ネオニコチノイド系農薬による鳥類への悪影響

 ネオニコチノイド系農薬による鳥類への悪影響に関する研究(Li et al., 2020)が公表されました。鳥類の生物多様性は急速に低下しています。アメリカ合衆国の鳥類の個体数は1970年以降29%減少しており、これは、農業生産における農薬の使用量の増加など、さまざまな要因があるとされています。ニコチンをベースにしたネオニコチノイド系農薬は、この数十年でアメリカ合衆国での使用量が増加しました。これまでの研究で、ネオニコチノイド系農薬が鳥類などの非標的種に対して毒性を示す可能性が示されています。しかし、ネオニコチノイド系農薬がアメリカ合衆国の鳥類の多様性に与える影響はよく分かっていません。

 この研究は、2008~2014年のアメリカ合衆国の鳥類に対するネオニコチノイド系農薬の影響を調べました。この研究は、北アメリカ大陸鳥類繁殖調査のデータを分析し、鳥類の異なる4種群(草原性鳥類、非草原性鳥類、食虫性鳥類、非食虫性鳥類)の郡レベルの変化を特定し、これを郡レベルの農薬使用量のデータと結びつけました。その結果、ネオニコチノイド系農薬の使用量が郡当たり100kg(平均で12%)増加すると、草原性鳥類の個体数が2.2%、食虫性鳥類の個体数が1.6%減少する、と明らかになりました。これと比較して、非ネオニコチノイド系農薬の使用量100kgに伴う草原性鳥類の減少は0.05%、非草原性鳥類と食虫性鳥類と非食虫性鳥類の減少は0.03%でした。こうした影響は蓄積するので、この研究は、たとえば2008年にネオニコチノイド系農薬が郡当たり100kg使用されたことで、草食性鳥類の累積個体数が2014年までに9.7%減少した、と推定しています。

 これらの知見は、ネオニコチノイド系農薬の使用が重要な鳥類の個体数の減少に比較的大きな影響を与えて、こうした影響は時間とともに大きくなることを示唆しています。この研究はまた、鳥類の個体数に対するネオニコチノイド系農薬の悪影響が、アメリカ合衆国の中西部とカリフォルニア州南部と北部大草原に集中していることも明らかしました。ネオニコチノイド系殺虫剤の悪影響は、すでにハチ(関連記事)や宍道湖の漁業(関連記事)に悪影響を与えている、と明らかになっています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


生物多様性:ネオニコチノイド系農薬が米国の鳥類に悪影響を及ぼす

 米国本土におけるネオニコチノイド系農薬の使用量の増加が、鳥類の個体数に影響を及ぼし、鳥類の多様性を低下させている可能性があることを報告する論文が、今週Nature Sustainability に掲載される。

 鳥類の生物多様性は、急速に低下している。米国の鳥類の個体数は、1970年以降29%減少しており、これは、農業生産における農薬の使用量の増加など、さまざまな要因があるとされている。ニコチンをベースにしたネオニコチノイド系農薬は、この数十年で米国での使用量が増加した。これまでの研究で、ネオニコチノイド系農薬が鳥類などの非標的種に対して毒性を示す可能性が示されている。しかし、ネオニコチノイド系農薬が米国の鳥類の多様性に与える影響はよく分かっていない。

 今回、Madhu Khannaたちは、2008~2014年の米国の鳥類に対するネオニコチノイド系農薬の影響を調べた。Khannaたちは、北米鳥類繁殖調査のデータを分析して、鳥類の4つの異なる種群(草原性鳥類、非草原性鳥類、食虫性鳥類、非食虫性鳥類)の郡レベルの変化を特定し、これを郡レベルの農薬使用量のデータと結び付けた。

 その結果、ネオニコチノイド系農薬の使用量が郡当たり100キログラム(平均で12%)増加すると、草原性鳥類の個体数が2.2%、食虫性鳥類の個体数が1.6%減少することが明らかになった。これに比べて、非ネオニコチノイド系農薬の使用量100キログラムに伴う草原性鳥類の減少は0.05%、非草原性鳥類、食虫性鳥類、非食虫性鳥類の減少は0.03%であった。こうした影響は蓄積するので、Khannaたちは、例えば2008年にネオニコチノイド系農薬が郡当たり100キログラム使用されたことで、草食性鳥類の累積個体数が2014年までに9.7%減少したと見積もっている。今回の知見は、ネオニコチノイド系農薬の使用が重要な鳥類の個体数の減少に比較的大きな影響を及ぼし、こうした影響は時間とともに大きくなることを示唆している。Khannaたちはまた、鳥類の個体数に対するネオニコチノイド系農薬の悪影響が、米国中西部、カリフォルニア州南部、北部大草原に集中していることも見いだしている。



参考文献:
Li Y, Miao R, and Khanna M.(2020): Neonicotinoids and decline in bird biodiversity in the United States. Nature Sustainability, 3, 12, 1027–1035.
https://doi.org/10.1038/s41893-020-0582-x

機能的適応地形から予測される四肢の出現時の陸上での移動能力

 機能的適応地形から予測される四肢の出現時の陸上での移動能力に関する研究(Dickson et al., 2021)が公表されました。四肢類の進化における四肢を使った陸上ロコモーションの獲得は、1世紀以上にわたり議論のテーマとなってきました。水中から陸上へのロコモーションの移行に関する現在の理解はおもに、ティクタアリク(Tiktaalik)、アカントステガ(Acanthostega)、イクチオステガ(Ichthyostega)、ペデルペス(Pederpes)といった少数の典型的な化石に基づいています。しかし、遊離の骨要素によって隠れた機能的多様性が明らかになり、それによりさらに包括的な進化の全体像を得られる可能性があります。

 この研究は、鰭から肢への移行期全体にわたる、絶滅四肢形類(tetrapodomorph)の三次元的に保存された上腕骨40点を分析し、機能的な情報に基づく生態適応地形を用いて、陸上ロコモーションの進化を再構築しました。その結果、上腕骨の形状における進化的変化は生態および系統発生により駆動されたもので、移動性能に関わる機能的トレードオフと関連づけられる、と示されました。また、水生の魚類と陸生のクラウン群四肢類に関して2つの異なる適応地形が明らかになり、これらはそれぞれ、機能的特殊化の異なる組み合わせにより定義づけられました。

 ステム群四肢類の上腕骨には独特な一連の機能的適応が共通して見られますが、これらの上腕骨はそれらから推定される適応の峰とは一致しておらず、ステム群四肢類の上腕骨はクラウン群四肢類の地形の基部に位置づけられます。これは、陸上でのロコモーション能力が四肢の出現とともに生じたことを示しています。この結果は、ステム群四肢類が陸上探索の初期段階において移行的な歩様を用いており、それが水陸両生性の習慣という、相反する選択圧により安定化された可能性を示唆しています。四肢を使った効果的なロコモーションは、クラウン群において祖先的な「L字形」の上腕骨が失われるまで出現せず、これが、陸生四肢類の多様化および現在の生態的ニッチの確立への土台を築いた、と考えられます。


参考文献:
Dickson BV. et al.(2021): Functional adaptive landscapes predict terrestrial capacity at the origin of limbs. Nature, 589, 7841, 473–476.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2974-5

中生代哺乳類の社会性

 中生代哺乳類の社会性に関する研究(Weaver et al., 2021)が公表されました。現在の有胎盤哺乳類には社会性を有するものが多いものの、産卵性哺乳類(単孔類)と有袋哺乳類は相対的に社会性を欠いていることから、哺乳類の祖先は約6600万年前に恐竜が絶滅するまで単独性の生活を送っていた、と考えられてきました。この研究は、アメリカ合衆国モンタナ州で発見された小型哺乳類の骨の堆積物について、異なる世代の複数個体が一緒に埋もれたもので、年代は後期白亜紀のものだった、と報告しています。

 また、これらの骨格は齧歯類サイズの多丘歯類哺乳類の新属のもので、Weaverたちにより「Filikomys primaevus(化石から解釈した行動にちなみ、「友人」や「隣人」を意味するギリシャ語のfilikósに由来)」と命名されました。この多丘歯類哺乳類は穴を掘るのによく適応した強力な肢を有し、これにより最大5匹の複数世代集団で同じ穴に生息していました。この研究は、ウサギのような現生の潜穴性社会性哺乳類の行動に基づき、この化石個体には血縁関係があったのではないか、と推測しています。この研究は、これらの化石が7500万年以上前の哺乳類の社会性行動を示す証拠になる、と結論づけています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


古生物学:古代の齧歯類様の化石から哺乳類の初期の社会性行動が示唆された

 7550万年前のものとされる齧歯類様の多丘歯類哺乳類の化石標本に、同じ穴に生息していた複数個体の骨格が含まれていたことから、中生代には哺乳類に社会性があった可能性が示唆された。この知見について報告する論文が、今週、Nature Ecology & Evolution に掲載される。

 現在の有胎盤哺乳類には社会性を有するものが多いが、産卵性哺乳類(単孔類)と有袋哺乳類は相対的に社会性を欠いていることから、哺乳類の祖先は約6600万年前に恐竜が絶滅するまで単独性の生活を送っていたと考えられてきた。

 今回の論文で、Lucas Weaverたちの研究チームは、米国モンタナ州で発見された小型哺乳類の骨の堆積物について、異なる世代の複数個体が一緒に埋もれたもので、年代は後期白亜紀のものと記述している。また、これらの骨格は齧歯類サイズの多丘歯類哺乳類の新属のもので、WeaverたちによってFilikomys primaevus(化石から解釈した行動にちなみ、「友人」や「隣人」を意味するギリシャ語のfilikósに由来)と命名された。F. primaevusは穴を掘るのによく適応した強力な肢を有し、これによって最大5匹の複数世代集団で同じ穴に生息していた。Weaverたちは、ウサギのような現生する潜穴性の社会性哺乳類の行動に基づき、この化石個体には血縁関係があったのではないかと考えている。

 Weaverたちは、これらの化石が7500万年以上前の哺乳類の社会性行動を示す証拠になるものと結論付けている。



参考文献:
Weaver LN. et al.(2021): Early mammalian social behaviour revealed by multituberculates from a dinosaur nesting site. Nature Ecology & Evolution, 5, 1, 32–37.
https://doi.org/10.1038/s41559-020-01325-8

更新世の氷期の海洋循環を再編成する南極氷山

 南極氷山による更新世の氷期の海洋循環の再編成に関する研究(Starr et al., 2021)が公表されました。現代の海洋における大規模な水塊の移動の支配的な特徴は、大西洋子午面循環(AMOC)です。この循環の形状と活動度は、さまざまな時間スケールで全球の気候に影響を及ぼします。過去150万年間、氷期のAMOCは現在のそれとは著しく異なっていたことを、古海洋学的証拠は示唆しています。すなわち、大西洋では南大洋起源の深層水の体積が増し、一方でその上の北大西洋深層水(NADW)の中心部は間氷期よりも浅くなっていました。

 この現象の起源を裏づける証拠がないことは、全球規模で氷期の状態に至るための一連の事象の順番が明らかになっていないことを意味しています。本論文は、更新世の間氷期から氷期への移行において、南大洋インド洋–大西洋区(東経0~50度)における南極由来の氷山の融解の位置のより北へのシフトが、深層水塊の再編成に対して系統的に1000~2000年先行していたことを示す、複数の代替指標に基づく証拠を提示します。

 この研究は、氷山流出軌跡モデルによる実験を用いて、このような氷期の氷山の流出経路の変化により南大洋の淡水が大きく再分配されたことを実証します。これは、南極周辺の海氷被覆の増加と相まって、正の浮力アノマリーのAMOCの上方セルへの「脱出」を可能にし、南大洋の表層の状態とNADWの形成の間にテレコネクションをもたらした、と示唆します。この機構の規模と整調は中期更新世の気候移行期に大きく変化しており、同時に「南方からの正の浮力アノマリーの脱出」の規模と深層循環への擾乱が増大していることから、この機構が、約10万年周期で氷期間氷期のサイクルが起こる「10万年世界」への移行期における重要なフィードバックだった、と示唆されます。この時期は、ホモ属の進化、さらには現生人類(Homo sapiens)の進化に重要なので、その観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


気候科学:南極氷山が更新世の氷期の海洋循環を再編成する

気候科学:更新世の氷期の海洋循環を大きく変えた南極由来の氷山の融解

 今回A Starrたちは、南極で生まれた氷山の融解によって生じた淡水が北大西洋へと運ばれ、これが北大西洋の塩分濃度勾配を変化させるのに十分であり、その結果、海洋循環のパターンが変化したことを示している。



参考文献:
Starr A. et al.(2021): Antarctic icebergs reorganize ocean circulation during Pleistocene glacials. Nature, 589, 7841, 236–241.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03094-7

大相撲初場所千秋楽

 両横綱も含めて関取だけでも初日から16人が休場と、今場所は初日前から大荒れが予感され、じっさいその通りとなりました。もはや両横綱の不在にはすっかり慣れてしまいました。これまで、相撲協会は稀勢の里関(現荒磯親方)の悪例を認めた以上、白鵬関と鶴竜関の休場もある程度までは認めるべきだ、との考えから私は両横綱の休場への横綱審議委員会からの厳しい勧告には反対でしたが、さすがに鶴竜関に関しては、そろそろ限界かな、とも思います。鶴竜関は最近日本国籍を取得したので、今場所で引退するのかと思っていたら、全休となりました。鶴竜関にしてみると、まだ稽古不足でとても相撲をとれる状態ではなく、何とか最低限の状態まで持っていき、相撲をとってから進退を判断したい、ということなのかもしれませんが、もう復活は厳しそうです。

 白鵬関は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため休場となりました。白鵬関は、もう毎場所優勝争いに加わるだけの力はないとしても、状態を整えて出場できれば、今でも優勝できるくらいの力はまだ残っていると思います。それでも、今後2~3回の優勝が限界でしょうか。相撲史に残る大横綱だけに、できるだけ潔く引退してもらいたいものです。鶴竜関と白鵬関が引退すると、横綱空白期が長くなるかもしれませんが、以前と比較して八百長が激減しているとしたら、今後、全盛期の白鵬関並に現役力士の中で抜けた実力の持ち主でないと、横綱まで昇進するのは難しいかもしれません。その意味で、現在の大関以下の若手力士を、単純に不甲斐ないと責めることはできないでしょう。また、モンゴルやヨーロッパからの入門者もいるとはいえ、やはり人数では日本出身力士が大半を占めるだけに、日本社会の少子高齢化が進むなか、全体的な水準が以前より低下している可能性は高く、若手力士が白鵬関と鶴竜関になかなか取って代われないのは、それが要因かもしれません。

 大荒れとなった今場所を象徴しているのが、貴景勝関の大不振です。貴景勝関は突き押し一辺倒で、組むと十両以下の実力のように思われるので、横綱昇進は難しく、横綱に昇進したとしても安定した強さを発揮することは難しいだろう、と考えていましたが、まさか初日から4連敗となり、その後も大不振で2勝7敗まで負けが込むとは予想していませんでした。貴景勝関は10日目から休場となりました。相手に研究されているとしても、今場所の貴景勝関は押し切れない場面が多く、途中からは恐る恐る相撲を取っている感じだったので、精神的な問題も大きいのかもしれません。やはり、貴景勝関が横綱に昇進するのは難しそうで、大関3人の中で最も若いものの、その地位をいつまで保てるのか、危ぶまれます。

 優勝争いは、大栄翔関が中日を終えて全勝で単独首位に立ち、しかも1敗力士さえいないという、予想外の展開となりました。その後、大栄翔関が2敗し、危うい相撲を勝って2敗を守った正代関が並んで14日目を迎え、優勝争いは2人に絞られました。14日目にまず大栄翔関が玉鷲関を一瞬引いて呼び込みかけたものの、はたき込んで勝って2敗を守りました。正代関は照ノ富士関相手によく攻めたものの、はたき込まれて負け、星一つの差で大栄翔関を追いかける形で千秋楽を迎えました。

 千秋楽は、まず大栄翔関が隠岐の海関と対戦し、押し出して完勝して、13勝2敗で初優勝を果たしました。大栄翔関は先々場所関脇で5勝に終わり、まだ上位には通用しないのかな、と思っていましたが、両横綱が休場していたとはいえ、3大関も含めて三役陣に全勝しての初優勝は見事だと思います。ただ、突き押し相撲だけに、今後安定した成績を残して大関に昇進できるのかとなると、楽観はできません。正代関は朝乃山関に一方的に攻め込まれて押し出しで敗れて11勝4敗で場所を終えました。正代関は現在の3大関では最も安定しているように思いますが、腰高で時として脆さも見せるので、横綱昇進は難しそうです。朝乃山関は11勝4敗で、相撲協会やマスコミの期待は大きいようですが、COVID-19により出稽古が制約されているため、調子を上げることがなかなかできないようです。それでも、年齢と取り口から、3大関の中では最も長く大関の地位を保てるのではないか、と思います。両横綱が引退し、出稽古が解禁となれば、横綱昇進もあるかもしれませんが、できれば、貴景勝関や朝乃山関よりも若い力士の台頭を期待しています。

 照ノ富士関は11勝4敗で場所を終えました。まだ膝の状態はよくないようで、押し相撲にやや苦戦するところが見られたので、全盛期の力はとても戻っていない、と言えるでしょう。そのため、脆さも見せましたが、14日目の正代関との一番では、何度も危ないところを残して勝ったように、状態は良くなってきているように思います。来場所は大関復帰がかかりますが、現在の照ノ富士関の状態と他の上位陣との力関係から考えると、大関に復帰できる可能性は低くないでしょう。ただ、膝が完治することはなさそうですから、さすがに横綱昇進は難しそうですし、仮に横綱に昇進しても、満足な成績は残せず、短命に終わるでしょう。COVID-19もあって休場者の多さは残念でしたが、無事に場所が終わったのは何よりでした。

ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化

 ヨーロッパ東部の石器時代から青銅器時代における人類集団の遺伝的変化に関する研究(Saag et al., 2021)が公表されました。現在のロシア領の西部は、先史時代のいくつかの移動・変容過程の焦点でしたが、古代DNA研究ではかなり過小評価されたままです。上部旧石器時代のスンギール(Sunghir)遺跡(関連記事)やコステンキ14(Kostenki 14)遺跡(関連記事)など、ヨーロッパで最古の遺伝的に研究された個体群の一部はロシア西部に由来しますが、全体的には古代の遺伝的情報は希薄です。

 ヨーロッパ東部および北部の森林地帯への人類の移住は、紀元前一万三千年紀から紀元前九千年紀にかけての更新世末と中石器時代初めに、2回の大きな波で起きました。両方の事例では、ヨーロッパの広範な地域に拡大した文化と類似した物質文化を有する人々の集団が、移住過程に加わりました。この地域の中石器時代の居住に関しては、ブトヴォ(Butovo)やクンダ(Kunda)やヴェレティエ(Veretye)やスオムスエルヴィ(Suomusjärvi)など、いくつかの異なる考古学的文化が識別されています。居住のより古い段階では、物質文化はひじょうに類似しているので、単一の文化圏としても扱われてきました。

 しかし、紀元前九千年紀の半ばから、明確に区別された文化的違いを有する在来人類集団が、すでにこの地域に存在していました。中石器時代(農耕ではなく土器製作に基づくロシアの時代区分によると部分的に前期新石器時代)に起きた一連の小さな変化にも関わらず、それらの集団の一般的な傾向としての文化的継続性は、紀元前五千年紀の始まりまで経時的に観察され、一部の地域では紀元前四千年紀の始まりまで続き、その頃には、いわゆる櫛目文土器(Pit-Comb Ware)文化がヨーロッパの広範な地域で形成されました。ロシアのヴォルガ・オカ河間地域では、櫛目文土器とその地域的変形を有するリヤロヴォ文化(Lyalovo Culture)が報告されました。この文化圏の人々は、とくにロシアの広大な地域で区別できる狩猟採集のヴォロソヴォ文化(Volosovo Culture)に、紀元前四千年紀から紀元前三千年紀に特有の考古学的文化における一連の発展を促進した可能性があります。

 ヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民は、その遺伝的系統に基づいて2集団に区分できます。いわゆる西部狩猟採集民集団(WHG)は、イベリア半島からバルカン半島へと拡大し、後期中石器時代にはバルト海東部まで到達しました(関連記事)。東部狩猟採集民集団(EHG)は、さらに東方からの遺伝的影響(現代のシベリア人と遺伝的につながっています)を受け、これまでロシア西部では紀元前9400~紀元前5500年頃となる6個体が含まれます。これら6個体のうち4個体のゲノムは、ロシア北西部のカレリア(Karelia)の紀元前7500~紀元前5000年頃の遺骸に由来し、残り2個体のゲノムはヨーロッパロシア東部のサマラ(Samara)地域の紀元前9400~紀元前5500年頃の遺骸に由来します。

 遺伝的研究では、ヤムナヤ(Yamnaya)文化複合と関連する人々がヨーロッパ東部平原の草原地帯から拡大し、紀元前2900~紀元前2800年頃に縄目文土器(Corded Ware)を製作し始めたヨーロッパ集団の系統にかなり寄与した、と示されてきました。本論文は簡潔化のため、埋葬慣行や時期など考古学的背景が特定の文化に関連づけられてきた個体群について言及する時には、文化名を用います。重要なのは、実際には、文化と遺伝的系統との間のつながりは決めてかかるべきではない、と強調することです。

 ヤムナヤ文化集団の移住は、それよりも数千年早いアナトリア半島初期農耕民(EF)のヨーロッパへの移住よりも2倍速いと推定されてきており、ヨーロッパ西部における広葉樹林の減少および草地・牧草地の増加と一致している、と推定されました(関連記事)。縄縄目文土器(Corded Ware)複合(CWC)は広範な地域に拡大し、東方ではタタールスタン、北方ではフィンランドの南部とスウェーデンとノルウェー、西方ではベルギーとオランダ、南方ではスイスとウクライナに達しました。その最東端の拡大であるファチャノヴォ文化(Fatyanovo Culture)は、有名なヨーロッパ東部のCWCで、ヨーロッパロシアの広範な地域に拡大し、畜産とおそらくは穀物栽培を森林地帯にもたらしました。これまで、ファチャノヴォ文化に関してはわずか14点の放射性炭素年代が刊行されており、紀元前2750~紀元前2500(もしくは2300)年となります。文化の特徴的な埋葬習慣には、平らな土の墓に死者を安置することが含まれ、ほとんどは曲がっており、その側(男性ではおもに右側、女性では左側)には、副葬品として軸穴石製斧や燧石の道具や土器の容器が共伴します。

 ヤムナヤ文化の複雑な牧畜民は、EHGおよびコーカサス狩猟採集民(CHG)と系統を共有します。遺伝的研究で明らかになってきたのは、おもにヤムナヤ系統を有するCWC個体群は、アナトリア系統のヨーロッパEFとある程度の混合を示し、ヨーロッパ東部および北部の現代人集団と最も類似している、ということです。ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)は、現代のヨーロッパ中央部および北部において高頻度ですが、CWC個体群ではまだ低頻度で、その後すぐに急速に頻度が上昇しました(関連記事)。ヤムナヤ文化の拡大は男性に偏っていましたが(関連記事)、CWC個体群におけるアナトリア半島EF系統は、女性系統を通じてより多く得られています。

 本論文は、ヨーロッパ北東部の森林地帯における漁撈狩猟採集から食料生産への変化に伴う人口統計学的過程に光を当て、現在のロシアの西部における石器時代から青銅器時代の移行と関わる遺伝的変化を調べることが目的となります。ロシア西部からの28点の新たな放射性炭素年代が追加され、狩猟採集民とファチャノヴォ文化農耕民の遺伝的類似性が特徴づけられます。研究の一環として、完新世にヨーロッパの他地域で見られる大きな人口移動がこの地域に影響を与えたのかどうか、また与えたとしてどの程度だったのか、調べます。それは、ロシア北西部の住民の遺伝的系統は何だったのか、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパ東部草原地帯からの直接的な移住の結果だったのか、それともより西方のCWC集団と同様に関わるヨーロッパEF系統なのか、という問題です。さらに、考古学的証拠に示唆された、ヴォロソヴォ文化とファチャノヴォ文化の人々の間の潜在的な混合のような局地的過程に光を当てることも本論文の目的です。


●標本と考古学的背景

 現代のロシア西部とエストニアの18ヶ所の遺跡(図1)で発見された、48個体の歯根からDNAが抽出されました。DNA保存率が高かった30個体では10~78%の内在性DNAが得られ、汚染率は3%未満でした。これらの個体のショットガン配列により、平均ゲノム網羅率0.01倍以上2個体、0.1倍以上18個体、1倍以上9個体、5倍1個体(PES001)が得られました。提示されたゲノム規模データは、3個体(WeRuHG)が石器時代(紀元前10800~紀元前4250年頃)、26個体が青銅器時代のファチャノヴォ文化(紀元前2900~紀元前2050年頃)、エストニアの1個体が縄目文土器文化(紀元前2850~紀元前2500年頃)です。これらの個体のゲノムデータは、既知の古代および現代の人類集団とともに分析されました。

 放射性炭素年代測定の場合、石器時代の狩猟採集民が消費した川と湖の魚により、顕著なリザーバー効果が引き起こされるかもしれません。これは、人類の歯や骨から得られる放射性炭素年代が、実際の年代よりも数千年ではなくとも数百年古くなるかもしれません。残念ながら、特定の事例ごとにリザーバーの規模を推定するデータはまだありません。しかし、これは本論文の石器時代個体群に関して全体像を変えるものではありません。以下、本論文の図1です。
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●ロシア西部狩猟採集民の類似性

 まず、ロシア西部の石器時代狩猟採集民3個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体の多様性が評価されました。最古の個体(PES001)はmtDNAハプログループ(mtHg)U4で、これはヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)およびスカンジナビア半島狩猟採集民個体群で見られます。他の2個体のmtHgはT2とK1で、これは注目されます。なぜならば、農耕拡大前のヨーロッパ狩猟採集民ではmtHg-Uの頻度が群を抜いて最も高かったからです。しかし、mtHg-H11・T2も狩猟採集民個体群で見つかっており、ロシア西部2個体の系統(mtHg-T2a1b1・K1)の推定年代は、それぞれ11000±2800年前と22000±3300年前で、2個体の年代(8500~8300年前頃と6500~6300年前頃)に先行する可能性が高そうです。Y染色体ハプログループ(YHg)では、PES001とBER001がそれぞれR1a1b(YP1272)とQ1b1a(L54)で、両YHgともEHG個体群で以前に明らかになっています。

 次に、常染色体データを用いて、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)が利用可能な古代および現代の集団と比較されました。主成分分析では、古代の個体群がユーラシア西部現代人に投影されました。主成分分析では、WeRuHGの3個体全員が、ヨーロッパ狩猟採集民勾配のEHGの端に位置する個体群とともにクラスタ化しました(図2A)。次に、ADMIXTURE分析を用いて、古代の個体群が世界規模の現代人標本に投影されました。K=3からK=18で計算されましたが、本論文はK=9について説明します。このKの水準は、最高の対数尤度値に達する10%超の実行でひじょうに類似した結果が得られる、最大の推定される遺伝的クラスタの数を有しました。分析の結果、WeRuHG個体群はEHGと最も類似しており、ほぼ、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)で最大化される構成要素(図2では青色)と、ロシア極東現代人(橙色)および古代コーカサス・イラン人(オリーブ色)で最も高頻度の構成要素のかなりの割合で構成されます(図2B)。以下、本論文の図2です。
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 次に、FST と外群f3およびD統計を用いて、他の関連する集団とWeRuHG の遺伝的類似性が比較されました。WeRuHG とEHGは、他の古代および現代の集団両方との遺伝的類似性において似ている、と明らかになりました(図3A)。一方、WeRuHG を後のファチャノヴォ集団と比較すると、WeRuHG は比較的より多くの遺伝的浮動を、EHG的集団、シベリア西部狩猟採集民、古代イラン人、シベリアの現代人集団と共有しているものの、ファチャノヴォ文化集団は、古代ヨーロッパおよび草原地帯集団と、近東とコーカサスとヨーロッパの現代人集団のほとんどと、より多くの遺伝的浮動を共有している、と明らかになりました(図3B)。

 より高い網羅率(5倍以上)の狩猟採集民個体PES001(紀元前10785~10626年頃)の遺伝的類似性が、ロシアの中石器時代狩猟採集民のうちより高い網羅率の3個体、つまりPES001、紀元前6773~紀元前5886年頃となるユヅニー・オレニ・オストロフ(Yuzhnyy Oleni Ostrov)遺跡の1個体(I0061)、紀元前9386~紀元前9231年頃となるシデルキノ(Sidelkino)遺跡の1個体(Sidelkino)と、ヨーロッパおよびシベリアのさまざまな地域の中石器時代および旧石器時代狩猟採集民との類似性の比較による外群f3統計を用いて、さらに調べられました(図2C)。

 ロシアの中石器時代3個体全員は、それぞれ1万年以内にヨーロッパロシアもしくはシベリアに居住していた個体群と最もよく類似しており、つまり、相互、シベリア西部新石器時代集団、シベリア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァゴラ3)とです。これらに、同じ時間枠のヨーロッパ中央部の個体群が続きます。紀元前3万年以上前となる地理的に密接な旧石器時代のスンギール遺跡とコステンキ遺跡の個体群は、ヨーロッパ中央部の年代が近接した狩猟採集民よりも、ロシアの中石器時代個体群の方との共有が少なくなっています。またqpAdmを用いて、PES001 を、WHGとコーカサス狩猟採集民(CHG)もしくはシベリア南部中央のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年(Mal' ta 1)もしくはアフォントヴァゴラ3の混合としてモデル化が試みられましたが、3モデル全てが棄却されました。以下、本論文の図3です。
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●ファチャノヴォ文化個体群におけるEF系統

 青銅器時代のファチャノヴォ文化個体群では、mtHgがU5・U4・U2e・H・T・W・J・K・I・N1a、YHgがR1a1a1(M417)となり、ヨーロッパの他地域のCWC個体群でも見られます。YHgを充分な深度で決定できた6個体全ては、ヨーロッパで一般的なR1a1a1b1(Z283)ではなく、現在ではアジア中央部および南部に拡大しているR1a1a1b2(Z93)です。データ不足のため、より浅い深度のYHgの個体群がYHg-R1a1a1b2(Z93)の可能性も否定されません。

 主成分分析では、ファチャノヴォ文化の個体群(およびエストニアのCWC個体)は、多くのヨーロッパの後期新石器時代~青銅器時代(LNBA)および草原地帯の中期・後期青銅器時代個体群と、ヨーロッパ北部および東部の現代人の上部で密集します(図2A)。この古代のクラスタは、ヤムナヤ文化集団を含む草原地帯の前期・中期青銅器時代集団と比較して、アナトリア半島およびヨーロッパの初期農耕民(EF)の方へと移動しています。同じことはADMIXTURE分析でも見られ、ファチャノヴォ文化個体群はヨーロッパ中央部とスカンジナビア半島とバルト海地域東部のLNBA系統集団と最も類似しています(図2B)。これらの集団は、ヤムナヤ文化集団と同様に、WHG(青色)および古代コーカサス・イラン(オリーブ色)構成要素と、少ないロシア極東(橙色)構成要素から成ります。しかし、ファチャノヴォ文化集団を含むヨーロッパのLNBA集団は、ロシアのヤムナヤ文化集団には存在しない、アナトリア半島およびヨーロッパEF集団(薄緑色)で最高頻度の構成要素も示します。

 異なる集団のFST・外群f3統計・D統計の結果の比較により、ファチャノヴォ文化個体群の類似性が調べられ、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりも、EF集団および近東現代人の方とより多くを共有している、と明らかになりました(図3C)。この兆候は、より少ない一塩基多型を有するデータセットの常染色体の代わりに、124万のデータセットからの常染色体もしくはX染色体を用いても見られます。ヤムナヤ文化サマラ集団とファチャノヴォ文化集団の類似性もD統計で比較され、ファチャノヴォ文化集団はヤムナヤ文化サマラ集団よりもほとんどのEF集団と有意に類似しており、同様に、ヤムナヤ文化サマラ集団は、ファチャノヴォ文化集団よりもほとんどの草原地帯集団の方と有意に類似していました。混合f3統計を用いてファチャノヴォ文化集団におけるEF系統の流入がさらに調べられ、さまざまなヤムナヤ文化集団と広範なEF集団との間の混合に関して有意な結果が得られました。さらに、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団に関してf3統計とD統計の結果を比較すると、さまざまな古代人もしくは現代人集団との類似性に明確な違いはありません(図3D)。

 以前の分析では、ファチャノヴォ文化個体群の遺伝的構成は移住してきたヤムナヤ文化個体群と同時代のヨーロッパ集団との間の混合の結果と示唆されていたので、2つの補完的方法(qpAdmおよびChromoPainter/NNLS)を用いて、混合集団の適切な代理と混合割合が決定されました(図4)。サマラもしくはカルムイク(Kalmykia)のヤムナヤ文化集団と多様なEF集団を含むqpAdmモデルを検証すると、両方のヤムナヤ文化集団と最高のP値を有する2つのEF集団は、球状アンフォラ(Globular Amphora)文化とトリポリエ(Trypillia)文化です。混合割合は、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)と球状アンフォラ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(66.9%)と球状アンフォラ文化集団(33.1%)と、ヤムナヤ文化サマラ集団(65.5%)とトリポリエ文化集団(34.5%)もしくはヤムナヤ文化カルムイク集団(69.6%)とトリポリエ文化集団(30.4%)です。この割合は、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団(69~75%のヤムナヤ文化集団と25~31%のEF集団)と類似しています。

 ヴォロソヴォ文化狩猟採集民1個体(BER001)を「正しい」集団に追加して、ヴォロソヴォ文化集団とファチャノヴォ文化集団との間の共有される浮動があるのかどうか、これら4モデルが検証されました。これにより、この浮動なしの混合集団を有するモデルが却下されます。4モデル全ては依然として却下されず、ヴォロソヴォ文化集団の寄与はファチャノヴォ文化集団のモデル化に必要ない、と示唆されます。ChromoPainter/NNLSパイプラインを用いての系統割合の結果は、ファチャノヴォ文化集団に関してはヤムナヤ文化サマラ集団37・38%と球状アンフォラ文化集団63・62%で、ヨーロッパ中央部およびバルト海地域CWC集団に関してはヤムナヤ文化集団51~60%とEF集団40~49%です。両方とも他集団と比較してファチャノヴォ文化集団でEF系統の推定される割合がより高いものの、その違いはモデルでトリポリエ文化集団とのみ有意です。qpAdmは集団間の混合を計算しますが、ChromoPainter/NNLSはソースとして単一の個体群のみを用いており、結果に影響を及ぼすかもしれないことに注意が必要です。

 ヤムナヤ文化集団とEF集団との間の2方向の混合は、ファチャノヴォ文化集団の遺伝的多様性の説明に充分ですが、狩猟採集民集団が追加されたqpAdmモデルも、EHGとWeRuHGとヴォロソヴォ文化では却下されません。ファチャノヴォ文化集団は、60~63%のヤムナヤ文化サマラ集団と33~34%の球状アンフォラ文化集団と3~6%の狩猟採集民集団の混合としてモデル化できます。この結果は、2~11%の狩猟採集民系統を有するヨーロッパ中央部およびバルト海地域のCWC集団と類似していますが、ヨーロッパ中央部のCWC集団の起源としてヴォロソヴォ文化集団は除きます。以下、本論文の図4です。
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 DATESを用いて、ファチャノヴォ文化集団を形成するヤムナヤ文化集団とEF集団の混合が、ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団との組み合わせでは13±2世代前、ヤムナヤ文化サマラ集団とトリポリエ文化集団との組み合わせでは19±5世代前と推定されました。1世代25年でファチャノヴォ文化個体群の平均較正年代が紀元前2600年頃とすると、混合は紀元前3100~紀元前2900年頃に起きたことになります。

 次に、ファチャノヴォ文化集団と他のCWC集団(ヨーロッパ中央部およびバルト海地域)との間の類似性における潜在的な違いが調べられ、1方向qpAdmモデルでは、ファチャノヴォ文化集団とヨーロッパ中央部CWC集団、もしくはヨーロッパ中央部CWC集団とバルト海地域CWC集団の同一性が却下できないので、これらの集団は相互に類似している、と明らかになりました。一方、集団内の混合割合にはかなりの変異があり、主成分分析(図2)とADMIXTUREで示され、ファチャノヴォ文化集団における球状アンフォラ文化系統が4~47%(図4B)、他の2集団における球状アンフォラ文化系統が7~55%を示す、個体ごとのqpAdmモデルにより確認されます。第二主成分構成(PC2軸)、もしくは個体のqpAdm系統割合および構成された放射性炭素年代を用いて、系統の変動が時間と相関するのかどうか、検証されました。その結果、ファチャノヴォ文化集団において時間と系統割合の間には相関がないものの、PC2軸を用いてのバルト海地域CWC集団と、qpAdm系統割合を用いてのヨーロッパ中央部およびバルト海地域両方のCWC集団におけるより多くのEF系統への有意な変化はある、と明らかになりました。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団において、エストニアやポーランドやドイツのCWC個体群で以前に見られた性的に偏った混合の存在(関連記事)が確認されました。まず、常染色体とX染色体の外群f3結果が比較されました。不等分散を仮定した2標本両側検定では、EF集団の平均f3値が、X染色体ではなく常染色体に基づく狩猟採集民と草原地帯系統集団のそれよりも有意に低い、と示されました。次に、qpAdmおよび常染色体と同様に同じモデルを用いてのX染色体の混合割合が計算されました。常染色体データ(ヤムナヤ文化サマラ集団と球状アンフォラ文化集団もしくはトリポリエ文化集団)4モデルのうち2モデルのみが、X染色体の一塩基多型の利用可能な数が少ないため、有意なP値をもたらしました。信頼区間はトリポリエ文化集団ではひじょうに広かったものの、X染色体のデータは、ファチャノヴォ文化集団における40~53%の球状アンフォラ文化系統を示し、常染色体データを用いて推定された32~36%とは対照的です。性的に偏った混合は、ファチャノヴォ文化2個体におけるmtHg-N1aでも裏づけられます。mtHg-N1aは、線形陶器文化(Linear Pottery Culture、Linearbandkeramik、略してLBK)のEF集団では高頻度ですが、ヤムナヤ文化個体群ではこれまで見られません。また、全男性がYHg-R1a1a1(M417)で、これは草原地帯からの移住後にヨーロッパに出現します。

 最後に、READを用いて、ファチャノヴォ文化標本における密接に関連した個体が調べられました。二親等もしくはより密接な近縁関係の確認された事例はありませんが、二親等の関係は、いくつかの組み合わせでは除外できません。それは、推定の95%信頼区間が浸透の関係性の閾値の95%信頼区間と重なっているからです。


●ロシア西部における表現型に有益なアレル頻度変化

 食性(炭水化物や脂質やビタミン代謝)や免疫(病原体や自己免疫や他の疾患への反応)や色素沈着(目や髪や肌)と関連する、113個の表現型の情報をもたらす遺伝子型が推定されました。本論文と以前に刊行されたバルト海地域東部の個体群が、比較のために用いられました。それは、ロシア西部石器時代3個体(WeRuHG)、ラトビアの狩猟採集民5個体、エストニアとラトビアのCWC集団7個体、ファチャノヴォ文化集団24個体、エストニアの青銅器時代10個体、エストニアの鉄器時代6個体、イングリアの鉄器時代3個体、エストニアの中世4個体です。本論文では、色素沈着(39ヶ所の一塩基多型)、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連するMCM6遺伝子(rs4988235およびrs182549)、脂肪酸代謝と関連するFADS1-2遺伝子(rs174546T)と関連する多様体に焦点が当てられます。

 標本規模が小さいので、結果は慎重に解釈されねばなりませんが、調べられたWeRuHG個体群が、茶色の目、濃褐色から黒色の髪、中間もしくは濃い肌の色素沈着と関連するアレル(対立遺伝子)を有していた一方で、ファチャノヴォ文化個体群の約1/3は青い目および/もしくは金髪を有していました。さらに、LPと関連する2個のアレルの頻度は、WeRuHG個体群では0%、本論文の分析に基づくファチャノヴォ文化個体群では17±13%で、同じ時期のバルト海東部地域集団と類似しているものの、バルト海東部地域では後期青銅器時代までに40%と顕著に増加しました。一方、血清におけるコレステロールの増加と関連するアレル(FADS1-2遺伝子のrs174546T)は、バルト海地域東部およびロシア西部の狩猟採集民における90%から、バルト海地域東部の後期青銅器時代個体群では45%と顕著に減少しました。これは、代替的なアレルCの増加が観察された以前の研究でも示されています。この変化は、高コレステロールへの負の選択の兆候か、あるいはこのアレルのより低い頻度の集団からの移住の結果かもしれません。


●考察

 最終氷期の後、紀元前一万年紀末と紀元前九千年紀初めに、バルト海地域東部とフィンランドとロシア北部の広大な地域は、狩猟採集民集団により比較的早く移住されました。バルト海地域東部とヨーロッパロシアにおけるいくつかの地点に起源がある燧石と、石器および骨器技術と人工物の類似性から、最終氷期後のヨーロッパ東部および北部の森林地帯における広範な社会的ネットワークの存在が示唆されます。これは、ポーランド東部からヨーロッパロシア中央地域にかけての旧石器時代最終期の狩猟採集民がこの過程に加わり、その起源とつながったまま、やや延長された社会的ネットワークを作った、という仮説につながります。

 しかし、ほとんど地元の石材で石器を製作したことから分かるように、これらのつながりは数世紀後に終わり、新たな地理的により小さい社会単位が、紀元前九千年紀半ばに出現しました。この地域の古代DNA研究には、紀元前八千年紀もしくはより新しい年代の中石器時代個体群が含まれており、上述のように、バルト海地域東部のヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)とロシア北西部のヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)という、2つの遺伝的集団が明らかにされてきました。しかし、これまで移住期の人類のゲノムは刊行されておらず、その遺伝的系統については議論の余地があります。

 本論文で提示された紀元前10700年頃の網羅率5倍の個体(PES001)は、移住期に近い年代のロシア北西部におけるEHG系統の証拠を提供します。これは次に、バルト海地域東部の最初の人々の系統に関する問題を提起します。バルト海地域東部の最初の人々は、移住期における2地域の共有された社会的ネットワークにより示唆されるように、EHG系統を有していましたか?後のWHG系統の人々の流入は、考古学的物質の変化を伴っていませんでしたが、あるいは、WHG系統の人々は最初からバルト海地域東部に居住しており、類似の文化を共有する異なる系統を有する集団の事例を表していますか?これらの問題は、将来の研究により解明されるかもしれません。

 ファチャノヴォ文化の形成は、ヨーロッパ東部森林地帯のそれ以前の狩猟漁撈採集文化およびその集団と生活様式に影響を及ぼした、主因の一つです。ファチャノヴォ文化の人々は、この地域における最初の農耕民で、農耕文化の到来は移住と関連していました。これは、石器時代狩猟採集民と青銅器時代ファチャノヴォ文化個体群が遺伝的に明確に区別できるように、本論文の結果により裏づけられます。本論文における狩猟採集民の標本規模は小さいものの、3個体は以前に報告されたEHG個体群と遺伝的に均質な集団を形成し、新たに報告された1個体(PES001)は、これまでで最高の全ゲノム配列網羅率で、将来の研究に貴重な情報を提供します。

 さらに、他のCWC集団と類似したファチャノヴォ文化個体群は、ほぼ草原地帯系統を有するだけではなく、この地域では以前に存在しなかったEF系統もいくぶん有しているので、ファチャノヴォ文化集団の起源として、草原地帯系統のみのヤムナヤ文化集団の北方への移住は除外されます。考古学的物質におけるファチャノヴォ文化の最も強いつながりは、現在のベラルーシとウクライナに広がったドニエプル川中流文化で見られます。現在のウクライナでは、ヨーロッパのEF系統を有する最も東方の個体群と、最も西方のヤムナヤ文化個体群が、既知のゲノムデータに基づいて確認されます(図1)。

 さらに考古学的知見からは、LBK(線形陶器文化)がウクライナ西部に紀元前5300年頃に到達し、ヤムナヤ複合(墳丘墓)はヨーロッパ南東部に紀元前3000年頃に到達し、ルーマニアとブルガリアとセルビアとハンガリーにまでさらに拡大した、と示されます。これは、一方の混合起源集団としてロシアのヤムナヤ文化2集団(カルムイクもしくはサマラ)のどちらかの系統を有する、ファチャノヴォ文化集団の妥当な混合起源集団と証明された2集団が、ウクライナとポーランドの個体群を含む球状アンフォラ文化集団と、ウクライナの個体群で構成されるトリポリエ文化集団だった、という本論文の遺伝的結果と一致します。これらの知見は、現在のウクライナが、ファチャノヴォ文化と一般的な縄目文土器文化の形成につながる移住起源地だった可能性を示唆します。

 ヨーロッパロシアにおけるファチャノヴォ文化の出現およびその後の局所的過程に関わる正確な年代と過程も、不明確なままです。最近まで、ファチャノヴォ文化は他のCWC集団よりも遅く、長い期間に発展した、と考えられてきました。しかし、最近刊行された放射性炭素年代は、本論文で提示された新たな25点の年代と、本論文で調べられたファチャノヴォ文化個体群におけるヤムナヤ文化集団とEF集団との(ファチャノヴォ文化個体群から)300~500年前頃の混合との推定とを組み合わせると、より速い過程が示され、CWC集団がバルト海地域東部およびフェノスカンジア南部に到達した年代と類似しています。考古学的文化は、地域間で明確に区別されます。

 さらに、ファチャノヴォ文化集団はヨーロッパロシアに到来後、在来のヴォロソヴォ文化狩猟採集民と混合した、と示唆されてきました。本論文の結果はこの仮説を裏づけません。それは、他の2つのCWC集団と比較して、ファチャノヴォ文化集団においてより多くの狩猟採集民系統が明らかにならなかったからです。このファチャノヴォ文化集団と他の2つのCWC集団は、却下されない一方向qpAdmモデルにより類似していると示され、主成分値もしくはqpAdmの系統割合と放射性炭素年代を相関させると、本論文の標本群の期間におけるファチャノヴォ文化集団の系統割合に変化はない、と明らかになります。

 ロシア西部とバルト海地域東部におけるアレル頻度変化は、両地域における類似のパターンを明らかにします。LP(乳糖分解酵素活性持続)と関連するMCM6遺伝子および血清におけるコレステロールの増加と関連するFADS1-2遺伝子の頻度変化は、新石器時以降の食性変化に起因して変わってきた、との仮説が提示されてきており、青銅器時代に顕著に変わりましたが、変化の最初の兆候はすでに新石器時代に見られます。最近のLPに関する研究(関連記事)と一致して、最初の草原地帯系統標本群におけるrs4988235Aアレルの低頻度(90%信頼区間では、最近の研究で0~2.7%、本論文で0~33.8%)が明らかになりました。これが示唆するのは、以前の研究で示唆されてきたように(関連記事)、これらのアレル頻度の経時的変化は複雑で、いくつかの環境要因と遺伝的力学が関わっているかもしれない、ということです。


参考文献:
Saag L. et al.(2021): Genetic ancestry changes in Stone to Bronze Age transition in the East European plain. Science Advances, 7, 4, eabd6535.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd6535

大河ドラマ『麒麟がくる』第42回「離れゆく心」

 荒木村重が織田方から毛利方へと寝返ろうとし、羽柴秀吉と、娘の岸を荒木村重の息子に嫁がせている明智光秀(十兵衛)が説得に赴きますが、村重は翻意しません。光秀に何が不満なのか尋ねられた村重は、任された摂津への重い負担と、将軍の足利義昭への扱いが酷かったことを挙げます。争いの根本的な原因が義昭にあると考えた光秀は、備後の鞆の浦に義昭を訪ね、海で鯛を釣っている義昭と再会します。毛利には義昭を上洛させる意思はない、との光秀の指摘を義昭はすでに理解していました。都への帰還を光秀に提案された義昭は、兄の義輝が都で殺されたことを指摘し、信長のいる都には戻らないが、光秀1人の都であれば考える、と答えます。

 荒木村重の有岡城を攻める摂津の陣に戻った光秀は、再度村重を説得しようとし、同行しようとする秀吉を、邪魔だと言って同行させませんでした。しかし、光秀による村重の説得は失敗し、光秀の娘の岸は荒木家から離縁されて明智家に帰されます。1578年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)末、織田軍は有岡城に総攻撃を仕掛けますが、戦いは長期化します。光秀は摂津沖で密かに徳川家康と会い、家康から織田信長が自分を束縛すると打ち明けられます。家康は、信長に嫡男の信康と妻を殺すよう命じられており、武田を討伐した後、徳川家がどのような扱いを受けるのか、家中で不安を抱く者が多いので、あまりにも理不尽なことが続くと、維持を貫くしかない、と光秀に打ち明けます。信長に謁見した光秀は、信康に死を命じるのは控えるよう、諫言しますが、自分は家康を試しているのだ、と信長は答えます。そのようなことを続ければ人は付いてこない、と言う光秀に、ならば成敗するまでだ、と返答した信長は、自分を困らせるな、と言います。信長は光秀に、正親町天皇と何を話したのか、と詰問しますが、光秀は答えず、激昂した信長は光秀を打擲し、正親町天皇に譲位させる考えを光秀に話します。

 今回は、光秀と信長との距離が開いていき、本能寺の変へと向かって大きく話が動きました。本作の信長は家督継承前の少年時代からひじょうに承認欲求の強い人物だったので、光秀が正親町天皇と何を話したのか、ひじょうに気にして、光秀が話さないことに激昂したのは、よく理解できます。人物造形と構成が上手くかみ合っている、と言えるでしょう。光秀が信長に謀いたのは、信長の「非道」を阻止するためだった、という話になりそうです。時代考証担当の小和田哲男氏がそうした説を主張しているそうなので、予想していた視聴者は少なくなさそうです。このところ、大きく話が動いて本能寺の変へとつながっているように思われるので、残り2回も盛り上がるのではないか、と期待されます。

本村凌二『独裁の世界史』

 NHK出版新書の一冊として、NHK出版から2020年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、独裁政と共和政と民主政という政治形態に着目し、「政治の失敗」をいかに克服すべきか、歴史的観点から見ていきます。本書が取り上げるのは、古代ギリシア、共和政ローマ、絶対王政からの脱却を図った18世紀以降のヨーロッパで出現した独裁者たち、共和政が千年続いた中世ヴェネツィアです。政治形態の分類はもっと複雑ではないか、ヨーロッパに偏っているのではないか、というような批判もあるでしょうが、現代の政治状況の解明・改善の手がかりを歴史から学ぶという趣旨の一般向け書籍として、興味深く読み進められました。

 まず本書は、古代民主政の本場とされるアテネは、多数のポリスの一つにすぎず、民主政が続いたのは長く見ても百年程度だった、と指摘します。貴族政だったアテネは、平民の台頭もあり、財産に基づく政治参加の道が開かれます。財産は、ポリスのためにどれだけ貢献できるのか、ということを反映していました。しかし、それから民主政へと直結したのではなく、アテネに限らずギリシアでは広く僭主(テュラノス)の出現が見られました。アテネでは僭主ペイシストラトスの時代に国力が拡大しており、経済が堅調で右肩上がりの時代には、現代中国のように、貧富の差など国内の不満は政権を揺るがすような大問題にはなりにくい、と本書は指摘します。

 僭主政は僭主個人の政治的力量に依存するので、不安定です。アテネでも、ペイシストラトスの息子の代に僭主政は終焉します。行政区の再編や陶片追放の導入などクレイステネスの改革により、僭主の出現阻止が図られましたが、陶片追放は政敵の追い落としに利用されるなど、本来の目的で機能したのか、否定的な見解も提示されています。この制度改革を前提として、ペルシア戦争で貧しい民衆が海戦で活躍したことにより、アテネ市民の政治意識は向上し、民主政が開花します。しかし、ペリクレスの時代を挟んで前後50年ほどがアテネの民主政の盛期で、短かった、と本書は指摘します。民主政が不安定だったのは、僭主政・独裁政と同じく、けっきょくは政治指導者の資質次第のところが多分にあったからだ、と本書は指摘します。本書は、民主主義を「ましなポピュリズム」と定義します。民主政はポピュリズムにすぎない、というわけです。また本書は、民主主義におけるエリート教育の重要性を指摘します。

 ローマの政体は、王政終了した後500年間ほど、独裁政と貴族政と民主政が混合したような共和政でした。ローマでは、独裁政による決断の速さという利点も取り入れつつ、独裁の暴走を阻止する仕組みが備わっており、これがギリシア世界とは異なり、ローマが世界帝国に拡大した一因だったようです。また本書は、「個」を重視したギリシア世界と、「公」を重視したローマとの違いも指摘します。ローマの共和政において重要な役割を担ったのが元老院で、独裁だけではなく、ポピュリズムと衆愚政治に陥る危険性の抑止勢力となりました。元老院と平民(民衆)の間には確たる身分差がありましたが、ともに自由人との強い意識を有していました。

 このように独裁を警戒していたローマが帝政へと移行した理由としては、そもそもローマは軍国主義的で、それ故に帝国を築いたことと、拡大の過程で市民たる農民が没落し、無産市民になり、貧富の差が拡大したことにありました。また、拡大したローマの運営で共和政が上手く機能しなかったこともあります。こうした変化の中で、ローマにおいて「公」への意識が低下していきます。こうした流れの中でカエサルが登場します。カエサルは武功により絶大な権威を確立しますが、建前としては共和政を維持しました。しかし、共和政の絶妙な力の均衡は完全に崩壊していました。カエサルは元老院勢力に殺されますが、後継者に指名されたオクタウィアヌスは、事実上の皇帝に就任し、帝政が始まります。しかし、オクタウィアヌスも慎重で、共和政を建前として掲げました。

 五賢帝の時代を経てセウェルス朝になると、軍人に依存して政権を獲得・維持する傾向が強くなり、やがて軍人皇帝の時代に入ります。この頃には、かつて独裁への歯止めだった元老院の権威はすっかり低下していました。混乱の軍人皇帝時代は、ローマの分割統治が始まり、皇帝権が強化され、ようやく収まります。帝政は、これ以前が元首政、これ以降が専制君主政と呼ばれます。ローマは4世紀末に分裂した後、統一されることはなく、西ローマはそれから100年経たずに滅亡します。本書では、東ローマはローマ人の帝国ではなく、西ローマの滅亡がローマの滅亡とされています。

 近代ヨーロッパでは、フランス革命、スターリン、ムッソリーニ、ヒトラーが取り上げられています。フランス革命の独裁としてロベスピエールが挙げられており、カエサル時代のローマをモデルにしていたらしいジャコバン派のロベスピエールに欠けていたのは、カエサルにあった寛容さだった、と本書は指摘します。フランス革命の結果生まれた独裁者がナポレオンで、後世に残した大きな影響は「国民国家」意識でした。その影響を受けてヨーロッパで国民国家の形成が進んでいき、ドイツもそうですが、本書はドイツ統一に大きく貢献したビスマルクを「良識のある独裁者」と評価しています。

 ロシアでは16世紀以降独裁政的傾向が続き、その中でもスターリンは大規模な粛清を行ないました。他に、中華人民共和国の毛沢東政権やカンボジアのポル・ポト政権の事例から、大虐殺は社会主義の産物もしくは共産主義の宿命のように見えるものの、地域的特性も大きく関わっているのではないか、と本書は推測します。古来、ユーラシア東方の国々の方が西方の国々よりも王権は強い傾向にあり、東方の国々の君主は西方と比較して一般大衆の目に触れる機会がずっと少ない、と本書は指摘します。本書は、民主政や共和政の伝統のないロシア革命で共和政的な政体が生まれる可能性は、民衆の教育水準の低さからも、ほとんどなかっただろう、と推測します。

 一方、民主政や共和政の伝統のあるイタリアでも独裁的なムッソリーニ政権が成立します。本書はこれに関して、ムッソリーニが巧みに古代ローマの印象を想起させたことが大きかったのではないか、と推測します。上述のように、ローマ共和政には軍国主義的性格が強く、本書はその本質を「共和政ファシズム」と把握しています。民衆はムッソリーニにローマ帝国の栄光の再現と強力な指導者を夢見た、と本書は指摘します。また本書は、ムッソリーニの独裁をもたらした理由として、イタリアが遅れてきた国民国家で、郷土愛が強く地域間の違いが大きいことも挙げています。一方、ヒトラーに関しては、ムッソリーニには見られない強い残虐性が、ヒトラー個人の劣等感に起因している可能性を、本書は指摘します。

 本書は、古代ギリシアとローマ、近代ヨーロッパの事例から、国家・社会には時として果断な決断を必要とする時があり、独裁者的な指導者が望ましい場合もあることを認めつつ、それを制約する必要性も指摘します。共和政ローマでは、独裁官(ディクタトル)の任期は半年に限定されていましたし、護民官など独裁者の暴走を防ぐシステムが内包されていました。ウイルス禍など疫病は自由主義的・民主主義的な手続きでは制御しづらいものの、古代ローマ史に学べば、非常事態故に半年間指導者に一任すべきといった考えも可能になるかもしれない、と本書は提言します。

 ローマより長く共和政が続いたのはヴェネツィアで、697年に最初のドージェ(執政官)が選出されてヴェネツィア共和国が成立し、1797年にナポレオンに征服されるまで、変容しつつも1000年以上、独自の共和政を維持しました。ヴェネツィアは領土拡大を志向しない通商交易国家で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)など近隣の大国が商業交易活動にさほど熱心ではない中、アジアとヨーロッパをつなぐ交易で富を蓄積しました。ヴェネツィアの人々は、共和政も民主政も一定以上の規模になると破綻すると認識していたのではないか、と本書は推測します。ヴェネツィアを支えたのが、造船技術と外交力でした。ヴェネツィアでは、独裁者の出現を防ぐために、限られた統治階級の人々の共同責任による共和政が導入されていきます。また、ドージェを選出するさいに、抽選と選挙を何度も繰り返す手法が導入されました。またヴェネツィアでは、指導者が世襲されることを警戒する気風もありました。しかし、議員の世襲制度は認められており、貴族の存在を前提と下共和政は、国家運営の「安定装置」として機能した側面もあることを、本書は指摘します。本書は、現代日本がヴェネツィアの共和政に学ぶべきことは多い、と提言します。

 本書は最後に、近い将来訪れるかもしれない「デジタル独裁」の可能性を取り上げています。人類は、AIという新たな神々の声を聴く時代へと突入しつつあるかもしれない、というわけです。本書は、AIによる「デジタル独裁」は、その判断の正しさから、プラトンが哲人皇帝を肯定したように、人々に受け入れられる可能性を指摘します。本書はこの「デジタル独裁」に関して、肯定的な側面がある可能性にも言及します。デジタル化やAI化の進展で人間に充分な時間ができ、新たな共同体が形成される可能性があり、共産主義が理想として語る、生産力の向上による人間の自由が実現されるかもしれない、というわけです。本書はこれと、古代ギリシアやローマの「市民社会」が奴隷を前提として成立していたこととの類似性を指摘します。

北アメリカ大陸の絶滅したダイアウルフのイヌ科進化史における位置づけ

 北アメリカ大陸の絶滅したダイアウルフ(Canis dirus)のイヌ科進化史における位置づけについての研究(Perri et al., 2021)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ダイアウルフは、巨大な(約68kg)オオカミのようなイヌ科で、アメリカ大陸の後期更新世大型動物相の最も一般的な絶滅した大型肉食獣の一つです。ダイアウルフは、北アメリカ大陸の古生物学の記録では少なくとも25万年前頃から、とくにより低緯度地帯では、更新世末の13000年前頃まで存在します(図1a)。後期更新世の北アメリカ大陸に存在した他のイヌ科種は、ダイアウルフよりも、わずかに小さなハイイロオオカミ(Canis lupus)、ずっと小さなコヨーテ(Canis latrans)およびドール(アカオオカミ、Cuon alpinus)がいますが、ダイアウルフの方が全体的に多かったようです。たとえば、カリフォルニア州の豊富な化石記録が残るアスファルトの池であるランチョラブレア(Rancho La Brea)のタール層だけで4000頭以上が発掘されており、ハイイロオオカミ(タイリクオオカミ)の100倍以上です。

 ダイアウルフの化石が豊富であるにも関わらず、その起源・分類学的関係・絶滅の究極的な動員は不明確なままです。ダイアウルフは一般的に、ハイイロオオカミの姉妹種、あるいは同種とさえ説明されています。ダイアウルフの絶滅を説明する主要な仮説は、ハイイロオオカミやコヨーテと比較してより大きい身体サイズのため、ダイアウルフは大型の獲物の狩猟に特化しており、大型動物相の獲物の絶滅を生き残れなかった、というものです。この仮説を検証するため、この研究は700点以上の標本の幾何学的形態計測分析を実行しました。本論文の結果から、ダイアウルフとハイイロオオカミの標本は区別できるものの、その形態はひじょうに類似していた(図1b)、と示唆されます。この形態計測の類似性は、部分的には相対成長(アロメトリー)に駆動されているかもしれませんが、ハイイロオオカミとダイアウルフとの間の区別の欠如は、密接な進化的関係の結果である、と解釈されてきました。あるいは、競合する仮説では、これらの形態学的類似性は収斂の結果であり、代わりにダイアウルフは別の分類学的系統に属する種である、と主張されています。つまり、単一種属のアエノショーン(Aenocyon)に分類される、「恐ろしい(terribleもしくはdreadful)」オオカミである、というわけです。以下、本論文の図1です。
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 ダイアウルフの進化史を解明するため、保存されたゲノムDNAの存在について46点の半化石標本がスクリーニングされました。ハイブリダイゼーションキャプチャー法もしくはショットガン配列法を用いて、アイダホ州(DireAFRおよびDireGB)、オハイオ州(DireSP)、テネシー州(DireGWC)、ワイオミング州(DireNTC)の5点の標本が特定されました。これらの年代は50000~12900年前頃で、ミトコンドリアゲノム(網羅率は1~31倍)と低網羅率の核ゲノム(網羅率は約0.01~0.23倍)を得るのに充分な内在性DNAが存在します。これらの標本は全て、古代DNに典型的な損傷特性を示しました。ラブレアのタール層のダイアウルフ標本からのDNA配列には成功しませんでしたが、そのうち1標本は、古プロテオーム法を用いての配列に適したタイプ1コラーゲン(COL1)を含んでいました。

 ダイアウルフのCOL1配列の分析から、ダイアウルフは、ハイイロオオカミ、コヨーテ、アフリカンゴールデンウルフ(Canis lupaster)、もしくはイヌ(Canis familiaris)とは密接に関係していなかった、と示唆されます。しかし、これらのデータは、これらの種間の系統固有のアミノ酸変化の欠如のため、より遠い関係のイヌ科間の関係を確定的には解決できません。ミトコンドリアゲノムの系統分析からは、ダイアウルフは、ハイイロオオカミおよびコヨーテとは大きく分岐した、よく裏づけられた単系統的な集団を形成していた、と示唆され、最近の古生物学的分析とは矛盾します(図1b)。しかし、イヌ科のミトコンドリア系統は種の真の進化的関係を表していないかもしれません。なぜならば、混合と不完全な系統分類の両方が、イヌ科の系統に影響を及ぼしてきた、と示されているからです。

 ダイアウルフの系統関係を解明するため、ダイアウルフの核ゲノムが、8種の現生イヌ科の既知のゲノムデータとともに分析されました。それは、ハイイロオオカミ、コヨーテ、アフリカンゴールデンウルフ、ドール(アカオオカミ)、アビシニアジャッカル(Canis simensis)、リカオン(Lycaon pictus)、クルペオギツネ(Lycalopex culpaeus)、外群としてのハイイロギツネ(Urocyon cinereoargenteus)です。これらの種のうち、ハイイロオオカミとコヨーテとドールとハイイロギツネは、更新世においてダイアウルフと生息範囲が重なっていました(図1a)。また、モンタナ州のハイイロオオカミ1頭と、アフリカ固有のジャッカル、つまりセグロジャッカル(Canis mesomelas)とヨコスジジャッカル(Canis adustus)の新たなゲノム配列も生成され、イヌ属とリカオン属とドール属とその絶滅近縁系統を含む「オオカミ的なイヌ科」クレード(単系統群)全ての現生種を確実に示しました。7万塩基対と2800万塩基対の核ゲノム配列に基づくSupermatrix分析では、ダイアウルフと他のオオカミ的なイヌ科との遠い進化的関係が確認されました(図2a)。しかし、この分析では、ダイアウルフがオオカミ的なイヌ科クレードの基底部に位置するのか、アフリカのジャッカル2種の共通祖先の後に分岐する第二の系統なのか、明確に解決できませんでした。

 一連の種系統樹分析とD統計を用いて、イヌ科の系統関係とがより詳しく調べられました。これらの手法により、主要な3系統の単系統性を裏づける一致した系統樹が生成されました。つまり、ダイアウルフとアフリカのジャッカルと他の全ての現生のオオカミ的なイヌ科を含むクレードです。本論文の種系統樹では、これらの系統間の関係について曖昧な結果が提供されましたが、イヌ属のハイイロオオカミは、ともにイヌ属とされてきたダイアウルフもしくはアフリカのジャッカルよりも、アフリカのリカオン属やドール属やアビシニアジャッカルの方と密接に関連しています。この知見は、アフリカのジャッカルをルプレラ(Lupulella)属、ダイアウルフをアエノショーン(Aenocyon)属に分類する以前の提案と一致します。

 主要なオオカミ的なイヌ科系統の分岐年代を評価するため、MCMCtreeを用いてベイズ時計年代測定分析が実行されました。ダイアウルフの配列は網羅率が低く、死後損傷が含まれていますが、広範なシミュレーションから、MCMCtreeにより推測される分岐推定年代に影響を及ぼす可能性は低い、と示唆されました。この分析により、主要なオオカミ的なイヌ科3系統(ダイアウルフ系統、アフリカのジャッカル系統、他の全ての現生のオオカミ的なイヌ科系統)の分岐は急速に起き、不完全な系統分類の結果として系統樹の解像度が低下する、と確認されました。ダイアウルフ系統は最後に、最高事後密度(highest posterior density、略してHPD)95%で850万~400万年前頃(570万年前頃)に現生のオオカミ的なイヌ科と共通祖先を有しており、その後でアフリカのジャッカルと510万年前頃に(HPD95%で760万~350万年前頃)に分岐しました。

 同所性のイヌ科種には交雑する傾向があることを考慮し、22頭の現代の北アメリカ大陸のハイイロオオカミおよびコヨーテと、古代のイヌ3頭(関連記事)と更新世のオオカミ1頭を含むデータセットのD統計を用いて、現生の北アメリカ大陸のイヌ科種とダイアウルフとの間の混合のゲノム兆候が検証されました。具体的には、外群のハイイロギツネ、ダイアウルフ、北アメリカ大陸のイヌ科種(ハイイロオオカミもしくはコヨーテ)、アフリカおよびユーラシアのオオカミで検証されました。その結果、ダイアウルフとあらゆる現生北アメリカ大陸イヌ科種との間には、共有される派生的アレル(対立遺伝子)の有意な過剰はない、と明らかになりました。この結果から、本論文で取り上げられたダイアウルフは、ハイイロオオカミもしくはコヨーテもしくはそれらの最近の北アメリカ大陸の祖先からの系統を有していない、と示唆されます。標本抽出されていないイヌ科集団がダイアウルフの交雑系統を有している可能性は除外できませんが、リカオンは、ハイイロオオカミ、コヨーテ、リカオン、ドールもしくはアビシニアジャッカルとよりも、ダイアウルフの方との派生的アレルの共有が少ない、と明らかになりました(図2c)。これは、ダイアウルフの祖先とオオカミやコヨーテやドールの祖先との間の古代の混合が、少なくとも300万年前頃に起きたことを示唆し(図2a)、それは基底部のオオカミ的なイヌ科系統の分岐順序を解決するという課題に寄与したかもしれません。以下、本論文の図2です。
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 交雑は、生息範囲が重なる時、オオカミ的なイヌ科系統間では一般的です。たとえば、現代のハイイロオオカミとコヨーテは北アメリカ大陸では容易に交雑します。ゲノムデータでも、更新世にドールとリカオンとの間の遺伝子流動が起き、それは両者の分岐から数百万年後だった、と示唆されています。その結果、後期更新世におけるダイアウルフとのかなりの生息範囲の重なりにも関わらず、ダイアウルフとハイイロオオカミもしくはコヨーテもしくはそれらの共通祖先との間の遺伝子流動の証拠はない、という本論文の知見からは、ハイイロオオカミとコヨーテの共通祖先はおそらく、ダイアウルフ系統とは地理的に孤立して進化した、と示唆されます。この結果は、ダイアウルフはアメリカ大陸に起源があり、おそらくは絶滅したアームブラスターオオカミ(Canis armbrusteri)と同じ系統に属する、という仮説と一致します。

 アメリカ大陸におけるダイアウルフ系統の長期の孤立から、コヨーテの近縁と提案されているエドワードオオカミ(Canis edwardii)のような他のアメリカ大陸の化石分類群が、代わりにダイアウルフ系統に属するかもしれない、と示唆されます。したがって、現生のオオカミ的なイヌ科の多様化は、おそらくアメリカ大陸外で並行して起き、多分じゅうらいの仮説よりも早く始まりました。現生イヌ科種は、絶滅したユーショーン属の「旧世界」系統の子孫かもしれず、中新世末にアフリカとユーラシアの化石記録に初めて出現するようです。中新世以来の地理的孤立は、本論文におけるダイアウルフ系統の分枝推定年代と一致し、ダイアウルフは、後期更新世の北アメリカ大陸におけるハイイロオオカミやコヨーテやドールやゼノショーン属(Xenocyon、別の絶滅したオオカミ的なイヌ科)の到来前に、ある程度の生殖隔離を進化させていたかもしれません。

 全体的な表現型の類似性にも関わらず、ハイイロオオカミとコヨーテは後期更新世の大型動物相絶滅を生き残りましたが、ダイアウルフは絶滅しました。考えられる理由の一つは、ハイイロオオカミとコヨーテは両方、より大きな形態的可塑性と食性柔軟性を有していたので、北アメリカ大陸において絶滅を避けられ、支配的な陸生捕食者になった、というものです。このシナリオは、テネシー州の標本(DireGWC)から得られた、12820~12720年前頃となる較正年代により裏づけられます。これが示唆するのは、ダイアウルフは少なくともヤンガードライアス期の寒の戻りまで生き残っていた、ということです。ヤンガードライアスは、アメリカライオン(Panthera atrox)や巨大短面クマ(Arctodus simus)のような他の特殊化した北アメリカ大陸の大型捕食者が、最後に記録に見られる時期です。

 あるいは、ハイイロオオカミとコヨーテは、他のイヌ科との交雑する能力の結果として生き残ったかもしれません。イヌとの適応的遺伝子移入を通じて、北アメリカ大陸のハイイロオオカミは経路や低酸素症や免疫反応に関連する特性を獲得した、と知られています。具体的には、免疫力の強化により、ハイイロオオカミは新たに到来した「旧世界」分類群の有する病気に抵抗できたかもしれません。本論文の結果は、ダイアウルフがあらゆる他のオオカミ的なイヌ科種系統に由来しないことを示したので、生殖隔離がダイアウルフに完新世での生存を可能とする特性の獲得を妨げた、と考えられます。本論文は、形態に基づく絶滅動物の分類の難しさと、古代DNA研究の威力を改めて示しており、注目されます。イヌ科の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、今後もじゅうらいの有力説が修正されることは多そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:ダイアウルフは進化的に孤立したために窮地に追い込まれた

 絶滅したダイアウルフ(Canis dirus)とオオカミ似の現生動物種の直近の共通祖先は、約570万年前までさかのぼることを明らかにした論文が、今週、Nature に掲載される。今回の遺伝子解析の結果はまた、ダイアウルフはアメリカ大陸起源だが、タイリクオオカミ(Canis lupus)とコヨーテ(Canis latrans)とドール(Cuon alpinus)の祖先はユーラシアで進化し、その後、北米に定着したことを示唆している。

 ダイアウルフは、オオカミ似の大型動物種で、後期更新世(約12万6000~1万2000年前)のアメリカ大陸に生息していた最も一般的な肉食動物の一種である。ダイアウルフとタイリクオオカミは、体形が似ていることから近縁種だったと考えられているが、正確な関係は明らかになっていない。

 今回Laurent Frantzたちは、ダイアウルフの進化史に関する手掛かりを得るため、5万~1万2900年前のダイアウルフの骨化石5点から得たDNAの塩基配列を解読した。その結果、ダイアウルフとオオカミ似の現生のイヌ科動物の直近の共通祖先は、約570万年前までさかのぼり、ダイアウルフは、約510万年前にアフリカに生息していたジャッカル(Canis mesomelasおよびCanis adustus)から分岐したことが明らかになった。また、ダイアウルフ、タイリクオオカミ、コヨーテの間に遺伝子流動があったことを示す証拠は得られなかった。Frantzたちによれば、このことから、混合が起こった可能性は低く、ダイアウルフがタイリクオオカミやコヨーテの祖先から地理的に孤立した状況で進化したことが示唆されるという。

 Frantzたちは、ダイアウルフは、他のオオカミ似の動物種の祖先から分岐したのではなかったため、後期更新世の大型動物相の絶滅における生き残りに役立ったかもしれない形質を獲得できなかった可能性があると考えている。



参考文献:
Perri AR. et al.(2021): Dire wolves were the last of an ancient New World canid lineage. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03082-x

『卑弥呼』第55話「天命」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年2月5日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが山社(ヤマト)の楼観で自分を犯したナツハに、自分の弟のチカラオだと指摘するところで終了しました。今回は、ヤノハとチカラオが故郷の邑でともに暮らしていた場面から始まります。犬と遊んでいるチカラオを、義母から叱られるぞ、とヤノハが窘めます。チカラオは、遊んでいるのではない、犬を食料としか考えてない輩が大勢いるが、人との戦い方を仕込んでおかねばならない、と反論します。今日の夕食は強米(オコワ)だ、とヤノハが言うとチカラオは御馳走だと喜びます。義母は、明日不吉なことが起こるかもしれないから今夜は力を蓄えろ、とヤノハに指示していました。義母のいる祠に向かうヤノハは、犬と遊んでいるチカラオを見て、いつまでも童だと苦笑します。ヤノハが祠に水を持っていくと、義母が祈りを捧げていました。義母は祈りを捧げて5日目になりますが、水を飲んでいるだけでした。義母は祈りの時、いつも水を飲むだけのようですが、今回の御祈祷は特別なようです。天照大神様が明日本当に天岩戸に籠るのか、とヤノハに問われた義母は、天照様のご機嫌次第だが、明日は前にお隠れになった日からが18年と11日目だから、と答えます。昼間に太陽が隠れると、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)のどこかで最悪のことが起きる、と言う義母に、何かあれば自分とチカラオで邑人を守る、とヤノハは力強く誓います。その晩、邑は襲撃され、ヤノハはチカラオを起こしてと答えます。襲って来たのは、海の向こう(四国でしょうか)の五百木(イオキ)の賊でした。ヤノハはチカラオに、自分は義母に知らせてくるので、邑人達を山に逃すよう、指示します。死ぬなよ、と言ってヤノハは山に駆け出します。チカラオは犬を呼び、賊に対処します。

 菟狭(ウサ、現在の大分県宇佐市でしょうか)では、サヌ王(記紀の神武天皇と思われます)の子孫が支配すると言われる日下(ヒノモト)の国へと向かう、トメ将軍とミマアキが休息していました。日の出を待って内海(ウチウミ、瀬戸内海でしょうか)を斜めに横断して埃国(エノクニ)の宮(現在の広島県安芸府中町の多家神社でしょうか)に向かう、と言うトメ将軍に、サヌ王は菟狭にも滞在したのか、とミマアキは尋ねます。そうだ、と答えたトメ将軍は、近くに見える山に祈祷女(イノリメ)の集団が住んでおり、歴代の日見子(ヒミコ)の多くがこの地の出身だ、と言います。後の宇佐神宮ということでしょうか。今の日見子様(ヤノハ)もここから養女に迎えられたのだろうか、ミマアキに尋ねられたトメ将軍は、日見子様は自分がどこの出身か思い出せないと言っている、と答えます。昨日トメ将軍は菟狭の祈祷女に自分たちの航海を占ってもらい、今が好機との返答を得ていました。日下は吉備(キビ)を制し、鬼国(キノクニ)に睨みを利かせ、淡々と金砂(カナスナ)国を狙っていましたが、最近になって沈黙したそうだ、とミマアキに説明したトメ将軍は、日下に何が起きたのか分からないが、今なら日下を偵察しても無事に帰れるかもしれない、と言います。日下が力を失った場合、豊秋津島(トヨアキツシマ、本州を指すと思われます)の諸国はどうなるのか、伊予之二名島(イヨノフタナノシマ、四国と思われます)の伊予(イヨ)・五百木(イオキ)・土器(ドキ)・賛支(サヌキ)・賛支(サヌキ)・土左(トサ)に、内海の伯方(ハカタ)の動向も気になる、と言うミマアキに、日見子様の天命次第だな、とトメ将軍は答えます。

 それが、ヤノハが再会前に見たチカラオの最後の姿でした。山社の楼観でヤノハはちからに、お前は死んだと思っていた、と言います。何も覚えていないのか、とヤノハに問われたチカラオは肯きますが、自分の話を信じたのか、とヤノハに問われると再度頷きます。ヤノハが祠に着くと、すでに義母は斬首されていました。風向きが変わり、山社が火事から逃れたことを悟ったヤノハは、さすがはミマト将軍だ、と感心します。先ほどまでは、炎が自分たちを焼き尽くしてしまえばよいと考えていた、とチカラオ(ナツハ)に打ち明けたヤノハは、倭国の王たちは、姉や妹、兄や弟、時には母すらも妻に娶り、それは一族の血を守るためだと言うが、義母は、その行為は天罰が下る所業だと言っていた、とチカラオに説明します。自分が男と通じたことも必ず誰かに知られるから、我々は二人とも命はなく、自分の天命も尽きたということだ、とヤノハ自嘲しますが、すぐに、だが自分は死にたくないし、やっと巡り合えた弟のチカラオも失いたくない、と言います。もう倭の泰平はどうでもよい、と言ったヤノハが、ともに山社から逃げよう、とチカラオに提案するところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハとチカラオ(ナツハ)との過去が明かされました。チカラオは当時から犬を訓練していたようで、故郷の邑が襲撃されたさいに賊の捕虜となり、奴隷のような扱いを受け、その過酷な経験のなかで、話せなくなり過去の重要な記憶も失われた、という設定のようです。チカラオはヤノハとの記憶を失っていたので、自分が慕うヒルメからヤノハを犯すよう命じられても全く動揺しなかった、ということなのでしょう。今回の描写から、姉弟の仲は良好だったと窺えますから、冷酷で用心深いヤノハも、弟かもしれないと考えてつい油断してしまったようです。ヤノハがチカラオに共に山社からの逃亡しよう、と提案したのは予想外でした。妊娠しない限り、ヤノハが男と通じたことは分からないように思いますが、優れた祈祷女には見抜かれる、ということなのでしょうか。予想外のヤノハの提案でしたが、生きることに必死だったこれまでの描写を考えると、ヤノハらしい選択とも言えます。モモソが序盤で殺されたので、ヤノハが『三国志』に見える卑弥呼(日見子)になるのは確実と考えていましたが、順調に倭国王となるのではなく、今後も多くの危難が待ち構えている、ということでしょうか。今後どのように話が展開するのか、楽しみです。

 今回は、日下に向かっているトメ将軍から重要な情報が明かされたことも注目されます。影響力を拡大していたらしい日下が最近になって沈黙した理由は、今後の展開と深く関わってきそうです。日下は吉備を制したそうですが、纏向遺跡と初期前方後円墳では吉備の大きな影響力が指摘されているので、すでに日下では纏向遺跡が建設されており、発展途上なのかもしれません。現在は日向にある山社国(邪馬台国)が、後には纏向遺跡一帯に「遷都」するのではないか、と私は以前から予想していますが、どうなるでしょうか。また、山社だけではなく、すでに出雲も聖地であることが明かされていましたが、今回の描写から推測すると、菟狭(宇佐)も聖地のようです。菟狭は、歴代の日見子のうち多くの出身地とのことですから、あるいは今後、重要な役割を担うことになるかもしれません。次回もたいへん楽しみです。

再来年(2023年)の大河ドラマは徳川家康が主人公の『どうする家康』

 再来年(2023年)の大河ドラマは、徳川家康が主人公の『どうする家康』に決定した、報道とされました。主演は松本潤氏、脚本は古沢良太氏とのことです。再来年の大河ドラマは戦国時代が舞台になるだろう、とは予想していましたが(関連記事)、徳川家康が主人公とは予想していませんでした。古沢良太氏脚本の作品を視聴したことはありませんが、売れっ子の脚本家であることは知っています。大河ドラマらしからぬ軽い題名ですから、喜劇調で話が進むのでしょうか。古沢氏の作風を知らないので、現時点では私には予想の難しいところですが。

 家康を主人公として少年時代から描く大河ドラマは、1983年放送の『徳川家康』に続いて2作目となります。王道ものを題材として、売れっ子の脚本家と国民的人気を誇るアイドルグループのメンバーを主演とするあたりに、NHKの意気込みが感じられます。近年、大河ドラマの視聴率が低迷していますから、NHKは本作での挽回を企図しているのでしょう。題材・脚本家・主演と、話題を呼ぶ要素が揃っており、期待値はかなり高くなりそうですから、その分大変ではあると思います。質はもちろん視聴率の点でも、何とか成功してもらいたいものです。

 問題となるのは、1983年放送の『徳川家康』の感想記事でも書いたように、家康の長い生涯を1年で描こうとすると、かなり駆け足になってしまうのではないか、ということです。しかも、『徳川家康』は全50回で、初回と最終回は90分の拡大放送でしたから実質52回分だったのに対して、近年の大河ドラマは47回が上限とされているようですから、なおさら心配ではあります。家康ならば逸話は豊富なので、2年かけて放送しても時間を埋めるのに苦労することはなさそうですが、連続テレビドラマで2年連続のほぼ毎週放送は、さすがに現代では難しいでしょうか。

 『徳川家康』では、三河一向一揆も含めて三方ヶ原の戦いまでは本当に駆け足で、小牧・長久手の戦いも意外とあっさり風味でしたが、本作でも、武田との戦いや織田信長との関係や関ヶ原の戦いや大坂の陣など特定の話を丁寧に描き、その他は駆け足気味になるのでしょうか。本多正信が『徳川家康』の時よりもずっと重要人物だとすると、三河一向一揆は丁寧に描かれるかもしれません。長命だった徳川家康を主人公とすると、武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・黒田官兵衛・伊達政宗・真田信繁など、過去に大河ドラマで主人公になった人物を序盤から終盤まで登場させられますから、配役も大きな注目を集めそうです。

スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画

 スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画に関する研究(Brumm et al., 2021)が報道されました。スラウェシ島はワラセアで最大の島(174000㎢)で、アジア大陸とオーストラリア大陸との間に位置するオセアニアの生物地理的に異なる区域です。スラウェシ島には長い人類の居住史があります。スラウェシ島における人類最古の痕跡は、スラウェシ島南西部の町であるマロス(Maros)北東のウァラナエ盆地(Walanae Basin)にある、中期~後期更新世(194000~118000年前頃)のタレプ(Talepu)遺跡です(関連記事)。タレプ遺跡の石器群の製作者は、まだ特定されていない非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属)かもしれません。

 現生人類(Homo sapiens)がいつスラウェシ島に到来したのか、まだ確かではありません。現生人類は、アジア南東部本土(更新世寒冷期には現在のアジア南東部の多くの島々も陸続きとなって広大なスンダランドを形成していました)には73000~63000年前頃、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)には69000~59000年前頃には拡散していた、との見解も提示されていますが、疑問も呈されています(関連記事)。サフルランドにおける初期現生人類の到来モデルの一部では、スラウェシ島がワラセア北部からスンダランド西端までの航海の最初の「停留所」と想定されています。現生人類が、オーストラリア大陸もしくはサフルランドへ69000~59000年前頃に到来していたとすると、その頃までにスラウェシ島にも到達していたかもしれません。

 現時点で、スラウェシ島における現生人類到来の最古の代理的証拠は岩絵です(関連記事)。スラウェシ島の岩絵は、マロス・パンケプ(Maros–Pangkep)地方で最初に確認され、この地域では洞窟と岩陰で約300点の壁に描かれた絵が特定されています。洞窟壁画遺跡2ヶ所の年代から、更新世の初期様式と、その後の4000年前頃となるオーストロネシア語族農耕民到来と「新石器時代」農耕以降の2段階が特定されています。重複画像の順序が明らかでない場合、前者と後者は主題・技術・保存の点で区別できます。

 オーストロネシア語族集団よりも前の岩絵は、手形と具象的な動物の絵により特徴づけられます。ほとんどの場合、動物の絵は、筆もしくは指先を用いて単色(通常は赤もしくは紫・濃赤紫色)で描かれました。これらの絵は、輪郭表現がいくらか単純化された形式で描かれました。動物の輪郭は通常、認識可能な解剖学的詳細ではなく、不規則なパターンの線と破線で、充填は稀です。最も識別可能な動物の絵は、スラウェシ島で最大の固有の陸生哺乳類である、イノシシと小型アジアスイギュウ(アノア)です。絵ではイノシシが支配的で、73点の壁に描かれたイノシシもしくはイノシシ的な具象が特定されています。イノシシのほとんどは、特徴的な顔のイボを有する短い脚の小柄な(40~85kg)スラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)のようです。スラウェシ島イボイノシシ(以下、イボイノシシ)はスラウェシ島固有種ですが、先史時代後期に現在のインドネシア内に広く導入されました。

 マロス・パンケプ地方の5点の動物具象画は、炭酸カルシウム堆積物関連のウラン系列法では、後期更新世と推定されました。最古の絵は、リアンブルシポン4号(Leang Bulu' Sipong 4)洞窟(図1の4)に描かれ、幅4.5mで、イボイノシやアノアを狩っているように見える人物の場面が描かれています。スラウェシ島のイボイノシシの絵で最古のものは43900年前頃で、アノアの絵2点の年代は41000および40900年以上前です。リアンティンプセン(Leang Timpuseng)遺跡(図1の2)では、イノシシの具象的描写の年代は35400年以上前です。リアンバルガッヤ2(Leang Barugayya 2)遺跡では、イノシシのような動物の絵の年代は35700年以上前です。マロス・パンケプ地方のさまざまな遺跡の手形の年代は、39900~17400年前頃です。

 マロス地区の2ヶ所の岩絵遺跡であるリアンブルベッテュー(Leang Bulu Bettue)とリアンブルング2(Leang Burung 2)では、後期更新世の顔料処理の証拠が同じ場所で明らかになりました。両遺跡ではオーカー断片が、リアンブルベッテュー遺跡ではオーカーで着色された人工物が見つかっています。リアンブルベッテュー遺跡では、24000~16000年前頃の、具象的芸術作品や抽象的芸術作品が発見されています。ほぼ同様の古代の岩絵制作の証拠は、スラウェシ島に隣接するボルネオ島のカルスト地域で見つかっています。東カリマンタン州のルバン・ジェリジ・サレー(Lubang Jeriji Saléh)洞窟では、ウラン系列法により、ボルネオ島の野生ウシであるバンテン(Bos javanicus lowi)の具象画の年代が4万年以上前と推定されています(関連記事)。

 本論文は、スラウェシ島のマロス・パンケプ地方で最近発見された2点の後期更新世具象画の、洞窟二次生成物のウラン系列年代測定結果を報告します。これらの壁画は、リアンテドンゲ(Leang Tedongnge)とリアンバランガジア1(Leang Balangajia 1)という、2ヶ所の新たに特定された洞窟芸術遺跡で発見されました(前者が図1の1、後者が図1の6)。以下、本論文の図1です。
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●遺跡と壁画

 リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟の2点の具象的なイノシシの絵と、リアンバランガジア1洞窟で重ねて描かれた手形の上に形成されてきた、小さな珊瑚状の洞窟二次生成物のウラン系列同位体分析が行なわれました。イノシシの絵の一方(図2および図3)は、マロス・パンケプ地方のカルスト地区の境界上の人里離れた渓谷に位置するリアンテドンゲ石灰岩洞窟にあります。もう一方のイノシシの絵(図4)は、マロス地区南部のリアンバランガジア1石灰岩洞窟にあります。両洞窟で、2017年と2018年に未知の岩絵が発見されました。以下、本論文の図2です。
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 リアンテドンゲ洞窟(図2および図3)とリアンバランガジア1洞窟(図4)のイノシシの絵は、ともに赤色もしくは濃赤・濃赤紫色の鉱物顔料(オーカー)で描かれました。どちらも、イノシシの絵の描写は完全な体の輪郭で構成されており、不動または静止した位置で表されます。絵の輪郭は、線と破線の不規則なパターンです。イノシシの輪郭表現において、主要な性的特徴(生殖器や乳腺など)は明確に描写されませんでしたが、第二次性徴が描かれている可能性はあります。以下、本論文の図3です。
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 リアンテドンゲ洞窟では、年代が測定されたイノシシの絵(イノシシ1)は、洞窟の後壁に描かれています(図2)。イノシシ1は136cm×54cmで、後部の上部と近くに位置する手形と関連しています。少なくとも2もしくは3点の他のイノシシの絵(イノシシ2および3)は、同じ壁面に描かれています。比較的完全なイノシシ1とは対照的に、イノシシ2および3は、剥離のために部分的にしか見えませんが、ともに頭部は明確に見えます。動物の姿は向かい合って描かれているようです。イノシシ1はイノシシ2および3の左側に、それら2頭を見るように描かれています。絵の配置は、現代西洋的な意味での物語の構成もしくは場面かもしれない、と本論文は推測します。この一連のイノシシの絵は、少なくとも3点、あるいは4点となり、個々のイノシシ間の社会的相互作用の挿話の描写が目的だったかもしれない、と推測されます。

 リアンバランガジア1洞窟では、大きな赤いイノシシの絵が小さな側面の部屋の天井に描かれています。このイノシシの絵は、長さが187cm、高さが110cmです(図4)。この部屋の壁と天井には、おそらく少なくとも2点の他の具象的な動物の絵が描かれています。しかし、保存状態はひじょうに悪く、ほぼ不明瞭です。大きな赤いイノシシの絵の上に、4点の手形が重ねられています(図4)。以下、本論文の図4です。
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●リアンテドンゲ洞窟のウラン系列同位体年代測定

 リアンテドンゲ洞窟の完全な具象的なイノシシの絵(イノシシ1)の上の小さな珊瑚状の洞窟二次生成物の、ウラン系列同位体分析が行なわれました(図5)。イノシシ1の後ろ足の一つと関連する赤い顔料の上に、二次生成物(12 mm²)が重なっている、と観察されました(図5A~C)。この洞窟二次生成物は小さすぎるので回転工具で除去できず、小さなノミで壁面から抉られました。回収された標本(LTed3)は、高密度で非多孔性の方解石の複数の層で構成されています。洞窟二次生成物の成分は、その外面から顔料層を通って下の岩面まで伸びています(図5D・E)。

 LTed3は、任意の地点で小さく掘削され、4点の部分標本が得られました(図5F・G)。標本の全長にわたって、絵に対応する赤い顔料層が観察されました。合計で3点のウラン系列年代測定値が得られました。これらの年代は、不確実性の範囲内で区別できないものでした。これは、ウランとトリウムの閉鎖系状況を示唆します。ウラン系列年代測定の結果、リアンテドンゲ洞窟における巨大なイノシシの絵(イノシシ1)は45500年以上前と示唆されました。以下、本論文の図5です。
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●リアンバランガジア1洞窟のウラン系列同位体年代測定

 大きな赤いイノシシの絵と手形の上にある2点の小さな珊瑚状の洞窟二次生成物(それぞれ標本LBLGJ1およびLBLGJ2)のウラン系列動態分析が行なわれました(図6)。上述のように、手形はイノシシの絵の上に重なっているので、絵の下限年代を提供します。LBLGJ1(150 mm²)およびLBLGJ2(100 mm²)では、それぞれ4点と5点の部分標本が得られました。イノシシの絵と手形の両方を覆う標本は、高密度で非多孔性の方解石の複数の層で構成されています。各標本の全長にわたって、イノシシの絵と手形に対応する顔料層が明確に観察されました。

 合計で、赤いイノシシの絵とその上の手形に関して、9点のウラン系列年代測定値が得られました。LBLGJ1は、表面で下層よりも古い年代を示しました。この表面の部分標本(LBLGJ1.1)は、風化して砕けやすい洞窟二次生成物の一部を含んでいるので、表面のウランの部分的な浸出が原因と考えられます。部分標本LBLGJ1.2と部分標本LBLGJ1.3は、わずかに逆の年代(100年程度)を示します。これは、さまざまな年代の一連の同心円状の成長層および/もしくは「堆積」に起因すると考えられます。赤いイノシシの絵の最小のウラン系列年代値は29700年前頃(LBLGJ1.2)です。最大のウラン系列年代値は82600年前頃で、部分標本LBLGJ1.4に由来します。

 標本LBLGJ2は、2000年ほど新しいLBLGJ2.3を除いて、ウランとトリウムの閉鎖系状態に典型的な特性を示します。LBLGJ2の年代異常(逆転)は、部分標本抽出戦略の副産物および珊瑚状の洞窟二次生成物形成の複雑な過程として解釈されます。断面図(図6E)で明らかにされた内部成長構造は明確により複雑で、標本抽出過程における、異なる部分標本間の異なる割合での交差成長層混合の可能性が高いことを示唆します。したがって、部分標本LBLGJ2.4による32000年前頃となるウラン系列年代値は手形の下限年代を表し、73400年前頃というこの絵の上限年代はLBLGJ2.5に由来します。大きな赤いイノシシの絵の上に手形が重ねられているので、この具象的なイノシシの絵の年代は73400~32000年前頃となります。以下、本論文の図6です。
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●岩絵で描かれたイノシシの識別

 リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟で描かれたイノシシの絵の特徴のさまざまな識別により、これらの動物がスラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)の芸術的表現と結論づけられます。目や耳や筋肉の状態や毛の模様・色や鼻や犬歯(牙)など、スラウェシ島イボイノシシ(以下、イボイノシシ)の識別可能な解剖学的詳細は明らかに描写されていません(しかし、目に関しては描かれた可能性があります)。それにも関わらず、イボイノシシの診断特性は、絵の輪郭(図2~4)で識別可能です。それは、(1)頭頂部と背中上部の短い破線の列で表される「尖った」頭頂部と、(2)上部の鼻領域に並んで描かれた2ヶ所の目立つ角のような突起により表される眼窩前のイボが確認できるからです。

 (1)は明確に描写されており、容易に区別できます。(2)に関しては、鼻の上の隆起は表面的には耳に似ています。しかし、芸術的表現と認めるとしても、これらの形態は鼻に沿って配置されすぎており、大きすぎて耳を適切に表現できていない、と考えられます。またそれらは、犬歯(牙)の様式化された、あるいは歪んだ表現ではなさそうで、イボイノシシでは口から横方向に犬歯が突き出ています。これらの特徴は、イボイノシシの際立った形態学的特徴の一つを構成する眼窩前の顔面のイボと最も一致している、と推測されます。イボイノシシの顔面のイボは雄で最も顕著に見られ、加齢に伴って大きくなります。したがって、リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟のイノシシの絵は、成体の雄のスラウェシ島イボイノシシの描写と考えられます。イボイノシシの眼窩前のイボは、いわゆる捻じれた観点で描かれていることに注意が必要です。これは先史時代芸術における図像表現の一般的手法で、動物の単一の輪郭特性の絵を用いて、さまざまな観点から観察された時に見物人にどのように見えるのか、考慮して描写する必要があります。

 年代測定されたイノシシの絵は、スラウェシ島固有のイノシシの他の唯一の現生種であるバビルサ(Babyrousa sp.)の外部形態とは一致しません。バビルサは雄の成体では、下向きではなく、鼻の上で後方に螺旋状に成長する華麗な上顎犬歯を含む、独特な解剖学的特徴を有しています。以前には、リアンティンプセン洞窟の後期更新世のイノシシの絵は、雌のバビルサの具象的表現として解釈されました(関連記事)。しかし、この絵は、スラウェシ島イボイノシシの若い雌もしくは亜成体の雄を描いている可能性もあります。カワイノシシ族のコルポコエルス属種(Celebochoerus spp.)は、新石器時代の前にスラウェシ島に生息していた唯一の他のイノシシ族です。しかし、絶滅したこの「巨大な」イノシシ系統は、前期~中期更新世の化石記録でのみ知られています。現生人類がこの祖先的で頑丈なイノシシとスラウェシ島で時間的に重複した、という証拠はありません。

 スラウェシ島イボイノシシとして識別されるリアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟の年代測定されたイノシシの絵はどちらも、首の下部に乳頭様付属器官に似た一組のコブという、見慣れない解剖学的特徴で描かれていました。リアンバランガジア1洞窟のイノシシの絵では、その形態は毛深さもしくは剛毛のようです。したがって、外観ではそれらが飾り房のような印象を与えます。この正体不明の形態的特徴は、リアンテドンゲ洞窟の同じ岩絵壁面で描かれた他の2点のイノシシの絵でも明らかで、本論文はこれらの動物の主題を、スラウェシ島イボイノシシの明確な表現とみなしています。同様の形態は、グアウハリー(Gua Uhallie)洞窟(図1の5)の、年代測定されていない大きな不規則の輪郭のスラウェシ島イボイノシシの2点の絵でも明らかです。今後の研究では、この正体不明の特徴の考えられる説明が検討されます。


●考察

 まとめると、ウラン系列年代測定の結果は、リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟のスラウェシ島イボイノシシの絵の下限年代が、それぞれ45500年前頃と32000年前頃であることを示します。下限年代が45500年前頃であるリアンテドンゲ洞窟の絵は、スラウェシ島で最古の既知の年代測定された芸術作品のようです。またこれは、スラウェシ島、さらには恐らくより広範なワラセア地域における現生人類の存在の報告された最古の指標を表しています。リアンテドンゲ洞窟の岩絵壁面に描かれている、まだ年代測定されていないイノシシの絵の推定下限年代も同様と推測されます。上述のように、これらのイノシシの絵は、年代測定された絵とともに、単一の物語の構成もしくは場面を構成しているようで、おそらくはスラウェシ島イボイノシシ間の社会的相互作用の描写です。確認できる限りでは、リアンテドンゲ洞窟のスラウェシ島イボイノシシの厳密に年代測定された絵は、現存する動物の世界最古の描写のようです。さらに、このワラセア固有のイノシシの年代測定された描写は、考古学で知られている世界最古の具象的芸術を構成するかもしれません。

 世界最古の芸術に関しては、スペインの非具象的な岩絵が遅くとも65000年前頃にさかのぼり、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産との見解が提示されましたが(関連記事)、その年代をめぐって議論が続いています(関連記事)。上述のように、スラウェシ島南西部では194000~118000年前頃の石器群が発見されています。この石器群を製作したのは現生人類ではなく、絶滅ホモ属と考えられています。現生人類がスラウェシ島やワラセアの他の場所、またはより広範な地域へ10万年以上前に拡散していた可能性に関しては議論がありますが、不可能ではありません。現生人類的な化石はアフリカ北部では30万年前頃までさかのぼります(関連記事)。アジア東部における12万~8万年前頃の現生人類の存在を報告した研究もあります(関連記事)。スンダランドでも、同じ頃に現生人類が存在していた可能性が指摘されています。現在利用可能な証拠に基づくと、リアンテドンゲ洞窟の年代測定された岩絵の描写が、現生人類の認知能力的に「現代的な」人々の所産である、と結論づけることはできません。しかし、この初期の表象的芸術作品の洗練と、具象的表現が現時点では世界のどこでも現生人類のみの所産であるという事実を考慮すると、現生人類の所産である可能性が最も高そうです。

 もしそうならば、リアンテドンゲ洞窟の年代測定されたイノシシの絵は、最初期ではないとしても、ワラセアにおける現生人類の存在の最初の証拠の一部を提供するようです。この芸術作品の下限年代は、以前にはワラセアにおける現生人類の最古の考古学的証拠を提供していた、小スンダ列島の発掘堆積物からの現生人類の最初の確立された指標と同等です。したがって、リアンテドンゲ洞窟の絵の年代測定結果は、具象的な動物芸術や物語の場面の表現を含む表象芸術が、スンダランドからオーストラリア大陸への入口であるワラセアへと渡った最初の現生人類集団の文化的一覧の重要な一部だった、という見解を強調します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、スラウェシ島における具象的な動物壁画が45500年以上前であることを示しました。本論文は、これは現生人類の所産である可能性が最も高い、と指摘します。45500年以上前ならば、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がアジア南東部に存在した可能性もあります。さらに、一部の古代DNA研究において、デニソワ人がサフルランドまで拡散し、3万年前頃まで生存していた可能性も指摘されています(関連記事)。本論文はやや否定的ですが、ネアンデルタール人が現生人類よりも前、あるいは独自に具象的な動物壁画を描いた可能性は、それほど低くないように思います。その意味で、遺伝的にネアンデルタール人と近縁なデニソワ人(関連記事)が洞窟壁画を残した可能性も考えられますが、現時点での証拠からは、スラウェシ島の後期更新世の洞窟壁画を残したのは現生人類と考えてほぼ間違いないでしょう。また、これらスラウェシ島の45500年以上前の洞窟壁画を描いた人類集団と現代人との遺伝的つながりがどの程度なのか、現時点では不明です。スラウェシ島の更新世人類となるとDNA解析は難しそうですから、残念ながらこの問題を決定的に解明することはできないでしょう。


参考文献:
Brumm A. et al.(2021): Oldest cave art found in Sulawesi. Science Advances, 7, 3, eabd4648.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd4648

アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続

 アフリカ西部における11000年前頃までの中期石器時代の持続に関する研究(Scerri et al., 2021)が報道されました。アフリカの中期石器時代(MSA)は、調整石核石器技術や着柄や長距離交換などに特徴づけられる文化的段階で、現生人類(Homo sapiens)の生物学的出現と同時に出現しました(と本論文は主張しますが、今後も慎重な検証が必要だと思います)。これらの特徴とともに、30万~3万年前頃となるアフリカ全域のMSAの時空間的分布は比較的均質とみなされており、MSAという用語は時系列の指標として使われてきました。MSAにおいて行動学的および文化的複雑さがますます認識されていますが、後期石器時代(LSA)への移行は、小型化石器技術とダチョウの卵殻製ビーズのような特徴を伴い、人類史における発展の基礎となった転機、および最近の人類の特徴と類似した最初の社会とみなされています。一部では、移行はひじょうに劇的で、真に「現代的なヒト」の出現を示す認知能力の変異により引き起こされた、と示唆されました。

 アフリカ全体の最近の研究では、こうした単純で突然のアフリカ大陸全体のMSAからLSAへの移行という見解に異議が唱えられています。一部の遺跡ではこの移行は漸進的で、一部の事例では早くも67000年前頃に始まりました(関連記事)。他の遺跡ではこの移行はずっと遅くに起こり、後期MSA遺物群はしばしば、早期MSAで報告されている同じ古典的特色により特徴づけられます。現生人類の生物学的および文化的進化はアフリカ全域の過程だった、という証拠が蓄積されてきており(関連記事)、MSAとLSAの地域的な時空間的動態は、現生人類の進化史の理解の要因として示されてきました。保存された生物学的遺物が稀なアフリカ大陸では、物質文化がヒトの行動の豊富な記録を提供しており、そうした記録は、生物学的に焦点を当てたヒト進化のモデル化において、ヒト自身と重要なパラメータの両方において意義深いものです。

 アフリカ西部の古人類学的研究は、このよく理解されていない地域の別な特徴を浮き彫りにしています。アフリカ西部の既知で唯一の現生人類化石は、以前にはイウォエレル(Iwo Eleru)と誤って呼ばれていたナイジェリアのイホエレル(Ihò Eleru)遺跡のLSA文脈に由来し、年代は16000~12000年前頃ですが、その頭蓋冠はずっと早期のヒト集団で通常見られる形態学的特徴を示します。この知見は、物質文化の「段階」と骨格形態は必ずしも関連しているわけではなく、更新世末まで、別のおそらくは比較的孤立していた集団の地域的生存があったかもしれないことを示します。同様に遺伝的分析は、アフリカ西部を現生人類の遺伝的多様性の重要な源泉(関連記事)として浮き彫りにし、一部の研究では、過去のアフリカの古代型集団からの遺伝的寄与も示唆されています(関連記事)。

 考古学的記録も、アフリカ西部におけるヒトの先史時代に特有の特徴を示します。アフリカ西部では、新しい年代のMSAに関する議論が1970年代から行なわれており、通常は地形学と初期の放射性炭素年代に基づいています。ガーナやセネガルやニジェールを含むアフリカ西部全体の遺跡の初期の研究では、ガーナのビリミ(Birimi)遺跡の光刺激ルミネッセンス法(OSL)年代測定でじっさいに示されたように、アフリカ西部のMSAは35000~15000年前頃と予測されました。もっと最近では、マリのオウンジョウゴウ(Ounjougou)やファレメ(Falémé)川下流での研究により、海洋酸素同位体ステージ(MIS)6~2の石器群が特定され、それらの石器群はMSAの多様な技術を特徴とします。これは、3つの古典的なMSA遺物群が62000~25000年前頃にまたがっているセネガル沿岸部のティエマッサス(Tiémassas)での研究と、MSA遺物群の年代が12000年前頃のセネガル川下流での研究により、さらに詳しくなっています。

 これらの遺跡群は、一貫してルヴァロワ縮小手法に焦点を当てており、時には、掻器や鋸歯縁石器や加工された尖頭器のような石器の出現とともに、円盤状手法により補完され、これはアフリカ西部のMSAを特徴づけます。重要なことに、これらの石器群は、両極および石刃縮小や急角度の二次加工を含む、16000~12000年前頃までは出現しない、アフリカ西部における最初のLSA石器群に区分される技術的特徴を欠いています。しかし、アフリカ西部のMSA遺跡群の大半は、時系列の制御が制限されており、より広範な進化モデルに上手く統合するには、その新しい時間枠の明確な提示が必要です。


●遺跡の分析

 本論文は、セネガルの22000~21000年前頃となるラミニア(Laminia)遺跡と、11000年前頃以降となるサクソムヌンヤ(Saxomununya)遺跡の後期MSA遺物群を報告します(図1)。これらの年代は、アフリカ大陸の他の地域ではLSAにより置換された何千年も後の、アフリカ西部におけるMSA技術の継続を確証します。両遺跡は、それぞれの集水域の到達範囲内で最下層の段丘結合から成る河川堆積物で構成され、ラミニア遺跡の場合はガンビア川、サクソムヌンヤ遺跡の場合はファレメ川です。この地域で見られる構造隆起の割合が低いことは、多くの河川体系とは異なり、ガンビア川流域もファレメ川流域も段丘結合の広範な連続を含まない、と意味します。これは、数値標高モデル(DEM)の研究により裏づけられます。ラミニア遺跡の堆積物は段丘の露出内に見られますが、サクソムヌンヤ遺跡では段丘表面に見られます。以下、本論文の図1です。
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 ラミニア遺跡は、ガンビア川南岸の段丘に露出しています。ラミニア遺跡の石器群は、砂利堆積物の上部0.2m(ユニット1B)に由来します。サクソムヌンヤ遺跡は、ファレメ川西岸の河岸段丘表面にあります。堆積物は、活発な河川環境での堆積の典型です。石器はその堆積物から製作されました。両遺跡の年代は、石英粒子のOSL測定により推定されました。ラミニア遺跡では3点の標本が採取され、ユニット1Aで24600±980年前、ユニット1Bで22000±850年前と20800±830年前という結果が得られました(図2)。サクソムヌンヤ遺跡では、石器群よりも下層の標本で11100±580年前という結果が得られました。以下、本論文の図2です。
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 ラミニア遺跡とサクソムヌンヤ遺跡は両方とも、年代が新しいにも関わらず、古典的なMSAの技術的特徴を示します。ラミニア遺跡の完全な石器は、48個の石核と56個の剥片で構成されます。これらの石器群はおもに石英の小さな丸石と大きな礫で構成され、珪岩製の石器は3個だけで、ルヴァロワ技術を主とする、均質な技術的特徴を示します。石核は豊富で、石材はラミニア遺跡の堆積物から得られた、と推測されます。加工された石器は稀です。

 サクソムヌンヤ遺跡の石器群は、231個の石核、336個の剥片、29個の加工された剥片、87個の借方(廃棄物)と破片で構成されます。おもな石材は石英の小石ですが、剥片状の珪岩が数個存在します。石核の多く(26.4%)は、求心性の準備を伴う古典的な優占ルヴァロワ石核です。求心性の準備を伴うものの、打撃痕のない石核(6.1%)や、円盤状石核(3.5%)もあり、放射状剥離パターンを示す石核(7.8%)もあります。全体的に、ルヴァロワおよび円盤状縮小体系の存在と、両極もしくは層状縮小の欠如により特徴づけられる石核と借方と道具はMSAによく分類でき、利用可能な石材の制約に起因して石器は小さいのが特徴です。


●考察

 11000年前頃のサクソムヌンヤ遺跡と24000~21000年前頃のラミニア遺跡は、アフリカ西部におけるMSA遺物群の末期に位置します。これらMSA末期の遺跡群には、11600年前頃のンディアイェネ・ペンダオ(Ndiayène Pendao)、33000年前頃のトーンボーラ3(Toumboura III)、62000~25000年前頃のティエマッサスが含まれます。この連続は、MSA技術が末期更新世に再発明されたのではなく、連続したことを示します。本論文の結果が意味するのは、新しいMSA遺物群はアフリカ西部の主要な河川系に存在する、ということです。つまり、ガンビア川のラミニア遺跡、ファレメ川のサクソムヌンヤ遺跡、セネガル川のンディアイェネ・ペンダオ遺跡、サルーム川のティエマッサス遺跡です。これらの遺跡はアフリカ西部におけるMSAの最終段階を表していますが、ラミニア遺跡もサクソムヌンヤ遺跡も、LSAに特徴的な要素を示しません。両遺跡の構成は、MSAとLSAとの間の移行段階を示しているのではなく、古典的なMSAです。

 アフリカ西部における新しいMSAの記録は、以前に報告されたものの、孤立もしくは例外的現象とよくみなされてきた、アフリカの他地域の新しいMSAの示唆に基づき、それを強化して拡張します。したがって、LSAの年代をさかのぼらせた最近の研究に加えて、アフリカ西部の新しいMSAは、MSAからLSAへの移行が年代と特徴の両方で大きな変異幅があった、という証拠を追加します。アフリカ西部は、後期MSAのとくに説得力のある証拠を提示します。アフリカ西部のMSA石器群は、アフリカ西部の最初のLSAでは欠けている一連の古典的なMSAの特徴で構成されており、石器技術の別の組み合わせで後に現れます。

 この状況は、アフリカ東部など他のアフリカの地域とは対照的です。急角度の二次加工や石刃製作や両極縮小法の使用といったLSA石器群の主要な特徴である石器技術の要素は、MIS5のMSA石器群で明確に出現しますが、一部の「MSA的」要素は完新世に再発明されたかもしれません。ケニア沿岸の湿潤な沿岸森林地帯のパンガヤサイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡では、古典的な後期MIS5のMSAから、小さい石器とおもに細粒状石材により特徴づけられる67000年前頃の石器群への大きな移行が起きました(関連記事)。LSAの中で、両極法や石刃などさまざまな技術が稀に交替し、同様にルヴァロワ技術が再出現しました。そのような技術的重複は、アフリカ東部におけるMSAとLSAの区別を妨げませんが、LSAの特徴を欠く後期MSAが明確に存続するアフリカ西部とはひじょうに対照的です。

 アフリカ西部における新しいMSAの存在で興味深いのは、アフリカ西部ではLSAの始まりが遅いことです。LSA石器群はアフリカ中央部の西方で3万年前頃までには存在します。カメルーン西部のようなアフリカ西部で最初のLSA石器群が出現するのは16000~12000年前頃で、現代のナイジェリアやコートジボワールやガーナの森林地域です。LSAはそれ以降、ファレメ川流域で11000年前頃からさらに西方と北方に出現します。アフリカ西部において初期のLSA石器群はMSAの特徴を欠いており、小さな層状の原形での幾何学模様の細石器の製作が強調されます。LSAはアフリカ西部では、土器の使用とその後の農耕発展の直前まで出現しないようです。

 MSAからLSAへの移行における時空間的パターンの微妙な差異を調べるための多くの研究が必要ですが、アフリカ西部は、少なくともいくつかの点で、環境動態に従っているようです。アフリカ西部の中央部と東部の森林地域におけるLSAの出現は、15000年前頃となる末期更新世の森林拡大と相関しています。現在のデータに基づくと、氷期と間氷期の盛期の移行が平坦的だった可能性は低く、種間で同時には起きなかった生態学的ボトルネック(瓶首効果)が形成されました。以前の研究では、スーダンのサバンナ地帯やギニアの混合森林サバンナ地帯やマングローブ林と隣接したMSA遺跡であるティエマッサスなどで、推移帯生息地の居住が新たな生態学的環境との関わりの促進に役割を果たしたかもしれない、と示唆されています。湿度の時間的なピークは、低緯度地帯と関連する時空間的に斑状の文化的置換におけるMSAの持続にも光を当てます。

 これらの知見は、顕著な文化的変化がアフリカ西部で更新世から完新世の移行期に起きたことを示唆します。アフロユーラシア本土では最西端のセネガルでは、最も新しいMSAの年代は11000年前頃で、最古のLSAは同じ流域内で11000年前頃に出現し、技術的重複はありません。これは、アフリカ西部の末期更新世と初期完新世における強い文化的境界の存在を示唆します。この境界が生物学的なのか、それとも文化的なのか、まだ解明されていません。しかし、大まかに言えば最終結果は同じで、任意交配は起きそうになく、強い集団細分化が存在しました。アフリカ西部におけるMSAの終了は、湿度と森林の増加の頃に起きました。これは、生態学的障壁とボトルネックにより比較的孤立していたかもしれない地域へのLSA拡大の背景を提供します。15000年前頃からの比較的突然の湿度増加は、アフリカ西部におけるLSAの出現年代と一致し、それに続く11000年前頃からのアフリカの湿潤期の盛期への移行を伴い、セネガルにおけるMSAの終了およびLSAの拡大と相関します。

 本論文の結果は、アフリカ全域での他の最近の知見とともに、MSAからLSAへの移行は行動変化の時空間的に不均一な過程だった、と示します。これらの知見は、「現代性」への文化的変化の単純な線形モデルにも、特定のアフリカ大陸全体の年代指標としてのこれらの用語の使用にも適合しません。じっさい、完新世へのかなり一般的なMSAの継続は、MSAにおける複雑さの時空間的出現は斑状であることを示す多くの証拠への追加となり、技術革新に投資する動機は単純な行動学的能力以外の要因と関連していることを示唆します。根本的に異なる技術的伝統の狩猟採集民集団が近隣に居住し、時として恐らくは数千年もアフリカの一部地域を共有しました。これは少なくとも、過去15000年に見られた強い人口構造の遺伝的兆候と一致します(関連記事)。集団間の多様な関係を解明することは、現生人類進化の理解に重要で、アフリカ大陸規模への個々の遺跡・地域からの記録の推定への代案を提供します。


 以上、ざっと本論文について見てきました。アフリカにおける現生人類の形成および進化と文化的変化は、「現代性」への単純な線形ではなく複雑で多様なものであり、そうした多様性に、現生人類の起源と世界規模での拡散の要因があるのかもしれません。現生人類の起源に関しては複雑なモデルが提示されており(関連記事)、本論文はそうした見解とも整合的だと思います。本論文は、現生人類の文化(MSAの担い手に非現生人類ホモ属がいたとしても、さすがに末期更新世に非現生人類ホモ属が存在した可能性は低そうです)の複雑な変容を改めて示したという意味で、たいへん注目されます。


参考文献:
Scerri EML. et al.(2021): Continuity of the Middle Stone Age into the Holocene. Scientific Reports, 11, 70.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-79418-4

後期新石器時代から鐘状ビーカー期のフランスの人類集団の遺伝的多様性

 後期新石器時代から鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化期のフランスの人類集団の遺伝的多様性に関する研究(Seguin-Orlando et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。後期新石器時代から青銅器時代にかけて、ヨーロッパ西部では重要な集団と社会の変化が起きました(関連記事)。これらはポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)起源の牧畜民から在来集団への大規模な遺伝子流動を含み、それは低下していく狩猟採集民系統とアナトリア半島農耕民系統の拡大という複雑な相互作用に続く重要な事象です。

 この移行は、現在のブリテン島(関連記事)やアイルランド(関連記事)やイベリア半島(関連記事)や地中海諸島(関連記事)やドイツ(関連記事)からの広範な古代ゲノムデータを通じて報告されています。しかし、そうした移行はフランスではほぼ見過ごされています。フランスではほとんどの焦点が中期新石器時代(63個体)に当てられており、例外は後期新石器時代の網羅率0.05倍の1個体です(関連記事)。これにより、紀元前3400~紀元前2700年頃にかけての主要な移行期間は遺伝的に標本未抽出となるので、狩猟採集民の持続と草原地帯移民の正確な時間枠は不明です。本論文はこれを改善するため、紀元前3400~紀元前1600年のフランスの古代人24個体のゲノム解析結果を報告します。


●遺跡と放射性炭素年代測定

 本論文で新たにDNAが解析されたのはフランスのパリ盆地と南西部の遺跡の個体で、後期新石器時代と鐘状ビーカー(Bell Beaker)文化期と前期青銅器時代です。パリ盆地ではモンアイメー(Mont-Aimé)遺跡(11個体)、フランス南西部ではマスルージュ(Mas Rouge)遺跡(1個体)と花束洞窟(Grotte du Rouquet)遺跡(6個体)とBVP洞窟(Grotte Basse de la Vigne Perdue)遺跡(3個体)と亀洞窟(Grotte des Tortues)遺跡(4個体)です(図1A・B・C)。

 直接的な放射性炭素年代測定では、モンアイメー遺跡の地下被葬者2個体は紀元前3400~紀元前2900年頃と示唆されました。花束洞窟の6個体は全員、モンアイメー遺跡の2個体とほぼ同年代です。亀洞窟の個体は、後期新石器時代となる紀元前3100~紀元前2900年頃の1個体(TORTD)と、紀元前三千年紀半ばの2個体(TORTCおよびTORTE)と、紀元前二千年紀前半の1個体(TORTF)です。この結果から、亀洞窟は後期新石器時代から前期青銅器時代まで集団埋葬地としてたまに用いられたと示唆され、以前の考古学的証拠と一致します。BVP洞窟も同様ですが、紀元前三千年紀半ばから紀元前二千年紀半ばまでと、より短い期間の使用です。以下、本論文の図1です。
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●ゲノム解析

 モンアイメー遺跡の3個体(2H10と2H11と1H13)では、歯周病など口腔疾患に関連する細菌のDNAも検出されました。これらの細菌は、健康な現代人や5700~120年前頃の個体でも確認されています。虫歯は、青銅器時代や産業革命という生活様式の変化に伴って初めて出現したわけではないようです。X染色体と常染色体の網羅率の比率から、13人が男性と推定されます。合計24個体のゲノムデータが得られ、平均網羅率は0.20~23.88倍です(中央値は0.96倍)。比較的高い網羅率は、13.91倍の2H10と23.88倍の2H11です。


●父系および母系と親族関係

 同じ遺跡の個体は同じミトコンドリアハプロタイプを有しておらず、母系での関連性はないと示唆されます。対照的に、男性はほぼ全員Y染色体ハプログループ(YHg)I2a1で、例外は、モンアイメー遺跡の1個体(H2a1)と、BVP洞窟遺跡の4400年前頃となる1個体(R1b1a1b1a1a2a1)です。近いか不完全に網羅されているものの合致するハプロタイプは、フランス北部(Rixheim-Zac du Petit-Prince 遺跡のRIX2標本のR1b1a1b1a1a2と、Obernai PAEI遺跡のOBE3626-1標本のR1b1a1b1a1a2a5)と、フランス南部(Rec de Ligno遺跡のPIR3116B標本のR1b1a1b1a1a)の同時代の鐘状ビーカー文化および青銅器時代個体群で以前に報告されました。これは、侵入してきた草原地帯牧畜民からの混合を反映しているかもしれず、この侵入により、イベリア半島集団では、他の染色体がほぼ完全に置換されました(関連記事)。YHg-I2a1は以前には、ヨーロッパのさまざまな狩猟採集民集団で見られました。これは、2H11のような少なくとも一部のモンアイメー遺跡個体における、ヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)系統の存続を示唆しているかもしれません。

 YHg-I2a1は明らかに高頻度で、後期新石器時代のフランス全体における一般的な優勢を反映しているかもしれません。しかしこれは、父系的に組織化された共同体を示唆しているかもしれません。なぜならば、個々の遺跡では個体群の間で共有されるミトコンドリアハプロタイプを示さないからです。これをさらに調べるため、124万の一塩基多型において遺伝的関連性のパターンが評価されました。その結果、モンアイメー遺跡の5個体が遺伝的に関連している、と示唆されました。地下墓2号では、父(2H10)と息子(2H17)は、別の男性個体(2HxC5x196x1131)とはより低い関連性でした。この3人は類似のY染色体ハプロタイプを共有しており、父系でのつながりが確認されます。

 しかし、父(2H11)と娘(1H06)との関係も特定され、この2個体は解剖学的に成人と判断されました。少なくとも一部の女性が出生共同体に留まった可能性があることは、厳密な父系規則が守られなかったことを示唆します。あるいはこれは、少なくとも一部の女性が夫婦関係に関わっていなかったか、死後に父の共同体に遺骸が送還されたことも示唆しているかもしれません。分析をより多くの個体に拡張し、出生地の情報をもたらす同位体特性を統合することで、共同体における他の女性にもどの程度当てはまるのか、という評価に役立つでしょう。それにも関わらず、モンアイメー遺跡1および2の間に一親等の関係が存在することは、両墓地が厳密に同時代に同じ集団により利用されていたことを裏づけます。


●近親交配と集団の多様性

 ホモ接合連続領域(ROH)内に含まれるゲノム断片は、親族内の結合を示しているかもしれません。ROH(runs of homozygosity)とは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。またROH内に含まれるゲノム断片は、ヘテロ接合性のゲノム規模水準の過小評価をもたらすかもしれず、そこから有効人口規模に関する情報が得られます。

 モンアイメー遺跡における、親族結合内の存在を評価し、有効人口規模を推定する両方の目的で、ROHanが高網羅率の2個体(2H10と2H11)に適用されました。しかし、ROHゲノム断片は限定的で、キョウダイ間の近親交配が報告されているアイルランドのニューグレンジの巨石遺跡(関連記事)を除くと、他の新石器時代個体群間で観察されるものと同程度でした。これは、モンアイメー遺跡の親族内結合が、あったとしても限定的だったことを示唆します。ROHの推定されたヘテロ接合性は、ニューグレンジを除いて、他の高網羅率の新石器時代個体群ゲノムで見られるものと同等でしたが、ヨーロッパ西部の中石器時代狩猟採集民よりは大きい、と示されました。これは、狩猟採集共同体と比較して、人口拡大を可能とする新石器時代食料生産経済と一致します。


●DNAメチル化と表現型の推測

 モンアイメー遺跡の高網羅率の2個体(2H10と2H11)と、以前に報告された4個体を用いて、中石器時代から新石器時代にかけて、重要なDNAメチル化の変化を経験したかもしれない遺伝子が特定されました。分析は組織固有の特徴を避けるため、歯に限定されました。遺伝子本隊内のDNAメチル化パターンは、新石器時代と中石器時代の組み合わせよりも、新石器時代個体群の組み合わせの間で一般的により類似している、と明らかになりました。しかし、新石器時代となるドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)遺跡の女性1個体は、この研究チームの実験室で処理された新石器時代となるモンアイメー遺跡の1個体(2H10)よりも、同じ実験室で処理された、中石器時代となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の男性1個体の方と密接と明らかになりました。これは、DNAメチル化の推論に影響を与える技術的なバッチ効果を示唆します。

 これらの効果と性別特有の識別特性を避けるため、異なる実験室で最高の網羅率の男性個体群に分析が限定されました。中石器時代のロシュブール遺跡個体と比較して、新石器時代となるアイルランドのジャーポイント(Jerpoint)遺跡個体(ジャーポイント14)と2H11個体両方において、DNAメチル化が平均して少なくとも50%変化した、合計611の遺伝子プロモーターが特定されました。特定の機能分類で有意に濃縮されていないものの、これらは低メチル化よりも新石器時代に高いメチル化を受けている事例を多く含んでいました。具体的には、液性免疫補体の反応の最初の鎖となるC1Qbと、T細胞成熟に関わる重要なシグナル伝達分子であるLCKです。これらが歯や血液組織の制御の変化を反映しているのかどうか評価するには、さらなる研究が必要です。次に、DNAメチル化水準を用いて、高網羅率の2個体(2H10と2H11)の死亡年齢が推測されました。方法論の改善の必要はあるものの、2H10は29歳、2H11は42歳で死亡したと推定されます。

 DNAメチル化パターンを用いて正確な表現型を推測することはできませんでしたが、高網羅率の2個体の90の遺伝子座の遺伝子型を用いることで、形態と色素沈着や行動や医学的表現型が推測されました。両個体とも乳糖不耐性で、rs653178におけるセリアック病や、rs1800497とrs2283265における嗜癖行動の増加増加や、rs4994における優れた持久力のリスクアレル(対立遺伝子)増加はありませんでした。両個体はおそらく茶色の目と黒髪を有していましたが、髪の太さに相乗効果を示すアレルは有していませんでした(rs4752566とrs3827760)。2H11はおそらく肌の色が濃く、2H10の肌の色はひじょうに薄くはないものの、濃い色との間の中間でした。興味深いことに両個体は、ドーパミンやノルエピネフリンやセロトニンといった神経伝達物質の酸化に関わる酵素をコードするモノアミン酸化酵素A遺伝子座で、異なるハプロタイプを有していました。これは、より高い酵素生産(rs3027407やrs909525)もしくはより低い酵素生産(rs1137070やrs1465107やrs2072743やrs6323)と関わるアレルの異なる組み合わせを伴います。これと、遺伝子と環境の相互作用の存在により、正確な表現型の結果を予測することは困難になります。しかし、この遺伝子座で観察された遺伝的差異は、両個体における攻撃的および衝動的行動を起こすさまざまなリスクを示唆します。


●モンアイメー遺跡の新石器時代個体群における不均一な中石器時代系統

 本論文で新たにDNA解析された後期新石器時代18個体と、以前に報告された古代人2000個体との間の遺伝的類似性が特定されました。592998ヶ所の常染色体遺伝子座におけるユーラシア西部現代人796個体間の遺伝的変異を特徴づける主成分に古代の個体群を投影することで、フランスの全ての後期新石器時代個体はアナトリア半島農耕民(ANF)とヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)を分離する軸に沿って、以前に分析されたフランスの前期および中期新石器時代個体群とクラスタ化する、と明らかになりました(図3A)。この軸に沿って他の後期新石器時代個体群を分離すると、モンアイメー遺跡の父と娘の組み合わせ(2H11と1H06)は、WHGと、前期新石器時代となるインプレッサ・カルディウム複合(Impresso-Cardial complex、略してICC)のフランス南東部のペンディモン(Pendimoun、略してPEN)遺跡の個体(PEN_B)と、より密接な遺伝的類似性を示します。PEN_Bは、WHG系統の過剰を有すると報告されています(関連記事)。

 外群f3統計とf4統計を用いると、1H06および2H11と遺伝的に最も密接な古代の個体群は、おもにアイルランドとブリテン島とフランスとイタリアとルクセンブルクの狩猟採集民である、と明らかになりました(図3B~F)。そのような類似性は、残りのどの後期新石器時代16個体でも検出されず、その16個体は遺伝的に、ヨーロッパ西部規模でより拡散していました(図3F)。D統計(ムブティ人、WHG、検証者、1H06もしくは2H11)でも、1H06と2H11におけるWHG系統の過剰が確認され、本論文でDNA解析された他の全個体と比較してより顕著です。D統計(ムブティ人、ANF、検証者、1H06もしくは2H11)では、これらの個体群におけるANF系統の相互の欠如が明らかになりました。以下、本論文の図3です。
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 教師ありADMIXTURE分析では、1H06と2H11のWHG系統は、それぞれ57.5±3%と、65.7±2.9%と示唆されました(図4B)。これは、本論文でDNA解析された他の後期新石器時代個体群では、WHG系統が18.5±1.6~28.8±1.7%であることと対称的です。新石器時代個体群がWHG およびANF系統で構成される qpADMでの集団モデル化でも、1H06と2H11両個体のWHG系統の過剰(それぞれ50.6±5.1%と63.3±4.1%)が裏づけられます。同等の過剰を示す個体は他の後期新石器時代個体群(9.9~29.9%)では見られず、PEN_B個体(51.6±4.8%)を除いて、フランスの前期新石器時代個体群では例外的です。マスルージュ遺跡個体(MAS15)と花束洞窟世紀個体(ROUQW)と亀洞窟遺跡3個体(TORTCとTORTDとTORTE)では、ANF系統のみで構成されるより単純なモデルが支持され、WHG系統はせいぜい限定的と確認されました。しかし、より複雑なモデル化は、第二の、以前に報告されたヨーロッパ西部に存在する狩猟採集民の遺伝的集団として、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された19000年前頃のゴイエットQ2(Goyet Q-2)個体のような系統の存在を裏づけません。

 次に、DATESの連鎖不平衡(LD)減少のパターンを用いて、2H11および 1H06個体内のWHG系統の有意な過剰が、最近の混合なのか古代の混合なのか、さらに単一の混合なのか複数の混合なのか、評価されました。2H11と1H06を除いてモンアイメー遺跡の全個体をANF系統とWHG系統の組み合わせとしてモデル化すると、混合年代はこれら個体群の39.5±8.5世代前(紀元前4300年頃)と推定されました(図4E)。2H11と1H06を対象にした同様のモデル化では、混合は1H06で17.2世代前と6.2世代前に起きた(紀元前4100~紀元前3800年頃)、と推定されました。これは、新石器時代集団と中石器時代集団との間の、紀元前3800年頃までの、かなりの期間(少なくとも5世紀)複数回の散発的な接触を示唆します。

 興味深いことに、1H06とその父親である2H11のゲノム内で推定されるWHG系統からは、1H06の母親(2H11の妻)は平均して37.9%のWHG系統を有しており、現時点でのモンアイメー遺跡の他の個体群で推定される割合よりも大きい、と示唆されます。これは、モンアイメー遺跡のような、WHG系統の割合が個体によりさまざまな遺伝的に不均一な後期新石器時代共同体を裏づけます。重要なことに、本論文で推定された最も新しい混合年代は、以前にドイツのエスパーシュテット(Esperstedt)の中期新石器時代個体群内で推定された最も新しい混合年代より400年新しくなります。考古学的証拠は、狩猟採集民と新石器時代集団との間の紀元前4200年頃までの相互作用を裏づけます。そのような証拠は、フランス北部では紀元前4900年頃以後には見られないので、本論文の結果は、この地域における農耕の到来に続く狩猟採集民集団の文化変容過程を示唆しているかもしれません。以下、本論文の図4です。
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●鐘状ビーカー文化と青銅器時代の人口変化

 本論文のデータセットには、後期新石器時代18個体に加えて、フランス南部の亀洞窟遺跡とBVP洞窟遺跡(図1C)の鐘状ビーカー文化4個体と、前期青銅器時代2個体が含まれます。主成分分析では、鐘状ビーカー文化3個体は、親子関係の2H11と1H06を除いて、フランスの他の後期新石器時代個体群と重なります(図3A)。しかし、BVP洞窟遺跡の鐘状ビーカー文化期の1個体(GBVPK)と、前期青銅器時代となるBVP洞窟遺跡の1個体(GBVPO)および亀洞窟遺跡の1個体(TORTF)は、他の以前に報告されたフランスの前期~中期青銅器時代個体群(関連記事)とクラスタ化するものの、ロシア西部のサマラ(Samara)地域のヤムナヤ(Yamnaya)草原地帯牧畜民とのより密接な類似性を示す軸に沿って移動します。

 D統計(ムブティ人、ヤムナヤ集団、検証者、GBVPKかGBVPOかTORTF)でも、両遺跡の他の個体の一部と比較しての、これら3個体におけるヤムナヤ系統の統計的に有意な過剰が示唆されます。教師ありADMIXTURE分析とqpADM での3方向集団モデル化では、これら3個体のゲノムにおける、WHGおよびANF系統に加えて、23.6±1.4%~42.1±4.7%のヤムナヤ関連系統の存在が確認されます(図4C)。これは、両遺跡から100km以内の遺跡群で発掘された個体群を含む、フランスの鐘状ビーカーおよび前期~中期青銅器時代個体群のゲノムで推定される25.9~54.8%のヤムナヤ系統と一致します。

 LD減少パターンは、草原地帯由来の遺伝的系統が、GBVPKのようなヤムナヤ系統を示す最初の個体の年代から9.2±3.6~10.4±3.5世代前にフランス南部に入って来た、という年代推定を提供します(図4E)。この推定年代は紀元前2650年頃に相当し、紀元前2400年頃のブリテン島と紀元前2500~紀元前2000年頃のイベリア半島における有意な草原地帯由来系統を示す以前の報告(関連記事)よりも早くなります。しかし、本論文の推定は、最小限のWHGとの混合を示すモンアイメー遺跡個体群や、花束洞窟遺跡の個体群や、BVP洞窟遺跡および亀洞窟遺跡の個体群を含む、人口モデル化において考慮された後期新石器時代の代理にも関わらず、一貫していると明らかになりました。

 また本論文のデータは、BVP洞窟遺跡個体群内の有意なヤムナヤ関連系統を有する個体と、そうではない個体との共存を明らかにします。これと、同時代の近隣地域(Dolmen des Peirières)の遺跡の鐘状ビーカー文化1個体(PEI2)で推定されるヤムナヤ系統の欠如は、草原地帯牧畜民と関連する個体群との非遍在的な混合を含む、フランス南部の鐘状ビーカー文化集団における複雑な遺伝的構成を裏づけます。これは、ヨーロッパ中央部における以前の報告と一致しますが、紀元前三千年紀後半に草原地帯関連系統により在来の遺伝子プールの90%が置換されたブリテン島(関連記事)とは対照的です。

 本論文では、現在のフランスの埋葬遺跡の古代の被葬者24個体のゲノムが解析され、後期新石器時代から前期青銅器時代の集団におけるゲノムの変化が報告されました。フランス南西部の鐘状ビーカー集団は、草原地帯由来の遺伝的系統を、全員ではなく一部が示し、それは紀元前2650年頃となり、ヤムナヤ関連系統の最初の出現となります。モンアイメー遺跡の後期新石器時代個体群のゲノムは、中石器時代文化の証拠がもう存在しない年代における、新石器時代集団と中石器時代集団との間の複数回の散発的な接触の証拠を提供します。これは、中石器時代集団が少なくとも紀元前四千年紀の第1四半期までこの定期に存続したものの、その後には文化変容が続いたことを示唆します。


参考文献:
Seguin-Orlando A. et al.(2021): Heterogeneous Hunter-Gatherer and Steppe-Related Ancestries in Late Neolithic and Bell Beaker Genomes from Present-Day France. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.12.015

大河ドラマ『麒麟がくる』第41回「月にのぼる者」

 播磨への出陣を控えた羽柴秀吉が明智光秀(十兵衛)を訪ねてきます。光秀は秀吉に平蜘蛛の茶釜を見せ、織田信長に松永久秀と自分との見解および平蜘蛛の茶釜の件を密告したことに関して問い詰め、秀吉は光秀に平身低頭します。秀吉は、光秀に正体を暴かれてしまった忍びを殺します。光秀が安土城に信長を訪ねると、近衛前久がいました。前久は、自分の帰京をなかなか後押ししてくれない信長に不満を抱きます。しかし信長は、間もなく関白職を二条晴豊から前久に替えようと考えていました。都での自分の評判が良いと主張する信長に光秀は婉曲に疑問を呈し、信長は不機嫌になります。不機嫌になった信長に、光秀は平蜘蛛の茶釜を献上します。光秀は信長に、平蜘蛛の茶釜を有する者には覚悟が必要だ、と意図を説明します。しかし信長は、平蜘蛛の茶釜を今井宗久あたりに売るつもりだ、と光秀に伝えます。

 三条西実澄は光秀に、信長の様子が変わって来たことに戸惑っているのではないか、と指摘します。さらに三条西実澄は、正親町天皇も信長に違和感を抱いている、と光秀に伝えます。光秀は正親町天皇に謁見し、月に住む奇妙な男の件を尋ねられます。それは桂男の伝説で、桂男は月に行き、不老不死の薬を独り占めしようとして神の怒りを買い、月に閉じ込められました。正親町天皇は、多くの武士が月に昇るのを見たが、下界に帰ってくる者はいなかったと言い、信長が今後道を誤らないよう見届けよ、と命じます。

 今回は、光秀が正親町天皇に謁見しました。本作では、正親町天皇もそうですが、近衛前久や三条西実澄など朝廷の人物の扱いが大きいので、本能寺の変に朝廷も関わってくるのかな、と予想していました。帝と光秀との会話から、光秀は信長の「非道」を阻止するために謀反を起こす、という話になるようです。今回は、信長と光秀との距離が、平蜘蛛の茶釜をめぐって象徴的に描かれ、このまま両者の間の距離は開いていき、光秀は謀反を決意するのでしょう。秀吉の冷酷さも描かれ、それが光秀に勝てた要因になった、という展開になるのでしょうか。残り3回で完結なので、最終的に光秀が謀反を決意した理由がどのように描かれるのか、注目されます。

柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』

 シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2020年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、旧弊・旧勢力を破壊し、新たな時代を築いた革新者という通俗的な印象が抱かれている信長を、「同時代人」として把握します。信長はあくまでも当時の社会秩序下で生きた人物だ、というわけです。本書は織田が尾張においてどのような立場にあり台頭していったのか、応仁の乱以前にさかのぼって検証し、また戦国時代の足利将軍はどのように位置づけられるのか、解説します。本書はこうした認識を前提として、信長を中世から近世の移行期に位置づけます。

 信長の転機となった足利義昭を擁しての上洛も、当時の文脈に位置づけられます。戦国時代においても、足利将軍を有力者が支える形で、「中央(天下)」の秩序を維持しようとする志向が根強く残っていました。本書は、義昭側が織田や上杉など諸国の有力大名に上洛を促したのであり、信長は自身の野望から上洛したわけではなかった、と指摘します。信長は義昭を擁して上洛しましたが、その3年前にも義昭から上洛要請を受けていました。しかし、信長はその要請に反して美濃の一色(斎藤)との戦いを選択し、しかも敗北したことで、大きく評判を落としてしまいます。16世紀半ば以降も、足利将軍は各地の大名に停戦をたびたび呼びかけていましたが、領国、とくに境界の不安定化が日常的だった大名により、将軍の停戦命令が無視されることは珍しくありませんでした。信長の美濃侵攻もその一例でしたが、これにより面目を失った信長にとって名誉挽回が重要な課題となり、それが信長のその後の選択を規定した、と本書は指摘します。信長が美濃平定後に「天下布武」の印章を用い始めたことも、義昭を擁しての「天下再興(室町幕府再興)」の意志を表すものだった、というわけです。

 信長が義昭を擁して上洛したことは、一般的に近世の始まりと評価されています。その前提として、これは信長による全国平定の一階梯だった、との認識があります。しかし、これは義昭主体で進められた「天下再興」の実現で、信長が「天下」の舞台に躍り出たのは、その「革新性」のためとは言えない、と本書は指摘します。本書は、義昭政権は信長の傀儡ではなく、信長は義昭政権を尊重し、幕府への介入を好まなかった、と評価しています。信長は直接幕政には関わらず、政治・軍事的に幕府を支えようとしており、これは戦国時代の「天下」統治の在り方を継承していた、と本書は指摘します。本書はこのように、信長の行動を当時の文脈に即して解釈しています。信長は義昭を都から追放した後も、直ちに「天下人」と自認していたわけではなく、義昭に帰京を要請していたことからも、当初は、室町幕府を否定する意図はなかったようです。

 1573年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に義昭を都から追放した後も、室町幕府体制護持の姿勢を示していた信長ですが、次第に「天下人」としての自覚を強めていったようで、1575年が画期となります。同年、信長は朝廷からの要請を受け、源頼朝と同じ右近衛大将となります。こうして天下人である信長を頂点とする「織田権力」が本格的に始動しますが、従来の天下人と畿内有力者が政治・軍事的に補完しつつ連立した政治権力だったのとは異なり、天下人と畿内有力者が一体だったことこそ特徴だった、と本書は指摘します。

 足利将軍との(少なくとも1573年頃までの)関わりでもそうでしたが、本書は信長を、楽市場・座・関所・家臣団統制・宗教政策などにおいても、基本的には同時代の枠組みに収まる、と評価します。信長は座を保護したから保守的なところがあり、それが信長の限界だった、というような保守的か革新的かとの二項対立的観点ではなく、同時代の一大名として信長を位置づけねばならない、というわけです。これは信長の領土拡大も同様で、革新的な織田が同時代の他勢力を排除していったのではなく、同時代の他大名間の争いと同様に、勢力圏の境界をめぐる争いの結果だった、と本書は指摘します。勢力圏の境界をめぐって折り合いがつけば、信長にとって他大名は必ず滅ぼさねばならない対象ではなく、共存も可能だった、というわけです。

 本書は信長の基本的志向を、現状に支障を来す障害を除去し、本来の機能を最善化させることだと評価し、政治の手法や社会の秩序などを改変することではない、と指摘します。ただ、信長の領国が大きく拡大したことも確かで、信長の事業の特質は質的ではなく量的だった、と本書は評価します。本書は最新の研究に基づいて信長を同時代の文脈に位置づけており、信長に関心のある一般層が優先して読むべき良書になっていると思います。

自閉症におけるde novo縦列反復配列変異のパターンとその役割

 自閉症におけるde novo縦列反復配列変異のパターンとその役割に関する研究(Mitra et al., 2021)が公表されました。自閉症スペクトラム障害(ASD)は早期発症型の発達障害で、コミュニケーションや社会的相互作用における障害と、限定的あるいは反復的な行動を特徴とします。家系研究から、ASDには遺伝的多様体とde novo多様体の両方が寄与する大きな遺伝的基盤がある、と示されています。de novo変異は、全ての孤発性ASD症例(家族内で1人の子どものみ発症している場合)のうち30%に寄与すると推定されています。縦列反復配列(TR;本論文では、サイズが1~20塩基対の配列が連続的に反復したものと定義されます)は、ヒトのde novo変異の主要な供給源の一つとなっており、TRの伸長は多数の神経疾患や精神疾患と関連付けられています。しかし、de novo TR変異はこれまでゲノム規模で特徴が解析されたことはなく、それらのASDへの寄与についても調べられていません。

 この研究は、塩基配列データからde novo TR変異を特定して優先順位をつけるための新たなバイオインフォマティクス手法を開発し、これを用いて、ASD発端者とASDを発症していないキョウダイでde novo TR変異のゲノム規模の特性解析を行ないました。この研究は、特定の変異事象とそれらの反復数の正確な変化を推定し、大規模な伸長ではなく、おもにより広く見られる段階的なコピー数変化に注目しました。その結果、ASD発端者では、TR変異がゲノム規模で著しく過剰になっている、と明らかになりました。発端者における変異は、よりサイズが大きく、胎児の脳調節領域に多く見られる傾向があり、進化的により有害だと予測されました。これらの結果は、今後のde novo変異の研究における反復多様体の考慮の重要性を強調しています。自閉症に関しては、進化的観点からも注目されます(関連記事)。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:自閉症におけるde novo縦列反復配列変異のパターンとその役割

遺伝学:自閉症患者におけるde novo縦列反復配列変異

 自閉症スペクトラム障害(ASD)の遺伝的基盤にはde novo変異が寄与しているが、ASD発端者におけるde novoの縦列反復配列(TR)の役割については、完全には分かっていない。M Gymrekたちは今回、両親と子の3人組から得られた全ゲノム塩基配列解読データでde novo TR変異を検出するための手法「MonSTR」を開発し、ASD発端者のde novo TR変異量はASDでないきょうだいの変異量よりも多いことを報告している。著者たちはさらに、個々のTR対立遺伝子にかかる選択を計測する別の手法「SISTR」も開発し、これを用いて、ASDリスクに最も大きく寄与するde novo TR変異が最も強い選択圧を受けていることを明らかにした。



参考文献:
Mitra I. et al.(2021): Patterns of de novo tandem repeat mutations and their role in autism. Nature, 589, 7841, 246–250.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03078-7

類似した文脈で世界共通に現れるヒトの16種類の顔表情

 類似した文脈で世界共通に現れるヒトの16種類の顔表情に関する研究(Cowen et al., 2021)が公表されました。複数の文化にわたり、ヒトの顔の表情が特定の社会的文脈でどの程度変わるのかを理解することは、感情が重要な課題や機会に対する適応反応を可能にしている、とする理論の中核です。しかし、社会的文脈と特定の顔表情とを結び付ける具体的な証拠は乏しく、その大部分は調査に基づく手法に依拠しており、そうした手法は言語や標本規模の小ささにより制約を受けることが多くなります。

 この研究は、機械学習法の一種である深層ニューラルネットワーク(DNN)を現実世界の動的な行動に適用し、自然な社会的文脈(たとえば、結婚式やスポーツの試合など)が異なる文化において特定の顔表情と関連づけられるのかどう、確認しました。この研究はまず、DNNを用いた2つの実験で、144ヶ国で撮影された600万本のビデオ映像(YouTube動画)の数千の文脈において、16種類の顔表情が体系的に出現する程度について調べました。その結果、各顔表情には一連の文脈との独特な関連が見られ、それらは世界の12の地域間で70%共通している、と明らかになりました。たとえば、「畏敬の念」、「満足感」、「勝利」と標識された顔の表情は、さまざまな地域の結婚式やスポーツイベントとおもに関連していました。これらの反応に関しては、現代人に共通の進化的基盤があることを示唆しています。

 これらの関連性と符合して、異なる顔表情がどの程度頻繁に現れるかは、どの文脈が最も顕著であるかに応じて地域ごとに違っていました。この結果は、ヒトの顔表情のきめ細かなパターンが、現代世界では広く保存されていることを明らかにしています。今後の研究では、より多様な文化集団を使ってDNNを訓練し、英語を話す人々の信念や固定観念だけに依存することを避けるべきである、と指摘されています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


神経科学:あなたが微笑むとき、世界中の人々も微笑んでいる

 さまざまな社会的状況において、世界中の人々が同じような表情を示すことを示唆する論文が、Nature に掲載される。今回の研究では、600万本以上のビデオが分析され、世界中の人々がさまざまな社会的状況下で示す表情にかなりの普遍性があることが示唆された。ただし、今回の知見から感情そのものに普遍性があると断定されたわけではなく、日常生活の中で感情がどのように表現されるかについて十分に偏りのない見解を得るには、さらなる研究が必要だ。

 世界中の人々は、結婚式では笑顔が多く、葬式ではしかめっ面が多いのだろうか。こうした表情が、文化を越えて保存されているかを評価することは困難であり、これまでの研究は、言語の障壁とサンプルの少なさという制約のある調査に基づいて行われていたため、感情の普遍性に関する見解が分かれていた。今回、Alan Cowenたちの研究チームは、機械学習の一種である深層ニューラルネットワーク(DNN)を用いて、現実世界での行動を評価し、社会的状況が文化の違いを超えて特定の表情と関連するかを確認した。

 今回の研究では、インド国内で英語を話す人々がDNNを訓練し、それぞれ独自の英語の感情カテゴリーと関連する16種の顔の表情パターンを識別できるようにした。次に、DNNは、類似した複数の表情パターンを個々の表現(例えば、笑顔)としてクラスター化することを学習した上で、144か国で制作された600万本のYouTube動画を評価して、類似した状況下で類似した表現が世界中で頻繁に見られることを明らかにした。例えば、「畏敬の念」、「満足感」、「勝利」と標識された顔の表情は、さまざまな地域の結婚式やスポーツイベントと主に関連していた。また、それぞれのタイプの顔の表情は、世界の12の地域で70%保存されている一連の状況と明確な関連性を有しており、世界中でかなりの普遍性があることが示唆された。

 以上の知見は、感情の原因、機能、普遍性を解明する上で重要な意味を持っている。同時掲載のNews & Viewsで、Lisa Feldman Barrettは、今回の研究で、これまでの研究よりも自然な条件で表情と社会的状況との関連性が特定された点を指摘している。また、Barrettは、今後の研究では、より多様な文化集団を使ってDNNを訓練し、英語を話す人々の信念や固定観念だけに依存することを避けるべきだという考えを示している。



参考文献:
Cowen AS. et al.(2021): Sixteen facial expressions occur in similar contexts worldwide. Nature, 589, 7841, 251–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-3037-7

アルコール摂取と疾患の遺伝的関連の分析に生じる偏り

 アルコール摂取と疾患の遺伝的関連の分析に生じる偏りに関する研究(Xue et al., 2021)が公表されました。アルコール摂取量の増加はさまざまな病気のリスクを高める、と長い間考えられてきました。しかし、最近の研究で、アルコール摂取の遺伝的基盤は特定の疾患と負の相関があると明らかになり、疾患に対するアルコールの防御作用の可能性が示唆されました。この結果に対して考えられる説明の一つは、ある種の疾患の患者は、診断後にアルコール摂取量を変えたり、調査においてアルコール摂取量を不正確に申告したりする可能性がある、ということです。

 この研究は、イギリスバイオバンクの455607人のデータを用いて、不正確な自己申告や行動の変化がアルコール摂取に関する遺伝研究の結果に偏りを生じさせるのかどうか、調べました。その結果、不正確な自己申告や行動の変化を補正しなかった場合、アルコール摂取と2型糖尿病や高血圧症や鉄欠乏性貧血との間に負の遺伝的相関が見いだされました。しかし、不正確な自己報告や行動の変化を補正すると負の相関は認められなくなり、心血管疾患など8種類の疾患や総疾患数との正の相関が認められるようになりました。

 この結果は、行動形質の遺伝学的研究における潜在的な偏りについて研究者たちに注意を促すものであるとともに、その補正方法を示しています。しかし、この研究は、こうした偏りが必ずしも全ての集団や行動形質に当てはまるわけではない、とも指摘しています。人類のアルコール分解能力の起源に関しては、2100万~1300万年前頃の人間・チンパンジー・ゴリラとオランウータンの最終共通祖先は効果的にエタノールを代謝できず、両者が分岐した後、1000万年前頃の人間・チンパンジー・ゴリラの共通祖先において、エタノールをずっと効率的に代謝できる変異が出現したのではないか、と推定されており(関連記事)、アルコール摂取と疾患の遺伝的関連については、進化的観点からも注目されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:アルコール摂取と疾患の遺伝的関連の分析に生じる偏りを補正する

 アルコール摂取量などの自己申告に基づいた形質に関する遺伝学的研究は、不正確な申告や行動の変化によって偏りが生じている可能性のあることを報告する論文が、今週、Nature Communications に掲載される。この知見は、アルコール摂取と特定の疾患の相関に関する研究報告の矛盾を説明する上で役立つ可能性がある。

 アルコール摂取量の増加は、さまざまな病気のリスクを高めると長い間考えられてきた。しかし、最近の研究で、アルコール摂取の遺伝的基盤は、特定の疾患と負の相関があることが明らかになり、疾患に対するアルコールの防御作用の可能性が示唆された。この結果に対して考えられる説明の1つは、ある種の疾患の患者は、診断後にアルコール摂取量を変えたり、調査においてアルコール摂取量を不正確に申告したりする可能性がある、ということである。

 今回、Jian Yangたちは、英国バイオバンクの45万5607人のデータを用いて、不正確な自己申告や行動の変化がアルコール摂取に関する遺伝研究の結果に偏りを生じさせるかどうかを調べた。その結果、不正確な自己申告や行動の変化を補正しなかった場合、アルコール摂取と2型糖尿病、高血圧症、鉄欠乏性貧血との間に負の遺伝的相関が見いだされた。しかし不正確な自己報告や行動の変化を補正すると、負の相関は認められなくなり、心血管疾患など8種類の疾患や総疾患数との正の相関が認められるようになった。

 今回の研究結果は、行動形質の遺伝学的研究における潜在的な偏りについて研究者たちに注意を促すものであるとともに、それを補正する方法を示している。ただしYangたちは、この偏りが必ずしも全ての集団や行動形質に当てはまるわけではないと指摘している。



参考文献:
Xue A. et al.(2021): Genome-wide analyses of behavioural traits are subject to bias by misreports and longitudinal changes. Nature Communications, 12, 6450.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-20237-6

シクリッド類の大規模な適応放散の原動力と動態


 シクリッド類の大規模な適応放散の原動力と動態に関する研究(Ronco et al., 2021)が公表されました。適応放散は、生命における生態学的・形態的な多様性の大半の起源と考えられています。適応放散がどのように進行し、何がその規模を決定付けているのかは、多くの場合明らかにされていなません。本論文は、タンザニア西部に位置するタンガニーカ湖のカワスズメ科魚類(シクリッド類)の、驚異的な適応放散に関する詳細な調査結果について報告しています。シクリッド類は、古くから適応放散を研究する進化生物学者たちの関心を集めてきました。各湖沼には他では見られない種が数十ないし数百も存在し、それぞれが独自のニッチ(生態的地位)に適応していることから、これらの魚類が単一またはごく少数の祖先から高速で進化した、と示唆されています。

 以前の研究では、シクリッド類で種分化が最も急速に進んでいる放散はヴィクトリア湖で見られる、と指摘されています(関連記事)。また、シクリッド類の進化的に新しい種群における個体群間および種間のゲノム分岐に関する研究では、生態学的パフォーマンスや配偶者選択に影響を及ぼす単一遺伝子形質あるいは少数遺伝子形質が異なる種において顕著に局在化したゲノム分化が見られた一方で、多遺伝子形質が分岐してきた種における分化はゲノムにおいて広範に見られ、全体としてはるかに分化度が高い、と示されました(関連記事)。

 本論文は、タンガニーカ湖に固有の約240種のシクリッド類ほぼ全てに関する、全ゲノムの系統発生学的解析、生態学的に重要な3つの形質複合体(体形、上顎の形態、下咽頭顎の形状)の多変数形態計測結果、体色パターンのスコア化、生態の数値化に基づき、放散がこの湖の閉鎖的空間内で起こったことと、形態的多様化は急速な形態空間拡大という形質特異的な脈動の連続として進行したことを示します。また本論文は、適応放散がどのように進行したかに関する2つの理論的予測、すなわち「初期の爆発」シナリオ(体形について)と段階的モデル(調べた全形質について)に対する実験的な裏付けも提示します。さらに本論文は、種ごとに2セットのゲノムを解析し、放散のサブクレードにおける種の不均一な分布を利用することで、種の豊富さは個体当たりのヘテロ接合性と正に相関するものの、転位性遺伝因子の量、遺伝子重複の数、コード配列中のゲノム規模の選択レベルとは相関しないことも明らかにしています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


進化学:シクリッド類の大規模な適応放散の原動力と動態

進化学:タンガニーカ湖のシクリッド類の脈動的な放散

 アフリカ大湖沼のカワスズメ科魚類(シクリッド類)は、古くから適応放散を研究する進化生物学者たちの関心を集めてきた。各湖沼には他では見られない種が数十ないし数百も存在し、それぞれが独自のニッチに適応していることから、これらの魚類が単一またはごく少数の祖先から高速で進化したと示唆されている。今回W Salzburgerたちは、タンガニーカ湖の既知のシクリッド類全種を網羅する進化系統樹を構築している。得られた系統樹からは、これらのシクリッド類の適応放散が、現在の湖の閉鎖的空間内で起こったこと、漸進的でも無秩序でもなく脈動的に進行したこと、そして種の豊富さはゲノム規模の多様性と正に相関するが、正の選択、転位性遺伝因子の量、遺伝子重複のシグネチャーとは相関しないことが示された。



参考文献:
Ronco F. et al.(2021): Drivers and dynamics of a massive adaptive radiation in cichlid fishes. Nature, 589, 7840, 76–81.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2930-4

コーカサスの上部旧石器時代層堆積物のDNA解析

 コーカサスの上部旧石器時代層堆積物のDNA解析に関する研究(Gelabert et al., 2021)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。この研究は、昨年(2020年)開催された人間進化研究ヨーロッパ協会第10回総会で報告されており(関連記事)、まだ査読前ですが、論文として公表されました。


●先行研究

 古代ゲノムデータは骨や歯や髪から得られてきており、自然史と人類の過去の理解に革命をもたらしました。遺骸資料が利用できない場合、堆積物の古代DNAが異なる種の有無を判断するのに用いられてきました。近年では、環境DNA研究の古代DNA研究の応用により、遺跡の堆積物から、後期および中期更新世のさまざまなホモ属系統や他の哺乳類の複数のミトコンドリアゲノムが解析され、その年代は24万年前頃までさかのぼります(関連記事)。最近の研究では、チベット高原の洞窟の10万~6万年前頃の堆積物から、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)のミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されました(関連記事)。

 しかし、これまで堆積物のDNAは、種の同定もしくはmtDNAの解析に限定されてきました。本論文が取り上げる主要な問題は、堆積物のDNAを用いて、全体的な遺伝的系統や組織の他の生物学的特性、たとえば性別や複数個体の存在や異なる系統クラスタなどについて、有益なゲノム規模データが得られるのかどうか、ということです。本論文は、25000年前頃となる最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の、コーカサス南部に位置するジョージア(グルジア)西部のイメレティ(Imereti)地域のサツルブリア(Satsurblia)洞窟の上部旧石器時代層堆積物の、ショットガン配列の結果を報告します。コーカサスのほとんど、とくにジョージア西部では、カルスト体系が低く安定した通年の気温と低い酸性度(ほとんどの場合、糞化石堆積物がありません)を保持しており、これは古代DNAの保存にとくに有利な条件です。単一の堆積物標本から、ヒトとオオカミ(Canis lupus)とバイソンの数百万の配列読み取りが得られ、骨格遺骸から得られた低網羅率の配列に匹敵するゲノム規模データに対応します。


●堆積物のDNA解析

 サツルブリア洞窟(図1A)のA地区(LGM前)とB地区(LGMの前後)の異なる層の6点の堆積物標本が分析されました。標本のうちB3層(図1B)のSAT16 LS29(SAT29)は、放射性炭素年代測定法では較正年代で25400~24500年前頃(以下、基本的に較正年代です)で、かなりの量の人類や他の哺乳類のDNAが含まれていました。分析されたDNAのうち真核生物の配列の中に、哺乳類4属が含まれていました。内訳は、ヒツジ属(28%)とホモ属(9%)とイヌ属(5.5%)とウシ属(2.1%)です。参照ゲノムへの競合マッピング後、4956676リードが割り当てられました。内訳は、イヌ属(2378237リード、48.0%)、ウシ属(1811555リード、36.5%)、ホモ属(661765リード、13.5%)、ヒツジ属(105119リード、2.1%)です。この4属のDNAには、古代DNAに典型的な断片長と脱アミノ化パターンがあります。以下、本論文の図1です。
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●ホモ属のDNA解析

 ホモ属に割り当てられたリードを用いて、11116の擬似半数体が遺伝子型決定されました。LGM前後の多様性内におけるSAT29の人類系統を調べるため、2335個体のユーラシア現代人のゲノムで主成分分析が実行され、78個体の古代人が投影されました。以前の古代ゲノム研究では、コーカサスの古代現生人類(Homo sapiens)には異なる2系統があり、他の更新世および前期完新世の多様性とは異なる、と明らかになっていました。

 サツルブリア洞窟の上部旧石器時代後期(13300年前頃)のゲノムと、コティアス・クルデ(Kotias Klde)遺跡の中石器時代(9700年前頃)のゲノムでは、コーカサス狩猟採集民(CHG)系統が明らかになりました。この系統は、現生人類がユーラシア西部に拡大した後すぐの45000年前頃に、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統と分岐しました(関連記事)。もう一方の、より古いLGM前の系統は、26000年前頃となるジョージアのズズアナ(Dzudzuana)洞窟で発見された2個体により表され、近東およびアフリカ北部の人々と関連しており、近東およびアフリカ北部の系統のうち少なくとも46%を占めます。SAT29標本はズズアナ洞窟の個体(ズズアナ2)とクラスタ化し、上部旧石器時代後期および中石器時代のコーカサスの個体群、もしくはLGM前の他のあらゆるユーラシア人とはクラスタ化しません。教師なしADMIXTUREクラスタ化ではさらに、SAT29標本とズズアナ2との間の高い類似性が裏づけられます(図2B)。

 外群f3統計を用いて、SAT29標本と他の古代人ゲノムとの間の共有される遺伝的浮動の量が定量化されました。SAT29は、コーカサスのLGM後の個体群を含む他の古代の個体群よりも、12140±70年前のイタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡個体およびズズアナ2個体の方と、より多くの遺伝的浮動を共有します。ユーラシア現代人集団のうち、SAT29はアジア中央部および南部人よりもヨーロッパ北部および西部人の方と高い遺伝的類似性を示します。

 mtDNAでは網羅率15倍の解析結果が得られました。SAT29はズズアナ洞窟の個体(ズズアナ3)と同様に、mtDNAハプログループ(mtHg)はNに分類されます(図2C)。古代人68個体と現代人167個体の最節約系統樹では、ズズアナ3とともに、SAT29はブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)遺跡の42450±510年前となるBK-CC7-355個体および41850±480年前となるBK-BB7-240個体(関連記事)とクレード(単系統群)を形成します。バチョキロ洞窟の2個体は、現時点ではユーラシア西部の現生人類で最古級のmtDNAデータです。

 SAT29標本におけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)系統は1%と推定されていますが、データ量が少ないのでひじょうに不確実です(95%信頼区間で0~6.6%)。この推定値はズズアナ2と類似しており、旧石器時代ヨーロッパ人より低い可能性が高そうですが、これは「基底部ユーラシア人系統」からの希釈に起因するようです。「基底部ユーラシア人」とは、まだ化石では確認されていない仮定的な系統で、出アフリカ後の現生人類集団で最初期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けなかった、と想定されています(関連記事)。

 これらの結果は、SAT29標本がコーカサスにおけるLGM前のまだ報告されていない現生人類系統を表しており、さまざまなその後のユーラシア人集団に遺伝的影響を残した、と明らかにします。しかし、SAT29のゲノムの網羅率は低いので、ズズアナ2とSAT29標本との間の系統パターンにおける違いを検出できませんでした。以下、本論文の図2です。
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●イヌ属のDNA解析

 722頭の現代のイヌとオオカミと他のイヌ科動物の遺伝的多様体1組を用いて、イヌ属に割り当てられたSAT29標本の2378237リードが分析されました。各位置でSAT29標本の1リードが無作為に標本抽出され、439426の塩基転換多様体が遺伝子型決定されました。ADMIXTUREクラスタ化(図3A)とf4統計を用いると、SAT29標本は、コヨーテとキンイロジャッカルと他のイヌ属を除いて、明確にオオカミおよびイヌと遺伝的浮動を共有している、と明らかになりました。しかし、SAT29標本はイヌよりもオオカミに対して強い類似性を示すことはなく、その逆も同様です。

 イヌ属動物のSAT29標本とオオカミやイヌとの関係をさらに調べるため、シベリアの更新世のオオカミ2個体(35000~33000年前頃)のゲノムが組み込みまれました。このシベリアのオオカミ2個体は、現代のオオカミおよびイヌの基底部に位置する系統を有しています(関連記事)。古代のゲノムにおける参照の偏りを明示的に説明する一方で、コヨーテとSAT29と現代のオオカミおよびイヌとシベリアの更新世のオオカミ2個体と関連する混合なしに、あらゆる潜在的なトポロジーが検証されました。100個の図のうち3個がよく適合し、シベリアの更新世のオオカミ2個体を、現代の集団の基底部の枝に特徴づけます。図は同様によく適合し、SAT29が、シベリアの更新世のオオカミ2個体の枝の基底部か、この枝か、この枝の下部に位置づけられるという点でのみ異なります(図3B)。

 以前の研究では、現代のオオカミの集団構造は、ほぼLGM後に形成された、と明らかになっています。本論文の結果はこの想定と一致します。それは、SAT29が、現代のオオカミとイヌが分岐する前に、その祖先と分岐した系統を有しているからです。コーカサスの後期更新世のオオカミは、シベリアのオオカミと密接に関連していませんが、同様に、絶滅したか、後の集団過程により上書きされた基底部系統を有します。

 標的を限定することで、イヌ科のmtDNAの9884リードを回収し、網羅率13倍のmtDNA配列が得られました。SAT29とコンセンサス配列は、アルメニアのアギトゥ3(Aghitu-3)洞窟の古代のオオカミ2個体(31000~30000年前頃)とともに系統樹の枝に収まり(図3C)、オオカミのmtDNA系統の絶滅したように見えるユーラシア西部系統の分枝に位置づけられます。

 SAT29標本のヒトとオオカミ両方のコンセンサスmtDNAの年代が、さまざまな事前確率およびデータセットとともに推定されました。SAT29標本で、ヒトのコンセンサスmtDNAは48243~38815年前の平均年代(95%信頼区間で74475~19772年前)となりますが、オオカミのmtDNAコンセンサスの平均年代は31416~22991年前(95%信頼区間で49884~11712年前)です。サツルブリア洞窟B3層のSAT29標本からの直接的な年代は25500~24200年前頃なので、mtDNAの年代の信頼区間に収まります。SAT29標本のヒト配列の平均推定年代はオオカミよりも古いものの、95%信頼区間は、1つを除いて用いられたデータセットと事前確率の全ての組み合わせで重複しています。以下、本論文の図3です。
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●ウシ属のDNA解析

 多くのウシ亜科のゲノムが集められ、ガウル(インドヤギュウ)のゲノムで140万ヶ所のヘテロ接合性塩基転換部位が特定され、部位ごとに1リードを無作為に標本抽出することにより、これらの部位で全個体に遺伝子型が割り当てられました。その結果、SAT29ウシ属標本には、27724個の塩基転換多様体で遺伝子型が得られました。ADMIXTUREクラスタ化(図4A)とf4統計を用いると、SAT29ウシ属標本は、オーロクスと家畜ウシとアジアのウシ属を除いて、バイソン属と遺伝的浮動を共有している、と明らかになりました。これは、土壌メタゲノム手法の重要な証明を提供します。なぜならば、同定された種はウシ(Bos taurus)の参照ゲノムではないからです。

 SAT29ウシ属標本のリードの系統を調べるため、ポーランドとコーカサスの20世紀初頭のヨーロッパバイソン(Bison bonasus)のゲノムが組み込まれました。SAT29は、北アメリカ大陸のバイソンよりも、ポーランドとコーカサスの20世紀初頭のヨーロッパバイソンや現代のヨーロッパバイソンの方と近く、バイソン属ではヨーロッパとアメリカ大陸の集団はSAT29の年代よりも前に分岐した、と示唆されます。コーカサスとポーランドの20世紀初頭のバイソン集団は、ヨーロッパバイソンの別の亜種として分類されてきましたが、SAT29標本は互いに検出可能なほど近くはありません。さらに、コーカサスとポーランドの20世紀初頭のバイソン集団は、f4統計ではSAT29標本を除外して遺伝的浮動を共有します。

 これらバイソンのゲノム間の関係を要約するため、全ての潜在的なトポロジーが検証されました。最適なトポロジーでは、SAT29がポーランドとコーカサスの20世紀初頭のバイソン集団の基底部に、アメリカ大陸のバイソンがこれら全ての基底部に位置づけられます(図4B)。このモデルは、アメリカ大陸とポーランドのバイソンのゲノム間の一部の過剰な類似性の兆候を除いて、全てのf4統計を説明します。追加の混合事象を認める場合に生じる、より複雑なモデルの区別は試みられていません。全体として本論文の結果から暫定的に、ユーラシア西部のバイソンの歴史は、後期更新世の系統が現代の集団の基底部に位置するように見え、集団構造がLGM以降にかなり再形成されてきたと示されるという点において、オオカミの歴史と一部の特徴を共有しているかもしれない、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
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●ヒツジ属のDNA解析

 さらに、ヒツジ(Ovis aries)に割り当てられた72100リードが回収され、10種103頭のヒツジ属とヤギ属のデータセットとともに調べられました。f4統計では、SAT29標本はヤギ属よりもヒツジ属と類似しているものの、現代のあらゆるヒツジ属種とはクラスタ化しない、と示唆されました。したがって、SAT29ヒツジ属標本の系統について、詳細に説明できませんでした。


●SAT29標本の個体識別

 SAT29標本から得られたゲノムデータが、個体の識別についてより多くを明らかにできるのか、調べられました。まず、ヒトとイヌ科のmtDNAを調べ、複数の個体が含まれているのか、確認されました。ヒトのmtDNAのリード間の遺伝的変異の欠如は、単一個体か、同じmtDNAハプロタイプを有する複数個体に由来することと一致します。対照的に、オオカミのmtDNAのリード間では遺伝的変異の証拠が見つかり、複数個体に由来する、と示唆されます。

 次に、ヒトとイヌ科とウシ科のDNAの性別が調べられました。常染色体と比較してのX染色体にマッピングされているリードの量を比べると、ヒトのデータは雌1個体からの由来と一致します。対照的に、オオカミとバイソンのX染色体のリード断片は雌雄の核型で予測されるものの中間で、両性の個体群に由来しているかもしれないと示され、再び複数個体起源の可能性が示唆されます。最後に、ヒトのDNAがどの組織に由来するのか評価するため、ヒトのmtDNAと核DNAのリード数が比較されました。その結果、錐体骨に由来する、と推定されました。錐体骨には他の組織よりも多くのDNAが保存されている、と明らかになっています(関連記事)。


●まとめ

 単一の更新世土壌標本(SAT29)からの複数動物種のゲノム規模データの回収は、以前の堆積物DNA研究と比較して、新たな道を開きます。このデータを用いて、コーカサス南部の25000年前頃に存在した哺乳類3集団の遺伝的系統と歴史について、推測が可能になりました。回収されたDNAの損傷特性、ミトコンドリアの推定年代、全3集団のゲノムがこれらの種間でもはや存在しない系統を表しているという事実は、SAT29標本から得られたDNAがじっさいに更新世起源であることと、現代の汚染もしくは異なる土壌層間の移動の産物ではないことを示します。

 本論文で提示されたデータから、堆積物DNAは種の有無を検証するだけではなく、個体群の系統に有益な情報をもたらすゲノム規模データの取得にも使える、と示されます。本論文で提示されたDNAの量は、一部の高品質な骨格遺骸から得られるものよりも依然としてずっと少ないものの、低網羅率の古代ゲノム配列に匹敵する情報を提供します。複数の哺乳類種の補完的な分析は、多くの集団の歴史を再構築するこの手法の力を示します。したがって本論文の結果は、堆積物から得られた古代DNAにより提供される可能性を拡大し、骨格遺骸がDNA解析に利用できない場合、それが時としてゲノム規模の情報の代替的情報源として役立つことができ、遺骸を残さない微生物にさえその可能性がある、と示します。本論文は、堆積物のDNA解析の可能性を大きく拡大したという意味で、たいへん注目されます。


参考文献:
Gelabert P. et al.(2021): Genome-scale sequencing and analysis of human, wolf and bison DNA from 25,000 year-old sediment. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2021.01.08.425895

イヌの家畜化の初期段階

 イヌの家畜化の初期段階に関する研究(Lahtinen et al., 2021)が公表されました。イヌ(Canis familiaris)はヒトにより家畜化された最初の動物で、遊動性の狩猟採集民により家畜化された唯一の動物です。イヌの家畜化への関心は高く、その起源地と年代と家畜化過程、さらには単一起源なのか複数起源なのかをめぐって、長く議論が続いています。近年では、イヌの古代DNA研究も進展しており、イヌの進化史における包括的な研究では、完新世の始まりまでに少なくとも5系統が存在していた、と指摘されています(関連記事)。以下、旧石器時代におけるイヌ遺骸の場所を示した本論文の図1です。
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 イヌの起源がオオカミ(Canis lupus)であることはほぼ確実ですが、その家畜化過程に関しては議論が続いています。ヒトとオオカミのどちらも、執拗に大型動物を集団で狩る分類群です。ヒトとオオカミの生態的地位は部分的に重なっていた可能性があり、一定以上競合関係にあったかもしれません。本論文は、そのような関係のヒトとオオカミがどのように関わり、ヒトがオオカミを家畜化していったのか、という問題を肉の消費の観点から検証しています。

 本論文は単純なエネルギー含有量の計算を行ない、最終氷期の終わり頃(29000~14000年前頃)にヒトが狩猟対象にしていたと考えられ、オオカミの典型的な被食種でもあった動物(ウマやヘラジカやシカなど)の肉のうち、ヒトが食べ残した分のエネルギー量を推計しました。本論文は、もしオオカミとヒトが厳しい冬に同じ動物を狩っていたとのであれば、ヒトはオオカミを家畜化するのではなく、競争を減らすために殺していただろう、という仮説を立てました。

 計算の結果、ヒトが捕食していた全ての動物種(イタチなどのイタチ科動物を除きます)によりもたらされるタンパク質量は、ヒトが消費可能な量を上回ることが明らかだったので、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減った、と本論文は推測しています。ヒトは肉食に完全には適応しておらず、肉の摂取量は、タンパク質を代謝する肝臓の能力により制約を受けます。一方、オオカミは何ヶ月も赤身の肉で生きていけます。

 ヒトは植物性の食物が少なくなる冬に動物性の食餌に頼っていたかもしれませんが、タンパク質だけの食餌に完全には適応していなかったので、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性があり、余った赤身肉をオオカミに与えたことが、イヌの家畜化の初期段階にあったのではないか、というわけです。ヒトが余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある、と本論文は指摘します。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:ヒトが食べ残しの肉をオオカミに与えたことがイヌの家畜化の初期段階に寄与したかもしれない

 最終氷期の終わり頃(2万9000~1万4000年前)、厳しい冬の間に、ヒトが食べ残しの赤身肉をオオカミに与えたことが、イヌの家畜化の初期段階に関係していた可能性のあることを示した論文が、Scientific Reports に掲載される。

 今回、Maria Lahtinenたちの研究チームは、単純なエネルギー含有量の計算を行い、2万9000~1万4000年前に人間が狩猟対象にしていたと考えられていて、オオカミの典型的な被食種でもあった動物(ウマ、ヘラジカ、シカなど)の肉のうち、ヒトが食べ残した分のエネルギー量を推計した。Lahtinenたちは、もしオオカミとヒトが厳しい冬に同じ動物の狩猟を行っていたのであれば、ヒトは、オオカミを家畜化するのではなく、競争を減らすために殺していただろうという仮説を立てた。計算の結果、ヒトが捕食していた全ての動物種(ただしイタチなどのイタチ科動物を除く)によってもたらされるタンパク質量はヒトが消費可能な量を上回ることが明らかになり、Lahtinenたちは、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減ったと考えている。

 今回の論文によれば、ヒトは、植物性の食物が少なくなる冬に、動物性の食餌に頼っていたかもしれないが、タンパク質だけの食餌に適応していなかった可能性が非常に高く、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性がある。オオカミはタンパク質だけの食餌で何か月も生き延びることができるので、ヒトは、飼っていたオオカミに余った赤身肉を与えていた可能性があり、それによって過酷な冬期においてもヒトとオオカミの交わりが可能だったと考えられる。余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある。



参考文献:
Lahtinen M. et al.(2021): Excess protein enabled dog domestication during severe Ice Age winters. Scientific Reports, 11, 7.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-78214-4

上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史

 上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史に関する研究(Kılınç et al., 2021)が公表されました。シベリアは、ウラル山脈から太平洋へと東西、アルタイ地域のサヤン山脈から北極海へと南北と、アジア北東部の広大な地域にまたがっています。シベリアは世界で最も人口密度の低い地域の一つにも関わらず、その巨大な領域は、複数の民族集団の本拠地と、アメリカ大陸先住民の起源地域としての、興味深い歴史を有しています。

 現生人類(Homo sapiens)は、大型動物の一部、つまりマンモスやケブカサイ(関連記事)やホラアナライオン(関連記事)などとともに、シベリアの北東部に38000年前頃に拡散しました。これらの拡散は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の始まりの前に起きました。氷河作用の終了までに、20000~18000年前頃、シベリアの人類とその他の大型動物はLGMの影響を受けましたが、新たなデータは、シベリアにおける著しい定住の減少に関する以前の推測と矛盾します(関連記事)。石器技術および新石器時代前の土器の存在により明らかなように、アジア北東部におけるLGMとLGM後の人類の活動の痕跡は、バイカル湖の東側であるトランスバイカル地域と同様に、シベリア高原東部全域で見られます。完新世を通じて、複数の文化複合がアジア北東部全域でじょじょに出現し、そのうちのいくつかはアラスカ北部を通って東方へと広がり、以前には無人だったグリーンランドに4500年前頃に到達しました。

 最近の遺伝的研究により、複数の混合および遺伝子流動事象により形成された、アジア北東部における複雑で動的な人口史が明らかになってきました。これらの研究では、アジア北東部全域での移住と関連した、人類集団の遺伝的構造におけるかなりの変化が報告されました(関連記事)。しかし、この広大な地域の人口動態を長期にわたって充分評価するには、さらなる調査が必要です。アジア北東部の遺伝的に未調査の地域や遺跡からの古代遺伝データの分析により、解像度を上げることができます。たとえば、LGM後の人類の居住の最初の痕跡を有するトランスバイカル地域と、古イヌイット(古エスキモー)のサカク(Saqqaq)文化複合と関連するヤクーチア(Yakutia、サハ共和国)の遺跡からの遺伝的データは、新たな調査の場所を提供できます。本論文はこれらの地域に焦点を当て、アジア北東部、とくにレナ川とアンガラ川とコリマ川の流域およびバイカル湖地域全体の人口史を調べます。本論文は古代ゲノムの包括的標本を研究するにあたって、移動性、混合過程、あるいは感染爆発が完新世のアジア北東部にどの程度影響を及ぼしたのか、推測します。


●ゲノム規模古代DNAデータ

 上部旧石器時代後期から中世までの40人のゲノム規模データが生成されました。地域はロシア連邦の異なる5行政区域にまたがっており、それはヤクーチア(サハ共和国)とトランスバイカルとシスバイカル(バイカル湖の西側)とクラスノヤルスク地方とアムール州です。以下、地域区分と各標本の場所および年代を示した本論文の図1です。
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 各地区のゲノムデータの内訳は以下の通りです。ヤクーチアは、16900~2490年前頃(以下、基本的に較正年代です)の10個体です(網羅率は0.03~8.9倍)。トランスバイカル地域は、8515~3000年前頃の8個体です(網羅率は0.1~4.7倍)です。シスバイカル地域は、8980~550年前頃の20個体です(網羅率は0.1~14.5倍)。クラスノヤルスク地方は、4280~4085年前頃の1個体です(網羅率は13.6倍)。アムール州は1345~1270年前頃の1個体です(網羅率は0.7倍)。これら40個体のうち、15個体が女性で25個体が男性です。全個体は、Y染色体ハプログループ(YHg)ではQもしくはN、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では非アフリカ系統のM・N・R(Nから派生に分類されました。頻度分析では近縁な個体は除外されました。

 世界の現代人集団を用いた主成分分析(図2A)では、ユーラシア西部からアジア中央部および東部へと広がる遺伝的勾配が示されます。本論文で分析されたアジア北東部の個体群は、アジア中央部および東部の現代人集団と遺伝的類似性を有します。アジア北東部におけるLGM後の人口動態を推測するため、まず本論文で最古の個体が分析され、次に中世までの経時的な人口変化が調べられました。


●アジア北東部におけるLGMおよびその後の人口動態

 レナ川中流のハイヤルガス(Khaiyrgas)洞窟は、アジア北東部におけるLGM後の人類居住の最初の遺跡の一つです。しかし、アジア北東部のこの地域の人々の起源と影響は不明のままです。アジア北東部におけるLGM後の人口動態を調べるため、ハイヤルガス洞窟の旧石器時代の上層から発掘された、16900年前頃の未成年期女性の乳歯から古代DNAが解析されました。この個体(ハイヤルガス1)は、シベリア中央部高原の居住者のうちLGM後となる最初の既知の人類の1人です。この個体により地理的に代表される人類集団は、15000~13000年前頃となるボーリング- アレロード(Bølling-Allerød)間氷期にこの地域から撤退しました。

 ハイヤルガス1は主成分分析では、シベリア北部のウラル語族話者集団である現代のセリクプ人(Selkup)へと向かって遺伝的類似性を示します(図2A)。ハイヤルガス1は、チェイン人(Chane)やグアラニー人(Guarani)やカリティアナ(Karitiana)といったアメリカ大陸先住民集団とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しますが、外群f3統計では、他の世界の集団と比較してセリクプ人との程度は低くなります。ADMIXTUREで、ハイヤルガス1のゲノムの祖先クラスタが推定されました(図2B)。K=14の祖先構成では、アジア北東部の現代のガナサン人(Nganasan)集団で最大化される遺伝的構成(図2Bの黄色)と、現代のアメリカ大陸先住民集団で最大化される別の遺伝的構成(図2Bの紫色)が、他のユーラシアの上部旧石器時代個体群と比較して、ハイヤルガス1のゲノムにおいて高水準で存在しました。

 主成分分析では、ハイヤルガス1はLGMの終了時におけるこの地域全体で最初の大きな遺伝的変化を示しました。TreeMixを用いて適合する最尤系統樹で異なる系統を表すハイヤルガス1は、主成分分析では古代シベリア北部人(ANS)を含むシベリアの異なる2系統間に位置づけられます。その一方はシベリア北東部の住民で、38000年前頃となる上部旧石器時代のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体(ヤナUP)に代表されます。もう一方はアメリカ大陸先住民のシベリアの祖先である古代旧シベリア人(AP)で、コリマ地域の9800年前頃の個体(コリマM)に代表されます。

 LGMの期間とその後における地域的な継続性、つまり38000年前頃のヤナUPと16900年前頃のハイヤルガス1と9800年前頃のコリマMとの間の遺伝的継続税があったのかどうか、あるいは、この地域への遺伝的に離れた起源集団からの遺伝子流動の可能性があるのかどうか、検証するために、f4統計により共有される遺伝的浮動の検証が実行されました。f4統計(ヨルバ人、検証集団、ヤナUP、ハイヤルガス1)では、24000年前頃となるシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡(関連記事)の1個体(MA1)、もしくは16000年前頃となるア南部中央のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァゴラ3)が対象となり、両者は古代北ユーラシア人(ANE)に分類されます。その結果、ハイヤルガス1はANSに分類されるヤナUPよりもANE系統とより多くの遺伝的浮動を有している、と明らかになったので、LGMにおけるこの地域へのユーラシア西部からの遺伝子流動の可能性が示唆されます。

 f4統計(ヨルバ人、ハイヤルガス1、検証集団、コリマM)と別のf4統計(ヨルバ人、コリマM、検証集団、ハイヤルガス1)の結果、ハイヤルガス1とコリマMは、ヤナUPと、MA1およびアフォントヴァゴラ3や、ロシアの45000年前頃となるウスチイシム(Ust'-Ishim)個体(関連記事)およびコステンキ14(Kostenki 14)遺跡個体(関連記事)およびスンギール(Sunghir)遺跡個体(関連記事)や、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の個体(関連記事)を含むユーラシアの他の上部旧石器時代個体群と比較して、相互により多くの遺伝的浮動を共有しています。例外は、北アメリカ大陸の12000年前頃となるアンジック(Anzick)遺跡の男児アンジック1(関連記事)と、グリーンランドの4000年前頃となるサカク(Saqqaq)文化遺跡の男性(関連記事)で、両者ともにコリマMとより多くの遺伝的浮動を共有します。

 最近、バイカル湖の南側で発見された14500年前頃となる上部旧石器時代個体(UKY)が、コリマMと密接に関連している、と明らかになりました(関連記事)。UKYとコリマMは、アメリカ大陸先住民集団に向かって遺伝的類似性を有します。さらに、f4統計(ヨルバ人、アンジック1、ハイヤルガス1、UKY)では、アンジック1がハイヤルガス1と比較してUKYとより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。ハイヤルガス1とUKYとコリマMの間の複雑な関係をさらに評価するため、f4統計(ヨルバ人、UKY、ハイヤルガス1、コリマM)が実行され、予想外に、ハイヤルガス1とコリマMがUKYと比較して対称的に関連しているように見えました。さらに、f4統計(ヨルバ人、ハイヤルガス1、コリマM、UKY)でも、UKYとコリマMが対称的にハイヤルガス1と関連している、と示唆されました。

 これらの結果は、一連の検証が比較的少ない一塩基多型数に基づいているので、データと一致する複数のシナリオを提示することに起因する可能性が高そうです。qpAdmを用いると、コリマMは、ハイヤルガス1(80±19%)とロシア極東の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡(関連記事)集団(19±19%)との2方向の混合としてモデル化されます。本論文の結果は、アジア北東部における新たなLGM後の系統の存在を示し、それはハイヤルガス1に代表され、38000年前頃にこの地域に居住していたより古いANS系統の集団とは異なります。この系統は、アジア北東部において後の集団である9800年前頃に居住していたAPに、直接的に遺伝的影響を残しました。以下、本論文の図2です。
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●ヤクーチア全域の集団変化と古イヌイットの起源

 旧石器時代から新石器時代への移行により特徴づけられる大きな文化的および社会的変化の期間である、13000~2500年前頃のアジア北東部における人口動態をさらに調べるため、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の年代順のゲノムデータが分析されました。これらのデータには、シャラフ(Syalakh)文化複合と関連する6800年前頃のマッタ1(Matta-1)個体、ベルカチ(Belkachi)文化複合と関連する6200年前頃のオニョス1(Onnyos-1)個体、4780~2490年前頃の7個体が含まれます(図1)。主成分分析では、上部旧石器時代後期から鉄器時代にかけての西から東の遺伝的勾配と、レナ川およびコリマ川流域全体のこの期間における3回の主要な遺伝的変化の存在が明らかになりました。これらは、上部旧石器時代後期と中石器時代の間の9800年前頃の変化(関連記事)と、それとは別の中石器時代と前期~中期新石器時代との間の6800年前頃の変化と、前期~中期新石器時代と後期新石器時代~鉄器時代との間の4700年前頃の変化を含みます(図2A)。

 マッタ1とオニョス1は主成分分析では、ハイヤルガス1とコリマMとその後のヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の個体群との間で、異なる集団(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団)を形成しました。クラスノヤルスク地方の4280~4085年前頃となるクラ001(kra001)個体は、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の個体群と集団化します。ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団は、アジア北東部現代人集団へと向かって遺伝的類似性を示します。ADMIXTURE分析では、上部旧石器時代後期から鉄器時代にかけて、アジア北東部関連系統の増加パターンと、アメリカ大陸先住民関連系統の減少パターンが明らかになります(図2B)。一貫して、アジア東部系統を表す悪魔の門個体群と、アメリカ大陸先住民系統を表すアンジック1個体は、その後行および先行集団と相互により多くのアレルを共有しており、新石器時代と青銅器時代における、極東の起源集団からレナ川およびコリマ川流域の集団への遺伝子流動の存在が示唆されます。

 新石器時代にはさまざまな文化複合がヤクーチア全体に出現し、とくに、アンガラ川およびレナ川流域の巨大な新石器時代墓地に代表されます。これらのうち、ベルカチ石器複合はとくに興味深く、それは、ベルカチ石器複合関連の人々は、遺伝的証拠はないものの、古イヌイットのサカク文化複合と関連しているかもしれない、との仮説が提示されているからです。主成分分析(図2A)では、マッタ1とオニョス1(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団)は古イヌイットのサカク文化個体に向かって遺伝的類似性を示しており、これはf4統計でも確認され、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とサカク文化個体は相互に、他の古代集団と比較してより多くの遺伝的浮動を共有しています。一貫して、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とサカク文化個体のゲノムにおける系統構成の分布は類似しています(図2B)。

 古イヌイットとチュクチ・カムチャツカ語族(Chukotko-Kamchatkan)話者との間の遺伝的類似性は、以前の研究でも報告されていました(関連記事)。外群f3統計(ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団、検証集団、ヨルバ人)では、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団が、チュクチ・カムチャツカ語族話者、つまりイテリメン(Itelmen)やコリャーク(Koryak)といった現代人集団とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。サカク文化個体のゲノムにおける系統の割合を確認するためqpAdmが用いられ、サカク文化個体はヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団(90±10%)とユーラシア西部人(10±10%)の混合と推定されます。これらの結果は、古イヌイットのベルカチ文化複合関連系統の最初の直接的証拠を提供します。


●バイカル湖地域集団の起源と相互作用

 バイカル湖周辺地域、とくにトランスバイカルは、アジア北東部におけるLGM後の人類の人口動態を研究するための、もう一つの独特な地域として役立ちます。それは、この地域が新石器時代よりも前の土器に示唆される、LGM後の人類の活動の最初の証拠を有しているからです。この地域における13000~11000年前頃となる新石器時代よりも前の土器の出現は、アジア南東部からの移住の可能性と関連していました。遺伝学的研究により、バイカル湖の西側(シスバイカル)では完新世における集団変化が明らかになりましたが、トランスバイカルはまだ調べられていません。本論文では、アジア北東部におけるLGM後の人類の背後にある動態をじゅうぶん理解し、バイカル湖地域集団の系統と相互作用を評価するために、8515~3000年前頃となるトランスバイカルの8個体と、8980~560年前頃となるシスバイカルの20個体のゲノムデータが分析されました(図1)。

 主成分分析では、トランスバイカル地域の8515年前頃のヅィフリンダ1(Dzyhlinda-1)個体が、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団のすぐ近くに位置します。ヅィフリンダ1は、サカク文化個体およびコリマMに向かって遺伝的類似性を示し(図2A)、現代人ではイテリメンやチュクチやイヌイットとアレルを共有します。ヅィフリンダ1は、他の古代集団と比較して、ヤクーチアのレナ川流域の6850~6190年前頃の集団とより多くの遺伝的浮動を共有しており、トランスバイカル地域に8515年前頃に居住していた人々はレナ川流域の住民の祖先だった、と示唆されます。

 他のトランスバイカル地域の個体群は明確な遺伝的集団を形成し、この地域における8345~3000年前頃の大きな人口変化のない遺伝的継続性が示唆されます。この集団(トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)は遺伝的に、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群と近く、アジア中央部および東部の現代人集団に向かって遺伝的類似性を示します。ヅィフリンダ1とは対照的に、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団の個体群は、比較的より多くのアジア北東部および南東部関連系統と、より少ないアメリカ大陸先住民関連系統構成を有している、とADMIXTURE分析により明らかになり、f4統計で裏づけられました。アムール州の1345年前頃の1個体は、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団に向かって遺伝的類似性を有します。この結果はしたがって、経時的かつトランスバイカルから極東までの広範な地域の遺伝継続性のさらなる裏づけを提示しており、ヤクーチア全体の人口変化のパターンとは対照的です。

 それどころか、本論文のデータは、8980~560年前頃の間の、シスバイカル地域全体の複数の人口変化を明らかにしました。8980年前頃のシスバイカル地域個体であるポポフスキー1(Popovskij-1)は、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団の遺伝的多様性に収まります(図2)。ポポフスキー1は、他の古代集団と比較して、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団とより多くの遺伝的浮動を共有しており、8900年前頃のこの地域全体の均一な遺伝子プールの存在が示唆されます。7900年前頃となるシクロドローム1(Cyclodrome-1)個体は、シスバイカル地域全体で最初の遺伝的変化を示し、7200~6200年前頃となる個体群と密集して、主成分分析では明確な遺伝的集団(シスバイカル地域の7200~6200年前頃の集団)を形成します。しかし、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の個体群は、ユーラシア西部関連系統を比較的多く、アジア北東部関連系統を比較的少なく有する、別の集団(シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団)を形成します(図2)。670~550年前頃となる中世シスバイカル地域の1個体は、アジア東部集団に向かって増加する遺伝的類似性を有する他の個体群とは、遺伝的に異なっていました。YHgの分布は、観察された遺伝的集団と一致していました。

 バイカル湖地域の古代人のゲノムを分析した最近の研究(関連記事)では、6700~3700年前頃のシスバイカル地域の個体群は、本論文で提示されたシスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団と類似した遺伝的構成の集団を形成しました。しかし、4300年前頃のシスバイカル地域のグラズコヴスコエ(Glazkovskoe)遺跡の2個体(GLZ001およびGLZ002)は別の集団を形成し、本論文ではGLZ と呼ばれます。この2個体は、アジア東部人との遺伝的類似性も有する本論文におけるトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団と類似した、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群に向かって遺伝的類似性を示します。

 これらの個体群と本論文におけるトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団との間の相互関係を検証するため、f4統計(ヨルバ人、GLZ001、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)と別のf4統計(ヨルバ人、GLZ002、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)が実行されました。その結果、GLZ001およびGLZ002はトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団とより多くのアレルを共有する、と明らかになりました。さらに別のf4統計(ヨルバ人、悪魔の門遺跡の新石器時代個体群、GLZ個体群、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団)では、GLZ個体群(GLZ001およびGLZ002)とトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団は、悪魔の門遺跡の新石器時代個体と対称的に関連している、と明らかになりました。これらの結果は、GLZ個体群の起源集団の一つとして、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団を示唆しているかもしれません。

 本論文の知見は、バイカル地域全体の人口変化の複雑なパターンを明らかにしており、それはバイカル地域周辺の人口構造における動的変化を明らかにしたものと一致します(関連記事)。8500年前頃以前に、人々はトランスバイカル地域に居住していました。かれらはヤクーチアのレナ川流域に定住した人類集団の祖先になりました。8300年前頃、トランスバイカル地域で大きな遺伝的変化が起きました。アジア東部関連系統を有するこの新たな集団は、中石器時代にバイカル湖地域の西側と東側に存在しました。この集団はトランスバイカル地域に3000年前頃まで留まりましたが、遠方の集団からの広範な遺伝子流動が、7900年前頃と6100年前頃に、シスバイカル地域に影響を及ぼしました。


●古代アジア北東部集団の遺伝的多様性

 さらに、古代アジア北東部における人類集団の遺伝的多様性の程度が評価されました。これらの分析は、網羅率が4.5倍以上の個体に限定されました。内訳は、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団から9個体(6.9~14.5倍)、トランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団から1個体(4.7倍)、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団から3個体(5.5~13.6倍)です。比較のためヨーロッパ西部の古代人のゲノムデータが含められ、具体的には、中期石器時代となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡個体と、新石器時代となるドイツのシュトゥットガルト(Stuttgart)遺跡個体です。

 ヘテロ接合性の推定により、全集団の遺伝的多様性はヨーロッパ西部の中石器時代集団と新石器時代集団の多様性の間にある、と明らかになりました(図4A)。ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団の遺伝的多様性が最低で、それに続くのがトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団です。シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団は、4400年前頃となる2個体を除いて、ヘテロ接合性の推定値が最も高い、と示されます。一貫して、シスバイカル地域の6100~3700年前頃の集団は短いRoHの低水準を有しており、地理的により孤立したトランスバイカル地域の8345~3000年前頃の集団およびヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団と比較して、大きな祖先人口規模が示唆されます(図4B)。RoH(runs of homozygosity)とは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。長いRoH水準は、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団と、4400年前頃のシスバイカル地域の3個体で見られ、近い年代でのより限定された移動を示します。

 複数の連続マルコフ合祖(MSMC)分析では、ヤクーチアのレナ川およびコリマ川流域の4780~2490年前頃の集団の有効人口規模が4700年前頃には小さかった、と明らかになり、この集団で観察される低い遺伝的多様性と一致します。シスバイカル地域の6100~5600年前頃の人類集団の有効人口規模推定値は比較的高いものの、4400年前頃には減少しました(図4C)。4700~4400年前頃のシスバイカル地域とヤクーチアで観察される小さな有効人口規模の類似性は、世界的な気候変化、つまりサブボレアル期(Subboreal Period)の寒冷化を反映している可能性があり、4700~4000年前頃の人口減少を示唆しているかもしれません。以下、本論文の図4です。
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●古代アジア北東部におけるペスト菌

 古代アジア北東部個体群における、機能的一塩基多型と、歴史的な世界的流行病と関わったペスト関連の真正細菌(Yersinia pestis)の存在の可能性が検証されました。ペスト菌の最初の証拠は、5000年前頃となる後期新石器時代と青銅器時代のユーラシアで見つかりました。アジア北東部におけるペスト菌の存在と、アジア北東部全体の人口動態への影響の可能性を評価するため、全40個体の配列データが分析されました。その結果、4400年前頃となるシスバイカル地域のアノソヴォ(Anosovo)遺跡の1個体(アノソヴォ1)と、3800年前頃となるヤクーチアのカメンカ(Kamenka)遺跡の1個体(カメンカ2)でペスト菌固有の配列が確認されました。カメンカ遺跡では3人の若い個体が埋葬されており、全員相互に親子関係です。


●まとめ

 アジア北東部、とくにバイカル湖と隣接する地域とロシア極東全体では、これまで未知のLGM後の遺伝的変化を有する複雑な人口史が示されます。トランスバイカル地域では、約6000年にわたる長期の遺伝的継続性があり、遺伝的置換はほとんど見られません。完新世全体にわたるこの独特な人口史パターンは、シスバイカル地域およびヤクーチアの繰り返される遺伝子流動事象とは対照的です。ハイヤルガス1に代表される人類集団がLGM後にヤクーチアへと拡散したに違いない、と本論文は報告します。この集団は遺伝的に、LGMの前にこの地域に居住していたシベリア最初の住民とは異なっていました。この集団の遺伝的影響は、その6000年後の人類集団に見られます。

 本論文のデータは、5000年前頃にアメリカ大陸への遺伝子流動の第二の波を起こした古イヌイットの系統において重要な位置を占めている集団としての、ベルカチ文化集団とよく一致します。また本論文は、人口の少ないヤクーチア地域と、密接につながったシスバイカル地域における、古代ペスト菌の最も北東部での存在を報告します。4400年前頃の有効人口規模と遺伝的多様性水準の減少に見られるように、ペスト菌は両地域における人口動態形成の結果をもたらしたかもしれません。この発見は、青銅器時代のバイカル湖地域におけるペスト菌の発見(関連記事)と一致して、アジア北東部のこの地域におけるペストの流行が、より多くのデータで調査する価値のある仮説である可能性を示唆します。本論文の結果は、シベリアの集団が相互に、また地理的に遠方の集団とも関係したという、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部における複雑な人口史を示しています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。ユーラシア東部の古代DNA研究は、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていましたが、昨年(2020年)はユーラシア東部の古代DNA研究が大きく進展し(関連記事)、今年も早々に重要な知見を提示した本論文が公表され、今後の研究の進展が大いに期待されます。本論文はシベリアにおける後期更新世以降の複雑な人口史を提示しましたが、ユーラシア東部の古代DNA研究では、やはり古代DNAの保存に適したシベリアが今後も他地域より進展していきそうです。古代DNA研究において、シベリアは人口密度が低く、したがって人類遺骸の発見確率も低い、という弱点はありますが、堆積物の古代DNA研究も進展しつつありますから、現生人類に限らず非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属)の広範な存在も今後明らかになっていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Kılınç GM. et al.(2021): Human population dynamics and Yersinia pestis in ancient northeast Asia. Science Advances, 7, 2, eabc4587.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abc4587

大河ドラマ『麒麟がくる』第40回「松永久秀の平蜘蛛」

 織田と本願寺との戦いは、途中に講和期間も挟みつつ、1570年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)以来続いていました。義昭が都から追放された後に織田信長に仕えるようになった松永久秀も本願寺との戦いに参陣していましたが、1577年、突如陣を引き払います。伊呂波太夫に呼ばれた明智光秀(十兵衛)は三条西実澄と会い、正親町天皇が光秀に会いたいと言っている、と聞かされます。光秀が伊呂波太夫のいる邸宅に入ると、松永久秀がいました。少し前に、羽柴秀吉が柴田勝家と対立して勝手に退陣し、信長は激怒して秀吉に切腹を命じましたが、家臣団の執り成しで何とか秀吉は赦されました。この大騒ぎを知っていながらなぜ勝手に退陣したのだ、と光秀は久秀を詰問しますが、久秀は、大和守護の原田(塙)直政が本願寺との戦いで討ち死にした後、自分が大和守護に任じられるかと思ったら、筋目の良い筒井順慶が任じられたことに不満がある、と答えます。久秀は、信長は能力のある人物を重用すると言われているが、そうではない、と指摘します。上杉謙信との戦いでは無能なのに譜代の家柄の柴田勝家を総大将に起用し、大和守護に筒井順慶を起用したのも同様だ、というわけです。久秀は大事にしている平蜘蛛の茶釜を信長に渡したくないが、その状況に追い込まれるようならば光秀に渡したい、と言います。光秀も久秀も互いには戦いたくないと考えており、光秀は信長に執り成すと言いますが、久秀は、自分にも意地がある、と答えます。久秀は平蜘蛛を伊呂波太夫に預け、自分が勝てば平蜘蛛を取り戻す、負ければ光秀に与えるよう、指示します。

 久秀は上杉謙信と呼応して決起し、信長の嫡男の信忠を総大将として織田軍が攻めかかり、光秀も参陣します。信長は、久秀が降伏してきたら、茶道具を全て差し出せば赦す、と家臣団に命じます。信長はとくに平蜘蛛に執着していました。しかし、久秀は敗北が決定的になっても降伏せず、茶道具を全て焼くよう家臣団に命じて切腹します。光秀は安土城を訪れ、帰蝶から信長が最近よく泣く、と聞かされます。帰蝶は、信長が高い地位に昇って精神的に不安定になっているのではないか、と案じます。帰蝶は最近の不安定な精神状態の信長との対応に疲れており、美濃に戻ることにします。久秀の茶道具を無傷で回収できなかった佐久間信盛に不満を抱く信長は光秀に、見つからなかった平蜘蛛が誰に預けられているのか知らないか、と尋ねますが、光秀は知らない、と答えます。しかし、信長は忍びの者を放っており、光秀が久秀と密会したことも知っていました。光秀は信長に詰問されても、平蜘蛛の行方は知らない、と答えます。信長は、帰蝶や正親町天皇など、喜ばせたいと思っている相手が自分から離れていくことに不満を抱いていることを光秀に打ち明けます。光秀が退出した後、信長は、光秀が自分に初めて嘘をついたことに激怒し、秀吉を呼びます。どうやら、信長は秀吉から平蜘蛛の在りかについて報告を受けていたようです。光秀は坂本城に戻った後、伊呂波太夫から平蜘蛛を受け取ります。光秀は、なぜか信長に平蜘蛛の在りかを言えなかったが、これは久秀の罠だった、と言って狂ったように笑います。久秀は伊呂波太夫に、平蜘蛛の茶釜ほどの名器を持つには覚悟がいるが、自分はそれを失ってしまった、と光秀に伝えるよう、指示していました。光秀は伊呂波太夫に、正親町天皇と会うよう、仲介を依頼します。

 今回は松永久秀の最期とそれをめぐっての織田家中の波紋が描かれ、本作では最も見どころのある回になったように思います。久秀は初回に登場し、本作では重要人物だったので、その最期と心理がしっかりと描かれたのはよかった、と思います。残り4回となり、光秀がなぜ信長に謀反を起こしたのか、しっかりと描かれるのか、注目していましたが、三淵藤英と松永久秀の最期を見て、両者からその遺志を聞かされたことが、光秀の決断に大きな影響を与えた、という話になりそうです。信長は能力のある人物を出自に関わらず積極的に登用した革新的な人物だった、との通俗的な信長像は根強いように思いますが、今回の久秀の指摘は、信長も同時代の社会規範の中で行動した大名だった、という近年の歴史学での知見を踏まえたものになっており、よかったと思います。また、光秀は正親町天皇の求めに応じて拝謁する決意を固めますが、正親町天皇も光秀の決断に大きな影響を与えた、という話になるのでしょうか。次回、光秀は正親町天皇に拝謁するので、そこでどのような会話がなされるのか、注目されます。

ネアンデルタール人に関する「ポリコレ」や「白人」のご都合主義といった観点からの陰謀論的言説

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)についてTwitterで検索していたら、以下のような発言を見つけました。

いわゆる白人たちにネアンデルタール人の遺伝子が強く受け継がれていると判明したとたんにネアンデルタール人の想像図の画風が変化したのには爆笑したのを覚えています。あれは歴史に残して、末永くいわゆる白人を嘲笑するネタにしてあげるのがいわゆる白人文化を尊重することに役立つでしょう。

 Twitterでも短く言及しましたが、このような発言に問題があることは、2018年(関連記事)と2019年(関連記事)に当ブログで取り上げました。上記のような見解は、日本語環境のネット上では、「リベラル」や「ポリコレ」に冷ややかな一部?の人々の間に「真実」として浸透しているように思います。こうした言説の浸透に大きな影響を与えたと考えられるのが、大手サイトにも寄稿しており、ネットでは反「リベラル」・反「ポリコレ」の「論客」の一人として認知されてきているように思われる白饅頭(御田寺圭)氏というアカウントです。御田寺氏は以前、

「ネアンデルタール人がヨーロッパ人と混血していた」という事実が明らかになった途端、ネアンデルタール人想像図がイケメン化した現象、僕は忘れません。

発言していましたが、批判されたからなのか、現在では削除されています。ただ、この御田寺氏の発言時期は、批判の投稿日時から推測すると2017年10月なので、2017年1月に凍結されたTwitterアカウント(@juns76)の2015年7月頃となる以下の発言の受け売りに過ぎないかもしれません。

ネアンデルタール人、昔の復元画だと猿丸出しのアジア顔なのに、最近、コーカソイドの遺伝子にネアンデルタール人が混じってるとわかった途端、白人イケメン顔になってんの。ああいう隠蔽された欧州の人種優越主義凄い

 上記の当ブログの記事でも述べましたが、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)との違いを強調する見解に対して、それに慎重で、両者の類似性を指摘する見解が主張されるようになってきたことは確かです。しかし、それはネアンデルタール人と現生人類との交雑が明らかになった2010年以降ではなく、1990年代から本格的に始まっていました。そもそも、ネアンデルタール人の評価は19世紀の発見以来ずっと揺れ動いており、両者の類似と相違のどちらを強調するかも、その文脈で大きく変わりました。ネアンデルタール人と現生人類との類似性を強調する見解は、両者の交雑のずっと前の20世紀半ばから提示されていました(関連記事)。

 また、1990年代以降のネアンデルタール人「見直し」論者の代表とも言うべきデリコ(Francesco d’Errico)氏やジリャオン(João Zilhão)氏にしても、ネアンデルタール人が現代人の主要な祖先であると考えているわけではなく、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の有無とは関係なしに、ネアンデルタール人と現生人類との類似性を主張していきました。これらの知見からも、「白人(の祖先)」がネアンデルタール人と交雑していたと明らかになった途端に、ネアンデルタール人の復元(想像)図・像が「(白人)イケメン」化した、というような認識は的外れと言えるでしょう。

 最初に取り上げた発言には続きがあり、

>RT:ネアンデルタール人の子孫は白人w
エライ美化されとるなw
復顔像技術で再現したんか?


との他アカウントの発言に対して、

このツイートに紹介されているもさね。
末永く保存して、末永く笑いものにしてあげるのが礼儀だと思うもさ。


との返信があります。それ以前の復元図との対比した「エライ美化されとる」画像とは、以下の復元図です(左側が旧復元図、右側が新復元図)。
画像

 しかし、この「エライ美化されとる」新復元図は、遅くとも2007年5月28日には公開されており、これはネアンデルタール人と現生人類との交雑が明らかになる3年前のことです(参考記事)。さらに、私が保存している同じ画像の日付から推測すると、遅くとも2004年9月には公開されています。これはネアンデルタール人少女の復元図なので、おそらく元ネタを提供した@juns76氏の想定する画像とは異なっているでしょうが、たとえば、以下のような「白人イケメン顔」のネアンデルタール人の復元像は、
画像

2008年に3月18日から6月22日にかけて上野の国立博物館で開催された「ダーウィン展」で展示されています(参考記事)。以下の『ナショナルジオグラフィック』1996年1月号(関連記事)掲載のネアンデルタール人の復元図も、黒髪ではあるものの、「白人イケメン顔」的です(そもそも黒髪の「白人」は珍しくありませんが)。
画像

 繰り返しますが、2010年5月に、ネアンデルタール人と現生人類とは交雑しており、非アフリカ系現代人に遺伝的影響を残した可能性がきわめて高い、との見解が提示されて以降、ネアンデルタール人の復元図が「猿丸出しのアジア顔」から「白人イケメン顔」になったのではなく、それ以前から「白人イケメン顔」的なネアンデルタール人復元図は存在しました。「白人」の根強い「人種」差別主義的傾向は現在でもとても否定できないでしょうが(関連記事)、それをネアンデルタール人の復元図の変遷と直結させる根拠は乏しく、稚拙な陰謀論的発想と言うべきでしょう。

 なお、上記の最初に引用した発言は、ネアンデルタール人と現生人類との交雑を指摘する記事に対する、以下の発言から派生した返信です。

これさあ、クロマニョン人はネアンデルタール人を絶滅させてないってことにしないと、白人のポリコレ的に心持ちが悪いから「そういうこと」にしたいんでねえか。

 しかし、ネアンデルタール人と現生人類との交雑の解明に大きく貢献し、明らかに「リベラル」な価値観を有するスヴァンテ・ペーボ(Svante Pääbo)氏でさえ、著書(関連記事)で述べているように、2009年初頭の時点でも、ネアンデルタール人が現代人に遺伝的に寄与した、という見解に懐疑的でした(P243)。非アフリカ系現代人がネアンデルタール人からわずかながら遺伝的影響を受けているという知見は、「白人」の「ポリコレ」的観点とは基本的に無関係の遺伝学的成果で、この知見と「ポリコレ」を結びつけるのは、下衆の勘繰りというか稚拙な陰謀論的発想にすぎません。

 ネアンデルタール人の復元図や現生人類との交雑といった知見に関して、反「リベラル」や反「ポリコレ」や反「白人」的観点と直結させてしまうのは、現代世界の重要な問題となっている陰謀論の人類にとっての魅力を改めて浮き彫りにします。確かに、「リベラル」的・「ポリコレ」的言説にも問題点はあるでしょうし、「白人」の根強い「人種」差別主義傾向は、現在世界で猛威を振るっている新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で改めて示された、と言えるでしょう。「リベラル」的・「ポリコレ」的言説や「白人」の根強い「人種」差別主義傾向に対する批判は必要ですが、それを雑に学術的知見など多くの見解・事象にまで適用するのは、批判対象側にとって好都合になってしまうので、自重してもらいたいものです。

 最近、映画に関しても、

ポリコレのせいで、西部劇も戦争ものも冒険活劇も丸ごとダメになったんやで。敵にして良いのはエイリアンか虫ぐらいだ。これが豊かな表現だと思いこむのは勝手だが。

といった雑な発言に対して批判が寄せられていました。「白人」の根強い「人種」差別主義傾向は論外としても、現在では「先進国」の「主流派」でほぼ体制教義になっている「リベラル」的・「ポリコレ」的言説を批判する必要もあり、そのさいに稚拙な陰謀論的発想で批判側の説得力を減じてはならない、と私は考えています。

加藤聖文『国民国家と戦争 挫折の日本近代史』

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2017年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は近代日本において国民国家がいかに形成されたのか、戦争はそれとどう関わったのか、論じます。まず本書は、**人(民族集団)と**国民とを区別し、同じ民族だから同じ国家に属しているとも、同じ国民だから同じ民族であるとも限らない、と指摘します。民族意識は近代の産物で日本も例外ではなく、「日本人」という意識の芽生えは江戸時代後期に欧米諸国が接触して以降のことであり、それが決定的となったのはペリー来航で、ヨーロッパという他者を意識してからだった、というのが本書の見通しです。ただ、他者を意識しての日本という意識は、どんなに遅くとも平安時代にはさかのぼる、と私は考えています。現代の日本人意識のより直接的な起源としては、幕末になるのでしょうが。本書は「国民国家」を市民型と民族型に区別し、日本は民族型だと指摘します。しかし本書は、日本も近代において順調に「国民」が形成されたわけではない、と指摘します。本書は、国民国家の形成が戦争およびそれを支えるナショナリズムとは断ち切れない関係にある、との観点から日本の近代を検証します。

 日本には国民意識を生み出すような政治思想はなく、国家の政治理念が自立的に芽生えたわけではないので、具体的な象徴が国民統合の役割を果たすことになり、それが天皇だった、と本書は指摘します。天皇の政治的存在が注目されるようになったのは江戸時代後期の尊王(尊皇)思想からで、その源流は水戸藩にありました。尊王論が急進化する触媒となったのは攘夷論でした。尊王攘夷思想は当初幕政改革が目標でしたが、桜田門外の変の後の公武合体論以降、過激化して倒幕運動へと発展していきます。そうした中で、幕藩体制を支えた身分制への批判も高まっていき、その中には後の議会制度と通ずるような議論(公議会論)が広がっていきます。日本における国民概念は、幕末の政治主導権をめぐる闘争の中から芽生えました。ただ、それは身分制を超えた能力主義に立脚していたものの、あくまでも政治意識の高い知識層が中核で、新たな政治体制における天皇の位置づけも明確ではありませんでした。そうした中で、来るべき中央集権国家の頂点に天皇を明確に位置づけていたのは木戸孝允でした。明治新政府は、長く政治体制の中心にあった幕府と比較すると政治的権威の弱さは隠せず、それも天皇を政治的権威として再定義する理由となりました。

 近代日本は後発の国民国家と一般的には考えられていますが、世界的にはそうではない、と本書は指摘します。イタリアの統一もドイツ帝国成立も明治維新とほぼ同年代で、アメリカ合衆国は1860年代の南北戦争で一度は分裂しており、当時の国民国家はフランスとイギリスくらいだった、というわけです。近代国家にとって不可欠の要素である領土に関して、日本は北海道と沖縄を除いて比較的均質な住民でまとまっており、近代国家の形成において有利だった、と本書は指摘します。近代国家にとって不可欠な国民意識の形成は、日本にとっても大きな問題となります。このように近代において国民国家が目指されたのは、軍事・経済的に有利と考えられたからでした。

 近代日本において国民意識形成のさいに問題となったのが、前近代において治める側と治められる側とに二極化していたことです。しかし、短期間で近代国家の体裁を整えねばならなかった明治政府は、行政組織の整備を最優先し、国家の理念形成と国民的合意は後回しにされました。こうして、官僚制を基礎とした「有司専制」による明治国家が形成されていきました。しかし、幕末以来の「公議会論」による政治参加への要求は途絶えず、自由民権運動にもつながっていきます。

 こうした動きには、近代における国家と国民の緊張関係がありますが、そのさいに国家分裂を防ぐのは、建国の理念や民族特性やイデオロギーや王室のような統合の象徴です。近代日本の場合は天皇でした。天皇が前面に押し出されたことで、天皇と国民の関係は、君主と臣民という擬似的な上下関係に置き換えられました。これは封建的な詩主従関係というよりも、儒学的な聖人と人民の関係に近いものでした。しかし、非知識層である庶民にまで国民意識を持たせるのは容易ではありませんでした。そのさいに重要な役割を果たしたのが外的脅威であり、それにより喚起されるナショナリズムでした。しかし、近代日本で当初起きたのは「内戦」で、むしろ国家分裂を促進しかねませんでした。しかし、根強い反対はあったものの、徴兵制を通じて国民意識はじょじょに形成されていきます。その成果は日清戦争で発揮され、その後の日露戦争とともに、対外戦争は国民意識の形成に大きく寄与しました。

 一方、教育は立身出世のため早期に定着していき、国民意識の形成に寄与します。しかし本書は、近代日本の教育が、国家と対峙する国民ではなく、国家に奉仕する国民を創出する危険性を有していた、と指摘します。日露戦争の結果、日本では国民意識が広く浸透し、外交に関心を抱く層も増加しました。日比谷焼討事件の背景にはそうした変化がありました。こうして日本も、国家と国民は緊張関係にある、という国民国家の本質に直面します。社会矛盾の噴出と国民の暴走を懸念した国家は、1908年の戊申詔書で天皇の名において「国民国家」を再定義します。この頃に起きた南北朝正閏問題も、こうした背景で起きた事件でした。しかし、明治期には国家と国民の間の調整弁・緩衝材の役割を担えた天皇も、大正期には前代のような権威はなく病弱だったこともあり、そうした役割は担えず、明治後期から顕著になってきた天皇の神聖性がますます強調され、天皇が国民から次第に遠ざかっていきます。

 大正期に起きた第一次世界大戦は、国民国家同士の戦争が大規模化して多くの犠牲を出すことと、国民の支持がなければ戦争遂行は不可能との教訓を世界の指導層に突きつけました。さらに、第一次世界大戦の結果、多くの君主国家が倒れ、ロシア革命により国民国家とは異なる国家像が提示されたことも、世界の指導層に影響を及ぼしました。第一次世界大戦後、民族自決の機運が盛り上がるなかで、植民地の獲得により多民族国家となっていった日本は、第一次世界大戦後の状況にどう対応するのか、という問題が突きつけられました。しかし、台湾でも朝鮮でも、激しい抵抗に対応して武断的統治から文化的統治へと穏健な方針に代わったものの、政治権利は大きく制限されたままでした。

 第一次世界大戦を含む大正期には日本社会も大きく変容し、工業化・都市化が進展しました。一方農村では、明治期に小作農が増加し、寄生地主化が進むなど、複雑な問題を抱えるようになります。工業化・都市化が進んだとはいえ、依然として多数を占める農村社会の問題は、政治的動向にも大きな影響を与えるようになります。しかし、この農村社会の問題には、政党よりも官僚の方が敏感に反応しました。本書は、そうした農村対策の遅れが、満洲事変後の政党凋落の一因になった、と評価しています。また本書は、都市化が進む中で、政党は都市労働者への取り組みでも後手に回った、と指摘します。そのため、国民が国家に影響を及ぼすのは政党を通じてのみなのに、政党には幅広い支持を集めて国家運営の主導権を握る能力に欠けていることになり、国民は国家へと依存していった、との見通しを本書は提示します。

 国民の政党への不信と国家(官僚)への依存、天皇神聖化の流れから出てきた、支配層にとっての常識だった天皇機関説の否定(事実上の解釈改憲)と軍部の台頭という流れの中で、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進み、ついに破局を迎えます。天皇を中心とする国体という概念は、明快な理念ではなく曖昧でしたが、それ故に雑多なものを取り込むこともできました。本書はこの間の動向を、国民は政党を通じて国家を制御できたものの、本質的には官僚組織である軍部を通して国家を制御することはできず、国家による国民の管理が強化され、国家を擬人化した天皇との一体化が求められていった、と指摘します。

 また本書は、国体論に基づく天皇と臣民の特異性を強調すると、多民族国家である日本において、日本人と他民族との隔たりが強調されてしまう、という民族的矛盾を指摘します。これは日中戦争、さらには太平洋戦争以降に深刻化し、その対応策が「皇民化」という大規模な同化政策でした。その日中戦争と太平洋戦争が長引いた理由は、国民が直接的に戦争の悲惨さを実感するまで厭戦気分が盛り上がらなかったから、と本書は指摘します。また本書は、日本では降伏のさいに指導層で国体の維持をめぐって激論があったものの、それぞれの主張で想定される具体的な国体が異なっており、しかも共通して「国家」は強烈に意識されていたものの、「国民」は意識されていなかった、と指摘します。本書は日本近代史を、日本が近代に急速な国民国家を創出しようとして国家主導により実現したものの、その次の段階である国家と国民の協力関係を構築し、国民の政治参画の訓練を重ねることで国民国家の足腰を強化することには失敗した、と評価します。

鮮新世温暖期の偏西風

 鮮新世温暖期の偏西風に関する研究(Abell et al., 2021)が公表されました。偏西風と呼ばれる中緯度域の西からの卓越風は、表層海洋循環を駆動し、大気と海洋の間の熱交換、運動量交換、炭素交換を調整するのに重要な役割を果たしているため、気候システムの基本的な要素です。最近の研究では、人為起源の強制に応答して偏西風帯が極方向に移動している、と示唆されています。気候の温暖化が続く中、大気中の二酸化炭素が約350~450 ppmで現在より気温が約2~4°C高かった鮮新世などの過去の温暖期の偏西風を再構築することで、温暖化におけるこうした風系の位置と強さの変化に関する理解を深めることができます。

 本論文は、鮮新世温暖期において、273万年前頃に生じた北半球氷床発達(iNHG)後の氷期に比べて偏西風がより弱く、極方向に寄っていたことを示しています。この結果はダストと輸送生産性の再構築に基づいており、iNHG期の主要な氷床の発達が、北太平洋中緯度域のダストフラックスの大幅な増加(とくに北太平洋亜寒帯と比較して)を伴っていた、と示しています。この変化の後、ダストと生産性の変化はおもに、後期鮮新世と前期更新世の氷期–間氷期サイクルをたどっていました。

 本論文はこのパターンに基づいて、偏西風の変化はおもに鮮新世–更新世間の温度勾配と氷体積の変動によって駆動された、と推測しています。この関係と他のダスト記録や気候モデリングの結果を組み合わせたところ、提案された偏西風の変化が全球的に同期していた、と見いだされました。鮮新世が将来の温暖化を予測するものであるならば、両半球において現在の偏西風の極方向への移動と弱化が続くと予想される、と本論文は結論づけています。鮮新世から更新世へと移行していった300万~200万年前頃の間は大きな気候変動期とされており、ホモ属の起源との関連でも注目されます(関連記事)。


参考文献:
Abell JT. et al.(2021): Poleward and weakened westerlies during Pliocene warmth. Nature, 589, 7840, 70–75.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03062-1

ヒトの幼児の食べ方の学習

 ヒトの幼児の食べ方の学習に関する研究(Nonaka, and Stoffregen., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究は、日本国内のある保育園の0歳児クラスの昼食場面を10ヶ月間縦断的に観察し、スプーンを乳児が使い始めた直後の食事場面を抜き出して、(1)養育者による介助、(2)乳児のスプーン使用、(3)乳児が養育者に向ける視線、という三者の時間的関係を検討しました。

 その結果、養育者は皿の位置や皿の上の食物の配置を調整し、乳児が自分で食べることを可能にする卓上の機会を絶え間なく調整しており、こうした調整の直後に乳児がスプーンを食物に向ける行為が偶然より多く生起していた、と示されました。また、乳児は食事場面では養育者の「顔」よりも「手」を見ている時間がはるかに長く、さらに養育者が卓上の調整を行っている時は、他の状況よりも8倍も多く養育者の「手」を見ている、と明らかになりました。また、食事場面で乳児が養育者の「顔」を見る状況は、「手」を見る状況とは明確に異なっており、乳児が自分で食物をスプーンで口に運んだ直後か、食事と無関係な遊びにスプーンを用いた直後に、自分のしたことを養育者が見ていたかをチェックするかのように、養育者の「顔」を見ることが偶然より多い、と示されました。

 以下、この行動を示した図です。(a)養育者が支える皿に入った食物にスプーンを向ける乳児。(b)皿の上の食物を食べやすくまとめる養育者の介助と、食物にスプーンを向ける乳児。(c)乳児がスプーンで口に食物を運ぶ際に肘に手を添える養育者。(d)食事と無関係な遊びにスプーンを用いる乳児。
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 これらの結果は、食事場面で養育者の「手」に向ける視線と「顔」に向ける視線が異なる役割を担うことを示すとともに、乳児が一人でスプーンを食事にふさわしい方法で使うようになる過程において、(1)養育者による周囲の機会の調整と、養育者の手に乳児が向ける注意の結びつき、(2)乳児の行為に反応を示す養育者と、養育者の顔に乳児が向ける注意の結びつきという、養育者の行為と乳児の注意の間の二種類の双方向の結びつきが存在することを示しています。こうした学習も、人類進化の過程で獲得されてきた認知的基盤に基づくのでしょう。


参考文献:
Nonaka T, and Stoffregen TA.(2021): Social interaction in the emergence of toddler’s mealtime spoon use. Developmental Biology, 62, 8, 1124–1133.
https://doi.org/10.1002/dev.21978

野生のニューギニア・シンギング・ドッグ

 ニューギニア・シンギング・ドッグ(NGSD)に関する研究(Surbakti et al., 2020)が公表されました。NGSD)ニューギニア島高地に生息する珍しいイヌで、野生ではニューギニア島で最大の陸生捕食者です。NGSDは特徴的で調和的な発声をしており、「クジラの鳴き声の上音を有するオオカミの遠吠え」と呼ばれています。NGSDは、生息地の喪失と大陸部の犬種や村のイヌの侵食のため、野生では絶滅もしくは絶滅に近づいている、と長年にわたって保全生物学者は結論づけてきました。

 これと関連して、19世紀末の「最初の観察」とその生息地に基づいて名づけられ、NGSDとディンゴの両方と著しい形態の類似性を共有する、ニューギニア島の高地野生イヌ(HWD)の核DNA研究は、興味深いものです。しかし、その人目につきにくい性質と村々から離れた高地に生息する傾向のため、HWDの観察は稀です。じっさい、2016年以前には、HWDは1989年と2012年の2回しか撮影されませんでした。2009年にパプアニューギニアのヘラ(HeLa)州でHWDの集団が報告されましたが、それはいくつかの推測に基づいており、確実な目撃ではありませんでした。

 オセアニアのイヌは、オーストラリアとニュージーランドとメラネシアやミクロネシアやポリネシアの島々で見られる独特な集団で、アジア東部のイヌ集団に起源があり、考古学的証拠からは遅くとも3500年前頃の到来が裏づけられます。しかし、ニューギニア島へのNGSDの拡散時期は、ニューギニア島で見つかった考古学的証拠の不足のため、不確実なままです。NGSDは、1897年にパプアニューギニアの中央州の標高2100m地点で標本が収集された後に、初めて報告されました。NGSDは、元々異なる種として「Canis hallstromi」に分類されていましたが、遺伝的分析に捕獲された標本のみが利用できることや、その起源に関する議論もあって、その分類は物議を醸しています。NGSDは遺伝的にディンゴと類似していますが、形態と行動の両方で明らかなように、異なる集団を表します。ひじょうに小さな創始者集団のため、現存のNGSDはわずか200~300頭で、おもに保護目的で飼育されています。したがって、自由に歩き回るHWD集団は、保護と管理に重要な意義深い進化単位だけではなく、イヌの家畜化を理解する重要なつながりを表している可能性があります。

 このおそらくは古代のイヌ系統であるHWDを研究する理由は三つあります。第一に、捕獲されたNGSDがHWDと同じ集団なのかどうか、あるいは、NGSDが本当に野生では絶滅しているのかどうか、判断するのに重要です。第二に、NGSD保護協会の主要な目的は、集団内部の遺伝的多様性をできるだけ多く維持することです。これは、わずか8頭の部分的に関連する創始者に由来する飼育下のNGSDの限定的な遺伝子プールを考えると、大変困難です。現存HWDが実際に有名なNGSDの先行集団を表しているならば、保護することが不可欠です。繁殖計画では、近交係数が0.50以上と推定されている遺伝的に危うい飼育下のNGSD集団への、自由繁殖のHWDの比較的頑健と予想される遺伝を注入することが確立されねばなりません。第三に、ディンゴや潜在的にHWDを含む、イヌの真に野生の集団は稀であり、迅速でよく組織化された保護計画の必要性を浮き彫りにします。

 2016年、ニューギニア島高地野生イヌ財団(NGHWDF)とパプア大学との共同遠征隊は、ニューギニア島西部に位置する露天掘りのグラスベルグ鉱山(Grasberg Mine)近くにいた、15頭のHWDの存在を報告しました。写真と糞便標本が収集されましたが、核ゲノム分析は不充分でした。その後の2018年の野外調査では、自然環境の3頭の推定されるHWDから、血液標本と集団統計学・形態学・行動学のデータが収集されました。これらの標本を用いて、HWDの核ゲノムの詳細な分析が行なわれ、飼育下のNGSDと現代HWDとの間の関係を決定し、NGSDが野生では絶滅しているのか否か、という問題に答えることが可能となりました。


●遺伝的分析

 2018年の遠征では、2週間にわたって野生イヌが檻の罠に近づいて入るよう調整され、その間に18頭のイヌが観察されました。そのうち10頭は新たなイヌで、8頭は2016年に観察されていました。捕獲された2頭のイヌは、全地球測位システム(GPS)の首輪を装着された後で解放されました。全てのイヌはNGSDの一般的な記載と合致し(図1A)、身体測定値は、上述の表現型が報告されている少ない飼育下のNGSDに基づく予測の範囲内もしくはひじょうに近い、と示されました。3標本は全て、以下のゲノム研究に用いられました。以下、本論文の図1です。
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 新たなデータと既知のデータを組み合わせて、161犬種1346頭、9頭のイヌではないイヌ科動物、16頭の飼育下のNGSD、25頭の野生ディンゴのデータセットが作成されました(図1B)。この遺伝子型データセットの系統発生的推定は、HWDをクレード(単系統群)に位置づけます。このクレードは、オセアニア起源の標本抽出されたイヌ集団全てを構成するクレードで、飼育下のNGSDとディンゴに隣接します。この系統はアジアのイヌのクレード内にあり、アジア東部および北極系統の「純血種」のイヌも含まれます。オーストラリアの複数の野生集団を表すディンゴは、クレードを形成しません。

 全ての利用可能なイヌと比較してのHWDの遺伝的構成を決定するため、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)ハプロタイプ共有を用いて、あり得る交雑が評価されました。ハプロタイプはゲノム全体で段階的に行われ、対数オッズ比得点(LOD)が3.0以上のIBDと推定される領域が、イヌの全ての組み合わせで合計されました。これらの合計の分布は、各犬種もしくはHWDかNGSDかディンゴである野生のイヌ科の組み合わせに区分されました(図1C)。HWDは飼育下のNGSDおよびディンゴと共有する有意なハプロタイプを示しますが、現代のあらゆる犬種とはそうではありません。しかし、非アジア品種との共有水準は、飼育下のNGSDもしくはディンゴよりも、HWDにおいて有意に高くなっています。

 段階的ハプロタイプを用いて、HWDのゲノム領域が、RFmixにより祖先集団を表す最も類似した集団に割り当てられました(図2)。以下、本論文の図2です(赤色がオセアニア系統、黄色がアジア系統、水色がヨーロッパ西部、紺青色が地中海、桃色がヨーロッパ北部、黒色がオオカミ)。
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 ハプロタイプに基づいてこれら代表的集団の1つに各アレル(対立遺伝子)を割り当てることにより、HWDのゲノムの72%が、オセアニア集団を表す飼育下のNGSDもしくはディンゴに最も似ている、と推定されます。これは、ニューギニア島の村落のイヌとひじょうに対照的です。ニューギニア島の村落のイヌは、そのゲノムのうち87%を犬種に、わずか13%をオセアニアのイヌと共有します。ベトナム(11%)とナミビア(1%未満)のイヌでは、オセアニアのイヌの遺伝的痕跡はさらに弱いことが明らかです。オーストラリアン・キャトル・ドッグは、歴史的に交雑品種集団で、同じ測定基準を用いると、オセアニアのイヌから1.5%の遺伝的影響を受けています。HWDはそのゲノムの28%だけを犬種と共有する、と予測されます。

 パプアニューギニアの全てのイヌにおけるヨーロッパのイヌ特有のハプロタイプの痕跡の過剰は、混合が原因であることを示唆します。あるいは、HWDで見られるあらゆる古代の変異は、オセアニア系統を表すイヌ集団が、HWDのアレル頻度からオセアニア系統のアレル頻度を変えるような方法で分岐した可能性があるので、最近の混合の痕跡として誤って見えるのかもしれません。ディンゴはニューギニアの初期のイヌから1200世代も離れており、多様性の損失が起きるような遺伝的浮動とボトルネック(瓶首効果)に充分な時間があります。さらに、飼育下のNGSDは、初期野生集団のゲノム変異のひじょうに限られた量を包含します。したがって、アレルの不均衡は部分的に、祖先系統の現代の代表における変異を失うかもしれません。

 HWDで観察されたヘテロ接合性は、どの地域の犬種のそれとも有意差はありませんが、飼育下のNGSDもしくはディンゴの混合集団よりも有意に高く、またニューギニア島で収集された村落のイヌのヘテロ接合性よりも有意に低くなっています。NGSDの全飼育集団はわずか8個体の子孫なので、低い遺伝的多様性が予想されます。しかしディンゴは、多様で自由繁殖の集団に由来し、ずっと多くのヘテロ接合性を示す、と予想されます。検出された低水準は、イヌ科の一塩基多型データセットにおける確認バイアスを示している可能性があります。これは、指標がヨーロッパの犬種では多型で、ヨーロッパ集団外では広く検証されていないため、最初に選択されたからです。同様に、これらの一塩基多型で分析された世界のさまざまな地域の少数のオオカミは、村落のイヌと比較してのヘテロ接合性の低下と、自由繁殖集団で予想されるものの、HWDで見られるヘテロ接合性とは有意には異ならないものに対する近親交配の増加を示します。

 主成分分析を実行するため、他の一塩基多型との連鎖不平衡が高い一塩基多型を除外することにより、データセットが整備されました。比較の均衡をとるため、犬種46~48を4集団に減らし、品種発展の主要な地域を表すようにします。それは、アジア東部および北極圏(ASIA)、ヨーロッパ北部(NORD)、ヨーロッパ西部および中央部(EURO)、ヨーロッパ南部とアフリカ北部とアジア中央部を含む地中海地域(MEDI)です。地域全体の最近の混合を示す品種は除外されました。主成分分析では、犬種と野生イヌ科から離れて、オセアニアのイヌ集団の明確なクラスタ化がPC1軸に沿って示され(図3B)、これはデータセットの全変異の32%を占めます。ニューギニア島の村落のイヌは、「純粋な」オセアニア集団よりも犬種の近くでクラスタ化します。オセアニア集団のみの分析は、NGSDとディンゴとHWDと村落のイヌの異なり重ならない分類を明らかにします(図3C)。PC1軸はNGSDとHWDとディンゴから村落のイヌを分離します。PC2軸は、ディンゴからNGSDを分離し、HWDはNGSDに向かう傾向があります。

 独立した遺伝子型からのアレル頻度を用いて、Treemixにより混合の可能性を評価するために、オセアニア集団と地理的品種集団の最尤系統樹が構築されました。この方法は、全てのヨーロッパの犬種の祖先のHWDへの移動(遺伝子移入)と、犬種へのニューギニア島のイヌからの代償的な移動を予測しました(図3D)。ニューギニア島の村落のイヌが系統樹に追加されると、これらの同じ移動事象が、村落のイヌへのニューギニア島に定着したイヌの第三の移動と同様に予測されます(図3E)。f3の計算により、さらにこれらの予測が検証されました。f3が負の値の時には、2母集団から第三の集団への混合の証拠を提供します。母集団が飼育下のNGSDと4犬種集団のいずれかを含む場合、HWDにおいてそのような証拠が観察されます。

 HWDへの潜在的な混合の起源と程度をさらに確認するため、外群としてキンイロジャッカルもしくはオオカミを用いて、HWDを含めて4分枝の系統樹配置からD統計とF4比が計算されました。その結果、全ての犬種集団とHWDとの間で混合の有意な証拠が見つかりました。犬種集団のいずれかをHWDと交換する系統樹配置のF4比は、15~50%の範囲の混合を予測しました。しかし、Z得点は全ての組み合わせで有意ではありませんでした。次に、qpWaveを用いて、HWDに寄与する可能性のある集団の数が検証され、2起源モデルが提供されたデータに最適と判断されました。どの犬種集団もしくはオセアニア集団が分析に含まれるかに関わらず、その数は変わりませんでした。qpAdmを実行すると、HWDへの29.6%の犬種の寄与が予測されました。これは、Treemixにより予測された犬種クレードからの28.8%、およびハプロタイプ共有から予測された28%の非オセアニア系の寄与とひじょうに似ています。以下、本論文の図3です。
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●考察

 2016年に収集されたHWDと推定される糞の標本では、24個のうち9個でミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析され、A79ハプロタイプではなく、A29ハプロタイプが明らかになりました。A79ハプロタイプはNGSDに固有ですが、A29ハプロタイプは、ディンゴやNGSDや一部のアジアおよび北極圏犬種や村落のイヌで観察されます。したがって、この結果はNGSDに固有ではなく、アジア東部およびオセアニア地域のイヌに一般化できます。

 3頭の現代のHWDは、NGSDとディンゴの両方と形態的にひじょうに類似している、この理解しにくく創始者集団かもしれない個体群の核ゲノムの調査を提供しました。距離測定は、クレードにおいて、HWDをディンゴとNGSDの分割への基底部の分岐に位置づけました。さらに、最尤系統樹は少ない移動を可能とし、HWDとNGSDとディンゴを、全ての犬種を除き、なおかつ4つの多様な地理的起源の犬種の形成に先行する分岐となる系統に位置づけます。これらの結果は、オセアニア集団への明確な進化系統を示唆します。これは、イヌ科の残りを除いて、オセアニア起源のイヌ内で共有される広範なハプロタイプにより確認されます。この共有されたゲノム系統は、遺伝的多様性の推定とともに、オセアニア系統、とくにHWD系統以外の系統からの、現在の飼育下のNGSDへの遺伝的寄与の欠如を浮き彫りにします。多様性の欠如は、NGSDの特定の遺伝的起源の推定が困難であることを示しますが、HWDの現生集団は、これまでに研究された全ての集団の中で最もNGSDに類似しています。

 F3統計を使用すると、混合はHWDにおいてNGSDが分析の一部の時のみ検出されます。この知見からは、飼育下のNGSDはHWDにのみ由来して他のオセアニア集団には由来しておらず、HWDはニューギニア島へのディンゴの新たな導入ではなく、推定される混合は飼育下のNGSDでは欠けている初期の多様性を反映しているかもしれない、と示唆されます。HWDをディンゴおよび犬種と分析すると、アレル共有のこのパターンは見つかりません。この知見から、犬種と共有される派生的アレルはディンゴにおいても同様に存在し、ひじょうに限定されたNGSDのゲノムにおいてのみ欠如しているので、最近の移動よりもむしろ、ヘテロ接合性の減少の結果である可能性が高い、と示唆されます。

 ディンゴの遺伝的歴史に関する知識が進歩するにつれて、オセアニアのイヌに対する、表現型が類似して密接に関連するイヌ科の根本的な寄与を理解することが、ますます必要になります。系統発生およびハプロタイプ分析は、HWDが飼育下のNGSDと同じ歴史的家畜から派生した現生動物を表している、という説得力のある証拠を提供します。混合分析からは、HWDにおける最小限の遺伝子移入の証拠があり、現代の犬種の祖先である集団からの可能性が高い、と示唆されます。ニューギニア島のHWD集団が、ほぼ近親交配で飼育下のNGSDよりもずっと高い遺伝的多様性を有している、という事実からは、NGSD回復のための保護努力は飼育下のNGSDとの組み合わせにおいてHWDの利用から恩恵を受ける、と示されます。じっさい、自然集団の少数の個体群を含めることさえ、飼育下の品種集団の遺伝的多様性に顕著な影響を与える可能性があります。

 しかし、HWD集団の規模と範囲はまだ報告されていません。本論文の分析では、3個体のみが含まれていました。マンダラ山(Puncak Mandala)やトリコラ山(Puncak Trikora)のような中央のより遠隔な地域や、ニューギニア島のパプアニューギニア側の同様に離れた地域からのイヌの標本抽出は、自然生息地のHWDの個体数とその遺伝的多様性の両方に関する洞察を提供するでしょう。保全活動は、外部起源からの影響が最小限となる最初のイヌを最もよく表す標本を最も多く含めることで最大の恩恵を受け、これらの研究の継続を不可欠とするでしょう。さらに、現存野生イヌの小地域の研究は、自由に生きているものの飼育環境では無関係な場合と、その逆の場合に要求される遺伝的多様性の研究を可能とするでしょう。飼育下のNGSDの新世代はそれぞれ、有害なアレルの固定の危険性が高まるため、その後の繁殖計画を危うくするので、この課題には緊急性があります。この研究は、孤立したイヌ科集団の遺伝的構成への洞察を提供するので、以前には野生では絶滅したと考えられていた、NGSDにとって容易に利用可能な遺伝的貯蔵所を特定します。

 本論文は、NGSDの保全活動の観点からも有益ですが、イヌの起源・拡散の観点からも注目されます。最近、イヌの古代DNA研究が進展しており、NGSDは最も早く他のイヌ系統と分岐した系統から大きな遺伝的影響を受けている、と推測されています(関連記事)。本論文から示されるように、HWDの正確で詳細な研究は今後の課題ですから、HWDの研究の発展を通じてNGSDの理解が進めば、依然として未解明なところが多く残されているイヌの起源と拡散に関する理解にも大きく貢献できるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Surbakti S. et al.(2020): New Guinea highland wild dogs are the original New Guinea singing dogs. PNAS, 117, 39, 24369–24376.
https://doi.org/10.1073/pnas.2007242117

『卑弥呼』第54話「呪われた夜 其弐」

 『ビッグコミックオリジナル』2021年1月20日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)の楼観でナツハがヤノハを背後から襲い、押し倒すところで終了しました。今回は、暈(クマ)の国の夜萬加(ヤマカ)にて、洞窟の奥深くでヒルメがヤノハの失脚を祈っている場面から始まります。山社(ヤマト)では、ミマト将軍とオオヒコが山火事の鎮火に赴き、山社の民や戦部(イクサベ)の長のタゴリも協力を申し出ました。楼観では、自分を襲ってきたナツハに対して、ヤノハが反撃に出ますが、ナツハの膂力には敵わず犯され、ナツハの腕の黥を見てナツハの正体に気づいたようです。ヤノハは自分を犯したナツハに、望むと望まざるに関わらず、男と通じれば天照大神(アマテラスオホミカミ)様と語り合う力は失われ、自分は日見子(ヒミコ)ではなくなり、山社も那(ナ)など同盟国も滅亡し、倭国は再び人が人として生きられない世に戻る、と語ります。

 お前たちの勝ちだ、言うヤノハは、自分が何者なのかお前は分かっているのか、あるいは死に勝る苦しみを受けて自分が何者か忘れてしまったのか、とナツハに問いかけます。ナツハの右手の蛇がまぐ合う黥を見たナツハは、それが二度と毒蛇に咬まれないための魔除けだ、と指摘します。ナツハはヤノハに、一目見た時からもしやと思っていたので、ナツハに心を許してしまった、と打ち明けます。いや、日見子を名乗りながら天照様の導きを信じなかった天罰か、と自嘲したヤノハは、その黥を彫ったのは自分の母だ、と指摘します。衝撃を受けるナツハに、お前は私の弟のチカラオだ、と告げてナツハが衝撃を受けるところで、今回は終了です。


 今回は、ナツハがヤノハの弟のチカラオだと明らかにされました。ヒルメの策略は、予想通りナツハがヤノハを犯すことでしたが、反撃を試みたものの、あっさりとヤノハが犯されたのは意外でした。用心深いヤノハがナツハを簡単に信用するだろうか、と考えていましたが、やはりヤノハはナツハが弟だと感づいており、それが油断につながったようです。ヤノハにもまだ人間らしい甘さが残っていた、ということでしょうか。ナツハがヤノハの弟であることは初登場時から強く示唆されていたので、とくに意外ではありませんでしたし、ヤノハがそれに感づいている様子も描かれていましたが、ナツハの方はそうした様子を一切見せなかったので、姉を恨んでいるか、姉の顔を忘れてしまったのかな、と予想していました。今回のヤノハの指摘から推測すると、ナツハは郷里を海賊に襲撃されて奴隷のように扱われるという過酷な経験により、自分が何者なのか忘れてしまったのかもしれません。ナツハがヤノハを犯したのはヒルメの策略通りでしたが、山火事は早々に鎮火されましたし、ナツハがヤノハから弟だと聞かされて、ヒルメを裏切ってヤノハに従うようになる可能性もあると思います。古代の日本列島において、同母キョウダイ間の性交は禁忌とされていたでしょうから、この強姦をナツハが黙っている理由はありそうです。ヤノハはこれを取引材料とすることで、ナツハを自分に従わせるのかもしれません。『三国志』には、卑弥呼(日見子)の部屋に出入りして給仕の世話をしていたというただ一人の男性と、政治を補佐した「男弟」の存在が記されており、前者がミマアキ、後者がチカラオ(ナツハ)だと予想していたのですが、この役割は逆になるかもしれません。また、『三国志』に見えるように、卑弥呼(日見子)がほとんど人と会わなくなったのは、ヤノハが今回の強姦で妊娠し、密かに出産したからかもしれません。現時点で紀元後208年頃と推測されることから、二人の子供の娘が台与なのでしょうか。

再来年(2023年)の大河ドラマの予想

 そろそろ再来年(2023年)の大河ドラマが発表されそうなので、予想してみます。まず大前提として、2年連続で時代が重なることはあまりなく、多少重なったとしても舞台となる地域は異なる場合がほとんどのようだ、ということが挙げられます。来年は北条義時が主人公なので、いわゆる源平ものか鎌倉時代ものである可能性は除外して問題ないと思います。今年は幕末~近現代となるので、幕末ものや近現代ものの可能性もひじょうに低いと思います。

 そうすると、2年間戦国時代以外が題材となっていますから、やはり人気の高い戦国時代が最有力でしょうか。以前から当ブログで有力候補として推しているのは、知名度は低そうではあるものの、大河ドラマ化発表前の井伊直虎よりは知名度が上で、まだ主要な舞台となっていない佐賀県(肥前)の人物である、鍋島直茂とその妻(陽泰院)です。2018~2022年の主人公が男性ですから、陽泰院が主人公の可能性もじゅうぶんあります。NHK好みの夫婦愛を描けそうという点でも有力です。同じく戦国時代~江戸時代初期の人物で、立花宗茂も有力だと思います。ただ、宗茂は関ヶ原合戦以降の人生が長いので、そこが難点かもしれません。もっとも、それは伊達政宗も同様だったわけですし、大坂の陣と島原の乱もあるので、後半も見せ場は作れそうです。

 戦国時代以外では、かつては大河ドラマの定番だったものの、20年以上取り上げられていない忠臣蔵が考えられます。ただ、近年では忠臣蔵の人気低下が指摘されていますから、いかに大河ドラマの主要な視聴者層である高齢者にはなじみ深い題材とはいっても、今さら取り上げられるのか、疑問も残ります。とはいえ、かつての定番でしたし、今でも映画で取り上げられることもあるので、豪華な配役で派手にやる可能性もあるかな、とは思います。その場合、2018~2022年の主人公が男性ですから、主人公は大石内蔵助ではなく、その妻の「りく」もしくは瑤泉院になるかもしれません。

 江戸時代であれば、田沼時代から化政文化まで描けるということで、松平定信ならあり得るかな、と思います。定信ならば、田沼意次との因縁も描けますし、町人文化の視点を打ち出して東洲斎写楽など著名な文化人も登場させれば、なかなか華やかになるのではないか、と思います。この時期を取り上げた時代劇は珍しくないので、衣装・小道具・セットの使いまわしや考証の点で、他の大河ドラマの空白期間よりも有利だと思います。これまでの大河ドラマの主人公はほとんどが武士かその妻だったので、新たな視点ということで、蔦屋重三郎を主人公としても面白いかもしれません。

 以上、まとめると、再来年(2023年)の大河ドラマの主人公(題材)の予想は以下のようになります。
◎最有力・・・鍋島直茂の妻(陽泰院)
○有力・・・・・立花宗茂
▲穴狙い・・・大石内蔵助の妻もしくは瑤泉院(忠臣蔵)、松平定信もしくは蔦屋重三郎

ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織

 ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織に関する研究(Sjögren et al., 2020)が公表されました。最近の遺伝的研究により明確になったのは、紀元前三千年紀がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパ中央部、後にはヨーロッパ西部への一連の移住の期間であり、まず紀元前2900~紀元前2100年頃の縄目文土器(Corded Ware)複合、次に紀元前2750~紀元前2000年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)複合の形成をもたらした、ということです(関連記事)。これはヨーロッパ中央部の共有された埋葬儀式でも証明されており、個々の埋葬と体の向きにおける男女間の厳密な区別が特徴です。これらの移住から生じた遺伝的混合は、現在のヨーロッパにおける1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族の先行者が、これらの移民によりもたらされた可能性がひじょうに高いのと同様に、依然として現代ヨーロッパ人集団を特徴づけています。

 しかし、これらの変容の契機や仕組み、集団もしくは個体の動態についての仮説を推測することしかできないので、この変容事象の規模と程度と速度について、依然として多くの問題が未解決です。また、これらの集団にとって、その文化的・社会的・言語的一貫性を確立して長期にわたって維持することがどのように可能だったのかも、まだよく理解されていません。縄目文土器複合(CWC)の場合、最初の移住は男性が優勢で、おそらくは新石器時代以来の在地集団の女性と結婚した、と提案されてきましたが(関連記事)、現時点では、これらの集団に寄与した男性優勢の移住の遺伝的証拠に説得力があるのかどうか、議論されています。個々の集団は共同体水準では父系制と外婚を実践した可能性が高い、との証拠もあります。

 本論文は、ヨーロッパ中央部においてCWCの次となる鐘状ビーカー文化(BBC)について、親族構造や父方居住や外婚のパターンが持続するのかどうか、検証を試みました。これらのパターンの一部は、ドイツの南バイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川(Lech River)渓谷の、BBCや前期青銅器時代の埋葬共同体で提案されています(関連記事)。本論文は、こうした結婚パターンが遺伝子プールの多様化増加につながる、との見解(関連記事)の検証も試みました。本論文は、その程度は社会的同盟の複雑さにより変化し、より大きな同盟ネットワークは、たとえばミトコンドリア系統のより高い多様性につながる、と提案します。また本論文は、男性系統が長期にわたって維持されていたのかどうか、検証を試みます。これらの知見を踏まえて最終的には、どの社会的仕組みと精度がそのような長期的な遺伝的および恐らくは言語的安定性を支えるのか、考察します。

 これらの仮説を評価するための基準点は、ドイツ南部バイエルン州の後期BBCの2ヶ所の墓地における発見で、両方ともドナウ川の近くに位置し、相互に17km離れており、ほぼ同じ年代の層位となっています(図1)。一方はシュトラウビング=ボーゲン(Straubing-Bogen)郡のイルルバッハ(Irlbach)に、もう一方はシュトラウビング(Straubing)市レルヒェンハイト(Lerchenhaid)のアルブルク(Alburg)に位置します。両方とも1980年代の調査で完全に発掘され、それぞれ24ヶ所と18ヶ所の墓として報告されています。

 両墓地とも、詳細な考古学的評価を受けており、葬儀習慣や物質文化や年代が浮き彫りにされています。両墓地とも、自然人類学的にじゅうぶん分析されており、歯のエナメル質の複数の同位体測定が行なわれ、性別やミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)や系統や遺伝的親族関係が調べられた、最近のヨーロッパ規模のBBC関連個体群の古代DNA研究(関連記事)の一部です。本論文では、ゲノム解析をさらに進めて、個体間の親族関係を詳細に調べます。以下、本論文の図1です。
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●考古学と自然人類学からの知見

 イルルバッハ墓地には24基あり、ドイツ南部では最大のBBC墓地となります。しかし、ほとんどの墓は耕作により損傷を受けており、発掘前にさらに数基が完全に破壊されたかもしれません。墓地には元々、西から東の3群に配置された約30基の墓があり、全体は東西60m×南北30mでした。配置は、西部に6基、中央部に14基、東部に3基、孤立した位置に1基です(図1)。対照的に、アルブルク墓地はほぼ完全に保存されており、約10m×30mの領域に18基の墓が存在します(図1)。最大で1.4m×0.8mの墓穴があるほぼ全ての墓は南北方向に長い列で並んでいます。アルブルク5号墓(ALB 5)のみがこれらの列のいずれかより外れており、本当にアルブルク墓地に属しているのかどうか、確認できませんでした。

 記録できた41基の墓は、おもに南北方向の、しばしば非常に浅い埋葬坑の個人の土葬墓で、多くの場合、墓の列に配置されているか、密集しています。例外もあり、アルブルク墓地では、18号墓被葬者は火葬で、10号墓には2人の幼児期1(0~7歳)の子供(おそらくは双子の新生児)が埋葬され、イルルバッハ2号墓(IRL 2)には「若年成人」女性1人と幼児期1の子供が1人葬られています。ほとんどの埋葬には土器が共伴しており、おもに1個もしくは2個のカップおよび/もしくは皿・椀で、イルルバッハの6基の墓には、元々は供え物だった食料の残骸としての単一の動物の骨があります。アルブルク墓地9号墓にのみ、BBCに因む様式の装飾されたビーカー容器1個があります。

 土器以外にも、男性の墓には時として、燧石製の鏃、シカの歯、通常は狩猟と関連する装飾された牙や角のペンダントが含まれていました(イルルバッハ墓地では4人、アルブルク墓地では3号墓に1人)。女性の墓には、一連の小さなV字穴の骨や枝角のボタンが含まれていました。イルルバッハ墓地の3被葬者にはわずかしか含まれていませんでしたが、アルブルク墓地の6基の墓には多くのボタンが含まれており、6号墓だけで29個、15号墓に22個が、U字型で鎖骨から胸骨下部、その後でもう一方の鎖骨へと上向きに配置されており、そのほとんど穿孔された側が上向きです。男女とも、威信材の存在に基づく社会的分化の兆候をほとんど示しません。小さな銅剣が1本だけありますが、地位と関連するような、手首の防護や、金・銀・琥珀の工芸品はありません。

 物質文化は埋葬の時系列の基礎を形成し、器材と土器の特徴的な集合により、数世代を構成する可能性が高い相対的な段階として、A2b・B1・B2が定義されます。イルルバッハとアウグスブルクの両墓地は、A2bからB2にまたがる類似の時系列を示し、ほとんどの墓はB1期となります。したがって考古学的用語では、両墓地はほぼ同年代とみなされるかもしれず、イルルバッハ墓地の5号墓と10号墓は最初期のものです。イルルバッハ墓地の東部の墓4基(6・11・20・21号墓)が最も新しく、バイエルン地域におけるBBCの最終段階を表しています。

 アルブルク墓地では、18・9・13・16・2号墓が最初期で、最初の南北方向に配置された列となります。アルブルク墓地では、6・17号墓が最新のようです。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、100年以上使われていました。厳密な年代を確定するため、放射性炭素年代測定が行なわれました。その結果、紀元前2300~紀元前2150年頃と推定され、バイエルン地域における他の中期~後期BBC墓地と一致しますが、物質文化と遺伝学に基づく相対年代を超えて墓地の使用寿命の推定を改善するには、少なすぎて不正確です。

 ドイツ南部のBBC関連の人々は、ほぼ全ての女性が頭を南に向けて右側にしゃがみ、ほぼ全ての男性が北に頭を向けて左側に横たわるという、性別の埋葬慣行を有していました(図1)。自然人類学的および遺伝的性別は両方、この習慣の広範な厳守を確認します。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地ではそれぞれ例外もあります。耕作により攪乱されたイルルバッハ墓地17号墓被葬者は、脚がおそらくは他の女性とは異なり左側に置かれた成人女性で、さらに、脚を曲げて仰向けになっているかもしれません。ALB 14は、ほとんどの男性のように埋葬されているにも関わらず、遺伝的に女性と明らかになりましたが、1個の椀と2個のカップの副葬品は女性に典型的です。どちらの事例も、他の不規則性を示しません。

 性別は両墓地で均衡が取れています。イルルバッハ墓地では11人の女性と9人の男性で、アルブルク墓地では7人の女性と8人の男性です。成人は、イルルバッハ墓地が14人(6人の男性と7人の女性と性別不明の1人)、アルブルク墓地が10人(3人の男性と7人の女性)です。イルルバッハ墓地では、7人の幼児期1(0~7歳)と幼児期2(7~14歳)の被葬者(少なくとも2人の少女と3人の少年)と、学童期(juvenile)の2人(1人は少女の21号墓被葬者で、もう一方は性別不明)の未成年がいます。アルブルク墓地では、5人の乳児期1および2の被葬者がおり、2人の少年と少なくとも1人の少女ですが、同様に学童期の2人がいます(ともに少年)。したがって、乳児期の子供は、子供の死亡率の高い前産業化社会での予想よりも少なくなります。これが示唆するのは、選択された子供が共同墓地での適切な埋葬を許可される、という社会的制度が共同体において実践されていたことです。両方の墓地の被葬者の合計が埋葬で少年を選好しており不均衡に見えるので(7人の少年と4人の少女)、そのような制度は思春期にも適用されたかもしれません。ただ、本論文も後述しているように、女児よりも男児の方で一般的に死亡率が高いことも反映しているかもしれません。

 両墓地の埋葬からは、死因の人類学的証拠は得られません。病状はほとんどなく、栄養失調の証拠は最小限で、対人暴力はイルルバッハ墓地14号墓の男性1例のみです。この男性は、右橈骨の形が変わり、遠位関節面のすぐ上の尺骨が折れていました。この男性は平均身長をはるかに上回り、墓地では最も身長の高い男性の1人で、右橈骨・尺骨に銅の短剣を有している、両墓地で唯一の個体です。別の銅製品がイルルバッハ墓地22号墓被葬者に与えられた可能性がありますが、それは古代においてすでに除去されていました。イルルバッハ墓地20号墓も意図的に攪乱されていました。

 上腕骨の不完全な癒合面である中隔開口部の非計測特性は、イルルバッハ墓地の3・14・21・22号墓の被葬者で見られ、その内訳は男性2人と女性2人で、そのうち1人は学童期の15~16歳です。この特性は、現代の一般的な集団ではわずか6%です。両墓地の遺骸群において、少なくとも1つの癒合した上腕骨の遠位関節面を有する合計9人と比較して、イルルバッハ墓地の被葬者は不均衡です。イルルバッハ墓地でみつかったこれらの特性の数は、遺伝、したがって親族関係の結果かもしれません。


●古代DNA

 イルルバッハ墓地の18基とアルブルク墓地の16基の墓で遺伝的データが得られました。このデータセットは、YHg、mtHg、高解像度の系統推定と親族分析が可能な常染色体データに区分できます。本論文では、mtDNA情報のみを有する4個体(アルブルク墓地の3人とイルルバッハ墓地の1人)が新たに報告され、最近の研究で報告された14人の追加のDNAライブラリが生成されました。

 両墓地で充分なデータのあるBBC関連男性は全員、YHg-R1b1a1b(M269)で、これはヨーロッパ西部において紀元前2500年以後の草原地帯系統の到来と関連している主要系統です。BBCに先行し、部分的に重なるヨーロッパ中央部のCWC集団ではYHg-R1aが優勢でしたが、YHg-R1bも少数ながら存在しました。YHg-R1b1a1bと決定できた個体群では、全員が同じ派生変異(S116/P312)を有している、と明らかになりました(YHg-R1b1a1b1a1a2)。これは、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なYHgです。これは男性系統の並外れた均一性を表しており、じっさい、両墓地の男性全員と、実質的にヨーロッパ中央部のBBCのYHg-R1b1a1b1a1a2の男性の大半とを結びつけます。しかし、このYHgは数世紀前に出現した可能性が高いことを考えると、この均一性は必ずしも、これら両墓地の共同体およびヨーロッパ中央部のBBCの男性間の、全体としてひじょうに密接な父系での関係を示唆しているとは限りません。

 父系となるYHgとは対照的に母系では、イルルバッハ墓地の18個体のうち14個体が異なるmtHgを有しており、アルブルク墓地の16個体では9系統のmtHgが確認されます(図3A・B)。これは、さまざまな背景の女性を何世代にもわたって埋葬地共同体に組み込み、拡張親族集団にまとめる、広範でおそらくは制度化された外婚パターンの可能性を示唆します。興味深いことに、どのmtHgも両墓地で共有されていません(図3A・Bでは同じ区分となっているmtHg-T2が、じっさいにはT2g2やT2fやT2bのようにさらに詳細に区分されています)。最近利用可能になった同年代で唯一の他のデータセット(関連記事)では、両墓地から約200km離れている、アウグスブルク市近郊のBBC3集団および2基の単一墓で、19人のうち16人が異なるmtHgを有しますが、ミトコンドリアの多様性をこれと比較すると、イルルバッハ墓地は類似しているのに対して、アルブルク墓地では低くなっています。以下、本論文の図3です。
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 イルルバッハ墓地の16人とアルブルク墓地の13人のゲノム規模分析系統は、ユーラシア西部現代人集団の遺伝的多様性に古代人標本を投影した主成分分析で示されます(図4)。その結果、両墓地の個体群が青銅器時代草原地帯およびヨーロッパ新石器時代系統により決定される勾配に沿って分布する、と示されます。イルルバッハ墓地の9・10・16号墓個体とアルブルク墓地の14・16号墓個体は、草原地帯およびCWC集団とより近い類似性を有していますが、イルルバッハ墓地の4・14号墓個体とアルブルク墓地の4・6・9・12号墓個体は、より早期に確立した、つまり草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも前の、ヨーロッパの前期および中期新石器時代農耕民の方に寄っています。これは基本的に、上述のアウグスブルク市近郊集団の後の状況と同じです。以下、本論文の図4です。
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 ゲノム規模データを用いて、集団内の親族関係が決定されました。1親等の関係(英語圏では親子とキョウダイ)は、イルルバッハ墓地では3・8・9と11・20と14・22号墓被葬者間で、アルブルク墓地では4・6と9・12と2・13号墓被葬者間で、またおそらくはアルブルク墓地の1・2と1・13号墓被葬者間で特定されました。性別・年齢情報や墓の位置や年代を組み合わせると、さらなる結論を導き出せます。

 イルルバッハ墓地では、中央部に位置する3・8・9号墓の被葬者は、11・20・14・22号墓被葬者よりも古い、と推測されます。8・9号墓被葬者は、キョウダイもしくは母親(50歳以上で死亡)と学童期の息子(10~11歳で死亡)です。3号墓被葬者は成人男性(30~40歳で死亡)で、8・9号墓被葬者と1親等の関係です。この3人は同じmtHg-T2bで、墓は相互に隣接しており、母と2人の息子である可能性が高そうです。一方、男性2人と女性1人のキョウダイである可能性は低そうです。20号墓被葬者は学童期の11号墓被葬者の父親で、両者はmtHgが異なります。14号墓の男性(40~45歳で死亡)は、22号墓の成人女性(24~25歳で死亡)の息子かキョウダイです。

 アルブルク墓地では、4号墓の女性が6号墓の女性の母親である可能性が高そうです。9号墓の成人女性は12号墓の少年の母親です。2号墓と13号墓はともに成人男性で、同じmtHg-H1e1aを共有する兄弟です。1号墓の学童期の少年もmtHg-H1e1aで、2号墓の成人男性と同様に土器が共伴せず、2号墓と13号墓との間でわずかにずれた位置にあります。1号墓の少年は、他の兄弟と高い親縁係数を共有します。これらの関係に最もよく適合し、埋葬の時間的な連続と一致するシナリオは、1・2・13号墓の男性が第一世代の兄弟であることです。

 また、2親等と3親等の関係やさらに遠い親族関係も検出されました。イルルバッハ墓地では、14・20号墓被葬者間と20・22号墓被葬者間が2親等、11・14号墓被葬者間と11・22号墓被葬者間が3親等です。このつながりから、11・14・20・22の墓4基は全て密接に関連していると示され、その上腕骨の中隔開口部の表現型と一致しているので、最も可能性の高いシナリオは、20号墓被葬者は11号墓被葬者の父親であるだけではなく、22・14号墓被葬者両方の甥でもある、というものです。同じmtHg-H5a1を完全に一致して共有しているにも関わらず、4号墓被葬者と6号墓被葬者は1親等もしくは2親等ではありませんが、3親等の可能性はあります。1・2・4・5号墓の被葬者は3親等の可能性がありますが、4・5号墓被葬者間は3親等の可能性の方が高そうです。1・2・4・5号墓の被葬者は、11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係です。3・8号墓被葬者間は兄弟関係にありますが、1・2・4・5・11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係の可能性があります。

 アルブルク墓地では、4・12号墓被葬者間は2親等の関係で、8・11号墓被葬者間では同じmtHg-H+16129が共有されており、2親等の可能性があります。1・2・13号墓被葬者はキョウダイの可能性があり、等しく4号墓被葬者と2親等もしくは3親等の関係にあるので、姪と父方のオジの関係です。1・2・13号墓被葬者は12号墓被葬者とも3親等の関係です。14・16号墓被葬者は3親等の関係の可能性があります。7・17号墓被葬者はmtDNAデータしかありませんが、同じmtHg(H1+10410+16193+16286)を4・6号墓被葬者と共有しているので、密接な母系での関係が示唆されます。4号墓被葬者は成人女性で、標本抽出されていない1・2・13号墓被葬者のキョウダイの娘かもしれません。4号墓被葬者が、12号墓被葬者の少年とは関係があるものの、その母親である9号墓被葬者とは関係がないならば、12号墓被葬者の父方のオバ・もしくは姪でしょう。被葬者の中で4号墓被葬者の両親を確認できませんが、彼女は最初の2世代と最後の(1もしくは複数)世代の親族関係の「かなめ」のようです。4号墓被葬者にとって、6号墓被葬者が娘で、7・17号墓被葬者は幼児もしくは孫かもしれません。

 これらの遺伝的つながりから、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方における密接な親族集団の存在の可能性が高いことになり、アルブルク墓地では、4~5世代の可能性が高い単一の核家族を形成する成人10個体が存在した、と示されます。以下、アルブルク墓地の家系図を示した本論文の図6です。
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 イルルバッハ墓地では、西部の埋葬集団の6個体が、標本抽出と解像度の限界内では、相互に、および中央集団と無関係のようです。したがって、東部の3被葬者と、孤立して埋葬された6号墓被葬者が遺伝的に主要集団とつながっているので、1家族もしくはより拡大された家族集団の存在を推定できます。墓地の使用期間は5~6世代に及ぶ可能性がありますが、上述のように耕作による破壊のため、その推定は困難なままです。以下、イルルバッハ墓地の家系図を示した本論文の図7です。
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●同位体分析

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の合計35基の墓から、遺骸の歯のストロンチウム同位体(ストロンチウム87とストロンチウム86)と酸素同位体が分析されました。ストロンチウム同位体比分析からは、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者、イルルバッハ墓地では6・11・16号墓被葬者が外部起源個体と示されます。アウグスブルク市周辺のBBC遺跡群と比較すると、外来民と地元民との比率はほぼ同じです。これらのうち、アルブルク墓地16号墓被葬者のみ出身地を特定でき、最も近いのはバイエルンとチェコ共和国の間のバイエリッシャー・ヴァルト(Bayerischer Wald)山脈の古生代の岩に沿ったドナウ川の真向かいですが、他の場所の可能性もあります。イルルバッハ墓地の被葬者で外部起源を示す同位体比の外れ値は全て異なるので、それぞれ出身地が異なるかもしれません。アルブルク墓地の被葬者では、ともに女性の8・9号墓被葬者の同位体比はひじょうに類似しており、2人は1世代もしくは2世代離れている可能性もありますが、同じ地域の同じ共同体の出身だった可能性があります。

 酸素同位体(酸素18)データでは、バイエルン南東部では-4.6~-6.4の範囲となります。異なる離乳効果を考慮に入れても、データセットでは2集団を識別でき、一方は-4.6~-5.4、もう一方は-5.75~-6.4です。各集団では、性別や全ての期間の埋葬が表されます。酸素18の外れ値は、イルルバッハ墓地2号墓の被葬者2人と、4号墓被葬者(死亡時4~5歳の少女)で見られ、それぞれ-4.297と-4.242です。両者の起源地は正確には特定できませんが、高い酸素18値は一般的に、より海の影響の強い地域、つまり西方と北方を表します。

 合計8人が同位体の外れ値とみなせます。これは、6人の女性(イルルバッハ墓地では2・4・6号墓被葬者、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者)と2人の男性(イルルバッハ墓地の11・16号墓被葬者)を表しています。6人は成人で、そのうちイルルバッハ墓地16号墓被葬者のみが西部集団です。2人は子供で、それはイルルバッハ墓地の4号墓被葬者(死亡時4~5歳の少女)と11号墓被葬者(死亡時11~12歳)です。これらの被葬者のうち、ストロンチウム同位体比と酸素18の外れ値の組み合わせはありません。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の外来民と地元民との比率は、アウグスブルク地域のBBC被葬者やドイツ南部の他の被葬者とひじょうによく一致しており、両墓地が父方居住と外婚の共同体であることと一致します。

 考古学・人類学・遺伝学の情報を組み合わせると、外来民のより複雑な状況が浮かび上がります。アルブルク墓地では、同位体データ外れ値の3人の女性のうち2人が第1期で、第一世代のキョウダイの隣に埋葬されています。しかし、その正確な関係と、2人がどのように結びついたのか、まだ情報が得られていない家族、とくに成人男性のために(全体では3人の成人男性と7人の女性)、確定するのは困難です。重要なことに、両墓地で唯一装飾されたビーカー容器が共伴されたアルブルク墓地の9号墓被葬者は、主成分分析では両墓地の被葬者で草原地帯およびCCW系統が最も低く、ヤムナヤ文化よりも前の新石器時代集団に寄っています。9号墓被葬者の息子のアルブルク墓地12号墓被葬者は地元で生まれ、死亡時年齢は7~14歳です。その父親は、本論文で親族関係の情報が得られている成人男性には含まれませんが、この少年は3人の兄弟(1・2・13号墓被葬者)にとって、曾孫よりも、イトコの可能性の方が高そうです。

 アルブルク墓地16号墓被葬者の女性は、バイエリッシャー・ヴァルト山脈からドナウ川を渡って来た可能性が高いと言われているように、mtHgは稀なI3aで、対照的に、両墓地の標本群の中では草原地帯・CCW関連系統が最も高い個体群の1人です。アルブルク墓地14号墓女性には3親等の親族もおり、通常は学童期や若い成人の男性被葬者に見られる体の向きで埋葬されています。しかし、アルブルク墓地14号墓女性は、16号墓被葬者の隣に埋葬された3人の兄弟のうち1人、つまり2号墓被葬者とまったく関係がありません。したがって2人は、14号墓被葬者を16号墓被葬者の他のイトコとみなし、14号墓女性が16号墓被葬者のように外来民で同じ家族出身ではあるものの、アルブルク共同体には恐らく1世代後に到来した、と仮定しない限り、近い関係ではなさそうです。2人とも、同じように高い草原地帯・CCW関連系統を有します。アルブルク墓地8号墓被葬者は、おそらくは第二もしくは第三世代に到来した集団の成人女性です。彼女は近くに葬られた8号墓被葬者の学童期少年(本論文のデータでは父親は確認できません)と2親等の関係にあり、同じmtHg(H+16129)を共有しているので、彼の祖母もしくは母方のオバだった可能性があります。

 イルルバッハ墓地では、酸素18の外れ値個体は2号墓被葬者の若い成人女性で、子供とともに埋葬されていました。彼女は中期に埋葬され、外来のmtHg-X2c1に分類されます。対照的に、ストロンチウム同位体比の外れ値の3人は、最終期に埋葬されました。これは、この時点での新たな人々の到来事象を示しているかもしれません。6号墓被葬者は成人女性(死亡時45歳)で、孤立した場所に葬られていますが、酸素18の外れ値2人のうち1人である4号墓被葬者の少女とは3親等の関係にあるかもしれず、同じmtHg-H5a1に分類されます。

 イルルバッハ墓地の16号墓被葬者である成人男性は、西部集団で唯一の外れ値個体です。彼は主成分分析では最高級の草原地帯・CCW系統を有しており、稀なmtHg-W5に分類されるイルルバッハ墓地で唯一厳密な埋葬習慣から外れた成人女性の17号墓被葬者の、すぐ隣に葬られています。2人は夫婦だったかもしれませんが、西部および中央部埋葬集団他の構成員にとって、無関係だったようです。イルルバッハ墓地で夫婦だった可能性がある他の個体は、隣同士で葬られているものの、遺伝的には無関係のように見える、3号墓男性と2号墓女性、14号墓男性と13号墓女性です。

 イルルバッハ墓地では、11号墓の11~12歳で死亡した少年が、隣に葬られた20号墓男性の息子で、14・22号墓被葬者の大甥でもありますが、同位体データでは外れ値個体です。11・20号墓の2人は東部で第三の被葬者となる21号墓女性(両墓地で唯一のmtHg-HV6に分類され、15歳と唯一の結婚適齢期の少女です)とともに、孤立した集団を形成します。15号墓少女の親族関係データはありませんが、その上腕骨の中隔開口部の非計測的特性から、14・22号墓被葬者と遺伝的につながっている可能性があるので、恐らくは2人の親族です。14・21・22号墓被葬者は全員ほぼ同年代で、別の移民集団を反映しているかもしれません。21号墓少女は、第一大臼歯と切歯でさまざまな同位体値を示し、おそらくはイルルバッハ共同体に結婚のために到来しました。しかし、明確な外部起源の同位体値を示すのは11号墓少年だけで、その父親(20号墓被葬者)とは異なります。この知見と一致する想定できるシナリオは、20号墓男性は元々イルルバッハで生まれて育ち、しばらく故郷から離れて同位体値の異なる環境に居住して息子(11号墓少年)が生まれ、帰郷するまでそこで暮らした、というものです。20号墓男性の複数の地域との関係と、彼が出身集団から離れなかった可能性を考慮すると、別のシナリオでは、11号墓少年は里子として幼い頃に親族に預けられ、亡くなる直前に戻って来た、となります。


●拡大主義の親族制度

 学際的知見から、イルルバッハとアルブルクという2ヶ所の後期BBC墓地の42基の墓に関して、6つの社会原則により特徴づけられるモデルが提案されます。

(1)基本的な親族単位は核家族です。これは、拡大家族集団というよりもむしろ、小さな家族集団を単に意味します。人類学で証明されているように、核家族はさまざまな方法で組織化されている可能性があります。結婚もさまざまな形態の可能性があり、本論文では最も広い意味で、おもに性的で社会により認可された、ヒト相互の関係の社会的制度として理解されます。イルルバッハ墓地における相互に隣接して埋葬された遺伝的に無関係なように見える男女の事例から、BBC社会の制度の生死における基本的役割に関する示唆が与えられるかもしれません。本論文の証拠を解釈するために、外婚や父系や父方居住という人類学的分類が用いられます。しかし、親族制度に関する文献は膨大で、考古学は、先史時代に親族および結婚制度をどのように適用するのか、まだより深く理解していません。本論文は、結婚と親族のパターンを、社会の政治的・経済的組織と、したがって権力構造の再現と密接に関連しているとみなす、研究伝統を支持します。強い規範的伝統が存在するとしても、そのような慣行は常に交渉可能なので、経時的に変化する可能性があります。親族戦略と祖先を用いて起源を主張し、階層化を可能にする方法も、人類学では指摘されています。北アメリカ大陸先住民のオマハ人の親族用語に関する最近の研究では、父系集団との強い相関関係が示されています。本論文でも示されるように、これは言語学でも実証されます。アルブルク墓地は、2人の兄弟とその妻の可能性がある女性(10代で死んだ第三のキョウダイの可能性があります)から始まり、時間の経過とともに、少なくとも遺伝的には1系統に統合されました。イルルバッハ墓地では、西部集団が異質で他集団とは無関係なので、1つの家族系統があります。本論文の記録ではその構成員の一部が欠けていますが、両墓地、とくにアルブルク墓地の事例では、成人男性に関して4~6世代にわたって追跡できます。年齢分布に基づいて、これらの家族は、両親、さまざまな年齢の子供たちの一部、時として祖父母世代で構成されていました。この意味で、本論文における核家族は、両墓地よりも400年古く、文化的にはCWC区分される、ドイツのオイラウ(Eulau)遺跡の虐殺で報告されたものと同一です。これらCWCやBBCの構造は、その後のアウグスブルク市周辺のほぼ200年以上後の前期青銅器時代で浮き彫りにされたものとも同じです。

(2)これらの核家族集団は、家父長制・父系制・父方居住に基づいています(図9A・B)。これは、アルブルク墓地共同体の創始者である可能性が高い兄弟(1・2・13号墓の男性3人)により示されます。また、オイラウ遺跡やアウグスブルク市周辺で観察されたように、Y染色体の均一性と同位体の性的偏りからも明らかです。この見解はさらに、男性の子供と学童期の埋葬の選好(少年5人に対して少女3人で、学童期では少年2人に対して少女1人)にも裏づけられますが、両墓地の16人の未成年の中に性別が確定していない個体もあるので、この推測は不完全かもしれません。しかし、同様の事例は、他のドイツ南部のBBCや前期青銅器時代の墓地でも観察されています。アルブルク墓地4号墓女性の事例も、そのような核家族集団において地元育ちの女性が有することのできる重要な役割を示します。彼女は3人兄弟(1・2・13号墓の男性3人)と2親等もしくは3親等の親族で、おそらくは孫・姪か曾孫で、6号墓女性の母親でもあり、後の7・17号墓被葬者と密接な母系関係にあるので、世代間をつないでいます。しかし、彼女の親世代は不明なので、彼女もしくはその両親が、出身集団からしばらく離れて過ごしたのかどうか、推測できません。

(3)結婚制度は女性の外婚に基づいており、おそらく一夫一婦制です。これは、両墓地における同位体の証拠と男女の等しい被葬者数、イルルバッハ墓地における成人男女の同数、本論文の遺伝的記録における半キョウダイ(父親と母親の一方のみを共有するキョウダイ関係)の欠如により裏づけられます。またこの見解は、さまざまなmtHgの存在と、数世代にわたるさまざまな地域出身の女性によっても裏づけられます。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の遺伝的背景も、一部の珍しいmtHgや核ゲノムにおける系統のさまざまな程度により示されるように、遺伝的系統の点でたいへん多様です。したがって女性はおもに、「前期・中期新石器時代」と「草原地帯・CCW」の、両方の遺伝的背景に由来します。当時、女性たちは全員、BBC共同体の一部でした。一部の個人もしくは集団は、現在ではハンガリーとなるドナウ川下流地域の出身の可能性があり、その地域では遺伝的により高い「新石器時代」系統が維持されています。このドナウ川のつながりは、現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在したウーニェチツェ(Únětice)文化の領域の推測よりも広範で、アウグスブルク市周辺で観察される、BBCから前期~中期青銅器時代にかけての「アナトリア農耕民関連系統」の増加に役割を果たしたかもしれません(関連記事)。

(4)相続制度は男性長子相続に基づいている可能性があります。子供たちの副葬品が先史時代社会で予測されるものよりずっと少ないだけではなく、子供たちは年齢と性別により埋葬形態で異なっています。乳児期1・2の子供たちで女性がわずかに少ないことは、幼い少女が妻として与えられていた可能性はあり得るとしても、選択を表していた可能性があるので、少年を選好する学童期の性的偏りがあったかもしれません。両墓地で唯一の10代女性(イルルバッハ墓地21号墓)は外部出身の可能性が高く、独特なmtHg(HV6)を示すので、15歳と若くして死亡した既婚の少女だったかもしれません。彼女の隣に埋葬された11号墓少年は里子だった可能性があり、有望な息子を親族に渡すような制度によく合致します。この習慣は、アウグスブルク市周辺で3人の成人男性でも観察され、第一大臼歯と第三大臼歯で明らかな同位体変化を示し、出生地に戻る前に地理的に異なる環境でしばらく過ごした、と推定されます(関連記事)。本論文の家父長制と父系制と父方居住と外婚の証拠を組み合わせると、男系での相続制度の可能性が高いことと、長子相続の重要性が示されます。長子相続は、一流の武器の組み合わせを備えた子供の埋葬により裏づけられ、BBCの狩猟者・戦士の継承された(達成されたのではなく)地位を男子に提供します。

(5)核家族は独立した世帯を形成した可能性が高そうです。しかし、埋葬された家族の構成員および/あるいは世帯主が、世帯を支えるものの埋葬の権利がないような、他の個体や家族ではない構成員や遠い親族なしに、100年も安定した世帯を維持できるのに充分だったのかどうか、という疑問が生じます。したがって、近隣の墓地だけではなく他の墓地における威信材と狩猟者・戦士の地位の不平等な分布は、家族・世帯内の階層化と、それ故の社会的不平等を示しており、不自由で地位の低い家族構成員を儀式的には見えなくしています。これは、その後のアウグスブルク市周辺の前期青銅器時代の墓地(関連記事)やウーニェチツェ文化とは対照的です。

(6)家族・世帯は、親族関係と観察された外婚慣行を通じて同盟を形成し、里子はそのような同盟をさらに築き上げ、おそらくは家族を氏族(クラン)に結びつけました。したがって同盟は、密接な地域的というよりもむしろさらに広域的で、より多くの政治的・民族的実体を形成し、不安定な期間もしくは拡大期間に動員されるようになった可能性があります。このパターンは、イギリスのストーンヘンジ近くのソールズベリー平原の、ほぼ同年代の親族集団により示されているように、ドイツ南部に限定されていません。ソールズベリー平原では、紀元前2200~紀元前2031年頃の父親(I2600)と紀元前2140~紀元前1940年頃となるその娘(I2600)がそれぞれ、相互に6.5km離れたエイムズベリーダウン(Amesbury Down)の墓地とポートンダウン(Porton Down)の墓地に葬られておいます。さらに、3親等・4親等の男性親族2人が、エイムズベリーダウンのI2457の隣と、ウィルスフォードダウン(Wilsford Down)に葬られており、後者は直接的祖先の可能性が高いものの、前者はI2600とI2600のイトコの可能性が高そうです。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の間には、親族関係もmtHgの共有もないので、そのようなつながりは存在しないようです。この状況は、アウグスブルク市周辺で示されるように、前期青銅器時代まで続いたようです。また現時点では、バイエルンの他の被葬者と正確に一致するmtHgはありません。イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地の被葬者のmtHgと最も近いのは、アウグスブルク市のヒューゴ・エクケナー・ストラーセ(Hugo-Eckener-Straße)墓地の3号墓の個体(H1+10410+16193)で、アルブルク墓地では4・6・7・17号墓被葬者のmtHg(H1+10410+16193+16286)と、1ヶ所の変異のみが異なります。しかし両者の分岐は、これらアルブルク墓地個体群の数世代前に起きていた可能性があります。以下、本論文の図9です。
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●考察

 本論文では、比較人類学の解釈的枠組みとインド・ヨーロッパ語族の親族体系・制度の言語学的復元の中で、これまでの結果を位置づけます。インドネシア東部のスンバ島とティモール島の伝統的社会における父方居住婚と母方居住婚制度を比較した最近の研究では、これら2制度は言語と遺伝両方の優位に異なる結果をもたらす、と示されます。複数の言語がある地域に存在し、結婚後の居住規則が言語共同体間の持続的な方向性の移動を促進する場合、言語は片方の親側(父系もしくは母系)に沿って伝えられるでしょう。時間の経過とともに、これらの親族関係制度は、その遺伝子と言語の系統を形成しました。その結果、父方居住共同体へと嫁入りした女性は、夫側の言語の採用を強制されます。このような状況は、紀元前三千年紀のヨーロッパとよく似ている可能性があります。インド・ヨーロッパ語族が父方居住的な外婚制度を導入したならば、非インド・ヨーロッパ語族話者共同体の女性は、インド・ヨーロッパ語族話者共同体に移動し、その言語を用いたでしょう。時間の経過とともに、これは1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族方言の遺伝的および文化的優位と統合につながるでしょう。

 本論文のデータから、女性の父方・夫方居住と関連する外婚制度の特定が可能です。これらの結果は、6.5km離れたエイムズベリーダウンとポートンダウンのブリテン島BBCの文脈で埋葬された父と娘の特定により裏づけられます。この親族関係モデルは、有史時代のインド・ヨーロッパ語族話者社会の間で広まっており、以前には、言語復元の手法によりインド・ヨーロッパ語族祖語(PIE)共同体の仮説が提示されてきました。外婚の言語学的指標は、婚資(brideprice、祖語ではh1uedmōn)という単語や、「嫁ぐ(‘to wed)と「導く(to lead)」(祖語ではuodheieti)のような動詞の同義語でおもに復元されたPIEの語彙から構成されており、花嫁はその出身地から離れて新たな夫の世帯へと行きました。

 父方居住および妻の親族との結果として起きる遠隔は、PIEの復元された親族関係用語が、妻の親族の名前の著しい欠如とは対照的に、夫の親族の名前へと強い偏りを示す、という事実によりさらに示唆されます(図9C)。したがって本論文は、紀元前三千年紀におけるPIE話者の言語学的に復元された親族関係構造と、最初期の歴史的資料に見られるその言語学的子孫の親族関係構造との間の、潜在的な継続の最初の特定を提供します。本論文のデータでは、1つの優勢な遺伝的男性系統を特定できますが、複数の女性系統が存在しており、経時的な強い父方居住と父系の優位を示唆します。これは、PIEで復元されてきた父系世帯と類似しており、家の主人(dems potis)、その妻(potnih2)、息子(suHnus)、未婚の娘(dhugh2tēr)、義理の娘(snusos)、孫(nepōts)で構成されます。

 このモデルは、いわゆるオマハ人の親族関係制度と類似しています。オマハの親族制度は、以下のように特徴づけることができます。父方の結びつき、とくに兄弟間が強調され、父方関連男性とその妻および子供たちで構成される世帯は通常、ひじょうに結束しており、最重要の政治・経済的単位です。強い管理が集団構成員の行動に及び、通常、とくに妻と子供は世帯主の独裁的な支配下にあります。結婚生活は厳密に夫方居住で、花嫁の富の支払いは通常高く、離婚や姦通に対しては強い制裁の可能性があります。このようなオマハ人社会の特徴に基づくと、本論文で示されたイルルバッハ墓地とアルブルク墓地は世帯主とその近親者を表しています。

 オマハ人社会の親族制度では、娘と同盟相手の結婚に成功した男性の系統・世帯は、他の人々よりも多くの婚資を受け取るだけではなく、里子の息子をもらう可能性も有したでしょう。里子の息子は、その母親の兄弟に迎えられ、若い戦士となります。母親の家族での少年の育成は、ドイツやケルトの集団など初期インド・ヨーロッパ語族話者共同体では一班的で、通常は母方のオジで育てられました。イルルバッハ墓地では、その可能性のある1事例が特定されました。11号墓の少年(11~12歳で死亡)は、ストロンチウム同位体比では外来の痕跡を示し、その遺伝的な父親は隣の墓で埋葬され、異なる地域の痕跡を有しています。したがって11号墓少年は、おそらくオマハ人社会の用語では祖父(PIEではh2euh2os)と呼ばれる母方のオジとともにイルルバッハとは異なる地域で育てられ、思春期直前に帰郷して死亡した可能性があります。同様の証拠は、三重葬で母と2人の子供と指摘されているものの、生物学的には明らかに母親ではない、オイラウ遺跡の98号墓と、アウグスブルク市近郊の3ヶ所の埋葬で報告されています。これは、初期インド・ヨーロッパ語族の「キョウダイ」という言葉がより広い意味で使われているという観察や、親族関係もしくは共通の社会的所属に関連している若い男性の集団を示唆することと対応しています。

 オマハ人社会の親族関係制度の重要な側面は、その柔軟性と拡大の可能性です。ひじょうに機会主義的ですが、オマハ人社会では同じ家族と2回結婚できない、という1つの規則がありました。そのような規則が実施されたならば、より多様な同盟を生み出すので、交換・交易もしくは狩猟・戦争の動員のどちらであれ、潜在的な政治的支援を拡大するでしょう。これと一致して、本論文はイルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方で複数の女性のmtHgを識別でき、女性の遺伝を特定できました。したがって、唯一の優勢なYHg-R1b1a1b(M269)がある一方で、複数の女性系統(mtHg)が存在し、両墓地は相互に17kmしか離れておらず、ほとんど同年代にも関わらず、同じmtHgは一つもありません。この証拠は、結婚がじっさいに広範な同盟を築く手段で、それは景観に広がる単一の家屋という居住構造に役立った、という見解を裏づけます。これは、そのような制度では経時的に遺伝的多様性が増加する、という見解も裏づけます(関連記事)。このような制度では、拡大主義的同盟制度において家族の結びつきを維持し、新たな技術を外部から嫁ぎ先の世帯に導入する、という重要な役割が女性に認められます。

 元々のPIE社会の制度の言語学的復元がほぼオマハ人社会の制度に対応している一方で、BBC共同体の伝統は、間違いなく革新により特徴づけられます。たとえば、世代間傾斜と呼ばれる典型的なオマハ人社会の特徴、つまり母親側の男性の父系でも母系でもない親族に同一の親族用語を使うことは、PIEでは復元できません。この特徴の証拠は、ヨーロッパのいくつかのインド・ヨーロッパ語族で独立して出現し、アジアでは存在しません。したがって、それはヤムナヤ文化後の文脈で二次的に進化しました。遊動的な草原地帯牧畜民がより定住的な生活様式を採用すると、他の核家族およびとくに母親の親族との接触が強化され、新たな親族関係用語が新しい親族関係の役割とともに言語に追加されました。インド・ヨーロッパ語族方言の拡大を促進他可能性があるのは、この革新的な父系および父方居住親族関係モデルです。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地集団よりもわずかに新しく、いくつかの良好な重複が存在し、イルルバッハ墓地のmtHgの多様性は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地と類似している一方で、アルブルク墓地ではより低くなっています。むしろmtHgの多寡は、集団の異質性と均質性、もしくは成功あるいは不成功を反映しているようです。成功と不成功の問題に関しては、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地では女性のmtHgが共有されていないので、両者の間で競合が作用していたようです。これは、BBC期においてそのような結婚同盟がどれほど広範囲に及んだのか、という問題を提起します。アルブルク墓地では、ドナウ川を越えて到来した女性の1例と、おそらくは同じ場所のストロンチウム同位体比の外れ値個体の他の事例があります。アウグスブルク市周辺では、60kmほど離れた、レヒ川沿いと近隣のリース地域が想定されています(関連記事)。1000年後のヨーロッパ北部の青銅器時代には、ストロンチウム同位体比の解釈が正しければ、400~500kmもしくはそれ以上の、若い女性の移動事例が知られています。

 性別比はほぼ1対1です。本論文の証拠では半キョウダイが検出されなかったことからも、一夫一婦制が優勢な原則と示唆されます。年齢の違いに関しては、いくつかの不均衡があります。明確に学童期(10代)の男性の方が多く(男女比で5:1)、男児の女児より高い死亡率もしくは埋葬における特定の男性の選択を示唆します。本論文は、長子相続の影響を検討します。長子相続は、男性系統の遺伝子と同様に、財産の継承における強い継続性も意味します。しかし長子相続は、将来どこか他の場所を探さねばならない男性も生み出します。したがって、新たな土地に移住する強い動員集団が存在するので、集団を拡大しますが、彼らは成長するまで、将来のために訓練する若い戦士の一団の特別な制度においてしばしば組織化されました。これも危険性と早期死亡の期間をもたらしたかもしれませんが、少女はおそらく思春期に入った頃にはすでに結婚しており、それは墓地における相違を説明するのに役立つかもしれません。これは、アウグスブルク市周辺の後の事例(関連記事)と、結婚同盟の一環としての可能性が高い、14歳でヨーロッパ中央部からデンマークまで移動した14歳で死亡した少女の事例を想起させます。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、始まりだけではなく終焉もほぼ同じで、この地域における墓地のより広い終焉と、新たな場所での墓地の設立の期間に対応します。したがって、定住体系には一定の動態が存在し、100年後に場所を変える周期だったようです。アルブルク墓地では、最初に埋葬されたのは2人の兄弟(2・13号墓被葬者)で、おそらくは第三の兄弟(1号墓被葬者)も2人の隣に埋葬されました。しかし、このうち2人(2・13号墓被葬者)だけが、同じ墓地の後の被葬者の父親と祖父になるまで長く生きました。「建国の父」としての3兄弟は、ずっと後のインド・ヨーロッパ語族の民間伝承と神話で重要な役割を果たし、創始された新たな家族・世帯における長子相続の継承のない息子の役割を反映している可能性があります。それは、神話と象徴主義における「三」を重視する役割と対応しています。両墓地には4~6世代が含まれると本論文は述べてきましたが、新たな親族の構成員は、周期の終わりに向かってイルルバッハ墓地の既存集団に加わったようです。それはおそらく、居住地の移転と拡大の新たな期間の始まりを示唆します。

 これらの観察は、CCWからBBCへの継続性で説明してきた社会制度の固有の拡大主義的動態を強調します。しかし、この型の社会的組織は、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地よりも600年古い、ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)の集団埋葬(関連記事)の、遺伝的およびストロンチウム同位体比の結果とやや反しています。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の事例と同様に、コシツェ遺跡の集団埋葬では6系統のmtHgが確認されており、1系統のみのYHg-I2a1b1a2b1(L801)よりも多様です。これは、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地のように外婚関係と父方居住と父系を示唆しており、おそらくは新石器時代と前期青銅器時代のヨーロッパで広く見られる慣行でした。

 しかし、違いもあります。コシツェ遺跡では、4つの核家族もしくはその一部が、単一の大きな拡大家族を形成していたので、親族関係の原則は、イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地とは異なる性質だったかもしれません。コシツェ遺跡のmtHgはBBC集団よりもずっと少なく(15人のうち6系統)、何人かのキョウダイは同じ父親を共有していましたが、母親は異なっており、それにも関わらず相互に関係があったかもしれません。これは、非一夫一婦制もしくは連続的一夫一婦制のいずれかを示します。また、mtHgの多様性が低いことは、根本的に異なる結婚制度を示唆している可能性があるか、あるいは単に全体として遺伝的に均質な社会を示しているにすぎません。したがって、CCWとBBCの社会組織は、先行する新石器時代社会よりも異なる性質を有する兆候はあるものの、将来の研究から学べきことはまだ多くあります。


●まとめ

 考古学・人類学・同位体・古代DNAなど多くの種類の証拠を抽出して組み合わせることで、4000年以上前の2家族の人生について、空前の高解像度の解釈可能な物語の提示が可能となりました。結果は、最初に証明されたインド・ヨーロッパ語族社会と、インド・ヨーロッパ語族祖語の言語学的復元について知られていることと対応します。証拠は、他集団の女性と結婚し、娘を他の共同体に嫁がせることにより同盟ネットワークを構築するような、優勢な男性系統に基づく親族関係構造の復元を確証し、それは安定な期間の競争的動員の一部だった可能性があり、おそらくは金属のような資源の入手を確保するためでもありました。そのような制度は、よく記録されているオマハ人社会の父方居住および父系と長子相続に関連する外婚の親族構造と対応します。そのような制度は広範な移民方針を選好し、男系に沿った先史時代の語族の拡大や経時的な男系の遺伝的優勢に関して、初めて現実的なモデルを提供します。その結果、ヨーロッパ大陸の半分となる北部と西部のほとんどの現代人は、遺伝的に紀元前三千年紀のCCWおよびBBCの人々と関連しており、おそらくはその言語の発展型を話しています。

 しかし、考古学的・言語学的証拠は、むしろ相同的もしくは共有された状況を提供するものの、そのような社会組織はインド・ヨーロッパ語族集団だけてばなく、後の牧畜および農耕牧畜社会でも見られ、それは経済組織における類似性に基づいており、オマハ人社会の親族関係制度にも反映されています。したがって、本論文の考古学的事例研究は、将来の研究でより強力な一般化を達成できるかもしれない親族関係制度についての、考古遺伝学と言語人類学の復元との間の歴史的に特有の一致を提供する、と提案されます。しかし、本論文の結果はバイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川流域の結果と一致しているので、CCW社会に起源があるものの、BBC社会のより広範な地域にまたがる制度化された慣行を扱っている可能性が高いようです。したがって、拡大主義社会組織についての本論文のモデルは、将来の比較研究に検証事例として役立つ可能性があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、考古学・自然(形質)人類学・遺伝学(とくに古代DNA研究)・言語学といった複数分野の知見を統合した、見事な学際的研究の事例を提供しているように思います。このような学際的研究において、近年の進展の目覚ましい古代DNA研究が果たした役割は大きく、ヨーロッパでは紀元前三千年紀でも、まだ一部地域とはいえ、親族制度や社会組織についてこれだけ多くの知見がすでに得られているとは、古代DNA研究がユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れているユーラシア東部圏の1個人としては、羨ましい限りです。ただ、ユーラシア東部でも、まだヨーロッパには遠く及ばないとしても、昨年古代DNA研究が大きく進展したので、今後はいわゆる先史時代でも、これまでよりも詳細な社会構造に関する知見が得られるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Sjögren K-G, Olalde I, Carver S, Allentoft ME, Knowles T, Kroonen G, et al. (2020) Kinship and social organization in Copper Age Europe. A cross-disciplinary analysis of archaeology, DNA, isotopes, and anthropology from two Bell Beaker cemeteries. PLoS ONE 15(11): e0241278.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0241278

大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」

 織田信長は、岐阜城を訪れた三条西実澄から、都にいてもっと朝廷に仕えるよう、促します。信長は、正親町天皇が蘭奢待を毛利に与えたことへの不満と、帝との距離感が以前よりも開いたことを率直に三条西実澄へ伝えます。織田は本願寺との戦いで大和守護の原田(塙)直政が討ち死にするなど苦境に追い込まれており、信長自身が出陣してきます。信長は原田の家臣に一向宗門徒がいると言って激昂し、原田の家臣に八つ当たりします。そんな信長を、松永久秀は冷ややかに見ていました。佐久間信盛や明智光秀(十兵衛)など家臣団が消極的なのに苛立った信長は自身が最前線に出ますが、狙撃されて負傷します。

 過労もあって光秀は倒れ、都の自宅に戻ります。重篤な光秀を妻の煕子と娘たちが懸命に看病し、光秀は回復します。信長は原田の後任の大和守護に筒井順慶を考えていましたが、光秀は久秀の反感を懸念して反対します。羽柴秀吉は久秀と順慶以外の人物を大和守護に任ずるとよい、と言って自薦しますが、大和守護には高い家柄が必要だという理由で却下し、秀吉は微妙な表情を浮かべます。信長は結局、順慶を大和守護に任じます。秀吉は光秀に、近頃の信長の増長を案じていた、と打ち明けます。徳川家康は、信長は徳川を気にかけていないとの報告を受け、織田家中で信ずるに値するのは光秀と改めて考えます。光秀はすっかり回復しましたが、今度は煕子が病に伏せます。煕子は、麒麟を呼ぶものが光秀であればよいとずっと思っていた、と光秀に打ち明けて亡くなります。

 今回は、朝廷との関係や本願寺との戦いでの信長の横暴が描かれ、これも本能寺の変の一因となるのでしょう。信長の横暴は、勢力を拡大して「天下人」になったとも言える中で増長した、と私は解釈しました。光秀は、まだ信長を見限るつもりは全くないようですが、この後、久秀が信長に叛く経緯や、佐久間信盛が追放されたことを見て、信長への不満・違和感をさらに高めていき謀反を決断する、ということでしょうか。今回は、家康の正妻の築山殿や本願寺顕如が初登場となりますが、もう残り5回ですから、深い人物描写は期待できそうにありません。武田信玄もそうでしたが、これならば登場させなくてもよいのではないか、とも思います。少なからぬ視聴者が思っているでしょうが、ほとんど不明な光秀の前半生に時間をかけすぎて、事績が比較的よく解明されている信長家臣時代の描写が駆け足気味になっていることは、どうも失敗だったのではないでしょうか。まあ、最終回まで視聴したら、この感想も変わってくるかもしれませんが。

Joseph Henrich『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化−遺伝子革命〉』第2刷

 ジョセフ・ヘンリック(Joseph Henrich)著、今西康子訳で、白揚社より2019年9月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年7月です。原書の刊行は2016年です。本書はまず、現代人がいかに文化に依存しているのか指摘したうえで、人類の進化における文化の役割の大きさを強調します。人類の「成功」の要因は個体の認知能力ではなく、共同体の集団脳(集団的知性)にある、というわけです。モラルの起源に関する書籍を読んだ時(関連記事)、それ以前から社会的規範も進化の原動力となり得る、と考えていたので、とくに違和感はありませんでしたが、その延長線上で考えれば、社会的規範も含まれる文化が人類の進化に大きな役割を果たしてきた(自己家畜化)と想定することは、私にとってひじょうに受け入れやすい見解です。人類の進化における文化的要因を重視した論考に関しては、「他者との意思伝達能力や道具の製作・使用などの文化的要因も重要な選択圧となり得る、との見解は妥当だと思います」と述べています(関連記事)。

 しかし、それを1冊で豊富な事例とともに改めて体系的に論じた本書は、現代人の学習には性別や民族などで自分と類似したヒトを真似る傾向があることや(P77~80)、心の理論(メンタライジング)の発達は、他者を騙して操り利用するためというよりは、学習効果を高めることが選択圧になったこと(文化的知性仮説)など、さまざまな知見を新たに得られたこともあり、私にとってたいへん有益でした。多くの知見を一つの記事でまとめるだけの気力も見識ないので、今後何度か再読していくつもりです。また、最近の日本社会の諸問題を踏まえた上での「実用的な」知見もあり、たとえば、現代人の高い模倣能力が有名人の自殺の後に連鎖的自殺を招来しやすい、ということです。これは以前から指摘されていましたが、進化的な基盤がある根深い問題で、その観点からの対策が必要なのだと思います。

 現生人類(Homo sapiens)へとつながる人類進化のある時点以降、文化が大きな選択圧になったことは確かでしょう。子供期仮説に云う、定まったやり方を他人からそのまま学ぶこと(一方的学習)を社会学習、自分で試行錯誤したり疑問を持ったりしながら学ぶこと(自立的学習)を個体学習と定義すると(関連記事)、文化の蓄積により個体学習よりも社会学習の方がずっと有利になり、社会学習能力を高めるような選択圧が生じた、と考えられます。それが、現生人類の生得的な形態・生理・認知能力・志向の形成に大きな役割を果たしてきたことは間違いないでしょう。モラルの起源をめぐる議論でも指摘されていますが、人類の規範真理もこのように形成されてきたのだと思います。

 では、人類進化の初期において、社会学習能力を高めるような選択圧がどのように始まったのか、という問題が提起されます。文化がさほど蓄積されていない段階では、社会学習能力を高めるような選択圧が生じにくいと考えられます。たとえば、社会学習能力の向上につながりやすい脳容量の増大は消費エネルギー量の増加をもたらすので、文化的蓄積が少ない時点では適応度を高めるとは考えにくいところがあります。人類以外の動物で「文化的」行動を取る種は少なくありませんが、おそらくはこうした制約により、現生人類など後期ホモ属のように体重比で大きく脳容量を増加させた種は存在しないでしょう。

 なお、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類との技術の違いについては、潜在的(生得的)能力よりも、むしろ集団規模と社会的結びつきにあったのではないか、と推測されています。ネアンデルタール人の技術が現生人類よりも「劣っている」ように見えるのは、ネアンデルタール人よりも現生人類の方が集団規模は大きく、広範な社会的つながりも密だったからではないか、というわけです。ただ、現生人類とネアンデルタール人との分岐が50万年以上前だとすると、認知能力などで重要な違いがあった可能性は低くないように思います。本書は、武力闘争も含めて集団間競争が文化進化に大きな役割を果たしてきた、と強調します。

 本書は、人類進化において文化が重要な役割を果たすようになった段階を、「進化のルビコン川」と呼んでいます。人類はどのように「ルビコン川を渡った」のか、本書は興味深い仮説を提示します。まず本書は、この移行がある時点で一気に起きたのではなく、前進と後退を繰り返していた時期が長かったのではないか、と推測します。その上で本書は、人類が「ルビコン川を渡った」時期に関して、アウストラロピテクス属はどの非ヒト現生類人猿よりも文化的情報を集めるになっていたものの、境界線を越えたのは180万年前頃のホモ属のようだ、と推測しています。確かに、この前後には、脳容量の増大や現代人のような(首から下の)形態のホモ属が出現し、アシューリアン(Acheulian)の握斧のようなより複雑な石器も出現しています。

 次に本書は、「始動時の問題」を取り上げます。遺伝的進化を促すほどには文化が蓄積されていない段階で、どのように文化進化が始まるのか、という問題です。この問題ために、ヒト遺骸の種では累積的文化進化がなかなか起きない、と本書は指摘します。そこで本書は、脳容量を変えずに文化の規模や複雑を増せれば、他者から学ぶべき適応的事象が社会に豊富に存在するようになり、社会的学習能力を高める遺伝子にコストをかけても採算がとれる、と推測します。さらに、母親以外の子育て支援により、脳容量増加のコストを下げることも可能で、両者が絡み合って強化し合った、と本書は指摘します。

 この背景となるのは、地上での生活時間が長くなり、樹上よりも多様な資源を得られる環境でより複雑な道具を製作するようになり、また他者との接触機会が増えたことです。地上での生活が長くなったことにより、捕食圧が高まったことも重要となります。これにより、群れの拡大が促されます。こうした進化の過程で300万~200万年前頃に気候変動により環境が不安定になり、社会的学習能力の強化を促す選択圧が強まったのだろう、と本書は推測します。

 ここで重要なのは、脳容量増加により、出産・育児での母親のコストが高まったことです。当時の人類はこのコストを、つがい形成による父親側(やその親族)の子育て支援により低下させました。母親以外が子育てに関わることにより、社会的学習がさらに進むとともに、血縁認識が一層発達し、集団間対立の緩衝材となり、より大きな集団の形成の基盤なります。チンパンジーでも、群れの規模が大きくなるとつがい(的なもの)を形成することがあり、大規模集団ではつがい形成の萌芽現れるかもしれない、と本書は推測します。つがい形成には、それまで散り散りだった血縁個体を結びつけ、家族のような血縁ネットワークを形成する力がある、と本書は指摘します。なお、本書は人類がこの頃に排卵隠蔽戦略をとるようになった、と推測しますが、おそらく人類と近縁な現生類人猿との関係からして、大型類人猿では元々発情徴候が明確ではなく、チンパンジー属の方こそ特異的(派生的)な進化が起きたのではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
Henrich J.著(2019)、今西康子訳『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化−遺伝子革命〉』第2刷(白揚社、原書の刊行は2016年)

古人類学の記事のまとめ(42)2020年9月~2020年12月

 2020年9月~2020年12月のこのブログの古人類学関連の記事を以下に整理しておきます。なお、過去のまとめについては、2020年9月~2020年12月の古人類学関連の記事の後に一括して記載します。私以外の人には役立たないまとめでしょうが、当ブログは不特定多数の読者がいるという前提のもとに執筆しているとはいえ、基本的には備忘録的なものですので、今後もこのような自分だけのための記事が増えていくと思います。


●ホモ属登場以前の人類関連の記事

チンパンジーの行動多様性と環境
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_25.html

エイズウイルスの異種間伝播
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_10.html

高齢の野生チンパンジーの社会行動
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_35.html


●フロレシエンシス・ネアンデルタール人・デニソワ人・現生人類以外のホモ属関連の記事

レヴァントにおける30万年以上前の加熱処理による石器製作
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_15.html

フランス南部における初期人類の痕跡
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_27.html


●ネアンデルタール人関連の記事

ポーランドのネアンデルタール人遺跡のmtDNA解析と石器分析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_13.html

イスラエルの旧石器時代遺跡の堆積物のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_19.html

森恒二『創世のタイガ』第7巻(講談社)
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_22.html

ネアンデルタール人とデニソワ人のY染色体での系統関係
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_35.html

ネアンデルタール人由来の遺伝子に起因する新型コロナウイルス症の重症化
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_6.html

イタリア北東部の後期ネアンデルタール人の歯
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_9.html

ネアンデルタール人とデニソワ人のABO式血液型関連遺伝子
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_28.html

ネアンデルタール人由来の新型コロナウイルス感染症の遺伝的リスクの評価
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_39.html

ネアンデルタール人と現生人類の握り方の違い
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_8.html

ネアンデルタール人の埋葬の学際的証拠
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_17.html


●デニソワ人関連の記事

デニソワ洞窟での新たな発見
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_4.html

堆積物のmtDNA解析で確認されたチベット高原のデニソワ人
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_2.html

モンゴルにおける中部旧石器時代遺跡の再調査
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_16.html


●フロレシエンシス関連の記事

人類最初の出アフリカ
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_16.html


●現生人類の起源や象徴的思考に関する記事

放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_3.html

アラビア半島内陸部におけるMIS5の現生人類の足跡
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_29.html

現生人類の自己家畜化の遺伝的基盤
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_38.html

4万年前頃までさかのぼるポルトガルのオーリナシアン遺跡
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_1.html

アルタイ地域の前期上部旧石器時代の骨角器
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_16.html

マレー半島西部の7万年前頃の石器
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_17.html

ユダヤ砂漠南部の上部旧石器時代
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_18.html

アジア南東部における人類も含む大型動物絶滅の環境要因
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_26.html

アフリカ東部の環境変化と中期石器時代への移行
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_36.html

最古の寝具
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_10.html

イスラエルのティンシェメット洞窟遺跡
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_15.html

ヨーロッパの上部旧石器時代の一卵性双生児
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_17.html

ユーラシア東部における初期現生人類の北方経路の拡散
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_25.html


●日本列島やユーラシア東部に関する記事

ケブカサイの古代DNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_11.html

日本人のゲノムにおけるヒトヘルペスウイルス6由来の領域
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_17.html

『アナザーストーリーズ』「偽りの“神の手” 旧石器発掘ねつ造事件」
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_21.html

日本語とオーストロネシア語族との関係
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_28.html

都道府県単位の日本人の遺伝的構造
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_25.html

横浜市の称名寺貝塚遺跡の人類遺骸のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_38.html

古代ゲノムデータに基づくユーラシア東部草原地帯の6000年の人口史
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_12.html

古代DNAデータから推測されるバヌアツにおける複数の移住
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_20.html

九州の縄文時代後期の土器のコクゾウムシ圧痕
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_24.html

斎藤成也編著『最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生』
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_26.html

韓国釜山市の6000年前頃の人類のDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_34.html

チベット人におけるデニソワ人由来の高地適応関連遺伝子の歴史
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_2.html

琉球諸島への人類最初の航海
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_9.html

藤本透子「ユーラシアの温帯草原における人の行動パターンとその痕跡」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_28.html

グアム島の古代人のゲノムデータと太平洋における移住
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_32.html

山田仁史「東南アジア古層の神話・世界観と竹利用」
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_38.html


●アメリカ大陸における人類の移住・拡散に関する記事

マストドンのミトコンドリアゲノム
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_9.html

クローヴィス文化の年代
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_34.html

ヨーロッパ人との接触前のアンデス中央部における親族結合の強化
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_23.html


●ネアンデルタール人滅亡後のユーラシア西部に関する記事

ヨーロッパの人類集団における乳糖分解酵素活性持続の選択
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_8.html

コーカサスの25000年前頃の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_20.html

家畜ウマのアナトリア半島起源説の検証
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_23.html

ヴァイキングのゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_27.html

新石器時代から青銅器時代の近東人類集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_30.html

青銅器時代レヴァント南部集団のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_33.html

Y染色体に基づくイラク人集団の遺伝的多様性と移住
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_21.html

ウラル地域の中世初期人類の遺伝的データとハンガリーとの関係
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_30.html

14世紀のポーランドにおける人為的な地域生態系の変化
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_31.html

旧石器時代ヨーロッパの女性像の意味
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_10.html

完新世のアルプス山脈の氷河
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_29.html

先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html


●進化心理学に関する記事

信頼性を伝える顔の特徴
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_37.html

貧困層の人々の富裕層への課税に対する支持
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_12.html

ヒトの空間記憶における高カロリー食品の優先
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_19.html

接触仮説の検証
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_22.html

社会的隔離による渇望反応
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_32.html

「なぜ日本は真珠湾攻撃を避けられなかったのか」そこにある不都合な真実
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_13.html

ワタリガラスの認知パフォーマンス
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_18.html

高齢者の転倒リスクを高める孤独と社会的孤立
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_19.html

眼窩前頭皮質と経済的選択
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_23.html


●その他の記事

古代エジプトの動物のミイラ
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_2.html

氷河期と間氷期初期に起きた大気中の二酸化炭素の急増
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_5.html

ウマ遺骸の性比の変化
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_18.html

下側頭葉皮質のリサイクルがもたらしたヒトの読書能力
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_22.html

ホモテリウム属個体のゲノム解析
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_27.html

非生殖細胞におけるY染色体遺伝子の効果
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_29.html

ヒトの皮膚由来の個々のメラノサイトのゲノムの全体像
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_30.html

エジプト第25王朝のミイラのmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_33.html

アフリカ人の包括的なゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_3.html

古代ゲノムデータに基づくイヌの進化史
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_4.html

デマを流すのは低コストで否定するのは高コスト
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_14.html

人類史における渡海
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_36.html

カナダのミイラ化した後期更新世のハイイロオオカミ
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_36.html

2020年の古人類学界
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_40.html



過去のまとめ一覧

古人類学の記事のまとめ(0)
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古人類学の記事のまとめ(1)
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古人類学の記事のまとめ(3)
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古人類学の記事のまとめ(4)
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https://sicambre.at.webry.info/201509/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(27)
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古人類学の記事のまとめ(31)
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(32)
https://sicambre.at.webry.info/201709/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(33)
https://sicambre.at.webry.info/201801/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(34)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(35)
https://sicambre.at.webry.info/201809/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(36)
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(37)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(38)
https://sicambre.at.webry.info/201909/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(39)
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_2.html

古人類学の記事のまとめ(40)
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_1.html

古人類学の記事のまとめ(41)
https://sicambre.at.webry.info/202009/article_1.html

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。ついに2021年を迎えました。毎年元旦には同じような記事を掲載しており、たまには変わったことを述べようと思うのですが、これといって思い浮かびません。昨年は新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)による新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響が世界規模に拡大し、日本も含めて少なからぬ国で収束する見通しは立っておらず、私の周囲でも色々と不愉快なことが起きそうですが、人生には楽しみも多いのだ、と開き直ってしぶとく生きていき、古人類学を中心としてさまざまな分野で勉強と情報収集を地道に続けていくつもりです。

 昨年は、一昨年と同等以上に古人類学関連の文献を読めたと思います。ブログの記事更新数は、2019年の679本からはかなり減って516本となりましたが、2019年は似たような記事を複数書いてしまい、過去の記事の流用と継ぎ接ぎで終わったような記事も複数掲載してしまったので、充実度という点で昨年は一昨年と同等以上だったと思います。それでも、古代DNA研究はとくにそうですが、最新の研究動向には追いつくのはなかなか難しく、追いつくのは無理としても、関連文献を少しでも多く読んでいこう、と考えています。

 昨年は大きな買い物がなく、今年もとくに予定はないので、当分は節約を心がけていこう、と考えています。まあ、節約は個人や家族のような小単位では多くの場合で合理的な選択ですが、多くの人が節約に努めれば、社会は貧困化してけっきょく多くの人が苦しむことになります(合成の誤謬)。ほとんどの社会問題は結局のところ、トレードオフ(交換)と合成の誤謬に行きつくので、多くの社会問題は解決困難なのだろう、と私は考えています。もちろん私程度の知見では有効な具体策は思いつかないのですが、私は、こうした矛盾を抱えて解決策を講じていくのも人間の宿命だろう、と開き直り、しぶとく生き続けていきたいものです。