社会的隔離による渇望反応

 社会的隔離による渇望反応に関する研究(Tomova et al., 2020)が公表されました。社会的交流は報酬刺激であり、笑顔などの前向きな社会的交流に関連した画像は、ヒトの脳内のドーパミン報酬系を活性化させます。これまでの研究で、短時間の社会的隔離を受けたマウスは、その後の社会的交流時に中脳ドーパミン系の反応が強化される、と示されています。これは、中脳ドーパミン系が隔離後の孤独感に似た状態に寄与している可能性を示唆しています。しかし、ヒトが社会的隔離後に同様の神経反応を経験するのか、明らかではありません。

 この研究では、40人の被験者が、対面やオンラインでの社会的交流から隔離されるセッションと絶食するセッション(各10時間)を行なう様子が観察され、それぞれのセッション後に、被験者に社会的交流や食物や花の画像が見せられ、脳のfMRIが実施されました。また被験者は、孤独感や食物への渇望や社会性への渇望を経験したのか、自己申告しました。その結果、被験者は、社会的交流からの隔離後には社会性への渇望が増し、絶食後には食物への渇望が増した、と自己申告しました。これに対応して、ドーパミン作動性活性と一致する報酬反応と新規性反応に関連する中脳領域は、社会的交流からの隔離後には社会的交流の画像に対して、絶食後には食物の画像に対して、強い反応が見られました。

 この研究は、社会的交流からの隔離後の社会的交流の画像と絶食後の食物の画像に対する中脳の反応は互いに類似しており、花の画像に対する中脳の反応よりも類似性が高いことを明らかにしました。これは、急性の社会的隔離は、絶食が食物への渇望を引き起こすのと類似した過程で社会性への渇望を引き起こす、と示唆しています。この研究は、短期間の社会的制約や社会的隔離が、社会性への渇望を引き起こし、社会的交流などの要求を断たれた状態に対する脳の反応に影響を及ぼす過程に関して新たな知見が得られた、と結論づけています。こうした反応も進化の過程で獲得されたと考えられ、そうした観点での研究の進展が期待されます。また、他の社会性動物ではどうなのか、という研究も注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:社会的隔離はヒトの脳内で渇望反応を引き起こす

 10時間にわたって強制的に社会的に隔離されたヒトは、社会性への渇望を経験し、社会的交流の画像に対する脳の反応が強くなる傾向のあることを示唆する論文が、今週、Nature Neuroscience に掲載される。

 社会的交流は、報酬刺激であり、笑顔などの前向きな社会的交流に関連した画像は、ヒトの脳内のドーパミン報酬系を活性化させる。これまでの研究で、短時間の社会的隔離を受けたマウスは、その後の社会的交流時に中脳ドーパミン系の反応が強化されることが示されており、このことは、中脳ドーパミン系が、隔離後の孤独感に似た状態に寄与している可能性を示唆している。しかし、ヒトが、社会的隔離後に同様の神経反応を経験するかは明らかでない。

 今回、Livia Tomovaたちの研究チームは、40人の被験者が、対面やオンラインでの社会的交流から隔離されるセッションと絶食するセッション(各10時間)を行う様子を観察し、それぞれのセッション後に、被験者に社会的交流、食物、花の画像を見せて、脳のfMRIを実施した。また、被験者には、孤独感、食物への渇望、社会性への渇望を経験したかを自己申告させた。

 この実験で、被験者は、社会的交流からの隔離後には社会性への渇望が増し、絶食後には食物への渇望が増したと自己申告した。これに対応して、ドーパミン作動性活性と一致する報酬反応と新規性反応に関連する中脳領域は、社会的交流からの隔離後には社会的交流の画像に対して、絶食後には食物の画像に対して、強い反応が見られた。Tomovaたちは、社会的交流からの隔離後の社会的交流の画像と絶食後の食物の画像に対する中脳の反応は互いに類似していて、花の画像に対する中脳の反応よりも類似性が高いことを明らかにした。これは、急性の社会的隔離は、絶食が食物への渇望を引き起こすのと類似した過程で社会性への渇望を引き起こすことを示唆している。

 Tomovaたちは、今回の研究から、短期間の社会的制約や社会的隔離が、社会性への渇望を引き起こし、社会的交流などの要求を断たれた状態に対する脳の反応に影響を及ぼす過程に関して新たな知見が得られたと結論付けている。



参考文献:
Tomova L. et al.(2019): Acute social isolation evokes midbrain craving responses similar to hunger. Nature Neuroscience, 23, 12, 1597–1605.
https://doi.org/10.1038/s41593-020-00742-z

14世紀のポーランドにおける人為的な地域生態系の変化

 14世紀のポーランドにおける人為的な地域生態系の変化に関する研究(Lamentowicz et al., 2020)が公表されました。この研究は、ポーランド西部のワグフ(Łagów)村近くの自然保護区であるポースキワグ(Pawski Ług)で、異なる泥炭層に含まれる植物と花粉の組成の違いを分析しました。ワグフ村は13世紀初頭に開拓され、1350年に聖ヨハネ騎士団が入植しました。この研究は、さまざまな泥炭層の組成を分析することにより、それぞれの層が形成された時に存在した条件を推測しました。より古い時代の深い層からブナの木やシデの木やスイレンが見つかったので、聖ヨハネ騎士団が入植する前のポースキワグは、原生林に囲まれた湿地だったと結論づけられました。また、泥炭には少量の木炭が含まれていたため、当時この地域に居住していたスラブ系の部族が定期的に原生林の小規模な野焼きをしていた、と示唆されました。

 聖ヨハネ騎士団の下で、大部分の土地は農業労働者に与えられ、農業が行なわれていました。こうした分析から、この時代の泥炭において、穀物の含有量が増加するにつれてシデの含有量が減少した、と明らかになりました。これは、森林を破壊する活動が、湿地の周囲での耕作地や牧草地の確立につながったことを示しています。この研究は、森林破壊がポースキワグの地下水位に影響を与えた可能性を指摘します。また、ヨーロッパアカマツが増えたことは、この樹木種の再定着を示しています。その結果として、土壌の酸性化が進み、ミズゴケが生育するようになり、生息地の酸性化と泥炭の形成が促進されました。これらの知見は、部族社会から封建社会へ移行したワグフの経済的変容が、地域生態系に直接的かつ著しい影響を与えたことを示している、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:14世紀の部族社会から封建社会への移行に伴う生活の変化が地域生態系に及ぼした影響

 14世紀のポーランドのワグフで起こった部族社会から封建社会への移行は、地域の生態系に著しい影響を与えたことを明らかにした論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、過去に人間社会と経済に生じた変化がどのように地域環境を変えたのかを実証している。

 今回、Mariusz Lamentowiczたちの研究チームは、ポーランド西部のワグフ村近くの自然保護区であるPawski Ługで、異なる泥炭層に含まれる植物と花粉の組成の違いを分析した。ワグフは13世紀初頭に開拓され、紀元1350年に聖ヨハネ騎士団が入植した。

 Lamentowiczたちは、さまざまな泥炭層の組成を分析することによって、それぞれの層が形成された時に存在した条件に関する結論を導き出すことができた。Lamentowiczたちは、より古い時代の深い層からブナの木、シデの木、スイレンが見つかったことを踏まえて、ヨハネ騎士団が入植する前のPawski Ługは、原生林に囲まれた湿地だったと結論付けた。また、泥炭には少量の木炭が含まれていたため、当時この地域に居住していたスラブ系の部族が定期的に原生林の小規模な野焼きをしていたことが示唆された。

 聖ヨハネ騎士団の下で、大部分の土地は農業労働者に与えられ、農業が行われていた。今回の分析から、この時代の泥炭において、穀物の含有量が増加するにつれてシデの含有量が減少したことが明らかになった。これは、森林を破壊する活動が、湿地の周囲での耕作地や牧草地の確立につながったことを示している。Lamentowiczたちは、森林破壊がPawski Ługの地下水位に影響を与えた可能性があるとする見解を示している。また、ヨーロッパアカマツが増えたことは、この樹木種の再定着を示している。その結果として、土壌の酸性化が進み、ミズゴケが生育するようになり、生息地の酸性化と泥炭の形成が促進された。

 以上の知見は、部族社会から封建社会へ移行したワグフの経済的変容が地域生態系に直接的かつ著しい影響を与えたことを示している。



参考文献:
Lamentowicz M. et al.(2020): How Joannites’ economy eradicated primeval forest and created anthroecosystems in medieval Central Europe. Scientific Reports, 10, 18775.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75692-4

ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係

 ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係についての研究(Csáky et al., 2020)が公表されました。ウラル地域は多くの移住に関わっており、それはヨーロッパの歴史も形成しました。こうした事象の考古学的痕跡は、中でもウラル南部地域の中世初期の墓地に見られます。数百基の墓を有する小さくまとまった墓地はウラル地域の典型で、豊富な考古学的発見がありました。考古学・言語学・歴史学の議論によると、現代ハンガリー人集団の民族的起源はウラル地域にさかのぼれます。

 言語学的証拠に基づくと、ウラル語族のウゴル諸語に属するハンガリー語は、ウラル山脈の東側で紀元前1000~紀元前500年頃に現れました。文字記録と言語学的情報と考古学的議論によると、紀元後6世紀(以下、紀元後の場合は省略します)の後、ハンガリー人の先駆者の一部が、その故地からウラル地域西部(シスウラル地域)へと移動しました。9世紀の第1三半期頃、シスウラル地域集団の一部がヴォルガ川を渡り、ドニエプル・ドニエストル地域のハザール・カガン(Khazarian Khaganate)の近くに定住しました。初期ハンガリー人は、895年に起きたカルパチア盆地の征服までヨーロッパ東部に居住し、いわゆるスボッツィ(Subbotsy)考古学的層を形成します。10世紀のカルパチア盆地の物質的特徴は、征服後の急速な変化で、ヨーロッパ東部地域との維持された文化的つながりには、多くの間違いない考古学的証拠があります。

 ウラル地域の先史時代から中世の集団の遺伝的歴史は、これまでほとんど調べられてきませんでした。他方、中世カルパチア盆地の集団は、父系・母系での単系統遺伝標識の観点から集中的に研究されてきました。最近の研究では、ハンガリーの早期征服期の墓地から102人のミトコンドリアゲノムが報告されました。その研究では、草原地帯遊牧民(アジア中央部のスキタイ人)とヨーロッパ東部のスルブナヤ(Srubnaya)文化集団の子孫との混合集団が、ハンガリーの征服者の遺伝的構成の基礎だったかもしれない、と示唆されています。また、アジアのフン人(フン族)とハンガリーの征服者の遺伝的つながりも推測されています。ただ、調査された中世の標本セットは征服者集団全体を表しておらず、標本の76%はハンガリー北東部の特別な遺跡複合であるカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)に由来しています。これは、ハンガリー征服期の最重要遺跡の一つで、東方の特徴についても多くの発見がありました。結論は大規模ですが、最も強調されたスルブナヤ文化集団とのつながりは曖昧です。それは、ハンガリー人の考古学的遺産の最初の痕跡が現れる2000年以上前に存在していたからです。さらに、匈奴(フン人)の遺伝的データセットのようなさらに言及された関係はユーラシアではわずかで、フン人の遺伝的遺産はまだ特徴づけられていません。

 最近の別の二つの研究は、ハンガリーの征服者のY染色体ハプログループ(YHg)の変異度を調査し、征服者の支配層集団の父系は、ヨーロッパ人やフィン・ペルム諸語話者やコーカサス人やシベリア人(もしくはユーラシア東部人)の割合がかなり高く、異質だと報告しています。これらの研究は、ハンガリーの征服者は離れた3集団に起源がある、と主張します。それは、内陸アジア(バイカル湖地域~アルタイ山脈)、シベリア西部~ウラル南部(フィン・ウゴル語派話者)、黒海~コーカサス北部(コーカサス北部テュルク人、アラン人、ヨーロッパ東部人)です。これらの研究では、フィン・ウゴル語派話者でも頻繁に存在する、YHg-N1a1a1a1a2(Z1936)の存在が指摘されています。YHg-N1a1a1a1a2(旧N3a4)は、現代ハンガリー人でも4%ほど存在します。また別の研究では、YHg-N1a1a1a1a2の詳細な系統が復元されており、特有の下位系統が特定の民族集団に共有されている、と示されています(関連記事)。たとえば、N1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)はタタール人とバシキール人(Bashkir)とハンガリー人に共有されており、ヴォルガ・ウラル地域の現代人とハンガリーの現代人とを結びつけます。

 ウラル語族話者現代人集団の以前のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究では、ユーラシア東部および西部のmtDNA系統の分布は、語族の障壁というよりはむしろ地理的距離により決定される、と示唆されました。たとえば、ヴォルガ・ウラル地域のフィン・ウゴル語派集団は、言語学的に関連するバルト・フィン民族集団よりも、テュルク語の近隣集団の方と類似しているようです。ウラル語族15集団に関する最近の研究では、同様に近隣集団との類似性が報告されていますが、シベリア人起源の可能性がある遺伝的要素の共有も指摘されています。現代ハンガリー人の一部のミトコンドリア系統はシベリア人起源かもしれませんが、ハンガリー人の遺伝子プールは他のウラル語族話者とは異なります。

 本論文のおもな目標は、考古遺伝学的手法により、ウラル地域の中世初期集団に関する現在の一連の考古学的知識を拡大することです。ウラル地域からの36人の標本の収集において、最重要の意図は、文化的かつ年代的に(直接的もしくは間接的)にハンガリー人の祖先とつながる、専門的に発掘され適切に報告された、ウラル南部地域の墓地からのみ被葬者を集めることです。トランスウラル地域から標本抽出されたウェルギ(Uyelgi)墓地は、10世紀のカルパチア盆地の考古学的特徴と最も類似していました。後期クシュナレンコヴォ(Kushnarenkovo)文化の墓地は、8世紀末から11世紀にかけて使用されました。

 考古学と歴史学の理論はやや多様なので、ウラル山脈西側(シスウラル地域)のカマ川中流に位置する中世初期の考古学的文化の広範囲を包含することが目的とされました。これまでの研究では、8~9世紀のネヴォリノ(Nevolino)文化の終焉がハンガリー人の祖先の西方への移住と関連づけられています。したがって標本抽出は、3~4世紀のブロディ(Brody)、5~6世紀のバーティム(Bartym)、7~8世紀のスホイログ(Sukhoy Log)という、ネヴォリノ文化の3段階全てで行なわれました。

 さらに、南方の近隣のネヴォリノ文化との密接な文化的つながりのあるロモヴァトヴォ(Lomovatovo)文化の、南部の異形を表す9~10世紀のバヤノヴォ(Bayanovo)墓地が調査されました。バヤノヴォの豊富に供えられた墓の標本抽出は、骨の保存状態が悪いため、制限されました。さらに、調査されたウラルの個体群の一部を伴う、mtDNAの同一の超可変領域1(HVRI)に基づいて以前の研究で選択された、カルパチア盆地のミトコンドリアゲノムに関して、10~12世紀の古代ハンガリー人から9標本が再分析されました。

 本論文のおもな目的は、3~11世紀のウラル南部地域の集団の父系の遺伝的構成を特徴づけ、ユーラシアの利用可能な古代人および現代人の遺伝的データセットと結果を比較することです。また、ウラル集団とカルパチア盆地の征服期集団との間の、潜在的な遺伝的関係の報告も目的とされました。以下、本論文で分析対象とされた個体が発見された遺跡の場所と文化区分とその年代を示した図1です。
画像


●DNA解析

 標本は29人の男性と16人の女性から構成されます。mtDNA全体と、3122ヶ所の核DNAの一塩基多型標的濃縮が実行されました。後者では、常染色体およびY染色体の一塩基多型が得られ、ウラル地域の5ヶ所の異なる墓地と現代のハンガリーの6ヶ所の埋葬地に由来する、45人の性別が決定されました。さらに、ウラル地域の20人の男性のY染色体縦列型反復配列(Y-STR)が調査されました。放射性炭素年代と安定同位体データも得られました。

 45人の高網羅率(8.71~154.03倍で平均71.16倍)のミトコンドリアゲノムが得られました。この新たなデータセットは、mtDNAハプログループ(mtHg)では9マクロハプログループ(A・ C・D・H・T・U・N・R・Z)から構成されます。ユーラシア西部起源と推定されるmtHgはU(U2e1・U3a1・U4a1d・U4b1a1a1・U4d2・U5a1a1・U5b2a1a1、計12人)、H(H1b2・H3b・H40b、計9人)、N(N1a1a1a1a、計5人)、T(T1a1・T1a2・T2b4h、計5人)により表されますが、系統分析からは、そのうち一部が東方起源と示されます。ユーラシア東部起源と推定されるmtHgは、A(A+152+16362・A12a、計4人)、C(C4a1a6・C4a2a1、計6人)、D(D4j・D4j2、計2人)、R11b1bとZ1a1aが1人ずつです。

 ハンガリーの征服者はウラル地域の特定の古代人とのmtDNAのHVRIの一致に基づいて選択されましたが、ミトコンドリアゲノム水準では同一と証明されていません。しかし、関連標本とは系統的に近いままです。いくつかのミトコンドリア系統関係は、トランスウラル地域とシスウラル地域をつなげます。たとえば、ウェルギとスホイログの標本はmtHg-A+152+16362の主要な系統に集まり、さらにウェルギとブロディの標本(mtHg-D4j2)、およびウェルギとバーティムの標本(mtHg-U4d2)は、同様に同じ主要な系統に位置します。

 ミトコンドリア系統とは対照的に、STR および・もしくは一塩基多型データに基づくY染色体の遺伝子プールは、本論文のデータセットでは均一な構成を示します。YHgの内訳は、N1a1(M46)が83.3%、G2a2b2a1a1a1b(L1266)が5.5%、J2が5.5%、R1bが5.5%です。ウェルギ墓地の19人の男性のうち13人はさまざまなDNA保存状態の下位区分のYHg-Nを有していますが、シスウラル地域では、YHg-N1a1の3系統が検出されました。スホイログとバーティムのシスウラル地域標本は全体的に保存状態が悪く、さらなるY染色体に基づく分析はできませんでした。


●母系とゲノムデータの比較集団分析

 ハンガリーの征服者は、mtHgに基づく主成分分析ではシスウラル地域集団に最も近く、アジア中央部およびヨーロッパ東部のスキタイ集団ではウェルギ集団の比較的近くに位置します。それは、これらの古代人集団がユーラシア東西両集団の混合だからです。シベリア西部のマンシ(Mansi)およびハンティ(Khanty)集団のような、アジア中央部および南部とフィン・ウゴル語派現代人集団の一部は、調査されたシスウラル地域およびウラル地域の集団と密接なつながりを示します。ミトコンドリアゲノム分析では、古代人13集団のシスウラル地域の有意な違いは示唆されず、その中で、ハンガリーの征服者は最小の遺伝的距離を示します(FST=0.00224)。ハンガリーの征服者と調査されたウラル地域の2集団との遺伝的距離は、その地理的距離と相関しません。ウェルギ集団とハンガリーの征服者との間の遺伝的距離は、ウェルギと地理的により近いシスウラル地域の集団間よりも小さくなっています。

 古代人28集団のMDS(多次元尺度構成法)プロットによると、シスウラル地域集団はとりわけ中世ハンガリーの征服者集団との類似性を示し、ヨーロッパ集団とアジア集団との間に位置します。ウェルギ地域集団は全ての古代人集団から比較的離れたプロットのアジア部分に位置し、(アジア中央部の後期鉄器時代集団を除く)古代人集団からの有意でより大きな遺伝的距離と、アジアの比較ミトコンドリアゲノムデータセットの不足に起因する可能性が高そうです。シスウラル地域集団とハンガリーの征服者との遺伝的関係は明らかですが、直接的なつながりというよりは、以前の居住地域の地理的近接性を示唆します。以前の研究では、ハンガリーの征服者のミトコンドリアゲノムの多様性は、本質的にスルブナヤ文化関連遊牧民集団とアジアの遊牧民集団との混合の結果として報告されています。その分析と解釈は、ウラル地域の古代人標本の欠如に制限されていましたが、本論文で示された新たなデータは、この以前の見解を洗練します。さらに、以前に研究されたハンガリーの征服者集団が、移民だけではなく、カルパチア盆地の在来混合系統も含む混合起源の遺伝子プールであることは、注目に値します。

 シスウラル地域集団は、アジア中央部高地の現代人4集団、近東およびコーカサス地域のさらなる7集団、ヨーロッパの6集団からの有意ではない遺伝的距離を明らかにし、この集団の混合的な特徴が示唆されます。興味深いことに、ウェルギ地域集団のミトコンドリアは遺伝的距離において、広範な系統発生的つながりにも関わらず、ハンガリーの征服者を含むほぼ全ての先史時代および現代の集団で有意な違いを示し、これは集団内の関連系統の多さと、ユーラシア東西のmtHgの混合的特徴により説明できます。

 ウェルギ地域の5標本からの10928個の核ゲノムの一塩基多型と、ショットガン配列データで524301個の一塩基多型で主成分分析が行なわれました。主成分分析は、現代人集団の地理的位置を反映しています。PC1軸は、ユーラシア東西を分離し、アジア中央部人はその中間に位置します。PC2軸はヨーロッパ人をアジア南西部人と、ユーラシア東部人を南北の勾配に分離します。ウェルギ地域の5標本は、核ゲノムの主成分分析ではヨーロッパ人集団とアジア人集団との間で中央に集団化します。

 ウェルギ地域の5標本はウラル語族の傾向に沿っており、現代シベリア中央部のマンシ人(Mansis)およびセリクプ人(Selkups)だけではなく、草原森林地帯の北部集団のバシキール人(Bashkirs)やタタール人とも近くなっています。PC3軸では、シベリアのタタール人はウラル地域個体群クラスタと最も近い集団です。他の古代人集団が主成分分析で投影されると、ウェルギ地域の5標本はアルタイ地域の青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)集団や、カザフスタン中央部草原地帯の青銅器時代集団とクラスタ化し、ロシアの中期青銅器時代ボリショイ・オレーニ・オストロフ(Bolshoy Oleni Ostrov)集団(関連記事)の近くに位置します。言語学的勾配(関連記事)に基づくと、ウェルギ集団はユーラシア中央部草原地帯のウラル語族話者個体群とテュルク語族集団との間に位置します。

 主成分分析は集団層序化を明らかにしない可能性があるので、教師なしADMIXTURE(K=16)が実行されました。平均して22450個の一塩基多型を有するウラル地域標本は、現代のマンシ人、イルツーク・バラビンスク(Irtysh-Barabinsk)のタタール人、ユーラシア中央部草原地帯のさまざまな古代人ゲノムと、最も類似した系統クラスタ割合を示します。これらの集団間の関係と、集団間の何千年もの潜在的な集団遺伝的事象を解明するためには、より古い参照標本と、より高網羅率の配列が必要です。


●ウェルギ墓地の遺伝的継続性

 トランスウラル地域のウェルギ墓地は、考古学的記録によると、最古の9世紀、9~10世紀、10~11世紀の3期間に区分できます。母系・父系での単系統遺伝的標識は、これらの期間の遺伝的継続性を示し、母系ではやや内婚制集団と示唆されますが、これは、墓地の多数の埋葬が攪乱されているため、考古学的調査結果では観察できませんでした。mtHgではN1a1a1a1aとC4a1a6とH40bが、3期間それぞれおよび3期間相互で同一系統もしくは単系統であることを示し、この傾向は父系のハプロタイプおよびネットワーク分析により一層顕著です。

 YHg-N1a1は3期間全てで存在しますが、STR特性にはほとんど違いがありません。最古および中間の層位には、墳墓(クルガン)32の2個体の同一のSTR を含むYHg-N1a1のみが含まれます。墳墓28・29・30の個体群間では、3個体の同一のSTRが検出されます。おそらく、さらに同一のYHgがこの墓地に存在したかもしれませんが、保存状態が悪いため、7人の男性の全STR特性を復元できません。これらの結果に基づくと、ウェルギ墓地は父系共同体に使用された、と示唆されます。

 母系・父系での単系統遺伝的標識は、墓の集団化同様に、調査対象個体群間の血縁関係を、少なくともある程度は示唆します。しかし、親族分析をできるだけの高品質なデータはまだ得られていません。


●ウラル南部地域とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりの可能性

 トランスウラル地域のカルパチア盆地および10世紀のハンガリーの征服者との遺伝的つながりは、ウェルギ3とカロス2(Karos II)墓地の3人のハンガリーの征服者が同一のmtHg-U4d2を有するという、個体群の密接な母系関係により推測されます。さらに、10世紀前半のハルタ(Harta)墓地の30~40歳程度の女性であるコンク3(Hconq3)はmtHg-A12aで、母系ではウェルギ7の祖先です。

 ウェルギ墓地は、植物の装飾品が施された銀の台が特徴であるスロスツキ(Srostki)文化の考古学的特徴を示し、シベリアのミヌシンスク盆地とアルタイ地域のバラバ草原地帯とカザフスタン北部を経て、トランスウラル地域へと広がりました。さらに、これらの墳墓での考古学的発見は10世紀以前ではなく、つまりカルパチア盆地のハンガリー人の征服の後でした。mtHg-U4d2に現れるカロス墓地からのハンガリーの征服者との同一のミトコンドリアゲノム配列は、密接な生物学的つながり、もしくはウェルギ集団とハンガリーの征服者の共通起源集団を示します。mtHg-D4jは、一つの興味深い現象を示します。ウェルギ21は現代ハンガリー人1個体とクラスタ化します。この墳墓11で発見されたウェルギ21個体の副葬品は、同様にカルパチア盆地のハンガリーの征服者の典型的な副葬品と類似しています。

 ウェルギ10のミトコンドリアゲノムと、バラントニュラク・エルド・デュロ(Balatonújlak-Erdő-dűlő)のハンガリーの征服者の2個体(コンク1およびコンク9)、およびマコ・イガシ・ジャランド(Makó-Igási járandó)墓地のコンク9の同一系統は、mtHg-U5a1a1でクラスタ化します。ウェルギ10は考古学的観点からは混合的特徴を示します。その発見物はスロスツキ文化の影響と同様に9世紀とつながっているかもしれません。バラントニュラク・エルド・デュロの成人女性標本は銀のヘアピンとともに埋葬されており、考古学的発見に基づくと、年代は10世紀第2三半期の可能性があります。埋葬の一つには、東方起源の側壁の窪みを有する墓がありました。そうした発見物のないマコ・イガシ・ジャランドの墓は、11世紀第2三半期と推定されています。つまり、それはアルパディアン(Árpádian)期で、ハンガリーの征服者と在来集団はおそらくすでに混合していました。興味深いことに、25~30歳の男性は、この墓地に埋葬されたほとんどの男性のように、いくつかのアジア人の頭蓋の特徴を示します。

 ウェルギ墓地とハンガリーの征服者のつながりは、mtHg-N1a1a1a1aでも見られ、これは古代ハンガリー人で優勢でした。本論文で取り上げられた、ケネズロ・ファゼカスズグ(Kenézlő-Fazekaszug)とオロシャザ・ゲルビクシュタンヤ(Orosháza-Görbicstanya)とカロス・エパージェッスゼーグ(Karos-Eperjesszög)墓地のハンガリーの征服者の7個体は、母系では1分枝でクラスタ化しますが、最初と最後の層のウェルギ墓地標本は、その隣接する分枝に位置します。これらの結果は。ウェルギ墓地の考古学的年代と一致して、これら2集団とその共通祖先との間の間接的なつながりを明確に示します。

 シスウラル地域集団とハンガリーの征服者の母系での遺伝的つながりは、とくにmtHg-T2b4hで明らかです。カロス遺跡のバーティム2とベイ3とハンガリーの征服者はmtHg-T2b4hの同じ分枝に位置し、さらに、バーティムとカロスの個体群は、バヤノヴォの個体のmtHgの祖先である同じ系統を共有します。カロス標本の系統はアジア起源の可能性があると判断されました。しかし、それにも関わらず、この推測は、じっさいの系統的つながりだけではなく、中世の前からさえこれらの系統が繰り返し西方に存在することもあり、本論文のデータにより再検討されました。ウラル地域とハンガリーの征服者との間のミトコンドリア6系統の系統発生的つながりは、これらの集団間のやや密接な母系の遺伝的つながりを示し、考古学的発見物でも裏づけられます。


●ウラル南部地域の古代の父系

 ウェルギ地域の男性の大半はYHg-Nで、STRと一塩基多型とネットワーク分析を組み合わせると、同じ下位区分であるN1a1(M46)に分類されます。YHg-N1a1はシベリア東部からスカンジナビア半島まで広範に分布しています。その下位区分の1つがN1a1a1a1a2(Z1936)で、ウラル語族話者集団では顕著に見られ、おそらくウラル地域に起源があり、おもにウラル山脈の西側からスカンジナビア半島(フィンランド)に分布しています。ウェルギ遺跡の7標本は、ほぼYHg-N1a1a1a1a2の下位区分であるN1a1a1a1a2a1c2(Y24365/B545)に分類され、これはほぼ現在のタタールスタン共和国とバシコルトスタン共和国とハンガリーにのみ見られます。

 17ヶ所のSTR遺伝子座を有するウェルギ遺跡の7標本を含む、YHg-N1a1に分類される238人と、12ヶ所のSTR遺伝子座を有するYHg-N1a1に分類される335人を用いて、中央結合(MJ)ネットワーク分析が行なわれました。17ヶ所のSTR遺伝子座のMJに基づくと、特定の標本は、バシキール人やハンティ人(Khanty)やハンガリー人やヴォルガ・ウラル地域およびロシア中央部のタタール人と、同一もしくは一段階隣の特性を示します。12ヶ所のSTRデータに基づくMJは、ボドログスゼルダヘリ・バルヴァニヘギー(Bodrogszerdahely-Bálványhegy)およびカロス・エパージェッスゼーグの2人のハンガリーの征服者との、ウェルギの一段階隣のつながりを示します。Y染色体のSTRハプロタイプ参照データベース(YHRD)は、フィンランド人と、ウラル地域もしくはペンザ州(Penza)やアルハンゲリスク州(Arkhangelsk)といったヨーロッパロシア地域の標本間でのさらなる類似性もしくは同一性を示し、とくに、ハンガリー語も属するウラル語族と類似した地域、もしくは初期ハンガリー人の想定される移住経路に沿った地域で顕著です。

 カルパチア盆地の7世紀のアヴァールの支配層男性が、ウェルギ集団と類似のYHg-N1a1頻度にも関わらず、離れた下位区分であるN1a1a1a1a3a(F4205)を有していることは注目され、N1a1a1a1a3aは現代ではバイカル湖地域周辺のモンゴル語族話者集団で顕著に見られます。さらに、アヴァールの支配層男性は、本論文で取り上げられた集団とはかなり異なる集団史を有していたので、相互に混同されてはいけません。

 ウェルギ11のYHgはJ2です。YHg-Jは現在広く分布しており、おそらくは近東起源です。興味深いことに、サレツドヴァリ・ヒゾフェルド(Sárrétudvari-Hízóföld)のハンガリーの征服者個体(SH/81)はYHg-J2a1aですが、ウェルギ11はその下位区分には分類できないので、さらなる推測はできません。

 ウェルギ4のYHgはG2a2b2a1a1a1b(L1266)で、その下位系統はヨーロッパ外に存在すると確認されています。ハンガリーの征服者の間では、YHg-G2a2b(L30)の存在がカロス2墓地の個体(K2/33)で証明されており、さらなる分類もしくはSTRデータはありませんが、YHg-G2a2b2a1a1a1bは確認されており、その標本は本論文のSTR分析にも含めることができます。この場合、14のSTR標識を用いることにより、データベースの見解に起因して、MJネットワークはハンガリーの征服者とウェルギ個体群両方のコーカサス人との類似性を示しますが、同一性も単系統性もこれらの間では観察できません。


●まとめ

 ウラル地域は、考古学・言語学・歴史学に基づくと、古代ハンガリー人の民族形成において重要な役割を果たしましたが、これらの研究分野の結果は、年代および文化的側面の違いを示します。本論文で示されたウラル南部のY染色体と常染色体DNAデータは、集団遺伝学的観点からもこの地域の関連性を確証します。

 系統発生的および系統地理学的観点で調べられたウラル地域の36標本の全体的な母系構成は、東西の混合の特徴を示唆しますが、父系はヴォルガ・ウラル地域に典型的なYHgとより均質です。トランスウラル地域のウェルギ集団の各mtHgを正確に東西系統に分類することは不可能ですが、包括的な代表が存在します。ヨーロッパ起源のmtHg-N1a1a1a1a・H40bは、内部の多様化を伴う母系の通時的な成功を示し、ややユーラシア西部の特徴の集団が基底にある、と示唆します。他方、強い東方の系統地理を有するmtHgでは、同一(C4a1a6)もしくは単一(A・A12a・C4a2a1)のハプロタイプは、ウェルギ地域の第3三半期において顕著で、この集団への比較的最近の混合が示唆されます。しかし、遺伝的および考古学的変化の同時発生は、系統構成の均質性、核ゲノムの主成分分析の位置、父系の均一性、全期間での東部構成(mtHg-C4a1a6)の存在と矛盾します。

 スロスツキ文化関連集団の遺伝的寄与をこの水準では除外できないという事実にも関わらず、東方構成の大半はウェルギ墓地の使用前に混合していた可能性が高そうです。ウェルギ集団は、父系・母系での単系統の遺伝的構成から、ハンガリーの征服者の潜在的な遺伝的起源と、年代的および・あるいは地理的に関連した集団として示されます。さらに、ウェルギ集団の予備的な常染色体分析結果からは、ウェルギ集団がアレル(対立遺伝子)頻度構成を、言語学的もしくは歴史的にハンガリー人と関連する現代のウラルおよびシベリア西部集団と共有している、と示されます。これは、将来の研究の立脚点を提供します。

 ハンガリーの征服者とのウェルギ集団の母系でのつながりは、間接的な(単系統的ではあるものの連続的ではない)関係と直接的な(同一もしくは一段階隣の)関係に区分できます。興味深いことに、間接的なつながりは遺伝的に西方の特徴に基づく集団に区分できますが、直接的なつながりは、ほぼ混合した東方構成のみです。この現象の考えられる説明は、ハンガリーの征服者とウェルギ集団が、過去に東方の混合前に分離した共通祖先を有しており、ウェルギ集団はその後で両集団に遺伝的構成を提供した、というものです。

 しかし、まだ報告されていない東方の構成の正確な起源もしくは同定と、核ゲノムの混合割合と、緩やかな系統発生的つながりは、アジア中央部を指摘します。シスウラル地域の系統発生的構成は、それらの緊密さもしくは連続性に疑問を呈しますが、データ不足のため、この集団の詳細な分析はできません。ハンガリーの征服者の系統に基づくつながりは散発的ですが、地域的な類似性が観察され、それはMDSと主成分分析でより顕著です。

 ハンガリーの征服者の遺伝的構成のみに基づく以前の研究は、非ヨーロッパ系統をさまざまな東方系統に結びつける傾向がありますが、とくに、後期鉄器時代と前期中世のシスウラル地域集団における稀なユーラシア東部のハプロタイプの存在は、将来これらの結論を再形成するかもしれません。将来の研究では、本論文で提示されたデータセットを、高い網羅率のゲノム分析と、さらに古代ハンガリー人とその近隣共同体のヨーロッパ東部の墓地からの標本を含めることで、拡張する予定です。


参考文献:
Csáky V. et al.(2020): Early medieval genetic data from Ural region evaluated in the light of archaeological evidence of ancient Hungarians. Scientific Reports, 10, 19137.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75910-z

大相撲十一月場所千秋楽

 これまで当ブログでは九州場所と表記してきましたが、今場所は東京の両国国技館開催となったので、十一月場所としました。今場所は初日から白鵬関と鶴竜関の両横綱が休場となり、混戦が予想されました。さらに、大関の朝乃山関が負傷により3日目から、先場所優勝して大関に昇進した正代関が5日目から休場となり、横綱・大関陣5人のうち4人が5日目までに休場となりました。とくに、注目されていた新大関の正代関の休場には、相撲協会も頭を抱えたことでしょう。

 今場所も大混戦が予想されましたが、優勝争いは、出場力士では番付最上位となる貴景勝関が引っ張り、千秋楽の時点では1敗の貴景勝関と2敗の照ノ富士関に絞られ、序盤に懸念したほどの混戦にはなりませんでした。千秋楽結びの一番で貴景勝関と照ノ富士関が対戦し、照ノ富士関が貴景勝関の突き押しに耐え、組み止めて寄り倒して勝ち、優勝決定戦となりました。優勝決定戦では、貴景勝関が一方的に照ノ富士関を攻め立てて押し出しで圧勝し、13勝2敗で2回目の優勝を果たしました。貴景勝関は来場所横綱昇進に挑むことになりそうですが、突き押し一辺倒で、組むと十両以下の実力のように思われるので、横綱昇進は難しそうですし、横綱に昇進しても安定した強さを発揮することはできないでしょう。

 照ノ富士関は、もちろん膝の状態が万全ではなく、全盛期の力をまだ取り戻せてないと言えるでしょうが、両横綱が衰え、大関陣は盤石ではなく、他の大関候補も伸び悩むなか、結びの一番を見ると一時期よりも下半身の粘りがずっと強くなりましたから、大関復帰にできる可能性が高くなってきたように思います。照ノ富士関は怪我をして長期休場に追い込まれた反省からか、以前よりも強引な相撲はずっと少なくなりましたし、またよく考えた上手い相撲をとるようになりました。両横綱の衰えは明らかですから、膝の状態がさらに良くなれば、という条件付きではありますが、横綱昇進もあるかもしれません。

 今場所は、大関3人の明暗がはっきりと分かれましたが、とくに朝乃山関に関しては、長期の出稽古禁止による実力の近い稽古相手の不在が悪影響をもたらしたように思われます。一方、貴景勝関は、今場所新関脇で8勝7敗と勝ち越した隆の勝関と同部屋で、稽古相手に恵まれていることが、好調につながっているように思います。貴景勝関よりも朝乃山関の方が次の横綱に相応しい、と考えている相撲愛好者(相撲協会も?)は多そうですが、朝乃山関にとっては何とも不運な新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行です。朝乃山関も正代関も来場所は角番となりますが、2人とも普通以上の状態で出場できれば大関陥落はないでしょう。

ネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型関連遺伝子

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のABO式血液型関連遺伝子に関する研究(Villanea et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。本論文は、今年(2020年)4月のアメリカ自然人類学会総会における報告(関連記事)が元になっています。

 ABOは人類において発見された最初の血液型で、その識別はABO式血液型遺伝子によりコードされています。ABO式血液型は化学的検定により識別できるので、ABO式血液型遺伝子の変異は、DNA配列技術の出現前には遺伝的情報源として重要でした。たとえば、1960年代の研究では、血清学に基づくABO式血液型の決定を用いて、ABO式血液型遺伝子のアレル(対立遺伝子)頻度が正確に人類の移住パターンを再現するのか、決定されました。

 DNA配列技術の進歩により、集団固有の稀な多様体を含む、ABO式血液型遺伝子座の変異の解像度が向上しました。稀な多様体は、集団移住史を理解する手法として役立ちます。たとえば、アメリカ大陸先住民集団において系統の情報標識であるO型多様体(O1V542)や、特定の人類集団に固有の多数の稀な多様体です。さらに、マラリアやノロウイルスや天然痘などの病原体との歴史的な相互作用に起因する自然選択についても、ABO式血液型遺伝子の稀な多様体は有益だと推測されており、稀なABO式血液型遺伝子の変異の重要性が強調されます。

 現代人では、ABO式血液型遺伝子の変異は、ハプロタイプ多様性の予想よりも高い水準の維持により特徴づけられ、これは平衡選択の古典的痕跡です。ABO式血液型遺伝子ハプロタイプは共通の機能タイプ(AとBとO)を有しており、それは平衡選択の効果により集団で保持されます。より細かい規模では、稀な変異は突然変異を通じて蓄積し、同一の機能タイプのアレルに対して、分岐するハプロタイプを生成します。ネアンデルタール人とデニソワ人(関連記事)という非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)にとって、高網羅率ゲノムの最近の配列決定は、古代型ホモ属種におけるABO式血液型遺伝子の多様性がどのようなものだったのか、研究する可能性を開きます。

 現生人類(Homo sapiens)はアフリカから拡散すると、さまざまな古代型ホモ属集団と遭遇して交雑した、と知られています(関連記事)。古代型ホモ属と現代人のゲノムの直接的比較から、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との間の複雑な混合が明らかになってきました(関連記事)。現代人で見られる遺伝子の大半では、負の選択が古代型ホモ属に由来するタイプを除去してきました(関連記事)。しかし、古代型ホモ属に由来する遺伝子には有益なタイプもあり、正の選択を通じて現生人類では高頻度に上昇しました(関連記事)。その場合、古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子の多様体が現生人類に継承され、現生人類集団において選択の標的になった可能性があります。

 本論文は、1000ゲノム計画で収集された現代人のゲノムと、古代型ホモ属の高品質なゲノムデータを組み合わせて(28集団2500人)、ABO式血液型遺伝子の集団特有の稀な変異を調べます。対象となる古代型ホモ属個体は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)とチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)で発見されたネアンデルタール人個体、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)で発見されたネアンデルタール人個体、デニソワ洞窟で発見されたデニソワ人個体です。

 ABO式血液型の古代型ホモ属のアレルに関しては、現代人のABO式血液型のアレルと類似した機能を有する一般的な機能タイプと、稀なハプロタイプ多様体を生じさせる変異が見つかる、と予想されました。デニソワ人個体は、アフリカ系と非アフリカ系両方の現代人で見つかるABO式血液型遺伝子のハプロタイプと類似した多様体を示し、おそらくはデニソワ人系統と現生人類系統の分岐前から保持されている、と明らかになりました。デニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟とヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体はすべて、固有のネアンデルタール人ABO式血液型遺伝子のハプロタイプを示します。さらに、これらのネアンデルタール人の多様体は、現生人類とネアンデルタール人との混合の結果として、選択された非アフリカ系現代人集団に見られます。遺伝子移入されたネアンデルタール人のABO式血液型遺伝子のハプロタイプで観察された高い配列の相違は、平衡選択の結果と一致している、と明らかになりました。


●1000ゲノム計画におけるABO式血液型の多様性

 現代人では、ABO式血液型遺伝子のエクソン6および7で、共通のアレル多様性が発生し、4通りの共通の一塩基多型により機能的なアレルタイプが決定されます。エクソン6の機能喪失型(LOS)変異は、O型ハプロタイプを表します。このLOS変異は一般的に欠失(本論文では「欠失O型アレル」と表記されます)ですが、挿入や、未成熟終止コドンを生成する塩基対変異(本論文では「非欠失O型アレル」と表記されます)の結果の場合もあります。以下、古代型ホモ属4個体における血液型のアレルのタイプを示した本論文の表1です。
画像

 稀なハプロタイプ水準における古代型ホモ属のABO式血液型機能変異を理解するため、1000ゲノム計画の2504個体のABO式血液型遺伝子の変異を二倍体で要約し(合計5008本の染色体のコード配列)、69ヶ所の可変領域を特定し、合計で108個のハプロタイプが識別されました。A型では20タイプ(945本の染色体)、B方ではタイプ(720本の染色体)、シスAB型では1タイプ(1本の染色体)、欠失型のO型では72タイプ(3280本の染色体)、非欠失型のO型では6タイプ(17本の染色体)です。


●古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子のハプロタイプ構造

 表1に示されるように、古代型ホモ属4個体のうちデニソワ人は欠失O型ハプロタイプを示しますが、1000ゲノム計画の個体で完全に一致するものはありません。デニソワ洞窟のネアンデルタール人は、現代人で稀な非欠失O型ハプロタイプのホモ接合型を示します。チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人も同じく非欠失O型ハプロタイプのホモ接合型を示しますが、3ヶ所(136131539でA→G、136133506で A→G、136137547で A→C)でデニソワ洞窟のネアンデルタール人とは異なります。

 ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人は、現代人では一般的な欠失O型アレルと、1000ゲノム計画の1個体(HG02537)で見られる現代人では稀なシスAB型アレルと類似した機能的アレルを、ヘテロ接合型で有します。シスAB型アレルはきわめて稀な組換えアレルで、A型およびB型抗原の混合をコードします。ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人における欠失O型アレルは以前の研究と一致しており、ヨーロッパの他のネアンデルタール人2個体でもこの欠失が見つかっています。


●現代人のABO式血液型における古代型ホモ属からの遺伝子移入の証拠

 古代型ホモ属のABO式血液型遺伝子ハプロタイプが1000ゲノム計画の個体群で見られる現代型と関連しているのかどうか調べるため、ABO式血液型遺伝子ハプロタイプ間の配列が推定され、次に現代人集団により集団化されたこれらの距離が視覚化されました。混合集団はこの分析から除外されました。その結果、全ての古代型ホモ属のハプロタイプは、現代人とほぼ同等と示されました。デニソワ人の場合、その特有のO型アレルは、現代人集団に共通する他のO型アレル、とくにアフリカの個体群で見られるものに近く、デニソワ人のO型アレルはデニソワ人と現生人類との間で共有される祖先的なものであることを示唆します。これは、平衡選択が同じABO式血液型の機能的アレルにおいて何百万年も霊長類種で維持されてきたことを考えると、あり得そうなことです。

 逆にネアンデルタール人の場合、デニソワ洞窟個体やチャギルスカヤ洞窟個体のようなO型アレルと、ヴィンディヤ洞窟個体のようなO型アレルは両方、非アフリカ系現代人集団におけるほぼ同じハプロタイプに相当します。これらのアレルの地理的パターンは、遺伝子移入の説得力がある事例で、ネアンデルタール人と、ヨーロッパやアジア南東部やアジア東部の現代人の祖先集団との間の交雑の結果と推測されます。

 ヨーロッパとアジア南東部とアジア東部で見つかったネアンデルタール人的なABO式血液型アレルが遺伝子移入の結果なのかどうか確認するため、以前の研究(関連記事)で報告された、遺伝子移入されたゲノム断片の一覧が検索されました。その結果、ABO式血液型遺伝子のゲノム座標と重なる遺伝子移入されたゲノム断片が、1000ゲノム計画の7集団で見つかり、ネアンデルタール人と現代人との間で共有されるABO式血液型ハプロタイプは遺伝子移入による可能性が高い、と示されます。


●多様な遺伝子移入されたネアンデルタール人のハプロタイプ

 現代人において、2つの異なる遺伝子移入されたネアンデルタール人的なO型ハプロタイプが見つかりました。一方は、ヨーロッパおよびアジア南東部現代人で見られるアルタイ地域(デニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟)のネアンデルタール人的なO型アレルで、もう一方は、アジア東部現代人集団で見られるクロアチア(ヴィンディヤ洞窟)のネアンデルタール人的なO型アレルです。このパターンは、地理的位置とは反対となります。そこで、ヴィンディヤ洞窟とアルタイ地域のネアンデルタール人のABO式血液型の遺伝子移入されたハプロタイプの類似性が、ヨーロッパ人(イベリア半島)およびアジア東部人(日本人)集団のゲノムにおける他の全ての遺伝子移入された断片の類似性と比較されました。

 その結果、ヨーロッパおよびアジア南東部の遺伝子移入された非欠失O型ハプロタイプは、アルタイ地域のネアンデルタール人とより密接に類似しており、アジア東部の遺伝子移入された欠失O型ハプロタイプは、クロアチアのネアンデルタール人とより密接に類似している、と確認されましたが、いずれも、遺伝子移入されたハプロタイプはそれぞれ、アルタイ地域とクロアチアのネアンデルタール人型と同一ではありませんでした。また、遺伝子移入されたABO式血液型ハプロタイプは、ヨーロッパにおける他の遺伝子移入されたゲノム断片の多様性の外と、アジア東部における他の遺伝子移入されたゲノム断片の端に位置します。このパターンから、遺伝子移入されたABO式血液型ハプロタイプは、他の遺伝子移入されたゲノム断片と比較して予想以上に多様である、と示唆されます。


●考察

 古代型ホモ属は特有のABO式血液型ハプロタイプを有しており、それは構造的に現代人のABO式血液型アレルと類似し、いくつかの事例では遺伝子移入を通じて現代人でも見られる、と明らかになりました。コード領域に見られる類似性から、それらのアレルは機能的に現代人のABO式血液型アレルと同一と示唆されます。古代型ホモ属特有のABO式血液型ハプロタイプの選択的背景について推測することは困難ですが、機能的遺伝子のネアンデルタール人型に対する強い選択の説得力ある証拠があるので、現代人において中程度の頻度でネアンデルタール人のABO式血液型アレルが見つかるのは興味深いことです。最も可能性が高い説明は、本論文で特定されたネアンデルタール人のO型アレルは両方、現代人のO型アレルと比較して選択的に中立で、したがって現代人における頻度は中立的な人口統計学的効果の結果にすぎない、というものです。

 現代人集団におけるネアンデルタール人のO型アレルの地理的分布は、アルタイ地域(デニソワ洞窟とチャギルスカヤ洞窟)個体のものがヨーロッパとアジア南東部で、クロアチア(ヴィンディヤ洞窟)個体のものがアジア東部で見られ、独立したネアンデルタール人から現生人類への遺伝子移入事象と一致します。この結果は、他のゲノム領域での発見と一致しており、痛覚感受性関連遺伝子(関連記事)と欠失多型(関連記事)という少なくとも2つのネアンデルタール人の多様体で、異なる地理的分布を有する現代人集団で見つかっています。しかし、本論文で明らかになった地理的パターンは、ヨーロッパ(クロアチア)のネアンデルタール人型はアジア東部で、ユーラシア東部(アルタイ地域)のネアンデルタール人型はヨーロッパ(およびアジア南東部)と、地理的には逆になっており、ネアンデルタール人のO型アレルは両方、同じネアンデルタール人集団もしくは現生人類と混合した集団で維持されていた可能性があります。

 ヨーロッパとアジア東部の個体群で見られるすべての遺伝子移入されたゲノム断片は、どのネアンデルタール人ゲノムとも似た類似性を示し、クロアチアのヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人の方へとわずかに傾斜しています。これは、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人個体が、アルタイ地域(デニソワ洞窟)のネアンデルタール人よりも現生人類と交雑した集団とより密接に関連しているからです(関連記事)。ヨーロッパ人に見られるアルタイ地域のネアンデルタール人的なO型アレルは、他の全てのゲノム断片の相対的な類似性において外れ値として現れます。逆に、アジア東部人で見られる、ヴィンディヤ洞窟のネアンデルタール人的な遺伝子移入されたO型アレルは、他の全てのゲノム断片の相対的な類似性の端に位置します。

 これらの結果に基づくと、ネアンデルタール人のO型ハプロタイプは両方、現生人類へと遺伝子移入された他のゲノム断片と比較してひじょうに多様で、ヴィンディヤ洞窟とアルタイ地域の間でより多く共有されているようです。ヴィンディヤ洞窟もしくはアルタイ地域のネアンデルタール人個体群のどちらも、現生人類と直接的に交雑した集団の一部ではなかった可能性が高いことを考えると、このパターンの最も一貫した説明は、これら2つのネアンデルタール人のひじょうに分岐したO型アレルは、現生人類と交雑したネアンデルタール人集団で維持されており、他のゲノム要素と比較してより大きなハプロタイプ多様性を保持していた、というものです。この場合、これらのさまざまなハプロタイプは、平衡選択により集団で維持された可能性が高そうです。平衡選択は、現代人においてABO式血液型関連遺伝子多様性を維持しているように、ゲノムの中立的領域よりもずっと長く祖先の多様性を維持すると予想されます。


●結論

 ABO式血液型遺伝子における遺伝的多様性は、人類の遺伝的多様性の古典的標識とされました。本論文は、既知の高品質なゲノムデータに基づいて、古代型ホモ属4個体におけるABO式血液型遺伝子の遺伝的多様性を詳細に報告しました。古代型ホモ属のABO式血液型ハプロタイプは、現代人のABO式血液型の機能を定義する同じ場所で多型と明らかになり、これらの古代型ホモ属のアレルは現代人のアレルと同様に機能するに違いない、と仮定されました。さらに、現代人のO型アレルと類似したデニソワ人特有のO型アレルが見つかった一方で、ネアンデルタール人特有のO型アレルは現代人のそれと比較して派生的であるものの、過去の現生人類とネアンデルタール人の混合のため、現代人に低頻度で見つかります。

 後期ネアンデルタール人で4つの異なる多様体が見つかったことは予想外です。ネアンデルタール人のゲノム全体で見られるホモ接合性の長い連続に基づくと、一般的な認識は、後期ネアンデルタール人はひじょうに近親交配の度合が高く、遺伝的多様性が減少した、というものです。本論文で見つかったネアンデルタール人の高いアレル多様性は、ABO式血液型遺伝子座における平衡選択を通じて維持された可能性が高そうです。これは、遺伝子移入されたネアンデルタール人のO型ハプロタイプがゲノム分岐の外側に位置することを示しており、平衡選択がネアンデルタール人において現生人類と同様に機能したことを示唆します。


参考文献:
Villanea FA, Huerta-Sánchez E, and Fox PK.(2020): ABO genetic variation in Neanderthals and Denisovans. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.07.27.223628

大河ドラマ『麒麟がくる』第33回「比叡山に棲む魔物」

 1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)後半、織田信長は南方の三好三人衆と本願寺、北方の比叡山延暦寺と朝倉と浅井に包囲され、窮地にありました。足利義昭は、畿内と周辺地域で戦いが治まらない苛立ちを摂津晴門にぶつけますが、摂津晴門はとぼけた対応でやり過ごします。明智光秀(十兵衛)は旧知である朝倉家臣の山崎吉家を頼って朝倉義景と比叡山で会い、和議を提案しますが、義景は、困っているのは織田だと言って光秀の提案を退けます。そこで光秀は、越前に大雪が降ってからでは来春まで越前に戻れない、と義景を脅しますが、義景は、覚恕法親王の織田への強い反感と、比叡山延暦寺の強大さを指摘して、和議には信長の屈服が必要だと言い放ちます。光秀は義景のとりなしで覚恕法親王と面会します。覚恕法親王は、兄の正親町天皇への劣等感を光秀に打ち明け、醜い自分は金と力を持って都を支配したのに、信長がそれを奪おうとする、と信長に対する敵意を剥き出しにします。

 伊勢長島の一向一揆相手に信長の弟の信興が敗死し、信長はますます苦境に追い込まれます。摂津晴門が覚恕法親王と通じていることを知った信長は、領国の美濃と尾張に帰ろうとしますが、光秀は信長を説得し、信長は正親町天皇を和議に持ち出そうとします。正親町天皇は、弟の覚恕法親王が自分に頭を下げさせたいと考えているのだ、とその真意を見抜いていました。信長の朝廷への貢献を高く評価する正親町天皇は、織田と朝倉と浅井と延暦寺に和睦の勅命を出し、信長はひとまず窮地を脱します。しかし、覚恕法親王は織田の追い落としを諦めず、武田信玄との連携を画策していました。都には束の間の平安が訪れますが、筒井順慶を重用する幕府に松永久秀は強い不満を抱きますが、この場を演出したのは摂津晴門でした。1571年、信長は軍勢を比叡山にまで進み、延暦寺への攻撃を命じ、延暦寺は焼き払われます。

 今回は、初登場の覚恕法親王が強烈な印象を残しました。美しい兄への強い劣等感を抱く醜い弟という人物造形は、まだ1回見ただけですが、兄との関係性も含めて成功と言えるように思います。松永久秀が足利義昭に叛く要因は、「最新の研究で新たなアプローチがなされ始めている英傑たちの姿を、従来のイメージを覆す新しいキャラクター像として、描いていきます」との制作方針に基づいて、研究も踏まえたものになっているように思います。延暦寺攻撃に対して、全員を殺害せよとの信長の方針に光秀は否定的で、こうした信長への違和感の積み重ねが、後に本能寺の変へとつながっていくのかもしれません。

斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』

 秀和システムより2020年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はDNA研究による日本人起源論を扱っています。表題には「最新」とありますが、進展の速い分野なので、脱稿後にも関連研究が次々と公表されていくわけで、その意味では、「最新」と謳っているのにあの研究が取り上げられていない、といった否定的感想もありそうです。しかし、この分野の本は、すでに刊行時点で「古く」なってしまっている運命は免れないわけで、この点で本書の価値が下がるものではないでしょうし、本書が一般向けであることを考えると、2020年時点での「最新」の知見という意味で、本書の表題は妥当なところだと思います。

 何よりも、集団遺伝学の基礎を解説した第1章はたいへん有益で、日本人起源論に関する本書の見解は今後急速に古くなるかもしれませんが、第1章は今後長く参照すべき内容になっており、その意味で本書の「寿命」は長くなりそうです。また、日本人起源論の学説史を解説した第2章や、ゲノム解析の基礎を解説した第3章や、集団間の比較を解説した第4章も、長く参照されていきそうです。本書は、「最新の知見」を得る目的として読めば、すぐに「時代遅れ」になるかもしれませんが、人類進化の遺伝学的研究を基礎から理解する目的ならば、長く参考書籍として読まれ続けるだけの価値があると思います。

 第5章で取り上げられた琉球列島に関しては、近年情報更新が停滞していたので、新たな情報を得るとともに、これまでの情報を整理できたので、とくに有益でした。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡については過去に当ブログでもたびたび取り上げてきましたが(関連記事)、6個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されており、M7aとB4とRに分類され、とくにM7aの頻度が高いそうです。形態学的な解析結果と合わせて、更新世琉球列島の人類は南方から到来しただろう、と本書は推測しています。

 第6章はピロリ菌ゲノムから推測される日本列島の人類史で、ピロリ菌の進化については10年以上ほとんど勉強が進んでいなかったので、たいへん有益でした。琉球集団に特有のピロリ菌2系統が人類の移動とどう関連しているのか、たいへん注目されますが、これは今年(2020年)になって大きく進展したユーラシア東部の古代DNA研究を踏まえると興味深いと思います。琉球集団特有の沖縄(B)はニュージーランドのマオリに近く、沖縄(C)は沖縄(B)とサフル(オーストラリア先住民およびパプア人)系統の中間に位置します。最近のユーラシア東部の古代DNA研究を踏まえると、沖縄(B)はアジア東部南方系統、沖縄(C)はユーラシア東部南方系統に由来するのではないか、と考えられます。今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)からは、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散の見通しは以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系と南方系とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族集団の主要な祖先となりました。「縄文人」は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。琉球集団は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団よりも「縄文人」の遺伝的影響が強く残っています。

 こうした新たな知見を前提とすると、沖縄(B)はアジア東部南方系統、沖縄(C)はユーラシア東部南方系統に由来すると想定すれば、整合的に解釈できるように思います。もちろん、上記の見通しはあくまでも現時点での一つのモデル化で、じっさいの人口史はもっと複雑でしょうから、過度に単純化することには慎重であるべきですが。また、上述の白保竿根田原洞穴遺跡の人類集団は、ユーラシア東部南方系統に位置づけられるのではないか、と予想しています。「縄文人」の遺伝的構成の半分以上を占めるアジア東部南方系統の影響をほとんど受けていないため、「縄文人」とは異なる形態を示すのではないか、というわけです。もちろんこれも、現時点ではとても断定できませんが。

 今年になって、チベット人の形成に関する包括的な研究(関連記事)や、ユーラシア東部草原地帯の長期にわたる古代DNA研究(関連記事)が公表されるなど、ユーラシア東部の古代DNA研究が一気に進んだ感があります。ユーラシア東部、さらにはオセアニアも、現生人類の拡散後に関しては、南北の遺伝的構造の確立と融合が大きな枠組みとして提示できるように思います。アジア東部においては、黄河流域などのアジア東部北方系統と長江流域などのアジア東部南方系統という南北の大きな違いが新石器時代の始まりまでに確立しており、新石器時代以降は、それが融合して均質化していくことで現代人の地域差が形成されていきましたが、現代でも南北の遺伝的勾配が見られます。

 しかし、ユーラシア東部とオセアニアではそれよりも大きな遺伝的違いとして、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統という南北間の遺伝的構造も見られ、少なくとも日本列島とチベットとアジア南東部に関しては、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統における南北間の違いだけではなく、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統との違いも考慮に入れなければ、人口史の正確な復元はできないだろう、と思います。オセアニアに関しても、オーストロネシア語族集団の拡散は、それまで恐らくはユーラシア東部南方系統のみだった地域に、ユーラシア東部北方系統(から派生したアジア東部南方系統を主要な祖先とする集団)が到来し、一定以上の混合が起きたという意味で、完新世にユーラシア東部南北両系統の融合した地域として把握できるように思います。一方、モンゴルとアメリカ大陸に関しては、ユーラシア西部系統の遺伝的影響も無視できず、ユーラシア東部現代人集団の形成過程がたいへん多様だったことを示しています。


参考文献:
斎藤成也編著(2020)『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』(秀和システム)

『卑弥呼』第51話「急襲」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年12月5日号掲載分の感想です。前回は、穂波(ホミ)の国の重臣であるトモが、日下(ヒノモト)の国と結んで山社(ヤマト)を攻めようとするならば、トモを殺す、とトメ将軍が誓うところで終了しました。今回は、荒爪山(アラツメヤマ)の夜萬加(ヤマカ)で、ヒルメが2人の男性のために、田畑が狼や野犬に荒らされないよう、祈っている場面から始まります。礼を言う男性2人が、砂金での支払いはできないと言うと、2人が裕福ではないと知っているヒルメは、構わない、と言います。すると、せめてものお礼をしたい、という2人は、粟と稗と兎の燻製肉を献上します。肉は神に仕える身なので犬に与えるが、粟と稗はありがたい、とヒルメは喜びます。2人が退出した後、ヒルメはすぐに兎の燻製肉を食べ、こんな美味いものを初めて食べた、暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)から追放されても、少しはよいことがあるものだ、と呟きます。そこへアオという犬(狼かもしれませんが)が入ってきて、山杜(ヤマト)にいるナツハからの頼りを渡します。木簡のようなものには阿比留(アビル)文字で、日見子(ヒミコ)と称するヤノハが山社の国の閼宗(アソ)にいる、とありました。

 閼宗では、トメ将軍が、ヤノハから至急閼宗に来るよう命じられたミマアキの到来を待っていました。ミマアキはヤノハに呼ばれ、トメ将軍とともに豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)に行き、日下(ヒノモト)を探るよう命じます。倭を平らかにするには日下の動静を知る必要があり、昼の王になるべき逸材であるミマアキに探ってもらいいた、というわけです。気が進まないミマアキは、食事などヤノハの世話を誰がするのか、と食い下がりますが、もう決めたことだ、とヤノハはミマアキに改めて命じます。その頃、夜萬加のシカオ、五百木(イオキ)のミミヒコ、多禰(タネ)のハヤトといった男たちが閼宗(阿蘇)の近くと思われる場所に集まっていました。首領格らしき男性は褒美の砂金を渡し、明日の朝、那(ナ)の国の使者(トメ将軍)が発った後に決行する、と男たちに言い渡します。

 翌朝、気が進まないミマアキを、ヤノハはミマト将軍・イクメとともに見送ります。弟のミマアキがこの旅で立ち直ることを願うイクメですが、父であるミマト将軍は、ミマアキはヤノハから嫌われたと勘違いしているだろう、と指摘します。ヤノハは、ミマアキならいずれ自分の真意を分かってくれるはずだ、と確信していました。そこへ、前後から10人ずつの男性が襲ってきます。山社国内ということでミマト将軍も油断しており、ミマト将軍も含めて兵は7人しかいない状況です。ヤノハは襲撃してきた男性の黥を見て、前方から襲ってきたのは五百木の兵、後方から襲ってきたのは多禰の兵だと悟ります。ヤノハの故郷の邑は多くの賊に襲われていたので、その黥で出身地が分かるようになった、というわけです。五百木は伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)、多禰は南の島(種子島でしょうか)と離れた者同士なのに、と不審に思うイクメに、足軽なので何者かに雇われた寄せ集めだろう、とミマト将軍は答えます。オオヒコから、2人が殺されたと報告を受けたミマト将軍は、襲撃者たちを館に引き込む間にヤノハを外へ連れ出すよう、命じます。しかし、ヤノハはそれを思いとどまらせます。外では、多数の犬と狼が襲撃者たちに噛みつき、あっという間に全滅させました。そこへナツハが現れ、ヤノハに笑顔を見せます。ヤノハは涙を浮かべるナツハに礼を述べ、ミマアキの代わりにナツハに警固と食事の世話を頼みたい、と言います。俯いたナツハが不敵な笑みを浮かべるところで、今回は終了です。


 今回は、ヒルメの策略が描かれました。ヒルメは、ヤノハがナツハを信頼するよう、暈とは離れた地域の兵を雇ってヤノハを襲撃させ、それをナツハに防がせたのでしょう。ヒルメがヤノハへの復讐のため、ナツハにどのような指示を出したのか、まだ明かされておらず、狡猾なヒルメがどのような策を講じているのか、気になります。ヤノハはナツハが弟のチカラオかもしれないと考えているようですが、どのような意図・感情でナツハに自分の世話を命じたのか、気になるところです。『三国志』には、卑弥呼(日見子)の部屋に出入りして給仕の世話をしていたというただ一人の男性と、政治を補佐した「男弟」の存在が記されており、前者がミマアキ、後者がチカラオ(ナツハ)だと予想していたのですが、最近の展開から推測すると、この役割は逆になるかもしれません。ただ、ナツハはヒルメを母のように慕い、ヒルメによるヤノハへの復讐を実行しようとしていますから、今後ナツハがヤノハに屈して真の忠誠を誓う展開も、ナツハが弟のチカラオかもしれないと考えつつ、ヤノハがナツハを返り討ちにして殺すか追放する展開も考えられます。今回、急な襲撃に対するナツハの対応は不自然でしたから、ヤノハはナツハを信用しているのではなく、自分への敵意を知りつつ、それを利用するつもりなのかもしれません。ヤノハとナツハとの関係がどう描かれるのか、楽しみです。また、日下がどのような国なのか、トメ将軍とミマアキが山社にとって潜在的な敵国と思われる日下でどのように危機的状況に対処するのか、という点も注目されます。

九州の縄文時代後期の土器のコクゾウムシ圧痕

 九州の縄文時代後期の土器のコクゾウムシ圧痕に関する研究(Obata et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。圧痕とは、土器の表面や断面についたタネやムシの痕跡のことで、これを探る土器圧痕法という手法が2003年頃から取り入れられています。圧痕の中でも特に、目視で確認できない圧痕を可視化する方法がX線CTを用いた土器圧痕法です。この方法により、本論文の筆頭著者である小畑弘己氏の研究グループは、2010年に種子島で1万年前頃のコクゾウムシの圧痕を発見しました。コクゾウムシは、従来、イネとともに朝鮮半島から日本列島に渡来したと考えられていましたが、この発見により、イネの伝播よりはるかに前から日本列島に存在していた、と明らかになりました。

 小畑氏のグループは、2012年には青森県の三内丸山遺跡で、2013年には北海道の館崎遺跡で、コクゾウムシの圧痕を発見しました。本来クリが自生しない北海道や東北地域に縄文人が持ち込んだ事はいくつかの研究により証明されていましたが、小畑氏のグループにより、クリを持ち込まれたさいにコクゾウムシも持ち込まれていた、と証明されました(関連記事)。これにより、食料害虫であるコクゾウムシの人為拡散説が裏づけられました。

 宮崎県役所田遺跡から出土した縄文時代後期の土器片(3600年前頃)の粘土内からは、28点のコクゾウムシ圧痕が発見され、ドングリの皮の混入も確認されました。この土器のコクゾウムシの圧痕密度は、これまでに日本国内で発見された土器の中で、最も高いものでした。この発見により、堅果類貯蔵とそれを加害した害虫の関係が間接的に裏づけられるとともに、じゅうらいの想像以上に「縄文人」たちの周囲にたくさんのコクゾウムシが存在したことも証明されました。コクゾウムシのような食料害虫は縄文時代にも存在し、それらを蔓延させた原因は定住的な生活様式と食料の運搬・交易だった、と考えられます。


参考文献:
Obata H, Miyaura M, and Nakano K.(2020): Jomon pottery and maize weevils, Sitophilus zeamais, in Japan. Journal of Archaeological Science: Reports, 31, Part A, 102599.
https://doi.org/10.1016/j.jasrep.2020.102599

ヨーロッパ人との接触前のアンデス中央部における親族結合の強化

 ヨーロッパ人との接触前のアンデス中央部における親族結合の強化に関する研究(Ringbauer et al., 2020)が公表されました。ROH(runs of homozygosity)とは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレル(対立遺伝子)のそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。本論文は、低網羅率の古代DNAを用いてROHを測定できる手法を適用して、アンデスの人口史に関する研究(関連記事)などで収集された、アンデス中央部の古代人46個体を分析しました。

 その結果、46個体のうち13個体で、イトコもしくはマタイトコの子に典型的な水準の長いROHが検出されました。その割合は、紀元後1000年頃以前には22個体のうち2個体でしたが、それ以後では、24個体のうち11個と増加します。現在のアンデスでは、その割合は低くなっており、リマのペルー人では86人のうち2人、多様な他のアンデスの人々では56人のうち11人です。後者はおもにボリビアのベンティージャ(Ventilla)地域のアンデス中央部のアイマラ語(Aymara)話者に由来し、18人のうち6人で長いROHが観察されました。しかし、中間の時代の古代DNAデータがなければ、過去500年間、この地域で密接な親族結合の高い割合が継続的だったのかどうか、識別できません。

 ヨーロッパ人との接触前の500年間の密接な親族結合の割合増加が、不均一な標本抽出の結果だった可能性も考慮されました。しかし、親族関係の事例は広範囲で、後期中間期および後期ホライズン(Late Horizon)の遺跡11ヶ所のうち8ヶ所で確認され、4地域にまたがっています。本論文で分析された標本内では親子のような密接な近親者は検出されず、親族結合の痕跡が密接な近親者のクラスタに影響を受けていないことを示します。親族結合の痕跡は、都市支配層で特異的に見つかるわけではなく、本論文で分析された個体はほぼ完全に地方で発見されています。親族の結合はインカ社会の最高層では知られていましたが、配偶慣行はしばしば社会的階層によりひじょうに異なるので、本論文の結果は予測できませんでした。

 親族結合の増加期の始まりは、アンデス中央部の大半に広がった中期ホライズン(紀元後700~1050年頃)の主要な2社会であるワリとティワナクの衰退、およびより小規模な政体への移行が起きた後期中間期(紀元後1050~1440年頃)の始まりと一致しています。大規模な国家が再び興隆するのは、後期ホライズン(紀元後1440~1534年)になってからで、インカは南アメリカ大陸西部の大半に拡大しました。本論文の知見は、スペイン植民地期の記録に残るアイユの社会的結合に照らして注目されます。スペイン植民地期の記録では、集団は少なくとも共有される祖先の一部として定義され、共同体内の資源を維持し、核家族を超えた協力を促進するため、集団内の婚姻が選好されました。現在、「アイユ」という言葉は、アンデスにおいてある種の社会的組織を表すために使用されていますが、これらの慣行が古代のアイユにどれだけ類似しているのか、不明です。

 考古学では、後期中間期のチュルパ(Chullpa)と呼ばれる墳墓を含む集団埋葬慣行の割合の増加が報告されており、この期間に共通するようになった新たな社会体系の証拠とされます。古代DNA研究では、チュルパにおける父系に基づく集団の発見により、親族ネットワークとチュルパとの関連の証拠が見つかっています。本論文で明らかになったアンデス中央部全域の密接な親族結合の割合増加は、考古学的証拠だけからは収集できないタイプの情報で、後期中間期の始まりにさかのぼる、先史時代アンデス中央部における親族パターンの性質の定量的変化に関する最初の証拠を提供します。後期中間期をそれ以前の時代と区別する、断片化された社会政治的単位や減少した交易距離や激化する集団間暴力は、地域の家族の管理下で資源を維持するための、社会的慣行の変化を選好した可能性があります。インカはしばしば、既存の慣行を取り入れ、それは後期ホライズンへと持続するこの慣行と一致します。アンデス中央部のより多くの地域を含む将来の古代DNA研究と、より多様な時期および埋葬状況は、配偶選択選好における変化の性質と原因の理解を洗練するでしょう。


参考文献:
Ringbauer H. et al.(2020): Increased rate of close-kin unions in the central Andes in the half millennium before European contact. Current Biology, 30, 17, R980–R981.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.07.072

接触仮説の検証

 接触仮説を検証した研究(Mousa., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。集団間の社会的偏見は集団間の有意義な協調を通じて軽減できる、という広く認められた接触仮説は、平和促進を目指す現実世界の戦略の基盤としての役割を果たすことが多く、それに一部基づいて、世界では外集団との接触に焦点を合わせた平和構築計画に何十億ドルもの資金が費やされています。しかし、この仮説の仮定を厳密に評価する実証的研究はほとんどありません。

 この研究は、集団間の接触が戦争後に社会的団結を構築できるかのかどうか、評価するためのフィールド実験として、アマチュアのサッカーリーグに対して、ISISに強制移住させられたイラクのキリスト教徒選手らを、キリスト教徒だけのチームとイスラム教徒選手が3人混じったチームに無作為に所属させる、という介入を行ないました。リーグ戦の後、この研究は選手たちの行動および態度に焦点を合わせた一連の結果を測定し、混合チームにいることでキリスト教徒選手はイスラム教徒のチームメイトに対する行動が変化したものの、それはサッカーに関連に限ることを発見しました。混合チームでは、キリスト教徒選手はイスラム教徒選手にスポーツマンシップ賞を贈ったり、リーグ戦の後もイスラム教徒選手たちと試合や練習を続けたりするようになりました。

 したがって、この調査結果によると、態度ではなく行動が変わっています。しかし、この研究は、認められた行動変容が、たとえばイスラム教徒の多いレストランに通う、知らないイスラム教徒が同席するイベントに参加するなど、見知らぬイスラム教徒のいる他の社会的状況にまでは及んでいなかったことも明らかにしました。行動変容の好ましい効果がサッカーリーグという背景を超えて普及しなかった一因は、それらが態度ではなく行動に限られていることと指摘されています。

 この研究結果は他の最近の偏見軽減研究と一致している。今後の研究では、態度は行動より変えるのが単純に難しいのか、もしくは現在の研究では正確な態度を測定していないのかを解明できるかもしれない、と指摘されています。この研究の成果は、戦争後の和平実現のために集団間に介入する有用性と潜在的限界を浮き彫りにしています。局所的団結によって関係する集団を、たとえば民族抗争の再開などからどの程度守れるのか、今後の研究で調査すべきと提言されています。こうした変容と限界の進化的基盤という観点からも注目されます。


参考文献:
Mousa S.(2020): Building social cohesion between Christians and Muslims through soccer in post-ISIS Iraqu. Science, 369, 6505, 866–870.
https://doi.org/10.1126/science.abb3153

Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住

 Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住に関する研究(Lazim et al., 2020)が公表されました。現在のイラクは、古代にはメソポタミアとして知られる地域でした。この地域の古代の狩猟採集民は紀元前1万年頃に定住し、農耕を始めて、やがて交易が発展しました。イスラム教勢力の拡大に伴い、イラクにはアラブ人が拡散してきます。アラブ人は、イスラム教よりも前のアラブ人は、アッシリアやバビロニアなど多くの帝国の保護下で、アラビア半島中央部に存在した部族でした。現代のイラクの人口は4000万人ほどで、南はアラビア湾(ペルシア湾)とクウェートとサウジアラビア、西はヨルダンとシリア、北はトルコ、東はイランと接しています。イラクには5つの主要な民族集団が存在しますが、イラクの人口の多様性について、刊行されたデータはほとんどありません。本論文のデータは、イラクで最大の民族集団であるアラブ人を表します。

 一塩基多型標識は変異率が低いため安定しており、多様性がほとんどないので個人識別には適していません。そこで、一塩基多型の組み合わせを使用してハプログループが決定され、個人識別や現生人類(Homo sapiens)の移動および進化のパターンの研究に役立てられています。一方、父系で継承されるY染色体の縦列型反復配列(Y-STR)は1世代あたり平均して0.2%と高い変異率を有するので、個体識別や集団構造の理解や血族問題に役立ちます。Y-STRのアレル(対立遺伝子)はハプロタイプの生成に用いられ、それに基づいてハプログループと起源となる集団を予測できます。この手法を用いると、Y-STRに基づいて集団内の多様性を推測できます。イラクの人口とその民族集団における遺伝的多様性についての刊行されたデータはほとんどありません。本論文は、Y-STRを用いて、イラク人集団の遺伝的構成や近隣との関係や移住の歴史を検証します。

 イラクのアラブ人254人のY染色体ハプログループ(YHg)で最も多いのはJ1(36.6%)で、以下、E1b1b(13.8%)、J2a1b(9.4%)などが続きます。イラクのアラブ人集団とアラブ・アジア・アフリカ・ヨーロッパの他集団との遺伝的距離では、最も近いのはイラクのクルド人で、その次がイエメン人およびクウェート人でした。一方、最も遠いのはジブチ人とエチオピア人でした。中東集団でイラクのアラブ人集団と遺伝的に最も遠いのはレバノン人でした。遺伝的違いが最も大きいのはジブチ人とイラクのクルド人で、最も小さいのはモロッコ人とエリトリア人でした。

 遺伝子流動は3段階の水準で検証されました。水準1ではアラビア半島を経由してイラクへの出アフリカ移住経路が調べられました。これは、モロッコ→エジプト→イラク、アフリカ東部→エジプト→イラク、アフリカ東部→イエメン→イラクの3経路が検証され、Y染色体に基づく移動パターン分析から、アフリカ東部→エジプト→イラクのパターンである可能性が最も高い、と推測されました。逆に最も可能性が低い経路は、アフリカ東部→イエメン→イラクです。

 水準2ではアラビア半島内の集団移動経路が4通り検証されました。それは、イエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆の2通りと、イエメン→アラブ首長国連邦(UAE)→イラクおよびその逆の2通りです。最も可能性が高い経路はイエメン→UAE→イラクで、最も可能性が低いのはイエメン→サウジアラビア→イラクおよびその逆です。水準1と水準2を組み合わせると、最も可能性が高い移住経路は、アフリカ東部→エジプト→イエメン→UAE→イラクです。アフリカ東部からエジプトへと北上した後、アラビア半島西岸を南下し、そこから東進した後にアラビア半島東岸を北上したことになります。水準3では、クウェートへのイラクとサウジアラビアの影響が調べられました。最も可能性が高いのは、サウジアラビア人集団がイラク人集団よりもクウェートに対してわずかに多くの影響を有している、というものです。

 本論文は、イラクのアラブ人集団に特有のY-STRの特徴を示します。Y-STRの2つの遺伝子座(DYS389IおよびDYS392)では、イラクのアラブ人集団は他集団よりも変異が少ない、と明らかになりました。また、最も高い遺伝的多様性が見られるのは、イラクのアラブ人集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS458なのに対して、他集団ではDYS385aおよびDYS385bとDYS481になります。DYS458の多様体を有するYHgの98.8%はJ1内にあります。この多様体はM267マーカーと重複し、遺伝的浮動と創始者効果との組み合わせの結果と推測されます。その後、アフリカ北部と中東において、集団は急速に拡大しました。

 現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと中東への移住に関しては広く研究され、さまざまな移住経路が提案されています。本論文はY-STRに基づいて、アフリカからシナイ半島を経由してアラビア半島沿岸の移住経路を、最も可能性が高いと推測します。つまり、レヴァントは乾燥していたため、アフリカ東部からバブ・エル・マンデブ海峡を渡ってアラビア半島南西岸へと達した、と想定する見解が妥当である可能性は低そうだ、というわけです。

 本論文は、現代イラク人のY染色体の遺伝的構造を示した点で注目されます。本論文が推定する現生人類の拡散経路は現代人のY-STR に基づいており、現代人の核ゲノムデータや古代DNAデータと組み合わせることで、より正確で詳細な現生人類集団の移住および混合史を解明できるでしょう。完新世の中東の現生人類集団の遺伝的構成の推移に関する大規模な研究もあり、複雑な移動と混合が想定されていますが、まだイラクの古代DNAデータは含まれておらず(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Lazim H. et al.(2020): Population genetic diversity in an Iraqi population and gene flow across the Arabian Peninsula. Scientific Reports, 10, 15289.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-72283-1

古代DNAデータから推測されるバヌアツにおける複数の移住

 古代DNAデータからバヌアツにおける複数の移住を推測した研究(Lipson et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。太平洋の人類史研究における重要な違いは、ニアオセアニアとリモートオセアニアとの間にあります。ニアオセアニアは西太平洋の一部で、ニューギニアやビスマルク諸島(ニューブリテン島やニューアイルランド島など)やソロモン諸島を含み、現生人類(Homo sapiens)は5万年前頃に到来しました。リモートオセアニアはミクロネシアおよびポリネシアの全域と、バヌアツやニューカレドニアやフィジーや岩礁の散在する島々やソロモン諸島南東部のサンタクルーズ諸島といった、メラネシアの島々を含みます。

 バヌアツは、リモートオセアニア南部において人類が居住した最初の島嶼集団で、それに続く3000年の重要な地域的交差点になったという意味において、太平洋の移民史における重要な群島です。バヌアツの遺伝的歴史は、定住過程の個体群からのゲノム規模データにより明らかにされてきました(関連記事)。バヌアツへの最初の移民(M1)は、ラピタ文化複合の初期段階と関連しており、オセアニアへのオーストロネシア語族の最初の拡大と関連していた可能性が高そうです。オーストロネシア語族集団は今では、もっと広範に拡大しています。オーストロネシア語族は台湾に起源があり、ほぼ完全なアジア東部関連系統を有しており、「最初のオセアニア人(FRO)」と呼ばれてきました。

 対照的に「先住現地バヌアツ人」として識別される現代人を含む後の個体群はおもに、ニューブリテン島起源の可能性が高いパプア人系統を有しており、2800年前頃以後、最後のラピタ文化期もしくはラピタ文化期後にサンタクルーズ諸島とバヌアツへ到達しました。本論文は、ニアオセアニアの現代人集団で見られる系統の大半に寄与した深い祖先的系統を「パプア人」と呼びます。以前の研究では、この2回目の移住(M2)が、短期間に起きたのか、一定以上の時間を要した漸進的な遺伝的交換だったのか、議論になりました(関連記事)。

 以前の研究でも、過去1000年に起き、バヌアツにおける「ポリネシア人外れ値」の確立と関連した、第三の異なる移住の波(M3)の詳細な兆候については、言及されたものの深くは扱われませんでした。そうした「ポリネシア人の外れ値」は、ポリネシア人の下位集団の言語が話され、ポリネシア人の物質および非物質文化が見られる島々のことです。バヌアツにおけるポリネシア人の影響は、完全な言語置換を伴わない外れ値共同体に隣接する多くの島々にも拡大しました。しかし、これらのポリネシア人に由来する文化的および言語的変化を伴う人口移動の程度については、ほとんど知られていません。

 そうしたポリネシア人影響を受けた島の一つがバヌアツ諸島中央部のエファテで、ポリネシア語話者の2共同体が現在存在しており、一方は小さな沖合の島であるイフィラ(Ifira)、もう一方はバヌアツ諸島南西部の島であるメレ(Mele)です。エファテ島とその隣接するエレトク(Eretok)島およびレレパ(Lelepa)島に位置する「ロイマタ首長の領地」は、口承伝統と1960年代に発掘された壮大な埋葬遺跡との間のつながりに基づいて、2008年にユネスコ世界遺産に登録されました。地元の口承伝統と関連する物質文化の側面のいくつかの異形は、エファテ島および隣接する羊飼い集団の島々におけるロイマタ首長およびその政治的役割についての物語に示されるように、強いポリネシア人の影響を示唆します。エレトク島の埋葬遺跡は、当初紀元後13世紀と考えられていましたが、エレトク島およびロイマタ首長およびその最も密接な従者たちの故地と言われてきたエファテ島のマンガース(Mangaas)村遺跡の放射性炭素年代測定から、今では紀元後1600年頃と推定されています。

 ロイマタ首長の領地の歴史、より一般的にはバヌアツにおけるポリネシア人の影響の歴史に関する遺伝的視点を得るため、伝承によるとロイマタが埋葬されたエレトク(レトカもしくはハット)島の3個体と、マンガース村の床下埋葬の2個体がともに、古代DNA分析のために標本抽出されました。また、公開されたデータを補完する、追加の6個体のゲノム規模古代DNAデータが新たに報告されます。このうち4個体はテオウマ遺跡のラピタ文化共同墓地(3000~2750年前頃)から、1個体はタプリンズ(Taplins、メレ)1岩陰から、1個体はバナナ湾から得られました。

 これら11個体が、既知のバヌアツの古代人26個体、他の古代オセアニア人8個体、多様な現代人集団と組み合わされ、上記の人類集団の移動(M1・M2・M3)に関する以下の主要な問題に光が当てられました。M1に関しては、テオウマ遺跡のラピタ文化期の埋葬の標本増加は他の遺跡と組み合わされて、以前の報告よりも多様な創始者集団を明らかにしますか?M2に関しては、バヌアツへのパプア人の移住の起源地・年代・期間をよりよく解明できますか?M3に関しては、ロイマタ首長の領地の世界遺産地域内のエレトク島とマンガース村から新たに報告された個体群は、一部の口承伝統と考古学的記録の特徴が示唆するように、ポリネシア人との特別な関連性を示しますか?以下、本論文で取り上げられた島々や遺跡の位置を示した図1です。
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●主成分分析

 主成分分析(図2)は、PC1軸が最初のリモートオセアニア人(FRO)の相対的比率(左側ほど低く、右側ほど高くなります)、PC2軸がソロモン諸島人(上側)とニューギニア人(下側)との類似性に対応します。ニューブリテン島とバヌアツの現代人集団は、PC2軸に沿って比較的均一な値でクラスタを形成しますが、PC1軸に沿って適度な広がりを形成し、ポリネシア人およびポリネシア人外れ値集団がさらに右側に位置します。古代の個体群はほとんど同じ島の連鎖からの現代人集団と重なりますが、バヌアツのエファテ島のテオウマ遺跡およびトンガのタラシウ(Talasiu)遺跡のラピタ文化関連個体群と、マラクラ(Malakula)島の古代個体群、エレトク島およびエファテ島マンガース遺跡の一部個体群は、さらに右側に位置します。

 主成分分析(図2)のバヌアツ内における最大の変異の方向性はほぼ左から右(異なるFROとパプア人の混合比率を反映している可能性が高そうです)で、ニューブリテン島やバヌアツやポリネシアや古代のラピタ文化関連個体群と関連する変異の主要な方向とよく一致します。このパターンは、この拡張された勾配に沿った集団の多くもしくは全てが、異なる割合の系統構成の一対の共有として単純な方向でモデル化できる、という可能性を示唆します。一方は、ニューブリテン島とバヌアツの一部で100%近く見られる系統と関連したパプア人系統により表され、もう一方はラピタ文化関連個体群で100%近く見られる系統と関連するFRO系統により表されます。以下、主成分分析結果を示した図2です。
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●明白な混合モデル化

 主成分分析の結果に基づいて、qpAdmを用いて候補となる混合モデルが検証されました。以前の研究や本論文の主成分分析(図2)は、ニアオセアニアにおける高度な地域的集団構造を示唆し、それにはニューギニアやニューブリテン島やニューアイルランド島で見られるパプア人系統のほぼ異なるクラスタを伴いますが、ニューアイルランド島など多くの集団は、複数のパプア人系統構成の混合を有するとモデル化できます。以下の分析では、ソロモン諸島とニューブリテン島のクラスタを表すため、それぞれ、ブーゲンビル島の非オーストロネシア語族話者であるナシオイ(Nasioi)人と、ニューブリテン島の非オーストロネシア語族話者であるバイニング(Baining)人がしばしば用いられます。それは、ナシオイ人(20%以下)とバイニング人(5%以下)が、最も低いFRO系統の割合を有している一方で、本論文のデータセットのクラスタから特有の在来パプア人系統の最も高い割合を有しているからです。

 古代バヌアツ個体群はほぼ全て、マラブ(Kankanaey)の下位集団であるバイニング人と、フィリピンのオーストロネシア語族話者であるカンカナイ人(Kankanaey)を用いて、外群集団としてナシオイ人を伴っても、2代理起源集団としてqpAdmでモデル化できます。逆に、バイニング人の代わりにナシオイ人を代理起源集団として用いると、ほとんどのモデルが成功しません。ただ、適合性が低いのは、外群と検証集団もしくは代理起源集団との間の、モデル化されず共有されていない系統に由来するかもしれません。たとえば、古代の個体群にとっての小量の汚染や、外群としてのナシオイ人におけるFRO関連系統が、カンカナイ人におけるFRO関連系統よりも優れた起源集団であるような場合です。ポリネシア人とポリネシア人外れ値にとって、異なる系統間を区別する本論文の能力は、パプア人系統のより低い割合によって制限されますが、代理起源集団としてナシオイ人よりもむしろバイニング人を用いると、より適合した類似の結果が観察されます。以前に報告されたように、ナシオイ人の代わりに一部のニューブリテン島関連系統を有するソロモン諸島集団であるマライタ島人で適合性は改善しますが、バイニング人とよりは悪化し、ほとんどの集団で棄却されます。

 qpAdmからの定量的な混合割合の推定(図3)は、主成分分析ともよく一致します。FRO系統の最も低い割合はラピタ文化後の個体群で見られ、エファテ島で0~3.6%、タンナ(Tanna)島で0.6~6.6%です。FRO系統の最も高い割合はラピタ文化関連個体群で見られ、テオウマ遺跡で96.4~99.2%、トンガのタラシウ遺跡で96.4~100%、マラクラ島で87.4~100%です。ロイマタ首長の領地の個体群ではFRO系統の割合は比較的多様で、マンガース遺跡の個体(I10966)では17.3~22.0%、エレトク島の個体(I10969)では38.3~44.2%です。

 また、常染色体とX染色体の系統割合の推定を比較し、性的に偏った混合があったのか、検証されました。その結果、性的に偏った兆候が観察され、現代ポリネシア人および古代マラクラ島人で以前報告された事例が確認されました。なお新たに報告された11個体に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では、3000年前頃のテオウマ遺跡の1個体がB4a1a1、2600~2200年前頃のメレの1個体がQ1b、マンガース遺跡では、500~200年前頃の1個体がQ1、180±20年前頃の1個体がQ2a3、エレトク島の500~200年前頃の2個体はB4a1a1とP2、490~310年前頃の1個体はP2、エファテ島のバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体はP1d2です。Y染色体ハプログループ(YHg)は、テオウマ遺跡の3000~2750年前頃の2個体がともにO、2600~2200年前頃のメレの1個体とエレトク島の500~200年前頃の1個体とエレトク島の490~310年前頃の1個体とバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体は、いずれもC1b2aです。mtHgでもYHgでも、ほぼFRO系統のみからパプア人系統の流入が示唆されます。以下、古代バヌアツ個体群におけるパプア人系統の割合を示した図3です。
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●混合年代

 以前の研究では、バヌアツの現代人集団の大半は、他のオセアニア人と一致して、平均して2000年前頃を中心とする混合年代を有する、と示されましたが、一部の集団、とくにポリネシア人関連系統を有する集団は、たとえば1075±225年前となるフツナ(Futuna)島のように、より最近の年代を示します。本論文は、MALDERとDATESの両方を用いて、エレトク島とマンガース遺跡の個体群の混合年代を推定し、平均して個体群の約20~30世代前もしくは550~850年前頃、つまり1400~700年前頃と示されました。

 この年代範囲は、考古学的証拠に基づく、1000~750年前頃に起きた西進してきたポリネシア人の到来の可能性よりも、やや早くなっています。しかし、ポリネシア人流入の想定では、ポリネシア人と在来集団の両方がすでに混合していたことを考慮すると、予想される平均混合年代は、最近とより古い混合事象の組み合わせを反映しているでしょう。MALDERから混合の複数の波の有意な証拠は検出されませんでしたが、両方の代理起源集団が系統の同じ混合タイプ(パプア人とFRO)を有しているでしょうから、異なる混合事象を解明するのは困難です。それでも、エレトク島とマンガース遺跡の比較的最近の混合年代は、混合割合で観察された不均質性とともに、より最近の混合過程の証拠を提供します。


●パプア人系統とFRO系統の起源

 アレル(対立遺伝子)共有対称性検証を通じて、リモートオセアニアにおけるパプア人系統とFRO系統の勾配がより詳しく調べられました。まずf4統計(X、傣人、ナシオイ人、ニューギニア高地人)で、検証対象の集団Xとソロモン諸島およびニューギニアの集団との間で共有される相対的なアレルが検証されました。検証対象の2集団は、パプア人系統の異なる起源集団を有する場合(たとえば、一方はニューブリテン島で、他方がニューギニアやニューアイルランド島やソロモン諸島)、FR系統の割合を補正した後では、異なる値を示すと予想されます。エロマンガ(Erromango)島やテオウマ遺跡やツツバ(Tutuba)島などいくつかの例外を除いて、現代および古代のリモートオセアニア人はひじょうに均一な結果を示し、そのパプア人系統の共通起源と一致します。

 パプアニューギニアの祖先の起源が異なる場合(たとえば、1つはニューブリテン島から、もう1つはニューギニア、ニューアイルランド、またはソロモン諸島から)、コプラ(ココヤシを乾燥させたヤシ油や石鹸の原料)の大農園で知られるツツバ島は、おそらく在来バヌアツ人とメラネシアの他地域から到来した大農園労働者間の最近の混合を受けました。エロマンガ島が例外である理由は不明ですが、19世紀に白檀を購入して伐採する集団が多数訪れており、そうした接触の結果として、持ち込まれた疾患により人口減少に悩みました。

 ニアオセアニア人の間では、予想されたように、ニューギニアの集団は一般的にリモートオセアニア人の線の下に位置し、ソロモン諸島の集団はその上に位置します。しかし、ニューブリテン島の下位集団はリモートオセアニア人を密接に追っており、(おもに)バヌアツとポリネシアへ寄与したパプア人系統の起源集団の適切な代理を表している、と示唆されます。この結果はqpWaveの使用で確認されました。現代バヌアツ集団は、4系統の起源集団を必要としており、おそらくエロマンガ島やツツバ島のように異なるパプア人系統、もしくは最近の接触に由来する、アジア東部人やヨーロッパ人のような他の系統の小さな割合に起因します。

 次に、FRO系統の異なる起源集団の可能性について同様の検証が行なわれました。まずf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、カンカナイ人)で、テオウマ島個体群と現代カンカナイ人への、オセアニア全域のFRO系統の関連性が検証されました。全集団はFRO系統の水準と高度に相関する正の値を示し、この系統がテオウマ遺跡個体群と密接に関連している、と示唆されます。次のf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、タラシウ遺跡個体群)では、FRO系統がラピタ文化関連個体群でもバヌアツとトンガのどちらとより密接に関連しているのか、検証されました。本論文の統計的能力は、このラピタ文化関連2集団間の密接な関係により制限されますが、エファテ島のテオウマ遺跡個体群よりもトンガのタラシウ遺跡個体群の方と、より大きな類似性を示唆する有意な結果が示されました。しかし、わずかな偏差しか観察されません。したがって、標本抽出された古代および現代のオセアニア集団で見つかったFRO系統は、バヌアツとトンガのラピタ文化関連個体群との関係では比較的均一で、わずかにトンガに近いようです。


●ポリネシア人の遺伝的遺産

 同様の手法で、f4統計(X、ニューブリテン島のトライ人、カンカナイ人、トンガ人)によりとくにポリネシア人関連系統の存在が検証されました。予想通り、他のポリネシア人はトンガ人と共有されるひじょうに強いアレルを示します。バヌアツ内では、ほとんどの集団はニアオセアニア人により確立された基準線水準と一致しますが、一般的にFRO系統より高い割合を有する一部の集団は、トンガ人と共有される過剰なアレルを示します。これらには、150年前頃のエファテ島のイフリア(Ifira)遺跡の1個体や、現代のアネイチュム(Aneityum)島やバンクス諸島やエファテ島やフツナ島やマクラ(Makura)島やトンガや、エファテ島でも高いFRO系統を示すメレの下位集団が含まれます。本論文で新たに報告された古代の個体群では、マンガース遺跡個体群とエレトク島の3個体のうち2額の両方が、ポリネシア人との類似性の強い兆候を有します。

 より正確にこのポリネシア人との類似性の起源を決定するために、f4統計(X、トライ人、ポリネシア人1、ポリネシア人2)が用いられました。トンガとサモアの比較では、共有されるアレルに有意な違いは検出されませんでしたが、バヌアツにおけるポリネシア人の影響を受けた多くの集団では、トンガとポリネシア人の外れ値との比較で、やや過剰な共有されるアレルが観察されました。例外の一つは、ペンテコスト(Pentecost)島のナマラム(Namaram)とオントンジャワ(Ontong Java)との間の過剰な関連性でした。しかし、ほとんどの場合、バヌアツ集団におけるポリネシア人関連系統の起源集団は、メラネシアにおける他のポリネシア人外れ値共同体よりも、ポリネシア集団の方とわずかに密接に関連しているようです。

 次に、エレトク島およびマンガース遺跡の個体群と他のバヌアツ集団との間で共有される過剰なアレルが検証されました。その結果、いくつかの有意な兆候が検出されました。それは、古代の5個体とエファテ島現代人と、とくにエファテ島のメレ地区の高いFRO系統の現代人下位集団との間、次にエレトク島の2個体(I10968とI10969)とエファテ島イフリア地区の150年前頃の1個体との間、最後に、5個体のエレトク島個体群とマンガース遺跡個体群との間です。フツナ島現代人と共有されるアレルに関する別の統計検定は、アネイチュム島人との強い関係を特定しましたが、エレトク島もしくはマンガース遺跡個体群との特別な関係性は確認されませんでした。また追跡調査分析から、エレトク島の個体(I14493)とマンガース遺跡の個体(I10967)はおそらく2親等の近親者と示唆され、この特別に高いアレル共有を説明し、ロイマタの物語における両遺跡と直接的に関連する口承伝統を確証します。


●混合グラフ分析

 混合グラフが作成され、現代のタンナ(Tanna)島およびフツナ島人、エファテ島の600年前頃の1個体(I5259)、エレトク島とマンガース遺跡の個体群、ポリネシア人、多様なニアオセアニア人を含む、複数集団間の関係が同時に調べられました。最終的なモデルでは、ニューギニア集団とソロモン諸島集団とニューブリテン島の2集団と関連する祖先的パプア人系統間の、2回の混合事象が推測されます。そのうち1回は、ニューブリテン島のメラメラ(Melamela)とバヌアツとトンガにおけるパプア人系統を節約的に特徴づけられます。

 バヌアツ内では、このモデルはバヌアツ諸島の南部および中央部における別々の2段階の混合史を含みます。現代のフツナ島集団は、タンナ島の個体群(12%のFRO系統と88%のパプア人系統と推定されます)と関連する56%の系統と、ポリネシア人と関連する44%の系統の混合としてモデル化できます。エファテ島では、マンガース遺跡で発見されたものの、必ずしもロイマタ首長の領地遺跡とは関連していない1個体(I5259)が、11%のFRO系統と88%のパプア人系統の混合と推定され、エレトク島とマンガース遺跡の集団は、I5259関連系統63%とポリネシア人関連系統37%の混合としてモデル化できます(全体では33%のFRO系統)。エレトク島およびマンガース遺跡の集団とフツナ島集団を、過剰な(とくにポリネシア人関連ではない)FRO系統を有するとモデル化すると、予測不充分なf統計が残ります。タンナ島個体群とI5259は、真の起源集団の正確な代表ではないかもしれないので、ポリネシア人関連系統の推定割合はわずかに不正確かもしれませんが、地域の遺伝的状況と最終モデルの適合品質の両方に基づく、尤もな代理です。以下、諸集団間の混合を示した本論文の図5です(緑色がFRO系統でその他の色がパプア人系統)。
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●まとめ

 バヌアツ諸島の人類集団の遺伝的歴史は複雑で、多様な起源を有する複数集団間の相互作用が特徴です。この複雑さは、バヌアツ諸島が1000km以上にわたり、ソロモン諸島の東端に位置する岩礁およびサンタクルーズ諸島からニューカレドニアまでの南西太平洋において重要な相互に見える関連を形成していることを考えると、驚くべきではありません。さらに、現代のバヌアツを特徴づける大きな文化的多様性に照らすと、バヌアツ諸島のさまざまな部分が過去に異なる人口動態を経てきたとしても、驚くことではありません。本論文の結果は、いくつかの未解決の問題に関連する新たな証拠とともに、経時的にバヌアツの遺伝的構成に実質的に寄与した上記の3つの集団移動(M1~M3)に関する理解を深めます。

 エファテ島のテオウマ遺跡の新たに報告された4個体が既知のデータに加わり、ラピタ文化関連では、リモートオセアニアの3000~2500年前頃の合計12個体(テオウマ遺跡の8個体、タラシウ遺跡の3個体、マラクラ島の1個体)のゲノムデータが得られ、その全個体はほぼ完全にFRO関連系統を有していました。したがって、将来の標本抽出ではこの時期のより大きな遺伝的多様性が明らかになる可能性も依然としてありますが、現時点での古代DNA研究の結果が支持する仮説は、ラピタ文化複合の拡大をもたらしたリモートオセアニアの最初の人々(上記のM1)は、ほぼアジア東部および南東部の起源を有する集団の子孫だった、というものです。

 2500年前頃以後、ラピタ文化期後の標本抽出された個体群はパプア人系統の流入(M2)を示しますが、バヌアツの異なる地域でさまざまな軌跡を伴っています。バヌアツ中央部および南部のこの時期最初の3個体は、本論文のデータセットではFRO系統の割合が最も低く、大きな地域的な遺伝的変化を示します。同じ島々からのもっと後の集団におけるFRO系統の増加は、ラピタ文化期の後の混合の推定年代と組み合わされて、混合はFRO系統とパプア人系統のさまざまな割合を有する集団間でその後に起きた、と示します。バヌアツ北部のマラクラ島における既知の後期ラピタ文化期およびラピタ文化期後(2500~2000年前頃)の個体群は、最近の推定混合年代とともに大きく異なる個体水準での系統割合に反映されているように、そのような混合過程の直接的証拠を提供します。他の古代の個体群とは異なりマラクラ島の個体群は、ラピタ文化集団の創始者から2000年前頃までの1000年間、継続的に居住された1遺跡に由来します。ラピタ文化の要素が、この地域でバヌアツ中央部および南部よりも長く続いた兆候もあります。

 古代と現代のデータの再分析は、2500年前頃から現代までのバヌアツで見られるパプア人系統の主要な構成が単一起源だったことを支持し、いくつかの例外のほとんどは、ヨーロッパ人との接触後の移動と関連している可能性があります。とくに、ニアオセアニアからの利用可能な同時代の古代DNAデータはありませんが、この起源集団の位置は、強い現代の地域的な遺伝的構造に基づくと、ニューブリテン島だった可能性が高く、地理的により近いソロモン諸島からの遺伝子流動の孤立した証拠以上のものは検出されません。

 バヌアツ全域の経時的なこの相対的な均質性は、後期ラピタ文化期の頃に始まるパプア人系統の流入をもたらしたのは短期間での移住事象だった、という仮説を支持します。ポリネシア人の影響を受けた集団を除いて、バヌアツにおける推定混合年代も、FRO系統とパプア人系統のこの頃の混合を示します。先験的に、最も可能性の高い移動と相互作用は、遠方の島々よりもむしろ、近隣の群島間と予想されます。つまり、ソロモン諸島から岩礁およびサンタクルーズ諸島を経てバヌアツ諸島へと至る経路です。しかし、これは考古学的および言語学的理由でM1には当てはまらないようで、またソロモン諸島を除いて、バヌアツ諸島とニューブリテン島との間の直接的な遺伝的つながりに基づくと、M2にも当てはまらないようです。

 遺伝学と考古学両方の結果に照らすと、節約的な説明は、後期ラピタ文化期においてM2が事実上M1の継続だったものの、ほぼ異なる系統を有する移民を含んでいた、というものになるかもしれません。ニューブリテン島とバヌアツとの間の文化的つながりは、バヌアツの最初のラピタ文化期の堆積物におけるニューブリテン島の黒曜石の存在や、このラピタ文化期の最初の段階に続く、食性と埋葬行動と骨格形態の変化や、頭部結合および完全に円形のブタの牙の製作といった、これらの場所に限定された(どの年代までさかのぼるのか不明な)独特の慣行を含みます。また、以前の研究でのより複雑な提案とは異なり、バヌアツに同じニューブリテン島関連起源集団を用いることにより、ポリネシア人で見られるパプア人系統をモデル化でき、両者が移住の同じ段階からおもに派生した可能性が提起されます。しかし、FRO構成と同様に、この系統を有する人々がポリネシアへの経路でバヌアツを通過したのかどうか判断するには、将来の研究を俟たねばなりません。

 過去数世紀のエファテ島におけるポリネシア人の文化的影響の考古学的および人類学的証拠と一致して、ロイマタ首長の領地の5個体の分析は、より高いFRO系統の割合の兆候と、混合の比較的最近の年代と、ポリネシア人と共有されるとくに高いアレルにより、ポリネシア人関連系統の流入(M3)を示します。エファテ島のメレ地区の現在のポリネシア人の外れ値共同体や、他の現在および比較的近い過去のエファテ島の個体群も、エレトク島とマンガース遺跡の個体群と共有される系統を示します。バヌアツ南部におけるフツナ島とその近隣諸島のポリネシア人外れ値集団は、ポリネシア人の影響の別の例を表しているかもしれませんが、比較するためのデータが不足しています。したがって、現代のバヌアツ先住集団の系統はおもにバヌアツ諸島の初期の人類史にたどれるものの、後の移住、とくにポリネシア人の移住もまた、現代のバヌアツ諸島集団の遺伝的多様性に寄与しました。以下、諸集団間の混合とその割合を示した本論文の図S5です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、バヌアツ諸島の複雑な人類史を以前よりも詳しく明らかにしましたが、今後の研究によりさらに詳細に解明されることが期待されるとともに、本論文の見解もある程度は修正されていく可能性も想定されます。上記の図4や図S5に関しては、最近の古代DNA研究(関連記事)を踏まえると、現代のオーストロネシア語族の台湾先住民であるタイヤル(Atayal)人も含まれる、FROの主要な祖先系統はアジア東部南方系統に位置づけられます。これは、ユーラシア東部北方系統より派生したアジア東部系統からさらに分岐した系統で、FRO系統の直接的な起源は台湾でしょうが、さらにさかのぼると現代の福建省などアジア東部南方沿岸部地域になりそうです。これは、福建省新石器時代集団の古代DNA研究でも確認されています(関連記事)。アジア東部現代人集団では、同じくアジア東部系統から派生したアジア東部北方系統の方が、アジア東部南方系統よりも遺伝的影響は強くなっています。

 一方、バヌアツ諸島の現代人で大きな遺伝的影響を有しているパプア人系統は、ユーラシア東部南方系統に位置づけられます。ユーラシア東部世界は、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内における南北間の遺伝的構造の違いとともに、それよりも大きな遺伝的違いとして、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統という南北間の構造も見られ、その複雑な相互作用と混合割合の解明が今後進んでいくのではないか、と期待されます。日本列島の人類集団も、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内の南北両系統と、ユーラシア東部南方系統との複雑な相互作用により形成された、と考えられます。


参考文献:
Lipson M. et al.(2020): Three Phases of Ancient Migration Shaped the Ancestry of Human Populations in Vanuatu. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.035

大河ドラマ『麒麟がくる』第32回「反撃の二百挺」

 1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)4月、浅井長政の裏切りにより、織田信長は越前から撤退します。明智光秀(十兵衛)は摂津晴門とのやり取りから、摂津が朝倉や浅井と通じている、と確信します。光秀は足利義昭に、次の戦いでの出陣を要請します。今回の戦いで義昭が出陣していれば、浅井長政は裏切らなかっただろう、というわけです。越前からの撤退戦で鉄砲を多数失ったことから、光秀と木下藤吉郎(豊臣秀吉)は堺の今井宗久を訪ねて鉄砲300挺の購入を依頼しますが、すでに鉄砲の大量注文を受けているので用立てはできない、と宗久は言います。宗久はその注文主を直接的には光秀と藤吉郎に教えませんでしたが、茶会に参加する筒井順慶だと示唆します。筒井順慶は松永久秀と敵対しているため、譲ってもらうことは難しいと考える光秀と藤吉郎ですが、ともかく茶会に出席することにします。順慶が信長に好意的だと知った光秀は、順慶に鉄砲を譲ってもらいたと要請し、順慶は信長と義昭への口添えを条件に鉄砲200挺を譲ることにします。順慶は、久秀を退けよとまで要求するつもりはないが、自分も信長と義昭とは懇意にしたい、と考えていました。

 1570年6月、信長は徳川家康とともに近江に出陣し、姉川で朝倉・浅井軍を破ります。光秀は家康から、義昭は食えない男だと忠告を受けます。信長は義昭に出陣を要請して三好三人衆を攻めますが、本願寺が三好三人衆側に立って決起し、さらには朝倉と浅井も出陣し、包囲される形となった信長は窮地に追い込まれ、まずは朝倉妥当を優先します。義昭は、信長が意外と脆いと認識を改めます。信長は、比叡山延暦寺が朝倉・浅井を匿うことに苛立っていました。

 今回は、筒井順慶が初登場となり、光秀との縁ができたことも描かれ、今後も重要人物として存在感を示しそうです。順慶が信長・義昭と通じ、義昭が順慶を優遇したことも一因となって久秀は義昭と対立し、1572年までともかく一応は義昭と協調関係にあった信長とも対立していくわけですから、本作での久秀の重要性から考えても、順慶は今後も重要人物として描かれることになりそうです。何よりも、順慶は本能寺の変での光秀との因縁もありますから(洞ヶ峠の逸話は史実ではないようですが)、その意味でも注目されます。それにしても、残り12回なのにまだ1570年ですから、丹波攻めもあまり描かれず、本能寺の変へと至る過程も駆け足になるのではないか、との懸念は残ります。

坂野潤治『明治憲法史』

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2020年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者は先月(2020年10月)14日に亡くなり、本書が遺著となるのでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。本書は、大日本帝国憲法(明治憲法)の構造と機能を分析します。明治憲法が施行されてから昭和戦前期までの政治史を憲法史として再構成します。まず本書は、明治維新から憲法施行までの20年以上を助走期間と規定し、これが長かったことは、支配勢力と在野勢力に憲法と議会に関する理解を浸透させ、相互、主張への理解を容易にしたという意味で、単に民主化の遅れと批判するのではなく、一定以上高く評価しています。

 議会制の導入は幕末以来多くの指導者層の目標で、明治になって在野勢力からも主張されましたが、憲法制定の必要性にまず着目したのは、在野の民権派ではなく、藩閥政府内の「リベラル派(現在のリベラル保守)」の木戸孝允でした。木戸は、皇帝権限が強く、議会権限が弱いドイツ憲法に着目しました。本書はこれを、「立憲主義」と「民主主義」の対立と把握しています。1880年代になると、こうした政治思潮は保守主義と自由主義と民主主義の三勢力に分かれ、それぞれが立憲制の必要性を認めるようになります。

 本書は明治憲法へと至る過程で、民間の憲法案をやや詳しく取り上げています。とくに福沢諭吉系の交詢社の憲法案(1881年)に関しては、現在の象徴天皇制に近い議会制民主主義が提唱されていた、と本書はその民主主義的性格を高く評価します。本書は、明治憲法の制定にさいして政府は交詢社案を強く意識したところがある、と推測します。この交詢社案とも関連して、大隈重信が失脚します(明治14年の政変)。本書は、この時点ですでに明治憲法の骨格は出来上がっていたものの、交詢社案が人々の記憶に強く残っている間は、政府内保守派もドイツモデルの憲法制定を強行するわけにはいかなかった、と推測します。

 1889年2月11日、明治憲法が発布されます。明治憲法の特徴は、天皇権限が強く、議会権限がきわめて弱いことです。本書は、明治憲法の編成大権と外交大権の目的は、国防問題と外交問題への議会の関与を禁じることにあり、ひじょうに反議会的である一方、内閣の権限は相当に大きかった、と指摘します。議会は予算審議で対抗できたものの、それにも限界があった、いうわけです。巨大な内閣の権限を拘束する唯一の例外が枢密院でしたが、本格的な政党内閣が成立するまで、重要問題で内閣と枢密院が対立することは余りありませんでした。内閣の権限も制約したのが統帥大権で、これが昭和期に問題となりました。ただ、明治憲法では天皇権限が強かったとはいえ、憲法施行により天皇は超法規的存在とは言えなくなりましたが、政府と議会の調停者にはなれた、と本書は指摘します。

 憲法施行と議会開設から10年も経たないうちに政党内閣(第一次大隈内閣)が成立しますが、本書はこれを、元老たちが時として政党内閣の成立を認めたにすぎず、大隈内閣が短期間で退陣した後、第二次西園寺内閣の総辞職までの14年間は、政党勢力の緩やかな発達というよりは、政治の民主化の停滞だった、と評価しています。ただ本書は、政党内閣を正当化する憲法論が次第に影響力を増大させてきた、とも指摘しており、それは美濃部達吉の天皇機関説です。これは、日本国の主権者は天皇ではなく国民の共同体である日本国家で、天皇は主権者が統治のために設けたさまざまな「機関」の頂点にすぎず、天皇の権力は無制限ではない、というものです。本書は、美濃部がやや強引な論理ながら、明治憲法下における政党内閣の正当性を提示した、と評価しています。ただ、本書はその美濃部について、天皇機関説問題の前の昭和期には、政党政治に見切りをつけていたのではないか、と指摘します。大正時代には、主権者が天皇なのか否かという「国体論争」はさほど注目されず、普通選挙制の実現が中心課題でした。しかしこの間にも、後の「国体」に関わる政争の議論の基盤が整えられていき、それは統帥権をめぐるものでした。それが顕現したのはロンドン海軍軍縮条約ですが、本書は、統帥権干犯問題を主張したのは軍令部ではなく政友会、具体的には鳩山一郎だった、と指摘します。

 五・一五事件以降、陸軍の影響力がさらに増大し、「全体主義」的傾向を強めていく1930年代の日本において、明治憲法は機能不全的状況に陥っていたものの、1936年2月の総選挙を機に、「民意」表出の重要な制度としてその機能を回復してきた、と本書は評価します。本書は日本における「民主主義」は明治時代以降、国民の間で漸進的かつ確実に、共有の信念になっていった、と指摘します。1936年2月の総選挙から翌年7月の日中戦争勃発までは、明治憲法下の議会でも社会民主主義政党が有力政党として存在し得ると示され、戦後の保革対立を基本とする政治が出現した、と本書は評価します。ただ本書は、その担い手である社会大衆党には、社会民主主義と国家社会主義との路線対立があったことも指摘します。戦後民主主義の萌芽とも言えるこの政治状況をもたらしたのは、「広義国防」と「狭義国防」の対立でした。しかし、宇垣一成の組閣が失敗した後では、政党内閣復活の可能性はほとんどなかった、と本書は指摘します。本書は、日中戦争の前まで、日本国民の政治常識は「自由主義乃至デモクラシー」だった、と評価します。この状況を変えたのが日中戦争の勃発だった、というのが本書の見解です。戦前日本の自由主義もしくは民主主義は、武力により鎮圧されたのではなく、国民自身が自発的に放棄した、というわけです。

 本書の全体的な見解は、近代日本には「万世一系」の天皇が支配する専制的な憲法体制はなく、日中戦争から敗戦までは明治憲法の時代というよりは、憲法が機能しなくなった時代だった、というものです。日本国憲法は8年間の無憲法状態の後を継いだのであって、明治憲法を否定したわけではなく、近代日本史は、明治憲法の時代と総力戦の時代と日本国憲法の時代に区分するのがよい、というわけです。これは、戦前と戦中と戦後に相当します。「平和と民主主義」の時代は戦後だけではなく戦前にもあった、と本書は強調します。ただ、日中戦争はずっと「事変」扱いされていたわけで、指導層も含めて当初国民は楽観視していたのではないか、と思います。その意味で、現在の視点では日中戦争は確かに日本の岐路でしたが、勃発により大きく変わったというよりは、長期化により国民の意識が変わっていった、という側面の方が大きいように思います。

ヨーロッパの上部旧石器時代の一卵性双生児

 ヨーロッパの上部旧石器時代の一卵性双生児に関する研究(Teschler-Nicol et al., 2020)が公表されました。4万~3万年前頃、現在のオーストリアのニーダーエスターライヒ州のクレムス(Krems)市中心部を、上部旧石器時代の狩猟採集民が繰り返し利用していました。これらの上部旧石器時代遺跡は、ヨーロッパ中央部の早期現生人類(Homo sapiens)の居住パターンや文化や生計の理解に重要な役割を果たします。

 その中でも、クレムス=ヴァハトベルク(Krems-Wachtberg)遺跡(以下、KW遺跡)は、残存状況がとくに良好です。KW遺跡では炉床や乳児の2ヶ所の埋葬が確認されています。KW遺跡の文化は、上部旧石器時代となる早期グラヴェティアン(Gravettian)の地域版であるパブロフィアン(Pavlovian)に分類されています。放射性炭素年代測定法では、KW遺跡の較正年代は31000年前頃と推定されています(IntCal13)。KW遺跡は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)へと向かう寒冷化の時期に相当します。獲物の遺骸から、KW遺跡は冬もしくは早春に利用された、と示唆されます。

 乳児埋葬のうち一方は二重埋葬の楕円形の墓穴(埋葬1)で、乳児2人(乳児1および乳児2)が埋葬されており、それぞれ赤いオーカーで埋められ、東を向いており、頭蓋が北を向くように配置されていました。乳児2はより中央に配置され、乳児1は墓穴の南西端に位置していました。マンモスの牙で製作され、紐で通されていた痕跡のある53個のビーズが乳児1の骨盤に置かれ、ビーズには使用摩耗痕は確認されませんでした。穿孔されたアマオブネガイ科(Theodoxus属)の貝とキツネの切歯が供えられており、単一のネックレスと示唆されました。

 もう一方の埋葬(埋葬2)は長くて狭い墓穴で、乳児1人(乳児3)が見つかりました。乳児3も東を向いていましたが、頭蓋は南向きでした。乳児3には、マンモスの牙で作られた長さ8cmのピンが供えられていました。当初の観察では、二重埋葬の乳児1および2は同様の成長段階というか、おそらくは周産期死亡で、2人が双子もしくは少なくとも密接に関連した個体だった、と示唆されます。二重埋葬の乳児1および2は、同時に埋葬されたのではなく、異なる連続した段階で行なわれ、墓が再度開けられたことを示唆します。本論文は、埋葬1の乳児2人の遺伝的関係を評価し、2人が親族関係にあるのか、確認します。また、同位体分析により年齢も推定されます。これら乳児の遺骸は、当時の埋葬慣行の推測にも役立ちます。

 乳児3のDNAはすでに解析されており、乳児1および2のDNAが新たに解析されました。平均網羅率は、個体1が1.772倍、個体2が0.282倍です。個体1および2は男性で、ともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はU5、Y染色体ハプログループ(YHg)はIに分類され、乳児3と一致します。KW遺跡の乳児3人はほとんどのアレル(対立遺伝子)を相互に共有しており、チェコのドルニー・ヴェストニツェ(Dolní Věstonice)遺跡の3万年前頃の個体群に因んでヴェストニツェと命名された、グラヴェティアン集団のクラスタ(関連記事)とアレルを共有します。親族関係の分析の結果、埋葬1の乳児1と乳児2はゲノム全体を共有する一卵性双生児で、乳児3は乳児1および2と3親等かそれ以上離れた親族と推定されました。

 一卵性双生児(乳児1および2)の埋葬時期が異なるから、死亡年齢が異なっていた可能性も考えられます。乳児の死亡年齢はほとんどの場合、長骨骨幹の長さと歯の発達段階の比較に基づいて決定されます。形態計測の結果、乳児2は誕生前後(妊娠39~40週)、乳児1は生後6~7週間、乳児3は生後13~14週間で死亡した、と示唆されます。双子の妊娠は危険性が高く、単生児よりも双子の方が周産期死亡率は高い、とよく知られています。個体1に見られるストレス症状は、周産期の死亡と関わる要因の反映かもしれません。

 炭素および窒素の安定同位体分析は、乳児2では汚染・分解の痕跡が示されたことから利用できませんが、乳児1および3ではヨーロッパの初期現生人類の同位体食性証拠と一致し、乳児3では乳児1よりもわずかに窒素15および炭素13が濃縮されています。これは乳児1よりも長い期間となる乳児3の母乳育児を反映しているようです。エナメル質の同位体分析からは、乳児3が誕生後の短い人生においてもストレスを受けていた、と示唆されます。当時のKW遺跡の住人は、厳しい生活を送っていたようです。

 乳児1および2は、古代DNA分析により確認された初めての双子となります。乳児1および2が安置された埋葬1は、一度葬った後に開けたと推測されていますが、これは乳児2が誕生前後に死亡したのに対して、乳児1は生後6~7週間生きていたからだと推測されます。グラヴェティアンの埋葬儀式に関しては、個人的な象徴的扱いが報告されており、本論文の知見からは、それには墓を再度開けたり配置を変えたりすることも含まれていた、と考えられます。双子の周産期死亡率は単生児よりも高いので、今後さらに、一卵性双生児遺骸が古代DNA研究により明らかになることも予想されます。


参考文献:
Teschler-Nicol M. et al.(2020): Ancient DNA reveals monozygotic newborn twins from the Upper Palaeolithic. Communications Biology, 3, 650.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01372-8

翼竜類の食性

 翼竜類の食性に関する研究(Bestwick et al., 2020)が公表されました。食物を噛んだ時、食物に歯型が残るのと同様に歯にも跡が残ります。歯に残る跡は、食物によって異なるため、こうした跡を用いて、さまざまな動物の食生活を推測できます。この研究は、17属のさまざまな翼竜の歯の化石に残されたマイクロメートル以下の跡のパターンを分析しました。飛行捕食者だったこれらの翼竜は、2億1000万年~6600万年前頃の中生代に生息していましたが、その食性についてはあまり知られていません。

 この研究では、多彩な情報が得られました。たとえば、ディモルフォドンはさまざまな脊椎動物を餌とし、ランフォリンクスは魚類を食べ、アウストリアダクティルスは甲虫や甲殻類などの「硬い」無脊椎動物を食べていました。獲物の範囲が非常に限定された翼竜がいた一方で、広食性捕食者の翼竜もいました。翼竜類の祖先種は無脊椎動物を食べていましたが、その後、魚や肉を食べるように進化した、と推測されます。この研究は、こうした変遷が中生代末期にかけて多様化した鳥類との競争により引き起こされた可能性を指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


翼竜類の歯から分かった食物の好み

 翼竜類の歯に残された跡の研究から、翼竜類が進化の過程で、多種多様な食物を摂取するようになったことを明らかにした論文が、今週、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、翼を持つ爬虫類である翼竜類の進化と、翼竜類がさまざまな生態系で果たした役割について解明を進める上で役立つ。

 食物を噛んだ時、食物に歯型が残るのと同様に歯にも跡が残る。歯に残る跡は、食物によって異なるため、こうした跡を用いて、さまざまな動物の食生活を推測できる。今回、Jordan Bestwickたちの研究チームは、17属のさまざまな翼竜の歯の化石に残されたマイクロメートル以下の跡のパターンを分析した。飛行捕食者だったこれらの翼竜は、2億1000万年~6600万年前の中生代に生息していたが、その食餌について知られていることは比較的少ない。

 今回の研究では、多彩な情報が得られた。例えば、ディモルフォドンはさまざまな脊椎動物を餌とし、ランフォリンクスは魚類を食べ、アウストリアダクティルスは甲虫や甲殻類などの「硬い」無脊椎動物を食べていた。獲物の範囲が非常に限定された翼竜がいた一方、広食性捕食者の翼竜もいた。翼竜類の祖先種は、無脊椎動物を食べていたが、その後、魚や肉を食べるように進化したとされた。Bestwickたちは、こうした変遷が、中生代末期にかけて多様化した鳥類との競争によって引き起こされた可能性があると考えている。



参考文献:
Bestwick J. et al.(2020): Dietary diversity and evolution of the earliest flying vertebrates revealed by dental microwear texture analysis. Nature Communications, 11, 5293.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-19022-2

イスラエルのティンシェメット洞窟遺跡

 イスラエルのティンシェメット洞窟(Tinshemet Cave)で発掘調査が進められており、公式サイトが公開されています。ティンシェメット洞窟では中部旧石器時代の石器や人類遺骸が発見されているそうです。この時期に、ヨーロッパ起源のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とアフリカ起源の現生人類(Homo sapiens)がレヴァントで遭遇したと考えられており、ティンシェメット洞窟では人類遺骸と石器が発見されていることから、注目すべき遺跡と言えるでしょう。

 少なくとも5個体分となる人類遺骸は、2017~2019年の発掘で発見され、その中には部分的に関節がつながっている子供の骨格や、遊離した歯のある2個の頭蓋もあり、まだ発掘中の人類遺骸もあるそうです。これらの人類遺骸の分類はまだ同定されておらず、現生人類、ネアンデルタール人、他の中期更新世後期~後期更新世前期の人類の可能性がある、と指摘されています。詳細な年代は公表されていないませんが、熱ルミネッセンスや光刺激ルミネッセンスやウラン系列法などで年代測定が進められているそうです。

 石器は、ムステリアン(Mousterian)と関連する多くの剥片が発見されています。ティンシェメット洞窟遺跡石器群の特徴は、剥片の製作にルヴァロワ(Levallois)技法が用いられていることです。大量の石屑があることから、ティンシェメット洞窟で石器が製作されていた、と示唆されます。石材はおもに地元の燧石(フリント)でした。また、遠方からオーカーや特別な意思が持ち込まれており、当時のティンシェメット洞窟の中部旧石器時代の住人における、複雑な象徴的および社会的行動が示唆されます。

 ティンシェメット洞窟では、さまざまな非ヒト動物遺骸も発見されています。発見された動物遺骸は地元の種で、ティンシェメット洞窟の中部旧石器時代の住民がより大型の獲物に重点を置いていた、と示されます。具体的には、オーロックス(Bos primigenius)やイランダマシカ(Dama mesopotamica)やマウンテンガゼル(Gazella gazella)やウマ類です。これらの非ヒト動物遺骸の堆積の主因はヒトだった、と推測されています。

 異常が現時点で公開されている主な情報ですが、ヒト遺骸も非ヒト動物遺骸も多くの石器も発見されており、人類進化史において重要な中部旧石器時代のレヴァントに関する多くの情報が得られるのではないか、と大いに期待されるので、今後の研究の進展がひじょうに楽しみです。人類遺骸がどの種に分類されるのかも気になりますが、同じくイスラエルのセフニム洞窟(Sefunim Cave)で中部旧石器時代層の堆積物から非ヒト動物のミトコンドリアDNA(mtDNA)断片が回収されているそうなので(関連記事)、ティンシェメット洞窟でも堆積物からのDNA解析が期待されます。もちろん、遺骸から直接DNAが解析できればもっとよいわけですが、まだイスラエルと同程度以下の緯度の地域で発見された、中部旧石器時代以前の遺骸からのDNA解析には成功していないでしょうから、貴重な人類遺骸をごく一部とはいえ破壊してDNA抽出を試みることは、さすがに当分はなさそうです。

デマを流すのは低コストで否定するのは高コスト

 デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性は人間社会の嫌な真理です。もちろん、知識・情報が足りず、情報判断力が低いため、真実と確信して結果的にデマを流す人もいるでしょうが、常習犯のように次から次へとデマを流す人の中には、デマと知っているか、真偽や根拠が曖昧だと理解していながら、騙せる奴(いわゆる情弱)だけ騙せればよいとか、検証しようとする人間を疲弊させてやりたいとばかりに、この非対称性を利用している輩もいるのではないか、と考えたくなります。もちろん、デマを流す人間の意図というか内面を断定することはきわめて困難ですが。

 私がずっとアメリカ合衆国のトランプ大統領(関連記事)をまったく支持しなかったのは、その古い日本観に対する警戒もありますが、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えないような発言が絶えないことも大きく、デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性をトランプ大統領は悪用しまくった、と認識しています。過去に、この非対称性を利用して次から次へと真偽や根拠が曖昧な話やデマを流す輩と対応した経験から、私はこうした輩を心底嫌っています。

 私がやり取りする話題は人類進化史関連が多く、最近はあまり意欲が湧かないのでやり取りは少なくなっていますが、以前のやり取りで、現代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では、アフリカ集団よりもアジア南東部集団の方がずっと多様だ、と言い張っていた輩がいました(関連記事)。その根拠は、アフリカにはほぼmtHg-Lしかいないのに、アジア南東部はもっと多様だ、というものです。じっさい、たとえば現代ミャンマー人のmtHgはA・B・C・D・F・Uなど多様です。しかし、上記の記事で述べましたが、これは字面だけを見ての誤解です。この点に関しては何度か説明しましたが、その輩はついに自分の主張を変えませんでした。どうも、本気で信じているというよりは、騙せる奴だけ騙せればよいと考えているのではないか、と私はやり取りの途中から推測するようになりましたが、もちろんその輩の真意を断定できるわけではありません。

 同じように、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているように思われる人物として、アイヌと「縄文人」との関係の否定に熱心な元北海道議員の小野寺まさる(秀)氏がいます(関連記事)。小野寺氏は議員時代に、「アイヌの方々は縄文人の末裔ではないということを確認したくて」北海道庁の幹部職員に北海道議会で質問していますが、幹部職員が「アイヌの人々は、縄文の人々の単純な子孫ではないとする学説が有力」と答弁したところ、「単純な子孫ではないということで、関係ないということだと思います」と述べており、これも、小野寺氏が騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているからではないか、と私は推測しています。

 騙せる奴だけ騙せればよい、とは考えていなかったようですが、次から次へと真偽や根拠が曖昧な私見を繰り返し述べ、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の染色体数は48本で、現代人(Homo sapiens)の染色体数が46本になったのは、ネアンデルタール人系統と分岐した後だった、と主張する輩とのやり取りもありました。これも結果的には、デマを流すのは低コストである一方、デマを否定するのは高コストである、という非対称性の事例だと思います。以前述べたように、ネアンデルタール人と現生人類の最終共通祖先の染色体数は46本だった可能性がきわめて高い、と考えるべきでしょう(関連記事)。世の中には詐欺師や扇動者としての才能に特化した人もいて、社会的に「成功」する人もいるので、常に見抜くのは困難ですが、私もできるだけ見抜けるよう、知見を高めていかねばなりません。

アメリカ合衆国大統領選挙結果

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響を大きく受けている中で、世界的に注目されたアメリカ合衆国大統領選挙が今月(2020年11月)3日に行なわれました。嫌われ者で現職の共和党のトランプ大統領と、魅力に欠ける民主党のバイデン前副大統領との対決となり、第1回討論会が酷評されるなど、お世辞にも内容が高く評価される大統領選挙ではありませんでしたが(そもそも、過去にどれだけ立派な大統領選挙があったのか、という問題もありますが)、一応は現時点で世界最強と言える国の大統領選挙だけに、世界中で大きな注目を集めたように思います。

 世論調査ではバイデン前副大統領の優勢が伝えられていましたが、基本的には州ごとの勝者総取りという特異な選挙制度もあり、前回は優勢を報道されていたクリントン候補が負けたので、今回は勝敗の判断に慎重な記者・評論家が多かったように思います。また、終盤になってのトランプ大統領の追い上げも一部で報道されていました。私も、前回の大統領選挙の記事ではクリントン候補の勝利を想定した予定稿を準備しており、ほとんど使い物にならなくなったので、今回はどちらかの候補の勝利を前提とした予定稿を用意しませんでした。

 結果は、新型コロナウイルス感染症の流行もあって郵便投票が激増したこともあり、まだ確定していませんが、現時点での開票が認められれば、バイデン前副大統領の勝利は確実なようです。また、得票率でもバイデン前副大統領が3%ほどの差をつけそうです。しかし、多くの人が予想した通り、トランプ大統領は敗北を認めないようで、これから訴訟で揉めそうです。2000年の大統領選挙も確定に時間がかかりましたが、今回はそれ以上となりそうです。

 結局、トランプ大統領が11月3日消印までの郵便投票込みでも選挙人数と総得票数で上回るか、バイデン前副大統領が郵便投票抜きでも選挙人数と総得票数で上回るしか、早期の決着はあり得なかったのかもしれません。前回の大統領選挙の記事でも、アメリカ合衆国社会の亀裂が深まりそうだ、と述べましたが、今回の大統領選挙の結果さらに深まりそうで、これはトランプ大統領とバイデン前副大統領のどちらが勝っても変わらなかったでしょう。世界最強の国であるアメリカ合衆国の政治・社会的混迷は世界に悪好影響を与えるでしょうから、今後の情勢が懸念されます。新型コロナウイルス感染症の流行もあって、アメリカ合衆国も含めて世界的な混乱が続くなか、アメリカ合衆国の政治的混乱が長引くのは、何とも困ったものです。

 バイデン前副大統領に魅力が欠けていることは否定できませんが、それ以上に問題なのは民主党の分裂も深刻なことで、バイデン政権が民主党の両極に挟まれて迷走する可能性は低くなさそうです。トランプ大統領を引きずり降ろしたいという強い想いから消極的にバイデン前副大統領に投票した人は多いでしょうから、トランプ大統領に投票した人々はもちろん、バイデン前副大統領に投票した人でも多くがすぐにバイデン政権に不満を抱きそうで、バイデン政権の支持率はすぐに低迷しそうです。バイデン前副大統領が来年1月の大統領就任時に78歳と高齢なことも気がかりで、1期での退任が確実視されていますが、1期もたない可能性も低くないと思います。カマラ・ハリス上院議員は初の女性副大統領に就任することになり、次回の大統領選挙の有力候補と考える人は多いでしょうが、バイデン政権の支持率が低迷すると、副大統領であることが足枷になり、次回の大統領選挙で勝ち抜くのは難しいかもしれません。もちろん、副大統領であることは、知名度を上げ、実績を積む好機ともなるわけですが。

 正直なところ、トランプ大統領はあまりにも自己愛が強く、政治を不動産業と同じように考えているところも見られ、まったく支持できませんでした。前回の大統領選挙の直後だったと記憶していますが、現実主義者(気取り)がトランプ大統領の頭の良さを褒め、優れた大統領になる、と予想していました。しかし、率直に言って、トランプ大統領は頭が良いとはいっても、それは詐欺師・扇動者としての才能で、政治家にそうした才能が不要とは言いませんが、トランプ大統領のようにそうした才能に特化した人が世界最強の国の政治面での最高指導者では困ります。前回の大統領選挙の記事では、何とも不安ではあるものの、発足後は「意外と現実的で穏和」と言われるような運営を願っています、と述べましたが、同盟国軽視は懸念された通りで、残念ながら希望は叶いませんでした。

 そういうわけで、トランプ大統領が敗北したことにやや安堵していますが、新型コロナウイルス感染症によるアメリカ合衆国の混乱がなければ、おそらく経済は(少なくとも表面的には)好調なままだったでしょうから、党内分裂が深刻な民主党の候補は敗北していたでしょう。そう考えると、やや複雑な気持ちではあります。もちろん、こうした私の見解がひじょうに偏っており、数十年後と言わず数年後には、バイデン政権を誕生させたことは大きな誤りだった、との評価が定着している可能性もあるとは思いますが。

 前回の大統領選挙の時から、トランプ大統領の日本観はアメリカ合衆国で日本叩きが激しかった1980年代頃の古いものと言われていましたし、安倍前首相がトランプ大統領と「親密な関係」を築いたとはいえ(トランプ大統領の性格を読んで、少なくとも表面的には徹底的に媚びただけとも言えますが、これは必ずしも悪いことだけではなかったように思います)、日本人の私としては、その世界観には警戒せざるを得ませんでした。トランプ大統領の中国叩きに喝采を送る日本人は少なくないようですが、黄禍論の観点(関連記事)からも、日本人の私としては、ヨーロッパや北アメリカ大陸での中国叩きには警戒せざるを得ません。日本では、トランプ大統領の再選で「リベラル」派が悔しがるのを楽しみにしている、といった発言もTwitterで見かけましたが、「リベラル」派から見れば「ネトウヨ」に他ならない私でも、さすがに日本への影響も大きいアメリカ合衆国の大統領選挙で、そうした気分にはなれません。

 大統領選と同時に行なわれた上院選(議席数の1/3の改選)と下院選の結果、上院では民主党の議席数は選挙前より増えそうなものの、過半数に届くのか微妙です。下院は、議席数を減らしそうですが、引き続き民主党が過半数を制しそうです。上院を共和党が制した場合、バイデン政権は政策遂行もままならず、早々に行き詰まるかもしれません。アメリカ合衆国の政治制度は権力の分散化が徹底されており、それに起因する政争の不毛さも指摘されているので、バイデン政権も苦しみそうです。しかし、おかしな大統領が出現した時にその暴走を抑止するという意味で、トランプ政権ではその制度設計が役立った、とも言えそうです。

古代ゲノムデータに基づくユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史

 古代ゲノムデータに基づく、モンゴルを中心とするユーラシア東部草原地帯の長期にわたる人口史に関する研究(Jeong., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。最近の古代ゲノム研究により、ヨーロッパや近東やコーカサスにおける青銅器時代の変化と一致する大陸規模の移住を伴う、ユーラシア草原地帯の動的な人口史が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、ユーラシア西部草原地帯の遺伝的歴史の理解は進みましたが、草原と森林草原と砂漠草原で構成される2500km以上に及ぶユーラシア東部草原地帯の人口動態はよく理解されていません。現代の中国とロシアの一部地域も含みますが、ユーラシア東部草原地帯のほとんどは現在のモンゴルに位置します。最近の古代ゲノム研究では、ユーラシア東部森林草原地帯は青銅器時代の前と前期青銅器時代に遺伝的に構造化されており、カザフスタン中央部のボタイ(Botai)からシベリア南部のバイカル湖地域やロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)まで、系統の強い東西の混合勾配を有します(関連記事)。

 青銅器時代における牧畜の複数段階の導入は、ユーラシア東部草原地帯における生活様式と生計を劇的に変えました。最近の大規模な古代プロテオーム(タンパク質の総体)研究では、紀元前3000年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化と紀元前2750~紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化に属する個体群による、紀元前2500年よりも前のモンゴルにおける乳消費が確認されています。エニセイ川上流のアファナシェヴォ文化集団は遺伝的に、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ文化と関連していますが、チェムルチェク文化集団の起源に関しては議論が続いています。

 反芻動物の酪農は導入されると、紀元前1900~紀元前900年頃となる中期~後期青銅器時代(MLBA)までに拡大し、鹿石キリグスール複合(Deer Stone-Khirigsuur Complex、DSKC)と関連する遺跡の西部と北部、およびウランズーク(Ulaanzuukh)文化と関連する東部で行なわれていました。DSKCとウランズーク文化との間の関係はよく理解されておらず、ムンクハイルハン(Mönkhkhairkhan)文化やバイタグ(Baitag)文化のようなモンゴルにおける他のMLBA埋葬伝統についてはほとんど知られていません。

 紀元前千年紀半ばまでに、以前のMLBA文化は衰退し、前期鉄器時代文化が出現しました。それは、DSKCの記念碑から物質を根こそぎ持ち込んだ、紀元前1000~紀元前300年頃となるモンゴル東部および南部の石板墓(Slab Grave)文化や、モンゴル北西部の紀元前500~紀元前200年頃となるサヤン(Sayan)山脈のサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化です。サグリ・ウユク文化はサグリ・バジー(Sagly-Bazhy)文化もしくはチャンドマン(Chandman)文化としても知られており、アルタイ地域やカザフスタン東部の紀元前500~紀元前200年頃となるパジリク(Pazyryk)文化や紀元前900~紀元前200年頃となるサカ(Saka)文化と強い文化的つながりを有します。

 紀元前千年紀後半以降、紀元前209~紀元後98年の匈奴、紀元後552~742年のテュルク(突厥)、紀元後744~840年のウイグル、紀元後916~1125年のキタイ(契丹)帝国など、一連の階層的で中央に組織化された帝国がユーラシア東部草原地帯に勃興します。匈奴帝国は草原地帯で最初のそうした政体で、現在の中国北部とシベリア南部とアジア中央部深くに劇的に拡大し、ユーラシアの人口と地政学に大きな影響を与えました。紀元後13世紀に出現したモンゴル帝国は、これらの政権の最後で最も広大なものであり、最終的には中国から地中海にいたる広範な領土と交易路を支配しました。しかし、大規模な遺伝的研究が不足しているため、支配者のエリート地元の庶民の両方を含むこれらの国家を形成する人々の起源と関係は、曖昧なままです。

 先史時代以来のユーラシア東部草原地帯の人口動態を明らかにするため、約6000年(紀元前4600~紀元後1400年頃)に及ぶモンゴルの85ヶ所の遺跡とロシアの3ヶ所の遺跡の、214個体のゲノム規模データセットが生成され、分析されました。これに、モンゴル北部の青銅器時代19個体と、ロシアおよびカザフスタンの近隣古代集団のデータセットが追加され、世界中の現代人集団とともに分析されます。また、以前に刊行された放射性炭素年代74点を補足する、30点の新たな放射性炭素年代値が生成され、合計98人の直接的な年代が提示されます。以下、本論文で取り上げられた遺跡の場所と年代を示した本論文の図1です。
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●青銅器時代よりも前の牧畜民の集団構造と到来

 紀元前五千年紀~紀元前四千年紀にかけての、青銅器時代よりも前の6個体が分析されました。その内訳は、1個体がモンゴル東部(SOU001、モンゴル東部preBA、紀元前4686~紀元前4495年頃)、1個体がモンゴル中央部(ERM003、モンゴル中央部preBA、紀元前3781~紀元前3639年頃)、4個体がバイカル湖地域東部(Fofonovo_EN)です。この6個体が既知のユーラシア全域の古代人および現代人のゲノムデータと比較され(図2)、同年代となる、紀元前5200~紀元前4200年頃のバイカル湖西部地域(Baikal_EN)や、紀元前5700年頃となるロシア極東の悪魔の門遺跡(DevilsCave_N)の狩猟採集民と最も類似している(図3A)、と明らかになり、この遺伝的構成の分布の地理的間隙を埋めます。

 本論文はこの遺伝的特性を「古代アジア北東部人(ANA)」と呼びます。ANEは、「古代ユーラシア北部人(ANE)」として知られる他の広範に拡大した中期完新世の遺伝的構成の地理的分布を反映しています。ANEは、更新世シベリア南部中央の、24500~24100年前頃となるマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(MA-1)や、16900~16500年前頃となるアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の狩猟採集民や、紀元前3500~紀元前3300年前頃となるカザフスタンのボタイ(Botai)文化のウマ牧畜民で見られます。

 主成分分析(図2)では、ANA個体群はアジア北東部の現代ツングース語族およびニヴフ語話者集団のクラスタに近く、その遺伝的構成が現代でも極東の在来集団に存在している、と示唆されます。モンゴル東部preBAは、遺伝的にANA集団の悪魔の門N(DevilsCave_N)と区別できませんが(図3Aおよび図4A)、Fofonovo_ENおよびわずかに後のモンゴル中央部preBA(青銅器時代よりも前)はともに、ボタイ文化集団のようなANE関連集団の系統をわずかに有しており(12~17%)、残りの系統(83~87%)はANAにより特徴づけられます(図3Aおよび図4A)。バイカル湖西部地域早期新石器時代のキトイ(Kitoi)文化(Baikal_EN)と早期青銅器時代のグラズコボ(Glazkovo)文化(Baikal_EBA)の既知のデータの再分析により、これらの個体群が類似の系統構成と経時的なANE系統のわずかな増加(6.4%から20.1%)を示す、と明らかになりました。以下、主成分分析結果を示した本論文の図2です。
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 モンゴルの牧畜に関しては、アファナシェヴォ文化のようなユーラシア西部草原地帯文化の東方への拡大により、エニセイ川上流やサヤン山脈地域経由でモンゴル北西部へ、もしくはアルタイ山脈経由でモンゴル西部へともたらされた、との推測が多くなっています。既知のアファナシェヴォ文化埋葬の大半はアルタイ山脈とエニセイ川上流地域にありますが、モンゴル中央部のハンガイ山脈南部の前期青銅器時代(EBA)となるシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡では、アファナシェヴォ様式の墳墓が、乳消費のプロテオーム分析の証拠や、ユーラシア西部系統のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とともに見つかっています。これらアファナシェヴォ文化の影響を受けたモンゴルの紀元前3112~紀元前2917年前頃となる個体群のうち2個体の分析により、その遺伝的特性は既知のエニセイ川地域に位置するアファナシェヴォ文化個体群と区別できない(図2)、と明らかになりました。したがって、これらアファナシェヴォ文化の2個体から、ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)のEBA拡大は、アルタイ山脈を越えてモンゴル中央部中心部へとさらに1500km以上東方へと拡大した、と確証されます。

 アファナシェヴォ文化の次となる、紀元前2750~紀元前1900年頃のEBAのチェムルチェク文化は反芻動物の酪農社会で、その埋葬の特徴は石板と擬人化された石碑を含むことですが、WSH移民との関連も推測されてきました。チェムルチェク文化の墓は、アルタイ山脈と現在の中国新疆ウイグル自治区のジュンガル盆地で見られます。チェムルチェク文化の、アルタイ山脈南部のヤグシインフゥドゥー(Yagshiin Huduu)遺跡の2個体と、ゴビ砂漠のアルタイ地域北部遺跡の2個体が分析されました。モンゴルのアファナシェヴォ文化個体群と比較して、ヤグシインフゥドゥー遺跡個体群もユーラシア西部系統の高い割合を示しますが、主成分分析(図2)では移動しており、アフォントヴァゴラ文化個体(AG3)やシベリア西部新石器時代個体群やボタイ文化個体群のような、ANE関連系統古代人との強い遺伝的類似性を有しています(図3A)。ヤグシインフゥドゥー遺跡のチェムルチェク文化個体群(チェムルチェク南アルタイ)は、同年代のカザフスタン東部のダリ(Dali)遺跡個体群と遺伝的に類似しています。

 ヤグシインフゥドゥー遺跡とダリ遺跡EBA個体群の遺伝的特性は、ボタイ文化個体群系統(60~78%)と、バクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化の重要なEBA遺跡であるゴヌルテペ(Gonur Tepe)の個体のような、古代イラン関連系統(22~40%)との2方向混合モデルによく適合します。アファナシェヴォ文化関連集団からのわずかな遺伝的寄与を排除できませんが、イラン関連系統は全モデルで適合し、DATESを用いてモデル化すると、この混合は分析対象となった個体群の12±6世代前(336±168年前)に起きた、と推測されます。しかし、このモデル化で用いられた全ての代理起源集団は年代もしくは地理的にEBAアルタイ地域とはかなり離れているので、チェムルチェク文化個体群に寄与する近い集団を正確には特定できません。アルタイ山脈北部では、チェムルチェク文化の2個体(チェムルチェク北アルタイ)はほぼANA関連系統(80%)で構成されており、残りはアルタイ山脈のチェムルチェク文化個体群のそれと類似しています(図3Aおよび図4A)。そこで本論文は、チェムルチェク文化個体群の地域間の遺伝的異質性を調べます。

 少数のゲノムに基づいていますが、アファナシェヴォ文化個体群もチェムルチェク文化個体群も、その後のMLBA個体群への永続的な遺伝的痕跡を残していない、と明らかになりました。これは、移住してきたEBA草原地帯牧畜民が在来集団に遺伝的変化とその持続的影響を有したヨーロッパとは著しく異なります。ユーラシア東部草原地帯におけるEBA牧畜民の一時的な遺伝的影響は、墳墓建築や酪農牧畜のようなEBA牧畜民により最初に導入された文化的特徴が現在まで継続していることを考えると、強く永続的な文化的および経済的影響とは対照的です。以下、系統構成の経時的変化を示した本論文の図3です。
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●青銅器時代における3系統の遺伝的構造の出現

 バイカル湖(関連記事)西部地域狩猟採集民(バイカルEBA)とフブスグル(Khövsgöl)の後期青銅器時代(LBA)モンゴル北部牧畜民(フブスグルLBA)との間の、共有された遺伝的構成が報告されました。この遺伝的特性は、主要なANA系統とわずかなANE系統で構成され、それ以前のバイカル湖東部地域集団(Fofonovo_EN)およびモンゴル集団(モンゴル中央部preBA)と共有されており、この遺伝的構成のほぼ3000年にわたる地域的持続性を示します。モンゴル北部を中心とするこの遺伝的特性は、他の青銅器時代集団とは異なります。全体として、LBA モンゴルでは3つの異なる地理的に構造化された遺伝子プールが見つかり、そのうちの1つを表すのがフブスグルLBA集団です。他の2者は、アルタイMLBA およびウランズーク石板墓と呼ばれます。

 紀元前1900~紀元前900年頃となるMLBAには、気候変動とともに草地が拡大するにつれて、新たな牧畜文化が山岳地帯からユーラシア東部草原地帯全域へと拡大しました。この時期は、現在ではほぼ馬乳酒生産のみと関連している、ウマの搾乳の最初の地域的証拠が確認されている点でも注目されます。また、乗馬を含むウマの利用の劇的な強化も注目され、これは草原地帯の遠隔地への移動性を大きく拡大したでしょう。アルタイ・サヤン地域では、鹿石キリグスール複合(DSKC)や他の未分類のMLBA埋葬様式(アルタイMLBA)と関連する酪農牧畜民(7個体)が、フブスグルLBA関連系統とシンタシュタ(Sintashta)文化関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統との混合の明確な遺伝的証拠を示します(図3B)。全体として、これらはユーラシア西部草原地帯集団とバイカルEBAおよびフブスグルLBAクラスタの間で主成分分析において「アルタイMLBA」勾配を形成し、ユーラシア西部系統の水準に応じてPC1軸上で変動します。

 これは、以前の研究では「草原地帯MLBA」と呼ばれることが多い、シンタシュタ的な系統のユーラシア東部草原地帯における最初の出現となります。シンタシュタ的な系統は、アファナシェヴォ文化やチェムルチェク文化個体群に存在した以前のユーラシア西部系統とは異なり、代わりにヨーロッパの縄目文土器(Corded Ware)文化集団や後のアンドロノヴォ(Andronovo)文化関連集団との密接な類似性を示します。モンゴルのホブド(Khovd)県では、DSKCや三分類のMLBA集団に属する個体群が、フブスグルLBAおよびシンタシュタの等しい割合の混合として最適にモデル化される、モンゴル北部の類似の遺伝的特性を有しています。この遺伝的特性は、以前の研究でフブスグルLBAクラスタからそれたモンゴル北部の遺伝的外れ値個体と一致します。DSKCに属する追加のアルタイMLBAの4個体と未分類のMLBA集団も、さまざまな混合割合の混合モデルと一致します。

 まとめると、アルタイMLBA勾配は、シンタシュタおよびアンドロノヴォ関連WSH集団と、フブスグルLBAにより表される在来の集団という、2起源集団の継続中の混合を明らかにします。この混合は、分析された個体群の10±22世代前(290年前頃)に起きたと推定され、不均一な系統割合と一致します。紀元前2200~紀元前1700年頃となるシンタシュタ文化は、ウマが牽引する戦車(チャリオット)のような新たな輸送技術と関連しているので、ユーラシア東部草原地帯におけるこの遺伝的特性の出現から示唆されるのは、移動能力の向上がユーラシア東部草原地帯全域の多様な集団を結びつけることに重要な役割を果たした、ということです。

 本論文のデータセットにおけるMLBAの3個体は、アルタイMLBA勾配では充分に説明できない遺伝的特性を示します。この3人は、アルタイ山脈の2個体(UAA001およびKHI001)とフブスグル県の1個体(UUS001)ですが、第三の起源系統として、ゴヌルテペ遺跡の個体(ゴヌル1BA)からのわずかな寄与でよりよくモデル化できます。まとめると、アルタイ山脈とモンゴル北部(ムンクハイルハンやDSKCや未分類のMLBA)の主要なMLBA埋葬伝統の間には文化的違いが存在したものの、異なる遺伝的集団を形成していません。

 不均一なアルタイMLBA勾配を構成する集団は、アルタイ・サヤン地域に子孫を残し、その子孫は、前期鉄器時代(EIA)のモンゴル北西部のチャンドマン(Chandman)山のサグリ・ウユク文化遺跡で特定されました(紀元前400~紀元前200年頃のチャンドマンIA)。チャンドマンIAの9個体は、主成分分析ではフブスグルLBAクラスタから離れて、アルタイMLBA勾配の端で緊密なクラスタを形成しています(図2)。EIAには、サグリ・ウユク文化集団は牧畜民およびキビの農耕牧畜民で、おもに現在のトゥヴァとなるエニセイ川上流地域に集中していました。アルタイ山脈のパジリク文化やカザフスタン東部のサカ文化とともに、サグリ・ウユク文化集団は、ユーラシア西部草原地帯とタリム盆地とエニセイ川上流全域に拡大した広範なスキタイ文化現象(関連記事)の一部を形成しました。

 EIAスキタイ文化集団は、より早期のアルタイMLBA勾配から体系的に逸脱しており、第三の祖先的構成が必要となります(図3Cおよび図4A)。この系統の出現は、バクトリア・マルギアナ複合(BMAC)文化を含むアジア中央部(コーカサスとイラン高原とマー・ワラー・アンナフル)の集団と関連しており(関連記事)、中央サカや天山山脈サカやタハル(Tagar)やチャンドマンIAのような鉄器時代集団において明確に検出される一方で、より古いDSKCやカラスク(Karasuk)集団では存在しません。この第三の構成は、これら鉄器時代集団の系統で6~24%を占め、チャンドマンIAにおける混合年代は、対象個体群の18±4世代前(紀元前750年頃)と推定され、紀元前1600年頃となるBMAの崩壊よりも後となり、紀元前550年頃となるペルシア帝国の形成よりもわずかに先行します。

 このイラン関連の遺伝的流入は、マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ、トゥーラーン)地域とフェルガナ地域の農耕牧畜民集団との増大する接触および混合によりもたらされた、と示唆されます。紀元前二千年紀後半と紀元前千年紀前半における乗馬の広範な出現と、その後のウマの輸送の高度化は、このイラン関連系統の草原地帯への増加する集団接触と拡散に貢献した可能性があります。本論文の結果は、内陸アジアの山岳回廊に沿った増加する移動性のような、接触の追加の範囲を除外しません。これも、青銅器時代に始まり、現在の新疆ウイグル自治区経由でアルタイ山脈へこの系統をもたらしました。以下、各集団の系統構成を示した本論文の図4です。
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 アルタイ山脈とモンゴル北部のMLBAおよびEIAクラスタとは対照的に、異なる埋葬伝統がモンゴル東部および南部地域、とくに紀元前1450~紀元前1150年頃となるLBAウランズーク文化と紀元前1000~紀元前300年頃となるEIA石板墓文化で見られます。他の同年代のユーラシア東部草原地帯集団とは対照的に、これら石板墓と関連する個体群は、ANEとWSH両方の混合が欠如している、明確なアジア北東部(ANA関連)遺伝的特性を示します(図2・図3C・図4)。両集団は反芻動物の牧畜民で、EIA石板墓文化もウマを搾乳していました。

 ウランズーク文化と石板墓文化の個体群の遺伝的特性は区別できず(図2)、石板墓伝統がウランズーク文化から出現した、とする考古学的仮説と一致します。両集団は、紀元前4600年頃となるそれ以前のモンゴル東部preBA個体とも遺伝的に区別できず(図2)、先史時代モンゴル東部の遺伝子プールの4000年以上にわたる長期的安定が示唆されます。さらなる分析では、ウランズーク文化と石板墓文化の個体群は単一の遺伝的集団に統合されました。このウランズーク石板墓遺伝的クラスタは、以前に報告されたフブスグル県のDSKC東部外れ値や、LBA~EIA移行期のモンゴル中央部の文化的に未分類の個体(TSI001)の起源である可能性が高い、と推測されます。

 さらに、モンゴル北西部のムンクハイルハン文化個体(KHU001)は、バイカルEBA系統に加えて、無視できない割合のウランズーク石板墓系統を有しています。これら3個体は、モンゴルの北西部と東部の間の時として起きた長距離接触を証明しますが、アルタイ山脈のウランズーク石板墓系統の証拠は見つからず、MLBAにおけるモンゴル東部および南部外のウランズーク石板墓系統の遺伝的特性の全体的な頻度はたいへん低くなっています。EIAにおいて石板墓文化は北方へ拡大して、時としてその拡大経路において先行者であるDSKC墓を破壊して根絶し、最終的に北はバイカル湖東部地域にまで達して、それは石板墓文化個体(PTO001)の遺伝的特性に反映されています(図3C)。全体的に本論文の知見は、前期鉄器時代末までの青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団における強い東西の遺伝的分割を明らかにします。モンゴル中央部および南部のさらなる標本抽出は、これらの遺伝的特性の地理的分布および現在の知見の代表性の改善に役立つでしょう。


●最初の帝国的な草原地帯国家となる匈奴

 紀元前千年紀の後半に、ユーラシア東部草原地帯の先史時代集団から、大規模な国家が発展し始めました。匈奴は牧畜民により建てられた最初の歴史的に記録された帝国で、その設立はユーラシア東部草原地帯の社会政治的歴史の分水嶺的事象とみなされています。匈奴は紀元前3世紀から紀元後1世紀まで、アジア東部および中央部で政治的支配を維持しました。匈奴の人々の文化的・言語的・遺伝的構成は、ユーラシア東部草原地帯における他の同年代の遊牧集団やその後の遊牧集団との関係のように、たいへん興味深いものでした。本論文は、モンゴル全土からのほぼ匈奴時代全期間にわたる、紀元前200~紀元後100年頃となる60個体のゲノム規模データを報告します。ほとんどの個体の年代は紀元前50年頃以後となる後期匈奴時代ですが、13個体は紀元前100年以前で、北方の前期匈奴の境界となるサルキティンアム(Salkhityn Am)遺跡(SKT)およびアツィンゴル(Atsyn Gol)遺跡(AST)の12個体と、モンゴル東部のジャルカランティムアム(Jargalantyn Am)前期匈奴遺跡(JAG)の1個体を含みます。

 前期匈奴の形成に寄与した2つの異なる人口統計学的過程が観察されました。まず、前期個体の約半数(6個体)は、アルタイ・サヤン地域の先行するサグリ・ウユク文化のチャンドマンIAと類似する遺伝的クラスタを形成します(前期匈奴西部)。この6個体の系統は、その92%がチャンドマンIAに由来し、残りは代理としてBMACを用いてモデル化される追加のイラン関連系統に由来します(図3Dおよび図4D)。これが示唆するのは、EIAにおけるチャンドマンIAで特定された低水準のイラン関連遺伝子流動は、紀元前千年紀後半にも継続しており、モンゴル西部および北部全域に拡大した、ということです。

 次に、6個体の前期匈奴の残り(前期匈奴残り)は、前期匈奴西部とウランズーク石板墓クラスタの中間に位置します。このうち4個体は前期匈奴西部(39~75%)と、ウランズーク石板墓関連系統(25~61%)の異なる割合を有しており、2個体(SKT004とJAG001)はウランズーク石板墓クラスタと区別できません(図3D)。前期匈奴西部とウランズーク石板墓遺伝子プールを結ぶこの遺伝的勾配は、ユーラシア東部草原地帯における深く分岐して異なる2系統の統一を示しています。その一方は西部のDSKCやムンクハイルハン文化やサグリ・ウユク文化集団の子孫で、もう一方は東部のウランズーク石板墓文化集団の子孫です。全体的に、以前のサグリ・ウユク文化から継続するイラン関連の遺伝子流動の低水準の流入と、ユーラシア東部草原地帯の遺伝子プールを統合する新たな東西混合の突然の出現が、匈奴台頭と関連した2つの明確な人口統計学的過程です。

 後期匈奴の個体群では、さらに高い遺伝的異質性が見られ、主成分分析上の分布からは、前期匈奴で明らかな2つの人口統計学的過程が後期匈奴でも継続したものの、新たな波の追加と遺伝子流動の複雑な方向性を伴っていました。後期匈奴の47個体のうち26個体は、前期匈奴で見られる同じ混合過程により適切にモデル化できます。このうち22個体はチャンドマンIAとウランズーク石板墓の混合として、2個体(NAI002とTUK002)はチャンドマンIAとBMACもしくはチャンドマンIAとウランズーク石板墓とBMACの混合として、2個体(TUK003とTAK001)は前期匈奴西部とウランズーク石板墓もしくは前期匈奴西部とフブスグルLBAの混合としてモデル化できます(図3Dおよび図4D)。さらに2個体(TEV002とBUR001)も前期匈奴遺伝子プールに由来する可能性が高いものの、そのモデルのp値は閾値よりわずかに低くなっています。しかし、PC1軸に沿ったユーラシア西部系統との類似性の高い割合を有する後期匈奴の11個体は、BMACもしくは他の古代イラン関連集団を用いてモデル化できません。代わりに、この11個体は、ユーラシア西部および中央部草原地帯のさまざまな場所の古代サルマタイ人(Sarmatian)のクラスタに重なります(図2)。

 混合モデル化により、後期匈奴におけるサルマタイ人関連遺伝子プールの存在が確証されます。11個体のうち、3個体(UGU010とTMI001とBUR003)はサルマタイ人と区別できず、2個体(DUU001とBUR002)はサルマタイ人とBMACとの間の混合、3個体(UGU005とUGU006とBRL002)はサルマタイ人とウランズーク石板墓との間の混合、3個体(NAI001とBUR004とHUD001)のモデル化ではサルマタイ人とBMACとウランズーク石板墓の3系統が必要となります。さらに、PC1軸沿いでは最も高いユーラシア東部系統との類似性を有する8個体は、ウランズーク石板墓およびフブスグルLBAの両方と異なり、PC2軸では現在のアジア東部からさらに南方の人々への類似性を示します(図2)。これらのうち6個体(EME002とATS001とBAM001とSON001とTUH001とYUR001)は、ウランズーク石板墓と漢人の混合として適切にモデル化され、とくにYUR001は、既知の漢帝国兵士2人(漢200年前)と密接な遺伝的類似性を示しています。8個体のうち残りの2個体(BRU001とTUH002)は類似していますが、モデル化にはサルマタイ人系統の追加が必要です。

 したがって後期匈奴は、前期匈奴と区別される2つの追加の人口統計学的過程により特徴づけられます。一方は、新たなサルマタイ人関連のユーラシア西部系統からの遺伝子流動で、もう一方は、同時代の漢の人々との相互作用と混合の強化です。以前のエグ川匈奴(Egyin Gol Xiongnu)墓地の研究では、ユーラシア東西両方の起源のmtHgが報告されており、これは本論文におけるゲノム規模データからの東西の混合の発見と一致します。まとめると、これらの結果は、モンゴルにおいて推定される人々の出入と、匈奴が漢やアジア中央部のシルクロード諸王国を含む近隣に及ぼした政治的影響力を報告する歴史的記録とよく一致します。全体として匈奴時代は、モンゴル東西の遺伝子プールを統合することにより始まり、アジア東西の遺伝子プールを統合することにより終了した、広範な遺伝子流動の一つとして特徴づけられます。


●匈奴時代後の国家における変動する遺伝的不均一性

 紀元後100年に匈奴が崩壊した後の数世紀にわたって、政治的に細分化されたユーラシア東部草原地帯全域で、一連の遊牧民の政権が台頭しては没落しました(以下、年代は基本的に紀元後)。それは、100~250年頃の鮮卑、300~550年頃の柔然、552~742年頃の突厥、744~840年頃のウイグルです。本論文における前期中世の標本は不均一で、鮮卑もしくは柔然時代の未分類の1個体(TUK001)、突厥の埋葬と関連した8個体、ウイグルの墓地の13個体から構成されますが、これらの個体が、先行するする匈奴時代とは異なる遺伝的特性を有することは明確で、モンゴルへの遺伝子流動の新たな供給源が示唆されます。

 250~383年頃となるTUK001個体は、埋葬がより早期の匈奴墓地への嵌入でしたが、最も高いユーラシア西部系統との類似性を有します。この系統はサルマタイ人のそれとは異なり、BMACおよびイラン関連系統を有する古代集団とより密接です(図2)。ユーラシア東部系統との最も高い類似性を有する個体のうち、突厥期の2個体とウイグル期の1個体は、ウランズーク石板墓クラスタと区別できません。唐王朝の支配層のテュルク時代の使者の墓の傾斜路から回収された別の個体(TUM001)は、漢人関連系統の高い割合(78%)を有します(図3E)。2匹のイヌと一緒に埋葬されたこの男性は、おそらく漢人の墓の入り口を守るために犠牲とされた殉葬者でした。残りの突厥期とウイグル期の17個体は、中間的な遺伝的特性を示します(図3E)。

 前期中世の高い遺伝的異質性は、ウイグル期のオロンドヴ(Olon Dov)の墓地の12個体により鮮やかに例証されます。オロンドヴの12個体のうち6個体は単一の墓(19号墓)に由来し、そのうち2個体(OLN002とOLN003)のみが血縁関係にあります(2親等)。より密接な親族関係の欠如は、そうした墓の機能と、被葬者の社会的関係についての問題を提起します。ほとんどのウイグル期の個体は、高いものの、変動的なユーラシア西部系統を示します。その最適なモデル化は、サルマタイ人の子孫である可能性が高い遊牧民集団であるアラン人と、同時代のフン人と、イラン(BMAC)関連系統集団というユーラシア西部系統との混合で、ウランズーク石板墓系統(ANA関連系統)も伴います。突厥とウイグル個体群で推定された混合年代は500年頃で、突厥個体群の8±2世代前、ウイグル個体群の12±2世代前となります。


●モンゴル帝国の台頭

 9世紀半ばのウイグル帝国崩壊後、現在の中国北東部のキタイ(契丹)が916年に強力な遼王朝を樹立しました。キタイはユーラシア東部草原地帯の広範な地域を支配し、征服領域内に人々を移住させたとの記録が残っていますが、モンゴルではキタイ時代の墓地はほとんど知られていません。本論文では、ボルガン(Bulgan)県のキタイ時代の3個体(ZAA003とZAA005とULA001)が分析され、全て強いユーラシア東部系統の遺伝的特性を有し、ユーラシア西部系統は10%未満です(図3Aおよび図4B)。これは、モンゴル語族話者であるキタイのアジア北東部起源を反映しているかもしれませんが、モンゴル内でキタイ集団の遺伝的特性を適切に特徴づけるには、より大きな標本規模が必要です。1125年、キタイ帝国はジュシェン(女真)の金王朝に敗れて崩壊し、金王朝は1234年にモンゴルに征服されました。

 モンゴル帝国の最大範囲はユーラシアのほぼ2/3にまたがっていました。モンゴル帝国は世界最大の連続した陸上国家で、その「国際的な」実態はユーラシア草原地帯中心部に流入した多様な集団で構成されていました。低い地位の地元の支配層と一致する、モンゴル期の62個体の被葬者が分析されました。王室もしくは地域的な支配層は含まれず、カラコルムのような「国際的首都」の個体群も含まれません。モンゴル期の個体は多様と明らかにされましたが、匈奴期の個体群よりもずっと低い遺伝的異質性を示しており(図2)、匈奴期およびそれ以前のモンゴル北部および西部のMLBA文化集団で存在していた残りのANE関連系統(チャンドマンIAとフブスグルLBA)が、ほぼ欠如しています。

 平均して、モンゴル期の個体群はそれ以前の帝国よりもずっと高いユーラシア東部系統との類似性を有しており、モンゴル期は現代モンゴル人の遺伝子プールの形成の始まりを示します。ほとんどの歴史的なモンゴル人は、ウランズーク石板墓関連系統と漢人関連系統とアラン人関連系統を代理とする、3方向混合モデルによく適合します。主成分分析(図2)と一致して、1集団としてのモンゴル期の個体群は、ユーラシア西部系統(アラン人もしくはサルマタイ人)15~18%と、ウランズーク石板墓関連系統55~64%と、漢人関連系統21~27%でモデル化できます。各個体に同じモデルを適用すると、この3起源モデルは61人のうち51人と、モンゴル帝国初期の頃となる未分類の後期中世1個体(SHU002)を適切に説明します。

 1368年のモンゴル帝国の崩壊以来、モンゴル人集団の遺伝的特性は実質的に変わっていません。モンゴル帝国期に確立された遺伝的構造は、モンゴルとロシアの現代のモンゴル語族話者集団を特徴づけ続けています。個人単位のqpWave分析を用いて、モンゴル期の個体群と現代のモンゴル語族話者7集団間の遺伝的系統を調べると、現在のデータの分析内では、モンゴル期の61人のうち34人は、少なくとも1つの現代モンゴル語族話者集団と遺伝的にクレード(単系統群)化されます。モンゴル帝国は、ユーラシア東部草原地帯の政治的および遺伝的景観の再構築に大きな影響を及ぼし、これらの影響はモンゴル帝国の衰退後も長く続き、現在でもモンゴルにおいて明らかです。


●ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的および性別的側面

 ユーラシア東部草原地帯における繰り返しの混合の機能的側面を調べるため、機能的もしくは進化的側面と関連する5ヶ所の一塩基多型が調べられました。それは、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する遺伝子(LCT/MCM6)、歯の形態と関連する遺伝子(EDAR)、色素沈着関連遺伝子(OCA2とSLC24A5)、アルコール代謝関連遺伝子(ADH1B)です。

 まず、乳消費の広範な直接的証拠を伴う牧畜民生活様式にも関わらず、ユーラシア東部草原地帯におけるMLBAとEIAの個体群は、LPをもたらす派生的な変異を有していなかった、と明らかになりました。その後の個体群は、ヨーロッパで現在広がっている変異(rs4988235)を有していたものの、無視できるほどの低頻度(5%)で、経時的な頻度増加はありませんでした。これは、他の酪農産物に加えて、一部の現代モンゴル遊牧民が夏季には1日4~10Lの馬乳酒(2.5%のラクターゼ)を消費し、毎日100~250gの乳糖を摂取することからも、やや注目に値します。一方ヨーロッパでは、LPをもたらす派生的な変異の青銅器時代後の継続的な強い選択が明らかになっています(関連記事)。壁面彫刻の描写から、馬乳酒生産はエニセイ川流域でEIAにまでさかのぼり、歴史的なモンゴルの記述には、馬乳酒の大量かつ頻繁な消費や、広範な反芻動物の液体および個体の生産物が記録されており、古代のプロテオーム分析の証拠によりさらに確認されています。モンゴル人がLPのない状態で何千年もの間大量の乳糖を消化できた方法は不明ですが、乳糖を消化するビフィズス菌が豊富に存在する、珍しい腸内微生物叢(ヒトの体内に住む微生物群、マイクロバイオーム)と関連しているかもしれません。

 地域的な選択的一掃を受けた遺伝標識は、ゲノム規模の系統特性における変化と相関するアレル(対立遺伝子)頻度の変化を示します。たとえば、EDAR遺伝子のrs3827760(エクトジスプラシンA受容体)やSLC24A5のrs1426654といったアレルは、それぞれアジア東部人やユーラシア西部人における良く知られた正の選択の標的です。本論文のMLBAおよびEIA集団は、これら2ヶ所の一塩基多型のアレル頻度の強い集団分化を示します。rs3827760の頻度は、ユーラシア東部系統との高い類似性を有する集団(フブスグルLBAとウランズーク石板墓)でずっと高いのに対して、rs1426654はアルタイMLBAやチャンドマンIAで高くなっています。アジア東部人でより最近の正の選択を受けた2ヶ所の一塩基多型、つまりADH1B遺伝子のrs1229984とOCA2遺伝子のrs1800414は、MLBAとEIAには欠如しているかきょくたんに低頻度でしたが、中華帝国や他集団との相互作用を通じてアジア東部系統が増加するにつれて、経時的に頻度が上昇しました。

 ユーラシア東部草原地帯の人口史の性別的側面も調べられました。遺伝的混合の性的に偏ったパターンは、移住や社会的親族や家族構造の性別的側面の解明に有益かもしれません。EIAのサグリ・ウユク文化期と突厥期における男性に偏ったWSH混合の明確な兆候が観察され、Y染色体ハプログループ(YHg)Q1aの衰退、およびそれに伴うYHg-R・Jの台頭と対応します(図S2A)。その後のキタイおよびモンゴル期には、アジア東部関連系統の顕著な男性の偏りが観察され(図S2C)、YHg-O2aの頻度上昇でも確認されます(図S2A)。匈奴期は、男性に偏った混合の最も複雑なパターンを示し、それにより集団の異なる遺伝的部分集合の証拠を示します(図S2C)。

 匈奴では10組の遺伝的親族が検出され、ジャルカランティムアム遺跡の同じ墓に葬られた父親と娘の組み合わせ(JAG001とJAA001)、イルモヴァヤパッド(Il’movaya Pad)遺跡の母親と息子の組み合わせ(IMA002とIMA005)、タミリン・ウラーン・コーシュー(Tamiryn Ulaan Khoshuu)遺跡の兄と妹もしくは姉と弟の組み合わせ(TMI001 and BUR003)、サルキティンアム遺跡の兄弟の組み合わせ(SKT002 and SKT006)が含まれます。残りの6組のうち3組は同じ遺跡内で葬られた女性同士の親族で、匈奴集団内の拡大された女性親族関係の存在が示唆されます。常染色体の縦列型反復配列(STR)データに基づくエグ川匈奴墓地の以前の研究では、単一遺跡内の1親等の親族関係も報告されていました。これらの関係は、埋葬の特徴と組み合わせると、匈奴帝国内の在来系統と親族構造への最初の手がかりを提供します。以下、YHg(図S2A)とmtHg(図S2B)の経時的な頻度変化と、各系統の性的偏りを示した本論文の図S2です。
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●まとめ

 ユーラシア東部草原地帯の人口史は、多様なユーラシア東西の遺伝子プールの繰り返しの混合により特徴づけられます。しかし、ユーラシア東部草原地帯における人口統計学的事象は、単純な移住の波というよりは、むしろ複雑で変化に富んだものでした。200個体以上のゲノム規模の古代データセットの生成により、紀元前4600年頃からモンゴル帝国末にわたる、この動的な人口史の最初の遺伝的証拠が提示されます。ユーラシア東部草原地帯は、古代アジア北東部人(ANA)および古代ユーラシア北部人(ANE)系統の狩猟採集民により中期完新世に植民され、その後は青銅器時代に酪農牧畜経済に移行した、と明らかになりました。移住してきたヤムナヤおよびアファナシェヴォ草原地帯牧畜民は馬車と家畜を有しており、紀元前3000年頃に反芻動物の酪農牧畜を初めてユーラシア東部草原地帯に導入したようですが、ヨーロッパとは異なり、持続的な遺伝的影響はほとんどありません。MLBAまでに、反芻動物の酪農牧畜は、系統に関係なくユーラシア東部草原地帯全域の集団により採用されており、この生計は継続し、LBAにはウマの搾乳、モンゴル期にはラクダの搾乳が追加され、現在に至っています。しかし、ユーラシア西部から集団がその後も移動してきてラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)関連遺伝子が繰り返し導入されたにも関わらず、酪農牧畜導入以来5000年以上、LPが選択された証拠はありません。これは、今まで説明されていない、アジアにおける乳糖適応の異なる軌跡を示唆します。

 MLBAには、ユーラシア東部草原地帯における3者の遺伝的構造が観察されます。それは、東方における青銅器時代より前のANA系統の持続と、北方における青銅器時代より前のANA系統とANE系統との間の遺伝的多様性の勾配と、西方における新たなシンタシュタ関連ユーラシア西部草原地帯牧畜民(WSH)系統の割合増加により特徴づけられます。ヨーロッパの縄目文土器文化との遺伝的関連を有する、ユーラシア西部の森林草原地帯に分布していたシンタシュタ文化集団は、青銅の冶金と戦車(チャリオット)に長け、ユーラシア東部草原地帯におけるシンタシュタ文化関連系統の出現は、新たな、とくにウマと関連した技術の導入と関連していたかもしれません。とくにキリグスール複合(DSKC)文化は、輸送とおそらくは騎乗においてウマの使用の広範な証拠を示し、遺伝的分析からは、これらのウマとシンタシュタの戦車を引いたウマとの間の密接な関連が示されてきました。この時点での青銅器時代ユーラシア東部草原地帯集団間の強い東西の遺伝的分割は、広範な騎乗の最初の明確な証拠が出現し、一部集団の移動性が高まったEIA末まで1000年以上維持され、とくに東方の石板墓文化で、この構造の破壊が始まりました。最終的に、これら主要な3系統が遭遇して混合し、これは匈奴帝国の出現と同時でした。匈奴は、現在の中国やアジア中央部やユーラシア西部草原地帯からの新たな追加の系統が急速に遺伝子プールに入ったので、遺伝的異質性のきょくたんな水準と増加する多様性により特徴づけられます。

 その後の前期中世の遺伝的データは比較的まばらで不均一であり、鮮卑もしくは柔然の遺跡ではまだほとんど特定されておらず、匈奴と突厥の間の400年の空隙があります。突厥期とウイグル期には、高い遺伝的異質性と多様性が観察され、それが続くウイグル帝国の崩壊期には、より大きなユーラシア東部系統へと向かう、後期中世における最終的で主要な遺伝的変化が示されます。この変化は、ユーラシア東部草原地帯への北東からの、ツングース語族話者集団のジュシェン(女真)の拡大と、モンゴル語族話者集団であるキタイ(契丹)およびモンゴルの拡大という、歴史的記録と一致します。また、このアジア東部関連系統は、女性よりも男性により、後期中世集団へと多くもたらされました。モンゴル期の末までに、ユーラシア東部草原地帯の遺伝的構成は劇的に変わり、先史時代には顕著な特徴だったANE系統はほとんど残っていませんでした。現在、ANE系統は孤立したシベリア集団と、アメリカ大陸先住民集団でのみ、かなりの割合で残っています(関連記事)。歴史時代のモンゴルの遺伝的特性は、現代モンゴル人の間で依然として反映されており、過去700年のこの遺伝子プールの相対的安定性が示唆されます。

 本論文はユーラシア東部草原地帯における遺伝的変化の重要な時期を報告したので、将来の研究は、これらの変化が文化的および技術的革新と関連していたのかどうか、これらの革新は政治的景観にどのように影響を及ぼしたのか、調べることができるかもしれません。これらの調査結果をウマの技術や放牧慣行や家畜の特性や品種の変化と統合することで、とくに解明が進むかもしれません。この研究は、ユーラシア東部草原地帯の最初の大規模な古代ゲノム調査となり、この地域の顕著に複雑で動的な遺伝的多様性に光を当てました。この進歩にも関わらず、世界の先史時代素におけるユーラシア東部草原地帯とその重要な役割の人口史をじゅうぶん明らかにするためには、ユーラシア中央部と東部、とくに現在の中国北東部とタリム盆地とカザフスタン東部草原地帯におけるさらなる遺伝的研究が依然として必要です。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。ユーラシア東部の古代ゲノム研究はユーラシア西部と比較して遅れていますが、本論文はユーラシア東部草原地帯の包括的な古代ゲノムデータを報告しており、ひじょうに注目されます。ユーラシア東部草原地帯における完新世の複雑な人類史はある程度想定していましたが、本論文はそれよりもずっと複雑な混合過程を示しており、自分がいかに単純化していたか、思い知らされました。もちろん、本論文で指摘されているように、本論文の云う前期中世(鮮卑~柔然期)のゲノムデータが不足しているので、今後の研究の進展が期待されます。今年(2020年)になって、中国の古代ゲノム研究も大きく進展しており(関連記事)、今後、遅れていたユーラシア東部の古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、日本列島集団の形成過程もより詳細に解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015

大河ドラマ『麒麟がくる』第31回「逃げよ信長」

 織田信長は、勅命を得て徳川家康や松永久秀など同盟勢力を動員し、大軍で若狭に攻め込み、そこから越前へと進軍して朝倉を攻めます。織田軍は順調に進みますが、金ヶ崎城があっさりと陥落したことを久秀は不審に思います。久秀の懸念は的中し、近江の浅井長政が裏切り、織田軍は挟み撃ちの危機に陥ります。朝倉の本拠の一乗谷城に攻め込む、と言い張る信長を、ここで死んではならない、と明智光秀(十兵衛)は説得し、信長は激昂しつつも退却を決意します。信長は先に退却し、光秀は金ヶ崎城に残ろうとします。そこへ木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿を申し出て、自分の貧しい生い立ちと出世への強い想いを光秀に語ります。光秀は藤吉郎とともに殿を務め、苦戦しつつも退却に成功します。本当に殿を務めたのか、他の織田家臣から疑われた藤吉郎を光秀は弁護します。この敗戦を前に、帰蝶への返事と将軍への報告と参内をどうすべきか悩んでいる信長を、信長が生きているならば次があり、敗戦ではない、と光秀は励まします。

 今回は信長の撤退戦が描かれ、貧しい生い立ちの藤吉郎の情念と屈折した想いが明かされました。この藤吉郎の個性が今後の光秀との関係でどう描かれるのか、また本能寺の変とどう関わってくるのか、注目されます。光秀と家康の再会場面も、短かったものの気になります。本作の家康は、子役2人が起用され、幼い頃から登場するなど、かなり扱いが大きいように思います。家康も本能寺の変と関わってくるのかもしれませんが、あるいは、光秀の平和な世への想いを受け継ぐのは家康という話になるのでしょうか。光秀と家康との今後の関係も注目されます。

最古の寝具

 最古の寝具に関する研究(Wadley et al., 2020)が報道されました。人類による火の使用の古い証拠は、100万年前頃となる南アフリカ共和国のワンダーウェーク洞窟(Wonderwerk Cave)遺跡(関連記事)や、150万年前頃となるケニアのクービフォラ(Koobi Fora)のFxJj20遺跡で得られています。アフリカ外での火の使用の古い事例としては、80万年前頃となるスペインのネグラ洞窟(Cueva Negra del Estrecho del Río Quípar)岩陰遺跡や78万年前頃となるイスラエルのジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya’akov)開地遺跡(関連記事)が知られています。これらの遺跡における積み重ねられた炉床と複数の熱使用の証拠から、人類が火を意図的に制御していた、と示唆されます。40万年前頃以降、火は遺跡で頻繁に確認されるようになり、調理や暖房や明かりや社交や捕食者対策のために用いられました。

 本論文は、南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)における、20万年以上前となる新たな火の使用法を報告します。ボーダー洞窟の住人は、灰層の上に広い葉の草の敷物(寝具)を体系的に置き、近くに炉床を設置し、時々寝具を燃やしました。既知の最古となる植物製の寝具は南アフリカ共和国のシブドゥ(Sibudu)遺跡で発見された77000年前頃のもので(関連記事)、より新しい年代のものが他の遺跡で発見されています。シブドゥ遺跡では、殺虫性の化学物質を含む芳香植物(スゲや他の単子葉植物)から葉を切り取った寝具が作られ、古くなった寝具が焼かれることもありました。ボーダー洞窟の事例は、そうした行動がシブドゥ遺跡の事例よりもずっと早く20万年以上前に始まっていたことを示します。

 ボーダー洞窟では227000~1000年前頃までの人類による居住が確認されています。炉床や灰層や草の寝具はボーダー洞窟の全層で確認されます。最古の草の寝具は227000±11000~183000±2000年前頃となる5WA層で発見され、炉床が近くにあり草の端が焦げていますが、ほとんどは焼かれていないため、寝具の偶発的な焼失は稀だったと推測されます。4 WA層の厚い灰は、捕食者からの防御や調理のための燃焼の痕跡と推測されます。ボーダー洞窟では、5BS層と4 WA層でヒポキシス属の根茎を調理していた痕跡が発見されています(関連記事)。

 5WA層の寝具の草は、プラントオパール分析により、キビ亜科(イネ科)と特定されました。また、寝具の炭には、現代アフリカにおいて植物製寝具で防虫剤として使用されている、芳香性の葉を有するレレシュワ(Tarchonanthus camphoratus)が含まれています。ボーダー洞窟で確認された植物は、現在でも近くの森林に存在します。また寝具が時々新調される前に、維持のために焼かれたことを示す証拠も見つかりました。灰には防虫効果があります。寝具では赤色と橙色のオーカー粒も発見されており、人々が寝具を利用した時に物体やヒトの皮膚から剥がれた、と推測されます。オーカーは30万年以上前からアフリカで使用されていました(関連記事)。石器製作の残骸が草の残骸と混ざり合っているので、人々は寝具の上で作業したり寝たりした、と推測されます。

 ボーダー洞窟の住民は、火を制御できて定期的に使用し、火と灰と薬用植物により防虫効果のある拠点を維持できました。狩猟採集民の重要な特徴として移動性がありますが、このように防虫効果のある行動は居住地の潜在的範囲を広げた、と推測されます。ボーダー洞窟の20万年前頃の人類の行動は、10万年前頃以降の革新的な物質文化に明らかな、認知的・行動的・社会的複雑さの早期の可能性も示唆しています。「現代的」行動は、ある時点で一括して出現したのではなく、長期の試行錯誤の過程でじょじょに出現し、揃っていったと推測されます。


参考文献:
Wadley L. et al.(2020): Fire and grass-bedding construction 200 thousand years ago at Border Cave, South Africa. Science, 369, 6505, 863–866.
https://doi.org/10.1126/science.abc7239

第4世代Ryzenの性能

 昨日(2020年11月6日)、先月公式発表されたAMD製CPUの第4世代Ryzen(Zen3アーキテクチャ)が日本で発売され、同時にベンチマークも公開されました。リーク情報ではZen2アーキテクチャから大きく性能が向上した、とされていましたが、実際の性能も少なからぬリーク情報と一致していたようで、ここまで性能が向上するとは、昨年の時点では予想していませんでした。昨年8月に、Zen2アーキテクチャの性能向上と評判の良さから、約8年ぶりにデスクトップパソコンを買い替えましたが(関連記事)、これならば、もう1年3ヶ月ほど待てばよかったかな、とやや後悔しています。ただ、先代のデスクトップパソコンはすでにやや不安定になっており、私の使い方でも性能面でやや不満が出てきていただけに、結果的には買い替えて正解だったかもしれません。

 ただ、第4世代Ryzenの価格はやや高めなので、コストパフォーマンスの観点からは、やや魅力に欠けるとも言えます。しかし、性能と消費電力の観点からは、素晴らしい製品だと思います。デスクトップパソコン用の高性能CPUでは、AMDはIntelに長い間及ばなかったのですが、第1世代Ryzen以降の躍進は目覚ましいものがあります。第4世代Ryzenはチップセットも変わり、メモリも現行のDDR4からDDR5に変わるようなので、どれだけ性能が向上するのか、楽しみです。また、Intelにも巻き返しを期待していますが、しばらくは、少なくとも以前のような性能面での優位を確立することは難しそうです。

 第4世代Ryzenに対応する新たなチップセットは公表されなかったので、相変わらずX570が最新の対応チップセットとなります。私が現在使用しているデスクトップパソコンのマザーボードはX570ですから、BIOSをアップデートすれば第4世代Ryzenに換装することも可能なようです。まあ、まだ購入してから1年3ヶ月で、私の使い方では性能面に関してとくに問題はありませんし、発売されたばかりでまだ高いので、すぐに第4世代Ryzenを購入するつもりは全くありませんが、2022年に第5世代Ryzenが発売されれば、第4世代Ryzenもさらに安くなるでしょうから、その頃にPCI-Express4.0対応のSSDとGPUと共に購入することも考えています。

光成準治『本能寺前夜 西国をめぐる攻防』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2020年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、地域としては畿内よりも西、とくに毛利を、年代は織田信長の上洛から本能寺の変までを主要な対象として、織田権力と西国の大名・領主層との関係に着目し、本能寺の変を検証しています。本書から窺えるのは、戦国時代の領主層の自立性と、それがとくに境目の領主である場合、勢力間の争いを惹起しやすい、ということです。これは本書の主要な対象地域だけではなく、全国的に当てはまることなのでしょう。また、領主連合的性格の強い毛利はとくにそうですが、一応は傘下に入った領主も、自立的であるため、毛利のような上位権力の支持に従順とは限らず、これも戦国時代の情勢を流動化させます。

 織田と毛利は、共に足利義昭を奉じる勢力として、同盟関係にありました。これは、織田信長が義昭を都から追放した後もしばらくは変わりませんでした。じっさい、信長は義昭追放後もその嫡男を擁しており、毛利が仲介して、信長と義昭との間で義昭の都への帰還も交渉されていました。ただ、義昭が将軍就任後、織田と毛利の勢力圏が接近していくにつれて、両者は相互を警戒するようになります。また、上述の領主層の自立的性格という構造的問題もあり、両者の間の関係は悪化する方向へと向かいます。それでも、織田も毛利も互いに決定的な関係悪化を避けるようにしていました。しかし、毛利も織田の西国への勢力圏拡大志向に脅威を強く認識するようになり、ついに織田との戦いを決意し、領国に義昭を迎えます。ここから、西国の諸勢力を捲き込み、織田と毛利の本格的な戦いが始まります。織田にとっても、別所や荒木の寝返りなどといった苦境の場面はありましたが、苦しいのは毛利も同様でした。

 別所や荒木の織田方からの離反など、毛利も荷担した反織田勢力が優勢な局面もあったものの、上述のように、領主連合的性格の強い毛利は、容易には当主の思惑通りに軍事動員できない弱点も抱えていました。そのため毛利輝元は、武田勝頼から上洛の好機と勧められても、上洛戦を断念しました。これを毛利の弱さと見た宇喜多は、織田方に寝返ります。毛利首脳陣も、毛利が弱さを見せたら、宇喜多のような境目の領主が離反する危険性をよく認識していましたが、それでも防ぐことはできませんでした。南条も毛利方から織田方へと寝返り、次第に毛利は劣勢になっていきます。とはいえ、織田は一方的に侵攻できたわけでも、侵攻一本槍でもなく、和平の意思も示しており、硬軟両路線で毛利に対峙しました。本書は、織田家中において対毛利政策の武力討伐路線の主な担い手が羽柴秀吉、講和路線の主な担い手が明智光秀だった、と推測します。そのため、織田家中の対毛利政策の路線で最終的に武力討伐が採用された場合、光秀が失脚する危険性もあっただろう、と本書は指摘します。このように信長は家臣同士を競争させることで、勢力を拡大していきました。

 そうした状況下で、本能寺の変の直前には、光秀が織田側の窓口となっていた長宗我部に対して、信長が討伐方針を明確にし、信長の息子の信孝が総大将的な地位に抜擢されました。また、信長自身が毛利主力との決戦を選択して自ら出陣することになり、対毛利講和路線も破綻しました。これらの情勢変化により、光秀は失脚の危機感を募らせ、信長とすでに家督を継承していた信忠が都にわずかな兵とともにいる「千載一遇の好機」に遭遇し、謀反を決意したのではないか、というのが本書の見通しです。

翼竜類の飛行効率

 翼竜類の飛行効率に関する研究(Venditti et al., 2020)が公表されました。生物多様性の長期的な蓄積の過程では、生物による新たな生態学的機会の利用を可能とする、大規模な進化的移行が繰り返し起きてきました。1億5000万年以上にわたって空を支配し、白亜紀の終わり(約6500万年前)に非鳥類型恐竜と共に絶滅した中生代の飛行性爬虫類(翼竜類)は、そうした移行の産物でした。翼竜類の祖先は、小型でおそらく二足歩行の初期の主竜類で、間違いなく陸上でのロコモーションによく適応していました。翼竜類は前期三畳紀(約2億4500万年前)に恐竜類の祖先から分岐しましたが、最古の翼竜類化石の年代はその2500万年後の後期三畳紀とされています。したがって、原始的な翼竜類の化石が存在しないことから、この動物群で飛行が最初にどう進化したのか、研究することは困難です。

 本論文は、翼竜類の新たなロコモーションへの適応の進化的動態について報告します。既知で最古の翼竜類は飛行が可能で、その後、有能で効率の良い飛行動物になった、と推測されています。しかし、陸上から空中へのロコモーション様式の移行が、初期の翼竜類に対して高いエネルギー負荷を課すことで問題を突きつけ、その飛行にそうした負荷を相殺できるような何らかの適応度利益の提供を要求したことは明らかと考えられます。本論文は、系統発生学的な統計学的方法および生物物理学的モデルを化石記録から得られた情報と組み合わせて用いることで、数百万年にわたって飛行効率を向上させるように働いた自然選択の進化的シグナルを発見しました。

 これらの結果は、飛行の出現後に効率の面でまだ大きな改善の余地があったことを示しています。ただし、巨大化が認められるクレード(単系統群)であるアズダルコ類(Azhdarchoidea)において、飛行への依存度が低下していたという仮説を検証したところ、このクレードでは飛行効率に対する選択が弱かった、と示す証拠が見つかりました。この研究の手法は、地質年代を通した機能的およびエネルギー的な変化を、これまでは不可能だったより繊細なレベルで客観的に研究するための青写真を提供します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:翼竜類の飛行

 空飛ぶ爬虫類である翼竜類は、1億5000万年にわたる進化の過程で、より効率よく飛行できるようになったことを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、陸上に生息していた翼竜類の祖先がどのようにして空を飛ぶようになり、さらに進化したのかを解明する上で役立ち、今回用いられた研究方法は、機能性とエネルギーの微妙な変化を地質時代を通して調べるための青写真になると考えられる。

 翼竜類は恐竜に近い近縁種で、三畳紀(約2億4500万年前)に出現し、白亜紀の終わり(約6500万年前)に非鳥類型恐竜と共に絶滅したが、最古の翼竜類の化石についての研究は進んでいない。そのため、翼竜類がどのようにして飛行するようになったのかを調べることが難しくなっている。今回、Chris Vendittiたちの研究チームは、新しい統計的手法、生物物理学的モデル、化石記録から得られた知見を用いて、翼竜類の出現から絶滅までの間、その飛行効率は、自然選択の作用によって一貫して向上していたことを明らかにした。翼竜類は、当初は短距離しか飛べない非効率的な飛行をしていたが、その後、長時間にわたって長距離を飛ぶことができる能力を身につけた。

 しかし、この進化パターンには例外がある。白亜紀に生息していたアズダルコ科の巨大な翼竜(QuetzlcoatlusとTapejaraを含む)については、陸生動物の生活様式に近かったことを示唆するさまざまな適応が見られるため、その飛行能力は、論争の的になることが多い。今回の研究でVendittiたちは、アズダルコ科の翼竜は飛行できたが、その飛行能力は時間がたっても向上しなかったことを明らかにした。このことは、アズダルコ科の翼竜にとって飛行効率が他の翼竜類ほど重要ではなかったことを示唆している。



参考文献:
Venditti C. et al.(2020): 150 million years of sustained increase in pterosaur flight efficiency. Nature, 587, 7832, 83–86.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2858-8

『卑弥呼』第50話「筑紫島と豊秋津島」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年11月20日号掲載分の感想です。前回は、ミマトの冷静な返答にヤノハが満足そうな表情を浮かべるところで終了しました。巻頭カラーとなる今回は、ヤノハの夢に久々の登場となるモモソが現れる場面から始まります。モモソはヤノハに、倭の王にならねばならない運命なのに、何をのんびりしているのだ、と問い質します。自分は五ヶ国と同盟を結び、暈(クマ)の脅威を取り除いたばかりなので、少しくらい休みたい、と答えるヤノハを、モモソは掴んで天上に引き上げます。日本列島をヤノハに見せたモモソは、これが倭国だと説明します。筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)は倭のほんの一部で、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)ではまだ戦が絶えず、筑紫島の平和は平和のうちに入らない、というわけです。自分は所詮モモソの偽物にすぎないので買いかぶらないでくれ、と懇願するヤノハに対して、だからできることもある、とモモソは諭します。目が覚めたヤノハは、倭の広大さに驚きます。そこへ穂波(ホミ)から戻ったアカメが、穂波の重臣であるトモの動向を報告します。トモが東方の日下(ヒノモト)の国に向かう、とアカメから聞いたヤノハは、面白い、と呟きます。

 ヤノハは山社(ヤマト)の閼宗(アソ)山(阿蘇山)にある寄合場に那(ナ)のトメ将軍を呼び出します。閼宗は筑紫島の真ん中に位置し、那・伊都(イト)・末盧(マツロ)・穂波・都萬(トマ)の五ヶ国にとっても験のいい場所だから、というわけです。ヤノハに韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)の情勢を問われたトメ将軍は、津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)の国のアビル王によると、遼東郡の公孫度が高句麗や烏桓を討伐し、韓全体の支配を強めている、と答えます。ヤノハから公孫度の真意を問われたトメ将軍は、おそらく黄巾の乱で衰退した漢(後漢)からの独立だろう、と答えます。もし自分が漢に使節を派遣した場合、公孫度はどう遇すると思うか、とヤノハに問われたトメ将軍は、もてなすだろうが、自らを帝と称して漢への未知を閉ざすだろう、と答えます。公孫度が独立を勝ち取れるのか、とヤノハに問われたトメ将軍は、漢には曹操という無敵の武将がいるので、簡単にはいかないだろう、と答えます。どうしたいのかヤノハに問われたトメ将軍は、公孫度の領地を強引に突破できないかとも考えたものの、生きて突破できる可能性は五分五分と答えます。無理せずとも近いうちに漢は滅びるのでは、とヤノハに指摘されたトメ将軍は、ヤノハの先見の明に感心します。漢はすでに天命を失った、というわけです。ヤノハはトメ将軍に、当分は遣漢使となることを諦めてもらい、まず近くて遠い豊秋津島に行ってもらいたい、と打診します。ヤノハの望みは倭国全土の平和なので、豊秋津島で戦が続いているのならば止めねばならない、とヤノハはトメ将軍に説明します。小国ながら日下の国が吉備(キビ)や金砂(カナスナ)や播(ハリ)や越(コシ)の支配を画策しているとの噂は耳にしている、と言うトメ将軍に、とくにその日下がどんな国なのか見てきてほしい、とヤノハは依頼します。剛毅なトメ将軍も一瞬絶句し、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が支配する国だと言いますが、奸智に長けた日下がどれほどの繁栄を遂げているのか見たくないか、とヤノハに言われ、承諾します。この視察にミマアキを同行させたい、とヤノハに打診されたミマト将軍は、危険が大きいと息子の身を案じて反対します。ミマアキの姉であるイクメはヤノハに意見を問われ、弟は友であるクラトを失って気落ちしているので、外の世界を見るのはよい気晴らしになるだろう、と答えます。そこへトメ将軍が、かつてミマアキから、後悔に出ることがあれば連れて行ってほしいと言われた、と話し、ミマト将軍も仕方なく同意します。ヤノハはトメ将軍に、穂波の重臣かつ客人にして古の支族の末裔であるトモが、日下を目指して出港した、と伝えます。

 穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)の関(関門海峡でしょうか)では、激しい海流に翻弄されつつ、トモがワニ氏の助けを得て舟で豊秋津島を目指していました。何とか激流を切り抜けると、ワニはトモに、豊秋津島と筑紫島は近いものの、その間の海峡はなかなか越せない難所だ、と説明します。ワニはトモに、内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)に入ったので、これからはサヌ王の海路を進む、と言います。サヌ王は日向(ヒムカ)から、岡水門(オカミナト、福岡県遠賀郡の岡湊神社でしょうか)、埃宮(エノミヤ、広島県安芸府中町の多家神社でしょうか)、吉備を経て、難波の碕(ナニワノミサキ)に到達しました。吉備まで行ければ、難波の碕まではさほど難儀ではないだろう、とワニはトモに説明します。難波の碕に到達した後は河を遡上し、そこからが日下の領域となり、サヌ王の末裔が我々を敵と認識すれば命はないだろうが、我々は古の支族なので、日下の民もよく心得ているだろう、とワニは楽観的です。閼宗では、山社がサヌ王のかつての領土を併合したので、トモはサヌ王の子孫に山社へ派兵するよう要請に行ったのではないか、とミマト将軍が懸念していました。トモが山社と同盟国に謀反を企むなら、自分が追いつき息の根を止める、と言うトメ将軍に、その言葉を待っていた、とヤノハが言うところで今回は終了です。


 今回は、本州が本格的に描かれることを予感させる内容でした。一方、漢の衰退が改めて語られ、大陸との関係が描かれるのはかなり後になりそうです。おそらく、倭から漢(後漢)への使節派遣は行なわれず、公孫氏政権と交流し、魏が公孫氏政権を滅ぼしてから魏と通交する、という展開になるのでしょう。本州情勢は、トメ将軍も恐れる日下がどのような国なのか、またサヌ王の末裔はどうしているのか、という点でもたいへん注目されます。本作の山社とはおそらく『三国志』の邪馬台国のことで、日向というか現在の宮崎県を主要な領土としていますが、現在有力な邪馬台国畿内説との関係でどう描かれるのだろうか、と以前から気になっていました。最終的には、現在の纏向遺跡一帯に山社が「遷都」するのかもしれませんが、まずは奸智に長けているとされる日下が山社にどう対処するのか、注目されます。山社はサヌ王の故地を侵したわけですから、九州に残っているらしいサヌ王の家臣の末裔と組んで山社と敵対する、とも考えられますが、奸智に長けているとのことですから、そのような単純な展開にはならないように思います。サヌ王の末裔とヤノハとの間でどのような駆け引きが行なわれるのか、楽しみです。

爆発的な適応放散の生態学的・ゲノム的基盤

 爆発的な適応放散の生態学的・ゲノム的基盤に関する研究(McGee et al., 2020)が公表されました。種分化の速度は系統間で著しく異なり、新たな適応放散の中で何が種分化事象を次々に駆動しているのか、ということについての理解は、まだ不完全です。カワスズメ科の魚類(シクリッド類)はそうした多様性の顕著な例で、緩やかな種分化を経た系統が多い中、一部にはひときわ大規模で急速な放散を遂げた系統もあります。

 この研究は、シクリッド類の全ての記載種について大規模な系統発生の再構築を行なうことで、シクリッド類の爆発的な種分化は、一部の新しい大湖沼の種群にのみ集中している、と明らかにします。種分化速度の上昇は頂点捕食者の欠如と関連づけられたものの、これは爆発的な種分化を充分に説明するものではありません。湖沼における放散では全体的に、種分化速度と大きな挿入/欠失多型の多さとの間に正の関係が認められました。

 種分化が最も急速に進んでいる放散はヴィクトリア湖で見られ、この放散に属する100種のシクリッドのゲノムアセンブリから、数百の古いハプロタイプに挿入/欠失多型が含まれており、それらの大半が、特定の生態学的特徴と関連づけられるとともに、アフリカの他の湖沼で先行した別の放散に由来する生態学的に類似した種と共通している、という顕著な「ゲノムの可能性」が明らかになりました。ネットワーク解析からは古いハプロタイプの組換えを通した基本的に非樹形の進化が明らかになり、生態学的ギルドの起源は放散の初期に集中している、と明らかになりました。この結果は、爆発的な適応放散の理解には、生態学的な機会と性選択、さらに並外れたゲノムの可能性の組み合わせが重要である、と示唆しています。


参考文献:
McGee MD. et al.(2020): The ecological and genomic basis of explosive adaptive radiation. Nature, 586, 7827, 75–79.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2652-7

古代ゲノムデータに基づくイヌの進化史

 古代ゲノムデータに基づくイヌの進化史に関する研究(Bergström et al., 2020)が報道されました。オオカミは、ヒトが相利共生関係を築いた最初の動物でした。イヌの家畜化の年代・起源地・回数について、ほとんど合意はありませんが、考古学的記録はヒトとの長期にわたる密接な関係を証明します。現代のイヌのゲノムは複雑な集団構造を明らかにしましたが、古代ゲノムで利用できるのは6頭のイヌとオオカミだけなので、この集団構造が出現した仮定はほとんど不明のままです。

 以前のミトコンドリアDNA(mtDNA)およびゲノム研究では、イヌの遺伝的痕跡とその考古学的背景との間の関連が示唆されてきました。しかし、イヌの集団史が、ヒトの人口史と関連したか、あるいは、交易や、特定のタイプのイヌへのヒトの選好や、感染症感受性の多様性や、ヒト集団間のイヌの移動の結果として分離したのか、という程度の評価のために、イヌとヒトのゲノムが定量的に分析されてきたことはありません。

 本論文では、イヌの集団史を再構築するために、最古で10900年前頃となるヨーロッパや近東やシベリア古代のイヌ27頭のゲノムが、中央値1.5倍の網羅率(0.1~11倍)で配列されました。ヒト人口史との関連を検証するため、古代のイヌの年代と地理的位置と文化的背景が合致するヒトのゲノム規模データが17組集められ、イヌとヒトの間で直接的に遺伝的関係が比較されました。


●更新世に起源がある世界のイヌ集団の構造

 主成分分析(図1B)では、PC1軸で東西系統が示され、西端は現代および古代のユーラシア西部および現代アフリカのイヌで構成され、東端は先コロンブス期の北アメリカ大陸のイヌと、シベリアのバイカル湖地域の7000年前頃のイヌと、ニューギニア・シンギング・ドッグとオーストラリアのディンゴを含む現代のアジア東部のイヌにより表されます。しかし、f4検定に基づくと、古代および現代のヨーロッパイヌは全頭、古代近東のイヌよりも強い東方系統との類似性を示します。古代ヨーロッパのイヌはユーラシア東部のイヌと近東のイヌとの間で遺伝的勾配を示して広く分布しており、外群f3統計を用いて、バイカル湖地域やレヴァント(7000年前頃のイスラエル)のイヌとの共有された遺伝的浮動を比較すると、対角線に沿った線形傾斜として現れます(図1C)。シミュレーションからは、この線形の傾斜勾配は、長期の継続的な遺伝子流動もしくは系統樹のような歴史で説明することは困難で、中石器時代および新石器時代のヨーロッパのイヌは大きな混合事象により特徴づけられた、と示唆されます(図1D)。

 主要な系統を表す5集団の構造の根底にある遺伝的歴史がモデル化され、最大2回の混合事象を伴うあらゆる混合グラフモデル135285通りが検証されました。このうち1モデルだけがデータに適合し、10900年前頃となる中石器時代のフィンランドのカレリア地方のイヌは、その一部を、東方のイヌと関連する系統と、レヴァント系統から受け継いだ、と特徴づけられます(図1E)。モデルを拡張して、7000年前頃となる最初期の新石器時代のヨーロッパのイヌを、カレリア系統とレヴァント系統の混合として特徴づけることができ、古代系統の勾配(図1C)により示唆されるヨーロッパのイヌへの二重系統モデルが支持されます。観察された系統構造から、全部で5つの祖先系統(新石器時代レヴァント、中石器時代カレリア、中石器時代バイカル湖、ニューギニア)が10900年前頃までには存在したに違いなく、したがって、11600年前頃となる更新世から完新世への移行期に先行して存在していた可能性が高い、と示唆されます。以下は本論文の図1です。
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●イヌの複数起源もしくは野生イヌ科からの広範な遺伝子流動の証拠は検出されません

 これまでの研究では、ヨーロッパや中東やアジア中央部やシベリアやアジア東部、もしくはこれらのうちの1地域以上で、オオカミ集団が初期のイヌの多様性に寄与した、と指摘されました。しかし、現代のオオカミとイヌは相互に単系統で、双方向の遺伝子流動があった、と指摘する研究もあります。そこで、各地のイヌの間でオオカミとの類似性において非対称性を特定すると、遺伝子流動が起きたに違いない、と確認されました。しかし、現代および古代のすべてのイヌと対称的に関連する一部のハイイロオオカミを特定したので、イヌからオオカミへの遺伝子流動は単方向だった可能性が高そうです。

 オオカミから特定のイヌ集団への過去の遺伝子流動は、これらの検証において現代のハイイロオオカミのあらゆる個体と類似性を示すので、イヌへの持続的な遺伝子流動は、データの現在の解像度では検出できないほど制限されている、と示唆されます。さらにこの結果は、全てのイヌが単一の今では絶滅した古代のオオカミ集団、もしくは複数の密接に関連しているかもしれないオオカミ集団に由来する、という想定と一致します。他の、まだ標本抽出されていない古代オオカミ集団が初期の家畜化と独立して関わっている可能性はまだありますが、本論文のデータからは、そうしたオオカミ集団は後のイヌには実質的に寄与していない、と示唆されます。

 イヌへのオオカミの混合の欠如とは対照的に、ほぼ全ての分析された現代のオオカミへのイヌの混合が特定され、それは通常、ヨーロッパや近東やアジア東部において、イヌから地理的に近接しているオオカミ集団への遺伝子流動の強い痕跡を伴います。また、古代アメリカ大陸のイヌとコヨーテとの間、アフリカにおけるイヌとゴールデン・ウルフとの間での類似性が再現されましたが、両者の遺伝子流動の方向は不明であり、それは小規模なので、イヌと関係するほとんどの分析に影響を与える可能性は低そうです。高地への適応に関連するEPAS1遺伝子周辺のオオカミ系統の証拠にも関わらず、チベットオオカミからチベットのイヌへの遺伝子流動のゲノム規模の証拠は見つかりませんでした。したがってイヌは、ブタやヤギやウマやヒツジやウシに見られるような、野生近縁種からの遺伝子移入の類似の証拠を示しません。


●イヌの集団史とヒトの集団史との関係

 イヌで観察された集団の関係が、ヒト集団の関係と定量的に比較され、両者の集団構造が互いに類似している、と明らかになりました。最大の違いは銅器時代イランで観察され、ヒト集団は新石器時代レヴァント集団とは異なりますが、イランとレヴァントのイヌ集団は類似しています。新石器時代のドイツとアイルランドでは、ヒトはレヴァント集団へと近づいていますが、イヌはヨーロッパ北部狩猟採集民と関連する集団へと近づいています。青銅器時代のユーラシア草原地帯と、ドイツの縄目文土器(Corded Ware)文化では、ヒトはイヌと同様に新石器時代ヨーロッパクラスタから離れています。

 次に、一方の種の混合形態がもう一方の種の集団関係も説明できるのか、評価されました。完全に一致する事例は見つかりませんでしたが、ほぼ一致する事例は見つかりました。しかし、イヌとヒトとの集団の時間の長さは考慮されていません。ヒト集団のユーラシア東西の分岐は43100年前頃と推定されており(関連記事)、14500年前頃の化石記録で確認されているイヌの形態の出現よりも著しく古くなっています。ただ、イヌの形態の出現はもっとさかのぼる、との見解もあります。全体的に、イヌとヒトの集団史がどの程度一致するのか不明ですが、系統関係では全体的な特徴を共有しているものの、時空間全体では同一ではなく、いくつかの分離されたに違いない事例もあります。

 イヌとヒトの集団史の一致事例として注目されるのは、アジア東部のイヌとヒトは両方、近東集団よりもヨーロッパ集団の方と近いことです。イヌのヨーロッパ系統は、近東およびアジア東部系統の混合として最適にモデル化されます。しかし、ヒトでは近東の「基底部ユーラシア」系統の分岐が45000年以上前と推定されており、イヌ集団の動態がヒトの初期の過程を模倣した可能性が示唆されます。次に注目されるのは、全てのヨーロッパのイヌが、ニューギニア・シンギング・ドッグに対してよりも、アメリカ大陸およびシベリアのイヌの方と強い類似性を有することで、これは混合されていないアジア東部のイヌを表しており、ヨーロッパとアメリカ大陸のヒト集団との間の極地付近の類似性を反映しています。

 24000~18000年前頃のバイカル湖地域のヒト集団はユーラシア西部人との類似性を有しており、その近縁集団がアメリカ大陸先住民の祖先になったものの(関連記事)、完新世には完全ではないとしても他系統に置換された、と推測されています(関連記事)。7000年前頃のバイカル湖地域のイヌはアメリカ大陸およびヨーロッパとの間の類似の関連を構成していますが、この関連は1万年前の後に起きました。したがって、ユーラシア北部で共有されている極地付近の系統は、イヌとヒト両方の集団構造の重要な特徴ですが、同じ移動事象に由来していない可能性が高そうです。


●ヨーロッパへの新石器時代の拡大

 古代ヒトゲノム研究は、近東からヨーロッパへの新石器時代農耕民の拡大と関連した、大きな系統変化を明らかにしており、古代のイヌのmtDNA研究は、新石器時代農耕民が近東からヨーロッパへとイヌを導入した、と示唆します(関連記事)。古代ヨーロッパのイヌで観察されたゲノム系統の勾配(図1C)は、少なくとも部分的には、中石器時代狩猟採集民および到来してきた新石器時代農耕民と関連するイヌの間の混合に起因する、と仮定されます。これは、三つの観察結果により支持されます。まず、この勾配の仮定的な狩猟採集民関連のイヌの端は、10900年前頃の中石器時代カレリア地方のイヌと、4800年前頃となるスウェーデンの狩猟採集民の円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture)遺跡のイヌとで占められています。次に、スウェーデンの狩猟採集民のイヌと比較して、同時代となるスウェーデンの新石器時代農耕文化のイヌは、同じ遺跡のヒトを反映して、勾配のレヴァント側の端へと移動しています。最後に、新石器時代レヴァントのイヌ集団との類似性は南方に向かって増加しており、新石器時代ヒト集団の範囲拡大と一致します。中石器時代のヨーロッパの「西方狩猟採集民」ヒト集団と明確に関連するイヌはまだ特定されていませんが、本論文の結果から、そうしたイヌはヨーロッパ勾配のシベリアの端へと向かって強い類似性を有する、と示唆されます。全体的にこれらの結果から、新石器時代におけるヨーロッパへの農耕民の拡大も、イヌの系統変化と関連していた、と示唆されます。

 デンプン消化に関連するAMY2B遺伝子のコピー数増加は、農耕移行期におけるイヌの食性適応と関連してきました。パラログ(遺伝子重複により生じた類似の機能を有する遺伝子)なAMY1遺伝子は、ヒトでは適応的進化を受けてきましたが、これは農耕と明確に関連していないようです。中石器時代のカレリア地方のイヌは、すでにオオカミと比較してより多くのコピー数を有していたかもしれませんが、ヒト狩猟採集民文化のイヌでは、少ないコピー数が観察されます。5800年前頃のイランのイヌや6200年前頃のスペインのイヌなど新石器時代のイヌの一部は、現代のイヌと同じくらい多くのコピー数を有しますが、レヴァントの7000年前頃の個体のように、他の新石器時代のイヌは少ないコピー数を有しています。これらの結果から、AMY2B遺伝子のコピー数増加は家畜化の初期段階では起きず、ヒトとは対照的に、中石器時代狩猟採集民文化では発達しなかったものの、初期農耕集団では変動的で、デンプンが豊富な農耕生活様式の最初の出現から数千年経過するまで拡大しなかった、と示唆されます。


●アフリカと近東

 現代アフリカのイヌはレヴァントとイランの古代のイヌ、とくに7000年前頃となる本論文のデータセットでは最古のレヴァント個体とクラスタ化し、近東起源を示唆します。肥沃な三日月地帯の西部(アナトリア半島およびレヴァント)と東部(イランのザグロス山脈)のヒト集団は遺伝的に大きく異なっており、西部集団は新石器時代においてヨーロッパとアフリカへの遺伝子流動の主要な供給源でした(関連記事)。アフリカのイヌ系統の起源は、5800年前頃のイランよりも7000年前頃のレヴァントの方とより適合しており、ウシの場合(関連記事)と同様に、ヒトの移住を反映しています。対照的にヨーロッパの新石器時代のイヌの系統に関しては、レヴァントとイランのどちらが起源集団として適切なのか、区別できません。本論文の結果は、レヴァント関連集団からのサハラ砂漠以南のアフリカ集団の単一起源を示唆し、過去数百年までアフリカ大陸外からの遺伝子流動は限定的でした。

 アフリカとは対照的に、7000年前頃となる新石器時代レヴァント集団は、近東の現代のイヌへの遺伝的寄与があったとしても、多くはなかったようです。代わりに、レヴァントの2300年前頃のイヌは、イラン関連系統(81%)と新石器時代ヨーロッパ関連系統(19%)の混合としてモデル化できます。レヴァントではこの時期までに、イランからのヒトの遺伝子流動(関連記事)と、ヨーロッパからの一時的な遺伝子流動(関連記事)がありました。しかし、本論文の結果は、レヴァントではイヌの系統が2300年前頃までにほぼ完全に置換されたことを示唆します。現代近東のイヌは、2300年前頃のレヴァントのイヌと、現代ヨーロッパのイヌの混合として最適にモデル化されます。


●草原地帯牧畜民の拡大

 ヤムナヤ(Yamnaya)文化および縄目文土器文化と関連したユーラシア草原地帯牧畜民の後期新石器時代および青銅器時代ヨーロッパへの拡大は、ヒト集団の系統を変えました(関連記事)。イヌの系統が同様に影響を受けたのか検証するため、青銅器時代のスルブナヤ(Srubnaya)文化と関連したヨーロッパ東部草原地帯の3800年前頃のイヌが分析されました。その系統はヨーロッパ西部のイヌと類似していますが、主成分分析(図1B)の中間に位置する外れ値です。ドイツの縄目文土器文化関連の4700年前頃となるイヌは、草原地帯関連系統を有すると仮定され、その51%はスルブナヤ草原地帯関連系統に、残りは新石器時代ヨーロッパ系統に由来する、と推定されています。青銅器時代の3100年前頃となるスウェーデンのイヌでも同様の結果が得られますが、青銅器時代の4000年前頃となるイタリアのイヌでは同様の結果は得られません。

 草原地帯と縄目文土器文化のイヌの間の潜在的なつながりにも関わらず、ほとんどの後のヨーロッパのイヌは、スルブナヤのイヌとの特別な類似性を示しません。現代のヨーロッパのイヌは代わりに、新石器時代ヨーロッパのイヌとクラスタ化し、牧畜民拡大後のヒトで見られた永続的な系統変化を反映していません。この過程をよりよく理解するには、より早期となる追加の草原地帯のイヌのゲノムが必要ですが、新石器時代と現代の個体群との間の相対的連続性からは、草原地帯牧畜民の到来は、ヨーロッパのイヌの系統に持続的な大規模な変化をもたらさなかった、と示唆されます。

 草原地帯牧畜民は東方にも拡大しましたが、アジア東部の現代人には多くの遺伝的影響を残さなかったようです。多くの現代中国のイヌは、ニューギニア・シンギング・ドッグと関連した集団と、ユーラシア西部関連集団との間の混合の、明確な証拠を示します。最近の研究では、過去数千年に中国のイヌでmtDNAの置換が起きたことも明らかになっています。最適なモデルでは、現代ヨーロッパの品種からだけではなく、3800年前頃となるスルブナヤの草原地帯関連のイヌからのかなりの遺伝子流動も含まれます。一部の集団、とくにシベリア集団は、7000年前頃となるバイカル湖地域のイヌと関連した追加の起源集団を必要としますが、ニューギニア・シンギング・ドッグと関連する系統はないか最小限です。したがって本論文の結果からは、草原地帯牧畜民の東方への移動が、アジア東部のヒトよりもイヌの系統において、大きな遺伝的影響を与えた可能性が高い、と示されます。


●ヨーロッパにおけるイヌの系統の均質化

 現代ヨーロッパのイヌは全て、データセット内の古代のイヌと対称的に関連しているので、初期のヨーロッパのイヌにおける系統多様性の広大な範囲は、現在では保存されていません。これは、ヨーロッパのイヌにおける現在の多様性に、ほとんどの在来の中石器時代および新石器時代集団がわずかか、全く寄与していないことを示唆します。代わりに、スウェーデン南西部のフレールセガーデン(Frälsegården)遺跡の5000年前頃となる新石器時代巨石文化のイヌ1個体が、ほとんどの現代ヨーロッパのイヌの系統の90~100%の起源集団としてモデル化でき、他の全ての古代のイヌは除外される、と明らかになりました。この知見から、必ずしもスカンジナビア半島起源とは限らない、このフレールセガーデン遺跡の1個体と類似の系統を有する集団が、他の集団を置換し、大陸規模の遺伝的勾配を消し去った、と示唆されます。この系統は勾配の真ん中にあったので(図1C)、現代ヨーロッパのイヌは、カレリア地方関連系統とレヴァント関連系統のほぼ等しい割合としてモデル化できます。

 またフレールセガーデン遺跡のイヌは、4000年前頃となる青銅器時代イタリアのイヌや、トルコやビザンツ帝国(東ローマ帝国)や中世の1500年前頃となるイヌの部分的祖先としても好適ですが、レヴァントのより早期のイヌには当てはまらず、この系統の拡大の年代を限定します。しかし、現代の品種の表現型多様性や遺伝的分化を含む、ヨーロッパ新石器時代に存在した遺伝的構成から、ヨーロッパにおけるイヌの系統の均質化を開始もしくは促進した環境は不明のままです。

 最近では、近代化におけるヨーロッパ勢力の拡大と関連していると考えられますが、この現代ヨーロッパのイヌ系統は広く拡大しており、現在では世界中のほとんどのイヌ集団の主要な構成となっています。しかし、本論文の系統モデルは、一部の植民地期以前の系統が、メキシコのチワワ(4%以下)やメキシカン・ヘアレス・ドッグ(3%以下)や南アフリカ共和国のローデシアン・リッジバック(4%以下)に残っていることを明らかにします。以下は、世界各地の現代のイヌの系統の割合(図5A)と、イヌの推定拡散経路(図5B)を示した本論文の図5です。
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●まとめ

 完新世の始まりまでに起きた少なくとも5つのイヌ系統の多様化の後に、動的なイヌの集団史が続き、それは多くの場合ヒトの集団史を追跡したもので、イヌがヒト集団とともにどのように移動したのか、ということを反映している可能性が高そうです。しかし、ヨーロッパにおける草原地帯集団の移動などいくつかの事例では、イヌとヒトの集団史は一致しておらず、ヒトがイヌを伴わずに移動したこともあり、イヌがヒト集団間で移動したか、イヌが文化的および/もしくは経済的交易商品だったことを示唆します。

 東西ユーラシアの分化や、極地のつながりや、近東における潜在的な基底部系統のような、イヌ集団間の遺伝的関係の特定の側面は、イヌの最初の家畜化の前に起きたヒト集団史の特徴と類似しています。したがって、イヌとヒトの間のこの表面的な反映は代わりに、まだ理解されていない生物地理的もしくは人類学的要因により繰り返し起きた集団動態を示しているかもしれません。重要な問題は、イヌが完新世までにユーラシアとアメリカ大陸全域にどのような拡大したのか、ということです。これは、主要なヒト集団の移動が、地球規模の拡大をもたらした最初の出アフリカに伴う拡大の後には、特定されていないからです。

 現代および古代のゲノムデータはイヌの単一起源と一致する、と明らかになりましたが、複数の密接に関連するオオカミ集団を含む想定は依然として可能です。しかし本論文では、イヌの地理的起源は不明のままです。ゲノム多様性もしくは現代のオオカミ集団との類似性に基づくイヌの起源に関する以前の研究は、より最近の集団動態や遺伝子流動の不明瞭な影響に敏感です。本論文で分析された個体よりも古いイヌやオオカミのDNAを、考古学や人類学や動物行動学やその他の分野と統合することは、どこのどのような環境と文化的背景で最初のイヌが生まれたのか、決定するのに必要です。


参考文献:
Bergström A. et al.(2020): Origins and genetic legacy of prehistoric dogs. Science, 370, 6516, 557–564.
https://doi.org/10.1126/science.aba9572

アフリカ人の包括的なゲノムデータ

 アフリカ人の包括的なゲノムデータを報告した研究(Choudhury et al., 2020)が公表されました。世界規模でのゲノム解析により、現代人で最も遺伝的多様性が高いのはアフリカ人と示されています。こうしたゲノムデータは、医療にも役立てられています。しかし、現在までに、約2000のアフリカの民族言語集団のうちわずかしか遺伝的に特徴づけられておらず、ヨーロッパ集団で一般的な限定的な数の多様体が含まれています。そのため、アフリカ人における新規で医学的に関連する稀な変異はほとんど不明のままで、複雑な疾患への遺伝的要因の理解が進んでいません。

 サハラ砂漠以南のアフリカ人集団は古典的に、アフロ・アジア(AA)、ナイル・サハラ(NS)、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)、コイサン(KS)の各語族で説明されてきました。これらの語族の中には独立した集団も含まれており、たとえばコイとサンは、それぞれ異なる歴史があるにも関わらず、文献ではコイサン一括されています。バンツー語族はサハラ砂漠以南のアフリカでは最も広範に分布していまが、これは過去5000年にわたるアフリカ大陸全体の一連の移住に起因します(関連記事)。

 これらの移住事象とそれに続く在来集団との混合は、新たな環境と経験への適応を伴うので、アフリカのゲノムの全体像の形成においてたいへん重要な役割を果たしてきました。これらの適応の特徴は、マラリアと関連するHBB遺伝子、ラクターゼ(乳糖分解酵素)をコードするLCT遺伝子、肝機能障害と関連するAPOL1遺伝子、グルコース-6-リン酸脱水素酵素(G6PD)と関連するG6PD遺伝子の多様性で示される、重要な生理的特性もしくは伝染性流行病と関連するアレル(対立遺伝子)多様性のパターンにおいて明らかです。最近の研究では、食性・身長・血圧・肌の色といった多様な特徴に対して、混合により導入された新たな変異の重要性を反映する選択の兆候が特定されています。

 現代人で最も遺伝的多様性の高いアフリカ人のゲノムを研究することは、疾患の集団人口統計的理解への特有の機会を提供します。アフリカにおけるヒトの遺伝と健康(H3Africa)協会は、アフリカ人のゲノム研究の不足を補うために創設され、アフリカ人全体の遺伝的多様性を特徴づけ、ゲノム研究の枠組みを促進することが目的です。そこで本論文では、H3アフリカ研究においてアフリカの13ヶ国の50の民族言語集団から得られた、426人の全ゲノム配列データ(314人分の平均網羅率が30倍の高品質なゲノムデータと、112人分の平均網羅率が10倍の中程度の品質のゲノムデータ)が分析されました。これらの集団のいくつかは、本論文で初めて研究結果が報告されます。本論文では、一塩基多様体(SNV)に焦点が当てられました。以下、本論文で取り上げられた集団の地理(図1a)と主成分分析結果(図1b)を示した本論文の図1です。
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●移住と混合

 これまで充分に研究されていなかった地域からの標本を含めることで、アフリカの集団規模のゲノムデータが得られました。主成分分析では、第一主成分は、ナイル・サハラ(NS)とアフロ・アジア(AA)とある程度は東部のニジェール・コンゴ(NC)個体群(ウガンダのバンツー語族個体群、略してUBS)を、他のNC話者から分離します。第二主成分は、残りのNC話者を西方から南方への勾配に沿って位置づけます。非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)は顕著な例外で、個人間のより多くの分散を示します。ベニンのフォン(FNB)、グル語話者(WGR)、ギニアのスス語話者(SSG)、コートジボワール人(CIV)、MALを含むアフリカ西部集団は近くに位置づけられますが、しばしばナイジェリアのヨルバ人(YRI)やエサン人(ESN)のような他のアフリカ西部NC話者からは独立しています。ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)および南部のボツワナ(BOT)のNC話者は、それぞれの地域から以前に研究された集団とクラスタ化します。

 ナイジェリアのベロム(Berom)集団(BRN)、カメルーンの個体群(CAM)、コンゴ民主共和国の個体群(DRC)、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)、ウガンダのNS話者(UNS)の5集団は、主成分分析で特徴的な位置を示します。BRNは他のアフリカ西部集団とは独立して存在し、アフリカ東部集団に近づいています。CAMとDRCはカメルーンとコンゴの地理的近さと一致して、一まとまりに位置し、独立したアフリカ中央西部集団を形成します。UNSは他のNS集団であるグムズ(Gumuz)とは独立して位置します。同様に、BSZは他のNS話者集団とは大きく離れています。これらの集団のいくつかは独特の遺伝的位置を示し、標本抽出された集団の広範なゲノム多様性が確認されます。NC話者集団の地理的距離と遺伝的距離との間には有意な正の相関が観察されました。

 次に、非NC話者からの遺伝子流動が本論文の対象集団を区分したのかどうか、さらには混合事象が検証されました。結果は、アフリカ大陸全体の混合パターンに関する現在の理解と一致しており、ボツワナ(BOT)へのコイサン(KS)の遺伝子流動、UBSにおけるアフロ・アジア(AA)語族集団の遺伝子流動、アフリカ中央西部集団であるDRCとCAMにおける熱帯雨林狩猟採集民(RFF)からの様々な程度の遺伝子流動を示します。さらに、これらの分析では、2回の興味深く未報告の混合事象も明らかになりました。それは、ウガンダのNS話者(UNS)におけるRFFの遺伝子流動と、ナイジェリアのベロム集団(BRN)におけるNC話者からの遺伝子流動です。追加の母集団データセットを用いたさらなる分析では、UNSと他のNC話者集団との間の違いは、AAとの混合の欠如、およびRFFからの遺伝子流動の増加に起因するかもしれない、と示唆されました。アフリカ東部系統の追跡は、過去数千年のサヘル横断移動に由来し、ナイジェリアのハウサ(Hausa)人を含む他の集団で報告されてきました。しかし、アフリカ東部の遺伝子流動の観察は、おそらくチャドに由来し、最大となる在来の中央部ナイジェリア集団であるBRNにおいてひじょうに独特です。

 ボツワナの分析から、集団間の遺伝的距離への非NCの遺伝子流動の寄与が強調されます。対照的に、ザンビアのバンツー語族話者(BSZ)は、アンゴラやコンゴやボツワナの隣接地域集団とは異なり、RFFもしくはKS集団のような非NC話者からの主要な遺伝子流動の証拠を示しません。同様に、在来集団の混合の低水準は、マラウイとモザンビークのバンツー語族話者で指摘されてきました。アフリカ中央部を横断するバンツー語族集団の移動経路復元の試みでは、アンゴラ集団がアフリカ東部および南部のバンツー語族話者にとっての最良の起源地と結論づけられ、アンゴラ経由のバンツー語族の移動の西方経路が示唆されました(関連記事)。

 データセットにDRCとBSZ集団を含めることで、この経路がさらに調査されました(図2b)。主成分分析と同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示します。IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)から、BSZは他のアフリカ中央部集団と比較して、UBSとBOTの両方に遺伝的に近い、と示されました。さらに混合の検証では、アフリカ東部および南部のバンツー語族話者系統にとって最も可能性が高いアフリカ中央部起源集団として、BSZを支持します。また、集団間で共有されるIBDの程度から、BSZにとってアンゴラ集団が最も密接な中央部もしくは中央西部の集団だった、と示唆されます。まとめると、これらの推定から、ザンビアがバンツー語族のアフリカ東部および南部両方への経路の中継地点だった、と示唆されます。

 いくつかの主要な混合事象を推定する試みでは、アフリカ南部におけるKSの遺伝子流動と、CAMにおけるRFFの遺伝子流動は以前の研究とほぼ一致した、と示されました。UNS におけるRFFの混合の年代範囲は、CAMにおけるそれと類似しており、以前の研究と一致します。これは、60~70世代前頃に、中央部熱帯雨林の東西両方のRFF集団の範囲が変化した可能性を示唆します。アフリカ西部へのサヘル横断移動に関する以前の研究では、移動の異なる2波が示唆されました。一方は100世代以上前(2900年前頃)で、もう一方はもっと最近となる過去35世代(1015年前頃)です。さまざまなアフリカ東部の代理集団に基づくと、BRNにおける混合は50~70世代前(1500~2000年前頃)に起きた、と推定されます。これらの年代は、地域水準もしくはより広範な地理的規模で、これまで知られていない人口統計学的事象が起きたことを示唆します。

 ボツワナとカメルーンとマリの定義された地政学的境界と、非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)間のホモ接合性の明確に長い断片の内部で、民族言語集団内もしくは集団間の広範な変異のような、これらの集団のいくつかの人口史における追加の特有の傾向が観察されました。片親からの単系統遺伝となるミトコンドリアとY染色体の分析では、BOTのミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)L0dや、BRN のmtHg-L3や、MALのY染色体ハプログループ(YHg)E1b1bといった、特定の優占するHgが特定され、これらの集団への複雑な祖先の寄与がさらに強調されます。以下、各集団の系統混合比(図2a)と、バンツー語族集団の移動経路(図2b)と、主要な混合事象の年代(図2c)を示した本論文の図2です。
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●ゲノム多様性と選択の痕跡

 一塩基多様体(SNV)は標本規模と相関し、集団ごとに1200万~2000万のSNVが特定されました。合計で約340万のSNVはこれまで報告されていませんでした。新規SNVは、カメルーンの個体群(CAM)で最も少なく、ボツワナ(BOT)と非NC話者集団をいくつか含むマリの個体群(MAL)で最も多い(絶対数でも標本抽出された個体の最も少ない数に正規化した場合でも)、と明らかになりました。

 データセット内の新規多様体が飽和しているのか判断するため、BOTを開始母集団として用いて、発見された新規多様体の累積数を配置していき、追加の集団ごとに1標本でしか確認されていない(シングルトン)新規SNVを削除した後でも平坦域には達せず、最後の2集団(FNBとMAL)間でも依然として6000以上の新規SNVが存在しました。また、本論文の対象集団、とくにコイサン(KS)系統間では、多様体の発見と非中央西部アフリカ人系統の割合の間で、強い相関があることも明らかになりました。

 選択を受けたと推定される遺伝子は、C5AR1やMYH10(細菌感染)、ARHGEF1やERCC2やTRAF2(ウイルス感染)、IFNGR2(細菌およびウイルス感染)といった、免疫関連機能とおもに関わっています。BOTを代理とする、アフリカ南部、CAMを代理とするアフリカ中央部、グル語話者(WGR)を代理とするアフリカ西部の各集団に固有の選択に関しては、BOTでは代謝関連(MRAP2とARSKとGPD2)、WGR(C12orf65とFAN1)とCAM(FZR1とTDP1とKCTD1)ではDNA修復関連の遺伝子で見つかりました。BOTにおける選択の痕跡では、KSからの優先的な遺伝子流動の証拠が見つかりました。

 本論文のデータセットで観察された複雑な集団構造と可変的な選択圧は、集団間のアレル(対立遺伝子)頻度の分化を促進する、と知られています。そこで、集団間でかなり異なる(40%以上)アレル頻度を有する、高度に分化した多様体(HDV)が特定されました。2497のHDVのうち1106がBOT(アフリカ南部)とMAL(アフリカ北西部)で観察され、この地理的分離は最も異なるアレル頻度を生成します。これらのHDVのうちいくつかは、BOTにおける高い割合と歴史的により深いKS系統も繁栄しています。

 機能喪失(LOF)多様体では、インフルエンザやヒト免疫不全ウイルス(HIV)やC型肝炎ウイルス(HCV)の死亡率との相関が観察され、環境および社会経済的要因とともに、遺伝的影響が推定されます。病原性もしくは病原性の可能性がある262の固有の多様体のうち、54は低いアレル頻度を示します。マラリアによる死亡を防ぐ遺伝子座の予想と一致して、G6PDのアレルの推定値は、アフリカ全体の固有のマラリアの分布と概ね一致します。鎌状赤血球症の変異は、マラリアが蔓延するアフリカ西部および東部の集団において高いアレル頻度を示します。全体的に、62の遺伝子とその周辺領域で自然選択の新たな証拠が見つかりました。


●まとめ

 本論文の結果は、バンツー語族を含むニジェール・コンゴ(NC)話者集団の遺伝的連続を明らかにし、バンツー語族移動の経路と年代と範囲に関する理解を拡張します。本論文で提案されたバンツー語族の拡散経路は、カルンドゥ(Kalundu)土器伝統の拡大と重なり、これもバンツー語族の拡大と関連づけられてきました。しかし、カルンドゥ土器の拡大の推定年代は、本論文の混合年代に先行し、カルンドゥ土器伝統とバンツー語族の移動との間の関連は疑問視されており、考古学的な移動と遺伝的な移動との間の類似は未解決のままです。あるいは、先に文化的拡散が起き、その後で人類集団の移動が伴ったのかもしれませんし、推定混合年代が実際よりも新しいのかもしれません。

 ナイジェリアの言語はひじょうに多様で、ゲノムデータの観点でもアフリカの最も代表的な国です。ベロムにおけるかなりのナイル・サハラ(NS)集団との混合と、NCおよび非NC両方の話者における高度に分化した多様体(HDV)と新規変異両方との観察から、既知の刊行データベースにおけるナイジェリア集団は、ナイジェリアのゲノム多様性を過小評価している可能性が高いだけではなく、ほぼ確実にアフリカ大陸集団の貧弱な一般的代理である、と示唆されます。アフリカ全体の多様性のより包括的な要約の提供には、複数のアフリカ人集団における追加の深い配列が必要です。

 HIVやエボラ熱やラッサ熱を含むウイルスの流行がアフリカ全土で報告されています。この背景として、ウイルス感染に重要な遺伝子と重複する選択された遺伝子座の観察は、アフリカ全土の人類集団のゲノム形成における、ウイルス感染に対する耐性および/もしくは感受性の、まだ報告されていない役割の可能性を裏づけます。これは、インフルエンザとHIVに関わる遺伝子の推定LOF多様体と、疾患死亡率との強い相関関係により支持されましたが、疾患死亡率との相関についてはさらなる分析が必要です。免疫関連遺伝子の他に、DNA修復や炭水化物および脂質代謝に関連する遺伝子の正の選択、またNC話者内の地域固有の正の選択も観察されました。

 アフリカ人のゲノムの多様性と変異に対する祖先の事象と感染性病原体への暴露の複合効果は、ウガンダのバンツー語族個体群(UBS)とNS話者(UNS)との間で観察されたアレル頻度の違いにより示されます。このアレル頻度の違いから、マラリアが流行している西部地域(UBS)からではなく、マラリアがあまり一般的ではない北部地域(UNS)からの最近の移住が別の妥当な説明になる、と示唆されます。他のアレルからも、同様の想定が可能です。

 本論文の知見から、アフリカのゲノムデータの充足と使用には、多様体の高水準の精選に加えて、広く確認されて包括的な変異の概要が必要である、と示唆されます。アフリカのゲノム変異は、アフリカ人の移住と世界集団両方の多様体分布より良い表示である可能性が高く、したがって、アフリカ人のゲノム変異の完全な目録は、医療遺伝学および集団遺伝学の両方により良いゲノム参照を提供できるかもしれません。アフリカ現代人のゲノム研究が進めば、近年になってアフリカでも進展した古代DNA研究(関連記事)とともに、アフリカ人の人口史をさらに正確に理解できるようになるでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:アフリカ人集団における遺伝的多様性

 高深度塩基配列解読されたアフリカ人ゲノムの、これまでで最大級の研究から、300万を超える遺伝的バリアントが発見されたことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究は、バントゥー諸語話者集団のルートに沿った古代人の移動に関する知見をもたらした。

 アフリカは現生人類の起源において中心的な役割を果たしているにもかかわらず、アフリカ人集団に見られる多様性については、これまでほとんど知られていなかった。今回、H3アフリカコンソーシアムのZané Lombardたちは、これまでに試料採取されていなかった集団を含む50の民族言語集団に属する426人の全ゲノム塩基配列解読解析を行うことで、この不均衡の問題に取り組み、アフリカ全体のゲノム多様性の幅を探った。今回新たに発見されたバリアントの大部分は、今回新たに試料採取された民族言語集団から見つかっている。また、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連する62の遺伝子とその周辺領域での自然選択の新たな証拠が見いだされた。さらに、祖先集団内および祖先集団間での混合に複雑なパターンが見られ、バントゥー諸語話者集団の拡大ルートに沿って移動した入植者の中継地点がザンビアであった可能性が高いことを示す証拠も見つかった。以上の知見は、アフリカ大陸内の人類の移動に関する理解を深めるものであり、ヒトの疾患に対する応答と遺伝子流動が、集団の多様性の強い決定要因であることを明らかにした。

 Lombardたちは、人類の祖先をより包括的に理解し、健康研究を向上させるためには、アフリカ人のゲノム多様性に関する特徴解明の幅を広げること(対象者と対象集団を増やすことなど)が必要だと強調している。


進化遺伝学:高深度のアフリカ人ゲノムから得られたヒトの移動と健康についての情報

Cover Story:アフリカの多様性:全ゲノム解析によって明らかになったアフリカの豊かな遺伝的遺産の詳細

 アフリカは、現生人類のゆりかごと見なされているが、アフリカの人々の遺伝的多様性はごく一部しか調べられていない。今回H3アフリカコンソーシアムのZ Lombard、A Adeyemo、N Hanchardたちは、50の民族言語グループをカバーする426人の全ゲノム塩基配列解読の解析結果を提示して、この不均衡の是正を促している。著者たちは、300万を超える新規バリアント(その大半が、これまで試料採取されていなかった集団で見られた)を明らかにするとともに、ウイルス免疫、DNA修復、代謝に関連するこれまで報告されていなかった62の座位を特定した。さらに著者たちは、集団内と集団間での祖先の混合も発見し、バントゥー諸語話者集団の拡散経路においてザンビアが中継地点であった可能性が高いことを示す証拠を見いだした。これらの知見は、アフリカ全体における人類の移動に関する理解を深めるのに役立つとともに、遺伝子流動と疾患への応答が、集団のゲノムレベルの多様性の強力な駆動要因であることを明らかにしている。表紙は、今回の研究で集められた遺伝子データを基に、ジンバブエのマリーゴールド・ビーズ飾り協同組合が手織りで作ったビーズのネックレスである。



参考文献:
Choudhury A. et al.(2020): High-depth African genomes inform human migration and health. Nature, 586, 7831, 741–748.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2859-7

堆積物のmtDNA解析で確認されたチベット高原のデニソワ人

 チベット高原の更新世堆積物のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡で見つかった手の末節骨の断片から決定されたゲノム配列により初めて特定された、中期更新世後期~後期更新世にかけての遺骸が確認されている絶滅人類集団です。手の末節骨や臼歯など複数個体のデニソワ人遺骸は当初、デニソワ洞窟でしか確認されていませんでしたが、その後、中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)で発見された16万年以上前の下顎(夏河下顎)が、デニソワ人のものと確認されました(関連記事)。ただ、この下顎のDNA解析にはまだ成功しておらず、タンパク質の総体(プロテオーム)の解析に基づいた分類です。

 デニソワ人は、核DNAでは現生人類(Homo sapiens)よりもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の方とずっと近縁ですが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)では(後期)ネアンデルタール人と現生人類がクレード(単系統群)を形成し、デニソワ人は両者とは異なる系統に位置づけられます。しかし、スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)で発見された43万年前頃の人骨群は、形態では祖先的特徴とネアンデルタール人の派生的特徴との混在を示し、核DNAではデニソワ人よりも後期ネアンデルタール人の方と近縁なので、後期ネアンデルタール人の直接的な祖先ではないとしても、少なくとも広義の早期ネアンデルタール人と位置づけられそうですが、mtDNAではネアンデルタール人と後期ネアンデルタール人に対して、デニソワ人とクレードを形成します。そのため、ネアンデルタール人のmtDNAは元々デニソワ人に近かったものの、後に現生人類とより近い系統に置換された可能性が高い、と推測されます。

 デニソワ人とネアンデルタール人の推定分岐年代は研究により幅があり、473000~445000年前頃とも744000年前頃とも推定されていますが、SH集団の43万年前頃という年代が妥当だとすると、遅くとも50万年前頃には分岐していたと考えられます。デニソワ人は現代人の祖先の一部とも交雑し、現代人ではアジア南部・南東部・東部やオセアニア集団のゲノムにおいてデニソワ人の遺伝的影響が確認されているので、デニソワ人は広範な地域に分布していた、と考えられます。とくにパプア人やオーストラリア先住民(サフルランド集団)のゲノムではデニソワ人の遺伝的影響が強く見られます。また、アジア東部の現代人にもわずかながらデニソワ人の遺伝的影響が見られ、現代人のゲノム解析から、複数系統のデニソワ人が一部現代人の祖先集団と交雑した、と推測されています。アジア東部の更新世現生人類のゲノム解析からも、アジア東部現代人集団の祖先と交雑したデニソワ人は、サフルランド集団の祖先と交雑したデニソワ人とは異なる系統だった、と推測されています(関連記事)。以上のデニソワ人に関する昨年(2019年)5月頃までの情報は、当ブログでまとめています(関連記事)。

 白石崖溶洞は、チベット高原北東端の海抜3280mに位置する石灰岩洞窟です。白石崖溶洞では3ユニット(T1・T2・T3)の発掘が計画され、T2では10層が特定されました。全ての層で石器と動物化石が発見されました。石器の予備的分析では、石器はほぼ全て、地元の変成石英砂岩と角岩礫を用いて、単純な石核および剥片技術により製作された、と示唆されます。動物化石は、第1~第6層ではガゼルやマーモットやキツネといった小型から中型の種が優占するのに対して、第7層~第10層ではサイや大型ウシ科のような大型種が優占します。これが生態系の変化に起因するのか、それとも白石崖溶洞の人類の獲物選好が変わったためなのか、今後の研究の進展が注目されます。

 ユニットT2の年代は、堆積物の光学的年代測定法と断片的な14個の骨の放射性炭素年代測定法により推定されました(図2)。第10層は190000±34000~129000±20000年前にかけて蓄積され、その後、第9層から第6層は96000±5000年前までにかけて、比較的急速に蓄積されます。第5層の年代は得られていませんが、前後の層の年代から、その間隔は24000~39000年と推定されます。第5層の堆積物は白石崖溶洞の河川環境を示しており、10万~6万年前頃に堆積物を除去した浸食事象を表しているかもしれません。第4層は66000±6000~47000±2000年前の間に蓄積されました。第4層の中間には7000~18000年の堆積休止期間があった、と確認されました。第3層は46000±2000~33000±1000年前の間に蓄積されました。第3層と第2層では年代値がかなり異なるなど、複雑な層序形成が示唆されます。以下、ユニットT2の層序と年代を示した本論文の図2です。
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 第1層と第5層を除く各層の堆積物で古代DNAの抽出が試みられ、第8層と第9層(第2・3・4・6・7・10の各層)を除いて哺乳類のmtDNAが確認されました。第4・6・7・10層では、絶滅したハイエナやサイ(どちらも第10層で特定されました)を含む1万年前頃以降にはこの地域に存在しなかった動物種のDNAが検出されました。これらの非ヒト動物の詳細なDNA解析・比較も今後進んでいき、各種の進化・拡散の理解に寄与すると期待されます。

 人類のmtDNAは第2・3・4・7層で確認され、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と43万年前頃のSH個体と比較されました。これらのmtDNA断片は、デニソワ人(31~95%)やネアンデルタール人(0~14%)やSH個体(0~3.7%)や現生人類(0~67%)と一致します。古代DNAの指標とされるシトシンからチミンへの置換を伴うmtDNA断片に分析を制限すると、現生人類と一致する割合は0~43%に減少し、デニソワ人と一致する割合は71~100%に増加します。現代人の汚染の影響を減らすため、その後の分析では脱アミノ化したmtDNAに限定し、デニソワ人のmtDNA断片よりずっと少なくとも、現生人類のmtDNA断片がわずかに脱アミノ化された2ライブラリを除外しました。各層の人類のmtDNAの網羅率は、第2層が0.37倍、第3層が1.5倍、第4層が40倍、第7層が1.3倍です。堆積物から回収されたmtDNAは複数個体に由来する可能性があり、少なくとも充分なmtDNA断片が得られた第4層には当てはまります。ただ本論文では、各層のmtDNAの平均的な関係が測定されます。

 これら第2・3・4・7層のmtDNAは、デニソワ洞窟のデニソワ人4個体(デニソワ2・3・4・8)およびSH個体と比較され、系統樹が推定されました。比較的高品質の第4層のmtDNAはデニソワ人の変異内に収まり、10万年前以降と推定されるデニソワ3・4とクレードを形成します。これに対して、10万年以上前と推定されるデニソワ2・8は異なるクレードを形成します。白石崖溶洞ユニットT2の低品質のmtDNAのうち、第2層と第3層は第4層とクレードを形成しますが、第7層は、デニソワ2・8のクレードと分岐した後、第2・3・4層およびデニソワ3・4のクレードとは早期に分岐します。これらの結果から、白石崖溶洞ユニットT2の堆積物から得られたmtDNAは、デニソワ2・8クレードと早期に分岐し、デニソワ3・4とクレードを形成する、と示されます。

 第4層の下部の堆積年代は6万年前頃で、76200~51600年前頃のデニソワ3および84100~55200年前頃のデニソワ4とは近接しています。第7層の堆積年代は108000~97000年前で、デニソワ3・4よりも古いものの、194400~122700年前頃のデニソワ2および136400~105600年前頃のデニソワ8よりは新しいことになります。デニソワ人のmtDNAは第2層と第3層の堆積物でも確認されましたが、再堆積を考慮すると、その堆積年代(5万~3万年前頃)と関連づけることは根拠薄弱です。したがって、白石崖溶洞のデニソワ人が、チベット高原に現生人類が到来する4万~3万年前頃に到来する(関連記事)まで生存していたのか、まだ確定的ではありません。以下、デニソワ人とSH個体のmtDNA系統樹を示した本論文の図4です。
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 これらの知見は、デニソワ人が白石崖溶洞に10万年前頃と6万年前頃に存在していたことを示します。あるいは、デニソワ人はチベット高原に45000年前頃以降にも存在していたかもしれませんが、それはともかく、これらの知見は、デニソワ人が後期更新世にアジアに広く分布していたことを確証します。夏河下顎も含めて考えると、チベット高原における長期の居住が示唆され、この人類は高地環境に適応するようになっていたかもしれません。現代チベット人の遺伝的な高地適応に関しては、デニソワ人から遺伝子移入されたハプロタイプとの関連が指摘されています(関連記事)。デニソワ人はチベット高原のような高地に長期間存在しており、高地適応関連の遺伝子多様体が選択されたのではないか、というわけです。

 ただ、高地適応と関連したEPAS1遺伝子がデニソワ人からチベット人の祖先集団にもたらされたのは4万~3万年前頃と推定されていますが、それがすぐに有益なアレル(対立遺伝子)として選択対象になったのではなく、もっと最近になってから有益なアレルとして選択されていった、とも推測されています(関連記事)。これは現代チベット人の形成過程(関連記事)とも関連しており、チベット高原の古代DNA研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。

 本論文は、デニソワ人がチベット高原にも古くから存在し、あるいは現生人類とも共存した可能性がある、と示した点でたいへん注目されます。デニソワ洞窟のデニソワ人のmtDNA解析からは、古いデニソワ人(デニソワ2・8)と新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とが、少なくとも母系では祖先子孫関係にはない、と示唆されます。一方、白石崖溶洞のデニソワ人は、母系では新しいデニソワ人(デニソワ3・4)とクレードを形成します。これは、デニソワ人の生息範囲とも関わってくるかもしれません。人類のデニソワ洞窟の利用は断続的だったと指摘されており(関連記事)、デニソワ人は長期間アルタイ山脈に存在し続けたのではなく、時に撤退するか絶滅し、その後で異なるデニソワ人系統がアルタイ地域に拡散してきたのかもしれません。チベット高原も同様で、デニソワ人が長期間居住し続けたのではなく、撤退もしくは絶滅と再拡散を繰り返していた可能性も考えられます。

 ただ、デニソワ人において高地適応への選択圧があったのだとすると、長期間チベット高原に存続し続けた可能性は高そうです。実際にはどうだったのか、白石崖溶洞の石器と非ヒト動物遺骸の詳細な年代分析により、解明が進むと期待されます。仮にチベット高原がデニソワ人にとって長期的な生息範囲ではなかったとすると、おそらくは華北や華南(やアジア南東部)がデニソワ人の「本拠地」で、そこからチベット高原やアルタイ山脈に時として拡散していったのでしょう。中国では中期~後期更新世の石器や分類の曖昧な複数のホモ属遺骸が発見されており、その中にデニソワ人もいるかもしれません。たとえば、河北(Hebei)省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸です(関連記事)。また、台湾沖で発見されたホモ属遺骸(関連記事)も、夏河下顎との類似性からデニソワ人の可能性が指摘されています。

 また本論文は、堆積物からの古代DNA研究の応用範囲を10万年前頃まで拡張したという点で、たいへん意義深いと思います。イスラエルでも中部旧石器時代層の堆積物から非ヒト動物のmtDNA断片が回収されており(関連記事)、かなりの低緯度地域でも5万年以上前の人類のDNA解析が可能ではないか、と期待されます。日本列島のように更新世の人類遺骸がきょくたんに少ない地域でも、更新世人類のDNA解析が可能となれば、人類進化史、さらには現代人の形成史の解明に大きく貢献できそうですから、研究の進展がひじょうに楽しみです。


参考文献:
Zhang D. et al.(2020): Denisovan DNA in Late Pleistocene sediments from Baishiya Karst Cave on the Tibetan Plateau. Science, 370, 6516, 584–587.
https://doi.org/10.1126/science.abb6320

大河ドラマ『麒麟がくる』第30回「朝倉義景を討て」

 1569年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)夏、明智光秀(十兵衛)は美濃へと向かい、織田信長を訪ねます。光秀は木下藤吉郎(豊臣秀吉)から、松永久秀や三淵藤英も信長に呼ばれており、朝倉との戦になるのではないか、と聞かされます。光秀は岐阜城で、帰蝶・奇妙丸(織田信忠)と再会し、信長が朝倉との戦を迷っている、と帰蝶から聞かされます。帰蝶は、斎藤龍興が朝倉を唆して美濃への帰還を画策していることから、信長に朝倉攻めを進言していました。織田単独で朝倉を倒すのは難しいと考える信長は光秀との会話から、天皇を動かそうと考えます。1570年2月、信長は上洛して正親町天皇に拝謁し、畿内静謐のための軍事行動の勅命を得ることに成功します。摂津晴門から信長が朝倉討伐を計画していると聞かされた朝倉義景は織田との全面的な戦いを決意します。しかし、摂津晴門も三淵藤英も織田の朝倉攻めに反対し、多くの大名から幕府は支えられるべきと主張します。

 今回は、信長が朝倉を攻める大義名分として天皇を動かすところが描かれました。本作では、近衛前久の出番も多く、二条晴良も重要人物のようなので、これまでの信長が重要人物だった大河ドラマと比較して、朝廷が重要な役割を果たすようです。正親町天皇がどのような人物なのか、まだよく描かれていませんが、大物を起用しているだけに、今後信長との関係で重要な役割を果たすのではないか、と期待されます。本能寺の変には朝廷が関わっていた、という話になるのでしょうか。帰蝶は久々の登場となりますが、実質的には架空人物なので、いつ退場しても不思議ではありません。帰蝶も本能寺の変と関わってくるのか、注目されます。