エジプト第25王朝のミイラのmtDNA解析

 エジプト第25王朝のミイラのミトコンドリアDNA(mtDNA)結果を報告した研究(Drosou et al., 2020)が公表されました。タカブチ(Takabuti)は、紀元前660年頃エジプト第25王朝下のテーベに住んでいた女性で、そのミイラ化した遺骸と棺は、1834年に北アイルランドのベルファストに運ばれ、現在はアルスター博物館で展示されています。タカブチは、棺の碑文から、テーベのアメン神の司祭であるネスパーレ(Nespare)とその妻であるタセニレット(Taseniret)の娘と明らかになっています。

 1834年の最初の形態学的調査では、身長が155cmで、歯列がよく保存されていることから、25~30歳と推定されました。遺骸は全身が包帯で覆われていました。1987年にはX線画像、2006年にはCTスキャンにより包括的な研究が行なわれ、死亡時の年齢が25~30歳で、小児疾患の証拠がない健康体と明らかになりました。エジプトの気候から、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析は困難と考えられていましたが、次世代シーケンサーなど解析技術の革新により、タカブチのmtDNAの解析に成功しました(平均網羅率9.8倍)。

 タカブチのmtDNAハプログループ(mtHg)はH4a1に分類されました。mtHg-Hはヨーロッパで最も一般的で、現在ではアフリカとアジア西部でも見られ、エネルギー効率の高いmtHgと推測されています(関連記事)。このうちmtHg-H4a1は現代では比較的稀で、イベリア半島南部集団では2%、レバノン集団で1%、複数のカナリア諸島集団で1.5%ほどです。これまで、古代エジプトではmtHg-H4a1が確認されておらず、タカブチが最初の個体となります。mtHg-H4a1が確認されたその他の古代人としては、紀元後6~14世紀のカナリア諸島の個体群と、ドイツのザクセン=アンハルト州のクヴェードリンブルク(Quedlinburg)とオイラウ(Eulau)の鐘状ビーカー(Bell Beaker)およびウーネチチェ(Unetice)文化(紀元前2500~紀元前1575年頃)の2個体と、早期青銅器時代のブルガリアの1個体で、mtHg-H4a1の稀で散在的な分布を示します。

 古代エジプト(紀元前2000~紀元後200年頃)の97個体のmtHgは、U・M1a1・J2・T・H・Iなど多様で、移住により形成された複雑な社会だった、と示唆されます。エジプトがアフリカと中東の間の唯一の陸の玄関口に位置することを考えると、これはとくに意外ではありません。年代別に古代エジプトのmtHgを見ると、紀元前二千年紀と紀元前千年紀はUとM1a1により代表され、紀元前千年紀にJ2a・R0・T1・T2・HV・Iの拡大が見られます。タカブチはこうした多様な古代エジプトのmtHgの中で、初めて確認されたH4a1となります。

 本論文は、ヨーロッパで優勢なmtHg-H4a1が、ローマはもちろんギリシア勢力の支配(マケドニアによる紀元前332年のエジプト征服)の前に、エジプト南部で見つかったことに注目しています。現在の遺伝的証拠からは、エジプト南部は移住から高度に隔離されていた、と示唆されるものの、タカブチのmtHg-H4a1はそれに異議を唱え、古代エジプト南部の遺伝的構成をよりよく理解するための調査も可能ではないか、と本論文は指摘します。これまでも古代DNA研究によって、古代エジプトの特定のmtHgの最初の出現年代がさかのぼることはあり、タカブチはその新たな事例となりました。

 タカブチはそのmtHg-H4a1から、母系ではヨーロッパ起源である可能性を本論文は指摘します。当時の地中海のつながりから、ヨーロッパよりエジプトに到来する人がいてもとくに不思議ではないでしょう。エジプト史に詳しくないので断定できませんが、タカブチの父はアメン神の司祭なので、エジプト土着の出自である可能性が高そうです。仮にタカブチのmtHg-H4a1がヨーロッパ起源だとしても、その母系祖先がエジプトにいつどのような経緯で到来したのか、不明です。タカブチの母系祖先がかなり前にヨーロッパからエジプトに到来したとすると、タカブチの核ゲノムは当時のエジプト人とさほど変わらないでしょうが、数代前ならばヨーロッパ系の痕跡が明確に検出できそうです。タカブチの核ゲノム解析が望まれますが、mtDNA解析としては網羅率が低めなので、核ゲノムの解析は困難でしょうか。


参考文献:
Drosou K. et al.(2020): The first reported case of the rare mitochondrial haplotype H4a1 in ancient Egypt. Scientific Reports, 10, 17037.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-74114-9

大河ドラマ『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」

 織田信長は新将軍足利義昭の御座所として二条城の建築を急ぎ、近隣の寺社から調度品などを調達します。摂津晴門は、そうした寺社からの苦情を義昭に取り次ぎますが、義昭は信長に配慮し、信長が岐阜に戻った後、少しずつ寺社に返却していく、と返答します。摂津晴門は畿内の寺社と深く結びついており、寺社から金銭を受け取っていました。明智光秀(十兵衛)は伊呂波太夫に呼び出され、三好三人衆の失脚とともに京都から離れて身を隠していた近衛前久と会います。前久は摂津晴門と対立しており、光秀に、幕府を変えられるのは信長だと伝えます。伊呂波太夫は光秀に、都には天皇もいると語り、その重要性を示唆します。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、光秀が前久と密会していたことを知っており、公家に注意するよう、警告します。光秀は信長と面会し、信長が父の信秀から帝のことを教えられた、と聞かされます。光秀は東寺から、義昭より与えられた八幡宮領を横領したと訴えられます。光秀は摂津晴門に、詳細を調べるよう抗議に行きますが、摂津晴門は惚けます。二条城は完成し、信長は光秀に、朝倉の件で相談したいと伝えます。

 今回は、一筋縄ではいかない京都情勢が描かれました。摂津晴門は典型的な小物の悪役といった感じですが、寺社の側が信長から強引に徴発されたことも描かれていますから、摂津晴門の事情も描かれている、とも言えるでしょう。京都の情勢が詳しく描かれていることも本作の特徴になっています。光秀と密会した近衛前久は、意外と本作では扱いが大きく、あるいは本能寺の変で重要な役割を担うのでしょうか。京都の情勢が詳しく描かれていることと合わせて注目されます。また、光秀と藤吉郎とが競合する関係になっていくことも示唆され、光秀は藤吉郎とはあまり合わないようですが、両者の関係が今後どう描かれていくのか、注目されます。