注意欠陥・多動性障害への選択圧

 注意欠陥・多動性障害(ADHD)への選択圧に関する研究(Esteller-Cucala et al., 2020)が報道されました。ADHDは、注意欠陥・多動性・衝動性を特徴とする一般的な神経発達状態です。ADHDの世界的な有病率は子供と青年において約5%で、成人期まで持続することもよくあります。双生児研究では、ADHDは70~80%の高い遺伝率を示しており、そのかなりの割合は一塩基多型により説明されます。しかし、ゲノムワイド関連研究(GWAS)でADHDと関連する有意な多様体が報告されたのは最近になってからです。ADHDは、精神障害の並存・社会的機能不全・交通事故による負傷・早期死亡などの危険性が高い障害とされています。ADHDは、発症者だけではなく、その家族の生活の質も低下させます。

 そのため、ADHDが現在でも一般的に見られることは、進化的観点からは直観に反しているように思われます。これに関しては、ADHDが攻撃的行動として現れ、現生人類(Homo sapiens)によるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の虐殺をもたらした、つまり現生人類によるネアンデルタール人の置換に有効だった、という理論や、過酷で変化する条件で暮らしていた狩猟採集民においてはADHDの特徴が有利に作用した、という理論や、それとも関連して、定住的な農耕社会ではADHDが不利に作用した、という理論などが提唱されています。ADHDは過去の環境では適応的だったものの、過去1万年の定住的な社会では適応度が下がり、そうした社会的変化は文化的なもので急速だったので、ADHDはまだ淘汰されていない、というわけです。これは、人類は現在の主要な環境にじゅうぶん適応していたわけではなく(ミスマッチ)、それが腰痛や糖尿病など以前にはあまり(もしくはほとんど)見られなかった現代人のさまざまな健康問題を惹起している、というミスマッチ理論的な見解です(関連記事)。ミスマッチ理論に基づくと、ADHD関連遺伝的多様体は更新世において現代よりも高頻度と予測されます。

 また、自然選択に加えて、現代人集団で見られる、ネアンデルタール人や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)からの遺伝子移入も、現代人における一定以上のADHD有病率を説明できるかもしれません。現代人におけるネアンデルタール人由来のアレル(対立遺伝子)の中には、過去には有利であったものの、現代では有害になったものもあり(関連記事)、これもミスマッチ理論で説明できます。本論文は、現代人および古代の現生人類とともに、ネアンデルタール人のゲノムデータも使用して、ADHD関連の遺伝的負荷の進化を経時的に分析します。

 本論文は、ADHDと診断された2万人以上と対照群35000人から構成される最大のGWASメタ分析を利用し、古代型ホモ属と古代および現代の現生人類標本群を用いて、ヨーロッパ人集団のADHD関連アレルを評価します。また本論文は、深層学習分析と、淘汰を受けてきた可能性が高い遺伝子の最近の変化を検出できる単一ヌクレオチド変異濃度得点(singleton density scores)とを組み合わせた近似ベイズ計算により、ADHD関連アレルに選択圧が作用していたことを示します。

 本論文は、新石器時代前(16人)と近東(151人)と新石器時代(84人)の個体群のゲノムデータからそれぞれデータセットを作成し、ADHD関連アレルの平均頻度の経時的な変化を推定しました。その結果、近東と新石器時代のデータセットでは、時間の経過に伴い発症危険性を高めるADHD関連アレルの平均頻度が顕著に低下していき、新石器時代前でも、顕著ではないものの、低下していく傾向が見られました。これに関して、自然選択に加えて、アフリカからの移住の継続によりADHD関連アレルの平均頻度が低下していった、とも考えられます。しかし、アフリカ人の古代標本群ではADHD関連アレルの平均頻度はヨーロッパ人よりも高く、それは現代人のデータセットでも確認されます。

 また本論文は、ヨーロッパにおけるADHD関連アレルの平均頻度の低下が、新石器時代における近東(より具体的にはアナトリア半島)からの移民や、後期新石器時代から青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)起源の集団の移動による希釈では説明できないことを示します。新石器時代の近東(肥沃な三日月地帯)と比較して、旧石器時代ヨーロッパにおいて、ADHD関連アレルの平均頻度は着実に低下しました。また、現代人におけるネアンデルタール人起源の多様体では、ADHD関連アレルが多く見られるので、ネアンデルタール人からの遺伝子移入により発症危険性を高めるような現代人のADHD関連アレルの平均頻度が低下したわけではない、と示されます。

 これらの知見を踏まえると、発症危険性を高めるようなADHD関連アレルの平均頻度が現生人類系統において低下した理由は、上述したネアンデルタール人に対する攻撃性の高さによるものではない、と考えられます。また、ADHDを過去の狩猟採集生活環境と関連させる理論では、新石器時代前におけるADHD関連アレルの平均頻度低下を説明できません。新石器時代における顕著なADHD関連アレル平均頻度の低下を示す本論文の知見は、ミスマッチ理論と適合的ですが、新石器時代標本群のゲノムにおける狩猟採集民系統の量とADHD関連アレル平均頻度との間の負の関連を説明できません。また、新石器時代前からADHD関連アレルの平均頻度低下傾向が見られることをどう説明するのか、という問題が残ります。

 本論文の結果は、ADHDに選択圧が作用している場合、新石器時代革命が転換期だった、との仮説に疑問を呈し、もっと長期にわたるものだった可能性を指摘します。ADHDに対する負の選択圧は現生人類系統において存在していたようですが、その正確な遺伝的および環境的要因はまだ不明である、と本論文は示します。ADHDは、大鬱病性障害や体重や繁殖力との相関も示されており、その中には負の選択だけではなく正の選択もあると考えられ、その進化は単純化できないように思われます。新石器時代は確かに人類史における一大転機でしたが、上部旧石器時代あるいは中部旧石器時代から新石器時代へと続く傾向もあった、と想定しておくべきなのでしょう。


参考文献:
Esteller-Cucala P. et al.(2020): Genomic analysis of the natural history of attention-deficit/hyperactivity disorder using Neanderthal and ancient Homo sapiens samples. Scientific Reports, 10, 8622.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-65322-4

大河ドラマ『麒麟がくる』第20回「家康への文」

 今川が尾張への攻勢を強化している、と明智左馬助(秀満)から報告を受けた明智光秀(十兵衛)は、劣勢の織田方を救うべく、動き出します。今川方の先鋒は松平元康(徳川家康)に任されることになります。1560年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、今川軍がついに尾張に侵攻してきます。帰蝶は光秀からの書状を受け取り、夫の織田信長とともに元康の母・叔父との面会を試みます。元康の母・叔父は織田方に属しており、元康を今川から離反させるよう、書状を送ります。

 今回から家康(元康)が成人役での登場となります。本作における家康の扱いは大きいように見えるので、光秀との関係でひじょうに重要な役割を担う可能性があると思います。やはり、本能寺の変で光秀と関わってくるのでしょうか。さすがに、家康に唆されて光秀が本能寺の変を起こす、という展開にはならないでしょうが。まあ、それはずっと先の話ですから、まずは、菊丸から書状を受け取った元康がどう決断するのか、注目されます。今回は光秀が目立たず、主人公として物足りない感はありますが、まだ事績がほとんど伝わっていない時代なので、こうした狂言回し的な役割でもよいかな、とは思います。

現代人におけるネアンデルタール人由来のプロゲステロン受容体関連遺伝子

 現代人におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来のプロゲステロン受容体(PGR)関連遺伝子に関する研究(Zeberg et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。プロゲステロンは卵巣・胎盤・副腎で産生されるステロイド性ホルモンで、胎盤哺乳類において妊娠・月経周期・性欲・胚形成に関わっています。プロゲステロンは11番染色体のプロゲステロン受容体(PGR)遺伝子にコードされており、子宮内膜で最も高度に発現します。プロゲステロンもしくは合成プロゲスチンの受容体への結合は、子宮内膜を分泌段階に変換し、子宮着床を準備して、妊娠維持を助けます。また、プロゲステロンは妊娠中の乳腺の刺激にも関わっています。プロゲステロンは脳内の神経ステロイドとしても機能しますが、まだあまり理解されていません。

 エクソン4のミスセンス置換(アミノ酸置換をもたらす変異)V660Lと、エクソン7と8の間のAlu挿入を有するPGRの多型多様体は現代人集団で見られ、最大20%の頻度に達します。V660LとAlu挿入を含むハプロタイプは、エクソン5の同義変異H770Hと同様に、早産・卵巣および子宮内膜癌・偏頭痛・子宮内膜症と関連しています。2つの機能的研究は、受容体の多様体の感受性とその安定性に関して、矛盾する結果を提示しましたが、これはおそらく使用された特定の多様体と細胞タイプに起因しています。

 V660Lにおけるバリンからロイシンへの置換は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)とクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)で発見された高網羅率のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)2個体のゲノムにおいてホモ接合性で存在する一方、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)には存在しません。この置換は、南シベリアのアルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人個体の高網羅率のゲノム(関連記事)と、低網羅率の複数のネアンデルタール人ゲノムにも存在します。早産との関連は、ネアンデルタール人に進化的不利益を与えたと示唆されており、なぜ現代人集団で頻度が上昇したのか、疑問が呈されています。本論文は、最近のデータを参照して、ネアンデルタール人のPGRを検証します。

 V660L多様体は、ヨーロッパ人とアメリカ大陸先住民とアジア人の一部で2~22%の頻度で存在し、ヨーロッパではおおむね同じ頻度でやや高く、アメリカ大陸先住民では頻度の差が大きく、アジア東部では低頻度なのが特徴です。V660L多様体は、ネアンデルタール人から現生人類へ遺伝子移入された少なくとも56000塩基対のDNA領域上に位置します。V660Lに加えて、ネアンデルタール人ハプロタイプには、H770H同義多様体とS344Tミスセンス多様体があり、両者はネアンデルタール人では多型ですが、デニソワ人の高網羅率ゲノムには存在しません。Alu配列はネアンデルタール人のハプロタイプに組み込まれていますが、V660LはAlu挿入と完全には共分離していません。

 Alu配列がある場合とない場合のネアンデルタール人ハプロタイプは、非アフリカ系現代人の全ての主要集団に存在します。これは、Alu挿入がネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の後で早期に起きたか、もしくはネアンデルタール人の間で多型だったことと、少なくとも2つのネアンデルタール人のハプロタイプが現生人類へと伝わったことを示唆します。Alu挿入がネアンデルタール人の間で多型だったのか決定するため、Alu挿入部位に近接する高網羅率のネアンデルタール人3個体のゲノムデータが分析されました。その結果、チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人個体のゲノムでは、Alu配列がホモ接合性で存在する、と示唆されます。デニソワ洞窟の12万年前頃のネアンデルタール人個体のゲノムでは、Alu挿入がヘテロ接合性で存在する、と示唆されます。したがって、ネアンデルタール人のPRGハプロタイプには、Alu配列の有無で2つの多様体が存在し、ともに現生人類の遺伝子プールに導入されました。

 古代の現生人類ゲノムデータが増加するにつれて、現生人類における経時的な遺伝子多様体の頻度の変化を追跡することが可能になってきています。ネアンデルタール人由来のV660L多様体を有する最古の現生人類個体は、4万年前頃となる北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の男性個体です。ネアンデルタール人由来のV660L多様体はウラル山脈西方のいくつかの更新世個体に存在し、その後は次第にユーラシア西部で一般的になっていきます。アジア東部人類集団の利用可能な古代ゲノムが増加すれば、この増加がアジア東部でなぜ見られないのか、解明できるかもしれません。

 ネアンデルタール人のハプロタイプが現代人の保有者の表現型に影響を与えているのかどうか決定するため、英国バイオバンクの452264人のV660L多型と表現型の間の関連が調べられました。妊娠・出産・産褥に関連する22の入院診断症状のうち、ネアンデルタール人アレル(対立遺伝子)と妊娠早期の出血との間に負の関連が見られました。また、ネアンデルタール人のアレルの保有者は、流産が少なくなっています。また、繁殖能力の代用としてキョウダイの数を用いるネアンデルタール人のV660Lアレルを有する個体群では、祖先的アレルの個体群よりも多くの子供を有する、と示唆する結果が得られました。これらの知見は、PGRのネアンデルタール人の多様体が繁殖能力増加と関連している、と示唆します。

 V660LがPGRの発現に影響を与えるのか、調べられ、V660Lがプロゲステロン受容体のより高いmRNA発現と関連している、と明らかになりました。経口投与されたプロゲステロンは、自然流産の割合を減らし、妊娠初期の出血と流産の再発を経験した女性の繁殖力を改善する、と示されてきました。妊娠の維持におけるプロゲステロンの役割を考えると、ネアンデルタール人のPGRハプロタイプのいくつかの効果、とくにプロゲステロンのより高い発現は、繁殖力(妊孕性)増加との関連と、ヨーロッパおよびアメリカ大陸において時間の経過とともにこのハプロタイプ頻度が上昇したように見える理由を説明するかもしれません。この頻度増加は、明らかに早産との関連と矛盾します。しかし、ネアンデルタール人のPGR多様体には、それがなければ終わってしまうだろう妊娠を維持しているかもしれません。現代人に見られるネアンデルタール人由来のPGR多様体は、他のネアンデルタール人由来の多様体の約10倍になるという点からも、現生人類において一定以上適応度の向上をもたらしてきた、と考えられます。

 PGR多様体のネアンデルタール人タイプがネアンデルタール人に選択的不利益をもたらした、と推定する根拠もないようで、より多くの出生数との関連は、これらの派生的変化のいくつかが、ネアンデルタール人で高頻度もしくは固定されていたように見える理由を説明するかもしれません。しかし、おそらくは現生人類と比較して、ネアンデルタール人の有効人口規模は小さく、それがネアンデルタール人における選択の有効性を減少させたかもしれません。最近の研究では、現代人の表現型におけるネアンデルタール人の遺伝的影響はひじょうに小さい、と示唆されていますが(関連記事)、中には、一定以上適応度の向上をもたらしたものもあった可能性は高そうです。


参考文献:
Zeberg H, Kelso J, and Pääbo S.(2020): The Neandertal Progesterone Receptor. Molecular Biology and Evolution.
https://doi.org/10.1093/molbev/msaa119

古松崇志『シリーズ中国の歴史3 草原の制覇 大モンゴルまで』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年3月に刊行されました。本書はおもに、紀元後4~14世紀のユーラシア内陸部東方を対象としています。比較的乾燥した「中央ユーラシア」は、文字記録の多く残るアジア東部および南西部やヨーロッパよりも軽視されてきたところがありますが、前近代、とくに海域交流が比重を増してくる16世紀以前において、世界を結びつける枢要な位置を占めており、歴史上ひじょう重要な地域でした。

 本書は、中央ユーラシア史を踏まえつつ、それを東アジア史・中国史と接合すべく、「ユーラシア東方」という概念を提示し、ユーラシア東部の乾燥地帯勢力の推移と農耕を主要な基盤とする中華王朝との攻防という南北構造を提示するとともに、草原を中心とする乾燥地帯勢力がしばしば農耕社会を征服して統治したことも重視しています。中央ユーラシアの観点からは、ヨーロッパも視野に入れた東西の交流が注目されますが、本書は中央ユーラシアにおける東西のみならず南北の交通路も重視しています。これは、北の草原地帯と南のオアシス地帯もしくは農耕地帯との交通路です。

 ユーラシア東方草原地帯の諸勢力は、部族の連合体的性格が強いため、強力な指導者の下では短期間で勢力を拡大するものの、優秀な指導者がいなければ、短期間で崩壊してしまう危険性を孕んでいます。その点で本書が画期として重視しているのはキタイ(契丹、遼)で、君主(カガン)直属の軍事力を強化するとともに、軍事力の核となる遊牧社会と経済力の核となる農耕社会を共存させたうえで統治する機構を整備し、後の遊牧社会を基盤とする巨大国家の先駆けとなりました。また本書は、キタイと北宋との澶淵の盟が100年に及ぶ長期的な和平をもたらしたことも重視しています。こちらも、この後のユーラシア東方の国家間の関係の先例となっていきました。また本書は、澶淵の盟の源流として、けっきょくは和平に至らなかったものの、キタイと沙陀勢力(李克用)との交渉を挙げています。

 モンゴル帝国も、キタイに始まる遊牧社会と農耕社会の両方を統治するユーラシア東方大勢力の一つと言えますが、本書は、その版図の各大規模が破格だったことと、有力者の縁故だけではなく、個人的能力・才覚も重視され、出身による区別・差別が希薄だったことを特徴として挙げています。またモンゴル帝国は、版図を拡大する過程で自分たちの信仰とは異なる異質の宗教に接していきましたが、特定の宗教に肩入れする姿勢は希薄でした。しかし、統治のために有力な宗教勢力に特権と自治を認めたことで、モンゴル帝国の支配地では政権とつながりのある特定の指導者を中核とする教団化・集権化が進展し、結果としてユーラシア各地宗教勢力が再編されていきました。

ヒトゲノム多様体のカタログ

 ヒトゲノム多様体のカタログに関する4研究が公表されました。ゲノムデータを集約したデータベースである「Genome Aggregation Database(gnomAD)」に、ヒトの遺伝的多様体の公開カタログとして既知では最大のものが登録されました。この大きな標本規模により、個人間の一塩基多様体(SNV)だけではなく、50以上のヌクレオチドで構成されたより複雑な構造多様体トのカタログ作成も可能になりました。このカタログは、ヒトの遺伝子の機能に関する理解を深め、新たな疾患関連遺伝子を発見するための情報源となります。また、これらの研究は、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類(Homo sapiens)との違いといった、現代人の進化史の解明にも大きく貢献しそうという点でも、注目されます。

 ヒトゲノムを構成する遺伝子の大部分は、機能が明らかになっていません。遺伝子の機能を探索する方法の一つは、変異により遺伝子の機能が破壊された時に何が起こるのか、観察することです。こうした遺伝的多様体は通常、有害な結果をもたらすことが多く、その発生頻度は非常に低い、と推測されています。大規模な遺伝子の塩基配列解読研究は、この機能喪失型多様体の影響を調べる機会となり、その結果、ヒトの生物学的特性と疾患に関する重要な手掛かりが得られるかもしれません。

 141456人を対象とした研究(Karczewski et al., 2020)では、多様体の多様性から変異制約スペクトラムが定量化されました。タンパク質コード遺伝子を不活性化する遺伝的多様体は、遺伝子が破壊された結果生じる表現型に関する強力な情報資源です。生物の機能に重要な遺伝子であれば、そのような多様体は自然集団の中で失われますが、必須でない遺伝子はそうした多様体の蓄積を許容する、と予測されます。しかし、予測される機能喪失多様体には多数のアノテーションエラーが含まれており、見つかる頻度は極めて低い傾向にあるため、それらの解析には多様体の慎重なアノテーションと非常に大きな標本規模が必要となります。この研究は、ヒトの塩基配列解読研究で得られた125748のエキソームと15708のゲノムを集積して構築したgnomADについて報告しています。このコホートから、塩基配列解読やアノテーションのエラーにより生じたアーティファクトをフィルタリングした後、443769個の高信頼度の予測される機能喪失多様体が特定されました。この研究は、ヒト変異率の改良型モデルを用いて、ヒトのタンパク質コード遺伝子を、不活性化に対する許容性を示すスペクトルに沿って分類し、この分類をモデル生物とヒト改変細胞からのデータにより検証しました。これは、ヒトの予測される機能喪失多様体の全てを突き止めるという目標には遠く及ばないものの、ありふれた疾患と稀な疾患の両方の遺伝子の検出力を改善できる、と示しています。

 433371の構造多様体(SV)のカタログを作成した研究(Collins et al., 2020)では、生理的特徴に対するその影響が解析されました。SVはDNAの大きな断片を再配列させ、進化やヒト疾患に重大な結果を引き起こす可能性があります。国立バイオバンクや疾患関連研究や臨床遺伝学的検査のゲノム塩基配列解読への依存が増すにつれて、gnomADなどの集団参照データセットが一塩基多様体(SNV)の解釈に不可欠になっています。しかし、高網羅率のゲノム塩基配列解読から得られたSVの参照マップで、SNVの参照マップに匹敵するものはありません。この研究は、gnomADにおける全世界のさまざまな集団(54%が非ヨーロッパ人)の14891のゲノムから構築した、塩基配列が解読されたSVの参照データセットを示します。この研究は、433371のSVの豊かで複雑な全体像を明らかにし、そこからSVがゲノム当たりの稀なタンパク質短縮の全事象の25~29%の原因である、と推定しました。機能を損なうSNVに対する自然選択と、タンパク質をコードする塩基配列を破壊あるいは重複させる稀なSVとの間には強い相関が見られ、これは、機能喪失に対して非常に耐性の低い遺伝子が遺伝子量の上昇にも敏感である、と示唆しています。また、タンパク質を短縮させるSVに対する選択は全てのノンコーディング効果よりも強力でしたが、シス調節エレメントのノンコーディングSVに対するそれほど大きくない選択も明らかになりました。さらに、標本の3.9%に非常に大きな(1メガ塩基を超える)稀なSVが特定され、0.13%の人が臨床的に重要な偶発的所見の既存の基準を満たすSVを保有している、と推定されました。このSV情報資源は、gnomADブラウザを介して自由に利用でき、集団遺伝学や疾患関連研究や診断スクリーニングにおいて広く役立つでしょう。

 RNA発現データを用いた研究(Cummings et al., 2020)では、多様体解釈の指針が得られることを報告しています。患者や集団研究の試料におけるDNA塩基配列解読が加速した結果、ヒトの遺伝的多様性についての広範なカタログが作成されるようになりましたが、稀な遺伝的多様体の解釈については、まだ問題があります。この難題の注目すべき一例は、一見すると健康な人においてさえも、遺伝子量感受性の疾患遺伝子に破壊的な多様体が存在することです。この研究は、gnomADにおいてハプロ不全疾患遺伝子の予測される機能喪失(pLoF)多様体を手作業でキュレーションすることにより、この矛盾の説明の一つが、mRNAの選択的スプライシングに関係していることを示します。遺伝子のエキソンは、こうしたmRNAの選択的スプライシングにより異なるタイプの細胞においてさまざまなレベルで発現することができます。現在、エキソン発現についての情報を多様体の解釈に系統的に組み込むアノテーションツールは存在しません。この研究は、多様体に対してアイソフォームの発現を定量化する、「転写産物全体での発現の割合(proportion expression across transcripts)」として知られる転写産物レベルのアノテーション測定基準を開発しました。本論文は、この測定基準を、遺伝型組織発現(GTEx)プロジェクトの11706の組織試料を用いて計算し、機能の重要性の代理指標となる、進化的な保存の程度が低いエキソンと高いエキソンを区別できる、と示します。発現を基盤とするアノテーションは、gnomADのハプロ不全疾患遺伝子に見られる誤ってアノテーションされたpLoFバリアントの22.8%を選択的に除外しますが、同じ遺伝子の高信頼度の病原性多様体は4%未満しか除外しない、と実証されました。さらに、この発現フィルターを、自閉症スペクトラム障害や知的障害あるいは発達障害の患者の新規変異多様体の解析に適用したところ、弱く発現する領域のpLoF多様体は同義多様体と同様の効果量を持ちますが、高度に発現するエキソンのpLoF多様体は症例の中で最も豊富に見られる、と明らかになりました。このアノテーションは迅速で順応性が高く、一般化可能であるため、どのような多様体ファイルでもあらゆるアイソフォーム発現データセットでアノテーションでき、稀な疾患の遺伝学的診断や複合疾患における稀な多様体量の解析、さらにはそしてRbG(recall-by-genotype)研究における多様体のキュレーションおよび優先順位付けに役立つ、と考えられます。

 薬剤の遺伝的標的の特定に関する研究(Minikel et al., 2020)では、gnomADデータがどのように役立つ可能性があるのか、報告されています。自然に生じたヒト遺伝的多様体で、タンパク質コード遺伝子を不活性化すると予測されるものは、ヒト遺伝子不活性化のin vivo(遺伝子編集酵素をコードするDNAを直接人体に注入する方法)モデルとなり、細胞やモデル生物でのノックアウト研究を補足します。この研究は、ヒトの機能喪失多様体を用いた薬剤標的候補の評価に関する三つの重要な知見を報告します。第一は、機能喪失多様体が許容されない必須遺伝子であっても、阻害薬の標的として大きな成功を収める可能性があることです。第二は、ほとんどの遺伝子で機能喪失多様体はひじょうに稀で、ホモ接合型や複合的なヘテロ接合型「ノックアウト」のヒトを遺伝子型に基づいて確認するには、血縁者を集中的に集めない限り、現在利用可能な規模の約1000倍が必要となることです。第三は、自動化された多様体アノテーションやフィルタリングは強力ですが、アーティファクトを取り除くためには手作業でのキュレーションが依然として不可欠で、RbGによる取り組みでは前提条件となることです。これらの知見は、ヒトノックアウト研究のロードマップを示し、創薬における機能喪失バリアントの解釈に対する手引きとなるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:gnomADプロジェクトによるゲノム解釈の向上

 ゲノムデータを集約したデータベースであるGenome Aggregation Database(gnomAD)に、ヒトの遺伝的バリアントの公開カタログとして現在知られている最大のものが登録された。このカタログは、ヒトの遺伝子の機能に関する理解を深め、新たな疾患関連遺伝子を発見するための情報源となる。このデータセットは、14万人以上の協力者のサンプルから収集されたもので、このほど、このデータセットの適用について記述された論文が、Nature、Nature Communications、Nature Medicine に掲載される。

 ヒトゲノムを構成する遺伝子の大部分は、機能が明らかになっていない。遺伝子の機能を探索する方法の1つは、変異によって遺伝子の機能が破壊された時に何が起こるかを観察することである。こうした遺伝的バリアントは通常、有害な結果をもたらすことが多く、その発生頻度は非常に低い。大規模な遺伝子の塩基配列解読研究は、この機能喪失型バリアントの影響を調べる機会であり、その結果、ヒトの生物学的特性と疾患に関する重要な手掛かりが得られる可能性がある。

 Nature に掲載される概括論文で、Konrad Karczewskiたちは、全エキソーム塩基配列解読データセット12万5748件と全ゲノム塩基配列解読データセット1万5708件から予測される機能喪失バリアント44万3769種のカタログを提示している。Karczewskiたちは、正常な機能を阻害するタンパク質を産生すると予測されるこれらのバリアントが、生理的には全く(ほとんど)影響を及ぼさないのか、あるいは重篤な健康問題を引き起こすのかを評価した。また、Nature に掲載される別の2編の論文では、このデータセットを用いて、構造バリアントに関する情報源が構築され、遺伝子の欠失、重複や逆位の影響が評価されている。

 今回の一連の論文では他に、ヒトの機能喪失バリアントを用いて、薬物標的候補を評価した論文、遺伝的バリアントの臨床解釈を向上させた論文、特定の機能喪失バリアントをより詳細に研究できることを明らかにした論文が掲載される。例えば、Nature Medicine に掲載される論文では、Nicola Whiffinたちが、パーキンソン病のリスク上昇に関連する遺伝子のバリアントを分析し、この遺伝子を標的とすることが安全な治療選択肢となる可能性を示している。

 gnomADプロジェクトによって収集されたサンプルのサイズは、その先行プロジェクトExome Aggregation Consortium(ExAC)による6万例以上のエキソームの集約と比べると2倍以上である。Karczewskiらは、ヒトの予測される機能喪失バリアントの全てを突き止めるという目標には遠く及ばないものの、今回公開されたバリアントのカタログが、希少な遺伝病と一般的な遺伝病の評価を向上させる機会になるという見方を示している。


Cover Story:ヒトの情報資源:gnomAD:ヒトゲノムのバリアントのカタログ

 今週号には、gnomAD(Genome Aggregation Database)から得られた詳細な知見について報告した4報の論文が掲載されている。gnomADは、6万706人のエキソームを集約した2016年のExACデータベースの後継となるもので、12万5748のエキソームと1万5708の全ゲノム塩基配列が集められている。このようにサンプルサイズが大きくなり範囲が広がったことで、個人間の一塩基バリアント(SNV)だけでなく、50以上のヌクレオチドでできたより複雑な構造バリアントのカタログの作成も可能になった。中心となる論文では、K Karczewskiたちが、このデータベースを概観し、タンパク質をコードする遺伝子を不活性化し得るバリアントを調べている。第二の論文では、R Collinsたちが、43万3371の構造バリアントのカタログを作成し、生理的特徴に対するその影響を解析している。第三の論文では、B Cummingsたちが、RNA発現データを用いてバリアント解釈の指針が得られることを示している。そして第四の論文では、E Minikelたちが、薬剤の遺伝的標的の特定にgnomADデータがどのように役立つ可能性があるか探っている。



参考文献:
Collins RL. et al.(2020): The mutational constraint spectrum quantified from variation in 141,456 humans. Nature, 581, 7809, 444–451.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2287-8

Cummings BB. et al.(2020): Transcript expression-aware annotation improves rare variant interpretation. Nature, 581, 7809, 452–458.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2329-2

Karczewski KJ. et al.(2020): Third-party punishment as a costly signal of trustworthiness. Nature, 581, 7809, 434–443.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2308-7

Minikel EV. et al.(2020): Evaluating drug targets through human loss-of-function genetic variation. Nature, 581, 7809, 459–464.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2267-z

ゴンドワナテリウム類の骨格化石

 ゴンドワナテリウム類の初めての骨格化石に関する研究(Krause et al., 2020)が公表されました。南半球の超大陸ゴンドワナに由来する中生代(2億5200万~6500万年前頃)の哺乳型類(哺乳類およびその近縁種)の化石記録は、北半球の超大陸ローラシアと比較してはるかに少ない、と理解されています。中生代の哺乳型類のうち、ゴンドワナテリウム類は最も理解が進んでいないクレード(単系統群)の一つで、その標本はこれまで、1点の頭蓋と、個々の顎の骨や単離歯が見つかっているのみでした。そのため、ゴンドワナテリウム類の解剖学的構造・古生物学的特徴・系統発生学的な関係性はまだ明らかにされていません。

 この研究は、マダガスカルで発見された、白亜紀最後期(7210万~6600万年前頃)の関節がつながった保存状態の極めて良好なゴンドワナテリウム類の一種の骨格を報告しています。この骨格は新属新種(Adalatherium hui)に分類されました。これは、「狂気」を意味するマダガスカル語と「獣」を意味するギリシア語の組み合わせです(以下、「狂獣」と省略)。この標本は、中生代のゴンドワナ大陸に生息した哺乳型類としてはこれまでに発見されたものの中で最も完全な骨格で、ゴンドワナテリウム類の既知で唯一の頭蓋後方要素と下顎の上行枝を含みます。

 狂獣の骨格化石には、多数の体幹椎骨と幅広で短い尾が1つ含まれており、小さな骨や軟骨組織も保存されていました。この化石標本は、未成熟個体ではあるものの、推定体重が3.1kgで、これまでに知られている中生代のゴンドワナ大陸に生息していた哺乳類の中で最も大きな部類に入ります。哺乳類の場合、島嶼部で進化することの最も明白で定量化可能な影響は体サイズに関係しているため、孤立した環境で進化した生物種が巨大化することがある、という学説が提唱されています。狂獣の体重は、こうした巨大化を反映している可能性があります。

 この新たな分類群を含めた系統発生学的解析からは、ゴンドワナテリウム類が多丘歯類(おもに北半球の大陸に生息することが知られる齧歯類様哺乳類で、始新世に絶滅しました)の姉妹群として位置づけられました。狂獣の骨格は、中生代のゴンドワナ大陸の哺乳型類のものとしては最大級で、多くの特異な特徴と、真獣類(真獣亜綱)の哺乳類のものに収斂的な特徴とを併せ持つため、とくに注目されます。この特異性は、狂獣がマダガスカルで2000万年以上にわたり孤立していた、とする系統史と整合的です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:「狂獣」の発見によって充実したゴンドワナ大陸の化石記録

 古代地球の南半球にあったゴンドワナ大陸に生息していたゴンドワナテリウム類哺乳動物の初めてのほぼ完全な骨格化石が、マダガスカルの白亜紀の地層から発見されたことを報告するDavid Krauseたちの論文が、今週、Nature に掲載される。この発見は、哺乳類の初期進化を解明する手掛かりとなる。

 ゴンドワナ大陸における中生代(2億5200万~6500万年前)の哺乳類の化石記録は、北半球のローラシア大陸と比べて、規模がはるかに小さい。ゴンドワナ大陸にいたことが知られる哺乳類分類群の1つがゴンドワナテリウム類だが、その存在を示す証拠は、ばらばらに発見された顎と歯の化石と1個の頭蓋骨しかなかった。

 今回のKrauseたちの論文には、中生代のゴンドワナ大陸に存在した哺乳類のこれまでで最も完全な骨格化石が記述されている。これは、新属新種の哺乳類とされ、Krauseたちは「狂気」を意味するマダガスカル語と「獣」を意味するギリシャ語からなるAdalatherium huiと命名した。この骨格化石には、多数の体幹椎骨と幅広で短い尾が1つ含まれており、小さな骨や軟骨組織も保存されていた。この化石標本は、未成熟個体だが、推定体重が3.1キログラムで、これまでに知られている中生代のゴンドワナ大陸に生息していた哺乳類の中で最も大きな部類に入る。哺乳類の場合、島嶼部で進化することの最も明白で定量化可能な影響は体サイズに関係しているため、孤立した環境で進化した生物種が巨大化することがあるという学説が提唱されている。A. huiの体重は、こうした巨大化を反映している可能性がある。

 Krauseたちは、A. huiと他の生物種の進化的関係の分析を通じて、A. huiを多丘歯類(主に北半球の大陸に生息することが知られる齧歯類様哺乳類)の近縁種と位置付けた。A. huiについては、骨格化石がほぼ完全なこととマダガスカルの島国環境で生息していたことから、中生代の哺乳形類が孤立した環境でどのように進化したのかを研究する機会が得られた。


古生物学:マダガスカルで発見された白亜紀の哺乳類骨格が示す長期にわたる島嶼隔離

古生物学:ゴンドワナテリウム類の初めての骨格化石

 ゴンドワナテリウム類は、主に顎や歯の断片的な化石からのみ知られる中生代哺乳類の一群で、南半球の大陸で発見されている。最も有名なものはVintanaで、マダガスカルで発見された白亜紀の頭蓋標本で知られる。今回、同じくマダガスカルで白亜紀の別の化石が、頭蓋のみではなく全身骨格として発見された。その頭蓋には丈夫で粉砕に適した歯列があり、全身の外観はアナグマに似ているがサイズはオポッサムほどだったと考えられる。系統発生学的解析からは、この極めて特異な生物が多丘歯類の近くに位置付けられた。多丘歯類は、その大半が北半球の大陸で見つかっている齧歯類様の哺乳類で、成功を収めたが始新世に絶滅している。



参考文献:
Krause DW. et al.(2020): Skeleton of a Cretaceous mammal from Madagascar reflects long-term insularity. Nature, 581, 7809, 421–427.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2234-8

乳児の腸へのウイルス定着に影響を及ぼす母乳育児

 母乳育児による乳児の腸へのウイルス定着における影響に関する研究(Liang et al., 2020)が公表されました。健康なヒト新生児の腸には通常、出生時にはウイルスは存在しませんが、すぐにウイルスや微生物が定着するようになり、場合によってはこれが胃腸疾患を引き起こします。しかし、ウイルス集団の集合過程についての解明は進んでいません。この研究は、生後早期に起こるウイルスの定着を調べるため、生後0~4日に健康な乳児20人から採取した糞便検体を分析し、新生児のウイルス群集(ウイローム)の構築が、いくつかの段階に分かれて起こる、と明らかにします。

 新生児の胎便や生後初期の糞便試料から精製したウイルス様粒子を蛍光染色しても、ほとんど、あるいは全く粒子は確認されませんが、生後1ヶ月までに、粒子数はグラム当たり109個にまで増加し、この値は生涯を通じて持続するようです。この研究は、ウイルスを濃縮した前処理試料と全微生物群集を対象に、ショットガン法でメタゲノム塩基配列を解読し、続いて標的化した微生物学的解析を行ない、これらのウイルス集団の起源を調べました。

 その結果、新生児の腸には出生後早くに先駆細菌が定着し、1ヶ月後までには、これらの細菌に誘導されたプロファージがウイルス様粒子集団で優勢になる、と明らかになりました。生後4ヶ月までには、ヒト細胞で複製する識別可能なウイルスが、より顕著になりました。部分母乳育児や完全母乳育児の新生児と比較して、調製乳だけで育てられた新生児の糞便試料には、複数のヒトウイルスがより多く含まれていました。これは、母乳がウイルス感染に対する防御になる、という報告と一致しています。

 別のコホート(乳児125人)では、生後3~4ヶ月の時点で糞便検体が採取されました。このコホートでは、調合乳で育てられた乳児の30%の糞便検体からヒトウイルスが見つかりました。これに対して、母乳のみで育てられた乳児または母乳と調合乳を併用して育てられた乳児の9%の糞便試料からヒトウイルスが見つかりました。新生児が母乳で育てられたかどうかにより、バクテリオファージ(細菌感染性ウイルス)集団も異なっていた、というわけです。

 これらの知見から、新生児の腸へのウイルス定着は段階的に起こり、最初は先駆細菌に由来する溶原性バクテリオファージが主流で、その後ヒト細胞で複製するウイルスが定着し、この第2段階は母乳育児により調整される、と明らかになりました。この結果は、一生で最も脆弱な時期の一つである新生児期に、完全母乳育児や部分母乳育児が、ウイルス感染に対する防御になっていることを示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


微生物学:母乳育児は、乳児の腸へのウイルス定着に影響を及ぼす

 出生直後の乳児の腸内におけるウイルスの定着は、乳児が母乳で育てられたかどうかによって多くなったり、少なくなったりすると考えられるという結論を示した論文が、今週Nature に掲載される。今回の研究の結果は、ウイルスの定着が段階的に起こり、母乳だけで育てられた乳児や母乳を併用して育てられた乳児は一部のヒトウイルスから保護される可能性があることを示唆している。

 生まれたばかりの新生児の腸内にウイルスは存在しないが、その後間もなく腸内にウイルスなどの微生物が定着する。しかし、ウイルス集団の集合過程についての解明は進んでいない。

 今回、Frederic Bushmanたちの研究チームは、生後早期に起こるウイルスの定着を調べるため、生後0~4日に健康な乳児20人から採取した糞便検体を分析し、生後1か月と4か月にも再度分析した。生後4日間に採取された検体からウイルス様粒子は検出されなかったが、生後1か月で採取された検体の大部分でウイルス様粒子が検出された。Bushmanたちは、ウイルス集団の起源を明らかにするためにゲノム塩基配列解読を行い、出生直後の乳児の腸内に先行菌が定着し、生後1か月までにバクテリオファージ(細菌感染性ウイルス)がウイローム(ウイルス群集)の主たる産生源となり、生後4か月までにはヒト細胞内で複製するウイルスの中で特定可能なアデノウイルス、ピコルナウイルスなどのウイルスが顕著になったことを明らかにした。

 次に、Bushmanたちは、今回の研究で得たウイルスのデータをさまざまな変数(摂食歴、分娩様式、性別など)と比較した。その結果、ヒト細胞内で複製するウイルスの蓄積が少ない乳児と母乳で育てられたことが関連していることが分かった。この知見を検証するため、Bushmanたちは、別のコホート(乳児125人)において生後3~4か月の時点で糞便検体を採取した。このコホートでは、調合乳で育てられた乳児の30%の糞便検体からヒトウイルスが見つかった。これに対して、母乳のみで育てられた乳児または母乳と調合乳を併用して育てられた乳児の9%の糞便試料からヒトウイルスが見つかった。


微生物学:新生児ウイロームの段階的な構築は母乳育児により調整される

微生物学:腸ウイロームの構築

 出生時の新生児の腸にはウイルスが存在しないと考えられているが、細菌の場合と同様に、ウイルスは出生後間もなく速やかに定着する。今回F Bushmanたちは、出生時から4か月にわたって新生児の腸ウイロームの構築を追跡し、ウイルスの定着が段階的に起こることを明らかにしている。彼らのデータは、生後1か月は、先駆細菌(腸に最初に定着する細菌類)によるプロファージ誘発がウイルス集団の主な供給源だが、その後次第にヒト細胞で増殖するウイルスの比率が高まっていくという考えを支持している。著者たちは、ウイロームの構築に影響する可能性のあるさまざまな因子を調べ、ヒト細胞に感染するウイルス量と母乳育児との間に負の相関があることを報告している。この結果は、一生で最も脆弱な時期の1つである新生児期に、完全母乳育児や部分母乳育児が、ウイルス感染に対する防御になっていることを示唆している。



参考文献:
Liang G. et al.(2020): The stepwise assembly of the neonatal virome is modulated by breastfeeding. Nature, 581, 7809, 470–474.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2192-1

オロリン・トゥゲネンシスの二足歩行

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)の二足歩行に関する研究(Almécija et al., 2013)が公表されました。最初期人類は祖先的な二足歩行動物で、700万~600万年前頃にアフリカの中新世類人猿から進化したことが、化石記録に示されています。人類と現生大型類人猿は、長い間、異なる進化経路をたどってきたため、現生類人猿と人類の最終共通祖先の姿が分かっていません。

 この研究は、木登りをしていたものの、直立歩行もしていた可能性のある最初期人類候補のオロリン・トゥゲネンシスが手掛かりをもたらすかもしれない、と指摘します。オロリン・トゥゲネンシスはケニアで発見され、年代は600万~570万年前頃です。この研究では、3D幾何学的形態測定解析が行なわれ、現生大型類人猿とヒトと中新世類人猿とオロリン・トゥゲネンシスを含む初期人類の化石について、大腿骨の形状の違いが比較されました。その結果、現生人類と現生大型類人猿の大腿骨が、一部の類人猿化石のもっと祖先的な形状から異なる方向へ進化し、オロリン・トゥゲネンシスには中新世類人猿と初期人類の特徴が混合している、と明らかになりました。この知見は、人類の二足歩行の起源の解明にとって重要かもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【進化】二足歩行の起源解明へ大きな一歩

 最古の初期人類の1つであるOrrorin tugenensisの大腿骨の形状が、絶滅した類人猿とその他の初期ヒト族の中間的なものであることが判明した。今回、Sergio Almecijaたちは、O. tugenensisの特徴が、中新世の類人猿と初期ヒト族の特徴の独特な組み合わせになっていることを明らかにしたが、このことは、O. tugenensisが初めて二足歩行した種の1つだったとする学説とも一致している。したがって、この新知見は、ヒトの二足歩行の起源の解明にとって重要な意味を持つ可能性がある。

 最初期のヒト族は原始的な二足歩行動物であり、約600万年前にアフリカの中新世類人猿から進化したことが、化石記録に示されている。ヒトと現生大型類人猿は、長い間、異なる進化経路をたどってきたため、現生類人猿と人類の最終共通祖先の姿が分かっていない。この点に関して、Almecijaたちは、木登りをしていたが直立歩行もしていた可能性のあるO. tugenensisが手掛かりをもたらす可能性があるという考え方を示している。今回の研究では、3D幾何学的形態測定解析が行われ、現生大型類人猿とヒト、そして、中新世類人猿と初期ヒト族(O. tugenensisを含む)の化石について、大腿骨の形状の違いの比較が行われた。その結果、現生人類と現生大型類人猿の大腿骨が、一部の類人猿化石のもっと原始的な形状から異なる方向へ進化し、O. tugenensisには中新世類人猿と初期ヒト族の特徴が混ざり合っていることが明らかになった。



参考文献:
Almécija S. et al.(2013): The femur of Orrorin tugenensis exhibits morphometric affinities with both Miocene apes and later hominins. Nature Communications, 4, 2888.
https://doi.org/10.1038/ncomms3888

バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史

 シベリア南部のバイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史に関する研究(Yu et al., 2020)が報道されました。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。この研究はオンライン版での先行公開となります。シベリアのバイカル湖地域には上部旧石器時代以来現生人類(Homo sapiens)が居住しており、豊富な考古学的記録があります。過去5年間で、古代ゲノム研究により、バイカル湖地域の人類集団における遺伝的変化と混合が明らかにされてきました。

 24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の1個体(MA1)に代表されるのが「古代北ユーラシア人(ANE)」で(関連記事)、旧石器時代にはシベリア全域に分布しており、多くの現代ユーラシア人とアメリカ大陸先住民に遺伝的影響を残しました。以前の研究では、ANE系統はバイカル湖地域では前期新石器時代に現代のアジア北東部人にほぼ置換されたと推測されており、ANE系統を間接的に有する集団の拡大による、前期青銅器時代におけるANE系統の「再起」は限定的でした。

 シベリアはまた、アメリカ大陸への拡散の複数回の波の起源地としても提案されてきており、その最初は25000~20000年前頃に形成されたと推定されている創始者集団によるものでした。いわゆる古代ベーリンジア(ベーリング陸橋)系統は、11500年前頃のアラスカの1個体(USR1)に代表され、この創始者集団の一部で、他のアメリカ大陸先住民系統とは23000年前頃に分岐した、と推定されています(関連記事)。シベリア北東部で発見された9800年前頃のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)は、アメリカ大陸外では最も密接にアメリカ大陸先住民集団と関連しています(関連記事)。

 古エスキモー系統を代表するグリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体は、シベリア北東部集団と分岐し、アメリカ大陸北極圏に6000~5000年前頃に移住してきた、と推定されています。これらの移住の波は遺伝的に古代シベリア人集団と関連していますが、シベリア人の遺伝的歴史の文脈におけるその起源はまだよく理解されていません。アメリカ大陸先住民集団の形成をよりよく理解するには、古代ゲノムを用いてのシベリア人集団の歴史のさらなる研究が重要です。

 ユーラシアにおける新石器時代から青銅器時代への移行は、広範な集団移動により促進された複雑な文化的および遺伝的変化により特徴づけられますが、バイカル湖地域におけるその影響はまだ不明確です。西方では、ヤムナヤ(Yamnaya)文化と関連したポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの前期青銅器時代集団が東西両方に拡大し、「草原地帯系統」と呼ばれる遺伝的影響を及ぼしました。この集団の東方への拡大は、前期青銅器時代にアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と関連している、と考えられています。

 しかし、ユーラシア草原地帯中央部の中期青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)文化関連集団は、草原地帯東部の後期青銅器時代のフブスグル(Khövsgöl)関連集団と同様に、草原地帯系統の割合は限定的です(関連記事)。したがって、ユーラシア東部における草原地帯系統の移住の効果、とくに青銅器時代バイカル湖地域の狩猟採集民と同時代の地理的に近いアファナシェヴォ集団との相互作用は、まだほとんど調査されていません。

 本論文は、上部旧石器時代から前期青銅器時代にいたる、バイカル湖地域とその周辺地域の狩猟採集民19人の新たなゲノム配列を報告します。それらを既知のデータと比較すると、上部旧石器時代シベリア人およびアメリカ大陸最初の人々と関連する最も深く分岐した系統が明らかになり、バイカル湖地域における前期新石器時代と前期青銅器時代の集団間の複雑な移行がより明確になります。また本論文は、前期青銅器時代のバイカル湖地域におけるユーラシア西部草原地帯集団の影響を示す、人類と病原体ゲノムの証拠も提供し、バイカル湖地域狩猟採集民のシベリア人集団への経時的な遺伝的寄与を議論します。

 より具体的には、この研究はバイカル湖地域の計10遺跡の19人の新たなゲノム規模データを生成し、既知の古代および現代のデータと比較しました。19人の内訳は、上部旧石器時代が1人(14050~13770年前頃)、前期新石器時代が4人(7320~6500年前頃)、後期新石器時代から前期青銅器時代(LNBA)が14人(4830~3570年前頃)です。網羅率は0.04~2.07倍です。性染色体と常染色体の網羅率の比較から、4人が女性で、15人が男性と明らかになりました。19人の間で親族関係は見つかりませんでした。


●人口構造

 主成分分析では、バイカル湖地域のほとんどの個体は、古代北ユーラシア人(ANE)と北東アジア人(NEA)の間の勾配に位置します。NEA系統は7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡個体群(関連記事)に、ANE系統は上述のシベリア南部中央のマリタ遺跡の上部旧石器時代の1個体(MA1)やアファナシェヴォ文化の2個体(AG2およびAG3)に代表されます。

 本論文で新たに報告された19人のうち、上部旧石器時代の1個体はバイカル湖南部のウスチキャフタ3(Ust-Kyahta-3)遺跡で発見されました。この個体(UKY)は、9800年前頃となる中石器時代シベリア北東部のコリマ(Kolyma)遺跡の個体(Kolyma1)と近く、PC2軸では他の古代バイカル湖地域個体群と比較して、アメリカ大陸先住民集団の方へと移動しています。新石器時代4個体は全員、バイカル湖地域の既知の前期新石器時代個体群とクラスタ化し、「バイカル湖地域前期新石器時代(EN)」集団とまとめられます。

 後期新石器時代から前期青銅器時代(LNBA)の個体群は4集団に区分されます。主要な「バイカル湖地域LNBA」集団は10人で、バイカル湖地域EN個体群と比較してANE関連個体群とより近く、古エスキモーのサカク(Saqqaq)遺跡個体とも同様に近くなっています。グラズコヴスコエ(Glazkovskoe)遺跡の2個体(GLZ001およびGLZ002)は同遺跡の他個体(GLZ003)とは異なり、主要クラスタから移動し、悪魔の門遺跡およびバイカル湖地域EN個体群の方とより近い遺伝的類似性を示します。カチュグ(Kachug)遺跡の6個体のうち1個体(KPT005)は、PC1軸ではバイカル湖地域LNBA集団からかなりずれてユーラシア西部人の方に動いており、ANE-NEA勾配ではなく、もっと後の青銅器時代集団に向かってなので、草原地帯関連系統の遺伝子移入の可能性が示唆されます。バイカル湖地域の西方に位置するエニセイ川地域のバザイハ(Bazaikha)遺跡の1個体(BZK002)は、顕著にANE関連系統へと移動しており、オクネヴォ文化と関連する既知の青銅器時代個体群の近くに位置します。

 ADMIXTUREでも主成分分析と同様のパターンが示されました。前期新石器時代から青銅器時代のバイカル湖地域集団では、既知の個体群も本論文で新たに報告された個体群も全員、ANE関連個体群とNEA集団とウラル語族集団のガナサン(Nganasan)集団に代表される中央シベリア人という主要な3構成でほぼ示されます。ANEおよび中央シベリア系統は、ほとんどのLNBAバイカル湖地域個体群において前期新石器時代個体群よりも高い一方、GLZ001およびGLZ002はより高いNEA系統を示し、前期新石器時代集団と類似しています。エニセイ川地域のバザイハ遺跡の1個体(BZK002)は、既知のオクネヴォ文化集団と類似しており、他のバイカル湖地域個体群と比較して、ANE系統がずっと多くなっています。KPT005には、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統からの寄与がかなり見られ、おそらくは西方からの遺伝子流動により獲得されました。

 ホモ接合連続領域(ROH:両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)の検証では、どの個体でも近親交配の痕跡は特定されませんでした。シベリア北東部の9800年前頃のコリマ遺跡個体では、他の個体群と比較して有意に多くのホモ接合連続領域が見られ、中石器時代シベリア北東部におけるより小さな人口規模が示唆されます。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示す、同祖対立遺伝子(IBD)領域の共有は、ウスチキャフタ3遺跡個体(UKY)とコリマ遺跡個体の間の密接な関係を示唆します。これは、ゲノム規模の一塩基多型データに基づく分析を支持し、バイカル湖地域のENおよびLNBA個体群が、より古いUKYおよびコリマ個体のゲノムと同様に、相互に遺伝的類似性を共有する、と明らかにします。


●上部旧石器時代バイカル湖地域系統とアメリカ大陸先住民とのつながり

 上述のように、バイカル湖地域の上部旧石器時代個体(UKY)が、シベリア北東部のコリマ遺跡個体と密接に関連している、と明らかになりました。これは、f統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)でも確認され、f3統計では、UKYはコリマ個体と同様にアメリカ大陸先住民およびベーリンジア集団との密接な遺伝的類似性を示します。f 4統計では、コリマ個体はUKYと比較してシベリア北東部および北アメリカ大陸の集団とより密接に関連している、と明らかになりました。さらに、f 4統計でUKYおよびコリマ個体とアメリカ大陸先住民および古代ベーリンジア系統の11500年前頃のアラスカの1個体(USR1)との関係が、非北極圏アメリカ大陸先住民全員を外群として調べられました。UKYおよびコリマ個体は両方、非北極圏アメリカ大陸先住民およびUSR1と対称的に関連している一方で、USR1はUKYおよびコリマ個体と比較して、アメリカ大陸先住民集団と顕著に多くの遺伝的類似性を共有しています。

 qpAdmモデリングを使用しての遺伝的構成の調査では、UKYおよびコリマ個体は、NEA系統を代表する悪魔の門個体およびアファナシェヴォ文化のAG3個体の双方向混合としてモデル化される場合、ANE系統を約30%と似た水準で有しています。このモデルはUKYおよびコリマ個体の両方で上手く合致せず、それは、アメリカ大陸先住民であるブラジルのカリティアナ(Karitiana)集団が、適合したモデルと比較して、検証された個体群とさらなる類似性を示したからです。この観察は、UKYおよびコリマ個体がアメリカ大陸先住民集団と遺伝的浮動をある程度共有し、その遺伝的浮動はアメリカ大陸先住民系統がANEおよびNEA系統と分岐した後に起きた、と示唆します。

 qpGraphモデリングを用いての、UKYとコリマ個体と古代アメリカ大陸先住民集団の間の関係が調べられました。UKYおよびコリマ個体は、アジア北東部系統と、USR1やカナダのオンタリオ州南西部古代個体群(ASO)やアメリカ合衆国カリフォルニア州チャンネル諸島の前期サンニコラス個体群(ESN)に代表される、アメリカ大陸先住民クレード(単系統群)の姉妹集団(関連記事)との間の混合としてモデル化できます。UKYおよびコリマ個体が同じグラフに含まれる場合、両者は一貫して2回の独立した混合事象の子孫としてモデル化され、それは共にアメリカ大陸先住民関連クレードとアジア北東部関連クレードに由来する古代系統の混合です。これらの知見は、アメリカ大陸先住民へのUKYおよびコリマ個体の密接な類似性を確証しますが、UKYに寄与した両系統が、コリマ個体に寄与した集団よりも祖先的であることを強調します。さらに、ベーリンジアを経由してのアメリカ大陸への最初の移住の波は別として、UKYがコリマ遺跡より3000km南西に位置し、4000年以上前であることから、アメリカ大陸先住民系統は上部旧石器時代にはシベリア全域でもっと広く分布していた、と混合モデリングは示唆します。じっさい、本論文の混合グラフは、この基底部アメリカ大陸先住民集団が、アジア北東部集団と複数回の遺伝的接触を経験し、別の古代シベリア集団を生み出した、と示唆します。


●バイカル湖地域の前期新石器時代と青銅器時代の間の複雑な移行

 本論文は、新たに配列されたバイカル湖地域のENおよびLNBA個体群を同時代の既知のデータと組み合わせ、さらに詳細にバイカル湖地域における遺伝的移行を説明します。外群f3統計を使用すると、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団が既知の同時代・地域集団と相互に最高の遺伝的類似性を示す、と明らかになりました。さらに、組み合わせた集団の外群f3統計から、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団は古代と現代のアジア北東部およびシベリア集団と最高の遺伝的類似性を共有する、と明らかになりました。バイカル湖地域LNBA集団はまた、古エスキモーのサカク個体と高い遺伝的類似性を共有します。そのNEA系統と比較すると、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団はともに、ANE関連集団と余剰の遺伝的類似性を有しますが、f4統計で示されるように、LNBA集団はEN集団よりもさらに多くの遺伝的類似性を有します。これらの結果は、バイカル湖地域EN集団におけるANE関連系統の存在を明らかにするとともに、余分のANE系統の遺伝子流動がバイカル湖地域のEN集団とLNBA集団との間の遺伝的移行の原因である、という以前の知見を確認します。

 本論文はさらに、qpAdmモデリングを適用してバイカル湖地域のENおよびLNBA集団とサカク個体とガナサン集団におけるANE関連系統の割合を定量化しました。NEA系統として悪魔の門遺跡の個体を用いると、UKYはバイカル湖地域のENおよびLNBA集団にとって、ANE関連系統の代理としてコリマ個体よりもよく合致しますが、アファナシェヴォ文化のAG3個体はバイカル湖地域EN集団によく合致します。NEAおよびANE系統として悪魔の門遺跡個体群とAG3個体を用いると、ANE関連系統はバイカル湖地域において、EN集団の14.3%からLNBA集団の22.7%に増加します。シベリア北東部のコリマ個体は、古エスキモーのサカク個体のANE関連系統の代理として機能できますが、バイカル湖地域およびウラル語族集団のガナサン個体にはよく合致しません。これは、バイカル湖地域の狩猟採集民とガナサン集団が、シベリア中央部もしくは南部で形成された可能性が高い一方で、古エスキモー系統はシベリア中央部もしくは北東部で形成された可能性を示唆します。

 DATESを用いてのバイカル湖地域集団におけるANE系統とNEA系統の間の混合事象の推定年代は、EN集団では21世代前、LNBA集団では71世代前ですが、LNBA集団は顕著に多くのANE関連系統を有します。各集団の平均的な放射性炭素年代測定結果と混合年代の標準誤差を考慮すると、混合事象は8500~6000年前頃と推定されます。淡水リザーバー効果を考慮すると、混合事象は8000~5500年前頃と修正されます。これは、バイカル湖地域のENおよびLNBA集団が、在来集団とNEA関連集団との間の長期にわたる混合過程を通じて形成されてきた、と示唆します。したがって、バイカル湖地域EN集団は、以前に提案された個別的で突然の混合という仮説とは対称的に、長期にわたる混合過程を経てきたことになります。しかし、この混合は、後期新石器時代と青銅器時代には実質的には継続しませんでした。それは、LNBA集団の混合の年代が古く、均質なLNBAクラスタと比較してEN個体群間の遺伝的多様性が比較的大きいからです。


●遺伝的外れ値により明らかになる青銅器時代シベリアの高い移動性

 バイカル湖地域LNBA個体群のうち、主要集団とは遺伝的背景の異なる3人の外れ値が特定されました。このうち、カチュグ遺跡の6個体のうち1個体(KPT005)は、主成分分析およびADMIXTUREではユーラシア西部集団との類似性が示唆されます。qpAdmモデリングでは、KPT005はバイカル湖地域LNBA集団と複数の青銅器時代西方草原地帯集団との混合としてモデル化でき、草原地帯系統の堀合は42~48%と推定されます。地理と年代を考慮すると、この混合の起源として最も可能性の高い候補は、アルタイ・サヤン地域のヤムナヤ(Yamnaya)関連アファナシェヴォ文化集団です。

 さらに、バイカル湖地域前期青銅器時代個体群のうち2個体(GLZ001およびGLZ002)は、バイカル湖地域LNBA主要集団と比較して、顕著にANEの混合水準が低くなっています。この2個体におけるANE関連系統の割合は、NEA系統として悪魔の門遺跡個体を、ANE系統としてアファナシェヴォ文化のAG3個体を用いると、約10%と推定されます。さらに、この2個体はともに、Y染色体ハプログループ(YHg)C2b1で、これはバイカル湖地域EN集団で支配的ですが、他のバイカル湖地域LNBA集団のYHgはQ1aのみです。これは、青銅器時代まで、バイカル湖地域EN集団と同等もしくはそれ以下の割合のANE系統を有する集団が残存していたか、より多くのNEA系統を有する周辺地域集団からの移住があったことを示唆します。

 そこで、バイカル湖地域個体群の遊動性が、11個体の歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析により調べられました。このうち10個体の値はバイカル湖地域で報告されてきた範囲内でしたが、GLZ001は外来起源と示唆され、7歳(第二大臼歯の形成)以降にバイカル湖と続くアンガラ川流域に移動した、と推定されました。既知のストロンチウムデータに基づくと、GLZ001の起源はバイカル湖の南方および東方を含む地域と推定されます。もう一方の外れ値個体であるGLZ002は、GLZ001と遺伝的に類似しているにも関わらず、地元出身と推定されました。GLZ002は7歳以前にバイカル湖地域に移住してきたか、アンガラ川流域と類似したストロンチウム同位体比の範囲の地域から到来したのかもしれません。


●遺伝的外れ値個体群間のペスト菌感染

 最近の研究では、中期新石器時代から青銅器時代(4900~3500年前頃)のヨーロッパおよびアジア中央部の複数地域にまたがって、人類のペスト菌(Yersinia pestis)感染の証拠が提示されています(関連記事)。これまでに特定された古代ペスト菌系統の大半は、LNBA系統とされる絶滅系統に属します。ペスト菌の古代DNAデータは人類集団の遺伝的枠組みとともに解釈されており、LNBAにおけるユーラシアの広範な地域でのヤムナヤ関連集団の拡大が、ペスト菌の拡大と関連している、と示唆されています。

 バイカル湖地域の個体群の病原体DNA痕跡の存在を調べるため、本論文で新たに報告されたバイカル湖地域の19個体が分析され、青銅器時代の2個体(GLZ001およびGLZ002)でペスト菌の古代DNAが明らかになりました。淡水貯水池効果を考慮すると、GLZ001は4556年前頃、GLZ002は4430年前頃と推定されます。ペスト菌ゲノムの網羅率は、GLZ001が7.2倍、GLZ002が12.8倍です。GLZ001およびGLZ002のペスト菌はLNBA系統に分類され、4800~3500年前頃に分離しました。両者が最も密接に関連しているのは、バルト海地域で発見された系統で、このペスト菌に感染していたのは、縄目文土器(Corded Ware)複合と関連する4520~4290年前頃の個体(Kunila2)です。上述のように、GLZ001およびGLZ002は同じ地域・年代の個体群と比較して、遺伝的に外れ値となります。さらに、LNBA系統に分類されるペスト菌ゲノムを有する既知の全個体のゲノムに共通するヤムナヤ関連草原地帯系統が、GLZ001およびGLZ002のゲノムには欠けています。GLZ001およびGLZ002のペスト菌は、LNBA系統としては最東端となります。


●オクネヴォ文化への遺伝的影響

 オクネヴォ文化は、バイカル湖の西方に位置するユーラシア草原地帯中央部の青銅器時代の文化です。以前の研究では、オクネヴォ文化個体群と古代バイカル湖地域個体群との遺伝的関係が示唆されています。本論文では、オクネヴォ文化が浸透していた、バイカル湖地域の西方に位置するエニセイ川地域のバザイハ遺跡の前期青銅器時代の1個体(BZK002)のゲノムと、既知のオクネヴォ文化関連個体群との間の高い遺伝的類似性が検出されました。BZK002のゲノムは、qpAdmでは、バイカル湖地域LNBA集団とアファナシェヴォ文化のAG3個体もしくはボタイ(Botai)文化的集団との双方向混合としてモデル化できます。ユーラシア中央部のボタイ文化集団には草原地位関連系統が見られません。BZK002はまた、オクネヴォ文化関連個体群で観察される系統を形成する、ヤムナヤ/アファナシェヴォ文化関連集団と混合した集団の代理としても機能しました。さらに、オクネヴォ文化関連集団のモデリングは、バイカル湖地域LNBA集団とAG3もしくはボタイ文化的個体群と草原地帯関連系統集団の間の3方向混合として確認されました。

 オクネヴォ文化関連集団における3系統間の混合事象の年代は、異なる2期間に分類されました。バイカル湖地域LNBA集団とボタイ文化的集団を情報源として用いると、オクネヴォ文化関連集団とBZK002における混合事象は、前者が42.9世代前、後者が23.4世代前で、標本群の年代を考慮すると、6000~5000年前頃の範囲と重なります。オクネヴォ文化関連集団における情報源の一つとしてヤムナヤ関連系統を含めると、交雑年代は17世代前(5000~4500年前頃)と新しくなります。本論文は、オクネヴォ文化関連集団の遺伝子プールの形成は、ボタイ文化的系統およびバイカル湖地域LNBA系統の最初の混合から生じ、その後に紀元前三千年紀のヤムナヤ関連文化の拡大に伴い、ヤムナヤ関連系統の遺伝子流動が起きた、と推測しています。BZK002の直接的な放射性炭素年代測定結果は4700年前頃で、既知のクネヴォ文化関連個体群に200~800年先行し、草原地帯関連系統の混合の推定年代範囲と重なります。さらに、BZK002のバイカル湖地域系統とボタイ文化系統との混合は、オクネヴォ文化関連集団の推定された期間の範囲内に収まり、BZK002がオクネヴォ文化関連集団の遺伝的構成の形成中の中間的状態を表す、と示唆されます。


●まとめ

 本論文は、バイカル湖地域において上部旧石器時代から青銅器時代にかけて、ANEおよびNEA系統の割合の大きな変動に見られるように、複数の人口交替が起きたことを示しました。しかし、本論文が提示するのは、以前に示唆された、NEA系統を含むアジア東部系統によるANE関連系統の完全な置換ではなく、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ遺跡の1個体(MA1)で最初に報告されたANE系統が、前期新石器時代(EN)集団でも上部旧石器時代となる14000年前頃のUKY個体でも明らかになったように、上部旧石器時代を通じて青銅器時代まで存続した、ということです。

 さらに、前期新石器時代から青銅器時代のバイカル湖地域集団の遺伝的移行は、NEA関連系統とANE関連系統との間の、紀元前六千年紀から紀元前四千年の長きにわたる遺伝子流動によりよく説明でき、UKY個体のゲノムは、コリマ個体関連系統のあり得た南方への拡大よりも、ANE系統の在来起源として優れている、と証明されました。対照的に、コリマ個体ゲノムは、古エスキモーのサカク個体の遺伝的構成の代理として表され、古エスキモー系統がシベリア北東部に出現した、という見解を支持します。ただ本論文では、古エスキモー系統がUKY関連系統からシベリア中央部もしくは南部で形成された可能性を除外できません。

 注目されるのは、バイカル湖地域の上部旧石器時代の人々と非北極圏アメリカ大陸先住民との強い遺伝的つながりの検出です。本論文では、アメリカ大陸先住民と14000年前頃のシベリア南部となるバイカル湖地域のUKY個体と、9800年前頃のシベリア北東部のコリマ個体はすべて、少なくとも一部は、ANEおよびNEAの両系統を有する同じ混合集団の子孫と示されました。この集団は上部旧石器時代においてシベリア全域に拡大しており、アジア北東部の関連集団と頻繁な遺伝的接触を経験した可能性が高く、異なる地域と期間においてANEおよびNEA系統のさまざまな割合の集団を生じました。コリマ個体および他のアメリカ大陸先住民集団へとつながるアラスカのUSR1のゲノムと比較して、UKYがより早期の分岐集団であることから、この基底部アメリカ大陸先住民系統がシベリア北東部で形成された、との以前に提示された仮説に本論文は異議を唱えます。アメリカ大陸先住民の祖先的遺伝子プールの起源の正確な場所と年代の説明には、上部旧石器時代シベリア集団からのさらなる遺伝的証拠が必要となります。

 さらに、人類と病原体のDNAデータに基づき、前期青銅器時代にシベリア南部と西方の草原地帯との間で遺伝的接触があった証拠も得られました。これは、当時のユーラシアにおける人類の高い移動性を示唆します。バイカル湖地域におけるヤムナヤ関連集団の遺伝的影響は、青銅器時代のKPT005個体で明らかです。さらに、以前の研究では、ユーラシア全域におけるペスト菌のLNBA系統の拡大が、ヤムナヤ関連集団の移住により促進された、と示唆されてきました。ペスト菌のLNBA系統を有する全個体のゲノムで、草原地帯関連系統が確認されていたからです。しかし本論文では、ペスト菌に感染しているバイカル湖地域青銅器時代の2個体(GLZ001およびGLZ002)のゲノムに、ヤムナヤ関連系統の遺伝的証拠が見られないことを示しました。また、この2個体のゲノムには、他の全てのバイカル湖地域および周辺地域の青銅器時代個体よりも、NEA系統の割合がかなり多い、と明らかになりました。この2個体のうちGLZ001は、ストロンチウム同位体分析により、外来者で、おそらくはアンガラ川流域外の出身でした。この青銅器時代バイカル湖地域のペスト菌ゲノムの系統は、ヨーロッパ北東部のバルト海地域の縄目文土器複合関連個体に感染していたものに最も近い、と明らかになりました。現在の解像度では、ユーラシア西部とシベリア南部との間の病原体伝播のパターンを推測するには不充分ですが、現時点でのデータは、ペスト菌の長距離拡散につながる1世紀もしくは10年単位の過程を示唆します。

 本論文はバイカル湖地域の人口構造における動的な変化を報告し、上部旧石器時代シベリアにおける最初のアメリカ人へとつながる遺伝的系統の広範な発生を明らかにします。さらに本論文は、ユーラシア草原地帯全域での人類の高い移動性の証拠を提示し、紀元前三千年紀におけるペスト菌の拡大についての新たな洞察を明らかにします。アメリカ大陸最初の人々の起源には高い関心が寄せられてきましたが、時として政治的問題にも発展しました(関連記事)。本論文は、シベリア南部の人類の新たな古代ゲノムデータを報告したというだけではなく、アメリカ大陸先住民系統の遺伝的起源が、シベリア北東部に限定されない可能性を提示したという点でも、大いに注目されます。近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、追いついていくのは大変ですが、今後、当ブログにてできるだけ多くの関連する論文と本を取り上げていきたいものです。


参考文献:
Yu H. et al.(2020): Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia. Cell, 181, 6, 1232–1245.E20.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.037

加藤真二「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P23-30)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 中国北部(中国東北部、華北)においては、較正年代で42000~40000年前頃以降に、石器群に石刃技術・磨製骨角器・装身具などの後期旧石器(ユーラシア西部では上部旧石器時代、サハラ砂漠以南のアフリカではおおむね後期石器時代に相当)的な様相が明瞭に現れてきます。本論文は、この42000~40000年前頃を前後する時期の石器群が出土したいくつかの多層遺跡を取り上げ、石器群の変遷を示します。さらに本論文は、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代への移行のシナリオも提示します。本論文で取り上げられる遺跡は、内モンゴル自治区金斯太(チンスタイ、Jinsitai)、吉林省寿山仙人洞、遼寧省小孤山仙人洞、河北省油房、河北省水簾洞、山西省下川遺跡群、寧夏回族自治区水洞溝遺跡群、河南省龍泉洞です。なお、以下の年代は基本的に放射性炭素年代測定法による較正年代です。

 内モンゴル自治区金斯太遺跡では、第8層(47034~43720年前、44289~42306年前)において、円盤状石核(13点34.2%)、単設打面石核ならびにテスト石核(12点31.6%)、多面体石核(11点28.9%)から剥離された分厚い剥片を素材にした鋸歯縁石器類(32点41.6%、鋸歯縁20点、ノッチ9点、錐3点)、各種削器(23点30.0%、単刃型10点、両刃型1点、収斂型4点、デジェ型3点、横刃型5点)などが出土しました。また、掻器(非典型的なもの5点6.5%)、彫器(0点)などの後期旧石器的な石器は基本的に欠落しています。これらの特徴から、チンスタイ遺跡第8層の石器群は、鋸歯縁石器群(D群)と判断されます。また、ルヴァロア(Levallois)石核1点、ルヴァロア剥片4点、ルヴァロアポイント2点、ルヴァロア石刃2点など、少数ながらルヴァロア技術の存在を示す資料も見られます。第7層(39690~37825年前、40286~38664年前)でも、円盤状石核(8点24.2%)、単設打面石核ならびにテスト石核(10点30.3%)、多面体石核(15点45.5%)で剥離された剥片を素材とする鋸歯縁石器類(16点47.1%、鋸歯縁7点、ノッチ4点、錐5点)、各種削器(12点35.3%、単刃型6点、デジェ型1点、横刃型5点)などが出土しました。第8層石器群と同様、鋸歯縁石器群(D群)と判断されますが、第7層のルヴァロア技術的な要素は、ルヴァロア剥片2点、ルヴァロアポイント1点などで、第8層より微弱になっています。また、後期旧石器的な石器として彫器が見られます。中文化層(第6層・第5層、27680~27044年前)では、削器303点を中心とする石器群が出土しました。削器には、ノッチ状の凹刃をもつもの35点が含まれるとともに、ベック状削器1点、錐18点もあり、尖頭石器31点も見られます。108点出土した石球には、多面体石核が含まれると考えられます。これらから、中文化層も鋸歯縁石器群(D群)と判断できます。これに、長型掻器2点などの後期旧石器的な石器、角錐状細石核(第5層)、おそらくは搬入品の可能性が高い大型石刃や砥石が伴います。

 吉林省寿山仙人洞遺跡では、下文化層(ウラン系列法で第4層162100±18,000年前、第3層)から多面体石核から剥離された分厚い剥片、それを素材とした鋸歯縁石器、ノッチ、削器が出土しました。打製骨器も出土しています。そのため、鋸歯縁石器群(D群)と判断できます。上の文化層(第2層40008~37319年前)では、石核はないものの、不定形な分厚い剥片を素材とした大型の鋸歯縁石器、ベックが見られ、鋸歯縁石器群(D群)の可能性が高そうです。これとともに、中国東北部では最古の黒曜石素材の石器となる掻器や磨製骨器などの後期旧石器的な様相も見られます。

 遼寧省小孤山仙人洞遺跡では、第2層下部(44641~43306年頃?)から、閃長岩製のルヴァロアポイント類似品が単独で出土しています。第2層上部から第3層(40000~21000年前頃)にかけて出土した石器は、少数を除くと基本的に石英を素材とし、節理面を打面とする単設打面石核が主体的です。両極石核・両極剥片も多く見られます。多数検出されている石球には、多面体石核が含まれていると予測されます。少数ながら石刃石核と石刃、稜付き剥片などもあります。トゥールには、鋸歯縁石器(26件5%)、ノッチ(27点5%)、ベック(222点39%)、錐(53点10%)などの鋸歯縁石器類が多く、各種削器(20点4%)がこれに続きます。尖頭石器(3点1%)や彫器(3点1%)、礫器(11点2%)なども少数ながら存在します。こうした剥片剥離技術や石器組成から、石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断されます。また、磨製骨角器、各種装身具が共伴する点も特徴的です。

 河北省油房遺跡では、基盤上にのる第4層の年代測定は光刺激ルミネッセンス法(OSL)に基づいており(黒色帯ならびに黄橙色粘質砂層、56000~52000年前頃)、さらにその上の第3層(橙褐色粘質土層)下半部(OSLで52000~48000年前頃)では、少数の小型剥片石器群が出土していると報告されており、複数の鋸歯縁石器と厚型削器が確認されていることから、D群と判断できます。第3層上に堆積する第2層(黄土層)の中・下部(OSLで35200~27400年前頃)では、石刃と小石刃を交える石器群が出土しています。石器群の詳細な内容は不明ですが、後期旧石器的な石器群(UP群)、もしくは同じ泥河湾盆地に所在する河北省梅溝遺跡のように小型~中型石刃を用いた背付き尖頭器をもつ石器群(TB群)と考えられます。第2層上部(OSLで27400年前頃以降)からは、細石刃石器群(M群)が出土しました。

 河北省水簾洞遺跡では、堆積層において、炭化物を多く含む層が多数観察されます。基盤の上に直接堆積する最下層の第4層(42500年前頃)からは、石英を主な石器石材とした石器群が出土しました。剥片剥離は直接打撃と両極打撃によるものが報告されています。トゥールは、二次加工による素材の改変度合いが低く、素材剥片の形状をほとんど変えない簡素な二次加工で作出されたものが多く、ベック・ノッチ・鋸歯縁石器などの鋸歯縁石器類を主要な器種とし、厚型削器なども見られます。典型的な石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断できます。トラバーチン層をはさんで、第4層の上に堆積する第3層/第2層(35000~28000年前頃?)では、ベック・ノッチ・鋸歯縁石器などの石英製の鋸歯縁石器類を主要な器種とする石器群に、第3層では石英岩や珪質頁岩を素材とした小~中型石刃やそれを剥離した直方体小口面型石刃石核、石英製小型円形掻器、第2層では石英製掻器・磨製骨角器などの後期旧石器的な要素を見出すことができます。また、黒曜石製剥片1点が地中のクラックから採集されていますが、出土レベルや表面の状況から第3層に包含されていた可能性が高いと報告されています。第3層・第2層の石器群も石英素材の鋸歯縁石器群(DQ群)と判断できます。

 山西省下川遺跡群では、富益河圪梁地点において、第4層(微紅色砂質粘土層、38000年以上前)で、石英岩・石英砂岩を主な石器石材とする単設打面石核(6点27.3%)、両設打面石核(8点36.4%)、多面体石核(8点36.4%)などの石核、同じく石英岩・石英砂岩を素材とした礫器10点、多面体石器もしくは石球5点、ピック4点などの大型石器、ノッチ・ベック・非典型的な掻器などの剥片石器が出土しました。石核には打面調整などは見られません。これらとは別に、本層で石英岩・砂岩製の剥片、礫器5点、石球1点に交じって燧石製剥片・スクレイパー・鋸歯縁石器若干が出土しています。礫器を多くもつ鋸歯縁石器群(DP群)、もしくは長い石核石器(LCT)をもつ鋸歯縁石器群(DL群)と考えられます。第4層の上に堆積する第3層(紅褐色粘土層:4万年前頃)では、石英砂岩・砂岩・石英岩などを用いた、少数の礫器・ベック・ノッチなどが出土しました。礫器を多くもつ鋸歯縁石器群(DP群)と考えられます。第3層上に堆積する第2層(褐色亜粘土層)では、下半部に石英岩・石英砂岩・砂岩などを素材とした磨盤・礫器・斧形石器・多面体石器などの粗大な石器に、石英岩・石英砂岩・フォルンフェルスなどを石器石材とした掻器・削器・鋸歯縁石器などの大ぶりな剝片石器、少数のチャート製剥片石器を伴う石器群が報告されています。これには、漏斗状・亀甲状・多面体石核、チョッパーコアなどが見られますが、石刃状剥片の剥離痕を残すものも散見されます。富益河圪梁地点では、最古の旧石器文化は、石英砂岩を主な素材とした簡易な石核-剥片技術石器群であり、前期旧石器から中期旧石器に相当します。その後、黒色チャートを素材とした簡易な石核-剥片技術石器群の段階(43000~39000年前)、台形石器を含む黒色チャート製石器群に石英砂岩製打製石斧・片刃石斧(手斧)、赤鉄鉱を粉化した磨盤などがみられる段階(39000~-29000年前)、石刃技術をもつ細石刃石器群の段階(29000~26000年前頃以降)と続きます。このうち、39000~29000年前段階の石器群は後期旧石器的な石器群(UP群)もしくは台形石器をもつ石器群(TB群)、29000~26000年前頃以降の石器群はM群と判断できます。小白樺圪梁地点では、富益河圪梁地点の第3・4層に対応すると考えられる赤色粘土層上面に堆積する第3層(頂部に黒色帯をもつ橙黄色亜粘土層、3万年前頃)では、チャート・メノウを主な石器石材とする剥片石器群が出土しました。調整を施さない節理面を打面とする単設、両設石核、両極打撃によるものから剥離され剥片を素材とする、掻器2点、削器7点、楔形石器2点、ベック1点、鋸歯縁石器1点、砂岩製礫器1点が出土しました。このうち、掻器に分類された「掻器―彫器」は、分厚い剥片を素材とした小石刃石核の可能性が高く、鋸歯縁石器群(D群)と判断できそうです。第3層上に堆積した第2層(灰褐色亜粘土層、27000~25000年前頃)以上では、チャートを主な石材とする細石刃石器群(M群)が出土します。小白樺圪梁地点第3層・第2層は、富益河圪梁地点第2層下半部・同上半部にそれぞれ対応すると推測されます。

 寧夏回族自治区水洞溝遺跡群の最古の段階の石器群は、Loc.1(の下文化層(41300~40400年前)、Loc.2の第7文化層(41400~40400年前)に代表されます。盤状石核を含む石刃石核から剥離された大型石刃、ならびにそれを素材とする各種のトゥールで構成される石器群(B群)です。確実な年代値をもたないLoc.9のB群の石器群もこの段階と考えられます。次いで、単打面石核や多面体石核、両極打撃によるものなどで剥離された不定形な剥片を素材とする掻器、削器で構成される石器群(UP群)、あるいは、削器を中心とし、ノッチ・鋸歯縁石器・各種尖頭石器などの見られる鋸歯縁石器群(D群)が盛行します。前者には、Loc.2 第6・第5b・第4・第3(32600~31600年前)・第2(31200~28800年前、第1a(28200~27300年前)の各文化層、後者にはLoc.7(OSLで27200±1500年前頃)、Loc.8(31300~29900年前)などが挙げられます。このうち、Loc.2第2・第1a文化層には、良質な石材を用いた小石刃も見られます。また、ダチョウの卵殻(Loc.2第2文化層、Loc.7、Loc.8)や淡水性貝類の貝殻(Loc.2第3文化層)を素材とするビーズなども報告されています。この段階では、Loc.2第5a文化層(32800年前)でB群の石器群が検出されています。

 河南省龍泉洞遺跡では、最深部に当たるC区第3層(42000年前頃)、主要な堆積層であるC区第2層・D区(35000~31000年前頃)出土の石器群が一括して報告されています。石器群は石英を主な石器石材とし、単設打面石核(23点24%)、複設打面石核(33点34%)、多面体石核(2点2%)、礫器状石核(チョッパーコア)を含む盤状石核(5点5%)、両極打撃によるもの(14点15%)から剥離された剥片を素材とした削器(34点71%)、尖頭器(2点4%)、錐・ベック(12点25%)などのトゥールで構成され、DQ群と判断できます。このうち、C区第2層に入ると、石刃状剥片を含む縦長剥片が目立つとともに、磨製骨器(骨錐)が出土しました。

 これらをまとめると、以下のようになります。
●チンスタイ遺跡
第8層(47034~43720年前、44289~42306年前):D群+ルヴァロア技術
第7層(39690~37825年前、40286~38664年前):D群+ルヴァロア技術
第6層・第5層(27680~-27044年前):D群+大型石刃、磨石+M群
●寿山仙人洞遺跡
下文化層(第4層はウラン系列法で162100±18000年前、第3層):D群
上文化層(第2層40008~37319年前):D群+黒曜石製石器,磨製骨器
●小孤山仙人洞遺跡
第2層下部(44641~43306年前頃?):閃長岩製のルヴァロアポイント
第2層上部から第3層(40000~21000年前頃):DQ群+磨製骨器、装身具
●油房遺跡
第4層(OSLで56000~52000年前頃)・第3層下半部(OSLで52000~48000年前頃):D群
第2層中・下部(OSL で35200~27400年前頃):UP群もしくはTB群
第2層上部(OSL で274000年前頃以降):M群
●水簾洞遺跡
第4層(425000年前頃):DQ群
第3層/第2層(35000~28000年前頃?):DQ群+小・中型石刃,掻器、磨製骨器,黒曜石製剥片
●下川遺跡群
第4層(38000年前頃以上):DP群もしくはDL群。
第3層(4万年前頃):DP群
第2層下半部(3万年前頃):D群もしくはUP群もしくはTB群+磨盤、石斧類、赤鉄鉱
第2層上半部(27000~25000年前頃):M群
●水洞溝遺跡群
第1段階(41400~40400年前):B群
第2段階(32600~27300年前):UP群もしくはD群、B群+装身具、小石刃
●龍泉洞遺跡
第3層(42000年前):DQ群
第2層(35000~31000年前):DQ群+石刃状剥片・縦長剥片、磨製骨器

 本論文は、中国北部における石器群の様相の変化を、冒頭では42000~40000年前頃としましたが、これまでに検証してきた各遺跡の石器群の変遷からは、41500~40000年前頃まで絞り込めた、と指摘します。41500~40000年前頃以前には、鋸歯縁石器群グループ(D群・DQ群・DP群)が盛行します。この段階でのD群・DQ群には、石刃技術・掻器・磨製骨角器などの後期旧石器的な要素は見られません。代わりにチンスタイ遺跡では、ルヴァロア技術がともなっているほか、小孤山仙人洞でも単品ながらルヴァロア尖頭器に類似する資料が出土しています。このほか、西方の中期旧石器にみられるカンソンポイント・タヤックポイントなどに類似した尖頭器類も共伴しています。このため、4万年前頃以前が中国北部の中期旧石器時代と言えます。41500~40000年前頃になると、大型石刃石器群(B群)が一時的、局地的にみられる。B群は、中国北部の初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)と言えます。4万年前頃以後、鋸歯縁石器群グループ(D群・DQ群・DP群)に加えて、後期旧石器的なトゥールをもつ石器群(UP群)、台形石器・ナイフ形石器をもつ石器群(TB群)が見られるなど、石器群が多様化します。また、しばしば装身具や磨製骨角器や小・中型石刃や掻器・彫器などの後期旧石器的な要素が伴います。28000~27000年前頃以後は細石刃石器群が盛行します。41500~40000年前頃に見られる大型石刃石器群(B群)を考慮すると、41500~40000年前頃以後が中国北部の後期旧石器時代と言えます。

 このように、中国北部においては、41500~40000年前頃を境に中期旧石器から後期旧石器に変遷します。しかし、41500~40000年前頃の局地的な大型石刃石器群(B群)を除けば、いずれも主体的な石器群は鋸歯縁石器群集団です。また、4万年前頃以後、鋸歯縁石器群に後期旧石器的な要素が付加された結果、素材剥片の定形化、縞状剥離や刃つぶし加工などの出現に示される二次加工の洗練化、掻器や背付き石器類など、新たな器種の登場などの構造変化が鋸歯縁石器群に起き、後期旧石器的なトゥールをもつ石器群(UP群)、台形石器・ナイフ形石器をもつ石器群(TB群)が派生した、と考えられます。このように、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代にかけての変遷の特徴として、主体となる石器群に断絶が見られず、連続的・漸移的に変化していく点がきわめて特徴的と言えます。石器群に断絶がみられるのは、28000~27000年前頃における細石刃石器群(M群)の出現まで待つことになります。

 これら中期~後期旧石器時代の石器群の担い手についてですが、中期旧石器時代の石器群については、河南省の霊井(Lingjing)遺跡の下文化層(第11層:OSLで125000~105000年前頃) でDQ群とともに非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の「許昌人」が発見されています(関連記事)。許昌人が種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)である可能性も指摘されています。河北省侯家窰遺跡の上文化層(ウラン系列法で125000~104000年前頃もしくはOSL で60000±8000~69000±8000年前頃)では、DQ群もしくはD群とともに古代型ホモ属の許家窰人が発見されています。中国北部では、これらより新しい年代の確実な古代型ホモ属の出土例は知られていません。そのため現時点では、中国北部で古代型ホモ属の生存が明確なのは、酸素同位体ステージ(OIS)5までとなり、以後、OIS3(4万年前頃)の現生人類(Homo sapiens)である田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)人が確認されるまで、その住人の動向は不明です。他には、内モンゴル自治区シャラオソゴル遺跡群の楊四溝湾・范家溝湾・米浪溝湾・劉家溝湾などの地点で、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5となるシャラオソ層群において、D群ともに現生人類あるいはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)的な特徴をもつ人骨が出土していますが、評価が定まっていません。また、年代測定がなされていない遼寧省鴿子洞遺跡では、D群とともに頭頂骨・側頭骨・膝蓋骨の破片が出土しました。それらの形態的な特徴は現生人類と変わらない、と報告されています。さらに、山西省西溝遺跡(ウラン系列法で5万年前頃)では、D群とともに出土した人骨が現生人類と同定されています。

 後期旧石器時代では、上述のように田园洞窟遺跡で現生人類の遺骸が発見されており(42000~39000年前頃)、赤色顔料片が共伴しています。周口店山頂洞(35100~33500年前頃)では、DQ類・各種磨製骨器・装身具・赤色顔料などともに現生人類の山頂洞人が出土しています。山西省峙峪遺跡(36200年前頃)でもD群に伴って現生人類の峙峪人が出土しました。これらの報告からは、後期旧石器時代の中国北部の人類は現生人類のみだった、と考えられます。

 本論文は最後に、中国北部の中期旧石器時代と後期旧石器時代の石器群間にも見られる連続性、4万年前頃以降の後期旧石器的な要素の付加と石器群の漸移的な変化、古代型ホモ属と現生人類の年代などに基づいて、中国北部における中期旧石器時代から後期旧石器時代への変化のシナリオを提示しています。まず、41500~40000年前頃以前には、中期旧石器時代OIS5まで、中国北部には古代型ホモ属集団のみが分布していました。その後、現生人類集団が中国西南部を含む中国南部から中国北部へ拡散し、在地の古代型ホモ属集団と置換しました。田園洞人の年代(42000~39000年前頃)から、4万年前頃には置換が完了していたと考えられます。古代型ホモ属集団から現生人類集団に引き継がれたか、両集団ともに鋸歯縁石器集団(D群・DQ群・DP群など)を使用していました。なお、中国南部の現生人類集団の北上時期に関しては、河南省織機洞第8・9層(MIS4~MIS3初頭?)など、中国南部に普遍的な石英砂岩を多用し、礫器を多くもつ石器群(PF群)の中国北部における動向に注意を向ける必要がある、と本論文は指摘します。

 41500~40000年前頃、B群の担い手である現生人類集団が西方もしくは北方から中国北部に侵入し、鋸歯縁石器群集団を保持する在地の現生人類集団と接触しました。4万年前頃以後、中国北部の在地現生人類集団が西方の現生人類集団と接触し、小石刃やダチョウ卵殻製装身具などのあらたな要素を受容して、鋸歯縁石器群の変容が進行し、後期旧石器的な石器群(UP群)や台形石器や背付き尖頭器をもつ石器群(TB群)などが派生します。28000~27000年前頃以後、北方の後期旧石器時代前期もしくは中期の担い手集団が中国東北部に南下し、在地の新人集団が後期旧石器時代前期や中期の石器技術を受容します。そのさい、細石刃技術が発明され、受容した石器群に組み込まれていた小石刃技術と置換し、細石刃石器群(M群)が成立して、中国北部に拡散しました。


参考文献:
加藤真二(2020)「いくつかの事例からみる中国北部における後期旧石器の開始について」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P23-30

中川和哉「朝鮮半島南部におけるMIS3の石器群」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P73-77)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 朝鮮半島の旧石器時代石器群は、全谷里遺跡を代表とする石英製の握斧(ハンドアックス)を含む大型石器を特徴とするアシューリアン(Acheulian)類似石器群、石刃素材の剥片尖頭器石器群、細石刃石器群に大きく3区分できます。これら3区分される石器群がどのように置換されていくのか、あるいはこれら以外の抽出されていない石器群があるのかについては、それぞれの石器群の年代観が多様であったため、長く論議が深まりませんでした。

 21世紀になり、石英製の大型石器を含む石器群が前期旧石器時代(ユーラシア西部では下部旧石器時代、サハラ砂漠以南のアフリカではおおむね前期石器時代に相当)ではなく、世界的には中期である海洋酸素同位体ステージ(MIS)5まで存続する、と明らかになりました。剥片尖頭器石器群は、MIS3以降、細石刃石器群は MIS2以降に位置づけられました。MIS3以降の石器の編年には通常、放射性炭素年代測定法が有効ですが、韓国内では明らかに測定値に石器群や地層の観察結果と齟齬する年代が多くあり、問題点が多々認められます。本論文は、レス(黄土)-古土壌編年でMIS3と認められる資料を選び、それと齟齬のない年代値や、土壌ではなく炭に限った複数の年代測定がある遺跡を取り上げます。

 MIS3を特徴づける石器は、剥片尖頭器です。剥片尖頭器は、凝灰岩・スレート・頁岩・流紋岩など、石英に比べて石理などの影響されにくい石材を好んで用いる傾向があり、石器素材は石刃です。その出現年代については、龍湖洞遺跡において剥片尖頭器を含む3文化層のAMS年代が38500±1000年前と推定されましたが、報告書出版当時はその年代の古さから、測定された資料は混入したもので石器群と直接関係のない炭ではないか、と懸念されました。

 2013年のスヤンゲ遺跡第VI地点の発掘調査により4枚の旧石器文化層が検出されました。そのうち3・4文化層から剥片尖頭器を含む石器群が発見されました。両石器群ともにスレートを主体とする石器群で、剥片尖頭器が主な利器です。較正年代では、第4文化層は41874~41254年前、第3文化層は40172~39321年前と推定されています。これは龍湖洞遺跡3文化層の年代ときわめて近くなっています。スヤンゲ遺跡石器群の特徴は、剥片尖頭器や石刃、石刃石核が多く出土するのに対して、掻器・削器などの比率が低いことです。そのため、石器石材の豊富にある地点に所在する石器制作址として位置づけられています。同じような遺跡には、同じく原産地に位置する古禮里遺跡があり、石刃や石核の比率が高いと報告されています。石器群は低段丘面上の最下層の古土壌層から発見されており、同じMIS3の石器群と考えられます。

 同じく剥片尖頭器を主体とするMIS3の龍山洞遺跡は、石英とフォルンフェルスがほぼ同比率の剥片尖頭器石器群です。石刃はすべてフォルンフェルス製です。剥片尖頭器は1点を除き37点がフォルンフェルス製で、石材・剥片剥離技術・石器に強い結びつきが見られます。石英は掻器・削器・ノッチ・鋸歯縁状石器・多面体石器などに用いられています。剥片尖頭器には、茎の部分で折れたものが多く、使用による破損の可能性もあり、スヤンゲ遺跡との違いが見られます。また、加工具と考えられる石器の比率も高いことから、石器製作祉とキャンプサイトとの性格を併せ持つと考えられます。

 石英が主体となる同じくMIS3の石器群である好坪洞遺跡第1文化層では、凝灰岩製の剥片尖頭器が出土していますが、掻器やベックや削器など加工具と考えられる石器の比率が高くなっています。MIS5以前の石器群でよく見られた多面体石器も存在しています。また、石刃は検出されているものの石核がなく、素材剥片製作の形跡が認められません。そのため、キャンプサイトとしての性格が位置づけられています。これらから、石器製作に適した石材原産地への回帰モデルが想定され、石材消費が進むにつれて、在地の石材が狩猟具以外に用いられ、狩猟具の保有数も減少する、と考えられます。

 剥片尖頭器の初源については、正荘里遺跡の石英製石器2点が報告されています。そのうち1点では、平面形は茎を持つ形状をしており、石器の最大幅が約3.5cm、厚さが2.5cmとひじょうに分厚く、表裏に剥離面が認められます。素材は、通常の剥片剥離によるものではなく、石英製石器によくみられる破砕片を用いています。これを刺突具とみなした場合、先端部はあまり鋭くなく、基部は断面が背の高い三角形で、その角部分には硬いものとの接触でできたと考えられるツブレが確認できます。これらの所見から、錐と考えられます。もう1点は、先頭部分の折れた剥片尖頭器と解釈されていますが、横方向の力によって剥がされた石英製剥片を素材としており、剥片端側の半分がおそらく剥離時に折れ、形状が茎状になったものです。これらの所見から剥片として位置づけられます。現在確認できる資料では、剥片尖頭器は石刃技法および均一性のある石材と結びつきが強い、と言えます。

 炭素を用いた年代測定では、5万年前頃が限度とされ、古いほどその誤差が大きくなります。そのため、4万年前頃の年代とされる剥片尖頭器とそれに先行する石器群とを、単純に測定値で対比することは困難です。本論文は、同じ遺跡での層位的違いが判明しているものと、同じMIS3の石器群でありながら様相の異なる石器群を対象としています。石英を主体とする石器群としては、禾岱里遺跡と坪倉里遺跡があります。禾岱里遺跡では、多面体石球以外に定型的な石器がほとんど見られないため実態が不明ですが、坪倉里遺跡では、石核も含めて多くは5cm以下の石器が主体です。剥片剥離技術には平坦面から連続して剥片がとられているものも存在します。また、石器にはベック・ノッチ・削器・多面体石器の他に、刃部が弧状に形成された掻器も存在し、石英以外の円礫を持ち込み敲き石として用いており、MIS5以前の石器群との違いを見せています。石刃技法に関連する遺物はなく、遠隔地石材の搬入も認められません。多面体石器は、後期旧石器時代においても石英製石器がある程度作られる遺跡では存在しており、石器製作に伴う石器と考えられます。

 石英以外を石器石材の主体とする石器群の多くは、朝鮮半島南東部に所在しています。この地域には、火山岩や熱変性を受けた堆積岩などを含む慶尚累層群が広く分布しており、石器に適したフォルンフェルスや頁岩なども入手しやすい環境にあります。この地域の遺跡に新華里遺跡があり、太和江の右岸にある低地から丘陵地にかけて広がっています。新華里遺跡は蔚山新華里遺跡・彦陽新華里遺跡と異なった名称で報告されていますが、彦陽新華里遺跡のトレンチは蔚山新華里遺跡のB6-1地区とセクションを共有して隣接して設けられており、同じ層位から石器が出土しています。低地は農地整備により平坦化されているものの、元から低地だったと考えられますが、地層の観察から低段丘に相当します。このように沖積地と考えられるような地点に埋没化した段丘があることは、韓国ではよく観察されます。低い丘陵地も礫層をベースとしてレスや古土壌の堆積が認められることと、低段丘との礫層の標高の違いから、中位段丘以前の段丘面と考えられます。

 低段丘面には彦陽新華里遺跡のB区間トレンチと蔚山新華里遺跡のB6-1地区(以下、B地区) があり、高位の段丘上には蔚山新華里遺跡A4-5地区(以下、A 地区)が設定され、それぞれから旧石器文化層が検出されています。B地区では、古土壌層から2枚の旧石器文化層が検出されており、下層から1文化・2文化と命名され、A地区で検出された文化層は3文化とされています。B地区では光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代が測定され、28400±1600年前と推定されています。年代はMIS2を示していますが、断面の古土壌化や土壌楔の入り方からMIS3の古土壌と考えられ、OSL年代もまた信用できない、と本論文は指摘します。

 1文化層は、フォルンフェルスを石器石材に用いる石器群で、明確な石刃技法は見られませんが、 縦長傾向の大型の剥片や石刃の可能性のある折れた剥片などが存在します。石器では、大型のベックや端部に弧状の刃部を持つ掻器が特徴的です。石器製作には安山岩質凝灰岩とされる敲石があり、石器には用いない石材のものが複数存在しています。石器製作具と石器素材を分けて所有することは、MIS5以前には見られない傾向です。また、石英を主体とするMIS3の石器群に見られる多面体石器は確認できません。2文化層でも同じくフォルンフェルスを主体とする石器群が見られ、同じように大型ベックや端部に弧状の刃部を持つ掻器があり、1文化と同一の文化層と言えます。

 彦陽新華里遺跡では、石刃といってよい剥片が出土しています。3文化層ではフォルンフェルスを主体とする石刃石器群が検出されています。主要な石器は剥片尖頭器です。その他に大型のベックがあり、他の剥片尖頭器石器群ではあまり見られない様相を示しています。敲石には硅岩・礫岩・砂岩など他の石材が用いられており、すべて円礫です。中には凹石や磨石の機能を持つものも確認されます。3文化は剥片尖頭器という利器を持っていますが、1・2文化には利器と考えられる着柄するための先端部を持った石器が存在しません。一方、同じように大型のベックが存在し、MIS5以前に見られた石器を持つ共通性が見られますが、握斧類や石球は認められないことから、フォルンフェルス原産地遺跡における伝統として把握できます。

 MIS3の石器群には、上述のように、石刃技法を背景にした剥片尖頭器石器群と、それ以外の明確な狩猟具を持たない石器群とに分かれます。明確な狩猟具を持たない石器群では、MIS2にも継続して剥片尖頭器石器群が認められることから、剥片尖頭器石器群以前のものと考えられます。また、剥片尖頭器は、正荘里遺跡出土資料の検討の結果、石英製石器群から生じた可能性が低いことも分かりました。石製の狩猟具を持たない石器群は、石英を主体とする石器群とフォルンフェルスなどの石材を主体とする石器群に細分できます。相互に異なった様相を見せますが、皮なめしなどに用いる円弧状の刃部を持つ掻器や、石材を選択した敲石の存在など、MIS5の石器群とは異なる後期旧石器的な様相を見せます。

 剥片尖頭器を含む石器群では、石刃は狩猟具である剥片尖頭器の素材で、他の石器には特定の結びつきがありません。狩猟具を作らないのであれば、石刃技法など完成形態を想起した剥片製作の必然性はなく、特定の技術に最適な遠隔地石材を入手する必要も少なくなります。本論文は、剥片尖 頭器を持たない2つの石器群に関して、石材環境の違いにより違った様相を見せている、と想定します。剥片尖頭器を持たないMIS3の石器群は、明らかに中期のMIS5の石器群とは異なっており、積極的捕食者である現生人類(Homo sapiens)ならば、他に狩猟具を保持していたと考えられます。そのため本論文は、石以外の素材の狩猟具が存在した、と推測しています。その後、狩猟具を石で作る契機があり、石材産地から石刃技法に適した石材獲得をする必要が生じ、剥片尖頭器を含む文化が成立した、と考えられます。本論文は、朝鮮半島で盛行する剥片尖頭器の形態に関して、先行して存在していた茎のある有機物性槍先の形状から生じた可能性も指摘しています。


参考文献:
中川和哉(2020)「朝鮮半島南部におけるMIS3の石器群」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P73-77

ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係に関する研究(Nikitin et al., 2019)が公表されました。線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)は、ヨーロッパ中央部の新石器時代の始まりにおいて重要な役割を果たしました。文化的・経済的・遺伝的に、LBKは究極的にはアナトリア半島西部に起源がありますが、在来のヨーロッパ中石器時代狩猟採集民社会の明確な特徴も示します。LBKの起源に関しては、いくつかのモデルが長年にわたって提案されてきました。在来モデルでは、LBKはアジア西部の新石器時代一括要素への適応を通じて、在来の中石器時代狩猟採集民集団により、境界での接触および文化的拡散を通じて確立された、と示唆されます。

 統合モデルでは、LBKの形成は植民化・境界移動および接触のようなメカニズムを通じての、中石器時代狩猟採集民の農耕牧畜生活様式への統合として説明されます。このモデルでは、スタルチェヴォ・ケレス・クリシュ(Starčevo-Körös-Criş)文化(SKC)と関連する小集団、おそらくはヨーロッパにおけるLBKの先行者が、祖先の大半がアナトリア半島から早期に到来したバルカンの故地を離れ、北西部へと新たな領域に定着した、と想定されます。在来の中石器時代集団との接触および生産物の交換は、狩猟採集民の農耕民共同体への同化をもたらし、そこでは農耕慣行が採用されました。そうした相互作用の証拠は、明確なSKC関連墓地のあるハンガリー北東部のティスザスゼレス・ドマハザ(Tiszaszőlős-Domaháza)遺跡に存在し、ほぼ狩猟採集民の遺伝的系統の個体群の埋葬を含みます。

 移民モデルでは、中石器時代ヨーロッパ中央部の低人口密度地域が、SKC文化と関連する開拓者の農耕牧畜集団に取って代わられ、しだいに在来の狩猟採集民集団は撤退させられていき、その狩猟採集民は到来してきたスタルチェヴォ移住民に顕著な影響を与えなかった、と想定されます。このモデルでは、在来集団の物質文化特徴の組み込みなしに、新たな到来者たちはその祖先的物質文化を新たに定着した領域で複製した、と想定されます。新たな環境と資源への技術革新と適応に起因して、いくつかの変異的文化が生まれ、石器や土器や建築物質技術において変化が見られます。同時に、装飾的デザインのような象徴的な体系は変化ないままでした。このモデルは1950年代末に出現し、20世紀後半に広く支持されました。

 現在まで、古代DNA研究により、新石器時代ヨーロッパ農耕民集団は、おもにアナトリア半島中央部および西部の新石器時代農耕民(ANF)の遺伝的子孫と示されてきました。それらの遺伝的痕跡は、在来のヨーロッパ中央部の中石器時代狩猟採集民(WHG)とは、ミトコンドリアDNA(mtDNA)やY染色体のような単系統でもゲノム規模でも異なります。それにも関わらず、新たな到来者たちが文化的および遺伝的に在来の狩猟採集民とどの程度相互作用したのか、不明確なままです。つまり、統合主義もしくは移行主義のモデルがどの程度正確なのか、不明です。

 遺伝的に、新石器時代ヨーロッパ中央部農耕民はWHG集団の遺伝的祖先特徴をわずかしか有していませんが、アナトリア半島農耕民のヨーロッパ新石器時代の子孫の遺伝子プールにおけるWHG混合の程度と時期は、ヨーロッパ中央部全域で様々です。ヨーロッパ新石器時代農耕民におけるWHG系統の量は、現在のハンガリーとドイツと他のヨーロッパ地域において、新石器時代を通じて増加する傾向にありますが(関連記事)、その混合の最初の程度は未解決のままです。それは部分的には、新石器時代農耕民移住民の最初の段階と同時代の人類遺骸が少ないためです。

 オーストリアのウィーン南方に位置する、ブルン複合遺跡(the Brunn am Gebirge, Wolfholz archaeological complex)の一部であるブルン2(Brunn 2)遺跡は、オーストリアで最古の新石器時代遺跡で、ヨーロッパ中央部でも最古級となります。ブルン2遺跡はLBKの最初の段階に区分され、形成期と呼ばれています。放射性炭素年代測定法では、ブルン2遺跡の較正年代は紀元前5670~紀元前5350年前です。ブルン2遺跡形成期のおもな特徴は、洗練された土器の欠如と明確なスタルチェヴォ文化の特徴を有する粗放な土器の使用です。ヨーロッパ最初の農耕民の文化的属性の形成におけるアナトリア半島からの移民の主導的役割は、ブルン2遺跡の人工物の比較類型学的分析で明らかです。

 ブルン2遺跡では、土器や石器といった豊富な人工物とともに人形や笛などいくつかの象徴的遺物が発見されており、儀式活動が行なわれた大規模なLBK共同体の「中央集落」の一部だった、と示唆されています。ブルン2遺跡では4人の埋葬が確認されています。この4人の被葬者は、個体1(I6912)・2(I6913)・3(I6914)・4(I6915)です。4人全員の歯はひじょうに摩耗しており、おもに植物性食料を摂取していた、と示唆されます。放射性炭素年代測定法により、この4人の年代はブルン複合遺跡の最初の段階と確認され、最初のヨーロッパ中央部新石器時代農耕民となります。本論文は、これら4人の遺伝子と同位体を分析し、その起源と食性と移動を調査します。

 ブルン2遺跡の4人のうち、3人(I6912・I6913・I6914)で有用な遺伝的データが得られました。この3人は男性で、mtDNAハプログループ(mtHg)は、I6912がJ1、I6913がU5a1、I6914がK1b1aです。Y染色体ハプログループ(YHg)は、I6912がBT、I6913がCT、I6914がG2a2a1aです。I6912とI6913は、網羅率が低いため、さらに詳細に区分できませんでした。全ゲノム配列からは一塩基多型データが得られました。核DNAの網羅率は、I6912が0.035倍、I6913が0.006倍、I6914が0.497倍です。

 主成分分析では、I6912とI6914がANFおよびそれと密接に関連するヨーロッパ新石器時代農耕民(ENF)と集団化する一方で、I6913はWHGに最も近いものの、ENFとANFにより近づいています。ただ、I6912とI6913、とくに後者の網羅率は低いので、主成分分析における位置づけには注意する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文はf統計を使用し、WHG関連系統の割合を、I6912は12±3%、I6913は57±8%、I6914は1%未満と推定しています。さらに、I6912のWHG系統は、ヨーロッパ南東部の狩猟採集民よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近い、と推定されました。I6913では、この区別が正確にはできませんでした。I6914はANFおよびヨーロッパ南東部のスタルチェヴォ関連個体群とほぼ対称的に関連している一方で、ヨーロッパ中央部の他のLBK集団と過剰にアレル(対立遺伝子)を共有しています。I6914と他のLBK個体群とのI6912およびI6913と比較しての高い遺伝的類似性は、これまでに研究されているアナトリア半島およびヨーロッパ南東部の農耕民とは共有されないわずかな遺伝的浮動を経験した集団出身である、と示唆します。

 安定同位体(炭素13および窒素15)の有用なデータが得られたのはI6914と I6915です。安定同位体分析では、ブルン2遺跡個体群はアナトリア半島およびヨーロッパの新石器時代農耕民の範囲内に収まり、C3植物もしくはそれを食べた草食動物におもに食資源を依存していた、と推定されます。歯のエナメル質のストロンチウム同位体分析では、幼児期の場所が推定されます。ブルン2遺跡個体群では、I6912はブルン2遺跡一帯の出身で、I6913は外部出身と推定されます。同位体分析では、窒素15の値から、より新しい個体で高くなっている、と示されます。これは、ヨーロッパ中央部の初期農耕民ではアナトリア半島の栽培植物が気候の違いから不作となり、農作物よりも動物性タンパク質に依存するようになったことを示しているかもしれません。あるいは、家畜の増加によるものである可能性もあります。

 ヨーロッパ中央部の早期新石器時代の遺骸は比較的豊富ですが、同時期の狩猟採集民の遺骸はほとんど知られていないので、とくにヨーロッパ新石器化の最初期段階における、狩猟採集民の生活様式や拡散してきたアナトリア半島起源の農耕民との統合に関する理解は難しくなっています。上述のように、この時期のヨーロッパにおける拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との混合は限定的と推測されていますが、農耕民から狩猟採集民への生産物の流通が報告されてきており、両者の交流は少なくとも一定以上存在した、と考えられます。

 ブルン2遺跡個体群の生物考古学的分析は、ヨーロッパ中央部における早期ENFの生活史の推測を可能とし、アナトリア半島起源の移住してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の最初期の相互作用の証拠を提示します。ブルン2遺跡の3人のmtHgのうち2系統(J1とK1b1a)は、近東の新石器時代個体群とヨーロッパにおけるその子孫たちで一般的に見られるものです。一方、I6913のmtHg-U5a1などU5は、ヨーロッパの狩猟採集民に特徴的と考えられてきましたが、最近、アナトリア半島中央部のチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡の個体でU5b2の個体が確認されています(関連記事)。I6914はYHg-G2a2a1aで、ANFおよびENF集団に特徴的なG2a系統です。カルパチア盆地とヨーロッパ南東部の早期新石器時代遺跡のLBK関連遺骸の以前の研究では、YHg-G2aは早期ENFで優勢とされています。同時期のmtHgの高い多様性は、早期LBK共同体におけるYHgの減少を示唆します。しかし、LBK集団における性比偏りの証拠は見つかっていません(関連記事)。

 I6914は遺伝的にはほぼANF関連系統となり、LBKやSKCを含むENF関連個体のほぼ全員と一致します。WHG関連系統は、I6914にはほとんど見られませんが、I6912とI6913では確認されます。アナトリア半島起源のANF関連系統の個体群がヨーロッパ南東部を経てヨーロッパ中央部に拡散する過程で、ヨーロッパ在来のWHG関連系統個体群と混合したと考えられますが、その年代は特定できなかったので、それがブルン2遺跡一帯とヨーロッパ中央部到来前のどちらで起きたのか、不明です。あるいは、ブルン2遺跡の移民が、ブルン2遺跡よりも600年ほど早くアナトリア半島からバルカン半島に移住し、WHG関連系統個体群を取り込んだ集団と交流したか、その子孫だった可能性も考えられます。しかし、I6913ではWHG関連系統の割合が高く、それよりは低いものの有意にWHG関連系統を有するI6912では、ヨーロッパ南東部よりもヨーロッパ西部および中央部の狩猟採集民の方に近いWHG関連系統と推定されているので、ヨーロッパ中央部に到達してからの最近の混合である可能性が高そうです。

 ブルン2遺跡の石器群からは、早期ENFと在来の狩猟採集民との間の活発な相互作用が示唆されます。ブルン複合遺跡の15000個におよぶ石器群は、新石器時代農耕民が在来の狩猟採集民との交易のために狩猟用として製作した、と本論文は推測しています。早期LBK地域では暴力の証拠が欠如しており、LBK農耕民と在来の狩猟採集民との間の関係が悪くなかったことを示唆します。上述のようにI6913は外部出身と考えられますが、I6913の墓の石器は形成期LBKの集落が発見されたハンガリーのバラトン湖(Lake Balaton)の石で製作されたので、I6913はバラトン湖周辺地域の出身かもしれません。また本論文は、ブルン2遺跡の石器の製作には狩猟採集民社会出身者が関わっている可能性を指摘しており、そうだとすると、I6913における高い割合のWHG関連系統を説明できるかもしれません。

 ブルン2遺跡は、ヨーロッパ中央部における最初期新石器時代農耕民が、在来の狩猟採集民と文化的・遺伝的にどのような関係を築いたのか、検証するための格好の事例を提供します。ブルン2遺跡の個体群は、ANFとWHGの混合の第一世代だった可能性もあり、ヨーロッパ中央部の最初期新石器時代において、外来の農耕民集団と在来の狩猟採集民との間で、後期新石器時代程ではないとしても、一定以上混合が進んでいたことを示唆します。本論文は、ヨーロッパにおける新石器化に関して、アナトリア半島からの農耕民の移住が関わっており、さまざまな程度で在来集団と混合していった、と指摘します。この在来集団には、狩猟採集民だけではなく、より早期にバルカン半島に進出していた農耕民も含まれるかもしれません。今後の課題は、ヨーロッパにおけるANFと在来の狩猟採集民との関係をより広範に調査することです。


参考文献:
Nikitin AG. et al.(2019): Interactions between earliest Linearbandkeramik farmers and central European hunter gatherers at the dawn of European Neolithization. Scientific Reports, 9, 19544.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-56029-2

大河ドラマ『麒麟がくる』第19回「信長を暗殺せよ」

 織田信長は弟の信勝を殺し、母である土田御前に謝るとともに、恨み言をぶつけます。土田御前は、信長が小さい頃から自分の大切なものを壊してきた、と信長を責め立てます。1558年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、越前で浪人として逼塞していた明智光秀(十兵衛)は、国主の朝倉義景に呼び出され、将軍の足利義輝が三好長慶と和睦して戻った都の様子を探るよう、命じられます。久々に都に来た光秀は、三淵藤英・細川藤孝と再会します。

 光秀は藤孝から、信長が上洛してくる、と聞きます。藤英・藤孝とともに義輝に随行した光秀は、上洛してきた斎藤義龍(高政)と再会します。光秀は藤孝から、義龍による信長殺害計画がある、と聞きます。光秀は藤孝から、義龍を思いとどまらせる力は義輝にはないので、松永久秀を頼るよう、進められます。光秀は久秀とも再会し、久秀は光秀が無事だったことを喜びます。光秀に依頼された久秀は、信長殺害計画を思いとどまるよう、忠告します。義龍は光秀を呼び、いずれ信長を討つ、と宣言します。義龍は、尾張を併合して国を大きくするため、自分に仕えるよう、光秀に言いますが、光秀は即座に断ります。義龍は、多くの者を殺してきたが、信頼できる者はいないと光秀に打ち明け、どこにも仕えず何をしたいのか、と尋ねます。すると光秀は、ダリも手出しのできない大きな国を作る、という道三の遺言に従っている、と答えます。義龍は光秀に別れを告げ、もう会うこともないだろう、と言います。

 信長は義輝に謁見し、尾張平定を報告するとともに、今川の尾張侵攻を思いとどまらせるよう、願い出ます。義輝は信長に、今川義元よりも高い官職を提示しますが、それで今川が尾張侵攻を諦めるのか、信長も将軍近臣たちも懐疑的です。義輝は、自分には力がないと自嘲します。信長は久秀とも会い、尾張と摂津を交換し、交易に励みたい、と言い出します。もちろん、認められるわけはありません。久秀も、信長に不気味なところがあるのを認めます。

 今回は、光秀と斎藤義龍(高政)の再会とともに、都の情勢が描かれました。主要人物を通じて都の政治状況と将軍の無力を描く話は、歴史ドラマとしてよかったように思います。信長の不気味なところが本作では強調されてきましたが、光秀が信長に仕えるようになって、信長と光秀の関係がどのように変わってくるのか、注目されます。義龍は、再会すれば殺すと宣言していた光秀に、自分に仕えるよう誘いました。語りで義龍は2年後に病死したと明かされ、今回で退場となるのかもしれません。もちろん、義龍の最も信用する人物が「学友」である光秀ということもあるのでしょうが、すでに病気を自覚し、弱気になっていたのかもしれません。できれば、義龍の心理描写にもう少し時間を割いてもらいたかったものですが、あるいは撮り直しの影響で当初の予定より削られたのでしょうか。

痛みの民族間差

 痛みの民族間差に関する研究(Losin et al., 2020)が公表されました。アメリカ合衆国(米国)の奴隷制度時代から、アフリカ系米国人は「白人」の米国人よりも痛みをそれほど強く感じない、と言われてきました。この考えは、アフリカ系米国人の疼痛治療の機会が不充分だったことと関連づけられており、広範かつ持続的な人種間・民族間の健康格差の一因となっています。現実には、アフリカ系米国人、場合によってはヒスパニック系の米国人は、臨床的状況および実験的状況の両方において、非ヒスパニック系の「白人」よりも痛みを大きく訴える傾向があります。しかし、そのような違いの根底にある神経生物学的機序はこれまで不明でした。

 この研究は、痛みの感受性に見られる人種集団間の違いを明らかにするため、被験者にたいして、痛みを伴う熱刺激を加える実験的な処置中にfMRIスキャンを実施し、併せて19項目の社会文化的要因を解析しました。被験者は計88人で、内訳はアフリカ系米国人28人、ヒスパニック系米国人30人、非ヒスパニック系米国人30人です。その結果、体の痛みの強さを追跡可能な脳内指標である「神経学的疼痛シグネチャー」は、3集団でほとんど変わらない、と明らかになりました。しかし、アフリカ系米国人の参加者は、差別が介在した場合に、他の集団より強い痛みを訴えました。さらに、アフリカ系米国人の被験者の脳の前頭葉-線条体回路では体の痛みを伴う刺激に対する高い反応が見られたのに対して、他の集団では反応の高さは認められないことも明らかとなりました。こうした回路の活動は、人種差別および実験者への信頼と関連していました。過去の研究では、同回路の活動は、痛みの非身体的な側面と関連づけられていました。

 これらの知見は、アフリカ系米国人の感じる痛みのレベルが高いのは、一部には非身体的な痛みに関連する脳システムの違いにあるかもしれないことを示唆しています。これは、長期にわたって社会的に不当な扱いを受け続けてきた影響である可能性があります。この研究は、差別を減らして医療従事者への信頼を高めることを目的とした介入が、痛みに関する人種間の違いを小さくする有望な方法になり得る、と推奨しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


痛みの民族間差に寄与する神経的要因および社会的要因

 アフリカ系米国人は、ヒスパニック系の米国人や非ヒスパニック系の白人米国人と比べて、高いレベルの痛みを感じていると報告する論文が掲載される。これは、差別の歴史によってもたらされた、痛みに関連する脳回路上の変化に起因する可能性があるという。今回の研究は、アフリカ系米国人が他の集団よりも痛みのレベルが高いことに寄与する、痛みの評価、差別、対人関係と関連する脳領域のネットワークを特定している。

 米国の奴隷制度時代から、アフリカ系米国人は白人の米国人よりも痛みをそれほど強く感じないと言われてきた。この考えは、アフリカ系米国人の疼痛治療の機会が不十分であったことと関連付けられており、これが広範かつ持続的な人種間・民族間の健康格差の一因となっている。現実には、アフリカ系米国人、場合によってはヒスパニック系の米国人は、臨床的状況および実験的状況の両方において、非ヒスパニック系の白人よりも痛みを大きく訴える傾向がある。しかしながら、そのような違いの根底にある神経生物学的機序はこれまで不明であった。

 Elizabeth Losinの研究チームは、痛みの感受性に見られる人種集団間の違いを明らかにするため、被験者に痛みを伴う熱刺激を加える実験的な処置中にfMRIスキャンを実施し、併せて19項目の社会文化的要因を解析した(被験者は系88人で、内訳はアフリカ系米国人28人、ヒスパニック系米国人30人、非ヒスパニック系米国人30人)。その結果、体の痛みの強さを追跡可能な脳内指標である「神経学的疼痛シグネチャー」は3つの集団でほとんど変わらないことが判明した。しかし、アフリカ系米国人の参加者は、差別が介在した場合に、他の集団より強い痛みを訴えた。さらに、アフリカ系米国人の被験者の脳の前頭葉-線条体回路では体の痛みを伴う刺激に対する高い反応が見られたのに対し、他の集団では反応の高さは認められないことも明らかとなった。そしてこの回路の活動は、人種差別および実験者への信頼と関連していた。過去の研究では、同回路の活動は、痛みの非身体的な側面と関連付られていた。

 これらの知見は、アフリカ系米国人の感じる痛みのレベルが高いのは、一部には非身体的な痛みに関連する脳システムの違いにあるかもしれないことを示唆している。これは、長期にわたって社会的に不当な扱いを受け続けてきた影響である可能性がある。研究チームは、差別を減らして医療従事者への信頼を高めることを目的とした介入が、痛みに関する人種間の違いを小さくする有望な方法になり得ると推奨している。



参考文献:
Losin EAR. et al.(2020): Neural and sociocultural mediators of ethnic differences in pain. Nature Human Behaviour, 4, 5, 517–530.
https://doi.org/10.1038/s41562-020-0819-8

池上英洋『血みどろの西洋史 狂気の1000年』

 光文社新書の一冊として、光文社より2007年11月に刊行されました。本書はまず、ヨーロッパには『ヨーロッパの歴史』という共通教科書があり、ヨーロッパの相互の利害関係を排除した中立的視点で歴史を把握しようとしているものの、ヨーロッパをあまりにも美化していることが決定的欠陥である、と指摘します。このヨーロッパ共通教科書は、日本語版で400ページ以上の大部の書でありながら、たとえば魔女狩りに言及しておらず、初期キリスト教の迫害も稀だったと評価している、というわけです。そのため、この共通教科書を読んでも、ローマにカタコンベ(地下墓所)があったとの知識は得られても、その理由まで理解することは難しい、と本書は指摘します。

 本書はこうした観点から、中世を中心に西洋史のさまざまな「暗い側面」を取り上げていきます。そのため、暴露本的な露悪趣味の側面が多分にあるようにも見えるかもしれませんが、本書のこうした構成は、歴史とは少数の人々の英雄的な物語だけではなく、圧倒的多数のごくごく普通の人々の、延々と続く物語である、との認識にも基づいています。だからといって本書は、そうした圧倒的多数のごく普通の人々がごく少数の英雄たちに虐げられるだけのか弱い存在だった、と主張しているわけではなく、普通の人々の残酷さもまた描いています。また、著者の専門分野が美術史であるため、絵画が多く取り上げられているのも本書の特徴です。

 本書の具体的な内容は、すでに知っていたものもありましたが、勉強不足のため、新たに得た知見も少なくありませんでした。魔女狩りの残酷さは有名なのでさすがにある程度は知っていましたが、具体的な拷問方法までは詳しく知りませんでした。改めて、魔女狩りのおぞましさを確認しましたが、魔女狩り裁判による処刑を楽しむ人々が少なからず存在したことは、かなり特殊な側面もあるとはいえ、人間の普遍的な心理・認知機構に基盤があるでしょうから、現代でも、形を変えてそうした愚行が存在していないか、常に自省的であるべきとは思います。

単一細胞レベルでのヒト細胞全体像の構築

 単一細胞レベルでのヒト細胞全体像の構築に関する研究(Han et al., 2020)が公表されました。1人のヒトの体を構成する細胞は、それぞれ同じ基本的遺伝情報を持っていますが、発現する遺伝子は細胞によって大きく異なり、細胞の機能は、その細胞で発現する遺伝子により決まります。単一細胞解析は、複雑な系において細胞の不均一性を解き明かす上で有用なツールです。人体の全体について単一細胞の遺伝子発現を示したマップがあれば、これらの細胞の機能と細胞活性に影響する因子を理解する上で役立ちます。しかし、こうしたアトラスは、数種類の動物とヒトの一部の組織種について作成されていますが、包括的な単一細胞アトラスは、ヒトについてはまだ作製されていません。

 この研究は、成人と胎児の両方の組織を含むヒトの組織種(60種)について、中国の漢人のドナーから集めた50万点以上の単一細胞の単一細胞mRNA塩基配列解読を行なうことで、ヒトの全ての主要器官の細胞タイプの組成を決定し、ヒト細胞全体像(HCL)の地図を構築しました。このようなデータにより、異なる臓器を構成する細胞種の比較解析が可能となり、発生段階において個別細胞の遺伝子発現がどのように異なっているのか、解明するための手掛かりが得られました。

 得られた全体像からは、特性解析が進んでいなかった多くの組織において単一細胞の階層性が明らかになりました。この研究は、ヒト細胞アイデンティティーの定義に役立つ「単一細胞HCL解析」パイプラインを樹立し、ヒトとマウスの全体像について、両者で保存された遺伝学的ネットワークを特定するために単一細胞の比較解析を行ないました。その結果、幹・前駆細胞のトランスクリプトームは非常に確率論的であるものの、分化した細胞ではより明確な違いが見られる、と明らかになりました。この結果は、ヒトの生物学的研究に有用な情報資源となります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


生物学:人体の単一細胞マップ

 ヒトの全ての主要臓器の細胞種組成を示した論文が、Natureに掲載される。今回の研究では、中国漢民族のドナーから集めた50万点以上の単一細胞のRNAの配列解読が行われた。このデータは、ヒト細胞アトラスの完成を目指した国際的活動に寄与することが期待される。

 1人のヒトの体を構成する細胞は、それぞれ同じ基本的遺伝情報を持っているが、発現する遺伝子は細胞によって大きく異なっている。細胞の機能は、その細胞で発現する遺伝子によって決まる。人体の全体について単一細胞の遺伝子発現を示したマップがあれば、これらの細胞の機能と細胞活性に影響する因子を理解する上で役立つ。こうしたアトラスは、数種類の動物とヒトの一部の組織種について作成されているが、ヒトの単一細胞遺伝子発現と細胞種の包括的な全体像を記述したものはない。

 今回、Guoji Guoたちの研究チームは、成人と胎児の両方の組織を含むヒトの組織種(60種)について、単一細胞RNA塩基配列解読データを生成した。このようなデータにより、異なる臓器を構成する細胞種を比較解析することができ、発生段階において個別細胞の遺伝子発現がどのように異なっているのかを解明するための手掛かりが得られた。Guoたちは、このデータをマウスの臓器から作成された同種のデータセットと比較し、保存された遺伝子発現パターンを突き止めた。Guoたちは、各組織の細胞の標本サイズが小さいため、今回の研究には限界があると指摘する一方で、ヒトに関してこれまでに報告された細胞種のレパートリーの中で最も包括的なものが得られたという見解を示している。


生物工学:単一細胞レベルでのヒト細胞全体像の構築

生物工学:ヒトの全身の単一細胞地図

 近年の単一細胞RNA塩基配列解読技術の発展によって、組織内での遺伝子発現を単一細胞分解能で研究する道が開かれた。こうした研究は、主にマウスの組織に対して行われ、組織の発生や機能の複雑性について優れた知見をもたらしてきた。最近では、それらの知見をヒトに置き換える取り組みが進められている。G Guoたちは今回、胎児と成人の両方の組織試料に基づく、ヒトの全ての主要器官を網羅した単一細胞RNA塩基配列解読データセットを提供している。彼らはこのデータセットを用いて、ヒトの体の細胞不均一性を明らかにし、マウスで作製された類似のデータセットとの比較を行った。今回の研究は、器官間の細胞タイプについて他に類を見ない比較解析を可能にするとともに、さまざまな分野の研究において有用な情報資源となるだろう。



参考文献:
Han X. et al.(2020): Construction of a human cell landscape at single-cell level. Nature, 581, 7808, 303–309.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2157-4

『卑弥呼』第39話「密談」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年6月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハを襲った刺客が那(ナ)から都萬に亡命した島子のウラではないか、と推測するヤノハたちを、クラトが不敵に見ているところで終了しました。今回は、那(ナ)の国の身像(ミノカタ、現在の宗像でしょうか)に、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の諸国の王たちが集まっている場面から始まります。その場にいるのは、那のウツヒオ王、伊都(イト)のイトデ王、都萬(トマ)のタケツヌ王、末盧(マツラ)のミルカシ王です。そこへ、舟で新たに3人の王が現れます。それは、伊岐(イキ、現在の壱岐でしょう)のイカツ王、津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)のアビル王、穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)のニキツミ王です。九州の王たちは、大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の王も参加したことを意外に思います。

 まずタケツヌ王が、7人の王によるこの場の密談は未来永劫内密にするよう、提案します。ここでの戦いも無用と言うミルカシ王に対して、心配無用とウツヒオ王は答えます。身像は天照大神(アマテラスオホミカミ)と須佐之男命(スサノオノミコト)が和平を交わした誓約(ウケイ)の地で、その時生まれた三柱の女神にかけて秘密と不戦を約束する、とウツヒオ王は言います。山社(ヤマト)を認めるのか、とタケツヌ王に問われたウツヒオ王は、その前に現在の大陸情勢を知りたい、と言って韓(カラ、朝鮮半島でしょう)に最も近い津島のアビル王に尋ねます。公孫度(コウソンタク)という将軍が遼東太守に任命され、後漢からの独立を策して中原への道を封鎖したいようだ、とアビル王は答えます。ミルカシ王は、今後倭の使者が伽耶(カヤ)までしかいけないことを、タケツヌ王は公孫度が倭に侵攻してくることを懸念します。アビル王は、黄巾の乱以降、後漢の力は急速に衰えており、徳を失った天子の王朝は滅ぶべしというのが軍閥たちの本音だろう、と言います。アビル王はその具体的な名前として、曹操・劉備・袁術・関羽・張飛を挙げ、後漢各地の名だたる将軍がいつ武装蜂起してもおかしくない、と説明します。作中では、現在紀元後207年頃のようなので、すでに袁術は死んでいるはずですが、倭にはまだ情報が届いていない、ということでしょうか。ウツヒオ王に大倭豊秋津島の状況を尋ねられたニキツミ王は、大陸同様に一触即発と答えます。鉄の原料をめぐって鬼(キ)の国が金砂(カナスナ)国に侵攻し、金砂国は吉備(キビ)に援軍を要請しましたが、吉備を快く思わない聖地である出雲の事代主(コトシロヌシ)が金砂国からの独立を宣言しました。山社と同じ状況か、とイトデ王は嘆息します。ニキツミ王は、事代主が吉備の背後にいる日下(ヒノモト)を懸念している、と言います。日下とはサヌ王の、と言いかけたミルカシ王をイトデ王が制止します。

 ウツヒオ王は、自分たちだけでも和平を結ぼう、と提案します。そのためには、山社を国として認め、新たな日見子を王の中の王として擁立することだ、とウツヒオ王は言います。つまり、日見子を担ぐことで暈(クマ)や日下あるいは大陸の侵略を止めるためです。ミルカシ王は直ちに賛成します。イトデ王はウツヒオ王に、那が伊都を攻めないと約束するなら自分も賛成する、と言います。イカツ王もアビル王も同意します。タケツヌ王は、そもそも単独で和平の使者をするつもりだったので、賛成しますが、暈の鞠智彦(ククチヒコ)の動静が気になる、と言います。ミルカシ王は、鞠智彦を曲者と考えています。タケツヌ王が暈に放った軒猿(ノキザル、間者)は、鞠智彦は日見子と和議を結ぶつもりだ、と報告していました。ウツヒオ王は、一刻も早く使者を送ろう、と言いますが、イトデ王は、暈と我々連合国では強国の暈を選ぶだろう、と言います。タケツヌ王も、先に会った方と和議を結ぶのが定石、と言います。7人の王たちは、もし日見子(ヤノハ)が先に暈と会うと選択すれば我々の敵となり、倭国大乱は永久に続くだろう、と懸念します。

 鞠智(ククチ)の里では、鞠智彦が志能備(シノビ)の棟梁らしき男性に、ナツハを譲るよう、依頼していました。鞠智彦はナツハを自分の警固に用いるつもりでした。敵は警固がナツハ一人と侮るでしょうが、その背後には多数の狼や犬がいる、というわけです。鞠智彦は、新たな日見子(ヤノハ)に会いに山社に行き、山社を国として認める代わりに暈の操り人形になれ、とヤノハに提案するつもりでした。この条件をヤノハが受け入れねば、その場でヤノハを殺す、と鞠智彦は志能備たちに打ち明けます。ヤノハは不幸な事故に遭い、狼に突然食い殺される、というわけです。夜萬加(ヤマカ)では、ナツハが暈の国にある種智院の「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)の祈祷部(イノリベ)の長だったヒルメに、挨拶していました。ヒルメはナツハに、ヤノハを絶対に殺すな、と命じます。ヤノハを死よりもっと恐ろしい目に遭わせ、全てを奪い取ってやりたい、とヒルメはナツハに本心を打ち明けます。ヒルメはナツハに耳打ちし、ナツハは驚愕した表情を浮かべます。

 山社では、千穂への遠征から帰還した日見子(ヒミコ)であるヤノハを歓迎する宴が催されていました。テヅチ将軍はヤノハに、暈の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院のイスズから使者が派遣されたことを伝えます。その使者によると、暈の鞠智彦が和議を提案してヤノハとの会見を求めている、とのことでした。イクメもその父のミマト将軍も、暈との和議に反対し、那や伊都や末盧に和議の使者を送るべきと進言します。翌朝、イクメとミマト将軍は再度、鞠智彦と会わないよう、ヤノハに進言しました。暈と会えば、那や伊都や末盧は山社を敵と誤解する、というわけです。それに対してヤノハが、どうしても鞠智彦に会いたい、と答えるところで今回は終了です。


 今回は、重要な情報が明かされて密度が濃く、話の方も、ヤノハと鞠智彦との対面に向かって話が動くとともに、そこにヒルメの思惑とナツハも絡んできて、たいへん面白くなっていました。今回、曹操や劉備が言及されたことで、改めて、雄大な規模の話になりそうだな、と期待が高まりました。おそらく、魏への遣使も描かれるのでしょうが、その時点での山社がどこにあるのか、ということは注目されます。現時点では、日向の奥深くに位置しますが、あるいは、現在の奈良県に移っているかもしれません。本州の情勢も少し明かされ、この時代からすでに出雲は聖地とされていたようです。出雲が含まれている金砂の国は後の令制の出雲と伯耆あたりでしょうか。注目されるのは、金砂と争っている吉備の背後に日下の国がいることで、これはサヌ王が東征して建てた国とされています。日下はこの時点で、吉備も動かすくらいの勢力の国ということでしょうか。本作がどの考古学的編年を採用しているのか不明ですが、日下の国はすでに纏向遺跡を中心とした大勢力なのかもしれません。今後は、日下の国、さらには九州にまだいるサヌ王一族に忠誠を誓う者たちの動向と、ヤノハとの駆け引き・攻防が注目されます。

 鞠智彦がナツハを警固に任命したことも注目されます。ナツハはヒルメを母親のように慕っていますが、そのヒルメはヤノハへの強い憎悪を抱いています。ナツハはヤノハの弟のチカラオと思われますが、ヒルメからナツハの名を聞き、死よりもっと恐ろしい目に遭わせたい、と聞いても表情を変えませんでした。あるいは、ヤノハは養母を見殺しにし、自分も助けなかった、ナツハは考えており、ヒルメと同じくヤノハを憎んでいるのかもしれません。そのナツハが驚愕したヒルメの指示が何なのか、たいへん気になります。あるいは、喋れなくなったナツハは重要な記憶も失っており、姉がヤノハという名だったことを忘れているのかもしれません。ヒルメはナツハがヤノハの弟とは気づいていないでしょうから、ヒルメがナツハを使ってヤノハに復讐しようとするところは、物語として面白くなっています。『三国志』に見える、卑弥呼(日見子)となったヤノハを支える「男弟」がチカラオ(ナツハ)と予想しているのですが、ナツハはヤノハの名を聞いても表情を変えませんから、姉弟が再会し、単純に弟が姉に協力するという展開にはならないかもしれません。まあそもそも、ナツハがヤノハの弟とは確定していないので、以上の予想も的外れかもしれませんが。

チンパンジーの他者行動理解

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、チンパンジーの他者行動理解に関する研究(Myowa-Yamakoshi et al., 2012)が公表されました。ヒトが他者の行動を理解するさいには、単に物理的運動として理解するだけでなく、その他者の意図を推測して、その行動を目標指向行動として解釈しています。ヒトは、行動者からの情報を組み込んで、目標指向行動を観察する傾向がありますが、これがチンパンジーの成体には見られません。この研究は、俳優が目標指向行動と非目標指向行動を行う映像を、成人、生後8ヶ月と12ヶ月の乳児、チンパンジーの成体に見せる実験を行ない、視標追跡技術を用いて、被験者の眼球運動を比較しました。その結果、チンパンジーが、この2種類の行動の目標を同じ方法で予測していたのに対して、ヒトが目標指向行動を見るときには俳優の顔に頻繁に視線を向けていた、と明らかになりました。とくに乳児は、チンパンジーより有意に頻繁に視線を向けていました。この結果は、チンパンジーが、物体に関連した情報から行動目標を予測し、ヒトは、行動している者から意図を推測している可能性を示唆しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


チンパンジーはどのようにして他者の行動を理解するのか

 成人とチンパンジーは同じように他者の行動を予測するが、ヒトの方がチンパンジーよりも頻繁に行動する者の顔に注意を向けることがわかった。この研究結果を報告する論文が、今週、Nature Communicationsに掲載される。 ヒトが他者の行動を理解する際には、単に物理的運動として理解するだけでなく、その他者の意図を推測して、その行動を目標指向行動として解釈している。ヒトは、行動をする者からの情報を組み込んで、目標指向行動を観察する傾向があるが、これがチンパンジーの成体には見られない。今回、明和政子(みょうわ・まさこ)たちは、俳優が目標指向行動と非目標指向行動を行うビデオを成人と生後8か月と12か月の乳児、そしてチンパンジーの成体に見せる実験を行い、視標追跡技術を用いて、被験者の眼球運動を比較した。その結果、チンパンジーが、この2種類の行動の目標を同じ方法で予測していたのに対して、ヒトが目標指向行動を見るときには俳優の顔に頻繁に視線を向けていたことが判明した。特に乳児は、チンパンジーより有意に頻繁に視線を向けていた。この結果は、チンパンジーが、物体に関連した情報から行動目標を予測し、ヒトは、行動している者から意図を推測している可能性を示唆している。



参考文献:
Myowa-Yamakoshi M, Scola C, and Hirata S.(2012): Humans and chimpanzees attend differently to goal-directed actions. Nature Communications, 3, 693.
https://doi.org/10.1038/ncomms1695

アルディピテクス・ラミダスの居住環境

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)の居住環境エピに関する研究(Gani, and Gani., 2011)が公表されました。初期人類の居住環境の特定は、二足歩行の発達など、初期人類の進化上の疑問を解明するうえで重要です。アルディピテクス・ラミダスは、エチオピアのミドルアワシュで化石が発見された、440万年前頃の初期人類です。この研究は、ラミダスの居住地について分析し、その居住地には大きな川と河岸植生があった、と推測しています。つまり、ラミダスはサバンナ地域の河岸に居住していたことになります。これまで、初期人類は川から遠く離れた森林環境に居住していたと考えられていましたが、この知見はそれとは対照的です。

 なお、その後の研究で、ラミダスは股関節伸展の点では、直立二足歩行のさいに現代人と同様の動作が推測されたものの、一方で木登りのような垂直方向の移動のさいには類人猿のような動作の可能性が指摘されています(関連記事)。ラミダスの直立二足歩行は、木登りの能力とのトレードオフ(交換)ではなかっただろう、というわけです。ラミダスに関しては、その後の人類とはつながっていない、との見解も提示されており(関連記事)、じっさい、ラミダスとアウストラロピテクス属との共存の可能性も指摘されていますが(関連記事)、440万年前頃のラミダス系統と進化史では比較的近い年代(たとえば500万年前頃)に分岐した系統が、アウストラロピテクス属、さらにはホモ属の祖先になった可能性はある、と考えています。その意味で、570万~530万年前頃のアルディピテクス・カダバ(Ardipithecus kadabba)が現代人の直接的祖先だった可能性はあると思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


初期人類の居住地を分析する

 アラミス(エチオピア)の樹木が散在する草原で、初期人類が河岸の森に居住していたことを示唆する研究が発表される。これまでの解釈では、初期人類が川から遠く離れた森林環境に居住していたとされるが、この新知見は、それとは対照的な内容となっている。初期人類の居住地を特定することは、二足歩行の発達など、初期人類の進化上の疑問を解明するうえで重要だ。 Ardipithecus ramidus(ラミダス猿人)は、ミドルアワシュ(エチオピア)で化石が発見された440万年前の初期のヒト族だ。今回、R GaniとN Ganiは、ラミダス猿人の居住地について研究し、その居住地に大きな川と河岸植生があったとするデータの解釈を示している。その結果、ラミダス猿人は、サバンナ地域の河岸に居住していたことになる。ラミダス猿人の居住地を解明することは、初期人類の進化に関する諸説を評価するうえで役立つと考えられる。



参考文献:
Gani MR, and Gani ND.(2011): River-margin habitat of Ardipithecus ramidus at Aramis, Ethiopia 4.4 million years ago. Nature Communications, 2, 602.
https://doi.org/10.1038/ncomms1610

チベット高原の古代人のmtDNA解析

 チベット高原の古代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Ding et al., 2020)が公表されました。チベット高原は平均海抜4000mと、世界でも最高かつ最大の高原です。アジア東部高地における人類集団の継続性は少なくとも3000年続いている、と推測されています(関連記事)。しかし、比較のためのチベット高原における3000年前頃の古代DNAがなかったので、置換されたかもしれない頃にチベットにいた集団は不明です。

 3000年前頃は、チベットの先史時代に重要な時期でした。それは、チベット高原の低地北東部境界からの耐寒性オオムギの導入が3600年前頃で、それにより人類が海抜2500m以上で継続的に生活できるようになった、と考えられているからです(関連記事)。問題は、それが農耕技術革新の伝播なのか、おそらくは現代チベット人に子孫を残した低地からの農耕民の移住なのか、ということです。これまで、チベット高原の中核地域もしくはチベット高原北東端の古代DNAデータが得られていなかったので、その遺伝的交換の詳細の調査は困難でした。

 この問題の解明のため、本論文はチベット高原全域の27遺跡で発掘された5200~300年前の人類遺骸からを骨と歯を収集しました。チベット高原の5200~300年前頃の73人の完全なミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、汚染率の高い6人が除外されました。残りの67人のミトコンドリアゲノムは、各ハプログループ(mtHg)に分類されました。この中には、母子関係かもしれない個体も含まれます。

 この67人は、高地でも比較的高い地域(HTP)と低い地域(LTP)に区分されました。HTP集団 は海抜平均4000m(3249~4629m)の7遺跡で発見された12人で構成されます。このうち9人の放射性炭素年代測定法による較正年代は2322年前(3061~511年前)です。LTP集団は海抜平均2000m(1566~2953m)の20遺跡で発見された55人で構成されます。このうち33人の放射性炭素年代測定法による較正年代は3729年前(5213~300年前)です。HTP集団には、3150~1250年前頃となる海抜2800~4000mのネパールのアンナプルナ・ヒマラヤ山脈で発見された8人が追加されました。

 全体として、チベット高原の75人の古代人(新たに解析された67人と既知の文献からの8人)のmtDNAデータが得られ、そのうち50人に関しては年代情報が得られています。この75人のデータが、アジア北部(アルタイ地域とロシア)・アジア中央部(タジキスタン)・アジア東部(中国)・アジア南部(ネパール・インド・パキスタン)・アジア南東部本土(ミャンマーとメコン川流域のラオス・タイ・ベトナム・カンボジア)の137集団4656人の現代人と比較されました。中国の新疆ウイグル自治区とネパールとインド北東部とミャンマーのチベット高原に隣接する集団は別にまとめられました。

 一般的に、古代チベット高原集団は現代チベット人と密接です。現代チベット人に残っている古代集団のmtHgは、その近縁関係と年代を根拠に推定されました。まず、mtHg-D4j1bネットワークによりLTPからHTPへの拡大が見つかりました。このネットワークでは、LTPの4750年前頃のハプロタイプが拡大の中心でした。それは2775年前頃のHTP と現代チベットに拡散します。チベット高原外と比較して、mtHg-D4j1b はHTP では低頻度です。mtHg-D4j1b の合着年代は10508年前頃で、mtHg-D4j1b が1万年前頃に形成され、4750~2775年前頃の間にチベット高原境界地域からHTPへと拡散した、と推測されます。

 HTP内の拡大も見つかりました。mtHg-M9a1a1c1b1aネットワークは2125年前頃と1500年前頃のネパールと1100年前頃および現代のチベットへと至り、HTP集団でほぼ排他的に存在します。その合着年代は6048年前頃で、6000年前頃にHTPのどこかで形成された可能性が高く、ネパールの古代人で発生した証拠があります。その後、2125~1100年前頃の間にネパールからチベットへと拡大しました。

 これらを踏まえて、二つの仮説が検証されました。一方は、チベット人が多様な第三の集団の子孫で、HTPおよびLTP関連集団から部分的に母方系統を継承した、というものです。もう一方は、チベット人はHTPおよびLTP関連集団の最近の混合集団というものです。本論文は100万回のシミュレーションを実行しました。その結果、最初の仮説の可能性が高いと推測され、現代チベット人は、過去5200年の古代チベット高原集団からの継続性では完全に説明されない他の母方系統を有している、と示唆されました。

 現代チベット人では5200年前頃から部分的な母系継続性がある、と本論文は推測します。この継続性において、4750~2755年前頃にLTPからHTPへと拡大した人々もいれば、HTP内で2125年前頃に拡大した人々もいました。その時期はオオムギにより変わった高地農耕の頃で、チベット高原北東部近くでは5200年前頃、HTPでは3600年前頃までに出現しました。もし農耕技術革新が急速な人類の居住を促進したならば、その時期の古代個体群の無作為標本抽出は、現代チベット人と合致する可能性がひじょうに高いはずです。より多くの人々が非居住地域へ移動するにつれて、多くの拡大するmtHgネットワークが見つかる、と予想されます。しかし、チベット人で高頻度の16のmtHgに基づくと、mtHg-D4j1bとmtHg-M9a1a1c1b1aは13%で、HTPへのLTP農耕民のかなりの移住は支持されません。

 起源不明の母方系統の可能な説明は、HTPへ定着して孤立を経た集団のより早期の波があった、というものです。より早期の移民は遺骸を残さず、おそらくは石器群もしくは手形や足跡と関連した狩猟採集民でした。その年代は、4万~3万年前頃(関連記事)もしくは13000~7000年前頃(関連記事)です。チベット高原では、こうした古層狩猟採集民と継続的な集団と、最近の拡散が想定されます。現代チベット人のゲノム分析でも同様の見解が提示されています。本論文は最後に、母系遺伝のみに基づく調査結果なので、チベット人の包括的な形成史の提示には、古代の核ゲノムとY染色体データが必要と指摘します。現代日本人やチベット人に多く、その他ではごく一部の地域を除いて稀なY染色体ハプログループ(YHg)Dは、早期に拡散してきた狩猟採集民に由来するのかもしれません。


参考文献:
Ding M.. et al.(2020): Ancient mitogenomes show plateau populations from last 5200 years partially contributed to present-day Tibetans. Proceedings of the Royal Society B, 287, 1923, 20192968.
https://doi.org/10.1098/rspb.2019.2968

中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータ

 中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータに関する研究(Yang et al., 2020)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。中国・モンゴル・朝鮮半島および日本列島など近隣の島々で構成されるアジア東部には、世界の人口のほぼ1/4が住んでおり、多様な民族・言語集団が存在します。しかし、アジア東部、とくに中国の遺伝的歴史はよく分かっていません。現代アジア東部人の遺伝的関連性パターンは、北から南への勾配で、アジア東部における遺伝的浮動の高水準から、アジア東部集団が完新世の前にヨーロッパ人よりも強い集団ボトルネック(瓶首効果)を経験した、と示唆されます。これまでの研究により、オセアニアの太平洋南西部諸島の人々が、アジア東部本土人と密接な関係を有する台湾の現代オーストロネシア語集団と遺伝的に密接な関係を有している、と明らかになりました。

 しかし、これまでほとんどの研究では、たとえば漢人や傣(Dai)人のような現代アジア東部人がアジア東部系統を表している、との仮定が採用されてきました。しかし、考古学的記録からは、アジア東部人が過去には現在よりも多様だった、と強調されます。この遺伝的多様性の研究は充分ではなく、おもに標本抽出の欠如に起因します。そのため、アジア東部南北における過去の集団構造の特徴づけは難しく、過去の集団がどのように現代アジア東部人に影響を及ぼしたのか、推測を制約しています。頭蓋研究では、アジアの人類史は2層の系統で特徴づけられる、と指摘されています(関連記事)。その研究では、新石器時代前の狩猟採集民が「第1層」で、アジア東部北方関連系統の「第2層」が新石器時代から現代にかけてアジア東部に拡大し、多くの現代アジア東部人系に寄与した、と想定されます。本論文は、新石器時代アジア東部人の遺伝的データをとくに中国から得て、現代アジア東部人の遺伝的パターンの形成に果たした役割を解明します。


●現代と新石器時代のアジア東部人の遺伝的関係

 アジア東部における人口史の解明のため、本論文は較正年代で9500~300年前頃のアジア東部の個体群のDNAを解析しました。アジア東部北方(秦嶺・淮河線以北)では中華人民共和国の内モンゴル自治区と山東省、アジア東部南方では中国福建省と台湾の個体群が対象となりました。26人のDNAが解析され、そのうち11遺跡の24人が分析フィルターを通過しました。内訳は、アジア東部南方が16人、アジア東部北方が8人です。標的とした一塩基多型での網羅率は0.01~7.60倍です。ほとんどの個体の年代は新石器時代で、福建省の1個体のみ300年前頃です。

 本論文は、これらの個体群が現代アジア東部人から深く分岐した系統を有するのか決定するため、アジア東部人の共通祖先から早期に分離した、すでにDNA解析された古代アジア人の標本群と、これら個体群がどの程度系統を共有するのか、検証しました。アジア東部人の共通祖先は本論文では「早期アジア人」とされ、たとえば8000~4000年前頃のアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)個体群(関連記事)や、3000年前頃の愛知県の縄文時代の伊川津遺跡個体(関連記事)や、4万年前頃となる北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の男性個体(関連記事)です。

 古代および現代のアジア東部人を含む主成分分析では、すべての新石器時代アジア東部人は、現代アジア東部人・新石器時代シベリアのアジア人・チベット人・アジア南東部人・太平洋南西部人を含む、アジア東部系統集団とクラスタ(集団、まとまり)を形成します。これには、上述の頭蓋分析で「第1層」に分類された前期新石器時代アジア東部南方個体も含まれます。具体的には、福建省連江県亮島の粮道(Liangdao)遺跡と福建省の斎河(Qihe)遺跡の個体です。したがって、本論文の分析結果は、上述の頭蓋形態に基づくアジア東部・南東部の「2層」モデルを支持しません。外群f3分析でも、新石器時代アジア東部人は「早期アジア人」よりも新石器時代のシベリア人・チベット人・太平洋南西部諸島人の方と遺伝的類似性をより多く共有します。

 対称性テストでの新石器時代アジア東部人と現代アジア東部人および「早期アジア人」との直接的比較の結果、新石器時代アジア東部人はどの「早期アジア人」よりも現代アジア東部人の方と密接に関連する傾向にある、と明らかになりました。したがって、前期新石器時代アジア東部南方人を含む新たに標本抽出された個体群は、遺伝的にはアジア東部系統の現代集団と遺伝的に最も密接です。

 新石器時代アジア東部人の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との混合パターンは、現代アジア東部人と類似していました。新石器時代アジア東部人は、35000年前頃のベルギーの個体とも南アメリカ大陸人とも一貫したつながりを示さず、4万年前頃の田园洞窟個体とはパターンが異なり、現代アジア東部人と類似しています。以前の研究では、新石器時代前のアジアで深く分岐した系統はアジア東部集団の「第1層」と関連している、と主張されました。しかし、中国の南北両方の前期新石器時代集団は異なるパターンを示し、「第1層」には分類されず、現代アジア東部人とおもに関連する系統を有する、と示唆されます。


●前期新石器時代におけるアジア東部南北間の集団区分

 主成分分析では、新たに標本抽出された個体群は地理的分離を示します。沿岸部新石器時代アジア東部南方人は現代アジア東部南方人と集団化(クラスタ化)して密接ですが、沿岸部新石器時代アジア東部北方人は、現代アジア東部北方人と集団化して密接です。これらの結果は、新石器時代以降のアジア東部南北両方の間の集団構造を示唆します。

 本論文は、新石器時代アジア東部における遺伝的関係の決定のため、まず外群f3値のペアワイズ比較を用いて、他の新石器時代集団とアジア東部関連系統との関係を評価します。新石器時代アジア東部南方人は、新石器時代アジア南東部人・オーストロネシア関連の太平洋南西部諸島人とそれぞれ高い遺伝的類似性を示し、これは主成分分析でも観察されたパターンです。f4分析では、新石器時代アジア東部南方人と3000年前頃となる太平洋南西部のオーストロネシア関連諸島人とが一貫して、他の沿岸部および内陸部新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人よりも、相互に遺伝的に密接な関係を共有していますが、後期新石器時代アジア東部南方人個体の中には、アジア東部北方人との遺伝的つながりを共有している個体もあり、混合が示唆されます。

 最尤法系統樹では、新石器時代アジア東部南方人集団は、新石器時代アジア東部北方人・シベリア人・チベット人と比較して、集団化しています。したがって、アジア東部南方本土と台湾では、共有されたアジア東部南方系統が見られます。この系統は、新石器時代アジア東部北方人で観察された系統とは異なり、南北のアジア東部人の混合後も持続するパターンです。

 前期新石器時代のアジア東部北方人では、新石器時代アジア東部南方人では見られないものの、新石器時代シベリア人とチベット人には存在する系統が見られます。たとえば最尤法系統樹では、新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人集団は、新石器時代アジア東部南方人およびオーストロネシア関連諸島人との比較で集団化し、外群f3分析でも相互に高い遺伝的類似性を共有します。とくに、沿岸部新石器時代アジア東部北方人が集団化する一方で、内陸部アジア東部北方人を表す内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡個体は、ユーラシア東部草原地帯および極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の新石器時代シベリア人と集団化します。ほとんどの新石器時代アジア東部北方人とシベリア人は、新石器時代アジア東部南方人とよりも相互に密接な遺伝的関係を共有します。f2・f3・f4統計すべてを用いて開発されたモデルでは、南北のアジア東部関連系統が2系統に区分する、と観察されます。

 新石器時代は明確な南北のアジア東部関連系統で強調されますが、この時期に遺伝子流動も集団に影響を与えました。主成分分析では、内陸部新石器時代アジア東部北方人である裕民遺跡個体は、新石器時代シベリア人や沿岸部アジア東部北方人と同様に他のアジア東部北方人と集団化せず、むしろ現代のチベットとアジア東部北方人との間に位置します。さらに、最尤法系統樹ではまず、上部旧石器時代シベリア北部人が、おそらくはアメリカ大陸先住民と密接に関連したシベリア集団経由で新石器時代シベリア人系統に影響を与え(関連記事)、これはf4分析でも確認されました。次に、シベリアやチベットのようなアジアのより内陸の集団と比較すると、沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人の中には、沿岸部後期新石器時代アジア東部南方人との類似性を示す個体がいる、と明らかになりました。沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、同様に前期新石器時代アジア東部南方人とのつながりを示します。これらの関連は、沿岸部アジア東部南北間の集団関係が、混合(交雑)なしでは容易に解明できないことを示します。


●アジア東部南方におけるアジア東部北方人系統の増加

 時空間分析では、新石器時代と現代の間のアジア東部系統の違いが評価されました。新石器時代アジア東部系統のおもな特徴は、新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人により表される北方系統と、新石器時代アジア東部南方人およびオーストロネシア関連太平洋南西部諸島人により表される南方系統です。遺伝的差異の検証では、沿岸部新石器時代アジア東部北方および南方人が相互に、現代のアジア東部北方および南方人との間よりもずっと異なる、と示されます。新石器時代の遺伝的違い(FST=0.042)に対して、現代ではずっと小さくなります(FST=0.023)です。この違いは、現代アジア東部人が新石器時代アジア東部人よりも遺伝的に均質であることを示します。

 新石器時代から現代にかけて遺伝的差異が減少した要因の特定のため、f4分析が用いられ、対称性テストが行なわれました。前期および後期新石器時代では、明確な地理的区分があり、北方集団は9500年前頃となる山東省の變變(Bianbian)遺跡個体と、南方集団は福建省の斎河遺跡個体とより密接関係を共有しています(図3A・B)。このパターンは、斎河個体を他の前期新石器時代アジア東部南方人、變變個体を他のアジア東部北方人に置き換えても変わりませんでした。qpAdmを用いての混合モデルでは、新石器時代集団における系統の割合が推定され、新石器時代アジア東部の北方人および南方人はそれぞれ、その地理(アジア東部北方もしくは南方)と関連した異なる系統に属します(図3D・E)。

 対称的に、現代アジア東部人のパターンは、その内部の遺伝的差異を減少させる主因が、アジア東部南方におけるアジア東部北方関連系統の増加であることを示します。現代アジア東部人では、地理に関わらず、全アジア東部人が新石器時代アジア東部北方人と類似性を共有するという、劇的な変化が観察されます。本論文の混合モデルにおける系統の割合の推定は、アジア東部南方本土におけるアジア東部北方系統の21~55%の増加です。一方、アジア東部南方系統の北方への拡大も見られ、中国北部の漢人集団では36~41%、朝鮮人集団では35~36%と推定されます。古代シベリア人関連系統は、300年前頃となる沿岸部アジア東部南方本土個体や台湾集団やチベット人や日本人を除いて、最近のアジア東部人にも大きく影響を与えています。アジア東部周縁部における古代シベリア人関連系統の欠如は、北から南への遺伝子流動の異なるタイプがアジア東部で起きたことを示唆します。

 遺伝子流動事象の年代は推定できませんが、上述のf4分析で後期新石器時代アジア東部南方人個体の中にアジア東部北方人との遺伝的つながりを共有している個体が示されることから、後期新石器時代までにはアジア東部人に影響を与え始めたかもしれない、と示唆されます。後期新石器時代アジア東部南方人は、前期新石器時代アジア東部南方人が共有していない沿岸部アジア東部北方人の變變個体とつながりを共有しています。他の混合検定もこの知見を支持し、後期新石器時代アジア東部南方人におけるアジア東部北方系統を推定します。

 また、アジア東部北方人が内陸部の裕民遺跡個体と沿岸部の變變遺跡個体のどちらに近いのか、検証されました。対称性のf4検定では、全ての新石器時代アジア東部人と沿岸部新石器時代シベリア人は、内陸部の裕民遺跡個体よりも沿岸部の變變遺跡個体の方と密接な関係を共有していましたが、全ての内陸部シベリア人とチベット人はそうではありませんでした。これは、全ての現代アジア東部本土人で見られるアジア東部北方系統が、おもに黄河下流沿いの集団と関連していることを示唆します。これらの観察結果は、漢人という民族集団の起源が黄河流域の中国北部にある、と推測する考古学的および歴史学的研究と一致します。


●中国南部と沿岸部のつながりにおける先オーストロネシア人の起源

 オーストロネシア語集団は台湾から太平洋南西部とマダガスカル島にまで及びます。中国南部本土は、地理的近さと遺物から、台湾に拡散した先オーストロネシア語集団の起源地と考えられてきました。さらに、現代アジア南東部人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ゲノム分析でも、中国南部起源が示唆されています。8320~8060年前頃となる福建省の粮道遺跡個体のmtDNAハプログループ(mtHg)はE1で、台湾やフィリピンやインドネシアの現代オーストロネシア語集団において一般的で、台湾先住民のmtHgと最も類似しています。

 本論文のデータは、祖型オーストロネシア語集団の中国南部起源を支持します。主成分分析では、新石器時代アジア東部南方人は一貫して、他の現代アジア東部南方集団よりも、現代オーストロネシア人の勾配に収まり、他の現代アジア東部南方人と比較して、現代オーストロネシア人である台湾先住民のアミ人(Ami)とつながりを共有します。中国南部本土と台湾の全新石器時代個体で見られる現代オーストロネシア人とのこのつながりは、祖型オーストロネシア人の中国南部起源を支持します。

 さらに、本論文で分析された古代の個体群と、現代オーストロネシア人と密接な関係を共有する太平洋南西部のバヌアツ諸島の3000年前頃の個体群(関連記事)との間のつながりが分析されました。中国南部本土と台湾の新石器時代個体群は、最尤法系統樹では集団を形成し、外群f3分析では3000年前頃のバヌアツ諸島個体群との高い遺伝的類似性を共有します。さらに、直接的なf4比較では、後期新石器時代アジア東部南方人はオーストロネシア関連太平洋南西部諸島人と密接な遺伝的関係を共有し、新石器時代アジア東部北方人のどの集団とも過剰なつながりを有しません。これらの結果は、新石器時代アジア東部南方人と祖型オーストロネシア人との間の提案されてきたつながりをさらに支持します。

 沿岸部集団間の遺伝的孤立の欠如は、アジア東部および南東部の沿岸すべてで観察できます。ほとんどの新石器時代アジア南東部人は、ホアビン文化関連系統とアジア東部南方関連系統の混合ですが、ベトナムの4000年前頃の集団はとくに、沿岸部後期新石器時代アジア東部南方人と密接な関係を共有しています。さらに、この沿岸部のつながりはさらに北方まで拡大します。2700年前頃の愛知県の伊川津遺跡の縄文時代の個体は現代アジア東部人とは早期に分岐した系統で、ホアビン文化集団と遺伝的類似性を共有していますが(関連記事)、新石器時代アジア東部人を含む比較はこのパターンを示しません。代わりに伊川津個体は、アジア東部南方人と同様にいくつかのシベリア沿岸部新石器時代集団との類似性を示します。このパターンは、沿岸部が孤立よりも相互のつながりと遺伝子流動の地域だったことを示します。アジア東岸および東岸から離れた島嶼部の集団間の類似性は内陸部のアジア東部集団には共有されておらず、海洋関連環境に沿った相互作用が沿岸部アジア東部の先史時代に重要な役割を果たした、と示唆します。以下、本論文の図1および図2および図3です。

画像


画像


画像


●まとめ

 アジア東部南北の遺伝的調査は、アジア東部では現代よりも前期新石器時代において集団間の差異が大きかったことを示します。上述のように、頭蓋分析では、アジア東部北方関連集団の「第2層」が前期新石器時代にアジア東部全域に拡大し、新石器時代より前の狩猟採集民である「第1層」を少なくとも部分的に置換した、と想定されていました。本論文の遺伝的分析では、8400年前頃までの沿岸部アジア東部南方における「第1層」の証拠は見つかりませんでしたが、前期新石器時代と現代との間のアジア東部南方における北方系統の影響増加は観察されました。したがって、アジア東部北方系統と関連する「第2層」の拡大についての議論は依然として、アジア東部先史時代の文脈で調査すべき重要なモデルです。

 しかし、アジア東部北方系統の拡大は、両方向での混合の増加に至りました。現代アジア東部人のほとんどは、アジア東部の南北両系統の混合です。したがって、アジア東部南方へのアジア東部北方系統の拡大だけではなく、現代アジア東部北方人の一部におけるアジア東部南方系統も見られます。新石器時代において現代の水準ほどのこうした混合は観察されず、現代アジア東部人の遺伝的パターンに寄与した人類の移動は新石器時代後に起きただろう、と示唆されます。

 アジア東部本土南岸と台湾と太平洋南西部バヌアツ諸島の古代の個体群間の共有された系統が示唆するのは、オーストロネシア人が中国南部から到来した集団に由来し、そのパターンは、mtDNA研究と共に、中国南東部沿岸とオーストロネシアの物質文化の類似性で支持される、ということです。さらに、アジア東部沿岸部集団間の遺伝子流動は一般的傾向で、異なる沿岸部のつながりが、シベリア沿岸部から日本列島を経てベトナム沿岸部まで、南北の広大な距離の新石器時代集団で観察できます。

 中国南北の9500~300年前頃の個体群では、新石器時代の集団移動と混合を示唆する系統の変化はあるものの、アジア東部人の間の密接な遺伝的関係が観察されます。アジア東部新石器時代個体群は明確に南北に区分されるものの、他地域集団との比較では近縁になる、というわけです。本論文は、旧石器時代の個体の遺伝的解析数が増加していけば、中国中央部のさらに内陸の集団と同様に、旧石器時代狩猟採集民と新石器時代農耕民と現代アジア東部人の間の関係をさらに明確にできるでしょう、と今後の展望を述べています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。アジア東部では、新石器時代には現代よりも人類集団の遺伝的差異がずっと大きく、遺伝的には現代よりも多様な集団が存在していたことになります。これは、日本列島の「縄文人」など「早期アジア人」系統の影響の強い集団が存在していたからでもあります。しかし新石器時代の中国では、現代アジア東部人と遺伝的に比較的類似していた系統が南北に存在していました。この2系統は他系統との比較でアジア東部系統を形成します。しかし、この2系統が明確に区分されることも確かで、文化的交流はあっただろうとはいえ、新石器時代にはまだ中国の広範な地域が一体的とは言えなかったことを示唆します。

 このアジア東部の南北両系統のうち、現代アジア東部人に強い影響を残しているのは北方系統で、南方系統はオーストロネシア語集団との強い類似性を示します。これは上述のように、祖型オーストロネシア語集団が中国南部から台湾に移動し、そこからさらにアジア南東部を経てオセアニアやマダガスカル島まで拡散した、という以前からの有力説を改めて確認しました。アジア東部北方系統の拡大は、華北の勢力に江南が政治的に取り込まれていった中国史の大きな動向を反映している、と考えられます。上述のように、中国南北の混合は後期新石器時代には始まっていたものの、それが大きな動向となったのは新石器時代後なのでしょう。

 このアジア東部北方系統の拡大は、南方だけではなく西方でも見られ、まだ査読前ですが、最近公表されたアジア東部の古代ゲノムデータを報告した研究で指摘されています(関連記事)。現代日本人の多くは、「早期アジア人」とされる先住の「縄文人」と、弥生時代もしくは縄文時代後期~晩期以降に到来したアジア東部北方系統を主体とする集団との混合で成立し、アジア東部北方系統の影響が圧倒的に強い、と推測されます。一方、日本列島でもアイヌ集団では「縄文人」の遺伝的影響が他の日本人よりも強く残っている、と推測されます(関連記事)。

 ただ、考古学者の秦嶺(Ling Qin)氏は、本論文が取り上げた中国南部の人々は孤立集団で、広範な地域を代表していない可能性があり、稲作の起源的な中心地である長江流域の早期農耕民のDNA解析が優先されるべきと指摘します。確かにこの指摘は妥当で、福建省の新石器時代個体群は特異な集団で、長江流域とは遺伝的構成が異なっていた可能性も考えられます。あるいは、中国南北の一体化は後期新石器時代の時点でそれなりに進展していたかもしれません。この問題は、長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータでより詳しく解明されるでしょう。

 本論文は、アジア東部の古代DNA研究がヨーロッパと比較してずっと遅れていたことを考えると、たいへん意義深いと思います。とはいえ、本論文も認めるように、旧石器時代(更新世)のゲノムデータの増加など、まだ課題は多くあり、とてもヨーロッパの水準には及びません。そのため、アジア東部における現代人の形成史については、まだ確定的には発言できない状況と考えるべきでしょう。本論文の図3も、あくまでも現時点での知見に基づいてソース集団を設定しモデル化したもので、より妥当な集団形成史の提示には、さらなる古代ゲノムデータの蓄積が必要となります。

 本論文ではとくに言及されていませんでしたが、私が注目しているのは、沿岸部新石器時代アジア東部個体群では見られない古代シベリア人関連系統が、現代アジア東部では台湾や日本のような島嶼部とチベットを除いて、一定以上の影響を残していることです。これは、漢文史料に見える匈奴や鮮卑や女真など華北よりも北方の集団が華北、さらには華南や朝鮮半島へと到来したことを反映しているのではないか、とも思うのですが、現時点では私の妄想にすぎません。今後、匈奴や鮮卑や女真など歴史時代の華北よりも北方の集団の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、たとえば北京住民の数千年にわたる遺伝的構成の詳細な推移(変容と継続の度合)も解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909

大河ドラマ『麒麟がくる』第18回「越前へ」

 斎藤道三は息子の高政(義龍)との戦いで敗死し、道三側で参陣した明智一族を率いる光秀は、高政の追撃から逃れます。光秀は尾張へ逃れようとしますが、そこへ駒が現れ、尾張への道は高政の警戒が厳しいと伝え、光秀は一族と家人を引き連れて北方へと向かいます。光秀は逃亡の途中、帰蝶の依頼を受けた伊呂波太夫に導かれ、越前へ向かいます。伊呂波太夫は光秀を越前の大名である朝倉義景に引き合わせますが、義景は光秀が越前に来たことに迷惑な様子ですが、とりあえず光秀を越前に匿うことにします。尾張では、織田信長が自分に反抗的な弟の信勝を城に呼び寄せて殺害します。

 今回から越前編となります。朝倉義景は単なる暗君ではなく、したたかな人物として描かれるようです。義景は斎藤道三とはかなり異なる人物で、光秀が義景との関係に苦慮するのが越前編の見どころとなるのでしょうか。駒を救ったのが光秀の父と明かされましたが、これは多くの視聴者の予想の範囲内だったでしょうから、予定調和的です。では、これが今後の物語にどのような意味があるのかというと、これまでの駒の話からあまり期待できそうにありませんが、そこは大家の作だけに、面白い仕掛けがあるかもしれません。

 尾張の情勢もやや詳しく描かれ、相変わらず帰蝶が信長を操っているかのような関係ですが、この関係が今後どう変わってくるのか、注目されます。信長と信勝のやり取りはやや長く描かれ、信長の狂気と、身内への甘さというか信頼できる身内を求める心情が窺えて、なかなかよかったと思います。道三が退場して盛り下がった感は否めませんが、今後は、今回言及された細川藤孝など畿内の人物も再登場するでしょうから、盛り上がりを期待しています。

後期更新世のアフリカ東部の人類の足跡

 後期更新世のアフリカ東部の人類の足跡に関する研究(Hatala et al., 2020)が公表されました。足跡は、当時の人類の身長や移動様式や社会構造を解明するうえで重要な手がかりとなります。本論文は、タンザニア北部のナトロン(Natron)湖のすぐ南に位置するエンガレセロ(Engare Sero)で発見された後期更新世の人類の足跡を報告しています。エンガレセロの足跡の年代は、アルゴン-アルゴン法年代測定により19100±3100~5760±30年前と推定されています(関連記事)。エンガレセロの人類の足跡の数は、少なくとも408個です。年代と形態から、これらの足跡を残したのは現生人類(Homo sapiens)と考えられています。

 足跡のサイズと間隔と向きから、17種類の足跡の軌跡に関しては、南西方向に同じ歩行速度で一緒に移動した人類の一群のものと推測されています。この一群は、14人の成人女性と2人の成人男性と1人の若年男性により構成されていた可能性が高く、女性たちが一緒に採餌しており、男性たちは、そこにやって来たか、女性たちの同伴者たった、と推測されています。こうした行動は、現代のアフリカの狩猟採集民に見られます。これらの知見は、性別に基づく分業を示唆しています。北東に向かう6種類の足跡の軌跡に関してはついて、移動速度のばらつきが大きいと推定されており、1集団にまとまって移動したのではなく、個人それぞれ異なる速度で走ったり、歩いたりして移動した、と推測されています。

 エンガレセロの現生人類の足跡は、70万年前頃となるエチオピアのホモ属の足跡(関連記事)や、8万年前頃となるフランスのネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の足跡(関連記事)と比較すると、子供が存在しないという点で異なります。また、エチオピアで発見された150万年前頃となる広義のホモ・エレクトス(Homo erectus)の足跡からは、採餌活動に50%以上の男性が参加していたと推定されていますが(関連記事)、エンガレセロの事例は成人女性に偏っており、エレクトスから現生人類への進化の過程で、性別分業が発展した可能性を示唆します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:古代人が分業していたことを示唆する足跡化石

 これまでにアフリカで収集されたヒトの化石記録の中で最大の足跡化石のコレクションについて記述した論文が、今週、Scientific Reports? に掲載される。この化石コレクションは、更新世後期(12万6000年~1万1700年前)のヒトの生活についての理解をさらに深めるもので、古代のヒト社会で分業が行われていたことを示唆している。

 今回、Kevin Hatalaたちの研究チームは、タンザニアのエンガレ・セロで、近隣のマサイ族コミュニティーの成員が発見していた遺跡からヒトの足跡化石408点を発掘し、それらの年代を1万9100年~5760年前と決定した。Hatalaたちは、足跡化石のサイズと間隔と向きから、17種類の足跡の軌跡が、南西方向に同じ歩行速度で一緒に移動したヒトの一群のものだと考えている。この一群は、14人の成人女性、2人の成人男性、1人の若年男性によって構成されていた可能性が高いとされる。Hatalaたちは、これらの女性たちが一緒に採餌しており、男性たちは、そこにやって来たか、女性たちの同伴者であったと推測している。こうした行動は、現代の狩猟採集民(アチエイ族やハツァ族)に見られる。今回の研究で得られた知見は、古代の人間社会において性別に基づく分業があったことを示すと考えられる。

 またHatalaたちは、北東に向かう6種類の足跡の軌跡について、移動速度のばらつきが大きいと推定しており、1つのグループにまとまって移動したのではなく、一人一人がそれぞれ異なる速度で走ったり、歩いたりして移動したのではないかと考えている。

 以上の新知見は、後期更新世に東アフリカで生活していた現生人類の移動と集団行動の一面を垣間見せてくれている。



参考文献:
Hatala KG. et al.(2020): Snapshots of human anatomy, locomotion, and behavior from Late Pleistocene footprints at Engare Sero, Tanzania. Scientific Reports, 10, 7740.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-64095-0

丸橋充拓『シリーズ中国の歴史2 江南の発展 南宋まで』第2刷

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2020年2月に刊行されました。第1刷の刊行は2020年1月です。本書はおもに江南を対象に、新石器時代から南宋の滅亡までを取り上げています。江南は華北で形成されていった「中華世界」の視点からは、当初外縁的な位置づけでした。それが、前漢後期から後漢前半にかけて成立していった「古典国制」に江南も次第に取り込まれていきました。さらに、三国時代の分裂を統一した西晋が内紛と外敵の侵攻により崩壊すると、混乱状態に陥った華北の住民が、上層から下層まで多数江南へと避難し、江南はさらに「古典国制」に取り込まれていきました。

 こうした魏晋南北朝時代において、江南では農業が発展するとともに、混乱して「蛮族」に支配された華北ではなく、江南にこそ中華文化と古典国制の真髄が保持・継承された、という認識をもたらしたようです。この構図は、この後長く中国史において見られます。その後、江南では唐代前半には農業発展がやや停滞したこともあったものの、唐代後半以降に再度発展していき、それは商業・文化にも及びました。やがて、人口比でも江南が華北を上回り、経済の江南と政治・軍事の華北という構図が成立していきます。

 本書はこのように、江南を中心に新石器時代から南宋の滅亡までを概観するとともに、中国社会の重要な特徴を指摘します。それは、前近代の日本やヨーロッパ西部と比較して、社会の流動性が高いことです。これは、身分・社会的地位の上昇および下降だけではなく、同じ階層での生業・住居選択においても同様で、ある一族が特定の生業を続ける(家業化)のではなく、上昇の好機も下降の危機もあるなかで、なるべく多様な生業に関わろうとする傾向が強かったようです。これは、前近代の日本やヨーロッパ西部との大きな違いとなります。こうした選択の前提として、家産均分慣行がありました。

 また中国史では、とくに宋代以降の皇帝独裁政治が強調されることもありますが、そうした一君万民的志向は外形的一元性に留まり、基層社会の把握には向かわなかった、と本書は指摘します。皇帝専制国家は人々の日常にはほとんど関心を持たず、行政の権能を極小化して、基層社会から浮き上がっていた、というわけです。宋代以降にさらに社会的流動性が高まると、この傾向はさらに強くなります。また、村やギルド(行)など中国の中間団体は法共同体として自律・完結していないため、人々はあらゆる階層で個人的関係を結んでいき、我が身の保全、さらには上昇を図っていきました。本書はこれを、「幇の関係」と呼んでいます。皇帝専制国家が一元的支配を志向しているように見えても、基層社会にはそれとは異なった関係・論理があった、というわけです。

前期完新世アマゾン地域における作物栽培と景観改変

 前期完新世アマゾン地域における作物栽培と景観改変に関する研究(Lombardo et al., 2020)が報道されました。植物栽培の開始は、人類史における最も重要な文化的移行の一つです。アマゾン川流域南西部は以前、栽培植物と野生近縁種の遺伝的類似性を示す分子マーカーに基づいて、植物の栽培化における初期の中心地だった、と提唱されました。しかし、アマゾン川流域南西部における初期の人類居住の実態や、この地域での植物栽培の歴史はほとんど明らかにされていません。

 この研究は、放射性炭素年代測定法を用いて、植物化石(植物の存在を示す丈夫なケイ酸体、プラント・オパール)を識別しました。その結果、ボリビアのモホス平原において、10250年前頃(以下、すべて較正年代)にカボチャの一種(Cucurbita sp.)が、10350年前頃にキャッサバの一種(Manihot sp.)が、6850年前にトウモロコシ(Zea mays)が栽培されていた、と明らかになりました。これらの植物が栽培されたのは、炭水化物が豊富かつ調理が容易だったから、と推測されています。

 この地域では、10850年前頃から居住者により新たな景観が作り出され始め、それが最終的に、高木がなく季節的に冠水するサバンナに点在する約4700の人工孤立林になった、と示されました。こうした孤立林は、前期完新世には盛り土と耕作が行なわれた森林中の開拓地でした。これらの知見は、モホス平原が初期の植物栽培のホットスポットであったことを裏づけるとともに、人類はアマゾン川流域に到達した時からずっと景観を大きく作り変えてきており、生息地の不均一性や種の保全に永続的な影響を与えてきた、と明らかにしています。

 この研究は、アマゾン川流域南西部が植物栽培の独自に始まった世界でも最初期の地域の一つだったかもしれない、と明らかにしました。また、アマゾン川流域南西部の最初期の住民が、到着からかなり早く植物栽培を始めた可能性も示されました。先コロンブス期のアメリカ大陸は、には広大な「手つかず」の自然が広がっており、先住民は自然と「共生」していた、というような見解を否定する知見が蓄積されつつあり、先コロンブス期アメリカ大陸は大規模に開発されており、その萌芽はすでに前期完新世にあった、と考えるのが妥当と思われます(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


人類学:前期完新世のアマゾン川流域における作物栽培と景観改変

人類学:アマゾン川流域で栽培されていた初期の作物

 ペルーやボリビアといったアマゾン川上流流域で景観が人間活動によって改変されてきたことは、古くから知られている。今回、高木がなく季節的に冠水するサバンナに点在する約4700の人工孤立林の一部について考古学的調査が行われ、そうした状況が印象的な形で示されている。こうした孤立林は、前期完新世には盛り土が行われ耕作が行われた森林中の開拓地であった。U Lombardoたちは、これらの孤立林の一部について炭素年代測定を行い、植物化石(植物の存在を示す丈夫なケイ酸体;プラント・オパール)を探した。その結果、ボリビアのモホス平原では、較正年代で約1万250年前にカボチャ類が、同約1万350年前にキャッサバ類が、同約6850年前にトウモロコシが栽培されていたことが明らかになった。



参考文献:
Lombardo U. et al.(2020): Early Holocene crop cultivation and landscape modification in Amazonia. Nature, 581, 7807, 190–193.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2162-7

生物学的防除によるブタクサアレルギーの低減

 生物学的防除によるブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)アレルギーの低減に関する研究(Schaffner et al., 2020)が公表されました。ブタクサのような外来植物種は、生態系に著しい影響を及ぼし、相当な経済的費用を発生させる可能性がありますが、それが人間の幸福にどのような影響を及ぼすのか、充分には解明されていません。この研究は、ヨーロッパの花粉モニタリングプログラムのデータを用いて、2004~2012年のヨーロッパにおける季節的積算花粉放出量のマップを作製し、ヨーロッパ人集団におけるブタクサ感作率を判定しました。この研究の推定によると、2013年に予期せぬブタクサハムシの到来があるまでに1350万人が季節性のブタクサ花粉アレルギーの影響を受け、年間約74億ユーロ(約8900億円)相当の医療費が発生していました。

 この研究は、ヨーロッパにおけるブタクサハムシ(Ophraella communa)の好適な生息域におけるブタクサハムシの世代数をモデル化し、ブタクサの生物学的防除により、ブタクサアレルギーを起こす人数を年間約1120万人に、医療費を年間約64億ユーロ(約7700億円)に削減できる、と予測しています。この研究は、公衆衛生費用の推定額が以前に報告された推定額を上回っている、と指摘し、特定外来生物種により実際に必要となる費用と特定外来生物種の管理による恩恵が過小評価されている、との見解を提示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:ブタクサの生物学的防除によるブタクサアレルギーの低減

 ブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)が引き起こすアレルギーには、ヨーロッパの約1350万人がかかっており、年間74億ユーロ(約8900億円)相当の医療費が発生しているという研究結果を報告する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究では、ブタクサハムシ(Ophraella communa)を用いたブタクサの生物学的防除によってブタクサの花粉の影響を受ける人数とそれに関連した経済的費用を低減できる可能性のあることも示唆された。

 外来植物種(例えば、ブタクサ)は、生態系に著しい影響を及ぼし、相当な経済的費用を発生させる可能性があるが、そうしたことが人間の幸福にどのような影響を及ぼすのかは十分に解明されていない。

 今回、Urs Schaffnerたちの研究チームは、ヨーロッパの花粉モニタリングプログラムのデータを用いて、2004~2012年のヨーロッパにおける季節的積算花粉放出量のマップを作製し、ヨーロッパ人集団におけるブタクサ感作率を判定した。Schaffnerたちの推定によれば、2013年に予期せぬブタクサハムシの到来があるまでに1350万人が季節性のブタクサ花粉アレルギーの影響を受け、年間約74億ユーロの経済的費用が発生していた。Schaffnerたちは、ヨーロッパにおけるブタクサハムシの好適な生息域でのブタクサハムシの世代数をモデル化し、ブタクサの生物学的防除によってブタクサアレルギーを起こす人数を年間約1120万人に、医療費を年間64億ユーロ(約7700億円)に削減できると予測している。

 Schaffnerたちは、今回の研究による公衆衛生費用の推定額が以前に報告された推定額を上回っている点を指摘し、特定外来生物種によって実際に必要となる費用と特定外来生物種の管理による恩恵が過小評価されているという考えを示している。



参考文献:
Schaffner U. et al.(2020): Biological weed control to relieve millions from Ambrosia allergies in Europe. Nature Communications, 11, 1745.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-15586-1

ヨーロッパの最初期現生人類(追記有)

 ヨーロッパの最初期現生人類(Homo sapiens)に関する二つの研究が報道されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Hublin et al., 2020)は、ヨーロッパで最古となりそうなブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の現生人類遺骸のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告しています。ヨーロッパで最古級の現生人類(Homo sapiens)遺骸は、イギリスのケンツ洞窟(Kent’s Cavern)の較正年代(以下、年代は基本的に較正されたものです)で44200~41500年前頃のもの(関連記事)と、イタリアのカヴァッロ(Cavallo)洞窟で発見された45000~43000年前頃のものです(関連記事)。しかし、両者ともに直接的な年代測定ではなく、現生人類化石の正確な層序については議論されています(関連記事)。そのため、ヨーロッパへの現生人類の拡散年代は、上部旧石器時代の到来における、さまざまな「(中部旧石器時代から上部旧石器時代への)移行期」遺物群の製作者に関する仮説に基づいています。

 バチョキロ洞窟はブルガリア中央部のドリャノヴォ(Dryanovo)の西方5km、バルカン山脈の北斜面に位置し、ドナウ川からは南へ約70kmとなります。バチョキロ洞窟では、中部旧石器時代後期~上部旧石器時代早期にかけての堆積物が確認されています。バチョキロ洞窟での発掘はまず1938年に行なわれ、その後1970年代に再発掘され、2015年には、年代解明を目的として、以前に発掘された主区域とまだ発掘されていなかった壁龕1区域が調査されました。

 底部のK層では中部旧石器時代の遺物が発見されていますが、その密度は低く、その上層のJも人工物の密度は低いままですが、J層の上部には、その上のI層と同じ人工物が含まれています。J層は3000年以上に及ぶと推定されています。I層は45820~43650年前頃で、当初はバチョキリアン(Bachokirian)と報告された石器群が含まれます。バチョキリアンは現在では、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)インダストリーの一部とみなされています。I層は考古学的遺物がほとんどない流水堆積物のGおよびH層で覆われています。主区域では、G層の上に低密度の上部旧石器時代人工物を含む1.7mの堆積物が重なっています。

 J層の上部で人類の下顎第二大臼歯(F6-620)が見つかりました。その歯冠寸法はネアンデルタール人と上部旧石器時代現生人類の上限に位置し、形態からはネアンデルタール人ではなく現生人類に分類されます。質量分析法による動物考古学(ZooMS)により、識別不可能な骨と歯1271個で6個の人類の断片的な骨が確認されました。そのうち4個は壁龕1区域I層、1個は主区域B層、1個はB層とC層の境界で発見されました。F6-620を含めて、IUP層から合計5個の人類遺骸が確認されたことになります。ZooMSで確認された4個のIUP層の人類遺骸の年代は46790~42810年前です。これは、45820~43650年前というI層の年代とおおむね一致します。これらは、ヨーロッパでは最古級となる上部旧石器時代の人類遺骸となります。

 F6-620とZooMSで識別された6個の人類遺骸からmtDNAが抽出されました。これら7個の人類遺骸のうち、6個でミトコンドリアゲノムを復元できました。F6-620と別の1標本(AA7-738)は同一なので、同じ個体か、同じ母系に属することになります。これらバチョキロ洞窟のIUPの7人のミトコンドリアゲノムは、現代人54人、12人の古代の現生人類、22人のネアンデルタール人、4人の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)、スペイン北部の「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された1個体と比較されました。

 I層(とJ層上部)の標本群は非アフリカ系現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)MとNおよびNから派生したRに分類され、それぞれ基底部近くに位置します。mtDNAでは、これらの標本群は(出アフリカ系)現生人類に分類されるわけです。ただ、これらの標本は、mtHgでは大きく3系統に区分されますが、mtDNAの配列の違いは最大でも15ヶ所で、相互に近親関係にない現代ヨーロッパ人97.5%で観察されるよりも少なくなっています。この中には、現代ヨーロッパでは基本的に見られないmtHg-Mが存在し、現代人よりも置換が少なくなっています。ベルギーでも、35000年前頃の現生人類個体はmtHg-Mで(関連記事)、上部旧石器時代でも前半にはヨーロッパでもまだmtHg-Mが存在した、と改めて確認されました。これらの遺伝的情報から、I層の標本群の年代は44830~42616年前と推定され、これは放射性炭素年代測定法による較正年代とよく一致します。以下、ミトコンドリアゲノムに基づく本論文の図2です。
画像

 I層とJ層の現生人類標本群と関連する動物遺骸では23種が確認されており、おもにウマ・ウシ・シカ・ヤギです。これらは、バルカン半島の海洋酸素同位体ステージ(MIS)3に特徴的な、寒冷期と温暖期の両方に適応した分類群から構成されます。また、ホラアナグマ(Ursus spelaeus)を主としてさまざまな肉食動物も存在します。動物考古学的分析では、これらの動物遺骸の蓄積はおもに人為的と強く示唆されます。これら動物遺骸の中には、人為的に加工されたものも多数存在し、その中には、オーカーの使用と一致する赤い染色があります。1個の穿孔された象牙のビーズと、12の穿孔もしくは溝の掘られたペンダントが特定され、そのうち11個はホラアナグマの歯で、1個は有蹄類の歯で作られました。

 I層の現生人類と関連する石器群は当初、中部旧石器もしくはオーリナシアン(Aurignacian)様の上部旧石器技術複合のどれとも適合しなかったので、バチョキリアン技術複合に分類されました。上述のように、現在これらの石器群はIUPに分類されています。IUPの特徴は、石刃と上部旧石器に特徴的な道具ですが、先行する中部旧石器時代やアフリカの中期石器時代を想起させるルヴァロワ(Levallois)要素もいくぶんあります。ヨーロッパ中央部からモンゴルまでユーラシアに広範に存在するIUP石器群は、小型石刃(bladelet)生産を特徴とする上部旧石器時代石器群に先行し、おそらくアジア南西部に起源があります。バチョキロ洞窟のIUPの石器技術や装飾品と類似したものは、たとえばトルコのユチャユズル洞窟(Üçağızlı Cave)で発見されており、年代も近接しています。IUPに関しては、以前当ブログで概説的な論文を取り上げました(関連記事)。

 バチョキロ洞窟遺跡は、この地域のIUPが現生人類の所産であることを示し、現生人類によるユーラシアの大半の拡散はIUPの拡大に伴っていた、というモデルと一致します。IUP石器群の存在は、レヴァントの前期アハマリアン(Early Ahmarian)やバルカン東部の前期コザーニカン(Early Kozarnikan)やヨーロッパ西部および中央部のプロトオーリナシアン(Proto-Aurignacian)のような最初の上部旧石器時代小型石刃技術複合の拡大に数千年先行する、現生人類の移住の波を示します。バチョキロ洞窟では、J層上部の石器群がその上層のI層と同一なので、IUPは45000年前以前に始まり、47000年前に始まった可能性もあります。シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)遺跡からヨーロッパ東部のバチョキロ洞窟遺跡まで、45000年前頃には現生人類がユーラシアに広範に存在したことになります。IUP集団はアジア南西部から急速にユーラシア中緯度地帯に拡散し、オーリナシアン(Aurignacian)集団とは対照的に、現代ヨーロッパ人集団とは遺伝的関係はないようです(関連記事)。

 現生人類とネアンデルタール人との直接的接触は、ヨーロッパでは西部よりも東部で早く起きたに違いなく、ヨーロッパ西部ではネアンデルタール人はおおむね4万年前頃までに絶滅した、と考えられています(関連記事)。ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された初期現生人類の人骨「Oase 1」のDNA解析では、その4代~6代前の祖先にネアンデルタール人がいた、と推測されています(関連記事)。本論文はバチョキロ洞窟の結果から、「骨の洞窟」の年代を42000~37000年前頃と推定しています。これは、ヨーロッパ東部におけるネアンデルタール人と現生人類の接触期間が以前の推定よりも長かったことを示唆します。ただ、「骨の洞窟」の直接的な年代測定結果は最近の技術改善よりも前なので、その年代は過小評価されているかもしれません。その場合、ヨーロッパ東部でのネアンデルタール人と現生人類の共存期間はより短かったかもしれません。

 バチョキロ洞窟のIUPペンダントは、フランスのトナカイ洞窟(Grotte du Renne)遺跡のシャテルペロニアン(Châtelperronian)層で発見された後期ネアンデルタール人の所産と思われる人工物と類似しています。なお、シャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産なのか、議論はありますが、少なくともその一部はネアンデルタール人の所産である可能性が高いと思います(関連記事)。最後のネアンデルタール人の認知的複雑さがどうであろうと、バチョキロ洞窟のペンダントの方がトナカイ洞窟のシャテルペロニアン層の人工物より古いことから、衰退期のネアンデルタール人集団で見られる装飾品の製作のような行動学的新規性は、ヨーロッパに移住してきた現生人類との接触の結果だった、との見解を本論文は支持します。ただ、シャテルペロニアンにおける動物遺骸を用いたペンダントが、現生人類から入手したか、ネアンデルタール人が現生人類を模倣したのだとしても、それはあくまでもシャテルペロニアンの動物遺骸を用いたペンダントに限ることで、ネアンデルタール人所産の装飾品と思われる遺物は、10万年以上前のものがクロアチア(関連記事)やスペイン(関連記事)で発見されているので、ネアンデルタール人が独自に装飾品を製作していた可能性は低くないと思います。


 もう一方の研究(Fewlass et al., 2020)は、バチョキロ洞窟における人類の痕跡の年代を報告しています。バチョキロ洞窟では中部旧石器時代から上部旧石器時代までの考古学的堆積が確認されています。上述のように、I層とJ層上部の人工物は当初バチョキリアンと分類されましたが、今ではIUPの一部と認識されています。本論文は、主区域をA~J、壁龕区域をN1-3a・3b・3e-c層からN1-G・H・I・J・K層に区分しています。N1-G/H・I・J層は、主区域のG・I・J層に明確に対応しています。

 全体的な特徴は、I層およびN1-I層では人工物密度がひじょうに高く、他の層では低いことです。石器と動物の骨の70%以上はI層およびN1-I層で発見されています。N1-J層とN1-K層の境界には曖昧なところもあり、N1-J層底部の石器群は、その下のN1-K層の中部旧石器時代石器群と一致します。D~G層とN1-3a~N1-G層には石器が含まれず、動物の骨も低密度です。主区域で上層となるA1・A2・B・C層には再加工石刃や小型石刃や掻器や彫器や骨器など上部旧石器時代人工物が含まれていますが、上部旧石器でもどのインダストリーなのか、分類は曖昧です。以前の放射性炭素年代測定結果では、年代と層序の不一致も見られました。本論文は、これが不十分な汚染除去などに起因すると推測し、改善された新たな放射性炭素年代測定法を適用しました。本論文は、現生人類と分類された骨の直接的な年代測定を含む、高精度な放射性炭素年代測定結果を提示します。

 6個の現生人類の骨を含む95個の骨で年代値が得られました。動物の骨のうち63%には人為的痕跡が見られます。全体的な年代は、49430~27250年前です。骨のうち9個は放射性炭素年代測定法の範囲を超えており(51000年以上前)、すべてN1-K層、N1-J層とN1-K層の境界、N1-J層下部で発見されました。放射性炭素年代測定法結果からは、N1-J層下部が中部旧石器時代とIUPのどちらに関連しているのか、決定できませんが、中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行期ではなさそうだ、と本論文は指摘します。N1-J層の上部は46940~45130年前で、N1-I層と技術類型学的特徴の共通するIUP石器群が低密度で発見されています。主区域のJ層はN1-J層の新しい(上部の)層と年代が重なり、45690~44390年前です。N1-J層におけるIUPの出現は、北半球のさまざまな古気候記録で示唆されている温暖期と一致します。

 N1-I層とI層の年代範囲はひじょうに堅牢です。人類遺骸と人為的痕跡のある動物の骨25個のデータから、年代は45820~43650年と推定されます。N1-J層上部からN1-I層までの人工物密度が高いことから、現生人類はこの期間に洞窟を比較的継続的に利用していた、と示唆されます。I層より上層の人工物が少ないため、バチョキロ洞窟でいつIUPが終了した年代の判断は困難です。N1-H・N1-G・G層は厚い流水堆積物で、底部における人工物密度は低くなっています。E層とF層は厚く、骨の密度が低く、石器は見つかりません。これらの層の年代範囲はI層の最新の年代と重なり、G層からE層にかけて堆積が速かったことを示唆します。1970年代の発掘で発見された低密度の人工物からは、IUP的特徴がJ層上部からD4層まで続いたことを示唆します。その後、C層(42110~36340年前)とB層(39000~34970年前)とA2層(35440~34350年前)になると、人工物密度は増加します。これらの層の人工物はIUPではなく後続の上部旧石器時代人工物と類似しています。主区域では、上部旧石器時代はA2層にまで及びます。A1層の解体痕の見られるウシの骨の年代が27610~27250年前で、グラヴェティアン(Gravettian)の小型石刃によるものと類似しており、バチョキロ洞窟の人為的痕跡では最新のものとなります。バチョキロ洞窟における文化の変遷は、気候変動と対応しているかもしれません。

 本論文は、バチョキロ洞窟における高精度な放射性炭素年代測定結果を提示しました。バチョキロ洞窟におけるIUPの始まりはN1-J層の堆積中で、46940年前頃になりそうです。上述のもう一方の論文では、ブルガリアのバチョキロ洞窟のIUPが現生人類の所産と確認されましたから、ヨーロッパにおける現生人類の拡散は47000年前頃まではさかのぼりそうです。これは現時点では、ヨーロッパにおける最古の確実な現生人類の痕跡となります。そうすると、4万年前頃まではヨーロッパにネアンデルタール人が存在していましたから、ネアンデルタール人が現生人類から何らかの文化的影響を受けても不思議ではなく、上述のルーマニアの早期現生人類の事例からは、交雑も起きたと考えられます。ただ、本論文が指摘するように、IUPの現生人類は現代ヨーロッパ人にほとんど遺伝的影響を与えていないようです。そうすると、IUP現生人類集団は、気候変動やオーリナシアンなど典型的な上部旧石器を有する後続の現生人類集団により、ネアンデルタール人と同様に絶滅に追い込まれたのかもしれません。ただ、この問題の判断は、やはり核ゲノムデータの蓄積を俟つ必要があるとは思います。IUP現生人類集団も、シベリアとヨーロッパでは遺伝的にかなり異なっていた可能性もあるでしょう。また、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の接触に伴う文化伝播は、現生人類からネアンデルタール人への一方向だったのではなく、双方向だった可能性も低くないと思います(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。



進化:ヨーロッパ最古の現生人類の証拠

 ヨーロッパ南東部の洞窟から初期の現生人類の骨および関連の人工遺物を発見し、その年代測定を行ったことを報告する2編の論文が、今週、NatureとNature Ecology & Evolution に掲載される。今回発見された化石のヒト族は、後期旧石器時代のホモ・サピエンス(Homo sapiens)の既知最古の例となる。

 ホモ・サピエンスは約4万5000年前までにヨーロッパに入り、間もなくネアンデルタール人と入れ替わった。この集団の入れ替わりの時代は、中期~後期旧石器時代の移行期として知られている。この移行期の事象の正確な時期に関しては、直接的な年代測定が行われた化石遺物がないために、激しい議論が行われている。

 今回、Jean-Jacques HublinたちはNatureに掲載される論文で、ブルガリアのバチョキロ洞窟で発掘されたヒト族の骨と人工遺物について記述している。Hublinたちが発見したのは、ホモ・サピエンスのものと推定される歯1点と、古代のタンパク質およびDNAの内容からヒトのものと特定した骨遺物4点である。また、Helen FewlassたちはNature Ecology & Evolutionに掲載される論文で、放射性炭素年代測定によって、この場所の遺跡の年代範囲が4万6940~4万3650年前であると報告している。これらの骨から抽出したDNAの解析から、4万4830~4万2616年前という年代が推定され、放射性炭素年代の測定結果が支持された。

 今回の発掘では、クマの歯製のペンダントなど、ネアンデルタール人の活動と関連付けられている後代の遺跡で発見されたものと類似した、数多くの装飾品も発見された。こうした知見を総合すると、現生人類は4万5000年前以前に中緯度ユーラシアへ進出してネアンデルタール人と同じ時代を過ごし、その行動に影響を与えた末に、ネアンデルタール人に取って代わったことが示された。



参考文献:
Fewlass H. et al.(2020): A 14C chronology for the Middle to Upper Palaeolithic transition at Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature Ecology & Evolution, 4, 6, 794–801.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-1136-3

Hublin JJ. et al.(2020): Initial Upper Palaeolithic Homo sapiens from Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature, 581, 7808, 299–302.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2259-z


追記(2020年5月21日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。



人類学:ブルガリア・バチョキロ洞窟で出土した後期旧石器時代初頭のホモ・サピエンス

Cover Story:太古の宝飾品:ヨーロッパで最初期の現生人類の証拠となるペンダントとヒトの遺骸

 表紙は、ブルガリアのバチョキロ洞窟における発掘調査で出土した、推定年代が4万6000〜4万3000年前のペンダントである。この宝飾品は、ホラアナグマの歯でできている。今回J Hublinたちは、この洞窟で発掘された人工物とヒト族の遺骸について報告している。1本の歯を含むこれらの遺骸は、ヨーロッパでこれまでに発見された中で最初期の現生人類のものであり、宝飾品のデザインから、ユーラシア大陸を西へ広がったホモ・サピエンス(Homo sapiens)とその地にいたネアンデルタール人の間に文化交流があったことを示すさらなる証拠が得られた。これらの遺骸のDNA分析と放射性炭素年代測定の結果は、現生人類が4万5000年前以前にユーラシア大陸の中緯度域に到達していたことを示唆している。

末期更新世のユーラシア氷床の崩壊による急速な海水準上昇

 末期更新世のユーラシア氷床の崩壊による急速な海水準上昇に関する研究(Brendryen et al., 2020)が公表されました。最終氷期極大期(LGM)は、地球史における1期間で、33000年前頃に始まり、全球の温度が低く、北半球の大部分が厚い氷床に覆われていた、という特徴を示します。この期間のユーラシア氷床の氷の体積は、最大で現在のグリーンランド氷床の約3倍で、当時では3番目に大きな氷床でした。しかし、ユーラシア氷床の融解の大半は、融水パルス1Aとして知られる14600年前頃の急速な海水準上昇(急速な気候温暖化の時期と一致します)に寄与するには早過ぎた、と考えられています。

 この研究は、ノルウェー海で得られた堆積物コアの年代データに基づいて、これらの事象の時期を分析した。詳細に年代を再現した結果から、ユーラシア氷床の一部(現在の西南極氷床の大きさに匹敵します)が融解したのは、融水パルス1A事象と同時期であり、氷床の崩壊は500年以内の期間に急速に発生した、と示されました。この研究は、このユーラシア氷床の後期の融解が、12~14mの急速な全球海水面上昇の20~60%に寄与した可能性を示唆しています。この知見により、現在のそうした急速な崩壊に対する氷床の脆弱性に関して、よりよい理解がもたらされるかもしれません。また、末期更新世の急速な環境変化は、定住とその後の農耕の開始にも大きな影響を与えたと考えられるので、その点でも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地球科学:ユーラシア氷床の部分的な崩壊が急速な海水準上昇をもたらした可能性

 ユーラシア氷床の一部が約1万4650年前に崩壊し、400年未満の間に、全球海水準の12から14メートルの上昇に大きく寄与したすることを示した論文が、Nature Geoscience に掲載される。

 最終氷期極大期は、地球史の中の1つの期間で、約3万3000年前に始まり、全球の温度が低く北半球の大部分が厚い氷床に覆われていたという特徴を持つ。この期間のユーラシア氷床の氷の体積は、最大で現在のグリーンランド氷床のおよそ3倍であり、その時代で3番目に大きな氷床であった。しかし、ユーラシア氷床の融解の大半は、融水パルス1Aとして知られる約1万4600年前の急速な海水準上昇(急速な気候温暖化の時期と一致する)に寄与するには早過ぎたと考えられている。

 今回、Jo Brendryenたちは、ノルウェー海で得られた堆積物コアの年代データに基づいてこれらの事象の時期を分析した。詳細に年代を再現した結果から、ユーラシア氷床の一部(現在の西南極氷床の大きさに匹敵)が融解したのは、融水パルス1A事象と同時期であり、氷床の崩壊は500年以内の期間に急速に発生したことが示された。著者たちは、ユーラシア氷床のこの後期の融解が、12〜14メートルの急速な全球海水面上昇の20〜60%に寄与した可能性を示唆している。

 今回の知見により、今日のそうした急速な崩壊に対する現代の氷床の脆弱性のより良い理解がもたらされるかもしれない。



参考文献:
Brendryena J. et al.(2020): Eurasian Ice Sheet collapse was a major source of Meltwater Pulse 1A 14,600 years ago. Nature Geoscience, 13, 5, 363–368.
https://doi.org/10.1038/s41561-020-0567-4

多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から推測される人口史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、多様な地域の現代人の高品質なゲノム配列から人口史を推測した研究(Bergström et al., 2020)が報道されました。本論文は査読前に公表されており、当ブログでも言及したことがあります(関連記事)。現生人類(Homo sapiens)の進化史に関する広く認められた見解では、現生人類系統は70万~50万年前頃にネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の共通祖先系統と分岐した後、現代人的な形態が過去数十万年間にアフリカで出現し、7万~5万年前頃にアフリカから近東へと拡大した一部の現生人類集団では遺伝的多様性が減少して、その直後にこの出アフリカ現生人類集団がユーラシアで非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した後に、世界各地に拡散していくとともに人口が増加し、過去1万年間に世界の複数地域で狩猟採集から食料生産への意向が起きた、と想定されています。しかし、大陸間・地域間で人口史がどの程度異なっており、現代人の世界規模での遺伝的多様性の分布と構造がどのように形成されてきたのか、理解すべきことが多く残っています。これまでの大規模なゲノム配列は、都市部や大きな集団に限られ、低網羅率の配列が利用されてきましたが、ほぼ1集団あたり1~3人のゲノムに限定されていました。

 本論文は、地理・言語・文化的に多様な54集団から929人の高網羅率配列(平均35倍、最低25倍)を提示し、そのうち142人は以前に配列されていました。これにより、6730万個の一塩基多型、880万ヶ所の小挿入もしくは挿入欠失、40736個のコピー数多様体(CNV)が特定されました。古代型ホモ属3個体のゲノム間で多型として確認された130万個の一塩基多型は、おもに共有された祖先的多様性を反映しており、そのうち69%はアフリカ集団にも存在します。遺伝子型配列にほとんど存在しない稀な多様体は、最近の変異に由来する可能性が高く、個体群間で最近共有された祖先を知ることができます。

 稀な多様体のパターンは、オセアニアやアメリカ大陸の集団とは対照的に、ユーラシア集団におけるより大きな集団間の稀なアレル(対立遺伝子)共有の一般的パターンを明らかにします。アフリカ西部のヨルバ(Yoruba)集団は、高いアレル頻度においてアフリカのムブティ(Mbuti)集団よりも非アフリカ人の方と密接な関係を有しますが、低いアレル頻度ではその逆の関係となり、非アフリカ系との分岐以降のムブティ集団とヨルバ集団間の最近の遺伝子流動が示唆されます。低いアレル頻度でのムブティ集団へのサン(San)集団とマンデンカ(Mandenka)集団の過剰な共有は、サン集団へのアフリカ西部関連系統の少量の混合を反映しているかもしれません。

 オセアニア集団における既知のデニソワ人混合は、オセアニア集団よりもユーラシア集団の方とのアフリカ集団のより大きな類似性、とくにアフリカ集団で固定されている多様体において、古代型ゲノム配列の利用なしに証明されます。類似した方法で、固定された多様体では、アフリカ中央部のビアカ(Biaka)集団は、アフリカ西部のマンデンカ集団よりもヨルバ集団の方とずっと多くの類似性を有しており、他のアフリカ系統の基底部であるいくつかの系統をマンデンカ集団が有していることと一致します。Y染色体DNA配列では、既知の系統構造とともに、稀な系統も含まれています。ほとんどの非アフリカ系現代人男性の有するY染色体ハプログループ(YHg)FT系統で最も深い分岐を示すF*系統は、本論文が分析対象とした中国南部の雲南(Yunnan)省のラフ(Lahu)集団の7人のうち5人で見つかり、非アフリカ系現代人のYHgの早期拡散の理解におけるアジア東部の重要性が示されます。ラフ集団では、固有の稀な常染色体アレルが高頻度で見られます。

 次に本論文は、地域固有の多様体を識別することにより、現代人の遺伝的多様性の両極を調べました。特定の大陸もしくは主要地域で固定されている、そうした固有の多様体は見つかりませんでした。アフリカ大陸とアメリカ大陸とオセアニアでは、固有の多様体のうち最高頻度が70%以上に達するものは数十個、50%以上だと数千個存在しますが、ヨーロッパとアジア東部もしくはアジア中央部および南部では、高頻度の固有の多様体とはいっても、わずか10~30%に達するだけです。これはおそらく、過去1万年の移住と混合に起因するユーラシア内のより大きな遺伝的交流を反映しています。この遺伝的交流では、より孤立したアメリカ大陸とオセアニアの集団が含まれず、そのためアメリカ大陸とオセアニアの集団では固有の多様体が蓄積されていきました。アメリカ大陸中央部および南部の比較でも、他地域では40%以上の頻度には達しない、一方の地域に固有の多様体が見つかりました。アフリカ大陸内では、熱帯雨林狩猟採集民集団であるムブティとビアカに固有の1000個の多様体が30%以上の頻度に達し、アフリカ南部のひじょうに分岐したサン集団では、固有の多様体が、頻度30%以上では10万個、頻度60%以上では1000個に達し、検証対象となった6個体全てで見つかったものも20個ありました。

 これらの地理的に限定された多様体のほとんどは、現代人集団の多様化の後もしくはその直前に起きた新たな変異を反映しており、非アフリカ地域のほとんど(99%以上)の固有アレルは、古代型アレルというよりもむしろ派生的です。しかし、アフリカに固有のアレルは、祖先型アレルのより高い割合を含んでおり、この割合はアレル頻度とともに増加しており、アフリカ外では失われてしまった古い多様体を反映しています。同じ理由で、多くの高頻度のアフリカ固有の多様体は、ネアンデルタール人もしくはデニソワ人のゲノムでも見られます。古代型ゲノムと共有されているアフリカ外のあらゆる特定の地域に固有の多様体の断片はひじょうに少なく、古代型集団(ネアンデルタール人やデニソワ人)からの殆どもしくは全ての遺伝子流動が、非アフリカ系現代人の祖先集団の分岐前に起きたことと一致します。

 この例外はオセアニアで、20%以上の頻度で存在する固有の多様体の35%はデニソワ人のゲノムと共有されています。一般的に、アフリカ外には存在するもののアフリカ内では存在しない、10%以上の頻度となる共通の多様体の20%以上は、ネアンデルタール人やデニソワ人のゲノムと共有されており、おそらくネアンデルタール人やデニソワ人との交雑に由来します。そうした一般的な多様体の残りの80%以下程度は、おそらく新たな変異に由来しており、したがってそうした変異は、現代人集団への新たな多様体の導入において古代型交雑よりも強い力を有しました。地域に固有の挿入欠失多様体は、一塩基多型と類似した頻度分布を示しますが、全体的に10倍程度減少します。同じことはコピー数多様体(CNV)にもほぼ当てはまり、全体的な数は大きく減少していますが、例外は高頻度の固有のCNVのわずかな過剰がオセアニアで見られることです。これらの多様体のいくつかは、利用可能なデニソワ人ゲノムと共有されており、他の多様体や地域と比較して、正の選択がオセアニア集団の歴史において古代型起源のCNVに不釣り合いな強さで作用した、と示唆します。

 有効人口規模の歴史では、ヨーロッパとアジア東部でほとんどの集団が過去1万年に大きく増加した、と推定されていますが、ヨーロッパのサルデーニャ島やバスクやオークニー諸島、中国南部のラフ、シベリアのヤクート(Yakut)といったより孤立した集団では、それほど多く増加していません。アフリカでは、過去1万年に農耕集団の人口は増加しましたが、ビアカやムブティやサンのような狩猟採集民集団は、増加しなかったか減少さえしました。これらの知見は、農耕集団が拡大するにつれての、以前には人口が多く広範に分布していた狩猟採集民集団のより一般的なパターンを反映しているかもしれません。アメリカ大陸では、末期更新世における先住民の祖先集団のアメリカ大陸への進出と一致して一時的な人口増加が見られ、以前には常染色体データで観察されなかった、ミトコンドリアとY染色体の系統の急速な多様化という観察を反映しています。アメリカ大陸におけるこの一時的な人口増加では、過去1万年のヨーロッパおよびアジア東部の人口増加率を上回っています。ただ、これらの有効人口規模推移の分析に関しては、農耕や金属器時代など過去1万年の文化的過程期間におけるより詳細な人口史の解明にはまだ限界があります。そのためには、さらに大きな標本規模と遺伝的多様性の機能を調査する新たな分析方法のどちらか、若しくは両方が必要かもしれません。

 1世代29年と仮定しての推定集団分離年代は、アフリカ中央部の熱帯雨林狩猟採集民のムブティとビアカが62000年前頃、ムブティとアフリカ西部のヨルバが69000年前頃、ヨルバとアフリカ南部のサンが126000年前頃、サンとビアカおよびムブティが11万年前頃です。非アフリカ系集団は、ヨルバと76000年前頃、ビアカ96000年前頃、ムブティと123000年前頃、サンと162000年前頃に分離した、と推定されます。しかし、これらの分岐の進行中にも遺伝子流動は続いており、単純な分離ではありません。遺伝的分離年代の中には、30万もしくは50万年前頃までさかのぼるものもあり、集団間の合着率は集団内のそれとは異なります。これは、いくつかの現代人系統に他集団よりも寄与した集団がその時点で存在した、ということです。総合的に見ると、現代人集団で観察される遺伝的構造はおもに過去25万年間に形成され、この間の大半で全集団間の遺伝的接触は継続していたものの、現代人集団にわずかに残る25万年以上前の構造も存在します。現代人系統とネアンデルタール人およびデニソワ人系統との分離は70万~55万年前頃と推定されます。mtDNAの分析では、50万年前頃以降の、現生人類とネアンデルタール人の間の遺伝子流動が推測されていますが(関連記事)、本論文は、そうした遺伝子流動が起きたのはユーラシアだけだっただろう、と推測しています。アフリカ外では、集団分岐の推定年代は以前の研究と一致しており、非アフリカ系現代人集団はすべて、過去7万年以内の系統のほとんどを共有しています。

 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、西方(ユーラシア西部)で2.1%、東方(ユーラシア東部・オセアニア・アメリカ大陸)で2.4%と推定されます。パプア高地集団のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は2.8%(信頼区間95%で2.1~3.6%)で、4~6%という当初の推定(関連記事)よりはかなり低いものの、2~4%程度というその後の推定(関連記事)に近くなっています。オセアニア集団におけるデニソワ人の遺伝的影響は、非アフリカ系現代人全員におけるネアンデルタール人のそれと比較して、さほど高くないかもしれない、というわけです。

 次に本論文は、非アフリカ系現代人の祖先集団と交雑したネアンデルタール人やデニソワ人の集団が複数存在したのか、検証しました。非アフリカ系現代人集団に見られるネアンデルタール人由来の領域の地理的分布もしくは推定交雑年代から、非アフリカ系現代人のゲノムに見られるネアンデルタール人由来の領域は単一の起源に由来し、追加の交雑の明らかな証拠はない、と推測されました。非アフリカ系現代人集団でも東方より西方でネアンデルタール人の遺伝的影響が低い理由としては、ネアンデルタール人の遺伝的影響を殆ど若しくは全く受けていない集団からの遺伝子流動が想定されています(関連記事)。ただ、系統的復元ではネアンデルタール人からの遺伝子移入ハプロタイプは10以上あり、単一のネアンデルタール人個体からの遺伝子移入は除外されます。しかし、ネアンデルタール人由来の領域の遺伝的多様性は限定的で、せいぜい2~4の創始者ハプロタイプを想定すれば説明できるので、非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との主要な交雑は1回のみだった可能性が高い、と本論文は推測しています。

 一方、デニソワ人の場合はネアンデルタール人とは対照的に、非アフリカ系現代人の祖先集団の一部との複雑な交雑の証拠が示されます。非アフリカ系現代人集団の一部に見られるデニソワ人由来のオセアニア集団の領域は、アジア東部・南部およびアメリカ大陸の集団とは異なっており、現生人類と交雑した複数のデニソワ人系統の深い分岐が示されます。アジア東部集団のデニソワ人由来の領域は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された個体のゲノムとひじように近く、それはオセアニア集団のゲノムでは欠けています。これは、デニソワ人と現生人類との複数回の交雑を推測した研究(関連記事)と一致します。本論文では、オセアニア祖先集団における複数のデニソワ人集団との交雑の明確な証拠は見つけられませんでした。アジア東部集団のデニソワ人由来の領域の構造はさらに複雑で、1回もしくは2回の交雑では説明できず、それ以上だったかもしれません。これは、おそらくアメリカ大陸とアジア南部の集団にも当てはまります。カンボジア人に見られるいくつかのデニソワ人由来のハプロタイプは、他のアジア東部集団のそれとはやや異なり、オセアニア集団のそれと関連しているかもしれません。全体的に現生人類にとって、デニソワ人との交雑はネアンデルタール人との交雑よりもかなり複雑だったようです。

 非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人との交雑は10万年前頃以降で、オセアニア祖先集団とデニソワ人との交雑は、ネアンデルタール人との交雑よりも後と推定されます。アフリカ西部のヨルバ集団では、非アフリカ系集団よりもずっと少ないものの、ネアンデルタール人の遺伝的影響が検出されます。他のアフリカ集団では、そうした痕跡は明確ではありません。本論文は、ヨルバ集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合を0.18±0.06%と推定しています。これは、ネアンデルタール人の遺伝的影響を受けたユーラシア西部集団の一部がアフリカに「逆流」したことによりもたらされ、ヨルバ集団のゲノムにおけるユーラシア系統の割合は8.6±3%と推定されています。

 非アフリカ系集団には古代型ホモ属由来のハプロタイプが存在しますが、古代型ホモ属の多くの単一多様体はアフリカ集団にも存在します。それは、古代型ホモ属系統と現代人系統との分離後、これら古代型ハプロタイプの多くが非アフリカ系集団では増加する遺伝的浮動によりかなり失われたことに起因します。ネアンデルタール人のハプロタイプは、アフリカ系よりも非アフリカ系集団で多く見られますが、デニソワ人では逆になります。これらの数値は、オセアニア集団の調査数が増えると変わるかもしれませんが、アフリカ系集団の遺伝的多様性の高水準のため、わずか若しくは全くネアンデルタール人やデニソワ人からの遺伝子移入がないにも関わらず、部分的に古代型ホモ属集団の多様体とかなり重なっていることを意味します。

 本論文は、高網羅率の多様な現代人のゲノムデータ数を大きく拡大し、現代人の遺伝的多様性の理解の深化に大きく貢献しました。これは、古代型ホモ属との交雑も含めた現代人各地域集団の形成過程はもちろん、医療にも貢献すると期待されます。今後、さらに規模を拡大しての研究も進められるでしょう。近年のゲノム研究の進展は目覚ましく、正直なところ、追いついていくのは難しく、異なる研究をどう整合的に解釈するのか、という問題もあります。たとえば、本論文ではアフリカ西部のヨルバ集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の割合は、非アフリカ系現代人集団の1/10以下と推定されていますが、最近公表された新たな手法を用いた研究は、アフリカ系集団ではおおむね1/3程度と推定しています(関連記事)。今後、相互検証によりさらに妥当な推論が提示されていくのでしょうが、追いかけるのは大変です。それでも、少しでも最新の知見に取り入れて自分なりに整理していきたいものです。


参考文献:
Bergström A. et al.(2020): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. Science, 367, 6484, eaay5012.
https://doi.org/10.1126/science.aay5012

アンデスの人口史

 アンデスの人口史に関する研究(Nakatsuka et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。南アメリカ大陸のアンデス地域における人類史は、14500年にわたります。現在のペルー・ボリビア・チリ北部となるアンデス中央および南部中央では、沿岸地帯と高地帯への初期の人類の拡散の後、定住様式の浸透と複雑な社会が出現し、ついには1400~950年前頃のワリやティワナク、510~420年前頃のインカといった広範な影響を有する文化が形成されました。なお、これらの年代は放射性炭素年代測定法による較正年代で、紀元後1950年を基準としており、以下同様です。

 アンデス中央部の考古学的研究はひじょうに豊富で、古代DNA研究においても、2018年にはアメリカ大陸全体(関連記事)やアンデス高地(関連記事)を対象にしたものが公表されましたが、まだ地理的・年代的な空白も多く、人口動態の詳細な変化に関する情報は充分ではありませんでした。しかし、9000年前頃のアンデス中央部および南部中央の個体群が、沿岸地帯やアマゾン地域の現代人集団よりもアンデス高地の現代人集団に遺伝的に近い、と明らかになったことは重要です。

 本論文は、9000~500年前頃のアンデス中央部および南部中央の89人のゲノム規模データを収集し、その中には新たに報告された65人が含まれており、さらにアルゼンチンのパンパ地域の個体のデータも追加しました。これらのゲノム規模データにより、南アメリカ大陸におけるヨーロッパ勢力の侵略前の人類集団の遺伝的構成の変遷が、以前よりもずっと詳細に明らかになりました。また本論文は、ペルー・ボリビア・チリ・アルゼンチンの先住民からの合意と協力を得て、古代DNA研究が進められたことを明言しています。これは古代DNA研究の問題点とされているので(関連記事)、アメリカ大陸に限らず世界規模で重要になってくると思います。

 常染色体データの分析では、2000年前頃以降、遺伝的構造は地理と強く相関しています。最古級の高地帯個体群は、ペルー北部(8600年前頃)でも南部(4200年前頃)でも、沿岸地帯集団よりも後の高地帯集団の方と遺伝的に近く、後期高地帯集団の系統は何千年も前に確立され始めていた、と示唆されます。これは、高地帯と沿岸地帯では生計戦略が異なっている場合が多く、数千年にわたってひじょうに異なる移動パターンを有していた、と想定する考古学の研究成果と一致します。本論文は、沿岸地帯の独特の古代系統のより詳細な理解には、沿岸地帯の古代ゲノムが必要になる、と指摘しています。アンデスにおける南北の遺伝的分離は、遅くとも5800年前頃には始まっていた、と推測されます。これは、アンデス中央部において、経済・政治・宗教の差異が増加していく5000年前頃の後期先土器時代の始まりに対応しており、植物栽培への依存の高まり、および一部地域での人口急増と並行した事象です。植物栽培への依存度の高まりにより定住性が高まり、遺伝子流動が減少したのかもしれない、と本論文は推測します。

 アンデスにおけるこの初期人口構造の確立後も、ペルー北部とペルー南部の高地帯間の遺伝子流動は継続しました。ペルー南部高地帯のひじょうに古いゲノムデータが不足しているため、遺伝子流動の方向は決定できませんでしたが、考古学では双方向の文化伝播が指摘されています。また、ペルー北部における高地帯と沿岸地帯との間、さらにはペルー南部とチリ北部との間の2000年前頃以前の遺伝子流動も検出されています。これらは、考古学で指摘されているこの時期の文化交流と一致します。

 2000年前頃以後、ほとんどの地域では、大規模な文化の変化やそうした異文化間の交流や国家の盛衰にも関わらず、遺伝的均一性が観察されます。たとえば、ペルー北部沿岸地帯では、1850~1250年前頃のモチェ(Moche)文化から1250~575年前頃のンバイエケ(Lambayeque)文化へと変わっても、顕著な遺伝的相違は検出されません。ペルー北部高地帯集団でも、1200~550年前頃にかけて、遺伝的継続性が確認されます。ペルー中央部沿岸地帯でも、1350~950年前頃の高地ワリ(Wari)文化の盛衰を挟んで1850~480年前頃にかけて、遺伝的継続性が確認されます。1480~515年前頃のペルー南部沿岸地帯でも、2050~1200年前頃のナスカ(Nasca)文化の衰退後も遺伝的構成に顕著な変化は見られません。ペルー南部高地帯でも、ワリ文化の影響に関わらず、遺伝的継続性が確認されます。

 これらの地域おいて、文化的・政治的な大変化にも関わらず、他地域の一部で見られる集団の大規模な置換や遺伝的構成の変化は検出されませんでした。ただ本論文は、人々や支配層の小規模な移動、あるいは本論文の分析手法では検出できなかった移動の可能性は排除できない、とも指摘します。しかし、2000~500年前頃にアンデスの各地域で確立された集団遺伝的構造が、現代の先住民のそれに強く反映されていることも確認されています。インカ、さらにはおもにスペインによるヨーロッパ勢力の侵略でも、これらの地域における集団遺伝的構造は完全には破壊されなかったわけです。

 この均一性の例外はクスコとチチカカ盆地です。1450~950年前頃のティワナク(Tiwanaku)の影響圏は、現在のチリ北部・ボリビア西部・ペルー南部に及びますが、ペルー南部高地帯個体群は、この時期のチチカカ盆地の全ての他集団よりも、ボリビアのティワナクの1000年前頃の個体の方と遺伝的に類似しています。これは、ティワナクのような行政・宗教の中核的都市では、周囲の集団から移住してきた人々が存在したかもしれないことを示唆します。ティワナク崩壊後からインカ帝国拡大前の、現在のチリ・ペルー・ボリビアの国境付近の700年前頃の個体群では、チチカカ盆地集団よりもペルー南部高地帯集団の方との遺伝的近縁性が確認されました。これらの個体群は遊牧民墓地で発見されており、ペルー南部高地帯からの移民だったかもしれません。考古学では、ワリとティワナクの終わりにラクダ科の牧畜が拡大した、と示唆されています。

 550~420年前頃のインカ(Inca)帝国では、クスコ(Cusco)地域とトロントイ(Torontoy、聖なる谷)で個体群における有意な遺伝的不均一性が検出されます。この中には、ペルー北部沿岸地帯・ペルー南部高地帯・チチカカ盆地系統が含まれます。クスコでは、先スペイン期個体群はペルー南部高地帯のような他地域集団よりも現代人との関連が低く、現代のクスコ集団の遺伝的構造の形成過程は、将来の研究の課題となります。本論文はこれに関して、インカもしくはスペインによる強制移住や近現代における農村部から都市部への大規模な移動の可能性を指摘しています。インカ帝国時代の極端な移動の事例では、アンデス南部の500年前頃のミイラ化した少年(関連記事)が、遺伝的にはペルー北部沿岸地帯系統と最も近縁であることが挙げられ、子供の長距離移動が示されます。これは、ペルー北部沿岸地帯の特定の場所がインカ帝国にとって重要だったことを示唆します。

 アンデス中央部と他地域の遺伝子流動は、アマゾン北西部とペルー北部の間で検出されました。ペルーのアマゾン地域の現代人は、ペルー北部高地帯系統29%とアマゾン系統71%の混合としてモデル化されます。また、ペルーのアマゾン地域の現代人系統とペルー北部の4100年前頃の個体でモデル化すると、ペルー中央部沿岸地帯ではアマゾン関連系統が39±14%と推定され、ペルー北部および中央部沿岸地帯とアマゾン地域との双方向の遺伝子流動があり、高地帯よりも北部および中央部沿岸地帯でアマゾン関連系統の影響が大きい、と示唆されます。ペルー北部高地帯よりもペルー北部および中央部沿岸地帯でアマゾン関連系統の影響が強いことから、遺伝子流動はペルー北部の低い山を経由したか、高地帯集団ではアマゾン集団からの強い社会的障壁を維持していた、と考えられます。アマゾン関連系統との混合は、ペルー北部沿岸地帯で1478±252年前頃、ペルー中央部沿岸地帯で1153±90年前頃と推定され、南方への移住パターンの仮説と一致します。mtDNAの研究と同様に、チチカカ盆地もしくは地理北部への熱帯低地帯由来の遺伝子流動は観察されませんでした。アンデス低地帯東部とチリ北部沿岸地帯との間の食料などの交換は考古学で明らかになっていますが、その交換から2000~3000年後のチリ北部の個体でも、遺伝子流動は検出されませんでした。ただ、古代アマゾン地域集団のDNAデータはまだ得られていないので、まだ検出されていない系統からの遺伝子流動の可能性は排除できません。

 アルゼンチンのパンパ地域では、6800年前頃の個体よりも1600年前頃の個体の方が、ペルーの南部高地帯・南部沿岸地帯・中央部沿岸地帯・チチカカ盆地集団よりも、遺伝的に類似しています。これは、パンパ地域とアンデス中央部との間の遺伝子流動を示唆します。パンパ地域の1600年前頃の個体は、6800年前頃のパンパ地域の個体関連系統80±12%と、アンデス中央部沿岸地帯関連系統20±12%としてモデル化されます。ペルー中央部沿岸地帯集団は、ペルー南部高地帯関連系統77±17%とパンパ地域の1600年前頃の個体関連系統23±17%としてモデル化されます。アンデス南部の土器および金属製品の起源は1000年前頃のパンパライブ地域にあり、パンパ地域の個体は同位体分析によりアンデス南部で育ったと示唆されているように、相互交流があったようです。

 以前の研究では、アンデス中央部において4200年前頃より、南カリフォルニアのチャネル諸島の古代人と遺伝的に最も密接に関連している系統の流入が見られる、と推定されました(関連記事)。本論文で検証された4200年前頃以後のほぼ全ての集団でも改めて確認され、このチャネル諸島関連系統がアンデスに遅くとも2000年前までには拡大し、混合の年代はおそらく5000±1500年前頃と推定されました。

 本論文は、アンデスにおける古代ゲノムデータ数を大きく増加させ、アンデスの人口史をより詳細に解明しています。アンデスでは、高地の南北間、高地と低地で遺伝子流動が続きつつも、2000年前頃以後には地域的な遺伝的継続性が強く見られるようになったことを指摘します。これは、考古学で示唆されているように、植物栽培への依存の高まりなどによる定住生活の固定化が影響しているのでしょう。また、文化的・政治的な大変化にも関わらず、地域の安定した遺伝的継続性が見られることも重要です。そうした中で、ティワナクやインカのように広範な影響力を有する文化・国家の中心部では、「世界都市」的性格も見られることは注目されます。これには、強制的な移住も含まれていたのかもしれませんが、アンデス地域における長期の地域的な遺伝的継続性は、ティワナクやインカのような広範な大勢力が少なかった、あるいはその期間が短かったことに起因しているのかもしれません。また、アンデスとパンパやアマゾンのような他地域との遺伝子流動も検出されており、安定的な地域ごとの遺伝的構造を基本としつつ、考古学から窺えるように、文化的交流に伴いある程度は人々の移住があったことも示唆されます。


参考文献:
Nakatsuka N. et al.(2020): A Paleogenomic Reconstruction of the Deep Population History of the Andes. Cell, 181, 5, 1131–1145.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.015

大河ドラマ『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」

 斎藤道三は息子の高政(義龍)との戦いに向かいますが、圧倒的に不利なのは否めません。それでも、道三の娘の帰蝶を妻とする織田信長は、道三を助けるため出陣しようとします。高政は明智家が参陣しないことに苛立っていましたが、明智光秀(十兵衛)はすでに叔父の光安に続いて道三陣営に加わると決めていました。長良川で戦いが始まり、高政自らが大軍を率いて前線に出てくると、大勢は決します。敗北が決定的となっても道三は逃げず、単騎で高政の陣に向かい、高政に一騎討ちを挑み、高政も応じます。降伏を勧告する高政に対して、誰が父親か答えよ、と道三は問いかけます。あくまでも土岐頼芸を父親と主張する高政は、配下の兵士たちに道三を討ち取らせます。高政は、この先ずっと親殺しの汚名がつきまとう、と道三に負けたことを悟ります。

 そこへ現れた光秀に対して、高政は自分に従えば道三側に加担したことを許す、と提案しますが、あくまでも自分の父親は土岐頼芸と言い張る高政に対して、土岐頼芸にも高政にもないものを有していた道三は立派な主君だと言い、従わない意思を表します。高政は光秀に、次に会えば殺すと伝えます。明智城に帰還した光秀に、叔父の光安は家督を譲り、息子の左馬助(秀満)とともに落ち延び、いつか城主として復活するよう、言い残します。光秀は、母・妻・光安たちとともに落ち延びる決断を下します。一方、父の死を知らされた帰蝶は、伊呂波太夫に美濃に行くよう依頼します。

 今回で、これまで強い存在感を示してきた道三が退場となり、何とも寂しいものです。大河ドラマというか時代劇でよく見られる大将同士の一騎討ちは、正直なところ不自然であまり好きではありませんが、今回は、高政が道三との親子関係に向き合えるのか、という主題だったので、一種の心象風景と考えればよいのかな、とも思います。ただ、道三が討ち取られた後の光秀と高政のやり取りはもっと不自然で、さすがに受け入れがたかったのですが、高政の決断を光秀が確かめたという側面もあり、両者の子供の頃からの関係を考えると、こちらもやはり一種の心象風景と考えればよいのかもしれません。色々と違和感の拭えない話・演出ではありましたが、ドキュメンタリーではなくドラマなのですから、このような演出もありかな、とは思います。

オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用に関する研究(Florin et al., 2020)が公表されました。早期現生人類の進化と拡散における植物性食料の役割は、肉食が注目されてきたこともあり、過小評価されてきました。植物性資源の広範な利用と処理は、農耕出現直前の後期更新世~早期完新世になって典型的になった、と考えられてきました。しかし、早期現生人類(Homo sapiens)の植物性食料の利用に関する証拠は近年蓄積されつつあり、中期石器時代のアフリカ(関連記事)や49000年前頃までさかのぼるニューギニアの事例(関連記事)などがあります。

 早期現生人類の食資源をめぐる議論は、その拡散経路とも関連しています。早期現生人類のアフリカからの拡散経路としてユーラシア南岸説が有力とされており、沿岸資源の重要性が指摘されていますが、まだ確定したとは言えない状況です。本論文は、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された炭化植物化石を検証しています。マジェドベベ遺跡では多数の人工物が発見されており、その年代は65000~53000年前頃と推定されています(関連記事)。これは、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への現生人類の拡散時期がじゅうらいの有力説よりずっとさかのぼることになるため、大きな注目を集めました。

 マジェドベベ遺跡の植物化石は大きく、果物やナッツの種皮・根と根茎・ヤシ科茎組織・他のさまざまな植物断片に4分類されます。これらの分類集団の中で、属もしくは種の水準で5分類群に区分されました。この中には、たとえばカンラン科やタコノキ属などの種が含まれます。早期現生人類の痕跡以前には炭が少ないことから、マジェドベベ遺跡の65000~53000年前頃の早期現生人類は多様な植物を調理して食べていた、と推測されますが、果物には生食されたものもあるかもしれません。

 このように、マジェドベベ遺跡の65000~53000年前頃の早期現生人類は植物から炭水化物・脂肪・タンパク質などさまざまな栄養素を摂取しており、果物やナッツは容易に入手できる高栄養価の植物性食資源です。ただ、ヤシや根茎など他の植物の中には、栄養摂取にさいして処理が必要なものもあります。こうした複雑な処理も含む広範な植物の食資源としての利用は、サフルランドにおける既知の確実な証拠に少なくとも23000年先行します。オーストラリアにおける6万年以上前までさかのぼる植物性食料の利用は、アジア南東部やニューギニアにおける後期更新世の事例と一致しており、これが早期現生人類の食性において基本的だったことを示唆します。ウォレス線を越えた早期現生人類は新たな動植物相に遭遇し、利用していきましたが、それらの一部には複雑な処理の必要なものもあり、それは早期現生人類の認知能力により可能になった、と本論文は指摘します。

 本論文は、このように早期現生人類による6万年以上前までさかのぼるサフルランドへの拡散と、拡散における植物性食料の重要な役割を強調します。ただ、マジェドベベ遺跡の年代に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。また、アフリカやユーラシア南部の6万年以上前の石器群との類似性などから、本論文はマジェドベベ遺跡の人工物の製作者が早期現生人類であることを大前提としていますが、これらの遺跡群では人類遺骸がほとんど発見されていないので、その担い手をすべて早期現生人類と判断するのは時期尚早のように思います。もし、オーストラリアあるいはもっと広くサフルランドに6万年以上前に人類が拡散していたとしたら、可能性はかなり低いかもしれませんが、現時点では種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)も想定しておくべきではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
Florin SA. et al.(2020): The first Australian plant foods at Madjedbebe, 65,000–53,000 years ago. Nature Communications, 11, 924.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14723-0

自種の幼生を食べる侵入種のクシクラゲ

 自種の幼生を食べる侵入種のクシクラゲに関する研究(Javidpour et al., 2020)が公表されました。クシクラゲの一種(Mnemiopsis leidyi)は西大西洋の在来種ですが、1980年代にユーラシア海域に導入されて以降、バルト海西部に広範囲に分布するようになりました。この侵入種クシクラゲは、魚類やその幼生と競合し、重要なプランクトンの食物網に連鎖的な影響を及ぼし、商業漁業を混乱させています。この侵入種クシクラゲの個体群は急激な増減を繰り返す動態を示しますが、長期間にわたって被食者(餌生物)の不足状態が続くユーラシア海域北部において、急速な個体群成長をどのように維持しているのか、不明でした。

 本論文は、ドイツ東部のキール峡湾でこの侵入種クシクラゲを採集し、観察した結果を報告しています。その結果、この侵入種クシクラゲの主たる被食者であるカイアシ類の存在量が急減すると、その直後にこの侵入種クシクラゲの幼生の存在量が急減するものの、成体の存在量は急減しない、と明らかになりました。本論文は、この現象の解明のために行なった実験室内の観察結果を報告しています。この侵入種クシクラゲは 被食者であるカイアシ類がいなくなると、自種の幼生を食べる、と明らかになりました。本論文は、この侵入種クシクラゲが夏の終わりに大増殖し、被食者をほぼ全滅させて、他の捕食者との競争を制してから、食物が不足する期間に備えて栄養素を蓄えておくために共食いに移行する、と推測しています。これらの知見は、多産な侵入種であるこのクシクラゲを制御するための効果的な戦略を考案する上で役立つと同時に、動物界における共食いの進化的起源に関する手掛かりをもたらしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:侵入種のクシクラゲは被食者を食べ切った後は自種の幼生を食べて生き残る

 バルト海西部に生息する侵入種のクシクラゲの一種 Mnemiopsis leidyiは、食物が不足すると、自種の幼生を食べることを明らかにした論文が、今週、Communications Biology に掲載される。この新知見は、M. leidyiが繁栄している理由を説明でき、この生物種の拡散を制御するための保全戦略の設計に役立つと考えられる。

 M. leidyiは、海洋捕食者で、西大西洋の在来種だが、1980年代にユーラシア海域に導入されて以降、同海域に広範囲に分布するようになった。M. leidyiは、魚類やその幼生と競合し、重要なプランクトンの食物網に連鎖的な影響を及ぼし、商業漁業を混乱させている。M. leidyiの個体群は、急激な増減を繰り返す動態を示すが、長期間にわたって被食者(餌生物)の不足状態が続くユーラシア海域北部において急速な個体群成長をどのように維持しているのかは分かっていない。

 今回、Jamileh Javidpourたちの研究チームは、ドイツ東部のキール峡湾でM. leidyiを採集し、観察した。その結果、M. leidyiの主たる被食者であるカイアシ類の存在量が急減すると、その直後にM. leidyiの幼生の存在量が急減するが、成体の存在量は急減しないことが明らかになった。なぜそうなったのかを解明するため、Javidpourたちは、実験室内でM. leidyiを調べて、M. leidyiは被食者であるカイアシ類がいなくなると、自種の幼生を食べることを発見した。Javidpourたちは、M. leidyiが夏の終わりに大増殖し、被食者をほぼ全滅させて、他の捕食者との競争を制してから、食物が不足する期間に備えて栄養素を蓄えておくために共食いに移行すると主張している。

 今回の研究は、多産な侵入種であるM. leidyiを制御するための効果的な戦略を考案する上で役立つと同時に、動物界における共食いの進化的起源に関する手掛かりをもたらしている。



参考文献:
Javidpour J. et al.(2020): Cannibalism makes invasive comb jelly, Mnemiopsis leidyi, resilient to unfavourable conditions. Communications Biology, 3, 212.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-0940-2

小山俊樹『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」 』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2020年4月に刊行されました。本書は五・一五事件の具体的な経過とともに、その背景について対象を広くとって考察しています。また、五・一五事件後の首謀者、とくに三上卓の動向が詳しく取り上げられているのも本書の特徴です。そもそも、五・一五事件の具体的な経過を詳しく読んだことがなかったので、本書の簡潔な叙述でも私にとっては有益でした。本書の主題は、五・一五事件の具体的な経過の叙述ではなく、その背景の解明です。第一次世界大戦後の軍縮による軍人の不遇感、第一次世界大戦のような総力戦体制に耐えられるよう日本を「改造」しなければならない、との軍人の焦燥感、それとも関連して、第一次世界大戦後にずっと続き、とくに世界恐慌とともに深刻化した不況により疲弊した農村を顧みようとしない(と認識された)、重臣や政党政治家や財閥など「既得権階層」への不満は軍部のみならず広く共有されていたといったことが、本書では五・一五事件の背景として挙げられています。

 そのため、五・一五事件の実行者たちには軍部のみならず広く国民から同情が集まり、刑も軽かったのに対して、二・二六事件の実行者たちは、五・一五事件の判決から自分たちの量刑について楽観視していたところ、予想以上に重い刑がくだされた、と私は認識していました。しかし、本書を読むと、どうもそのように単純化できないようです。まず、五・一五事件直後には、殺害行為自体への嫌悪感も広く見られ、殺害された犬養毅首相への同情もあり、実行犯への国民的同情が高まったとはとても言えないようです。しかし、事件から1年が経過して陸軍、続いて海軍で公判が始まり、マスコミ報道が始まると、「私心なき青年の純真」という実行者像が形成されていき、減刑運動が盛り上がっていきました。これは、軍部による誘導の側面が多分にあったようです。また本論文は、五・一五事件の被告では、軍人の刑が軽かったのに対して、民間人の刑が重かったことを指摘します。

 また、結果的に五・一五事件で戦前の政党政治は終焉したものの、五・一五事件後しばらくは政党政治復活が模索され、それはある程度以上現実的だった、との見解は知っていましたが、本書で犬養内閣の後に政党政治が継続しなかった過程をより詳しく知ったのも収穫でした。当時、鈴木喜三郎を代表に政友会要人はおおむね、「憲政の常道」から政友会単独政権が続くと確信しており、当時唯一の元老だった西園寺公望も、当初は鈴木喜三郎を後継首相と想定していました。しかし本書は、軍部の暴走とともに政党政治にたいしても不信感を強く抱き、鈴木内閣では犬養内閣の内閣書記官長だった森恪が外交で主導権を握って強硬路線を推進するのではないか、と懸念していた昭和天皇の意向を知らされた西園寺が、当初の構想を断念した、と推測しています。後継首相となった斎藤実を早くから推していたのは木戸幸一でした。なお、森恪が犬養毅殺害の黒幕との説に対して、本書は否定的です。

不公平な行為への反応

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、不公平な行為への反応に関する研究(FeldmanHall et al., 2014)が公表されました。社会において公平性は、社会的効率および協力を促す行動規範として機能しています。公平性に関する研究はこれまで、不公平な状況に置かれた実験参加者に対して、「罰を与える」あるいは「何もしない」の2つの選択肢を選ばせるものでした。しかし、こうした実験系は、日常生活における状況を反映していない可能性があります。

 この研究はそうした問題に取り組むため、実験参加者が他の参加者から不公平な扱いをされたと感じたときに、罰を与えるか、もしくは補償を求めるかという、幅のある選択ができる新しい経済ゲームを開発しました。その結果、不公平な状況に対応するさいに別の選択肢(状況を受け入れたり、補償を求めたりすることなど)がある場合、不公平に扱われた参加者は、不公平な行為者に罰を与えることよりも、状況の受容あるいは補償の要求を選ぶ、と明らかになりました。

 一方で、参加者が不公平に扱われた別の誰かに代わって判断する場合、可能なかぎり最も厳しい経済的な処罰を選択することも明らかになりました。この研究は、これらの結果が、法制度が違反者へ罰を課そうとするさいに有用な情報を与えるのではないかと期待する一方で、介入が可能な前のこうした行動に関する理解を深めるためには、さらなる研究が必要と指摘しています。このような反応は、人類進化史において獲得されてきた認知機構に由来すると考えられ、進化心理学的観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【社会科学】裁くな、裁かれないために

 人は、不公平な行為について、それが他者に向けられたものでない場合、他の選択肢がある状況ではその行為の処罰を望まないことが示された。この知見は、ヒトの社会行動に関するこれまでの解釈とは異なる。

 社会において、公平性は、社会的効率および協力を促す行動規範として機能している。公平性に関する研究はこれまで、不公平な状況に置かれた実験参加者に対して「罰を与える」あるいは「何もしない」の2つの選択肢を選ばせるものであった。しかし、こうした実験系は、日常生活における状況を反映していない可能性がある。

 この問題に取り組むためにElizabeth Phelpsらは、実験参加者が、他の参加者から不公平な扱いをされたと感じたときに、罰を与えるか、もしくは補償を求めるかという、幅のある選択肢を選べる新しい経済ゲームを開発した。その結果、不公平な状況に対応する際に別の選択肢(状況を受け入れたり、補償を求めたりすることなど)がある場合、不公平に扱われた参加者は、不公平な行為者に罰を与えることよりも、状況の受容あるいは補償の要求を選ぶことが分かった。

 一方で、参加者が不公平に扱われた別の誰かに代わって判断する場合、可能なかぎり最も厳しい経済的な罰を与えることを選ぶことが多かった。Phelpsたちは、今回の結果が、法制度が違反者へ罰を課そうとする際に有用な情報を与えるのではないかと期待する一方で、介入が可能な前のこうした行動に関する理解を深めるためには、さらなる研究が必要であると考えている。



参考文献:
FeldmanHall O. et al.(2014): Fairness violations elicit greater punishment on behalf of another than for oneself. Nature Communications, 5, 5306.
https://doi.org/10.1038/ncomms6306

水中生活に適応していたスピノサウルス

 巨大獣脚類恐竜であるスピノサウルス(Spinosaurus aegyptiacus)の水中適応に関する研究(Ibrahim et al., 2020)が報道されました。過去数十年にわたる非鳥類型恐竜の徹底的な研究で、恐竜は陸上環境に限られていた、と強く示唆されてきました。竜脚類やハドロサウルス類などの一部の恐竜が水中環境に生息していたことを唱えたかつての説は、数十年前に棄却されています。最近、白亜紀の独特な大型獣脚類であるスピノサウルス類の少なくとも一部は半水生だったと主張されましたが、この説には解剖学的・生体力学的・化石生成論的な根拠から異論が唱えられ、議論が続いています。

 本論文は、アフリカ本土では最も完全な白亜紀の獣脚類の骨格となる、モロッコ南東部で発見された9700万年前頃の化石を分析し、スピノサウルスにおける水中での推進構造を示す、明白な証拠を提示しています。スピノサウルスは、極端に長い神経棘および細長い血道弓からなる予想外で独特な形状の尾を有し、この尾は、広範な水平方向の偏位を可能にする大型で柔軟な鰭様器官を形成していた、と明らかになりました。本論文は、水平方向に反復運動するロボット装置を用いて、さまざまな形状の尾の物理モデルで波動の力を測定することで、水中ではスピノサウルスの尾の形状が陸生恐竜の尾の形状よりも大きくて効率の良い推進力を生み出すこと、さらにこうした高い能力は、現生の水生脊椎動物が鉛直方向に広がった尾を用いて前方への推進力を生み出す遊泳能力により近いことを示しています。

 これらの結果は、スピノサウルスに関してこれまで報告されている、水中の生活様式や魚食性への一連の適応と一致します。発達の程度は低いものの、水中生活への適応はスピノサウルス科クレード(単系統群)の他の種にも認められており、このクレードはほぼ全球的に分布し5000万年に及ぶ層序範囲で発見されていることから、恐竜の水中環境への進出は大規模なものであった、と示されました。本論文は、スピノサウルスが現代のワニ類と同じような方法で水中を移動し、獲物を探していたかもしれない、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:スピノサウルスは泳ぎが上手だった

 スピノサウルスという恐竜の分類群は、他の非鳥類型恐竜とは異なり、水中での生活に十分適していたとする考えを示したNizar Ibrahimたちの論文が、Nature に掲載される。この学説は、保存状態の良好なスピノサウルス(Spinosaurus aegyptiacus)の尾部化石の分析に基づいている。

 スピノサウルスは、かつて繁栄した大型の捕食性恐竜の分類群で、5000万年にわたる化石記録が存在する。このIbrahimたちの論文には、モロッコ南東部にある9500万年前のケムケム地層で発見された亜成体のスピノサウルスのほぼ完全な尾部が記述されている。スピノサウルスに関しては、これまで不完全な化石だけが解明の手掛かりだった。また、これまで発見された唯一の関連化石標本は、第二次世界大戦中に破壊されてしまった。これに対して、Ibrahimたちが分析した化石は、アフリカ大陸でこれまで発見された中で最も完全な白亜紀の獣脚類の骨格化石である。

 この化石からは、スピノサウルスが一連の非常に長い神経棘によって形成された独特な形状の柔軟な尾を持っていたことが明らかになった。そして、モデル研究によって、この水かきのような尾が、柔軟性を備え、左右に動いて推力を生み出せることや、スピノサウルスが現代のクロコダイルと同じような方法で水中を移動していたことが示唆された。スピノサウルスが水中で生活していたという考えは決して新しいものではなく、スピノサウルスは、水中を歩き回り、海岸近くで魚を捕まえていたことが、以前の研究によって示唆されている。しかし、特殊化した尾が生み出す推力による移動を示す新しい証拠が明らかになったことで、スピノサウルスが水中で獲物を探していたことが暗示された。


古生物学:獣脚類恐竜における尾推進型の水中ロコモーション

Cover Story:よくできた尾:化石から明らかになったスピノサウルスの遊泳と水中での捕食

 表紙は、巨大獣脚類スピノサウルス(Spinosaurus aegyptiacus)の想像図である。他の非鳥類型恐竜と同様に、スピノサウルス類も主に陸生であると考えられることが多く、その一部は半水生である可能性が示唆されているが、この考えは論争の的になっている。今回N Ibrahimたちは、水中での推進に適していると思われる特異な形状の尾を有するスピノサウルスの化石を提示している。この化石は、モロッコ南東部の9700万年前のケムケム地層で発見されたもので、これまでにアフリカ本土で発見されたものの中で最も完全な白亜紀の獣脚類の骨格である。その柔軟な尾には、極めて長い神経棘があり、広範な左右運動が可能であったと思われる。著者たちによるモデル研究は、この尾がかなりの推進力を生み出したことを示唆しており、スピノサウルスが現代のワニ類と同じような方法で水中を移動していた可能性を示している。



参考文献:
Ibrahim N. et al.(2020): Tail-propelled aquatic locomotion in a theropod dinosaur. Nature, 581, 7806, 67–70.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2190-3

中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、中国河南省の新石器時代遺跡におけるコイの養殖に関する研究(Nakajima et al., 2019)が報道されました。水産養殖は現代世界で最も急速に成長している食料生産体系で、今では人類の消費する魚の約半分を提供しています。しかし、その重要性にも関わらず、魚の養殖の起源はほとんど知られていません。人類による水産資源の利用は100万年以上前までさかのぼりますが、現生人類(Homo sapiens)において顕著な拡大が見られ、完新世には急激に増加しました。陸上動物の家畜化は10500年前頃までには始まりましたが(関連記事)、魚の養殖はそのずっと後に発展したと考えられています。

 エジプトでは墓の芸術作品から紀元前1500年頃までにはナイルティラピア(Oreochromis niloticus)が管理されていた、と示唆されています。中国では、歴史的記録に基づくとコイ(Cyprinus carpio)の養殖は紀元前千年紀までさかのぼります。范蠡著で紀元前460年頃の作とされる『養魚経』は、養殖に関する最古の著作です。『詩経』では、紀元前1142~紀元前1135年に池で鯉が飼育されていた、と見えます。これらの証拠から、紀元前二千年紀までに中国のいくつかの地域で養殖が発達したと示唆されますが、動物考古学ではまだ確認されていません。養殖されている魚の種数の推定は採用された基準により異なりますが、最大値は251種で、家畜化された陸上動物の種数よりずっと多くなっています。魚の養殖の判定基準は、人類による制御水準です。本論文では、死亡時年齢と種選択が用いられます。

 コイ科の魚は少なくとも上部旧石器時代以来、人類に広く利用されてきました。歴史的記録に基づくと、コイはアジア東部の人工池や水田で紀元前二千年紀には育てられていました。中国の水田は紀元前五千年紀までさかのぼるので、コイの養殖も同じくらい古いと考えられます。しかし、コイの養殖の考古学的証拠は、これまで新石器時代中国では報告されてきませんでした。アジア東部の考古学的遺骸の以前の分析からは、早期狩猟採集民により捕らえられてきたおもに成熟したコイ科は、性的成熟時のサイズに対応したピークを示す体長(BL)を有する、ということです。この単峰型体長分布は、新石器時代となる紀元前5000年頃の浙江省田螺山(Tianluoshan)遺跡と、日本の滋賀県では縄文時代となる紀元前6000~紀元前5000年頃の赤野井湾遺跡および紀元前6000~紀元前2000年頃の入江内湖遺跡で確認されています。

 しかし、コイ遺骸の二峰型体長分布が、弥生時代(鉄器時代弥生文化)の愛知県の朝日遺跡で確認されています。本論文は、この二峰型体長分布が、アジア東部の歴史的および民族誌的事例と類似している、コイ科利用のより管理された体系の結果である、と仮定します。そうした養殖では、産卵期に大量のコイ科が捕獲され、保存食として加工されていました。同時に、ある程度の数のコイは生き続け、人類の管理する閉鎖的水域に放たれ、そこで自然に産卵し、生まれた仔稚魚は利用可能な資源を食べて成長しました。秋には池から水が排出され、魚が捕獲されました。未成熟個体と成熟個体の両方が存在するため、体長分布は二峰型を示します。

 本論文は、二峰型体長分布がコイの養殖と関連しているという仮説を検証するため、長野県松川町の水田で夏に育てられたコイの標準体長分布を測定しました。次に本論文は、早期新石器時代となる中国河南省の賈湖(Jiahu)遺跡のコイ遺骸から推定された体長分布を分析し、コイの養殖が行なわれていたのか、検証しました。嘉湖遺跡では、コメの栽培とブタの家畜化・発酵飲料・骨製の笛が早期に見られることで知られており、甲骨文字の原型の可能性が指摘されている記号も発見されています。嘉湖遺跡は3期に区分されており、第1期が紀元前7000~紀元前6600年、第2期が紀元前6600~紀元前6200年、第3期が紀元前6200~紀元前5700年です。この3期間の嘉湖遺跡一帯は温暖湿潤で降水量が多かった、と推測されています。また、魚・淡水ムラサキイガイ・カメ・ハスの実の遺骸から、嘉湖遺跡一帯は水が豊富な環境だったと推測されます。嘉湖遺跡で最も多く見つかったコイ科の魚はコイ(Cyprinus carpio)でした。龍州鯉(Cyprinus longzhouensis)は現在中国南部のみに存在しますが、嘉湖遺跡第2期には存在し、当時は冬でも暖かかったことを示しています。

 松川村のコイは平均体長分布95.5mmで、朝日遺跡の最初のピークと一致する分布です。嘉湖遺跡での体長分布のピークは、第1期が300~350mm、第2期が200~250mmで、両期間ともに単峰型体長分布を示します。対照的に第3期には、150~200mmと350~400mmの二峰型体長分布が見られます。アジア東部の他の遺跡では、田螺山と入江内湖と赤野井湾で嘉湖遺跡第1期と類似した単峰型体長分布が見られ、産卵期にのみ行なわれるコイ捕獲の特徴を示します。これらの単峰型体長分布とは対照的に、嘉湖遺跡第3期の体長分布は朝日遺跡と類似しており、管理されたコイ養殖を示唆します。

 嘉湖遺跡第2期の体長分布は第1期および第3期の両方と異なり、200~250mmでピークを示します。本論文は、第2期の分布は自然ではなく、ある程度選択されているか、人為的操作が反映されている可能性を指摘します。現代日本では、自然河川に生息するコイは2~3年で成熟し、体長分布のピークは約300mmです。嘉湖遺跡第2期のコイがおもに水辺の人類の集落に近づいた産卵期に捕獲された場合、その体長分布のピークは第1期と同様に300mm以上になると予想されます。しかし、第2期では体長300mm以上の個体の割合はひじょうに低く、コイがより温暖な気候条件ではより小さな身体サイズで成熟できることを考えると、第2期の分布はより暖かい気候と関連しているかもしれません。

 嘉湖遺跡におけるコイの管理は、種構成でも支持されます。アジア東部の自然の湖および河川体系で人類の利用可能なコイ科では、コイよりもフナが一般的です。若い成体のコイは産卵期の後には直ちに湖岸を離れ、それ故に産卵期以外には捕獲困難なのに対して、フナは年間を通じて川岸や湖岸近くに留まる傾向があります。コイ科が重要な食資源だった日本と中国のいくつかの先史時代遺跡では、コイよりもフナの方が多く発見されてきました。対照的に、嘉湖遺跡と朝日遺跡では、コイがコイ科遺骸の最大75%に達します。これはコイに対する文化的好みを示唆しているようです。コイの養殖は、コイが他の魚よりも優先的に利用されていた地域で始まったかもしれません。

 嘉湖遺跡におけるコイ科遺骸の分析は、先史時代アジア東部におけるコイ養殖の段階的発展を示唆します。第1段階では、コイが産卵期に集まる湿地帯の自然移行帯で、人類がコイを捕獲します。これは、中国の田螺山と日本の赤野井および入江内湖遺跡が相当します。第1段階では、湿地帯の移行帯は、水路を掘削して水位と循環を制御することにより管理されました。コイはそのような環境で自然に産卵し、仔稚魚は秋に捕獲できます。嘉湖遺跡第3期の考古学的証拠は、水産養殖の始まりがこの段階にさかのぼれる、と示します。第3段階の水産養殖は『養魚経』のような歴史的記録に記載されており、具体的な事例としては、水田が発見されている朝日遺跡が指摘されています。第2段階と第3段階はそれぞれ、ローマ帝国に存在した、「粗放」と「集中」の養殖体系に相当するかもしれません。アジア東部では、コイの水産養殖は水稲耕作と関連していたかもしれません。嘉湖遺跡ではまだ水田は確認されていませんが、コイの水産養殖と水稲耕作との共進化は、将来の研究の重要な主題となるだろう、と本論文は指摘します。


参考文献:
Nakajima T. et al.(2019): Common carp aquaculture in Neolithic China dates back 8,000 years. Nature Ecology & Evolution, 3, 10, 1415–1418.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0974-3

古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入

 非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)から現生人類(Homo sapiens)への遺伝子移入に関する研究(Gokcumen., 2020)が公表されました。本論文は、現生人類と古代型ホモ属との遺伝的関係について、最近までの知見をまとめており、この問題の把握にたいへん有益だと思います。古代DNA研究の飛躍的な進展により、人類進化史に関する理解は大きく深まりました。現代人の祖先集団が深刻なボトルネック(瓶首効果)を経たことは以前から指摘されており、現代人の遺伝的多様性はこの祖先集団にまでさかのぼれる、と考えられていました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の多様性などの以前の遺伝学的研究は、この見解を支持します。

 しかし、ゲノム規模研究は、現代人の進化史が複雑だったことを明らかにしてきました。現代人系統は、早期に分岐した系統との複雑な遺伝的つながりを有する、というわけです。これら複雑な関係を有する人類系統の中では、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)はすでに遺伝的に特定されていますが、遺伝的に未知の人類系統が一部の現代人集団に遺伝的影響を残した可能性も指摘されています。現代人の遺伝的多様性は、現生人類だけではなく古代型ホモ属にも由来します。本論文は、最近の知見に基づいて、遺伝子移入に関する特定の問題を検証していきます。


●遺伝子移入とは何か

 遺伝子移入(浸透性交雑)は、異なる生物学的分類群の一つ(高頻度で種)の遺伝子プールから、別の分類群への交配による遺伝子流動です。遺伝子移入には、比較的最近の共通祖先を有する二つの生物学的実体が分岐し、遺伝子プールが明確に分岐するのにじゅうぶんな時間、相互に孤立したままである必要があります。具体的には、たとえばネアンデルタール人と現生人類です。したがって、受け入れる側の集団はしばしば、遺伝子移入の有無が区別可能なアレル(対立遺伝子)を有します。遺伝子移入は固有の過程で、一般的であり、進化に重要だと明らかにされてきました。遺伝子移入されたゲノム多様性の研究により、時間の経過に伴う異なる集団間の相互作用の強度・持続期間・時期を推定できます。また遺伝子移入は、潜在的に新たな適応的もしくは不適応的な遺伝的多様性を集団に導入でき、表現型多様性と適応的過程の遺伝的基盤を理解するための自然実験を提供します。ゲノム規模のデータセットが豊富なおかげで、ゲノム全体の遺伝子移入の特徴を調査することは、ヒト進化の遺伝的研究における重要な焦点となってきました。


●古代型ホモ属の遺伝的データにより変わる現生人類の進化史

 21世紀に古代DNA研究が飛躍的に発展するまで、現生人類とネアンデルタール人に関する考察の大半は化石記録に基づいていました。そこでまず明らかになったのは、最古の現生人類的化石群はアフリカで発見されている、ということです。次に明らかになったのは、ユーラシアとオセアニア全域に点在するひじょうに古い人類化石があり、明確な非現代人的特徴を示すものの、系統分類は曖昧で論争になった、ということです。そのため、現生人類の起源に関して、20世紀後半にはアフリカ単一起源説と多地域進化説が提唱されました。アフリカ単一起源説では、現生人類の唯一の起源地はアフリカで、そこから世界中に拡散してネアンデルタール人など先住人類を置換した、と想定されます。ただ当初より、先住人類とのわずかな交雑および現代人(の一部集団)への遺伝的影響を認める交配説と、先住人類の遺伝的影響は現代人には残っていない、と想定する完全置換説とがありました。多地域進化説では、アフリカから(広義の)ホモ・エレクトス(Homo erectus)が100万年以上前にユーラシアへと拡散し、異なる環境に応じて地域集団が進化していき、相互に遺伝的交流を維持しつつ、比較的均一な現代人集団へと進化した、と想定されました。

 人類進化史に遺伝学が大きな役割を果たすようになったのは、20世紀第四四半期でした。人類の遺伝的変異に関する初期の研究では、現代人の遺伝的多様性の大半はアフリカの深い系統にあると示し、アフリカ単一起源説を支持しました。20世紀末に解析されたネアンデルタール人のmtDNAは、現代人の変異幅に収まらないと明らかになり、アフリカ単一起源説への支持はさらに強くなりました。多地域進化説では、ネアンデルタール人が現生人類の遺伝子プールにかなり影響を残した場合、少なくともある程度の現代人はネアンデルタール人からmtDNAを継承しているだろう、と示唆していたからです。こうして21世紀を迎えた時点では、現生人類の起源に関してはアフリカ単一起源説、その中でも完全置換説が主流となりましたが、現時点で振り返ると、このモデルは不完全でした。

 この流れを大きく変えたのは古代型ホモ属のゲノム解析でしたが、すでにその前から、現代人のゲノム解析によりネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入を指摘した研究もありました(関連記事)。ネアンデルタール人のゲノム規模データの公表により、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が確認されました。当初、ネアンデルタール人の遺伝的影響が残る現代人は、サハラ砂漠以南のアフリカ以外の全集団と推測されましたが、最近の研究では、以前の推定よりもはるかに多く、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団のゲノムにもネアンデルタール人由来の領域が残っている、と推測されています(関連記事)。

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が指摘されて間もなく、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された個体が、現生人類とはネアンデルタール人と同じくらい遺伝的に異なり、オセアニアの現代人集団に遺伝的影響を残している、と推定されました。その後の研究で、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の間の複雑な交雑が明らかになってきました(関連記事)。こうして現生人類の起源に関しては、単なる多地域進化説とアフリカ単一起源説との対立という枠組みを超えて、古代型ホモ属からの遺伝子移入の程度・範囲・年代・起源への関心が高まっていきました。


●古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入に関する疑問

 ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入は、現在では広く認められています。当初の研究では、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団よりもそれ以外の地域の現代人集団において、ネアンデルタール人由来の多型アレルをずっと多く有する、という観察がその証拠とされました。これは、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団はネアンデルタール人からの遺伝子移入がなかった、という仮定に基づいています。しかし、人類進化史において比較的新しい年代に最終共通祖先を有するネアンデルタール人と現生人類とでは、共有アレルも当然多くなります。じっさい、サハラ砂漠以南のアフリカ現代人集団(サン人)とそれ以外の地域の現代人集団(フランス人)とでは、ネアンデルタール人との多くの共有アレルが確認され、そのうちサン人になくてフランス人にのみ確認されるものはわずかで、ゲノムの塩基対のうち0.0002755%にすぎません。これは、偽陽性もしくは偽陰性率、人口史の仮定、変異率の推定値のわずかな偏りでも、遺伝子移入の分析を著しく偏らせる可能性を示します。そのため、非アフリカ系現代人の祖先集団が出アフリカの前にアフリカ系集団と分離しており、その人口史における遺伝的浮動の結果として、アフリカ系集団よりもわずかに多くのネアンデルタール人との共有アレルが残った、との見解も提示されました。

 しかし、ハプロタイプ水準での分析では、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入の確実な証拠が得られます。ネアンデルタール人から現生人類に伝わったゲノム中のDNA領域は組換えによってのみ断片化されるので、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のアレルは、まとまって発見されるはずです。じっさい、現代人のゲノムにおいて、ネアンデルタール人のゲノムと一致する近接派生的多様体が数十個から時には数百個存在する数百もの領域が特定されており、同様の事例はオセアニア系現代人集団のゲノムにおけるデニソワ人由来のアレルでも確認されています。これらの領域のサイズは、遺伝子移入事象の年代を推定する手がかりとなります。組換えが発生するので、この領域が短いほど遺伝子移入は古い年代に起き、逆にこの領域が長いほど遺伝子移入は新しい年代に起きたことになります。この古代型ホモ属由来の領域のサイズから、非アフリカ系現代人の祖先集団と古代型ホモ属との交雑は出アフリカ後と推定されています。ただ、この手法はアフリカにおける古代型ホモ属から現生人類系統への潜在的な遺伝的寄与の可能性を事実上除外します。現在の議論は、現生人類系統における古代型ホモ属からの遺伝子移入の年代・程度・機能的効果に焦点が当てられています。


●アフリカの人口史

 現代人の遺伝的多様性の大半(おそらく90%以上)は、20万~10万年前頃に深刻なボトルネックを経た可能性の高い、アフリカの比較的均一な祖先集団にさかのぼれます。現代人と古代型ホモ属とのゲノム比較により、と少なくとも3系統の古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入が推定されています。アフリカにおける遺伝子移入の検証の難しさは、「遺伝子移入」と「深い遺伝的構造」の間の境界線が曖昧なことです。前者は異なる種のようなひじょうに多様な集団からの遺伝子流動を、後者は集団内の構造化された遺伝的多様性を意味します。

 過去1万年のアフリカ人のゲノムからは、アフリカ現代人集団では今や失われた深い系統が以前にはあった、と示唆されます(関連記事)。つまり、現代と比較して、1万年前頃のアフリカの現生人類の遺伝的多様性は高く、多様なハプロタイプが存在しました。これらの小集団はアフリカ現代人集団とは異なり、その固有の遺伝的多様性の大半は現代では見られません。これは、アフリカ現代人集団のゲノム分析だけでは見えない、かなりの深い遺伝的構造がアフリカにはある、ということです。この遺伝的構造は、コイサン集団と他のアフリカ人集団の分離前となる、35万~25万年前頃に合着するハプロタイプを含んでいます。したがって、ボトルネック後の集団よりも古い現代人集団のハプロタイプの少なくともいくつかは、遺伝子移入ではなく、この古代の遺伝的構造で説明できます。

 アフリカの古代型ホモ属のゲノム規模データは欠如しているため、課題となるのは、「深い遺伝的構造」に由来するハプロタイプ多様性と、遺伝子移入事象に由来するそれとの区別です。両者の違いの一つは時間です。「深い遺伝的構造」に由来する場合は、明確な解剖学的現代人のハプロタイプの分岐年代である数十万年前までさかのぼり、遺伝子移入ではアフリカにおいて現生人類系統と古代型ホモ属系統とが分岐した100万年以上前までさかのぼる、と想定されます。まず間違いなく現生人類とは明確に異なる人類系統であるホモ・ナレディ(Homo naledi)が、じっさいに遭遇したのか確証はないとしても、アフリカでは現生人類と共存していたこと(関連記事)からも、アフリカにおける古代型ホモ属と現生人類系統との交雑はじゅうぶん想定されます。

 アフリカにおける遺伝的に未知の人類系統から現生人類系統への遺伝子移入を推定した研究は複数あり(関連記事)、200万~50万年前頃に現生人類系統と分岐し、現在では絶滅した人類集団から現生人類系統への遺伝子移入が想定されています。ただ、この遺伝子移入事象の年代と場所は不明確です。たとえば、未知の人類系統と現生人類系統との分岐は200万~150万年前頃、遺伝子移入事象は15万年前頃とも推定されていますが(関連記事)、これらの年代は確定的ではない人口統計学的モデル・変異率・組換え率に依存しているからです。したがって、より詳細な遺伝子移入事象の解明には、アフリカの古代型ホモ属の直接的なゲノム配列や、既知のものより古いアフリカの現生人類遺骸の古代ゲノムデータが必要です。


●ネアンデルタール人の進化史

 ネアンデルタール人は、ユーラシア、その中でもおそらくヨーロッパで40万年前頃までに進化し、その後でユーラシアに広く拡散した、と考えられます。ネアンデルタール人のゲノムデータからは、シベリア(東方)とヨーロッパ(西方)の大きく異なる2集団が存在し、東西両系統は遅くとも12万年前頃までには分離していた、と明らかになっています(関連記事)。9万年前頃のシベリアの古代型ホモ属個体は、母がネアンデルタール人で父がデニソワ人と明らかになりました(関連記事)。これは、異なる人類系統間の遺伝子移入が一般的だったことを示唆します。最近の研究でも、南シベリアのアルタイ山脈では、ネアンデルタール人とデニソワ人が遭遇した場合、両者の交雑は一般的だった、と推測されています(関連記事)。さらに、この交雑第一世代個体の母は東方系よりも西方系の方と近縁なので、シベリアでは、東方系ネアンデルタール人の存在した14万年前頃から9万年前頃までの間に、東方系から西方系への置換があった、と示唆されます。

 非アフリカ系現代人全員のゲノムに、さほど変わらない割合でネアンデルタール人由来と推定される領域があることは、非アフリカ系現代人全員の祖先である出アフリカ系現生人類集団が、各地域集団に分岐する前にネアンデルタール人との単一の決定的な遺伝子移入事象を経た、と示唆します。そのため、この遺伝子移入事象の場所は、出アフリカ現生人類とネアンデルタール人が最初に遭遇したアジア西部、おそらくはレヴァントで、年代は5万年前頃以前と推定されます。ただ、地域集団のゲノム構造からは、もっと複雑だったことが示唆されます。

 この時期のアジア西部のホモ属の直接的なDNA証拠は、ネアンデルタール人でも現生人類でも得られていません。また、アジア西部の現代人集団では、他地域の非アフリカ系現代人集団と比較してのネアンデルタール人の遺伝的影響は、レヴァントでは小さく、アナトリア半島とイランでは変わらない、と推定されています。これに関しては、アフリカから複数の現生人類集団がユーラシアへと拡散し、そのうち1集団だけがネアンデルタール人と交雑したことを反映している、と推測されています。代替的な仮説では、サハラ砂漠以南のアフリカ人集団からの最近の遺伝子流動により、レヴァントの現代人集団のゲノムのネアンデルタール人由来の領域が希釈された、と推測されています。じっさい、アジア西部現代人集団のゲノムにおいては、サハラ砂漠以南のアフリカ人系統の割合とネアンデルタール人系統の割合は負の相関関係にあります。また、サハラ砂漠以南のアフリカ人集団による近東集団の置換が想定されており、それはとくに古代エジプトにおいて顕著だった、と推測されています。非アフリカ系現代人集団に遺伝的影響を残したネアンデルタール人は、東方系より西方系に近いと推定されており、西方系ネアンデルタール人がアジア西部に拡散し、現生人類と交雑した、と考えられます。

 おそらくはアジア西部、もっと限定するとレヴァントにおける、5万年前以前のネアンデルタール人から非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団への遺伝子移入事象の後にも、ルーマニアの早期現生人類個体でネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入が観察されているように(関連記事)、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象が起きていた、と推測されています。また、現生人類からネアンデルタール人への10万年前頃の遺伝子移入も推定されています(関連記事)。じっさい、20万年前頃かさらにさかのぼる現生人類系統の出アフリカの可能性も指摘されています(関連記事)。現生人類このように、ユーラシアで広範にネアンデルタール人と現生人類との間の相互の遺伝子移入が起きましたが、その痕跡は現代人集団ではほとんど失われています。現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来のアレル分布は、単一の遺伝子移入事象では説明できない、との見解も提示されており(関連記事)、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝的関係は複雑だったようで、より詳細な解明には、さらに多くのネアンデルタール人ゲノムが必要です。


●デニソワ人

 古代DNA研究の重要な成果は、デニソワ人を遺伝的に新たな系統として発見したことです(関連記事)。デニソワ人はデニソワ洞窟で発見されましたが、その遺伝的影響を強く受けているのはオセアニア現代人集団なので、地理的分布に関心が寄せられてきました。非アフリカ系現代人の一部の祖先集団と交雑したデニソワ人は複数系統だった、と推測されています(関連記事)。デニソワ人から現生人類への遺伝子移入事象は複数回起きた、というわけですが、そのうちの1系統がニューギニア島(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・タスマニア島と陸続きでした)まで拡散していた可能性さえ提示されています。アルタイ山脈のデニソワ洞窟とチベット高原東部でしか遺骸の確認されていないデニソワ人の分布範囲はまだ確定的ではなく、中国で発見されてきた、分類について議論のある中期~後期更新世ホモ属遺骸の中に、デニソワ人と同じ分類群の個体があるかもしれず、多くの謎が残されています。仮にデニソワ人が南シベリアからチベット高原とアジア南東部、さらにはニューギニア島まで分布していたとしたら、現生人類にも匹敵するくらい多様な環境に適応していた可能性もあります。


●現代人の表現型への影響

 非アフリカ系現代人集団のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域は1~3%程度です。これらの領域はおおむね、機能的に重要なコーディング配列や調節領域から離れています。これは、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象後に、ネアンデルタール人の派生的アレルが負の選択により排除される傾向にあったことを示唆します。つまり、現代人の表現型におけるネアンデルタール人の影響は全体的には小さい、というわけです。この負の選択の要因としては、交雑における不適合です。これにより、適応度が下がり、子孫が残りにくくなります。

 こうした負の選択は、繁殖および配偶子形成に関連する遺伝子座においてとくに影響が大きいと予想され、じっさい、現代人のX染色体のそうした領域において、ネアンデルタール人由来の領域は排除されている、と指摘されています(関連記事)。また、ネアンデルタール人の有効人口規模は現代人集団よりもずっと小さく、有害なアレルを除去できない可能性が高い、と推測されています。その結果、ネアンデルタール人の派生的アレルは現生人類においては適応度を下げるために排除された、という可能性も指摘されています。

 一方で、一部のネアンデルタール人由来のアレルは現生人類において適応的優位をもたらした可能性が指摘されています。それは肌の色(関連記事)や免疫(関連記事)に関連したアレルですが、一方で、代謝関連遺伝子のように、かつての環境では有利だったものが、現代では不利に作用しているものも指摘されています(関連記事)。ただ、多数の遺伝子が協調して機能することも指摘されており、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入における機能的役割については、さらに多くの検証が必要となります。

 また、機能的なネアンデルタール人から遺伝子移入されたアレルのほとんどは、コーディング配列ではなく調節配列に影響を与えている、と推測されています。つまり、タンパク質自体を変えるのではなく、その発現の水準に影響を及ぼしている、というわけです。また、デニソワ人からの遺伝子移入に関しては、チベット現代人集団において、デニソワ人由来の高地適応関連遺伝子ハプロタイプが適応度を高めている、と推測されています(関連記事)。全体的に、現代人集団における古代型ホモ属由来のアレルの表現型への影響は小さいものの、アフリカから異なる環境に拡散していった現生人類の適応度の上昇に役立ったものもある、と考えられます。ただ、本論文公表後の研究では、現代人集団の表現型におけるネアンデルタール人由来のアレルの影響は、これまでの推定よりもずっと小さかった、と指摘されています(関連記事)。


●今後の展望

 古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入に関する研究で問題となるのは、現代人の遺伝学的研究の標本抽出がヨーロッパ西部とアメリカ合衆国に偏っていることです。ただ、この問題はじょじょに解消されつつあり、とくに遺伝的にも文化的にも高い多様性を有するアフリカ現代人集団の研究の進展が期待されます。もう一つの問題は、古代DNAの不足です。これは、アフリカ・アジア南東部・オセアニアのように、DNAの保存に不適な環境条件の地域もあるので、全地域で同じように研究を進めることは困難です。また、研究者と資金の充実している研究集団が少ないことも、新たな視点や手法を妨げかねないという意味で、古代DNA研究の制約となっています。

 表現型への影響に関しては、ゲノムと環境の両方に依存しているため、研究は容易ではありませんが、遺伝的基盤の表現型への影響に関する包括的理解につながる可能性もある、と期待されます。過去10年で、古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入は珍しくなかった、と明らかになってきました。また、チンパンジー属(関連記事)やヒヒ属(関連記事)やブチハイエナ属(関連記事)など、他の動物でも広く遺伝子移入が確認されるようになりました。遺伝子移入は進化の主要な推進力の一部だった、と考えられます。


参考文献:
Gokcumen O.(2020): Archaic hominin introgression into modern human genomes. American Journal of Physical Anthropology, 171, S70, 60–73.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23951

チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列(追記有)

 アルタイ山脈のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の高品質なゲノム配列を報告した研究(Mafessoni et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。これはすでに公表されていましたが、論文としてはおそらく初めての本格的な報告となり(査読前ですが)、その後さらに、まだ論文としては報告されていませんが、ネアンデルタール人3個体分の高品質なゲノム配列が得られているそうです(関連記事)。

 ネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、現生人類(Homo sapiens)の最近縁の分類群です。ゲノム分析から、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムの一部が、サハラ砂漠以南のアフリカ以外の現代人に継承されている、と明らかになりました。これまで、2人のネアンデルタール人と1人のデニソワ人の高品質なゲノム配列が得られています。このうち、1人はクロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)遺跡で発見された5万年前頃のネアンデルタール人女性(Vindija 33.19)で、残りの2人は、ともに南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で発見された、ネアンデルタール人(Denisova 5)とデニソワ人(Denisova 3)です。

 中程度の品質(1~3倍のゲノム網羅率)の古代型ゲノムにより、ネアンデルタール人の進化史に関するさらなる理解が得られました。たとえば、ヨーロッパの5人の後期ネアンデルタール人のゲノム配列により、この5人の遺伝的多様性がわずかで、デニソワ洞窟のネアンデルタール人(デニソワ5)よりも、クロアチアのネアンデルタール人(Vindija 33.19)の方と密接に関連している、と示されました(関連記事)。形態学的には分類群が特定されていないデニソワ洞窟のデニソワ11(Denisova 11)は、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人という交雑第一世代個体と明らかになり、アルタイ山脈における「東方系」から「西方系」へのネアンデルタール人集団の置換が示唆されています(関連記事)。本論文は、デニソワ洞窟の西方約106kmに位置するチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人の高網羅率ゲノム配列を提示します。このゲノムはネアンデルタール人の集団構造と歴史への洞察を提供し、ネアンデルタール人に固有のゲノム機能の識別を可能にします。

 本論文は、チャギルスカヤ洞窟第6b層で2011年に発見された指骨であるチャギルスカヤ8(Chagyrskaya 8)からDNAを解析しました。核ゲノムの平均網羅率は27.6倍です。ネアンデルタール人と現生人類の変異率が同じと仮定すると、チャギルスカヤ8の年代は8万年前頃で、同じく高品質なゲノム配列の得られている非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)個体との比較では、デニソワ5の約3万年後、Vindija 33.19(V33.19)の約3万年前となります。考古学では、チャギルスカヤ洞窟第6b層の年代は、光ルミネッセンス法に基づいて6万年前頃と推定されています。層位の分析から再堆積はなさそうなので、現在の変異率に基づく遺伝的年代が間違っているかもしれません。考えられる説明としては、ネアンデルタール人の変異率が現生人類よりも低いか、現生人類の変異率が最近になって低下したことです。この問題の解明には、年代の確かなネアンデルタール人遺骸から高品質なゲノム配列を得ることが必要となります

 チャギルスカヤ8は、他のネアンデルタール人との比較では、より古いアルタイ山脈のデニソワ5よりも、V33.19や他のコーカサスおよびヨーロッパの後期ネアンデルタール人の方と派生的アレル(対立遺伝子)を多く共有しています。デニソワ人であるデニソワ3との共有派生的アレルは、デニソワ5よりもチャギルスカヤ8の方が少なくなっています。V33.19と比較すると、チャギルスカヤ8は、V33.19と年代の近い5万年前頃以降のヨーロッパの他のネアンデルタール人と共有する派生的アレルは少なくなっています。しかし、チャギルスカヤ8は、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑第一世代個体であるデニソワ11とは、V33.19よりも派生的アレルを多く共有しています。デニソワ3との派生的アレルの共有に関しては、V33.19とチャギルスカヤ8は異なるので、チャギルスカヤ8は現時点で、デニソワ11の母親であるネアンデルタール人と最も密接に関連したネアンデルタール人と示唆されます。以下、ネアンデルタール人およびデニソワ人の各個体の系統関係および年代を示した本論文の図1です。
画像

 非アフリカ系現代人は9万~5万年前頃の交雑により、ネアンデルタール人から2%程度のDNAを継承している、と推定されています。ゲノム規模では、チャギルスカヤ8はデニソワ5よりも多くの派生的アレルをアフリカ外現代人集団と共有しており、これはV33.19の割合と類似しています。しかし、この分析が、現代人において遺伝子移入された以前に検出されたネアンデルタール人のハプロタイプか、非アフリカ系現代人集団において低頻度で見られ、それ故にネアンデルタール人からの遺伝子移入である可能性の高い派生的アレルに制約されるならば、V33.19はチャギルスカヤ8よりも現代人集団と多くのアレルを共有しています。これは、V33.19がチャギルスカヤ8よりも、非アフリカ系現代人集団にDNAをもたらした主要なネアンデルタール人集団に密接に関連していることを示唆します。

 この問題の検証のため、アジア東部・ヨーロッパ・インド(アジア南部)・オセアニアの現代人集団で排他的に見られる、ネアンデルタール人由来と推測される以前に報告されたハプロタイプが用いられました。その結果、チャギルスカヤ8とV33.19では、共有されるアレルの割合は類似しており、現時点でのデータ精度では、異なるネアンデルタール人集団から現生人類集団への遺伝子流動があったならば、これらのネアンデルタール人集団は、現在利用可能なネアンデルタール人ゲノムと同じように密接に関連していたことになります。

 デニソワ5ではホモ接合性の長い領域の割合が高くなっています。10センチモルガン(cM)以上のホモ接合性領域はデニソワ5の両親の間の密接な遺伝的関係を示唆しますが、2.5~10cMの間のホモ接合性領域は、デニソワ5の出生集団がその前の約100世代以上にわたって小規模だったことを示唆します。デニソワ5と比較してチャギルスカヤ8のゲノムでは、10cM以上のホモ接合性領域は少ないのですが、中間的な長さのホモ接合性領域はより多くなっています。高網羅率のネアンデルタール人3個体分のゲノムはすべて、ほぼすべての現代人および先史時代現生人類のゲノムよりも中間サイズのホモ接合性領域が多く、それはデニソワ人(デニソワ3)も同様です。合着シミュレーションでは、これは全体的には小さいものの任意交配である集団により説明できません。むしろ、ネアンデルタール人集団は細分化されたことを示唆します。

 合着モデリングにより、チャギルスカヤ8とデニソワ5は60人もしくはより少ない個体数の亜集団で暮らしていた、と推定されます。対照的に、1%もしくはそれ以下の亜集団間の移住率の想定下では、現代および過去の現生人類集団と(デニソワ3に基づく)デニソワ人集団は、100人以上の個体数の亜集団で暮らしていた、と推定されます。一方、ヨーロッパのネアンデルタール人であるV33.19は、チャギルスカヤ8およびデニソワ5というアルタイ山脈のネアンデルタール人よりも大規模な亜集団で暮らしていたようです。ただ、2.5cMよりも長い全ホモ接合性領域にカバーされるゲノムの割合を考慮すると、この違いは統計的にはわずかに有意であるにすぎません。

 本論文は、3個体のネアンデルタール人の高品質なゲノム配列を用いて、889の遺伝子における993の固定された非同義置換と、2952の多型非同義置換を特定しました。異なる脳領域で優先的に発現する遺伝子の分析では、12~19歳の個体群の線条体で発現する遺伝子は、他の脳領域および年齢で発現する遺伝子よりも高い比率を示します。これらの遺伝子によりエンコードされたタンパク質はネアンデルタール人の進化系統において、正の選択の標的だったか、緩和された制約下で進化したことを示唆するかもしれません。さらに、出生前の線条体で発現する遺伝子は、非翻訳領域での置換が他の場所および時間で発現する遺伝子よりも多い、と明らかになっています。

 線条体で発現する遺伝子では、ネアンデルタール人において固定された非同義置換を有するものは、そのような変化を有さない線条体遺伝子よりも、現代人においてネアンデルタール人からの遺伝子移入が殆どあるいは全くないDNAを有するゲノム領域で、しばしば多く見られます。このパターンはネアンデルタール人において固定された非同義置換を有する全遺伝子で観察されず、ネアンデルタール人の線条体遺伝子のいくつかの置換は、現生人類において負の選択だったかもしれない、と示唆します。

 線条体に加えて、後頭葉皮質・前頭前野腹外側部・一次体性感覚野で優先的に発現する遺伝子は、他の脳領域と年代で発現される遺伝子よりも、ネアンデルタール人の調節領域の固定された置換を多く有します。本論文はネアンデルタール人系統における正の選択の検出のため、ゲノム全体で検証し、合計35の個別の候補領域を特定しました。この中には、神経発達(EXOC6B)や免疫および創傷治癒(HTN1、 EVPLL)やミトコンドリア機能(NSUN3、 TIMM29)で進化した遺伝子と重なるもものがあります。

 上述のようにチャギルスカヤ8は、アルタイ山脈に以前に存在したデニソワ5よりも、V33.19および他のユーラシア西部の後期ネアンデルタール人の方と遺伝的に密接に関連しています。したがって、チャギルスカヤ8は12万~8万年前頃に東方へと移動したネアンデルタール人集団と関連しています。チャギルスカヤ洞窟で発見された石器群は、ヨーロッパ中央部および東部の石器群と類似しており(関連記事)、ユーラシア西部からシベリアへのネアンデルタール人集団の移動は、物質文化をもたらしたかもしれません。ユーラシア西部からシベリアに東進してきたネアンデルタール人の一部は、在来のデニソワ人と遭遇し、上述のデニソワ11で示されるように交雑しました。

 これと関連して興味深いのは、アルタイ山脈のネアンデルタール人であるチャギルスカヤ8とデニソワ5は、クロアチアのネアンデルタール人(V33.19)やアルタイ山脈のデニソワ人(デニソワ3)や現生人類よりも小さな集団で暮らしていた、と推測されることです。アルタイ山脈のネアンデルタール人は他地域のネアンデルタール人よりも小規模で孤立した集団で暮らしていたのかもしれません。アルタイ山脈は、ネアンデルタール人にとっては周辺的な地域だったのに対して、デニソワ人にとってはもっと継続的に住んでいた地域だったかもしれない、というわけです。しかし、これを明らかにするには、デニソワ洞窟と他の遺跡の中部および上部旧石器時代のより詳細な研究が必要となります。

 ネアンデルタール人系統の遺伝子発現で目立つのは、上述のように思春期の線条体で発現した遺伝子の変化の数です。さらに、線条体で発現する遺伝子は、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人から遺伝子移入された断片が稀であるゲノム領域(ネアンデルタール人砂漠)で、予想されるよりも頻繁に重複しています。線条体遺伝子はネアンデルタール人特有の適応もしくは他の変化を有しており、それは現生人類への遺伝子流動では不利に作用したかもしれません。これと関連しそうなのは、現生人類系統における派生的変化の正の選択と、現代人のゲノムにおける「ネアンデルタール人砂漠」です(関連記事)。

 より多くのネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が利用可能になると、ネアンデルタール人において機能的に関連する変化を有する遺伝子集団の調査が可能となるでしょう。本論文は、線条体で発現する遺伝子、後腹側頭頂皮質で発現する遺伝子の非翻訳領域およびプロモーター、会話と数学的認知に関連してきた脳領域が、偶然予想されるよりもネアンデルタール人において変化が多い、と指摘します。さらに、ネアンデルタール人の調節領域において変化と関連する上位の表現型では、鼻梁や胸郭のような、ネアンデルタール人の形態的特徴が目立つ骨格の一部で異常があります。

 ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が増加してきたことにより、ネアンデルタール人固有の特徴、さらには現生人類固有の特徴の遺伝的基盤についても、さらに詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。また、本論文が指摘するように、ネアンデルタール人系統では細分化が進んでいったことも明らかになってきました。アルタイ山脈の事例から推測すると、ネアンデルタール人系統内でも長距離移動や置換はさほど珍しくなかったのでしょう。気候変動による環境変化に伴う、撤退・縮小とその後の再拡大や絶滅は、ネアンデルタール人系統において珍しくなかった、と推測されます。これは、デニソワ人や現生人類など、他系統の人類でも程度の差はあれ同様だったのでしょう。

 本論文でも、非アフリカ系現代人と交雑して遺伝的影響を残したネアンデルタール人集団と最も近縁な個体は確定されず、今後の研究の進展に期待したいところですが、そのネアンデルタール人集団はおそらく中東、さらに限定するとレヴァントにいた可能性が高そうです。そうすると、5万年以上前の集団でしょうから、ゲノム解析は難しそうです。ただ、既知もしくは未発見のネアンデルタール人遺骸の中に、アフリカから拡散してきた現生人類に追われてレヴァントからヨーロッパまで撤退した集団に属する個体がいれば、既知のネアンデルタール人遺骸よりも現生人類と交雑したネアンデルタール人集団と近縁であることが示されるでしょう。可能性は低いかもしれませんが、そうした個体が確認されることを期待しています。


参考文献:
Mafessoni F. et al.(2020): A high-coverage Neandertal genome from Chagyrskaya Cave. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.12.988956


追記(2020年7月1日)
 本論文が『米国科学アカデミー紀要』に掲載されました。ざっと確認したところ、査読前の公開論文から内容はほとんど変わっていないようなので、とくに補足はしません。なお、本論文の図1は、有効人口規模の推移も表して修正されているので、以下に改めて引用します。

画像


参考文献:
Mafessoni F. et al.(2020): A high-coverage Neandertal genome from Chagyrskaya Cave. PNAS, 117, 26, 15132–15136.
https://doi.org/10.1073/pnas.2004944117

アフリカ南部の中期石器時代における石材の加熱処理

 アフリカ南部の中期石器時代における石材の加熱処理に関する研究(Schmidt et al., 2020)が公表されました。シルクリート(珪質礫岩)の加熱処理は一般的に、石器製作における石材の品質向上を目的とする技術的過程として理解されています。シルクリート加熱処理は、中期石器時代における「現代的」もしくは複雑な行動の早期事例として議論されてきました。この技術は南アフリカ共和国の南部と西部のケープ地域に限られています。アフリカ南部(南アフリカ共和国)におけるシルクリート加熱処理の起源に関しては、85000~5万年前頃のハウイソンズ・プールト(Howiesons Poort)遺跡での使用と、164000年前頃までさかのぼるかもしれない、との見解も提示されています(関連記事)。

 ただ、16万年前頃にはアフリカ南部でシルクリートの使用は一般的に稀だった、と指摘されています。南アフリカ共和国南岸のピナクルポイント(Pinnacle Point)遺跡を除いて、13万年前頃以前にはシルクリートの本格的な使用は確認されておらず、ケープ沿岸地帯以外ではまったく存在しません。南アフリカ共和国の8万~7万年前頃となるスティルベイ(Stillbay)遺跡よりも新しい中期石器時代遺跡のシルクリートでは、加熱処理の事例が多く確認されています。少なくともスティルベイ以降では、加熱処理はシルクリートを用いての石器製作において重要な過程だったようです。

 ただ、加熱処理に関しては、石材を打ち砕くためというよりも、その前に石材を小さいサイズに割るために用いられた、との見解も提示されています。また、野火や意図的な燃焼による遺跡整備の結果として、意図せずシルクリートが加熱された、との見解も提示されています。本論文はこれらの見解も考慮して、南アフリカ共和国に位置する、シルクリートも含む最初期の中期石器時代遺跡と、中期石器時代よりも前の遺跡におけるシルクリートを比較しました。前者は13万~119000年前頃のホエジェスパント1(Hoedjiespunt 1)遺跡(HDP1)で、後者は40万~20万年前頃となる前期石器時代のアシューリアン(Acheulian)後期のデュイネフォンテイン2(Duinefontein 2)遺跡(DFT2)です。

 分析の結果、DFT2のシルクリートには加熱処理の痕跡が見られない一方で、HDP1のシルクリートでは加熱処理が確認されました。本論文は、前期石器時代において加熱処理が行なわれた可能性はきわめて低い、と指摘します。一方、HDP1の石器群の70%近くでは加熱処理が確認されており、南アフリカ共和国の西部および南部沿岸に位置するほとんどの中期石器時代遺跡での観察と一致します。そのため本論文は、13万~119000年前頃までには、シルクリートの加熱処理技術は完全に習得されており、その後でこの技術利用に大きな変化はなかった、と指摘します。

 本論文は、シルクリートの加熱処理技術の開発は40万~20万年前頃と13万年前頃との間で起きた、と推測します。本論文はこれについて、この期間に現生人類(Homo sapiens)がアフリカにおいて大きな役割を果たし始めたこととの関連を指摘します。上述のように、シルクリートの加熱処理はケープ沿岸地域において164000年前頃までさかのぼる可能性が指摘されています。ただ本論文は、その証拠は不確実なので、シルクリートの加熱処理技術のより正確な起源については、将来の発見が必要になる、と指摘します。

 13万年前頃以降、シルクリートの使用は高頻度の加熱処理と相関しているようですが、加熱処理なしでシルクリートが石材として用いられることもありました。そのため、加熱処理技術の開発・使用目的が石器製作の品質改善だったのか、断定はできない、と本論文は指摘します。上述のように、加熱処理技術は石材を割ってより小さいサイズにするために開発・使用された、との見解もあります。これは当時の人類の「現代性」や計画性の理解とも関わっており、今後の研究の進展が注目されます。

 中期石器時代のアフリカ南部にはホモ・ナレディ(Homo naledi)のように現生人類とは大きく異なると考えられる系統の人類も存在しており(関連記事)、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の共通祖先系統と102万~36万年前頃に分岐し、現代アフリカ西部集団の祖先と124000年前頃以降に交雑して、そのゲノムに2~19%ほど寄与している、と推定されている遺伝学的に未知の人類系統が存在した可能性も指摘されています(関連記事)。その意味で、加熱処理技術の開発・使用に関わっていたのが(ある程度広義の)現生人類系統のみだった、とは断定できないかもしれませんが、現生人類が使用していたことは間違いないでしょう。


参考文献:
Schmidt P. et al.(2020): When was silcrete heat treatment invented in South Africa? Palgrave Communications, 6, 73.
https://doi.org/10.1038/s41599-020-0454-z

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史

 メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史に関する研究(Barquera et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。1518年、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)は、アフリカ人奴隷をヌエバ・エスパーニャに移動させる許可を出しました。これは、遺伝的にも文化的にも、現代のメキシコに影響を与えています。1860年代にアメリカ大陸のほとんどの地域で奴隷制が廃止されるまでに、推定で1060万~1940万人のアフリカ人がアメリカ大陸へと強制的に連行されました。このうち、生きてアメリカ大陸に到達したのは960万~1550万人と推定されており、過酷な大西洋航海だったことを示しています。しかも、これらのデータには、密貿易が含まれていません。ヌエバ・エスパーニャでは、奴隷の連行が廃止された1779年までに13万~15万人のアフリカ人が到着しました。このうち、1600~1640年に約7万人が到着しました。

 このように奴隷が強制連行されたのは、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を征服する過程で、紛争と天然痘など持ち込んだ感染症によりアメリカ大陸先住民の多く(人口が90%減少したとの推定もあります)が死亡し、労働力が不足したからでした。アフリカ人はそうした疾患への耐性が高いと考えられていました。本論文は、遺伝的データ、骨の形態学的分析、同位体分析、民族誌的情報、潜在的な病原体の解析を通じて、1529~1531年に建てられたメキシコシティの病院の埋葬地で発見された、奴隷と考えられる3人(SJN001・SJN002・SJN003)の起源と生活史を調査します。この病院は先住民のために建てられたと記録にありますが、じっさいは非先住民も治療を受け、埋葬されました。

 放射性炭素年代測定法では、3人がメキシコ植民地時代初期の16世紀前半頃に死亡した、と推定されます。3人は死亡時に20代後半もしくは30代前半だった、と推定されています。歯の象牙質の同位体分析(炭素13と窒素15)からは、3人はおもにタンパク質を陸上生物から摂取しており、C4植物および/もしくは海洋性タンパク質も摂取していた、と推測されます。これは、アフリカ西部の乾燥内陸地帯もしくは沿岸住民の食性と一致します。歯のエナメル質からのストロンチウム比は、3人がアフリカ西部起源と示します。SJN001には5個の散弾と2個の治療用針と銃創が見つかりました。SJN001とSJN003には、栄養不足や貧血や寄生虫感染症や失血と関連する病理学的変化である、骨萎縮性骨化過剰症と捻転眼窩が見られます。SJN002には、鎖骨と肩甲骨の内膜症や関節輪郭の変形など、過酷な労働と関連する骨格変化がいくつか見られます。またSJN002には、骨折や口腔衛生うえの問題や前頭骨の切り傷や腰椎の変形性関節症が見られます。頭蓋の形態分析からは、3人ともアフリカ集団との強い類似性が示されます。3人の歯の装飾は、アフリカから奴隷として強制連行された人々の文化的慣行と一致し、それは現在では、アフリカ西部の赤道ギニアやガボンやカメルーンなどの地域で見られます。

 DNA解析の結果、3人とも男性で、親族関係にはない、と明らかになりました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、SJN001がL1b2a、SJN002がL3d1a1a、SJN003がL3e1a1a、Y染色体ハプログループ(YHg)は、SJN001がE1b1a1a1a1c1b(M263.2)、SJN002がE1b1a1a1a2a1(M4254)、SJN003がE1b1a1a1a1c1a1a3a1(TS8030)で、3人のヒト白血球抗原(HLA)とともに、サハラ砂漠以南のアフリカ人で見られます。3人のmtHgはアフリカ西部および中央部において最も高い頻度で見られます。SJN001のmtHg-L1bはアフリカ西部中央のとくに沿岸に集中しています。核ゲノムデータからは、3人ともサハラ砂漠以南のアフリカ西部・中央部集団との遺伝的近縁性が推定され、ヨーロッパ系やアメリカ大陸先住民系との混合の痕跡は見られませんでした。より詳細な分析では、3人ともどのアフリカ現代人集団とも有意に密接には関連していませんでした。これは、過去の移住を反映しているか、3人の属する集団がまだ充分にはデータセットで表されていないか、3人と遺伝的に関連する集団がもはや存在しないことを示します。サハラ砂漠以南のアフリカが古代DNA研究に適していない地域であることを考えると、16世紀以降のアメリカ大陸におけるアフリカ人とその子孫のDNA解析は、かつてのアフリカにおける遺伝的構成の研究に重要な役割を果たしそうです。

 3人が埋葬された集団墓地では、層状に数人の遺骸が含まれており、墓地の収容能力を超えた伝染病の間の埋葬と推測されます。そこで本論文は、病原体の痕跡を調査しました。その結果、SJN001はB型肝炎ウイルス(HBV)に感染しており、そのDNA解析により、アフリカ西部系統と明らかになりました。SJN003はイチゴ腫(フランベジア)の原因となる梅毒トレポネーマ亜種ペルテニュ(Treponema pallidum sub. pertenue)に感染しており、DNA解析によりアフリカ西部系統と明らかになりました。

 本論文は、遺伝的および同位体データ、民族誌的情報、骨の形態を組み合わせ、メキシコシティの早期植民地時代の墓地で発見された3人の起源と生活史を推測しました。これらのデータはすべて、3人全員がアフリカ西部出身と示します。また、歯の修飾や骨に残る過酷な生活の痕跡は、3人が奴隷だったことを示唆します。同位体データからは、3人がメキシコ以外、おそらくはアフリカ西部で生まれ育ち、アメリカ大陸へ奴隷として強制連行された、と推測されます。年代から、この3人はアメリカ大陸で最初期のアフリカ人奴隷だったと考えられます。3人のうち2人には感染症が確認され、ともにアフリカ西部系統だったことから、出身地のアフリカ西部もしくは大西洋を渡る奴隷船で感染したと考えられます。大西洋間奴隷貿易は、アメリカ大陸に新たな病原体を持ち込みました。ただ、3人の男性はこれらの感染症や外傷から生き延びており、その死因はまだ不明です。本論文により、大西洋間奴隷貿易のおぞましい実態が改めて示された、と言えるでしょう。本論文は、文献では明らかにしにくいアメリカ大陸の早期植民地時代の奴隷第一世代のさまざまな情報を、学際的研究により示しており、今後こうした学際的研究がさらに進むのではないか、と期待されます。


参考文献:
Barquera R. et al.(2020): Origin and Health Status of First-Generation Africans from Early Colonial Mexico. Current Biology, 30, 11, 2078–2091.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.04.002

『卑弥呼』第38話「古の五支族」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年5月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハを襲った刺客がクラトに取り押さえられたところで終了しました。今回は、クラトが日見子(ヒミコ)であるヤノハの意図を咄嗟に察し、刺客を殺さずに捕らえた理由を、ミマアキがクラトに尋ねる場面から始まります。クラトは、根っからの策士であるヤノハ(日見子)は刺客が誰に雇われたのか知りたいはずだからだ、と答えます。刺客を雇ったのは、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)が東征のさいに筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)に残した古の支族の末裔ではないか、と疑うミマアキに対してクラトは、サヌ王が東征に出たのは百年以上前だ、その下命を今も後生大事に守る一族がいるとは思えない、と一笑します。クラトは、国境を接する都萬(トマ)の仕業だろう、と推測してみせます。国境を接しているのは穂波(ホミ)も同様ですが、ヤノハの思惑通り進めば、都萬は山社(ヤマト)に包囲される形になるので、穂波維以上に心穏やかではないだろう、というわけです。しかしミマアキは、都萬のタケツヌ王は温和で賢いと評判なので、刺客を野盗だろうか、と疑問を呈します。そこへ、山社の兵士たちが刺客の囚われている獄へと向かいます。兵士に呼ばれた刺客はある邑の長で、今年は川が氾濫し、昨年は旱魃に襲われた、と邑の窮状を訴えます。邑人は飢えているので、新たに建国された山社に税を納められず、自棄になった、と刺客はヤノハに説明します。するとヤノハは刺客に謝罪し、刺客を釈放し、食糧とともに邑へと送り返します。

 穂波では、ヲカ王が身分の高そうなトモを呼び出していました。ヲカ王はトモに、山社への使者派遣の了承を求めます。自分はヲカ王の臣下なので異存はない、とのトモの発言にヲカ王は引っかかりを覚えます。トモは穂波に預けられた古の支族の一人なので、サヌ王の領地である日向(ヒムカ)を侵した日見子(ヤノハ)に悪感情を抱くのは当然だろう、というわけです。すると、トモは、自分の一族がサヌ王の臣下だったのは昔で、今は穂波王家の僕なので、ヲカ王の決断に従うのみだ、と言って平伏し、ヲカ王は満足そうですが、平伏したトモは不敵な笑みを浮かべています。

 刺客は長を務める自分の邑に戻ると、ある男性と接触します。暗殺は失敗し、ともにヤノハ(日見子)を襲撃した従妹は殺された、と報告する刺客を労った男性は、成否に関わらず褒美をやる、と言って猪1頭を与え、刺客は男性に感謝します。この男性の背中には亀の黥が彫られており、男性と刺客とのやり取りをヌカデが草陰から密かに見ていました。トモの配下らしきキモツキは、他の四支族が共にトモと決起するのか、大昔の誓約だけに不安に思っていました。トモ・イム・ヒカネ・アズミ・ワニの五支族はサヌ王に従って東に向かいましたが、五支族の分家は筑紫島に残り、日向を侵す謀反人を監視し、制裁を下すよう、命じられていました。トモは、ここで決起しなければご先祖に顔向けができない、筑紫島に散った他の四支族も必ず日見子(ヤノハ)に対して決起するはず、と断言します。それでもキモツキは、策士の日見子が刺客を派遣したのはトモと気づくことを警戒しています。するとトモは、そのために那から来たある男(島子だったウラと思われます)を都萬に逃がしたのだ、とキモツキに説明します。日見子はウラを敵と誤認し、すぐに犬死にして山社は崩壊するだろう、とトモは自分の計画への自信を打ち明けます。

 自分が長を務める邑に帰った刺客の男性は酒宴を開き、日見子(ヤノハ)様は優しい人で、自分は大きな間違いを犯した、と反省していました。小用に立った邑長は、ヤノハの命を受けたアカメに殺されます。アカメはヤノハからもう一つ命を受けていて、直ちにその場を去ります。日向の霊霊(ミミ)川(現在の宮崎県を流れる、古戦場で有名な耳川でしょうか)河口では、ヤノハがミマト将軍・イクメ・ミマアキ・クラトと共に、ヌカデからの報告を受けていました。邑は穂波より都萬に近いものの、刺客を派遣したのは那出身者だ、とヌカデは報告します。刺客に猪を与えた男の背中には亀の黥が彫られていたことから、刺客を雇ったのは那の島子だったウラだろう、とヤノハたちは納得します。その様子をクラトが不敵に見ているところで、今回は終了です。


 今回は、サヌ王をめぐる謎がまた少し明かされました。サヌ王は東征に従った五支族の分家を九州に残し、それぞれは九州の各地に分散して、日向を侵す者を監視し、制裁を下すよう、命じていました。その五支族のうち一支族が今では穂波に仕えるトモ家で、今後、他の支族の出番もありそうです。クラトもサヌ王の命に従う者の一人ですが、百年以上経過してなお、忠誠を抱かせ続けるサヌ王は、よほど強力な日見彦(ヒミヒコ)で、畏れ敬われたのでしょう。サヌ王の子孫が今どこにいるのか、作中ではまだ明示されていませんが、おそらくは旧国名の大和、さらに絞ると纏向遺跡一帯ではないか、と予想しています。ただ、作中でどのような年代観が採用されているのか不明なので、紀元後207年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)らしい現時点で、纏向遺跡一帯がどれだけ繁栄しているのか、不明ですが。当分は、トモ以外の古の四支族がどう動くのか、ヤノハと会う予定の暈の鞠智彦(ククチヒコ)、さらにはその上に立つイサオ王はヤノハ、さらには山社とどのような関係を築こうとしているのか、といった話が中心になりそうで、たいへん楽しみです。また、鞠智彦の配下の一員となった、ヤノハの弟のチカラオと思われるナツハがヤノハとどう絡んでくるのかも注目されます。

大河ドラマ『麒麟がくる』第16回「大きな国」

 斎藤高政(義龍)は弟の孫四郎と喜平次を殺害し、斎藤道三は息子を殺されて激怒します。明智光秀(十兵衛)の叔父の光安は、道三と高政が戦った場合、明智家がどう動くべきか、懊悩していました。光秀は親子の戦いを回避すべく、尾張の織田信長に嫁いだ帰蝶に会いに行き、父の道三に肩入れして戦いに手を出さないよう、要請します。光秀は、高政が織田との同盟を破棄しないよう説得すると約束しますが、同母の弟二人を殺された帰蝶は高政に怒り光秀に不信感を抱いていたため、光秀の進言を聞き入れようとはしません。高政に報告に行った光秀は、高政から明智家の領地替と光秀への家督継承を構想している、と聞かされます。

 屋敷に戻った光秀は、光安の嫡男の明智左馬助(秀満)から、道三が高政との戦いを決意したと報せを受け、光安に会いに行きます。高政から領地替の話を聞いた光安は道三に加勢しようとしますが、光秀は自重するよう進言し、大桑城の道三に会いに行って戦いを止めようとします。すると道三は、帰蝶からの文に、高政と戦っても勝ち目はないので越前に逃れる手はずを整えたとあった、と光秀に打ち明けます。道三は、高政が自分の息子と理解していながら統治のために土岐頼芸の息子と言いふらしたことを理解しており、偽る者は人の上に立つのにふさわしくない、と光秀に伝えます。道三は、老いを感じて隠居を決意したものの、家督を譲る相手を間違えた、と光秀に打ち明け、美濃も尾張もない大きく豊かな国造りを目指してきて美濃だけで終わったが、光秀は信長とならば大きな国を造れるかもしれない、と光秀に言い残して戦いに赴きます。光安が道三に加勢したことを知った光秀は、どちらにも味方しないと決意しますが、高政には出陣するよう命じられます。悩んだ光秀は、道三への加勢を決意します。

 今回は大きく話が動き、光秀の運命の分岐点となりました。道三が光秀に真意を打ち明け、今後の話の道筋が見えてきたところは、ひじょうに楽しめました。光秀が幼少期からの学友と言うべき高政ではなく道三に加勢したことも、「同じ正直者」同士として、高政よりも大きな視野を有する道三を選択下という話になっていたのは、上手く構成されていたと思います。本作の高政は父に認められないことから拗らせてしまった器の小さい人物として描かれてきただけに、納得のいく流れでした。ただ、本作の高政は単に器が小さいだけではなく、父の道三よりも現実主義的なところのある人物としても描かれており、それ故に道三死後も信長の侵攻を退けることができた、という話になるのかもしれません。もっとも、その現実主義的なところが器の小ささにもなっている、という設定のようにも思います。

 光秀が道三死後、美濃を去って越前に向かう話をどう描くのか、以前から注目していました。本作の光秀は帰蝶と親しく、その夫の信長にも気に入られているようなので、なぜ尾張ではなく越前に向かったのか、疑問に思っていたからです。今回、越前に向かったのは帰蝶が父の道三の逃亡先として用意していたからだ、と明らかになりました。また、同母の弟二人を殺された帰蝶が光秀に不信感を抱いたことで、光秀が流浪先として尾張を選択しなかったのは理解できます。ただ、帰蝶が同母の弟二人を殺されて激怒するのは分かるとしても、それならば、以前からせめて存在が言及されるべきだった、と思います。ただ、強く引っかかった、という程ではありませんが。

 今回、松平元信(徳川家康)が再登場しましたが、家康は子供の頃から度々登場しており、藤吉郎(豊臣秀吉)よりも登場が早かったことから、本作ではかなり重要な役割を担うのでしょう。あるいは、最終的に光秀が「麒麟」と期待するのは家康なのでしょうか。まあその前に、本作の収録が中断しているため、そもそも完結するのか、たいへん心配ですが。これまでは名作と呼べるような出来になっているだけに、何とか完結してもらいたいものです。

ブチハイエナ属とホモ属の進化史の類似性

 ブチハイエナ属とホモ属の進化史の類似性に関する研究(Westbury et al., 2020)が報道されました。第四紀後期には地球上で多くの絶滅が起きました。近年では、古代DNA研究の飛躍的な進展により絶滅種のDNAも解析されるようになり、絶滅種とその近縁の現生種との直接的比較が可能になりました。当初、古代DNA研究では解析の容易なミトコンドリアDNA(mtDNA)が主流でしたが、解析技術の発展に伴い、mtDNAよりもずっと多くの情報を含む核DNAの解析が可能となり、核ゲノムデータはmtDNAデータだけでは検出できなかった絶滅種と現生種との関係を明らかにしてきました。

 こうして近年飛躍的に発展してきた古代DNA研究の主要な対象は人類でしたが、本論文はブチハイエナ属を対象としています。ブチハイエナ属にはいくつかの絶滅および現生種が含まれており、剣歯虎とともに、アフリカからユーラシアへと拡散したホモ属のような移住・進化史が指摘されています。サハラ砂漠以南のアフリカに現在も生存しているブチハイエナ(Crocuta crocuta)は、ブチハイエナ属で唯一の現生種です。ブチハイエナはしばしば大きな母系制社会と複雑な社会行動を示します。ブチハイエナは狩猟と死肉漁りの両方で食物を獲得しています。ブチハイエナでは、雌が出生集団に留まる一方で、雄は繁殖のために拡散します。

 ブチハイエナ属は現在、砂漠以南のアフリカにしか存在しませんが、かつてはブリテン島から極東まで、ユーラシアの大半に分布していました。当初、形態が異なるため、ユーラシアのドウクツハイエナとアフリカのブチハイエナは異なる分類群とみなされました。ドウクツハイエナは現生ブチハイエナよりも遠位肢が短いため、走行能力が劣っている、と考えられていました。またドウクツハイエナは、歯の形態から、狩猟よりも死肉漁りに依存していた、と考えられています。ユーラシアのドウクツハイエナは、ヨーロッパ亜種(Crocuta crocuta spelaea)とアジア亜種(Crocuta crocuta ultima)に区分されています。しかし、この分類には異論があり、異なる気候による表現型の可塑性に起因している、との見解も提示されています。気候要因説は、mtDNAの短い断片の分析により支持を得るようになりました。アフリカのブチハイエナのmtDNAハプログループ(mtHg)が、ユーラシアのドウクツハイエナのmtHg内に見られたからです。その結果、mtDNAの短い断片のみを考慮した場合、ブチハイエナとドウクツハイエナは不可分な分類群のように見えます。

 本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカの現生ブチハイエナと、ユーラシアの絶滅ドウクツハイエナのDNAを新たに分析することで、ブチハイエナ属の系統関係を改めて検証しています。まず、ドウクツハイエナ7頭とブチハイエナ12頭のミトコンドリアゲノムが解析され、既知のデータとともに系統樹が構築されました。その結果、アフリカのブチハイエナのmtHgはユーラシアのドウクツハイエナのmtHg内に混在しており、これは、mtDNAの短い断片のみに基づく以前の系統樹と同様に、両分類群は互いに多系統と明らかになりました。しかし、主要な単系統群(クレード)間の関係はやや異なります。まず、アジア東部のクレードDが分岐し、続いてヨーロッパ系統のみのクレードBが分岐します。その後で、アフリカのみのクレードCとアフリカとユーラシアの混在するクレードAが分岐します。また、クレードA内では、ヨーロッパ系とアフリカ系が相互にクレードを形成します。mtDNAに基づくこの系統樹とは対照的に、核ゲノムデータに基づく主成分分析では、PC1軸でアフリカのブチハイエナとユーラシアのドウクツハイエナの間の違いが明確に示されます。PC2軸では、ヨーロッパとアジア東部のドウクツハイエナが明確に分離されます。

 本論文はさらに、核ゲノムデータに基づいて最尤系統樹を作成しました。この系統樹では、アフリカのブチハイエナとユーラシアのドウクツハイエナとがそれぞれクレードを形成し、両者の分離を示します。ドウクツハイエナの主成分分析では、異なる3クラスタが示されます。PC1軸ではヨーロッパとアジア東部の分離が示され、PC2軸ではヨーロッパのドウクツハイエナが2集団に分れされます。PC2軸の分離は、mtHgのAとBに対応し、時間的もしくは地理的近縁性との明確な対応はありません。これは、地理的に近い集団間の外部障壁を示唆しており、異なるドウクツハイエナの母系にオスが拡散することを妨げているかもしれません。この知見に関しては、ヨーロッパバイソンの事例が参考になるかもしれません。ヨーロッパバイソンでは、mtHgの1系統が5万年以上前の個体群では優性でした。その後、このmtHgは5万~32000年前頃の間に別系統に置換され、その後で元々の系統に戻りました。これは、主成分分析では異なるmtHgと分離したクラスタを示す地理的に近接した個体群という、本論文のデータを説明できるかもしれません。ただ、年代の曖昧な標本もあるため、まだ決定的ではありません。

 ブチハイエナの主成分分析では、明確なクラスタリングは示されませんでしたが、距離によりある程度の分離がある可能性を示しています。ペアワイズシーケンシャルマルコフ合体(PSMC)分析では、後期更新世におけるブチハイエナの大きなボトルネック(瓶首効果)が示されます。ガーナ・ナミビア・ソマリアというアフリカの地理的に大きく離れた地域のブチハイエナ個体群でほぼ同一の人口史が見られることから、これら3個体群は単一集団に属すか、ひじょうに類似した要因で人口史が形成されてきた、と示唆されます。このボトルネックの正確な原因は不明ですが、類似した期間のボトルネックは反芻動物のゲノムでも報告されています。これらのボトルネックは現生人類(Homo sapiens)の有効人口規模の増加と一致しており、現生人類の活動と関連していた、と推測されます。獲物の減少を伴う現生人類人口の増加は、ブチハイエナと他の肉食動物種との間の競争を増加させ、ボトルネックにつながったのかもしれません。また、以前の研究では、ユーラシアの反芻動物に関しても、ドウクツハイエナはアフリカのブチハイエナと類似の減少に直面しており、これが更新世末期の絶滅につながったかもしれません。

 核ゲノムとmtDNAの対照的な結果は、不完全な系統分類か、ブチハイエナとドウクツハイエナの間の遺伝子流動を示唆しています。本論文の分析は、両者が分岐した後のいくつかの遺伝子流動を明らかにします。ブチハイエナからドウクツハイエナへの遺伝子流動に関して、ロシア極東の個体では最小限なのに対して、ドイツの2頭には類似した遺伝子移入の兆候が見られます。このパターンは比較対象がどのブチハイエナでも同様でした。これは、ドウクツハイエナへの遺伝子流動が、ヨーロッパ系とアジア系が分岐した後で、ヨーロッパ系が分岐する前だったことを示唆します。

 逆に、ドウクツハイエナからブチハイエナへの遺伝子流動はもっと複雑だったようで、混合の水準はmtHgもしくはユーラシアとの地理的距離とは相関していないようです。ナミビアのブチハイエナ個体には、ドウクツハイエナからの遺伝子流動の痕跡が最小だったのに対して、ケニアの個体には最も多く含まれており、他のブチハイエナでは類似した水準でした。この交雑パターンに関しては、ブチハイエナへの複数の遺伝子流動事象があったか、単一の交雑事象があり、その後でランダムな組み合わせと遺伝子座の勾配拡散が続いた、と推測されます。

 本論文は、ブチハイエナからの遺伝子流動の確認されたドイツのドウクツハイエナ2頭との比較からさらに分析を進め、ブチハイエナとヨーロッパのドウクツハイエナとの間の双方向の遺伝子流動を推測しています。しかし、分析結果は手法により異なり、アフリカからヨーロッパへの遺伝子流動の方がずっと多く、12万年前頃以降である可能性が高い、との結果と、ユーラシアからアフリカへの遺伝子流動の方が多い、との結果が得られています。本論文はこの矛盾した結果について、比較の基礎となる個体がすでに高度な混合個体の場合、交雑の全体的な水準が過小評価されている可能性と、より新しい遺伝子流動では古い遺伝子流動よりも実際の影響が大きく推定される可能性を指摘します。ブチハイエナではドウクツハイエナと比較してより長い混合の痕跡が見つかっており、アフリカのブチハイエナへの遺伝子流動事象が、その逆よりも新しい年代に起きた可能性を示唆します。

 本論文はこれらを踏まえて、改めてブチハイエナとドウクツハイエナとの間の双方向の遺伝子流動を提示します。それは、ドウクツハイエナがヨーロッパ系とアジア系に分岐した後のことで、それに続いて北方のブチハイエナへの一方向の遺伝子流動が起き、その後で他のブチハイエナ系内において混合した遺伝子座の勾配拡散が起きました。さらに本論文は、mtHg-Aにおけるドウクツハイエナとブチハイエナの分岐年代に基づいて、遺伝子流動は475000年前よりも前のある時点で起き、それはブチハイエナからドウクツハイエナか、その逆だった、と推測しています。しかし、ブチハイエナのmtHgがいくつかのドウクツハイエナ集団で高頻度であるものの、他の集団ではそうではないか、あるいはドウクツハイエナのmtHgの1系統が高頻度アフリカ北部で高頻度に達していることから、選択とは対照的に偶然起きた可能性が高い、と指摘します。

 次に本論文は、この混合事象が適応的な結果をもたらしたのか、検証します。ブチハイエナへの遺伝子移入領域では、75個の推定遺伝子が見つかりました。このうち、グルタミン酸受容体シグナル伝達経路で有意な選択の痕跡が見られました。この経路はさまざまな生物学的過程に関与しており、中枢神経系で重要な役割を果たしています。現生人類では、この経路の異常は統合失調症やアルツハイマー病やパーキンソン病などに関連しています。ドウクツハイエナの遺伝子移入領域では12個の推定遺伝子が見つかりましたが、有意な選択の痕跡は確認されませんでした。

 ブチハイエナとドウクツハイエナの分岐年代は、252万もしくは271万年前頃と推定されています。アフリカ外における最古のブチハイエナ属遺骸は、中国の札達(Longdan)盆地で発見された200万年前頃のもの(Crocuta honanensis)で、アフリカで最古のブチハイエナ属は385万~363万年前頃のもの(Crocuta dietrichi)です。本論文は、ブチハイエナ属が分岐して間もなく、ユーラシア、おそらくはアジア東部へと拡散した、と推測しています。ブチハイエナ属は、その後でヨーロッパへと拡散したと考えられ、ヨーロッパで最古となる90万年前頃の遺骸がスペインで発見されています。オナガザル亜科や他のハイエナ科種などの哺乳類も、後期鮮新世~早期更新世にアフリカからユーラシアへと拡散しました。

 ブチハイエナ属の出アフリカは、年代的に人類のそれと類似したところがあります。アフリカ外で最古の人類遺骸はジョージア(グルジア)で発見された180万年前頃のものですが、石器のような人類の痕跡は、中国陝西省で最古級となる212万年前頃のものが発見されています(関連記事)。なお、レヴァントでは248万年前頃の石器が発見されています(関連記事)。また後期ホモ属では、mtDNAやY染色体といった単系統遺伝と核ゲノムとの間で不一致が見られ(関連記事)、後期ホモ属の複雑な交雑史もブチハイエナ属と類似したところがあります。たとえば、ネアンデルタール人系統において、mtDNAと核ゲノムでは系統樹が一致しません(関連記事)。

 ブチハイエナ属も後期ホモ属も、mtDNAの深い分岐はユーラシアの東西で見られます。ブチハイエナ属ではユーラシア東西集団で、後期ホモ属ではユーラシア東部の種区分未定のデニソワ人(Denisovan)と西部のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)およびアフリカの現生人類です。一方後期ホモ属の核ゲノムでは、現生人類系統とネアンデルタール人およびデニソワ人系統がそれぞれ単系統群を形成します。ブチハイエナ属の核ゲノムでは、アフリカとユーラシアの集団がそれぞれ単系統群を形成します。ブチハイエナ属も後期ホモ属も、ともにアフリカ起源で、核ゲノムではアフリカ系統とユーラシア系統に大きく分岐しますが、mtDNAでは異なる系統樹が示されます。

 本論文は、ブチハイエナ属とホモ属とのこの類似性に注目しますが、その根本的要因は両属で不明なため、この類似性が共通の原因に起因するのか、それとも単なる偶然なのか、判断を保留しています。ただ本論文は、260万~180万年前頃のアフリカ外における森林からサバンナのような環境への移行が、両属の類似した年代の出アフリカに役割を果たしたかもしれない、と指摘します。また本論文は、両属の類似性とともに、相違点も指摘します。ブチハイエナ属とホモ属の最初の出アフリカは同じ頃だったものの、核ゲノムにおいては、ホモ属では子孫を残さなかったのに対して、ブチハイエナ属では子孫を残した可能性があります。また、現代のブチハイエナ属とホモ属の分布は大きく異なり、ホモ属が世界中に拡散しているのに対して、ブチハイエナ属はサハラ砂漠以南のアフリカに留まっています。さらに、上述のように人口史も異なっており、ホモ属の中でも現生人類の人口増加とともに、ブチハイエナ属は個体数が減少していったかもしれません。したがって、種の進化史における類似性とともに、各種の独自性にも注目すべきです。

 以上、本論文についてざっと見てきました。ハイエナについてはほとんど知らなかったのですが、ホモ属との類似性について色々と知見を得られて、たいへん興味深い内容でした。ブチハイエナ属もホモ属も、アフリカのサバンナで進化した社会性動物という共通点があります(ホモ属は、初期からある程度多様な環境に適応していたかもしれませんが)。両者の進化史の類似性はこの点に基盤があり、それが気候変動に伴う環境変化のさいに類似した対応を示した要因なのかもしれません。もちろん、本論文が指摘するように、この類似性の基盤には不明なところがまだ多分にあるので、偶然的な要素が大きいのかもしれませんし、また相違点も明らかにあるので、その点も無視できませんが。


参考文献:
Westbury MV. et al.(2020): Hyena paleogenomes reveal a complex evolutionary history of cross-continental gene flow between spotted and cave hyena. Science Advances, 6, 11, eaay0456.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aay0456

桐野作人『明智光秀と斎藤利三』

 宝島社新書の一冊として、宝島社から2020年3月に刊行されました。表題にあるように、本書は本能寺の変における斎藤利三の役割を重視しています。まず不明な点の多い明智光秀の前半生ですが、やはり確実な史料はないようで、本書も後世の編纂史料などから推測するに留まっています。本書から窺えるのは、光秀は美濃土岐氏もしくは土岐明智氏のなかなか有力な家柄だったものの、没落して流浪し、越前で一定期間以上過ごして朝倉義景に仕えていた可能性が高い、ということです。今後も光秀の出自と前半生を詳細に解明することはできないでしょうが、本書の推測は大きく外れていないように思います。

 光秀は足利義昭に仕え、義昭を織田信長と結びつけるのに重要な役割を果たしたことから、信長にも重用されるようになったのだろう、と本書は推測します。信長家臣になってからの光秀の急激な出世を考えると、本書の推測は妥当だと思います。信長の重臣となった光秀は、都の周辺に所領を有し、「天下」守護として織田政権第二位の地位にある、との自負を抱いていたのではないか、と本書は推測します。本書は光秀のこの意識が、本能寺の変の一因になった可能性を指摘します。信長家臣団として別格の地位にある自分こそ、信長に代わって「天下」を掌握できる、というわけです。

 ただ、光秀の「天下」は、都・畿内を中心とした足利将軍の支配領域という当時の観念で、信長の「天下」観念が勢力拡大とともに、日本列島的な意味合い、さらには「東アジア」へと肥大化していったとすると、信長と光秀の間には齟齬が生じていたことになり、それも本能寺の変の一因になったかもしれない、と本書は推測します。さらに、畿内に勢力を有していた信長古参の重臣である佐久間信盛が、本願寺が信長に服従した直後の1580年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に追放されたことも、光秀が信長家臣でいることへの不安を抱き、謀反を起こす動機になったかもしれない、と本書は推測します。また、信長晩年には、有力家臣は畿内より遠方に追いやられ、それは信長の息子を養子に迎えていた羽柴秀吉でも同様だった、と本書は指摘します。これも、光秀の将来への不安を醸成したのではないか、というわけです。

 本能寺の変の直接的要因として本書が重視するのは、信長の対長宗我部方針の転換と、斎藤利三をめぐる稲葉良通(一鉄)との対立です。長宗我部氏は信長と誼を通じて、光秀と利三が取次を務めるようになりました。これは、利三の兄の頼辰が石谷光政の養子となり、光政の娘が長宗我部元親の正室になった、という縁戚関係があったからでした。信長と元親の関係は当初良好でしたが、信長は息子の信孝を「四国管領」的な地位に就けることを前提として、1582年初頭には、信孝の後見的存在とした三好氏を重視し、長宗我部氏の軽視、さらには排除の可能性さえ否定しなくなります。信長は長宗我部領に関して、阿波のみならず土佐さえ保証しなくなります。これに対して元親は強く反発し、織田と長宗我部の関係は悪化して、長宗我部の取次だった光秀と利三は苦慮しますが、本能寺の変の直前に、元親は織田との宥和方針へと変更します。しかし、それを伝える書状は、その日付からして光秀と利三、さらには信長には届かなかっただろう、と本書は指摘します。また本書は、元親が信長との宥和方針に変わったのは、その直前に織田が短期間で大勢力だった武田を滅ぼしたからだろう、と推測しています。

 本書は、複数の史料から、1582年5月に光秀が安土城で徳川家康を接待した頃に信長に折檻され、それが本能寺の変の直接的な一因になった可能性を指摘します。信長が光秀を折檻した理由の一つとして、本書は上述の対長宗我部(四国)政策の転換を挙げます。もう一つ本書が挙げているのが、以前には稲葉良通(一鉄)の家臣だった利三をめぐる、稲葉良通と光秀との相論です。信長はこの相論で一鉄に有利な判断をくだし、光秀がそれを不満に思い、信長と光秀の間で衝突が生じたのではないか、というわけです。本書はこれを信長の家臣団統制の矛盾の表れと評価しています。光秀は、佐久間信盛のような有力家臣に対する信長の処遇から「天下」守護としての織田政権第二の地位を追われることに不安を抱き、さらに対長宗我部政策や利三の帰属をめぐる問題で信長に折檻されたことで、謀反を起こそうと決意した、というのが本書の見通しです。

 ただ本書は、光秀から伯耆の国衆への書状から、光秀は本能寺の変の3日前の時点でも謀反を起こすと決断していなかった、と推測します。信長への叛意自体はすでにあったとしても、勝算を考えて謀反の決意を固めていなかった、あるいはいつ謀反を起こすか決めていなかった、というわけです。それが急遽謀反を決めたのは、信長とその後継者としてすでに家督も継承していた息子の信忠が、ともにわずかな兵とともに都におり、両者を討ち取れる可能性が高いと明らかになったからだ、と本書は推測します。光秀は都に屋敷を持ち、信長と信忠の動向を容易に把握できたのだろう、と本書は指摘します。本書は、関心の高い本能寺の変に関する一般向け書籍として、現時点で強く勧められる一冊だと思います。大河ドラマと関連して本能寺の変関連本が多数刊行されていますが、本書は大当たりでした。

古人類学の記事のまとめ(40)2020年1月~2020年4月

 2020年1月~2020年4月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2020年1月~2020年4月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

マウンテンゴリラの雄の子育て
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_4.html

チンパンジーにおける雄による子殺しへの雌の対抗戦略
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_11.html

ボノボとチンパンジーの集団内および集団間の雄同士の血縁度の比較
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_28.html

一夫一妻制の起源
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_39.html

中国の紀元前の陵墓で発見された絶滅テナガザル
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_22.html

ニシローランドゴリラの縄張り意識
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_26.html

チンパンジーとボノボの分岐
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_46.html

アファレンシスの脳の組織と成長期間
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_11.html

鮮新世~更新世人類の上顎大臼歯のエナメル質の厚さ
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_12.html

アフリカ南部の初期人類の移動様式
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_16.html

新たに確認された大西洋を渡ったアメリカ大陸の霊長類
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_22.html

スペインで発見された中新世の小型霊長類
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_27.html

ヒヒの意思決定
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_35.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

ジャワ島におけるエレクトスの出現年代
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_16.html

人類進化系統樹におけるアンテセッサーの位置づけと後期ホモ属の進化の場所
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_18.html

アジア東部の中期~後期更新世ホモ属の頭蓋における外傷
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_21.html

エレクトスの性的二形
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_33.html

中国貴州省のルヴァロワ石器をめぐる議論
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_37.html

ヒトの足の進化
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_9.html

アフリカ東部における異なる石器技術の長期の併用とエレクトス頭蓋
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_13.html

200万年前頃のアフリカ南部における3系統の人類の共存
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_8.html

ホモ・アンテセッサーのタンパク質解析
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_9.html

ホモ・ナレディの子供の遺骸
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_33.html

ヨーロッパ北部の中期更新世後期の木製品から推測される狩猟技術
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_39.html


●ネアンデルタール人関連の記事

古代型ホモ属から現生人類への遺伝子移入の機能的結果と適応度
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_10.html

中期~後期更新世の人類の外耳道外骨腫
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_30.html

ネアンデルタール人による二枚貝の道具としての使用
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_31.html

ユーラシア草原地帯におけるネアンデルタール人の長距離移動
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_45.html

現代アフリカ人におけるネアンデルタール人の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_6.html

ネアンデルタール人およびデニソワ人の共通祖先と未知の人類系統との交雑
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_49.html

2020年度アメリカ自然人類学会総会(ネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型)
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_16.html

ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体DNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_20.html

ネアンデルタール人の繊維技術
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_18.html

新手法により明らかになるアルタイ地域でのデニソワ人とネアンデルタール人の間の一般的だった交雑
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_19.html

竹花和晴「ネアンデルタール人と彼等の死、特に埋葬と墓」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_23.html

ネアンデルタール人製作の猛禽類の爪の装飾品
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_30.html

アイスランド人のゲノムに基づくネアンデルタール人からの遺伝子移入の性質
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_42.html


●デニソワ人関連の記事

一部の現代人で確認されたデニソワ人由来のミトコンドリアDNA
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_5.html

デニソワ人由来のチベット人の高地適応関連遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_29.html


●フロレシエンシス関連の記事

フローレス島の更新世鳥類化石の分析
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_31.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

アフリカ南部における中期石器時代の根茎の調理
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_9.html

カメルーンの古代人のDNA解析(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_37.html

アフリカ西部の現代人集団に見られる未知の人類系統の遺伝的痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_31.html

門脇誠二「現生人類の出アフリカと西アジアでの出来事」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_38.html

西秋良宏「東アジアへ向かった現生人類、二つの適応」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_39.html

Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html

高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

青木健一「現生人類の到着より遅れて出現する現代人的な石器 現生人類分布拡大の二重波モデル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_51.html

トバ山大噴火の前後も継続したインドにおける人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_52.html

西秋良宏「アフリカからアジアへ」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_2.html

エチオピアの早期現生人類の身体化石
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_17.html

現代人における古代型ホモ属由来の遺伝子の多様性
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_36.html

ブロークンヒル頭蓋の年代
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_10.html

山岡拓也「オセアニアにおける旧石器時代の考古学研究」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_21.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

古墳時代の出雲人のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_24.html

北海道の縄文時代のコクゾウムシ混入土器
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_15.html

ニワトリではなく飼育していたキジを消費していた中国北西部の初期農耕民
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_35.html

海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_46.html

アハルテケの起源
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_30.html

チベット高原の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_37.html

太田博樹「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html

仲田大人「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_20.html

渡辺信一郎『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_26.html

古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

先コロンブス期カリブ諸島の移住史
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_17.html

プエブロボニート遺跡の土器製作における性別分業
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_20.html

以前の推測より複雑だったトウモロコシの栽培化
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_18.html

航空調査によるマヤ文化の見直し
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_24.html

マヤ文化における貯蔵・流通
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_25.html

古典期マヤ社会を崩壊させた旱魃
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_26.html

先コロンブス期の人為的活動に起因するアマゾン川流域の植物の優占種
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_27.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

中世バスク地方で見られる寒冷期におけるミトコンドリアへの選択圧とトレードオフ
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_7.html

ピャスト朝の遺伝的継調査
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_43.html

早期新石器時代ピレネー山脈における虐殺
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_28.html

中期新石器時代から現代のサルデーニャ島の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html

地中海西部諸島における新石器時代以降の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html

ヨーロッパ東部における後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_28.html

完新世ヨーロッパにおけるヒトの拡大と景観の変化との関連
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_34.html

中期新石器時代~前期青銅器時代のスイスの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_43.html


●進化心理学に関する記事

アメリカ合衆国における「逆人種差別」の認識
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_18.html

脳の働きによる効果的な謝罪方法
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_24.html


●その他の記事

永久凍土の古気候学的証拠
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_14.html

性別が哺乳類の遺伝子発現に及ぼす影響
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_41.html

ミトコンドリアDNAの進化への気温の影響
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_19.html

テストステロンの疾患リスクへの影響の性差
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_34.html

ナミビアの牧畜民におけるペア外父性
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_50.html

不妊の原因となる遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_53.html

脳における言葉と歌の区別
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_4.html

言語脳活動の遺伝と環境の影響度
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_15.html

氷期と間氷期の原動力
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_31.html

狩猟採集民集団における親族の少なさ
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_29.html

サモアの人口史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_32.html

土器破片の食物残渣からの年代測定
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_44.html

現代文化の変化の速さ
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_45.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
https://sicambre.at.webry.info/200709/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(1)
https://sicambre.at.webry.info/200707/article_29.html

古人類学の記事のまとめ(2)
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_31.html

古人類学の記事のまとめ(3)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(4)
https://sicambre.at.webry.info/200807/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(5)
https://sicambre.at.webry.info/200811/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(6)
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(7)
https://sicambre.at.webry.info/200905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(8)
https://sicambre.at.webry.info/200909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(9)
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_26.html

古人類学の記事のまとめ(10)
https://sicambre.at.webry.info/201005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(11)
https://sicambre.at.webry.info/201009/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(12)
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(13)
https://sicambre.at.webry.info/201105/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(14)
https://sicambre.at.webry.info/201109/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(15)
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_28.html

古人類学の記事のまとめ(16)
https://sicambre.at.webry.info/201205/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(17)
https://sicambre.at.webry.info/201209/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(18)
https://sicambre.at.webry.info/201301/article_3.html

古人類学の記事のまとめ(19)
https://sicambre.at.webry.info/201305/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(20)
https://sicambre.at.webry.info/201309/article_5.html

古人類学の記事のまとめ(21)
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(22)
https://sicambre.at.webry.info/201405/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(23)
https://sicambre.at.webry.info/201409/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(24)
https://sicambre.at.webry.info/201501/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(25)
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(26)
https://sicambre.at.webry.info/201509/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(27)
https://sicambre.at.webry.info/201601/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(28)
https://sicambre.at.webry.info/201605/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(29)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(30)
https://sicambre.at.webry.info/201701/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(31)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(32)
https://sicambre.at.webry.info/201709/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(33)
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(34)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(35)
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(36)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html