年末の挨拶

 いよいよ2020年も終わりが近づいてきました。一年間この過疎ブログをお読みくださった方、さらには有益な情報を寄せてくださった方には感謝申し上げます。例年、大晦日の記事はおおむね定形化しており、ほぼ流用して一部だけ修正していたのですが、今年からは短くとも1年を回顧するようなことも述べていきます。今年は、1年前にはまったく予想していなかった新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な影響のため、日本も大打撃を受け、日本も含めて少なからぬ国で収束する見通しがまだ立っておらず、何とも暗い1年間となりました。東日本大震災が起きた2011年にも痛感しましたが(関連記事)、「平穏な日常」がいかに大切なものなのか、またそれがいかに脆いものなのか、痛感した1年でした。来年はもっと状況が悪化するかもしれませんが、何とかしぶとく生き続けていきたいものです。

 当ブログでは、新型コロナウイルス感染症にほとんど言及しておらず、いくつか関連研究を取り上げたくらいです。これは東日本大震災が起きた2011年と同じく意図的にやったことで、ネット上で怪しげな情報が飛び交い、私程度の見識・能力では気づかずにデマを拡散してしまうかもしれない、と考えたからです。また、努めて「平穏な日常生活」を取り戻したかのように振る舞い、自分自身を落ち着かせ、軽率な行動をとらないようにしよう、と考えたためでもあります。ネットは基本的に世界中の人が閲覧可能であり、緊急時にもその大前提を忘れないようにしないと、デマの拡散に加担してしまう可能性が高くなるのではないか、と思います。もっとも、わずかながらでも、私の選択した行動に効果があったのか、また私の行動が日本社会にとって有益だったのかというと、今でも自信はありませんが。また今年から、その年に当ブログで感想記事を掲載した本のうち、とくに面白いものを取り上げます。今年は、以下の通りです。

天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_21.html

一ノ瀬俊也『東條英機 「独裁者」を演じた男』
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_39.html

守屋純『独ソ開戦の真実 『ジューコフ回顧録』完全版が明かす』
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_6.html

岩井秀一郎『永田鉄山と昭和陸軍』
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_14.html

岡本隆司『近代日本の中国観 石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで』
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_13.html

岡本隆司『腐敗と格差の中国史』
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_23.html

斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_26.html

 これらのなかでもとくにお勧めなのは、天野忠幸『松永久秀と下剋上 室町の身分秩序を覆す』です。なお、過去の面白かった本のまとめは以下の通りです。

(1)2010年4月以前
https://sicambre.at.webry.info/201004/article_25.html

(2)2010年5月~2013年12月
https://sicambre.at.webry.info/201401/article_3.html

(3)2014年1月~2018年4月
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_24.html

(4)2018年5月~2019年12月
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_51.html

2020年の古人類学界

 あくまでも私の関心に基づいたものですが、年末になったので、今年(2020年)も古人類学界について振り返っていくことにします。近年ずっと繰り返していますが、今年も古代DNA研究の進展には目覚ましいものがありました。正直なところ、最新の研究動向にまったく追いついていけていないのですが、今後も少しでも多く取り上げていこう、と考えています。当ブログでもそれなりの数の古代DNA研究を取り上げましたが、知っていてもまだ取り上げていない研究も少なくありませんし、何よりも、まだ知らない研究も多いのではないか、と思います。古代DNA研究の目覚ましい進展を踏まえて、今年はネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と、現生人類(Homo sapiens)とに分けますが、当分はこの区分を続けそうで、あるいはさらに細分することになるかもしれません。以下、今年の動向を私の関心に沿って整理すると、以下のようになります。


(1)古代型ホモ属のDNA研究。

 まず注目されるのが、サハラ砂漠以南の現代アフリカ人のゲノムに、以前の推定よりもずっと高い割合でネアンデルタール人由来の領域があることを指摘した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_6.html

 アルタイ地域のチャギルスカヤ洞窟(Chagyrskaya Cave)で発見されたネアンデルタール人個体からは高品質なゲノムデータが得られました。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_8.html

 ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体に関する研究では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と同様に、ネアンデルタール人系統はデニソワ人系統よりも現生人類系統の方に近い、と明らかになりました。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html

 まだ査読前ですが、アルタイ地域においてデニソワ人とネアンデルタール人との交雑が一般的だったことを指摘した論文も注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_19.html

 アイスランド人の大規模なゲノム解析では、現代人の表現型におけるネアンデルタール人の遺伝的影響が以前の推定よりも小さい可能性と、ネアンデルタール人との交雑を経由してアイスランド人の祖先がデニソワ人の遺伝的影響を受けた可能性とが指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_42.html

 アジア東部北方の早期現生人類のDNA解析の結果、すでにデニソワ人の遺伝的影響を受けていることが明らかになりました。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_13.html

 欠失多型も調べた研究では、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団とネアンデルタール人との交雑に加えて、アジア東部とヨーロッパ西部の現代人の祖先集団が、それぞれネアンデルタール人と交雑した、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_21.html

 多様な地域の現代人の高品質なゲノムデータからは、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域の大半は、現生人類とネアンデルタール人との1回の交雑に由来するものの、現生人類とデニソワ人との交雑は複数回起きた、と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_18.html

 非アフリカ系現代人では出アフリカのさいに失われた遺伝子が、ネアンデルタール人との交雑により再導入された可能性も指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_6.html

 カメルーンの古代人のDNA解析では、アフリカの現生人類集団における複雑な分岐と混合が明らかになるとともに、遺伝学的に未知の古代型ホモ属から現代人への遺伝的影響の可能性が指摘されました。
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_37.html

 同じくアフリカ西部のナイジェリアとシエラレオネの現代人のDNA解析からも、未知の古代型ホモ属から現代人への遺伝的影響の可能性が指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_31.html

 新たな手法を用いた研究でも、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と遺伝学的に未知の古代型ホモ属との間で複雑な混合があった、と指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_14.html

 ネアンデルタール人由来の遺伝子が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を重症化させる、との研究は世界中で大きな話題となりました。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_6.html

 古代DNA研究では、人類も含めて動物遺骸だけではなく、堆積物のDNA解析も進められるようになり、人類遺骸が発見されていない遺跡の人類集団の遺伝的特徴も解明されるのではないか、と予想されます。しかも、イスラエルの遺跡では中部旧石器時代層の堆積物の非ヒト動物のmtDNAが確認された、と報告されており、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_19.html
古代DNA研究の適用範囲が時空間的に大きく拡大するのではないか、と大いに期待されます。

 また、古代型ホモ属ではありませんが、コーカサスの遺跡の25000年前頃の堆積物から、ヒトの核DNAも解析されたと報告されており、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_20.html
堆積物のDNA解析はますます期待されます。

 これらはまだ学会での報告の段階ですが、論文として公表された研究では、チベット高原で10万年前頃の堆積物からデニソワ人のmtDNAが確認されており、今後、古代型ホモ属の特定において堆積物のDNA解析が大きな威力を発揮しそうです。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_2.html


(2)現生人類の古代DNA研究。

 現生人類の古代DNA研究では、ユーラシア西部、とくにヨーロッパが進んでいますが、今年も、当ブログで取り上げただけでも重要な研究が多数公表されました。今年公表されたユーラシア西部の古代DNA研究の特徴は、すでに他地域よりもずっと多く蓄積されたデータを踏まえて、時空間的に広範な対象を扱う統合的なものが多いことです。ユーラシア西部の古代DNA研究を整理した概説もあり、近年の研究を把握するのに有益です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_42.html

 地中海を対象とした研究では、中期新石器時代から現代のサルデーニャ島や、
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_57.html
新石器時代以降の地中海西部諸島や、
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_3.html
鉄器時代から現代のレバノンや、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_18.html
青銅器時代レヴァント南部集団を扱った研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_33.html

 包括的な研究としては、新石器時代から青銅器時代の近東を対象としたものがあります。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

 とくに古代DNA研究が進んでいるヨーロッパでは、今年も注目される研究が多く公表されました。ヨーロッパ東部での後期新石器時代の漸進的な遺伝的混合を指摘した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_28.html
中期新石器時代~前期青銅器時代のスイスを対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_43.html
ヨーロッパ中央部新石器時代最初期における農耕民と狩猟採集民との関係を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_35.html
ゴットランド島の円洞尖底陶文化と戦斧文化の関係を取り上げた研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_20.html
ゲノムデータと同位体データからアイルランドの新石器時代の社会構造を推測した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_26.html
ヨーロッパにおける乳糖分解酵素活性持続の選択を推測した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_8.html

 フランスに関しても、ドイツの一部とともに中石器時代から新石器時代を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html
中石器時代から鉄器時代を対象とした研究があります。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_2.html

 これまでアフリカの古代DNA研究は、低緯度地帯に位置しているため遅れていましたが、近年では着実に進んでおり、その一部は(1)でも取り上げました。近年のアフリカの古代DNA研究を整理した総説はたいへん有益です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_41.html

 古代DNAデータから完新世のアフリカにおける複雑な移動と相互作用を推測した研究は、包括的で注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_23.html

 また、アフリカは現代人の遺伝的データの蓄積でも、その多様性から考えて他地域から遅れており、古代DNA研究ではありませんが、アフリカ人の包括的なゲノムデータを報告した研究は、今後の研究の基礎になるだろう、という意味で注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_3.html

 アメリカ大陸は、ヨーロッパほどではないとしても、古代DNA研究が比較的進んでいる地域と言えそうで、今年も重要な研究が公表されました。それは、9000~500年前頃のアンデス中央部および南部中央を対象とした研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_17.html
カリブ海諸島の3200~400年前頃の古代ゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html
カリブ海諸島の古代ゲノムデータをさらに拡張した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html
ペルー南部沿岸地域におけるインカ帝国期の移住を取り上げた研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_12.html
5800~100年前頃の南パタゴニアの古代ゲノムデータを報告した研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_15.html

 また、基本的には現代人のゲノムデータに依拠しているものの、先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触の可能性を指摘した研究もたいへん注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_13.html

 オセアニアに関しては、古代DNAデータからバヌアツにおける複数の移住を推測した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_20.html
グアム島の古代DNAデータを報告した研究がも注目れます。
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_32.html

 家畜の古代DNA研究も進んでおり、家畜ウマのアナトリア半島起源説を検証した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_23.html
古代ゲノムデータに基づいてイヌの進化史を推測した研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_4.html

 今年の古代DNA研究の大きな成果は、これまでユーラシア西部と比較して大きく遅れていたユーラシア東部に関する重要な研究が相次いで公表されたことです。もっとも、まだユーラシア西部と比較して遅れていることは否定できませんが、今後の研究の進展が大いに期待されます。近年のユーラシア東部の古代DNA研究の概説は有益ですが、その後に公表された重要な研究もあります。
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_32.html

 これまでの空白を埋めるという意味でとくに重要なのは、中国陝西省やロシア極東地域や台湾など広範な地域の新石器時代個体群を中心とした研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html
中国南北沿岸部の新石器時代個体群を中心とした研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html
新石器時代から鉄器時代の中国北部複数地域の個体群を中心とした研究です。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_3.html

 また、チベット人の形成史に関しては、包括的な研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_21.html
高地適応関連遺伝子に関する研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_2.html

 ユーラシア東部内陸部では、バイカル湖地域における上部旧石器時代から青銅器時代の人口史を取り上げた研究と、
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_38.html
ユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史を取り上げた研究がたいへん注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_12.html

 これと関連して、コーカサス北部の紀元前8~紀元前5世紀の個体で確認されたY染色体ハプログループ(YHg)D1a1b1aは、ユーラシア内陸部における東西の広範な人類集団の移動を反映しているかもしれないという意味で、注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_36.html


(3)現生人類の起源と拡散に関する新たな知見。

 現生人類への進化の選択圧として、変動性の激しい環境への適応が指摘されています。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_36.html
しかし、そうだとしても、それは非アフリカ地域でも同様だったはずで、人口規模と遺伝的多様性も背景にあったのかもしれません。

 オーストラリアでは6万年以上前となる植物性食料の利用が報告されており、共伴する石器から現生人類の所産と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html
ただ、人類遺骸が確認されているわけではなく、現生人類と断定するのは時期尚早だと思います。上述の堆積物のDNA解析が利用できれば、この問題の解決も期待できますが、6万年以上前のオーストラリアとなると、難しそうです。

 ヨーロッパでは45000年以上前となる現生人類の痕跡が確認されましたが、この現生人類集団が現代人にどの程度遺伝的影響を残しているのか、まだ不明です。
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_20.html

 スリランカではアフリカ外で最古となる48000年前頃までさかのぼる弓矢技術の証拠が発見されており、現生人類の所産と考えられていますが、DNA解析は難しそうなので、確証を得るには人類遺骸の発見が必要になると思います。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_23.html

 アラビア半島内陸部では10万年以上前となる現生人類の足跡が発見されましたが、この現生人類集団と現代人との遺伝的つながりは不明です。
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_29.html

 ポルトガルの遺跡の石器から、現生人類はイベリア半島西端に4万年前頃には到達していた、と確認されました。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_1.html

 マレー半島西部では7万年前頃の石器が発見されており、現生人類の所産と推測されています。
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_17.html

 すでにたびたび述べてきましたが、これら以前の想定よりも早い現生人類の出アフリカが事実だとしても、それらの現生人類集団が現代人にどの程度遺伝的影響を残しているのかは不明で、絶滅もしくはほとんど遺伝的影響を残していない可能性も想定しておくべきだと思います。


 上記の3区分に当てはまりませんが、その他には、アメリカ大陸最古級の人類の痕跡を報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_34.html
ジャワ島におけるホモ・エレクトス(Homo erectus)の出現年代が以前の推定よりも繰り下がる可能性を指摘した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_16.html
アフリカ南部におけるホモ・エレクトス的な形態の頭蓋の年代が200万年前頃までさかのぼることを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_8.html
タンパク質解析によりホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)を現生人類やネアンデルタール人やデニソワ人の共通祖先系統と分岐した系統と位置づけた研究が注目されます。
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_9.html


 この他にも取り上げるべき研究は多くあるはずですが、読もうと思っていながらまだ読んでいない論文もかなり多く、古人類学の最新の動向になかなか追いつけていないのが現状で、重要な研究でありながら把握しきれていないものも多いのではないか、と思います。この状況を劇的に改善させられる自信はまったくないので、せめて今年並には本・論文を読み、地道に最新の動向を追いかけていこう、と考えています。なお、過去の回顧記事は以下の通りです。


2006年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_27.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_28.html
https://sicambre.at.webry.info/200612/article_29.html

2007年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200712/article_28.html

2008年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200812/article_25.html

2009年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/200912/article_25.html

2010年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201012/article_26.html

2011年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201112/article_24.html

2012年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201212/article_26.html

2013年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201312/article_33.html

2014年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201412/article_32.html

2015年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_31.html

2016年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201612/article_29.html

2017年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201712/article_29.html

2018年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201812/article_42.html

2019年の古人類学界の回顧
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_57.html

第66回東京大賞典結果

 近年では競馬への情熱をかなり失ってしまい、競馬関連の記事を掲載することが少なくなりましたが、有馬記念と東京大賞典だけは当ブログを始めてから毎年必ず取り上げてきたので、今年(2020年)も記事を掲載することにしました。今年の東京大賞典には、2連覇中のオメガパフュームや昨年2着のノンコノユメや昨年3着のモジアナフレイバーは出走してきましたが、今年のチャンピオンズカップの上位5頭は出走してこず、ノンコノユメとモジアナフレイバーはもう上がり目はなさそうですから、GIとしてはやや寂しい出走馬構成になったと思います。オメガパフュームが断然の1番人気となり、ジャパンダートダービーを勝った3歳馬のダノンファラオがどこまで通用するのか、注目していました。

 レースは、ワークアンドラブが2番手のカジノフォンテン以下をやや話して逃げ、直線ではまずカジノフォンテンが抜けだしましたが、オメガパフュームがゴール前で差して、首差で勝って東京大賞典3連覇を達成しました。オメガパフュームはスタートがあまりよくなく、当初はやや後方から進み、上がっていく時もずっと外を回ったので、危ないかな、とも思ったのですが、相手に恵まれた感は否定できないものの、さすがの底力でした。ダノンファラオは、4角では見せ場を作ったものの、12着と結果はさっぱりでした。しかし、ダノンファラオは安定感に欠ける馬のようなので、来年は人気を落として大レースで勝つ可能性は低くないように思います。

山田仁史「東南アジア古層の神話・世界観と竹利用」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P29-34)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 近年、全世界に分布する神話モチーフのビッグデータ解析が進んでいます。たとえば、ロシアのユーリー・ベリョースキン(Yuri Berezkin)氏は、ヨーロッパの9言語によるテキスト、約5万話のデータベースを自力で作成し、2150 ほどのモチーフを独自に設定して、主成分分析などによる成果を続々と発表しているそうです。またフランスのジュリアン・デュイ(Julien d’Huy)氏は、一部ベリョースキン氏とも協働作業しつつ、世界神話の「系統解析(phylogenetic analysis)」に取り組んでいます。世界神話学では、世界の遠く離れた地域同士の神話の類似性を、現生人類(Homo sapiens)拡散の様相から説明しようとしています(関連記事)。

 その結果、アジア南東部の神話について新たな知見がもたらされつつあります。たとえばベリョースキン氏は、死の起源神話の分析から、現生人類がアジア南東部および東部に定着した後、その神話における複雑性と多様性は格段に増し、数百とは言わないまでも数十の新しい(アフリカには未知の)モチーフが出現し、近い過去において太平洋東岸と西岸どちらの諸民族にも共有された、と指摘しています。またベリョースキン氏は、シベリアとアジア南東部の両方に典型的な多くの神話モチーフが、アメリカ大陸にも見出され、シベリアとアメリカ大陸、アジア南東部とアメリカ大陸にのみ見られるモチーフもあり、こうした分布は異なるアジアの集団が別々にアメリカ大陸に入ったことを反映している、とも指摘しています。デュイとベリョースキン氏の著論文でも、アジア南東部が一つのクラスターを形成すると示唆されています。このように、現生人類 の移住・拡散に伴う神話・宗教的世界観を考える上で、アジア南東部が一つの重要な地域である、と改めて認識されています。

 他方、考古学・遺伝学・古人類学・言語学などの成果を総合しつつ、アジア南東部における人類集団の重層性が指摘されています。ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)氏は、5万年前にはもうアジア南東部に到達していた、古層のオーストラロ=パプアン(Australo-Papuan)と、紀元前3500 年から前1300年の間にオーストロネシア系などの言語とともにより新しく入ってきた「アジアン(Asian)」とを区別した上で、アジア南東部にかつて広く居住していたオーストラロ=パプアンの特徴を比較的よく残しているのがネグリートである、と推測しています。ネグリートとは、低身長で、黒っぽい肌と縮れ毛という身体的特徴を有する人々で、アンダマン諸島、マレー半島(セマン人など)、フィリピン(アエタ人やママヌワ人など)に居住しています。しかし、かつてはアジア南東部全域に居住していた、とベルウッド氏は推測しています。各地の神話に登場する「小人族」は、それを反映しているかもしれません。こうした知見ももとに、やや図式的ではあり、また形質と文化はそのまま対応するわけではないことを前提としつつ、アジア南東部における神話・宗教の多層性をおおまかに示すと、古いネグリート系(オーストラロ=パプアン)→マレー系(アジアン)→新しい仏教・イスラム教・キリスト教・道教となります。

 このうちネグリート系の人々に関しては、アジア南東部における古層の住民であるとして、分子人類学者たちがかねてから注目してきました。たとえば尾本恵市氏はかつて、ネグリートは、フィリピンやマレー半島やアンダマン諸島などに残る、スンダランドの生き証人というべき狩猟採集民だと考えている、と述べています。近年、メラネシア人(パプアニューギニアとブーゲンビル島の人々)とオーストラリア先住民の他に、フィリピンのネグリートにも種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のゲノムがやや高い頻度で伝わっている、と明らかになりました(関連記事)。つまりネグリートの人々は、アジア南東部における現生人類の文化形成過程を知る上で重要な鍵を握る、と改めて認識されつつあります。

 ヴィルヘルム・シュミット(Wilhelm Schmidt)は1910年の著書『人類進化史におけるピグミー諸族の位置』において、低身長の狩猟採集民こそが人類の古い文化状態を残している、と推測しました。しかし、とくにアジアのネグリート系について、資料はまだ限られていました。その後、イギリスのアルフレッド・レジナルド・ラドクリフ=ブラウン(Alfred Reginald Radcliffe-Brown)は1922年に『アンダマン諸島民』を発表し、状況は少し改善されましたが、まだ資料は不足していました。シュミットはカトリック教会の神父にフィリピンのアエタ人の調査を依頼するなど、アジア南東部のネグリート系集団に関する資料は増加します。また、これよりも早く、ジョン・M・ガーヴァン(John M Garvan)がアエタ人を調査しています。ジョン・M・クーパー(John Montgomery Cooper)はガーヴァンの手稿に依拠しつつ、アジア南東部のネグリート集団における文化要素がどれだけ重複・共通しているのか、検証しました。

 クーパーは、三つのネグリート群のうち、二群以上に共通する文化要素を55 項目挙げました。そのうち9 項目は三群すべてに共通しています。セマン人とアンダマン諸島人に共通するのは11 項目と少ないのに対して、アエタ人とセマン人に共通するのは23 項目、アエタとアンダマンに共通するのは20 項目です。つまり、アエタは両者をつなぐリンクになっていることが示唆された。いずれにしても、この三群は遠い過去からの共通の呪術・宗教的文化を保持している、というのがクーパーの結論です。

 この中で興味深いのは、雷やセミが重要な役割を果たすことです。たとえば、雷は天上での石転がしの音、または天神の声とされます。これはミンダナオ島スリガオ州のマヌア・アエタ人とセマン人とアンダマン諸島人に共通し、雷は至高神などの「偉い者(superiorbeing)」により引き起こされる、と考えられています。セマン人とアンダマン諸島人とプレ=テメル(Ple-Temer)とセマイ・サカイにおいて、雷は彼または彼女の声とされ、サンバレス州(Zambales)中西部のアエタ人では至高存在カダイ(Kadai)の声、また北カマリネス州(Camarines)のアエタ人では、至高存在たるカヤイ(Kayai)の声と称されていました。

 また、嵐もしくは他の災厄が引き起こされるのは、多数にのぼるタブー行為によってである、ともされていました。アンダマン諸島人では、日没後から日の出まで、つまりセミが鳴いている時は静粛を守り、うるさい仕事をしてはなりませんでした。さもないと、セミとプルガの気分を害し、嵐が来る、とさていました。セミが「歌う(sings)」のは薄明から日の出の間と、日没から夜の暗い時の間とである、と言われていました。セマイ・サカイでも同様に、朝夕セミが鳴いている時は静粛にしなければならない、と言われていました。他方でアエタ人においては、セミと嵐について詳細は記録されていません。しかし多くのアエタ集団についてガーヴァンは、日没時に叫んだり騒音を立てたりしてはならない、と報告しています。プラサ(Plaza)の報告によると、ブラカン州(Bulacan)東部のバルガ(Balúga)のアエタ人では、日の出前と日の入り後に叫んだり、騒がしい仕事をしたりしてはならない、とされていました。ここでの「日の出前と日の入り後」を、シュミットの同僚であったポール・シェベスタ(Paul Schebesta)は、セミの鳴く時間帯と解釈しています。

 スズメバチは雷神の使い、という観念もあります。ミンダナオ島スリガオ州のママヌワ(Mamánua)では、特定の大型スズメバチは雷神の使いなので、これに害を与えてはいけない、とされていました。またジャハイ・セマン(DjahaiSemang)では、特定種の黒スズメバチ(blackwasp)を殺してはいけないとされ、その理由は、これが雷神の伴侶ないし従者(companion or attendant)だから、というものでした。セミは高神ないし至高存在の子、という観念も興味深く、これはセマンとセマイとサカイと北アンダマン群すべてに共通しています。セミが鳴いている時に邪魔してはいけないというタブーはこれに基づくのだろう、とクーパーは推測しています。

 妊娠・出産についての観念に関しては、ミンダナオ島コルディエラ東部のアエタ人では、生後数ヶ月以内に亡くなった乳児の霊魂は野生ハトの一種の体内に宿り、そこから妊婦の中に入る、とされます。この野生ハトの呼び声を聞くと、夫婦は供え物をまします。この鳥を殺してはいけませんが、時には罠で捕らえ、キャンプ近くの籠で飼うこともあります。このハトにはそこで餌を与え、子供の霊魂に母親の中に入るよう呼びかけます。一方、セマン人における霊魂鳥は、スティーヴンズ(Stevens)によればレンジャクバト(crested dove)の一種、チェカ・セマン(Cheka Semang)によれば緑色の鳥おそらくハチクイ(bee-eater)の一種とされ、体内に未生児の霊魂を持つとされます。霊魂は霊魂樹の上で育ち、そこから霊魂鳥に取って行かれます。妊婦は同種の木を自分の誕生木(birth-tree)として、これを訪れます。霊魂鳥が木にとまっているのを見つけたら殺し、妊婦がこれを食べると、子供の霊魂は彼女の体内に入ります。似た観念はアンダマン北部群にもあります。ここでは赤ん坊の未生魂(unborn souls of babies)と、緑色のハトと、クワ科の木(Ficus laccifera)との間には何らかの関連があり、後二者は同名称です。未生児の霊魂はこの木に住み、緑色のハトが呼ぶと母の体内に入る、とされます。これらは、オーストラリア先住民のいわゆる「霊魂児(spirit children)」とも似ていますが、その比較は今後の課題です。

 その他のタブーや観念・儀礼としては、たとえば夜の口笛を忌むものがあります。サンバレス州のアエタ人では、月が昇る時に口笛をふいてはならないとされ、アンダマン諸島人では、日没から日の出までは口笛をふいてならない、とされました。獲物の解体についても、一定の決まりがありました。アエタ人では集団ごとに獲物の解体の仕方が決まっており、別のやり方をするとその後の猟運が悪くなる、と一般に信じられていました。また北カマリネス州のアエタ人では、至高存在たるカヤイが、獲物を特定の仕方で解体するよう求めている、と信じられており、アンダマン諸島人では、ブタの解体の仕方が悪いと、ジャングルの精霊またはプルガが怒る、と言われていました。

 さらに共通して見られたのは、雷または嵐の際に自らの身体に傷をつけて血を流し、これを捧げるという行為です。シュミットたちはこれを「供犠」と呼んでいます。たとえば、アエタ人(おそらくミンダナオ島の多くの集団)では雷雨時に指を刺し、雷鳴の方へ向けて血をまく慣習がありました。至高存在たるバヤは雷の所有主であり、雷鳴は何らかの違犯に彼が怒っている徴だからです。またミンダナオ島東部のアエタ数群では、嵐は天の邪霊(死霊?)のせいだと言っていました。それで嵐の時、人によっては体の一部に小さい切り傷をつけ、指で血を天へ散らし、精霊に「さあお前の血だ、飲め」といった何らかの呼びかけをする慣習がありました。

 ブラカン州(Bulacan)東部のバルガ・アエタ人でも、雷神カダイが姦通か何かの悪事に怒り、雷が鳴ると、脚に切り傷をつけて血を採り、水と混ぜて雷の方向へ投げる一方、少量の血はカダイの妻へと、地中にやりました。普通、血を捧げるのは女性ですが、嵐がひどくなる場合には男もやりました。このように、アエタ人の「宥和的出血供犠(expiatory blood-off ering)」は全体として、またほぼ細部に至るまで、有名なセマン人とサカイ人の血の供犠に対応しているので、発生上の結びつきがあることは疑えない、とクーパーは指摘します。この際に竹が用いられることもありました。セマン人の場合は、嵐が来ると脚の脛の部分に竹または材質不明のナイフで切り傷をつけ、血を流してこれを水の入った竹筒で受け、血と水を混ぜます。こうして混ぜたものを天に向かってまき散らし、嵐を鎮めようとしました。アフリカのガボン地域「ネグリート」が「人の血を捧げる」ことや、ボルネオ島の狩猟採集民プナンでも、雷神に血を捧げることが行なわれてきた、と報告されています。つまり、雷雨に際して血を捧げる習俗は、古層の狩猟採集文化までさかのぼる可能性もあるわけです。

 竹はヒトにとってたいへん有用な植物です。アジア南東部では、環境の中に竹が自生します。67000年前頃にルソン島北部のカラオ洞窟(Callao Cave)では、石器を使わずおそらく竹ナイフにより、人類がシカやブタを屠殺していた、と推測されています。なお、本論文はとくに言及していませんが、この人類は現生人類ではなく、ホモ属の新種ルゾネンシス(Homo luzonensis)かもしれません(関連記事)。そうならば、竹の利用は初期ホモ属までさかのぼる可能性があります。竹の利用は、ブラジルやニューギニア島の先住民でも確認されています。竹製ナイフに関しては、長さが37~40cm、柄の部分は14cm程度で、敵に矢を射当てたあと、その場でこのナイフの刃の部分に石英か貝により刻み目をつけ、そこから新たに鋭利な刃をはがして作り、断首に用いた事例も報告されています。この刃は一度しか使えないので、刻み目の数は取った人頭の数を示していましたが、このナイフは時にジュゴンなどにも利用されたそうです。

 こうした竹の利用を物語るかのように、アジア南東部では、竹から人間が発生したという神話も広く知られています。それは、ネグリート系のセマン人にも、台湾先住民のプユマ人やヤミ人にもあります。またさらに広く、竹以外の植物から人間が発生するという事例も含めるならば、それらは採集生活を基礎とする中から生まれた、「植物的心性(Vegetalismus, vegetabilische Mentalität)」と呼べるかもしれません。こうした世界観のあり方は、アジア南東部古層の道具製作・利用のあり方を考える上でも示唆に富みます。

 まとめると、まずアジア南東部の神話・宗教的世界観は、さまざまな時代、異なる担い手を背景とする多層的な要素を含みます。そのうちデニソワ人のゲノムを一部継承したとされるネグリート系3集団に共通するのは、雷やセミに注目するような世界観であり、「動物の主」のような大型動物はあまり登場しません。有用植物、とくに竹の利用という伝統の存在が、人類起源神話にも竹などの植物がよく見られることの背景にあるのではないか、と考えられます。この問題を比較の見地からさらに追究することが、今後の課題です。


 以上、本論文についてざっと見てきましたが、今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)に基づくユーラシア東部への現生人類の拡散の見通しを踏まえると、なかなか興味深いと思います。まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。

 アジア南東部の古代人では、ホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体がユーラシア東部南方系統に位置づけられます。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。

 また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。日本列島の「縄文人」は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。アイヌ集団と琉球集団を除く現代日本人は、「縄文人」系統(10~20%)と、アジア東部系統(80~90%)の混合により形成され、アジア東部系統でも北方系統の方が影響は強い、と考えられます。

 もちろん、実際には現代人の各地域集団は複雑な混合により形成されてきたので、過度の単純化には慎重になるべきでしょうが、アンダマン諸島人はサフル系統と同じくユーラシア東部南方系統に位置づけられ、アジア南東部の「ネグリート」とされる集団もユーラシア東部南方系統の遺伝的影響が強いとすると、これらの集団に共通する神話が見られても不思議ではないでしょう。ただ、同じユーラシア東部南方系統とはいっても、アジア南東部への拡散は5万年前頃前後とかなり早そうですから、アジア南部(アンダマン諸島)や南東部の「ネグリート」系統とオセアニアのサフル系統との分岐はかなり早いと考えられ、遺伝的にはかなり分化している可能性が高そうです。

 また、アメリカ大陸先住民の一部と「ネグリート」系集団との神話の共通性に関しては、アマゾン地域の一部の現代先住民集団およびブラジルの10400年前頃の1個体でオーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域が確認される、との指摘(関連記事)が注目されます。ただ、この件は謎めいており、どのような経緯でアメリカ大陸先住民の一部にオーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域がもたらされたのか、現時点ではよく分からないので、神話の共通性と関連があるのか、判断が難しいところです。


参考文献:
山田仁史(2020)「東南アジア古層の神話・世界観と竹利用」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)』P29-34

『卑弥呼』第5集発売

 待望の第5集が発売されました。第5集には、

口伝31「価値ある人」
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_37.html

口伝32「将軍の告白」
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_8.html

口伝33「倭言葉」
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_32.html

口伝34「ハシリタケル」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_43.html

口伝35「ウソ」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_8.html

口伝36「ナツハ」
https://sicambre.at.webry.info/202003/article_33.html

口伝37「真の歴史」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_6.html

口伝38「古の五支族」
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_5.html

が収録されています。連載時には「第*話」となっていましたが、単行本では「口伝*」となっています。単行本では「真説・邪馬台国伝」との副題がつけられています。それぞれの話については、上記の記事にて述べているので、ここでは繰り返しません。第31話が掲載された『ビッグコミックオリジナル』2020年1月5日号は昨年(2019年)12月20日の発売ですから、もう1年前のことになります。第5集では「鬼」たちとの戦いの決着が描かれ、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)に関する重要な情報が明かされました。

 本作の魅力は、話の壮大さにある、と私は考えています。すでに、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の一族が日向(ヒムカ)から東方へと向かった話が作中で語られていますから、今後、現在の奈良県、もっと具体的に言えば纏向遺跡一帯も舞台になるのではないか、と予想されます。さらに、おそらく第6集に所収されるでしょうが、曹操や劉備とともに遼東の公孫氏も言及されており、朝鮮半島と中華王朝も関わってくるのではないか、と思われます。日本の古墳では呉の年号銘の銅鏡も発見されていますから、あるいは呉も関わってくるかもしれず、その点も楽しみです。なお、第1集~第4集までの記事は以下の通りです。

第1集
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_49.html

第2集
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_60.html

第3集
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_1.html

第4集
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_5.html

カナダのミイラ化した後期更新世のハイイロオオカミ

 カナダのミイラ化した後期更新世のハイイロオオカミ(Canis lupus)の仔に関する研究(Meachen et al., 2020)が報道されました。本論文が取り上げるミイラ化した後期更新世のハイイロオオカミの仔(標本YG 648.1)は、2016年7月にカナダのユーコン準州のドーソン市のクロンダイク(Klondike)地域(図1A)の永久凍土層の融解により発見されました。このハイイロオオカミの仔は、地元のトロンデック・ フウェッチン(Tr’ondëk Hwëch’in)の人々のハン(Hän)語で「オオカミ」を意味するジャー(Zhùr)と名づけられました。以下、本論文の図1です。
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 ジャーは既知の更新世のハイイロオオカミで最も完全な標本です(図1C)。ジャーは、唇の乳頭突起から皮膚や毛皮まで、保存状態はきわめて良好です。ジャーは鼻から尾の付け根まで体長417mmで、重さは670gです。雌の外性器(外陰部)の存在は明確で、全ての切歯が萌出して存在します。乳歯の犬歯も、いくつかの萌出した乳歯小臼歯とともに萌出して存在しています。レントゲン写真は、骨端が癒合していない骨格を明らかにし、ジャーの死亡年齢の推定が可能となりました。椎骨と長骨には別々の骨端線が見られます。ジャーの骨化率は家畜イヌと同じくらいと推測され、それは手根骨の完全な骨化(家畜イヌでは5週齢)の骨化率に基づいており、遠位尺骨の骨化の中心が存在するものの(家畜イヌでは6週齢)、じゅうぶんには形成されていません(家畜イヌでは8週齢で形成)。

 これらのデータから、ジャーは6~7週齢で死亡した、と推定されました。現在、アラスカのオオカミは通常4月までに繁殖し、妊娠2ヶ月後の初夏に出産します。安定同位体値に基づくと、この時間尺度はベーリンジア(ベーリング陸橋)のオオカミにも当てはまります。ジャーは、7月もしくは8月上旬に死亡した可能性が高そうです。現代のオオカミの仔は生後5週齢で離乳しますから、ベーリンジアのオオカミが現代のオオカミと同じ繁殖と発達の時間尺度ならば、ジャーはおそらくすでに6~7週齢までに離乳していたでしょう。

 加速器質量分析法(AMS法)による 放射性炭素年代測定から、ジャーは5万年以上前に生きていたと明らかになり、その地質学的年代を推定するには他の手法が必要です。そのため、ジャーの10個程度の毛包からDNAが抽出され、330955のリードが生成され、そのうち4.18%が参照イヌゲノムにマッピングされました。これらのデータから、平均網羅率27倍のミトコンドリアゲノムが得られました。このミトコンドリアゲノムが29匹の古代および現代のオオカミに追加され、ミトコンドリア系統と、75000~56000年前頃というジャーの年代が推定されました。ジャーの歯のエナメル質の酸素同位体分析は、57000~29000年前頃となる海洋酸素同位体ステージ(MIS)3の亜間氷期と一致します。DNAと安定同位体の分析を組み合わせることで、ジャーの年代は57000~56000年前頃と推定されます。この時期には、現在のユーコン準州地域では、北極の氷河が一時的に後退して草地が森に変わっており、マストドンやラクダやジャイアントビーバーなども生息していました。

 ジャーのミトコンドリアゲノムは、他の古代ベーリンジアおよびロシアのハイイロオオカミのそれのクレード(単系統群)内に位置づけられます(図1B)。この基底部クレードは、ユーラシアと北アメリカ大陸の個体群を含み、動物がベーリンジア全域を移動した時に、これら大陸間で接続が維持されていた、と強調されます。この基底部クレードの共通祖先の年代は、86700~67500年前頃(平均76800年前頃)と推定されます。ジャーの属するクレードは、ユーコン準州の現在のハイイロオオカミの直接的な母系(ミトコンドリア)祖先ではないので、ジャーのミトコンドリアゲノムは、北アメリカ大陸北部における、少なくとも1回の地域的絶滅と集団置換の証拠を提供します。最初に現在のユーコン準州地域で生息していたハイイロオオカミは死滅し、その時すでに南方に進出していた集団に少なくとも母系では置換された、というわけです。

 ハイイロオオカミの化石はアラスカとユーコン準州の更新世動物相では比較的一般的で、この地域で重要な生態学的役割を果たした、と示唆されます。ジャーは、現在マスノスケ(Oncorhynchus tshawytscha)の産卵個体群がいる、ユーコン川により太平洋とつながっているクロンダイク川の近くで発見されました。以前の研究では、アラスカ内陸部の現代のオオカミの一部に関して、少なくとも季節的に、その食性の大きな割合はサケのような水産(一部は海洋)資源に由来する、と示唆されています。

 ジャーの大量で混合した特有の安定同位体値(図1D)は、その食性および母親の食性の代理における、陸上資源と比較しての水産資源の顕著な寄与を示唆します。この水産資源の寄与は、淡水生もしくは遡河性のサケだった可能性があります。水産資源のかなりの利用可能性は、亜間氷期というジャーの環境背景の推論にも適合します。個々のアミノ酸の化合物固有の窒素同位体分析に基づくと、ジャーの比較的短い生涯において栄養水準にほとんど変化は見られず、ジャーが飢えていた証拠は見つかりませんでした。証拠から示唆されるのは、ジャーが堆積物に掘られた巣穴の中で死に、巣穴の入口が崩壊し、永久凍土に埋葬された、ということです。

 ジャーの並外れた保存には、特定の化石生成論的条件が必要です。大型哺乳類のミイラ化した化石死骸はアラスカとユーコン準州では稀ですが、ホッキョクジリス(Urocitellus parryii)やクロアシイタチ(Mustela nigripes)を含む中型から小型の哺乳類の半地下の完全もしくはほぼ完全なミイラは、この特有の化石生成論的過程を強調します。これは、オオカミの仔のような穴や巣を用いた動物は、ミイラになる可能性がより高いように思われることを示唆します。シベリアやアラスカは、その緯度から古代DNA研究に適しているので、イヌ科の古代DNA解析が進められており(関連記事)、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Meachen J. et al.(2020): A mummified Pleistocene gray wolf pup. Current Biology, 30, 24, R1467–R1468.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.11.011

第65回有馬記念結果

 近年では競馬への情熱をかなり失ってしまい、競馬関連の記事を掲載することが少なくなりましたが、有馬記念と東京大賞典だけは当ブログを始めてから毎年必ず取り上げてきたので、今年(2020年)も記事を掲載することにしました。今年の有馬記念には、引退したアーモンドアイはもちろん、三冠馬のコントレイルもデアリングタクトも出走してこず、宝塚記念を圧勝したクロノジェネシスや天皇賞(春)連覇で天皇賞(秋)2着のフィエールマンやGI4勝のラッキーライラックなどは出走してきましたが、有馬記念としてはやや寂しい出走馬構成になったと思います。

 レースは、バビットが遅い流れで逃げ、4番手につけたフィエールマンと後方のクロノジェネシスが遅い流れを読んでか早めに上がっていき、直線では2頭の叩き合いとなり、クロノジェネシスがフィエールマンを競り落とし、追い込んできたサラキアを首差退けて勝ち、春秋グランプリ制覇を達成しました。宝塚記念ほどの着差ではなかったものの、クロノジェネシスは流れが向かない中で外を回って勝ったわけですから、強さを示したと思います。2着のサラキアは大健闘で、現役続行ならば来年は大レースを勝てるかもしれません。3着のフィエールマンは、ルメール騎手が遅い流れを読んで上手く騎乗したと思いますが、クロノジェネシスよりは力が落ちるのでしょう。牝馬が1・2着となり、今年の中央競馬を象徴するような結果となりました。

先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動

 先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動に関する研究(Fernandes et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパ勢力による植民地化より前(先コロンブス期)には、カリブ海は考古学的に異なる共同体のモザイク状でした。これらの共同体は、相互作用のネットワークにより接続されており、それはキューバやイスパニョーラ島やプエルトリコにおける6000年前頃となる最初の人類の定住以降のことでした。

 先コロンブス期のカリブ海の時代は考古学的に3区分されており、物質文化複合体の変化を示します。石器時代と「古代(以下、カリブ海の考古学的時代区分を指す場合は「」で括ります)」は異なる石器技術により定義され、2500~2300年前頃に始まった土器時代は、農業経済と集約的な土器製作を特徴としていました。これらの時代にまたがる物質文化における技術と様式の変化は、接続されたカリブ海の人々による地域的発展と、アメリカ大陸からの移住を反映していますが、その地理的起源や経路や移住の波の回数に関しては、議論が続いています。

 この研究は、195人の古代個体群から174人のゲノム規模データを生成しました。45の新たな放射性炭素年代に基づいて、バハマとイスパニョーラ島とプエルトリコとキュラソーとベネズエラのこれらの個体群は、較正年代で3100~400年前頃と推定されました。これらの個体群の標的領域の平均網羅率は2.2倍で、一塩基多型の数の中央値は700689個(20063~977658個の範囲)です。この新たに生成されたデータは、既知の89人の個体群(関連記事)とともに分析されました。

 以下、集約的な土器使用より前の、石器を伴うか放射性炭素年代が得られている遺跡を「古代(Archaic)」、土器が優勢な時代を「土器時代(Ceramic)」と表記します。本論文では、遺伝的系統を表す場合は「-related」、考古学的帰属を表す場合は「-associated」と表記されていますが、私の見識では上手く使い分ける名案が思い浮かばなかったので、以下の記事ではともに「関連」と表記します。なお、本論文では、研究にさいしての先住民との合意が示されており、今後の古代DNA研究ではこうした倫理面への配慮が必須になるでしょう。以下、古代の各標本の場所と遺伝的構造を示した本論文の図1です。
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●先コロンブス期カリブ海の遺伝的構造

 主成分分析が実行され、現代のアメリカ大陸先住民のゲノムデータを用いて古代の個体群が投影されました(拡張図1b)。土器時代と「古代」の個体群は別々のクラスタで投影されますが、古代のベネズエラ個体群は、カベカル(Cabécar)語のような現代のチブチャ語(Chibchan)話者と関連しています(拡張図1b・c)。キュラソーとハイチの個体群は、ほとんどが土器時代関連クラスタと重なっています。遺跡内の遺伝的均質性の例外は、ドミニカ共和国のおもに土器時代と関連した遺跡であるアンドレス(Andrés)で、そのうち1個体(I10126)は、年代(以下、基本的に較正年代です)が3140~2950年前頃となる「古代」ですが、遺伝的には他の「古代」関連個体群と類似しています(拡張図1b・c)。その後の分析から、低網羅率(0.05倍未満)で、他の「古代」関連個体群と質的に類似している1900年前頃となるドミニカ共和国のロジャ洞窟(Cueva Roja)の「古代」関連3個体と、1親等の3組から1個体が除外されました。

 考古学的分類とは独立した遺伝的構造を研究するため、アレル(対立遺伝子)共有、および主要な「クレード(単系統群)」と次に「下位クレード」に基づいて解像度を上げる個体群が集団化されました。遺伝学を用いて定義された集団は星印(*)で示されます。これらの遺伝的集団の命名法は、クラスタの遺跡と時代区分(「古代」および土器時代)を含む地理的位置を組み合わせたものです。

 その結果、有意に分化した主要な3クレードが識別されました(図1bおよび図2)。大アンティル諸島「古代」クレード(*GreaterAntilles_Archaic、以下では*GAA)は、3200~700年前頃となるキューバの50個体と、アンドレス遺跡の1個体(I10126)を含みます。カリブ海土器時代クレード(*Caribbean_Ceramic、以下では*CC)は、1700~400年前頃となる土器時代関連遺跡の194個体を含みます。ベネズエラ土器時代クレード(*Venezuela_Ceramic、以下では*VC)は、2350年前頃の8個体で構成されます。2個体のハイチ土器時代クレード(*Haiti_Ceramic、以下では*HC)と5個体のキュラソー土器時代クレード(*Curacao_Ceramic、以下では*CurC)は、主要なクレードの混合として適合します。

 次に、これらクレード内の下位クレードと下位構造が特定されました。*CC内では、ドミニカ共和国南東部沿岸土器時代クレード(*SECoastDR_Ceramic、以下では*SECDRC)が、沿岸50kmの4遺跡から構成されます。この4遺跡は、西から東へ、ラカレタ(La Caleta)、アンドレス、ジュアンドリオ(Juan Dolio)、エルソコ(El Soco)となります。これらの遺跡は1400年間居住されており、土器様式の変化にまたがる遺伝的連続性を記録します。バハマとキューバの約700年にわたる全ての土器時代関連遺跡は、バハマ・キューバ土器時代(*BahamasCuba_ Ceramic、以下では*BCC)として集団化され、さらなる下位構造がそれぞれ、バハマ諸島の遺跡5ヶ所とキューバの遺跡2ヶ所に存在します。小アンティル諸島の遺跡2ヶ所は、小アンティル諸島土器時代(*LesserAntilles_Ceramic、以下では*LAC)として、残りの*CC遺跡は大アンティル諸島東部土器時代(*EasternGreaterAntilles_Ceramic、以下では*EGAC)として集団化されます。遺伝的違いの値が低い場合(Pairwise FST<0.01)は、*CC下位クレード内での顕著な均質性が示唆され(土器時代関連クレードと「古代」関連クレードとの間ではFST=0.1)、島々の間の高い移住率を反映しています。

 各下位クレード内における他と比較しての「古代」関連系統の過剰を有する*CC個体群を特定するため、f4統計が用いられました。ラカレタ遺跡の1個体(I16539)と、*HCを構成する2個体は、土器時代関連および古代関連の混合の有意な証拠を示します。以前の見解(関連記事)とは対照的に、プエルトリコのパスコデルインディオ(Paso del Indio)遺跡の1個体(PDI009)では有意な「古代」関連系統は検出されませんでした。以下、本論文の拡張図1です。
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●「古代」関連のカリブ海の人々

 *GAAクレードは、アラワク語(Arawak)、カリブ語(Cariban)、チブチャ語(Chibchan)、チョコアン語(Chocoan)、グオジバン語(Guajiboan)、マタコ・グァイクルー語(Mataco–Guaicuru)、トゥピ語(Tupian)という7語族に区分される、中央アメリカおよび南アメリカ大陸北部の先住民と最も遺伝的浮動を共有します(図2a)。他の語族と比較しての、1語族の人々との過剰なアレル共有の証拠、もしくはメソアメリカあるいは北アメリカの現代人集団と特に共有される遺伝的浮動の証拠はありません。キューバの「古代」関連個体群は、ドミニカ共和国のアンドレス遺跡の1個体(I10126)とよりも、相互に多くのアレルを共有しており、これは「古代」関連下位構造を示します(図2a・b)。一部の分析では、この1個体(I10126)はドミニカ共和国アンドレス「古代」(*Dominican_Andres_ Archaic、以下では*DAA)として分離されます。

 北アメリカ大陸の個体群との類似性を有する人々による移住も、カリブ海の「古代」の一部個体群に影響を及ぼした、との以前の主張(関連記事)は再現できませんでした。この主張は、2700~2500年前頃となるキューバのグアヤボブランコ(Guayabo Blanco)遺跡の1個体(GUY002)と比較しての、4900年前頃となるカリフォルニア州チャンネル諸島の前期サンニコラス(Early San Nicolas)の個体群と、キューバのペリコ洞窟(Cueva del Perico)遺跡の1個体(CIP009)との間の類似性に基づいていました。

 まず、対称性検証f4(GUY002、CIP009、前期サンニコラス、バハマのタイノ人)では、偏差は有意ではありませんでした。第二に、この主張の根底にある重要な統計は、CIP009とグアヤボブランコ遺跡の3個体を含むqpWaveに基づく対称性検証に基づいていましたが、検証された標本ペアの数を補正した後には有意ではありませんでした。第三に、f4(外群、CIP009、前期サンニコラス、バハマのタイノ人)では、以前には負の値がCIP009と前期サンニコラスとの間の類似性として解釈されました。有意ではない統計も再現されましたが、外群としてムブティ人を多様なユーラシア個体群、もしくはこの研究で新たに生成された古代ゲノムデータを有するバハマのタイノ人(Taino)に置換すると正の値になりましたが、本来ならば質的に類似した結果が得られるはずです。第四に、南アメリカ大陸の古代ゲノムデータを前期サンニコラスの場所に置くと、CIP009への吸引の有意ではないZ得点は同じくらい強く、北アメリカ大陸固有の関係の証拠はない、と示されます。第五に、CIP009は、他の「古代」関連個体群と同じ結節点上の本論文のqpGraph系統樹の簡略版に最適です。したがって、アレル共有手法の解決の限界まで、全ての「古代」関連カリブ海系統は単一起源からの派生と一致します。

 qpGraphにおいて*GAAは、最古のカリブ海とベリーズとブラジルとアルゼンチンの集団と初期に分岐した系統として適合します(図2c)。混合事象を示す最尤系統樹では、*GAAは分岐するアメリカ大陸先住民集団として適合します(拡張図3)。qpAdmもしくはf4統計を用いると、大陸部集団との特定の類似性のさらなる証拠は得られませんでした。土器使用者の到来は、カリブ海のほとんどにおいて「古代」関連系統を置換しました。例外はキューバ西部で、「古代」関連系統が最小限の混合で2500年存続し、この地域は別の言語および文化的伝統を有する人々がヨーロッパ人との接触の時期まで存在した、という考古学的および歴史学的説明と整合的です。以下、本論文の図2です。
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●土器使用者の拡大

 以前の分析では、*CC(カリブ海土器時代クレード)関連の人々は、南アメリカ大陸北東部のアラワク語話者との遺伝的類似性を有する、と示されています(関連記事)。本論文の対称性f4統計では、この結論を裏づけられません。カリブ語もしくはトゥピ語話者集団よりもアラワク語話者とのより密接な関連性の有意な証拠は示されません。しかし、ADMIXTURE分析が示唆するのは、*CCの下位クレードはほぼ完全に、現代アラワク語話者では最高の割合で見つかる成分で構成されている、ということです。また、混合事象を示す最尤系統樹におけるアラワク語話者のつながりへの裏づけも見つかり、これにより全ての*CCの下位クレードはアラワク語話者のピアポコ人(Piapoco)やパリクール人(Palikur)と同じ枝に配置されます(拡張図3)。さらなる証拠は、qpAdmにおける*CCの単一起源として、ピアポコ人との適合の成功から得られます(図2c)。

 *LAC(小アンティル諸島土器時代クレード)と*DAA(ドミニカ共和国アンドレス「古代」クレード)の混合としてqpAdmで*モデル化すると、大アンティル諸島とバハマ諸島の土器時代関連の人々における「古代」関連系統は約0.5~2.0%と推定されます。*CCの下位クレードのいずれかに*LACが由来する、という逆モデルは却下され、「古代」関連の人々が参照セットに含まれると失敗します。これらの観察の最も簡素な説明は、土器を使用していた祖先の南から北に向けてのカリブ海への移動というシナリオです。このシナリオでは、1000~650年前頃の小アンティル諸島の個体群(おそらくは小アンティル諸島の最初の土器使用者の子孫)と類似した系統が、大アンティル諸島とバハマ諸島に拡大して先住の人々を置換し、先住の人々の系統は2.0%以下しか残らなかった、と想定されます。

 イスパニョーラ島の土器時代関連遺跡2ヶ所の3個体のみが、有意な「古代」関連混合を有する、と明らかになりました。qpAdmを用いたこの3個体の「古代」関連系統の割合は、ドミニカ共和国のラカレタ遺跡の1個体(I16539)で11.8±1.9%(ラカレタ遺跡の個体I16539)、ディエイル1(Diale 1)遺跡とハイチの各1個体で18.5±2.1%です。DATESソフトウェアを用いると、ハイチのこれら3個体の16±3世代前(約350~500年前)に混合が起きた、と推定されます。

 ADMIXTUREおよびf統計におけるチブチャ語話者と*VC(ベネズエラ土器時代クレード)の類似性はqpAdmで確認され、*VCはカベカル語話者とのクレードとして適合します。したがって、ラスロカス(Las Locas)遺跡は、土器時代開始の頃に近い、土器関連文化とその担い手の拡大の仮定された起源地域に位置しますが、本論文の分析は、この拡大はより東方に起源がある、という証拠の重みを増加させます。キュラソーの土器使用者は、*LAC関連系統74.5±3.7%と、*VC関連系統25.5±3.7%の混合としてモデル化されます。このモデル化から、キュラソーの土器時代集団は2集団の混合に由来する、と示唆されます。一方は、土器時代の始まりにカリブ海のアンティル諸島へと拡大した集団と関連しており、もう一方はラスロカスのような遺跡をキュラソーへとつなぐダバジュロイド(Dabajuroid)土器様式と関連しています。

 頭蓋形態の研究では、1150年前頃となるベネズエラ西部からのカリブ人の移住の可能性を示唆しますが(関連記事)、そうした事象で予測されるような、この時の新たな系統の証拠はみつかりません。*VCや*LACやカリブ人の代理としての現代カリブ語話者アララ人(Arara)を用いてのシミュレーションでは、そのような集団からのわずか2~8%の系統を検出できます。遺伝的データは別々の移住の証拠を示しませんが、シミュレーションに用いた代理よりも*CC関連の人々と遺伝的に類似するか、もしくは2%未満しか系統を寄与していないような、標本抽出されていない大陸部集団からの移住の可能性は除外できません。以下、本論文の拡張図3です。
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●社会的構造と集団規模の推定

 4cM(センチモルガン)を超えるホモ接合連続領域(ROH;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)を含む、40万以上の一塩基多型を有する本論文の共分析データセットから、202個体が検査されました。20 cM以上の長いROHが多いことは、過去数世代内の親の関連性を示唆しますが、短いROHの兆候が豊富なことは、遠い親族の関連性と制約された配偶プールを示唆します。202個体のうち2個体のみが、20 cM以上のROH領域において、 100 cM以上を有しており(約135 cMがイトコの子供の平均です)、これは近親交配が稀であることを示唆します。対照的に、48個体が少なくとも1ヶ所の20 cM以上ROHを有しており、多くの配偶がマタイトコもしくはミイトコのような近親関係の個体間で起きたことと、限定的な地域の人口規模を示唆します。

 小さな人口規模のさらなる証拠として、カリブ海全域の豊富な短~中規模のROHが検出されました。ほぼ過去50世代以内の共有系統から生じる、4~20 cMの全てのROHの長さ分布を用いて、有効人口規模(Ne)が推定されました。Neの推定は、じっさいの人口規模の推定に用いることができ、ヒトでは通常3倍で、最大で10倍です。土器時代と関連するカリブ海の遺跡のNe値(以前の推定値と類似した約500~1000)は、「古代」関連遺跡のNe値(約200~300)より大きく、農耕発展に伴う人口密度の増加を示します。これは、「古代」関連集団よりも土器時代関連集団の方で、ヘテロ接合性が高いことにも反映されています。

 ROH兆候からのNeの推定は、それが相互接続された遺伝子プールというよりもむしろ、遺跡の住民の限られた遺伝子プールを表しているので、カリブ海全域のNeの下限を表しています。したがって、男性の組み合わせのX染色体間の長い共有された断片、つまり同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)領域も分析されました。およそ過去20世代以内の過去から共有された遺伝子プールの規模を反映する、12~20cMの長いIBDの共有された断片に焦点を当てると、人々がより近くの人々とより多くの遺伝子を交換した場合に予想されるように、そのような断片の割合は地理的距離とともに減少する、と明らかになりました。

 しかし、島嶼部全域で少なくとも8.7 cMの断片を共有する個体群19組が依然として検出され、これは、検証対象となったカリブ海全域の人々がその数百年前に祖先を共有していた、と明らかにします。イスパニョーラ島とプエルトリコの2つの主要なクレード間の比較から、3082という推定Ne(95%信頼区間で1530~8150)が得られます。これは、限られた移住により遺跡間での遠い親戚とIBD共有の割合が減少するので、共有されるイスパニョーラ島とプエルトリコの共同集団の最近の有効規模の上限を提供します。Neの推定を3~10倍すると、じっさいの人口規模が得られるので、先コロンブス期の人口規模は数十万もしくは百万という、古い報告もしくはあまり文書化されていない人口調査に基づく以前の推定は多すぎる、と推測されます。

 3~4親等程度の、密接に関連する57組の個体群も検出されました。そのほとんどはラカレタ遺跡で発見され、ラカレタ遺跡では63個体のうち37個体に1人もしくは数人の親族がいましたが、検証された組み合わせごとの割合は、他の遺跡内よりも有意に大きいわけではなく、95%信頼区間で、ラカレタ遺跡では1.5~2.8%なのに対して、他の遺跡では1.4~4.6%でした。相互に接続する集団のさらなる証拠として、ドミニカ共和国南部で約75km離れて埋葬された男性親族が特定されました。それは、アタジャディゾ(Atajadizo)遺跡の父子の組み合わせと、ラカレタ遺跡で発見されたその2~3親等の親族でした。


●現代人集団における先コロンブス期の系統と古代の母系および父系

 F4(ヨーロッパ人、検証集団、キューバ「古代」人、*CC)の計算により、現代と古代のカリブ海の人々で見られる在来系統間の遺伝的類似性が検証され、プエルトリコの個体群と土器時代関連個体群との間の関連性の兆候が得られました。この結果は、完全に土器時代関連系統ではあるものの、完全には「古代」関連系統ではないことと一致します。同じ検証をキューバの15州で個別に実行し、土器時代関連系統の弱い有意な証拠を有する2州および8自治体と、「古代」関連系統のわずかに有意な証拠を有するキューバ西部のグイネス(Guines)という1自治体が明らかになりました。したがって、入手可能な古代のデータは、過去1000年にわたってキューバの一部で混合されていない「古代」関連系統の持続を示しますが、現代までに土器時代関連系統と大いに混合されていました。

 以前の報告では、父系・母系での単系統遺伝となるハプログループでは、現代のカリブ海の人々における先コロンブス期の在来系統が報告されてきました。これらの報告に基づいて、以前には報告されていなかった、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の深い分岐となるC1dが特定されました。mtHg-C1dはカリブ海の土器時代関連下位クレード全体と、プエルトリコの現代人では約7%の頻度で存在します。これは、先住民の母方系統がカリブ海で先コロンブス期から持続してきており、アメリカ大陸からの植民地期の移動により説明できない、という直接的証拠を提供します。

 カリブ海の古代人の主要なmtHgはA2・B2・C1・D1です。「古代」関連個体群ではmtHg-D1の頻度が高く、土器時代の個体群ではより多様になる傾向があります。「古代」関連系統と土器時代関連系統との混合と推測される*HC(ハイチ土器時代クラスタ)の2個体はいずれもmtHg-D1で、同じく混合と推測される*CurC(キュラソー土器時代クラスタ)でもmtHg-D1の個体が確認されているので、mtHg-D1は「古代」関連系統個体群に由来するかもしれません。

 一方、Y染色体ハプログループ(YHg)では、本論文で新たに報告された96個体のうち87個体がYHg-Q1b1a1a(M3)で、そのうち57個体はさらにQ1b1a1a1に区分されています。*BCC(バハマ・キューバ土器時代クレード)個体群のうち2個体はYHg-Q1b1a2(M971)で、そのうち1個体はアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(関連記事)と同じ派生的変異を有します。アンジック関連系統はカリブ海にも拡散したわけです。YHg-Q1b1a2はキューバでも3個体で確認されていますが、いずれも時代区分は「古代」です。


●まとめ

 本論文は、先コロンブス期カリブ海の人々に関する複数の議論に取り組んでいます。まず、「古代」に大アンティル諸島に存在した系統は単一起源の由来と一致し、2500年に及ぶ「古代」関連系統個体群間の違いはわずかなだけです。「古代」関連系統の人々の起源集団が中央アメリカなのか南アメリカなのか、本論文では区別できませんが、北アメリカ起源の可能性は低い、と明らかになりました。ただ、北アメリカの比較遺伝データは不足しています。

 第二に、本論文のデータは、カリブ海における集約的な土器使用の導入と拡大を伴う移動と一致します。土器時代関連個体群は、現代のアラワク語話者との遺伝的類似性を示し、これは南アメリカ大陸北東部起源を説く考古学および言語学の証拠と一致します。アラワク語話者集団は、南アメリカ大陸アマゾン地域から北東へ移住した時(一部集団はさらにオリノコ川沿いに移動してアンティル諸島に達し、他の集団はベネズエラ西部海岸へと移動しました)に分岐した、という仮説と一致して、キュラソーの個体群は*LAC(小アンティル諸島土器時代クレード)の系統と関連する系統を有します。カリブ海で最初の土器時代遺跡はプエルトリコと小アンティル諸島北部に存在し、小アンティル諸島のウィンドワード諸島(Windward Islands)は1800年前頃までに定住された、という考古学的証拠はありませんが、大アンティル諸島ではなく、キュラソーと小アンティル諸島の個体群間の一部系統の共有は、カリブ海への南から北への経路を裏づけます。

 第三に、*CC(カリブ海土器時代)下位クレードと、サラドイド(Saladoid)期・オスティノイド期(Ostionoid)・メイラコイド(Meillacoid)期・チコイド(Chicoid)期といった伝統的なカリブ海の土器類型論との間の関連は見つからず、これらの土器様式伝統は新たな人々の大きな移動の結果だった、とする文化史モデルは支持されません。代わりに、ドミニカ共和国南東部沿岸などの地域における系統構成は、物質文化の様式変化にまたがって千年以上続きます。カリブ海の人々と遺伝的に類似したアメリカ大陸の集団の移住が文化的変化の一部を引き起こした可能性は除外できませんが、本論文の知見は、カリブ海内の土器使用集団間の接続が様式移行を触媒した、という証拠の重みを高めます。

 第四に、イスパニョーラ島の3個体において、「古代」関連系統と土器時代関連系統との間の混合の最初の証拠を提供します。またこの発見は、カリブ海における「古代」関連系統と土器時代関連系統との間の混合がひじょうに稀だった(本論文ではカリブ海の土器を使用する201個体のうち3個体のみ)、という以前の推論(関連記事)を確認します。

 第五に、カリブ海の一部、とくにプエルトリコとキューバの現代人は先コロンブス期在来系統を有する、と確認されました。キューバでは、「古代」関連系統がほぼヨーロッパ人勢力との接触まで持続しましたが、キューバの在来系統は現在、ほぼこの系統に由来しません。これは、先住民の植民地後の移動を反映しているかもしれませんが、その少なくとも一部は、土器時代関連系統が500年前頃のキューバ西部および中央部の個体群に存在するように、先コロンブス期の事象を反映しています。

 第六に、本論文のデータは社会構造と人口統計への洞察を提供します。本論文はROHの分析により、「古代」および土器時代の両方で親族間の配偶回避を報告し、カリブ海の大半で蓄積されたROHの大きな割合を検出しますが、これは小さな集団規模を反映します。本論文では、75km離れて埋葬された男性親族が特定され、これは別の実態として分析された遺跡間の接続ネットワークを示唆します。接続のさらなる証拠として、島嶼部全域で共有されるハプロタイプが観察されました。それは、イスパニョーラ島とプエルトリコの大きな島々の全域において、3082という推定Ne(95%信頼区間で1530~8150)で予想される値です。これらの推定は、分析された個体群のおよそ過去20世代を表していますが、これらの大きな島々全域のじっさいの人口が、ヨーロッパ人との接触が始まった時期には数十万から百万だった、という一部の文献で示唆されている規模よりはかなり少なかったことを示唆します。本論文の人口規模推定は、歴史的記録や人口計算よりずっと小さく、せいぜい数万人程度と推定されますが、ヨーロッパ人による植民地化と先住民の搾取と体系的殺害がカリブ海集団に与えた破壊的影響は明白です。

 先コロンブス期のカリブ海の人々の系統と遺産は現在まで続いており、古代DNA研究はこれをよりよく理解するのに役立ちます。現代のカリブ海の人々は、さまざまな割合で遺伝的系統の混合を有しています。それはおもに、先コロンブス期先住民集団系統(本論文のqpAdmによる推定では、キューバでは平均約4%、ドミニカ共和国では約6%、プエルトリコでは約14%)と、コロンブス期に移住してきたヨーロッパ個体群系統(キューバでは約70%、ドミニカ共和国では約56%、プエルトリコでは約68%)と、カリブ海に大西洋奴隷貿易で連行されたアフリカ個体群系統(キューバでは約26%、ドミニカ共和国では約38%、プエルトリコでは約18%)です。これら3集団は全て、カリブ海の現代人に遺伝的に寄与し、相互接続されたカリブ海世界の遺産を形成し続けています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:カリブ海沿岸地域の人類集団史には2つの大きな移動の波があった

 ヨーロッパ人が到来する前のカリブ海沿岸地域での人類の定住は、2つの大きな移動の波によるものだったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究では、古代カリブ海沿岸地域の人類集団史の詳細な分析が行われ、こうした先住民の子孫がカリブ海沿岸地域に現存していることが明らかになった。

 カリブ海沿岸地域に人類が初めて定住してからヨーロッパ人の到来(今から約500年前)までの間のカリブ海沿岸地域の人類集団史に関して、解明されていることは比較的少ない。今回、David Reichたちの研究グループは、約3000年前〜400年前にカリブ海沿岸地域に住んでいた174人の古代人のゲノムを分析し、このデータや他の公開データを用いて、古代人の集団のサイズや移動を調べた。この地域には、約3000年前までに、中米または南米北部の人々が定住し、石器技術をもたらした。その後、この集団の大部分は、移民の第2波に遺伝的に取って代わられた。移民の第2波は、南米北東部から小アンティル諸島を経由して大アンティル諸島に渡り、少なくとも1700年前にカリブ海沿岸地域に到来した。この第2波により定住した人々は、陶磁器の使用と農業経済を特徴とする独自の文化をもたらした。

 以前の研究では、ヨーロッパ人による植民地化が始まるまでのカリブ海沿岸地域に数十万人から数百万人が居住していたと推定されていたが、今回の研究では、全体の集団サイズははるかに小さく、数万人だったことが示唆された。こうした先住民の遺産は存続しており、カリブ海沿岸の一部の地域の住民は、ヨーロッパ人が到来する前の先住民に由来する遺伝子塩基配列を持っているだけでなく、ヨーロッパ系移民と大西洋横断奴隷貿易が行われていた時にカリブ海沿岸地域に連れてこられたアフリカ人から受け継いだDNAも保有している。



参考文献:
Fernandes DM. et al.(2021): A genetic history of the pre-contact Caribbean. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03053-2

大河ドラマ『麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」

 坂本城に預けられている三淵藤英を切腹させるよう、織田信長は明智光秀(十兵衛)に命令します。藤英は紀州に逃げた足利義昭と連絡をとり、信長打倒計画を企てていました。光秀は信長に助命を嘆願しようとしますが、藤英は断り、切腹します。本願寺・三好の連合軍との戦いから戻った光秀を、斎藤利三が訪ねてきます。主君の稲葉一鉄(良通)を見限った利三は、光秀に仕えたい、と願い出ます。信長は光秀を呼び出し、利三を稲葉一鉄に戻すよう命じます。美濃の安定のために利三を犠牲にしようとする信長に対して、光秀は家臣一人を大事にした方が安定する、と断ります。さらに光秀は、藤英を切腹させた件でも信長に諫言します。信長は一瞬激昂しますが、やはり光秀はお気に入りなのか、光秀を呼び戻して丹波攻略を命じ、利三の件も不問とします。朝廷では、正親町天皇の譲位問題で正親町天皇と信長との間に思惑の違いが浮き彫りになってきて、正親町天皇は光秀との面会を望みます。光秀は丹波を視察し、近衛前久と再会して、信長に就くのか否か、決断を迫ります。信長に就くと即答する前久に、光秀は丹波の国衆への紹介を頼みます。丹波を何とと平穏に治めたい光秀に、丹波を治めるには戦をするしかない、と前久は忠告します。

 今回は、三淵藤英の切腹や初登場となる斎藤利三の扱いをめぐって、光秀がさらに信長への違和感を抱いていくところが描かれました。このところ、信長への光秀の違和感を描く場面が多くなってきたように思います。残り6回となり、本能寺の変を無理なく描くには、光秀が信長を裏切る理由もしっかり視聴者に見せておかねばならないわけで、今後は松永久秀の最期も光秀の決断に影響を及ぼすのかもしれません。また、本作では他の戦国もの大河ドラマと比較して朝廷の扱いが大きいように思うので、朝廷が本能寺の変に関わることになるのでしょうか。光秀の事績が比較的よく分かっている後半生が駆け足気味なのは残念ですが、光秀の心情はしっかりと描かれそうなので、さほど失望せずともよさそうです。

グアム島の古代人のゲノムデータと太平洋における移住

 グアム島の古代人のゲノムデータを報告した研究(Pugach et al., 2021)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ミクロネシア西部のマリアナ諸島における人類の定住は、いくつかの点でポリネシアの定住よりも注目すべきですが、ポリネシアの定住はマリアナ諸島の定住よりもずっと注目されています。マリアナ諸島は、約750kmの海にまたがる15の島で構成され、フィリピンの東方約2500km、ニューギニアの北方約2200kmに位置します(図1)。マリアナ諸島で最大の島はグアムで、マリアナ諸島の最南端に位置します。以下、本論文の図1です。
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 マリアナ諸島最初期の遺跡の年代は3500年前頃で、古環境の証拠は、4300年前頃に始まるさらに古い人類の居住を示唆します。マリアナ諸島最初の人類の存在は少なくともそれと同年代で3300年前頃以後となり、ポリネシア人の祖先と関連づけられている、メラネシア島嶼部とポリネシア西部における最初のラピタ(Lapita)文化遺跡より早くなる可能性さえあります。しかし、マリアナ諸島に到達するには2000km以上の外洋航海が必要なのに対して、ポリネシア人の祖先は、過去1000年にポリネシア東部に進出するまで、同じような距離の航海を行ないませんでした。

 マリアナ諸島に最初に航海してきた人類がどこから来たのか、またその集団とポリネシア人の関係は、未解決の問題です。マリアナ諸島人は、他のミクロネシア人やポリネシア人と比較すると、多くの点で珍しい存在です。グアム島の在来言語であるチャモロ語は、インドネシア西部(ウォレス線の西側の島)やスラウェシ島やフィリピン諸島の言語とともに、オーストロネシア語族の中で西マレー・ポリネシア語派に分類されます。ミクロネシア西部の別の在来言語であるパラオ語も西マレー・ポリネシア語派ですが、他の全てのミクロネシアおよび全てのポリネシアの言語は、東マレー・ポリネシア語派のオセアニア亜集団に属します。プタやイヌやニワトリなどの家畜がラピタ文化遺跡やポリネシア人居住地には通常関連していることに表されるような、メラネシア島嶼部とポリネシア西部のオーストロネシア人の最初の存在と関連しているラピタ文化の土器の最も決定的な特徴は、マリアナ諸島には存在しません。さらに、稲作はマリアナ諸島先住民の伝統として存在していたようですが、これまで、そうした証拠はリモートオセアニアの他の場所では見つかっていません。

 これらの言語的および文化的違いにより、ほとんどの学者は、メラネシア西部とポリネシアの居住は相互にほとんど関係なかった、と結論づけています。しかし、ミクロネシア人とポリネシア人との間の形態および遺伝の類似性の指標や、フィリピンとマリアナ諸島とラピタ文化地域の土器の間の様式のつながりも指摘されています。それにも関わらず、ポリネシア人の起源に関する標準的な物語は、4500~4000年前頃に台湾から始まり、フィリピン諸島を島伝いしてインドネシアを南東へと通過し、3500~3300年前頃にビスマルク諸島に到達した、オーストロネシア語族話者の移動を反映している、というものです。ポリネシア人はそこからポリネシア西部へと拡大し、2500年前頃となるニアオセアニアからの追加の移住がそれに続き、それにより究極的にはポリネシア全域に拡大したより多くのパプア人系統がもたらされた、とされます。この物語は、考古学・言語学・遺伝的データ(関連記事)の大半により裏づけられ、ミクロネシア西部は通常、この正統な物語において目立ちません。

 ポリネシア人と比較して、マリアナ諸島人の起源はより不確かです。現代グアム島のチャモロ人のほとんどのミトコンドリアDNA(mtDNA)配列は、mtDNAハプログループ(mtHg)Eで、これはアジア南東部島嶼部全域で見られ、マリアナ諸島最初の人々と関連している一方、低頻度のmtHg-B4はポリネシア人では高頻度で、後の接触に起因する、と考えられています。常染色体の縦列型反復配列(short-tandem repeat、STR)遺伝子座の限定的な数の研究は同様に、ミクロネシア西部(パラオとマリアナ諸島)とミクロネシア東部の類似性における違いを示唆し、ミクロネシア西部はアジア南東部と、ミクロネシア東部はポリネシアとのつながりを示します。

 チャモロの言語学的証拠は、インドネシアのスラウェシ島もしくは直接的にフィリピン中央部または北部の起源を示唆し、3500年前頃となるメラネシア最古の装飾土器と他の人工物は、同じ頃かより早い年代のフィリピンの同類と合致します。しかし、代替的な見解が提案されて議論されており、同時代のチャモロの遺伝的および言語的関係がどの程度、最初の居住者と後の接触をそれぞれ反映しているのか、明確ではありません。さらに、航海のコンピュータシミュレーションでは、フィリピンもしくはインドネシア西部からマリアナ諸島への航海が成功した事例は見つかりませんでした。代わりに、これらのシミュレーションは最も可能性の高い出発点として、ニューギニア島とビスマルク諸島を示しました。

 ゲノムの証拠は、チャモロ人の起源、およびチャモロ人とポリネシア人との関係に関するこの議論に光を当てられます。ニューギニア島とビスマルク諸島には、2つの主要な遺伝的系統が存在します。一方はオーストロネシア人(マレー・ポリネシア人)で、台湾からのオーストロネシア語族話者の拡大により到達しました。もう一方は、一般的な用語では非オーストロネシア人系統で、オーストロネシア人の到来前にニューギニア島とメラネシア島嶼部に存在しました。ただ、「パプア人」系統は、地域全体で構成がかなり不均一であることに要注意です。パプア人関連系統はおそらく、少なくとも49000年前頃となる、アフリカからオセアニアに拡散してきた最初の現生人類(Homo sapiens)集団にまでさかのぼり、オーストロネシア人系統とは容易に区別できます。

 パプア人関連系統はニューギニア島とビスマルク諸島だけではなく、インドネシア東部にもかなりの頻度で存在し、本論文では、インドネシア東部はウォレス線以東(図1)の全てのインドネシア諸島として定義されます。しかし、パプア人関連系統は、ウォレス線以西では事実上存在しないので、マリアナ諸島最初の居住者がフィリピンもしくはウォレス線の西側から出発したならば、パプア人関連系統はほとんどなかったはずです。逆に、マリアナ諸島最初の居住者がインドネシア東部やニューギニア島やビスマルク諸島から出発したならば、かなりのパプア人関連系統をもたらしたはずです。

 原則として、この問題に対処するために、マリアナ諸島の現代人の系統をパプア人関連系統に関して分析できます。しかし、古代DNA研究の一般的な知見は、現在のある地域の人々の系統が、数千年前の同地域の人々の系統を反映していないかもしれない、というものです。とくにマリアナ諸島の場合、考古学的証拠は1000年前頃のかなりの文化的変化を示唆しており、ほぼ全ての太平洋諸島が長距離航海により居住されて接続された頃の、ラッテ(latte)と呼ばれる正式な村の配置における石柱の家の建設と一致します。現代チャモロ人におけるmtHg-B4の存在は、ラッテ期の接触に起因する、とされています。

 さらに、1521年のマリアナ諸島へのマゼランの到達とともに始まり、1565~1815年にかけてのマニラとアカプルコ間のガレオン船航海(および奴隷貿易)へと続く、ヨーロッパ植民地時代には、集団接触と移動はより複雑になりました。グアム島は、これらの航海の定期的な乗継地でした。またヨーロッパの植民地主義は、マリアナ諸島全域の集団規模の複数の移転と減少を伴いました。これらの事象は間違いなく、チャモロ人の遺伝的系統に影響を及ぼし、その起源およびポリネシア人との潜在的な関係の評価をより困難にしました。したがって、マリアナ諸島の古代DNAでこれらの問題に対処するのが望ましいでしょう。

 グアム島北部のリティディアン海岸洞窟遺跡(Ritidian Beach Cave Site)では、ラッテ期に明確に先行する人類2個体が、儀式的な洞窟遺跡の外で見つかりました。この2個体(RBC1およびRBC2)は、頭と胴体を取り除いた状態で、並んで埋葬されていました。RBC2の骨の直接的な放射性炭素年代測定では、較正年代で2180±30年前という結果が得られ、これはグアム島最初の居住の約1000年後ですが、ラッテ期の約1000年前でもあります。本論文は、この2個体の古代DNAの分析結果を報告します。その結果は、マリアナ諸島最初の人類の出発点に関する議論に寄与し、太平洋の人々のより大きな観点におけるマリアナ諸島の役割に、追加の洞察を提起します。


●母系と父系

 ミトコンドリアゲノムの平均網羅率は、RBC1で95.2倍、RBC2で261.3倍となり、ともに母系となるmtHgではE2aに分類されます。また、mtHg-E2aでも新規の置換があり、ATP6遺伝子においてアミノ酸置換(グルタミン→アルギニン)をもたらします。mtHg-E2aはグアム島の現代チャモロ人集団では最も一般的で、頻度は65%です。他の地域では、フィリピンとインドネシアの集団で散発的に確認されており、ソロモン諸島の1個体で確認されています。それ以外ではオセアニアには存在せず、アジア南東部大陸部で報告されています。したがって、グアム島の古代人におけるmtHg-E2aの発見は、マリアナ諸島が、ニューギニア島やビスマルク諸島よりもむしろ、フィリピンやインドネシアとつながっていることを示唆します。

 さらに重要なことに、現代チャモロ人におけるmtHg-E2aの高頻度は、古代人遺骸により表される集団とのある程度の遺伝的継続性と、1000年前頃以後のラッテ期以来、および後のヨーロッパ植民地事象の集団間接触を通じて持続した、と示唆します。X染色体と常染色体の平均網羅率の比率に基づいて、RBC1は男性、RBC2は女性と推定されます。RBC1のY染色体ハプログループ(YHg)は、O2a2(P201)に分類されます。YHg-O2a2は、アジア南東部大陸部および島嶼部に広く分布しており、オーストロネシア人の拡大と関連づけられています。


●ゲノム規模一塩基多型データ

 SGDP(Simons Genome Diversity Project)のデータに基づいて、RBC1とRBC2のゲノム規模一塩基多型データが得られました。RBC1とRBC2は一親等の関係にあるかもしれませんが、データ量が限定的なので、確定できません。それを踏まえた上で、ユーラシアやオセアニアの多様な現代人も対象として主成分分析が行なわれました。RBC1とRBC2は、台湾およびフィリピンの標本と重なっています(図2A)。RBC1とRBC2には、とくにインドネシア東部の標本と比較した場合、パプア人関連系統の兆候は見られません。インドネシア東部の標本は全てパプア人関連系統をいくらか有しているので、他のアジア南東部標本と明確に分離されています。

 次に、同じデータセットでADMIXTURE分析が行なわれました。図2Bには、K=6の結果が示されています。ニューギニア島の標本の特徴で、インドネシア東部の標本らも存在する黄色の系統成分は、どのK値の分析でも古代グアム島の2標本(RBC1とRBC2)では完全に欠けています。さらに、K=6では、古代グアム島の2標本に濃い青色の系統成分があり、これはフィリピンと台湾の個体群で最も高い頻度です。RBC1には紫色の成分もあり、これはヨーロッパ人の最近のDNA汚染を反映している可能性が高そうです。以下、本論文の図2です。
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 したがって、これらの主成分分析とADMIXTURE分析から、古代グアム島の2標本(RBC1とRBC2)にはパプア人関連系統がなく、さらに、古代グアム島の2標本はフィリピンと台湾の現代人標本に最も類似している、と示唆されます。ただ、このデータセット内の一塩基多型の数は、集団関係の検証には少なすぎ、オセアニア現代人集団の対象範囲が限定されています。そこで、「Human Origins」データセットでさらなる分析が行なわれました。これには、ニアオセアニアとリモートオセアニアの現代人標本が含まれ、古代グアム島の2標本との重複が多く、バヌアツとトンガの初期ラピタ文化標本など、アジアと太平洋の古代人標本のデータも含まれています。

 古代人の標本も含めた主成分分析(図3A)では、初期ラピタ文化標本と、ニューギニア島標本と、アジア東部標本がそれぞれ別の頂点に配置されます。古代グアム島の2標本は、台湾およびフィリピンの現代人標本から離れ、初期ラピタ文化標本の方向に投影されます。K=9のADMIXTURE分析(図3B)では、古代グアム島2標本における主要な2系統成分が明らかになります。それは、インドネシアとフィリピンの現代人標本で最も高頻度の濃青色成分と、ポリネシアで最も高頻度の橙色成分です。わずかな紫色成分は、最近のヨーロッパ人の汚染を反映している可能性が高そうです。図2で示された分析と同様に、古代グアム島2標本では、主成分分析またはADMIXTURE分析のパプア人関連系統の兆候がありません。以下、本論文の図3です。
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 古代グアム島2標本におけるこれら2系統成分の存在が、インドネシアおよびフィリピン関連集団と他のポリネシア人関連集団との間の混合を示唆する可能性もありますが、複数の系統成分の存在に関しては他の説明も可能です。とくに、古代グアム島2標本は、系統的にインドネシアおよびフィリピンとポリネシアの両方と関連しており、その後の分岐と遺伝的浮動により、分離したインドネシアおよびフィリピン関連系統とポリネシア関連系統の識別が容易になったかもしれません。

 古代グアム島2標本の関係をより詳細に調べるため、外群f3およびf4統計が分析されました。外群f3分析では、古代グアム島2標本により共有される浮動(すなわち系統)の量が、外群(ムブティ人)と比較して他の集団と比較されます。その結果、古代グアム島2標本はラピタ文化のバヌアツおよびトンガの標本群と最も浮動を共有し、フィリピンの古代人標本がそれに続き、その次がフィリピンおよび台湾の現代人標本と台湾海峡諸島の後期新石器時代標本群となります。とくに、ニューギニアおよびフランスと共有される浮動は、他のあらゆる集団よりも少なく、古代グアム島2標本はこれら2集団との関連性が最も少ないことを示唆します。これらの結果は、古代グアム島2標本にパプア人関連系統がないことを裏づけており、さらに、ヨーロッパ人の汚染がこれらの結果に影響を与えていないことも示唆します。

 次に、f4統計が実行されました。対象は、検証集団、フィリピンのオーストロネシア語族話者であるカンカナイ人(Kankanaey)、ニューギニア島高地人、アフリカのムブティ人です。f4統計の値がゼロと等しいと、検証集団がニューギニア島集団と比較してカンカナイ人とクレード(単系統群)を形成し、値がゼロ未満だと、カンカナイ人は検証集団よりもニューギニア島集団とより多くの系統を共有し、値がゼロより大きいと、検証集団はカンカナイ人よりもニューギニア島集団とより多くの系統を共有する、と示唆されます。古代グアム島2標本と他の全てのオセアニア集団を用いると、オセアニア集団の検証された全集団は、古代グアム島2標本を除いて、カンカナイ人と比較してニューギニア島集団と系統を共有する、と示唆されます。


●初期ラピタ文化標本との関係

 主成分分析とADMIXTURE分析と外群f3分析は、古代グアム島2標本とフィリピンおよび台湾の現代人集団との間の類似性を示唆するだけではなく、さらに古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の強い類似性を示します。古代グアム島2標本とアジアおよびオセアニアの初期ラピタ文化標本群の間のより詳細な関係を調べるため、データセットにおける、初期ラピタ文化のバヌアツおよびトンガ標本と、全ての現代および古代のアジア人とオセアニア人の標本を別々にして、f4分析(古代グアム島2標本、初期ラピタ文化標本、アジアおよびオセアニア現代人、ムブティ人)が行われました。ゼロと一致するf4統計の値は、古代グアム島2標本が初期ラピタ文化標本群とクレードを形成する、と示唆します。負の値は、初期ラピタ文化標本とアジアおよびオセアニア現代人集団との間の過剰な共有系統を示唆します。正の値は、古代グアム島2標本とアジアおよびオセアニア現代人集団との間の過剰な共有系統を示唆します。

 古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群は常に、あらゆるアジア人集団と比較して相互にクレードを形成する、という結果が示されます。しかし、初期ラピタ文化標本は両方、古代グアム島2標本よりも、古代および現代ポリネシア人標本群と多くの系統を共有しており、他のあらゆるオセアニア人標本とはそうではありません。これは、古代グアム島2標本および初期ラピタ文化標本群の他集団との外群f3比較により、さらに裏づけられます。初期ラピタ文化標本は両方、古代グアム島2標本よりも、現代および古代のリモートオセアニア人標本群とより多くの浮動を共有します。それにも関わらず、f4統計(オセアニア人、初期ラピタ文化標本群、古代グアム島2標本、ムブティ人)は常に、どのオセアニア人集団が検証に含まれるかに関係なく、初期ラピタ文化標本両方で有意に負の値を示します。

 これらのf4結果から、他のあらゆるオセアニア人標本と比較すると、外群f3結果と一致して、初期ラピタ文化標本群と古代グアム島2標本との間には共有された浮動がある、と示唆されます。全体として、f3とf4の結果からは、初期ラピタ文化標本群と古代グアム島2標本が相互に密接に関連している一方で、初期ラピタ文化標本群は、古代グアム島2標本よりも、現代および古代のオセアニア人標本群におけるポリネシア人関連系統のよい代理である、と示唆されます。

 次に、混合グラフ、つまり混合もしくは移住を表現できる系統樹を用いて、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本と他のアジア人およびオセアニア人の標本間の関係がさらに調べられました。これらの分析に含まれていたのは、パプア人系統の源としてのニューギニア島高地人、アジア人系統の源としての漢人、オーストロネシア人の源としてのカンカナイ人、ビスマルク諸島との関係を調査するためのニューブリテン島の(混合したパプア人とオーストロネシア人の系統の)トライ人(Tolai)と(パプア人系統のみの)バイニン・マラブ人(Baining_Marabu)、混合したパプア人とオーストロネシア人の系統を有する現代バヌアツ人、古代グアム島2標本、バヌアツとトンガのラピタ文化標本群です。また、ムブティ人が外群として含められました。

 まず、TreeMixソフトウェアを用いて、最尤系統樹が構築され、移住先が追加されました。2つの移住先を有する系統樹(図5A)は、3標準誤差(SE)以内で全ての誤差を有しているので、妥当な適合を提供します。この系統樹は、古代グアム島2標本とラピタ文化標本群との間で共有された浮動を示唆しており、現代のバヌアツとトンガの標本群へラピタ文化関連系統をもたらす移住先が伴います。

 さらに、マルコフ連鎖モンテカルロ法(Markov chain Monte Carlo method)を用いて混合グラフが調べられ、AdmixtureBayesソフトウェアで実行され、潜在的な混合グラフの空間が標本抽出されました。最高事後確率(17.6%)を有するグラフは、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された浮動を裏づけます。さらに、1000個の混合グラフの事後標本の少なくとも50%に存在する結節点を示す一致グラフからは、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された浮動は接続形態の99%に現れる、と示唆されます。

 さらに、qpGraphソフトウェアを用いてのf統計の組み合わせで、TreeMixとAdmixtureBayesの両方により教師なしで推測された、この接続形態が調べられました。この接続形態は、「許容可能な」グラフにとって3未満という最悪の適合Z得点の既存の閾値を上回る、4.56という最悪の適合Z得点を有します(図5C)。一般的に、近似データと観察データ間の偏差は、誤った接続形態もしくはモデル化されていない混合により説明できます。最悪のf統計は漢人を含む傾向があり、漢人を除外すると、最悪のZ得点は3.72に減少します。このグラフは3以上のZ得点を有する5つのf統計があり、その全てはムブティ人とニューギニア島高地人を含みます。したがって、このグラフはおそらく、オセアニア人標本群の関係、とくに古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間で共有された浮動の、妥当な描写を提供します。

 混合系統を有する2集団の場合、バヌアツの現代人標本は、パプア人関連系統65%とオーストロネシア人関連系統35%を有すると推定されますが、トライ人標本はパプア人関連系統85%とオーストロネシア人もしくはラピタ文化関連系統15%を有します。これらの推定は、バヌアツではパプア人関連系統66%とオーストロネシア人関連系統34%、トライ人ではパプア人関連系統87%とオーストロネシア人関連系統13%と示した、AdmixtureBayesの推定と密接に一致します。

 さらに、混合グラフ分析に台湾先住民と系統を共有する中華人民共和国福建省連江県亮島の粮道(Liangdao)遺跡の標本群(関連記事)を含めることにより、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間で共有される浮動が調べられました。その結果、粮道遺跡標本群は、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群におけるオーストロネシア人関連系統にとって、現代人標本群よりも適切な代理であると示唆されるものの、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間では依然として共有される浮動があります。以下、本論文の図5です。
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●古代グアム島2標本の起源

 グアム島の古代DNAの研究結果の解釈には、いくつかの注意が必要です。グアム島の古代DNAは2標本(RBC1とRBC2)に基づいており、年代はグアム島の最初の居住民の1400年後です。リモートオセアニアの初期ラピタ文化遺跡群の古代DNAに関する以前の研究は、限定的な標本数に基づく最初の結果(関連記事)が、追加の標本を分析した時に明らかになった複雑さを把握できていなかった、と明らかにしました(関連記事)。それにも関わらず、古代グアム島2標本が同じ地域の他の古代および現代の標本群と示す関係は、さらなる調査の基礎となるだろう、グアム島の移住と、リモートオセアニアのさらなる居住への興味深い洞察を提供します。

 古代グアム島2標本のmtHgとYHgは、ニューギニア島もしくはビスマルク諸島よりもむしろ、アジア南東部とのつながりを示唆します。さらに、ゲノム規模データの分析のいずれでも、古代グアム島2標本におけるパプア人関連系統の痕跡は見つかりませんでした。したがって本論文の結果は、インドネシア東部とニューギニア島とビスマルク諸島ではかなりの量のパプア人関連系統が存在することから、古代グアム島2標本の起源がウォレス線の東側にある可能性を除外します。古代グアム島2標本の最も可能性が高い起源はフィリピンですが、インドネシア西部もあり得ます。フィリピンおよびインドネシアの現代人集団と古代人のDNAのさらなる標本抽出が、起源地の特定に役立つでしょう。さらに、考古学的証拠を検討するさいには、フィリピンから東方のメラネシアと南方のスラウェシ島、最終的にはさらに遠くに拡散した集団を反映する、3500年前頃となる赤色土器の急速な地理的拡大に対処するために、より詳細な標本抽出が必要です。

 グアム島の基礎的集団のフィリピン起源との見解は、現代人のDNAの知見、言語学的証拠、3500年前頃の最初のマリアナ諸島居住民の考古学的痕跡と一致します。しかし、遠洋航海のコンピュータシミュレーションは代わりに、ニューギニア島もしくはビスマルク諸島を、マリアナ諸島に到達する航海の潜在的な起源地として示唆します。これら2系統の証拠を調和させる可能性がある一つの仮説は、人々がフィリピンからニューギニア島もしくはビスマルク諸島へ到達し、その途中であらゆる集団と混合せず、その後にニューギニア島もしくはビスマルク諸島からグアム島へと航海し、再び先住集団との混合はなかった、というものです。

 しかし、TreeMixとAdmixtureBayesの結果(図5)はこの仮説を支持せず、言語学的および考古学的証拠も同様です。とくに、3500年前頃となるマリアナ諸島最初の土器は、3300年以上前にさかのぼらない、ニューギニア島の東側に位置する最古のラピタ文化遺跡群に先行する可能性が高そうです。しかし、マリアナ諸島における3500年前頃の土器や細かい貝の装飾品や他の文化的物質はラピタ文化の伝統とは完全に異なり、代わりに3800~3500年前頃のフィリピンにおける物質的指標と関連づけることができるので、フィリピンからマリアナ諸島への移動が支持されます。

 さらに、遠洋航海のコンピュータシミュレーションは、強い海流と風に逆らって移動する古代の航海の能力を適切に考慮していません。とくに、チャモロの単一のアウトリガー(舷外浮材)カヌーに関しては、スペインの船と比較してのより優れた速度と操縦性能に、オセアニアに到来した初期ヨーロッパ人は感銘を受けました。文献には、17世紀にマニラからグアム島への航海における舢舨(sampan)という船で漂流した「中国人」交易者の記録が少なくとも1例あります。ビスマルク諸島の初期ラピタ文化遺骸の古代DNAは、人々がビスマルク諸島からグアム島へ移動した、という仮説のさらなる検証を提供するでしょう。もちろん、後の期間に、他の場所(おそらくビスマルク諸島を含みます)からマリアナ諸島への追加の集団がもたらされた可能性はあります。


●古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の関係

 全ての分析は一貫して、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間のひじょうに密接な関係を示します。この密接さは、外群f3およびさまざまなf4分析により明らかで、その全ては古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された系統を示唆します。さらに混合グラフからは、古代グアム島2標本がまず分岐し、ビスマルク諸島からグアム島への人々の移動は支持されない、と示唆されます(図5)。しかし、混合グラフの結果には注意が必要です。混合グラフは分析において、古代および現代のDNA標本群の混合を含めることに影響を受けるかもしれず(通常、各集団の標本では古代が現代よりも少なくなります)、古代の標本には汚染や損傷に起因する配列エラーの可能性があります。それにも関わらず、人々はマリアナ諸島からビスマルク諸島(もしくはメラネシア島嶼部の他の場所)へと移動し、その後にリモートオセアニアの他の場所に移動したか、あるいは、古代グアム島2標本および初期ラピタ文化標本群の祖先が別々に、異なる経路で同じ起源集団から移動したようです。

 本論文の結果では、これら2つの可能性を区別できません。後のポリネシアへの移住におけるマリアナ諸島の直接的な役割に反する事象は、ポリネシアに特徴的な、決定的なラピタ土器もしくは家畜の欠如です。しかし、現代人の言語はその後の発展を反映しているかもしれず、家畜は他の経路で導入されているかもしれません。マリアナ諸島の土器はラピタ土器に数世紀先行しており、一部の研究者には、後にラピタ土器で精巧になった細かく装飾された土器の関連した種類と考えられています。

 さらに、インドネシア東部とニューギニア島の他地域を迂回するマリアナ諸島経由もしくは他のいくつかの経路で、フィリピン(もしくはその近隣地域)からビスマルク諸島への人々の直接的な移動は、一つの特有な観察を説明します。それは、バヌアツとトンガの初期ラピタ文化標本群におけるパプア人関連系統の欠如です。ポリネシア人の祖先が、数百年(おそらくは10~15世代)かかった過程で、台湾もしくはフィリピンからビスマルク諸島にインドネシア東部を通ってニューギニア島の海岸沿いに島伝いに移動したならば、その途中でパプア人関連系統を有する人々と遭遇し、パプア人関連系統を入手する充分な機会があったでしょう。おそらく、ポリネシア人の祖先はこの経路で移動しましたが、社会的もしくは他の知覚された違いのために、途中で人々とすぐに混合しませんでした。

 しかし、パプア人関連系統が初期ラピタ文化標本群とほぼ同時にバヌアツに現れ、ポリネシア全域へと拡大した、バヌアツやサンタクルーズやフィジーにおけるかなり後のパプア人関連系統の接触の証拠があるように、そうした障壁は長く続きませんでした(関連記事)。考慮に値する代替的な説明は、ポリネシア人の初期の祖先は、ビスマルク諸島に到達するまでパプア人関連系統を有する人々と遭遇しなかったので、パプア人関連系統を欠いており、それはおそらく、インドネシア東部やニューギニア島沿岸を迂回するマリアナ諸島もしくは他の場所を経由して航海したから、というものです。ミクロネシア経由のポリネシアへの移住は、一般的に研究者には考慮されてきませんでした。しかし、この可能性は、土器の証拠に基づいて提案されてきており、本論文で提示された遺伝的証拠は、ミクロネシア人とポリネシア人との間のつながりへのさらなる洞察を提供します。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)を踏まえると、本論文の見解を現生人類(Homo sapiens)の拡散史により的確に位置づけられるように思います。ユーラシア東部への現生人類の拡散の見通しは、以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南東部の古代人では、ホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体がユーラシア東部南方系統に位置づけられます。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。

 この見解に基づくと、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群は基本的にアジア東部南方系統に位置づけられ(アジア東部北方系統も多少有しているでしょうが)、パプア人関連系統は基本的にユーラシア東部南方系統に位置づけられます。オセアニアにはユーラシア東部南方系統でほぼ完全に構成される集団が5万~4万年前頃に拡散してきて、完新世にユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統(おもにアジア東部南方系統)の集団が拡散し、ユーラシア東部南方系統で構成される集団と混合していったのでしょう。古代グアム島2標本(の祖先集団)と初期ラピタ文化標本群は、オセアニアにおけるユーラシア東部北方系統(から派生したアジア東部系統)の初期の拡散を表している、と言えそうです。


参考文献:
Pugach I. et al.(2021): Ancient DNA from Guam and the peopling of the Pacific. PNAS, 118, 1, e2022112118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2022112118

平井上総『列島の戦国史8 織田政権の登場と戦国社会』

 吉川弘文館より2020年10月に刊行されました。『列島の戦国史』は全9巻で、すべて読まねばならないところですが、戦国時代の優先順位は以前ほど高くないので、まずは最も関心の高い話題を扱っているだろう本書を読むことにしました。昨年(2020年)半ば頃に電子書籍に移行したので、漫画作品の『卑弥呼』と『創世のタイガ』の単行本を除いて紙の書籍を購入しなくなり、久々に紙の書籍での購入となります。電子書籍は検索が便利ですが、読みやすさなど総合的には今でも紙の書籍の方が好みです。ただ、電子書籍は場所をとらず、紙の書籍よりも安い場合が多いので、一度電子書籍に移行すると、なかなか紙の書籍に戻る気にはなりません。

 織田信長への関心は現代日本社会においてたいへん高く、信長を取り上げた娯楽作品は、映像・小説・漫画・ゲームなど多数あります。信長に関する論評も多く、こうした娯楽作品や論評で見られる通俗的な信長像は、概ねひじょうに革新的な人物だった、というものです。一方、歴史学でも信長への関心は高いものの、近年の研究で提示される信長像は、通俗的なものとは異なるところが少なくないようです。本書は、近年の信長研究の成果を、通俗的な信長像がどのように見直されるようになったのか、説明しつつ、信長とその政権を戦国時代に位置づけます。私も信長への関心は昔から高く、色々と調べたこともありましたが、近年では以前よりも優先順位が低下しており、勉強が停滞しているので、信長に関する最新の知見を得る目的で本書を読みました。

 信長と足利義昭の関係について、義昭が都から追放された後も、義昭の息子を奉じていることを重視する見解もありますが、幕府の役割とされていた改元を信長が奏上していることなどから、義昭追放の時点で、信長は室町幕府に代わる政権を構想していた、と本書は指摘します。織田政権は東北から九州までの諸大名と関係を築き、本能寺の変の直前には、北条や大友や島津といった有力大名も織田を上位権力と認めるようになっていました。信長は室町幕府に替わる「天下」の守護者として君臨しますが、京都での滞在期間は短く、後の「天下人」である豊臣秀吉と比較して、京都には冷淡なところがあったようです。

 通俗的な信長像で「革新的」政策とされてきたものについて、たとえば関所の廃止はすでに今川において関所停止の方向性が打ち出されていた、と指摘されています。有名な楽市楽座については、すでに他の大名でも行われていたことと、楽座とはいっても信長は座を安堵もしており、座の廃止が意図されていたわけではない、と指摘されています。織田軍が強かったのは兵農分離が行なわれていたからだ、との見解については、そもそも、いわゆる兵農分離と呼ばれる状態が訪れるのは信長よりもずっと後のことだ、と指摘されています。信長の家臣団統制で本書が重視しているのは、儀礼の少なさなど信長と家臣団とのつながりの薄さにより、信長と家臣団の意志疎通があまり円滑にいかず、それが相次ぐ信長家臣の離反を招来したかもしれない、との本書は推測します。対外関係に関しては、信長は侵略意志を有していた可能性はあるものの、交易に対しては受け身だった、と本書は推測します。

 本書は織田政権期を、戦国時代の終わりの始まりと位置づけています。本書の織田政権に対する評価は、政策面では、豊臣政権の方がかなり大胆に実施しており、織田政権はどちらかと言えば他の戦国大名と共通する要素が多く、戦国大名・織田政権と豊臣政権との間には段階差がある、というものです。本書は織田政権を、室町幕府に代わる武家政権として定着しつつあり、日本の政治構造を変えていった、と評価します。その意味で、政治情勢による結果論という側面もあるものの、織田政権は政治史上重要だった、と本書は指摘します。信長は戦国時代の一般的感覚に規定されながらも、そこから少しずれた感覚も持ち、それが次の時代を準備することにつながった、と本書はまとめます。本書のこの見解は妥当だと思います。本書は織田政権に関する近年の研究を取り入れており、信長に関心のある人が現在読むべき良書になっている、と思います。

進化崩壊時計により計測された種分化と絶滅の影響

 進化崩壊時計により計測された種分化と絶滅の影響に関する研究(Cuthill et al., 2020)が公表されました。破壊的な大量絶滅が創造的な進化的放散を可能にするという仮説(創造的破壊説)は、大進化の古典的概念の中心となっています。しかし、絶滅と放散が種の共存に及ぼす相対的な影響については、顕生代全体にわたって直接定量的に比較されたことはありません。この研究は、機械学習を適用して、顕生代の化石記録の時間的共存構造の空間的埋め込み(多次元序列化)を行ないました。この埋め込みでは、計171231種に関する古生物学データベース(Paleobiology Database)の1273254件の出現記録が対象とされました。この手法により、多様性の長期的傾向とは独立した計測値を用いる、大進化的分断の同時比較が容易になりました。

 極めて重大な分断の起きた5%の期間において、「五大」大量絶滅事象(オルドビス紀末、デボン紀末、ペルム紀末、三畳紀末、白亜紀末)の他、さらに7回の大量絶滅事象、2回の複合的大量絶滅・放散事象、15回の大量放散事象が明らかになりました。絶滅後の放散を強調する説とは異なり、規模が最も同等な大量放散と大量絶滅の事象(たとえば、カンブリア爆発とペルム紀末の大量絶滅)が一般には時間的に不連続である、と明らかになり、それらの間の直接的な因果関係は全て否定されました。

 また、絶滅だけでなく進化的放散自体も進化的崩壊を引き起こす(モデル化された共存の確率と、時代間で共有されている種の割合がゼロに近づく)、と明らかになり、本論文はこの概念を「破壊的創造」と表現しています。閾値を超える大進化的崩壊(2つの時代間で共有される種の割合が0.1以下)までの時間を、崩壊時計で計測して直接調べた結果、約1860万年という顕生代の平均付近で鋸歯状の変動が明らかになりました。第四紀は1100万年という平均を下回る崩壊時計時で始まっており、現代の絶滅は生命の崩壊時計負債をさらに増大させる、と考えられます。


参考文献:
Cuthill JFH, Guttenberg N, Budd GE.(2020): Impacts of speciation and extinction measured by an evolutionary decay clock. Nature, 588, 7839, 636–641.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-3003-4

完新世のアルプス山脈の氷河

 完新世のアルプス山脈の氷河に関する研究(Bohleber et al., 2020)が公表されました。過去の氷河の動態が気候の変化にどのように関係しているの解明することは、今後のアルプス山脈における氷河の減少速度を評価する上で役立つ可能性があります。これまでの研究から、アルプス山脈の標高4000m以上のいくつかの山頂で最も古い氷の年代は、11500年前頃と推定されていました。

 この研究は、オーストリアのエッツタール・アルプスで、ヴァイスゼーシュピッツェ(Weißseespitze)山頂氷河の氷から岩盤までの雪氷コア2本を標高3500mで掘削し、分析しました。この掘削地点は、5300~5100年前頃と推定されているミイラの「アイスマン(愛称エッツィ)」が発見された、イタリアのエッツタール・アルプスの標高3210mの地点から12キロメートル離れています。アイスマンの状態は良好だったので、遺伝学などさまざまな分野の研究が進んでおり、アイスマンの衣服と矢筒に由来する9点の皮革断片のミトコンドリアDNA解析により、どの動物種の皮革断片なのか、明らかになっています(関連記事)。

 この研究は、先史時代の試料の年代を決定するための重要な手法である放射性炭素年代測定法を用いて、深さ11mの岩盤の直上の氷の年代が5900年前頃と明らかにしました。これは、アルプス山脈の中で最も標高4000m以上の地点だけが、完新世を通じて氷に覆われていたことを示唆しています。つまり、アイスマンの視界にはアルプス山脈の氷河が入っていなかったかもしれない、というわけです。岩盤の直上の氷は、氷のない期間を経て初めて形成された氷であるため、その最大年代を決定できれば、過去の氷のない期間を特定できます。

 これらの知見は、完新世に起こったアルプス山脈の標高4000m未満の山頂での氷河減少に前例がなかったわけではないことを示していますが、現在の氷河減少が前例のないハイペースで起こっているのかについては、さらなる情報が必要です。この研究は、現在の融解速度で推移すれば、外界の影響を受けやすい保存記録である岩盤の直上の古い氷は、今後20年以内に失われる可能性がある、と指摘しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


地質学:チロルのアイスマンが見ていたアルプス山脈の山頂に氷はなかったかもしれない

 アルプス山脈の標高3000~4000メートルの山頂は、チロルのアイスマン「エッツィ」が生まれる直前の約5900年前までは氷がなく、この頃から新たな氷河が形成され始めたとする研究報告が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、アルプス山脈の中で最も標高の高い山頂(4000メートル以上)だけが、約1万1650年前に始まった現在の地質時代である完新世を通じて氷に覆われていたことを示唆している。

 過去の氷河の動態が気候の変化にどのように関係しているかを解明することは、今後のアルプス山脈における氷河の減少速度を評価する上で役立つ可能性がある。これまでの研究から、アルプス山脈の標高4000メートル以上のいくつかの山頂で最も古い氷の年代は、1万1500年前と決定されていた。

 今回、Pascal Bohleberたちの研究チームは、オーストリアのエッツタール・アルプスで、ヴァイスゼーシュピッツェ山頂氷河の氷から岩盤までの雪氷コア2本を標高3500メートルで掘削し、分析した。この掘削地点は、アイスマン(5100~5300年前と年代決定された)が発見された標高3210メートルの地点から12キロメートル離れたところにある。Bohleberたちは、先史時代の試料の年代を決定するための重要なツールである放射性炭素年代測定法を用いて、深さ11メートルの岩盤の直上の氷が5900年前のものであることを明らかにした。岩盤の直上の氷は、氷のない期間を経て初めて形成された氷であるため、その最大年代を決定できれば、過去の氷のない期間を特定できる。

 以上の知見は、完新世に起こったアルプス山脈の標高4000メートル未満の山頂での氷河減少に前例がなかったわけではないことを示しているが、現在の氷河減少が前例のないハイペースで起こっているのかについては、さらなる情報が必要である。Bohleberたちは、現在の融解速度で推移すれば、外界の影響を受けやすい保存記録である岩盤の直上の古い氷は、今後20年以内に失われる可能性があると述べている。



参考文献:
Bohleber P. et al.(2020): New glacier evidence for ice-free summits during the life of the Tyrolean Iceman. Scientific Reports, 10, 20513.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-77518-9

藤本透子「ユーラシアの温帯草原における人の行動パターンとその痕跡」

 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B01「人類集団の拡散と定着にともなう文化・行動変化の文化人類学的モデル構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P25-28)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、ユーラシア温帯草原における現生人類(Homo sapiens)の行動パターンとその痕跡の関係を、カザフスタンにおける文化人類学調査から検討しています。ユーラシア北部には、ヨーロッパ東部からアジア中央部北方(カザフスタン)を経てモンゴルまで、温帯草原(ステップ)が広がっています。モンゴルおよびカザフスタンで は、アルタイ山麓やアラタウ山麓やカラタウ山麓など、複数の地点から旧石器が出土しています。ユーラシアの西部から東部へと現生人類が拡散していったさい、草原に山地が点在し草食動物が豊富なこの地域を、どのように利用して暮らし、またその行動はどのような痕跡として残り得るか、ということが問題となります。

 狩猟採集民を対象に生態資源の獲得と利用を広く検討した研究では、おもに2 種類の年間移動パターンを区別しています。それは、居住地を比較的頻繁に移動して食料を獲得し、食料を保存しない「forager」と、主要な居住地間を季節的に移動し、食料を保存する「collector」です。この2パターンでは、狩猟採集民の行動による各地点の痕跡に差異がある、と指摘されています。カザフスタンでの民族考古学的調査では、この見解がユーラシアの温帯草原の居住・移動形態の分析に応用されました。その上で、温帯草原に暮らす人々は、紀元前1000年頃から家畜という食料を常に携帯する遊牧民になったという点で狩猟採集民とは異なるものの、その移動パターンは全体的にcollector に近く、ただし夏季はforager のように頻繁に居住地を移動する、と指摘されています。こうした民族考古学からの指摘を踏まえて、居住と移動・埋葬・食事などの行動がどのような痕跡として残るのか検討することで、温帯草原における遺物から行動を推測する手がかりになります。

 ユーラシア内陸部は全体的に乾燥して寒暖の差が激しい大陸性気候で、年間降水量270~420mmの地域に帯状に温帯草原が形成されています。北緯51 度に位置するカザフスタン北部のヌルスルタン(旧アスタナ)では、夏季(7月)の月平均気温は+21 度、冬季(1月) の月平均気温は-14 度で、30 度以上の差があります。このように寒暖の差が激しく乾燥した環境下での行動パターンを、カザフスタンでの聞き取りと観察から概観すると、以下の通りです。

 20世紀前半に定住化するまで、季節により居住と移動のパターンには大きな差がありました。夏季には北部の草原、冬季には南部の草原の岩山の陰など比較的温暖で強い風を遮ることができて水源にも近い場所が、居住地として選ばれていました。また、移動が容易な夏季には、天幕ごと比較的頻繁に移動していたのに対して、厳寒となる冬季には1ヶ所に長く滞在して固定家屋も築くなど、あまり移動しませんでした。こうした冬季の居住地付近は、現在の定住村落に発展した場合が多い、と指摘されています。居住や移動の単位となる集団は多くの場合、父系親族関係によってつながる数家族が形成しました。複数集団の離合集散が、社会的側面から見た移動の特徴です。季節的に移動する暮らしのなかで、死者に関しては、その地に葬 るか、父系親族の埋葬地に葬るという、大別して2つの方法がとられたことも、居住と移動との関連で指摘されています。

 温帯草原では、定住化前はもとより、定住化した現在でも、草食動物の肉が重要な食料(とくにタンパク源)です。草食動物(家畜)は、屠ってすぐに肉を加熱調理して食べるほか、季節によって異なる保存法が用いられます。夏季は干肉にして、冬季は日中も氷点下の気温を利用して冷凍します。気温が0 度を超え始める春には、肉を燻して保存します。食料の消費は、基本的には家族単位です。しかし、しばしば家族を超えて親族や近隣の人々が集まり、儀礼を行なって共食します。とくに夏は、移動が容易なため最も多くの人々が集まって婚姻儀礼や祖先のための儀礼を行ない、盛大に共食する機会が多くなります。肉の共食が社会的に重要で、頭部や寛骨は年配の男性に供するなど、分配に関わる一定の規則があります。

 文化人類学調査から概観された、季節により変化が大きい上述の行動パターンは、痕跡としてどのように残るのか、またどのような場合に残りづらいのか、という問題があります。20 世紀前半まで(定住化以前)の居住の痕跡は、夏季には残りづらく、冬季に残りやすい、と指摘されています。たとえば炉は、冬には調理用としても暖房用としても同じ場所の炉が繰り返し使われますが、夏にはおもに調理用なので使用頻度が減り、居住地の移動も多くなります。現在も、夏季に儀礼のため草原の一地点に集まって肉を共食する場合、炉は一時的に作られ、痕跡が残りにくくなっています。礎石や壁用の石も、冬の居住地に偏ります。日干レンガ住居以外に、石・灌木・芝土などで小屋が造られます。この小屋は、土・草・草食動物の糞を練ったもの で石の間をつないで壁を作り、その上に灌木を横に並べて、川沿いから採取した芝土をかぶせ、吸湿性の高い灰を敷き詰めて屋根としたもので、少雨のため数十年間は 維持されます。住居が放棄されると、芝土や灌木は残りにくいものの、石が冬の居住地に痕跡として残ります。

 居住と移動に関わる埋葬の痕跡に関しては、冬の居住地の近くに埋葬地も形成されやすい、と指摘されています。埋葬の目印として地上に石を置き、さらに埋葬地を石で囲みます。近くの川などから集めた灰色や黄土色の石に加えて、約10km離れた山から赤褐色の石、約80km離れた地点の露頭から緑がかった石を採取して使います。数年前には、有力者の墓に廟を設置するため、1000km以上離れたカザフスタン西部から石灰岩が切り出されて運ばれました。これは石灰岩の白が清浄さを 象徴する色として好まれたためです。住居と異なり、墓に使われる石は色を選んでいます。多くの場合、夏の居住地よりも長く1ヶ所に滞在する冬の居住地近くに、父系親族の埋葬地が形成されます。

 食事の痕跡である動物骨に関しては、滞在期間と消費の規模という2要因を考える必要があります。肉を食べた後の骨の大半は、屋外に捨てられるか、炉にくべて燃やされます。一部の骨は、儀礼的な意味を込めて保存されたり、道具として再利用されたりします。全体的な傾向として、動物骨は長く滞在する冬の居住地に残りやすいものの、移動が容易な夏に、結婚や祖先のための儀礼などに多数の人々が集まって交流し共食する習慣があるため、短時間の滞在であっても頭部を含む動物骨の残存が多い場合もあります。

 ユーラシアの温帯草原における行動パターンとその痕跡について、文化人類学に基づく調査からこれまでに明らかになった点は以下の通りです。まず、居住・移動の季節的変化に関しては、温帯草原での居住と移動には、季節による顕著な差があります。厳寒となる冬季には一地点に居住する傾向が強く、夏季には比較的頻繁に移動します。そのため、痕跡は夏季には残りづらく、冬季に長期間過ごす地点に残りやすくなります。居住地だけでなく埋葬地も、冬季に一地点にまとまりやすくなります。居住地と埋葬地で、使う石の種類には差異があります。墓用の石は象徴性を帯びており、遠方から運ばれることがあります。遺物は長期間滞在する冬営地に集中しますが、集団間の交流はむしろ移動が容易な夏に活発です。肉の共食が、家族を超える集団の交流に重要な役割を果たしており、動物骨がその痕跡として意味を有します。

 これらはユーラシアの温帯草原(とくにカザフスタン)の事例ですが、その南方はさらに乾燥した地域で、ウズベキスタンなどにはオアシスが点在します。そこでは水源の有無がより重要で、より定住性が高く、オアシスごとに特徴的な集団が形成されました。今後の研究に関しては、狩猟採集民の民族誌データの集成と標準化を気象条件と照らし合わせながら行ない、現在では狩猟採集民が暮らしていない地域についても「投射」して過去を推定していく可能性が指摘されています。現在では狩猟採集民がいないユーラシアの温帯草原などの場合、その地域の人々の行動パターンを文化人類学調査から把握し、他地域の狩猟採集民の民族誌データを参照し、考古学データとの関連を検討していくという作業が必要になります。ユーラシア草原地帯の古代DNA研究も大きく進展しており(関連記事)、今後も学際的研究によりユーラシア草原地帯の現生人類の行動パターンが解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
藤本透子(2020)「ユーラシアの温帯草原における人の行動パターンとその痕跡」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 28)』P25-28

フランス南部における初期人類の痕跡

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、フランス南部における初期人類の痕跡に関する研究(Moncel et al., 2019)が公表されました。過去数十年、石器はヨーロッパ南部の高い河岸段丘で発見されてきました。最近、ベリリウム同位体と電子スピン共鳴の年代測定により、ピレネー山脈東部の段丘で100万年前という年代値が得られ、ヨーロッパ最初の人類の年代を測定し、特徴づけるための考古学的発見に関心が寄せられています。フランス南部では、エロー渓谷(Hérault Valley)で、157万年前頃と推定される石器の発見が報告されています(関連記事)。調査地域は、アルデシュ峡谷(Ardèche Gorges)の末端部に近い、ローヌ渓谷(Rhône Valley)の中央部上の石灰岩台地の東側側面に位置し、標高は160~175mです。以下、調査地域の場所を示した本論文の図1です。
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 珪岩の7個の大きな剥片(15~20cm)と1個の石核が、沖積堆積物で見つかりました。傷痕は求心性もしくは単極です。厚い打面は自然面もしくは平らです。石核は、打撃の影響を伴う両錐型です。以下、剥片と石核を示した本論文の図4です。
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 石器はアルデシュ沖積段丘で発見されました。以前の研究では、アルデシュ川の現在の氾濫原(Fz)から、石器が位置する最も高い段丘(Fv)まで、段丘の4段階が示されています。大きな平面はFv段丘に対応しており、山麓緩斜面に隣接しています。以下、アルデシュ川段丘の断面を示した本論文の図3です。
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 石器は現在の小峡谷により拡張された古小峡谷で部分的に切断された、水平面の岩棚で発見されました。この小峡谷の形成はおそらく多因生成です。その上部は完全に乾燥しており、小さな渓谷が埋められているように見えますが、下部は急勾配で、一時的な流れが交差しています。石器は再加工されておらず、崩積作用と土壌生成により埋められており、わずかに滑らかな端と、薄くて赤みがかった光沢のある輝きをしており、高い移動過程の影響の特徴はありません。地域的に、Fv段丘は200万年前頃となる更新世の放棄面に対応しており、サン=ヴァリエ(Saint-Vallier)の最も新しい化石帯と相関しています。調査地域では、この表面の年代は、絶対年代測定と古地磁気学の組み合わせにより、194万~177万年前頃と推定されました。

 一連の石器は、明らかに人類により剥離されています。その技術的特徴は、下部旧石器時代前期の石器群に典型的なものです。過去20年の体系的調査にも関わらず、同じ地域のより新しい沖積層では、同様の発見は報告されていません。この高い段丘の側面にあるこれらの石器の層序学的位置は、それらが自然の過程によりもたらされた可能性がないことを示します。この研究の調査結果は、170万年以上前の沖積層の石器に対応する堆積物にのみ関係しています。

 人類の居住の証拠は、Fv段丘の侵食を引き起こした、古小峡谷の最初の下方侵食よりも後です。下方侵食はおそらく、Fv段丘と一緒に石器を破壊したので、人類の居住はおそらく、古小峡谷が埋まるのと同時か、それよりも後でした。本論文で提示された石器の年代は明らかに、見つかった層ほどには早くありませんが、それにも関わらず、その位置は問題を提起します。これらの石器は、大平原に隣接する沖積層のすぐ下の、この地域における170万年前頃からの初期人類の通過の散発的な痕跡を証明します。

 この発見の独特な地形的位置と技術的特徴は、高い沖積層の孤立した石器の解釈における難しさを浮き彫りにするだけではなく、ヨーロッパにおける初期人類の居住の年代測定への新たな研究の道を開きます。ヨーロッパにいつ人類が拡散したのか、まだ確定的とは言えませんが、人類の出アフリカが250万年前頃までさかのぼり、ジョージア(グルジア)における人類の存在は185万年前頃までさかのぼりますから(関連記事)、ヨーロッパへの人類の拡散が180万年以上前だとして、も不思議ではないように思います。


参考文献:
Moncel MH. et al.(2019): Discoveries of quartzite artefacts on the highest terrace: Early or Middle Pleistocene occupation of the Rhône Valley? Antiquity, 93, 369, e14.
https://doi.org/10.15184/aqy.2019.55

『卑弥呼』第53話「呪われた夜 其壱」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年1月5日号掲載分の感想です。今回から、「天智と天武~新説・日本書紀~」というテーマではなく、新たに設定した「卑弥呼」というテーマに分類します。過去の本作関連の記事も「卑弥呼」に分類し直しました。前回は、ナツハがヤノハの前でヒルメからの策を思い出し、不敵な笑みを浮かべるところで終了しました。今回は、雷が鳴り響く夜に、山社(ヤマト)の楼観で日見子(ヒミコ)たるヤノハがテヅチ将軍とミマト将軍に指示を出している場面から始まります。テヅチ将軍は、邑々を巡り、広く兵を募って訓練するよう、指示されました。今は農閑期なので大勢の志願者が集まるだろうし、我が国の士気は高い、とテヅチ将軍は言います。ヤノハはテヅチ将軍に、おそらくは後の伊予と思われる五百木(イオキ)からの海賊対策として、訓練した兵をおもに海岸線に配備するよう、指示します。ミマト将軍は山社の山林の警固を任されます。その時、近くで落雷があったようです。この冬は建御雷神(タケミカヅチノカミ)の機嫌がいので、落雷による山火事が心配だ、というわけです。雷が鳴り響くなか、楼観の下でナツハはその様子を見ていました。

 その頃、荒爪山(アラツメヤマ)の夜萬加(ヤマカ)にいるヒルメを、ウズメが訪ねていました。ヒルメはウズメに、犬を遣わして木簡を届けました。暈(クマ)の国にある「日の巫女」集団の学舎である種智院(シュチイン)に届く文の検閲は、ウズメの役割でした。ウズメはヒルメに謝罪します。ウズメがヤノハは本物の日見子と伝えただけで、ヒルメは手足を砕かれて追放されました。ヒルメは、ウズメの責任ではないと言い、自分が生きていると知りウズメが駆けつけてくれたことに感謝します。種智院は変わって戒律が緩くなった、とウズメから聞いたヒルメは、ヤノハという偽日見子のせいだ、と憤ります。しかし、ウズメはヤノハを真の日見子と信じており、まだヤノハを信じているのか、とヒルメはウズメを問い詰め、もう一度ヤノハが真の日見子なのか試してみないか、と提案します。ヒルメの提案を受け入れたウズメは、鳥子(トリコ)付近で枯草に火をつけます。

 テヅチ将軍とミマト将軍に指示を与えた翌日、ヤノハはヌカデを楼観に呼び、暈を抜けて多禰(タネ、種子島でしょうか)に渡るよう、命じます。閼宗(アソ)で自分たちを襲撃したのは五百木と多禰の足軽で、五百木への対策はテヅチ将軍に任せたものの、多禰の真意が分からないので、多禰の王に会って自分に従うよう伝えてほしい、というわけです。海岸守備のためテヅチ将軍に半分の兵を預けたことに、山社の警備が手薄になる、とイクメは懸念を示します。しかしヤノハは、ナツハがいるので問題ない、と答えます。その時、ヤノハとイクメは山火事に気づき、ミマト将軍が兵を率いて火元に向かいます。荒爪山では、夕餉を運んできた民に、ヒルメが風向きを尋ねます。北から南への強風が吹いている、と民が返答すると、今宵こそヤノハにとって呪われた夜だ、とヒルメは喜びます。

 山社の楼観では、火の手が山社に向かっていることをヤノハとイクメが懸念していました。ヤノハはイクメに、自分はこれから天の神と語らうので休むよう、命じます。なおも案じるイクメに、ミマト将軍なら必ず火を消し止める、とヤノハは言います。何かあれば起こすので、むしろ自分が眠っている間の指揮を頼みたい、とヤノハはイクメに伝えます。イクメが退出すると、犬や狼が吠え始めます。犬や狼を柵の近くに集めるな、とナツハに命じていたヤノハは苛立ちます。ナツハに楼観に上がってくるようヤノハは命じますが、返答はありません。ヤノハがナツハを探そうと楼観から下を見ていると、ナツハが背後からヤノハに襲いかかり、ヤノハを押し倒す、というところで今回は終了です。


 今回は、ヒルメの策略によりヤノハが危機に陥るところまで描かれました。ヒルメの策略はまだ完全には明らかになっていませんが、山火事が山社を襲い、日見子たるヤノハの権威が失墜することを狙っているように思います。また、ナツハがヤノハを押し倒したのは、ヤノハを強姦することが目的と考えられます。祈祷女(イノリメ)は男との性交が堅く禁じられており、日見子もそうでしょうから、強姦にせよ男との交わりによりヤノハを日見子の地位から失脚させ、日見子の権威を失墜させたヤノハに民衆が激怒し、ヤノハを殺すよう画策しているのではないか、と思います。ヤノハはナツハを信用しており、その油断から危機に追い込まれたように見えますが、用心深いヤノハのことですから、何らかの対策があり、この危地を脱するのかもしれません。あるいは、また真の日見子だったモモソの霊(もしくはヤノハが想像するモモソ)が現れ、モモソの助言によりヤノハがこの危機的状況を切り抜けるのでしょうか。

 ナツハはヤノハの弟のチカラオと思われますが、ナツハはそのことに気づいている様子をまったく見せないのに対して、ヤノハは気づいているようにも見えます。これが、自分を強姦しようとしているナツハに対するヤノハの切り札になるのかもしれません。あるいは、ヤノハはこの切り抜けるものの、外傷など何らかの大打撃を受け、そのため『三国志』に見えるように、ほとんど人と会わなくなったのかもしれません。今回は、ヤノハの危機的状況が描かれ、かなり盛り上がってきたように思うので、この危機的状況をヤノハがどう切り抜けるのか、次回が楽しみです。

ユーラシア東部における初期現生人類の北方経路の拡散

 ユーラシア東部における初期現生人類(Homo sapiens)の北方経路の拡散に関する近年の研究を整理した総説(Li et al., 2020)が公表されました。ユーラシア東部における初期現生人類の北方経路の拡散を取り上げた近年のいくつかの論文を読もうと思いながらまだ読んでいませんが、まずは本論文で近年の研究を大まかに把握しておこう、と考えました。本論文は近年の関連研究を簡潔に整理しており、たいへん有益だと思います。私も、まだ把握していなかった複数の研究を知ることができました。

 アフリカからの現生人類の拡散に関する研究は、その適応力を評価し、現生人類が現在唯一の生存人類種である理由を明らかにするためにひじょうに重要です。現生人類の拡散過程の考古学的および遺伝学的議論に関しては、アラビア半島とアジア南部とアジア南東部とオーストラリアおよび関連する沿岸と陸上への、いわゆる南方経路に焦点が当てられる傾向にありました。最近では新たな発見と研究により、アジア中央部やシベリアや中国北部を通る北部拡散経路の可能性に考古学的関心が高まっています。アジア北部の遺跡における技術的発展と適切な保存条件により、人類化石や堆積物からの古代DNA抽出成功の能力が高まり、考古学的資料の新たな発見に伴って、異なる地域の年代の関連づけはますます厳密になっています。アジア北部における現生人類の北方拡散経路、および非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との相互作用(図1a)を調べる新たな機会が今や存在します。

 中国北部における初期現生人類の化石記録は4万年前頃に始まり、12万~8万年前頃とされる中国南部のそれよりもかなり遅くなります。ただ、これらの中国南部における初期現生人類の年代に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。北京の南西56kmにある周口店(Zhoukoudian)地区の田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の現生人類化石の年代は40000~38000年前頃と推定されており、最近の研究では、周口店上洞(Upper Cave Zhoukoudian)の現生人類の年代は35100~33500年以上前で、38300~35800年前頃の可能性が高い、と訂正されています。これらの化石の比較計測形態研究では、中国北部の初期現生人類は、レヴァントやアフリカ北部の初期現生人類化石よりもむしろ、ヨーロッパの上部旧石器時代の同年代の現生人類集団とより密接な関係を示します。

 アジア北部のいくつかの提案されている初期現生人類化石は、物議を醸してきたか、形態学的評価には断片的すぎる、と考えられてきました。しかし、技術の発展、とくに古代DNAの抽出により、これらの問題がより明確になりつつあります。たとえば、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された、45000年前頃の現生人類男性個体から、核ゲノムデータが得られています(関連記事)。このウスチイシム個体は、アジア北部における現生人類の最古級の化石記録となります。

 形態学的評価が難しかった人類遺骸のうち、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された頭蓋冠は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析により非アフリカ系現代人の変異内に収まる、と明らかになりました(関連記事)。このサルキート頭蓋の新たな較正された放射性炭素年代は、95%の信頼性で34950~33900年前と推定されています。田园個体は核ゲノムデータに基づくと、ユーラシアの東西系統が分岐した後、ユーラシア東部系統において、多くの現代アジア東部人およびアメリカ大陸先住民の祖先集団から分岐した、と推測されています(関連記事)。おそらく本論文の投稿後に公表されたため、本論文では言及されていませんが、その後の研究で、サルキート頭蓋は核ゲノムデータでは田园個体と類似している、と示されています(関連記事)。以下、本論文の図1です。
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 アジア北部における現生人類拡散の考古学的証拠は、特定の人類種を特定の石器インダストリーと結びつけるのが議論になっているという理由だけで、確定がやや困難です。しかし研究者たちは、アジア北部における広範な初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)もしくは前期上部旧石器(Early Upper Paleolithic)を現生人類と相関させる傾向にあります。それは、IUPが特定の地域に同時に出現し、大型石刃技術や装飾品が見られるようになるからです(図1b)。

 IUPは、カラボム(Kara Bom)遺跡などシベリア南部のアルタイ地域や、トルボル(Tolbor)渓谷などモンゴル北部や、カメンカ(Kamenka)などトランスバイカル地域や、水洞溝(Shuidonggou)1遺跡など中国北部を含む、アジア北部全域のいくつかの地域で見られます。IUP石器群の技術的および定量的特性分析は、ルヴァロワ(Levallois)石刃技法を用いてのアジア北部全域における技術的に一貫した層状原形製作を明らかにします。加工石器は、中部旧石器および上部旧石器両方の形態を含みます。IUP遺跡群ではしばしば、個人的装飾品のような象徴的行動を含む物質が見つかります。IUPの推定年代は50000~35000年前頃で、最初の出現のほとんどはシベリア南部のアルタイ地域に由来します。

 中国北部におけるIUPの限られた空間分布とより遅い出現のため、シベリアから中国北部への拡散モデルが提案されてきました。初期現生人類の考古学と化石と遺伝学の証拠は現在、アジア北部全域における西から東への時間経過のパターンを明らかにします。このパターンは、中国北部への45000~35000年前頃の現生人類の北方拡散経路(単一あるいは複数)を示唆し、これは12万~6万年前頃となる南方経路(単一あるいは複数)よりもかなり遅くなります。中国北部における現生人類のより遅い到来は、現生人類の複数の拡散モデル(関連記事)を支持します。最重要なのは、さまざまな期間とそれに続くさまざまな経路の複雑な拡散パターンが、現生人類の世界的な種としての出現における動態の理解を深める、ということです。

 初期現生人類の拡大における北方拡散経路に沿って、南方経路とは際立って対照的に、古代型ホモ属との相互作用も検出されました。とくに注目されるのは、シベリア南部のアルタイ地域のデニソワ洞窟(Denisova Cave)です。デニソワ洞窟では、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とともに、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の存在がDNA解析により確認されました(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人と初期現生人類との間では頻繁に遺伝子交換が起き、現代人のゲノムでもネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝的痕跡が確認されます。その後、デニソワ人はチベット高原でも確認されています(関連記事)。アジア東部および南東部の現代人のゲノムにも、オーストラリア先住民やパプア人ほどではないとしても、デニソワ人由来の領域が確認されるので、中国の既知のホモ属遺骸の中にデニソワ人に分類できるものがあるかもしれませんし、中国で新たにデニソワ人遺骸が発見される可能性もあります。それは、デニソワ人の拡散や、初期現生人類も含む他の人類集団とデニソワ人との関係についての理解を拡大するでしょう。

 ネアンデルタール人の化石と遺伝的証拠はアルタイ地域やアジア中央部で発見されていますが、典型的なネアンデルタール人化石は、中国やモンゴルやトランスバイカル地域では見つかっていません。しかし、河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡の125000~105000年前頃のホモ属頭蓋(関連記事)や、河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の泥河湾盆地(The Nihewan Basin)にある許家窯(Xujiayao)遺跡(関連記事)など、中国北部の一部の古代型ホモ属化石のいくつかの形態学的特徴は、中期更新世後期や後期更新世早期の他の遺跡のネアンデルタール人と類似していました。

 一般的にはヨーロッパやアジア中央部やアルタイ地域のネアンデルタール人と関連づけられる、典型的な中部旧石器時代石器群の考古学的証拠は、中国では欠如しています。しかし、内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡(関連記事)や、新疆ウイグル自治区の通天(Tongtian)遺跡での新たな発見により、中国北部におけるムステリアン(Mousterian)石器の証拠が得られました(図1c)。これら中国北部のムステリアン石器群は、アジア中央部やシベリア南部のアルタイ地域からのネアンデルタール人の拡散を表している、との見解も提示されています。しかし、この仮説は、新たな化石の発見もしくは遺伝的知見により将来検証されねばなりません。中国北部ではムステリアンはIUPと重なり、これは中国北部における現生人類とネアンデルタール人の生物学的および文化的相互作用の可能性を示唆します。ただ、本論文はこのように指摘しますが、アルタイ地域ではネアンデルタール人とデニソワ人との交雑が一般的だったと推測されており(関連記事)、両者が同じ地域で共存している場合は交流が盛んだったとすると、中国北部のムステリアン石器群の製作者がデニソワ人だった可能性も考えられるように思います。

 新たな化石・遺伝学・考古学の研究により、アジア北部の後期更新世における人類の拡散と相互作用の、複雑ではあるものの興味深い仮説が得られました。学際的証拠は、シベリアとアジア中央部と中国北部を通っての、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3における初期現生人類の北方の拡散(1回もしくは複数回)を示唆する傾向があります。さまざまな古代型ホモ属集団間の相互作用が明らかにされてきましたが、当然のことながら、その生物学的および文化的過程の理解には多くの問題と課題が残っています。じっさい、中国北西部の広大な地域では考古学的証拠がほとんど発見されておらず、潜在的な移動経路に沿ってかなりの地理的な間隙が残っています。

 中国北西部の砂漠環境は、しばしば乾燥期における人類拡散の地理的障壁とみなされてきました。しかし、人類拡散のGIS(地理情報システム)最小コスト経路モデルからは、中国北西部は湿潤な亜間氷期の条件下では人類拡散の回廊および経路として周期的に機能した、と示唆されます。現生人類の北方拡散を理解するには、より多くの体系的な現地調査と研究が不可欠です。さらに、学際的な研究の不均一な分布は、地域とより広範な地方との間の、体系的で比較可能な情報の収集を困難にしました。また、より一般的に中国北部のIUP遺跡群と関連した古環境記録は顕著に不足しており、他の近縁人類と比較して、中国北部へと移動する人類の適応を判断することが困難です。

 研究者たちは、IUPの担い手がアジア北部では初期現生人類だった、と推測していますが、文化的および生物学的データセットは、ほぼ常に独立しています。初期現生人類化石が発見されている遺跡では、しばしばウスチイシムやサルキート渓谷や田园洞窟のように考古学的物質が共伴しないか、周口店上洞のように分類されていない石器群が発見されています。一方、アジア北部のIUP遺跡群では、まだ初期現生人類の化石もしくは遺伝学的証拠は得られていません。アジア北部の初期現生人類3個体のみが、これまでに有用な遺伝的情報をもたらし、ゲノム配列の品質は、それぞれの保存状態により異なります。

 一方、より早期の現生人類化石が発見されてきた中国南部では、利用可能な人類の古代DNAデータが得られていません。これにより、集団関係の研究は地理的に偏り、不完全になります。初期現生人類遺骸と考古学的物質のある45000~35000年前頃の遺跡群は、おもに放射性炭素年代測定により年代値が得られており、初期現生人類の年代は放射性炭素年代測定法の限界に達しているので、いくつかの不確実性が生じます。したがって、人類居住の年代をより正確に把握するには、光刺激ルミネッセンス法(OSL)やウラン系列法など他の年代測定法を用いる必要があります。

 要するに、古人類学と他の化学的手法、とくに分子生物学と地球化学とを橋渡しするには、中国、とくに北西部の追加の現地調査が必要で、努力がひじょうに必要です。そうすることで、現生人類の北方拡散、現生人類集団はどの拡散経路(単一もしくは複数)を選択したのか、現生人類と古代型ホモ属との相互作用は生物学的および文化的にどのようなものだったのか、現生人類は変動する地域的環境にどのように適応したのか、といった人類進化研究におけるいくつかの重要な問題に答える能力が向上します。


参考文献:
Li F. et al.(2020): The northern dispersal of early modern humans in eastern Eurasia. Science Bulletin, 65, 20, 1699-1701.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2020.06.026

大河ドラマ『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待」

 武田信玄の西上もあり、織田信長を見限った足利義昭は、1573年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)3月、反信長の兵を挙げますが、武田軍は撤退を始め、朝倉と浅井の援軍も来ず、義昭は信長の命を受けた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に捕らえられます。藤吉郎は光秀に、これからは我々の世だ、と言い放ちます。義昭に従った三淵藤英は、信長に従った弟の細川藤孝を裏切り者と罵倒します。三淵藤英は信長に、藤孝とともに岩成友通を攻めるよう命じられ、信長に従って軍功を挙げますが、信長により居城は取り壊しとなり、坂本城の光秀に預けられます。光秀は信長の指示に疑問を抱きますが、主君とはそうしたもので、理不尽な命を下された時にどう付き従うのかが家臣の器だ、と諭します。

 信長は将軍に代わって改元を奏請し、それを誇らしげに語る信長に、光秀は微妙な反応を示しつつ、信長に同意します。1573年8月、信長は浅井家臣の裏切りに乗じて浅井領に攻め込み、援軍として到来した朝倉も破り、1ヶ月ほどで一気に朝倉と浅井を滅ぼします。義昭は追放され、松永久秀は信長に降伏を申し入れます。光秀の進言もあり、信長は久秀の降伏を受け入れます。畿内と周辺の争乱を収めた信長は、蘭奢待の切り取りを朝廷に要求し、光秀は信長の行動に不安を覚えます。信長は朝廷に蘭奢待の切り取りを要求し、正親町天皇は許可します。信長は蘭奢待の一部を正親町天皇に献上しますが、正親町天皇はそれを毛利に与えるよう、三条西実澄に命じます。正親町天皇は、信長の言いなりになるだけではなく、かなりしたたかな人物として描かれており、魅力的です。

 今回は、義昭の挙兵から追放を経て、信長が蘭奢待の拝見を要求するまで描かれました。一気に話が進みましたが、残り7回ですから、そろそろ駆け足でいかないと本能寺の変まで到達しないので、仕方のないところでしょうか。本作では義昭の登場場面は多めで、心情がなかなか丁寧に描かれていたように思います。今後、義昭に出番があるのか分かりませんが、本能寺の変を知った義昭の反応も描いてもらいたいものです。信長の改元奏請と蘭奢待切り取りに見せた光秀の微妙な反応は、信長が増長している、と感じたためでもあるのでしょうが、幕府の下での整然たる秩序を望んでいた光秀にとって、不本意な状況でしょうから、まだ割り切れていないところもあるのだと思います。また、三淵藤英の処遇を巡っても、光秀は信長に疑問を抱きます。こうした信長への違和感の蓄積が、本能寺の変につながっていくのかもしれません。残り7回で今後が駆け足描写になるのは仕方のないところですが、本能寺の変に関しては、視聴者に唐突な印象を与えることはなさそうで、やや楽観しています。

眼窩前頭皮質と経済的選択

 眼窩前頭皮質と経済的選択の関係についての研究(Ballesta et al., 2020)が公表されました。18世紀、ダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli)やアダム・スミス(Adam Smith)や、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)は、経済的選択は主観的価値の計算と比較に従う、と提唱しました。この仮説は、現代の経済理論や行動経済学研究にも引き継がれていますが、行動学的指標では結局のところ、この説を充分に実証できません。

 この説に合致する事例として、経済主体が選択を行なう時に、眼窩前頭皮質(OFC)のニューロンが提示された物品と選択した物品の主観的価値を符号化する、という観察結果があります。価値を符号化する細胞は複数の要素を統合し、各細胞群の活動のばらつきは選択のばらつきと相関しており、ニューロン集団の活動変化は判断の形成を示唆しています。しかし、これらの神経過程と選択の間に因果関係があるかどうかは不明です。より一般的には、経済的選択と脳の価値信号を結びつける証拠は、依然として相関的なものでしかありません。

 本論文は、OFCのニューロン活動が経済的選択の原因になっていることを示します。この研究は、アカゲザル(Macaca mulatta)で2つの電気刺激実験を行ないました。弱い電流刺激は個々の提供物の主観的価値を増大させ、選択に予測可能なバイアスをかけました。逆に、強い電流刺激は主観的価値の計算と比較の両方を乱し、選択のばらつきを増大させました。これらの結果は、OFCで符号化された主観的価値を評価と選択に結びつける因果の連鎖を実証した、と言えます。現代人の経済的選択には深い進化的基盤があると考えられ、その観点からの研究の進展も注目されます。


参考文献:
Ballesta S. et al.(2020): Values encoded in orbitofrontal cortex are causally related to economic choices. Nature, 588, 7838, 450–453.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2880-x

安藤優一郎『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる!慶喜をめぐる二人の暗闘』

 朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2020年8月に刊行されました。本書は、徳川慶喜をめぐる渋沢栄一と勝海舟との関係から、幕末史と明治史を見直します。慶喜に対する渋沢と勝の姿勢は正反対でした。豪農の長男として生まれた渋沢は、慶喜家臣の平岡円四郎と面識があり、無謀な倒幕計画への追及から逃れる目的もあり、平岡の勧めで一橋家に仕えます。渋沢は慶喜の将軍就任に反対しますが、慶喜は将軍に就任し、渋沢は幕臣に取り立てられます。しかし、渋沢は幕府にはもう先がないと考えており、浪人となる覚悟を決めたものの、慶喜に抜擢されてフランスに派遣され、その時の経験は渋沢の生涯に大きな影響を及ぼしました。渋沢はこの時の恩を終生忘れず、慶喜への忠誠心を抱き続けました。

 一方、勝は慶喜の前代の将軍である家茂に抜擢され、家茂とは対立する局面もあった慶喜は、勝を嫌っていたようです。それでも慶喜は、長州征伐の敗戦処理交渉において、有能で諸藩との人脈のある勝を派遣するなど、重要な局面で勝を起用することもありましたが、基本的には冷遇しました。鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜が江戸に逃亡し、徳川宗家の存続が危ぶまれるなか、勝は新政府と交渉して徳川家を存続させることに成功します。慶喜は勝を嫌っていたとはいえ、勝の人脈に頼らざるを得なかった、ということなのでしょう。

 渋沢は勝の功績を高く評価していたようです。しかし、慶喜に冷淡な勝に、渋沢は強い不満を抱きます。慶喜は明治初期に謹慎処分を説かれて従四位に叙せられ、朝敵の汚名を取り除かれた形になりましたが、その後も20年以上、自主謹慎のように静岡に留まります。これは勝の忠告に従ったもので、渋沢はそれに不満でした。一方、勝の側には、徳川家に対する明治政府の警戒心が強くならないよう警戒していた、という事情があり、慶喜もそれを了解していました。

 さらに、存続を許された徳川宗家に渋沢と勝はともに出仕しますが、渋沢は勝に小僧扱いされ、勝に悪感情を抱きます。慶喜への姿勢に対する違いと、個人的な悪感情から、渋沢と勝との関係は悪く、それが勝に対する渋沢のやや低めの評価の要因となったようです。渋沢は勝を、明治維新の三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)よりも一段低い人物に位置づけました。一方、勝の渋沢に対する評価は不明です。勝にとって、自分よりも20歳近く年下の渋沢は、「小僧」にすぎなかったのかもしれません。

 慶喜と渋沢や勝との関係はある程度知っていましたが、渋沢と勝との関係は知らなかったというか、とくに考えたこともなかったので、明治時代の慶喜をめぐる渋沢や勝や旧幕臣や政府高官の意向も含めて、本書の視点は私にとって新鮮でした。また本書は、幕府の近代化が進んでおり、徳川宗家が静岡藩として存続を許されると、静岡藩の先進的な教育と優れた人材が全国で注目を集めた、と指摘します。来年(2021年2月)から始まる渋沢栄一が主役の大河ドラマの予習も兼ねて本書を読みましたが、渋沢の近代日本経済への功績は本書の主題ではなく、簡潔な言及になっているので、その側面は他の本か雑誌で知識を得ることにします。来年の大河ドラマでは徳川慶喜が重要人物のようなので、本書で提示された知見がドラマでどのように取り入れられ、渋沢と慶喜の関係が描かれるのか、ということも見所となりそうです。

翼竜類の起源につながる恐竜祖先群

 翼竜類の起源につながる恐竜祖先群についての研究(Ezcurra et al., 2020)が公表されました。翼竜類は動力飛行(羽ばたき飛行)を進化させた最初の脊椎動物で、中生代(約2億5200万~6600万年前)の陸上生態系における主要な進化的放散の一つを構成していましたが、その起源は19世紀以来、古生物学上の未解決の謎であり続けています。これらの飛行性爬虫類は、類縁の恐竜類を含む多種多様な爬虫類クレード(単系統群)に近縁と仮定されてきましたが、そうしたクレードと後期三畳紀の最古の明らかな翼竜類の間には、今なお大きな形態的相違が存在します。

 この研究は、最近発見された保存状態の良好な頭蓋標本、壊れやすい頭蓋の骨(顎・頭蓋頂部・脳函)のマイクロコンピューター断層撮影(マイクロCT)スキャン、確実に関連づけられた頭部より後方の要素を用いて、走行性で非飛行性の恐竜祖先の一群であるラゲルペトン類(lagerpetid)が翼竜類の姉妹群であり、両者には骨格全体にわたって無数の共有派生形質が認められる、と明らかにしています。この知見は、最古の翼竜類とそれらに最も近縁な分類群との間の時間的空白および形態的相違を大幅に縮小すると同時に、翼竜類が主竜類の鳥類系統に属するという証拠を補強しています。

 翼竜類の高度な感覚能力に関連する神経解剖学的特徴は、ラゲルペトン類ですでに存在しており、これは、そうした特徴が飛行より前に進化していたことを示しています。陸生の脊椎動物と飛行性の脊椎動物の間の正確な遷移はまだ明らかになっていませんが、これらの証拠は、空を征服し脊椎動物の進化において驚くべき形態機能的新機軸をもたらした翼竜類における、ボディープランの組み立ての最初の段階を示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


古生物学:翼竜の起源をたどる

 動力飛行を行った最初の脊椎動物である翼竜類に最も近い進化的近縁種は、ラゲルペトンという小型の恐竜に似た動物の分類群である可能性を明らかにした論文が、Nature に掲載される。この知見は、翼竜類の起源、特殊化したボディープランと飛行能力を研究するための新たな枠組みをもたらす。

 翼竜類の起源をたどることは難しく、古生物学の未解決問題となっている。翼竜類は、恐竜を含むさまざまな爬虫類の近縁種だとする仮説が提起されているが、翼竜類以外の分類群と翼竜類を排他的に結び付ける納得のいく証拠は得られていない。今回の研究で、Martín Ezcurraたちの研究チームは、恐竜の前駆動物である2本足の爬虫類分類群であるラゲルペトンが翼竜類の姉妹分類群かもしれないと示唆している。

 Ezcurraたちは、翼竜類とラゲルペトンの遺骨のマイクロCTスキャンと3D再構成を行って、解剖学的構造の類似点を明らかにした。ラゲルペトンは飛行できなかったが、その独自の特徴の一部(内耳の形状など)が翼竜類と同じであり、これが両者の関係に説得力を持たせている。また、ラゲルペトンには、翼竜類の高度な感覚能力に関連する脳の特徴が見られ、これらの特徴は飛行を行う以前に進化したことを示している。

 この証拠は、脊椎動物の進化の中で最も驚くべき新機軸の1つである「空の征服」を実現した翼竜類の独自のボディープランの組み立ての初期段階を明らかにしたものである。陸上脊椎動物が飛行脊椎動物に変化した正確な過程はまだ分かっていないが、今回得られた知見は、最古の翼竜類とそれに最も近い近縁種との間に存在する時間的空白と解剖学的空白を小さくする。


古生物学:翼竜類の起源につながる空白を埋める謎めいた恐竜祖先群

Cover Story:飛行への道:初期の飛行性脊椎動物に最も近縁な動物

 翼竜類は動力飛行(羽ばたき飛行)を進化させた最初の脊椎動物だが、その正確な進化的起源をたどるのはこれまで困難だった。今回M Ezcurraたちは、表紙の想像図で描かれているlxalerpeton polesinensisなどの、ラゲルペトン類(lagerpetid)と呼ばれる肢の長い華奢な体の動物の一群が翼竜類の姉妹群である可能性が非常に高いことを示して、この空白を埋めるのを助けている。著者たちは、マイクロコンピューター断層撮影(マイクロCT)と骨格の化石の3D再構築を用いることで、内耳の形をはじめ、ラゲルペトン類と翼竜類に共通する数々の特異な特徴を特定した。陸生の脊椎動物と飛行性の脊椎動物の間の正確な遷移はまだ分かっていないが、今回著者たちが集めた証拠は、翼竜類の解剖学的特徴の進化における最初の段階を明らかにしている。



参考文献:
Ezcurra MD. et al.(2020): Enigmatic dinosaur precursors bridge the gap to the origin of Pterosauria. Nature, 588, 7838, 445–449.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-3011-4

後期白亜紀の独特な嘴の鳥類

 後期白亜紀の独特な嘴の鳥類に関する研究(O’Connor et al., 2020)が公表されました。中生代(約2億5000万~6500万年前)の鳥類では、サイズや飛行への適応や羽毛の構成に著しい多様性が認められますが、嘴の形状と発達は比較的保存されたパターンを示しています。新鳥亜綱(すなわちクラウン群)の鳥類にも顔の発達への制約は見られますが、中生代の鳥類とは異なり、さまざまな摂食生態および行動生態と関連して、嘴の形態は比較的多様です。

 この研究は、マダガスカルで見つかった、後期白亜紀のカラスサイズのステム群鳥類の新属新種(Falcatakely forsterae)について報告しています。Falcatakelyの吻は長くて太く、こうした嘴の形態は中生代の鳥類ではこれまで知られておらず、外見上はクラウン群鳥類の一群(たとえばオオハシ類)のものと類似しています。Falcatakelyの吻は、歯のない大きく広がった上顎骨と歯のある小さな前上顎骨で構成されています。個々の骨要素の形態計測学的解析および吻の三次元形状から、Falcatakelyは、非鳥類獣脚類に似た上顎骨と前上顎骨の構成を保持しながら、新鳥亜綱の鳥類様の顔の構造を発達させていた、と示されました。

 Falcatakelyに見られる吻のパターン形成および上下方向の大きな広がりは、ある程度の発達的不安定性と、初期に分岐した鳥群ではこれまで知られていなかった大きな形態的相違を明らかにしています。ステム群鳥類でこの表現型が発現していたこと、およびそこから想定される生態は、前上顎骨が支配的な新鳥亜綱の鳥類様の吻への統合は、嘴の大型化における進化的必要条件ではなかったことを明確に示しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化:進化史に残る大きなくちばしの古代鳥

 オオハシの現生種を思い起こさせる、大きくて奥行きのあるくちばしを持つ新属新種の鳥類の化石について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。この化石標本は、白亜紀後期(約1億~6600万年前)のマダガスカルに生息していた鳥類種のものであり、古代鳥のくちばしがこれまで考えられていたよりもはるかに多様であったことを示唆している。

 中生代(2億5000万~6500万年前)の鳥類は、体サイズと行動に多様性があったが、くちばしの形状は、比較的似ていたと考えられていた。今回、Patrick O’Connorたちの研究チームは、こうした考えに反する新属新種のカラスのサイズの鳥類Falcatakely forsteraeの化石について記述している。F. forsteraeのくちばしは、大きく、奥行きがあり、その時代に一般的だった他の鳥類とは明らかに違っていた。上顎は横に広がっており、先端には小さな歯があった。くちばしの骨要素は、その三次元形状とともに、現生鳥類に似た顔面の解剖学的構造の発達を示す一方で、頭蓋骨と上顎は、飛翔能力のない獣脚類のものに似ていた。

 O’Connorたちは、F. forsteraeは中生代の鳥類のくちばしの多様性を示していると結論付けている。


古生物学:マダガスカルの後期白亜紀の鳥類が明らかにする、くちばしの独特な発達

古生物学:太古の鳥類の多様なくちばし

 中生代の鳥類は極めて多様だったが、くちばしの形状だけは例外で、むしろ変化が小さい傾向があった。現生鳥類のくちばしの形状ははるかに多様である。しかしこの概念は、今回、現生のオオハシ類のくちばしに似た長く太いくちばしを持つ後期白亜紀のカラスサイズの鳥類がマダガスカルで発見されたことを受け、一変するだろう。この新種の鳥類のくちばしより後方の頭蓋は多くの点で原始的だが、そのくちばしの特徴は、初期の鳥類のくちばしが従来の予想よりはるかに多様であった可能性を示している。



参考文献:
O’Connor PM. et al.(2020): Late Cretaceous bird from Madagascar reveals unique development of beaks. Nature, 588, 7837, 272–276.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2945-x

高齢者の転倒リスクを高める孤独と社会的孤立

 孤独と社会的孤立が高齢者の転倒リスクを高める、と報告した研究(Bu et al., 2020)が公表されました。この研究は、ELSA(イギリスの老化に関する縦断研究)調査の一環として、2002~2017年に60歳以上の参加者13061人から収集したデータを調査しました。この研究は、転倒に関する自己申告データを解析し、利用可能な記録について、転倒に関連した入院記録を分析しました。その結果、転倒は高齢者における大きな公衆衛生上の問題で、この研究の参加者の50%以上が研究期間中に転倒したと報告しており、9%が転倒に関連した入院をしていた、と明らかになりました。

 社会的接触がほとんどないことと一人暮らしは、社会的孤立の指標として用いられ、(自己申告に基づく)高齢者が転倒するリスクと入院治療を要する転倒をするリスクが高くなることと関連していました。社会経済的要因とライフスタイル要因を計算に入れたところ、一人暮らしの研究参加者は、(自己申告に基づく)転倒のリスクが、友人や親族と同居している者より18%高い、と明らかになりました。また、社会的接触が最も少ない者は、社会的接触が最も多い者よりも転倒を報告する確率は24%高く、転倒して入院する確率は36~42%高い、と明らかになりました。

 この研究は、同居人と暮らし、社会的接触を頻繁に行なえば、ストレスが緩和されてリスクが特定されるようになることで、転倒リスクの低減を図れる、と提案しています。この研究は、今後、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的大流行)の結果として、ロックダウンやソーシャルディスタンシング(人と人との物理的距離を保って接触機会を減らすこと)という措置のために、高齢者の転倒件数が増えたかどうかを調べるべきだ、と指摘しています。孤独や社会的孤立がヒトに悪影響を及ぼすことは、ヒトが社会性動物として進化してきたことを反映しているのでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


健康:孤独と社会的孤立が高齢者の転倒リスクを高める

 一人暮らしの高齢者や社会的接触のない高齢者は、自宅で転倒し、あるいは転倒して入院する確率が高いという研究結果を報告する論文がScientific Reports に掲載される。

 今回、Daisy Fancourtたちは、ELSA(英国の老化に関する縦断研究)調査の一環として2002〜2017年に60歳以上の参加者1万3061人から収集したデータの研究を行った。今回の研究では、転倒に関する自己申告データの解析が行われ、転倒に関連した入院記録の分析も利用可能な記録について実施された。

 転倒は、高齢者における大きな公衆衛生上の問題であり、今回の研究の参加者の50%以上が研究期間中に転倒したことを報告し、9%が転倒に関連した入院をしていた。社会的接触がほとんどないことと一人暮らしは、社会的孤立の指標として用いられ、(自己申告に基づく)高齢者が転倒するリスクと入院治療を要する転倒をするリスクが高くなることと関連していた。社会経済的要因とライフスタイル要因を計算に入れたところ、一人暮らしの研究参加者は、(自己申告に基づく)転倒のリスクが、友人や親族と同居している者より18%高いことが判明した。また、社会的接触が最も少ない者は、社会的接触が最も多い者よりも転倒を報告する確率が24%高く、転倒して入院する確率が36~42%高かった。

 Fancourtたちは、同居人と暮らし、社会的接触を頻繁に行えば、ストレスが緩和されてリスクが特定されるようになることで、転倒リスクの低減を図れると提案している。今後の研究では、COVID-19のパンデミック(世界的大流行)の結果としてのロックダウンやソーシャルディスタンシング(人と人との物理的距離を保って接触機会を減らすこと)という措置のために高齢者の転倒件数が増えたかどうかを調べるべきだと、Fancourtたちは述べている。



参考文献:
Bu F. et al.(2020): A longitudinal analysis of loneliness, social isolation and falls amongst older people in England. Scientific Reports, 10, 20064.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-77104-z

ワタリガラスの認知パフォーマンス

 ワタリガラスの認知パフォーマンスに関する研究(Pika et al., 2020)が公表されました。この研究は、人工飼育したワタリガラス(計8羽)を対象として、生後4・8・12・16ヶ月に一連の試験を実施し、認知技能を検証しました。認知技能の検査項目は、空間記憶、対象物の永続性(対象物が見えなくなっても存在し続けていると理解していること)、相対数の理解と足し算、実験実施者とのコミュニケーション能力と実験実施者から学習する能力などです。

 この試験で、ワタリガラスの認知パフォーマンスは、生後4ヶ月から16ヶ月までほぼ同じ水準で推移しました。この結果は、ワタリガラスの認知技能が比較的急速に発達し、生後4ヶ月までにほぼ完成することを示唆しています。生後4ヶ月のワタリガラスは、親からの独立を強め、独自の生態学的環境と社会環境を発見し始めます。実験課題のパフォーマンスには個体差がありましたが、一般的に、ワタリガラスは足し算と相対数の理解に関する試験の成績が最もよく、空間記憶を調べる課題の成績が最も悪い、と明らかになりました。チンパンジー(106頭)とオランウータン(32頭)に同じ課題を行なわせた以前の研究で判明した、チンパンジーとオランウータンの認知遂行をワタリガラスと比較したところ、ワタリガラスの認知遂行行動は、空間記憶以外の項目で、オランウータンやチンパンジーにひじょうに近い、と明らかになりました。

 これらの知見は、ワタリガラスが大型類人猿と同じように一般的な認知技能と高度な認知技能を発達させた、と推測できる証拠になっています。この研究は、ワタリガラスがこうした技能を発達させたのは、常に変化する環境での生活に対応するためだった、という仮説を提起しています。そうした環境では、ワタリガラスの生存と繁殖は、ワタリガラス間の協力と提携に依存しています。ただ、この研究は、対象のワタリガラスのパフォーマンスがワタリガラス全体の代表例であるとは限らない、と注意を喚起しています。ワタリガラスと大型類人猿の認知パフォーマンス発達パターンの違いは、両者の生活史の違いを反映した進化の所産でしょうが、ヒトでも同様のことが当てはまると思われます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


動物行動学:生後4か月のカラスの認知パフォーマンスは成体の大型類人猿に匹敵するかもしれない

 ワタリガラスが現実世界をどれだけ理解しているのか、そして、他のワタリガラスとどのように交流するのかという点を検証するための実験課題によって、ワタリガラスの認知パフォーマンスが生後4か月までに成体の大型類人猿に近づくことが明らかになったと報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Simone Pikaたちの研究チームは、人工飼育したワタリガラス(計8羽)を対象として生後4か月、8か月、12か月、16か月に一連の試験を実施して、認知技能を検証した。認知技能の検査項目は、空間記憶、対象物の永続性(対象物が見えなくなっても存在し続けていると理解していること)、相対数の理解と足し算、実験実施者とのコミュニケーション能力と実験実施者から学習する能力などだった。

 この試験で、ワタリガラスの認知パフォーマンスは、生後4か月から16か月までほぼ同じレベルで推移した。この結果は、ワタリガラスの認知技能が比較的急速に発達し、生後4か月までにほぼ完成することを示唆している。生後4か月のワタリガラスは、親からの独立を強め、独自の生態学的環境と社会環境を発見し始める。実験課題のパフォーマンスには個体差があったが、一般的に言って、ワタリガラスは、足し算と相対数の理解に関する試験の成績が最もよく、空間記憶を調べる課題の成績が最も悪かった。

 チンパンジー(106頭)、オランウータン(32頭)に同じ課題を行わせた以前の研究で判明した、チンパンジーとオランウータンの認知遂行をワタリガラスと比較したところ、ワタリガラスの認知遂行行動は、空間記憶以外の項目で、オランウータンやチンパンジーに非常に近かった。

 今回の研究によって得られた知見は、ワタリガラスが、大型類人猿と同じように、一般的な認知技能と高度な認知技能を発達させたと考えられることの証拠になっている。Pikaたちは、ワタリガラスがこうした技能を発達させたのは、常に変化する環境での生活に対応するためだったという仮説を提起している。そうした環境では、ワタリガラスの生存と繁殖は、ワタリガラス間の協力と提携に依存している。ただし、Pikaたちは、研究対象のワタリガラスのパフォーマンスがワタリガラス全体の代表例であるとは限らない点に注意を促している。



参考文献:
Pika S. et al.(2020): Ravens parallel great apes in physical and social cognitive skills. Scientific Reports, 10, 20617.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-77060-8

ネアンデルタール人の埋葬の学際的証拠

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の埋葬の学際的証拠を報告した研究(Balzeau et al., 2020)が報道されました。手の込んだ葬儀は人類系統に特有で、その出現は認知能力と象徴的能力の複雑さの増加という広い文脈の中に位置づけられます。人類史における遺骸の特別な処置の事例は、43万年前頃のスペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)までさかのぼるかもしれません。SH集団は、形態と遺伝的特徴から、初期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と位置づけるのが妥当と思われます(関連記事)。

 しかし、比較的完全な骨格のある人類遺骸は、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5以前にはひじょうに稀で、現生人類(Homo sapiens)遺骸ではイスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡、ネアンデルタール人遺骸ではイラクのシャニダール(Shanidar)およびイスラエルのタブン(Tabun)遺跡で発見されています。ネアンデルタール人による遺骸処置の高度な多様性は、食人から遺骸の一部の意図的な埋葬まで、年代および地理的に密接な集団の多様な行動に基づき提案されてきました(関連記事)。しかし、ネアンデルタール人が死者を埋葬したのか、フランスの56000~47000年前頃と推定されているラシャペルオーサン1(La Chapelle-aux-Saints 1)個体の発見以来、ずっと議論されてきました。

 別の問題は、提案されたネアンデルタール人の埋葬が象徴的行動の証拠を構成するのかどうか、ということです。こうした議論は、ネアンデルタール人の外見と能力に関する歴史的な議論とつながっています。ネアンデルタール人の埋葬に関する議論は、ネアンデルタール人の能力、現生人類との類似点と違いという争点から、激しいものとなってきました。この問題では埋葬の基準についても議論されていますが、それは、中部旧石器時代の埋葬を証明するための閾値として提案された基準の一部では、歴史的な一部の埋葬が当てはまらないからです。したがって、ネアンデルタール人の埋葬に関する議論は、科学的枠組みを超えてイデオロギー的水準に達することもあります。フランスのドルドーニュ県(Dordogne)のラフェラシー(La Ferrassie)遺跡で発見されたネアンデルタール人遺骸は、部分的および完全な骨格がいくつか含まれており、その良好な保存状態から、ネアンデルタール人の埋葬に関する議論にとって重要な遺跡の一つです。

 ラフェラシーは、シャニダールとともに、発見されたネアンデルタール人遺骸の数が最多級となる遺跡で、意図的な埋葬との見解が提示されています。ラフェラシー遺跡では、7個体分の部分的もしくは完全なネアンデルタール人遺骸が発見されており、そのうち2個体はおそらく男女の成人で、5個体は年齢の異なる子供たちです。これらの遺骸のほとんどは20世紀初頭に発見されましたが、約2歳のラフェラシー8(LF8)の部分的な骨格(頭蓋、首と胴体、骨盤、4本の手の指骨)は、1968~1973年の発掘中、1970年と1973年にM2層で見つかりました。わずかな非ヒト遺骸と石器が、LF8遺骸と関連しています。

 LF8は一般的に報告が不充分と考えられてきましたが、その欠陥は1968~1973年の発掘で得られた情報の必要な処理の欠如に起因します。じっさい、この研究による調査の前には、膨大な量のデータが未評価のままでした。ラシャペルオーサン1や他のラフェラシー遺跡標本など、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人の埋葬の潜在的事例は100年以上前の発見なので、現在の考古学的水準よりずっと低く、その意味で1968~1973年の発掘で発見されたLF8は貴重です。

 本論文は、1968~1973年の発掘に関する資料を精査し、LF8の学際的な研究結果を報告します。具体的には、LF8の層序的背景と空間情報、放射性炭素年代測定と光刺激ルミネッセンス法(OSL)による地質年代学的分析、質量分析法による動物考古学(ZooMS)、古代DNA分析、利用可能な人類およびその他の動物遺骸の完全な化石生成論的分析です。また本論文は、ラフェラシー遺跡における2014年の発掘と分析に基づいて、LF8の埋葬の可能性を検証します。


●LF8の空間および層序的背景

 LF8は、ラフェラシー遺跡の西側の区画のM2層で発見されました。文化的区分では、その上層のKおよびL層はオーリナシアン(Aurignacian)、L2bj層はシャテルペロニアン(Châtelperronian)とされ、LF8の7個の歯と2個の頭頂断片を含むM2層は、当時は基本的に遺物・遺骸のない不毛層と認識されていました。その後、おもに1970年に発見され、一部は1973年に発見された、頭蓋や下顎断片や椎骨や肋骨や2本の手の指骨を含む47個の人類遺骸が、サイズや死亡年齢や重複の欠如や直接的な接続や層序内の空間的位置などに基づいて、LF8のものと特定されました。LF8は、動物遺骸および石器群と関連して見つかりました。M2層とL2Bj層に由来する石器は少ないので比較は困難ですが、技術やタイプに関して明確な違いはありません。

 M2層は、LF8が発見された限定的な区域を除いて不毛層です。2014年の発掘でも、LF8と同じ深さの層は基本的に不毛層と確認されました。LF8と関連する考古学・古生物学的発見は、西側への比較的強い傾斜を示しており、M2層もしくは他の層の一般的な傾斜とは対照的です。これは、LF8の区域が自然の傾斜ではないことを示唆します。LF8の頭部は東側で発見され、骨盤は西側のより深い場所で発見され、頭蓋は骨盤よりも30cmほど高い(浅い)場所に位置します。LF8は94cmにわたって東西軸に散在していますが、南北方向の分散は20cm以下と小さく、手の指骨1本だけが南に10cmの場所で見つかりました。


●年代測定と骨の分析

 2014年の発掘では、年代測定のためにL2BおよびL2Bj層と、M1層およびM2層 で4点の堆積物標本が収集されました。比較的遺物の豊富なL2BおよびL2Bj層では、最小線量モデル(MDM)を用いると、2014年の発掘(較正年代で49100~43300年前と44200~42500年前の間)と1970年の発掘(較正年代で44600~43300)の両方で、放射性炭素年代測定結果がおおむね一致しました。より古い(深い)場所の3点の堆積物標本のOSL年代は、より古い結果を示します。LF8が見つかった層は、MDMでは60000±7000年前、内部外部不確実性モデル(IEU)では66000±4000年前です。

 LF8と関連する10個の非ヒト動物遺骸は、放射性炭素年代測定により較正年代では45500~39500年前との結果が得られています。これらの結果から、LF8の年代に関しては、上層のL2BおよびL2Bj層と同じくらいか、より新しい可能性が示されます。LF8と関連する10個の非ヒト動物遺骸に加えて、ZooMSにより人類のものと分類された1個の遺骸は、放射性炭素年代測定による較正年代で41700~40800年前との結果が得られました。この直接的に年代測定された人類は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果、ネアンデルタール人に分類されます。

 LF8と関連する17個の分類学的に同定されていない標本のうち13個は、ZooMSによる分析で、ほとんどがウシ属もしくはバイソン属と同定されました。残り4個のうち2個は分類学的に同定できず、残りの1個はクマ属、もう1個は人類に属します。さらに、LF8が見つかったM2層の上に位置するL2Bj層の14個の骨が分析され、クマ属遺骸を除いて、LF8と関連する動物遺骸と類似している、と示されました。このクマ属遺骸は放射性炭素年代測定による較正年代で39000~38600年前で、LF8と関連する動物遺骸の中では最も新しい年代となります。これらの結果は、LF8と関連する動物遺骸が、異なる年代順および/または続成作用に由来することを示唆します。しかし、その分類と年代は、クマ属標本を除いて均質です。したがって、このクマ属標本は、1970年の発掘もしくは標本抽出のエラーにより説明できるかもしれません。

 LF8の191個を含む合計4609個の動物遺骸について、分類学的および化石生成論的研究が行なわれました。そのほとんど(3492個)は不確定で、25mm未満と小さく、焼かれた骨片でした。解剖学的に同定可能な動物遺骸127個のうち22個のみが分類学的に同定可能で、いくつかの胎児遺骸を含む頭蓋遺骸、およびウシ属もしくはバイソン属9個や野生ウマ(Equus ferus)7個やシカ6個の骨幹遺骸と対応しています。LF8と関連する動物遺骸で最大のものはバイソンの角です。化石生成論的研究の結果は、人類遺骸と非ヒト動物遺骸という異なる2集団の存在を示します。人類の断片は(ほぼ)完全で、密接な空間的関連で発見されており、単一個体を表します。非ヒト動物遺骸は、肉食動物の痕跡や解体痕や茹でられた痕跡や焼かれた痕跡を示しますが、こうした変化は人類遺骸では観察されていません。逆に、埋葬条件に特有の化石生成論的変化は、両方の標本群で類似しています。したがって、これら2標本群は、死亡前の異なる状況と、類似した堆積状況を示します。


●考察

 本論文は以上の知見から、最節約的な仮説を提案します。LF8は東西方向を示し、東側に位置する頭は西側の骨盤よりも高い位置にあります。これは、LF8が発見されたM2層の他の区画や、その上に位置するL2BおよびL2Bj層の自然な傾斜とは異なります。放射性炭素年代の得られているLF8と関連した動物遺骸は、上層で発見された動物遺骸の年代と同じくらいかより新しく、L2BおよびL2Bj層の標本で得られた放射性炭素年代結果は、同じ位置のOSL年代と類似しています。対照的に、LF8と関連した遺骸の放射性炭素年代は、LF8が発見されたM2層のOSL年代よりも新しい、と示されました。ZooMSにより人類のものと同定され、mtDNAによりネアンデルタール人と遺伝的に関連すると確認された、1個の人類の骨片の放射性炭素年代は、全ての分析された標本のうち最も新しい年代を示します。最も節約的な説明では、この骨片もLF8のものと判断されます。

 LF8の36170±220年前という非較正年代は、ラフェラシー遺跡におけるシャテルペロニアンの最も新しい年代と一致しており、同じくシャテルペロニアンと関連した、サンセザール(Saint-Césaire)遺跡の層(非較正で36200±750年前)やアルシスュルキュール(Arcy-sur-Cure)遺跡の層(非較正で36840±660年前)で発見されたネアンデルタール人遺骸の直接的な放射性炭素年代とほぼ同じです。これらネアンデルタール人3個体の年代は、ベルギー南部のゴイエット(Goyet)遺跡とともに、直接的に年代測定されたネアンデルタール人遺骸のうち最も新しいものを表します。この観察は、シャテルペロニアンの担い手に関する現在の議論とは関わりません。ヨーロッパ中央部では、装飾品を有する現生人類の存在が47000年前頃までさかのぼるかもしれない、との見解も提示されていますが(関連記事)、シャテルペロニアンにおけるネアンデルタール人の役割とヨーロッパ最初期の現生人類の潜在的影響を明確に評価するには、追加のデータと新たな遺跡が必要です。

 LF8遺骸に関しては、肉食動物の痕跡がなく、空間的な攪乱や断片化や風化の程度が低いため、急速に堆積物に覆われた、と示唆されます。LF8は脆弱な骨格の子供にも関わらず、よく保存されています。また上述のように、化石生成論的にはLF8と非ヒト動物遺骸とで明確な違いがあり、死亡前の扱いが異なっていた、と示唆されます。M2層は、LF8が発見された区画を除いて不毛層です。遺骸が置かれた場合、意図的であろうとなかろうと、侵食過程がなければ、同様の傾斜が予想されますが、LF8は異なっています。また、M2層はLF8の区画を除いて基本的には不毛層なので、LF8の発見状況は、自然(非ヒト的)な過程では説明できません。そこで本論文は、LF8が掘られた穴に置かれた、と提案します。この仮説は、LF8の年代がその上層よりも新しいことや、M2層ではOSLと放射性炭素年代とが一致しないことも説明できます。この不一致は、M2層の上に位置するL2BおよびL2Bj層では見られません。またM2層とL2BおよびL2Bj層の石器は、技術・保存状態・構成の点で明確な違いはありません。

 LF8遺骸は120cmにわたっており、予想される2歳のネアンデルタール人よりも長くなっています。空間情報に基づくと、LF8遺骸の分布には高度な解剖学的一貫性があります。しかし、1973年の発掘に関する不充分な写真記録からは、LF8のいくつかの遺骸が、他のネアンデルタール人の子供で観察されたものと類似の解剖学的位置で見つかったのかどうか、確認できません。ネアンデルタール人の記録には、よく保存された未熟な個体が含まれており、その保存状態や化石生成論的状態や地質年代学的状況が他の人類種と比較して独特であることに、注意しなければなりません。

 LF8の解釈には議論を要するいくつかの困難があります。LF8は頭蓋と胸部と骨盤と4本の手の指骨に限定されており、手の指骨を除くと、四肢が欠けている理由は未解明です。ラフェラシー遺跡では、成人のネアンデルタール人骨格のみが完全です。5個体の未成熟遺骸はすべて部分的で、これに関しては、埋葬の違いや化石生成論的過程や発掘過程など、さまざまな理由に起因する可能性があります。最近の発掘でも、この理由は明らかになりませんでしたが、本論文はいくつかの可能性を提示しています。まず、LF8は完全に状態で埋葬され、その後の地質学的な堆積過程や、発掘時の条件や、博物館の収集・整理の過程で失われた可能性があります。あるいは、LF8の分布状況は、二次的な意図的埋葬もしくは部分的な一次埋葬の結果かもしれません。いずれにしても、地質学的過程は、少なくとも部分的には、LF8が東西方向により分散した分布の原因かもしれません。

 LF8の東西方向の分布は2人の成人個体(LF1およびLF2)でも観察され、どちらも、頭部は骨盤よりも高い位置にあります。LF1とLF2は頭部の間が50cmほど離れており、LF2はLF1よりも西方に位置していました。LF1およびLF2の両個体と関連するムステリアン(Mousterian)堆積物と混合した、黄色い砂の塊も観察されました。これらの塊は、ムステリアン層の他の場所では観察されませんでしたが、その下の層の堆積物には対応しています。これらの観察結果は、下層から堆積物を取り除き、それらを含めた堆積物により穴を埋めるという、意図的な埋葬の影響として解釈されています。三角形の意思で覆われた三角形の穴の存在は、部分的なLF6乳児でも提案されました。成人のLF1個体の最近の化石生成論的分析では、LF1の欠損パターンと表面の修飾の欠如は、その全体的な完全性とともに、以前の研究で提案されたように意図的埋葬と一致する、と示唆されています。将来の補完的な手法では、本論文の学際的情報を、シリアのデデリエ(Dederiyeh)やイスラエルのアムッド(Amud)のような、ネアンデルタール人の子供が発見されている他の遺跡のデータと比較する必要があります。

 ラフェラシー遺跡の他の標本の追加研究は、LF8とLF1で現在利用可能な同じ水準の詳細さの提供を目的とすべきです。この学際的手法は、他のネアンデルタール人遺骸や遺跡にも拡張して、遺跡と地域の両方の規模で情報を文脈化できる堅牢なデータを提供する必要があります。これは、ネアンデルタール人とシャテルペロニアンとの関係や、葬儀行動の年代および地理的範囲のような、長く議論されている問題に真剣に取り組むために必要です。


●結論

 本論文で分析された、人類学・空間・地質年代学・化石生成論・生体分子データの組み合わせは、埋葬がLF8の最も節約的な説明であることを示唆します。本論文の結果は、LF8が古くて考古学的に不毛な堆積層に嵌入したことを示します。本論文は、ネアンデルタール人がLF8の置かれた不毛層堆積物に意図的に穴を掘った、と提案します。LF8は情報のあるラフェラシー遺跡の他のネアンデルタール人全員と同じく東西方向に置かれ、頭部は遺骸の他の部分よりも高くなっています。埋葬時に地面にあった一部の石器や非ヒト動物遺骸は、穴を掘っているか、埋められている間に穴に落ちた可能性があります。これは、LF8やLF8と関連する動物遺骸が、上層の動物遺骸と比較して同じくらいの年代か、より新しい(LF8の場合)理由を説明します。これらの年代は上層のOSL年代とも一致しますが、LF8が見つかったM2層の年代は、それらの年代よりもずっと古い、と示されます。

 ZooMSにより同定され、古代DNAにより確認されたネアンデルタール人遺骸で得られた直接的年代は、ラフェラシー遺跡の人類遺骸の最初の直接的年代で、同じくフランスにある、ポワトゥー=シャラント地域圏(Poitou–Charentes)のサンセザール遺跡およびブルゴーニュ地域圏のアルシスュルキュール遺跡の直接的に年代測定されたネアンデルタール人と、ほぼ同年代となります。これらの新たな結果は、ネアンデルタール人絶滅年代や、文化的および象徴的表現を含むネアンデルタール人の行動能力に関する議論に、重要な洞察を提供します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、学際的手法によりネアンデルタール人の埋葬を改めて証明しています。もはや、ネアンデルタール人が埋葬を行なっていたことはとても否定できない、と言えるでしょう。問題は、この埋葬慣行がいつまでさかのぼり、どのくらい広がっていたのか、ということです。研究の進展により、ネアンデルタール人の埋葬が現生人類の影響を受けた結果なのか、あるいはその逆なのか、さらにはそれぞれ独自に発達していったのか、また両者の接触の結果なのか、という問題が解明されていく、と期待されます。

 これとも関連しますが、シャテルペロニアンの担い手に関する議論も注目されます。シャテルペロニアンがネアンデルタール人の所産だとしても、本論文でも示されている年代からは、現生人類の影響を受けていたとしても不思議ではありません。そうだとして、文化的影響に留まったのか、あるいは遺伝的交換もあったのか、注目されます。また、ネアンデルタール人も現生人類と同じく埋葬を行なっていたとして、その意味が現生人類と同様だったのかも、重要な論点となりそうです。しかし、この問題の解決はかなり難しいように思います。


参考文献:
Balzeau A. et al.(2020): Pluridisciplinary evidence for burial for the La Ferrassie 8 Neandertal child. Scientific Reports, 10, 21230.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-77611-z

モンゴルにおける中部旧石器時代遺跡の再調査

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、モンゴルにおける中部旧石器時代の再調査を報告した研究(Khatsenovich et al., 2019)が公表されました。中期および後期更新世のユーラシアにおける人類の拡散経路に関する現在の知見に基づくと、移住回廊は古気候的に均質な地域でした。古湖と淡水路はアフリカからアラビア半島を通る出口の経路を定義し、最終的にはアジア南部の熱帯雨林をさらに東方へと横断します。

 アジア中央部東方は、ユーラシア東西間の地理的および文化的接触地域だったので、現在では多くの研究の焦点となっています。アジア中央部東方では先史時代の1移住経路が特定されており、それはこの地域の主要な河川体系であるセレンゲ川流域の経路をたどります。後期更新世となる50000~12000年前頃には、この地域ではモンゴル北部とシベリア南部のトランスバイカルの間で人類の移動があり、それはセレンゲ川の支流に続くもので、その途中では露頭石材が利用されました。

 初期の人類の回廊としてもう一つの可能性があるのは、オルホン渓谷とセレンゲ川の山岳地帯です。この地帯では、オルホン1(Orkhon-1)とオルホン7(Orkhon-7)とモイルティンアム(Moil'tyn-am)という層序化された3ヶ所の旧石器時代遺跡があり、中部旧石器時代と上部旧石器時代の資料を含めて、モンゴルで最長の文化的および層序的系列をもたらしました。この3遺跡の年代再測定を目的として、2018年にモイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡で再発掘が始まりました。以下、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の位置を示した本論文の図1です。
画像

 モイルティンアム遺跡(図1の1)はモンゴル中央部に位置し、近くにはオルホン川の第二段丘上のハラホリン(Kharkhorin、カラコルム)があります。モイルティンアム遺跡の発掘は、1960年代と1980年代にソ連とモンゴルの合同隊により、1996~1997年にフランスとモンゴルの合同隊により行なわれました。モイルティンアム遺跡の現在利用可能な測定年代は、1990年代の調査に基づく第4層の20240±300年前、およびソ連とモンゴルの合同調査に基づく18830±890年前の二つだけです。

 1985~1986年の発掘調査に基づき、モイルティンアム遺跡では2~4層にかけてルヴァロワ(Levallois)技術が含まれていると明らかになり、石器分類からは、石器群の特徴は年代的に明確には相関していない、と示唆されています。したがって、モイルティンアム遺跡はおそらく人類の活動の重複堆積物(palimpsest)です。光刺激ルミネッセンス法(OSL)と微細形態学的分析により補完された新たな放射性炭素年代測定は、この複雑な状況を明らかにするのに役立つでしょう。

 最近の発掘調査では、新たなOSLと放射性炭素年代の測定のための標本収集、遺物の分布分析、石器群の中部旧石器時代となるルヴァロワ技術の再考が行なわれました。深さが約1.7mの区画には450個以上の遺物が含まれており、6層が特定されました。石器密度が高いのは第2層と第3層で、第4層と第5層では低密度となっています。第2層には警官帽状打面(chapeau de gendarme striking platform)を有する再加工されたルヴァロワ尖頭器が、第3層には三角形の再加工されたルヴァロワ尖頭器が含まれ、ともに、モンゴルの中部旧石器時代末期と上部旧石器時代最初期に広範に存在した単軸収束剥離技術により製作されています。

 最も一般的な中部旧石器時代の求心ルヴァロワ技法により製作された剥片は、第4層で見つかりました。OSLと放射性炭素年代測定により得られるだろうこの文化系列の年代値は、モンゴルのルヴァロワ技術の長期の存在を裏づけ、おそらくはゴビ・アルタイ地域のチクヘン2(Chikhen-2)遺跡(図1の5)の30550±410年前まで下るでしょう。あるいは、それは文化的遺物の重複堆積と、その地域におけるルヴァロワ技術の年代的境界の問題がある性質を示唆しているかもしれません。この調査は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)におけるこの地域の人類の居住に関するデータの蓄積にも貢献します。

 もう一つの重要な遺跡であるオルホン1(図1の2)は、中部旧石器時代の層序的位置を決定し、年代測定の標本を得るために、2018年に発掘されました。発掘区域で見つかった石器は少ないものの、第4層の上部旧石器時代と第7層の中部旧石器時代とを識別するには充分でした。以前には、中部旧石器時代の遺物は第6層に由来すると考えられており、中部旧石器時代層には年代測定可能な有機物がないため、考古学的遺物がないその上に位置する、年代値(38600±800年前)の得られている第5層よりも古い、と推測されました。

 第7層は、オルホン川の古代の氾濫の頃に形成され、第二河岸段丘の初期段階となります。これは、寒冷で乾燥した状態、深刻な低温過程、高度の炭化と相関しています。第7層の位置から、年代がハインリッヒイベント(HE)5となる45000年前頃、もしくはそれ以前である可能性を排除できません。第7層には、ルヴァロワ技法を有する典型的な中部旧石器時代剥片インダストリーが含まれています。2018年の発掘では、放射性炭素年代測定を可能とする絶滅したバイカルヤク(Bos Poephagus baikalensis)の下顎が石器と共伴しました。

 モイルティンアム遺跡とオルホン1遺跡は、モンゴルの中部旧石器時代の年代的な系列の復元に重要です。これまで、モンゴルの中部旧石器時代は、層序化された6遺跡のうち北部のハルガニン・ゴル5(Kharganyn Gol)遺跡(図1の4)を除いて、信頼できる年代と関連づけられていません。オルホン遺跡群の放射性炭素年代は1980年代のもので、層序的位置および文化資料との関連は明確ではありません。本論文で取り上げられた新たな調査は、頻繁で一時的な短期の居住だったのか、それとも通時的な文化の継続だったのか、という問題への対処が目的です。後期更新世は、気候条件の変化と景観の変容により特徴づけられ、そうした要因が移動経路の開放や閉鎖に対して、個別的、さらには相乗的にどのように寄与したのか、測定することは常和腕素。これは将来の研究に、この地域において、中部旧石器時代の回廊はどの時期に機能し、最後の中部旧石器複合と最初の上部旧石器遺物群との間の年代的境界はどこにあるのか、という問題を提起します。


 以上、ざっと本論文を見てきました。中部旧石器時代のモンゴルは、現生人類(Homo sapiens)の拡散や、現生人類とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との関係の解明という点でも、大いに注目される地域です。モンゴルの中部旧石器時代の本格的な年代決定はまだ始まったばかりのようで、今後の研究の進展が期待されます。モンゴルの中部旧石器時代遺跡がどの人類の所産なのか、まだ明確ではありません。その一部は現生人類の所産かもしれませんが、大半は古代型ホモ属の所産である可能性が高いように思います。

 そうならば、ネアンデルタール人がまだモンゴルや中国では発見されていない一方、中国ではデニソワ人候補となりそうな化石が発見されており、じっさいチベットではデニソワ人の下顎骨が発見されていますから(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代の石器群の担い手はデニソワ人かもしれません。また、チベット高原で遺跡の10万年前頃の堆積物からデニソワ人のミトコンドリアDNA(mtDNA)が確認されているので(関連記事)、モンゴルの中部旧石器時代遺跡の堆積物でも、母系ではどの人類なのか、特定できるかもしれません。さらに、コーカサスの遺跡では25000年前頃の堆積物から核ゲノムデータが得られているので(関連記事)、より高緯度のモンゴルでは中部旧石器時代の核ゲノムデータが得られるかもしれず、年代測定と石器分析とともに、堆積物のDNA解析の進展も大いに期待されます。


参考文献:
Khatsenovich AM. et al.(2019): Middle Palaeolithic human dispersal in Central Asia: new archaeological investigations in the Orkhon Valley, Mongolia. Antiquity, 93, 370, e20.
https://doi.org/10.15184/aqy.2019.111

大河ドラマ『麒麟がくる』第36回「訣別」

 1572年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)冬、明智光秀(十兵衛)は三条西実澄に随行して参内します。実澄から光秀が随行してきたことを知らされた正親町天皇は光秀と御簾越しに話し、迷わずともに歩もうと考えた光秀は深く感激します。帰宅した光秀を、佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎(豊臣秀吉)が訪ねてきました。織田信長は、将軍の足利義昭の意向に従って大和で筒井順慶と争っている松永久秀の討伐を家臣に命じましたが、信長も家臣も久秀討伐に消極的で、信盛と勝家と藤吉郎は光秀に相談にきたのでした。信盛は、比叡山延暦寺を攻めたさいに信長の意向に反した行動をとった光秀に、信長を諫めるよう、信盛は要請します。

 義昭と信長との関係が悪化していくのを見た武田信玄は、1572年秋、義昭の上洛要請に従い、西に向かって進軍を始めます。信長は光秀を呼び、義昭は自分を追い落とそうとしているのか、と問い詰めます。光秀は一応否定しますが、義昭に謁見した光秀は、信長との対決する、と義昭から強い意思を伝えられます。義昭は信玄の進軍を聞き、信長は窮した、と判断しました。光秀はなおも義昭に諫言しますが、義昭は聞き入れず、自分に就くよう、光秀に命じますが、三淵藤英の説得も聞き入れず、光秀は断って退出します。

 今回は、光秀と義昭の別れが描かれました。光秀が義昭に決定的な違和感を抱いた象徴として、光秀と義昭との剣術の稽古が描かれたのは、悪くなかったように思います。かつては貧しい民を救うと願っていた義昭が、武家の棟梁らしく武芸に励むようになったことで、光秀にとって重要なことを見失っていった、ということでしょうか。これまでほとんどモブ扱いだったような佐久間信盛と柴田勝家が、初めて重要人物らしい役割を果たしたことも注目されます。ただ、残り8回でこの2人を詳しく描く余裕はなさそうで、残念です。とくに佐久間信盛は、その追放が光秀の謀反の決意と関わっているかもしれないという意味で、もっと深く描いてもらいたかったものです。また、光秀と正親町天皇との関係が本能寺の変とどう関わってくるのか、という点も注目されます。

白峰旬編『関ヶ原大乱、本当の勝者』

 日本史史料研究会監修で、朝日新書の一冊として、朝日新聞社より2020年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。関ヶ原の戦いについても20年近く勉強を怠っているので、近年の知見を得るために読むことにしました。



序章●白峰旬「「関ヶ原の戦い」の従来イメージ打破に向けて」

 関ヶ原の戦いに関するじゅうらいの通俗的印象の見直しが提言されています。その多くは江戸時代の軍記物に由来し、多分に創作が含まれています。近代以降は、軍記物を踏襲した歴史小説により、そうした俗説が定着しました。たとえば、徳川家康が去就を明確にしない小早川秀秋の陣営に鉄砲を打ちかけ、小早川秀秋が東軍への寝返りを決めた、とする「問鉄砲」の逸話です。また、徳川家の覇権が260年以上続いたため、徳川家および家康に都合のよい歴史像が江戸自体に構築されていった、という事情もあります。

 また本書は、戦後歴史学が軍事史研究を避ける傾向にあったことも、関ヶ原の戦いに関する俗説が定着した一因になった、と指摘します。本書は、1600年9月15日(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)の「本戦」だけではなく、より大きな視野で、「関ヶ原の大乱」として1600年の政治・軍事的騒乱状態を解明しなければならない、と提言します。本書は、同時代人の認識を考慮して、1600年の日本における政治・軍事的騒乱状態を「慶長庚子の大乱」と呼称するよう、提案しています。



第一部 東国の武将


第1章●水野伍貴「徳川家康の戦い」

 関ヶ原の戦い前の徳川家康の意図について、すでに簒奪を考えており、豊臣秀吉の存命中から交易などでさまざまな構想を抱いており、秀吉没後、大老衆を一人ずつ豊臣公儀から孤立させ、排斥していくことで政権掌握を図った、と推測されています。関ヶ原の戦い前(1600年7月)の小山評定をめぐる議論に関しては、肯定説が採用されています。西軍挙兵後、家康は当初、長期戦を覚悟していましたが、福島正則たちが岐阜城を陥落させると、強行軍で美濃へと向かい、中山道を進んでいた息子の秀忠にも美濃への急行を命じます。本論考は、関ヶ原大乱は家康にとって誤算の連続で、上杉討伐中の毛利輝元と宇喜多秀家の上方での挙兵を想定しておらず、石田三成失脚後は家康に協力的で、家康の権力の正当性を裏づけていた現役の奉行衆のうち3人が西軍に与しました。しかし、結果的に家康が関ヶ原大乱に勝利したことで、家康の覇権確立は早まりました。



第2章●本間宏「上杉景勝の戦い」

 徳川家康が上杉を攻めようと軍勢を率いて上方を出立したことが、関ヶ原大乱の直接的契機となりました。上杉軍は徳川を中心とする軍勢の殲滅を企図し、上方での西軍挙兵により徳川軍が撤退したさいには、追撃による殲滅を家老の直江兼続が主張した、との文献もありますが、史料の検討から、上杉は徳川軍を殲滅するどころか、防御に徹する姿勢を見せていた、と本論考は指摘します。上方で西軍が挙兵し、家康討伐の檄文が諸将に伝わると、上杉領への侵攻を窺っていた伊達も最上も撤兵を始めます。これに対して上杉は最上に対して高圧的な交渉姿勢を示し、最上が時間稼ぎをしていると、最上領へと攻め込みます。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗北により、上杉は大幅に所領を削減され、会津から米沢へと転封となります。


第3章●佐藤貴浩「伊達政宗の戦い」

 伊達政宗は豊臣秀吉没後の政局で徳川家康側として振舞いますが、秀吉存命中に石田三成との交流があったことも指摘されています。しかし、1599年以降、政宗と三成との間で目立った関係は確認されていないようです。関ヶ原大乱において、政宗が家康から100万石を約束されながら反故にされたことは、大河ドラマや小説などでも取り上げられ、一般層にもよく知られているでしょうが、これに関して本論考は、戦国時代以来の社会的慣習である「自力次第」という前提があり、政宗が自力で獲得できなかった場合、100万石は保証されなかった、と指摘します。じっさい、加増を約束された領地のうち、伊達が自力で上杉から奪った地域は、戦後に家康から安堵されています。政宗が自力で家康に約束された領地を奪えなかった要因として、相馬や佐竹への警戒とともに、当時はまだ豊臣政権の枠組みが崩壊しておらず、一定以上その規制下にあったことから、戦国時代のように自由に行動できなかったことも指摘されています。


第4章●菅原義勝「最上義光の戦い」

 最上義光は関ヶ原大乱において上杉と戦い、滅亡の危機に陥りましたが、最上と上杉との対立関係は上杉が会津に転封になる前からのことでした。義光は豊臣政権の傘下に入りましたが、豊臣秀次の失脚に伴って義光にも共謀の嫌疑がかけられるなど、豊臣政権への不満を蓄積していったようです。義光は越後時代の上杉と対立していた頃から徳川家康と交流があり、秀吉没後は、関ヶ原大乱の前から徳川方として行動していました。徳川軍を主力とする会津攻撃は、上方での西軍挙兵により中止となり、南部などが撤退したことに義光は動揺したようです。じっさい、上杉軍が最上領に攻め入り、義光は伊達に援軍を要請し、籠城策で何とか耐えているうちに、西軍敗退の報が伝わり、上杉軍は撤退し、最上軍は上杉軍に占拠されていた自領を回復します。



第二部 西国の武将


第5章●浅野友輔「毛利輝元の戦い」

 毛利輝元は関ヶ原大乱における西軍の総大将ですが、通俗的見解では、輝元は総大将とはいっても「お飾り」にすぎず、石田三成と親しかった安国寺恵瓊に唆され、消極的に西軍に加担したにすぎなかった、と評価されていました。しかし、近年の研究が明らかにするのは、独自の思惑で戦いに加担する「野心家」としての輝元です。秀吉没後すぐの時点で、すでに三成たち奉行衆と家康との関係は悪化していました。輝元は、毛利家の後継者問題の関係で秀吉没後に三成たちに接近し、三成たちも家康との対立が深まるなかで、輝元との協力を強化していきます。しかし、輝元は家康と全面的に衝突するわけでもなく、1600年に家康が上杉討伐の軍を率いて会津に向かった時も、その直前に帰国していましたが、家康の方針に従っています。しかし、輝元はこの時点で家康との対峙を決意していたようです。ただ、史料からは、輝元が西軍に加担した決定的な理由は不明とのことです。輝元は大坂城に入り、西軍の総大将としても阿波や伊予など家康方の大名の領国へと侵攻します。大坂城に入りながら、対家康戦線には深入りせず、各地で領国拡大を目指すかのように侵攻する、野心的な輝元が窺えます。関ヶ原の戦いで西軍は大敗しますが、輝元は、一門の吉川広家と東軍の黒田長政たちとの誓約により、領地は安堵されると考えていました。しかし、領地は大きく減らされ、輝元は家督を息子の秀就に譲ります。


第6章●太田浩司「石田三成の戦い」

 関ヶ原大乱における三成の戦略は、まずは美濃と尾張までを西軍の勢力圏とし、尾張の清須城主である福島正則もできれば味方に引き入れる、というものでした。しかし、福島正則が西軍に加担する可能性はほぼ皆無で、この点が三成の戦略の誤算の一つとなります。三成は伊勢方面を重視し、宇喜多秀家や長宗我部盛親や立花宗茂など大軍を投入します。美濃方面には、三成自身と織田秀信や島津義弘や小西行長など、北陸方面は大谷吉継など、京都の採集防衛線である近江の瀬田橋には太田一吉などを配置し、大坂城の留守居に増田長盛などの奉行衆を利越しました。三成は、尾張と美濃、さらには北陸の南北で東軍を迎撃しようと考えていました。

 福島正則の西軍への加担が見込めないと判断した三成は、尾張と美濃の国境である木曽川を決戦場として想定し、これは東軍も同様だったようです。しかし、岐阜城があっけなく陥落したことで、決戦の地は美濃国内に移ります。三成は大垣城付近で雌雄を決するつもりだったようですが、東軍は大垣城を攻めず西進しようとしたため、1600年9月15日、関ヶ原での決戦となり、小早川秀秋が東軍側に立ったことと、西軍の毛利勢が動かなかったことにより、西軍は敗走します。小早川秀秋の「裏切り」に関しては、当日の開戦からしばらくしてではなく、直後だった、との見解が提示されています。逃亡した三成の捕縛状況については、同時代史料からは確認できないようです。本論考は、三成にとって関ヶ原の戦いは誤算の連続で、その最大のものは、福島正則が西軍に加担すると想定したことだろう、と指摘します。


第7章●大西泰正「宇喜多秀家の戦い」

 宇喜多秀家は豊臣政権において、とくに官位では優遇されましたが、後ろ盾だった秀吉と岳父の前田利家が相次いで没し、豊臣政権最大の実力者となった家康により大坂城から伏見城へと追われて、その政治的求心力は失墜した、と本論考は指摘します。その結果、以前より秀家の大名集権策に不満を抱いていた有力家臣が決起し、御家騒動が勃発します。秀家はこれを独力で収拾できず、家康の裁定により一旦は落着します。しかし、その後騒動は再燃し、有力家臣が退去します。1600年6月、家康が上杉討伐軍を率いて大坂から出立すると、秀家もこの討伐軍に兵を派遣します。しかし、石田三成や大谷吉継たちが家康打倒を掲げて挙兵すると、秀家もこれに加担します。関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、逃亡していた秀家は助命されて最終的には八丈島へと流されます。宇喜多旧臣が秀家の赦免に動きましたが、ついに赦免されることなく、秀家は八丈島で没しました。


第8章外岡慎一郎●「大谷吉継の戦い」

 大谷吉継は病気を理由に文禄の役が始まって間もなく、豊臣政権中枢から退きますが、秀吉没後に石田三成が失脚し、家康主導の政権が成立すると、政権に復帰します。そこで吉継が担ったのは、かつて三成が担った分野でした。そのため、三成失脚の穴を埋める存在として、家康が吉継に政権復帰を求めたのではないか、と推測されます。吉継は、家康に従って上杉討伐軍に参陣したものの、その途中で三成と会って家康討伐の意思を打ち明けられ、三成と共に決起した、と軍記類には見えます。本論考は、軍記類の作為的要素を指摘しつつ、三成による大老衆を引き入れての大坂城占拠構想が、豊臣政権を守ることになると確信して、三成と協働したのだろう、と指摘します。伏見城陥落後、吉継は北陸戦線で前田利長の南侵に備えます。しかし、吉継は東軍の美濃への進撃に備えて、1600年8月下旬には美濃へと向かいます。関ヶ原の戦いにおける吉継の行動は、軍記類や戦功書に依拠するしかなく、確定的ではありませんが、小早川秀秋の軍勢に攻められ、序盤でほぼ壊滅したのではないか、と推測されます。


第9章●大西泰正「前田利長の戦い」

 前田利長は、父である利家の没後、「大老」に昇格しますが、政権中枢での政治的経験に乏しい利長には負担が重すぎた、と本論考は評価します。1599年8月、理由は不明ながら、利長は領国へと帰ります。その翌月、伏見城の家康は大軍を率いて大坂城に入り、家康の要求により宇喜多秀家は大坂城から伏見城へと移ります。これを家康によるクーデタと評価する見解もあります。家康は加藤清正とともに利長に対して、上洛無用と通告し、利長と家康との関係は悪化します。この後、家康が「加賀征伐」を企図した、との通説に本論考は否定的です。前田と徳川との関係は、利長の実母の江戸下向もあって改善されました。これは前田にとって屈辱的と一般に解釈されていますが、豊臣政権への人質として上方居住を強制されていた利長の妻の帰国が許可されるなど、かなり好条件の講和だった、と本論考は指摘します。そのため、関ヶ原大乱において利長は家康側に立ちますが、大聖寺城の攻略後にいったん金沢に軍を戻した理由については、大谷吉継の謀略によるものではなく、救援すべき伏見城の陥落と、越後の一揆のためだろう、と本論考は指摘します。本論考は利長について、関ヶ原大乱での功績により20万石程度の加増を得たものの、政権中枢から追われて一地方大名に転落した、と負の側面も指摘します。


第10章●中脇聖「長宗我部盛親のたたかい」

 長宗我部盛親は、豊臣(羽柴)政権において官位を授与されず、冷遇されていました。一方、長宗我部家と徳川家は、豊臣政権で良好な関係にありました。その盛親は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に加担します。これは、豊臣政権内での地位向上(叙位任官)や加増を提示されたためかもしれない、と本論考は推測します。しかし、西軍の敗北により土佐へ帰国します。盛親は1600年11月に大坂に入り、家康に降伏します。土佐没収の代わりに、「御堪忍分」の給付と家康への「出仕」が認められたようです。しかし、こうした盛親の方針に反対し、土佐一国安堵を求める長宗我部家臣団が「浦戸一揆」を起こします。その首謀者は、盛親に近い重臣たちではなく、長宗我部家に臣従した旧国衆の津野や吉良でした。浦戸一揆は鎮圧されますが、これにより盛親は改易とされ、浪人となります。その後の盛親は大名復帰に向けて精力的に活動していたようですが、それは叶いませんでした。


第11章●中西豪「鍋島直茂の戦い」

 鍋島直茂は龍造寺家の重臣、また龍造寺家を飛躍的に発展させた龍造寺隆信の義弟として、隆信の戦死後に龍造寺家の実権を掌握します。直茂は徳川家康と親しく、1600年6月に上杉討伐が発動されたさいに、西日本の諸大名は伏見や大坂の留守居もしくは在国が命じられたなか、従軍を申し出ます。しかし家康は直茂に、帰国して豊前の黒田如水とともに西国の押さえとなるよう命じます。直茂はその代わりに、息子の勝茂と龍造寺家当主の高房を従軍させます。しかし、勝茂は京都近辺に1ヶ月近くも留まり、石田三成たちの挙兵により東国への関が閉ざされ、西軍に加担します。本論考は、勝茂が独断で積極的に西軍に加担した可能性を指摘します。

 勝茂は伊勢方面で西軍として奮戦し、阿濃津城や松阪城を攻略しますが、関ヶ原の戦い直前には消極的になり、西軍の敗北後、勝茂は大坂の屋敷で謹慎して家康の沙汰を待ちます。勝茂は、黒田長政や井伊直政たちの口添えもあり、赦免されます。一方、肥前に留まった直茂は、息子の勝茂が家康と敵対したことに動揺したようです。直茂は、1600年9月の時点で東軍として行動する黒田如水とも断交し、西軍敗北の報が伝わってからは、家康との合戦も一時覚悟していたようです。けっきょく、直茂も勝茂も終始一貫して西軍の立場を標榜しており、親子で東西両軍に分かれて龍造寺家の安泰を図ろうとしたような事実はなかった、というわけです。


第12章●渡邊大門「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」

 小早川秀秋と黒田長政と福島正則は、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利に貢献しましたが、黒田長政が秀吉没後に家康の養女を妻に迎え、福島正則が養子の妻に家康の養女を迎えたように、この二人が当初から家康側として行動したのに対して、小早川秀秋は関ヶ原の戦い前日まで去就に迷っていたようです。黒田長政は合戦だけではなく、西軍側もしくは西軍寄りの諸将の調略でも東軍の勝利に貢献し、福島正則は岐阜城攻略や関ヶ原での決戦など戦場で大きく貢献しました。小早川秀秋の決断に大きな影響を与えたのは、稲葉正成と平岡頼勝の重臣2人でした。東軍も西軍も、この2人を重視していたようです。関ヶ原の戦い前日、小早川秀秋は松尾山に着陣しますが、これは石田三成からの攻撃を避けるためだった、との見解も提示されています。三成から警戒されていることを小早川秀秋も認識していた、ということでしょうか。同日、小早川秀秋は家康と和睦し、翌日の決戦では、当初より東軍として行動し、軍功を挙げます。通説で言われる、関ヶ原の戦いにおける松平忠吉と井伊直政の抜け駆けに関しては、抜け駆けではなく、家康から戦闘指揮を任された直政が、正則に先鋒を譲るよう、要請したのではないか、と推測されています。



終章●白峰旬「関ヶ原本戦について記した近衛前久書状」

 関ヶ原の戦いについて記された数少ない一次史料である近衛前久書状が取り上げられています。これは1600年9月20日付で前久が息子の信尹に送った書状で、関ヶ原の戦いや関連する情報が記されています。本論考はこの書状から、小早川秀秋の布陣場所が松尾山とは記されていないことや、戦場の名称や、吉川広家が家康と交渉した理由など、重要な情報を指摘します。こうした情報により、関ヶ原の戦いの主戦場や、参戦武将の布陣位置など、通説を再検証していく必要があることも了解されます。関ヶ原の戦いはたいへん有名ですが、その基本的事実の解明が必要であることは、本論考、さらには本書全体からも納得させられます。

「なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか」そこにある不都合な真実

 表題の記事が公開されました。日本が対米開戦(真珠湾攻撃)へと向かった理由を、進化政治学的観点から検証しています。進化政治学とは、進化論的視点から政治現象を分析する手法とのことです(関連記事)。まず、対米開戦か避戦か悩んでいた日本の指導層にとって開戦を決意する直接的な引き金・最後の一押しがハル・ノートだった、との見解は妥当だと思います。ハル・ノートのような「他国の不当な行為は国内アクターの憤りを生みだすため、それは指導者にとり攻撃的政策への支持を得るための戦略的資源となる」との指摘も尤もだと思います。

 ただ、対米開戦の直接的要因をハル・ノートによる日本の政策決定者の憤りとまで言ってしまうと、かなり問題があるように思います。ハル・ノートの内容を知った日本人の多くに、感情の一要素として憤りはあったでしょうから、憤りを開戦理由の一つとして挙げるのであれば、無理筋とまでは言えないでしょうが。そもそも、憤りが攻撃に直結するとは限らず、憤りをもたらすような「他国の不当な行為」は近代日本において他にもありましたが、たとえば三国干渉では、日本政府は「臥薪嘗胆」を選択し、国民もおおむね納得しています。ポーツマス条約では日本国民(の少なくとも一部)はその内容に憤激しましたが、政府は対露戦再開を選択しませんでした。

 ハル・ノートが対米開戦の直接的な引き金・最後の一押しになったとしても、それを心理面から解説するならば、憤りというよりは、選択肢が限定されて追い詰められ、楽観論に立って賭けに出た、という側面の方がよほど大きかったように思います。この時点で日本の選択肢が限定されてしまったのは、満洲事変、盧溝橋事件後の日中停戦の可能性、三国同盟、南部仏印進駐といった局面での日本の選択の積み重ねの結果と言うべきでしょう。

 1941年後半時点で、日米間の国力差は大きくとも、短期的には太平洋において直接運用できる戦力では日本側が有利です。したがって、この状況を活用して戦果を挙げれば、イギリスとの関係からヨーロッパ戦線も考慮しなければならないアメリカ合衆国が二正面作戦を嫌がり、ハル・ノートよりもずっと日本側に有利な条件で、短期間の戦闘の後に日本と講和を締結するかもしれない、という希望的観測を当時の日本の(少なからぬ)指導層が抱いたとしても、さほど無理はないように思います。

 真珠湾攻撃へと至る選択を心理的に考察するならば、憤りによる攻撃衝動を強調するのではなく、開戦しても比較的短期間でアメリカ合衆国が対日講和に応じるかもしれない、という希望的観測に日本の指導層がなぜ縋ったのか、という方を問題にすべきであるように思います。ヒトの自己評価の高さと楽観的傾向は進化心理学でも指摘されていたと思いますので、そうした観点から当時の日本の指導層の心理と選択を検証するのは、あるいは有意義かもしれません。

 私は、歴史学で指摘されている、対米開戦かアメリカ合衆国の要求を受け入れての避戦かという選択に指導層も国民も悩み、どちらでもよいから早く決めて楽になりたかった、との見解(関連記事)の方が、対米開戦の心理的観点としては本論考よりもずっと説得的だと思います。対米開戦の直接的要因は、憤りというよりも、アメリカ合衆国の要求を受け入れた結果としての、国民や右翼や軍部中堅層以下の憤激という目先の困難から、指導層が逃れようとしたことにあるように思います(憤激が理由ではないか、との反論もあるかもしれませんが、憤激による衝動的な攻撃と、憤激による反応を予想し恐れての攻撃はまるっきり別物です)。その前提となるのは、上述した、日本国家が自身の選択肢を狭めていったことです。

 ヒトの重要な認知的特徴として、将来を見通す能力に長けていることがありますが、その意味で日本の対米開戦は、本書の指摘とは異なり、「戦前社会の未成熟さ」という側面が否定できないように思います。とはいえ、「明日を乗り切らねば10年後はない」ことも確かで、目前の困難を避けること自体は、選択肢として有望な場合もあるとは思います。少なくとも短期的には対米戦の戦力面で日本が有利だった以上、アメリカ合衆国の要求を受け入れて避戦を選択した結果、内戦・内乱で日本国内が分裂し、帝国領や中国の占領地を失うか、そこまでいかずとも対米の「戦機」を逃す可能性は低くなかったように思います。当時の日本の指導層の未熟さ・無能をあまりにも強調することは、現在進行形で起きているかもしれない問題を見逃す可能性につながるという意味で、問題があると考えています。

 そもそも、進化論的視点から政治現象を分析するとはいっても、いかに一般向けの媒体で一般受けを狙っただろうとはいえ、「怒りという普遍的な人間本性(human nature)」による攻撃衝動で対米開戦を説明してしまうようでは、少なくとも現時点において、進化政治学は歴史学に何か資するどころか、むしろ短絡化という意味で有害でさえあるように思います。私は、ヒトが生物である以上、そのあらゆる行動に進化的基盤があると言っても大過はないと考えており、その意味で、進化心理学が発展し、ヒトを対象とするあらゆる分野で基礎的認識・基盤となるよう、期待しています。ただ現時点では、進化学やその上位分野としての生物学の基盤に化学、さらには物理学があるというような意味で、進化心理学が確たる基盤を提供できているとは、とても言えないでしょう。少なくとも本論考を読んだ限りでは、進化政治学も現時点において、とても歴史的事象を的確に説明できる方法論にはなり得ない、と思います。まあ、一般向け媒体の記事ではなく、専門書を読めばかなり説得的なのかもしれませんが。

 意思決定も含めてヒトの行動が進化の所産であることは間違いないとして、ヒトはある特定の感情を抱いても状況を判断してさまざまな行動を取れるわけで、それはヒトに時として相反するような複数の認知的傾向があるからでしょう(関連記事)。恐らくこれは多くの非ヒト動物も同様で、これも進化の所産であり、そのように状況に応じて柔軟な行動を選択できる種でなければ存続が難しいことを反映しているのでしょう。対米開戦を「憤りという感情的な意思決定の産物」で説明してしまう本論考は、とても「抽象的かつ冷徹な科学的推論」ではなく、歴史学が「これまで積みあげてきた豊かな史的叙述」の方こそ、少なくとも現時点では「複雑な諸変数の産物」である戦争をよりよく分析できているように思います。その意味で、本論考は歴史学者にとって「不都合」な見解を提示できていない、と言うべきでしょう。

 同様に、政治的左派および右派に対して不都合な観点を提示した、との本論考の主張も的外れだと思います。戦争の起源をめぐる議論とも関わってきますが(関連記事)、左派にとって不都合となるのは、「仮に人間に戦争を志向する本性(この際、憤りに駆られた攻撃の衝動)があるなら、戦争を起こした当事者の責任を追及することは不毛となるからだ」と本論考は指摘します。しかし、戦争も、複数の認知的基盤に基づき、さまざまな条件・情報を考慮して行なうヒトの選択の一つです。「憤りに駆られた攻撃の衝動」がヒトの「本性」であることは間違いないでしょうが、「憤りに駆られた攻撃の衝動」が攻撃・戦争に直結するとは限りません。「本性」に基づく行為ならば責任の追及は不毛といった考えは、自然主義的誤謬に他ならないと思います。それは、暴力がヒトの本能だとすると戦争は不可避の運命になる、といった言説と同様の誤りと言うべきでしょう。

 右派にとって、対米開戦が「憤りという感情的な意思決定の産物」ならば、冷徹な合理的計算の産物ではないので、対米開戦の擁護は難しくなる、と本論考は指摘します。しかし、右派による対米開戦擁護の基調は、理不尽なアメリカ合衆国に対する日本の自衛だった、というものでしょうから、理不尽なハル・ノートに対する憤りによる感情的な反応としての対米開戦という説明が、右派の多くにとって不都合になるとは思えません。これは藁人形論法のように思います。

 そもそも、進化政治学の3前提自体にも疑問が残り、進化を論じるのに「目的」という言葉を安易に用いることもどうかと思いますが、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」との前提も問題になる、と私は考えています。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)が、完新世ヨーロッパのヒト集団において強い選択を受けてきたことは、よく知られています(関連記事)。その他には、チベット人が完新世に高地適応関連遺伝子で強い選択を受けた可能性も指摘されています(関連記事)。

 ヒトの進化は現在でも続いており(関連記事)、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」とはとても言えず、それが認知傾向と関わる遺伝子にも当てはまる可能性は、とても無視できないでしょう。そもそも、狩猟採集社会とはいっても、大型動物や小型動物や植物や海産物など、どれを主要な食資源とするかにより、選択圧も変わってくると思います。それは、認知傾向と関わる遺伝子も例外ではないでしょう。さらに、定住と農耕の開始は、人口密度の増加など他集団との関係性の変容をもたらし、狩猟採集社会とは異なる選択圧を生じさせたでしょう。もちろん、現代人全員に共通する多くの認知傾向はあるとしても、「今日の政治現象は狩猟採集時代の行動様式から説明される必要がある」とは、とても言えないように思います。進化心理学において、「現代の人間の遺伝子は最後の氷河期を経験した遺伝子から事実上変わらない」とか、「今日の政治現象は狩猟採集時代の行動様式から説明される必要がある」とかいった見解が現在では主流なのか、不勉強なので分かりませんが、そうだとしたら、少なくともある程度は柔軟に改めていくべきだと思います。

 率直に言って、本論考を読んでも、少なくとも現時点では進化政治学が政治的事象の解明に大きく資するようには思えません。上述のように、専門書を読めば説得的かもしれませんし、進化学自体は、ヒトに関する学問の基盤になるべきだとは思います。しかし本論考は、進化政治学のみならず、進化心理学を否定したい人々にとって、援護射撃になっているように思います。Twitter上で進化心理学の伝道師を自任しているらしいアカウントは、本論考に対して、「伊藤先生はニッポンの政治学に革命をもたらす方と思います。かつてE.O.ウィルソンが思い描いたあの"ニューシンセシス"の実現を、この国でぜひとも率いてください」と発言していますが、まず言うべきは、このような第三者が読んで恥ずかしくなるような実態から大きくずれたお世辞ではなく、いかに一般向け媒体とはいえ、進化政治学のみならず進化心理学も毀損するような短絡化を諫めることでしょう。

サンゴ白化の回復と関係する藻類の入れ替え

 サンゴ白化の回復と関係する藻類の入れ替えに関する研究(Claar et al., 2020)が公表されました。気候変動のために海洋熱波の発生頻度が上昇しており、世界のサンゴ礁にとって深刻な脅威となっています。温暖化によりサンゴは、その組織内に生息していて栄養を供給している共生藻類を放出してしまいます。これが白化を引き起こし、サンゴは飢餓状態や病気になりやすくなり、死にやすくなります。一部の藻類は、他の藻類よりもサンゴの熱耐性を高めますが、これまでの研究から、白化したサンゴが藻類を取り戻して回復するには、海水温が正常値に戻らねばならない、と示唆されています。

 この研究は、2015~2016年に熱帯性海洋熱波が発生したさいの、太平洋のキリスィマスィ環礁のサンゴを調べました。キリスィマスィ環礁では、一方の端では村やインフラが整備され、もう一方の端ではほとんど人の手が加えられていないという、人為的攪乱の勾配が生じています。熱波が発生する前は、この環礁の「攪乱された」側の水域に生息するサンゴには、組織内に熱耐性の高い共生藻類が生息していたのに対して、それほど攪乱されていない水域のサンゴには、熱感受性の高い共生藻類が生息していました。

 熱波発生から2ヶ月後、予想通り、熱耐性の高い共生藻類が支配的なサンゴは、白化する確率が低い、と示されました。一方、熱感受性の高い共生藻類が生息するサンゴの一部は白化しましたが、海水温が高い間に予想外に回復しました。こうした影響は、強い局所的攪乱のない水域でのみ観察されており、攪乱された水域ではこれまで報告されたことがありませんでした。これは、サンゴが熱感受性の高い共生藻類を放出し、より熱耐性の高い共生藻類種がこれに取って代わったためだろう、と考えられます。

 これらの知見から、サンゴが長期間の熱波を生き延びる経路は複数存在し、白化に抵抗したり、白化から回復したりできる可能性があり、これらの経路はサンゴと藻類の共生関係により影響を受ける、と示唆されました。これらの経路がサンゴと共生藻類の組み合わせおよび人為的攪乱のパターンの影響をどのように受けるのか検証することは、将来、長期にわたる熱波が発生した時のサンゴ礁の管理に役立つ可能性があります。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:サンゴと関係する藻類の入れ替えがサンゴ白化の回復に役立っている

 サンゴと共生藻類との関係は、持続的に温暖な水域において白化したサンゴの回復に役立っているが、これは人為的な強い局所的かく乱がない場合に限られることを報告する論文が、Nature Communications に掲載される。今回の研究は、サンゴの管理と将来の気候変動に対するサンゴの応答の予測に対して重要な意味を持つ可能性がある。

 気候変動のために海洋熱波の発生頻度が上昇しており、世界のサンゴ礁にとって深刻な脅威となっている。温暖化によって、サンゴは、その組織内に生息していて栄養を供給している共生藻類を放出してしまう。これが白化を引き起こし、サンゴは、飢餓状態や病気になりやすくなり、死にやすくなる。一部の藻類は、他の藻類よりもサンゴの熱耐性を高めるが、これまでの研究から、白化したサンゴが藻類を取り戻して回復するためには、海水温が正常値に戻る必要のあることが示唆されている。

 今回、Julia Baumたちの研究チームは、2015~2016年に熱帯性海洋熱波が発生した際の、太平洋のキリスィマスィ環礁のサンゴを調べた。キリスィマスィ環礁では、一方の端では村やインフラが整備され、もう一方の端ではほとんど人の手が加えられていないという、人為的かく乱の勾配が生じている。熱波が発生する前は、この環礁の「かく乱された」側の水域に生息するサンゴには、組織内に熱耐性の高い共生藻類が生息していたのに対して、それほどかく乱されていない水域のサンゴには、熱感受性の高い共生藻類が生息していた。熱波発生から2か月後では、予想通り、熱耐性の高い共生藻類が支配的なサンゴは、白化する確率が低かった。一方で、熱感受性の高い共生藻類が生息するサンゴの一部は白化したが、海水温が高い間に予想外に回復した。こうした影響は、強い局所的かく乱のない水域でのみ観察されており、かく乱された水域ではこれまで報告されたことがなかった。これは、サンゴが熱感受性の高い共生藻類を放出し、より熱耐性の高い共生藻類種がこれに取って代わったことが原因と考えられる。

 今回の研究から、サンゴが長期間の熱波を生き延びる経路は複数存在し、白化に抵抗したり、白化から回復したりできる可能性があり、これらの経路はサンゴと藻類の共生関係によって影響を受けることが示唆された。これらの経路がサンゴと共生藻類の組み合わせと人為的かく乱のパターンの影響をどのように受けるのかを検証することは、将来、長期にわたる熱波が発生した時のサンゴ礁の管理に役立つ可能性がある。



参考文献:
Claar DC. et al.(2020): Dynamic symbioses reveal pathways to coral survival through prolonged heatwaves. Nature Communications, 11, 6097.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-19169-y

同所的種分化の過程におけるゲノム分岐

 同所的種分化の過程におけるゲノム分岐についての研究(Kautt et al., 2020)が公表されました。単一種における「明らかに識別できる変種」から「明確に確立された種」への移行、とくに遺伝子流動に対する地理的障壁がない場合の移行(同所的種分化)は、ダーウィンの時代から進化生物学における謎でした。ゲノム規模での分化は種分化の特徴で、種分化過程を完結させる不可逆的な生殖障壁(不和合性)の進化の可能性を高めますが、こうしたゲノム規模での分化の蓄積は遺伝子流動によって妨げられます。理論的には、分岐選択を受けた形質の遺伝的構造は同所的種分化が起こるかどうかに影響を与え得ると予測されていますが、種にはそれぞれ独特の生物学的性質と進化史があり、複数の種にわたって包括的なデータを収集・統合することが難しいため、この理論の経験的試験はほとんど行われていません。

 この研究は、新熱帯区のカワスズメ科魚類(シクリッド類)の進化的に新しい種群(Amphilophus spp.)において、個体群間および種間のゲノム分岐について調べました。この研究は、新たなゲノムアセンブリを作成し、453ゲノムの塩基配列を再解読することで、分岐に重要と示唆されてきた形質の遺伝的構造を明らかにしました。生態学的パフォーマンスや配偶者選択に影響を及ぼす単一遺伝子形質あるいは少数遺伝子形質が異なる種では、顕著に局在化したゲノム分化が見られました。対照的に、多遺伝子形質が分岐してきた種における分化はゲノムにおいて広範に見られ、全体としてはるかに分化度が高く、これは遺伝子流動に対する効果的で安定したゲノム規模の障壁の進化と一致しています。したがって、単純な形質構造は、必ずしもこれまでに示唆されていたほど、遺伝子流動を伴う種分化につながるとは限らないものの、多遺伝子構造は同所での迅速かつ安定した種分化を促進できる、と結論づけられます。


参考文献:
Kautt AF. et al.(2020): Contrasting signatures of genomic divergence during sympatric speciation. Nature, 588, 7836, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2845-0

旧石器時代ヨーロッパの女性像の意味

 旧石器時代ヨーロッパの女性像の意味に関する研究(Johnson et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。狩猟採集社会では肥満は稀ですが、農耕開始前の後期更新世となる38000~14000年前頃のヨーロッパでは、肥満の女性の小像が数十個も確認されています。これらの小像は、しばしば現実的な肥満を表しており、全裸かほぼ裸です。これらの小像は胴と性的特徴に焦点を当てており、頭部は通常顔がなく、腕は小さく足はありません。しかし、こうした特徴は技術の欠如に起因するわけではなく、フランスのブラセンプイ(Brassempouy)で発見された26000~25000年前頃の小像では、顔の細かい特徴が表現されています。多くの小像は出産可能年齢もしくはその前後と推測され、妊娠中のように見えるものもあれば、腹部肥満もしくは臀部脂肪膨張(脂臀)を示しているものもあり、栄養過剰を示唆します。女性小像には思春期に入る頃のものもあり、中年女性のものもあります。しかし、肥満は女性の小像に限定されており、既知の男性の小像はほっそりとしています。

 肥満の小像は常に女性で、そのうちいくつかは妊娠中であるため、これらは繁殖能力もしくは美しさを表す、と以前より解釈されており、「ヴィーナス」像と一般には言われてきました。しかし、この仮説の検証は困難でした。本論文は、これら女性小像の意味が、当時の気候および環境変化と、それらに影響される栄養と生存により最もよく説明できる、と提案します。具体的には、小像は狩猟採集民バンドの生存率向上を目的としていた、という仮説です。とくに妊娠中、肥満は深刻な食料不足期の生存保障に役立ちました。本論文はこの仮説を検証するため、旧石器時代ヨーロッパの気候変動と、それが初期現生人類の栄養にどのような影響を及ぼしたのか、調べます。


●上部旧石器時代のヨーロッパにおける気候変動

 (狭義の)現生人類(Homo sapiens)のヨーロッパへの拡散は47000年前頃までさかのぼる可能性があり(関連記事)、明確な現生人類の文化と考えられている(広義の)オーリナシアン(Aurignacian)は、43000年前頃にはイベリア半島南部にまで到達し、ヨーロッパに広く拡散していました(関連記事)。東方からヨーロッパに到来したオーリナシアン集団は、ヨーロッパ北部全域の1600mの高さに及ぶ氷河のすぐ下のドナウ川沿いに移動しました。この海洋酸素同位体ステージ(MIS)3間氷期において、新たに出現した平原に分布したマンモスやウマやトナカイが初期現生人類の狩猟対象となり、夏から秋にかけては、魚やベリーやナッツなどが肉の多い食事を補いました。現生人類がヨーロッパに到達した当初、気候は穏やかでしたが、38000年前頃には気温が低下して氷床が再び発達し、新たな生存戦略が要求されるようになりました。イタリア半島やヨーロッパ南西部(現在のフランスやスペイン)に退避した人々もいましたが、オーリナシアンの担い手は34000~26000年前頃にグラヴェティアン(Gravettian)の担い手に置換された、とも推測されています(関連記事)。

 グラヴェティアンは、オーリナシアンよりも高品質の「背付き」尖頭器により、環境悪化のなか技術的な優位性をもたらしました。グラヴェティアン集団は、ウマやトナカイの群に続いて北緯50度を超えて拡散し、季節ごとに800km移動しました。MIS2となる28000年前頃前後から、気温は4度~8度と大幅に低下し、22000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に達しました。この頃には、最も寒い月には-10度~-15度に達した可能性があり、降雨量が減って植物の成長期が短くなりました。こうした極端な寒冷期には、氷河の近くの一部集団は絶滅しましたが、他集団は南方の森林地帯へと移動しました。大型動物が過剰に狩られたので、人類はウサギやマーモットや鳥類など小型動物に依存していきました。

 1年のうち食料が不足する時期には人口が劇的に減少し、29000~25000年前頃には、33000~29000年前頃と比較して人口は1/3に減少した、との推定もあります。栄養摂取量を反映して、身長は22000年前頃までに平均7.6~10.2cm低下しました。また、栄養ストレスを示唆する、歯の横縞(エナメル質形成不全)は、上部旧石器時代早期の16%から22000年前頃までには29%にまで増加しました。38000~14000年前頃となるこの厳しい環境の最終氷期の24000年間に、肥満の女性小像のほとんどが作られました。そこで本論文は、小像の肥満の程度が、栄養ストレスと氷期に最大になるかもしれない、という仮説を検証しました。


●気候変動と相関する女性小像の肥満度

 枝角など寸法が制限されている素材で作られた女性小像や、未完成もしくは断片的な小像を除いて、既知の全ての女性小像のウエストとヒップおよびショルダーの比率(それぞれWH比とWS比)を測定することで肥満の程度が推定され、氷河からの距離との関係が検証されました。女性小像は、氷河の前進期(38000~22000年前頃)または後退期(21000~14000年前頃)、氷河に近接していた(ヨーロッパ北部およびロシア草原地帯の川沿い)か離れていた(イベリア半島やフランス南部やイタリアを含むヨーロッパ南部)かにより、4クラスタに区分されました。

 第1集団には、フランス北部とヨーロッパ中央部とロシアで発見された、氷河前進期の17体の女性小像が含まれます。第2集団には、ヨーロッパ南部で発見された、氷河前進期の5体の女性小像が含まれます。第3集団には、ロシアで発見された、氷河後退期の8体の女性小像が含まれます。第4集団には、ヨーロッパ南で発見された、氷河後退期の11体の女性小像が含まれます。氷河前進期には、氷河近く(ヨーロッパ北部および中央部とロシア)の女性小像はWH比とWS比の両方で、氷河から離れた地域(ヨーロッパ南部)の女性小像よりも大きい、と示されます。同様に、氷河前進期の女性小像は、氷河後退期(LGM後)の女性小像よりも、WH比とWS比が大きい、と示されます。個々の女性小像におけるWH比とWS比との間にも、正の相関がありました。


●考察

 ヴィーナス像とも呼ばれる旧石器時代ヨーロッパの女性小像は、人類の最初期の芸術的表現の一つです。女性小像は、その強調された性的特徴により、一般的には繁殖能力と美の象徴として、またより想像力豊かに女神として解釈されます。女性小像の顔の特徴は、とくに強調されていません。ほとんどの女性小像は長さが6~16cmで、マンモスの牙や角や石や稀に粘土で作られました。女性小像のいくつかは、お守りとして糸を通して着用されていた、と推測されます。牙や石の女性小像の表面の輝きは、何世代にもわたって扱われてきたことを示唆します。本論文は、女性小像が、若い女性、とくに氷河の近くに住む人々のために体の理想的大きさを伝えた、と提案します。

 この仮説を検証すべく、本論文では、上部旧石器時代ヨーロッパの既知の女性小像を体系的に測定し、氷河からの距離との関係が考慮されました。その結果、氷河に近い女性小像が、氷河から遠い女性小像と比較して肥満度が大きい、と示されました。また、氷河前進期が終わって氷河後退期に入ると、肥満度が減少することも示されました。こうした知見から、人々は栄養ストレスを経験するにつれて、より肥満度の大きい女性小像を制作し、食料確保がより予測可能になると、よりほっそりした女性小像を制作した、と考えられます。

 これらの比較は、飢餓と栄養ストレスが女性小像の表現方法に直接関係していることを示唆します。体脂肪の蓄積により栄養ストレスをどのように軽減できるのか伝えることも、精神的もしくは神秘的意味合いを有していたかもしれません。出産期の女性は、繁殖の成功に必要な体重増加のために、女性小像を扱っていたのでしょう。女性小像は女性の望ましい肖像を表しており、その印象には、受胎や不安定な妊娠や出産や育児にまたがる、より健康な母子をもたらす力があります。脂肪の増加は、離乳を通じての妊娠期のエネルギー源と、育児に必要なエネルギー源の両方を提供します。

 体脂肪の増加は、氷河に近い北緯49度から北緯52度の旧石器時代ヨーロッパでは、適応的戦略だった可能性があります。肥満の促進により、小さな狩猟採集民のバンドの生存可能性が高まりました。子供を離乳させるには、子供1人あたり2回の北極圏のような冬に耐える必要があります。女性は男性よりも多くの脂肪を必要とし、その体脂肪率は、月経を支える場合は約17%、理想的な妊娠を支える場合は約22%です。食料がない場合、平均的な身体サイズの女性は、子供の出産と3ヶ月以上の母乳育児に必要なカロリーのために、16kgの脂肪を必要とします。体脂肪が少ないと無月経を引き起こす可能性があるだけではなく、母親が母乳育児の能力を失うと、新生児の死亡につながる可能性があります。

 ただ、本論文には限界もあり、測定が写真から行なわれ、円周測定を含められませんでした。さらに、女性小像全ての正確な年代が明らかになっているわけではなく、関連する発見物や考古学的背景に基づいての推測もあります。よりほっそりした女性小像への移行は、南方への移動を表しているかもしれず、とくにスペインでは、気候ストレスと関連しない、文化的変化や民族的下位集団や他の変化を表している可能性もあります。

 まとめると、上部旧石器時代ヨーロッパの環境および栄養ストレスは、肥満の女性小像の出現と相関しています。これは、ヨーロッパの狩猟採集民が、人口を減少させ、身長を低下させ、一部地域では完全な絶滅をもたらした環境ストレス要因に適応したからです。この時期に、女性小像はイデオロギー的道具として出現し、母親の繁殖能力および母親と新生児の生存率を改善するのに役立ちました。したがって、芸術の美意識は、ますます厳しくなる気候条件に順応するために、健康と生存の強調において重要な機能を有していました。


参考文献:
Johnson RJ, Lanaspa MA, and Fox JW.(2021): Upper Paleolithic Figurines Showing Women with Obesity may Represent Survival Symbols of Climatic Change. Obesity, 29, 1, 11–15.
https://doi.org/10.1002/oby.23028

琉球諸島への人類最初の航海

 琉球諸島への人類最初の航海に関する研究(Kaifu et al., 2020)が公表されました。人類史において渡海は100万年以上前から行なわれていましたが、明らかな航海が確認されているのは、現時点では現生人類(Homo sapiens)だけです(関連記事)。現生人類の航海の最古の証拠となりそうなのは、海洋酸素同位体ステージ(MIS)3となる5万年前頃のサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散です。MIS3には、西太平洋における別の航海の証拠も確認されています。それは琉球諸島で、35000年前頃までさかのぼります。琉球列島の近くの海域には南方からの黒潮があり、これは世界でも有数の規模と速さを有しています。そのため、人類が琉球諸島へ黒潮により偶然漂着した可能性も指摘されています。

 そこで本論文は、黒潮により人類が南方、その中でも可能性が高い台湾から琉球諸島へ到達した可能性があるのか、1989~2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した、138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査しました。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮により北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20km以内に入っていました。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流しましたが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみで、これは台風の影響によるものでした。

 問題となるのは、現代よりも気温が低かったMIS3には、海面が現在より低く、地形が現在とは違うことです。海面変動の影響を調査した研究には違いも見られますが、本論文は、さまざまな調査結果を考慮して、黒潮の流れは過去10万年間、少なくとも東シナ海の入口では変わっておらず、その北方でも同様だっただろう、と推測します。ただ本論文は、黒潮の強度に関しては、過去と現在とで異なっている可能性も、異なっていない可能性もある、と指摘します。これらの知見から本論文は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率は低い、と推測します。つまり、35000年前頃に人類が琉球諸島へと到達するには、黒潮を意図的にわたった可能性が高い、というわけです。また本論文は、台湾から琉球諸島へ到達した人々が、故地に戻って来た可能性も指摘します。

 本論文の見解は興味深いものの、過去の地形と黒潮や風の影響に関しては今後さらに調査が進み、検証されていく必要があるとは思います。琉球諸島への人類最初の移住に関しては、形態やミトコンドリアDNA(mtDNA)の研究が進められています(関連記事)。そうした研究では、更新世における琉球諸島最初期の人類は南方から到来し、現代人も含めて完新世人類集団とのつながりは明確ではないというか、どちらかというと否定的に考えられているようです。

 おそらく、琉球諸島最初の人類は、現代人ではアンダマン諸島集団、更新世~完新世の人類ではアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団と近縁な集団(ユーラシア東部南方系統)だったのでしょう。あるいは、オーストロネシア語族集団の主要な祖先となったアジア東部南方系統か、両者の混合系統だったかもしれません。この琉球諸島最初の人類集団と現代人との関係については、更新世琉球列島の人類の核ゲノムデータが得られるまで、断定を避けておくのが妥当だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:旧石器時代に、水平線の彼方の琉球諸島へ船出した現生人類

 現生人類は、航海に出た時点で琉球諸島は見えていなかったにもかかわらず、意図的に海を渡って琉球諸島に移住したと考えられることを示した論文が、Scientific Reports に掲載される。

 人類は、旧石器時代(3万5000~3万年前)に台湾東部から海を渡って琉球諸島に移住したと考えられている。しかし、琉球諸島にたどり着いたのは黒潮による偶発的な漂流の結果なのか、計画的な船旅だったのかが明らかになっていなかった。黒潮は、フィリピンのルソン島沖から台湾沖を経由して日本へ流れ込んでいる。

 今回、東京大学の海部陽介(かいふ・ようすけ)たちの研究チームは、黒潮による偶発的な漂流によって人類が琉球諸島に到達した確率を調べるため、1989〜2017年に台湾沖またはルソン島北東沖を漂流した138個の衛星追跡ブイの軌跡を調査した。台湾沖を漂流した122個のブイのうち、114個は黒潮によって北上し、そのうち3個は悪天候の中、琉球諸島中部と南部から20キロメートル以内に入っていた。また、ルソン島沖を漂流した16個のブイのうち13個が黒潮に乗って漂流したが、琉球諸島に向かって移動したのは1個のみであり、これは台風の影響によるものだった。黒潮の流れは10万年前から変わっていないと考えられていることから、今回の研究結果は、漂流船に乗った人類が黒潮による偶発的な漂流によって琉球諸島に到達する確率が低いことを示している。以上の知見は、約3万5000年前に人類が琉球諸島に移住するために、世界で最も強い海流の1つである黒潮を意図的に横切ったことを示唆している。

 琉球諸島の中で台湾東部に最も近い与那国島は、台湾の海沿いの山々から時々しか見ることができない。海部らは、人類が、船旅の後半になって初めて視野に入ってくるような島々に向かって航海したと考えている。



参考文献:
Kaifu Y. et al.(2020): Palaeolithic voyage for invisible islands beyond the horizon. Scientific Reports, 10, 19785.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-76831-7

ネアンデルタール人と現生人類の握り方の違い

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)の握り方の違いに関する研究(Bardo et al., 2020)が公表されました。化石人類の手の形態は、操作能力との関連で注目されてきました。化石人類で手の遺骸が多く残っているのは現生人類とネアンデルタール人ですが、ネアンデルタール人に関しては、その頑丈な指骨から、「パワーグリップ(ハンマーのような物体を親指以外の4本の指と手の平で包み込み、親指が力を制御して物体をつかむ方法)」に適していた可能性が指摘されています。一方で、手の筋肉の付着領域の分析からは、ネアンデルタール人と、仕立て屋や靴屋のような「精密グリップ(親指とその他の指の指先に挟むように物体をつかむ方法)」を必要とする現代人との類似性が指摘されています(関連記事)。

 本論文はこの問題に関して、「大菱形中手骨複合体」と総称される、親指の動きを司る複数の骨の間の関節をマッピングし、5人のネアンデルタール人5個体(フランスとイスラエルとイラク、75000~43000年前頃)と、更新世の現生人類5個体(フランスとイスラエル、95000~19000年前頃)と、現代人50個体を、3次元解析により比較しました。その結果、大菱形中手骨複合体の関節の形状と相対的な向きが共変動する、と明らかになりました。

 これは、ネアンデルタール人と現生人類では親指の反復的な動きが異なることを示唆しています。ネアンデルタール人の親指の付け根の関節は、より偏平で、接触面が小さく、手の側面に沿って配置された親指に適しています。この親指の姿勢は、現生人類が柄付き工具をつかむために用いるパワーグリップを、ネアンデルタール人が日常的に用いていたことを示唆しています。これに対して、この関節面では現代人の親指の方が一般的に大きくてより湾曲しており、これは、物体を親指とその他の指の腹で挟み込んでつかむ精密グリップに適しています。ネアンデルタール人の形態は力をこめて握るパワーグリップにより適していますが、ネアンデルタール人は精密グリップの姿勢も取れたと考えられます。ただ、そうすることが現生人類より難しかっただろう、と推測されます。

 しかし、ネアンデルタール人5個体の間では個体差があり、近東、とくにイスラエルのケバラ(Kebara)遺跡の個体(Kebara 2)に関しては、精密グリップの習慣的な使用が示唆されています。ネアンデルタール人個体間でケバラ2と最も大きく異なるのが、フランスのルレゴードゥ(Le Régourdou)遺跡の個体(Le Régourdou 1)です。これは、同じムステリアン(Mousterian)技術でも、ケバラ遺跡では加工された剥片がほとんどなく、ルレゴードゥ遺跡と比較してより長い剥片が豊富にあることと関連しているのではないか、と指摘されています。

 また、更新世現生人類の形態変異の範囲は、現代人とネアンデルタール人の中間で、ネアンデルタール人に最も近いのは、95000年前頃のイスラエルのカフゼー(Qafzeh)遺跡の個体(Qafzeh 9)でした。カフゼーの初期現生人類と近東のネアンデルタール人は同時代に存在し、どちらも石器技術はムステリアンです。ただ、カフゼー9の手の形態に関する以前の分析では、ネアンデルタール人よりも細かく正確な指の動きを頻繁に用いていた可能性が示唆されています。カフゼー9以外の更新世現生人類4個体は全て3万年前頃以降となり、カフゼー遺跡のムステリアン技術とは異なり、石刃を多用した技術が用いられています。ネアンデルタール人と現生人類の手の化石の形態を比較することで、現生人類の古代の近縁種の行動や初期の道具の使い方に関する新たな知見を得られる可能性があります。

 また本論文は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関連でも注目されます。デニソワ人は、まだ断片的な遺骸しか発見されていませんが、常染色体ゲノムでは明らかに現生人類よりもネアンデルタール人の方と近縁です(関連記事)。しかし、デニソワ人の手の小指の骨はネアンデルタール人よりも現生人類の方と類似しており、ネアンデルタール人の形態は、デニソワ人と分岐後に進化した派生的なものである可能性が指摘されています(関連記事)。デニソワ人の保存状態良好な手の化石が発見されれば、ネアンデルタール人や現生人類とも本論文のような比較が可能になるでしょうから、今後の研究の進展が期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ネアンデルタール人の親指は、柄付き石器を握ることに適していた

 ネアンデルタール人の親指は、現生人類がハンマーを握るのと同じように、石器を握ることによく適応していたことを報告する論文が、Scientific Reports に掲載される。この知見は、ネアンデルタール人にとっては、「精密グリップ」(親指とその他の指の指先に挟むように物体をつかむ方法)が、「パワーグリップ」(ハンマーのような物体を親指以外の4本の指と手の平で包み込み、親指が力を制御して物体をつかむ方法)よりも難しかった可能性を示唆している。

 今回、Ameline Bardoたちの研究チームは、3次元解析を用いて、5人のネアンデルタール人個体の親指の動きをつかさどる複数の骨(「大菱形中手骨複合体」と総称される)の間の関節をマッピングし、その結果を5人の初期現生人類の遺体と50人の現代の現生人類の成人から得られた測定結果と比較した。

 Bardoたちは、大菱形中手骨複合体の関節の形状と相対的な向きが共変動することを見いだした。これは、ネアンデルタール人と現生人類では親指の反復的な動きが異なることを示唆している。ネアンデルタール人の遺体の親指の付け根の関節は、より偏平で、接触面が小さく、手の側面に沿って配置された親指に適している。この親指の姿勢は、現生人類が柄付き工具をつかむために用いるパワーグリップをネアンデルタール人が日常的に用いていたことを示唆している。これに対して、この関節面は現代の現生人類の親指の方が一般的に大きく、より湾曲しており、これは物体を親指とその他の指の腹で挟み込んでつかむ精密グリップにとって都合が良い。

 Bardoたちは、今回解析したネアンデルタール人の形態は力をこめて握るパワーグリップにより適しているが、ネアンデルタール人は精密グリップの姿勢も取れたと考えられ、ただ、そうすることが現生人類より難しかっただろうと述べている。

 ネアンデルタール人と現生人類の手の化石の形態を比較することで、現生人類の古代の近縁種の行動や初期の道具の使い方に関する新たな知見が得られる可能性がある。



参考文献:
Bardoh A. et al.(2020): The implications of thumb movements for Neanderthal and modern human manipulation. Scientific Reports, 10, 19323.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-75694-2

大河ドラマ『麒麟がくる』第35回「義昭、まよいの中で」

 1571年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)秋、比叡山延暦寺攻めの功績で織田信長から近江に領地を与えられた明智光秀(十兵衛)は、坂本に城を築いていました。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は光秀を訪ね、信長の命を伝えます。信長は幕府の奉公衆を処罰してまで、天皇や公家の財政を安定させるよう、藤吉郎と光秀に命じていました。信長はすでに、幕府よりも朝廷を重視するようになっていました。幕府を支えてこそ世が治まるという光秀に、幕府をもう見限るべきではないか、と藤吉郎は指摘します。

 摂津晴門は、幕臣でありながら信長寄りの光秀を殺害しようと計画します。細川藤孝から自身の暗殺計画を知らされた光秀は、本国寺で襲撃されつつも強引に足利義昭と面会し、摂津たち幕府の古いものを捨て去るよう進言します。義昭は、信長の勝手にさせるのか、と反論しますが、そうならないよう自分が導く、と光秀は訴えます。三淵藤英は光秀に加担し、義昭の命で摂津晴門は失脚に追い込まれます。義昭は光秀に、信長とは性が合わない、光秀や三淵藤英が頼りだ、と訴えるように言います。

 今回は、光秀と義昭というか将軍・幕府との関係において重要な話となりました。光秀は相変わらず幕府・将軍を支える意思を示しますが、藤吉郎に幕府を見限るよう指摘され、強く否定しませんでした。光秀も内心では迷いが生じているのでしょうが、最終的な決断は次回描かれるようです。ただ、光秀は義昭を見限っても、幕府への想いは捨てきれず、それが本能寺の変と関わってくる、という話になるのかもしれません。今回新たに登場したのは三条西実澄で、正親町天皇と光秀をつなぐことになります。朝廷の要人にここまで焦点が当てられるということは、本能寺の変で朝廷が重要な役割を果たすのでしょうか。

『卑弥呼』第52話「擁立」

 『ビッグコミックオリジナル』2020年12月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハがナツハに自分の世話を命じ、ナツハが不敵な笑みを浮かべるところで終了しました。今回は、山杜(ヤマト)が暈(クマ)から独立し、筑紫島の諸王との和議交渉が成立して、山社に筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)の諸王と伊岐(イキ、現在の壱岐でしょう)および津島(ツシマ、現在の対馬でしょう)の王も集まり、祝宴が開催されている場面から始まります。百年ぶりの平和ということで、人々は喜んでいるようです。筑紫島の諸王と伊岐および津島の王はヤノハを日見子(ヒミコ)と認め、倭の王として擁立する、と誓います。ヤノハは那(ナ)のトメ将軍に、ミマアキとともに豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の日下(ヒノモト)の国を探索するよう、命じていましたが、那は韓(カラ、朝鮮半島を指すのでしょう)への航路には通じていても、穴門(アナト、現在の山口県でしょうか)の関(関門海峡でしょうか)を通過する航路をよく知らないため、那のウツヒオ王は都萬(トマ)のタケツヌ王に、舟の貸し出しを依頼していました。

 その頃、ヒルメに依頼された夜萬加(ヤマカ)のシカオという刺客が、鞠智彦(ククチヒコ)とその配下に見つかり、殺されました。鞠智彦たちは荒爪山(アラツメヤマ)のヒルメを訪れ、閼宗(アソ)でヤノハを襲撃するよう、シカオに命じた件でヒルメを問い質します。ヤノハとは密かに和議を結んでいるので、暈に疑いが及ぶのは迷惑だ、と鞠智彦に内情を語られたヒルメは、ヤノハを殺そうとしたのではなく、その化けの皮が剥がそうとする策略だった、と言って鞠智彦に土下座して赦しを乞いますが、鞠智彦はヒルメを殺そうとします。ヤノハは7ヶ国(筑紫島の5ヶ国と伊岐おおよび津島)からに信頼を得て、民からは現人神としてあがめられており、真偽はともかく日見子以外の何者でもなく、ヒルメの策をじっくり聞きたいが時間はない、と言ってヒルメを殺そうとします。そこへ、麓から大勢の邑人と無数のイヌが押し寄せている、との報告が入ります。早急にヒルメを殺して脱出しよう、と鞠智彦の部下は進言しますが、ヒルメは、ヤノハが自滅すれば秘密の和議も必要ないだろう、と鞠智彦に訴えます。自分の策が奏功すればヤノハは神通力を失い、日見子の座より引きずり降ろされるはずだ、とヒルメは鞠智彦に説明します。そうすれば、山社と同盟を結ぶ7ヶ国の王の心は折れ、鞠智彦は労さずして筑紫島を支配できるだろう、というわけです。

 霊霊(ミミ)川(現在の宮崎県を流れる、古戦場で有名な耳川でしょうか)の河口では、眠れないミマアキにトメ将軍が声をかけます。ミマアキは、自分がいない今、ヤノハの警固は大丈夫なのか、心配していました。ヤノハは現人神ゆえに、人には降りかからない禍が襲うのではないか、というわけです。山社での祝宴が終わり、ウツヒオ王を最後に諸国の王は帰国します。朝餉を運んできたナツハを、覚えが早いとヤノハは褒め、ナツハは笑顔を浮かべます。俯いたナツハが、首尾よくいけば1年後、ナツハは民の怒りのなか、八つ裂きにされる、とのヒルメからの指示を思い出し、不敵な笑みを浮かべるところで今回は終了です。


 今回は、ヤノハを追い落とすヒルメの策が少し明かされました。ヒルメの策は、1年をかける長期的なもので、ヤノハの日見子としての権威を失墜させ、首尾よくいけば怒った民に八つ裂きにされる、とのことです。この策がどのようなものなのか、私には予測困難ですが、『三国志』によると、王となってからの卑弥呼(日見子)と会った人はきわめて少ないと見えるので、それと関連しているかもしれません。食事に毒を少量ずつ混ぜたり、犬や狼に襲わせたりするなどして、容貌など外見に現人神とは人々が認めなくなるような変化を生じさせる、というような策が想定されます。しかし、ヤノハはほとんど人前に姿を見せないことで、危機を切り抜けるのかもしれません。また、ナツハはヤノハの弟のチカラオと考えられますが、それが両者の関係にどう影響してくるのか、という点も注目されます。これまで、ヤノハがそれに気づいていることを示唆する描写はありましたが、ナツハの方にはそうした描写が全くないように思います。ナツハは姉の顔を忘れてしまったとも、それとも賊に郷里を襲われて姉と生き別れになったことで姉を恨んでおり、母のように慕うヒルメの策の遂行に躊躇いがまったくない、とも考えられます。もっとも、両者が姉弟とはまだ確定していないので、これは的外れな憶測かもしれません。今後しばらくは、ヤノハとナツハとの関係と、日下へと向かったトメ将軍とミマアキの動向が注目されます。

原口泉『明治維新はなぜ薩摩からはじまったのか』

 パンダ・パブリッシングより2015年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、薩摩藩が幕末に大きな影響力を有するに至ったことに関して、18世紀にまでさかのぼって検証しています。本書は、薩摩藩が組織として動いたからこそ幕末に大きな影響力を有した、という視点から、家老、とくにそのうちの二人に注目しています。一人は幕府の命により行なわれ、薩摩藩にとって未曾有の負担となった18世紀半ばの木曽川治水工事を担当した平田靱負で、もう一人は19世紀前半に藩財政を立て直した調所広郷です。

 本書は薩摩藩が幕末に大きな影響力を有した一因として、藩が大きく分裂しなかったことを挙げます。もちろん薩摩藩でも政争はありましたが、島津斉彬の融和策により分裂が深化・固定化しなかった、と本書は指摘します。本書は幕末において薩摩藩が大きな影響力を有したのは、家老の小松帯刀の功績が大きかった、と指摘します。さらに本書は、小松の功績は幕末の薩摩藩に特有なのではなく、江戸時代の薩摩藩には名家老の系譜があった、と指摘します。それが、伊勢貞昌や平田や調所だった、というわけです。とはいえ、粛清された家老も少なくありませんでしたが。また本書は、幕末において薩摩藩が大きな影響力を有した一因として、琉球との関係や欧米の到来への対応などで、ペリー来航以前から外交経験を積んでいたことも指摘します。

 18世紀半ばの木曽川治水で功績を挙げた平田は、明治時代までほぼ忘れられた人物となっていました。その要因は、幕府が薩摩藩に命じたため、建前では幕府の仕事とされていたことにあります。しかし、地元の人々は薩摩藩と平田の功績をずっと語り継いでおり、明治時代以降に平田は顕彰されました。平田は、治水工事とその残務処理が終わった直後に死亡します。史料には病死とありますが、自害だろう、と本書は推測します。平田は、多くの薩摩藩士を死なせ(切腹した者が多くいました)、費用が見積りをはるかに超えたことに対して、責任を取ったのだろう、というわけです。幕府が薩摩藩にこのような難工事を命じたのは、薩摩藩を警戒しており、その力を削ぐためだった、と本書は指摘します。

 調所は、木曽川治水工事などで悪化した薩摩藩の財政を立て直しました。調所は行政・農政・軍政の改革も進め、幕末において薩摩藩が大きな影響力を有する基盤を築きました。しかし、調所は琉球との密貿易などの責任を取らされて自害に追い込まれ、御家騒動で島津斉彬と敵対し、西郷隆盛に敵視されたこともあり、極悪人として語られてきました。調所は下級武士の家に生まれ、茶坊主の家に養子に入り、主君の島津重豪に重用されて出世していきます。調所の改革は商人や家中から強い反発を招来しましたが、重豪と斉興という独裁的な君主に深く信頼され、長期にわたる改革が可能となりました。本書は、調所の改革が大きな実績を残した理由として、民間の活力を上手く引き出したことも挙げています。しかし、やはり改革への反発は大きく、浪費で藩財政を悪化させた重豪と同じ傾向を斉彬に見出だし、斉彬とは不和だったことから、斉彬が家督を継承した後、調所は自害に追い込まれます。しかし本書は、斉彬の功績の基盤は調所の改革にあった、と調所を高く評価しています。

 小松は西郷隆盛や大久保利通ほどの知名度はありませんが、本書は幕末における功績を高く評価します。小松が過小評価された一因として、賞典録が西郷や大久保よりも低かったこともありますが、これは王政復古の大号令に小松が直接関わっていなかったからで、外交や西郷など優秀な人物に活躍の場を与えたことなど、幕末における小松の功績は大きかった、と本書は指摘します。本書は、王政復古の大号令から明治政府成立とその後の展開(明治維新)を必然視して、そこから逆算しての人物評価を「薩長史観」と批判します。また本書は、小松が自分を信頼した徳川慶喜や島津久光であっても、大事な局面で切り捨てたり、駒として利用したりするような冷徹なところもあった、と指摘します。

カンブリア紀前期の真節足動物

 カンブリア紀前期の真節足動物エピに関する研究(Zeng et al., 2020)が公表されました。真節足動物類の初期進化の解明は、後生動物の進化における最大の難問の一つです。カンブリア紀(約5億4100万年~4億8500万年前)のきわめて保存状態が良好な化石の数々から、この進化過程の解明に重要となる古生物学的データが得られており、系統発生学的研究からは、放射歯類(アノマロカリス類)が、頭部の第2体節に最前部付属肢(frontalmost appendage)を有する全ての真節足動物(これらはまとめてdeuteropod類と呼ばれます)に最も近縁な分類群である、と明らかにされています。しかし、カンブリア紀の主要な真節足動物群の間の相互関係については議論が続いており、放射歯類とdeuteropod類の間の進化的空白の理解が妨げられています。

 この研究は、中国雲南省のカンブリア紀前期とされる澄江生物相に由来する新属新種の真節足動物(Kylinxia zhangi)について報告しています。この名称は、中国の神話に登場するキメラ動物「麒麟」 とエビを意味する中国語との組み合わせに由来します。Kylinxiaは、融合した頭楯(head shield)、完全に体節化した(fully arthrodized)胴、関節を有する内肢といったdeuteropod類の特徴だけでなく、バージェス頁岩から発見されたオパビニア(Opabinia)に見られるような5個の眼と、放射歯類に似た捕獲用の最前部付属肢を併せ持ちます。系統発生学的な再構築の結果、Kylinxiaは放射歯類とdeuteropod類をつなぐ移行的タクソン(分類群)として位置づけられました。また、最も基部に位置するdeuteropod類は、祖先形質的な捕獲用の最前部付属肢を特徴とし、Kylinxia、大付属肢類(megacheiran)、汎鋏角類(panchelicerate)、「大付属肢」を持つ二枚貝型の真節足動物、イソキシス類(isoxyid)を含む、側系統に位置づけられました。

 この系統発生学的な樹形は、放射歯類と大付属肢類の最前部付属肢が互いに相同で、鋏角類の鋏角が大付属肢類の大付属肢を起源としており、大顎類(mandibulate)の感覚触角が祖先的な捕獲用付属肢に由来する、という見解を支持しています。このように、Kylinxiaによって、初期の真節足動物類の間の系統発生学的な関係、最前部付属肢の進化的変遷および相違、このクレード(単系統群)におけるきわめて重要な進化的新機軸の起源についての、重要な手がかりがもたらされました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


進化学:エビに近い大きさのキメラ節足動物がもたらす進化の新知見

 節足動物の異なる分類群の特徴(例えば、5個の眼がついた眼柄)を合わせ備えた体の構造を持つ節足動物の化石の発見を記述したDiying Huangたちの論文が、今週、Nature に掲載される。この節足動物種は、Kylinxia zhangiと名付けられた。この名称は、中国の神話に登場するキメラ動物「麒麟」 とエビを意味する中国語を組み合わせて作られた。K. zhangiは、進化的形質転換とカンブリア紀前期の節足動物間の関係についての理解をさらに深めている。

 節足動物の初期進化を解明することは、進化生物学の課題の1つになっている。カンブリア紀(約5億4100万年~4億8500万年前)の保存状態の良い化石によって、ある程度の知見が得られているが、カンブリア紀の節足動物の主要分類群間の関係は不明のままだ。

 この論文には、中国雲南省の(カンブリア紀前期のものとされる)澄江生物相で発見され、これまでに報告されていない6件の節足動物種の化石標本が記述されている。この化石は、エビに近い大きさで、さまざまな節足動物の特徴を兼ね備えている。具体的には、バージェス頁岩で発見された謎の生物Opabinia regalisに見られる頭部と連結した5個の有柄複眼、アノマロカリスなどの捕食者が有する獲物を捕まえるための2つの大きな前部付属肢、そして、これとは別の絶滅した捕食性節足動物の分類群である大付属肢節足動物に似た体の構造があった。K. zhangiがこうしたキメラ形態を有していたことは、いろいろな節足動物の分類群への移行型種であった可能性のあることを示唆している。

 また、系統発生解析の結果から、K. zhangiの前部付属肢と鋏角亜門(節足動物の亜門でサソリが含まれる)の口の前にある付属肢と大顎亜門(ハチなどの昆虫を含む分類群)の触角の間に類似性があることが示唆されている。Huangたちは、このような進化的新機軸の起源に関する知見を得る上でK. zhangiが役立つと結論付けている。


古生物学:放射歯類様の捕獲用付属肢を有するカンブリア紀前期の真節足動物

古生物学:カンブリア紀の中間的な節足動物

 カンブリア紀の海は節足動物(関節のある付属肢を持つ動物)であふれていた。カンブリア紀の節足動物の多くは現在の基準からすると奇妙だが、最も奇妙な動物であっても現生の節足動物との関係性をうかがうことができる。今回H Zengたちは、中国南部の澄江動物相に由来する新種の節足動物化石Kylinxia zhangiを記載報告している。この節足動物はサイズが小型のエビほどで、バージェス頁岩から発見された有名なオパビニア(Opabinia)に見られるような眼柄を伴う眼を5個、そしてアノマロカリス類(Anomalocaris)などの捕食者と同様の前部大付属肢を2本持ち、遊泳用の肢を多数備えていた。Kylinxiaは、放射歯類(アノマロカリス類)と、より派生的な節足動物群であるdeuteropod類との間の形態的中間種であるようだ。今回の系統発生学的解析からは、鋏角類(クモ類やサソリ類など)の鋏角と、一部の絶滅節足動物が獲物の捕獲に用いていた「大付属肢」の間の相同性も示唆された。



参考文献:
Zeng H. et al.(2020): An early Cambrian euarthropod with radiodont-like raptorial appendages. Nature, 588, 7836, 101–105.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2883-7

渡りをする鳥類と哺乳類の生活史戦略

 渡りをする鳥類と哺乳類の生活史戦略に関する研究(Soriano-Redondo et al., 2020)が公表されました。渡りには多大なコストがかかるにも関わらず、毎年、数十億匹の動物が渡りをします。しかし、渡りをする動物種としない動物種で、生活史戦略(寿命や成長速度や出生率など)にどのような違いがあるのかは、明らかになっていません。この研究ムは、進化史と体サイズと地理的位置を調整した後、700種以上の鳥類と540種以上の哺乳類を比較して、渡りと生活史がどのように関連しているのか、調べました。

 その結果、渡りを行なう動物種は、渡りを行なわない近縁種よりも生活のペースが速い、つまり、寿命が短く、成長が早く、より多くの子孫をより短期間で産出する、と明らかになりました。この結果は、渡りに伴う時間やエネルギーやリスクと、生物の生存・繁殖への投資がトレードオフ(交換)の関係にあることを予測した、これまでの研究を支持するものです。また、この研究は、遊泳種と歩行種の中で渡りをする種は体サイズが大きく、飛翔種(コウモリや大部分の鳥類)の中で渡りをする種は体サイズが小さい傾向にあることも明らかにし、この理由が、遊泳・歩行種と飛翔種では、渡りのエネルギーコストが体サイズによって異なるためである、と示唆しています。

 この研究は、哺乳類と鳥類の包括的分析により得られた以上の知見が、環境の変化による影響を受ける可能性の高い生物種を予測する上で重要な意味を持つ可能性がある、と結論づけており、研究が比較的進んでいない爬虫類や両生類や昆虫類などの渡りを行なう生物種の研究を強化するよう、提言しています。第六の大量絶滅が進行中と言われている現在、動物保護の観点からも注目される研究だと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生態学:渡りをする鳥類と哺乳類は生活のペースが速い

 渡りをする哺乳類と鳥類は、渡りをしない近縁種と比べて生活のペースが速い、つまり、寿命が短く、成長が早く、より多くの子孫をより短期間で産出することを包括的分析によって明らかにした論文が、Nature Communications に掲載される。この知見は、異なる生活史を持つ鳥類や哺乳類が環境の変化にどのように応答するかを予測する上で重要な意味を持つ可能性がある。

 渡りには多大なコストがかかるにもかかわらず、毎年、数十億匹の動物が渡りをする。しかし、渡りをする動物種としない動物種で、生活史戦略(寿命、成長速度、出生率など)にどのような違いがあるのかは明らかになっていない。

 今回、Stuart Bearhop、Andrea Soriano-Redondoたちの研究チームは、進化史、体サイズ、地理的位置を調整した後、700種以上の鳥類と540種以上の哺乳類を比較して、渡りと生活史がどのように関連しているかを調べた。その結果、渡りを行う動物種は、渡りを行わない近縁種よりも生活のペースが速いことが分かった。この結果は、渡りに伴う時間、エネルギー、リスクと、生物の生存・繁殖への投資がトレードオフの関係にあることを予測したこれまでの研究を支持するものである。また、Bearhopたちは、遊泳種と歩行種の中で渡りをする種は体サイズが大きく、飛翔種(コウモリや大部分の鳥類)の中で渡りをする種は体サイズが小さい傾向があることを明らかにし、この理由が、遊泳・歩行種と飛翔種では、渡りのエネルギーコストが体サイズによって異なるためであると示唆している。

 Bearhopたちは、今回得られた知見は、環境の変化による影響を受ける可能性の高い生物種を予測する上で重要な意味を持つ可能性があると結論付けており、研究が比較的進んでいない爬虫類、両生類、昆虫類などの渡りを行う生物種の研究を強化するよう呼び掛けている。



参考文献:
Soriano-Redondo A. et al.(2020): Migrant birds and mammals live faster than residents. Nature Communications, 11, 5719.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-19256-0

チベット人におけるデニソワ人由来の高地適応関連遺伝子の歴史

 チベット人における、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に由来する高地適応関連遺伝子の歴史に関する研究(Zhang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。この研究は、昨年(2019年)開催された第88回アメリカ自然人類学会総会で報告されており(関連記事)、まだ査読前ですが、論文として公表されました。

 デニソワ人は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された、現生人類(Homo sapiens)ともネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とも異なる後期ホモ属の分類群で、種区分は未定です(関連記事)。現生人類やネアンデルタール人といったホモ属の各種や、さらにさかのぼってアウストラロピテクス属の各種もそうですが、人類系統の分類群は基本的には形態学的に定義されています。しかし、デニソワ人は人類系統の分類群としては例外的に、遺伝学的に定義された分類群です。

 デニソワ人に関しては、多くの問題が未解決です。たとえば、外見や地理的範囲や現代人への詳細な遺伝的影響です。デニソワ人の遺骸は断片的なものがわずかに確認されているだけですが、最近になって、デニソワ洞窟以外にチベット高原にも存在している、と明らかになりました(関連記事)。デニソワ人はネアンデルタール人と近縁な後期ホモ属の分類群ですが、ネアンデルタール人系統との推定分岐年代には幅があり、44万~39万年前頃との研究(関連記事)や、737000年前頃との研究(関連記事)があります。

 デニソワ人に関しては、デニソワ洞窟で発見された1個体(デニソワ3)から、高品質なゲノムデータが得られています(関連記事)。ネアンデルタール人やデニソワ人といった非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と現生人類との交雑は大きな関心を集めており、現代人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は、パプア人とオーストラリア先住民とで1~5%、アジア東部および南部集団で0.06~0.5%、アメリカ大陸先住民で0.05~0.4%と推定されています。

 現代人におけるデニソワ人由来の適応的な候補遺伝子も、少なからず提示されています。その中で最もよく知られているのは、現代チベット人におけるEPAS1遺伝子で(関連記事)、これは高地の低酸素環境への適応を容易にします。チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域の割合は低いので、EPAS1遺伝子はチベット人において選択を受けてきたのではないか、と注目されてきました。一方、パプア人やオーストラリア先住民には、EPAS1遺伝子のデニソワ人由来のハプロタイプは確認されておらず、これはチベット高原のような高地環境におらず、選択圧が作用しなかったためと考えられています。

 チベット高原は平均標高が3500m以上で、酸素濃度が低地よりもかなり低いため、ほとんどのヒトに強い生理学的なストレスをもたらします。低酸素環境への一般的な順応の一つはヘモグロビン濃度の増加で、これは血液の粘度を増加させ、妊娠合併症や心血管疾患のリスク増加と関連しています。チベット人は低地住民と比較して、ひじょうに鈍い順化反応を示し、臨床的には上昇したヘモグロビン濃度に苦しまない傾向にあります。この推定される適応反応は、低酸素応答経路の転写因子をコードするEPAS1遺伝子の多様体と直接的に関連しています。

 デニソワ人の存在がアルタイ山脈のデニソワ洞窟でしか確認されていない時には、デニソワ人の遺伝的影響を受けている現代人が、オセアニアやチベットなどデニソワ洞窟から遠く離れた地域にいることをどう説明するのか、議論となりました。これに関しては、遺伝学においてデニソワ人の複数系統からの異なる遺伝子流動事象の可能性が指摘されたことなどから(関連記事)、デニソワ人の分布範囲は広かったのではないか、と推測されました。上述のように、最近ではチベット高原におけるデニソワ人の存在が確認され、この推測の妥当性が少なくとも部分的には証明されました。

 本論文は、現代チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域を調べ、デニソワ人からの複数の遺伝子移入の痕跡があるのか、そうならば、高地適応と関連するデニソワ人由来のEPAS1遺伝子のハプロタイプは、どの遺伝子移入事象で、いつチベット人の祖先集団にもたらされたのか、このハプロタイプの選択圧はいつ作用したのか、といった問題を検証します。本論文はそのために、以前の研究で公開された78人(そのうち30人が高網羅率の全ゲノム配列)のチベット人のデータセットからEPAS1遺伝子の配列を調べました。

 次に、チベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の領域に関する情報を用いて、デニソワ人からの遺伝子移入と、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子のハプロタイプの選択開始年代が推定されました。また、統合されたデータセットの全ゲノム配列を用いて、他のアジア東部集団と同様に、現代チベット人の祖先集団へのデニソワ人からの遺伝子移入事象が2回起きた、と推測されました。本論文の結果は、アジア東部特有のデニソワ人との混合事象を示し、現生人類における適応的な遺伝子移入パターン形成する、異なる進化的過程の影響を解明します。


●チベット人の祖先における古代型ホモ属からの3回の遺伝子移入事象

 本論文は、チベット人のゲノムにおける古代型ホモ属から遺伝子移入されたと推定される断片を検出するため、SPrimeという手法を用いました。その結果、22対の常染色体全てで、古代型ホモ属に由来する断片が広く確認されました。これら検出された領域のほとんどはネアンデルタール人と高い類似性(80%)を示し、デニソワ人との類似性は低くなっています。一方、ネアンデルタール人との類似性が低く(10%)、デニソワ人との類似性が高い断片も観察されます(50%と80%)。これはデニソワ人から遺伝子移入された断片と推定され、この二峰性分布は、アジア東部におけるデニソワ人的な古代型ホモ属との2回の混合を指摘する仮説(関連記事)と一致しており、そのうちアルタイ山脈のデニソワ洞窟と合致する方は、1回の遺伝子移入事象に由来する、と予想されます。

 EPAS1遺伝子の近くでは、古代型ホモ属からの遺伝子移入と推定される2ヶ所の断片が、EPAS1遺伝子の20万塩基対内の上流と下流で推定され、それぞれアルタイ山脈のデニソワ人とは72%と42%の一致率です。適応的アレル(対立遺伝子)を有するEPAS1遺伝子内で以前に特定された断片は、ナイジェリアのヨルバ人を外群として用いたSPrimeでは検出されませんでした。これは、ヨルバ人がEPAS1遺伝子領域に古代型ホモ属のアレルをわずかに有する、という事実に起因する可能性が高く、ヨルバ人のその領域は、古代型ホモ属との共有系統か、未知の古代型ホモ属との混合か(関連記事)、アフリカからユーラシアへ拡散して古代型ホモ属と交雑した現生人類集団の一部がアフリカへと「逆流した」ことにより起きたかもしれません(関連記事)。

 ただ、ヨルバ人はEPAS1遺伝子にデニソワ人型のハプロタイプを有していませんが、この領域にいくつかの古代型ホモ属由来のアレルが存在すると、SPrimeのようなアルゴリズムを用いての遺伝子移入された領域の検出が妨げられます。じっさい、EPAS1遺伝子にデニソワ人型のハプロタイプを有さないヨーロッパ系集団(CEU)を外群として用いてSPrime分析を繰り返すと、アルタイ山脈のデニソワ人と高い類似性(82.14%)で合致するものの、アルタイ山脈のネアンデルタール人とは低い類似性(28.57%)でしか合致しない、EPAS1遺伝子の中心領域の推定される古代型ホモ属断片は検出されません。この領域では、チベット人においてSPrimeで推定される多様体は、デニソワ人により類似しており、予想されるように、チベット人と漢人との間で高い遺伝的差異化を示します。チベット人における遺伝子移入検出のための外群としてヨーロッパ系集団(CEU)を用いると、以前の観察と同様に合致率のゲノム規模の分布が得られますが、一般に推定される断片は少なく、これらはおもに、ヨルバ人を外群として用いた場合に得られたものの部分集合と示唆されます。以下、デニソワ人と現生人類との複数回の交雑の可能性を示した本論文の図4です。
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●アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入事象によるチベット人祖先にもたらされたEPAS1ハプロタイプ

 上述のように、チベット人における2回のデニソワ人からの遺伝子移入事象と、そのうち1回がアジア東部特有である可能性が示されました。本論文は次に、EPAS1遺伝子において有益なハプロタイプをもたらしたのが、この2回のうちどちらなのか、検証しました。そのため本論文は、EPAS1遺伝子における38人のチベット人の遺伝子移入断片を、デニソワ人との最高の合致率(60%以上)とネアンデルタール人との低い合致率(40%以下)を示す、SPrimeで推定される領域と比較しました。これらの断片は、アルタイ山脈のデニソワ人とより近いデニソワ人集団とのアジア東部特有の遺伝子移入事象経由だった可能性が高く、アジア南部やオセアニアのような他集団では、アルタイ山脈のデニソワ人とのこうした水準の類似性を有する遺伝子移入された断片が欠けています。

 SPrimeは個々の染色体の遺伝子移入断片を推測しないので、チベット人の各ハプロタイプにおけるデニソワ人から遺伝子移入された領域の推測には、隠れマルコフモデル(HMM)が用いられました。EPAS1遺伝子における遺伝子移入された断片は、高いデニソワ人との類似性を示し、最高のデニソワ人との類似性を有する他の断片と似た長さです。EPAS1遺伝子の断片は、領域頻度の点で外れ値にすぎず、これはこの領域に作用する正の選択の予想と一致します。これらの観察に基づくと、チベット人のEPAS1遺伝子のハプロタイプは、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入事象によりもたらされた、と提案されます。

 しかし、単一のデニソワ人のゲノムのみとの高い類似性は、必ずしもデニソワ人に由来する遺伝子移入断片を意味しません。代わりに、ネアンデルタール人に由来するEPAS1遺伝子の有益なハプロタイプの可能性を調べるため、以前に特定されたチベット人の適応的EPAS1ハプロタイプの長さと一致する、重ならない32700塩基対において、デニソワ人とアルタイ山脈およびクロアチアのネアンデルタール人とチンパンジーでD統計を実行することにより、ネアンデルタール人間の分岐の分布が得られました。この分布は予想通り、ネアンデルタール人2個体が相互により遺伝的に関連しているため、1で最も密度が高くなります。チベット人のEPAS1ハプロタイプがデニソワ人ではなくネアンデルタール人によりもたらされた場合、ネアンデルタール人とチベット人のEPAS1ハプロタイプ間の派生的アレルの共有が増えると予想されるので、D値は分布内に位置する、と予想されます。しかし、その代わりに、EPAS1遺伝子のD値は有意に低いと明らかになり、チベット人のハプロタイプはネアンデルタール人集団に由来せず、チベット人におけるデニソワ人から適応的に遺伝子移入されたEPAS1ハプロタイプが支持される、と示唆されます。


●43000年以上前となるデニソワ人からチベット人へのEPAS1ハプロタイプの遺伝子移入

 次に、現代チベット人の祖先集団とデニソワ人との混合、およびEPAS1遺伝子に作用する正の選択の年代が推定されました。遺伝子移入されたハプロタイプは一般的に、時間の経過とともに断片化するので、混合集団における遺伝子移入された領域の長さの分布をゲノム全体で計算でき、混合年代を推測するのに使用されます。シミュレーションでは予想通り、より最近の混合年代は平均してより長い領域につながる、と示されています。しかし一部の研究では、現在のアレル頻度の1条件であるかどうかに依拠して、選択も遺伝子移入された領域の平均長に影響を及ぼす、と示唆されています。

 そこでシミュレーションにより、現在のアレル頻度を条件付けしない場合、より強い正の選択下で、遺伝子移入された領域の平均長が増加する、と確認されます。これは、正の選択下では、領域がすぐに高頻度に達する一方で、それはまだ長く、組換えにより分断されていないからです。その後、組換えの過程が継続し、ハプロタイプをより多く断片化していくにつれて、組換えが2回の遺伝子移入の領域の合同をもたらす可能性は増加します。換言すると、選択の効果は、遺伝子移入断片間の復帰組換えの可能性を高める、アレル頻度の増加により媒介されます。選択がEPAS1遺伝子多様体に作用したので、このシステムのモデル化では、正の選択と古代型ホモ属との混合の両方を考慮する必要があります。

 混合年代は1741世代前(1世代25年とすると43525年前)と推定され、95%信用区間では60000~15700年前です。推定選択年代は492世代前(12300年前)で、95%信用区間では50000~1925年前です。EPAS1遺伝子のハプロタイプの選択係数は0.018と推定されました。本論文の推定では、デニソワ人からの遺伝子移入事象は、アジア東部特有のもの(43000年前頃)がパプア人系統特有のもの(30000年前頃)よりも古くなります。


●複数の遺伝子に影響を及ぼす古代型ホモ属からの遺伝子移入

 次に、古代型ホモ属からの遺伝子移入に影響を受けた他のゲノム領域が、チベット人において正の選択の兆候を示すのかどうか、調べられました。まず、SPrimeで推定された領域が、他の高地適応候補遺伝子と重複するのかどうか、検証されました。候補遺伝子の中心領域もしくは遺伝子の隣接領域の20万塩基対内と重複する古代型ホモ属由来の断片を有する、11ヶ所の特有の領域が見つかりました。しかし、これらの断片のほとんどは正の選択の兆候を示さず、たとえば、EPAS1およびFANCA遺伝子と関連するアレルを除いて、ほとんどのSPrimeで推定されるアレルは、チベット人と漢人との間で、そのゲノム規模の平均的な遺伝的違いと比較して、有意には区別されませんでした。これは、1番染色体上の高地適応と関連するよく知られた他の遺伝子EGLN1にも当てはまり、遺伝子領域全体で遺伝的違いの増加を示し、ネアンデルタール人に由来するアレルを有しますが、古代型ホモ属由来の多様体が正の選択下にある、という証拠を示しません(古代型ホモ属由来のアレルに関しては遺伝的違いが小さくなっています)。これまでの証拠から考えると、高地適応の観点では、EPAS1遺伝子のみが明確な適応的遺伝子移入の兆候を示します。

 次に、他の生物学的経路が、正の選択を促進した古代型ホモ属の遺伝子移入からの寄与を受けたのかどうか、調べられました。ヨルバ人を外群として用いて、SPrimeから特定された全ての一塩基多型を検討したところ、そのほとんどは、おそらくネアンデルタール人かデニソワ人か他の未知の古代型ホモ属集団に由来する、と示されました。EPAS1遺伝子領域の遺伝子移入された断片は、その例外的に強い選択の兆候が他の経路でより弱い兆候を減少させる懸念から、この分析に含まれません。

 古代型ホモ属から遺伝子移入されたアレルは、ゲノムでモザイク状のパターンで保存されているので、各経路に含まれる遺伝子の古代型ホモ属由来のアレルの濃縮を検出することにより、経路の部分集合で正の選択の微妙な兆候が探されました。その結果、古代型ホモ属由来のアレルが濃縮され、正の選択下にあった可能性が推測される、5経路が特定されました。そのうち2経路は、ともにRHOQ遺伝子を含むインシュリン関連経路です。興味深いことに、この遺伝子はEPAS1遺伝子の下流(155000塩基対)にあります。


●まとめ

 以前の研究では、古代型ホモ属からの遺伝子移入は、現生人類において広範な表現型の変異に寄与し(関連記事)、多くの遺伝子移入された遺伝子は、おそらく正の選択の対象だった(関連記事)、と示されています。本論文は、この適応的遺伝子移入の最も説得力のある事例とされる、チベット人におけるEPAS1遺伝子の配列データを用いて、アジア東部におけるデニソワ人からの遺伝子移入の起源と年代に関する一連の問題に対処しました。

 本論文の結果は、アジア東部におけるデニソワ人的な古代型ホモ属との2回の混合を指摘する仮説(関連記事)を支持し、チベット人におけるEPAS1遺伝子の有益なハプロタイプは、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入に由来し、それはアルタイ山脈のデニソワ洞窟のデニソワ人とより密接に関連したデニソワ人の1集団を含む、と示唆します。EPAS1遺伝子に加えて、古代型ホモ属からの遺伝子移入は、ゲノム全域のさまざまな遺伝子で断片を残しており、低酸素症を含む複数の生物学的経路に影響を及ぼしました。

 本論文は、アジア東部特有のデニソワ人からの遺伝子移入に関する最初の年代推定を提供します。本論文はそれを43000年前頃と推定し、これは、40000年前頃と35000年前頃のアジア東部の早期現生人類個体におけるデニソワ人の遺伝的痕跡を示した研究(関連記事)と一致します。本論文の推定からは、アジア東部特有のデニソワ人との混合事象は3万年前頃となるパプア人特有のデニソワ人との混合事象よりも古く、アジア人およびオセアニア人系統に共有される、45000年前頃となる最初のデニソワ人との混合事象(関連記事)により近い、と示唆されます。

 古代型ホモ属も含むチベット高原における人類の拡散時期に関しては、まだ議論が続いています。中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県の白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)では、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ではデニソワ人系統に分類される16万年以上前のホモ属の下顎が発見されました(関連記事)。また最近、白石崖溶洞の10万年前頃の堆積物からデニソワ人系統のmtDNAが確認されました(関連記事)。

 チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では、4万~3万年前頃までさかのぼる石器が発見されていますが(関連記事)、当時、チベット高原における長期的な人類の居住は稀だった、と考えられています。チベット高原における現生人類の恒久的(通年)居住に関しては、大規模な定住は4000年前頃に始まった農耕により促進された、との見解(関連記事)が有力です。

 しかし、チベット高原における現生人類の恒久的居住は1万年以上前までさかのぼるとの見解もあり(関連記事)、4000年以上前から狩猟採集民の小集団が居住していた可能性もあります。本論文では、EPAS1遺伝子周辺の領域の長さから、アジア東部特有のデニソワ人との混合年代が43000年前頃と推定されており、これはチベット高原における現生人類の恒久的居住のほとんどの推定年代より古くなるので、この混合はチベット高原外で起きた可能性が最も高い、と示唆されます。

 さらに、EPAS1遺伝子の正の選択の推定開始年代が12000年前頃なので、デニソワ人からもたらされたEPAS1遺伝子のハプロタイプは、デニソワ人からの遺伝子移入事象の直後には選択の標的ではなく、おそらくは、後期更新世もしくは早期完新世における、チベット人祖先集団によるアジア東部低地から恒久的なチベット高原への移住と一致している、と示唆されます。上述のように、デニソワ人も含めてより早期のチベット高原における人類の到来の証拠はありますが、そうしたチベット高原の早期人類がどのくらい長くチベット高原で生き残ったのか、また遺伝的に低酸素環境に適応していたのかどうか、また現代チベット人の直接的な祖先なのかどうか、不明です。チベット人系統の古代DNAを報告した研究は一つしかなく(関連記事)、その古代DNAデータはヒマラヤ山脈のネパール側で得られたもので、最古の個体の年代は3150年前頃です。興味深いことに、これら古代の個体のうち、1750~1250年前頃と新しい2人だけで現代チベット人に存在するEPAS1アレルが確認されました。この地域の古代人の将来の研究により、チベット高原の人口史はより細かく解明されていくでしょう。

 以前の研究では、アジアにおけるデニソワ人からの遺伝子移入の年代が推定されていますが、本論文の分析とは複数の違いがあります。まず、アジア東部集団へのデニソワ人からの単一の遺伝子移入に関する推測です。以前の研究では、パプア人もしくはチベット人のゲノムにおけるデニソワ人由来の断片の全てを用いており、アジア東部人への2回のデニソワ人からの遺伝子移入事象(関連記事)の平均なのかどうか、あるいはその推定が遺伝子移入事象の一つにより近いのかどうか、不明です。対照的に本論文は、明らかに選択の標的だった単一の遺伝子データを用いています。これは、ゲノムの小さな局所的領域なので、その断片は単一の混合事象によりもたらされた古代型ホモ属由来のDNAの残りである可能性が高い、という利点があります。次の違いは、選択が領域の長さに影響を及ぼすと示されるので、本論文では推測において正の選択が考慮されていることです。他の推定は中立を前提としており、適応的に遺伝子移入された遺伝子座が、遺伝子移入のゲノム規模の要約統計量からの推定を変えるのか、あるいは偏らせるのか、不明です。たとえば、遺伝子移入された領域の長さの分布や、連鎖不平衡崩壊パターンです。最後に、本論文ではパラメータ推定に近似ベイズ計算が用いられましたが、他の研究では、推定手法も推定にいくつかの違いをもたらす可能性がある、ということです。

 本論文では、いくつかの仮定と選択がなされました。まず、わずかな情報量で、大きな信頼区間で反映される、単一遺伝子の配列データが用いられました。不確実性を減らす一つの方法は、アジア東部人におけるデニソワ人からの遺伝子移入事象によりもたらされた、推定される遺伝子移入断片を用いることかもしれませんが、それは、選択がそれらの各領域にどのように作用するのかに関して、異なる一連の仮定を必要とします。第二に、本論文ではチベット人の単純な人口統計学的モデルが想定されており、より複雑なモデルが本論文の推測にどのように影響を及ぼすのか、不明です。しかし、ボトルネック(瓶首効果)の規模が混合年代にはほとんど影響を有さないことも示されました。第三に、本論文では混合割合が0.1%と仮定されていますが、以前のゲノム規模推定では、アジア東部現代人におけるゲノム規模のデニソワ人系統の割合は、0.06~0.5%です。本論文では、計算効率を確保し、遺伝子移入を受けた集団における有益な変異の最初の喪失の可能性を減らすために、0.1%という推定割合が選択されました。

 本論文では、持続的な古代型ホモ属の変異に作用する選択が変化するという結論は予想されていませんが、より高い混合水準を用いると、持続的な変異の期間は、混合年代のより最近の推定に起因して、減少するでしょう。また本論文では、領域の長さの実際の分布がチベット人においてどのように見えるのか分からず、隠れマルコフモデルを用いて推測されました。隠れマルコフモデルがチベット人における実際の領域の長さをどの程度性格に推測できるのか不明ですが、他の手法でも類似の結果が得られます。隠れマルコフモデルが実際のチベット人の領域の長さを把握できない場合でも、隠れマルコフモデルを実際のデータとシミュレートされたデータの両方に適用することで、同じ偏りが両方で発生し、パラメータ推定値が歪む可能性は低くなる、と期待されます。

 過去10年間で、古代型ホモ属と現生人類との間の遺伝子流動が、現生人類の進化と遺伝的多様性の形成に主要な役割を果たした、と認識され始めました。古代型ホモ属からの多様体の導入は、明らかに複数の集団において地域的環境への適応を促進しました。本論文の結果は、適応的な遺伝子移入はおもに持続的な古代型ホモ属の変異で起きる、という仮説を支持し、他の適応的に遺伝子移入された遺伝子座の分析は、これが適応の起きる主要な形態なのかどうか、明らかにするでしょう。他の古代型ホモ属に由来するゲノム領域を配列し続けると、現生人類における古代型ホモ属からの遺伝子移入の高解像度の全体像が明らかになる、と期待されます。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。本論文は、チベット(関連記事)も含めて、今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究を踏まえねばならない、と思います(関連記事)。それに基づくと、ユーラシア東部への現生人類の拡散の見通しは以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万~5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南東部の古代人では、ホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体がユーラシア東部南方系統に位置づけられます。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。

 現代チベット人の主要な直接的祖先は、遺伝的にはおもにアジア東部北方系統で構成される黄河流域新石器時代集団と推測されます。現代チベット人と現代漢人との遺伝的差異は、漢人がアジア東部北方系統とアジア東部南方系統との新石器時代以降の混合の流れの中で形成され、おもに地理的な南北の勾配として現れるさまざまな割合の混合を示すのに対して、チベット人はこのアジア東部の南北両系統の混合の影響をさほど受けていない(チベット人でも地域によってはアジア東部南方系統の遺伝的影響が一定以上見られます)、と推測されることにあります。

 もう一つの違いは、漢人にはほとんど見られないユーラシア東部南方系統の遺伝的影響が、チベット人には10~20%程度と少ないながら確認されることです。これは、Y染色体ハプログループ(YHg)Dの分布とも関わっていると思います。YHg-Dの現代の分布は、日本人とチベット人において高頻度で、とくにアンダマン諸島人ではほぼYHg-D1aで占められています。日本人のYHg-D1aは、現時点ではYHgがDしか確認されていない「縄文人」に由来すると推測されます。「縄文人」は、アジア東部南方系統(55%)とユーラシア東部南方系統(45%)の混合としてモデル化できます。ホアビン文化の個体でYHg-D1が確認されていますが(関連記事)、ユーラシア東部北方系統およびそこから派生したアジア東部系統の古代DNA研究では、まだYHg-D1は確認されていないと思います。したがって、YHg-D1はユーラシア東部南方系統のみに由来する可能性が高いでしょう。

 上述のように、現代チベット人に見られるデニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプは、デニソワ人とアジア東部人の系統との混合事象に由来し、それはアジア東部の40000年前頃と35000年前頃の早期現生人類個体で確認されます。これは具体的には、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体と、モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950~33900年前頃の女性1個体です。田园個体とサルキート個体は遺伝的に類似しており、田园個体は、ユーラシア東部北方系統でも、そこから派生したアジア東部系統とは早期に分岐した系統と位置づけられます。したがって、アジア東部集団特有のデニソワ人との推定混合年代が43000年前頃であることからも、現代チベット人に見られるデニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプは、デニソワ人とユーラシア東部北方系統集団との混合によりもたらされた可能性が高そうです。

 問題は、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプの選択の推定開始年代が、この混合事象よりもずっと遅い12000年前頃であることです。この問題の手がかりとなりそうなのは、現代チベット人と類似した遺伝的構成のネパールの古代人のDNA研究では、デニソワ人由来のEPAS1遺伝子ハプロタイプが、3150~2400年前頃と2400~1850年前頃の個体では確認されず、1750~1250年前頃の個体で確認されていることです。

 私の知見では、これらを整合的に解釈することは困難です。選択の推定開始年代には幅があるので、実際に始まったのは、黄河流域新石器時代集団がチベット高原へと拡散して恒久的居住を開始し、農耕を定着させた完新世にまで下るかもしれません。あるいは、黄河流域新石器時代集団とよく似た遺伝的構成の集団が、末期更新世もしくは完新世最初期にチベット高原に拡散してきて恒久的居住を開始し、その時点では農耕を伴っていなかったのかもしれません。また、チベット高原でも海抜2500m以上では恒久的居住や農耕開始が遅れたものの、それ以下の地域での恒久的居住はもっと早かったでしょうから、そこで選択が始まったのかもしれません。

 いずれにしても、4万~3万年前頃のチベット高原の(ほぼ間違いなく)現生人類は、絶滅もしくは撤退により、チベット高原における恒久的居住を確立しなかった可能性が想定されます。ただ、本論文も指摘するように、農耕開始前からチベット高原には小規模な狩猟採集民集団が恒久的に居住していた可能性も考えられ、それがおもにユーラシア東部南方系統の遺伝的構成の集団だったのかもしれません。仮にそうだとして、現代チベット人において、常染色体ゲノムでは圧倒的にユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統の影響が強いのに、YHgはユーラシア東部南方系統にのみ由来すると考えられるD1aが高い割合で残っているのは、不可解なことではあります。これは、同じく常染色体ゲノムではアジア東部系統の影響がずっと強いのに、「縄文人」に由来すると考えられるYHg-D1aの割合が高い、本州・四国・九州を中心とする「本土」日本人と類似しています。この問題は、社会構造や集団間の優劣関係など、複数の要因が考えられますが、現時点では私の知見で的確な見解を提示できず、今後さまざまな文献を読んで推測していくつもりです。


参考文献:
Zhang X. et al.(2020): The history and evolution of the Denisovan-EPAS1 haplotype in Tibetans. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.01.323113

避難させたカメの生存可能性と関連するゲノム多様性

 避難させたカメの生存可能性とゲノム多様性に関する研究(Scott et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトの活動や気候変動のために、記録的に多くの生物種が絶滅の危機にさらされており、第六の大量絶滅が進行中とも言われる現在、世界的な課題として多数の保護の取り組みが行なわれています。絶滅に瀕している生物種を保護するための一つの方法として、絶滅に瀕している植物や動物の個体を、局地的に絶滅してしまったか、あるいは減少しつつある地域から、増加を促進するような新たな地域へと移殖する、というものがあります。この方法はますます一般的になりつつありますが、長期にわたり成功することが極めて少ないため、多くの場合は最終手段として取っておかれています。

 この分野で現在進行中の議論は、このような取り組みが、環境が類似した地域にいる個体を選ぶ場合、遺伝的に近い対象個体群から選ぶ場合、あるいは全体的な遺伝的多様性に焦点を当てて選ぶ場合の、いずれが最も成功するのか、というものです。これらの選択のための仮説を検証するため、この研究は、アメリカ合衆国ネバダ州にあるサバクガメ保護センターの移殖場所に移された、カリフォルニア州のモハーヴェ砂漠に生息し、多くはこれまでにペットとして捕獲された、サバクゴファーガメ(Gopherus agassizii)の長期データセットを利用しました。

 この研究は、避難させられて20年間に生存したか死亡した166匹のサバクゴファーガメのゲノムデータを分析し、地理的距離や遺伝的類似性はいずれも移殖後の生存に影響しない、と見いだしました。その代わり、生存成功の最も強い予測因子はヘテロ接合性であり、ゲノム多様性の最も高い個体が、そうでない個体よりもはるかに生存率が高い、と明らかになりました。こうした結果に見られた生存率上昇の背景にある理由を理解するためには、さらなる研究が必要と指摘されていますが、この新たな知見は、現在行なわれている移殖の取り組みの改善方法を示唆するものです。


参考文献:
Scott PA. et al.(2020): Individual heterozygosity predicts translocation success in threatened desert tortoises. Science, 370, 6520, 1086–1089.
https://doi.org/10.1126/science.abb0421