フランスの博物館のチンギス・カン展をめぐる騒動

 フランス西部ナント(Nantes)の歴史博物館でチンギス・カンに関する展覧会が計画されていたものの、中国当局が検閲を試みたので延期された、と報道されました。ナントの歴史博物館は、中華人民共和国内モンゴル自治区フフホト(Hohhot)にある内モンゴル博物館の協力を得てこの企画展を準備してきたものの、中国の国家文物局が当初の案に変更を求めてきたために問題が生じた、とのことです。ナントの歴史博物館によると、要求された変更点には「新たな国家観にとって有利となる、モンゴル文化に関する偏った書き換えが顕著な要素が含まれていた」そうです。具体的には「チンギスハン」・「帝国」・「モンゴル」といった言葉を展覧会から削除するよう要求され、さらに同展に関するテキスト・地図・パンフレットおよび宣伝に対する監督権も求められたそうです。ナントの歴史博物館は、人間的・科学的・倫理的価値観に基づき、この企画展の開催を3年以上は見送ると決定し、今年(2020年)夏に「中国政府がモンゴル民族への態度を硬化させたこと」を一因として挙げています。フランスの戦略研究財団のアジア専門家であるバレリー・ニケ(Valerie Niquet)氏は、「中国政府は、公式の国家観と一致しない歴史観を禁止しており、国外でも同じことをしようとする」と解説しています。

 まず一般論として、チンギス・カン(テムジン)の行動範囲は広く、少なからぬ中華人民共和国領も含まれるので、中国当局の機関が関わっていることからも、間違いがあれば中国側が訂正要求を出すのは当然だと言えます。「監督権」が具体的に何を指すのか、上記報道だけでは不明ですが、間違いのある展示ならば展覧を許可しない、ということであれば、それ自体は正当と言えるでしょう。また、この問題を今夏以降の内モンゴル自治区の問題と結びつけ、「中国の横暴」を示すものと解釈する見解は多そうですが、上記報道だけでは短絡的に結びつけることはできない、と思います。

 上記報道によると、具体的には、中国側は「チンギスハン」・「帝国」・「モンゴル」といった言葉を展覧会から削除するよう要求したそうです。詳細は不明ですが、このうち、「チンギスハン」と「帝国」に関してはある程度想像できます。杉山正明『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』(関連記事)で簡潔に説明されていますが(P31~32)、ユーラシア中央域に展開した遊牧民を中心とする国家(人間集団)が「ウルス」で、その長は「カン」と呼ばれました。この多数いる君長である「カン」の上に立つ至高の存在は、「カガン」もしくは「カアン」と呼ばれました。チンギス・カンは「カン」とのみ名乗り、「カアン」と名乗るようになったのは、その息子のオゴデイの代からです。「チンギスハン」という言葉を削除するよう中国側が要求したのだとしたら、それはフランス語で「チンギス・カアン」とされていたか、フランス語で「カン」と「カアン」の区別が曖昧だったことを理由としているかもしれません。「帝国」の削除要求に関しても、チンギス・カンの時代にはまだ「カアン」と名乗っていないので「帝国」は相応しくない、という論理なのかもしれません。また、「モンゴル」の削除要求にしても、モンゴルという言葉を問題にしているというよりは、行動範囲の広いチンギス・カンをあまりにもモンゴルと結びつけている展示・解説になっていることにあるのだとしたら、単純に「中国の横暴」とは言えないでしょう。

 以上、少なからぬ日本人に「ネトウヨ」と認定されるだろう私(関連記事)が、できるだけ「中国に寄り添った視点」でこの問題を取り上げてみました。もちろん、これは私の憶測にすぎず、実際のやり取りとその意味合いが大きく違っている可能性は低くなく、その意味でまるっきり的外れになっているかもしれません。じっさいには、ナントの歴史博物館の展示に私の推測以上の問題点がある可能性も、中国側の要求があまりにも無理筋である可能性も考えられます。とくに、「モンゴル」という言葉の削除を要求したことは気になりますが、さすがに中国側も、チンギス・カンの展示でモンゴルという言葉を削除せよ、と要求する可能性は低いように思います。ただ、最近改めて述べましたが(関連記事)、中国が自国の認識およびその前提となる方法論を他国に押しつけてくる可能性は、今から念頭に置いて警戒していたほうがよいように思います。

 現在ヨーロッパや北アメリカでは中国への否定的印象が強くなっており(関連記事)、それは韓国でも同様です(日本は「高止まり」と言うべきでしょう)。おそらく、まだ「先進国」との意識を有する国民が多いだろう日本では、こうした傾向を歓迎する人は少なくないでしょう。ただ、日本の世界における相対的経済力が今よりもずっと高かった時代に、「日本異質論」が喧伝されたことを考えると、一人の日本人として、現在の「中国異質論」に安易に与することはできない、とも思います。それは、日本人も中国人も、「先進国」の大半を占めるヨーロッパや北アメリカの国々の大半の国民からは、今でも同じ「黄色人種」と認識されているだろう、と私が考えているためです。この問題に関しては、今後当ブログで廣部泉『黄禍論 百年の系譜』(講談社、2020年)を取り上げる予定です。

 また、中国において圧倒的な優位を誇る漢字文化という点でも、日中には共通点があります。その意味でも、現在「先進国」で盛んな「中国異質論」には安易に加担できない、と思いますが、日中の文化と政治と社会構造に大きな違いがあることも否定できません。さらに、やや古いデータですが、日本人の「東アジア人」意識も低いものの、中国人は日本人よりずっと低い、という調査結果もあります(関連記事)。日本人側が中国人を同じ「(東)アジア人」と考えても、中国人がどれだけ本気でそれに応えるのか、はなはだ疑問です。中国人というか漢人の大半からすると、日本人を「同胞」と考えるのは、せいぜい日本人が中国に完全に従属した時くらいかもしれません。また私自身も中国の行動・認識にはかなり懐疑的で、中国への好感度がきわめて低いことも確かなので、日本は「先進国」側ではなく中国側に加担すればよい、とはまったく考えていません。日本が中国と、経済および学術も含めた文化面で密接に交流しつつ、政治・軍事的には、激しく対立せず、従属したりとくに親密な関係を築いたりもしない、というのが個人的には理想ですが、そう上手くいくはずもなく、対中関係において今後の日本に待っているのは茨の道かもしれません。まあこうした私見を、「ネトウヨ」故の極端な偏りだ、と指弾する人も少なくなさそうですが。

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