原口泉『明治維新はなぜ薩摩からはじまったのか』

 パンダ・パブリッシングより2015年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、薩摩藩が幕末に大きな影響力を有するに至ったことに関して、18世紀にまでさかのぼって検証しています。本書は、薩摩藩が組織として動いたからこそ幕末に大きな影響力を有した、という視点から、家老、とくにそのうちの二人に注目しています。一人は幕府の命により行なわれ、薩摩藩にとって未曾有の負担となった18世紀半ばの木曽川治水工事を担当した平田靱負で、もう一人は19世紀前半に藩財政を立て直した調所広郷です。

 本書は薩摩藩が幕末に大きな影響力を有した一因として、藩が大きく分裂しなかったことを挙げます。もちろん薩摩藩でも政争はありましたが、島津斉彬の融和策により分裂が深化・固定化しなかった、と本書は指摘します。本書は幕末において薩摩藩が大きな影響力を有したのは、家老の小松帯刀の功績が大きかった、と指摘します。さらに本書は、小松の功績は幕末の薩摩藩に特有なのではなく、江戸時代の薩摩藩には名家老の系譜があった、と指摘します。それが、伊勢貞昌や平田や調所だった、というわけです。とはいえ、粛清された家老も少なくありませんでしたが。また本書は、幕末において薩摩藩が大きな影響力を有した一因として、琉球との関係や欧米の到来への対応などで、ペリー来航以前から外交経験を積んでいたことも指摘します。

 18世紀半ばの木曽川治水で功績を挙げた平田は、明治時代までほぼ忘れられた人物となっていました。その要因は、幕府が薩摩藩に命じたため、建前では幕府の仕事とされていたことにあります。しかし、地元の人々は薩摩藩と平田の功績をずっと語り継いでおり、明治時代以降に平田は顕彰されました。平田は、治水工事とその残務処理が終わった直後に死亡します。史料には病死とありますが、自害だろう、と本書は推測します。平田は、多くの薩摩藩士を死なせ(切腹した者が多くいました)、費用が見積りをはるかに超えたことに対して、責任を取ったのだろう、というわけです。幕府が薩摩藩にこのような難工事を命じたのは、薩摩藩を警戒しており、その力を削ぐためだった、と本書は指摘します。

 調所は、木曽川治水工事などで悪化した薩摩藩の財政を立て直しました。調所は行政・農政・軍政の改革も進め、幕末において薩摩藩が大きな影響力を有する基盤を築きました。しかし、調所は琉球との密貿易などの責任を取らされて自害に追い込まれ、御家騒動で島津斉彬と敵対し、西郷隆盛に敵視されたこともあり、極悪人として語られてきました。調所は下級武士の家に生まれ、茶坊主の家に養子に入り、主君の島津重豪に重用されて出世していきます。調所の改革は商人や家中から強い反発を招来しましたが、重豪と斉興という独裁的な君主に深く信頼され、長期にわたる改革が可能となりました。本書は、調所の改革が大きな実績を残した理由として、民間の活力を上手く引き出したことも挙げています。しかし、やはり改革への反発は大きく、浪費で藩財政を悪化させた重豪と同じ傾向を斉彬に見出だし、斉彬とは不和だったことから、斉彬が家督を継承した後、調所は自害に追い込まれます。しかし本書は、斉彬の功績の基盤は調所の改革にあった、と調所を高く評価しています。

 小松は西郷隆盛や大久保利通ほどの知名度はありませんが、本書は幕末における功績を高く評価します。小松が過小評価された一因として、賞典録が西郷や大久保よりも低かったこともありますが、これは王政復古の大号令に小松が直接関わっていなかったからで、外交や西郷など優秀な人物に活躍の場を与えたことなど、幕末における小松の功績は大きかった、と本書は指摘します。本書は、王政復古の大号令から明治政府成立とその後の展開(明治維新)を必然視して、そこから逆算しての人物評価を「薩長史観」と批判します。また本書は、小松が自分を信頼した徳川慶喜や島津久光であっても、大事な局面で切り捨てたり、駒として利用したりするような冷徹なところもあった、と指摘します。

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