青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析に関する研究(Agranat-Tamir et al., 2020)が報道されました。紀元前3500~紀元前1150年頃となる青銅器時代は、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンとパレスチナ自治政府とシリア南西部を含むレヴァント南部の形成期でした。この時期には、レヴァント南部全域の大規模な文化崩壊が起き(関連記事)、人口および文化的に後の時代が形成されていきました。

 紀元前1150~紀元前586年頃となる鉄器時代には、フェニキアの都市国家と同様に、聖書に見えるイスラエルやユダヤやアモンやアラム・ダマスカスのような領域的王国が台頭しました。後期青銅器時代の大半において、レヴァント南部はエジプト帝国により支配されていましたが、鉄器時代後半には、メソポタミアを中心とするアッシリアやバビロニアといった帝国に支配されていました。考古学的および歴史学的研究では、青銅器時代と鉄器時代の間の大きな変化が指摘されています。それは、前期青銅器時代のクラ・アラクセス(Kura-Araxes)伝統と関連した北方(コーカサス)集団の文化的影響や、鉄器時代の始まりに西方から到来したペリシテ人のような「海の民」の影響です。

 青銅器時代のレヴァント南部の住民は一般的に「カナン人」、つまりカナンの地の住民と呼ばれています。カナン人という用語は、アマルナ(Amarna)やアララハ(Alalakh)やウガリット(Ugarit)の粘土板といった紀元前二千年紀のいくつかの記録や、紀元前8~紀元前7世紀やそれ以降の聖書に見えます。聖書では、カナン人はイスラエルよりも前のカナンの地の住民とされています。紀元前二千年紀のカナンは都市国家の体系で組織化されており、支配層は都市中心から農村(と一部の牧畜民)を支配しました。これらの都市国家の物質文化は比較的均一でしたが、この均一性が遺伝的系統にまで及ぶのか、不明です。遺伝的系統と物質文化が完全に一致する可能性は低そうですが、過去の古代DNA分析では、時として強く関連すると示されています。他の事例では、遺伝子と文化の間の直接的一致は確立できません。本論文ではいくつかの事例が議論されます。

 以前の古代DNA研究では、レヴァント南部の4ヶ所の青銅器時代遺跡の13人のゲノム規模データが報告されています。紀元前2300年頃(移行期青銅器時代)となるヨルダンのアインガザル(‘Ain Ghazal)遺跡の3人、紀元前1750年頃(中期青銅器時代)となるレバノンのシドン(Sidon)遺跡の5人、紀元前1250年頃(後期青銅器時代)となるイスラエルのテルシャドゥド(Tel Shadud)遺跡の2人、紀元前1650~紀元前1200年頃(中期および後期青銅器時代)となるイスラエルのアシュケロン(Ashkelon)遺跡の3人です。

 これらの個体群の系統は、それ以前の在来集団およびザグロス山脈の銅器時代の人々(以前はイランChLとされていました)と関連する集団との混合としてモデル化できます。青銅器時代シドン集団は、現代の同地域集団の主要な祖先集団(93±2%)としてモデル化できます。イスラエルのガリラヤのペキイン(Peqi'in)洞窟の銅器時代個体群の研究では、この在来集団の系統は、早期アナトリア半島農耕民と関連する追加の構成を含んでいた、と示されています(関連記事)。このアナトリア半島農耕民系統は、レヴァント南部の後の青銅器時代集団では見られませんが、シドンやアシュケロンの沿岸部集団は例外です。これらの観察は、銅器時代から青銅器時代の移行期における集団置換の程度を示しており、銅器時代文化と前期青銅器時代文化との間の中断を指摘する考古学的証拠と一致します。

 本論文は三つの問題を検証します。まず、カナン人の物質文化と関連した遺跡間の遺伝的均質性の程度の決定です。次に、ザグロスおよびコーカサス関連系統を青銅器時代レヴァント南部にもたらした遺伝子流動の、年代・程度・起源を解明するためのデータ分析です。最後に、追加の遺伝子流動事象が青銅器時代以降にどの程度影響を与えたのか、という評価です。これらの問題の解明のため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで約1500年にまたがる、青銅器時代71人と鉄器時代2人のゲノム規模の古代DNAデータが生成されました。これらのデータがレヴァント南部における青銅器時代および鉄器時代の既知のデータと組み合わされ、現在のイスラエルとヨルダンとレバノンにまたがる、すべてカナン人の物質文化を示す9遺跡93人のデータセットが生成されました。

 異なる遺跡から標本抽出された個体群は、とくにシドンやアシュケロンのような沿岸部地域住民において、いくつかの事例では微妙ではあるものの有意な違いがあるにも関わらず、一般に遺伝的に類似しています。ほぼ全ての個体が、この時期以前の在来新石器時代集団と近東北東部集団との混合としてモデル化できます。しかし、混合の割合は経時的に変化し、青銅器時代におけるレヴァント南部の人口動態を明らかにします。現代のユダヤ人集団とレヴァントのアラブ語話者集団を含む、青銅器時代のレヴァントと地理的および歴史的に関連する現代人集団のゲノムは、青銅器時代のレヴァントと銅器時代のザグロス地域の集団と関連する人々から50%もしくはそれ以上の系統を有している、と示されます。またこれらの現代人集団は、利用可能な古代DNAデータではモデル化できない系統も示しており、青銅器時代以降のレヴァント南部への追加の大きな遺伝的影響の重要性が強調されます。


●データセット

 レヴァント南部の5遺跡から計73人のDNAが抽出されました。イスラエル北部のテルメギド(Tel Megiddo)遺跡からは35人で、その大半は中期~後期青銅器時代ですが、1人は移行期青銅器時代、1人は前期鉄器時代です。ヨルダン中央部のバクア(Baq‛ah)遺跡からは21人で、その大半は後期青銅器時代です。イスラエル中央部のイェハド(Yehud)遺跡からは13人で、年代は移行期青銅器時代です。イスラエル北部のテルハツォル(Tel Hazor)遺跡からは3人で、年代は中期~後期青銅器時代です。イスラエル北部のテルアベルベトマアカ(Tel Abel Beth Maacah)遺跡からは1人で、年代は鉄器時代です。1人を除く全個体のDNAは錐体骨から抽出されました。これらの新たなデータは、上述のレヴァント南部の青銅器時代の13人と、アシュケロン遺跡の鉄器時代の7人の既知のデータと組み合わされました。

 主成分分析では、777人のユーラシア西部現代人も対象とされました。ただ、常染色体で少なくとも3万ヶ所の一塩基多型(系統推定が堅牢となる閾値)が得られていない個体は除外され、古代人では68個体が分析対象とされました(図1B)。青銅器時代~鉄器時代のレヴァント南部の個体群(青色および緑色)は密集したクラスタを形成しますが、イスラエル北部のメギド(Megiddo)遺跡のうち3人と、以前に外れ値として特定されたアシュケロン遺跡集団IA1(鉄器時代1)は例外です。現代人および古代人計1633人を対象にADMIXTUREを実行すると、主成分分析と定性的に一致しており、外れ値であるメギド遺跡とアシュケロン遺跡IA1集団以外の全個体は類似の系統を有する、と示唆されます(図1C)。以下、本論文で分析対象となった標本の場所(A)と主成分分析(B)と系統構成(C)を示した本論文の図1です。
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 データセット内の親族関係では、1~3親等の関係にある17人が特定されました。この17人は7家族に分類され、テルメギド遺跡で5家族、バクア遺跡で2家族です。ほとんどの家族では、高い一塩基多型網羅率を有する構成員のみが分析に用いられました。メギド遺跡の外れ値3人のうち2人は、兄妹もしくは姉弟でした(家族4、I2189およびI2200)。低網羅率の個体群と密接な関係にある親族を除く62人が、さらなる分析に用いられました。


●複数遺跡間の高度の遺伝的類似性

 テルメギド遺跡の高網羅率の26人は、地理と考古学的期間と主成分分析に基づいて、移行期青銅器時代(メギドIBA、1人)、中期~後期青銅器時代(メギドMLBA、22人)、鉄器時代(メギドIA、1人)、外れ値2人(メギドI2200およびメギドI10100)に区分されました。これらの集団と本論文のデータセットにおける他の集団が、より広範な地域とより古い年代を含む他の遺跡の既知のデータと比較されました。それは、前期青銅器時代コーカサス(アルメニアEBA)、中期~後期青銅器時代コーカサス(アルメニアMLBA)、銅器時代ザグロス山脈(イランChL)、銅器時代コーカサス(アルメニアChL)、新石器時代レヴァント南部(レヴァントN)、新石器時代ザグロス山脈(イランN)、新石器時代アナトリア半島(アナトリアN)です。

 レヴァントの青銅器時代と鉄器時代の集団間の系統の割合における多様性を検証するため、qpWaveが用いられました。qpWaveは、潜在的な集団の組み合わせごとに、共通の祖先集団の子孫、つまりクレード(単系統群)と一致するのか、検証します。qpWaveはf4形式(Testi、Testj;Outgroupk、Outgroupl)の対称性検証統計の計算により機能し、検証対象(Testi、Testj)が外群に関してクレードを形成するならば、期待値はゼロです。遠い関係の一連の外群を用いると、メギドとアシュケロンIA1とシドンの外れ値を除いて、レヴァント南部の青銅器時代および鉄器時代の全個体は、外群に関して相互に対のクレードである、と明らかになりました。

 続いてqpWaveで集団の下部構造が調べられました。メギド遺跡の外れ値2人は、他集団とクレードを形成しませんでしたが、相互とはクレードを形成します。アシュケロンIA1はヨーロッパ系統を有している、と以前の研究では推定されており(関連記事)、同時代の集団と遺伝的に異なる事例は、とくに意外ではありません。qpWaveにおけるシドン遺跡個体群の有意な違いは、主成分分析において他のレヴァント南部青銅器時代集団と大まかにはクラスタを形成するという事実にも関わらず、注目に値します。それはとくに、シドン個体群がとヨーロッパ人関連の混合を有さない沿岸部のアシュケロン遺跡の2集団(青銅器時代と鉄器時代のアシュケロンLBAとアシュケロンIA2)とクレードを形成する、と明らかになったからです。

 この観察は、シドンとアシュケロンの両遺跡がレヴァント南部外の他の地中海沿岸集団とつながりのある港町だった、という事実と関連しているかもしれません。そのため、レヴァントの内陸部青銅器時代集団では欠けている系統構成がもたらされた、というわけですが、この仮説の検証は、地中海東方周縁部の高解像度の古代DNA標本抽出が欠けているので、困難です。シドン個体群の遺伝的特徴は、ペキイン洞窟の銅器時代レヴァント個体群が、シドン個体群へと一部の系統を伝えたものの、アインガザル個体群には伝えなかった、という以前の知見とも一致します。シドン個体群内の下部構造の証拠は見つかりましたが、一部はレヴァント南部内陸部集団とクレードを形成しており、シドン遺跡のかなりの「国際的」性質を反映しているかもしれません。

 より微妙な集団構造を明らかにするため、アルメニアMLBAやナトゥーフィアン(Natufian)のような遺伝的に検証集団とより密接な外群を追加して、qpWave分析が繰り返されました。このより強力な外群セットにより、バクアおよびメギドIBAも、残りの集団と対でのクレードになっていない、という証拠が提供されます。したがって、これらの遺跡間の遺伝的類似性の広範な観察を超えて、青銅器時代のレヴァント南部では、微妙な系統不均質も観察されます。


●青銅器時代のレヴァント南部における遺伝子流動

 以前の研究では、アインガザル遺跡とシドン遺跡の青銅器時代個体群は、それ以前の在来集団(レヴァントN)と銅器時代ザグロス山脈の人々と関連する集団(イランChL)の混合としてモデル化されています。レヴァントN関連系統を、アインガザル個体群は56±3%、シドン個体群は48±4%有している、と推定されています。qpAdmを用いると、レヴァントN関連系統の割合は、アシュケロンLBAが54±5%、アシュケロンIA2が42±5%と推定されます。次に、qpAdmを用いて本論文で報告されたデータの同じモデルを検証すると、ほとんどの中期~後期青銅器時代集団は、レヴァントN関連系統を48~57%有する、というモデルと適合しました。これらの系統の割合は統計的に区別できず、qpWaveで対でのクレードを形成することと一致する、という事実を確証します。広範な外群集団を用いた時でさえ、バクア集団だけはこのモデルに適合しませんでした。これは、バクア個体群全体の系統の不均質性の結果かもしれません。

 ザグロス関連系統構成を検証するため、起源と年代に焦点が当てられました。銅器時代ザグロスの人々は、現時点でこの系統構成の最良の代理集団ですが、青銅器時代におけるザグロスからレヴァント南部への直接的な文化拡大の考古学的証拠はありません。対照的に、青銅器時代のレヴァント南部集団とコーカサス(現代のコーカサスおよびアナトリア半島東部のような近隣地域)との間のつながりは考古学的に支持されています。これらの事象の年代に関して考古学では、紀元前三千年紀前半におけるコーカサスのクラ・アラクセス文化とレヴァント南部のヒルベットケラク(Khirbet Kerak)文化との間の類似性が指摘されており、文字記録の証拠では、たとえば紀元前14世紀のアマルナ文書のように、紀元前二千年紀における多くの非セム人や古代近東北東部のフリル語の個人名が記載されています。したがって、銅器時代ザグロス構成は、コーカサス、さらにはもっと直接的に古代近東の北東部地域を通ってレヴァント南部に到来したかもしれない、と推測されます。しかし、古代近東の北東部地域からの古代DNA標本はありません。この移動は、短期の波に限定されておらず、青銅器時代を通じて複数回の波があったかもしれません。

 遺伝子流動の起源が直接的にザグロス地域からというよりはむしろコーカサスからなのかどうか検証するため、qpAdmが実行され、イランChLが前期青銅器時代コーカサス集団(アルメニアEBA)と置換されました。その結果、コーカサスモデルはザグロスモデルと類似の支持を受ける、と明らかになりました。次に、アルメニアEBAをより古いコーカサス集団(アルメニアChL)およびイランChLの混合としてモデル化すると、アルメニアEBAはこのモデルに適合しました。まとめると、本論文のデータは、レヴァント南部におけるザグロス関連系統のレヴァント南部への到来経路が、コーカサス、もしくは直接的にザグロス地域あるいは中間地を経由してのものだった、というモデルと適合します。

 レヴァント南部におけるザグロス関連系統の混合の年代を検証するため、移行期青銅器時代から前期鉄器時代まで、本論文のデータセットにおける広範な年代の個体群が用いられました。個体群それぞれのqpAdmに基づく系統推定を用いると、ほぼ全ての個体は新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスと関連する集団の混合モデルと適合しました。例外の一つはメギドMLBA個体で、このモデルとの適合が弱くなっています。もう一つの例外はバクア遺跡の3人で、新石器時代レヴァントおよび銅器時代ザグロスとの混合としてのモデル化が困難であることは、系統の不均質性を反映しているかもしれない、と示唆されます。

 これらの結果は、外より多くの群集団を用いても定性的に変わりませんでした。本論文のデータセットで最古級となる移行期青銅器時代の個体群は、すでに有意なザグロス関連系統を有している、と明らかになり、この遺伝子流動が紀元前2400年前頃以前に始まった、と示唆されます。これは、紀元前三千年紀のクラ・アラクセス複合の人々が、レヴァント南部へと文化的にだけではなく、ある程度の人々の移動でも影響を与えたかもしれない、という仮説と一致します。本論文のデータも、移行期青銅器時代後のザグロス関連系統の割合の増加を示唆します。しかし、ザグロス関連系統の増加が中期~後期青銅器時代に継続して起きたのか、複数回の異なる移住事象があったのか決定するには、個体数と期間が不充分である、と本論文は注意を喚起します。

 メギド遺跡の2つの外れ値(兄妹もしくは姉弟の組み合わせを含む3個体)は、レヴァント南部への遺伝子流動の年代と起源に関する追加の証拠を提供します。この3人はK10層で相互に近接して発見され、放射性炭素年代測定法で紀元前1581~紀元前1545年(家畜)と紀元前1578~紀元前1421年(埋葬)と推定されていますが、3人のうち1人(I10100)の骨の直接的な年代は紀元前1688~紀元前1535年です。この3人が他の個体と異なっている理由は、コーカサスもしくはザグロス関連の遺伝的構成がずっと高く、北東からレヴァント南部への進行中の遺伝子流動を反映しているからです。3人のうち2人の新石器時代レヴァント構成は、I2200では22~27%、I10100では9~26%です。

 外れ値の兄妹もしくは姉弟(I2189とI2200)のストロンチウム同位体分析では、2人がメギド遺跡付近で育ったと示唆されているので、この外れ値3人が移民第一世代だった可能性は低そうです。これは、メギド遺跡の外れ値3人の直近の祖先がメギド遺跡に到来した可能性を示唆します。この仮説の直接的支持は、密接に関連する集団を含む敏感なqpAdmモデル化では、この2人のレヴァント南部の北東方向地域の起源集団として唯一機能するのが、アルメニアMLBAである一方で、イランChLおよびアルメニアEBAではない、という事実に由来します。外群にイランChLを追加しても、この結果は変わらないか、モデル化に失敗しません。他のレヴァント集団はどれも類似の混合パターンを示しません。これは、レヴァントへのある程度の遺伝子流動が青銅器時代後半に起きたことを示し、この遺伝子流動の起源がコーカサスだったことを示唆します。

 まとめると、本論文の分析は、コーカサスもしくはザグロス集団と関連する人々からレヴァントへの遺伝子流動が、すでに移行期青銅器時代には起きつつあり、それが一時的もしくは継続的に、中期~後期青銅器時代において少なくとも内陸部の遺跡では持続した、と示します。


●青銅器時代以降のレヴァント集団のさらなる変化

 青銅器時代以降のレヴァントにおける集団変化を検証するため、さまざまな古代起源集団の混合としてのレヴァント地域アラブ語話者と、レヴァントにおける古代の人々の子孫(ユダヤ人)の伝統を有する集団がモデル化されました。qpAdmでは、外群と関連する集団と起源集団との間での混合は推測されませんが、ほぼ全てのレヴァント現代人および地中海集団は、古代集団が有していない、有意なサハラ砂漠以南アフリカ関連混合を有しています。

 これによりqpAdmの多くの主要な外群が除去され、この文脈での手法の有用性が減少します。とくに、qpAdmを適用して、ユーラシア西部現代人集団の大半への単一の機能するモデルを得ることはできませんでした。代わりに、LINADMIXと呼ばれる手法が開発されました。これはADMIXTUREの出力に依存し、制約付きの最小二乗法を用いて、対象となる集団への想定される起源集団の寄与を推定します。補足的な手法として、擬似ハプロタイプChromoPainter(PHCP)と呼ばれる手法が開発されました。これは、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterの、古代ゲノムへの適用です。

 まず、これらの手法は、qpAdmでモデル化できた系統の割合の再計算により、本論文の文脈において系統の有意義な推定を提供する、と確証されました。LINADMIXとPHCPは両方とも、qpAdmと定性的に類似した推定を生成します。これらの手法をさらに確証するため、本論文と類似の設定で現代人集団の系統の割合を推定する能力を検証するよう設計された、シミュレーションが実行されました。そのために、第三のより遠い関係にある集団を有する場合とそうでない場合とで、2つの密接に関連した古代人集団の混合として、現代人集団が生成されました。

 どちらの手法でも、遠い関係の起源集団の系統の割合は最大4%のエラーで、密接に関連した起源集団の割合は最大10%のエラーで推定されました。したがって、LINADMIX の基礎であるADMIXTUREは、系統の割合を定量化する手法としてある程度の危険性があると知られているものの、本論文で分析された集団と類似した系統起源を有する個体群の事例では、本論文の結果から、LINADMIXとPHCPは両方ともひじょうに有益である、と示唆されます。

 現代人集団のLINADMIX分析では、一塩基多型で遺伝子型決定された293集団1663人の現代人および古代人のデータセットが用いられ、対照として用いられた現代のイングランド人・トスカーナ人・モロッコ人集団とともに、14の現代ユダヤ人およびレバノン人集団に焦点が当てられました。LINADMIXを用いて、現代人17集団のそれぞれが、4起源集団の混合としてモデル化されました。それは、(1)中期~後期青銅器時代構成の代表としてのメギドMLBA(最大集団となります)、(2)ザグロスおよびコーカサスの代表としてのイランChL、(3)アフリカ東部起源集団の代表としての現代ソマリア人(この地域の古代人集団の遺伝的データが欠如しているため)、(4)後期新石器時代から前期青銅器時代の古代ヨーロッパ人の代表としてのヨーロッパLNBAです。

 また、17の現代人集団にPHCPが適用されました。PHCPとLINADMIXを比較すると、ソマリアとヨーロッパLNBAの構成に関して、またイランChLとメギドMLBAの組み合わされた寄与でも、よく一致する、示されます。しかし、イランChLとメギドMLBAのそれぞれの寄与に関して、おそらくはメギドMLBAとイランChLがすでにひじょうに類似した集団であるという事実のため、逸脱します。堅牢でLINADMIXとPHCPにより共有される結果のみを考慮するため、メギドMLBAとイランChLが、本論文の主要な結果として中東を表す単一の起源集団に組み合わされました。起源集団として青銅器時代レヴァント集団の異なる代表を用い、ADMIXTUREパラメータへの摂動を使用して、推定の堅牢性とこれらの結論が実証されました。これらの組み合わせによる結果から、レヴァントと関連する現代人集団は、青銅器時代レヴァント南部および銅器時代ザグロス地域からかなりの系統構成を有する、と示唆されます。それにも関わらず、他の潜在的な系統起源があり得るので、より多くの古代標本が洗練された人口史を可能とするかもしれません。

 また分析の結果、青銅器時代以降レヴァント南部に、ヨーロッパ関連系統(ヨーロッパ関連構成を41%有するアシュケナージ系ユダヤ人を除くと平均8.7%)と同様に、追加のアフリカ東部関連構成(アフリカ東部構成を80%有するエチオピアのユダヤ人を除くと平均10.6%)があった、と示されます。アフリカ東部関連構成は、エチオピアのユダヤ人とアフリカ北部人(モロッコ人とエジプト人)で最高となり、ドゥルーズ派を除く全てのアラブ語集団に存在します。ヨーロッパ関連構成は、ともにヨーロッパに居住した歴史を有するアシュケナージとモロッコのユダヤ人と同様に、ヨーロッパの参照集団(イングランド人とトスカナ人)で最高でした。この構成は、ベドウィンとエチオピアのユダヤ人を除く全ての他集団に、わずかながら存在します。

 予想通り、イングランドおよびトスカーナ集団には、中東関連系統はわずかしかありません。LINADMIXとPHCPでは、メギドMLBAとイランChLの相対的寄与の推定に不確実性がありますが、それにも関わらず、結果とシミュレーションからは、追加のザグロス関連系統が青銅器時代以降、レヴァント南部に浸透してきた、と示唆されます。最高のザグロス関連構成を有する集団を除いて、PHCPではザグロス関連構成のより低い程度が推定されているので、ザグロス関連系統のPHCPによる検出は、この構成の存在の指標である可能性が高そうです。じっさい、4起源集団全てのLINADMIXとPHCPの結果の検証では、多くのアラビア語集団における比較的大きなザグロス関連構成が観察され、ザグロスおよびコーカサスと関連する集団(必ずしも、これらの特定地域に由来するとは限りませんが)からの遺伝子流動は、鉄器時代後も継続した、と示唆されます。

 まとめると、現代人集団のパターンは、青銅器時代後に起き、おそらく歴史的文献で知られている過程と関連している、人口統計学的過程を反映しています。これらは、アラブ語集団に存在するものの、エチオピアではないユダヤ人集団にはより低い割合で存在するアフリカ東部関連構成を含んでおり、それはレヴァント集団へのザグロス関連の寄与と同様です。このザグロス関連構成は、検証されたうちでは北端の集団で最高となり、青銅器時代と鉄器時代の後でさえ、ザグロス関連集団の寄与があった、と示唆されます。


●まとめ

 本論文の結果は、歴史的記録や「カナン人」としての物質文化の共有に基づいて知られていた、紀元前二千年紀のレヴァント南部のおもな住民の包括的な遺伝的状況を提供します。本論文では、三つの基本的な問題に答えるため、詳細な分析が行なわれました。それは、これらの人々はどの程度遺伝的に均質だったのか、それ以前の人々との比較で可能性の高い起源は何なのか、青銅器時代以降、この地域ではどの程度系統に変化があったのか、ということです。

 以前の遺伝的分析では、レヴァント南部の中期~後期青銅器時代の人々が、それ以前の在来集団(レヴァントN)と、銅器時代ザグロス関連集団とのほぼ等しい共有としてモデル化され、北東地域からレヴァント南部への移動が示唆されました。本論文はこの過程に関して、考古学と時空間的に多様な遺伝的データの両方を考慮に入れて、より詳細な分析を提供しました。この期間に、レヴァント南部とザグロス地域との間で直接的な文化的つながりの証拠はほとんどないので、コーカサスがこの系統の起源である可能性が高そうです。本論文はこれらのデータを用いて、これら2つの想定を比較し、遺伝的データが両方と適合する、と結論づけました。

 メギド遺跡の外れ値個体は、直近の祖先が移民第一世代だったと推測されますが、遺伝子流動が青銅器時代を通じて継続したことと、遺伝子流動の少なくとも一部はザグロスよりもむしろコーカサスに由来する可能性が高い、と示した点でとくに重要です。この外れ値2個体は、本論文のデータセットにおいて、ザグロスもしくはコーカサス関連系統の最高の割合を示します。この外れ値の分析は、ザグロスと比較してコーカサス起源の有意により強い証拠をもたらしますが、この結論は、ザグロス地域の中期~後期青銅器時代の古代DNAデータが利用可能になれば、修正されるかもしれません。

 次に新石器時代レヴァント構成の低い2個体(兄弟のI10769とI10770)は、メギド遺跡の宮殿と関連している可能性が高い巨大墓の近くで発見されており、2人が支配的な社会的地位(カースト)と関連していた可能性を提示します。じっさい、遺跡で発見された紀元前15世紀の楔形文字の粘土板に記されているメギド遺跡のすぐ南に位置する町であるタアナク(Taanach)の支配者と、エジプトで発見された紀元前14世紀のアマルナ文書に記されたメギドとタアナクの支配者たちは、フルリ語(古代近東の北東部で話された言語で、コーカサスも含まれるかもしれません)の名前を有しています。これは、今まで示唆的ではあったものの、これらの都市の支配者集団の少なくとも一部は、古代近東の北東部に起源がある、といういくつかの証拠を提供します。

 本論文では、コーカサスは現在のアルメニアの古代集団により代表されますが、レヴァント南部と文化的つながりがあったと知られている地域は、もっと広範です。レヴァント南部への文化的影響の証拠は、おもに前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化(考古学)と、中期~後期青銅器時代のフリル語(言語的証明)に焦点が当てられます。これら二つの複合はコーカサスおよびアナトリア半島東部とその近隣地域に拡大しました。本論文で分析されたアルメニアの遺跡は、これらの文化のこれまでで最高の代表です。アルメニアの前期青銅器時代個体群(アルメニアEBA)は、前期青銅器時代のクラ・アラクセス文化墓地で、その後の中期~後期青銅器時代個体群(アルメニアMLBA)は、アルメニア北西部のアラガツォトゥン(Aragatsotn)州で発見されました。本論文で分析された新石器時代および銅器時代のアナトリア半島個体群は、アナトリア半島北西部で発見されており、コーカサスの一部ではないことが重要です。銅器時代ザグロス個体群はイランのカンガーヴァル(Kangavar)渓谷で発見されており、クラ・アラクセス文化の影響の境界に位置します。

 「カナン人」という用語は大まかに定義されており、青銅器時代に都市国家で組織化されていた集団の集合を指しているので、原則として遺伝的一貫性に欠ける可能性があります。本論文で調査された個体群は、現在のレバノンとイスラエルとヨルダンの9遺跡に由来し、広範な地域にわたります。本論文の分析で明らかになったのは、シドン遺跡(およびバクア遺跡のより少ない個体)を除いて、これらの個体群が他の同時代および近隣の集団よりも、相互に密接であるという意味で均質である、ということです。これは、「カナン人」の考古学的および歴史学的分類が共有された系統と相関している、と示唆します。

 これは、紀元前二千年紀にエーゲ海地域観察されたパターンと類似しています。当時のエーゲ海地域では、ミノアやミケーネという文化的分類が、これら集団内の潜在的に微妙な系統の違いにも関わらず、複数の遺跡にわたって遺伝的同質性を示しました。別の事例は、ユーラシア西部草原地帯における紀元前三千年紀後期と紀元前二千年紀前期の「ヤムナヤ(Yamnaya)」牧畜民です。こちらは、紀元前二千年紀の鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化複合で、類似の文化的慣行を共有する人々が広く異なる系統を有するように、他の場所で見られるパターンとは対照的です。いずれにせよ、本論文でも示されたそのような関連の検出だけでは、過去の集団的自己認識が遺伝学と関連していたことを証明できません。

 本論文で調べられた集団で、他集団とわずかに異なるのはシドンだけです。本論文は、この観察が誤差である可能性に対する証拠を提供します。むしろ、本論文の結果からは、シドン集団の相対的な遠隔は、シドン集団が遺伝的に不均質で、異なるレヴァント南部集団との類似を示す異なる個体群を有しているという事実に由来する、と示唆されます。紀元前二千年紀に、シドンは主要な港湾都市で、地中海東部とは交易関係でつながっていたので、顕著な遺伝子流動がもたらされ、内陸部の都市よりも集団が不均質になったかもしれません。これは、シドン集団に最も類似しているのが、同じく沿岸都市のアシュケロン集団である理由かもしれません。シドン集団と類似している唯一の内陸部集団がアベルベトマアカで、おそらくは沿岸部との地理的近接のためです。シドン集団以外ではバクア集団も、外群集団を多くすると、他の集団からやや逸脱します。バクア遺跡はシリア砂漠の端に位置しているので、この集団は、まだ遺伝的に標本抽出されていないより東方の集団と混合したかもしれません。これは、バクア遺跡の個体群がその系統パターンにある程度の変動性を示す、という事実に反映されている可能性があります。

 本論文は青銅器時代に焦点を当てていますが、鉄器時代の新たな2標本も報告しており、一方はメギド遺跡、もう一方はアベルベトマアカ遺跡で発見されました。この2人は、中期~後期青銅器時代個体群で観察されたものと類似した系統パターンを示し、この地域の青銅器時代末の破壊が、各遺跡での遺伝的不連続につながったとは限らないことを示唆します。とくに、アベルベトマアカ遺跡とメギド遺跡はともに内陸部の都市で、青銅器時代から鉄器時代の移行期を通じての遺伝的連続性は、レヴァント南部の他の遺跡の典型ではなかったかもしれません。たとえば、ペリシテ人の沿岸部都市であるアシュケロン遺跡の鉄器時代2集団の一方(ASH_IA1)は、青銅器時代から鉄器時代の移行期に、ヨーロッパ南部関連集団の移動の証拠を示しました(関連記事)。

 かなりのサハラ砂漠以南のアフリカ人との混合を有する現代中東集団における系統の割合の推定は、地中海の異なる地域の混合の複数起源と同様に困難です。本論文ではこの問題が、二つの統計的手法の開発と、これらの手法間の比較、シミュレーション、入力の摂動に基づく推論の堅牢性の検証により対処されました。歴史的もしくは遺伝的にレヴァント南部と関連する14の現代人集団が調べられ、レヴァント南部集団系統へのアフリカ東部とヨーロッパと中東(レヴァント南部青銅器時代集団およびザグロス関連銅器時代集団の組み合わせ)の寄与が検証されました。アラビア語集団およびユダヤ人集団はともに、中東関連系統を50%以上有する、というモデルと適合します。これは、あらゆるこれらの現代人集団が、中期~後期青銅器時代のレヴァントもしくは銅器時代ザグロスに居住していた人々からの直接的な系統を有することを意味するのではなく、むしろ、古代の代理が中東と関連し得る集団からの系統を有する、と示唆されます。

 ザグロスもしくはコーカサス関連系統のレヴァント南部への流入は、青銅器時代後も続いたようです。また、アフリカ東部関連系統が青銅器時代後に、ほぼ南から北への勾配でレヴァント南部に入ってきたことも明らかになりました。さらに、反対方向の勾配(北から南)を有するヨーロッパ関連系統も観察されました。レヴァント南部とザグロスから到来する系統構成の分離が困難であることを考慮すると、将来の研究の重要な方向性は、各現代人集団の系統の軌跡を高解像度で再構築し、レヴァント南部青銅器時代に由来する人々が、後の時代の他の人々とどのように混合したのか、過去3000年の豊富な考古学的および歴史的記録で知られている過程の文脈において理解することです。


参考文献:
Agranat-Tamir L. et al.(2020): The Genomic History of the Bronze Age Southern Levant. Cell, 181, 5, 1146–1157.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.044

青木健『ペルシア帝国』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。まず、「ペルシア」の語源はシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」で、紀元前三千年紀にアッシリア語の「パルスアシュ」となり、イラン高原西北部を指す言葉として定着しました。後の「ペルシア」であるイラン高原西南部は、紀元前三千年紀後半以降、シュメール語やアッカド語で「アンシャン」と呼ばれており、後にエラム語で「アンザン」と呼ばれるようになりました。紀元前9世紀、中央アジアもしくはコーカサスから移動してきたイラン系アーリア民族の一派がイラン高原西北部の「パルスアシュ」に定着し、「パルスア人」と呼ばれるようになります。パルスア人は後続のイラン系アーリア民族の南下・西進により「パルスアシュ」から押し出され、イラン高原西南部の「アンシャン」付近にまで進出しました。この時、集団名ではなく地名の方が変わって「パルスアシュ」となり、紀元前6世紀後半には、古代ペルシア語「パールサ」と呼ばれるようになります。

 本書はこのように「ペルシア」の前提を把握したうえで、最初の「ペルシア帝国」であるハカーマニシュ王朝の興亡を解説します。日本でも知られるようになってきたと思いますが、最初の「ペルシア帝国」は初期に王家簒奪が起きています。最初の王家はチシュピシュ家で、「帝国」の開祖はクールシュ2世でした。チシュピシュ王朝は紀元前7世紀後半、宗主国をエラムから新アッシリアに変更し、新アッシリア滅亡後は、イラン高原西北部を支配するメディア王国に服属しました。クールシュ2世は父のカンブージヤ1世とメディア王の娘との間に生まれます。本書は、クールシュ2世が西アジアを征服できた理由について、判然としないものの、母親を通じてのメディア王国とのつながりが大きかったのではないか、と推測しています。

 クールシュ2世は中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲタイとの戦いで奇襲を受けて落命し、後を継いだのはその長男のカンブージヤ2世でした。カンブージヤ2世は、エジプトを征服しましたが、紀元前522年、急死します。その後の混乱を収めて巨大勢力の君主として君臨したのがダーラヤワウシュ1世です。カンブージヤ2世は暗殺されたのか、そうだとして弟なのか別人なのか、この間の事情は定かではありませんが、ともかく最終的にダーラヤワウシュ1世がチシュピシュ王家に対する簒奪者として君主の地位に就いたことは間違いありません。ダーラヤワウシュ1世は、チシュピシュ王家とは4世代前の父系祖先を同じくする、という系図を喧伝しましたが、おそらく多くの研究者はこれに懐疑的で、本書も同様です。

 ダーラヤワウシュ1世は即位時にまだ祖父も存命だったようで、若かったのでしょう。そのため、統治機構を整備するだけの時間的余裕があり、それは連邦的性格を有していた、と本書は指摘します。ダーラヤワウシュ1世は比較的短期間で反対勢力を鎮圧し、ハカーマニシュ王朝の「帝国」が成立します。ダーラヤワウシュ1世はチシュピシュ王家の娘であるウタウサを正妻とし、その間の息子クシャヤールシャン1世が後継者となります。チシュピシュ王家もそうでしちが、ハカーマニシュ王家も近親婚が盛んでした。クシャヤールシャン1世の治世に起きたのがギリシアとの戦いで、西洋史では大きく扱われてきましたが、「ペルシア帝国」にとってこれは辺境の出来事で、重要だったのは中枢のバビロンで起きた叛乱だった、と本書は指摘します。3回にわたる叛乱の結果、バビロンは徹底的に破壊されます。

 クシャヤールシャン1世の後継者となったアルタクシャサ1世は、ハーレムに閉じ籠った暗君との評価が一般的なようですが、本書は、「帝国」の行政機構がよく機能しており、軍事遠征など「余計なことをしなかった」ことなどから、名君と言えるかもしれない、と指摘します。ダーラヤワシュ2世の頃から、「帝国」では西部諸州の叛乱が頻発するようになります。これは、経済的な先進地域である西部から政治的中心地である東部へと徴収された富が、勢力拡大の限界に伴う軍事的停滞により、軍隊への支払いという形での社会還元を阻害したからでした。この動向の中、エジプトが「帝国」の支配下から脱し、アルタクシュサ2世の時代には、西部諸州が「中央政府」から独立していきます。アルタクシュサ2世の後継者となった息子のアルタクシュサ3世は、異母兄弟を100人以上、従兄弟たちや女性王族も多数殺害し、王位は安定しましたが、その息子の代でハカーマニシュ王家が断絶する原因ともなりました。アルタクシュサ3世は在位中武断的方針を貫き、西部諸州を再度支配下に置くとともに、エジプトも奪還しました。しかし、「帝国」の根本的問題の解決には遠かった、と本書は指摘します。

 アルタクシュサ3世の死後、息子のアルタクシュサ4世が即位しますが、宦官の傀儡で、その宦官を討とうとして逆に殺されます。その後、大王位に擁立されたのは明らかに王族ではなかったアルタシヤータ将軍で、ダーラヤワシュ2世の父系曾孫という系図が作られました(ダーラヤワシュ3世)。ダーラヤワシュ3世は自身を擁立した宦官の殺害には成功したものの、これにより「中央政府」の統制力はさらに低下したようです。ハカーマニシュ王家の出身ではないダーラヤワシュ3世が各属州に権威を承認されたとは言い難い状況で、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)のマケドニアが「帝国」に侵攻してきます。本書は、アレクサンドロス3世による「帝国」の征服は、西洋史の観点ではその軍事的才能を示したとされるものの、イラン史の観点では解体傾向に歯止めのかからない「帝国」へ絶好の機会に侵攻してきた、と指摘します。3回の会戦に敗れたダーラヤワシュ3世は紀元前330年に逃亡中に殺害され、後継者争いを繰り返しながらも長期にわたって大勢力を維持した「帝国」は滅亡します。アレクサンドロス3世はハカーマニシュ王家の生き残りの王女2人を自身の側室としますが、アレクサンドロス3世の死後、2人はアレクサンドロス3世の正妻に殺され、ハカーマニシュ王家は断絶します。

 この後、イラン高原を含む西アジアを支配した大勢力は、ギリシア系のセレウコス朝とパルティア系のアルシャク朝でした。この間ペルシア州では、地方政権としてフラタラカー朝とペルシス朝が存在しました。アルシャク朝は、ハカーマニシュ王家のアルタクシュサ2世の末裔と称していました。遊牧民であるアルシャク朝は、度々拠点を移しつつ、勢力を拡大しました。アルシャク朝の統治体制はハカーマニシュ朝とは大きく異なっていたようで、しばしば土着の王国をそのまま温存しました。

 この地方政権時代を経て、ペルシア州からサーサーン朝という政治勢力が勃興し、大勢力を築きます。サーサーン朝の始祖はサーサーン・フワダーイ(サーサーン卿)という人物とされます。サーサーン卿の息子パーバグは紀元後208年頃、アルシャク朝に叛きます。222年、パーバグが没して長男のシャーブフルが跡を継ぎますが、直後に事故死し、弟のアルダフシール1世が即位します。アルダフシール1世は224年にアルシャク朝最後の王を討ち取り「エーラン・シャフル=アーリア民族の帝国」の「シャーハーン・シャー=皇帝」と名乗ります。本書はサーサーン王朝の国名を、他称の「ペルシア帝国」ではなく、「エーラーン帝国」と表記し、君主の称号を日本語では馴染みにくい「諸王の王」ではなく、「皇帝」で統一します。エーラーン帝国で本書が注目しているのは海軍力の増強で、帝国全体としては大陸国家であるものの、サーサーン家の直轄領に限れば多分に海洋国家としての性質を備えており、インド洋貿易の観点からもペルシア湾海軍の存在は有意だった、と本書は指摘します。

 初期のエーラーン帝国では、パルティア系大貴族の存在感が無視できないものだったようで、これはアルシャク朝末期にパルティア系大貴族が相次いでサーサーン朝に帰順したことを反映しているようです。本書は初期エーラーン帝国を、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と指摘しています。経済的には、エーラーン帝国の基盤はメソポタミア平原にあり、メソポタミア平原とペルシア州を結ぶ地域の都市がサーサーン朝の直轄領を形成しました。支配層はあたかも「アーリア民族の帝国」であるかのように装っているものの、「メソポタミア=ペルシア二重経済帝国」としての性格も有する、と本書は指摘します。また、直轄領以外の地域ではサーサーン朝の支配力は急激に低下し、きわめて封建的な要素を残したパルティア系大貴族が君臨していました。ここが上述の「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」的側面となります。

 サーサーン朝の軍事拡大路線は、270年のシャーブフル1世の死でいったんは終了します。シャーブフル1世の死後、次第にマズダー教(ゾロアスター教)がサーサーン朝において勢力を拡大し、ついには宗教界で覇権を握るに至ります。ただ本書は、アルダシフール1世からシャーブフル2世までのマズダー教は、9世紀以降のゾロアスター教では認められないような要素を含んでおり、ザラスシュトラ・スピターマ(ゾロアスター)の名称も見えないことなどから、「ゾロアスター教」と呼べるのか、疑問を呈しています。

 4世紀になると、サーサーン王家の内紛や若年・幼年皇帝の出現もあり、パルティア系大貴族が復権します。周辺では唯一の大国であるローマ帝国との戦いでも、軍を指揮するのは皇帝自身ではなく、旧パルティア系大貴族でした。ローマ帝国がキリスト教迫害から公認へと方針を転換すると、キリスト教徒はエーラーン帝国の潜在的味方ではなく敵とみなされるようになり、大規模な迫害が始まります。これと関連して、エーラーン帝国では「神々の末裔」との皇帝観念が消え、新たな帝国イデオロギーの創出をマズダー教神官団が担いました。

 このように、4世紀はエーラーン帝国の変容期として重要ですが、この期間の大半で皇帝だったのは誕生前に「即位」したシャーブフル2世で、ナルセフ1世時代に失った北メソポタミアとアルメニア王国を奪回した、帝国興隆の時代とも言えます。本書はこの時期を、官僚制の成熟と国制の安定とも、対ローマ戦で旧パルティア系大貴族が軍を率いていたように、皇帝権力が失墜したとも評価できる、と指摘します。旧パルティア系大貴族に圧迫されていったサーサーン皇室の財政を支えたものとして本書が注目するのは「国際」貿易で、上述のペルシア湾海軍はこの点で重要な役割を果たしたようです。

 皇帝権力が失墜傾向にある中、4世紀末から5世紀前半にかけて帝位にあったヤザドギルド1世は、大貴族を多数殺害したり、強大化しすぎたマズダー教神官団を牽制すべくキリスト教を保護したりと、皇権強化を企図したものの、それが反感を買って大貴族たちにより殺害されたようです。キリスト教を保護したヤザドギルド1世でしたが、キリスト教徒からマズダー教神官への攻撃が過激化していくと、治世晩期に方針を変え、パルティア系大貴族でマズダー教の熱心な信仰者であるミフル・ナルセフ・スーレーンを大宰相に任命します。それまで、エーラーン帝国には大宰相という役職はありませんでした。ミフル・ナルセフはその後5代の皇帝で大宰相を務め、エーラーン帝国の政策に影響を及ぼしました。ヤザドギルド1世の後、しばらくは皇帝暗殺がないので、大宰相にパルティア系大貴族が就任する慣行は、サーサーン朝皇帝とパルティア系大貴族との妥協の結果ではないか、と本書は推測します。

 ミフル・ナルセフはマズダー教を帝国内で熱心に広めましたが、その中核教義は現在ゾロアスター教の正統教義として認識されている二元論ではなく、時間の神ズルヴァーンの下で、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)が闘争を繰り広げる、というものでした。ここでも、ゾロアスター教の教祖とされるザラスシュトラ・スピターマに関する伝説は欠落しています。本書はこの競技を、マズダー教の最終教義となる「マズダー教ズルヴァーン主義」と定義しています。ただ本書は、これを帝国イデオロギー混乱期の最終段階の象徴にすぎない、と指摘します。ヤザドギルド2世の時代に、サーサーン朝皇帝は「神々の末裔」たる現人神からゾロアスター教の守護者たるカウィ王朝の末裔としての立場へと変わります。本書は、ヤザドギルド2世が中央アジアに長期対陣する中で、中央アジア系のゾロアスター教伝承に触れ、揺れ動いていた帝国イデオロギー問題の最終的決着を図ったのではないか、と推測します。

 ヤザドギルド2世没後の兄との内乱を制したのはペーローズ1世でした。この内乱で兄を支持したらしいミフル・ナルセフは、この内乱を生き延びるものの、ローマ帝国との交渉に赴いたところで消息不明となります。その長男のズルヴァーン・ダードはペーローズ1世時代に「犯罪者」として失脚します。こうしてスーレーン家は没落し、それと共にエーラーン帝国イデオロギー混迷期の最終段階を担った「マズダ教ズルヴァーン主義」の痕跡も消え去った、と本書は指摘します。スーレーン家に代わってエーラーン帝国の実権を握ったのはミフラーン家でした。

 ペーローズ1世は父のヤザドギルド2世に倣って、東方から新規導入したゾロアスター教の整備を進めます。また、従来のサーサーン朝皇帝が対ローマ帝国の西部戦線に注力したのに対して、ヤザドギルド2世からホスロー1世までは、東部戦線を重視する傾向にありました。ペーローズ1世は首尾よく東方でキダーラを破りますが、これはさらに東方で台頭してきた遊牧民エフタルとの共同作戦の成果だろう、と本書は推測します。ところが、そのエフタルがバクトリアを制圧したため、ペーローズ1世は481年にエフタルを攻めたものの敗れ、しかも捕虜となってしまいます。皇太子を人質として貢納金を支払うことでエフタルと講和したペーローズ1世ですが、貢納金の支払いを完了し、皇太子が帰還した484年に、側近の制止を振り切り、再度大軍でエフタルを攻めます。ペーローズ1世はまたしても大敗し、30人の息子とともに玉砕し、ゾロアスター教神官たちと共に捕虜となったペーローズ1世の娘はエフタル王の妻とされました。

 このエーラーン帝国始まって以来の大惨事が、エーラーン帝国の転機だった、と指摘します。エーラーン帝国では、遊牧民と定住民という構図で遊牧民側が政治権力を掌握する、というイスラム・イラン史の大前提が、ペーローズ1世の時代前には当てはまらず、都市住民が政治権力と経済力を掌握していた、というわけです。しかし、エフタルの台頭により、都市住民と遊牧民の軍事バランスが逆転します。このように冴えなかったペーローズ1世の時代ですが、エーラーン帝国社会では貨幣経済が急速に浸透します。

 ペーローズ1世戦死後の大混乱を勝ち抜いて即位したのは、ぺーローズ1世の弟のヴァラーフシュ1世でした。が、実権を掌握したスフラー・カーレーンにより短期間で退位させられ、その甥のカヴァード1世が即位しました。カヴァード1世はスフラー・カーレーンの失脚後、政治改革を進めたものの、反感を買って退位させられ、幽閉先から脱出してエフタルを頼って復位します。復位後のカヴァード1世は、詳細不明ながら改革に成功し、大貴族の勢力は削減され、経済状況は好転し、息子のホスロー1世時代にはゾロアスター教の正統教義が確立します。

 母方の身分が見劣りするためか、即位後のホスロー1世は兄弟や従兄弟たちを殺害し、改革を進めます。ホスロー1世は税制を現物徴収から定額貨幣に改め、人頭税を導入しました。こうした税制改革は後にイスラム勢力にも継承されました。ホスロー1世は税収増により軍制改革を進め、ローマ帝国だけではなく、エフタルなど遊牧民勢力も脅威として台頭してきたことを受けて、4軍管区制を導入し、海軍を再建しました。これにより海上交易が盛んになったようで、陸路の交易の担い手がソグド人だったのに対して、海路の交易の担い手は多様だったようです。またホスロー1世の時代には、東ローマ(ビザンティン)帝国のユスティニアヌス帝がアカメデイアを閉鎖したため、追放されたギリシア人学者たちがエーラーン帝国に亡命してきて、エーラーン帝国の文化に影響を与えたようです。

 エーラーン帝国を立て直したホスロー1世は、540年、ユスティニアヌス帝治下のビザンティン帝国に宣戦布告します。直接的な契機というか名分は、東ゴート王国からの救援要請でした。この戦いは、エーラーン帝国優位の条件で562年に講和が締結されます。まだ講和締結前だったとはいえ、ビザンティン帝国との戦いがほぼ落ち着いた557年、ホスロー1世は突厥と結んでエフタルを攻撃し、瓦解に追い込みます。ホスロー1世は、エチオピアのアクスム王国に制圧されたイエメンにも570年に侵攻し、衛生国としています。このようにホスロー1世の軍事行動は一定以上の成果を収めましたが、軍司令官職を分割しつつも、あくまでも大貴族の勢力均衡に拘泥した点が、ホスロー1世の軍事政策の限界だった、と本書は評価します。

 本書は、ホスロー1世の改革が一定の成功を収めたことは認めつつも、ホスロー1世が579年に没してからわずか63年でエーラーン帝国が滅亡したことを重視し、ホスロー1世の軍制改革は、意図がよかったとしても、結果的にはパルティア系大貴族の叛乱を次々に誘発してしまい、アルダシフール1世が築いた「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」の基礎を根底から覆した、と指摘します。また本書は、税制改革と同時期に、少なくともサーサーン家の直轄領では人口の都市集中が見られ、貨幣経済をさらに振興させたものの、反面ではサーサーン朝初期以来帝国経済を支えてきた農業を推戴させた可能性がある、と指摘します。本書の見解は、アラブ人イスラム教徒は再度全盛期を迎えたエーラーン帝国を正面から打破したのではなく、イスラム教興隆前にエーラーン帝国は実質的に解体しつつあった、というものです。

 ホスロー1世の死後、即位したのは皇太子だったオフルマズド4世でした。当初、オフルマズド4世の治世は東方でのエフタル残党の殲滅など順調でしたが、580年代半ば以降、大貴族粛清に乗り出し、次の粛清対象とされたヴァフラーム・チョービン・ミフラーンが叛乱を起こし、その混乱の中でオフルマズド4世は処刑されます。ヴァフラーム・チョービンは、アルダシフール1世の支配はサーサーン家による簒奪なので、正しいアルシャク家の支配を回復する、という名目で591年3月9日にエーラーン皇帝に即位します。本書は、上述の軍司令官職に大貴族を起用し続けた点とともに、現人神思想からゾロアスター教の守護者という帝国のイデオロギー転換がまだ効果を挙げていなかった点を、この王朝簒奪の要因として指摘します。極論を言えば、ゾロアスター教の守護者なら誰でも支配の正統性を主張できるからです。

 オフルマズド4世の長子であるホスロー2世は、オフルマズド4世の死後即位しましたが、ヴァフラーム・チョービンに敗れてビザンティン帝国に亡命し、ビザンティン皇帝マウリキウスの娘を娶り、コーカサス諸国をビザンティン帝国に割譲するという条件で、ビザンティン帝国からの援助を得ることに成功しました。ホスロー2世は591年夏、ヴァフラーム・チョービンを破ってサーサーン朝皇帝に復辟します。ヴァフラーム・チョービンは敗走して西突厥に亡命した後、ホスロー2世の刺客により殺害されます。

 ホスロー2世は浪費家で、私生活での享楽に耽溺するだけではなく、政治でも軍事でも成功を求める野心的な人物でもあり、対外強硬策と大貴族粛清を同時に追求し始めます。本書はホスロー2世を、エーラーン帝国とビザンティン帝国の勢力が均衡し、ゾロアスター教とキリスト教が東西で教勢を分かち合っていた古代末期の世界秩序を、最終的に破滅させた重要人物と評価しています。ホスロー2世はまたしても大貴族粛清の反動で起きた叛乱を何とか乗り切り、大宰相を置かず、皇帝権力の強化には成功した、と言えるかもしれません。叛乱を何とか制圧した浪費家のホスロー2世の宮廷は爛熟を迎えます。しかし本書は、隆盛を極めているかに見える帝国内部の商工業が、時として拉致してきた外部の民に依存していることや、キリスト教徒人口の増加など、帝国の脆弱性を指摘します。キリスト教徒が増加したのは、職人・商人への蔑視が強いゾロアスター教に対して、それらにより容易に順応できるキリスト教の方が、当時の社会情勢に適合的だったからです。

 エーラーン帝国の命運を大きく変えた戦いは、ビザンティン帝国の内紛から始まりました。ビザンティン帝国の指揮官フォカスが叛乱を起こし、ホスロー2世にとって恩人だったマウリキウス帝が処刑され、その長子のテオドシウスがエーラーン帝国に亡命してきます。これを好機と考えたホスロー2世は602年にフォカスに宣戦布告しますが、ビザンティン帝国との戦いは長期化します。610年、フォカスを殺害して即位したヘラクレイオスからホスロー2世へと講和の使節団が派遣されますが、テオドシウスの即位に拘るホスロー2世はこれを皆殺しにし、ビザンティン帝国に全面的に攻勢に出ます。エーラーン帝国軍はコンスタンティノープルに迫りながら、海軍の不足で陥落させられず、さらに、620年代前半にティグリス川で大氾濫が起きたため、エーラーン帝国は経済的にも疲弊していました。それでも、これまでの軍事的成功により自我が肥大しきったホスロー2世は壮大な軍事作戦を実行し続け、ついには628年に宮廷内の陰謀により処刑されます。

 ホスロー2世の死後、その息子のカヴァード2世が擁立され、直ちにビザンティン帝国との間の停戦交渉が始まりますが、カヴァード2世はその最中の628年9月に疫病で死亡し、その息子のアルダシフール3世が即位します。この後、アルダシフール3世もすぐに殺害され、シャフルヴァラーズ・ミフラーンの短期間の簒奪を経て、ホスロー2世の長女でカヴァード2世の姉妹妻だったポーラーン・ドゥフトが擁立されます。数々の粛清で、サーサーン家にはもう男系相続人がいなかったのかもしれません。ここでようやくエーラーン帝国とビザンティン帝国の間に和議が締結されますが、その条件はエーラーン帝国が全占領地をビザンティン帝国に返還するというもので、この26年に及ぶ「世界大戦」はエーラーン帝国の敗北で終わります。ポーラーン・ドゥフトは短期間で廃位され、短期間の簒奪を経て、ポーラーン・ドゥフトの妹であるアードゥルミーグ・ドゥフトが擁立されます。アードゥルミーグ・ドゥフトも短期間で簒奪され、その簒奪者も短期間で失脚した後、ポーラーン・ドゥフトが再度擁立されます。しかし、ポーラーン・ドゥフトも632年に殺害されます。

 ホスロー2世の死からここまでわずか4年ほどですが、エーラーン帝国では政変が相次ぎ、数少なくなったサーサーン王家の人々も相次いで没し、まさに末期状況を呈します。この4年に及ぶ内乱後のエーラーン帝国では、各地の有力貴族が軍閥化し、ホスロー2世の浪費と無理な軍事行動と災害に対する無策により、経済は破綻していました。この混乱のなかで擁立されたのは、ホスロー2世の孫と伝わるヤザドギルド3世ですが、本当にホスロー2世の孫なのか、不明です。この状況でエーラーン帝国軍は相次いで、北上してきたイスラム教徒の軍に敗れます。これらの戦いではエーラーン帝国軍が質量ともに圧倒していたとされますが、エーラーン帝国はビザンティン帝国との長期の戦いとメソポタミア平原の災害により疲弊していたことから、本書は疑問を呈しています。

 637年、ついに帝都のテースィーフォンがイスラム教徒の軍により陥落させられます。642年、ネハーヴァンドの戦いでエーラーン帝国軍はイスラム教徒の軍に大敗し、混乱期に大宰相を務め続けたペーローズ・ホスローは戦死し、サーサーン家の直轄軍も解体しました。これにより、帝室としてのサーサーン家は実質的に消滅します。ヤザドギルド3世はこの後逃亡を続けますが、651年に殺害されます。本書は、サーサーン朝が滅亡してもエーラーン帝国が存続した可能性はある、と指摘します。本書は、サーサーン朝の凋落はホスロー1世の制度改革の運用面での失敗により確定的になった、と指摘します。貨幣経済が隆盛に向かう中で、過度に軍事力に依存するのは時代遅れだった、というわけです。

 サーサーン朝の没落をエーラーン帝国の消滅にまで拡大させたのは、帝国の経済力と軍事力を自発に極限まで消耗させたホスロー2世で、その後の4年の内乱で、サーサーン家と代替可能な大貴族も無意味に蕩尽させられた、と本書は指摘します。さらに、イスラム教徒軍との戦いで連敗したことにより、エーラーン帝国の機構自体が解体されました。イスラム教勢力の支配下で、都市部ではイスラム教への改宗が進み、逆に農村は10世紀までゾロアスター教文化の拠点でした。サーサーン朝の大貴族たちは、イスラム教勢力に順応するか徹底抗戦して滅亡し、あるいは唐王朝に亡命しました。ヤザドギルド3世の次男ペーローズは、唐王朝で将軍に任命されています。

 本書は最後に、ハカーマニシュ朝もサーサーン朝も自称したことのない「ペルシア帝国」 という概念を検証します。ハカーマニシュ朝はペルシア州を基盤に勃興し、「大王」はペルシアの一部族により占められ、イデオロギーの中心はペルシア州で、ペルシア人貴族が特権的な身分を保持したという点で、外国人がハカーマニシュ朝を「ペルシア帝国」と認識するのは当然だった、と本書は指摘します。一方、サーサーン朝の自称は「アーリア民族の帝国(エーラーン・シャフル)」でしたが、軍事力をペルシア州出身のサーサーン家とパルティア系大貴族が担っており、「ペルシア=パルティア二重軍事帝国」と言うべき存在でした。サーサーン朝は経済的には、サーサーン家の直轄領だったメソポタミア平原からペルシア州が中核を占め、「ペルシア=メソポタミア二重経済帝国」と言うべき存在でした。その意味で、サーサーン朝も「ペルシア帝国」と呼べる、と本書は指摘します。

 イスラム期には、ペルシア人もアーリア民族も特権を保持しておらず、経済的にもペルシア州は主要な地位を占めていないので、これ以降にペルシア州に成立したイスラム国家を「ペルシア帝国」と把握するのは難しく、これ以降のペルシア史は取るに足りない地方史の連続である、と本書は指摘します。ヨーロッパでは、ビザンティン帝国の保守的な知識層の認識に由来して、東方の勢力が「ペルシア帝国」と呼ばれました。一方イランでは、サーサーン朝の領域を継承したという意味で、「ペルシア帝国」は存続している、と無理やりではあるものの主張できなくもなかった、と本書は指摘します。この観点から本書が画期としているのはサファヴィー朝で、君主は「シャー」と名乗り、オスマン帝国との対峙は、あたかもかつてのエーラーン帝国とビザンティン帝国との対立の再現でした。この「ペルシア帝国」意識は、パフラヴィー朝にも存続しましたが、1979年のイラン・イスラム革命で、「ペルシア帝国」という共同幻想を継承する国家は地上から消え、現在では復活する見込みすらありません。ハカーマニシュ朝とサーサーン朝の通史には疎かったので、本書を興味深く読み進められました。Twitterなどでは本書への批判も見られますが、それらも踏まえつつ、今後も何度か再読するつもりです。