守屋純『独ソ開戦の真実 『ジューコフ回顧録』完全版が明かす』

 パンダ・パブリッシングより2017年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約から、1941年6月22日に始まった独ソ戦までのスターリンの思考・決断を、『ジューコフ回顧録』をしばしば引用しつつ検証します。独ソ不可侵条約のドイツ側というかヒトラーの意図は、ポーランドへの侵攻にさいしての背後の抑えでした。一方、スターリンの意図は、第一次世界大戦後に失われた旧ロシア領の回復だった、と本書は推測します。本書は独ソ不可侵条約に関して、スターリンとヒトラーの両独裁者は目先の利益に目が眩んだ、と評価します。

 ドイツは独ソ不可侵条約締結後すぐの1939年9月1日、ポーランドへの侵攻を開始します。当初、スターリンは様子見するつもりだったようです。下手にソ連もポーランドへ侵攻すると、イギリスとフランスを敵に回すことになりますし、ドイツとイギリス・フランスの戦いが長期化すれば、ソ連にとって有利な状況になる、との判断がありました。しかしスターリンは、予想以上にドイツ軍の進撃が順調だったため、ポーランドへの侵攻を決意し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されてしまいます。

 ポーランドは短期間でドイツとソ連に分割占領されますが、ドイツのポーランド侵攻に伴いドイツに宣戦布告したイギリスとフランスは、ドイツに対して直接的な軍事行動に出るわけではなく、「奇妙な戦争」が続きます。この状況でスターリンは、フィンランドへの侵攻を決断します。本書は、スターリンがフィンランド全土の併合を企図していた、と推測します。スターリンがフィンランドへの侵攻を決断したのは、ドイツとイギリス・フランスがいつ講和するか分からないので、邪魔が入らないだろう戦争状態のうちに領土を拡大しようと考えたためでした。

 ところが、対フィンランド戦でソ連はスターリンも含めて当時の指導層の予想外に苦戦し、スターリンは真剣に赤軍の再建に取り組む必要に追い込まれます。対フィンランド戦での検討会にはスターリンも出席し、軍人と議論することさえありました。戦訓検討会での論点は多岐にわたりますが、装備とともに赤軍の欠陥として明らかになったのは、参謀と諜報の軽視でした。これは、スターリン自身が参謀と諜報の役割をよく理解していなかったこともありますが、将校大粛清の影響も大きく、スターリンも大粛清の失敗を内心では認めていただろう、と本書は推測します。この後、粛清された将校が一部復帰しますが、スターリンが大きな期待を寄せたのは、陸軍大学を出たばかりの若い将校でした。また本書は、対フィンランド戦の後も、スターリンが軍事的能力を無視して自分への忠誠心の強い人物を重用したことも指摘します。

 1940年春から初夏にかけて、ドイツは西方戦線で多くの人の予想をはるかに上回っただろう戦果を挙げます。ドイツはオランダとベルギーばかりかフランスも屈服させましたが、この間、スターリンはルーマニアのベッサラビアとバルト三国の併合に動きます。ドイツが西方に注力している隙をついての行動で、スターリンの意図としては、これらの地域は独ソ不可侵条約付属秘密議定書で認められていたソ連の勢力圏なので、問題はありませんでした。しかし、東方を手薄にしていたヒトラーにとって、これはソ連の脅威を実感させるのに充分な行為だっただろう、と本書は推測します。

 ヒトラーは、イギリスが講和に応じないのはソ連が健在だからと考えて、ソ連との戦いを本格的に検討するよう命ずるとともに、部隊を東方へと移動させ、軍用道路など軍事施設の整備を急がせます。ヒトラーは、1941年11月のベルリンでのソ連外相モロトフとの会談後、最終的に対ソ連戦を決断したようです。ドイツ軍が西方に注力している間にソ連が東方で勢力を拡大したことへの不信感もヒトラーにはあったでしょうが、根底にはヒトラーだけではなくドイツ軍首脳部に共有されていた赤軍への過小評価があり、モロトフとの交渉を経て、ソ連に妥協するくらいならば軍事行動でソ連を圧倒すればよいし、それは容易だ、と考えたのでしょう。

 ドイツが1941年中の対ソ連戦を決断した、との情報が1940年末~1941年初頭にかけて、スターリンにも多数報告されていました。しかし、スターリンは、情報機関からの報告もあり、これがソ連を対ドイツ戦に引き込もうとするイギリスの謀略との見解に傾いていました。これは一つには、対フィンランド戦で露呈した赤軍の弱点がまだ克服されておらず、1941年1月の兵棋演習の結果でも示されたように、戦備が整っていないので対ドイツ戦を先延ばしにしたい、とのスターリンの希望的観測もあったでしょう。また本書は、戦間期にはソ連とドイツの国境は接しておらず、とくに独ソ不可侵条約締結以前には、スターリンには確たる対ドイツ戦略がなかったのではないか、と指摘します。スターリンの側に、対ドイツ戦略をじっくり検討する時間が足りなかった、と言えるかもしれません。

 また本書の指摘で重要になるのは、猜疑心の強いスターリンが複数の情報網を構築して自分一人に直結させたことです。スターリンは軍部にも重要な情報を提供しないことがありました。スターリンは一人では的確に処理できないだけの膨大な情報を抱えてしまった、というわけです。また、ドイツの対ソ連戦決断を伝えた多くの情報でも、ドイツが対ソ連戦と対イギリス戦のどちらを優先するのか、不明としたものは少なくありませんでした。じっさい、アフリカ北部と地中海東部でのドイツ軍の行動からは、ドイツが対イギリス戦を優先している、とも解釈できました。

 これらの事情もありますが、スターリンがドイツの1941年中の対ソ連戦決断に確信を持てなかった大きな理由として、東方への多数の部隊の移動や軍事施設整備などドイツ軍の行動があまりにも露骨で、ドイツからの情報が安易に漏れてきたことを、本書は指摘します。スターリンはこれを「深読み」し、ドイツがソ連から譲歩を得るために軍事的圧力をかけていると解釈したのではないか、と本書は推測します。じっさいは、戦後に明らかになりましたが、ドイツの対ソ連戦の機密保持がお粗末なだけで、スターリンにもたらされた情報はおおむね正確でした。また、スターリンはドイツが資源(食糧・石炭・石油など)を重視していると判断し(この判断自体は間違いではありませんでしたが)、ドイツ軍は南方に重点的に部隊を配備するだろう、と予測しました。しかし、じっさいにはドイツ軍の部隊配備は北方重視でした。実は、赤軍参謀本部の当初案はドイツ軍の作戦計画をかなり正確に予測できていましたが、スターリンの判断により修正させられました。

 結局のところスターリンは、ドイツが対ソ連戦を決断し、ドイツ軍部隊がソ連との国境線に集結しつつあるとの情報を多数得ても開戦直前まで、ドイツ軍の侵攻を遅らせられるか回避できると考え、ドイツ軍の挑発に応じないよう、厳命しました。これが、緒戦での赤軍の大損害の要因となりました。また上述のように、赤軍はスターリンの判断により、当初案を変更して南方重視の部隊配置としましたが、ドイツ軍は赤軍参謀本部の当初の予想通り北方重視の配置だったので、これも緒戦での赤軍の被害を拡大させました。

 本書はスターリンが開戦直前までこうした判断を変えなかった理由として、上述のドイツ軍のあからさまな行動を「深読み」したことなどの他に、1941年5月にヒトラーからスターリンに宛てられた秘密書簡を挙げています。この秘密書簡を疑う見解も根強いようですが、本書は実在説寄りです。この秘密書簡でヒトラーはスターリンに、ソ連侵攻の意図はないことと、軍上層部にはイギリスとの和平と対ソ連戦を考えている者がいる、と伝えました。そこでスターリンは、ドイツ軍を挑発して開戦の口実を与えないよう、厳命した、というわけです。

 開戦直後のスターリンはさすがに茫然自失だったようですが、数時間後には立ち直ったようです。しかし、スターリンは直ちにドイツとの厳しい長期戦を覚悟したのではなく、駐ソ連ブルガリア大使を通じて、ドイツとの講和を模索していたようです。スターリンは広大な領土の割譲を考えており、これは降伏に近いものでした。第一次世界大戦の時の、ボルシェビキ政権とドイツとの講和(ブレスト=リトフスク条約)が、スターリンの念頭にはあったようです。それでも、1941年6月末までには、スターリンはドイツと戦い続ける決断をしたようです。ただ、その後もスターリンは、ソ連が圧倒的な優位を確立するまでは、ドイツとの講和も念頭に置いていたようです。

 本書からは、スターリンが独ソ戦の開始までに錯誤を重ねた、と了解されます。もちろん、どれほど優秀な人物であろうとも時として判断の過ちは避けられませんが、スターリンの根本的な問題は、独裁体制を構築し、その維持のため情報収集を独裁者たる自分に一元化しようとしたことにあるように思います。いかに優秀な人物でも、近代国家において単独で的確に判断可能な量を上回る情報が、スターリンに集中することになりました。さらに、独裁体制下でスターリンへの忖度が当然のように行なわれていたことも、スターリンの判断を誤らせたように思います。当時よりもさらに複雑となった現代世界において、もうスターリンのような独裁者はよほどの小国でなければ難しそうですが、あるいは人工知能の発展は、そうした独裁者の存在を可能とするのでしょうか。

 スターリンは、多大な犠牲を強いてソ連の工業化と集権化・一元化を進め、それが独ソ戦での勝利を可能としました。その意味で、スターリンの功績は大きいとも言えますが、そのための犠牲はあまりにも大きく、さらに自身の判断の誤りにより、独ソ戦では多大な損害を出してしまいました。しかも、開戦当初にドイツ軍に圧倒された(これも、上述のように、ドイツ軍の重点を読み間違え、ドイツ軍の「挑発」に乗るな、と厳命したスターリンの責任が大きいわけですが)西部方面軍司令官パブロフを処刑して、敗戦責任を取らせました。

 その後のソ連の政権は、独ソ戦での被害を引きずり、けっきょくはそれを充分には克服できず、崩壊の遠因になった、とも言えそうです。本書は、ソ連が史実以上の防御体制でドイツ軍を迎撃できる可能性は低くなかった、と指摘します。ただそれでも、実戦経験の差からも、緒戦では赤軍がドイツ軍に圧倒されただろう、と本書は推測します。しかし、史実以上に赤軍がドイツ軍に抵抗できた可能性は高く、独ソ戦が史実とは違った展開をたどった可能性も本書は指摘します。本書は独ソ不可侵条約から独ソ戦までのスターリンの思考・決断を丁寧に検証しており、たいへん興味深く読み進められました。

氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増

 氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増に関する研究(Nehrbass-Ahles et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究は、EPICA(ヨーロッパ南極氷床コア計画)のドームC南極氷床コアから得た大気中二酸化炭素濃度の新しい記録を用いて、これらの急激な二酸化炭素放出は地球の気候‐炭素結合システムでは一般的な現象で、大西洋南北熱塩循環(AMOC)の強さの変動におそらく関係している、と示しました。

 この結果は、地球温暖化により大西洋の循環に同じような影響が及べば、今後も同じように大気中二酸化炭素が急増する可能性を示唆しています。寒冷な最終氷期に百年単位で二酸化炭素が大気中に勢いよく放出されたことは、明らかになっています。こうした二酸化炭素急増は、これまでの間氷期の温暖な気候条件では起こらなかった、と考えられていますが、それを調査するのに必要な大気中の二酸化炭素変動についての千年未満単位の記録は、過去約6万年分しか存在せず、最終氷期以前には及びません。

 この研究は、古代の南極氷床に閉じ込められていた45万~33万年前頃の高解像度二酸化炭素記録を提示し、寒冷な気候の時期も温暖な気候の時期も顕著な二酸化炭素放出があったことを明らかにした。この研究は、こうした放出事象は自然な炭素循環の一般的特徴であるものの、時間分解能と精密度が不充分な二酸化炭素記録では検知されなかった可能性がある、と指摘しています。さらに、このパルス的放出事象が、氷床融解によるAMOCの崩壊に関係していることも指摘されています。人為的な気候変動による同様の氷床融解がAMOC崩壊を引き起こせば、今後も大気中二酸化炭素は急増する可能性がある、とこの研究は指摘します。こうした二酸化炭素の急増は、人類の活動にも大きな影響を及ぼしたと考えられるので、人類進化史の観点からも注目されます。


参考文献:
Nehrbass-Ahles C. et al.(2020): Abrupt CO2 release to the atmosphere under glacial and early interglacial climate conditions. Science, 369, 6506, 1000–1005.
https://doi.org/10.1126/science.aay8178