが検討されています。その結果、象徴的表現に関わる各要素は更新世では散発的に認められるのみで、それらが充分に考古資料で認められるようになるのは7000年前頃の完新世半ばであるとされ、その時期に新たな情報伝達経路を必要とする人口規模に達したのではないか、と推定されています。また、サフル大陸における現代人的行動の出現状況については、最終氷期極大期(LGM)以降に顕在化する、とも指摘されています。その背景として、環境が厳しくなる中で退避可能ないくつかの地域に集団が集まり、それぞれの地域で人口圧が増大し、それぞれの土地での許容限度に達したからではないか、と推定されています。

 このように、サフル大陸では、「現代人的動」のパッケージを構成する要素が現生人類の拡散当初にはそろわず、LGMあるいは完新世以降に出揃っていくことが注目され、その要因について議論されてきました。一方で、現生人類がサフル大陸に到達し拡散する過程で、多様な環境に適応していることに注目した見解もあります。サフル大陸やアジアでの事例を踏まえると「現代人的行動」を単一あるいは単純な人工遺物や行動のセットとしてではなく、出会った様々な環境に社会的・経済的・技術的な手段で適応できる能力としてとらえる方が、地球規模での現生人類の拡散を考えるさいに、生産的な議論が行なえる、というわけです。

 この他に現代人的行動と関わる事例として、上述のタスマニア島における、LGM以降に拇指状掻器が卓越し、カンガルー類(ベネットワラビー)に特化した狩猟が行なわれ、骨製尖頭器が狩猟や動物の(毛)皮の穴あけなどに利用されていたことがあります。これに関しては、寒冷地での適応行動であり、カンガルー類は食料と毛皮で利用され、毛皮でより複雑な衣類が製作されていた、との見解が提示されています。またニューギニア島では、49000~36000年前頃にさかのぼる、炭化したパンダナスの果実やヤムイモのデンプン粒が出土しており、植物利用に関わる情報が得られています。コシペ遺跡やその周辺の遺跡から出土している磨製石斧は、有用な植物を育てるために、森林の木々を伐採するために用いられていた、と推定されています。

 「現代人的行動」に関わる研究については、2000年代初頭までは主にヨーロッパやアジア西部やアフリカで進められてきたようですが、それ以降、それらの地域とは人類の歴史や地理的な条件が大きく異なるオセアニアの考古資料に基づいて、「現代人的行動」に関わる議論が進められてきました。また、LGMのタスマニアの事例は、南半球の高緯度地域における寒冷地適応の具体的な在り様が示されている点で重要です。動物資源に大きく依存する点や、動物の皮の加工と関わる搔器の利用が卓越する点は、北半球のユーラシア高緯度地域における後期旧石器時代(上部旧石器時代)の諸事例と共通する一方で、ユーラシア高緯度地域の石器群で一般的に認められる石刃技法は、タスマニアのLGMの石器群では確認されていません。これは、石刃技法が環境に適応するために発明される技術であるというよりは、文化的に伝達されることで獲得される技術であることを示しているかもしれません。


参考文献:
山岡拓也(2020)「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P92-98

仲田大人「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P84-91)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 ユーラシアにおける現生人類(Homo sapiens)の拡散については、ヨーロッパやアフリカでの研究がモデルとして引用されてきました。「現代人的行動」モデルはその代表例です。ユーラシア東部でもこのモデルから現生人類の拡散を論じられるとしても、ユーラシア西部と比較して考古学的記録の偏りもあり、推測が難しくなっています。現生人類がユーラシアに拡散したさい、西部には先住のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在しましたが、東部には種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)もおり、アジア南東部島嶼部にはホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)などその他の人類もまだ存在していたかもしれません。現生人類拡散期のユーラシアに東部においては、西部とは異なった複雑な人類進化史が想定できるようです。本論文は、現生人類のユーラシアへの拡散と、日本列島への到来について、近年における遺伝学・形態学・考古学の研究成果を整理しています。

 現生人類の起源については近年、アフリカにおける複雑な進化が提案されるようになりました(関連記事)。アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散時期については、早期説と後期説があります。早期説では6万年以上前からの小規模な拡散と、6万~5万年前頃の本格的な拡散が想定され、前者の拡散ではレヴァントを越えるさいに失敗した可能性も指摘されています。後期説では、ユーラシアへの現生人類の拡散は爆発的な1回の事象で生じたとされます。アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散経路については、早期説ではアフリカ東部からアラビア半島を経てのユーラシア南岸沿いとの見解(南方経路)が、後期説ではそれに加えてレヴァント経由での拡散(北方経路)も想定されています。

 ユーラシア東部に関しては、頭蓋形態の分析・比較から現生人類がどのように拡散してきたのか、推測されています(関連記事)。その研究では、ユーラシア東部には南方系の第1層と北方系の第2層が存在し、更新世のアジア東部および南東部には日本列島の「縄文人」も含めて第1層が広範に分布していたのに対して、農耕開始以降、第2層が拡大していった、と推測されています。第1層がオーストラリア先住民集団やメラネシア集団やアンダマン諸島集団との類似性が指摘されている南方系なのに対して、第2層は漢人や日本人などを含む北方系とされます。中国で発見されている更新世の現生人類も「縄文人」も第1層に分類され、第1層に分類される最北端の人類遺骸は周口店上洞(Upper Cave at Zhoukoudian)遺跡で発見されています。アジア東部には、まずアフリカからユーラシア南方を経てアジア南東部に達し、そこから北上してきた集団が拡散したようです。

 遺伝学では、アジア南東部に拡散してきた現生人類が、さらにオセアニアへと東進した集団と、北上してアジア東部に拡散した集団とに分岐した、と推測されています(関連記事)。その北上した一部集団の1個体が、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性ですが、この集団は現代人にほとんど遺伝的影響をのこしていない、と推測されています(関連記事)。また、更新世アジア南東部狩猟採集民集団と「縄文人」の遺伝的近縁性が指摘されていますが、「縄文人」は現代アジア東部集団系統の「北方系」のより強い遺伝的影響が見られる、と推測されています。

 考古学的には、ヨーロッパやアジア北部における石刃技術の出現が、北方経路での現生人類拡散の指標とされています。初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)石刃群はレヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。IUP石刃群は一般的に、ルヴァロワ(Levallois)式とプリズム式という二つの技法を有します。IUP石刃群と人類遺骸との共伴事例はまだありませんが、地理的情報システム(GIS)や古気候データも使用した研究では、「乾燥期」には現生人類が天山山脈やアルタイ山地西部から北上し、アルタイ山地を経由してバイカル湖東南端を南下する経路が、湿潤期にアルタイ経路や天山山脈西部を通る経路や天山山脈の南方を通るタリム経路が想定されています(関連記事)。北方経路とはいっても、様々だったかもしれない、というわけです。

 中国におけるIUP石器群については、華北とチベット高原では石刃技術が見られるものの、華南では報告されていません。華北とチベット高原に関しては、(1)IUP石刃石器群の遺跡、(2)石刃を伴う細石刃遺跡、(3)石刃の疑いのある遺跡に3区分されています。(1)は新疆から黒龍江までの中国北部・北西部で見られ、石核・剥片石器群と分布が相接します。華北では4万年以上前から石核・剥片石器群が継続しており、その分布密度から人口密度もまた相当高かったと推測されています。それに対して、北西部は4万年以上前から続く石器群は少ないので人口密度も低かったと推測されており、そこに(1)がアルタイ地域・シベリア方面から拡散してきた、と考えられています。しかし、より南あるいは東へは、石核・剥片石器群やルヴァロワ式石器群の分布と重なるために分布を広げられなかった、と推測されています。(1)と(3)に関しては、異なる集団が担い手と考えられています。(1)は西方から拡散してきた現生人類集団、(3)は在地で継続的に進化してきた非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)集団だったかもしれない、というわけです。

 アジア各地の中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行について、(1)ルヴァロワ技術と初期の石刃技術をもつIUP石器群が残される地域、(2)礫石器と剥片・石核を有し、そこに石刃インダストリーやその他の石器インダストリーが融合する地域、(3)中国南部のような礫石器インダストリーが継続する保守的な地域、という3パターンが指摘されています。(1)はアルタイ地域の事例が典型で、華北のIUP石器群や韓国のスヤンゲ遺跡第6地点などは(2)となります。ただ、(2)においても華北では IUPは一過的な流行であったの対して、韓国スヤンゲ遺跡第6地点で見られるように大型石刃技術がなくなったあとも石刃・細石刃石器群が展開する、というような違いもあります。日本列島も(2)に含まれ、韓国の石器群と似た上部旧石器時代(後期旧石器時代)前半の石器技術のパターンを示す、と指摘されています。

 中国における石核・剥片石器群の動態については、まず、石核・剥片技術が華北の泥河湾地域に出現し、河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)など海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の遺跡では多様な剥片石核法が用いられ、鋸歯縁石器や大型削器が作られる、と指摘されています。MIS3には、華北の太行山脈東側では石核・剥片石器群が続きます。周口店上層や仙人洞など骨角器や象徴遺物をもった技術複合体も出現します。一方、アジア北東部との境界になる太行山脈西側では、45000~40000年前頃にIUP石刃石器群とルヴァロワ石器群や「中部旧石器的な」鋸歯縁石器群などが移動してきます。水洞溝や内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟などの遺跡が相当します。しかし、4万年前頃以降には太行山脈西側一帯にも石核・剥片石器群が展開し、水洞溝遺跡第2地点がその典型で、その他にも峙峪や塔水河のように縦長剥片の石器群も見られます。

 MIS3後半になると、石核・剥片石器群は華南地域にも出現します。白蓮洞や貴州省(Guizhou Province)の観音洞洞窟(Guanyindong Cave)遺跡において小型剥片石器群が作られるようになりますが、MIS2には礫石器群に置換されます。中国北部においては、人類の拡散方向はユーラシア草原地帯に沿っていました。アルタイ地域からモンゴルにかけてのIUP石刃石器群やルヴァロワ石器群も、その流れで登場します。MIS3後半の 縦長剥片をともなう石核・剥片石器群も、外部集団との接触により生じた可能性があります。こうした状況は、MIS3においては環境変化が居住者たちにさほど影響を与えておらず、従来の生活様式には圧力となっていなかったことを示します。しかし、MIS2の最終氷期極大期(LGM)には、集団の南北移動という大きな変化が見られます。

 油房遺跡においては、最下層(MIS3)で剥片技術、MIS2上層では精巧な石刃技術とアジア北東部との関連の強い細石刃技術が見られるようになります。泥河湾盆地周辺においては、MIS2の環境に対応するため、アルタイ地域やアジア中央部から高緯度草原地帯を移動してきた集団との接触を通じて、技術を得たかもしれません。暖期には高緯度に分布していた動植物群は、MIS2の乾燥期には次第に南下し始めます。それと共に人類集団も北から南へ移動したと考えられ、その過程で石刃や細石刃技術が華北から中原にかけて拡大していったようです。柿子灘遺跡第7層のように細石刃技術とダチョウの卵殻ビーズという、それまでの在地にはない遺物も見つかっており、細石刃技術の展開には新規の文化集団が参入している場合もあった、と推測されます。

 モンスーンがぶつかり合うアジア東部は、夏には華北において、冬には内陸部でその影響を受けます。この2地域がアジア東部の石器技術伝統とアジア北東部やユーラシア西部の石器技術伝統との境界に相当します。華北は外部から移動してくる集団との窓口にあたり、さまざまな地域の技術伝統の交差点でした。環境変化の対応と各地の文化に対面するフロントとして機能していたことがMIS3ステージ以降の旧石器文化を形成してきた背景にある、と考えられます。

 華南でも定型性の高い骨角器が報告されています。貴州省の馬鞍山遺跡では8層のうち第6層から第3層で骨角器が確認されており、年代は35000~18000年前頃と推定されています。いずれの文化層からも研磨成形された骨角器が見つかっています。35100~34800年前頃となる第6層の骨角器は小型哺乳類の長骨を用いた錐とされ、使用痕判定から、柔らかな獣皮を穿孔する道具として利用されたと考えられています。華南地域の旧石器群は礫石器・剥片石器群で、石製の狩猟具を伴いません。第5層以降では狩猟活動に用いられた骨角器も含まれており、石器技術とは別の狩猟具製作を有機技術で行っていた、と考えられます。35000年前頃という年代の骨角器は、南方経路ではタイのランロンリン岩陰、マレーシアのニア洞窟、スリランカのバタトンバ・レナ、ティモールのマジャ・クルなどで発見されている骨角器資料と同じかそれ以上の古さとなりそうです。

 かつては、有機技術が10万~6万年前頃頃にアフリカ中期石器文化で発明された革新的技術で、その現生人類集団が移動により拡散した、と考えられてきました。しかし、近年、南方経路上で相次いで見つかる骨角器の年代は45000年前頃以降で、ヨーロッパやアフリカでは研磨技術による骨角器整形が稀であることなどから、こうした文化革新はアフリカとは不連続に発生したかもしれない、と指摘されています。中国では4万年前頃以降、華北において骨角器技術ないしは貝製装飾品が作られるようになります。以前より周口店上層や仙人洞におけるそうした有機質資料は「現代人的行動」の特徴をよく表している、と注目されており、最近では水洞溝遺跡群で淡水性貝類ビーズやダチョウの卵殻ビーズも見つかっています。骨角器の研磨技術も華北の小狐山において観察されており、とくに華南に特有というわけでもありません。日本列島日本における研磨技術の出現を考える場合には、アジア東部でどのようにこの技術が出現するのかが、重要となります。

 石器型式において中国や韓国の旧石器と類似する資料は日本にも多く見られます。これに関して、既存の研究が特定型式に注目するあまり、石器群の発達を単線的な枠組みで考えきたことが指摘されています。そこで、層位に基づいて石器群伝統が4区分されています。それは、(1)ハンドアックス(握斧)と多面体石器を有する石器群の伝統、(2)石英製小型石器群の伝統、(3)石刃と剥片尖頭器を有する石器群伝統、(4)細石器を中心とする石器群伝統です。これらは時間的な変遷を示していますが、断絶的な変化ではなく、いくつかの技術システムが共存して持続するなかで、より効率的な技術がほかに取って代わる、進化論的な変化だった、との見解も提示されています。また、後期旧石器(上部旧石器)群を、中期旧石器(中部旧石器)以来続く剥片石器を含む礫石器伝統、在地の剥片石器伝統、石刃石器伝統、細石刃文化伝統の4つと認識し、それぞれの文化伝統は分岐のさいに共存する様相を示す、との指摘もあります。この点で注目されるのは、スヤンゲ遺跡第6地点に代表される石刃石器群の出現です。韓国の場合、礫石器伝統が広がっているところに、石刃をベースとした石器群伝統が共存し始めます。それにより、縦長タイプの剥片石器の製作や礫石器の多様化を招くなど、技術的な融合が進み、後期には石器群に多様性が現われてきます。

 モザイク・モデルでは、旧石器群の年代を精査することで、石器群の変化にはテンポの違いが見られること(漸進的か飛躍的)、石器群のモードは単線的に変化するものではなく、モザイク状に残される状況であることから、文化伝統が必ずしも年代的指標になり得るわけではない、と指摘されています。韓国の葛山里遺跡では、較正年代で34500年前30700年前という値が示されています。すでに石刃石器群が展開している時期ではあるものの、石器組成は礫石器群に剥片石器群が伴う遺跡であり、後期旧石器群の多様性が指摘されているに注意を促している。韓国では中期・後期の移行期、後期旧石器の変遷を論じる場合、示準マーカーによる単線的な変化の見方は採用されていないようです。

 この視点を踏まえて、年代の精査と石器群のグループ化を詳細に行ない、日本列島への人類移動を論じたモデルも提示されています。そのモデルでは、MIS6とMIS3とLGMという3回の画期が想定されています。このうちMIS6とMIS3については、(1)最初はMIS6〜MIS5eの頃で、鈍角剥離法を用いて石英・石英脈岩を叩き、小型石器や握斧、石球(多面体石器)を作るもので、日本列島西南部に断続的に到来してきました。(2)遅れてMIS3中盤に円盤型石核や石球、嘴状石器、錐、礫器を有する「朝鮮系の鋸歯縁石器石器群」が入ってきます。この背景として、(1)ではMIS7~MIS5の温暖期にかけての人口増に伴うレフュジア(待避所)探索の可能性が指摘され、(2)においてもMIS4 から MIS3の寒冷期をしのぐための南下策としての移動が想定されています。

 日本列島における旧石器時代遺跡の人類遺骸は、ほぼ琉球諸島でしか見つかっていません。縄文時代になると人類遺骸が豊富に見つかるようになり、上述のように、遺伝学では「縄文人」の起源として南方経路からの少なくとも一定以上の影響が指摘されています。IUP石刃石器群と在地石器群の関係から、MIS3となる4万~3万年前頃における人類集団の動きも少しずつ解明されつつあります。IUP石刃石器群は点在的な分布のように見えますが、核地域(core area)を形成しながら展開していったと考える方が実態に近い、と本論文は指摘します。それはおそらく、石材原料が安定的に確保できる一帯が石器群の形成に好適な場として選ばれたからでしょう。

 拡散の状況から推測すると、この石器群は、(1)集団規模は小型であった可能性が高く、(2)在地の技術伝統との融合も柔軟だった、と考えられます。その理由は、アジア中央部・アルタイ地域・華北・韓国など、核地域ごとに石器群の様相が少しずつ異なることです。その異なる部分が在地の石器技術との融合をよく示している、というわけです。ただ、中国北部や東北部や中原などでは、性格の異なる石器伝統が根づいている地域へは、在地集団の人口規模や生態環境の違いもあってか、進出しません。さらに、水洞溝のようにIUP石刃石器群が分布していた遺跡でも、その後は継起せず石核・剥片石器群に取って代わられることもあります。これらの状況も集団規模を反映するものとして理解されます。日本列島の初期石刃石器群が九州で見つからず、本州中央部以東に最初に残される理由も、そうした背景で考えられるかもしれません。この問題の検証には、在地の石器群の解明が必要です。

 日本列島の旧石器については、示準となる石器型式や石器技術を層位に基づいて配列する編年研究がさかんに行なわれてきました。一方で、石器群の構成をグループ化する方法が顧みられることは少ない、と本論文は指摘します。中国や韓国の旧石器では文化モデルとも言えるような、文化(技術)伝統やインダストリーあるいは相(facie)を単位に据えて議論されることが多いようです。日本の編年研究は石器群変化の目盛りとみるには都合がよいものの、その変異を目盛りに沿って時間軸に置き換え、それを文化シークエンスと把握しがちになります。文化モデルでは、識別された文化伝統やインダストリーの背後に何らかの文化集団を想定しまうことも多く、石器群とヒト集団を対に把握できるのか、という古くからの問題が改めて提起されます。ただ、韓国旧石器の共存モデルやモザイク・モデルの考え方は石器群、ひいては文化の多様性を理解するという点においては有効な方策だろう、と本論文は指摘します。色々な想定や解釈を差し引いて、日本列島の旧石器でも、インダストリーや相のような概念を再考してみよう、というわけです。そこから相互の関係性、すなわち融合・分岐・断絶などを観察することが必要になります。

 本論文ではここまで、日本列島の後期旧石器の特徴の一つである、刃部磨製石斧の出現については言及していません。磨製技術については骨角器製作との関連が、礫石器については韓国の礫石器・剥片石器伝統、とくに鋸歯縁石器群との関連がそれぞれ想起できる、と本論文は指摘します。また本論文は、岩手県金取遺跡の考古資料にも注目しています。韓国の葛山里遺跡の磨製石器(礫)は、地理的には近いものの、刃部磨製石斧の出現を比較するには年代的な開きもあることから、今後も色々な証拠を集め、日本列島への人類到来問題と合わせて総合的に考えていく必要がある、と本論文は指摘します。


参考文献:
仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91

新手法により明らかになるアルタイ地域でのデニソワ人とネアンデルタール人の間の一般的だった交雑

 南シベリアのアルタイ地域における、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑に関する研究(Peter., 2020)が公表されました。本論文はまだ査読中なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。デニソワ人は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)と、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖カルスト洞窟(Baishiya Karst Cave)でのみ遺骸が確認されている、現生人類(Homo sapiens)ともネアンデルタール人とも異なる後期ホモ属の分類群で、種区分は未定です(関連記事)。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。

 デニソワ人に関する遺伝学的情報はほとんど、デニソワ洞窟で発見されて高品質なゲノムデータが得られているデニソワ3(Denisova 3)個体(関連記事)に基づいています。デニソワ人は現代人の一部の地域集団の祖先と交雑した、と推測されており、デニソワ3は、オセアニア集団の祖先と交雑したデニソワ人系統よりも、アジア東部集団の祖先と交雑したデニソワ人系統の方と遺伝的には近い、との見解も提示されています(関連記事)。低網羅のため高品質なゲノムデータが得られていないデニソワ人3個体(デニソワ2・4・8)については、あまり知られていません。ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析により、デニソワ4はデニソワ3と2ヶ所のみ異なると明らかになっていますが、デニソワ3・4よりも古い年代のデニソワ2・8はもっと異なります。つまり、mtDNA解析では、より古いデニソワ2・8と、より新しいデニソワ3・4が、それぞれ分類群を形成することになります。

 アルタイ地域においては遺伝学および考古学でネアンデルタール人の存在も確認されています(関連記事)。デニソワ人とネアンデルタール人の間の遺伝子流動も検出されており(関連記事)、高品質なゲノムデータが得られているデニソワ洞窟のネアンデルタール人個体デニソワ5と、デニソワ人個体デニソワ3との比較から、デニソワ人においてわずか(0.5%)なネアンデルタール人由来のゲノム領域が推定されています。より直接的な証拠として、デニソワ洞窟で発見された個体デニソワ11は、母がネアンデルタール人で父がデニソワ人と明らかになりました(関連記事)。さらに、デニソワ11の父親のデニソワ人は、数百世代前にネアンデルタール人の祖先がいる、と明らかになりました。

 古代DNAから遺伝子流動を検出する初期の手法ではゲノム規模の要約統計が用いられていた一方で、参照配列では、個体が異なる集団から有する系統のゲノム領域を直接的に検出することに基づいています。これらの「混合領域」を用いる手法は、遺伝子流動の全体的水準がひじょうに低い場合にはより感度が高く、いつどこで古代型と現代型のヒトの間の遺伝子流動が起きたのか、ということと、その遺伝子流動の機能的および表現型への影響について、ほとんどの証拠を提供します。しかし、交雑領域を推測するほとんどの現在の手法は高品質な遺伝子型を想定しており、低網羅率で現代人のDNAに汚染されていることの多い古代ゲノムデータセットの大半には適用できません。

 より近い祖先世代で遺伝子移入された領域は、情報の得られる何千もの一塩基多型にまたがるかもしれないので、マーカー間の情報の組み合わせは、低網羅率ゲノムからの推論を可能とします。admixfrogと呼ばれるモデルでは、局所的な系統推定に関して、不確定な時系列のデータをモデル化するために有効とされる「隠れマルコフモデル」が、現代人の汚染の明白なモデルと組み合わされます。このモデルでは、分析された対象個体は、潜在的に混合する集団を表す、2つもしくはそれ以上の系統を有す、と仮定されます。ソースは高品質なゲノムにより表されます。本論文では全ての場合で、高網羅率のネアンデルタール人2個体とデニソワ人1個体が用いられます。

 admixfrogは、各ソースに由来する対象個体のゲノムの領域を推定します。admixfrogは、ほとんどの以前の手法とは対照的に、柔軟な経験的ベイズモデルを使用し、データから直接的に全パラメータを推定します。これにより、過度のバイアスを発生させるかもしれない、交雑年代もしくは過去の集団規模についてのシミュレーションもしくは強いモデリング過程への依存を緩和します。この局所的な系統モデルは、汚染率が、配列の長さ、末端脱アミノ化、またはライブラリー間の違いなどの技術的な共変量の影響を受けることを考慮に入れて、現代人の汚染を組み込む遺伝子型尤度モデルと組み合わされます。

 本論文は、ネアンデルタール人からデニソワ人と現生人類への遺伝子流動のシナリオに関するシミュレーションを用いて、admixfrogを検証します。混合(交雑)がない場合、0.1 cM(センチモルガン)より長い領域は、0.03倍の網羅率のゲノムでさえ、標本年代に比較的依存せず、96%の精度で推定されます。現代人による汚染は性能を低下させますが、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)間の遺伝子流動のシナリオではとくに、0.2 cMより長い断片は正確に推定されます。ほとんどの検証事例で、admixfrogは高網羅率のデータから得られた結果と匹敵する結果を生成し、長い遺伝子移入領域はひじょうに低い網羅率のゲノムでさえ検出できました。これは、admixfrogが現代および古代型ホモ属両方からの古代遺伝データの分析に適していることを示唆します。

 デニソワ人のうち古い2個体(デニソワ2・8)のゲノムはともにひじょうに汚染されており、網羅率はそれぞれ0.03倍と0.087倍です。しかし、admixfrogはデニソワ2において212.6 cM (1億7300万塩基対)、デニソワ8において258 cM (2億1千万塩基対)のネアンデルタール人系統を特定しました。デニソワ2の最長の推定領域は11番染色体に位置し、その長さは25.7 cMです。この検出を確認するため、現代人の汚染に影響されない検証分析が実施されました。データは、デニソワ2が現代人には見られないアレル(対立遺伝子)を有し、デニソワ人もしくはネアンデルタール人の一方のみがデニソワ2に見られる古代型ホモ属アレルと合致する、一塩基多型に制限されます。これら81ヶ所のうち45ヶ所においてデニソワ2はネアンデルタール人のアレルを有しており、ヘテロ接合性のネアンデルタール人・デニソワ人系統で期待される50%とおおむね一致します。

 デニソワ2のネアンデルタール人系統領域の平均的長さからは、ほとんどのネアンデルタール人系統はデニソワ2の1500年前頃(50±10世代前)の遺伝子移入となるものの、最長のネアンデルタール人系統領域はおそらく14.1±14世代前と新しく、より最近のネアンデルタール人からの遺伝子流動が起きた、と示唆されます。デニソワ8の結果はデニソワ2と類似していますが、網羅率がより高いので、より正確な推定が可能です。全体的に、デニソワ8のネアンデルタール人系統は22±6世代前とずっと新しく、それは1番染色体の22.5 cM (2370万塩基対)と、X染色体半数体を含む他の10 cM より長い領域で証明されます。

 デニソワ2および8ではネアンデルタール人系統の量と領域長が類似しており、年代がデニソワ人の中では比較的近いため、同じ遺伝子流動事象の結果という可能性を提起します。この仮説の検証のため、ゲノム間のネアンデルタール人系統領域の位置が比較されました。デニソワ2および8における、ネアンデルタール人系統の領域が同じ遺伝子移入事象にたどれるなら、その空間的位置は相関するはずです。しかし、分析の結果はそうではなく、異なるネアンデルタール人遺伝子移入事象を有する異なる集団に属していた、と示唆されます。遺伝子移入された領域の位置が相関しないという知見もまた、参照配列のデニソワ3への遺伝子流動がより早期のデニソワ人への遺伝子流動と混同されるかもしれない、という潜在的問題を除外します。そうしたバイアスは両方のゲノムに存在するはずで、したがって遺伝子移入領域の位置の間の相関を引き起こすはずだからです。

 こうしたネアンデルタール人からデニソワ人への遺伝子流動は、上述のように以前の研究でも指摘されていましたが、アルタイ山脈のネアンデルタール人2個体における比較的近い祖先世代での遺伝子流動によるデニソワ人系統も特定されました。デニソワ5で推定されたデニソワ人系統の全体的な割合は0.15%と小さいものの、15ヶ所の特定された領域のうち6ヶ所の長さは1 cM超で、最長はX染色体上の2.18cM(200万塩基対)です。これらの断片の長さから、デニソワ5の4500±2100年前に遺伝子流動が起きた、と示唆されます。一方、以前よりネアンデルタール人からの遺伝子流動が指摘されていたデニソワ人個体のデニソワ3では、合計58ヶ所のネアンデルタール人の遺伝子移入された断片的領域が発見され、それはゲノムの0.4%に相当し、デニソワ5よりも異なる系統の遺伝的影響が2倍以上多くなります。

 デニソワ洞窟の西方約100kmに位置するチャグルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟で発見されたネアンデルタール人個体のチャグルスカヤ8(Chagyrskaya 8)からは、高品質のゲノムデータが得られています。チャグルスカヤ8におけるデニソワ人の遺伝子移入された領域の長さは合計で3.8 cM(480万塩基対)と少なく、最長の領域でも0.83 cMです。これは、チャグルスカヤ8の祖先におけるネアンデルタール人からの遺伝子流動が数万年前に起きたことを示唆します。

 対照的に、12万~4万年前頃となるユーラシア西部のネアンデルタール人8個体のゲノムでは、デニソワ人系統は殆ど或いは全く検出されません。これら8個体のうち3個体(Goyet Q56-1、Spy 1、Les Cottes)では、古代型ホモ属と現生人類との間の遺伝子流動が示唆されている10番染色体で、デニソワ人からの遺伝子移入領域が特定されました。デニソワ人のアレルはアルタイ山脈のネアンデルタール人集団では何千年も生き残った一方で、ヨーロッパのもっと後のネアンデルタール人集団へは殆ど或いは全く残らなかったことになります。

 アルタイ地域の分析された古代型ホモ属の全個体のゲノムで、異なる系統の領域の存在が確認されました。これは、ネアンデルタール人とデニソワ人の間の遺伝子流動は一般的で、10万年前頃まで繰り返し起きた、ということです。アルタイ地域のネアンデルタール人のゲノムにデニソワ人系統が存在する、ということは本論文が初めて明らかにしており、その意義は大きいと思います。本論文の知見は、ネアンデルタール人とデニソワ人の間の子供が、両集団において繁殖能力のある子を産めた、と示します。

 また、X染色体上で遺伝子移入された領域が減少した証拠、選択水準を伴うような遺伝子移入された領域の関連、遺伝子移入された領域があらゆる機能的アノテーションと相関するという証拠、現生人類で見られるようなネアンデルタール人系統の排除された領域(関連記事)、といったものはどれもないので、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑による適応度低下の証拠は見られません。これは、ネアンデルタール人とデニソワ人の間の遺伝的および形態的分化が、たとえば地理のような中立的過程にかなり起因する、と示唆します。有望なシナリオは、アルタイ山脈が比較的安定した交雑地帯の一部で、複数の温暖および寒冷期にも交雑は持続した、というものです。ただ、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑は、アルタイ地域では一般的だった一方で、ヨーロッパのネアンデルタール人におけるデニソワ人系統のほぼ完全な欠如から明らかなように、アルタイからヨーロッパへの移住はおそらく稀だった、と推測されます。

 同様のシナリオがデニソワ人にも当てはまりそうです。より新しいデニソワ3は、より古いデニソワ2・8よりもゲノムにおけるネアンデルタール人系統がずっと少ないので、ほとんどネアンデルタール人系統を有さないデニソワ人集団が主要な祖先だった、と考えられます。同様に、遺伝子移入領域の位置がゲノム間で独立しているという知見は、アルタイ地域におけるデニソワ人の居住が継続的ではなかったことを示唆します。これは、人類によるデニソワ洞窟の使用が断続的だったとする考古学的知見(関連記事)と整合的です。さらに本論文は、現生人類とネアンデルタール人の間の早期の遺伝子流動という知見(関連記事)から、地域的な絶滅に続いてたまに起きる遺伝子流動が、現生人類とネアンデルタール人の間でも存在し、それは早期現生人類がアフリカから移住し、ネアンデルタール人やデニソワ人などユーラシアの先住人類を置換する前だった、と推測しています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。古代ゲノム研究で高品質なデータが得られる可能性は低いので、低品質なゲノムデータからも、比較的近い祖先世代での遺伝子移入をかなり正確に検出できる本論文の新手法は、今後大いに活用されて後期ホモ属における複雑な交雑事象をより詳細に明らかにしていくだろう、と期待されます。以前の研究でも指摘されていた、アルタイ地域におけるネアンデルタール人からデニソワ人への遺伝子流動だけではなく、その逆も検出したことと併せて、本論文はたいへん注目されます。

 本論文が明らかにしたのは、アルタイ地域におけるネアンデルタール人とデニソワ人の交雑は一般的だった、ということです。しかし、それはアルタイ地域においてネアンデルタール人とデニソワ人が長期にわたって共存し、交雑を続けた、ということではなさそうです。上述の考古学的証拠も踏まえると、ネアンデルタール人とデニソワ人はアルタイ地域において断続的に居住し、両者が共存していた比較的短いかもしれない期間には交雑が一般的だった、と考えられます。

 ネアンデルタール人はほぼ間違いなくヨーロッパで進化し、ユーラシア西方から東方へと草原地帯経由で移動し(関連記事)、アルタイ地域に拡散してきたのでしょう(北方経路)。一方デニソワ人は、ネアンデルタール人よりも早く北方経路でユーラシア西部からアルタイ地域に拡散してきた可能性もありますが、チベットだけではなく、台湾沖や中国でも中期~後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が発見されているので、アジア西部からヒマラヤ山脈の南を通ってアジア南東部からアジア東部へと拡散してきた可能性も考えられます(南方経路)。

 私が想定しているのは、主要な生息域が、ネアンデルタール人はユーラシア西部中緯度地帯、デニソワ人はアジア東部および南東部で、ともにアルタイ地域は生息域としては辺境だったのではないか、ということです。ネアンデルタール人もデニソワ人も、気候が温暖な時期にアルタイ地域にまで拡散してきて、気候が悪化すると絶滅もしくは「本拠地」へと撤退したのではないか、というわけです。デニソワ人のデニソワ3とデニソワ2・8が、主要な祖先・子孫関係ではなさそうなことから、複数のデニソワ人集団が異なる年代にアルタイ地域に拡散してきた、と推測されます。一方ネアンデルタール人も、ゲノムデータからは複数系統がアルタイ地域に拡散してきた、と推測されます(関連記事)。また、ヨーロッパのネアンデルタール人にはデニソワ人の遺伝的影響がほとんど見られないことから、ヨーロッパからアルタイ地域に拡散していったネアンデルタール人は、ヨーロッパに「逆流」せず絶滅したことが多かったように思われます。

 また、本論文の知見で注目されるのは、ネアンデルタール人とデニソワ人の間では、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られないことです。一方、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間では、遺伝的不適合の可能性の高さが指摘されています(関連記事)。これは、ネアンデルタール人とデニソワ人が相互に現生人類よりも遺伝的に近縁である、つまり現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人系統が分岐した後に、ネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したことを反映しているのでしょう。とはいえ、アルタイ地域におけるネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は、両系統が分岐して短くとも数十万年は経過した後のことでしょうから、何らかの遺伝的不適合があったかもしれません。後期ホモ属の進化史は、絡み合った交雑が明らかになってきたことにより、ますます複雑になってきたように思います。最新の知見を把握するのはきわめて困難ですが、少しでも近づけるよう、追いかけていきたいものです。


参考文献:
Peter BM. et al.(2020): 100,000 years of gene flow between Neandertals and Denisovans in the Altai mountains. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.13.990523

ネアンデルタール人の繊維技術

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の繊維技術(天然繊維を紡いで糸にする技術)に関する研究(Hardy et al., 2020)が報道されました。ドイツのシェーニンゲン(Schöningen)遺跡の槍(関連記事)やイタリアのポゲッチヴェッチ(Poggetti Vecchi)遺跡の木製道具(関連記事)などの例外を除き、中部旧石器時代の知識ほぼすべて、耐久性のある物質(骨器と石器)に由来します。しかし、現代の生活および民族誌から、人類の物質文化のほとんどは腐敗しやすい物質で構成されている、と考えられます。そのため、石器に残る腐敗しやすい物質の微視的断片が注目されてきました。

 フランス南東部のローヌ川支流のアルデーシュ川沿いのアブリデュマラス(Abri du Maras)では、3束の縄類の断片が付着した石器が発見され、注目を集めています。アブリデュマラスでは中部旧石器時代の遺物が発見されています。電子スピン共鳴法とウラン-トリウム法により第5層は9万年前頃と推定されています。第4層は52000~40000年前と推定されています。これらの遺物の製作者は、ヨーロッパの中部旧石器の担い手ということで、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と考えられます。

 残っている縄の断片は第4.2層で発見されました。第4.1層と第4.2層は、考古学的痕跡のない層により分断されており、ともに豊富な人工物と燃焼の痕跡が発見されています。その上に位置する第1~3層には、少しの人工物が散在しているだけです。第4層の時期には次第に乾燥・寒冷化していき、動物相の大半はトナカイ(Rangifer tarandus)です。第4層の剥片のうち多くはルヴァロワ(Levallois)式です。第4.2層で発見された長さ60mmの石器剥片(G8 128)には、縄(紐)の断片の痕跡が付着していました。この縄の断片は剥片の下面で堆積物と角礫岩に覆われて見つかり、剥片と同時期もしくはそれ以前に堆積物に入った、と考えられます。

 分光法と顕微鏡法により、繊維断片は3束がより合わされてできており、長さは約6.2 mm、幅は約0.5 mmと推定されました。繊維は裸子植物(針葉樹)に似ており、内部樹皮に由来すると推測されます。花粉と木炭の分析から、当時のアブリデュマラス遺跡ではマツの存在が確認されました。上述のように、剥片に付着した縄の断片は剥片の下面で堆積物と角礫岩に覆われて見つかり、剥片と同時期もしくはそれ以前に堆積物に入った、と考えられるので、石器の使用と関連しているとは限りません。もちろん、この縄が石器を柄に取り付けるために用いられた可能性もありますが、網もしくは袋の一部だった可能性もあります。ただ、以前の分析からは、柄に取り付けるために用いられた可能性が指摘されています。

 現時点で繊維技術の最古の証拠となる可能性が指摘されているのは、120000~115000年前頃になりそうなスペイン南東部の「航空機洞窟(Cueva de los Aviones)」遺跡です(関連記事)。ここでは穿孔された貝殻が発見されており、何らかの紐で結ばれていた可能性があります。アブリデュマラスや航空機洞窟遺跡は中部旧石器時代となりますが、その後の上部旧石器時代では、ドイツのオーリナシアン(Aurignacian)遺跡やモラビアのグラヴェティアン(Gravettian)遺跡で、繊維技術の可能性が指摘されています。より確実な繊維技術の使用は、19000年前頃となるイスラエルのハロ2(Ohalo II)遺跡で確認されていますが、アブリデュマラスの事例からも、実際の使用は中部旧石器時代以前にさかのぼりそうです。

 アブリデュマラスにおける中部旧石器時代の繊維技術の使用は、ネアンデルタール人の認知能力に関する議論とも関わってきます。より合わせた縄・紐は、石器を柄に取り付けることはもちろん、袋や寝具や布や籠や舟にさえ使えます。また上述のように、アブリデュマラスの縄はおそらく針葉樹の内部樹皮から作られていますが、これは靱皮と呼ばれ、最終的に硬化して樹皮を形成します。靱皮繊維を取り出しやすくなるのは春先で、成長も考慮すると、取り出すのに最適なのは初春から初夏となります。また、叩いたり水に浸したりすると繊維を分離しやすくなり、より高品質な繊維が得られます。このように、内部樹皮から縄・紐を作るには、針葉樹の成長と季節性について幅広い知識が必要です。

 上述のように、繊維技術は生活に有用な多様な道具の製作に使用でき、また芸術活動にも利用できます。本論文は、これまで考古学では狩猟対象となる動物や石材が重視されてきたけれども、繊維技術を用いての製作が長時間を有するものの有益であることから、中部旧石器時代以降?の日常生活において重要な役割を果たしていたかもしれない、と指摘します。また本論文は、より合わせた縄・紐の製作には数学的概念と基本的な計算技術の理解が必要になる、と指摘します。繊維技術や接着技術(関連記事)に要求される幅広い知識や、議論はあるものの芸術活動(関連記事)も考慮すると、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)の認知能力の違いを区別するのは難しい、と本論文は指摘します。

 本論文は、現生人類アフリカ単一起源説でも完全置換説が優勢だった1997~2010年頃と比較して、ネアンデルタール人と現生人類の認知能力の違いを小さく見積もる近年の動向と整合的です(関連記事)。ここで問題となるのは、両者の認知能力に大きな違いがないとして、それは何に由来するのか、ということです。この問題に関しては以前取り上げましたが(関連記事)、(1)現生人類とネアンデルタール人という異なる2系統で独立に出現した、(2)ネアンデルタール人と現生人類の最終的共通祖先に備わっていた、(3)ネアンデルタール人と現生人類とは別種ではなく、解剖学的違いにも関わらず認知能力に差がないのは当然かもしれない、などといった説明が想定されます。

 私は以前より(2)に近く、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先には、一定以上の象徴的思考を可能とする認知能力が備わっていた、と考えていました。さらに、ジャワ島の40万年以上前となる貝殻に刻まれた幾何学模様(関連記事)から、アジア南東部のホモ・エレクトス(Homo erectus)とネアンデルタール人および現生人類の最終共通祖先にも、そうした認知能力が一定以上備わっていた、と考えていました。ただ、ネアンデルタール人系統において、母系(ミトコンドリア)でも父系(Y染色体)でも、後期には現生人類により近い系統(ネアンデルタール人系統と分岐した後の広義の現生人類系統)への置換があった、と遺伝学では推測されているので(関連記事)、中部旧石器時代のネアンデルタール人の認知能力はある程度以上、広義の現生人類系統からの影響も想定されます。この問題の解明には、認知能力の遺伝的基盤の特定と古代DNA研究の進展が必要となり、注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:古代の縄の残滓が垣間見せるネアンデルタール人の生活

 繊維技術(天然繊維を紡いで糸にする技術)に関して、これまでに発表されたものの中で最も古い直接証拠を報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。この新知見は、中期旧石器時代(30万〜3万年前)のネアンデルタール人の認知能力の解明を進めるものだ。

 今回、Bruce Hardyたちの研究チームは、Abri du Maras(フランス)で、3束の繊維がより合わされてできた縄の残滓(長さ6ミリメートル)が付着した薄い石器(長さ60ミリメートル)を発見した。Hardyたちの推測によれば、この縄を石器のまわりに巻き付けて取っ手にしたか、石器を入れたネットやバッグの一部だったとされる。そして、この縄の残滓の年代は、5万2000年〜4万1000前と推定された。そして、Hardyたちは、分光法と顕微鏡法を用いて、この縄の残滓が、花をつけない樹木(針葉樹など)の内部樹皮から採取した繊維から構成されている可能性が高いことを明らかにした。

 Hardyたちは、この縄を作製するには、原料として使用される樹木の成長と季節性に関する広範な知識を要したと考えられるとしている。また、Hardyたちは、ネアンデルタール人が複数の繊維をより合わせて糸を作り、複数の縄を使って3本よりの縄やロープを作るためには、数学的概念と基本的な計算技術の理解も必要だった可能性があると推測している。

 今回の発見があるまでは、イスラエルのオハロー(Ohalo)II 遺跡で発掘された繊維の残滓が最も古く、約1万9000年前と年代測定されていた。しかし、繊維技術が登場したのは、それよりかなり前のことであり、ネアンデルタール人の認知能力が、これまでに考えられていた以上に現生人類に近いことが、今回の研究によって得られた知見から示唆されている。



参考文献:
Hardy BL. et al.(2020): Direct evidence of Neanderthal fibre technology and its cognitive and behavioral implications. Scientific Reports, 10, 4889.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-61839-w

大河ドラマ『麒麟がくる』第13回「帰蝶のはかりごと」

 土岐頼芸に毒殺されかけた斎藤利政(道三)は、頼芸と戦う決意を示します。一方、利政の息子の斎藤高政(義龍)は、頼芸に加勢して父親と戦おうとします。両者の板挟みとなり苦悩した明智光秀(十兵衛)は利政に謁見して真意を質します。利政は、頼芸と戦うつもりは最初からなく、追放に留めるのが真意と打ち明けます。利政は、今川が尾張にまで勢力を拡大するなど厳しい情勢のなか、まだ現状認識の甘い美濃の国衆を覚醒させるため、あえて頼芸と戦う決意を示したわけです。これからの戦では鉄砲が重要と考える利政は、光秀に鉄砲組の編成を命じます。飼っている鷹を殺された頼芸はすっかり怯えてしまい、利政との戦いを促しに来た高政を虚ろな目で一応は励ましますが、近江の六角家へ逃亡します。激昂する高政は利政に食って掛かり、実父は利政ではなく頼芸と言い放ちます。

 利政は娘の帰蝶を通じてその夫の織田信長に面会を申し込みます。利政の謀略を疑う信長は断ろうとしますが、同盟の継続には面会しなければならない、と帰蝶は信長を諭します。帰蝶は伊呂波太夫に大金を積んで、鉄砲兵を用意するよう、依頼します。信長は利政との面会を決意しますが、信長と敵対する尾張守護代の織田彦五郎(信友)は、利政に使者を派遣し、信長を殺すよう提案します。利政は、信長の人物を見て殺すかどうか、決断しようと考えますが、信長が率いてきた多くの鉄砲兵に驚きます。

 今回は、話が大きく動きました。頼芸は追放され、利政と高政の対立は決定的となり、利政と信長の面会まで進みました。光秀の出番は主人公としては少なかったのですが、利政や高政、何よりも帰蝶が存在感を示し、楽しめました。帰蝶は信長を上手く動かしているように見えますが、信長が勢力を拡大していくと、両者の関係がどうなるのか、という点は注目されます。帰蝶は、一応実在の人物とはいえ、実質的には創作キャラなので、信長との関係がどう変わっていくのか、予想しにくいところがあり、それが本作の楽しみの一つでもあります。藤吉郎(豊臣秀吉)は今回が初登場となり、顔見世程度の出番でしたが、光秀との関係がどのように描かれるのか、注目しています。

アフリカ南部の初期人類の移動様式

 アフリカ南部の初期人類の移動様式に関する研究(Georgiou et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。人類系統における二足歩行の骨格適応は、少なくとも600万年前頃のオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)までさかのぼる、とも指摘されています。直立二足歩行に特化した現代人は、大腿骨では非ヒト現生類人猿と比較して、骨頭部が大きくて頸部が長い、などといった特徴が見られます。しかし、オロリン・トゥゲネンシスのような最初期人類(候補)の化石は少なく断片的で、二足歩行の明確な証拠が見られるのはアウストラロピテクス属以降です。ただ、アウストラロピテクス属でも最初期のアナメンシス(Australopithecus anamensis)に関しては確たる証拠が揃っているとは言えず、確実な二足歩行人類はアナメンシスの後に出現したアファレンシス(Australopithecus afarensis)以降となります。とはいえ、アファレンシスに関してはその形態から樹上生活にかなりの時間を費やしていた、との見解もあり(関連記事)、それと整合的な骨折の痕跡も確認されています(関連記事)。

 本論文は、大腿骨の外部形態ではなく、内部構造の海綿骨に焦点を当てています。これは、強い選択圧がない場合、機能的に関連のない祖先的特徴が保持される可能性を考慮しているためです。大腿骨の内部構造には常習的な姿勢の痕跡が見られるので、主にどのような移動様式を用いたのか推測できる、というわけです。本論文が分析対象とした初期人類化石は、南アフリカ共和国のスタークフォンテン洞窟群(Sterkfontein Caves)で発見された2点の大腿骨化石(StW 311およびStW 522)です。280万~200万年前頃と推定されているStW 522はアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)に分類されています。

 形態的に種区分の難しいStW 311は、StW 522よりも新しい層から発見されましたが、その年代に関しては、以前は170万~140万年前頃もしくは140万~120万年前頃と推定されており、最近の研究では218万年前頃までさかのぼる可能性が指摘されています。この層からはオルドワン(Oldowan)石器とパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)化石が発見されており、以前にはアウストラロピテクス・アフリカヌスと分類されていたStW 311は、早期ホモ属もしくはパラントロプス・ロブストスと考えられます。StW 311もStW 522も、外部形態からは習慣的な二足歩行が示唆されます。

 StW 311とStW 522は、チンパンジー属16頭、ゴリラ属11頭、オランウータン属5頭、現代人11人および化石現生人類(Homo sapiens)1人と比較されました。その結果、StW 311とStW 522はともに現生人類とオランウータン属およびチンパンジー属の中間に分類されますが、StW 311はStW 522よりも非ヒト類人猿の方に近い、と明らかになりました。StW 522は、木登りのようなよじ登りを行なっていたとしても、非ヒト類人猿よりも低頻度だった、と考えられます。

 一方、StW 522よりも新しいStW 311が、StW 522よりもよじ登り行動の頻度が高いと考えられることは、意外と言えるかもしれません。しかしこれは、スタークフォンテン洞窟群の周囲は、StW 522の頃よりもStW 311の頃の方が湿潤で樹木は多かった、との古気候学の研究と整合的です。本論文は、しゃがむような行為が高頻度だと、非ヒト類人猿と同様の大腿骨内部構造をもたらすかもしれないものの、その可能性は低いだろう、とも指摘しています。

 本論文は、StW 311がパラントロプス属だろう、と推測しています。ただ本論文は、アフリカ東部のパラントロプス・ボイセイ(Paranthropus boisei)において、樹上性の証拠は限定的で、そうである特徴もそうでない特徴もある、と指摘します。また現時点では、アフリカのパラントロプス属において、東部と南部で頭蓋以外の証拠が重複しておらず、移動様式の共有の明確な証拠がありません。さらに、アフリカ東部の早期ホモ属(OH 62)では、頭蓋以外で樹上性の証拠が指摘されています。そのため、StW 311がホモ属である可能性もまだ排除できません。本論文は、人類系統における二足歩行への単一の移行という有力な見解の見直しを提示するとともに、人類系統における移動様式の多様性の証拠を追加します。

 パラントロプス属については、アフリカ東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)から東部のボイセイと南部のロブストスが派生したのではなく、パラントロプス・エチオピクスからパラントロプス・ボイセイが、アウストラロピテクス・アフリカヌスからパラントロプス・ロブストスが派生した、との見解も提示されています(関連記事)。つまり、パラントロプス属という単系統群(クレード)は成立しないかもしれない、というわけです。しかし、最近の研究からは、アフリカ南部における230万~200万年前頃の気候変動とともに他地域から南部に移動してきた人類がロブストスに進化した可能性も考えられるので(関連記事)、やはりパラントロプス属は単系統群だったかもしれません。ただ、本論文が指摘するように、東部と南部でパラントロプス属の移動様式がどの程度共通しているのかまだ不明なので、現時点ではパラントロプス属の系統関係を断定することはできない、と言うべきでしょう。


参考文献:
Georgiou L. et al.(2020): Evidence for habitual climbing in a Pleistocene hominin in South Africa. PNAS, 117, 15, 8416–8423.
https://doi.org/10.1073/pnas.1914481117

Emmanuel Todd『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』第2刷

 エマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)著、堀茂樹訳で、文春新書の一冊として、文藝春秋社から2015年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2015年5月です。本書は著者への複数のインタビューで構成されており、本書自体すでに5年近く前の刊行と古いのに、インタビューは2011年11月から2014年8月までのものですから、今になってこうした時事評論的性格の強い本を読む意味があるのか、とも思ったのですが、古書店で安かったことと、著者が碩学であることは疑いないので、読む価値はじゅうぶんある、と判断しました。

 著者の基本的な主張は、家族構造が社会、さらにはその上に成立する国家の性格・行動を強く規定する、というもので、本書でもそれは簡潔に言及されていますが、本書の理解にはある程度予備知識が必要かな、とも思います。著者はたびたび、自分はドイツ嫌いではない、と強く主張していますが、正直なところ、私には著者がドイツ嫌いだと思えました。もっとも、これに関しては、私が碩学の著者の深い洞察をよく読み込めていない、という側面も多分にありますから、著者がドイツ嫌いだと強く主張するつもりはありませんが。

 著者は、ドイツがEUとユーロを利用して周辺諸国を従属させて搾取し、巨大な力を有して暴走・迷走することが、ヨーロッパ、さらには世界に大きな悪影響を及ぼす、と主張します。これは、アメリカ合衆国が相対的国力の低下によりドイツを制御できなくなったことと関連している、と著者は指摘します。このドイツの暴走・迷走により、EU、さらにはヨーロッパ世界も迷走している、と著者は指摘します。一方、ヨーロッパでは悪評の定着したプーチン政権のロシアは、周辺地域への影響力行使も含めて自国の安全保障の観点から行動しており、それはドイツに引きずられて迷走するヨーロッパとは対照的に合理的である、と著者は評価します。中国への評価の低さや日本の技術力の過大評価(と思われます)など、本書の見解を鵜呑みにすることはもちろんできませんが、イギリスのEUからの離脱など予測させた的中もあり、さすがだと思わせるところも多々あります。著者のその後の見解も、できるだけ追いかけていきたいものです。

太田博樹「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B02「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P25-29)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散についての概説です。ユーラシア東部集団のゲノム解析では、アフリカからヒマラヤ山脈以南の経路(南方経路)での東方への拡散が推測されています。一方、考古学では北方経路の存在も強く示されており、その痕跡と考えられる遺物は北海道でも発見されています。日本列島で最古となる確実な後期旧石器時代の石器は38000年前頃までさかのぼり、シベリア中央部バイカル湖周辺を起源とすると考えられる細石刃は、北海道では25000年前頃、本州では2万年前頃のものが発見されています。

 しかし、日本列島の後期旧石器時代の遺跡からは、土壌の問題もあってほとんど古人骨が見つかっていません。一方、16000年前頃以降(開始の年代には議論があります)から始まる縄文文化の担い手たる「縄文人」は、後期旧石器時代から日本列島に住んでいた人々の直接の子孫で、最終氷期の終焉とともにユーラシア東部大陸部の人類集団から孤立した、と考えられています。「縄文人」が後期旧石器時代人の直接的子孫とは確証されていませんし、日本列島における旧石器時代の古人骨がほとんど見つかっていないため、今後も検証は困難かもしれません。しかし、「縄文人」遺骸は多数発見されており、「縄文人」ゲノム解析はユーラシア東部における現生人類の移住史に、重要な情報を与えると期待できる、と本論文は指摘します。

 本論文は、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果(関連記事)を取り上げ、「縄文人」が後期旧石器時代人の子孫なのか、北方経路でユーラシア東端に到達した人々の遺伝的影響が検出されるのか、検証しています。IK002と現代および過去のユーラシア東部集団のゲノムデータの比較に基づく系統樹では、シベリア南部中央のバイカル湖近くのマリタ(Mal'ta)遺跡(関連記事)とアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団が分岐した後、ホアビン文化集団のすぐ内側で、4万年前頃となる田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)人(関連記事)が分岐し、ネパールの少数民族であるクスンダ(Kusunda)人その後でさらにその後でIK002が分岐します。現代アジア東部集団および北東部(シベリア東部)集団とアメリカ大陸先住民集団は、さらにその内側で分岐します。つまり、IK002のみならず、現代のユーラシア東部集団およびアメリカ大陸先住民集団は南方経路で東進してきた早期現生人類集団のゲノムを主に継承しており、アジア南東部集団と分岐した後に分化していった集団と明らかになりました。

 IK002と現代および過去のユーラシア東部集団との間の遺伝子流動については、マリタ集団からは、現代アジア北東部(シベリア東部)集団への遺伝子流動が有意に示されたものの、現代アジア東部および南東部集団とIK002へは有意に検出されませんでした。つまり、現代アジア東部および南東部集団とIK002には、北方経路の遺伝的影響は検出されなかったわけです。

 これらの知見からまず言えるのは、IK002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきた、ということです。ただ、他の「縄文人」個体については、詳しく調べていかないと不明です。「縄文人」でIK002並かそれ以上に高品質なゲノム配列が得られているのは、他に北海道の礼文島の船泊遺跡で発見された2個体(関連記事)ですが、ともにIK002とひじょうによく似ています。今後は、西日本の「縄文人」のゲノムデータが待ち望まれます。次に、IK002は北方経路集団の遺伝的影響は確認されていないものの、他の個体のゲノム解読では遺伝子流動の痕跡が検出されるかもしれない、と本論文は指摘します。また本論文は、K002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきたものの、日本列島への移住経路については南方からとは限らず(南方経路でユーラシア東部に拡散してきた集団がアジア東部で北上し、日本列島へは北海道から南下してきた可能性など)、今後日本列島内の多様な地域の「縄文人」のゲノム解析の必要がある、と指摘します。


参考文献:
太田博樹(2020)「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)』P25-29

昆虫の食物摂取と発達成長を調節する腸の亜鉛センサー

 昆虫の食物摂取と発達成長を調節する腸の亜鉛センサーに関する研究(Redhai et al., 2020)が公表されました。細胞や器官あるいは生物体全体で、恒常性を維持し(ホメオスタシス)、変動する環境に適応するには、栄養素の感知が重要です。多くの動物では、栄養センサーは消化器系の腸内分泌細胞内に見られますが、その姉妹細胞である腸管吸収上皮細胞の栄養感知についてはあまり知られていません。また、金属イオンのような微量栄養素は、成長と発達に重要な役割を有するとと知られていますが、金属がどのように感知されるのか、あまり解明されていません。

 この研究は、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の腸を調べました。消化管はエネルギー恒常性に関与している、と知られているからです。この研究は、100種以上の候補タンパク質の遺伝学的スクリーニングを行ない、とくに、栄養素の乏しい条件下で幼虫の発達を持続させる働きをする、腸細胞のイオンチャネル型受容体Hodorを特定しました。このタンパク質は、「“hold on, don't rush”(ちょっと待って、あわてないで)」の略語です。

 アフリカツメガエル(Xenopus laevis)の卵母細胞とショウジョウバエでの実験から、HodorはpH感受性の亜鉛依存性塩素イオンチャネルであり、これまで知られていなかった亜鉛に対する食嗜好性に関わっている、と明らかになりました。Hodorは亜鉛を感知するタンパク質で、亜鉛を使って細胞内、細胞外に塩素を輸送し、栄養物の感知と増殖を調節する経路を促進します。キイロショウジョウバエの食餌に含まれる亜鉛の量を増やすと摂食量が増加しましたが、Hodorを遮断すると減少しました。この研究は、Hodorが動物を栄養豊富な食物源に誘導するさいに役立っている、と推測しています。亜鉛などの金属は、果物や他の食品に含まれる酵母によって産生されます。Hodorは食物摂取とインスリン/IGFシグナル伝達を促進することにより、腸細胞のサブセット(間質細胞)から全身の成長を制御します。Hodorは、腸管内腔の酸性度を維持して微生物の量を抑制しますが、その全身の成長への作用は、間質細胞内のTorシグナル伝達とリソソーム恒常性の調節に起因します。

 Hodor類似遺伝子は昆虫特異的で、病原体媒介動物を制御するための標的になる可能性があります。じっさい、CRISPR–Cas9ゲノム編集により、ガンビエハマダラカ(Anopheles gambiae)のhodorの単一オルソログが、必須遺伝子である、と明らかになりました。Hodor遺伝子を欠失させることは、ガンビエハマダラカにとって致命的となります。昆虫に摂取させることで昆虫特異的なHodor機能のみに影響を及ぼす薬剤は、昆虫の制御に利用できる可能性があります。これらの知見により、エネルギー恒常性維持に対する金属(より一般的には微量栄養素)の有益な役割を考慮する必要が明らかになりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生物学:昆虫の食物摂取を調節するHodor(栄養感知タンパク質)

 キイロショウジョウバエの腸内で発見された昆虫特異的な栄養感知タンパク質Hodorが食物摂取の調節と発生成長制御に関与していることを報告する論文が、Natureに掲載される。Hodorの働きを阻害することは、病気を媒介する昆虫(蚊など)の個体数を制御する方法として利用できるかもしれない。

 細胞や生物は、体内の安定性を維持すること(ホメオスタシス)と周囲の環境の変化への適応のために栄養素を感知する必要がある。金属イオンのような微量栄養素は、成長と発達に重要な役割を持つことが知られているが、金属がどのように感知されるかは、あまり解明されていない。今回、Irene Miguel-Aliagaたちの研究チームは、解明を進めるため、キイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の腸を調べた。消化管は、エネルギー恒常性に関与していることが知られているからだ。今回の研究では、栄養素の感知に関与すると考えられる100種以上の候補タンパク質の遺伝子スクリーニングが行われ、特に栄養素の乏しい条件下で幼虫の発生を調節していると考えられる1つの受容体が発見された。このタンパク質は、Hodor[“hold on, don't rush”(ちょっと待って、あわてないで)]の略語と名付けられ、その発現を阻害すると、発育遅延が生じた。

 Hodorは亜鉛を感知するタンパク質で、亜鉛を使って細胞内、細胞外に塩素を輸送し、栄養物の感知と増殖を調節する経路を促進する。キイロショウジョウバエの食餌に含まれる亜鉛の量を増やすと摂食量が増加したが、Hodorを遮断すると減少した。Miguel-Aliagaたちは、この受容体が、動物を栄養豊富な食物源に誘導する際に役立っているという考えを示している。(亜鉛などの金属は、果物や他の食品に含まれる酵母によって産生される。)さらに、Miguel-Aliagaたちは、蚊のhodor遺伝子を欠失させることが蚊にとって致命的なことを実証し、体内に摂取可能な薬物を用いることで、こうした疾患媒介動物を標的に定めて、制御できるという考えを示している。


代謝:腸の亜鉛センサーが食物摂取と発達成長を調節する

代謝:塩素イオンチャネルHodorはショウジョウバエにおける亜鉛の感知、成長シグナル伝達、食欲に関わる腸の回路を駆動する

 S Redhaiたちは今回、ショウジョウバエ(Drosophila)の腸細胞のサブセットが、亜鉛センサーである塩素イオンチャネルHodorを介して、食物摂取や発達成長を調節していることを報告している。Hodorの活性はリソソームのTor活性に影響を及ぼすことが分かり、これまで知られていなかった金属/微量栄養素によるTorシグナル伝達への入力が明らかになった。Hodorは昆虫特異的であり、ハマダラカ(Anopheles)におけるHodorの変異は致死的であることが分かった。昆虫に摂取させることで昆虫特異的なHodor機能のみに影響を及ぼす薬剤は、昆虫の制御に利用できる可能性がある。



参考文献:
Redhai S. et al.(2020): An intestinal zinc sensor regulates food intake and developmental growth. Nature, 580, 7802, 263–268.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2111-5

鮮新世~更新世人類の上顎大臼歯のエナメル質の厚さ

 鮮新世~更新世人類の上顎大臼歯のエナメル質の厚さに関する研究(Lockey et al., 2020)が公表されました。歯冠全体のエナメル質組織の厚さと分布は、化石霊長類の分類・系統・食性適応の評価において重要な特徴となります。近年では、顕微鏡断層撮影法の利用により、大臼歯断面の相同近心面を系統的に理解できるようになりました。本論文は、鮮新世~更新世の化石人類と、現代のヒトおよび非ヒト類人猿の上顎大臼歯の平均エナメル質の厚さ(AET)と相対エナメル質の厚さ(RET)を分析しました。また、AET は歯冠の舌・咬合・頬の領域全体で調べられました。

 調査対象となったのは、鮮新世~更新世の化石人類62個体、現生非ヒト類人猿48個体、現代人29個体です。現生非ヒト類人猿にはオランウータンとゴリラとチンパンジーが、化石人類には、アウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)とアウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)とアウストラロピテクス・ボイセイ(Australopithecus boisei)とアウストラロピテクス・ロブストス(Australopithecus robustus)とホモ属が含まれます。ボイセイとロブストスは、一般的にはパラントロプス属に分類されます。

 分析の結果、アウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)からアウストラロピテクス・ボイセイ(Australopithecus boisei)までの400万~200万年前頃にかけて、エナメル質の厚さが増加する傾向と、第一大臼歯から第三大臼歯の歯列に沿ってエナメル質の厚さが増加する傾向と、ホモ属では次第にエナメル質の厚さが減少する傾向を示しました。RETでは、人類では、アウストラロピテクス・アナメンシスがオランウータンとほぼ同じではあるものの、その他の化石人類と現代人はオランウータンよりも厚く、チンパンジーはオランウータンよりも薄く、ゴリラはチンパンジーよりもさらに薄い、との結果が得られました。現生非ヒト類人猿および人類の大半では歯冠全体のエナメル質の領域分布は、厚い咬合側のエナメル厚さと、さほど厚くない頬側のエナメル質と、最も薄い舌側のエナメル質で特徴づけられ、例外は咬合側より頬側が厚いゴリラと、咬合側が最も薄いチンパンジーです。

 上顎大臼歯のエナメル質の厚さの傾向は、下顎大臼歯の傾向と類似しており、アウストラロピテクス・アナメンシスからアウストラロピテクス・ボイセイまで増加する傾向にあり、早期ホモ属はアウストラロピテクス・アフリカヌスやアウストラロピテクス・ロブストスと類似したRETを示します。これは、同位体分析から示される、アウストラロピテクス属におけるC4植物消費増加の証拠と一致しています。化石人類における性的二形とエナメル質の厚さの関係については、ほとんどの化石標本で性別区分が難しいため、検証できませんでした。

 大半の分類群では、第一大臼歯から第三大臼歯にかけてのAETの増加傾向が見られます。これは、咬合力や頬骨の向きや下顎の大きさや形態など、他の形態学的特徴と関連しているかもしれません。人類系統におけるエナメル質の厚さの増加傾向は、上述のC4植物消費増加傾向で示されるように、咀嚼との関連が想定されます。化石人類には歯の摩耗が見られ、食性の変化とともに、歯を道具として利用したこととの関連も考えられます。歯は動物遺骸でもとくに残りやすい部位なので、エナメル質の厚さの研究は今後も進展していくと期待されます。


参考文献:
Lockey AL. et al.(2020): Maxillary molar enamel thickness of Plio-Pleistocene hominins. Journal of Human Evolution, 142, 102731.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2019.102731

アファレンシスの脳の組織と成長期間

 アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)の脳の組織と成長期間に関する研究(Gunz et al., 2020)が報道されました。アフリカの非ヒト類人猿とは対照的に、ヒトの脳成長パターンは、高い成長率と長い持続期間により特徴づけられます。現代人は長期間保護者(多くの場合は親)に依存する比較的未熟な子供を産みます。これらの特徴により、現代人では認知発達期間が長くなり、高い認知能力に影響を与えている、と考えられます。

 非ヒト類人猿とヒトとの脳における重要な違いとして、頭頂葉と後頭葉があり、月状溝の位置が異なります。すでにアウストラロピテクス属において、現代人のような月状溝の位置が見られた、との見解もあります。しかし、化石では月状溝の位置を示す痕跡が明確に検出できないため、この問題は解決していません。そのため、現代人のような脳の成長と組織化が、200万年前頃に始まるホモ属の脳容量の拡大で始まったのか、その100万年前のアウストラロピテクス属で始まったのか、議論が続いています。

 本論文は、エチオピアのディキカ(Dikika)とハダール(Hadar)の乳児各1個体の頭蓋と、有名な「ルーシー(A.L. 288-1)」も含まれるアファレンシスの成体6個体の頭蓋に関して、じゅうらいの断層撮影法とシンクロトロン断層撮影法により分析結果を報告しています。これにより、新たにより正確な脳容量が推定され、脳回の痕跡に基づいて脳組織が以前よりも詳細に解明されるとともに、歯の成長線の分析からひじょうに正確な死亡年齢も推定され、脳の成長期間・成長率も推測されました。

 アファレンシスの脳組織は全体として、非ヒト類人猿に類似しています。類人猿とヒトのおもな違いは、脳の頭頂葉と後頭葉の組織化です。推定脳容量は、乳児でも成体でも、アファレンシスはチンパンジーよりも大きく、ディキカの乳児は275 ml、ハダールの乳児は310~317 ml、成体は平均で445 mlです。死亡時の年齢は、ディキカの乳児が2.4歳(861日)で、ハダールの乳児もほぼ同じと推定されています。アファレンシスの歯の成長速度は他の化石人類や現代人よりも速く、チンパンジーの成長速度の下限範囲となります。これらの比較から、アファレンシスの脳成長期間はチンパンジーより長い、と明らかになりました。

 脳の成長期間の長期化は、ホモ属における脳容量増大の結果と関連づけられてきました。しかし本論文は、アファレンシスの脳容量と成長速度の分析から、脳の成長期間の長期化が脳容量増加の単なる副産物ではないことを示しました。脳容量がさほど増加しておらず、組織も非ヒト類人猿と類似していた時点ですでに、人類の脳の成長パターンはチンパンジーよりも長期化していたわけです。この330万年前頃における、人類の脳の成長期間の長期化は、その後の人類進化を特徴づけたと考えられます。

 しかし本論文は、脳の発達パターンが人類の各系統間で異なっていることから、現代人のパターンに向かって直線的に進化してこなかった可能性もある、と指摘します。一般的に霊長類では、成長率の違いが乳児の世話の戦略と関連しており、アファレンシスの脳成長の長期化は親への長い依存に関連している、と考えられます。あるいは、長い脳の成長は、食資源が豊富ではない環境における適応かもしれません。どちらでも、アファレンシスの長い脳成長期間は、人類史におけるその後の脳進化と社会的行動の基礎を提供し、子供期における長期となる学習の進化に重要と考えられます。


参考文献:
Gunz P. et al.(2020): Australopithecus afarensis endocasts suggest ape-like brain organization and prolonged brain growth. Science Advances, 6, 14, eaaz4729.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz4729

ブロークンヒル頭蓋の年代(追記有)

 ブロークンヒル(Broken Hill)頭蓋の年代に関する研究(Grün et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ブロークンヒル(Kabwe)頭蓋は、1921年に北ローデシア(現在のザンビア)で金属鉱石の採掘中に洞窟内堆積物から発掘されました。当初、ブロークンヒル頭蓋(E686)はホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)の正基準標本とされましたが、その後は、ギリシアのペトラローナ(Petralona)やチオピアのボド(Bodo)などヨーロッパやアフリカの中期更新世のホモ属化石とともに、ホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)に分類する見解が有力となりました。上述のように、E686は金属鉱石の採掘中に洞窟内堆積物から発見されており、考古学的発掘に基づいていないことと、採掘による遺跡の破壊のため、正確な年代測定が妨げられてきました。また、ブロークンヒル頭蓋には高濃度の重金属が含まれていたため、とくに放射性年代測定が困難でした。

 本論文は、E686が発見された直後の写真と、その翌日に頭蓋近くで間違いなく発見された脛骨(E691)および大腿骨骨幹(EM793)と方解石堆積物を分析することで、より正確な年代を測定しました。さらに本論文は、この2点と他の大腿骨や部分的骨盤から、ブロークンヒル人類を派生的特徴と祖先的特徴の混在するホモ属と指摘します。E686の年代は、アフリカ東部のオルドヴァイ(Olduvai)やアフリカ南部のエランズフォンテイン(Elandsfontein)の動物相との比較からは、中期更新世の50万年前頃と推定されていました。しかし、関連が不充分な考古資料では、もっと後の中期石器時代早期とされています。本論文は、E686や1920年代に研究者がE686から直接こすり取った試料を用いて、電子スピン共鳴法やウラン系列法により、E686の年代を299000±25000年前と推定しています。

 E686のこの年代は、アフリカにおける現生人類(Homo sapiens)の進化に関する理解とも深く関わってきます。まず、この年代は中期石器時代早期に該当し、ブロークンヒルでも中期石器時代早期の石器が発見されているので、その担い手として早期現生人類のみを想定できなくなります。また、E686の年代を50万年前頃と推定する以前の見解では、アフリカにおけるホモ・ローデシエンシスもしくはホモ・ハイデルベルゲンシスから現生人類への漸進的な進化が想定されます。

 しかし、30万年前頃というE686の新たな推定年代は、現生人類への進化の移行を反映しているのだとしたら、祖先的形態と現代的形態の中間が予想されるにも関わらず、E686には派生的な現代的形態が見られません。30万~20万年前頃のアフリカには、北部・東部・南部にE686よりも現代的な形態を示す人類が存在していましたが(関連記事)、一方で現生人類とは大きく異なるホモ・ナレディ(Homo naledi)が南部に存在していました。ホモ・ローデシエンシスもしくはホモ・ハイデルベルゲンシスと分類されることもあるブロークンヒル人類も、そうした中期石器時代早期のアフリカにおける多様なホモ属の1系統と考えられます。

 当時、ユーラシアにはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)、ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・エレクトス(Homo erectus)といった複数の人類系統が共存していましたが、アフリカも同様だっただろう、というわけです。さらに、アフリカにおける遺伝学的に未知の系統と現生人類系統との交雑の可能性が複数の研究で指摘されていますが(関連記事)、ブロークンヒル人類がその1系統だったかもしれません。

 また、ホモ・ハイデルベルゲンシスもしくはホモ・ローデシエンシスが現生人類の祖先だったとの見解は、43万年前頃のイベリア半島北部に、形態学的にも遺伝学的にも早期ネアンデルタール人と言ってよさそうな集団が存在したこと(関連記事)から、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の分岐はそのずっと前と考えられるため、再考の必要がある、と本論文は指摘します。その可能性は顔面の進化に関する研究でも指摘されており、アフリカにおける現生人類の進化は、系統樹では的確に表現できないようなかなり複雑な過程を経た可能性が高そうです(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


化石:100年前に出土したアフリカのヒト族の頭蓋骨

 1920年代にザンビアの洞窟内堆積物(年代不明)から発掘された重要なアフリカのヒト族の頭蓋骨化石の最適年代推定値が29万9000年前であることを報告する論文が、今週、Natureに掲載される。このブロークンヒル(カブウェ)の頭蓋骨について報告した論文がNature で発表されたのは約100年前のことだったが、今回の研究結果は、ヒト族の系統樹におけるブロークンヒルの頭蓋骨の位置付けに役立つ。

 ブロークンヒルの頭蓋骨は、1921年に金属鉱石の採掘中に洞窟内堆積物から発掘され、当初は、新種ホモ・ローデシエンシスの頭蓋骨とされたが、最近になって、更新世中期にヨーロッパとアフリカで生活していたホモ・ハイデルベルゲンシスのものとする研究報告があった。出土品の年代測定は、その出土品が発見された堆積物がもはや存在しないため、困難な作業になっている。また、この化石標本には高濃度の重金属が含まれていたため、特に放射性年代測定が難しかった。そのため、ブロークンヒルの頭蓋骨の年代は、議論の的となっており、50万年前のものとする研究者もいる。

 今回、Rainer Grun、Chris Stringerたちの研究チームは、頭蓋骨が発見された翌日に同じ地域で発掘された他の骨化石(例えば、脛骨と大腿骨の断片)を分析し、1920年代に研究者が頭蓋骨から直接こすり取った試料(英国ロンドンの自然史博物館のアーカイブで最近発見された)も分析した。その結果、ブロークンヒルの頭蓋骨は約29万9000年前のものと結論付けられた。

 更新世中期のアフリカは、ヨーロッパとアジアと同様に、複数のヒト族系統が同時に存在しており、ホモ・ハイデルベルゲンシスとホモ・ローデシエンシスの複合体が、現生人類の妥当な共通祖先でないかもしれないことが今回の研究結果から示唆されている。



参考文献:
Grün R. et al.(2020): Dating the skull from Broken Hill, Zambia, and its position in human evolution. Nature, 580, 7803, 372–375.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2165-4


追記(2020年4月16日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



進化学:ザンビア・ブロークンヒルの頭蓋の年代測定とヒト進化におけるその位置付け

進化学:ホモ・ローデシエンシスの年代

 1921年、北ローデシアのブロークンヒル(現在のザンビア・カブウェ)の鉱石採掘場でヒト族の頭蓋が出土した。レイモンド・ダートによってアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)の化石が発見・記載されるまで、この標本はアフリカ全土で唯一の化石ヒト族のものであり、当初はホモ・ローデシエンシス(Homo rhodesiensis)のタイプ標本とされたが、その後は一般に別の古代ヒト族であるホモ・ハイデルベルゲンシス(H. heidelbergensis)に分類されるようになった。しかしその年代は議論の的になっており、50万年前と古いものからそれよりはるかに新しい年代まで、さまざまに提唱されてきた。この頭蓋の発掘場所は採掘し尽くされて当時の堆積物がすでに存在しないことから、堆積物に基づく年代推定が容易でなく、また、標本中の重金属濃度が高い(カブウェでは鉛と亜鉛の採掘が行われてきた)ために放射年代測定法の適用も極めて困難である。今回R Grünたちは、これらの問題を克服して、この頭蓋の年代が29万9000 ± 2万5000年前であると示している。この結果は、ホモ・サピエンス(H. sapiens)が出現し始めたのと同じ時代のアフリカに、複数の古代ヒト族が存在していたことを示唆している。

ホモ・アンテセッサーのタンパク質解析

 ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)のタンパク質解析に関する研究(Welker et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。1994年以降、スペイン北部のアタプエルカ山地(Sierra de Atapuerca)のグランドリナTD6(Gran Dolina-TD6)遺跡(以下、TD6遺跡)では、170点以上の人類化石が発見されています。これらの化石は前期更新世にさかのぼり、頭蓋・下顎・歯の独特な組み合わせを示すことから、ホモ属の新種アンテセッサー(アンテセソール)と分類されました。

 アンテセッサーとユーラシアの前後の時期のホモ属、たとえばジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の185万~176万年前頃の人類、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、現生人類(Homo sapiens)などとの関係は、激しく議論されています。この問題は、更新世の人類化石には断片的なものが多いことと、前期更新世および殆どの中期更新世のDNAが解析されていないため、未解決です。しかし、古代タンパク質の抽出およびタンデム質量分析の近年の発展により、前期更新世の動物遺骸から系統関係を推定できるタンパク質配列情報の取得が可能となりました。

 そこで本論文は、TD6遺跡の人類遺骸(TD6.2)の大臼歯(左側永久歯で第一もしくは第二大臼歯)からタンパク質を解析しました。TD6.2は電子スピン共鳴法とウラン系列法の直接的な年代測定により、年代が949000~772000年前頃と推定されています。また、ドマニシ遺跡の177万年前頃の人類遺骸のタンパク質も解析されました。本論文では、この人類はホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類されていますが、ゲオルギクス(Homo georgicus)という新種のホモ属に分類する見解も提示されています。

 TD6.2とドマニシ人類のエナメル質標本から、古代プロテオーム(タンパク質の総体)が抽出されました。これらのプロテオーム組成は、以前の研究で示された古代エナメル質プロテオームと類似しています。エナメル質固有のタンパク質として、アメロゲニンやエナメリンなどがあります。TD6.2とドマニシ人類のエナメル質タンパク質の脱アミド率は最近のヒト標本より高く、また、両方とも最近のヒトよりもペプチドの平均的長さが短いことから、内在性であると示されます。ペプチドの平均的長は、より古いドマニシ人類の方がTD6.2よりも短いことも明らかになっています。Y染色体固有のペプチドの存在から、TD6.2は男性と推定されています。

 アンテセッサーはTD6遺跡でのみ確認されており、アンテセッサーが現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の最終共通祖先なのか、あるいはその姉妹系統なのか、という問題も含めて、他のヨーロッパの中期更新世人類との関係は激しく議論されています。TD6.2のタンパク質解析は、問題解決の手がかりを提示します。タンパク質解析に基づく系統樹では、アンテセッサーは現生人類・ネアンデルタール人・デニソワ人の最終共通祖先ときわめて近縁な姉妹系統とされます。ただ、エナメル質タンパク質解析では、分類に有用な単一アミノ酸多型の数が少ないため、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の系統関係は解決されない、と本論文は指摘します。じっさい、本論文で分析対象とされた標本のうち、現生人類は単系統群(クレード)を形成するものの、ネアンデルタール人は違います。以下、この系統関係を示した本論文の図2aです。
画像

 頭蓋顔面形態から、アンテセッサーと現生人類やネアンデルタール人との部分的な類似性が指摘されており、アンテセッサーがネアンデルタール人(およびデニソワ人)と現生人類の最終共通祖先である可能性も提示されていました(関連記事)。臼歯に関しては、アンテセッサーとネアンデルタール人との共通の特徴が指摘されています(関連記事)。また、顔面に関しては、アンテセッサーが未成熟個体でも成体でも現代人的な中顔面を示していることから、これは祖先的特徴で、中期更新世のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)やネアンデルタール人のような中顔面は派生的との見解も提示されています(関連記事)。しかし、本論文で示されたタンパク質解析による系統樹では、アンテセッサーは現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の最終共通祖先ときわめて近縁な姉妹系統となるので、こうした現生人類やネアンデルタール人と類似した特徴は、前期更新世人類にすでに出現していた、と示唆されます。また、ネアンデルタール人の頭蓋形態に関しては、祖先的ではなく派生的である可能性が指摘されています。

 ドマニシ人類のタンパク質解析では、平均的なペプチドの長さが短く、中程度の解像度しか得られず、特有の分離した単一アミノ酸多型が欠如しているため、TD6.2も含めての系統樹には明確に位置づけられません。本論文では、ドマニシ人類は現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統にとって、チンパンジーよりもずっと近縁な系統と位置づけられています。177万年前頃のドマニシ人類でもタンパク質解析が可能なことは、すでに明らかになっていたタンパク質解析の威力(関連記事)を改めて示しましたが、一方で、古くなると系統樹における位置づけが難しくなることも確かなので、本論文は現時点での限界を指摘しています。また本論文は、骨格や歯の象牙質よりも歯のエナメル質の方が、プロテオームは長期間保存されやすいことも明らかにしました。現時点では、歯のエナメル質が哺乳類の古代タンパク質解析に最も適していることになります。古代タンパク質解析は、古代DNA解析の困難な地域・年代の動物遺骸でも可能なことから、人類進化史の研究に大きく貢献できそうだと期待されているので、今後もできるだけ最新の研究を追いかけていくつもりです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化:ヒトの歯を手掛かりとした顔の進化の解明

 初期のヒト族種であるホモ・アンテセソールの歯のエナメル質の分析が行われ、ホモ・アンテセソールが、ヒト(Homo sapiens)、ネアンデルタール人とデニソワ人の最終共通祖先と近縁関係にあったことが示唆された。このようなヒト族の進化におけるホモ・アンテセソールの位置づけは、その現代的な顔貌がヒト属の祖先に深く根ざしていることを意味している。このような研究結果が、今週、Nature に発表される。

 ホモ・アンテセソールなどの前期更新世(約250万年〜77万年前)のヒト族種と後代のヒト族種の関係については議論が続いている。ホモ・アンテセソールの現代的な顔貌のいくつかを根拠として、ホモ・アンテセソールがネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先である可能性が提起された。しかし、断片化石による化石記録しかなく、ユーラシアにおける前期更新世と中期更新世のヒト族の古代DNAの復元ができていないため、この問題は未解決のままになっている。

 今回、Frido Welker、Enrico Cappelliniたちの研究チームは、スペインのアタプエルカで出土した(94万9000~77万2000年前の)ホモ・アンテセソールとジョージアのドマニシで出土した(約177万年前の)ホモ・エレクトスの臼歯のエナメル質からタンパク質を抽出した。そして、ホモ・アンテセソールから得られた古代のタンパク質配列に基づく系統発生解析が行われ、ホモ・アンテセソールが、その後の中期更新世と後期更新世のヒト族(現世人類を含む)に近縁な姉妹系統群であることが明らかになった。今回の論文の著者は、以上の知見に基づいて、ネアンデルタール人の頭蓋の形状が原始的なものではなく、派生的なものであると考えている。

 この研究結果は、ホモ・アンテセソールのその他のヒト族集団に対する進化的関係に関する新たな手掛かりをもたらしている。



参考文献:
Welker F. et al.(2020): The dental proteome of Homo antecessor. Nature, 580, 7802, 235–238.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2153-8

200万年前頃のアフリカ南部における3系統の人類の共存(追記有)

 200万年前頃のアフリカ南部における3系統の人類の共存に関する研究(Herries et al., 2020)が報道されました。日本語の解説記事もあります。南アフリカ共和国北東部の世界遺産登録地域では、初期人類化石が豊富に発見されています。その中には、アウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)、アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)、パラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)、早期ホモ属が含まれます。このうち早期ホモ属は同種がアフリカ東部に存在したかもしれませんが、その他の種はアフリカ南部固有です。

 しかし、アフリカ南部の早期ホモ属標本(StW 53やSK 15やSK 847)は断片的なので、アフリカ東部の早期ホモ属との関係は不明です。ホモ属の出現はアフリカ東部において280万年前頃までさかのぼるかもしれない、と指摘されていますが(関連記事)、197万7000年±7000年前頃のアウストラロピテクス・セディバがホモ属の祖先との見解も提示されています(関連記事)。アフリカ南部の早期人類とアフリカ東部の早期人類との比較の難しさは、アフリカ南部の早期人類遺跡の層序の複雑さと、アフリカ東部では利用可能な火山性物質がないことに起因する、年代測定の不確実性に起因します。アフリカ南部でも複数の手法で早期人類の年代が測定されていますが、相互に矛盾することも珍しくありません。

 しかし、この200万年前頃の前後の期間は、アウストラロピテクス属が絶滅し、新たにパラントロプス属とホモ属が出現して、石器と骨器も新たに出現していることと、生態系が変わって動物相にも大きな変化が見られることから、人類進化史においてたいへん注目されます。本論文は、この世界遺産登録地域のドリモレン(Drimolen)古洞窟遺跡群を対象に、流華石のウラン・鉛年代測定と、歯のウラン系列電子スピン共鳴(US-ESR)年代測定と、堆積物の古地磁気を組み合わせて、この重要な時期のより正確な推定年代を提示しています。

 本論文は、ドリモレン遺跡で発見された部分的な人類頭蓋2点(DNH 134およびDNH 152)を分析しました。DNH 134は融合の状態から2~3歳の未成体と推測されています。DNH 134の頭蓋容量は514~564㎤と推定されており、アウストラロピテクス属との比較では、成体の上限と重なりますが、未成体の範囲を明確に超えます。DNH 134が成体まで成長した場合の推定脳容量は、ヒトを基準にすると588~661㎤、チンパンジーを基準にすると551~577㎤です。DNH 134の頭蓋冠は長くて低く、形態学的にはホモ・エルガスター(Homo ergaster)を含む広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)と明確な類似性を共有しており、とくに、ジャワ島東部のプルニン(Perning)遺跡のモジョケルト(Mojokerto)で発見されたエレクトス頭蓋と全体的によく類似しています。

 DNH 152頭蓋には4本の歯も保存されており、その形態からパラントロプス・ロブストス(Paranthropus robustus)に分類されます。また、ロブストスでの使用が確認されている骨器も発見されました。流華石のウラン・鉛年代測定と、歯のUS-ESR年代測定と、堆積物の古地磁気の組み合わせから、ドリモレン遺跡の年代は204万~195万年前頃と推定されます。ドリモレン遺跡の動物相の分析から、この期間に生態系変化が見られ、在来のアフリカ南部種は絶滅していき、ホモ・エレクトスも含むかもしれない新たな種がアフリカの他地域から移動してきた、と推測されています。

 アフリカ南部におけるアウストラロピテクス属の下限年代は、マラパ(Malapa)で200万年前頃(セディバ)、スタークフォンテン(Sterkfontein)では207万年前頃(アフリカヌス)です。アウストラロピテクス属は、アフリカ東部で絶滅してから約50万年間、アフリカ南部で存続しました。これまで、ホモ属とパラントロプス属の出現年代が曖昧だったため、アフリカ南部においてこれら2属とアウストラロピテクス属とが共存していたのか、不明でした。しかし本論文は、195万年以上前のDNH 152はアフリカ南部における最古のパラントロプス・ロブストスとなり、それよりもやや古いDNH 134はアフリカ南部で最古のホモ属となることを明らかにしました。アフリカ南端において、200万年前頃には、アウストラロピテクス属とパラントロプス属と早期ホモ属が共存していたわけです。ただ、これら3属がじっさいに遭遇したのか、確証はありません。

 DNH 134は、広義のホモ・エレクトスとして最古級となりそうなジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の人類遺骸よりも少なくとも10万~15万年は古く、現時点では最古となる広義のエレクトス化石です。ただ本論文は、アフリカ東部における280万年前頃のホモ属の出現を指摘する見解も考慮して、広義のホモ・エレクトスがアフリカ南部で進化した、との見解には慎重な姿勢を示しますが、エレクトスのアフリカ外における進化の可能性は低くなった、と指摘しています。

 アウストラロピテクス・セディバは、ホモ属の祖先である可能性も指摘されていますが、本論文は、セディバがDNH 134よりも前に出現していた場合のみにその可能性が残る、と指摘します。また本論文は、セディバに関して異なる可能性も提示しています。それは、セディバのホモ属的特徴は、アフリカ南部の地域的な環境圧への適応としてのアウストラロピテクス・アフリカヌス(Australopithecus africanus)からの収斂進化だったかもしれない、という仮説です。

 それはともかくとして、200万年前頃の前後数十万年間のアフリカ南部における環境変化により、アウストラロピテクス属は絶滅し、ホモ属とパラントロプス属の系統が進化していきました。この気候変動は地球規模で起きており、300万~250万年前頃の急速な寒冷化と、熱帯気流および降雨パターンと関連する200万~150万年前頃に始まったウォーカー循環です。人類の進化に関しては、長期的な乾燥化の影響を受けている、との見解もありますが、短期間のきょくたん気候変動を重視する見解もあります。アフリカ南部の動物相化石の研究からは、230万~200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があった、と指摘されています。アウストラロピテクス属の絶滅が生物学的もしくは行動学的適応の結果なのか、ホモ属およびパラントロプス属との競合のためなのか、まだ確定していませんが、アフリカ南部におけるこれら3属の共存が確定したことから、その可能性はある、と本論文は指摘します。

 本論文は、アフリカ南部における200万年前頃のアウストラロピテクス属とパラントロプス属と早期ホモ属の共存(上述のように、これら3属がじっさいに遭遇したのか、確証はありませんが)を明らかにした点で、たいへん注目されます。本論文が指摘するように、広義のホモ・エレクトスがアフリカで進化した可能性は高いものの、それが現時点では最古となる広義のエレクトスであるDNH 134が出現したアフリカ南部ではなく、アフリカの他地域、とくに東部であった可能性は低くないように思います。おそらく、ホモ属の起源はアフリカ東部で、広義のエレクトスも東部で進化し、そこから南部も含めてアフリカの他地域に拡散したのでしょう。この拡散には、気候変動も大きく関わっていると考えられますが、本論文が指摘するように、長期的な寒冷化・乾燥化というよりも、短期的な気候変動の激しさが選択圧となり、それがアウストラロピテクス属絶滅の要因だったのかもしれません。この気候変動に上手く対処できたのがパラントロプス属と早期ホモ属で、アウストラロピテクス属はそうではなかった、というわけです。

 本論文の見解は、パラントロプス属をめぐる議論(関連記事)との関連でも注目されます。日本ではよく「頑丈型猿人」と呼ばれるパラントロプス属はアフリカでのみ確認されており、東部のエチオピクス(Paranthropus aethiopicus)とボイセイ(Paranthropus boisei)および南部のロブストス(Paranthropus robustus)の3種に分類されています。エチオピクスは270万~230万年前頃、ボイセイは230万~140万年前頃、ロブストスは180万~100万年前頃に存在し、身長は110~140cm、脳容量は500ml程度と推定されています(Lewin.,2002,P123)。本論文は、ロブストスの年代が195万年以上前にさかのぼることを明らかにしました。

 これら3種のパラントロプス属については、アファレンシス(Australopithecus afarensis)やアフリカヌスなどと同じくアウストラロピテクス属とする見解も提示されており、分類をめぐって見解が一致しているとは言えない状況です。さらに、エチオピクスからボイセイとロブストスが派生したとの見解が一般的には有力ですが、アフリカ南部のアウストラロピテクス・アフリカヌス→ロブストスの系統と、アフリカ東部のアウストラロピテクス・アファレンシス→エチオピクス→ボイセイの系統に分かれる、との見解もあります(諏訪.,2006)。つまり、一般的にパラントロプス属と分類されている3種は単系統群を形成しないかもしれない、というわけです。もしそうならば、少なくとも、これら3種を包含したパラントロプス属という単系統群(クレード)は成立しません。

 しかし、本論文が指摘するように、230万~200万年前頃にアフリカ南部で大きな生態系と動物相の変化があり、広義のホモ・エレクトスもこの期間にアフリカの他地域、おそらくは東部から南部に拡散してきたとすると、ロブストスがエチオピクスから派生した一部系統で、東部から南部に拡散してきた、とも考えられます。そうすると、パラントロプス属は単系統群として成立するわけですが、この問題に関しては、やはり形態学が重要になるので、今後の研究の進展と新たな化石の発見が期待されます。また、近年飛躍的に発展しつつあるタンパク質解析では、200万年以上前の個体でも可能であることから(関連記事)、こちらがアフリカの前期更新世の人類の系統関係を解明できる可能性もあり、大いに期待されます。


参考文献:
Herries AIR. et al.(2020): Contemporaneity of Australopithecus, Paranthropus, and early Homo erectus in South Africa. Science, 368, 6486, eaaw7293.
https://doi.org/10.1126/science.aaw7293

Lewin R.著(2002)、保志宏訳『ここまでわかった人類の起源と進化』(てらぺいあ、原書の刊行は1999年)

諏訪元(2006)「化石からみた人類の進化」『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(岩波書店)


追記(2020年4月7日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

大河ドラマ『麒麟がくる』第12回「十兵衛の嫁」

 今回は、明智光秀(十兵衛)の結婚と織田信秀の死が描かれました。本作では駒と帰蝶という光秀に想いを寄せる女性二人がすでに登場しているので、煕子が霞んでしまうのではないか、と懸念されたのですが、駒と帰蝶が強さと激しさも備えているのに対して、煕子は今のところ、そうした側面をあまり出しておらず、優しさと穏やかさを前面に出した感じで、それが却ってキャラ立ちになっており、存在感の点では問題ないのかな、と思います。土岐頼芸に暗殺されかけた斎藤利政(道三)は激昂し、息子の斎藤高政(義龍)と家臣たちを集め、頼芸との決別を告げます。ところが高政は光秀に、父の利政をともに倒そう、と誘います。

 将軍の足利義輝の仲介により今川と講和した信秀は死期を悟り、居城の末盛城を息子の信勝に譲る、と宣言します。三河に近く重要拠点の末盛城が信勝に与えられることに信長は強い不満を抱きます。信長は今川との講和など自分の功績を認めない父の信秀と、その背後にいる母親への恨み言を帰蝶に打ち明けます。信長はすでに妻の帰蝶を信用しているようです。病床の信秀は自分を訪ねてきた帰蝶に、信長のことを託します。帰蝶は、信秀が信長を認めて愛していると嘘をついてまで信長を励まし、愛情に飢えていた信長は喜びます。ここは、両親からり愛情に飢えているという設定を活かした、なかなか上手い創作だと思います。この設定が、信長の勢力拡大とともにどう活かされるのか、楽しみです。本能寺の変も、この設定と関わるのでしょうか。

『卑弥呼』第37話「真の歴史」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年4月20日号掲載分の感想です。前回は、体の左半分側のみ刺青の入れられたナツハという少年が、狼とともに登場したところで終了しました。今回は、霊霊(ミミ)川(現在の宮崎県を流れる、古戦場で有名な耳川でしょうか)河口で、イクメが日見子(ヒミコ)たるヤノハに、穂波(ホミ)と都萬(トマ)の関係を説明している場面から始まります。都萬と穂波は国境を接しておらず、霊霊川流域が緩衝地帯になっています。サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の日向(ヒムカ)は都萬も含んでおり、サヌ王が東方に向かった後で独立しました。穂波はそれに反対し、両国は百年争った後に霊霊川流域の立派な建物で和議を結び、霊霊川流域が緩衝地帯とされました。その建物は、元々サヌ王が東征するさいに建てた本陣でした。これまで、旧国名では都萬が豊後、穂波が豊前と考えていたのですが、都萬は豊後南部の一部から日向(ヒュウガ)北部、穂波は豊前と豊後の大半で、日向(ヒムカ)は日向(ヒュウガ)南部と大隅の一部のようです。

 そこへ日向の邑に鉄を届けていたヌカデが到着し、猿女(サルメ)一族の阿禮(アレイ)を同行させた、と報告します。猿女は、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)とは異なる祭神である天宇賣命(アメノウズメノミコト)を祖とする巫女集団で、種智院とは異なる口伝を記憶する一族だ、とイクメとヌカデがヤノハに説明します。その説明を聞いて面白いと思ったヤノハは、阿禮と会って猿女一族に伝わるサヌ王の物語を聞きます。サヌ王は間違いなく日見彦(ヒミヒコ)でしたが、その兄のイツセ王はたいへんな暴君で、凶王と言われていました。イツセ王は筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)を統べるため、各王の妃を奪い、自らの子を産ませました。イツセ王はさらに、敵対する国の邑々を焼き払い、妊娠中の女性の腹を裂いて中を見て笑い、人を木に登らせて弓で射落とし女性を裸にして犬との性交を強要しました。これに対して筑紫の王たちは密かに集まり謀議を巡らせ、サヌ王とイツセ王とイナイ王とミケイリ王の兄弟全員を招き、宴を催しました。猿女一族もその宴に加わり、盛り上げるため裸で舞ったそうです。筑紫の王たちは、サヌ王とその兄弟4人を酔わせ、筏に身体を括りつけ、海に流しました。サヌ王は望んで東方への遠征に向かったのではなく、追放された、というわけです。海に漂うサヌ王は、我々は東の国々を平定して筑紫島に再臨する、その時はお前たちの歴史をすべて、我々勝者の歴史に塗り替える、と呪いの言葉を残したそうです。では、いずれ来るサヌ王一族の復讐に備えねばならないな、と言うヤノハに、脅威は筑紫島に潜むサヌ王の残党だ、と阿禮は忠告します。この追放から何百年も経っても、残党は、日向と都萬はもちろん、筑紫島の全ての国に潜んでいる、と言われているそうです。つまり、新たに建国された山社(ヤマト)にもいるのか、とヤノハは言います。

 霊霊川河口の建物では、恋仲のミマアキとクラトが共に夜を過ごしていました。近くの邑の日守りの預言通り、雲が出てきて雨になりそうでした。明日は百名の邑長が集まってくるので、雨だと何かと大変だ、とクラトは呟きますが、我々一族にとっては悪天候の方が好運と言われている、とミマアキは言います。ミマアキの一族の主神は雷、つまり建御雷(タケミカヅチ)です。クラトの一族の主神は、伊弉諾命(イザナギノミコト)と伊弉冉命(イザナミノミコト)の孫である国之闇戸神(クニノクラトノカミ)です。そう聞いたミマアキは、我々の一族より由緒正しい家だ、と言います。ミミズクの声が聴こえてきて、ミマアキはもう寝よう、とクラトに促しますが、クラトはもう一度見回りに行く、と言って外出します。ミマアキはそんなクラトを、どこまでも日見子(ヤノハ)様の忠臣と思っていました。クラトは大木にて、その陰に隠れている人物と密会します。ミミズクの声が合図だったのでしょうか。この人物はクラトに、天子の勅使からの指顧だ、と言います。それが誰なのか、ミマアキは問い質しますが、木陰に隠れた人物は、今は言えない、と答えます。その人物はクラトに、時は来た、明日決行せよ、と伝えます。クラトは、日見子(ヤノハ)を殺せという命令だな、と理解します。

 翌日、大雨と落雷のなか、日向の邑々の長が霊霊川河口の建物に集まり、日見子たるヤノハに謁見しました。ヤノハは邑長たちに、ここに集まった長の邑人たちはすべて我が臣民たる山社の民である、と宣言します。邑長たちは平伏し、口々に感謝と畏敬の念を示します。ヤノハは邑長たちに鉄を受け取り、まずは農具を作り、次に与える鉄は武器とするよう、指示します。その時、邑長もしくは邑長を装っていた男性二人がヤノハに斬りかかります。そのうち一人はミマアキが斬り殺しますが、もう一人はヤノハに近づき、剣を振り下ろすところまでいきますが、寸前でクラトが抑えます。ヤノハはクラトに、刺客の男性を殺すな、と命じます。その頃、穂波の国では重臣のトモがその家臣らしき男性と話していました。首尾よくいけば、今頃日見子(ヤノハ)は古のサヌ王の呪いのもと隠れるだろうか、と尋ねられたトモは、あの程度の刺客で日見子が死ぬとは思えない、と答えます。クラトが賢ければ日見子を助け、刺客の一人を生かすはずだが、その理由はいずれ分かる、とトモは家臣らしき男性に説明します。クラトに助けられたヤノハがクラトを褒め、クラトが意味深で誇っているような表情を浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、ひじょうに重要な歴史的情報とともに、クラトが裏のある人物であることも明かされ、歴史ミステリーとしてもサスペンスとしてもひじょうに面白くなっていました。ヤノハが簡単に騙されるとも思えず、今後の展開がひじょうに楽しみです。猿女一族の阿禮が語ったサヌ王一族の話は、種智院で語られてきた話と大きく異なります。阿禮の話の方が真相に近いと確定したわけではありませんが、これまでの情報と整合的なのは阿禮の話だと思います。種智院では、サヌ王が東方遠征を決意したのは天照大御神の神託のためと語られていましたが、四兄弟全員が領地の日向を捨てて東方に向かい、サヌ王の血筋以外の者が日向を治めようとするなら恐ろしい死がくだる、という呪いをサヌ王がわざわざかけた理由を、どうもよく理解できませんでした。しかし、サヌ王を含む四兄弟が追放され、筑紫島の諸国にクラトやトモのようなサヌ王一族の残党が潜んでいるのだとすると、各国の重臣もしくは王自身がサヌ王一族の残党かもしれないわけで、サヌ王の呪いの意味と、暈でさえ日向を領有しようとしない理由も了解されます。イツセ王が暴君だったことも、倭国大乱は鉄を巡る利権でも、那と伊都の意地の張り合いでもなく、日見子・日見彦を擁する国の王が倭統一の欲望を抱くからだ、とのミマト将軍に対するヤノハの説明(第14話)と整合的です。

 サヌ王を含む四兄弟は筏に身体を括りつけられ、海に流されたそうですが、おそらくは筑紫島にいるサヌ王の残党に助けられたのでしょう。その後、サヌ王の一族がどうなったのか、現在も健在なのか、まだ明かされていません。しかし、追放から何百年筑紫島にもまだ残党が潜んでいるくらいですから、東方のどこかにサヌ王の一族は国を建て、勢力を拡大しているのでしょうか。現時点では紀元後207年頃のようですから、気になるのはやはり奈良県の纏向遺跡で、本作でどのような年代観が採用されているのか不明なので、207年頃の纏向遺跡の規模はよく分からないのですが、サヌ王の一族は纏向遺跡とその周辺に確たる勢力を築き、やがてヤノハを日見子(卑弥呼)としてまとまるだろう山社国(邪馬台国)連合と対峙するのでしょうか。あるいは、山社国連合と纏向遺跡のサヌ王の一族が和議を結び、山社国は東遷して纏向遺跡がさらに発展し、後のヤマト王権につながる政治勢力が確立する、という話になるのかもしれません。歴史ミステリーとしてもサスペンスとしてもひじょうに面白くなってきたので、できるだけ長く連載が続いてほしいものです。なお、とくに予告はありませんでしたが、残念ながら次号は休載のようです。

オーストラリアの始新世の琥珀に含まれる動植物

 オーストラリアの始新世の琥珀に含まれる動植物についての研究(Stilwell et al., 2020)が公表されました。この研究は、マッコーリー湾累層(オーストラリアのタスマニア島西部)から出土した始新世初期(5400万~5200万年前頃)の琥珀片と、アングルシー夾炭層(オーストラリアのビクトリア州)から出土した始新世中期末(4200万~4000万年前頃)の琥珀片を5800点以上調べ、交尾中の2匹のアシナガバエ科昆虫の珍しい「すくみ行動」について報告しています。

 この他に、ゴンドワナ大陸(現在の南アメリカ・アフリカ・マダガスカル・インド・南極・オーストラリアから構成される超大陸で、約2億年前にパンゲア超大陸から分離しました)南部に由来する最古のアリの化石や、オーストラリアで初めて発見された、ひじょうに小さな無翅の六脚亜門アヤトビムシ科昆虫「スレンダー・スプリングテール」などの化石標本もありました。また、若いクモの集団、ヌカカ、ゼニゴケ2種とコケ種2種も琥珀の中に保存されていました。

 この研究は、オーストラリア南東部・タスマニア島・ニュージーランドで発見された堆積物も調べました。その中には、パンゲア大陸南部に由来する既知の最古(2億3000万年前頃)の琥珀、南極点近くの森林で見つかった9600万年~9200万年前頃の堆積物、5400万~5200万年前頃のフェルトスケールという名のフクロカイガラムシ科昆虫の完全な化石が含まれています。この研究で得られた知見は、ゴンドワナ大陸南部に存在していた生物の生態と進化に関する新たな手がかりをもたらし、今後もオーストラリアとニュージーランドにおける同様の発見の可能性がひじょうに大きいことを示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:地球の南端にいた古代生物の生態を解明する手掛かりとなる化石の宝庫

 ゴンドワナ大陸南部に由来する琥珀の中に保存されていた動物と植物が、これまでに発表されたものの中で最も古いことを報告する論文が、今週、Scientific Reports に掲載される。ゴンドワナ大陸は、南米、アフリカ、マダガスカル、インド、南極、オーストラリアからなる超大陸で、約2億年前にパンゲア超大陸から分離した。今回の研究で得られた知見は、現在のオーストラリアとニュージーランドにあたる地域に三畳紀後期から古第三紀中期(2億3000万年前〜4000万年前)に存在していた生物の生態に関する理解を深めている。

 今回、Jeffrey Stilwellたちの研究チームは、マッコーリー湾累層(オーストラリアのタスマニア島西部)から出土した始新世初期(5400万~5200万年前)の琥珀片とアングルシー夾炭層(オーストラリアのビクトリア州)から出土した始新世中期末(4200万~4000万年前)の琥珀片を5800点以上調べた。この論文では、交尾中の2匹のアシナガバエ科昆虫の珍しい「すくみ行動」について報告されている。この他に、ゴンドワナ大陸南部に由来する最古のアリの化石やオーストラリアで初めて発見された非常に小さな無翅の六脚亜門アヤトビムシ科昆虫「スレンダー・スプリングテール」などの化石標本もあった。また、若いクモの集団、ヌカカ、ゼニゴケ2種とコケ種2種も琥珀の中に保存されていた。

 Stilwellたちは、オーストラリア南東部、タスマニア島、ニュージーランドで発見された堆積物も調べた。その中には、パンゲア大陸南部に由来するこれまでで最古(2億3000万年前)の琥珀、南極点近くの森林で見つかった9600万年~9200万年前の堆積物、5400万~5200万年前のフェルトスケールという名のフクロカイガラムシ科昆虫の完全な化石が含まれている。

 今回の研究で得られた知見は、ゴンドワナ大陸南部に存在していた生物の生態と進化に関する新たな手掛かりをもたらし、今後もオーストラリアとニュージーランドで同様の発見が得られる可能性が非常に大きいことを示している。



参考文献:
Stilwell JD. et al.(2020): Amber from the Triassic to Paleogene of Australia and New Zealand as exceptional preservation of poorly known terrestrial ecosystems. Scientific Reports, 10, 5703.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-62252-z

福留真紀『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』

 新潮新書の一冊として、新潮社から2014年12月に刊行されました。本書は、室鳩巣の視線を通して、江戸時代中期、6代将軍家宣~8代将軍吉宗の時代までの幕府政治史を検証しています。本書は、将軍個人に仕え、将軍の交代とともに失脚することもある側近と、幕府官僚として将軍が交代しても政権中枢にい続ける老中とを対比させ、この期間の幕府政治史を描いていきます。おもに用いられている史料は、室鳩巣が門人の青地兼山(斉賢)・麗澤(礼幹)兄弟に宛てた手紙を主とする書簡集「兼山秘策」です。

 本書を読んで改めて、将軍側近が政治的には将軍個人に依存し、その威勢が将軍の威光に左右されていたことがよく分かります。間部詮房は家宣とその次代の家継の側近だったものの、老中からの扱いは家継の代になって悪化していき、その影響力は後退していきます。政治運営の面でも主導権を発揮して求心力が強かった家宣の側近だったからこそ、間部詮房は老中に重んじられたのであり、権威のみで政治運営の面でとても主導権を発揮できない幼少将軍の家継の側近となると、いかに家継の信頼が篤かったとはいえ、間部詮房の実質的な政治権力は弱体化せざるを得なかった、というわけです。

 本書は、室鳩巣の視線からの幕府政治の内幕・人間模様・主要人物の個性を活き活きと描き出しているように思います。ただ、人物評価というか価値判断において、倫理的側面が重視されすぎているようにも感じました。もっとも、政治において人々の感情が果たす役割は大きいでしょうから、感情に訴える倫理的側面を重視するのは当然と言えるかもしれません。吉宗の評価がたいへん高いことは気になりましたが、この点に関して私は不勉強なので、一般向け書籍を読み直すなどして、少しずつ調べ直していこう、と考えています。

最古の緑藻類

 最古の緑藻類に関する研究(Tang et al., 2020)が公表されました。光合成を行う緑色植物(緑色植物亜界)は分子時計やバイオマーカー分析により、約25億~16億年前となる古原生代から約7億2000万~6億3500万年前となるクライオジェニアン紀までの間に出現した、と推定されています。しかし、化石証拠が存在しないため、その年代を特定することは困難でした。また、緑色植物が多細胞性を発達させた時期も明らかにされていません。

 この研究は、中華人民共和国遼寧省の約10億年前となる南芬(Nanfen)累層から発見された新種の化石緑藻類(Proterocladus antiquus)を報告しています。この緑藻類新種は、年代が古いにも関わらず、多細胞性・分化して分岐した細胞・根のような構造など、現在の緑藻類と一致する複数の特徴を示しています。この研究は、植物界の分岐が化石による従来の想定よりも早かったという分子時計の推定の証明に役立つ、と結論づけ、古代海洋でのエネルギー捕捉に関する疑問の解決に役立つ可能性も指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


化石:最古の緑藻類が発見された

 約10億年前の岩石から発見されたミリメートルサイズの多細胞緑藻類の化石を記載した論文が、Nature Ecology & Evolution に掲載される。

 光合成を行う緑色植物(緑色植物亜界)は、(分子時計やバイオマーカー分析によって)古原生代(25億~16億年前)からクライオジェニアン紀(7億2000万~6億3500万年前)までの間に生じたと推定されている。しかし、化石証拠が存在しないため、その年代を特定することは困難であった。また、緑色植物が多細胞性を発達させた時期も明らかにされていない。

 Qing Tangたちは、10億年前のNanfen累層(中国遼寧省)から発見された新種の化石緑藻類を発表する。Proterocladus antiquusと命名されたその緑藻類種は、年代が古いにもかかわらず、多細胞性、分化して分岐した細胞、そして根のような構造など、現在の緑藻類と一致する複数の特徴を示している。

 研究チームはP. antiquusの発見について、植物界の分岐が化石による従来の想定よりも早かったことを支持する分子時計の推定を裏付けるのに役立つものだと結論付けている。それは、古代海洋でのエネルギー捕捉に関する疑問の解決に役立つ可能性もある。



参考文献:
Tang Q. et al.(2020): A one-billion-year-old multicellular chlorophyte. Nature Ecology & Evolution, 4, 4, 543–549.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1122-9

外洋捕食魚類が潜んでいる場所

 外洋捕食魚類が潜んでいる場所に関する研究(Roesti et al., 2020)が公表されました。陸上と海洋の生物多様性は、いずれも赤道に向かって増加する傾向があります。しかし、これまでの陸上生態系の研究では、種間の相互作用が赤道付近で最も強いことを肯定する証拠と否定する証拠の両方が見つかっていました。一方、外洋における種間相互作用の地理的変動は、ほとんど解明されていません。この研究は、餌を付けた縄に対する大型捕食魚類(サメ・マグロ・バショウカジキ・マカジキ)の攻撃(9億回以上)を記録した、1960~2014年の遠洋延縄漁のデータセットを解析しました。

 その結果、捕食魚類の攻撃が、赤道付近よりも温帯(南緯・北緯約30~60度の中緯度帯)で頻繁に起こり、このパターンは時がたっても変化せず、4つの海盆の全てで見られた、と明らかになりました。海洋哺乳類・海鳥類・深海魚類がおもな捕食者となる南北の極域に近づくと、外洋性魚類による捕食は再び減少しました。また、捕食魚類の攻撃は、外洋性魚類種の数と負の相関を示しました。これらの知見は、捕食が、赤道付近で最も強く、魚類種の多様性の増加に関連している、という従来の仮説に疑問を呈すとともに、海洋魚類の種分化(別個の新種の形成)の速度が赤道から離れるにつれて増加する、という最近発表された知見を説明する上で役立つかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:外洋の捕食魚類が潜んでいる場所

 サメ、マグロ、バショウカジキ、マカジキなどの大型魚による捕食は、赤道付近よりも温帯海域の方が多いことを報告する論文が、Nature Communicationsに掲載される。この新知見は、捕食が、赤道付近で最も強く、魚類種の多様性の増加に関連しているという従来の仮説に疑問を投げ掛けている。

 陸上と海洋の生物多様性は、いずれも赤道に向かって増加する傾向がある。しかし、これまでの陸上生態系の研究では、種間の相互作用が赤道付近で最も強いことを肯定する証拠と否定する証拠の両方が見つかっていた。一方、外洋における種間相互作用の地理的変動は、ほとんど解明されていない。

 今回、Marius Roestiたちの研究チームは、餌を付けた縄に対する大型捕食魚類の攻撃(9億回以上)を記録した1960~2014年の遠洋延縄漁のデータセットの解析を行った。その結果分かったのは、捕食魚類の攻撃が、赤道付近よりも温帯(南緯・北緯約30~60度の中緯度帯)で頻繁に起こり、このパターンは、時がたっても変化せず、4つの海盆の全てで見られた。海洋哺乳類、海鳥類、深海魚類が主な捕食者となる南北の極域に近づくと、外洋性魚類による捕食は、再び減少した。

 また、捕食魚類の攻撃は、外洋性魚類種の数と負の相関を示した。以上の結果は、海洋魚類の種分化(別個の新種の形成)の速度が赤道から離れるにつれて増加するという最近発表された知見を説明する上で役立つかもしれない。



参考文献:
Roesti M. et al.(2020): Pelagic fish predation is stronger at temperate latitudes than near the equator. Nature Communications, 11, 1527.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15335-4

ヒトの内臓の細菌のDNA

 ヒトの内臓の細菌のDNAに関する研究(Anhê et al., 2020)が公表されました。細菌は、体表の至る所や腸管の中に生息しています。内臓は普通無菌ですが、肥満などの病気では、細菌の断片が腸管から血中に移動し、炎症応答を引き起こすことがあります。しかし、このような細菌断片がどこから来るのか、またこれら断片が組織にどのように分布するのかについて、組織の清浄サンプルを得るのが難しいこともあり、これまで詳細は解明されていませんでした。

 この研究は、減量手術を受けた患者40人から血液・肝臓・3種類の脂肪組織(皮下脂肪・腸間膜脂肪・大網脂肪)のサンプルを集めて、微生物DNAを解析しました。すると、各組織サンプルにみられる細菌の種類や細菌DNAの量に、特異的な違いがある、と明らかになりました。また、2型糖尿病患者20人の脂肪組織には、特有の微生物DNAシグネチャーがある、と明らかになりました。さらに、組織サンプル中から、腸内細菌由来のDNAだけではなく、土壌中や水中に広く見られる細菌由来のDNAも検出されました。これらの知見は、ヒトの内臓が外来の遺伝物質に日常的に曝されていることを示唆しています。

 この研究により、腸以外のヒトの体内に、細菌や細菌DNAがどのように分布しているのか、明らかになりました。サンプル中の細菌が生きているのか、つまり内部組織微生物相を形成できるのか、あるいは組織に含まれるのは細菌DNAの断片なのかを確かめるには、さらなる研究が必要です。微生物DNAがどのようにして組織に到達したのか、すなわち腸外輸送が関わっているのか、あるいは免疫細胞の助けによるのかを明確にするには、今後の研究が必要となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


代謝:ヒトの内臓の細菌を解析

 ヒトの内臓に細菌DNAがどのように分布するかを詳細に解析した報告が、Nature Metabolism に掲載される。

 細菌は、体表の至る所や腸管の中に生息している。内臓は普通は無菌だが、肥満などの病気では、細菌の断片が腸管から血中に移動し、炎症応答を引き起こすことがある。しかし、このような細菌断片がどこから来るのか、またこれら断片が組織にどのように分布するのかの詳細は、組織の清浄サンプルを得るのが難しいこともあって、これまで解明されていなかった。

 今回Andre Maretteたちは、減量手術を受けた患者40人から血液、肝臓、3種類の脂肪組織(皮下脂肪、腸間膜脂肪、大網脂肪)のサンプルを集めて、微生物DNAを解析した。すると、各組織サンプルにみられる細菌の種類や細菌DNAの量に、特異的な違いがあることが明らかになった。また、2型糖尿病患者20人の脂肪組織には、特有の微生物DNAシグネチャーがあることが分かった。さらに、組織サンプル中から、腸内細菌由来のDNAだけでなく、土壌中、水中に広く見られる細菌由来のDNAも検出された。これらの知見は、ヒトの内臓が外来の遺伝物質に日常的に曝されていることを示唆している。

 この研究により、腸以外のヒトの体内に、細菌や細菌DNAがどのように分布しているかが明らかになった。サンプル中の細菌が生きているのか、つまり内部組織微生物相を形成できるのか、あるいは組織に含まれるのは細菌DNAの断片なのかを確かめるには、さらなる研究が必要である。微生物DNAがどのようにして組織に到達したのか、すなわち腸外輸送が関わっているのか、あるいは免疫細胞の助けによるのかを明確にするには、今後の研究が役立つだろう。



参考文献:
Anhê FF. et al.(2020): Type 2 diabetes influences bacterial tissue compartmentalisation in human obesity. Nature Metabolism, 2, 3, 233–242.
https://doi.org/10.1038/s42255-020-0178-9